The Palace of Westminster【ウェストミンスター宮殿】は、グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国そしてイングランドを象徴する建築物であり、かつ、最も有名な建築物のひとつ。
この王宮は、King and St. Edward the Confessor 【聖エドワード証聖王】が、 1045年、Westminster Abbey 【ウェストミンスター・アビー(寺院)】再建に着手した際、その進捗状況を見守るために、
寄り添う形で建設されたことに始まる。
当時この地域は、River Thames 【テムズ川】とRiver Tyburn 【タイバーン川】に囲まれた中洲で、Isle of Thorney 【ソーニー島】と呼ばれていた。王宮は川岸に臨む湿地帯に近い場所に建設された。
現在はグレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国国会議事堂として使用されている。The Houses of Parliamentというのは通称である。
聖エドワード証聖王は極めて敬虔であったため、その宮殿も非常に質素だったと想像されている。 そのため「William I The Conqueror 【 ウィリアム1世征服王】はこの宮殿を見て、非常にお粗末だったので大改築を行った」と、 歴史学者ジョン・ストウは書き残している。
ノルマン征服後、ウィリアム1世征服王以降のイングランド歴代君主の主要宮殿となり、さらに改築・増築が進められることとなる。
中でも特筆すべき点はWilliam II 【ウィリアム2世】が1099年に行った、当時ヨーロッパ最大と謳われたWestminster Hall 【ウェストミンスター・ホール】の増築である。これ以降このウェストミンスター・ホールは主な儀典の中心となる。
しかし当のウィリアム2世本人は完成したホールを見て想像していたものよりあまりに小さかったため、「ベッドルーム程度」と落胆したというエピソードが残っている。
ウェストミンスター・ホールは中世の建物群の中で現存する数少ないもののひとつとなっている。その他に中世の建造物としてはJewel Tower 【ジュエル・タワー】が別の建物として隣接する形で残っている。
この王宮にてEdward I The Legislator 【エドワード1世】は模範議会を開催していたが、1307年エドワード1世が他界した直後からこの場所は貴族、庶民に別れて議論する場所、すなわち国会議事堂の機能を持つ部屋“Chamber”を合わせ持つようになる。 Henry VIII【ヘンリー8世】が実際に居住した最後の君主となり、1512年火災で一部焼失した後、 王室は隣接するWhitehall Palace 【ホワイト・ホール宮殿】を使用することになる。貴族はWhite chamberを、庶民は空いた適当な部屋を使用していたが、1550年から宮殿内のChapel of St. Stephen 【セント・スティーヴン礼拝堂】(1298創建1347年再建) の使用が許可された。これが現在の下院の前身となっている。
宮殿は1298年1512年そして1834年と火災を引き起こし、 1834年10月16深夜〜17日未明の火災に際してはウェストミンスター・ホール、Jewel Towerと地下室を除きほとんどを焼失してしまう。
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Plan of New Palace of Westminster 【新ウェストミンスター宮殿平面図】 |
再建に際しては公募によりチャールズ・バリーの手による真新しいゴシック・リバイバル形式の案が採用される。 チャールズ・バリーとオーガスタス・ピュージンが設計したそれは、中世のウェストミンスター・ホールを巧みに取り込み、 まとまりのある平面構成、縦の線で区切られていく立面構成、そして細心の注意をもって考え出された「アシンメトリー」 〔左右非対称〕であった。 さらに川の面を正面とする立地条件と、その背景にあるウェストミンスター・アビーの塔をも考慮され設計されており、ヴィクトリア朝時代の最高傑作となった。
1840年8月27日バリー夫人の手により礎石が置かれた。1858年にはBig Ben【ビッグ・ベン】として有名な総重量13.720トン直径2.7高さ2.1mある鐘が納められているElizabeth Tower (The Clock Tower of The Palace of Westminster【時計塔】)高さ96.3mが完成する。 この時計塔は、1288年〜1707年まで存在していた時計塔と同じ場所に建てられた。1860年にはVictoria Tower【ヴィクトリア・タワー】高さ102mが完成する。 ちなみに中央の塔は換気の技師が考案したもので、チャールズ・バリーはその設置に反対だった。 しかしこの塔のおかげで自然の空気循環を手助けし建物内部の換気に役立つことになる。
時はまさに大英帝国の最盛期で、工場のような鉄骨の建物に嫌気がさしていた人々はゴシック・リバイバルの動きには非常に好意的だったとされていて、新宮殿も歓迎されたようである。 再建に際しては一部からグリーン・パークに議事堂を移すべきとの意見があったが、 Duke of Wellington 【初代ウェリントン公爵】の「川岸のほうが暴徒からの防御がしやすい」との意見で一蹴された。
この新宮殿は第2次世界大戦まで無傷でその威容を保っていた…とよく記されているけれど、実際は当時からすでに石表面がロンドン特有のスモッグによって溶解してしまうという事態が起こっている。 第2次世界大戦中ドイツ軍の空爆により下院が大破。戦後過度なゴシック装飾を除きほとんど当時のままで再建された。再建する際、下院をもっと豪華にしようという意見もあったがWinston Churchill 【ウィンストン・チャーチル】により一蹴された。こういうところも伝統を守るのね…。
このような場所に建っているとよく洪水の被害に遭わないのかなと心配になるが、やはり中世には洪水で孤立し、船で渡ったとの記録があるそうです。1238年2月マシューパリスの記録によるとセント・スコラスティカ祭の新月の時、上げ潮と増水が重なって川は膨れ、土手は決壊して橋は洪水の下に隠れ、水車場は堰ともども破壊され、畑と牧草地は完全に水浸しになった。中でも特筆すべき出来事は、ウェストミンスター宮殿が水浸しになったことだ。そのためホールの往来に船が使われたり、部屋に行くのに馬が使われたりした。地下の貯蔵室に流れ込んだ水はどうにもならず、すっかりお手上げだった。
テムズ河側の長さ: 872 ft
部屋数: 1100
■Photographs of The Palace of Westminster
A DAY IN THE LIFEのなかでThe House of Lords貴族院のことが歌われています。ちなみにこの曲のプロモーションフィルムの中で曲中の目覚まし時計の音に合わせて時計塔が揺れるという粋なことをやっています。
REMEMBERのなかでGuy Forks Dayについて歌われています。厳密に言うと曲の最後でThe Fifth of Novemberとシャウトしているだけですが。さらになんと曲の最後に(ていねいに?)爆発音まで挿入されています。
Revised 11/11/2015
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