掲示板書庫.01 ・02 ・03 ・04 ・05 ・06 ・07 ・08 ・09 ・10 ・11 ・12 ・13 ・15 .
tanさん
奄美の加賀の殿様というのは赤椀の世直し http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/という本のp.371にありますが、やはり半島にも広がっているようですね。でも加賀の洞窟などは半島にはないと思われるので逆に出雲が発信源である可能性があるのではと思っています。ではまた。
・・お言葉。。すみません、お気を遣わせてしまったようで、^^。
>・・、裏を返すと日本側はそれほどに倭人伝を重要視していたことに他なりません。
#特にこの部分は実に共感します。
そうなんです、出雲は数・大きさとも古墳が実に少ないのです、大きさからいえば日本海側では丹後が多いですね。
誕生伝承。南といわれる漂着卵生は半島から黄河河口まで広がってますし、半島の始祖は降下・光がメインの北と南の漂着卵生、列島は始祖が降下でそれ以前が漂着でしょうか。
神話、伝承の内容は応保の長寛勘文以前以後を分けて読めるようになれば、と思っていますが、至らずです。
奄美の加賀の殿様というのはどのような内容なのでしょうか。
こんばんわ、恵比須屋さん
転載お手数おかけしました。ありがとうございます。
(確認出来ましたので、削除などして戴いたほうが宜しいかも知れません。先の1、2の条件を満たせば「引用」となりますが、転載はちとまずいかと思います。年代別の事蹟が多いので作者の創造的部分を明確に分ければよろしいかな、とも思いますが)
※以下、恵比須屋さん宛、ではありません。「小生のhp内の姿勢では極端に他へのジャンプ・リンクが少ないのは、引用、転用の境界を考えるのがメンドーとか、一応文章内で完結したいという希望もあります」※
珍しく、くどく^^;補足します
1・お持ちの「惠子氏の著作本の書名」をお尋ねしている理由は、それ以外を小生が持っていたら恵比須屋さんへ補う事ができる情報が出せる可能性があるからです。とはいえ、現在手元に在るのは「三人の神武」だけですが。あとはメモですがメモへ残すのは平均して著作の1/50程でしょうか、(メモは書写ではありません、惠子氏の本に限らず)。その内容は、その時に興味ある範囲での事実の記述部分で、作者の判断・創造的部分をメモる事は殆どないです。最初に書きました、>「アジアの史書の対比資料として小林惠子氏の著作はほぼ読んでいます。」です。
ですから、現時点までの情報の中で恵比須屋さんへ提供補完できる情報は小生は持っていないと判断してます(勉強不足です^^;)。はるかに貴方の方がお詳しい。
2・原文の出典についてですが、これは小生が知りたいのが第一です。また、漢字は分らないというお話がありましたが、出回る書籍に原文だけで訳文が無い、というのはあったかなぁと思いまして。。
小生の最初の漢文「墨坂。。大坂。。」は、ご質問が恐らく日本書紀からだったので古事記の漢文を抽出しました。
#>親しい慕蓉カイあたりと繋がるかも知れない
この「親しい」をいろいろ暇見て考えたのですが、?状態です。恐らく文章を換えた(添削した)時に変に残ったのでわ。。で単純に間違いです。失礼しました。
#109頁あたりの転載から、少し思い出したのですが、
「牟佐(身狭)」の字を追った事があるのですが、牟は日本では1字の音として多用されますが、それ以外で半島と三輪に関連しては、
高句麗本紀、15代美川王の即位前紀に「陰牟、再牟」と珍しく牟が載り。ヤマトでは初期の社に身狭社あり。三輪社に神官、高宮系図に「
・身狭(一名牟佐志、母大倭忌寸女、奉斎三輪大神)―特牛(一名大人・・、というのがあります。欽明は大身狭、小身狭の部をつくってます、小身狭は高句麗人による田部といわれてます。
これを投稿すると消えるtanさんの示唆に対する私の持論。抽象的な受売りばかりでお恥ずかしい限りですが、記紀に倭人伝が反映されないのは「日本」の天皇が倭人伝の日本国名、卑弥呼を初めとする蔑称、卑称に不快感を抱いていたことと共に、その時代を神功皇后三韓征伐に仮託したことによるものでしょうが、裏を返すと日本側はそれほどに倭人伝を重要視していたことに他なりません。逆に天孫降臨、出雲などの神話の多い地方に銅鏡、古墳の少ないことが神話の成立を古墳時代以前であることを物語り、奄美諸島に残る「加賀の殿様」、諏訪に残る「甲賀の三郎」等は縄文時代から残る海洋交易路に沿っており、出雲神話、天孫降臨等が西部本州、九州北部で南方、北方アジアとも連動した神話が発生したことを物語っているのではないかと思うのですが、出雲の加賀の洞窟、日向の高千穂峡は自然界の創造した絶妙な性、出産、死、太陽等を表現するモチーフであり、後に伊勢の二見が浦でもやや希薄なその再現の試みを招いたものかもしれないと思います。何はともあれ、生と死への歌を神話に作り上げた古代人の知恵は限りなく神々に近いものだなーと思いますね。
続き
286年 慕容廆は、晋の武帝(司馬炎)に反抗し、夫余を攻めた。
286年 高句麗と敵対する鮮卑の慕容廆に攻められて敗れた夫餘王が自殺し、一族は沃沮(よくそ)、つまり東川王の故地と考えられる遼東に逃げる。
286年 西川高句麗王は、夫余の亡命者を受け入れたらしく、この後、高句麗は百年以上にわたって、鮮卑の慕容氏と対立することになる。
286年 東川王系の百済王を廃して慕容氏の推す責稽(せっけい)王となる。
289年 晋の武帝(司馬炎)没。孝恵帝即位
292年 懿徳元年。著者は決め付けています。その根拠は
「懿徳元年の年干支(ねんかんし)は「書紀」によると、辛卯(かのとう)の年で紀元前五〇九年だが、二月の朔(ついたち)が己酉(きのととり)、八月の朔が丙午(ひのえうま)、翌二(五〇八)年の一月の朔は甲戌(きのえいぬ)、二月の朔は癸卯(みずのとう)である。この懿徳元年の紀元前五〇九年と翌年の月干支は二九二(壬子)年と翌二九三(癸丑)年の月干支と一致している。つまり月干支の一致からみて、事実上の懿徳元年は二九二年と考えられる。」です。
293年 慕容に攻められ烽上王・鵠林(養父)へ逃げる。
300年 “八王の乱”
300年 美川高句麗王。(高奴子の甥)
304年 孝恵帝は八王たちに追われ洛陽を去る。
308年 劉淵、中国皇帝を自称。劉曜・東晋を滅ぼす。
310年 劉淵没。劉総継ぐ。
311年 美川高句麗王が慕容廆に謝罪し和平。
318年 劉総没。劉曜即位し趙を建てる。慕容廆に高句麗が敗れる。崇神没[古事記]。
318年 新羅王子天の日槍(反劉氏系新羅人として列島に亡命) 慕容氏と共闘関係にあり丹波道主を滅ぼしに渡来。
慕容氏と劉氏との親しい交流がみられません。
tanさん、こんばんわ。tanさんが引用された109ページあたりは
中国北方民族と崇神朝がテーマになっています。「古事記」の公文書が夢の中に現れた神人を「大物主大神」としているのに「劉曜だ」となぜ著者がたてつくのか?「しかし劉曜は自分に投影させたようだ」はその説明の1つだったのではないかと思います。
237年 魏の明帝は幽州刺史の毋丘倹に命じて公孫淵を魏の都に召還しようとした。公孫淵は此れに応じず、逆に毋丘倹と戦って勝利し、自立して燕王を自称した。
237年12月(景初2年1月) 明帝、司馬懿に公孫淵討伐の詔勅を下した。「ここに景初2年1月とあるが、二三七年十二月のことである。二三七年は青龍五年だったが、同年三月に暦を改定して、景初元年四月とした。、、、、、、」
238年9月(実際は8月 ) 魏が公孫氏を滅ぼし、半島の支配を確立する。卑弥呼が魏に使者を派遣
238年11月 「「倭人伝」には、その年の十二月(実際は238年11月)、明帝は卑弥呼に詔書をもって次のように報いたという。「略」明帝の詔には金印を仮授するなど他にほとんど例のない「仮」という語が使われている。、、、」
238年12月 明帝死。
238年 「魏志」の本紀には238年に卑弥呼の使者が都に来たと記していないから、、、。卑弥呼の送使は本紀では抹消されているのである。、、ではなぜ本紀は卑弥呼の送使を抹消し、「倭人伝」は「親魏倭王」を「仮授」したと表記したのか。、、、」
239年 「景初3年は11月と十二月の2回、十二月があったことにして暦を正常に戻した。しかし 239年十二月は景初年号でいえば景初四年一月ともいえる。、、、、、その景初四年銘を持つ三角縁神獣鏡が京都府福知山市広峰一号墳から出土しているのだ。、、、、」
239年12月(景初四年一月) 東倭は高句麗に行って東川王から、景初四年(239年12月)銘の鏡を貰い、翌240年1月に、帯方郡にいた司馬懿配下の弓遵の元に行ったのだろう。ただし景初四年は239年12月に限られるから前もって制作され、東川王が東倭の使者に鏡を与えた時が239年12月だったということだろう。」
240年 「太守弓遵(きゅうじゅん)の倭国への送使はすでに明帝は死んでいるから、司馬懿の意思だったのである。、、、、、このように明帝=毋丘倹と司馬懿の勢力争いの結果、列島は明帝が認めた倭王卑弥呼の他、司馬懿が倭王に任命した倭王が存在することになった。」
240年 「司馬懿の孫司馬炎(えん)が265年、魏を簒奪して晋を建国するが、その「晋書」本紀に正始元年正月 、東倭が朝貢してきたとある。、、この年に弓遵が使者を列島に送り、倭王を任命している。つまり弓遵が任命した倭王とは東倭国王だったのである。」
266年 晋書「11月倭人が来て貢物を献じた」。円丘・方丘を南北に祀る晋の儀式に参加。前方後円墳の発想となる。この後413年迄高句麗と倭国の存在を認めない。
280年 晋が南方の呉を制して、中国を統一した。
以下続く
tanさん、鮮卑の慕容氏と匈奴の劉氏との敵対関係を貴方が12月26日に tanさんが
「大武神・慕蓉カイと瑠璃を結ぶものは、??????恐らく恵比須屋さんもご存知と思いますが。
大武神の父は句麗2代目瑠璃王。瑠璃の文字からの連想では時代は違いますが
親しい慕蓉カイあたりと繋がるかも知れない、??????
燕の墓制が見られる瑠璃河になるでしょうか。まあどちらも嫡子では無い、国号を新たに興した、等が共通でしょうか。」などとtanさんがおっしゃるので、
「劉曜」と「慕容」が混同しているのかな?など、なにか話しが噛みあわない感じがしました。とりあえず、劉曜と大武神の関係を整理してもらえればと思って史料を探し「北魏書」の一部を提示させて頂きました。
Konさん、おひさしぶりです。
≫大杉神社と東西の金砂神社の地理的関係を知りたいです。
≫そして、祭神の関係。かたばみさん、これらを背景に
≫浮かび上がる物語りはあるのでしょうか。
なはは、弱った、どちらも意識したことがない神社と祭礼です(^^;
東金砂神社カナサの縁起をみると
806年に平城天皇の勅願によって滋賀県大津市の日吉大社の御分霊を祭ったとありますね。
御祭神は大己貴命と少彦名命ですが、日吉であれば大山昨神があるはず。
大山昨神がいかなる存在かがまたむずかしいけれど、古事記では大歳神の系譜の末之大主神としていますから出雲神族系の神とみえます。
この頃の東国の事象を探すと、坂上田村麻呂の胆沢城築城と蝦夷のアテルイの投降。
最澄が比叡山に天台宗を開いて比叡山(日枝山、牛尾山、古代には日埼、日尾)の大山昨神を護法神としています。
日吉大社は崇神天皇が牛尾山の地主神である大山昨神を祀ったことが縁起のようで、後に天智天皇が大三輪山の大己貴を勧請しています。
崇神が大山昨神を祀ったのは三輪山の大物主神など出雲系の神々を祀った一環のひとつとみえます。
(持論では、出雲(敵対勢力)をなだめるためにその神々を取り込んだ事象とみる)
時代と地域性から平城天皇が日吉を選んだのは蝦夷との接点を重視したからではないかなあ。
持論では蝦夷ともっとも関係の深かったのが出雲とみています。
加えて神仏習合の最先端でもある日吉であれば文句なしです。
御輿の浜へのお渡りは滋賀の日吉大社から御分霊が運ばれたルートに従うものだろうと思いますが、72年おきにおこなわれるというのが面白いですね。
(東金砂神社のHPのぞいてきましたが73年おきと書いてある、72年おきの間違いだろうな)
うーん干支(10干×12支)の60年にもうひとつ12支を加える??
なんだろうな72年というのは。これに興味を引かれます。
金砂の名称・・位置的には陸奥と常陸の境目あたり。
東大寺の大仏の金メッキは陸奥で発見された金(宮城県涌谷町付近とみられる)が使われたそうですが、
ちょっと距離がありすぎる。
日吉大社の勧請なら日吉か日枝になってよいと思うのだけれど、なにかの当て字なのかなあ。
金砂キンシャは愛媛にありますが、カナサは茨城だけです。
大杉神社を平成祭りデータCD(神社本庁取り扱い)で調べたら
茨城に8社、御祭神はすべて倭大物主櫛甕玉大神ないし大己貴命など出雲系でアンバサマの祭礼がみえますね(櫛クシの尊称は天に対応する地祇系と推察しています)。
岩手に2社あってやはりアンバサマのようですが、なぜか手力男命が御祭神。
(手力男命を祀る社は全国に散在しますが福岡、長野、秋田に多いみたい、これもなぜ?)
栃木には10社ありましたが、御祭神の雰囲気がちょっと変化するようで大山津見神、大山祇神がメインになるみたいで、出雲(日吉)からすこし離れる感じがします。
千葉には7社で木花開耶姫が混じり込んでる。
群馬には1社のみ。東京、神奈川にはない。
日光の二荒山開祖の勝道上人が最初に展開して、後に天海僧正が利根川や霞ヶ浦水系に広めているようです。
利根川と霞ヶ浦水系になんらかの自然神を祀る源の祭祀があって、それを天台系の神仏習合のなかで日吉系の神に置き換えられたのではなかろうか。
直接広められた地域では日吉の神が置かれたが、そこから間接的に広まった地域では古い自然神的な様相が残っている、という解釈になるかなあ。
東京や神奈川にないのは真言系の神仏習合が先行していたからではなかろうか、面足尊などです。
tanさん、こんにちわ。
Tanさん、貴方は「よく漢文(原文)を提示されますが典拠(本)は何でしょうかに具体的に書名、著者名などお答えいただき。」これに回答しないと、「削除の対象とする」とおっしゃる。では原文の説明をさせていただきます。
私は、著作者の権利や、名誉を守れるのは貴方だとおもっています。これまでの経過は、109ページの引用文を拝見して、私は、すごい人がいる。貴方が、武霊王、劉曜も、大武神も、中国北方民族と崇神朝の関係も解る人がいると思いました。私が、あなたに初めて投稿したとき、劉曜のことが知りたくて
「治世9年春3月15日、崇神天皇の夢の中に神人が現れて言った。
[神人]
「赤の盾を8枚、赤の矛を8本で墨坂の神を祀りなさい。また黒の盾を8枚、黒の矛を8本で大坂の神を祀りなさい。」
4月16日、夢の教えのままに墨坂神、大坂神を祀った。
治世10年秋7月24日、多くの卿に詔して言った。
[天皇] 「民を導く根本は神の教えにある。今、神々をお祀りして災害は収まった。けれども遠国の人々は、まだ神々の御恩恵にあずかっていない。そこで卿等を四方に遣わして、我が神々の御恩恵をひろめたい。」http://info.loops.jp/~asukaclub/syoki.html」
この神人が劉曜だと主張し、著者が劉曜を説明する109ページの記述を貴方がどのように評価されるか、うまくいえませんが私は期待しました。
貴方の回答は「この掲示板で大武神の語が出たのは始めてかもしれません。語り尽せないほどでしょうか。」でした。私の期待は膨らみました。貴方は「大武神の父は句麗2代目瑠璃王。瑠璃の文字からの連想では時代は違いますが親しい慕蓉カイあたりと繋がるかも知れない、燕の墓制が見られる瑠璃河になるでしょうか。まあどちらも嫡子では無い、国号を新たに興した、等が共通でしょうか。」と述べられた。
tanさん、貴方が最初に「・・又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛。又於大坂神、祭黒色楯矛・・」この部分の前後をみると結構唐突に赤と黒の色がでますね、」と記述されたのです。
突然「原文」が出ました。私は、漢字は苦手です。已む無く出来るだけ史料は原文にしなければならないのかと思ったのです。ですからあなたが回答しやすくするには、「史料」は出来るだけ「原文」を提示しなければならないのかと思ったのです。
貴方の「親しい慕蓉カイあたりと繋がるかも知れない」という記述に驚き、劉と慕容は「宿敵同士?」と思っていたので、貴方の仰る意味を理解したく、私が「なにが知りたいか」を示せる「史料」を必死で探しました。これが次の「原文」になりました。以後、別投稿で説明します。
恵比須屋さん
先にも、明記してるように本はありません。
&まず質問に、お答えください。以外は煩わしいので削除の対象とします。
tanさん、「興亡古代史」の109ページをご確認ください。
いやあ、恵比須屋さん、原文を変更したのでは無い、事は充分説明に足りていると思いますが。
これ以上、貴方に解るにたる説明は、もっと恵比須屋さん自身のことをお知らせ願わないと無理なようですね。
で、まず、先の小生からの質問
1・恵比須屋さんは、小林惠子氏の著作、どんな書名を読まれてますか
2・よく漢文(原文)を提示されますが典拠(本)は何でしょうか
に具体的に書名、著者名などお答えいただき。
できるだけ貴方に合わせられる様、精一杯努力いたします。
できれば、他からの転用ばかりでなく恵比須屋さんご自身のお考えなども補足して戴くと尚よろしいかと存じます。hpなど発表されておられればお知らせくださればその一助となります。
補足、カタイ事は仕事以外でしたくも言いたくもないのですが。
転用、転載などの問題は、歴史を語る上でシビアに過ぎると歴史を語ることは難しいモノがありますね。
過去の判例等から一部ですが、
1・転用、転載は出典を明記すること。
2・1を満たしても、その内容の大部分が転用であってはならない。
(小生の場合は、このhpが所謂発表場所ですので、ここでの転用は、ごく一部となりますが)
量的に殆ど転用らしきで出典の明記がない、恵比須屋さん、お気をつけたほうが、と、老婆心です。
尚、古典の(部分の)転用については、創造的部分に比して新聞記事のソレよりもさらにゆるやかなようです。
tanさん、こんばんわ。
「、、「史記」(趙世家)に次のような話が載っている。趙襄子は、ある時、ある人から竹に朱書きした予言書を貰った。それには大略、次のように書かれていた。「汝の子孫に英主が現れよう。それは黒龍の顔、鳥のくちばしのような口、髪、口ひげはすべて濃く、偉大な骨格をした偉丈夫で、左前の胡服を着、甲冑をまとって馬に乗り、黄河上流を領有し、戎狄(じゅうてき)の国や貉(ばく・高句麗のこと)の地に至り、南は魏と韓を撃ち、北は黒姑(不明)の戎を滅ぼすだろう」この話は、胡服を着て胡式の戦法を採り、趙を戦国時代有数の強国にした武霊王を指している。しかし劉曜は自分に投影させたようだ。」これが原文です。
貴方が
「以降暫く飛んでいて、
>しかし劉曜は自分に投影させたようだ。」この部分はメモにありません。書換えは出来ないですね元が無いですから。」
とおっしゃる意味がわかりません。「以降暫く飛んでいて」とは1行の空白があるということですか?
著者は「新しい視点から史書を見ることも真実を知ると言う意味で大切なことだと私は信じている。今、私は、ただ一人、風に向かって孤独な道を歩いているような気がしている。」と1行1文字に責任と覚悟をもって臨んでいる人。
「大武神=劉曜=武霊王となる訳ですが、」についても意味がわかりません。
もう一度お尋ねします。何故、
「しかし劉曜は自分に投影させたようだ」の原文を
「高句麗の大武神は、この武霊王に自分を重ねているらしい」
に変更されたのですか?
上野原ですか、燻製つくりの炉は一度見てみたいものです。
「だいろくの」の音に「でえろくの」の意味を思いおこそうとしたのですがおこせず。左義長に近い祭の「でえのこんごう」など連想してました。串木野といえば徐福が濃いところですね。
卑弥呼といえば、中国と朝鮮の史書に載り日本に載らない理由は、など考えると面白そうですね。
やっと意味が分りました。それにしても細部まで精読されてますね、驚きです。
該当の本は手持ではなく残るメモでしか確認できませんが、
>>・・この話は、胡服を着て胡式の戦法を採り、趙を戦国有数の国にした「武霊王」を指している。」ココまでがメモに残り、以降暫く飛んでいて、
>しかし劉曜は自分に投影させたようだ。」この部分はメモにありません。書換えは出来ないですね元が無いですから。
ですから
>>高句麗の大武神は、この武霊王に自分を重ねているらしい。」この部分がコピペ(up)時に小生が足した部分です。
大武神=劉曜=武霊王となる訳ですが、これは、
騎馬の戦を得手とする者にとって武霊王は後世の唐の太宗、李靖に匹敵というか、それ以上の軍神というか神の位置に近かったと考えてます。なにしろ中原近辺の戦で兵車から騎馬への大転換を成したのが武霊王ですから。どちらも可能性なきにしもあらずで後継者を自負していたのではないかと。
出雲の最盛期はAD100前後とみています。
寒冷化がはじまる時代ですが、出雲には新規開拓地が瀬戸内〜近畿に無数にあった。
あいにくその情報は記紀では削除?されているので出土物からの推測しかできませんけれど。
前に書いた「大穴と隧神」が高句麗の祭祀であるなら、大穴持神がこれにつながっている可能性がでてくるわけですが、高句麗との関係は文化的影響まで、とみています。
(高句麗にとっても渡来系(海洋系)の神か?・・やはり農耕を伝えた?)
高句麗文化を受ければ日本海側では農耕社会でありながら狩猟系文化の影響を併せ持つようになるでしょう。
(銅鐸の鹿、鹿の象徴化もこのあたりで生じていると考えています)
高句麗では弟6代の大祖大王(国祖大王)、AD53以降に対応する時代です。
この王は在位期間が90年以上、次の7代は「次大王」・・安直な名前(^^;
伝承があいまいで名が伝わっていなかったのでしょう。
しかしその王名からは高句麗が国家として形をなすのがこの時代であったことをうかがわせます。
すなわちそれ以前の伝承がどれだけ事実を伝えているかはむずかしい判断になります。
半島南部の新羅(辰韓)や伽耶も国家の形態を整えていった時代。
前漢が滅びて朝鮮半島東岸が混乱している時代。
高句麗と新羅+半島東岸での抗争、出雲と九州天孫+半島南岸での抗争、利害も一致するなら双方の交流がはじまるのは必然ともいえそうです。
さて・・恵比寿屋さんの引用部分について。
≫ 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
こちらは魏志倭人伝の記述、正始元年=AD240、魏の中期→卑弥呼の朝貢
≫「240年 正月、東倭が朝貢してきた。(晋書・宣帝紀)」東倭とはどこか?との関連で
こちらはどなたの文の引用かわかりませんが、晋書が魏時代の過去を書いている部分、「晋魏正始元年春正月 東倭重譯納貢焉。」のことだろうと思います。
(宣帝=魏時代の将軍、司馬懿179-251のこと)
(司馬懿の孫の司馬炎が晋の初代武帝265-290となって、祖父に宣帝の称号を与えたもので晋の帝王ではありません)
東倭とは、晋となって中国全土を統一したことによって(265)相対的により東方となった倭をイメージした表現だと思います。
晋の前身である魏が少なからぬ支援をした卑弥呼の倭国なれば、晋時代の事象ではないにもかかわらずその事象を書いたのでしょう。
東倭とは卑弥呼の倭国とは違う倭国で、それがどこにあるのか、ということなのかなあ。
だとすると、魏は卑弥呼との交流と平行して「東倭」との交流も行っていたが魏志倭人伝はそのことを書かなかった。だが晋書ではそれを書いているのだ・・という解釈が前提になります。
これはいささか苦しすぎる、うーん(^^;
ご紹介いただいた
http://www.tk4.speed.co.jp/temb/1/yayoi_3.htm
は邪馬壹国大和論ですね。
私は邪馬壹国九州説です。恵比寿屋さんはどうのようにお考えですか。
ちまたにある公孫氏の縁者=卑弥呼の論について
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/shosai/netu-menu.html#kouson
このくらいの漢文読解力があったらなあ(^^;
ちなみに上記HPで続いて紹介されている南北に倭があった、については事実を伝えているとみています。
出土土器が時代によって半島南部から北九州へ、あるいはその逆に流れていることから双方が渾然一体であったことがうかがえます。
半島南部の倭人と九州北部の倭人を示すなら自然、新羅本紀でも半島南岸に倭人がいると解釈できる記述もあります。
倭、倭人については「倭・倭人・倭国/井上秀雄/人物書院」を総括的な参照に利用しています。
なお山海経の記述で、燕に隣接とみえる倭については山海経の成立経緯が問題になります。
このあたりに光武帝の金印であろう「漢委奴国王」の「委」の文字の秘密が隠れているとみています。
倭人とはなにか、中国側から見てその表現がどう変遷したか、といったところです。
恵比寿屋さん、私の投稿をお読みいただいてありがとうございます。
それらの解釈は現在も変わっていません。
日本海側では出雲とはなにかがすべてにキーワードになってきますがなかなかやっかい。
大穴持神とはいかなる存在か、それがそのまた鍵になりそうです。
佐太大神の誕生が洞穴であるのが興味深いのですが、いまのところBC500あたりに遡るかも?といった程度で進展なし。
なお、スサノオや大己貴など出雲神族の伝承のほとんどは北九州〜瀬戸内にあったものとみています。
出雲風土記に書かれる「天の下造らしし大穴持命」と神名の明記あるものが島根の本来の伝承、「天の下造らしし大神の命」と同じ賛美なのに神名を書いていない部分は他からの転載で島根伝承ではない、とみています。
島根県の太田市〜浜田市付近(石見銀山周辺)にこんな伝承があります。
その1
大昔に巨人がやってきて我は大山祇神なり、といった。
巨人は弥畝山(源田山)に腰をおろしておならをしたので土が吹き飛ばされて山ができた、ウンコをしたらそれも山になってそこでは肥料をやらなくても作物がよく育つようになった。
その2
昔、ソシモリにオオゲツヒメという五穀の女神がいたが、訪ねてきた荒ぶる神に殺されてしまった。
オオゲツヒメの末っ子のサヒメ(佐比賣)は形見をもって東の国へ向い、高島に降りたが大山祇神の治める場所だったので益田市の比礼振山に降りて農耕を広め、さらに太田市の佐比売山(三瓶山)にも農耕を広めた。
記紀説話とのジョイントもみえますが、どちらも農耕(畑作)とつながる伝承で、農耕に関わる来訪者が時代をずらして2回あったことをうかがわせます。
最初?の来訪者大山祇神はこれを祀る神社からみて海洋系であるのは確実。
(人間のウンコを肥料に使う考え方は延喜式以前にはみえないので現在のお話はそれ以降にできたものではあるでしょう)
各地に佐多岬といった地名があることから、佐太大神も海洋系である可能性が高い。
次の来訪者サヒメが東方に向かった結果が島根沿岸ということから、オオゲツヒメは半島南部の農耕者だったことがうかがえます。
空想1:記紀は半島南部の事象も「日本の神話」として扱っている可能性がある、スサノオも同じく。
空想2:サヒメのサは早苗や早乙女のサと同義ではないか、早いではなく愛でるといった意味で。
空想3:サヒメが島根沿岸へ向かったのは北九州(南)が大山祇神の支配地であることを知っていたからではないか。
空想4:書紀では伊弉諾尊が切った迦具土神から生まれるのが大山祇神、古事記では記載がないけれど同グループの神々は自然神だから大山祇神も自然神であり、大穴持神はそれが祖先神化した神ではないか。
(大己貴や大国主は純粋の人間(^^;であってまったく別系)
時代が下って・・
播磨風土記の天日槍とアシハラノシコヲとの抗争から、天日槍は出雲がまだ存在していた時代の人物とみなせます。
書紀では崇神垂仁あたりの人物としていますから渡来は、出雲滅亡≒崇神直前あたりである可能性が高い。
出雲と抗争していた勢力の一員ということでもあって、崇神以降の大和王朝系の鏡を持つこともあるでしょう。
この頃に新羅では王位継承の混乱が生じています(自説の崇神248-273とした場合)。
その混乱の中から新天地を求める新羅王族がいておかしくありません。
可能性の高い事象が自然につながるので、天日槍はAD230頃の新羅王族の渡来とみています。
国譲り以降の出雲が中国文化を導入するルートはどこか。
出雲の実体を推定しないと先へ進まない部分でもあるのですが、国譲りによって北九州のルートを失ったとみています。
AD50頃の糸島系の祭祀土器が半島南部からでています。半島南岸は天孫系との交流になっていたとみえます。
(土器編年はAD1〜AD50頃と推定される)
(なおBC100頃〜BC1頃の「弥生土器らしき」もでています、これは自説でいう国譲り以前のものか)
国譲り以降の出雲が中国文化を導入する、あるいは鉄や銅資源の輸入先は、山口県の萩や長門あたりから朝鮮半島東岸を北上して高句麗を経由する全てが海路によるほかはないとみえます。(AD50〜AD250年間)
ならば日本海側の出雲は高句麗文化の影響を強く受けることになるでしょう。
それが例えば四隅突出墓とか積み石墓らしきものの登場につながっているとみています。
また、古事記に八千矛神が馬に乗る様子が書かれていますが、高句麗との交流があれば乗馬の導入は出雲が最初となって自然です(馬ははるか昔から農耕馬がいた可能性がある、馬具を輸入すればよい)。
ちょっと続く
12月に指宿に一泊し、国分の上野原縄文の森遺跡、桜島、開聞岳、新田神社等を回遊した際のガイドさんの苗字が大六野でした。御当人は川内出身とのことだけでその苗字のいわれについては不明の様子でした。
閑話休題。新田神社の裏手にはニニギノミコト可愛山陵がありますが、この辺の部族が何故東遷したかを考えると古墳時代の開聞岳噴火による農地の荒廃が一因ではないかとも考えられます。摂津では長髄彦に撃退されて東海に入植し、そこで力をつけた後に邪馬台国と戦い(狗奴国=欠史8代)卑弥呼の死に当たって崇神(丹後あたりの出身か)を擁立し、その神話、祖神を大王家に残したのではないかという仮説を立ててみたくなりました。皆さんの忌憚なきご批判を賜りたく。
年も改まり、皆様ご健勝のことと思います。
小生喪に服しており無沙汰をお許し下さい。
本年3月の後半に72年に1回の大祭が
茨城県の東金砂神社、西金砂神社で行われます。
延暦25年(806)から連綿とつずくこの神事を
ちょっと考察してみたいのですが。
滋賀県の日吉神社の祭神を分霊した金砂神社。
金砂という神社名はとても刺激的な名前です。
東西の金砂神社から6日掛で浜へ神輿が渡るのですが
まさにそれは各地の神輿渡御の白眉。
大杉神社と東西の金砂神社の地理的関係を知りたいです。
そして、祭神の関係。かたばみさん、これらを背景に
浮かび上がる物語りはあるのでしょうか。
よろしくお願いいたします。
tanさん、こんにちわ。貴方が、「メモから抽出した例の筈」とおっしゃる文章は
「・趙の趙襄子は、ある日、竹に朱書きした予言書をもらう「汝の子孫に英主がでよう、黒龍の顔、鳥のくちばしのような口、髪髭はすべて濃く、偉大な骨格をした偉丈夫で、左前の胡服を着、甲冑をまとい馬に乗り、黄河上流を領有し、戎狄(じゅうてき)の国や貉(ばく・高句麗)の地に至り、南は魏と韓を撃ち、北は黒姑(不明)の戎をほろぼすだろう。」
この話は、胡服を着て胡式の戦法を採り、趙を戦国有数の国にした「武霊王」を指している。
高句麗の大武神は、この武霊王に自分を重ねているらしい。」です。
私が貴方にお尋ねしようと投稿した原因の書籍の文章は「凶奴の劉氏による列島支配」中、
「、、「史記」(趙世家)に次のような話が載っている。趙襄子は、ある時、ある人から竹に朱書きした予言書を貰った。それには大略、次のように書かれていた。「汝の子孫に英主が現れよう。それは黒龍の顔、鳥のくちばしのような口、髪、口ひげはすべて濃く、偉大な骨格をした偉丈夫で、左前の胡服を着、甲冑をまとって馬に乗り、黄河上流を領有し、戎狄(じゅうてき)の国や貉(ばく・高句麗のこと)の地に至り、南は魏と韓を撃ち、北は黒姑(不明)の戎を滅ぼすだろう」
この話は、胡服を着て胡式の戦法を採り、趙を戦国時代有数の強国にした武霊王を指している。しかし劉曜は自分に投影させたようだ。」です。
恵比須屋さん
大武神がマニアックとは思いませんが、色々ご質問の質・量とも多くちとパニクッテいます。少しずつ応答を重ねれば、こちらも勉強になりますので、と思います。
>>「・趙の趙襄子は、ある日、竹に朱書きした予言書をもらう「汝の子孫に・・
>この文章で貴方ご自身の文章がどの部分かお示し下さい。
#ご質問の意図がよく解りませんので、先にこちらから質問させていただきます。
1・恵比須屋さんは、小林惠子氏の著作、どんな書名を読まれてますか
2・よく漢文(原文)を提示されますが典拠(本)は何でしょうか
3・この場合、質問の背景とは、誰の文章か?と言う事ですか
該当の文は「金色をキーワードに」メモから抽出した例の筈ですので抽出したコピペ部分と思いますが後ほど誰の文が確認してみます。
>劉曜を大武神に書き換えた意図は?
#この文の意味が解りません、劉曜と大武神は300年ズレ有ですが。。?
タケトラさん
楊原で年越ですか、甘酒、ご一緒に飲みたかったです。昨年は大変ご苦労様でした、今年は蒔いた種も一層大きくなるでしょう。
ところで、廬原―いおはら―ようはら―楊原やなぎはら)てな気がしてるのですが。。ヨウといえば楊氏・姚氏、or柳と密接か。。
廬原郡といえば近くの墓の陶製棺と同一のが瀬戸内からでているのが気になっているのですが。
かたばみさん
面足、六天、といえば寺の境内・関連社での発生が多いようです、村民持ちというのが殆ど。関東に特に多い女体社との関連も強そうです。立地の地勢からすると川、洪水あたりでしょうか。六天は最強の意を表したい、恐らく疫病、天災に対して。。
この所、気になる社は新編&相模国風土記あたりであたってます(これ以前の資料が関東分殆ど無)当時の地勢なども解り読込むとなかなか。
クーガーキングさん
「だいろくの」は大六天からの連想でしょうか、よろしければ関連などお聞かせください。
紋次郎さん
田川郡、遠賀川、筑に豊。。実際の風景を知っていると色々と連想もしやすいですね。
田川郡・香春、たしか岳と神社では訓みが違うというような事を聞いたような気がするのですが。。
田川といえば延喜式に載る田河駅のあった場所ですね。辛嶋氏の匂いが強い場所のようです、辛嶋以前は磐井でしょうか。
田川郡には式内社は在りませんが、『豊前国風土記』に「・・清浄故号清河原、依是謂清鹿原郷、伝言昔新羅国神自度来、住此河原、号曰鹿原神・・」と香春岳神社が載り、ここでは鹿原で、発音からかどうか分りませんが鹿は銅(鉱床)を意味するらしいですが。
みなさん、明けましておめでとう御座います。tanさん宜しくお願いします。tanさん、貴方が「
質問の背景とか、質問に至る経過などの説明がないと「的を得た答えは得られない、答えられない」が普通ではないでしょうか。」と。
私はこの掲示板を興味深く拝見するだけで、投稿したことはありません。今回初めて投稿しました。
黄色い髪 投稿者:tan 投稿日:11月16日(土)22時53分29秒
の貴方の投稿で
「・趙の趙襄子は、ある日、竹に朱書きした予言書をもらう「汝の子孫に英主がでよう、黒龍の顔、鳥のくちばしのような口、髪髭はすべて濃く、偉大な骨格をした偉丈夫で、左前の胡服を着、甲冑をまとい馬に乗り、黄河上流を領有し、戎狄(じゅうてき)の国や貉(ばく・高句麗)の地に至り、南は魏と韓を撃ち、北は黒姑(不明)の戎をほろぼすだろう。」
この話は、胡服を着て胡式の戦法を採り、趙を戦国有数の国にした「武霊王」を指している。
高句麗の大武神は、この武霊王に自分を重ねているらしい。」
を拝見したので投稿しました。これが質問の背景です。
この文章で貴方ご自身の文章がどの部分かお示し下さい。
>恵比須屋さん
遅くなりました。雪に閉じ込められて、仕方なく雪見&温泉の年末年始でした。
>「やはりnetはギブ&テイクが基本でしょう」
#申し訳ない、言葉足らずでした。最近の風潮?に、書いている途中から一般への話が、恵比須屋さんへのレスに入ってしまいました。失礼しました。
で、風潮への疑問としての補足、ですが
ギブ&テイクは、皆同じというか平等というか、が基本なんです。例えば年商1兆円の企業のhpと子供さんの創られたhpも1:1(一つと一つ)で同等に見る事がint-netかな、肩書から本質へ=int-netでしょうか。営業活動で無く、無償というのを加味すると個人のhpが数段上、内容も実のあるのは企業のソレより個人でしょう。
人それぞれ得意というか詳しいジャンルは違いますよね、ですからテイクが古代の話で、ギブが漫画の話でも、モーニング娘の話でも好い訳です。net上での平等となりますと、hpなどでギブしているってことになるでしょうか。該当掲示版などで話題や笑いを提供するのもギブのひとつでしょう。
質問する方の問題は大きく2つ、1つは、やはり教えてもらうという姿勢は必要でしょう。これはマスコミによく見られる「いきなり質問して、答えるのが当り前」といった不遜な街頭インタビューなどが当り前になったから、など思ってますが。
1つは、質問の背景とか、質問に至る経過などの説明がないと「的を得た答えは得られない、答えられない」が普通ではないでしょうか。まあ掲示版ですので、やりとりが続けば的を得ることができるのですが「聞くだけ」では先へ進みませんね。
と、まあ、小生の場合は「答えられない、分らない」のが多いのですが。^^。
おめでとう ございます。
今年も、皆様にとって、さらによりよい年になりますように。!
挨拶が遅れました。
大晦日に下界へ戻る予定でしたが、雪に閉じ込められました^^。
おめでとうございます。鹿児島にだいろくの(大六野)という苗字があるのを知りました。串木野に近い川内(せんだい)の方です。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいいたします。
お年玉なし電子年賀状(^^;はこちら
古代で遊ぼは12章以降がなかなか進まないなあ。
出雲の問題は底なしに深い、その影響は奈良飛鳥どころか平安あたりまで尾をひいている様子もみえます。
ま、ぼちぼちと(^^;
江戸名所図会にでている都内の神社の散策コンテンツを作りかけているのですが、こちらはある程度の段階で公開するかもしれません。
tanさんの神社ほどの内容はありませんけれど。
そこで気が付いたのが面足尊を祭る社の関東での多さです。
(オモタル、弟六天、大六天など)
関東だけではなく西日本にも散在して、この社にはなにかあると感じています。
調査中
あけましておめでとうございます。
大晦日は伊豆國名神大 楊原神社で大祓。
深夜は初詣の皆様のための甘酒振る舞いにご奉仕し、
祝い太鼓の係を務めさせていただきました。
初日の出は、チョイと曇り空だったけど、
カラリとすがすがしい、一年の始まり。
正月1日本日からお店は営業なので、朝一番に出社して、
パートのおばちゃんたちにお年玉を配り歩いて、
昼前に神社の元旦祭。
あさっては淡島神社の例祭で、弓射してきます。
皆さんにとって本年がより素晴らしい年になりますように
心より祈念申し上げます。
焼尻さん、こんばんわ。「図書館」が閉館で「笹ばやし」調査出来ず。
当該神社の近くの海に「さるぼ貝」がいます。この貝は猿田彦と関係があるそうです。5m位の竹を海底の泥層に差し込んで3m位その竹をつたってもぐり、海底にころがっている赤貝とそっくりの「さるぼ貝」を1回に3〜4個拾ってくる漁法があります。「あーひーよー、あーさいさい」は笹、軍配、天狗、獅子、太刀振り等が登場する祭りです。2000年以上続いている祭りなのでしょうか?
焼尻さんの教えはちんぷんかんぷんで理解できません。もっと初歩の初歩を教えてください。
かたばみさん、こんばんわ。お説はご尤もです。
「スサノオを箕子朝鮮の人物と仮定し、渡来をBC190頃とみて一世代25〜30年平均とすれば、大国主はBCゼロ頃の人物となります。
天孫系譜の年代推定と重ねると大国主に同時代になるのは神武(36- 66)となります。」
「崇神248-273時代。」
何万年前であろうと、今日まで1秒のくるいなく時は刻まれ繋がっています。年代を特定することは重要だと思います。新しい事実が出れば修正すればよい。
貴方は、
「大己貴が天火明に命じて但馬を開拓させた、なんてのは出雲と天孫の日本海側の様子を示すもので興味深い。
ただし、天火明系譜がAD250以前に但馬に存在する必然性があるのかどうか。」と言われる。
228年 東川王即位。 東川王は高氏、句麗は高句麗となる。
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝恩詔
「正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた。
並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表した。」http://www.tk4.speed.co.jp/temb/1/yayoi_3.htm 大変興味深いです。
「240年 正月、東倭が朝貢してきた。(晋書・宣帝紀)」東倭とはどこか?との関連で、貴方の
「京都府の弥栄町(丹後半島)の太田古墳から魏の青龍三年銘(235)の方格規矩四神鏡、、、この鏡が後代の複製でないならば服属した丹後の氏族に崇神あたりが手持ちの鏡を与えた一枚とみたいです(すなわち卑弥呼の鏡の1枚である可能性がある)。」
「天日矛(AD250頃?)はこのときの王位継承争いに敗れて日本へ亡命した人物ではないのか。」
「王位継承は崇神の子垂仁273-311となったが、日子坐王の子サホヒコが垂仁暗殺を謀る。
それでも垂仁は活津日子根系を切り捨てるわけにはゆかず、日子坐王の孫にあたる日葉酢姫を妃として景行311-333誕生・・この時点で「天孫」の意味は事実上消滅したと考えています。
そして日本武尊が生まれ、仲哀へ。」
興味深く注目していますがわざわざ投稿まではしませんでした。
はじめのがエラーだとおもい書き直しら、二重投稿になりました。意味はいっしょです。どりらかを削除して下さい。失礼しました。
tanさん、こんにちわ。
貴方以外にこんなマニアックな投稿は致しません。
崇神は諸説あって本当にわかりにくいです。
何時頃のひとでしょうか。318年が没?
「289年頃 劉曜 匈奴。晋を滅ぼす総大将。国名を漢から趙に変える。四道将軍(大彦を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を中国地方に、丹波道主を丹波に)を派遣し劉氏系の国を作った。九州には劉曜直系の五十跡手勢力あり。大和地方には東川王以来の神武系が倭国の祭祀権を握って残存していた。」
「崇神が初代天皇という観念は、劉氏の漢高祖に自を擬した天武天皇時代の七世紀末頃に始まったものである。「書記」には崇神天皇の夢に神人が現れ、墨坂神に赤色の盾矛を、大坂神に黒色の盾矛を祀るように命じたとある。赤と黒は劉曜の色だった。崇神の夢に現れた神とは劉曜のことで、崇神朝とは匈奴の劉氏及び、劉曜の支配下にある列島を総称したものである」というあなたもよくご存知の説。
「“欠史八代“のうち、孝昭・孝安・孝霊・孝元と「孝」のつく天皇が四人いるが、後漢では孝恵帝以下、すべての皇帝に孝がつく。この孝の字がつくのは、後漢の例を真似たという説があるが、真似たというより、孝の字のつく天皇の時代は、列島が匈奴の劉氏の漢に支配されていた時代の天皇という意味だったと推定する」という説。
普通の人には聞けません。貴方がこれらの説をよくご存知だから待ってましたと投稿したのです。このへんの事情をお解り下さい。貴方のような方はめったにおられないのです。
tanさん、どうも私のはやとちりのようでした。こんなマニアックな質問をすべきでなかったと反省しております。
「崇神が初代天皇という観念は、劉氏の漢高祖に自を擬した天武天皇時代の七世紀末頃に始まったものである。「書記」には崇神天皇の夢に神人が現れ、墨坂神に赤色の盾矛を、大坂神に黒色の盾矛を祀るように命じたとある。赤と黒は劉曜の色だった。崇神の夢に現れた神とは劉曜のことで、崇神朝とは匈奴の劉氏及び、劉曜の支配下にある列島を総称したものである」との説について、
貴方こそ、ご自分のご見解をお持ちの方と確信したからです。
255年 神武、安芸。
256年 神武、吉備に移る。
264年 二月吉備出発。三月河内。四月ナガスネヒコ抵抗。六月紀の国から熊野に転戦。ナガスネヒコ滅ぶ。ニギハヤヒ勢力は金官加羅国と同族で、連合していた辰韓王の味鄒(みすう)の出自と同じであり滅ぼすわけにいかなかった。
265年 高尾張の土蜘蛛退治される。
266年 神武即位[書記]。晋書「11月倭人が来て貢物を献じた」。円丘・方丘を南北に祀る晋の儀式に参加。前方後円墳の発想となる。この後413年迄高句麗と倭国の存在を認めない。286年 慕容廆が晋の武帝に反抗し、夫余を攻めた。高句麗と慕容氏が以後100年対立。
286年 東川王系の百済王を廃して慕容氏の推す責稽(せっけい)王となる。
289年 晋の武帝(司馬炎)没。孝恵帝即位
289年頃 劉曜は匈奴。晋を滅ぼす総大将。国名を漢から趙に変える。四道将軍(大彦を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を中国地方に、丹波道主を丹波に)を派遣し劉氏系の国を作った。九州には劉曜直系の五十跡手勢力あり。大和地方には東川王以来の神武系が倭国の祭祀権を握って残存していた。
308年 劉淵、中国皇帝を自称。劉曜・東晋を滅ぼす。
後漢では孝恵帝以下、すべての皇帝に孝がつく。孝の字がつく天皇の時代は、列島が劉氏の漢に支配されていた時代の天皇
311年 美川高句麗王が慕容廆に謝罪し和平。
318年 劉総没。劉曜即位し趙を建てる。慕容廆に高句麗が敗れる。崇神没[古事記]。
以上について、正しいとか、間違っているとかよりも、崇神が諸説あってわかり難いので
人間の脳みその内部には、血や神経リンパ官みたいなのから援護されて1秒間に地球を
735回転するぐらいの速さで、素粒子みたいなのが飛び回っているらしい。
……でないと、会話なんざは成り立つワケがない。
思考をやめているときでも深層心理みたいなナニモノかがうごいていて、全体の調節を
してる。このへんでゴロ合わせするので“ことだま”が出てきます。
ことばだけではありません。毎日碁を打つよりも、三日間ばかりマを入れて休みながら
続けたほうが上達が速いという現象が、それを証拠だてています。
だから「三十六計“離”」が効くのだと思います。
でも、他との関連づけ(思考)に難儀したら、その周辺にころがっている関連物らしい
ものをふところに入れて離れるのがいいでしょう。躓いてもタダじゃ起き上がらない……
です。
>・・其国東有大穴名隧穴、十月國中大會迎隧神還於國東上祭之・・
東方に大穴があって隧神がいてこれを10月に迎えて祭る??
これって大穴持神と神在月となんか関係あるのかしらん??
とりあえず放ってあります(^^;
★ おれ、こんなの全く知らんカットいてん。たいした資料です。
* これ、毎朝太陽を大空に弾きあげる扶桑と無関係ではないでしょう。
桑……kimb 。柱の原形 *thVmb 。朝鮮の kim(金) さん。
アナトリア./.ラテン語 ANUS(穴)。太宰府榎寺の通る古賀、東通村(下北)
パーリ語 a-namuti(解脱できない……悪魔)。 A=大
望月。さいきん、身延町でいちばん多い姓は望月さんだと知りました。電話して
役場のひとから教えてもらったんです。
洞とホラ(聖なる虚空)と隨。隨は新しい音みたいだが……。
トンネルとドンネル(雷)とは関係ないか……。
あと5〜6項目を周辺から拾ったあと、三十六計“離”といきたい紋です。
恵比寿屋さん、こんにちは。
猿田彦に高句麗史に神武に崇神に五胡十六国に神功に・・これだけ一度に手を広げたらだれでもお手上げでしょう(^^;
少しずつ的をしぼって論拠を調べて自分なりのユニットを作る。一段落したら別のユニットへ。
自分なりのユニットが集まれば、ひとりでにそのユニットをジョイントさせて次の空想もできると思います。
ギブアンドテイクといっても、だれでも最初はもらうだけです。
でも、自分の空想ができるようになればひとりでにギブになってゆきます。
≫天狗は猿田彦とされ、牛、猿は楚の要素」で、牛若丸も弁慶と同じ呉+楚の要素に包まれるらしいです
≫夢の中に現れた神人とは、大物主大神ですが五十跡手のボスの劉曜のことだと言う説
≫父 瑠璃王(2代目句麗王) 母 犬戎(北狄(テキ)の下女。瓠公の一族。葛城氏。)。
これらはどなたかの推論の引用だろうと思いますが、すべてが論拠の書かれていない文なので、どうしてそうなるの?、としかいいようがありません。
(天狗は猿田彦か、程度なら持論はありますけど)
いくつかの根拠から枝葉を広げて空想をめぐらしているのが推論。
その根拠の確度、他の情報との関連性(整合性)、そこからいかなる着想を引き出しているか、著名な学者といえど違いはその大小程度(^^;
まずはそれらの論拠を調べる必要があります。
(論拠といっても1+1=2といったことはまずない、可能性の大小をどう判断しているか、になります)
それだけで、なぜ?を感じる場合もあるはずです。
論拠がみえないなら、そういう推論はとりあえず放っておけばいいんです(^^;
それをくりかえすうちにご自分の推論がひとりでに生まれてくると思います。
余談
論拠を知るには原文を当たることが必要になることもありますが・・
最初からやらなくてもよろしいのでは。
私の漢文は高校の漢文落第程度です(^^;
まして中国の古文となったら固有名詞を識別するだけでもその歴史事実を知らないとできない。
後漢書の東夷伝高句麗条に
・・名曰東盟其國東有大穴號隧神、亦以十月迎而祭之・・
三国志の東夷伝高句麗条に
・・其国東有大穴名隧穴、十月國中大會迎隧神還於國東上祭之・・
東方に大穴があって隧神がいてこれを10月に迎えて祭る??
これって大穴持神と神在月となんか関係あるのかしらん??
とりあえず放ってあります(^^;
『青春の門(現地発音はシェイシュンのモン)』では、主人公はオジさんが運転する
オートバイの尻にのって田川郡から飯塚市へカラスオ峠を越えます。
筑豊……といいますが、遠賀川は北から南に入り、高倉健の育った直方で二叉に分か
れて東の田川郡と西の嘉穂郡を流れます。西は筑のくに、東は豊のくに属しますので
“筑豊”なんです。
おれが生まれ育った稲築町は筑のほうです。
稲築町から東の方をみると、なだらかなカルスト台地の関(現地発音はシェキ)の山
が美しい肩の稜線を見せてくれていました。その関の山の北鞍部がカラスオ峠です。
カワラなどを分析するときは、おらは次ぎのような手法を執ってきました。
香春岳……などの語形をみると、まず、カワラの末尾に A がありますので、いちおう
これをチョン切って考えます。 wara も wala も同価です。次に W は P , B にまた
がった音転をしますので、ここに気をつけながら……周辺言語をあさります。
与えられた文字に忠誠を誓って……、香をカなどというのは日本だけですので、これ
ぜんたい……すなわち「香春」は原音カワラが先にあって、これに宛てた当て字だとい
うことが判ります。WAR には芽吹くと言う意味がありますので、おへまの隙(ス)かっ
しっぺみたいにいい臭いの源を謂うのかもしれませんが、香春岳も石灰岩の山ですの
で、そんな匂いには関係なさそうです。
田川市は、遅れてできた市街です。その田川市からみると、ピョコタンと突出した急
峻な独峰が √♪ ひと山 ふた山 三山こえ ヨイヨイ(炭坑ぶし) と、小倉方面へ
三つ並んでいるのです。
いちばん南の峰は平野からそのままそそり立っていますので、巨大に見えます。
(中略) 香春岳の語源はネパール語 KAPAL(額)意外にはありえない‥‥が、まっ
先にきます。なにしろニョキッと平地から顔をのぞけてるんです。
源平合戦で負けた平家の女官が嬰児の安徳天皇を抱いて絶壁から飛び下りたなどとい
う伝説は「 KA(神?)BALA(こども)」という分析が、そのころまだ可能だったから
でしょう。
でも、香春岳近くには採銅所があり、 ara(燃やす、焼く・粒 < 粗鉱 < あらがね)
もふくまれていますので、KAPAL で決定というわけには参りません。
swar(諏訪)を含んでいる ネパール語 PARMESWAR(神)もイマイチ分析を深めた
いところです。WAR だけでも神がいえるのかもしれません。
カワル岳とも聞いたような気もします。おれ、飛び込みセールスで修行したのは田川
郡なんです。
いま、稲築町から関の山をみると、南稜線がガッポリと削り落とされ、凹んだマドか
ら、これも額どころか肩まで削りとられた香春岳の無惨な姿が見えます。
削り取ったのはくちを歪めてしかモノ言えない麻生太郎の麻生セメントkkです。
もう、あげなんふるさとにダレが帰るか!
tanさん、広く、深いご投稿に感謝します。私は、最初、「大武神お聞きしたいこと一覧表」をつくりました。それを「ほんの少しでも是非お語り下さい。」に変更しました。としたのは、初対面で厚かまし過ぎると思い、また、「やはりnetはギブ&テイクが基本でしょう」の「ギブ」の持ち合わせがなかったからです。いろいろ教えてもらいたいことがありますが「ギブ」がないとダメなのでしょうか?「ギブ」は無期限、無利息で御待ちください。
完成されたあなたの「テイク」したいものが解らないのに、「ギブ」できるなど不可能であり、又私にとっては「夢の夢」です。「おもしろい話を持って行きたい」とはおもいますが。
恵比須屋さん
>語り尽せないほどでしょうか」とおっしゃいました。まってました!
#^^。これは殆ど恵比須屋さんへの問いかけなんです^^。
呉・楚、半島からの流れを重点に追われておられる様ですが、関連して気にしているのは。
1・前方後円墳の特に初期は短期間でほぼ全国で作られ大きさの等級に規律がある。
2・漢字、漢の字の訓みは、ほとんど呉音。
3・呉鏡の出土が殆ど無い。大陸ではメジャーで一流品の評価にもかかわらず。
4・列島へ一度に大量の客は、可能性がゼロでないとすると、徐福と呉水軍。
このあたりを、気が向いたらの程度で調べています。
大武神などの関連は、三国史記、遺事に頼ることになりますが、雨・霧・鳥・風など讖緯によるだろう比喩が殆どで、当時の情勢を把握しないと(したとしても)何を言いたいのか断定できません。中国の史書も網羅し対比しないといけません、これは時間的制限も含め素人には無理です。アジアの史書の対比資料として小林惠子氏の著作はほぼ読んでいます。
惠子氏のそれに限らず熟読もせず否定する輩がいますが、歴史に限らず否定する=無い事の証明、は世の中総ての資料を検証後はじめて可能ですから、これは学者でも不可能です。少なくとも高見からの論(物言い)は避けたいものです。
int-netが普及し最近「聞くだけ」の人が増えてますが、この掲示版にもちらほら。かたばみさんが真摯に返事をして全く音沙汰なしとか、残念な事です。やはりnetはギブ&テイクが基本でしょう。仕事ではないですから時間の遅れなど別にして、
おっと、ずれがながくなりました。^^。
恵比須屋さんのお話は、異質のモノが集り互いに補完するといった「こらぼれ」に歓迎!。 ですがご質問に答えられるかどうかです^^;ご存知のことと思いますが、
崇神の夢ですが、劉曜の記事(318)と干支が一致するなどが発端でしょうか。
五十迹手が穴門で迎えた船上の飾りは瑠璃には近いイメージを感じます、金属に対する玉です。瑠璃王は琉璃とも書かれますが、「ルリ」には「福徳をうけ安穏に暮す」状態を表す意味があるそうです。瑠璃への列島でのイメージは後世の浄瑠璃へのそれに繋がるのかも知れません、金属に対する「玉」といった。
高句麗本紀、第一、始祖東明聖王、琉璃王、では
扶餘王が世継を願い祈りの帰路、石の下に金色で蛙の様な形の子がいた=金蛙。金蛙が大白山の麓で河神の娘柳花と遊び、できたのが朱蒙。
瑠璃王14年、王母の柳花が東扶餘で薨去、金蛙は神廟を立てる
同 19年、4月王子の類利が母と共に扶餘から逃げてきた、9月王薨去享年40才
>初、朱蒙在夫餘時、妻懷孕、朱蒙逃後生一子、
#これは『魏書』あたりでしょうか。朱蒙がまだ夫餘に居た時、妻が孕み、朱蒙が逃げた後に子供が生れた、朱蒙は我子と確認し太子にたてた・・
(朱蒙が柳花に隠した折れた短剣を見つけることができれば我子だと言残し扶餘を出た。類利と朱蒙の持つ短剣が1つに合った。)
如栗:無恤、これは古音で同じで「武」を意味する、魏は音で諡大武神を知っていたという事になりますね。
高句麗本紀では、瑠璃王の第3子、長子は早く死に、2子は瑠璃王28年自殺。瑠璃王29年黒蛙・赤蛙の逸話。無恤33年太子になる。この前に遼西郡をめぐる王莽と{馬芻}すう)の話があり魏書ではスウが本紀では延丕が殺されたとする。
母は朱蒙が建国直前に加わった多勿国王(もと沸流国)松譲(しょうじょう)の娘。
・大武神3年に、東明王廟を建て、神馬を手に入れ、扶餘とのからみで普通の烏(黒)と赤烏の逸話。
・大武神4年12月、進軍、途中で鼎、金印・兵器、長矛を手に入れ
・ 〃 5年2月、扶餘の南の湿地で扶餘王帯素の頭を斬るが囲まれ霧にまぎれ脱出、この時、神馬と鼎を失う。(のち神馬は扶餘の馬百匹を連れ高句麗に戻る)
・ 〃 15年、南部の使者、鄒勃素を沸流部長にし新たに大きな官舎を建てる、勃素、大室(だいしつ)氏賜る
・ 〃 20年、楽浪を攻撃、滅ぼす
・ 〃 27年、9月後漢光武帝、楽浪討伐、郡県とす、10月大武神薨去、大獣村原に葬る
高句麗、始めの3代は、いずれも初期に3人の臣を召抱え、7稜などの逸話有すべて奇数で、皆に馬、弓がついて回るのが当然ですが面白いところです。
「句麗」をお使いですが、これは高氏以前はー、というお考えからですか。
葛城氏といえば、諸葛孔明、は諸から来た葛氏で本姓葛、というのもあります。
紋次郎さん
ローマ字は読めますが漢字は難しいですね、北九州の香春岳、これは「かわら」らしいです、知らないと読めない^^; 個人名でも中国史書と朝鮮史書、碑文では漢字が違う、『三国史記』の中でもタイトルと本文の使う漢字が違ったり、発音が違ったり(別名は別として)、漢字などは細部の差を云云よりもイメージを(どんなイメージで使用したか)掴む方が実体に近づけるのかも知れません。
恵比須屋さん、おれ、初めて大武神、劉曜、慕容氏、東川王などの漢字を目にしました。
でも、少し下のほう(どこだったか?)を見ていただければ、ニニギは出しています。
NI(土地)NIG-I(安寧化する・人)と、ソート−な自信があります。
サカノウエノタムラマロの説明は舌足らずがあったみたい。
1 国軍・総帥・男・男‥‥‥sak(ケンカ→軍) -a はただの開音(母音づけ)化。
nouc は国。nouc が noux となって e(貴人・強調)が添えられた語形が noue。
2 sak(軍)・ u(優)e(貴人)
以上二種類の解釈がでます。
ta(人)mul(水源・長)‥‥tamula は総帥となります。形容詞後置形にご注意下さい。
> 何かご協力できないかなと思っています。
★ ひとが書いたものよりも、ズラリ並んでいる漢字の群れ(辞書)が直接的に“真相”を
教えてくれるはずなんですがねぇ〜。
固有名詞には必ず主張や願いが込められていると思います。それらが、今回紹介した下
の手段で、科学的に出てきます。小生がからだがイケないため、できない領域でもあり
ます。ウハウハ超おもしろいことウケアイです。
ゆめ疑うことなかれ主義。
tanさん、こんにちわ。あなたが「この掲示板で大武神の語が出たのは始めてかもしれません。語り尽せないほどでしょうか」とおっしゃいました。まってました!ほんの少しでも是非お語り下さい。
夢の中に現れた神人とは、大物主大神ですが五十跡手のボスの劉曜のことだと言う説を私は少し追いかけてみます。
大武神は、趙襄子を自認し、劉曜は、趙襄子の子孫を自認しています。
私は漢字が読めません。史料を提示します。
初、朱蒙在夫餘時、妻懷孕、朱蒙逃後生一子、字始閭諧。及長、知朱蒙爲國主、即與母亡
而歸之。名之曰閭達、委之國事。朱蒙死、閭達代立(閭達・朱蒙の子は『碑文』では「孺留」、『三國史記』では「瑠璃、類利、孺留」と表現される)。
閭達死、子如栗代立(2代目瑠璃王の子は大武神王で大解朱留王〔『碑文』では大朱留王〕ともいい、諱は無恤(趙襄子と同名)。)。如栗死、子莫來代立。
乃征夫餘、夫餘大敗(夫餘攻撃の記録は、『三國史記』の大武神王五年〔西暦二二年〕条に「二月、王進軍於扶餘國南。〔略〕直進執扶餘王斬頭」とあり、扶餘に大打撃を与えたことが記されている)、遂統屬焉。莫來子孫相伝傳、至裔孫宮、生而開目能視、國人惡之。及長凶虐、國以殘破。宮曾孫位宮亦生而視。人以其似曾祖宮、故名爲位宮。高句麗呼相似爲位。位宮亦有勇力、便弓馬。魏正始中、入寇遼西安平、爲幽州刺史毋丘儉所破。
大武神 諱は無恤(趙襄子と同名)。父 瑠璃王(2代目句麗王) 母 犬戎(北狄(テキ)の下女。瓠公の一族。葛城氏。)。
何か、大武神に付け加えていただけませんか?
焼尻さん、こんばんわ。私は、塚田敬章さんの勉強中です。貴方の「オッチャンはサイサイ、酒屋さんに 酒買いに行ってきます。」のカキコの「サイサイ」から「ひーよー、あー、さいさい」をお尋ねしました。
この笹ばやしには天狗が登場します。「牛若丸は鞍馬山の天狗に鍛えられ、鞍馬の由岐神社は紫野今宮韓神、五条天神等同体とされて呉と結び付いてるそうです。名前は牛若で、天狗は猿田彦とされ、牛、猿は楚の要素」で、牛若丸も弁慶と同じ呉+楚の要素に包まれるらしいです。貴方ならご存知ではと思って投稿しました。ルリビタキから瑠璃に飛び火して、tanさんに瑠璃王に共通する大武神と劉曜をお尋ねしました。「大武神」は誰にでも尋ねれるテーマでないと思っています。私にとってめったにないチャンスなのです。大武神、劉曜、慕容氏、東川王、ニニギについて特に勉強したいと思っています。また、「田村ユーレイ」も貴方がどれほど解明して下さるか楽しみです。何かご協力できないかなと思っています。私は貴方のような羨ましい才能はないです。ぼちぼちと教えてください。
恵比須屋さん、tan さんの話、横で聴いていても、おら漢字シランのでさっぱりチン
プンカンプンばい。そういえば、かたばみさんも漢字にはお強い。
おらが掴んだ方法を具体的に申し叙べますので、みんなで東洋の古代をことば手段で
掘り出してクダシャイ。
これはシロートでもカンタンにやれます。いや、シロートでしかやれないと言っても
過言ではありません。
※ まず、辞書ですが、ぶ厚い辞書は変化態や派生語が多いだけです。5千〜8千語ぐ
らいを掲出した辞書が、どんな場合でも最も扱い易いです。研究が煮詰まってきた
ときにぶ厚いものが必要となることもありますが、そんなときには著者に手紙を出
すのがいいです。
※ 朝鮮語辞書は大学書林刊;『朝鮮語小辞典』宋枝学著でいいでしょう。
これから、ニ漢字語(二つの漢字でできた語彙)を735ばかり抜き取ります。
小生なら表紙に用いるイタメ紙に小さな字で手書きにして一覧表にします。あとで
捜すときには超べんりです。
抜き取る語彙は「これなら歴史や地名、神名などに関係があるなぁ」と、感じたも
のです。発音を記入しておくほうが便利ですが、どのページかは絶対に書き落とし
てはいけません。
たとえばsodzu(焼酎)などは役にたちそうもありませんが、sodok(消毒)だっ
たら、あとで役にたつかもしれません。
書き出すかどうかの判断基準あくまでも個人のカンでいいですので、それらをペー
ジをいれながら羅列するのです。
※ 次に大学書林刊;『ベトナム語常用6000語』竹内与之助著 \3000 からニ漢字
語を拾います。
さきに朝鮮語で拾ったニ漢字で、見覚えのあるのがきっと出ています。
それが出たら、ベトナム語と朝鮮語の二つの発音を紙に書いて辿ってみます。
音が似ていたら、われわれの先祖も「どこか江南のあのへんで、同じような発音で
会話していたんだなぁ」という想像に、自信が出てくることでしょう。
※ そこでこんどは学習研究社刊;藤堂明保著『漢和大字典』で呉音とシナ音を拾いま
す。このとき、呉音がダントツに日本語に似ていることにビックリするはずです。
ここで似たりよったりの発音と内意が拾えたら、いつの頃かは別にしても、東洋を
MO(広域の交易通婚圏)にした古代語が科学の名において確定したのです。
※ さらにそれが日本古代語とのあいだで類似が言えるとき、日本古代語が確定するの
です。
* 朝鮮語からどれくらい拾い出すかの数字はいいかげんで結構ですが、多いほうがい
い……あたりまえです。
* 藤堂明保著『漢和大字典』は分厚い割には安価(6000 円?)で、ほかにもいろ
いろと活用できて、なかなか充実した本です。
* こまことば(漢字が添えられてない語彙)は、先人がテテテキに対比していますの
で妙味は薄いはずです。でも、この作業で新しい視野を提供するようになるかもし
れませんね。
* こうして出てきた広域東洋語彙を、言語系統樹などは無視して、中央アジア語や
ペルシャ語、アラビア語などと対比してみる………と?
ユーラシア大陸規模での同根語(エデン語)が浮上するはずです。
たとえば、上に掲げた sodok の毒は印欧語といわれたネパール語では BIK です。
ウウウゥ‥‥こりゃちょと、ムリかな?
《 堺 》
これは “フィリピン語”に sakay がありますので、恐らくそれだろうと……。
意味は v; to ride 。 n; passennger , cargo です。
(船に)乗る、旅客・船客、船荷。
別語に sasakyan dagad (船)があります。dagad は海です。
“フィリピン語”としたのは、小生が持っている辞書のせいで、これには編纂の
主旨とか解説がなく、ただ PILIPINO-ENGLISH とあるだけです。
ここから引いた語彙について、ルソン島出身のひとが「そんなのタガログ語には
ない」と言ったことがありますので、タガログ語以外の○○語みたいです。
舟で来る場合、種子島から堺までの所要時間は1日半だった……デシタカ。軽視で
きない語彙だと思います。
大阪、出雲の境港も臭くなりました。
森浩一さんは30年もまえから、「カタは港だ」と看破しておられます。
新潟はそうでしょうが「酒田」になるとややこしいですね。「SA = 小さい」は
ネパール語にもあります。
恵比須屋さん、こちらこそ宜しくお願いします。
この掲示板で大武神の語が出たのは始めてかもしれません。語り尽せないほどでしょうか。^^。
大武神・慕蓉カイと瑠璃を結ぶものは、恐らく恵比須屋さんもご存知と思いますが。
大武神の父は句麗2代目瑠璃王。瑠璃の文字からの連想では時代は違いますが親しい慕蓉カイあたりと繋がるかも知れない、燕の墓制が見られる瑠璃河になるでしょうか。まあどちらも嫡子では無い、国号を新たに興した、等が共通でしょうか。
「・・又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛。又於大坂神、祭黒色楯矛・・」この部分の前後をみると結構唐突に赤と黒の色がでますね、
劉曜と色の関連は、墓と赤は普遍的でもありますが赤は劉氏の墓制に強く関りがあったらしいです。伝説では管岑山に隠れている時、二人の童子が赤玉の鞘の神剣を置いて去ったという。
黒は、曜は黒を尊び軍旗も黒にしたと云うことですが、「襄公墨衰{糸至}す」とこの辺りの故事からの黒というのが強いのかも知れません。
「坂」というのが暗号というのは、今だ考え及ばずです。今の所、関所的な境と思っています。
崇神夢に劉曜、四道将軍に劉氏系、、というのは未だ考え及ばず、といった状況です。
「鯰」との関連は未知の部分です、よろしく、ご教授ください。
焼尻さん、こんにちは。笹ばやしの全文を探してきます。暫く御待ちください。
tanさん、初めまして。貴方に慣れ慣れしくもの言える身分ではないですが宜しくお願いします。
大武神は、趙襄子を自認しています。劉曜は、趙襄子の子孫を自認しています。
劉曜とは、「劉聡没後の抗争を制し、長安に遷都。国号を漢から『趙』(前趙)に改める。石勒、襄国を都とし『後趙』を建国。慕容慕容[广鬼]、宇文氏を破り遼東を取る。」
二人はルリビタキの瑠璃王に関係するのでしょうか?「鯰」も関係しますか?劉曜は「赤」、「黒」、「狢」でしょうか?
治世9年春3月15日、崇神天皇の夢の中に神人が現れて言った。
[神人]
「赤の盾を8枚、赤の矛を8本で墨坂の神を祀りなさい。また黒の盾を8枚、黒の矛を8本で大坂の神を祀りなさい。」
4月16日、夢の教えのままに墨坂神、大坂神を祀った。
治世10年秋7月24日、多くの卿に詔して言った。
[天皇] 「民を導く根本は神の教えにある。今、神々をお祀りして災害は収まった。けれども遠国の人々は、まだ神々の御恩恵にあずかっていない。そこで卿等を四方に遣わして、我が神々の御恩恵をひろめたい。」http://info.loops.jp/~asukaclub/syoki.html
崇神天皇の夢の中に現れた神人とは劉曜だという説があるそうですが四道将軍に夫々の地で劉氏系の国造を命じたのでしょうか?
墨坂神、大坂神の「坂」は何かの暗号でしょうか?
今後ともご厚情の程、宜しくお願いします。
なぜヒタキの原音が hir tak-i かを分析します。
こんなにも方言がパソコンで得られるとは!! 夢にも思っていませんでした。
いまに全てが判ってしまい、夢をなくした青年の自殺者が続出するかもナァ〜。
まず、岡山方言のひんこつに注意します。kot は言葉でしょう。kot に bha(ネパール語;こ
とば)がついたのが日本語の「ことば」でした。「ヒトコトヌシ」などは「一言主」ではなく
hir kot nu(する)si(人)と解釈するが正しい。hin は hir が撥音になった現象として受容で
きます。
静岡の「ひったか」は hir が促音を起こした現象でしょう。「たか」となったのは tak が開
音(母音づけ)化された現象です。
埼玉の「ひっかち」の「かち」も、語るの kat がナマに露出していて、これは「語り」とな
る以前の造語法で、語幹へ“i(者)”をつけた語形です。
群馬の「ばかつかし」の「つく」も「ウソをつく」などの「つく」でやっぱり、なにかを喋っ
てるんです。
「くらたたき」の別称もありましたが、この kura も神楽と同じの「語る」でネパール語で
す。
この tak(*喋る)は、アイヌ語の ITAK(語る、ことば)と関係あることでしょう。
整理の上でじゃまになりますので、一覧の上からは消しましたが、「ばか tak-i」とか「くそ
tak-i」みたいなのが多く出ていますが、これは「ひるこ(奇形児)」という呼び名が一般的で
はなくなったときに言い換えたのでないでしょうか。だから、ここにも hir なんです。
紀記は奇形児の神さまが生まれたなどとアチャラカな記述をしていますが、記述するだけの資
質がない編集者が、国の大事にアテズッポウなことを(くち) tak tak したんです。
紀記なんざの「物語り部分」はゼッタイに信用しちゃオエンぞな。
恵比須屋さん、年末ご多忙のみぎり、お忙しいだろうと気ぃまわして、舌足らず。
「ひーよー」の「ひ」とはなんじゃいな、の連続です。そのひとつに「ひたき」のヒ
が噛んでいるのではないか……で、ヒタキを追いかけたんでした。
単節音の「ト」では、もう処理できないぐらいの、多くの古代語の意味を掴んでいま
す。いまのとこと、ほかとの関連がないと「ト」だけでは投げ出しです。
ところが、直感ですが「ヒ」にはそんなには多くの異なった意味はないような気がし
ています。
いま、ニギハヤヒなどは(現在は意味は解りません)「ヒ」がイマイチ割れると解釈
が大きく前進します。ニギとは安寧の寧であることが判ったからです。
とはいえ、“ヒ”はミョウな問題を提起しています。氷川神社の「氷」とか、出雲の
簸川、斐川は「『火・日』は決して使用しないぞ」と宣言しているみたいです。
ヒルメムチの「ヒ」もあります。
そんなモンダイ意識を持っていたところへ「ひーよー」でお声がかりに及んだってぇ
次第でした。
改めて、ジョウビタキ、ルリビタキの写真をパソコンで(!!)みました。
そうしたら、先ず、ヒタキができて、そのほかにもヒタキに似ているが全体の色がル
リ色の小鳥もいる。だからこれが「ルリ・ヒタキ」、そしてまだほかにも桃色じみた色
のヒタキみたいな格好のヤツがいた。それでそいつの名前は浄瑠璃にちなんで「ジョ
−・ビタキ」‥‥にした。これでいいでしょ?
ヒタキの色は hir(濃い黄色)を当て嵌めることができそうです。掲げられているイ
ラストの色では、褐色と云ったほうがいいのですが、古代人の色感覚はそんなには厳密
ではありません。また、小生が見ているのは辞典ではなく『ベトナム語々彙集』ですの
で、訳しかたのモンダイもありましょう。
恵比須屋さん、おれ最近面白い方法論をみつけたんですヨ。
安寧は朝鮮語でアンニョン、ベトナム(南越)語では an ninh 。そして日本語にはニ
ギがある。これに呉音と平原(伝統あるシナ)音を添えて解釈すると、ズラズラズラり
〜〜ッと日本の古代語がイモヅル式に掘りだせるのです。しかも万民がなっとくです。
ところがおれ、漢字オンチときている。できたのはアンニョンだけなんです。
前人未踏、恵比須屋さんのために用意したような紋ですけど‥‥。
焼尻さん、こんばんわ。間抜けな調査で御免なさい。うっかりしていましたが瑠璃鶲の瑠璃に的があったのでしょうか?大武神の父である瑠璃王に絡んでルリビタキの色と声をお調べなのでしょうか?
ヒッヒッ、カッカッ、ゲゲッ、ギュッギュッ、キョロキョリキョロリと喋るようなさえずりらしいです。色は赤、金色もあるそうです。
恵比須屋さん、わざわざのお調べ有り難うございます。
じつを云うと、あんまし満足できなかったので「ひたき」で GOOGLE かけてみたんで
すよ。
イヤァ〜〜、現代のH.Pはドエラく進んでるんですね。
http://www.kt.rim.or.jp/~hira/birding/index.html をみたのですがビックリし
ました。オレ、キカイ・オンチなんですけど、4年前とはまったく赴きを異にしてます。
今でもなんとかすればヒタキの鳴き声はパソコンで聴けるのでしょうか?
下記のようにヒタキの発音上の変化態を得ることができました。
そうすると、ヒタキの原音はやっぱ HIR-TAK-I です。原意は「HIR 喋るもの」。
「HIR とは鳴き声ではなかったか」との決めつけたい気持は、どこまでも続くことで
しょうが、ベトナム語 hien(濃い黄色) と hir(美称+α) が、やっぱ当分間のオネラ
になりそうです。
おれ、「日本超古代語は神名にこそある」という問題意識に凝り固まりすぎたようで
す。このぶんでいくと、鳥の名前からでも、魚の名前からでも原始語が掴めそうです。
恵比須屋さんは漢文にお強いですね。やっぱシナ語は宝の山です。仲良くしましょう。
おれ、漢字オンチなんです。あ、それから数字オンチなんですけど‥‥。
よその言葉を最低四つか五つは知っておかないと、おっしゃる通り「なんとでも言える
領域」ばかりになります。これまでの学者が総員そうだったんです。
超古代語解釈には冒すべからざる鉄則もあります……いや“だらけ”です。
だから、ホンモノにめぐり遭うこともできます。
…………………… ……………………
ひつたか、、ばかづくし、(栃木)、
くそさばき、ひつかたん(愛知) 、
へつたか、ひつたか、なないろびたき、ひんひんかたかた、ひんくたぐつく、(千葉)
ほとけのしたき、ほとけのゆうたき、ほとけの こうたき,、ひんこつ(福岡)
ひんこつ、ひんから、(岡山)
くらたたき、ひつたか、ひつたた(静岡)
ゆきびだぎ(岩手)
ひつたか、もんびたき、ばかつかし(群馬)
ひつかち、ひわかち、だんごしよい(埼玉)
ひたたき(新潟・高知)
ばかびたき、ばかつちよう(山梨)
きじひたき、したたき、ひたたき(大阪)
ひたたき、ひつかけ、ひつかた、ひんかた(奈良)
ひつかた、(愛知)
くわたたき、ひつかた(和歌山)
したき、ほとけのひあかし、(鳥取)
おおんじょう、ほとけのひたき、もめんひきどり(島根)
かたつき、(兵庫)
ひたきどり、ひつたか、ひんかち、(広島)
ひいくわち、 ひいたき(香川)
ひいかち、ひいこち、 ひいこつ(徳島)
ひかち、ひんかち、ひんこつ、もんかち、もんかちけんもん(愛媛)
ひんかち、ひんかちこう、ひんかつか、ひんこつ(熊本)
ひんかち、ひんかつ(鹿児島)
ひたき(北 海道、青森、山形、岩手、福島、新潟、山梨、富山、石川、大阪、岐阜、
鳥取、愛媛、 福岡、熊本、宮崎、鹿児島)
焼尻さん、大変参考になりました。有難う御座いました。
ご質問の
「ルリビタキの色はルリ色に決まっていましょうが、普通の鳥のヒタキはどんな色だか御存知ではないでしょうか。鳴き声の「ピー」が「ヒ−」と音転・意識された「ヒ」なんでしょうか?」については、私には解りません。
俄か調べですが「ルリビタキ」=「瑠璃鶲(翁+鳥)」ですね?
ものは、云いよう、考えようで、なんとでも解釈できます。
「而、引上時、自其矛末垂落之鹽之累積、成嶋。是淤能碁呂嶋」の「成嶋」を縄文人と弥生人の戦争が膠着状態になり境界が出来たことを指すと説く人がいます。「シマというのは、現在では単独で海に浮かぶ島のことですが、古代では嶋(シマ:テリトリー、なわばり)のことです。嶋という漢字は、山の鳥が、この山はおらっちのテリトリーだと鳴いている。“シマと成る”というのは、両派の勢力範囲の境界線が確定したということです。」と。
御伽噺の研究家は、「大足とカラはどちらも呉に関係する。足柄山の金太郎で、地名はまさにそれに対応しています。持っているマサカリも呉に結び付いていました。体は赤く塗られますが、それも呉の要素と判明しています。相撲を好むのもこの一族の要素に加えることができます。金太郎は成長すると坂田金時と名を変えました。サカ、キン、トキも呉系楚(秦系)の要素で、大坂は狗奴国の臣、河内彦の土地でした。八坂も須佐之男につながる呉系楚の地名です。佐賀県も、元の肥(火)前国で、楚とつながっていて、ここには淀姫という鯰を使いとする神が存在します。」と。
瑠璃色が何を表すのか?只、「ルリビタキ」はヒダキ科で火焚きとなり同類に腹が赤色のものがいるらしいです。
瑠璃火焚とはなにを表すのでしょうか?
恵比須屋さん、はじめまして。ご指名光栄です。
旅籠ですが、恵比須屋さんにはあちこちでお世話になりました。
でも、ケッケムクリ(豊後方言;いっしょけんめい)考えましたが、ワカリません。
ここは小生のえた印象だけをお伝えするよかテだありません。決まったわけではあり
ませんので……。
※ 中央の「あー」は、「ああ、こりゃこりゃ」のア−でしょう。
※ 「さいさい」は笹ばやしの「笹」と同根でしょうから、ネパール語 SAIT(吉兆)
蒙古語 SAI(良い)から、この日本列島で発達した「めでたい」という意味のササ
だと思います。
このササはネパール語 SASAK が支配者という意味ですので、中央やお偉いさまを
ヨイショした意味合いが濃厚だったのではないでしょうか。
吉兆という概念は、くに境に置くサイの神となって根づよく残っているかと……。
※ 「ひーよー」は小生のほうが教えてもらいたいぐらいです。
「よー」には、もちろん一つには呼び掛けの意味がありましょう。
でも、日本語・アイヌ語となっている「iyo.、iya(弥)……いやが上に」の視点は
外せないと思います。「よー」にはこの二つが懸け言葉されていましょう。
この「よー」はネパール語に見られる -llo(前に出した体言の傾向が強い)と不可
分ですので、ここに「よー」が「前にある“ひー”が古代語であること」を道案内
役として引っ張りだしてきます。
では「ひー」とはどういう内意を持っている古代語か……となるとワカリマセン。
ここからが iyo iyo の“印象”だけです。
* 多くの神名についている「ヒメ」の“ヒ”とはこれだと思います。
* ネパール語 hir- には男女を褒めていう接頭辞があります。小生は沢内村の昼
間岳とはこれにちがいないと断をくだしました。hir の“r”は落ち易い。
* さいきん、黄色(菊)をシンボルとした国造りがシナ極東全域に亘って展開さ
れていた事実を掴んだばかりです。
金属精錬士は国境をこえて、同じ語彙をあちこちにバラ撒くのですが、そこで
……、ベトナム(南越)語に hien(濃い黄色)があるのです。
ところで恵比須屋さん、ルリビタキの色はルリ色に決まっていましょうが、普通の鳥
のヒタキはどんな色だか御存知ではないでしょうか。鳴き声の「ピー」が「ヒ−」と音
転・意識された「ヒ」なんでしょうか?
勝手ながらお邪魔します。
焼尻さんにお伺いします。「ひーよー、あー、さいさい」と歌う「笹ばやし」を聞いたことがあるのですが、どういう意味か解れば教えてください。
Merry Xmas ・・などのタイトルでのイタズラメールが出回ってます。
時期ですので、お気をつけて
穂高見命(ホダカミ)と「ホホデミ」‥‥違うぞなもし。
諏訪、穂高(=安曇)、阿智の三族が、タケミナカタに
従って、科野(シナノ)に地に来た。との説有ります。
神奈備神名帳、信濃の国、阿智神社の由来
http://www.kamnavi.net/en/sinano.htm
謡曲に √♪ 田村麿のユーレイかたちは消え‥‥ てぇのがありました。
十余日、ぼくのこころを悩ませた「サカノウエノタムラマロ」は、いちおうクリ
アーです。やっぱ、三十六計“離”が利いたんだろうと思っています。
きのふ『野史呼び名辞典』が着荷しました。
開けるなり目にとびこんで来たのが、盗賊隠語の「ざか(強盗)」でした。
すぐにネパール語 *DAK を想いだし、意転があったか或いは未知の「dak =喧
嘩」が江南あたりに伏在してるのではないか……と、考えました。
*DAK の内意は押す、ぶつかる、侵入・攻撃です。
「サカイ(境)」とは“喧嘩の場”から派生した語彙ではなかったでしょうか?
「シマ荒し」といいますが、もともと SIMANA は境界線であって面積や“領域”
の概念ではありません。SIMANA の NA はすべてについて名詞化する性質のものと
して受容できます。
日本語イサカイ、アイヌ語 SAKAYO(喧嘩)は,*SAK(喧嘩)を抽出させます。
アイヌ語の SAKKAI は砂溜まりです。喧嘩の場とも考えられます。
SAK が SAKA となるのはパーリ語的開音(母音づけ)です。
SAK は SAK でもいろいろあったわけです。
あとは「ノウエ」のノウに何が認められるか……です。
NOUC(くに・水)の概念はそのままにして「ノウ」と音が変わったのか、或いは
NOUC 末尾の“C”が Xみたいに発音されだして、これに強調末尾辞の E が添えら
れたのが「ノウエ」かもしれません。
ところで“能舞い”をなんで“ノウ”というのでしょう? 国の神事かな?
√♪ コォ〜〜レ 坂の上の田村まろ〜〜ォ
※ 新嘗祭のニイナメも割れたばかりです。けふ、まぐれで「ベトナム語と日本語・アイヌ語」
のリンク張りに成功しました。文字が乱れていますが、世界ハツの筈です。
※ 「田村麿のユーレイ」はインチキでした。ホントーは『ツネマサ』。
> 北アルプスの穂高の地名は穂高見命にあるのかもしれません。
★ クーガーキングさんお捜しの「ホホデミ(のみこと)」‥‥ここにお隠れでいらっしゃった。
いろんな言語を当たってゆくと「こんな語形、これしかあるもんか」という領域にでくわします。
ホホデミの BEMI は 古代国際標準語 DEB(神)でしかありえません。
今のいままで、「ホホ」がわからなかったのです。でも、かたばみさんの記述でピ〜〜ンときました。
ドイツ語の「ホッホ(高い)」がわれわれの知ってる一番近い語形です。
いま持っているタジク語語彙集はキリル文字表記ですので、写しにくいのですが、思いきって XOX と
書かせてもらいます。これは山です。
「高い神」か「山の神」かの解釈が残りますが、ホホデミとは、そうしかならない。
だれか反論してくれないかナァ〜〜。
> 両親の一方がAB型だとO型の子はできないんじゃなかったかな。
★ 詳しいことはオラシラン。だから、それ相応にヒネクレたんじゃねーだろーか?
ネパール語 ADHO(めくら) MI(神)と認識すれば、その散在地が海辺であろうと、山のなかで
あろうと、フシギではなくなるのでは?
白馬〜小谷(オダリ)村に通っているのはチクニ街道です。この「チクニ」を解けば、adho が
スンナリと腑に落ちましょう。
あのフォッサマグナのくびれ部にはいつも風が吹き、温泉も出ます。
塩尻まで運んだ塩を焼いた場所は「鹿島と鳥屋(組)町」の邑知地溝帯でしかない……と思いけ
らくも。
ADHO-MI の DHO は,瞳とか、睨み付ける咎めの目であることが、小生の胸のなかで、次第しだいに
固まってきつつあります。
≫おれのオフクロは AB 型でしたので
ん?ん?
両親の一方がAB型だとO型の子はできないんじゃなかったかな。
http://www.swan-bay.ne.jp/~murohosp/wadai/medickkensa.html
浅野さん
≫実感としては、南インドの食の嗜好と日本のそれとは、
≫案外近いものがあるのかも、と感覚的に想っています
嗜好がどういう変化をするのか面白そうですね。
最近は少ないようですが子供の頃にお尻に蒙古斑という青いアザがでる場合があります。
(アボリジニでは子供の頃に金髪の子が少なくない)
子供には昔の祖先の様子を伝えるものが濃く残っているのでしょう。
ある調査によると幼稚園児ではカレーライスが大好きという子は大勢いるのに、中学高校になるとそれが半分くらいに減ってくるのだそうです。
それと逆なのが野菜、幼稚園児はみんなきらいなのに大人になるほど好きになる。
嗜好にも子供の頃には祖先の嗜好が残っている??
伊藤さんこんにちは。
≫安曇郡がなぜ山の中にあるか
あいにく安曇がなぜ山中にあるかを考察した文献を知りません。
以下持論ではありますが・・
弥生初期の九州系の人々が金属資源探査をおこなったことの痕跡だろうと考えています。
伊那市、飯田市あたりでは鬼板という褐鉄鉱がとれます。
褐鉄鉱は水酸化鉄で、例えば水道管の内側にできる赤錆がそれです。
これを鉄資源として探す人々がいた。
目的地は河川流域や湖沼です。水酸化鉄はそういう場所で生成されます。
(なぜ水酸化鉄を探したか、については11月25日投稿のDNAと日本人6に関連)
現在の松本など安曇野一帯は古代には広大な湖だった可能性があるようです。
弥生ではその湖は消えていたとしても、そこに水酸化鉄が生成されていた可能性も高いわけです。
鉄を必要とする人々→九州の先進文化の人々(当初は海人系の人々がメインと推定)。
長距離を移動する手段は船でもあり、海人系の人々がまず各地の金属探査を行ったために、その拠点に安曇の地名が生じた。
私はそう考えています。
なお、太平洋側の海人系も天竜川を遡上して飯田市、伊那市へはいっているかもしれません。
姓氏録では河内安曇連の祖は、綿津見神→穂高見命、としています。
北アルプスの穂高の地名は穂高見命にあるのかもしれません。
海神族の源流は九州にあって、日本海側も太平洋側も源は同じ。
ワタツミ、ホタカミ、アズミ、ミに共通項がみえますが、海神族に共通のなにかを意味する言葉だったのかもしれません。
あくまで私の推測ですけれど。
南北安曇郡がなぜ山の中にあるか、参考文献などもお教え下さい。
すごい観点ですね。皮膚の色などと同じように血液型も変わる……!!
そういえば、思いあたりますヨ。おれのオフクロは AB 型でしたので、こんなヒネクレ
が成長した。おれは O型です。
シナの広大な面積をつき破って日本列島に来たのは、秦のハタさんにその象徴を置けそう。
ネパール語 NATA は名前を中心とした「親戚関係の人びと」。そして秦に百姓。
日本には30万種の姓がある。シナはいまどれくらいの姓があるのか知りませんが、朝鮮
で石を投げたら金さんにあたる。
ハタさんはインド起源ではなかろうか……、 ./.イランのハタミ大統領。
人類の当初の血液型はみなO型で、これは狩猟民型だそうです。
人口がもっとも多いのもこの型で、肉食型みたい(乳製品は食べない)。
次いで2万5千年ほど前にA型が西アジアあたりに登場して主にヨーロッパ方面へ広がる。
人口密集地に多い感染症に抵抗する力が強いのだそうで、農耕民型だそうです。
少し遅れて1万5千年前あたりに中央アジアあたりでB型が登場して東西に広がったのが遊牧民型。
いわゆるモンゴロイドの多くがこのタイプのようです(乳製品を食べる)。
AB型は農耕形と遊牧形の接触による登場とみられるそうで最新版の血液型。
AD500以前のヨーロッパでは存在がみつからないようです。
A型とB型の得失を両方持ち合わせるために大変複雑な性格になるようです。
AB型の登場がADゼロ以降であることからも、血液型は環境(文化)に千年単位で順応する性質を持つとみえます(自然淘汰か?)。
血液型は人種や部族を示すものではなく、文化のありようを示す情報なのかもしれません。
下図は世界の血液型の分布概略です。
<img src="http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/ketueki01.gif">
インドでは白人系でもB型が多くヨーロッパでもドイツや東ヨーロッパにはB型が少なからずあるようです。
中国北部や韓国ではB型が多いようですが、日本ではA型が一番多い。
東南アジアは不明ですが、中国南部ではB型が少なくなるようで、環境適応を示すようにみえます。
北米にはB型が少なくヨーロッパに類似なのは全先住民の血液型ではなく一般全体だからかもしれません。
遊牧のB型が多いのはインドと北東アジア。
インドではB形で40%、O形が30%、A形が20%、AB形が10%です。
西アジアから遊牧民がはいっていることでB形が多いとすれば納得できます。
しかしイラクにはB形が少なくユダヤ人ではB型が多い。
西アジア全般に遊牧のB形が少ないのは早い時期に農耕化したたためかもしれません。
このあたりは一筋縄ではいかない感じ。
日本で一番多いのはA形で40%、O形が30%、B形が20%、AB形が10%です。
日本で農耕のA形が多いのはわかりますが、遊牧のB形というのがどういう経緯で生じたのかむずかしいところ。
遊牧という表現がまずいのかもしれません。日本では縄文型の変化なのかもしれない。
わずかですが東日本から東北へゆくほどB形が増え、西へゆくほどA形が増えるようで、これも農耕文化の発達が西からとみれば妥当なところかもしれません。
西日本のうちでも中国地方と愛媛にA形が多いのが面白い。畑という地名の分布に一致するし(^^;
AB形は世界的に少なく、数%なのですが日本とインドでは例外的に10%ほどのAB形があります。
農耕のAと遊牧?のBが直接接触した地域だからかなあ。
「物干竿がある処」では地名にならないという考え方を敷衍すれば……。
そんじょそこら、あたり一帯が同じ傾向の色で塗り潰されたら、その同じ色での固有名
詞(地名・姓)は残らないという原則‥‥にはならないもんでしょうか。
稲作はのっけから集団作業ですので、イネ、イナの地名は原則としてありえないと思い
ます。ただし、同じ米でも神に捧げることを主目的にして作り、それを確保することが一
族や一家の誇りとなれば「クマ木」などの地名となるでしょう(秩父市役所所在地)。
ボケたので忘れましたが、伊奈には造船とか舟に関係のない意味がなにかありました。
しかし、ほとんどの「イナ・イネ地名」は舟や造船に関係しているようです。これは
フィリピン・タガログ語の ina(母・女)を写した女陰がその起源だと思われます。
先日能代を「ノシロ」と表記してしまいましたが、ヌシロの誤りでした。
その能代平野の川はヨナシロ(米代)です。この地名なんざは米作が始まるときに、水
を引くシロ(用地、地帯)を濃密に連想させます。もしかしたら、そのときに名付けられ
たのかもしれません。
しかし、これも シナ系の LON(龍)が開音化された語形( LON → YON-A)と考えた
ほうがシックリきます。米田さん然り(LON NETA……龍の指導者)です。
新田ごうり三日月村のあるじが海に刀を投げこんだイナムラガサキのイナムラも、船長
さんと解けます。
ヒエダノアレさんも、食べる稗ではなく「黄色(偏執)・人」になります。
米沢の粟野くんは「ひとでなし」ではなく、APA(水)NO(場)が基本でしょう。
芋さんや麦さんは、明治維新のどさくさまぎれで……かな?
※ アワマク(不倫する)……知ってました? A(反・非・不)WA(人)MA(動詞化
接頭辞)KU(SEX)です。だから「マキ」は古代語で「一族」になっています。撒かれ
たんですな。
※ さいきんの発見。もろて舟の TE には「形式、やり方」の意味があります。
てつさんは「畑」地名の分布を見たかったらしいが、「ハタケ」という意味での追求だったカネ?
もし「農産物を作る畑」という意味なら、それは地名になって残ることはないのではなかろうか?
おれ、北海道の「熊石(町)」という地名が気になって3回行って調べたことがあります。
クマイシは、フツーに考えると kuma(魚干し棒棚) us-i(ある場所)だから、これは物干竿が
ある場所と同じで、海岸べりならどこでもあり得る。何らの固有名詞的な主張や偏向を含んでいない
……と、見たわけ。
結果は、海岸にある雲(クモ>クマ)を思わせる奇岩(イシ)が、その町の地名の起源でした。
阿寒から南下する途中の内陸にクマイシという地名がありますが、これは川に遡上する鮭を捕ら
えて干し魚にするところから。周辺には魚干し棚などないので地名としてありうる。
下北には畑という町があったのを記憶していますが、こんなのは「ハタケ」ではなく、別の意味
ではないでしょうか? おっと‥‥、そういえば、ここには濃密な北極星偏執がありました。
たとえば「ha(下)ta(=tan……場所)」や「ha(端・脇)ta(人・場所)」とか……。
さいきん、ヨーガやってる人から「ハタ」には日月という意味があることを教えて貰いました。
遮光器土偶の上着の両側にある左巻き模様と右巻き模様……は極を中心とした星の渦巻き(左)
と、日月の右巻きだという見解があるそうです。こんなのもハタという地名になってることでしょう。
カミナリがハタであることも確か。機織もハタ。
朝鮮語 PAT(畑)は、木のハッパが起源ではなかろうか……これ空想です。パンの木などを家の
まわりに植えたのがパタキ(沖縄;畑)の始まりだろう……と。凡インド語 PAT =葉っぱ。
パタキの aki は童神とアグリ(農耕)だと思えます。
いちばん残り易いハタの内意は ha(大・太陽)ta(場所・人・神)でしょう。
勝手なお願いにさっそくお答えいただき、有り難うございます。
拝見して、ウウウ〜ムッ!
実は群馬、栃木あたりをイメージしていました。
また日本語としての畑、畠(はたけ:国字)であれば、縄文系で、
東に圧倒的に多いのでは?と、思ってました。
私説:弥生期の渡来人(の一部)は漢字を持ってきた。
根本的に考え直さないといけないのかな…(トホホ)
≫「畑の地名の分布」是非見たいです
あは、某掲示板とジョイントしてきたですね。
畑とそれ以外のハタ、ハダをわけた分布はここ
(畑以外のハタあるいはハダは黄色、秦を含みますが4カ所のみ))
焼き畑や根菜類は南方系と思いますが、一般的な畑作技術の渡来は山東半島からとみています。
山東半島は麦など畑作がメイン地域、黄河流域では燃やせるような山はとっくに消えています。
古代で遊ぼの10章「出雲の地」もをごらんください。
いまひとつあいまいだった出雲の版図、それを自分なりに明確にしてくれたのがこの分布図なんです。
ちなみに諸手船については9章古代船2をどうぞ。双胴船説があります(^^;
>ダイヤモンドカーペットへのリンク、ありがとうございました。
#いえいえ、私も何故なのか気になって、やってみたのですが、
最初のリンク不能は、hpアドレスの一部記述ミスが原因です。
ダイヤモンドカーペットへのリンク不能は、この掲示板は、htt://〜を見つけると自動で前後のタグを付加する様になってますが、アドレスの認識は、httpの記述の後、最初に来る「空白」or「改行」をアドレスの最後と認識するようです。
ですから、ダイヤモンドカーペットのアドレスの途中に空白が入ってますので、タグ(コマンド)を完全に記述しないと、空白有るアドレスは使えない様です。(今回初めて知りました^^;) (尚、空白は機種依存文字みたいなもので使用は避けた方がよろしいかと思います。)
さてパラレルレスでしょうか「シトギ」の話ですが。
今も、米の粉を水で練って長楕円などのシトギを神事で使うところがあるようです、滋賀の小野神社とか。
「粢」この漢字もなかなか奥深いですね。米の粉を加工するのは東南アジア一帯に広がっているとか、ベトナムでは部族毎にその形が違ったりするとか。麦粉のそれと比較するのも面白そうです。
菓子などでは「しとぎ」は米に限らず豆類を潰してのモノもシトギと言うようです。豆を潰すというと呉汁など連想したりします。
某掲示板から唐突に恐縮です。
「畑の地名の分布」是非見たいです。よろしくお願いします。
まとまっていませんが、栽培農業は
芋→粟、黍→米(陸稲→水稲)と発展したのではないかと思っています。
大野晋さん(余り好きではない)の説に近い気がしてます。
どうも。「インド探険」の浅野です。
tanさん:
ダイヤモンドカーペットへのリンク、ありがとうございました。
あの手の作業って、よくわからなくって。ホントに助かりました。
これからもどうぞよろしくお願いしまーす。
タケトラさん:
お礼がおくれてすみませんでした。
興味深いリンクの数々や参考文献の紹介、ありがとうございました。
さっそく、あたってみますね。
さらに、深みにはまってしまいそうです。
かたばみさん:
どうも。お礼がおくれてすみませんでした。
古代のインド食文化については、まだ僕も疎い分野なのでした。
ただ、実感としては、南インドの食の嗜好と日本のそれとは、
案外近いものがあるのかも、と感覚的に想っています。
たとえば、お茶漬けに小さなおせんべいが入っていますよね。
あれと同じ感覚で食する庶民の食べ方が南インドにあるんですよ。
たしかに食材も違うし、香辛料文化も関連は薄いでしょう。
でも、南インドで得た経験では、なんか、深層のところでありそうなんですよね。
まだ、うまく表現できないんですが。
焼尻紋次郎さん:
僕も門外漢ですが、どうぞ、お手柔らかにおねがいしまーす(^o^;)
御指摘のページを拝読させていただいた上で、
期日は追って私信メールしまーす。
こんばんわ、Yumikoさん。 お邪魔 でなくて ようこそ です^^。
「アテルイ」に「さかのうえ」ですか、この辺りに興味とは素人さんは云えない、と思います^^。
アテルイといえば65cm程の蕨手刀を使っていたとか。この蕨手刀が後のケヌキ舞草に直接つながるのか、外からの匠の影響も強いのか、など興味あるところです。
落語ですが、ある専門の学者さんが、私は「大のシロウト」というので、「?」に、知るほどに「知ろうと」するのが増える、と、答。
>蓑
というのは、どうもムシロを連想するのです、ムシロといえば一揆。簀巻とか、柴巻とか柴流し(落し)も連想したり。蓑笠を一向宗が一揆の象徴とした様に蓑、藁、小枝など含めて、庶民というか底辺の象徴、そういった使い方があるのだろうと。。
>坂上
東漢氏がいつ坂上を名乗ったかは、どうも明確ではないようです。おそらくサカノウエに居る状態が続いて俗に呼ばれたのが源でないかと、サカが峠に近いサカなのか境が強いサカなのか、両方の意を込めてだろうと。
サカといえばシャカ、シャグで賽神もサカイ・フサグの意からというのが強いかも知れません。
>タムラ
系図をみると、都加使主(応神時代の渡来)−志努直−駒子直−弓束直−老連−大国−犬養−苅田麻呂−田村麻呂。
田村といえば舒明34ですが、田村麻呂は『続日本紀』延暦1(782)11条「叙ニ田村後宮今木大神従4位上-」にある田村との縁が深いかも、この大和の田村はそのまま平安京まで移ってますし。
まあ、タムラの語源探しとは違いますが、タムラの血流を追ってみるのも傍証の一つになりそうですね。
>あそびにもタブーがあった
#只今、拝見。意図するところがよく分りませんが。。
初めまして。
浅野哲哉さんのHPから飛んできました。
凄い濃い掲示板ですね。素人の私が書き込むのは場違いとも思いましたが…
ちょうど「火怨 北の耀星アテルイ」を読み終わったばかりのところへ
「さかのうえ」なんて文字を見つけてしまったもので、
何となく嬉しくて名前だけ残して帰ることにしました。
古代について興味はあるものの、どこから手をつけてよいやら
途方に暮れるだけのど素人ではありますが、たまに覗かせていただきますね。
「サカノウエノタムラマロ」という名前がどういう意味を含んで命名されたかの割り
出しは、やっぱ難しいです。ここで結論を急ぐと燕のウンコを掴みそうです。
でも、タムラマロは簡単に意味がでます。TAMURA はふた通り解釈できます。
1 ta(人、神)mul-a(水源・長 + 開音(母音づけ))、即ち、統率者。
2 tam(刀)ra(強調末尾辞)
藤原鎌足が葬られた多武の嶺(とうのみね)は、お祓いの刀がはいっています。
tam はネパール語の tama(銅)とベトナム語の tam(こころ → 魂)から。
マロは ネパール語の mar(男)+ o(男)
ここにきて、天からの援助交際もぼつぼつです。
* まず、かたばみさん記述の「烏孫」含みのサカ文化(前500年)。
タムラマロの黄色とは異なりますが、“色仕掛け”で重なる。
* 小生のカンですが、サカという語彙がネパール語と関係ないわけはない……です。
匂うのは5〜6項目あります。しかし、決めてがない。
その中で一番キラリと光っているのが sahasi(勇敢な)で、次が sahae(援助)
「援助」は東漢と概念が接近してくるのではないでしょうか。
* けふ、『KUMANOLIFE 掲示板』に下記のカキコがありました。この中に含まれて
いる SAK という語幹に注目してください。
ゆっくり狙ってゆけば陥落もそう遠いことではなさそうです。
> 播磨の坂越(しゃくし)の浦に着いた。浦人が拾い上げてみると、人であって
人ではなく、いろいろ奇瑞を示した。そこで、〈大荒(おおさけ)神社〉とし
て崇め、その地に祀った、と。
ま、ムリして言うなれば、「客分の・国の貴人(である)軍の統帥」。
TANさん、クッキー食べました。この掲示板形式……おれ、真似できるかな?
> #蓑、というのがよく記録に載りますが、どうも共通するのは、反体制、みたいですね。
茅の輪くぐりは、三河・穂之国の山側では輪ではなく長い茅で作ったトンネルを潜り抜け
る所があるそうです。魔除を含めて、胎内くぐり生まれ代るとの意が強いのでしょう。
山地高山で苦労して生まれ変る山岳修行の里版・入門編といったところでしょうか。
★ 上州新田ごうり、三日月村の近くに「かけいり寺」の満徳寺ってのがあったんですよ。
むかしは「駆け込み寺」とはいわずに「かけいり寺」と言ってました。
木枯らし紋次郎が出てくる『かけいり寺に道は果てた』にはチャンと山門の前に、ひと一人が通り
抜けれる穴があいたケヤキの木があったのです。
ここを“ビリオン夜景”と抱合せて有名な観光地にしてやろうと思い立ったと、こう思いねぇ。
ところが、そのケヤキの木は「枯れた」とかで、いまじゃ、根っこすらありやせん。
せめて地上5Mぐらいのところで伐って、切り口にトタンなどをかぶせておけば、あと50年ぐら
いは、ひと目についたろうものを!!
『反体制』‥‥、得難い視角です。いまいちご解説を。
葦は「お猿さんプラス」さんたちの、氷河期のユニフォームだった……と言いなおしましょう。
> #ふと、ですが、釈迦シャカは関係ある?
目:サカン、は佐官で助ける役目=実務、というのがありますが、以前お話にあった「見張り」
というのが強いだろうと思います。つまり現地で都のお偉方の代りに眼になって実務(都の益の
為の)をする、ですね。
★ 大テーマ、「サカ」……。なんでシャカ族がシャカと呼ばれるようになったか‥‥。思案首投げて
も出らん紋は出らんばい。このへんでヤメようかナァ〜〜。
蘇我馬目も U(大・優秀な)ma(目)だと思います。
> #東漢氏は、天皇・皇族の親衛隊というか乱の時には身近の警固もよくしていたので、子孫が増え
た奈良以降は、坂上(国境(ヤマトなど))に配置された支族もあったのではないでしょうか。
★ と、助言いただくと、又ぞろやってみたくなったりして‥‥。
でも、ここは TAN さんが固められたほうがいいみたい。モンダイは「東漢」ということの徹底分
析でしょうね。
シナで(??)東という文字をクサカと読ませたという、あやふや情報があります。
khu には「良い」と「わるい」が同居して、あとは「窯焼き、セックス」の意味が光ってます。
kusu は酒の美称とか。クサカの〜〜(水)え。 √♪ オッチャンは SAI SAI(いいぞ、いいぞ)。
「アヤ」は ar(もういっぽうの、別の)+ -llo(弥)……か?
クッキーも食べてみます。まっこと、あがあが。
みちのく……といえば全員が「あ、あれだ」と諒解できます。
でも、「みちのくとはどういう意味だ?」となると、じつにいろいろな説がでました。
しかし、その説の提唱者の群は、日本語の中の変化態からだけで推理しようという豪傑で、
悪くいえば鉄面皮‥‥も少し良く言ってあげれば、頭脳ズボラのヤカラばかりでした。
ちょっとベトナム語を見れば、そこに nouc(水・くに)があって、これらが日本に入って
きていることを認めざるをえなくなります。
「ミチのく」はミ(水)チ(道)のく(くに)で、やはり“奥”を意識下に懸け言葉させ
ていることでしょう。
タケノウチのスクネの「タケ」はネパール語の dhakel-(押す) dhakka(ぶつかるこ
と) daka(奪うこと) dakhal( 侵入・攻撃)を写した「タケ(武)」で、タケノウチとは
国営(?)武力団、または水軍となるはずです。スクネは同じくベトナム語の suc(力)で
ne はこれまたネパール語の“指導者”です。
「押す」が軍事用語になっていることに、ご注意ください。
タケノウチのスクネは、水軍元帥でいいでしょう。500年生きてるのも尤もだ。
で、ククノチは朝鮮語の kukhwa(国花……すなわち菊の花)と同一です。
紀記は、タケノウチもスクネも、ククリ(刀)、ククノチも一切が解らなくなって、酒の
んで酔っぱらった古老の言をたよりに編纂されたことが、ここでもバレました。
日本語もチョンギリのクセを持っています。nouc-i はノチ、ヌキ、ノウ、ノ などへと短
く言い換えられて使用されたことでしょう。秋田の能代はノシロと発音しますが、ノウとい
う長音の文字を充てています。
あちこちに見られる能や野がつく地名は、このヤブニラミで要注意です。
また、同じベトナム語には noi という発音で種族や場所を謂いますので、今野さんあたり
は渤海国からきた種族だったと思います。
もう、このへんで小生の謂わんとしていることの殆どはお解りと思います。
あとは、「サカ」だけですね。
このへんで、 √♪ オッチャンはサイサイ、酒屋さんに 酒買いに行ってきます。
つながるかな、
ダイヤモンドカーペットについては以下を参照してください。
アニメ
#こちら、でしたか
つながるかな、
ダイヤモンドカーペットについては以下を参照してください。
http://www.indo.to/masala/Kolam/Klm-Main/Ki33hw03.html
#
あれ? またしてもエラーですね。
さっぱりわからんのです。とほほ。
コーラム・アニメーション・ギャラリーへどうぞ。
コーラムの荒唐無稽な記述については下記へ。今度は大丈夫かな??
ごめんなさい。
よくわからないけど、下記メールにリンクした
「ダイヤモンドカーペットの展開」ページのURLはエラーになってしまいますね。
もう一度、以下にリンクしておきます。
ちょっと重いですけど、御覧くださいませ。
この複雑な無限コーラムは、配列点33×33で、一片5メートルくらいの巨大なデザインです。
コーラムの達人であるインド女性は、これを何人かで描くことができるのです。
彼女たちの脳のなかは、いったいどうなっているのでしょうか?
「インド探険」の浅野です。
みなさん、さっそくのコメントをどうもありがとうございました。
私信メールも何通か頂いていまして、感激しています。
紋次郎さんとは、近く、お会いしようと思っています。楽しみです。
松本善之助氏とも是非御会いしたいです。
実は、松本大人のおすまいは、僕の故郷(中学高校大学時代を過ごした)でもあるのです。
松本大人が大田区立図書館に通いつめていた頃、おそらく僕も
週に一度くらいは同じ図書館の閲覧室にいました。
さて、
ちょっと一方通行になってしまいますが、
僕なりの見解(荒唐無稽な直感??)を以下にしめします。
これは、コーラムのFLASHアニメを作成する過程(Illustrator上で祖弦を分析する際)
で感じることなんですが、
コーラムのデザイン(無限も重合も)を構成する各々の「祖弦群」には、
一種の「構造法則」「重合パターン」があるみたいなのです。
コーラムの達人のインド女性たちは、
例えば、ダイヤモンドカーペットのように巨大な無限コーラムを描く際、
はじめから、ひと筆書きとして全ての配列点を廻るような描き方はしないでしょう。
というか、それこそ人間わざではありません!!
ダイヤモンドカーペットについては以下を参照してください。
http://www.indo.to/masala/Kolam/Klm-Anime/KAki_33T.html
コーラムは、描き終えてはじめてトレースできるデザインとして成立するのであって、
彼女たちはなんらかの「構造法則」「展開パターン」にのっとって描くのであり、
それらが純化された「形象」イメージとして
脳に記憶されているのではないかと思うのです。
それは、アニメをじっくり見なければわからないのですが、
アニメの作り手あるいはコーラムの描き手は、
その「構造法則」をしっかり把握していないと、
線対称形や回転対称形として美しくデザインを構成できないのです。
小生は、「ほつま文字」のデザインを見た瞬間に、
コーラムの「構造法則」を顕わしているような気がしてなりませんのです!!
単なる「おもいつき」なのですが。
もしも、
「ほつま文字」が、コーラムの「構造法則」そのもののデザインだとしたら、
「いにしえの南インド」と「いにしえの日本」がつながっているとしたら、
と思うと、なんだかわくわくしてしまうのでした。
つまり、
「ほつま」のデザインは、インド女性の脳内を視覚化した存在であると同時に、
コーラムデザインの裡に秘められた
ミクロからマクロまでを司る、
形而上の形態形成場の構成要素を極限まで純化した「構造法則」
を「文字化」した存在ではないか、と思うのです。
うちで配信しているメルマガ「パットラ便」でe対談をしている
友人の画家=矢萩多聞くんが僕のメモをもとに作成してくれたイントロ・アニメ
のURLを以下に示します。たった数秒ですが、
コーラムの本質を顕わした文字アニメです。
>葦はナマハゲさんたちの正装。
#蓑、というのがよく記録に載りますが、どうも共通するのは、反体制、みたいですね。
茅の輪くぐりは、三河・穂之国の山側では輪ではなく長い茅で作ったトンネルを潜り抜ける所があるそうです。魔除を含めて、胎内くぐり生まれ代るとの意が強いのでしょう。
山地高山で苦労して生まれ変る山岳修行の里版・入門編といったところでしょうか。
>★ おらのふるさとの市、飯塚に目尾と書いて「シャカノオ」と読ませる地名があります。
#ふと、ですが、釈迦シャカは関係ある?
目:サカン、は佐官で助ける役目=実務、というのがありますが、以前お話にあった「見張り」というのが強いだろうと思います。つまり現地で都のお偉方の代りに眼になって実務(都の益の為の)をする、ですね。
> すると「ウエ」は上となり、「サカ」が上下を持つものでないと収まりがつかなくなる
#東漢氏は、天皇・皇族の親衛隊というか乱の時には身近の警固もよくしていたので、子孫が増えた奈良以降は、坂上(国境(ヤマトなど))に配置された支族もあったのではないでしょうか。
>、「タムラ=兵隊」・・
#これは、おもしろい。
> クッキーとは煎餅みたいな紋やろかね。管理者でなくっても修正できたら・・
#クッキーは、訪問者記録機能というか、訪問先記録機能といった方が近い。
掲示板では、あまり日を置かないと、以前書き込んだ一部の項目が表示されますね、ここだと投稿者、の項目。これをするのがクッキーです。
この掲示板の下、欄外の「管理者メニュー」をクリックすると、紋さん(本人分のみ)がいままで書いた一覧が表示されます、左の頭をチェックして修正or削除を選ぶと処理できます。
(補足、クッキーは通常個人のパソコンに保存されますが(=個人が削除できる)サーバー側がIPを記録してしまう処理もあります)
浅野さん こんばんわ、
コーラム、お蔭様で新たな体験をさせていただきました。
描く過程を拝見しますと、今、インドの方々が世界のIT,ソフトをリードする基は、インドの女性が代々継承してきた、このコーラムにあると感じさせます。
一筆書き、というのが世界共通でなければ、追ってみると面白いのかも知れません。
唐草模様とか蛸とかは描く途中を表現したのかも知れませんね。
「ほつまつたゑ」、小生は殆ど素人ですが、詳しい方、研究者の方がこちらへ寄られます。
早速、タケトラさんから、ご案内、ありがとうございます。
浅野さん、はじめまして。
ホツマはファンの方が少なからずいらっしゃいますね。
対抗馬の(^^;ウエツフミもついでがありましたらのぞいてみてください。
こちらは九州系?の古伝書といったところです。
インド人のYESの仕草は面白いですね。
首を縦にふる、横にふる、そういう仕草の共通文化を探してみる、面白そうです。
インドの彫刻での女性が腰をちょいくねらせてS字みたいなポーズをしているのをよくみますが、あれはおすましポーズの標準なのかなあ(^^;
タミル語が日本語の源、この説を私は受け入れませんけれど、弥生あたりにドラビダ系(の祖先)の海運者が日本あたりにやってきている可能性をみています。
関連して「海の上を歩く」巨人族ダイティヤ伝承に注目していますが情報不足。
インドの食文化に地域性はどのくらいあるのでしょうか。
日本の平安時代の食事はこんなものだったという推定がありますが、古代インドでの食文化がいかなるものだったかの情報はあるでしょうか。
長い年月でしみこんだ食の嗜好はそう簡単には変わらないと思うのですけど。
インドといえばカレーしか知らないので(^^;
かたばみ
浅野哲哉さん はじめまして
ここにたどり着かれたのも、神妙なる縁。以後宜しくお願ひします。
「ほつまつたゑ」(松本大人の「ほつまつた<へ>」は写本の誤字で、大人もその後訂正されています)は、興味尽きない古代伝承です。
愚生も初学の徒に過ぎず、ご教示できることもございませんが、参考までに以下の情報をご伝達します。
サイトとしては、浅野さんもご存じの
アスベル生きていたかサンの「ホツマツタヱ」について
http://simasiba.hp.infoseek.co.jp/hotuma-ni-tuite.htm
の他に
当掲示板の管理人さんもご存じの
hotuma1さんの「ほつま研究所」のサイト
http://www1.ocn.ne.jp/~hotsuma8/index.html
が、全文を紹介しています。
同系の古代伝承である「みかさふみ」については、
古墳誰時ホームページ
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/ety6kcu/index.html
に全文紹介されています。
神代文字に関しては、
たあやんわあるどほーむぺーじ
http://village.infoweb.ne.jp/~taryan/h-aaa.html
たぶんもう、チェック済みですね。
ほつま文字(をしで)の象形、意匠については、最近素晴らしい本が出版されました。
筆者を存じ上げているわけではありませんが、ご紹介します。
『原始日本語はこうして出来た 擬音語仮説とホツマ文字の字源解明に基づく結論』
大空照明/著 出版社名 文芸社
(ご本人の断り書きを理解した上でも)独断的な表現も目立ちますが、着眼と論理は秀逸です。紋次郎さんにも、是非オススメしたく存じます。
書籍としては、松本大人の三部作はすべて『ほつま』への敬愛と理会に満ちており、当然オススメです。その他の方の近著のなかでは、(研究者主流からは距離を置かれておられるようですが)
『実在した人間天照大神 その民衆愛と平和の思想 縄文時代の思想を初めて明らかにした刮目の書』 花方隆一郎/著 出版社名 たま出版
も、説得力がある素晴らしい本です。
アスベル生きていたかサンや、学者の大野氏が、注目しているように本邦の古代語を考察する際に「いなねつづり」(五七調)は、重要な特徴ですが、花方さんはこの点を詳しく論じられています。
ところで、
町田には、愚生の姉が住んでおります。何時かお会いする機会もあるでせう。
まにまに
はじめまして。東京工房のリンクをたどってやってきました。
小生、インド研究家の浅野哲哉と申します。
本日、偶然に図書館で、松本善之助氏の「ほつまつたへ」に出会い、
強烈な感激を覚えています。
で、さっそくネットで検索して、
こちらの掲示板を発見したわけです!!
小生は三年ほど前から「インド探検」というHP http://www.terra.dti.ne.jp/~t-asano
を立ち上げてまして、庶民の立場から、インドの生活文化を紹介しています。
そのなかで、インド女性の家庭芸術コーラム(米粉で描く吉祥模様)を紹介しています。
今年になってからは、コーラムのアニメーション作品をたくさん作って、
随時、ネット上にアップしています。
小生は、本来、インドの食生活が専門分野ですが、
南インドの農村に延べ1年滞在した経験とそこで得た直感から、
インドの女性が代々継承してきたこれらのデザインこそが、
ヤントラやマンダラの原点なのではないかと感じています。
たしかにインドに限って捉えても、すごく本源的なものを感じるのですが、
もし、コーラムのデザインが我が国日本の古代に伝えられているとしたら・・・
というのが、小生の立脚点です。
日本の古代史や神道等々についてはまったくの門外漢ですが。
この秋、国語学者=大野 晋氏の「日本語とタミル語」1981年新潮社刊その他の関連図書を熟読して
ますます直感が確信にかわりつつあります。
つい一ヶ月ほど前、偶然が重なってネット上で下記を発見。
松浦彦操と紙折りの神事
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/jujutsu/kamiori.htm
さっそく参考文献を取り寄せたのですが、
具体的なデザインの資料が乏しいのでした。
ここ数日はもう少し範囲を広げて、古神道関連の文献をあたっていたところ、
「ほつまつたへ」と出会ったというわけです。
数々の神代文字のなかで、
僕は「ほつま」のデザインに、すっごく惹かれます。
これを機に、いろいろ教えてくださいね。
どうかよろしくお願い申し上げます。