London【ロンドン】はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国の首都で、現在も活動している主要都市としては世界最古級のひとつで、およそ15,800,000平方キロの土地に7,000,000あまりの人々が居住しています。
さらにLondonは、近代議会制度発祥の地であり、世界に名高い君主制を育んだ地、世界3大金融市場のひとつでもあります。
Julius Caesar【ユリウス・カエサル(英語名ジュリアス・シーザー): B.C.102- B.C. 44ローマ共和国政治家にして軍人・将軍のちに終身ディクタトル独裁官インペラトル】は B.C.55にGreat Britain【グレート・ブリテン島】に上陸し、 ガリアにいたCelt【ケルト人】を後方支援するBriton【ブリトン人】を攻撃する。 彼と彼の軍隊はLondon【ロンドン】のRiver Thames【テムズ川】南岸のSouthwark【サザーク】まで進軍し、この時彼は対岸のテムズ川流域にCelt【ケルト人】すなわちBriton【ブリトン人】集落の確認をしている。
この地が後の
Londinium【ロンディニウム】:ローマ帝国時代の呼称、ローマ・ブリトン人の街
Lundenwic【ルンデンウィック】:初期ゲルマン人時代、アングロ・サクソン人の街
そしてLondon【ロンドン】となる。
由来についてはケルト語由来の沼沢地の砦という意味という説が有力。
初代ローマ皇帝Augustus【アウグストゥス(オクタヴィアヌス)B.C.63-A.D.14】がGreat Britain島征服を計画(一説には最初に計画したのはカリギュラ帝とも)。しかし実行はされないまま時が流れた。
この計画を彼の一族であるクラウディウス帝が、A.D.43に「ローマ帝国内の自己の地位の安定と名声を得るため、そしてローマ帝国内の余剰兵力をうまく分割すること」を目的とし実行、Great Britain島・ブリトン人総攻撃を命じる。征服には40,000~50,000人からなる精鋭部隊を送り込んだとされている。ローマ帝国軍はGreat Britain島南部を制圧し、その地域をローマ帝国属州としラテン化した。クラウディウス帝自身は勝利が決まりかけた頃にGreat Britain島に渡り、16日間滞在した後、すぐにローマへ凱旋のため帰国してしまう。そのまま軍隊はその地に残り(皇帝の命令によるかは不明だが)現在The City (of London)【シティ】と呼ばれる地域に最初の本格的な都市を建設する。
駐屯していたローマ兵がこの都市をLondinium【ロンディニウム】と名付けた。
しかしA.D.60 ブリトン人であるイケニ族のBoudca【ボーディケア】が率いる軍によってこの最初の都市は破壊されてしまう。その時の彼女の勇ましい姿は今愛国の象徴としてWestminster橋のたもとに像として飾られている。
ローマ人は速やかにこの都市Londinium【ロンディニウム】を再建する。現在のThe City (of London)区域内で最も高い地点(現在のCornhillの高台に相当する場所)にA.D. 125年、アルプス山脈以北で最も巨大なバシリカが建設される。
なぜこの場所が都市建設に選ばれたかという理由-
まず高台、現在のCornhillとSt. Paul CathedralがあるLudgate Hillの2つの丘が防衛上重要視されたこと、および周辺地域でこの場所がRiver Thames【テムズ川】の川幅が狭くなる唯一の場所で(上流にいくと再び川幅が広くなってしまう)当時のローマ人の土木技術で橋を架けることが可能な場所であったこと、かつ水路陸路の両方の交通の要所であったことが挙げられる。
初代ロンドン総督はパウリヌスという人物で、彼のあと2代総督になったのが有能で知られるユリウス・クラシシアヌスであった。ユリウス・クラシシアヌスの下ボーディケアに破壊されたLondinium【ロンディニウム】は急速に復興され、都市整備が進められていく。彼はThe Tower of London【ロンドン塔】に近くのTower Hillに埋葬された。
沼沢地の砦という名前を持つだけあってこの街はテムズ川を中心に発達してきた都市であるということがいえる。
AD 43 |
ローマ帝国軍がイングランドに侵攻。 |
AD 50c |
ロンディニウムの建設。ロンドン橋が架けられる。 |
AD 60 |
ブーディッカ女王のロンディニウム略奪。 |
AD 61 |
ロンディニウムの再建属州の首都に指定される。 |
AD 80~125 |
バシリカとフォルム、総督官邸、公共浴場の建設。 |
AD 125 |
ロンディニウム火災にて破壊。 |
AD 200 |
ロンディニウムが上ブリタニアの首都に指定される。 |
AD 457 |
ブリトン人が傭兵に敗れる。ロンディニウムが歴史記録から削除される。 |
AD 604 |
メリトゥスがロンドン司教に任命される。 |
AD 604 |
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AD 842 |
ヴァイキングによるロンドン襲撃。大虐殺が行なわれる。 |
AD 871c |
ヴァイキングがロンドン占領 |
AD 878 |
アルフレッド大王がロンドンを奪回する。 |
AD 911 |
アルフレッド大王の死後エドワード長兄王がロンドンを支配。 |
AD1016 |
カヌートがロンドンを占領。イングランド王となる。 |
AD1042 |
エドワード証聖王(懺悔王)がウィンチェスターで即位しロンドンに宮殿を構える。ロンドンが恒久的なイングランドの首都となる。 |
AD1045c~1065 |
エドワード証聖王(懺悔王)がウェストミンスター・アビーを再建し、ウェストミンスターに宮殿を構える。 |
AD1066 |
ハロルド王即位 |
AD1066 |
ノルマンディー公ウィリアム(後の征服王)がイングランド王ハロルドをヘイスティングで破りウェストミンスター・アビーで戴冠し、イングランド王となる。 |
AD1066 |
ウィリアム征服王がロンドン(シティ)に勅許状を与える。 |
AD1067 |
ロンドン塔の建設開始。 |
AD1085 |
ロンドンの人口約10,000~15,000 |
AD1180 |
ロンドンの城壁内の人口約40,000人 |
AD1192 |
市長と参事会員が自身の法廷を持つ許可が与えられる。 |
AD1207 | カンタベリ大司教がランベスに邸宅を構える。 |
AD1215 | マグナ・カルタ(大憲章)にロンドン市長がその署名の一員として名を連ねる。 |
AD1290 | ロンドンにあった居住区からユダヤ人が追放される。 |
AD1327 | ロンドンで最初の議会が開かれる。 |
AD1348~49 | 黒死病の蔓延。約10000人のロンドン市民がウェスト・スミス・フィールドに埋葬される。 |
AD1380 | ロンドン人口約20000人。 |
ロンドンのシティは、ロンドン発祥の地・最古の地区で、なおかつある意味では最も現代的な場所といえる。
街中は中世に起源を持ちロンドン大火(1666年)後に再建された狭い通りと、ヴィクトリア朝時代、 または第二次世界大戦後の大再建計画の一部として造られた広い真っすぐな大通りとが混在している。
セント・ポール大聖堂や歴史上有名な幾つもの教会は今でも昔からの場所にあるが、そのほとんどはロンドン大火(1666年)後に再建され、20世紀に再び修復されている。
ヴィクトリア朝の人々は、小さな建物と狭い通りが入り組んだジョージ王朝時代のシティを、道路拡張と建設計画を実施して変えていった。
そのヴィクトリア時代のイギリスとその帝国の富を運用する銀行、保険会社や商社のために建てられた威風堂々たる大建造物も、今では取り壊され新世代のオフィス・ビル群に取って代わられつつある。
新建築によって歴史的に有名なシティの外観はすっかり変わりつつある。1950年代・60年代に建てられたオフィスでさえ今は取り壊されて、ポスト・モダンの設計による人目を引く建物がその跡に建てられている。
19世紀にシティでは、オフィスと倉庫が住宅に取って代わり、こうした動きに対応して居住者数も1851年の12万8000人から1939年の9000人へ、そして1971年の4000人へと急激に減少した。その後、バービカン開発の一部として新アパート群が建設された結果,数字はわずかに上昇した(5300人)。これと全く対照的に、現在約30万の人々が働くために、毎日この“1マイル四方”(約2.6平方キロ)の場所へ通勤している。
King and St. Edward The Confessor【聖エドワード証聖王】 (在位1042-66年)がWestminster Abbey【ウェストミンスター・アビー(寺院)】(1050年再建開始)とThe Palace of Westminster【ウェストミンスター宮殿】(現在はグレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国国会議事堂-通称The Houses of Parliamentとして使用されている)を、市街地The City (of London)からみてテムズ川上流に当たるこのWestminster(当時はテムズ川、River Tyburn川という2つの川に区切られた中州でIsle of Thorney【ソーニー島】(“茨の島”の意味)と呼ばれていた地に建設したことにより名実ともに恒久の王国の首都となった。Westminsterという名前もThe Cityの西方にあるMinster「教会」という意味である。Westminster Abbeyは1065年12月28日に完成、献堂される。
950年近く前、アングロ・サクソンの最後の王エドワード懺悔王がソーニー島にウェストミンスター寺院と王宮を建造して以来、ウェストミンスターは商業的なシティと全く性格を異にしてきた。
ウェストミンスター寺院とその修道院が献堂された数日後エドワード王は死去し、ノルマンコンクエストが起こる。 ウィリアム征服王は1066年にここで戴冠し、その後ほとんどすべての君主がこの例に倣った。
ヘンリー3世は1220年にThe Lady Chapel【聖母礼拝堂】を加え、1245年には、アミアンやランスのゴシック式大聖堂の感化を受けて寺院を改築した。 工事は1269年に完了し、その後この寺院はジョージ2世の治世までほとんどすべての歴代国王の埋葬の場所ともなった。
改築は14世紀と15世紀にも行われて、壮麗なHenry VII's Chapel【ヘンリー7世礼拝堂】が1519年に完成した。
1540年に修道院解散後、寺院の資産と財宝は没収され,ベネディクト会の修道士も追放されたが、その建物は残った。
サー・クリストファー・レンとホークスムアが二つの高さ68mの塔を加え(1745年完成)、19世紀にも大規模な改造が行われた。
ウィリアム征服王はエドワード懺悔王の王宮を徹底的に改造し、彼の息子ウィリアム・ルーファスもヨーロッパにおける最大のノルマン式ホールであるウェストミンスター・ホールを付け加えた。この建物は14世紀後半に改築され、その後はほとんど手を加えられずに残っている。そのアーチを支えているすばらしい張り出し梁を備えた屋根は、アーチを支える柱が必要でないことを意味している。
初期の議会は1529年まで寺院の参事会会議室などで開かれていたが、ヘンリー8世がホワイトホール宮殿に宮廷を移してからウェストミンスターは議会として使用されるようになる。
古いウェストミンスターの王宮はウェストミンスター・ホールとジュエル塔を残しほとんどすべて1834年の火事で焼失した。チャールズ・バリーとオーガスタス・ピュージンが新しい国会議事堂のデザイン競争に優勝して、簡素な基礎プランに複雑なゴシック式デザインを取り入れ、その結果できた建物は、長さ286m、部屋数1100、敷地3.2ヘクタール以上というものだった。南側にヴィクトリア・タワーが100mの高さでそびえているが、ウェストミンスターを世界的に有名にしているのは、それより低い時計塔で(96m)、この塔には時計とビッグ・ベンと呼ばれる鐘が備え付けられている。
ウェストミンスターのもうひとつの構成要素はホワイトホールで、ここはかつて大宮殿のあった場所。16世紀初めにウルジー枢機卿がヨーク・ハウスを手に入れ、これを壮麗なテューダー様式に改築した。ヘンリー8世がこれを1529年に接収して、ホワイトホール宮殿と改名した。ヨーロッパ最大だった宮殿には多くの建物があった。
その中のひとつはグレイト・スコットランド・ヤードという名称で呼ばれ、1603年スコットランドとの同君連合成立する以前はスコットランド王滞在のために用意されていた建物である。ステュアート諸王のためさらに手直しが行われ、なかにはイニゴー・ジョーンズが設計した古典的なバンケティング・ホール(1619~22年)があった。
ウィリアム3世はホワイトホールを好まず、セント・ジェイムズ宮殿と持病の喘息に良いハンプトン・コートのきれいな空気を好んだ。1698年にホワイトホール宮殿の大部分が焼け落ち、バンケティング・ホールだけが残った。現在は政府関係機関の建物が集中している。