King and St.Edward the Confessor

【聖エドワード証聖王(懺悔王)】

 誕生 1002〜1005年頃 (1003か?)
 没年 1066年
 在位 1042〜1066年
 享年 63(?)

Anglo-Saxon系最後の君主

 エドワード証誓王、エドワード懺悔王とも記されることもある。

 The Confessorというこの尊称はエドワード王が極めて敬虔であったことによる。 キリスト教をあらゆる迫害にも屈することなく信仰し続けたことに由来するあだ名である。

 Athelred II The Unready【エセルレッド・アンレディ】と彼の2度目の妻であるEmma【エマ】との嫡子として1002〜1005年(1003年か?)Oxfordshire Islipで生まれた。

Normandy【ノルマンディー】亡命

  Canute【カヌート】王等Dane【デーン人】のイングランド侵攻に際し、母の里であるNormandy【ノルマンディー】に亡命、少年時代を過ごした。 この時のノルマンディー公の厚遇が、彼の後の生活様式、考え方に多大な影響を与えた。

 さらに、この時無事にイングランドに戻ることが出来たらSt Peterに詣でるため、 ローマ(ヴァチカン)に巡業の旅に出ることを誓う。 Harthacnut (Deadly Cnut)【ハースカヌート】の死によってデーン人のイングランド支配が終結。1042年亡命先のノルマンディーから帰国、 Winchesterにて戴冠する。

Westminster

 彼の治世で特筆すべきことはWestminsterの街の建設である。すなわちWestminster Abbey【ウェストミンスター・アビー(寺院)】の再建とThe Palace of Westminster【ウェストミンスター宮殿】の造営。

Norman Conquest

 敬虔であり過ぎたために彼は正妻との夫婦生活さえも拒否し、子供を作らなかった。 このことが深刻な王位継承問題を引き起こし、やがてそれはNorman Conquest【ノルマン・コンクエスト】に発展する。
 のちに彼の治世はNorman Conquest以後の厳しい封建制社会に比べ穏やかな時代だったと美化されていくことになる。

>Britannia and Eire