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鐙と鞍 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月21日(土)18時17分13秒

stanさん
≫大国主は「片御手は御馬の鞍に繋(か)け、片御足はその御鐙に踏み入れて歌ひたましく・・・」

八千矛神の歌ですね。
出雲の問題になるとどうしても記紀解釈と年代の設定をしないと先へゆけないのですが・・
記紀は、国譲り以降の出雲の事象をすべて大国主ひとりに移動して、国譲り以降に出雲は存在しなかったように偽装している、とみています。
したがって八千矛神らはAD50〜250頃の伝承となります。


「片足」を鐙に入れる、という部分が興味深いです。
初期の鐙は片側だけで、乗るときだけ使用していた可能性があります。
中国で最古の鐙の物証とされるのが西晋の302年墓碑名の副葬品(馬の明器)で、これは右側だけに鐙があるそうです。

なお、鐙の定義が研究者によって違うように感じます。
スキタイにも鐙はあったが乗るときだけの使用で乗馬中は足を入れていない、だから本格的な鐙ではないという論もあるからです。
「鐙」とだけ書かれた場合はどう判断してよいかむずかしい。

下図は前漢の高祖(劉邦)の陪臣墓(BC190頃?)から出土した兵馬俑です。


鞍も鐙もなく毛布らしきを敷き、足で馬体を締め付けて乗っている様子がみえます。
前漢は匈奴から騎馬を導入していますから匈奴の騎馬もこれと同じでしょう。
{テン}の青銅器の乗馬姿も同様です。

アルタイのバジリク古墳(BC500〜100)から鞍が出土しています。


トナカイの毛を詰めた皮の座布団で、前後に木製の弧状の装飾板があるそうです。
寒冷のために残っていたそうですが鐙らしきがあったかどうかの情報はありません。


明らかに両側に鐙があって乗馬中もここに足をいれるようになるのは北魏(AD386〜534)とササン朝ペルシャ(AD226-651)のようです。
同時に、それまでの騎馬兵の武器が弓だったものが、槍や矛などに変化します。
そして鞍も変化します。

日本の古墳時代のごとき鞍はいつごろ登場したのか。
下図は古墳時代の馬具の一般名称です。


鞍の前輪と後輪が垂直になっています。
このタイプの最古は下図のイラン高原のギーラン州出土の銅製の馬に乗る女性像でBC800頃。


鞍の後輪が垂直の場合は女性用ないし長旅用で、馬上で動けないために戦闘はできないそうです。
で、西晋の馬の明器もこれとおなじ鞍、日本の古墳時代の鞍も同じ。
あいにく前漢の毛布?ないし座布団式鞍から西晋の鞍が登場する過程は不明だそうです。


そこで空想(^^;
前漢では訓練した兵にしか馬に乗れなかったが、女性用ないし旅人用の鞍を用いて王族が馬に乗るようになった。
威張るためのかっこづけです(^^;、馬術も下手でしょうから走るなんてのは無理。
そのうち鐙を両側に取り付けて足をいれたまま乗るようになった。

景行311-333あたりでその馬具が輸入されて王族が使い始めた。
応神386-402あたりでも最新馬具が輸入され日本の古墳時代の標準にになった。
戦闘のできない馬具であることから、江上波夫氏の騎馬民族征服論は否定されるそうです。


北魏(AD386〜534)になると戦闘可能の鞍が登場します。
後輪が斜めになった鞍で、ササン朝ペルシャでも類似形態とみえる絵があるそうです。
むろん鐙は両側で槍や矛など重武装を馬上で使えるようになります。
年代は少し新しいですが下図の正倉院御物の鞍が典型です。


まだ後輪が垂直の鞍も併用されていたけれど、北魏以降の北朝では消えるようです。
倭王5代時代では南朝との交流ですからこの形式の馬具は導入されていないかもしれない。
問題は480〜500頃の日本海勢力です。
仁賢紀488-498に高句麗へ技術者を求める記事があります。

高句麗は当然ながら北魏と交流していますから、高句麗経由でAD500頃に最新馬具が導入されていた可能性があります。
これがコシ〜諏訪〜関東に運ばれる可能性もないとはいえないです。

さてこういう流れがあったとして八千矛神が「鐙に足をかけ、鞍に手をかけて馬に乗ろうとする」ような馬具を使っていた可能性はあるか・・
国譲りによって九州を失った出雲が仁賢と同じルートでAD50〜250頃に高句麗経由の中国文化を導入していた可能性は十分あります。
その場合は後漢〜魏の馬具となりますが、あいにく馬具形式が不明の時代、古事記がそれを描く唯一の文献か(^^;


「うま」の語源考察 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月21日(土)11時57分31秒

紋次郎さんの「アッシリア語でも、馬は uma , umma 」から-アッシリアも日本同様ma又はmarという外来語を受容したが、耳慣れず、発音時、表記時に音量を高めるためuという音を補助として添加したと考えれば日本語とアッシリア語の一致及び両地方がウマという言葉を外国語として受容したということが説明できます。
かたばみさんの小型、中型、蒙古馬(原産)分類を導入すれば中近東、欧州へのmarが印欧語のeqwosと排他関係に至らず共存する理由ができます。こういうことで先ずは一件落着\(^o^)/。


馬の最新米国サイト発見 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月21日(土)10時54分57秒


現在依然進行中と見られる米国の馬起源についてのサイトを発見しました。
http://users.hartwick.edu/iaes/newsletter/newsletter.html
紋次郎さんのコーカサス(越)方面(例のホガズキョイ文書に出てくるミタンニ辺りか)とかたばみさんの「中型馬の血筋からイラン山岳馬」等の仮説と照合するために何とか全貌解読したいと思っていますが、取り急ぎご報告まで。


注連縄、綱  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月20日(金)21時50分53秒

s_tanさん

s_tanさんのピラミッド建設と杵築の「大社」の建設の対比は非常に勉強になりました。

「外来=良い物」の時代がある程度続いたと推測するに足ると思い、これの転換時期と理由を模索されているとのこと。私も弥生前期ごろに朝鮮半島南部経由又は同時に日本に長江方面から稲作を伴う人的及び文化的移動があってその結果の文化が韓国、出雲に各々継承されているのかなと思います。


この♂♀の縄ですが、♀(メス)のそれは「股(Y)」でしょうか、それとも「環」でしょうか。この行事に使われる注連縄の大きさ太さはどの程度でしょうか。---
とのお問い合わせに対してはTVからのイメージとしてはまず太綱の♀(メス)のそれ(先端)はまぎれもなく「環」で、注連縄の大きさは太さで出雲の注連縄の太い端で2本よってある内の1本程度の径で30-50M程度あったかと思います。(記憶ですが)

取り急ぎご連絡まで。

 


 本質と諸説   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月20日(金)10時22分45秒

s_tan さん、

>  「ぎ」「み」は世界共通の現象なのですね。次は同じ文字の清濁、と思ったですが
★ MI はシュメール語でもワレメちゃんです。小生はこのような現象をエデン語と呼ぶこと
 にしています。われわれ21世紀初頭人の世代では、いっきょにホンモノを得ようなどと
 は、望めないことでしょう。
 「このようなエデン語の種類は50ぐらいはあるな……」と、アタリをつけています。す
 なわち「*MI 〜*ME(ワレメ)のほか、50種のワレメちゃんがある」わけです。
 ME の語形でワレメちゃんがあることを掲げましたが、これらは遮光器土偶の目であり、
 大目付の目であり、蒙古語 MEGR(太陽)の ME でもあろうか……と、大きく網を張って
 いるつもりです。  

>  そういえば、邑智潟近くに「黒氏」のつく地名が在るのですが、AD650頃の半島で活躍
 していた「黒氏」など連想してるのですが。。
★ 司馬遼太郎さんの本で知ったバカのひとつ覚えですが、マッカツという意味は“黒”だ
 そうですね。ネパール語 *makk に黒がいえます。これが慣用によっれ「真ッ赤」とか 
 「真ッ白」のように転用されたと見込んでいます。

★ 大きく編んだ縄ですが、三本を捩ったものはあるのでしょうか?
  なければ、これは大地神(へび)の交合を形どった……が、基本概念ではないでしょう
  か。そういえば、日本には交合の神の名前がまったく見られないようですが、これ異常
  なんではないでしょうか? あったのが消えたんでは? インドにあるのか? と言わ
  れたら返答に困る……もあります。
  ドラヴィダ人は蛇信奉といえるのか……も、問題。
  しかし、ヤマタ(神・土)のオロチ(龍ではない!)退治は「龍による土神の支配」
  で、インドのクトブの鉄柱がそれを如実に物語っていることかと。

★ 語源も偏執(文化)も基本概念があって、そこへお神酒のんだヂヂィが「おれは先祖か
  らそう聞いた」と言い、これが再び文化とか風になって“説”とそれに被さる文化が
  重層してゆくものだと思います。
  言語考古学は、そのような意味において、名前そのもののなかに付着している“基本”
  とか本質をえぐり出すに力これあらむかと……。も少し気長がく見ていておくれ。


 山中襄太先生 やぶさめ カンダチメ 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月20日(金)06時25分48秒

 山中襄太先生の『国語語源辞典』校倉書房刊(\ 10000.-)のことを思い出して、みて
みました。
 山中襄太先生のことはミナシャンご存じでしょうか? 当然にも有名になっていらっ
しゃらねばならないお方なのですが、件のマタヤス・ドサクサにまぎれて、このお名前
は、全然まったく知られていないようです。
 先生はシナ語を振りだしに西洋語との語彙比較を行っておられます。たんねんに他人の
説もカード処理をなされたらしい。でも、その他人様がたがネパール語、バスク語、ウイ
ルタ語などを見落としていたんです。辞書がなかったこともあったのです。
 民俗のほうも同時に記述されていますので貴重です。また、『地名語源辞典』も遺され
ています。

※ バビロニアの古代史には馬はない。
※ 馬はコシ(cassi,kossi……上流)地方からメソポタミア地方へBC2000年ごろ輸入
  されたらしい。
※ アッシリア語でも、馬は uma , umma 。

 やっぱ、できるだけ古い資料、できるだけ世界規模……ですね。

※ 尚、流鏑馬(やぶさめ)の語源は、今のとこ、『矢・奉射(BISYA)馬(メ)』。
 シナ語或いはその周辺語で「*bis=射る」 がいえるのかどうか、未確認。
 下北のカンダチメ(寒立馬)は、馬の耐寒力と「メ」を語っていているようです。

※ 明治に入ってからでしょうか、“その目”で調査したとき、北海道の野生馬は日高か
 十勝地方(忘れた)に、わずか5〜6頭だったとか。これは元 ./.骨嵬戦争、コシャマ
 イン戦争の傷跡だと思われます。


馬と牛 投稿者:s_tan  投稿日: 9月20日(金)01時43分08秒

 タケトラさん
>@「>片手で剣を持つための手綱の持ち方」と記述しましたが、訂正です。
#古事記の出雲神話で、出雲から大和に向った大国主は「片御手は御馬の鞍に繋(か)け、片御足はその御鐙に踏み入れて歌ひたましく・・・」
というのが気になっていまして、轡・鐙など追ってはいるのですが。

「ほつま」では、(本当に木元さんに感謝です。)
(19-5)に鐙が「その垂皮お 打ち煽つ 打ち煽かれて 風含み ・・」(19-10)で、鐙の吊綱の長さを調節する乗馬法。がでますが、垂皮、風含みなどの表現があり、金属製鐙の使用以前の皮の時代が長くあった、を推測可能にしていると思ってますが。
轡の発生はかなり古くBC千年までは溯るそうで、それ以前に動物の筋や植物性の銜の使用が推定されてます、金属製銜と轡のセットで馬の制御がさらに向上したらしいですが、鐙は馬体に当る箇所の問題や足が止ればいい訳ですから、かなり長く皮か植物が材料だった。(金属製鐙は貴人の靴が金属で飾られるまで必要としなかった。)
一般的にはBC200頃の秦が使った可能性が推測されているのと確実なのはもっと後、ですが。腐り易い素材(軽い)での使用を推測させる表現は上述の他に「ほつま」「上記」でありませんでしょうか。


>   ケタモノオ ノリムマケレバ  動物お   乗り旨ければ
18-10  ムマトナシ ノリウシケレバ  ムマとなし 乗り厭しければ
    ウシトシテ タノアラスキヤ  ウシとして 田の粗鋤きや
    ニモツモノ カクゾミココロ  荷持つ物  かくぞ御心
#このあたりですが、馬を乗馬用を「ムマ」、田・荷物運搬を「ウシ」と呼んだ^^。可能性はないでしょうか。河内生駒山麓の馬の傍葬に、主人と同様に丁寧に埋められたのと、供物生贄として埋められたのと死後も馬が区別されているようですし。(ムマ、ウシの語の発生の頃の推理条件のヒトツになるやも(^^。


いのちは神、だから命(みこと) 投稿者:s_tan  投稿日: 9月20日(金)01時41分43秒

 紋次郎さん
>★ GI は男根、MI は女陰……が基本です。男神とメ神ね。・・・
#「ぎ」「み」は世界共通の現象なのですね。次は同じ文字の清濁、と思ったですが「さ・ざ」以外に思いつきません、暫く考え(続け)てみます。

>★ 書きわすれましたが、アラ(銅)は日本・朝鮮で新しく造語された語彙だと思います。
#そういえば「アラ・ガネ」といった使い方が誰か天皇の逸話?にあったですね。「荒い」より「粗い」の使い方が強いのですね。

羽咋は、白衣^^。はほぼ冗談ですが、たしか「白居」で「新羅が居る、着いた」との説はあるです。
そういえば、邑智潟近くに「黒氏」のつく地名が在るのですが、AD650頃の半島で活躍していた「黒氏」など連想してるのですが。。

>舟が燃やされないで土中に入ったとは・・
#千葉では八日市場あたりが大きい潟湖と量が多かったようですが、東京湾岸も丸木舟の櫂など出土してます。赤城山近くから石器の材料も運ばれてますので外洋で耐える丸木舟もあったとされますが出土例は極少です。
八日市場市の老尾神社辺りに近くに船着場?の伝承があるそうですから2千年前は砂丘列の間に海水というのは可能性が高いです。相模では国土地理院がアソビで作った6千年前からの連続推定図があったり明治初年の外国の地図では相模川河口がかなり抉れて奥まで入っているのがあり細部も推理しやすいのですが、このレベルは房総ではまだ未発見です、何万年単位ではよく見ますが。


注連縄、綱 投稿者:s_tan  投稿日: 9月20日(金)01時40分34秒

 クーガーキングさん
>エジプトのピラミッド建設はナイル川氾濫による農閑期公的事業であった記録があり、日本の古墳建設にも・・・
#ピラミッド建設では、ビールとパンなど支給され、従事の人は休日もあり、かなり自由に休めたようですね、休みの理由に親類の葬式とかなかには二日酔が理由というのも残っているそうです。
かたや、ニホンですが、古墳時代初期のそれは寡聞ですが閑期の公共事業の可能性も有、と思えます。
杵築の「大社」の建設に関連して「地元民がなかなか言うことを聞かなかった、火事(放火?)異変など連続した、などの記録があります」これが天智38の頃でしょうか。少し下って大仏建立の初期(行基がからむ以前)に「奴が本来の主人(豪族)の処へ逃げ帰った・・などの記録(逸話)がみえます」。これらはエジプトの「休む理由に二日酔有り」というのとは隔絶しています。
出雲の杵築は古く「寸付(きずき)」と言い。これが神亀三(726)年に「杵築」となったとの事ですので上記の年代の確定も難しいものがあります。
ただ、弥生前期かそれ以前から続くと思える外来神(エビス等)の信仰は「外来=良い物」の時代がある程度続いたと推測するに足ると思います。これの転換時期と理由を捜しています^^。

>韓国のは男女ペアの合体儀式は「太綱」の対のことで、先端の♀型、♂型のものを合体さす行事・・
#お手数おかけします。
この♂♀の縄ですが、♀(メス)のそれは「股(Y)」でしょうか、それとも「環」でしょうか。この行事に使われる注連縄の大きさ太さはどの程度でしょうか。

>言葉足らずで誤解を招きました。
#こちらこそ失礼しました。
”神聖な地をキープする為の縄ではなく飾りの注連縄は・・”ではなく「ブットイ注連縄」とすれば少しは明確になったかも知れません。
一般論としてですが、パソ通・掲示板などでのヤリトリは顔も見えないこともあり、相手がどの程度の情報を持っていてどの程度(方向)の情報を望んでいるかが解りにくい事だと思います。稀にいきなり質問の「タイトル」だけの方もおられ返答に躬することもあります。
ですから、やりとり、が続く中で互いの補完ができればいいと思っています。(理想レベルですので現実なかなか難しいですが。。)
(ちと、カタクなりました、読み流しください^^;)
クーガーキングさんの持たれる広さと深さに驚愕&敬服しています、少し小生と方向が違う様ですので小生も多少は補完できるかもなど思ってます^^。今後ともよろしくお願いします。

 


ホツマの馬2 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月19日(木)20時25分08秒

≫また、南の馬が小さいと評されている点も注意を引きます。

コシ、チクシとくるのが面白いですね。
こちらは日本海側ルートでやはり出雲関連を思い浮かべます。

中型馬の血筋からイラン山岳馬→漢で蒙古馬と混血→日本の中型馬と理解しています。
弥生では神奈川、東京。愛知からこの骨がでています。
壱岐の原の辻からは小型と中型の中間とみられる骨がでています。

弥生時代中期に漢から海運者が北九州に運んで、各地に広まっていった。
自説の弥生黄金時代BC100〜AD50頃です。
(これ以降の魏志倭人伝との関連は別項の通り)

古墳時代では新たな中型馬が導入されて各地へ運ばれ、木曽馬や南部馬などの祖先となった。
縄文古来の小型馬は九州の僻地に残るだけとなった。
その結果の表現とみておきます。


≫ほつま』全編には弓に関する記述が頻出するのに、いわゆる流鏑馬まで話は進みません。微妙ですね

部分読みで前後の脈絡を把握してないですが、19アヤの最後に「祭る乗馬弓」ノリユミというのがありますが、これは流鏑馬とは違うのでしょうか。
馬上で弓を射る技は藤原秀郷(900頃)の秘術だったと吾妻鏡(起草1180)にあるそうですが、鎌倉時代ではだれでも行う技になっています。

ここまでの馬関連だけに限れば、その部分の成立年代がみえそうです。
もしホツマに流鏑馬の存在がないなら、東北争乱の後〜鎌倉以前とみてAD900頃の成立とみますが、流鏑馬があるのならAD900以降の成立。
どちらにせよ関東に武士が登場する時代の記述だとみます(900〜1000頃)。
(新勢力登場のときは理想に燃えていると思います)

800〜900頃は日本後記、続日本後記、類聚国史など多数の著作が登場する年代です。
(類聚国史は六国史(日本書紀〜日本三代実録)を菅原道真が整理分類したもの)
徳川時代でも安定期になって100年、国学ブームがおきる。
平安時代でも900頃に国学系の文書が多数書かれていた可能性が高いと思うのです。


日本の弓道は矢を弓の中央より下につがえます。こういう上下非対称の弓は他にみたことがありません。
魏志倭人伝でも倭人は弓の下を短く上を長くすると書いていますからめずらしかったのでしょう。
銅鐸の弓も下につがえています。


だとすると少なくとも弥生以降の関東以南ではこれが標準で現代まで続いているということになります。
(アイヌの弓は中央につがえていたと思うけど、不確実)
もし他の地域でこういうつがえ方があるなら、たいへん面白いことになりそう。


弥生中期までの鹿島周辺は黒潮航路の終着点で軍神は無関係(房総、南関東も同様)。
弥生後期からの寒冷化で東北勢力や信州勢力はどうするか。
関東へ南下するのが必然と思います、これに対抗したのが垂仁の兄の豊城入彦であり、大鹿島(中臣氏の祖)の登場とみています。
その真打ちが日本武尊。
これらが鹿島の軍神登場の源になっているとみています(タケミカヅチという具体化は記紀以降)。

ホツマでは大鹿島らしきがヤマトタケを出迎えていますね(39-19)。39-29ではミカサカシマに常陸と上総を与えてる。制圧した土地の支配を任せたということでしょう。
(大鹿島=中臣氏、これが後の中臣鎌足登場につながってゆく)

拾い読み程度ですけれどホツマにはある特有の構造があるように感じています。
その構造フィルタをはずすと、記紀にはない古墳時代の関東周辺の情報が読みとれるかもしれないと感じています。

かたばみ


ホツマの馬1 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月19日(木)19時30分21秒

沼津湊タケトラさん
ホツマでの馬のお話、ありがとうございます。

≫との使い分けは、『ほつま』のかぎつては、見えないようです

駒と馬を平安〜鎌倉あたりの文章でどう使い分けているかと突き合わせると面白そうですね。
呉音でメ、漢音でバ、ンミャとンヴァ(^^;、どっちがウマとより親戚なのかなあ。


≫そもそも乗馬法は『ほつま』ではヒタカミ(日高見-東北 常陸の何処か?)の國が発祥だとされているからです
≫片手で剣を持つための手綱の持ち方などが明言されています

箸墓周濠からAD300頃とみられる輪鐙が出土していますから関東の乗馬は日本武尊が最初とみておきます。
ホツマには鐙がでてきますから日本武尊以前に起源を求めるのはむずかしそう。
(騎馬民族が鐙を使うのは500頃の突厥あたりから)


平安時代の東北争乱では蝦夷が蕨手刀を使いましたが、柄と刀身が直線ではなく曲がっていて日本刀のソリの原形とされています。
馬上ですれ違いざまに、なぎはらうように使うためだという論があります。
中近東の刀も曲がったものが多く、騎兵のサーベルも同じ。妥当なところと思います。

蕨手刀は鉄鉱石を使用していますが、砂鉄を加えて精錬した可能性のあるものが若干東北からでています。

蕨手刀の出土数は圧倒的に宮城と岩手が多いのですが、最古は茨城の高根古墳でAD645頃。
蕨手刀の原形とみられるタイプの出土は群馬と長野に集中しています(榛名、妙高、碓氷峠、佐久、八ヶ岳のライン)。
このラインは日本武尊の信州での行動に近似しているようにみえます。

信州系勢力と日本武尊の戦いによって馬上で使う蕨手刀が工夫され、東北争乱で蝦夷が大量生産した、という図が想定できます。
なお、東北争乱では大和側も蕨手刀を使用しており、正倉院御物にも蕨手刀があります。


続日本後紀の837年に弓馬の戦闘は1:10でも蝦夷にかなわないといっていますから、ヒタカミが常陸側であるならそういった印象から蝦夷を騎馬の祖とみていた、となりそう。
ただし・・
ホツマは拾い読み程度ですが、ヒタカミが「独立国としてアマテル神から与えられた」という伝承からすると、国譲り時のタケミナカタの諏訪入城がベースになった独立伝承を受けているのではないかと感じています。
(前後関係のわからない伝承)
すると、ヒタカミは諏訪であるとなるのですが・・ホツマまでは手が回らない(^^;

ホツマは神代を別にして以下のように理解しています。違ってるかな(^^;

オシホミミ+タクハタチチ姫
     |
ホノアカリ・ニニキネ  タカギがアマテル神からもらった独立国
(大和国)(ホツマ国) (ヒタカミ国)
  |    |      |
ナガスネ  関東?  諏訪?、東北南部?
の悪事を   |      | 蝦夷
を神武が   |      | |
 誅する   |←攻撃?−−・−・
  |  救援要請     |
  ・−−−−−−−反撃?→・
    ヤマトタケ

続く


魏志倭人伝と馬 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月19日(木)19時11分38秒

弥生の馬骨は壱岐の原の辻遺跡などから2件出土しています。
他には雲仙付近で1件、種子島で1件。

壱岐で2件も発見されるということは多くの馬がいたとみるべき。
壱岐は海路の重要拠点、魏の使者は偵察任務も帯びているはずです。
雲仙や種子島では情報がはいらない可能性もありますが、壱岐なら見落とすことは考えにくい。


弥生中期には縄文古来の小型馬と輸入の中型馬がいた。だが・・
弥生後期AD100以降は急速に寒冷にむかう気候です。

百済本紀108では飢饉で人を殺して食べたとあります。
新羅本紀でもこの頃に飢饉がたびたび起きています。
同じく193では倭人が大飢饉となり避難民到来、とあります。

このような状況で家畜が無事でいられるとは思えません。
北九州の馬は食料にされていなくなってしまった。
北九州の人口はこの頃に減少しているのではないか。

倭国争乱も当然、食料確保の道は奪うほかはない。東へ・・
そんな状況で勢力を保てるのは少しでも温暖の地にある国でしょう。それが邪馬壹国。
そして魏の使者がやってきた。

かたばみ

 


いのちは神、だから命(みこと)   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月19日(木)09時14分52秒

s_tan さん、はい、ハッタリです。今のところは。
 でも、まんざらウソまみれでもございません。
 言語考古学がほそぼそながらも動きだす契機は別のところにもあります。それは小生がいま構築中
の『言語理論』 http://www.you-i.org/theo.html が、うま〜〜く皆さんどなたにも解っていた
だける説明になるかどうかにもかかっています。
 小生は自信があるのですが、やっぱ、このリロン説明の完成をみないことには、以下のイザナギ・
イザナミの説明も、芯から解っていただけないのでは? デス。

>いやーあ、ハッタリでしたか^^。でも清濁は何か法則がありそうな気がするのですが。
    同じ漢字を(個人で)清濁分けるとかの他に、いざなぎ、いざなみ。かむろみ、かむろぎ。など後
  半の清濁はな にか訳有ですね、「いざ」「いさ」は単なる訓み分けのような気がしますが。
★ GI は男根、MI は女陰……が基本です。男神とメ神ね。アイヌ語の男根は「ニィッ」といいま
  す。これは「グニューの音転」といわれて、世界共通の「G = N」の現象です。アイヌ語 NI は
  日本語 KI(木)です。
  I-JYAN(いのち)は命神です。
  かむろの「ろ」は「○○の」の古い表現法か、またはアイヌ語に残っている oro (○○がある)
  かもしれません。その場合は KAM(神)ORO(やっぱ結局“○○の”)GI(男)、MI(女)。

>「荒ぶる」と「アラ(粒・銅)吹く」とを懸け言葉にした……んでは? 
    だろうと思います。 知る限りでは砂鉄の伝承がありますが、アラは銅ですか。。
★ 書きわすれましたが、アラ(銅)は日本・朝鮮で新しく造語された語彙だと思います。
  基本は「粒」と「焼く」です。粒のアラはバスク語にもあります。
  また、世界に共通のアラッキ(焼酎)のアラでもあります。荒っぽい言い方をすれば、タバコ、
  コーヒー、チャなどが世界共通であると同じように、アラッキは2万年前の交易用語でしょう。

>  マイナス1が九十九……これだと「つくも」と訓ませるのが解ります、着く藻、でしょうか^^。
    小生は「白」は、白髪翁、白衣貴人などの白は「白髭」から白衣で表現される扶余系新羅など連
   想してます。
    余談:羽咋=はくい=白衣、ってのはありえます?
★  タミル語研究をやっているご仁が「つくも=鉄」を出していたことを記憶していますが……。
  白衣……羽咋の病院ではそーゆーことでっしゃろか?
  小生は、金属精錬士たちを「初期は黒系、その後は白系」とわけて考えていますが‥‥。カラス
  VS こうのとり……でもあります。

>  九十九里といえば、千葉県から縄文時代とみられる丸木船が70例に近い遺跡から出土してい 
 る。そのうち八日市場市周辺は約40%を占める。この辺りの潟湖は淡水化したのを含めるとかな
 り最近まで大きかったようです。
★ 貴重な情報、有り難うございます。
  舟が燃やされないで土中に入ったとは、巨大津波があったということでしょうね。
  西南日本の遺跡はこの視野でみつめるべし。西南日本は海賊だらけで、内陸文化は育たなかった
  ……。学者は内陸の遺跡ばかりみつめているが、かんじんの海賊遺跡は海や川の底に沈んでいる
 と想うのでアリマス。

 かたばみさん、みなさん、すみません。行をそろえずに打ち込みました。


 いのちは神、だから命(みこと)   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月19日(木)07時21分30秒

s_tan さん、はい、ハッタリです。今のところは。
 でも、まんざらウソまみれでもございません。
 言語考古学がほそぼそながらも動きだす契機は別のところにもあります。それは小生がいま構築中の『言語理論』 http://www.you-i.org/theo.html が、うま〜〜く皆さんどなたにも解っていただける説明になるかどうかにもかかっています。
 小生は自信があるのですが、やっぱ、このリロン説明の完成をみないことには、以下のイザナギ・イザナミの説明も、芯から解っていただけないのでは? デス。

>いやーあ、ハッタリでしたか^^。でも清濁は何か法則がありそうな気がするのですが。
 同じ漢字を(個人で)清濁分けるとかの他に、いざなぎ、いざなみ。かむろみ、かむろぎ。など後半の清濁はな にか訳有ですね、「いざ」「いさ」は単なる訓み分けのような気がしますが。
★ GI は男根、MI は女陰……が基本です。男神とメ神ね。アイヌ語の男根は「ニィッ」といいます。これは「グニューの音転」といわれて、世界共通の「G = N」の現象です。アイヌ語 NI は日本語 KI(木)です。
  I-JYAN(いのち)は命神です。
  かむろの「ろ」は「○○の」の古い表現法か、またはアイヌ語に残っている oro (○○がある)  かもしれません。その場合は KAM(神)ORO(やっぱ結局“○○の”)GI(男)、MI(女)。

>「荒ぶる」と「アラ(粒・銅)吹く」とを懸け言葉にした……んでは? 
   だろうと思います。 知る限りでは砂鉄の伝承がありますが、アラは銅ですか。。
★ 書きわすれましたが、アラ(銅)は日本・朝鮮で新しく造語された語彙だと思います。
 基本は「粒」と「焼く」です。粒のアラはバスク語にもあります。
 また、世界に共通のアラッキ(焼酎)のアラでもあります。荒っぽい言い方をすれば、タバコ、コーヒー、チャなどが世界共通であると同じように、アラッキは2万年前の交易用語でしょう。

>  マイナス1が九十九……これだと「つくも」と訓ませるのが解ります、着く藻、でしょうか^^。
   小生は「白」は、白髪翁、白衣貴人などの白は「白髭」から白衣で表現される扶余系新羅など連 想してます。
    余談:羽咋=はくい=白衣、ってのはありえます?
★  タミル語研究をやっているご仁が「つくも=鉄」を出していたことを記憶していますが……。
  白衣……羽咋の病院ではそーゆーことでっしゃろか?
  小生は、金属精錬士たちを「初期は黒系、その後は白系」とわけて考えていますが‥‥。カラス VS こうのとり……でもあります。

> 九十九里といえば、千葉県から縄文時代とみられる丸木船が70例に近い遺跡から出土している。そのうち八日市場市周辺は約40%を占める。この辺りの潟湖は淡水化したのを含めるとかなり最近まで大きかったようです。
★ 貴重な情報、有り難うございます。
  舟が燃やされないで土中に入ったとは、巨大津波があったということでしょうね。
  西南日本の遺跡はこの視野でみつめるべし。西南日本は海賊だらけで、内陸文化は育たなかった ……。学者は内陸の遺跡ばかりみつめているが、かんじんの海賊遺跡は海や川の底に沈んでいると想うのでアリマス。


注連縄、綱  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月19日(木)05時54分48秒

s_tanさん

「冬季農閑期の蓄積された富の分配という経済機能」とはおっしゃる「太綱」製作の「多人数共同作業」の対価として、倉庫などに供出、貯蔵されていたであろう保存食料(米、穀物など)を分配したことが推定されるのではの意です。エジプトのピラミッド建設はナイル川氾濫による農閑期公的事業であった記録があり、日本の古墳建設にもそれがあったことも推定されますが、出雲の注連縄製作作業も鉄器時代に入り稲作生産が飛躍的に増大した頃を起源とするのではないかと思います。それ以前にあっては原料の稲藁調達にも事欠いたのではないでしょうか。

韓国のは男女ペアの合体儀式は「太綱」の対のことで、先端の♀型、♂型のものを合体さす行事(日本でも放映されますが画像の持ち合わせはありません)、以下〆の子、紙垂(〆の子は作業機能以外の意味はないのかも分かりませんが、神垂はヤマトの福の神などを想起さすものがあります。)、縁結び伝承は出雲のこと、言葉足らずで誤解を招きました。


九十九里の謎、& 投稿者:s_tan  投稿日: 9月19日(木)00時00分35秒

 紋次郎さん

いやーあ、ハッタリでしたか^^。でも清濁は何か法則がありそうな気がするのですが。
同じ漢字を(個人で)清濁分けるとかの他に、いざなぎ、いざなみ。かむろみ、かむろぎ。など後半の清濁はなにか訳有ですね、「いざ」「いさ」は単なる訓み分けのような気がしますが。

>★「荒ぶる」と「アラ(粒・銅)吹く」とを懸け言葉にした……んでは? 
#^^。
だろうと思います。 知る限りでは砂鉄の伝承がありますが、アラは銅ですか。。
この時代はまだ森林大樹も無く砂丘列面影を強く残し、風雨強く霰降る季節はタマラナイ場所だった、も掛詞してる?

>「白」がつく地名の基本は「船着き場」だと思いますが・・
#マイナス1が九十九ですか、これだと「つくも」と訓ませるのが解ります、着く藻、でしょうか^^。
小生は「白」は、白髪翁、白衣貴人などの白は「白髭」から白衣で表現される扶余系新羅など連想してます。
余談:羽咋=はくい=白衣、ってのはありえます?

九十九里といえば、
千葉県から縄文時代とみられる丸木船が70例に近い遺跡から出土している。そのうち八日市場市周辺 は約40%を占める。この辺りの潟湖は淡水化したのを含めるとかなり最近まで大きかったようです。

>ムサ,
孝昭5の(長男)天押帯日子命を祖にもつ牟邪臣。
女性を横取りしたという悪臣・身狭臣(むさ:蘇我日向)。場所はヤマトでは今来で稲目が大身狭(百済人が田部)・小身狭(新羅人が田部)の屯倉を置いたという身狭(むさ)この地名は身狭とも牟邪とも書かれる。見瀬丸山古墳の見瀬もこの地域内(身狭+見瀬=牟邪の使い方も見られる)。
雄略がヒイキした史部・身狭村主青(むさすぐりあホ)、
房総九十九里の武社(武射:牟邪臣)これはどちらも「むさ」、武佐国造は「栗山川」中流の柴山古墳群。


注連縄、綱 投稿者:s_tan  投稿日: 9月18日(水)23時59分25秒

 クーガーキングさん
>同時に冬季農閑期の蓄積された富の分配という経済機能もありましょう
#注連縄(太縄)と富の分配・・機能というのが、どうしても結びつかないのですが、(集合場所素材としての、?、^^。)

>艫綱、係留綱、曳綱、漁業のほか航海日誌、暦、測量、海難時のブラックボックス等古代の海運では必需品ではなかったのでないでしょうか。
#海関連の沖津島遺蹟など診るまでもなく、神への供物は本人の大事なモノをで、分るのですが。。案上の供物とは、違う次元が「太綱」でしょう、多人数共同作業・・というのが。

>韓国のは男女ペアの合体儀式、〆の子、紙垂、縁結び伝承等にもそうした思想を感じさせる部分があります、
#かの軍尼はロッテワールド近辺しか実見がありません、この男女・・〆の子、紙垂、など画像などで確認できる処はありますでしょうか。
伝承などお分りでしたら、愚生にご教授ください。

 


潮流 投稿者:太田守人  投稿日: 9月18日(水)17時29分47秒

>出雲沖で海難に遭い能登越えをすると大和堆付近まで飛ばされる可能性もあり

面白いご意見ですね。日本海は結構潮流が複雑ですよね。ただ、数年前、ロシアタンカー「ナホトカ」号が、出雲沖で沈没した時、船首部分が福井県三国に漂着しました。私は、加賀の国が、出雲の加賀の潜戸付近の住民が、移民してきたという説を信じたのも、このナホトカの船首が漂着したためです。また、能登半島に熱帯性の植物の群生地が結構ありますが、これは対馬暖流に乗ってきたからだそうです。これは、冷戦華やかなりし頃の話ですが、ウラジオストック軍港を基地としていた、ソ連原潜は潜航したまま、対馬海峡(朝鮮海峡も含む。)をエンジンを止め、海流に乗って通過していたそうです。対馬には、海上自衛隊対馬防備隊がいて、高性能ソナーを持っていたためですが,この状態で、ソ連原潜は3〜4ノットで航行出来たそうです。日本海の海図は、ソ連の海図が一番詳しいそうです。日米が知らないことが、ソ連の一般海図にあったそうです。一般海図でこのようなので、海軍が使う軍用海図は、もっと詳細だったと思います。ソ連原潜ですが、対馬海峡に、巡洋艦や駆逐艦を等間隔に停泊させ、アクティブソナーを発信させ、潜水艦は、そのソナー音を灯台のようにして、航行していたそうです。


 シバ‥‥破壊と創造、国産みの神   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月18日(水)10時40分32秒

クーガーキングさん、弥彦にかぎらず、日本海々岸には、海水と川に囲まれた小高い丘が点々
と続いています。石川方面は太田さんのとくいとされるところです。
 昔の直江津(現上越市)の東には柿崎があり、弥彦、聖籠(新潟東)、村上、と続きます。
これらの地形はここに水軍の牙城があった必然を想わせます。
 鶴岡市の西にも温泉つきの“消えた”牙城……。
 秋田の本荘市は営林署がある丘。
 そして、能代市役所のあるところもそうです。

 これらの点々地帯には、歴“史”の表面に顕われていない膨大な事件が伏在している……は
s_tan さんのニラミつけですよね。
 きのふカキコした「ムラカミ〜シバタ」セットのことですが、埼玉開発は利根川の水を暗渠
で引きこまないことには、稲作は成り立ちません。
 芝川は利根川と荒川の中間を流れています。
 稲荷山古墳がある行田市役所周辺には広い濠が水をたたえていて、これが「シバ・川」の水
源です。行田市の旧名は成田だそうで、NALI はネパール語で噴水とか土管という意味です。
 こんな想像が発掘などで現実に証明されたら、言語考古学も地ひびきたてて出動開始です。


九十九里の謎 ほか  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月18日(水)07時13分55秒

焼尻紋次郎さん

前の続きですが、出雲沖で海難に遭い能登越えをすると大和堆付近まで飛ばされる可能性もあり、水、食料はつき、生存の可能性は非常に低いであろうことを考えると、若し掖邪狗が弥彦山に漂着したとすればそれは無事に能登越えをした後、翡翠を求めて姫川(ヌナカワ=黒川?)近辺に到着を目前にして遭難したとすれば弥彦山あたりでの漂着はありうるかな、また漂着ではなく弥彦山あたりは現代の17号線沿いに(谷川岳は西方で迂回し)関東方面とつながる中継地であり、定期航路に入っていたのかなーとも考えています。


九十九里の謎 ほか 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月18日(水)05時32分58秒

焼尻紋次郎さん

古代新潟の地形を葦原茂る沼沢地帯とみなし、アメノ+サテ+ヨリ+シマをその中のひとつの中洲というか、大きな島と見立てる。そうすると馬の移送は丸木舟をワニザメの並んだ形に組んだ船橋で行える。新潟辺は沼垂といったりして地面が固まっていない嫌いがあり、既存の稲作適地を阻害することのない放牧地、牧草地などを求めると勢い北部を探す必要があり、そこで適地を模索すると、新発田(シバ神)〜村上(MUL(水源・長))辺がでてくるということになりましょうか。

私はサテ+ヨリを佐渡寄りと読み、弥彦山は当時佐渡寄りに本土から遊離していた島で、弥彦は正始四年(243)、ヒミコの死の約5年前に第二世代外交官としてデビューしている掖邪狗が投馬(丹波)国-邪馬台国ルートで中継港出雲を出航した辺りで台風に巻き込まれ能登越えに漂流し、弥彦山に漂着した因縁のある場所ではないかという持論をもっておりました関係上、弥彦山一帯が出雲のようにかつて本土と切り離された島であればこの辺の可能性もないかなーと考えるに至りました。

不取敢ご一報まで。


 九十九里の謎 ほか 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月17日(火)22時02分36秒

s_tan さん、お手数かけてしまいました。有り難うございます。
 おらがハッタリにひっかかっちゃイケません。言語考古学という名前のことです。
 おらのレベルでは、そう呼ぶ資格はまだまだ、まったくありません。
 この名前の最初の提唱者は川崎真治さんでしたが、現在はドラヴィダ語の藤原明さん
(この方は本格的学者)周辺でボツボツ聞かれる程度です。言語考古学はまだ始まって
もいません。

> 荒振神等・糺(アザ)はれ、天地の草昧(ひらくる)
★ 「荒ぶる」と「アラ(粒・銅)吹く」とを懸け言葉にした……んでは? 
  すると、九十九里浜開墾に必要だった銅……と、そのイフキ作業が浮上してくるの
 ではないでしょうか? 栗源(くりもと)の栗がこれまた銅で、ここはいちど行って
 みたいと思っていました。山田町の愛宕もなにかを匂わせています。
 「白」がつく地名の基本は「船着き場」だと思いますが……。
 九十九は百ひく「一」=白
  
> 胸刺、無邪志。これは地理上ムサシがヤマトに近く、ムザシが遠いので清濁で区別
 する用法などある?など思いましての。。
★ 原義を知るときには等価だと思います。でも実際の活用ではそのようなちがいを設
 けたことも十分ありえたことでしょう。

>  大和飛鳥に残る身狭の地名と蘇我の一族・身狭氏、どちらもムサで濁った例は見
 られないのですが、言語学では区分は認められませんか。
★ 朝鮮語の武者(発音はムサ)の使用は、古代ではどこまで深く広いのでしょうか?
  新潟では姓を武者(ムサ)という人びとがかなりいます。

クーガーキングさん、ここまでカキコしたところで思い出しました。800頭のウマを
 入れた場所は新潟県北の「新発田(シバ神)〜村上セット」の地帯では?
 村上とは MUL(水源・長)ですが、これが開音(母音づけ)化されるとムラになりま
 す。陸・海ともに王者の名前になっています。

タケトラさん、はじめてホツマに触れました。有り難うございます。
 凄い資料ですね。まじめにとり組むとコロされますよ、コレ。
 これで、漢和大辞典(学研)に出ていた MBA(馬)がこっちにきていたことが確定
です。さてメ(馬)はどこからでしょう?
 単に MA + 強調の E あたりかな? 


馬と牛 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日: 9月17日(火)17時22分29秒

 先の投稿に、先学からご指摘いただきました。

@「>片手で剣を持つための手綱の持ち方」と記述しましたが、訂正です。

 片手でなく、両手です。『ほつま』では、手綱を腰あたりにゆわつて両手を自由にする乗馬法を「たえのり-妙乗り」と称して、熟練者が極めるべき技として詳しく語つています。
 その内容は、具体的な型から、天地のリズムと気を合わせる心の持ち方といつた精神面(いわば乗馬「道」ですね)にまで及びます。(19章の後段 詳しくは、木元さんのHPをどうぞ。)
 その道統として名指しされるのは鹿島神タケミカツチの系譜です。即ち彼らは、モンゴルの騎馬軍団のごとく両手を自由にして馬を乗りこなしていた、と『ほつま』はいふわけですね。もっとも、このくだりにおいて自由になった両手で弓射をするとは語られていません。剣です。『ほつま』全編には弓に関する記述が頻出するのに、いわゆる流鏑馬まで話は進みません。微妙ですね、まったく。

 先に述べ忘れましたが、『ほつま』ではまた、天地 宇宙の動きを神の乗馬に喩え、「轡」「鞭」「乗り移り」等の用語を使用している、即ちそれほど「馬」にこだわりがある、ということを付け加えておきます。

A「>『ほつま』の牛は、ツノガアラシトが登場する34章(略)での回想に限られます。」は、訂正です。

 馬と牛の語源を語る重要な語り部分を見落としていました。(18章です)

          タミノヲシエハ            民の教えは

    スキクワヤ ツノアルナキノ  鋤・鍬や       角あるなきの

    ケタモノオ ノリムマケレバ  動物お       乗り旨ければ

18-10  ムマトナシ ノリウシケレバ  ムマとなし     乗り厭しければ

    ウシトシテ タノアラスキヤ  ウシとして     田の粗鋤きや

    ニモツモノ カクゾミココロ  荷持つ物      かくぞ御心

    ツクシモテ タミモヰヤスク  尽し以て      民も居易く

    ナスクニオ オノコロシマト  なす国お      オノコロシマと

    ナヅクナリ          名づくなり

「乗り旨(ムマ)」と「乗り厭(ウシ)」ですから、『うえつ』と同源だったのですね。見落としていて失礼致しました。

 


注連縄、綱 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月17日(火)14時08分36秒

s_tanさん
 
>縄文のタイムカプセル鳥浜の出土に見るまでもなくの「縄」はヒトと1万年、編む以前のツナ・
>ヒモはどれほどのお付合い? ナワを編むに色々想いをこめて編んだのでしょう。この想いがキ
>ープ(文字)の始りかなど思います。

縄綯いとキープ、BC2000年前後ウクライナ地方からドイツ地方に紐文土器が伝播しており、これを印欧語伝播の一つの方向と結びつける説があります。縄、紐のような形態には洋の東西を問わず神秘性を見たのでしょう。

>出雲の注連縄ですが、あの太さは社殿造営の柱立てに使用した縄の名残りではないかと思ってま
>す。実用から飾り・象徴になる過程でさらに太さを増しカタチを創ったと思いますが。

これも一つでしょう。

>注連縄には、縄と同素材の垂飾り「〆の子」と今は紙で作られる「紙垂」という附属物がありま
>す。「〆の子」はカタチを追った装飾的なものから、ワラの繋ぎを多めに出すだけの簡素なもの
>まで、大小・細太様々です。「紙垂」は麻など布から紙に代ったとされてますが、カタチの多様
>性は殆どありません。雷(神成)、人、を表すなど説有り。で、〆の子は親縄から出す子縄、こ
>の子縄に人間が着いて大きな引き綱、となる。子縄が〆の子、ヒトが紙垂、これが注連縄の持つ
>意のメインだろうと考えてます。出雲大社の注連縄は社殿崩壊再造営までの空白期間を埋める、
>太縄つくりの巧みの伝承にあった。

同時に冬季農閑期の蓄積された富の分配という経済機能もありましょう。

>神聖な地をキープする為の縄ではなく飾りの注連縄は、工事造営の他に河川などでの曳船の綱か>らもあり綱を編み作業の安全を祈り、同サイズを納め祈願したのが注連縄。七五三と書いてシメナ>ワ、全部奇数でこれあたりは船が強力と思える。

艫綱、係留綱、曳綱、漁業のほか航海日誌、暦、測量、海難時のブラックボックス等古代の海運では必需品ではなかったのでないでしょうか。


>クーガーキングさん>出雲の注連縄は太さが韓国のお祭り用の綱と似ており、情報伝達より宗教>的な要素を感じますねー。#これの返事が上述になってしまいました^^。

韓国のは男女ペアの合体儀式、〆の子、紙垂、縁結び伝承等にもそうした思想を感じさせる部分があります。
 
>国譲りの代償に中央政府に建てさせたなんて今の島根県庁でもやりそうな記録が記紀にあったと>思います。#ニュースなどで、五百万円詐欺、総額5億円詐欺などでますが、民にとって最大の
>詐欺はオカミ、中央政府、と思ってます。億円どころじゃ〜ない。コイツは少なくとも2千年続
>いてます。

それはそうですが(^^


馬、ホツマ 投稿者:s_tan  投稿日: 9月17日(火)00時13分36秒

 沼津湊 タケトラさん

港でなく湊、ってのがいいですね。
『ほつま』『上記』の比較、興味深く拝見、これからも折・暇みて継続おねがいします。
ご説明から、木元さんの労作も私にとってやっと分りそうです。


サ、霰ぶる香島、 投稿者:s_tan  投稿日: 9月16日(月)23時42分12秒

 紋次郎さん

申しわけありません発音は分りません、メモ見直したのですが風土記元本(残欠)ではなく、出典書名など不明です。残るメモでは、先の(風俗の説に、霰零る香島の国と云ふ。)に続いてすぐ
−−−
「清めると濁れると糺(アザ)はれ、天地の草昧(ひらくる)より己前、諸の祖の天神(俗、賀味留弥、賀味留岐といふ。)八百万の神を高天原に会集(つど)いたまひし時に、諸の祖の神の告りたまひしく、「今、我が御孫の命の光宅(しらさ)む豊葦原の水穂国」とのりたまひき。
高天の原より降り来ましし大神、名を香島の大神と謂ふ。天にては則ち、日の香島の宮と号け、地にては則ち、豊香島の宮と名づく。
(俗云へらく、豊葦原の水穂の国を依さし奉上り始むるに、荒振神等、又、石根、木立、草の片葉も辞語らひて、昼は狭蠅なす音声ひ,夜は火の光明く国、此を事向け平定さむ大神、上天より降り供へ奉りき、といえり。)"」
−−−と続いています。
おそらく、紋次郎さん言われる「アラレフル」か、ひょっとして「アラブ(レ)ル」なのかも知れません。(昔のメモは出処をメモしてません(^^;)

>ムサシもムザシも日本を中心とした言語考古学手法では等価です。
# ^^。
胸刺、無邪志。これは地理上ムサシがヤマトに近く、ムザシが遠いので清濁で区別する用法などある?など思いましての。。
大和飛鳥に残る身狭の地名と蘇我の一族・身狭氏、どちらもムサで濁った例は見られないのですが、言語学では区分は認められませんか。

> 早、些、狭、小のサはネパール語と共通してます。
#とするとダイジはこの場合「カ」と「シ」になるのでしょうか。

> 大生神社、、★ 「一の宮」の呼び方が定着する前の呼び方??
#一の宮=大生神社(普通名詞)という意味でなくて、鹿島神宮の元宮ともいわれる湖対岸の大生神社です。(神社探訪に紹介あり)
この「おほ・おお」神社は、姉ヶ崎近くにも「飫富(おお)神社」今は飽富(あきとみ)神社があり、いわゆる海上国の南端と北端に位置します^^。


注連縄、綱 投稿者:s_tan  投稿日: 9月16日(月)23時38分16秒

縄文のタイムカプセル鳥浜の出土に見るまでもなくの「縄」はヒトと1万年、編む以前のツナ・ヒモはどれほどのお付合い? ナワを編むに色々想いをこめて編んだのでしょう。この想いがキープ(文字)の始りかなど思います。

出雲の注連縄ですが、あの太さは社殿造営の柱立てに使用した縄の名残りではないかと思ってます。実用から飾り・象徴になる過程でさらに太さを増しカタチを創ったと思いますが。
注連縄には、縄と同素材の垂飾り「〆の子」と今は紙で作られる「紙垂」という附属物があります。
「〆の子」はカタチを追った装飾的なものから、ワラの繋ぎを多めに出すだけの簡素なものまで、大小・細太様々です。
「紙垂」は麻など布から紙に代ったとされてますが、カタチの多様性は殆どありません。雷(神成)、人、を表すなど説有り。
で、〆の子は親縄から出す子縄、この子縄に人間が着いて大きな引き綱、となる。子縄が〆の子、ヒトが紙垂、これが注連縄の持つ意のメインだろうと考えてます。
出雲大社の注連縄は社殿崩壊再造営までの空白期間を埋める、太縄つくりの巧みの伝承にあった。
神聖な地をキープする為の縄ではなく飾りの注連縄は、工事造営の他に河川などでの曳船の綱からもあり綱を編み作業の安全を祈り、同サイズを納め祈願したのが注連縄。。。
七五三と書いてシメナワ、全部奇数でこれあたりは船が強力と思える。


>クーガーキングさん
>出雲の注連縄は太さが韓国のお祭り用の綱と似ており、情報伝達より宗教的な要素を感じますねー。
#これの返事が上述になってしまいました^^。
 
>国譲りの代償に中央政府に建てさせたなんて今の島根県庁でもやりそうな記録が記紀にあったと思います。
#ニュースなどで、五百万円詐欺、総額5億円詐欺などでますが、民にとって最大の詐欺はオカミ、中央政府、と思ってます。億円どころじゃ〜ない。コイツは少なくとも2千年続いてます。

 


馬はウマ?ムマ?(続き) 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日: 9月16日(月)20時18分56秒

 『うえつ』では、馬は牛とともに、主に田畑の耕作原動力として語られているのに対して、『ほつま』では、乗馬用として主に語られます(*)。もっぱら、外敵に応対するための機動力として語られ、片手で剣を持つための手綱の持ち方などが明言されています。『ほつま』は平和傾向が強くて、稲作至上主義なのですが、馬に関してはいわゆる騎馬民族的なのですね。(*稲虫-害虫襲来時の対応に馬を活用する、との表現はある)
 
 ところで、『ほつま』のこの章では、我が国の馬の種類と傾向を述べたくだりがあります。


          ヂミチハヤスク            地道は易く

    アレヰツノ ワザハヱガタキ  荒乗逸乗の     術は得がたき

    モモチタビ トトノヘネリテ  百千度       整へ練りて

19- 5  コレオウル マヅシルムマノ  これお得る     まづ知る馬の

    ウマレツキ アラマシトカン  生れつき      あらまし説かん

    ヒタカミハ シシタクマシク  ヒタカミは     肉逞ましく

    ユルヤカデ ヤヤヒトトセニ  緩やかで      やや一年に

    ノリナルル ヂミチノノチハ  乗り馴るる     地道の後は

    アレノリヤ ツクシノムマハ  荒れ乗りや     ツクシの馬は

    スコヤカニ ユルクナルルモ  健やかに      緩く馴るるも

    トシナカバ ハセイツカケモ  年半ば       馳せ逸駆けも

19- 6  ナカナレヤ マタコシクニハ  長馴れや      またコシ国は

    タクマシク シシナガナレニ  逞ましく      肉長馴れに

    イソグユエ ミヨツキナレテ  急ぐ故       三・四月馴れて

    イツカケモ ナレトイソグハ  逸駆けも      馴れと急ぐは

    アヤシアリ ミナミノムマハ  奇しあり      南の馬は

    チイサクテ トシナレハヤク  小くて       年馴れ早く

    ネガウスク イサオシナラズ  願う速く      功績ならず

    シカシマタ ツヨキヨハキモ  然しまた      強き弱きも

19- 7  タネニヨリ ケイロニワカツ  種により      毛色に分つ

    ヨシアシモ ソタチニヨリテ  善し悪しも     育ちによりて

    シナカワル ヨクノリナレテ  品変わる      よく乗り馴れて

    コレオシル          これお知る     


 上のくだりにおいて、「ヒタカミ」「コシ」「チクシ」「ミナミ」と順にその種類と傾向が教授(文中ではニニギの尊が教わつた内容として)されています。「ヒタカミ」の馬から話し始められているのは、そもそも乗馬法は『ほつま』ではヒタカミ(日高見-東北 常陸の何処か?)の國が発祥だとされているからです。不思議ですね。また、南の馬が小さいと評されている点も注意を引きます。

 さて、『ほつま』の馬ばなしは、これくらいですが、ついでに「牛」についてちよつと触れると、『ほつま』の牛は、ツノガアラシトが登場する34章の、アラシトがここ(ケヒ−気比? アナト? ヤマト?)に至る前の地(カラクニ?)での回想に限られます。これも不思議ですね。


 閑話休題


 それはさておき、我が国に残る言葉、名称の語源を考えるときに、三つの要点があらうかと存じます。

(Stan)>> 使われた漢字自体の意味が訳け有り、が強いと思うのですが。
(紋次郎)>そういう場合もあるが、単に音を漢字に当てはめた場合もあるのでは?

(Stan)>> サといえば「田の神=稲」、「サ」について他に考えられる意味は……。
(紋次郎)>“細”のサは朝鮮で(略)。早、些、狭、小のサはネパール語と共通(略)。こういう単音節を見る場合、原音には SA の次になにかの子音があって、それを脱落させたのではないか、との考察が極めてダイジでしょう。

(紋次郎)>アマカネを連発するモニ族・ダニ族を本多勝一さんが取材したとき、彼らがなかなか本当の名前を言ってくれないことにはホトホト閉口したそうです。

#との皆様の貴重なご発言に関わるのですが、

 愚生の気にする三つの要点といふのは、
一つに、日本人の掛詞好きを見逃さないこと
二つに、50音(正確には48音)のそれぞれの表「意」を探り、その根元に「古代地球共通語?」とも呼ぶべき「音=表意」の思想の存在を嗅ぎ取ること
三つに、真実は隠される傾向が(特に人名、地名、役名など)あるといふこと

 故に、愚生はStanさんが問いを投げかける、漢字表現の真意?や、「サ」の表意? などに深く興味を持つのです。

 「古代地球共通語?」については、また今度。その前に、かたばみさんとアスベルさんの物語仮説を読んでおいて下さいね。


馬はウマ?ムマ? 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日: 9月16日(月)20時17分33秒

(かたばみ)>ごぶさたです
#はい、お久しぶりです。

>おお、そうですウエツフミにも馬がありますね。
>吾郷清彦氏の翻訳ではアメノサテヨリシマを対馬としています。
>田中勝也氏のHPでもそこに登場する上津の縣と唐洲山の地名が対馬の地名に類似とみていますね。
>ウエツフミ伝承の馬は、穴門(九州のどこか?)から対馬へ馬を輸送した話と推定できそうです。
#さうですね。サテの訛伝が佐渡(クーガーキングさん)説にも惹かれますが、佐渡へなら越の國から移送したと語つたでせう。穴門は今の長門と愚生は比定しますが、いずれにしても、たいした海運技能を持つていたものですね。

>ホツマでの馬の話
#はい、力及ばずながら、、、

『ほつまつたゑ』では、全40章(あや-紋)のうち、まるまる一章が
「 騎乗法(ノリノリ)の紋(アヤ)」と題された乗馬法の語りについやされています。
馬に乗るときは右側から乗ることから、手綱の持ち方、歩行、早駆け、荒乗りと、順を追って教えが説かれます。

読み方は、「ムマ」。「ムマ」でほぼ統一されています。

それ以外の読みは、駒を含めて以下のとおりです。(木元さんのHPより。以下同じ)

19- 3  ツネトナス マゴニタヅナオ  常となす      馬子に手綱お

19- 2  オオクマト ヒツメアオコマ  オオクマト     秀馬 青駒

19- 3  マタノモチ コガネヒツメノ  又のモチ      黄金秀馬の


7-16  ブチコマオ ヰラカウガチテ  班駒お       甍 穿ちて

8-30  マテニアリ シロクロコマニ  左右にあり     白黒駒に

9-11  トモナミダ コマヨリオリテ  とも涙       駒より降りて

11- 5  マツノカゲ シマツハコマオ  松の蔭       シマツは駒お

12- 9  オオクマト ヒツメアオコマ  オオクマト     秀馬 青駒

19- 3  クロコマオ タカギガヒケバ  黒駒お       タカギが曵けば 

25-21  コマバヒニ ワビコトアレト  駒這ひに      詫び言あれ」と

25-22  ワガナガク オトノコマシテ  我が永く      弟の駒して

上記用例を観察すると、「駒」の表現は、主体が乗馬していない馬を形容するときにかぎるやうです。

(かたばみ)>「駒」はちいさい馬、あるいは若い馬の意です。コマは単純に「小・馬」コ・ウマじゃないかな。
#との使い分けは、『ほつま』のかぎつては、見えないようです。

(続く)


ナムチ 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月16日(月)18時57分11秒

≫誰かが徹底的に恥をかく役をやったほうが良さそうで。

こちらを参照(^^;

かたばみ


ウマ立ちぬ アレッ??  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月16日(月)16時13分00秒

焼尻紋次郎さん

※ ことさらにタジク語 a∫p でなくても、ア−リア人諸派で、アズマという日本語
の元の発音が採集できることは、既にクーガーキングさんが展開されました。
 アレッ? 大略の同じこと、ここでカキコ済みだった……デシタか。

#中国、日本はma、北部アルタイ系がmar、サンスクリットasva、古代ペルシャasa、タジクaspですか。asva系の印欧語は雌馬のようですね。ところが英語雌馬はmare、horseはどうもasva系が語源。マー、分からんことが多いがasva->asba->azumaってのは有るんじゃなかろうかってことですね。この辺をごちゃごちゃするのはスキタイ、匈奴辺りでしょうか。

 


ナマスカール 投稿者:D.K  投稿日: 9月16日(月)15時28分01秒

みんなカッコつけると研究が進まないんですよね。
はじめの頃は誰かが徹底的に恥をかく役をやったほうが
良さそうで。

N・ASUKAの地上絵も飛ぶ鳥ですね。アラスカとか
飛鳥のつく地は結構分布している様ですが。
で、インドではナラは太陽神の意だそうです。
オオナムチも古事記だと損な役回りで、バーラタ戦争と
古事記の関連性をチェックしています。


 ウマ立ちぬ アレッ?? 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月16日(月)13時08分56秒

K.Dさん、みんなが導かれ、しぜんに絞りこまれる古代の語彙は同じみたいですね。
 やり始めたばかりですので、勇み足だらけだとは思いますが、多くの勇み足やらな
いと、ホンモノがこれまた出ない。MAPHI(ネパール語;許すこと)RA〜。
  
《 飛鳥 》  KA には“鳥”がありますが、AS には「飛ぶ」という意味はありませ
ん。ただ……「(飛び)たつ」という意味があります。「風たちぬ」の「たつ」がそ
れで、この AS は今となったら、日本語よりもアイヌ語のほうに濃密に残っている
ようです。アイヌ語で rera as といえば「風たちぬ」です。
 でも、鳥が AS するなら、それは羽ばたき開始か、とび“たつ”ことではないで
しょうか?

 ここでは「アスカ」という音そのものの中に意味が入る“構”があることを掴むの
が重要みたいです。
 この場合の KA は猪カ、牛(ギュウ)カ、五(ご……馬)霞、(恐らくは山窩
も)にみられる氏族、部族〜〜トーテムに遡れる人びとの集団という意味でしょう。
 また、KA には場所を意味する「個(処)所」もあります。
 タジク語 a∫p(馬)が日本語化されるとき、下に叙べた『第二子音濁化のクセ』
とパーリ語的開音(ーA 母音づけ)化をうけるとアズマになりますが、多くの地方
では ASU という音で“馬”が成立していたことでしょう。
 すなわちアスカは基本的には「馬族」あるいは「馬・場」です。
 大和地方には、のっけから馬族がやってきたとは考え難いので、馬の飼育法開発を
命じられた氏族が棲んでいた場所とか、馬の集散分配に関与する氏族が興って、その
地方がアスカと呼び続けられたと思います。
 
 現代に原子力の技術がなければ、ぜんいんイッチョあがりです。
 琵琶湖西岸の安曇(あど……めくら)川で製鉄技術を持つことに成功したからこそ
継体天皇だったわけで、それまでの生殺与奪は馬飼育〜調教技術だったわけです。
 その技術にふんぞり返るアスカの田舎っぺェは、飛ぶ鳥をも落とす権勢をほしいま
まにできたはずです。
※ ことさらにタジク語 a∫p でなくても、ア−リア人諸派で、アズマという日本語
の元の発音が採集できることは、既にクーガーキングさんが展開されました。
 アレッ? 大略の同じこと、ここでカキコ済みだった……デシタか。

 《 南無 》……「お名前をくちに出していうも勿体無いお方様よ」というのが ナー
モー(NAMO)。「カタ」は KAR(造る) TA(神)で天地創造主。ここから貴人へ
の尊称用語となった。
 アマカネを連発するモニ族・ダニ族を本多勝一さんが取材したとき、彼らがなかな
か本当の名前を言ってくれないことにはホトホト閉口したそうです。
 アイヌの個人名前の意味がとれないのもコレで、その場かぎりみたいな、“聞いた
悪魔がナンダロととまどいおこす様な”名前がいっぱい出てきます。
 それでも、戦争をやるときには TANA-SAKHA-SI(敢然なネパール語;兵站部門
の男)とか、カニクシランゲ(斬鉄剣)などと、だれが聞いてもわかる言葉を用いて
います。

 《 ナムチが悪魔 》……パーリ語。「解脱が NA(できない)」が意味の基本かと……。


出雲大社の柱  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月16日(月)11時36分10秒

かたばみさん
出雲由来の氷川神社の分布する東京、埼玉の平地の地盤は70mで岩盤に達するが、最上層は関東ローム層、下にはシルト、砂があると聞きます。「根の堅洲の国」が極めて高深度のボーリング技術を持つ集団の用語であるとすれば武蔵地方はそのものズバリということになります。


メスリ山古墳と大彦  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月16日(月)11時18分56秒

かたばみさん

貴重な情報ありがとうございました。これのお蔭で私は独自に以下の推論に至りました。

魏志倭人伝は「其の國本と亦た男子を以て王と爲す、 住ること七八十年、倭國亂れ、相ひ攻伐すること歴年。乃りて一女子を共立して王と爲す。名んで曰く卑彌呼、鬼道に事へ、能く衆を惑す、年已に長大にして夫壻無く、男弟有りて治國を佐く。王と爲りて自り以來、見(まみ)えること有る者は少なく、婢千人を以て自ら侍らしめ、唯だ有り男子一人、飮食を給し辭を傳へて出入す。居處の宮室樓觀、城柵を嚴しく設け、常に人有りて兵を持ち守衞す。女王國の東渡海すること千餘里、復た國有り、皆な倭種なり。又た有り侏儒國、其の南に在り、人長三四尺、女王を去ること四千餘里。又た有り裸國、黒齒國、復た其の東南に在り、船行して一年にして至る可し。」とヒミコ共立を伝えていますがここにで「其の國本と亦た男子を以て王と爲す、 住ること七八十年」といわれる時代は後漢安帝に朝貢した倭王で出雲の先行者として妻木挽田で四隅突出古墳圏を統括していたのではないかと思っています。さて、共立の主体は箸墓、纒向出土各地土器より推定できる新首都纒向建設に協力した各地諸勢力、奈良盆地内でも西部、北部などの勢力、別の形や、移動して存在していた可能性のある池上曽根、朝日、登呂、文京、原の辻、妻木挽田、吉野ヶ里等過去に遺跡のあった地方、更に視点を変えれば、銅剣銅矛、四隅突出、前方後方、三遠銅鐸圏の中心地方の集団等であったのでは。纒向の地が選ばれたことは最寄の唐古・鍵遺跡において形成されていた秩序(ホタテ貝型の集団の後継者、箸墓もこの系統か)が最初に中核に入ったととする推測を許すが、この集団が各地勢力より突出していたという規模でもなく、建国時に主要国持ち回りの合意が成立していたこともあるかもしれません。又、「卑彌呼以(すで)に死し大いに冢を作る。徑百餘歩、[ジュン]葬するの者奴婢百餘人なり。 更に男王を立つるも、國中服せず、更に相ひ誅殺して時に當りては千餘人を殺す。 復た卑彌呼の宗女壹與、年十三を立てて王と爲し、國中遂ひに定まる。政等檄を以て壹與に告喩す。」この「更に男王を立つる」の意味ですが、黙示的に「女王を廃止し」という意味があるようです。これは共立原則の破棄を意味するわけですから共立以前の状態に復帰することになります。共立原則を破り男王を立てたり、それになろうとしたのは共立体制で利益を得ていた勢力が慣性によってその地歩を維持しようとしたもので、これに反対したものは男王によって利権、特に交易ルートを奪われ可能性のあったものでしょう。椿井大塚山は箸墓と同様の形式を持つが奥津城を山城に外されていることから、この男王であった可能性があるのではと考えます。

この後、「復た卑彌呼の宗女壹與、年十三を立てて王と爲し、國中遂ひに定まる。復た卑彌呼の宗女壹與、年十三を立てて王と爲し、國中遂ひに定まる。壹與、倭の大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を遣し政等還るを送らしめ、 因りて臺に詣り、男女生口三十人を獻上し、 白珠五千、 孔青大句珠二枚、 異文雜錦二十匹を貢ぐ。」と邪馬台国は第2世代に入ります。掖邪狗は正始四年(243)、ヒミコの死の約5年前に第二世代外交官としてデビューしていますが、上記の最大使者千人を越える暴動がおきたとされる政変を粛清も受けずに生き残っています。ヒミコ体制は聞得大君->スポークスマン->4官でしたが、4官は2世代のペアー(他の国同様)のこととも思われ、この後に建造される古墳にペアー的特性が見て取れることは、そのペアー形成においては同族の関与があったのではないかと考えるとメスリ山古墳、桜井茶臼山古墳が伊勢街道沿いに建設され、その後陵墓指定、神皇統譜から外されていることは主要国持ち回りの合意でハツクニシラススメラミコトとなったものが、後代の万世一系神話への切り替えの際に不都合とされ、一応記紀では神武を作りつぎはぎする一方、ハツクニシラスは行燈山古墳、西殿塚古墳、そして->宝来山古墳、渋谷向山古墳になったのかなーと思います。記紀の10代、11代天皇とはこの辺で接点があるのではないでしょうか。さて、トヨさんは男性中心の世の中となり、義理のおばの墓とされる箸墓に合葬されたのでしょうか。


 首スジに サ(節回し)のヨイヨイ    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月16日(月)10時26分50秒

s_tan さん、『 霰零る香島』の発音を教えてください。アラレフルでしょうか?
 できたら、元の古文献に“る”というるびが振ってあるかどうかも……。
 じょうずに言えないのですが、こういうとっぴょうしもない表現のなかにこそ、
真実がふくまれている。「アラレフル」はわがヤブニラミの眼に叶います。
 国家〜地方統一にかかわる“書き残し作業”には、言わねばならないウソがいっ
ぱい詰まっている……。お神酒飲んで語り継がれた伝承は……どうも……。

> 使われた漢字自体の意味が訳け有り、が強いと思うのですが。
★ そういう場合もあるが、単に音を漢字に当てはめた場合もあるのでは?
 当時の邪馬台国での「ヤ」は「JA」だったはずです。 Jamat-ai ね。

> 胸刺(むさし)無邪志(むざし)と清濁で読みを分けている。
★ この表現(言い方)は、ゆっくりとクーガーキングさんから修正してもらえる
 と期待していますが、小生が『第二子音濁化のクセ』と呼んでいる一種の法則が
 あります。
  子音が二つめ……というのではなく、まえに一個の母音でもいいのです。これ
 に続く子音は“濁る”のです。濁らない場合もあります。
  ですから、ムサシもムザシも日本を中心とした言語考古学手法では等価です。
  ただ、ムサシという語形にも恵まれているのですから、ムサシのほうが基本。

> サといえば「田の神=稲」、「サ」について他に考えられる意味は……。
★ “細”のサは朝鮮でできたみたいですね。
  早、些、狭、小のサはネパール語と共通してます。
  こういう単音節を見る場合、原音には SA の次になにかの子音があって、それ
 を脱落させたのではないか、との考察が極めてダイジでしょう。
  すなわち SAL(へび、蘆葦原、移動、歩く) SAR(水、雨?)は、先ず考え
 られねばならないところ。-m , -T , -J あたりも落ち易いですよね。
  真夜中になるちょっと前の時間帯をサヨといっていました。ワサにも同じ概念
 が詰まっています。精気が最高に盛りあがっている状況が「サ」らしいですネ。
  ネェちゃんはサオトメのときに子供産むべし。

>  伊自牟(いすむ)は伊甚(いじむ)とも訓ましているようなんです。
★ 上の「第二子音濁化のクセ」を適用。
  おらが睨みつけたのは「イ○○ー」の造語法でした。○○はそれまでの歴史の
 なかで定着した動詞・名詞で、「○○すること」に関連した概念を造ります。
  イフキ、イブリ(ブルが朝鮮語のふいご、胆振)はこれで造語されています。
 ネパール語でも NAM は名前ですが、I-NAM-(U)で名前を贈ることから転じて
  「褒美」になっています。
  ここは SUM が解けたら大略のところで、意味が出るような気がします。
  ところで、カスミとは密教坊主(意味は知識)たちの「縄張り」だったとか…
 …。額に汗しないでルンペンできる権利でんな。博多にもカスミ地名これあり。

> 大生神社……  ★ 「一の宮」の呼び方が定着する前の呼び方??

 


出雲大社の柱 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月16日(月)01時07分42秒

≫上古には32丈(約97m)、中古には16丈(48.5m)という高さは出雲地方の冬の季節と台風を考えると

97mは周尺(17.5cm)と唐尺(30〜35cm)が入り混じった伝承といったところではないかとみています。
それでは48.5mだとどうか。

この構造が実際に可能だったかどうかをある建築会社が実験するTVをだいぶ前に見ました。
立てた柱に側面から力を加えて強度を測定していましたが、単に埋めるだけでは建築不可能だったそうです。
私も無理ではないかと思っていました(法隆寺で30mほど)。

ところが・・
穴を大きく掘って柱の周囲を砕石で埋めて突き固めると強度が増大して、建築可能であることが確認できたそうで、古代人の智慧に感服ですなんてコメントがでていました。
実際に穴の周囲は砕石だらけです。

建築は可能であった、に現在は考えを変えています。

ただし、屋根や壁はいくらでも修理が利くでしょうけど構造部材が風雨にさらされた場合はどのくらい持つのかなあ。鉄部品を使っているようだし。
それが6回倒壊したという伝承になっているのではなかろうか。

かたばみ


馬と駒 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月16日(月)00時44分12秒

紋次郎さん
≫“駒”とは普通並みの、大きな馬でしょう? どうして、これをコマというのでしょう。

いやいや逆です。
「駒」はちいさい馬、あるいは若い馬の意です。コマは単純に「小・馬」コ・ウマじゃないかな。


書紀のスサノオが馬の皮をはいで投げ込む場面の文字は「駒」。
しかし古事記では馬だけで駒がでてきません。

漢字に意味をもたせる書紀だから使い分けをしているのだと思います。
スサノオ時代の馬が小さい馬であることを知っていたから駒の文字を使った可能性があります。

騎馬民族であれば馬を乱暴に扱ったりしない(神への犠牲獣にはする)。
少なくともスサノオが騎馬民族系譜ではないことを示すものと思います。


沼津湊タケトラさん
≫アメノサテヨリシマ(天之狭手依島?何処?)に御幸された折りに

ごぶさたです
おお、そうですウエツフミにも馬がありますね。
吾郷清彦氏の翻訳ではアメノサテヨリシマを対馬としています。
田中勝也氏のHPでもそこに登場する上津の縣と唐洲山の地名が対馬の地名に類似とみていますね。
ウエツフミ伝承の馬は、穴門(九州のどこか?)から対馬へ馬を輸送した話と推定できそうです。

「真木の磐船」を使ってとありますが、これは饒速日の天の磐船と無関係ではなさそう。
「磐」は頑丈なとか大きいといった意味かもしれない。
弥生中期の少なくとも海の民は丸木船以上の船を使っていた可能性、十分あると思ってます。

現在の対州馬は中型と小型の混在だそうですが、アマノフユキヌが運んだ小型馬と、後に半島経由で日本へ運ばれた中型馬が混在、といったところでぴたり(^^)

だとすると重要な問題が発生します。
大国主以後(国譲り以降)の出雲は馬を活用していたことになります。
銅鐸に描かれる「角のない鹿」は「春の角の落ちた鹿」とされるようですが、特徴を失った鹿を描くとしたらその理由が必要。
これは馬である・・馬がいなかったという先入観がなければそう判断するのが自然だと思うのです。

縄文の馬骨が残っているのは貝塚とカルシウム土壌の栃木の安蘇郡のみ。
発見されていないだけかもしれませんね。

ホツマでの馬の話、よろしくお願いいたします。

かたばみ


メスリ山古墳と大彦 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月16日(月)00時19分48秒

クーガーキングさん、9月12日のコメント
≫このHPのように被葬者をオオ彦とされますか

推測を書いてる部分ですね、翻訳してコピーしておきます(^^;
「メスリ山は4世紀前半の王墓である。周囲に阿倍氏らしき7世紀の墓がある、メスリ山古墳は大彦の墓かもしれない」

大彦が4世紀前半の人物と仮定していますが、この仮定は安本美典氏の年代論を受けたものでしょう。
安本美典氏の年代論は、神武以降を大和においています。

7世紀の墓というのは文殊院古墳のことでしょう。阿倍文殊院は阿倍氏の寺で、この古墳も阿倍氏の説があります。


で、私の年代論だとメスリ山古墳がだれのものと推測できるか、ということですね。
結論を先にいえば同じ推測になります。
ただし、その過程が異なります。

桜井市のメスリ山に隣接して同タイプの桜井茶臼山古墳があり、同じ大きさで編年も同じ。
北の天理市には行燈山古墳と西殿塚古墳という同タイプの古墳があり、やはり隣接です。
桜井市と天理市の中間に最大の箸墓古墳があります。

この5カ所は奈良盆地の200m級古墳として最古です。
弥生に栄えた唐古・鍵遺跡が消滅し、纒向遺跡が登場する年代に一致しています。

なお、それより古いとみられる100m以下の古墳が纒向にあります。
石塚、勝山、矢塚、東田大塚、ホケノ山で、三輪山の北西に一群を構成しており、ホタテ貝型という特有の形状が共通。この古墳群がだれのものかの推測も面白いけどまた別の機会に。

古墳形状からみた年代変化は
ホタテ貝型
 ↓
メスリ山古墳(?)、桜井茶臼山古墳(?)
 ↓
行燈山古墳(崇神)、西殿塚古墳(手白河皇女)
 ↓
宝来山古墳(垂仁)、渋谷向山古墳(景行)
この順番なのだそうです
(かっこ内は比定されている天皇、手白河皇女は年代が違いすぎて問題外)


自説にはいります。
ヤマトに「新たな大王」が登場した場合、この5つがその古墳である可能性が高い。
メスリ山と桜井茶臼山は同形式で隣接ですから、その主も同世代かつ同族の可能性が高い。
行燈山と西殿塚も同様ですが、こちらは次世代。

初期ヤマト王朝にペア→次世代ペアとなる4人がいるか・・

自説の年代論から、奈良(出雲の中枢)を制圧したのが開化。開化の兄が大彦。
大彦の北陸遠征伝承は、大彦が日本海側の出雲制圧えを受けたもの。

兄と弟が奈良にいた可能性が高ければ、同時期に同規模の古墳を作る可能性も高い。
メスリ山と桜井茶臼山が開化と大彦の墓
阿倍氏の墓との関連を受けるなら、メスリ山の方が大彦になります。
(現在の開化陵は念仏字山古墳に比定されていますが、出土物から5世紀の古墳でこれは不可)

開化の子が崇神248-273と彦座王。
崇神は大王となり、彦座王も日本海勢力の祖となる大王同等人物です。
(記紀系譜では大彦の後裔には阿倍氏程度しか登場しない。ただし他の地域で登場の可能性はある)
行燈山と西殿塚が崇神と彦座王の墓
(行燈山は崇神に比定されていますがおそらく正しい)

なお、箸墓古墳は記紀説話から倭迹々日百襲姫の墓でしょう。
開化の叔母です。卑弥呼の流れを継承するなら事実上の女王だった可能性が高い。


しかし・・
開化は自説では225-248という即位年になって、古墳編年と合いません。
編年の年代を100年とはいいませんが50年は引き上げないと。

ところが、年輪年代法の登場で年代の引き上げが現実になってきています。
年輪年代法が登場したとき、してやったりと思いました(^^)

ただし、年輪年代法もその木材がどう使われたかによって、「伐採された時代」と「そこで使った時代」が一致するとは限らない問題があります。
安本美典氏の年代論は年輪年代法と合致しないために年輪年代法の側に修正が必要として問題点を指摘しています。


歴史を考える場合、年代を仮定しなければなにもできませんが、その年代仮定が異なれば結果も異なります。

安本氏はAD250頃に神武(邪馬台国)が東征(東遷)(神武東征伝承は正しいの見解)。
私のは神武は九州統一のみで(AD50頃)、AD250頃に開化(邪馬壹国グループの男王)が出雲の中枢のヤマトを占領(東遷ではありません)、神武東征伝承は偽作、なります。

当然ながら記紀の解釈も異なってきます。
また、何かが起きるときには必ず原因がある、その原因も推定しておく必要があります。

いまのところ年輪年代法は自説に有利ですけれど、土器が焼成された年代を物理的に決定できる方法を切望しています。


re:首すじに緊張を伴わない/re&補:観字音痴 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月15日(日)19時14分04秒

s_tanさん re&補:観字音痴

>「サ」について他に考えられる意味

お手上げです。

re:首すじに緊張を伴わない 

>地震崩壊後の状況で次の対策?に分析するというのは、次まで永すぎて。。この揺れ方で>3日後に大地震、といった使い方はありそうに思います。記録の素材は木・石・縄、など>考えられるのでは。

おっしゃるとおり何らかの媒体はあるかもしれませんが、出雲の注連縄は太さが韓国のお祭り用の綱と似ており、情報伝達より宗教的な要素を感じますねー。
国譲りの代償に中央政府に建てさせたなんて今の島根県庁でもやりそうな記録が記紀にあったと思います。(私は荒神山のインゴットは吉備なんかとグルで平原では女王を殺したりして、奴国を襲って強奪し改鋳、秘匿した。中央政府はこれを聞きつけいわゆるお国替えをし、探索しようとしたが、タケミナカタという主犯格は裏日本沿いに親類筋に逃げ込んだ。今で言う3億円の犯人よりはるかに悪質であったのでは等と考えています。)

 


ナマスカール 投稿者:D.K  投稿日: 9月15日(日)18時32分03秒

 飛鳥って何故、飛ぶ鳥でアスカって読むんでしょうね。
若狭湾〜紀伊半島が古代史の重要拠点となっているんですが、
実際には別の場所から移された可能性が在るんですよ。
聖徳太子もそこの人物だと言う情報があって裏を取ろうと思って
足を伸ばしていますが、まあいそがしい・・・

 ナムアミダブツのナムってどう言う意味か知ってます?
インドにもアスカやナラの地名があるそうで、現地の証言から
するとマハーバーラタも先住系の神話を元に作った物だそうで、
ナムチが悪者になっているってワカル気がしません?


 いそがしい・・・ 投稿者:s_tan  投稿日: 9月15日(日)18時10分44秒

>D・Kさん
#ほんとに目が回ります、ネ^^。
蘇我氏の基盤は、大和飛鳥(明日香)と河内・飛鳥、葛城も入るというのが一般的で確実でしょう。
それに加えて、全国に特に東国に痕跡が多いですね、相模では以前の話の他に厚木市にも残滓とか、信濃・上田市の西あたりとか、史料などに見えない、古くから続くという「蘇我氏末裔」の話を聞くことが多いです。


>ワーム、
#なんか止らず、相変わらず、いいかげんにしてほしい、程、です。
現在、sub-PCでLog-on中、暇見てmain(NOS有)でチェックします。


re:伊豆地方の黒曜石 投稿者:s_tan  投稿日: 9月15日(日)18時07分49秒

としポチさん、こんばんわ

伊豆の黒曜石では、沼津高専の教授の方がご専門ですが、たしか「荒されるの多くなり、現在主用地は柵などで閉めてある、場所の案内はしていない」とのことでした。
この掲示板の参加者では、KENJIさん、http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/[玉手箱] が詳しいですが、この休日はご不在です。


re&補:観字音痴、、 投稿者:s_tan  投稿日: 9月15日(日)18時06分55秒

 紋次郎さん
>伊自牟(いすむ)伊甚
は(いじむ)とも訓ましているようなんんですが。。
牟邪が2つになってこれは胸刺(むさし)無邪志(むざし)と清濁で読みを分けている。

浦和の焼鳥もいいですね〜。
浦和といえば「調神社」境内の石造が気になってますが、まだ史料にあたりません、なにかありませんでしょうか。画像は「神社探訪」の「調神社」から見れます。

そういえば、江差の「シャチ跡」辺りの画像があった筈、見つかったらupします。

>紋次郎さん、クーガーキングさん、ご教授ください。
#記録が漢字で残されているので、使われた漢字自体の意味が訳け有り、が強いと思うのですが。
「牟邪」の「牟」は「広い場所(遠くの)」と「牛関連」の2つの意味を漢字が持っている。後に「无=無」になる。(牛とすると、長江あたり出自の連中が広いところに居た、などの意か、など考えてしまいますが^^。)
「サガム」と「ムサシ」とすると、「サ」が主体になる?。サといえば「田の神=稲」「広く神」が主体とすると「サ」について他に考えられる意味はあるでしょうか。


re:首すじに緊張を伴わない 投稿者:s_tan  投稿日: 9月15日(日)18時05分53秒

クーガーキングさん
>山内丸山、柱
#たしかにポリネシア高床式を連想しますね、ついでに連想するのはアノ屋根の反り−船底の反り−鳥居笠木の反りだったりします^^。 たしかポリネシアだったか奥地で今でも50m程の樹上に住居をかまえる民が残っているらしい。
出雲(雲太・・)云々で確か150年間ほど倒壊の記事がほぼ定期的に残っている、造営金輪図が残る、等で50m程はあったと思ってましたが、昔反撃くらいました。^^;。今は柱残存発掘も有り50mは認知されたようです。100mは確か中国の建物(石造・木造50m超)にこれに近いものがあるので、国威(コケオドシ)で建てたかも、など思っています。
地震崩壊後の状況で次の対策?に分析するというのは、次まで永すぎて。。この揺れ方で3日後に大地震、といった使い方はありそうに思います。記録の素材は木・石・縄、など考えられるのでは。
金沢チカモリに代表される「日本海巨木文明」みたいなものが残滓としてあったのでは、など思います。部族(クニ):日の出、日の入り、造ること在ることでの部族の結束・象徴・他への示威・・として。
3〜5千年前の河姆渡あたりで木の加工はホゾ有り、なんとワタリアゴさえ有りですから、あなどれません。

>鹿取
#「常陸国風土記」香島郡の条、
”其処に有りませる所の天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天の大神と称ふ。因りて郡に名づく。(風俗の説に、霰零る香島の国と云ふ。)”とか、”白髪の翁とか貴人の降臨とか”。
大神の主体は「大生神社」から移動したような気がします。「白」というのは香島から大洗いまで多いですね中世までの創立社に続く。白といえば「扶余」「騎馬」の連想になりますが。。


馬にウマがあう  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月15日(日)17時07分28秒

沼津湊 タケトラさん  

割り込みで失礼します。
越の国で800等の馬を飼育できるといえば佐渡しかないが、これは佐渡の面積を実測し最大量を決定したものといえます。多分国中(くんなか)平原全体を目測したのでしょう。アメノ+サテ+ヨリ+シマに含まれる「サテ」は佐渡と子音の清濁、母音の強弱を考慮すれば同一です。穴門から佐渡へは陸行、水行があります。陸行では安宅関が難関ですが、馬は立ちますし、暴れます。現在でもバスのようなもので4頭も乗れば目いっぱいかなー。ところが丸木舟だと800頭の輸送は想像を絶するものがあります。やはり水行はありえないと思います。さすれば、山陽道、中仙道、信濃、越後と陸行で来て最大の難事は越後-佐渡間の水行ではないかと思います。夏場だと馬は泳げますから船団を編成して泳ぐ馬群を囲み、真水、糧食を補給しながら数時間かけて数頭程度で運んだのかなーって感じがします。いずれにせよ日本人の感覚では考えられず、アメノ-フユキヌ-ノ-ミコトのフユキヌって冬季季節風で大陸方面から渡来した人って感じがしますね。上記のような家畜輸送計画がパッとひらめくのは沿海州ではなく満州方面の人だったのか、更にはもっと西の人だったのか。不取敢、心に浮かんだことを思いのままに言わしてもらいました。失礼しました。


√♪ お殿さまでも家来でも 風呂に入るときゃ みんな裸   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月15日(日)17時04分19秒

 ダサイ魂震撼のオジチャンだね。やっとかめ、なも
 kami(仕事)si(之)mo(裳)脱いでもオソガイお名前だなも。

※ シシはシシカバブ(カバブは焼肉)は、どのあたりまで広がっているのでしょう
  か? とにかくカバ焼き。シシは「刺し」と猛烈関係、これあらむか。慣用によっ
  て、焼串の金属製「刺し子」がシシとなったと思います。
  沖縄では獅子と SIMHA(ライオン)がぶつかって シーサーになっちゃった。
  猪はシシカバブで食ったらウマかッペェ〜。

※ ウマの皮は硬くて折り曲げたり伸ばしたりの連続使用には不向きですが、牛はなめ
  (ナメは牛の古い呼称、タジク語 nam は柔らかく、すべすべ滑らか)らかなた
  め、大風をおこすふいご(吹く篭)に用いられました。
  √♪ おおきな ふくろ(-LO は道具)を 肩にかけ  
  た大黒さんの袋とは、学者さんたちが言っている「息・長が」装置。
  ネパール語に A:dhi(大風)があります。ネパール語 phuk-は「口で吹く」。

※ 鹿はネパール語 sikar(猟)。sikari(狩人……マタギの棟梁)
  なぜ、鹿が尊敬されたか……。sikhar には頂上という意味があります。
  いずれもネパール語です。

※ あそこでは、おらはかたばみさんの入れ智恵のお蔭で、駒の ko は「西域〜ペル 
  シャ」だと見破ったつもりデシタ。
  アメ牛という表現がありますよね。ネパール語の N- は強調接頭辞です。あんがい
  N 音が脱落したか……?? 自信ありません。

 タケトラさん、こんごもよろしく願いあげます。
 いっしょに湯舟につかりましょう。√♪ 唄のひとつも うかれ出る

http://www.you-i.org


 伊豆の山奥に「エサシ」があった  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月15日(日)15時41分24秒

 伊豆半島中央部に海抜938mの丸山があります。その丸山のすぐ南の峰が「エサシ
ノ峰」です。
 エサシという名前は北海道のオホーツク海岸の北見枝幸につながり、かたばみさんの
武蔵解説にもあったとおり、朝鮮語 SASH(城)との同根を示しながら、アイヌの
チャシ(城柵)とも同根を示します。
 北見枝幸の場合は、もしかしたら和人が持ちこんだ“城柵とは関係ない地名”かもし
れません。しかし、北海道渡島半島西海岸にある江差(追分節で有名)は、愛宕山と
セットみたいになっていますので、これは古い。
 また、岩手には江刺市があることはミナシャンご存じのとおり。
 一戸、二戸の九戸町にもエサシがあります。九戸のエサシは、岩山が平地に突き出て
いて、山砦の威容をモロに感じます。
 こう見ただけでもエサシは、エゾとかエミシとか言われた大和朝廷に反逆した勢力を
匂わせています。それにしても……伊豆にあるエサシは「エサシ分布地帯の南限」を意
味していないでしょうか?
 しかも、深い山のなかで、ゲリラ戦覚悟の陣張りです。

 エサシの「エ」は中大兄皇子の「兄」と同義で「核上の」というエデン語です。です
から、多くの出城(山砦)を連ねたなかでも、親分格の城柵をそう呼んだことによるも
のだということが知れます。
 アイヌ語は chasi であることは述べました。chasi が朝鮮からの借用である公算は
極めて高いです。日本からの借用なら「チャ」などとはいいません。
 朝鮮がどこからか chasi の元を借用したなら、その原音は Dos-i だったはずです。
 ここにネパール語の Dos(咎めだてする)が浮上します。
 
 構造のうえでは、平泉の衣川の“関”も 簡単な柵だったそうです。その“関”にも
英語の check(チェック)と同根の chek(停止、制限), cheka(柵、とりで)の語
彙がネパール語にあります。
 朝鮮語の先にはネパール語が見えます。

 


馬にウマがあう 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日: 9月15日(日)11時56分09秒

>日本語には「駒・コマ」という言葉がある一方、「ウマ」とい
>うのもある。コは小だろうし、ウは大だからです。
#紋次郎さん、はじめまして、というかお久しぶりです。「ウマ」の「ウ」が、大だとしたら、「ウシ」の「ウ」も同様に大の意でせう。とすれば、「ウシ」の「シ」は、いかなる表意でありませうか。「コシ」はいないけど「シシ」はおります。「シシ」はもののけ姫では神でした。「シカ」も神使いのケモノだ紋ね。

 ところで、ご先祖様が執筆者の一人の『上記』では、馬と牛に関する記述が頻出し、しかも馬牛があわせて語られることが殆どです。(ちなみにシシや鹿は例外的にしか登場しませぬ)
 『上記』での語源伝承は、「馬」は「うまく走る」、「牛」は「道行きにうし(憂し)」と語られています。『上記』では「うままき うしまき」=「馬牧 牛牧」や「うまど うしど」=「馬人 牛人」などの用語もよく使われています。一方で「こま(駒)」の用語も出てきますが、前半部(古伝承)に限られる点や、「天のいず(厳)駒」や「天のかさ駒」あるいは「天の益駒」などと、「天の」の形容が付される点が関心を引きます。『上記』は常陸、伊豆、尾張などの古伝書伝承も含んではいるが、主に九州、出雲、越の古伝を取り纏めていると思はれます。九州日本海古伝承といつてもよろしいかと思ひます。とすると九州日本海古伝承においては、「駒」は「天系」の「ま(馬)」だつたといへるのでせうか。
 ところで、
かたばみさん
>縄文、弥生の馬骨の発見が、関東〜太平洋岸〜九州西岸〜壱岐に分布していることが興味深い。
#ということですが、『上記』では、アメノフユキヌノ尊(オオナムヂノ尊の父君)が、チヂノクの國(陸奥?)から海路で、途中、越の國に立ち寄つた後、アメノサテヨリシマ(天之狭手依島?何処?)に御幸された折りに、「この島には馬牛がいなくて田畑の仕事に困るだろう。アナト(穴門)の牧山の馬と牛を800頭移しなさい」と仰せられたので穴門のクズ(国司?群司?)達が馬牛を移送した、との記述があります(六の綴)。(尊はこの後、チクシノシラヒ(九州の白日)の國、トヨヒ(豊日)の國と巡ります。)
 やはり、船で運んだのでせうね。

 しかしながら、乗馬とくれば、やはり『ほつまつたゑ』でせう。以下後述。


神奈川県 塩水川 布川 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月13日(金)22時30分08秒

紋次郎さん

日本語ウィンドウズXP環境でコントロールパネル、地域と言語オプションでキリルにペケをしておき、http://www.dic.edu.mn/で左上に英単語を入力するとキリルのモンゴル語訳が出ます。これを英語に変換するわけですが、私はキリル、ハングル、簡体など自動的に頭の中で切り替えができますがこの辺が少しヒッカルカモ。女性の先生は腐るほどいますがねー。


  神奈川県 塩水川 布川    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月13日(金)19時39分51秒

 クーガーキングさん、有り難うございます。そのオンラインの辞書とやらを、ウインドウズ
用語でも構いませんので、Eメールでヤリクチをお教えいただければ幸甚です。

 もし、古代の顔が「ゴツゴツした骨相であればそれでいい」というのがアイヌ信奉者の執念なら、
神奈川・愛甲郡の 塩水川 布川 流域に注目すべし。
 ただし、いまはダムの底に沈んでいる。県庁に行って調べてみれば、疎開先のヂヂババにはめぐり
会えるだろう。今なら方言も採取可能かもしれない。


駒が勇めば梅が散る 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月13日(金)14時31分41秒

焼尻紋次郎さん

>クーガーキングさん、「イスム」と関連するかと思いますので、またコケにしたようで心苦しい
>のですが、相談に乗ってやってください。
>蒙古語;ship でひくとONGOTS などしか得られませんが、Vessel でひくと XumX という語彙
>に恵まれます。しかし、これが容器なのか舟なのかが解りません。援助交際アマカネ。
> XUMX は上田市の駅があるところの「フミイレ」、カスミ(ヶ浦)などを臭わせるかと。

オンラインの辞書ではShip=USAN ONGOTS, boat=ZAVIAR YAVAH又はYAV又はUSAN ONGOTS
のようです。


 駒が勇めば梅が散る    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月13日(金)12時40分57秒

 かたばみさん、超がつく資料 まいどありィ〜。
 
 おらにも少年時代があって、恐竜などにハマったときがありました。
 もう、70年も前に出た『化石の本』で、日本列島でネコぐらいの小さな馬がヤギぐらいの
大きさに進化してゆく過程が化石のうえから確認できる……みたいなことを読んで(?)、小
さな野生馬が、日本列島人と接触していた……と信じていました。
 でも、お蔭でふっきれました。

 信じていた……というのは、日本語には「駒・コマ」という言葉がある一方、「ウマ」とい
うのもある。コは小だろうし、ウは大だからです。
 かたばみさんの優秀資料は、縄文末期あたりのある時期に、日本列島には大小二種の馬の存
在があったことを容認させるかと思うのですが、この“駒”というのが、「天津甘栗食ったら
やめられない」みたいに、どこまでもあとを曳いている現象にはマイッタ・マイッタ。

 “駒”とは普通並みの、大きな馬でしょう? どうして、これをコマというのでしょう。
※ √♪ 東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花‥‥。
  やはり KO に東という意味がこれあらむか。
※ 胡……西域〜ペルシャ ……やっぱこうして書いてみる紋ダワサ。これが正解らしい。
  でも、「コ・大・小・オ」については、ここでは書ききれないほどの疑問これあり。


s_tan さん、痒いところに手が届いて、おらアズマし(津軽弁)じゃ。
 海上ならわかります。アイヌよりもアイヌらしい純粋日本人が海上町から出て、浦和東ぐち
で焼き鳥屋やってます。ミナシャンおいで・おいで。
 おらっちから西へ3キロ。埼玉県庁がある場所は、ちょっと前まで鹿島台と云っていました。
 やっぱ、ここは、海が内陸深く入りこんでいた時代に、舟の安全運行を見守る神が祭られてい
た……。浦和には道祖土(サイド)もあるんでっせ。/. サイの神 /.ドサまわり /.十三湖。

クーガーキングさん、「イスム」と関連するかと思いますので、またコケにしたようで心苦しい
 のですが、相談に乗ってやってください。
 蒙古語;ship でひくとONGOTS などしか得られませんが、Vessel でひくと XumX という語彙
に恵まれます。しかし、これが容器なのか舟なのかが解りません。援助交際アマカネ。
 XUMX は上田市の駅があるところの「フミイレ」、カスミ(ヶ浦)などを臭わせるかと。

KENJIさん、THAR asi(族長)という解釈がネパール語から出るのですが……。
 やっぱ、ネパール語では“イキナリ”すぎますか?
 THAR は「苗字、一族の姓」、adhin(支配)。沖縄では「按司」が残っています。

 


魏志倭人伝 投稿者:太田守人  投稿日: 9月13日(金)12時33分31秒

かたばみさん、いろいろありがとうございます。魏志倭人伝は、里程と水行・陸行の2種類の距離基準を使ったいますが、私は、里程は魏が通いなれたところ、水行・陸行は初めていったか、奴国あたりで聞いた話しのどちらかだと思っています。私は、魏の使者は、邪馬台国の都まで行っていないのでないかと疑っています。

邑智潟周辺は、邑智潟地溝帯ともいわれていますが、どうも水路云々の伝説はありませんし、そのような遺跡が発掘されたと言うことも聞きません。



伊豆地方の黒曜石 投稿者:としポチ  投稿日: 9月13日(金)10時40分46秒

私は石器製作や黒曜石採集を趣味としている者です。
今度伊豆方面へ行く用事ができ、そのおり黒曜石の産地も訪ねてみようと
計画中です。どなたか伊豆方面の産地情報を御存知の方がおられましたら
御教示いただけませんか。よろしくお願いします。

http://www1.odn.ne.jp/cbp98350


いそがしい・・・ 投稿者:D.K  投稿日: 9月13日(金)02時02分27秒

韓子,高麗(馬背)、稲目、馬子,蝦夷,入鹿・・・
韓や高麗との関連ってどうだったんでしょう。
馬は聖徳太子にも馬が入っていますが、稲目は
稲作民族、馬子は騎馬民族だったりすると渡来系や
先住系が収まりそうな臭いのする系譜なんですが。
一貴族のクセに天皇の真似などしおって、増徴するにも
程が在る、討ち取ってくれるわ!の文脈は討ち取るための
正当化には成りますが、蘇我氏が関東方面に基盤を持って
いたとすると、その後ほど無く東北遠征が行われるんですね。
仏教導入は物部氏も反対ではなかったそうで、かなり
裏読みが必要な時代の気がします。


re:観字音痴、 投稿者:s_tan  投稿日: 9月13日(金)01時47分11秒

 紋次郎さん
>ことばはムズカシイこと喋りたがる紋です。・・・
#こちら、どうも逆のようです。星新一に影響大なのかも。。
“3”“2”に固定された意味があるのか不明(読み逃し?)ですが、なんとなく理解です。

>目、地溝帯、邑智潟
#連続観測から日本列島は弓なりが年々キツクなっているとの事ですが、能登の部分は確認できませんが大陸に押しつけられる先端で変化が大きい可能性はありそうです。
弥生以降は・・としたのは、大阪河内平野の変遷からです。大阪は排水施設建設が多と言うこともありボーリングの詳細データから河内湾−河内湖−河内平野と詳細にまとめた有名な資料があります。これに貝塚等出土の貝の種類(海水、汽水、淡水)を併せ年代と岸を追ったことがありまして、、大阪は琵琶湖周辺、京都市、奈良盆地と広範囲の雨の出口。
この条件と比較して能登鹿島の標高20〜35mを埋めるのは2千年ではちと無理かな、と思った訳です。ですが実見してませんし石動山(せきどうさん)の名の山がありますので、水路有かも。この場合は地元にそれなりの伝承があると思います。あれば太田さんから、情報が返ってくるかも、と思いながらの、弥生以降は水路は無理、の書込みでした^^。
地震での隆起は結構太平洋岸に多いのですが、千葉房総安房先端も近年(江戸終?)何メートルか隆起してます。あと異変の無い状態で平地で年間1ミリ高くなるそうです。

>茨城のカシマは新しい。カトリと同列に扱われねばならない・・・
#正解です^^。
匝瑳郡の物部小事が蝦夷数千を鎮圧して支配地を増やしこの時に近所の津宮など併せ祀ったのが香取と言われてます。香取社は遅くとも西暦580頃に創立で主祭神は夫婦(経津主、比売)の2神。八日市場市の老尾神社も小事。
鹿島社は、孝徳の時に中臣部某と中臣部兔子(うのこ)が願出て下総海上と常陸那珂の一部から香島評を作った(風土記)。これが西暦650頃。この頃の中臣部の氏社は今の鹿島神宮の北にあった沼尾社と云われてます。暫く「香島社」と言われていたが今の地に移った時期は不明です。

>それでも「カ」が分らなくなって「カ」を舟の櫂などになぞらえた。
#香取の津宮は水夫(カコ)の神で香取の「カ」は櫂、という説もあります。鳥は忌部に近い天日鷲を祀る社が近くに点在しますので、これも可能性有です。もちろん日本武尊関連は多いです。

>秩父
先代旧事本紀の国造本紀に崇神10の時代に「知知夫国造」に任命された知知夫彦命が大神を祀った、とあります。知々夫から秩父はいわゆる好字の和銅6(713)に変ったようです。

>上菟上・・
クーガーキングさん地域の説明さすがです。読みは・上菟上(かみつ・うなかみ)上海上・下海上とも、2つ併せて海上国、前出の物部小事のからみ、海上国は印旛沼辺りまで含めて連合国家を形成していた、などの説もあります。老尾神社の辺りは武社国(むさ)だった時期もあり(牟邪臣)。
伊自牟(いすむ)伊甚の表記も有、今の夷隅郡。
(Z。。....ZZ)


re:蘇我韓子 投稿者:KENJI  投稿日: 9月12日(木)23時00分46秒

>大王以上の力を持つかどうか(権力)と、大王に即位するかどうか(権威)は別の問題だと思うのです。

ですね。ですが、帰化人を数多く傘下に入れ、大陸の知識も多かったと思われる蘇我氏が
中国大陸での政権交代の例を知らなかったとは思えません。
秦から漢に交代したのは、地方の親分的な平民の劉邦だった事も知っているでしょう。
馬子、は権力だけで済んだようですが、蝦夷はボチボチと実力行使をしたみたいですよ。
入鹿は、山背大兄王を殺害した皇極2年(643年)から、天皇と同じ事を数々しています。
山背大兄王を亡き者して天皇を自称したという事は、其の前の天皇は、山背大兄王?
其の前は、かたばみさんが「多利思比狐」で言われていた、聖徳太子では・・・。

入鹿が天皇を自称した時に、天皇とされている皇極は、天皇ではなかったと思います。
入鹿がもう一人の天皇を、同じ飛鳥の地に認める筈が無いです。

皇極だけでなく、其の前の舒明、推古も天皇の位にはついていないと思い初めています。
舒明、皇極は、天智、天武の両親で、天智・天武が皇位継承権を得るために入れたのではないかと・・・・。
最悪、皇極は皇族の血を引いていても、舒明は引いていなかったのかも。
蘇我氏全盛の時に、蘇我氏の血を引いていない田村皇子(舒明)が天皇の位に就くこと自体、無理が有るでしょう。(妃には馬子の娘が入っていたとしても・・・。)
増してや、其の舒明天皇が亡くなった後に、皇極帝よりも舒明の子供、古人皇子が
継がないのは、もっと不思議。蘇我馬子の孫に当たる皇子なのに。

天智は入鹿のテツを踏まないために、一度、考徳帝を立て、その後に甥の自分が帝位に
着く計画だったと思います。
間に斉明帝が入ったのは、間人皇女との事が有り、実の兄弟が結婚したら、皇太子を
降ろされた先例が有り(允恭帝の皇太子、軽皇子が軽大郎女と結婚し、皇太子を廃された。)間人皇女が亡くなるまでの間の臨時措置だと思います。

整理しますと、天皇(大王or大君)の位は、
〜〜崇峻−聖徳太子−山背大兄王−入鹿−孝徳−斉明−天智〜〜と、
変わったと思われます。

「多利思比狐」で、思い出すのは、「タラシヒコ」を含む名前を持つ天皇が、
12景行・13成務・14仲哀・神功・34舒明・35皇極(斉明)です。
舒明の父親の押坂彦人大兄皇子の母親は、息長真手王の娘、広姫です。
息長氏の系統です。神功はオキナガタラシヒメ。何か匂いそうです。(^^ゞ

蘇我氏の事を考える時、「記紀」を作成させた天武帝前後の事が如何しても関わりが
有りそうな気がします。

 


re:蘇我韓子 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月12日(木)20時50分00秒

KENJIさん≫魏の曹操が皇帝を名乗らなかったけれど、実際は其の権限は皇帝と同じだった様に。
stanさん≫蘇我≠大王、とすると不思議が多い

現代日本で「平民あるいは外国人」が天皇に即位したとしたら・・
総すかんで、近日中にチョンだろうなあ。

大王以上の力を持つかどうか(権力)と、大王に即位するかどうか(権威)は別の問題だと思うのです。

天孫系の大王は入れ替わりがあっても結局はみな天孫の枝のひとつ。
王族の歴史が長ければ長いほどその王族が国を代表する象徴になってゆき、だれもがそう感じるようになる。
イギリスやデンマークなど王族が消えずに長く続いている国ではみな同じだと思います。

馬子も蝦夷はそれを感じており、正しく権力を選んだ。
でも入鹿はやっちゃった、で即刻チョン(^^;
藤原氏も天皇以上の権力を長期間持っていたけれど、左大臣なり関白なりに留めていたために長持ちしたと考えています。


KENJIさん≫田舎豪族と蘇我の分家の石川麻呂と組んだ中大兄皇子。(石川麻呂の娘を二人嫁にしている。)
stanさん≫馬子直系でなくとも臣下の傍系がこれほど続くだろうか。。蘇我氏は超美人生産の家系か^^。

超美人生産の家系・・むふふ、平民でござるな(^^;

蘇我氏に昆支王の血が流れるとみる理由はここにあります。
百済滅亡で有力者が大量に帰化しています、百済王の血を持てばそれを取り込むのに有利なのは確実。
藤原氏が蘇我分家の娘をいれたのはこのため、天智(中大兄皇子)も同じと考えています。


ps.
いわゆる貴族言葉というのがどう生じていったのか分析できないかなあ。

かたばみ


縄文と弥生の馬 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月12日(木)20時09分58秒

≫魏志倭人伝で、邪馬台国に馬はいないと書いてありますが、
≫私は、縄文馬という野生種が日本にいたと、読んだ記憶

魏志倭人伝の使者が歩き回ったのはいくつかの宮殿の周りだけでしょうね。
しがみついていたら危ない危ない(^^;

以下はほとんどが「日本古代文化の研究 馬/森浩一編/社会思想社」参照によります。
大勢の専門家がいろいろな分野から書いていて貴重だと思いますがあいにく絶版。

馬骨発見は縄文後期では千葉県銚子市金山貝塚、栃木県安蘇郡野上遺跡(どちらも位置未確認)
鹿児島県出水市出水貝塚、熊本県轟貝塚(歯のみ)
弥生では多数(種子島、長崎3件、愛知3件、東京、神奈川)。

縄文、弥生の馬骨の発見が、関東〜太平洋岸〜九州西岸〜壱岐に分布していることが興味深い。
これは後述。

小型馬と中型馬に分類でき、縄文では小型馬ですが弥生になると中型馬が登場(愛知2件、、東京、神奈川)。
(蒙古馬も中型ですが日本のは足が細く、蒙古馬とは違うようです)

金山貝塚と出水貝塚の縄文馬骨は20才程度の老齢馬で、イノシシの骨は破砕して骨までしゃぶっているのに馬の骨には破砕がなく、大事に扱われていたとみえるそうです。
農耕用だろうか、荷役用だろうか。

縄文に世界最古の家畜馬の痕跡が残る可能性がありますけど、同じ本の別の著者は内陸アジアでBC2000以降が馬の家畜化で、縄文のは食料であろうといっていますけど・・(^^;
しかし、BC2000頃縄文に馬がいたのは事実。


漢は当初は匈奴から蒙古馬(中型馬)を入手していたようですが、後には西域から大型馬を入手します。
これが天馬とか千里馬といった馬を求める伝説になっていったようです。
福岡県竹原古墳の壁画では波と馬の図があり、これは中国の竜媒伝説を描いた可能性があるようです。
(牝馬を水辺に引いて水中の龍馬の種を得て天馬を生ませる伝説)


弥生の中型馬は蒙古馬とは異なることから、漢からの混血種の輸入である可能性が高い。
なお古墳時代の中型馬は北海道の和種や木曽馬に近いもので、中央アジアの高原馬の血が混じると推定できるそうです。
これは応神あたりの輸入かな。


日本に残っている古来種は
北海道和種(ドサンコ、松前藩の南部馬導入による種、中型馬)
木曽馬(神社の神馬がかろうじで残っておりこれを種馬として生き残ったそうです、中型馬)
御崎馬(宮崎県串間、徳川時代の秋月藩の馬の子孫、中型馬)
トカラ馬(九州トカラ諸島に残っていた馬、日本の在来小型馬の純粋種だそうで、天然記念物)
対州馬(対馬の在来種、中型と小型の混在)

朝鮮半島では魏志韓伝で辰韓で弁辰が馬があり、小型馬であったようです。
現在の済州島馬やトカラ馬と同類で果下馬と呼ばれた。

トカラ馬と同種の小型馬の分布は
朝鮮半島南部、済州島、奄美、沖縄、海南島、華南、四川、雲南
ヒマラヤ、フィリピン、マレー、インドネシアだそうです。
(フィリピン、インドネシアは現在はアラビア系がはいっているらしい)

「テン」王国の馬もこれのようで、タイの山岳民族の馬も同じ。
BC300頃の楚の文献では「{竹かんむり+乍}馬」と呼ばれているそうです。


さて・・とすると
小型馬の代表が四川馬、中型馬の代表が蒙古馬。
黄河〜長江の間は牛で馬はいなかった。

150万年前の馬の祖先の化石が日本からでていますが、この種は絶滅しています。
現在の馬の祖先は北米で、100〜50万年前にユーラシアに渡って広まっていったそうです(温暖系)。
温暖の縄文では海で切り離しですから縄文に野生馬がいた可能性はないそうです。

小型馬の分布は東南アジア〜フィリピン〜(台湾)〜南西諸島〜九州・・黒潮沿岸
四川〜華南〜(台湾)〜西南諸島〜九州・・

縄文後期、BC2000頃にこのルートで小型馬が運ばれてきた、とするほかはない状況です。
体重190キロほどですから5,6人乗れる船ならいけそう、双胴船ならなお確実(^^;

これまた良渚文化滅亡からの脱出者、毎度おなじみ三苗の登場となります(^^;

かたばみ


武蔵と鉄鉱石 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月12日(木)17時38分12秒

かたばみさん

>稲荷山鉄剣銘文には祖先をオホヒコ、その子タカリスクネ・・とあります。
>オホヒコは開化225-248の兄とされる大彦(意富彦)でしょう、次に宿禰がでてくるのでこのあ>たりで>大彦系と渡来系が結合し、その人々の子孫が関東へやってきていたことがうかがえます。

かたばみさんはメスリ山古墳http://www2.begin.or.jp/sakura/mesuri.htm このHPのように被葬者をオオ彦とされますか。その場合、上記の開化の編年と考古学的発見のGapがあろうかと存じますが、その場合は在位数字体系への影響はどうなりましょうか。この辺のご意見に非常に興味を抱いています。

 


観字音痴 ボサーッ  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月12日(木)16時37分45秒

紋次郎さん
s_tan さん

割り込みでしゃばり失礼。
 
> 暮らしが辛かったのか、奥羽のひとがいっしょけんめい先祖の地を探したところ、常陸の
> くにだと判って、一族をつれて移動したという話をなにかで読みました。そのときのキー・
> ワードは白い鳥だそうでした。「古代語 KA=鳥」は言えます。
> カシマの鹿は慶字ですのでまったくアテにできません。「カ」は鳥ではなかったでしょう
> か? あれっ? くちびるの緊張も緩みましたか。

多賀城の歴史博物館には東北の歴史的遺物が非常に多く陳列されていますが、特に多いのは鹿島神宮に行き着く伝承であり、これにはびっくりしました。

上菟上国造(上総、市原市養老川以南)下免上国造(下総、利根川下流香取郡一帯)・伊自牟国造(上総、千葉県夷隅)

ところで鹿取神宮氏子総代は確か、鹿取さんでした。話は変わるが藤原氏は茨城の日立那珂あたりの出で、鹿島、鹿取ができたころと言われますがいかがな紋でしょうか。大阪府高槻に古墳があるといわれますが、継体天皇の古墳もあの辺にあり、なかなか大和中央に青山を得られないのが共通しているような気がしますね。



首すじに緊張を伴わない歴史観 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月12日(木)14時20分38秒

s_tanさん  

三内丸山の六柱については現場でこれを何だと思いますかとの案内板に書いてありますが、すぐに連想するのはオアフ島ポリネシア文化センターの高床式酋長宮殿です。ポリネシアでは力の強い若者は殺し皆でその肉を食べ、また、神殿の柱の土台に彼らを生き埋めにしたといわれています。
一時バヌアツhttp://www.wataboushi.npo-jp.net/worldmap/region/20pacific_ocean/banuatus/banuatu.htm
で青森県のある特定地域縄文遺物1千年分が芋畑から出たとして大騒ぎとなりました。しかし旧石器時代遺跡に改ざんを加える人が出たりして余り突飛な出来事には注意を要することも分かってきました。
三内丸山の六柱について別様に考えることができないかと私が考えた背景はこうしたことにあります。さて、諏訪の御柱祭については優れた的考察があります。
http://suwa2.root.or.jp/onsuwa/onbasira/
古事記では出雲から強硬派のタケミナカタが諏訪に逃亡してきています。御柱の風習はタケミナカタが持ってきたのではなく、古来この諏訪の地全域に広がっていたもので、逆に出雲こそこの地の影響を受けていたのかもしれません。
立てられた4本の柱からは次回祭礼の始まる前までに、木霊が抜かれるそうですので、少なくとも四方のの悪霊を追っ払うのが目的のようです。
http://www.shinmai.co.jp/cgi-bin/onbasira_read.pl
次に出雲ですが
http://www2.sanmedia.or.jp/junk/shade3/ie/ie.html
上古には32丈(約97m)、中古には16丈(48.5m)という高さは出雲地方の冬の季節と台風を考えると建設時に常設を意図していたとはとても考えられません。
ここで考えられるのはこうした構造物は天然自然の脅威を防御するのが主目的で、倒壊することは織り込み済みであった。倒壊したときにはそれを検討しどの方向にどのように倒壊しているかを調べそこに神意を伺ったのではないかということです。ポイントは定期的に観測用構造物を作り、それに対する自然の力の影響を長期間にデータとして蓄積すれば予報に役立つのではないかということです。


観字音痴 ボサーッ 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月12日(木)13時52分26秒

 s_tan さん、ポッと出なんですよ。ポットで移植用苗木育成ちゅう。お手やわらかに……。
 
> でも気になる推理の背景は知りたい^^。
★ ことばはムズカシイこと喋りたがる紋です。ことばは一見すると、おらが価値観リクツで
 “3”に属しているかのようです。でも、その3の内意を持った発音は“2”の記号にしか
 過ぎません。価値メカを見抜いた高橋稔も、かなり永い間「ことばは3だ」と、錯覚した発
 言を続けていました。
#、楽しく拝見。
★ 「楽しい」は“2”です。首筋に緊張……走りませんよネ。
  歴史を見つめるs_tan さんの目〜ものの見方にはダンゼン敬服しています。

>  邑智湖はかなり内陸まで入っていた可能性が有りますが七尾に抜けるまで標高20m以
  上が7kmはある。6世紀初頭に完成と云われる難波の堀江が1km弱で標高は2〜5m、こ
  れに30年はかかったそうですから。弥生以降は邑智−七尾の水路は無理だったのではな
  いでしょうか。茨城鹿島は鉄関連との説もあり標高は35m。
★ この地の縄文海進・海退の年代や陸のうねりぐあいは掴めないでしょうか。入善は隆起し
 て、親不知地帯は沈んだのではないでしょうか。
  ある日水路が土砂に埋まってドヒャァーと 云ったままで放置され、至る現在……かな?
  一帯は「頸城」です。「くえキ(大地)」が底にあった……みたいなような。
  チクシは陸路、水路を問いません。
  「鹿島」が離れているわけ……夢想。水路はいつも権益争奪の戦争の場です。ホコラのご
 神体を風呂敷包みに背負って逃げてきて、ほとぼりが冷めたら、また同じ名前の(こんどは
 神社を)建てた……。よくあるハナシです。
★ 茨城のカシマは新しい。カトリと同列に扱われねばならない……を直感します。
  それでも「カ」が分らなくなって「カ」を舟の櫂などになぞらえた。キー・ワードは北九
 州飯塚市にある「伊岐須」にあるみたい。いまのところ、いちばん似ているのは蒙古語の
  e:gs (葦)なんですけどねぇ〜。葦は古代人の強烈な偏執だったとはいえ、これじゃ、眼
 にも緊張は走りません。
  暮らしが辛かったのか、奥羽のひとがいっしょけんめい先祖の地を探したところ、常陸の
 くにだと判って、一族をつれて移動したという話をなにかで読みました。そのときのキー・
 ワードは白い鳥だそうでした。「古代語 KA=鳥」は言えます。
  カシマの鹿は慶字ですのでまったくアテにできません。「カ」は鳥ではなかったでしょう
 か? あれっ? くちびるの緊張も緩みましたか。

> 知々夫−上毛野−相武−師長−无邪志−下毛野
★ 秩父の名前がつけられたのは、708年の自然銅発見のときではないでしょうか?
  TUTU-UB(破壊と創造)……国造りの神・チチブヒコ。
  SAGAR(海)MUT(陸地)……美人語。

> 上菟上国造、下菟上国造、伊自牟国造
★ スミマセン、読めないのですが……。観字音痴ボサーッ。くちびるに唄を!


廃仏毀釈 投稿者:s_tan  投稿日: 9月11日(水)21時43分42秒

仏と神は一体、なぜ分離か?と思ったのは殆どでしょう。ムコウミズニ表で反論したというのは、琵琶湖近くの胡宮神社で聞いたくらいですが。
なにしろ廃仏毀釈は、Topから下に行くにつれ拡大したらしい。各県毎に徹底・時期がマチマチだった。一説では、国富の為、社寺の境内を田畑にしたらコレダケ農作物が捕れる、と机上の計算をして上表した小役人が居たらしい。
ま、寺も既存の大きな権力持ち、キリストの博愛平等が広く浸透しては新政府の方針とは相容れない、で、国家神道で思想統一ですわ。
この時も活躍する小役人が居て、伊豆の大山祗神が事代主に置きかえられたり全国の神々が地元に薄いのが多くなった。そうです。


首すじに緊張を伴わない歴史観 投稿者:s_tan  投稿日: 9月11日(水)21時21分05秒

>紋次郎さん
>・・平民のボケーッとした 心情で眺めるのがいいと思います
#ですね^^。 ですよ!
文化は複層、複流でないと長続きしません、文化にならない。見つかる遺物もその当時の例外ばかり、カモ知れないし、残された史も当事者ABでは逆の捉え方。あれも真実これも真実^^。白を黒というのがデーベートの骨子。断定反論などとてもデキマセン。
でも気になる推理の背景は知りたい^^。

>chi は水路にしろ、陸路にしろ「みち」です。
#、楽しく拝見。
邑智湖はかなり内陸まで入っていた可能性が有りますが七尾に抜けるまで標高20m以上が7kmはある。6世紀初頭に完成と云われる難波の堀江が1km弱で標高は2〜5m、これに30年はかかったそうですから。弥生以降は邑智−七尾の水路は無理だったのではないでしょうか。
鹿島は「目」監視ですか。能登の鹿島が目に付いて、地勢の共通点を探してたのですが。茨城鹿島も含めて海に関連とは思ったのですが特に良港側という条件だけでもないし。。能登雨の宮古墳近くの鹿島は標高30m近いし、茨城鹿島は鉄関連との説もあり標高は35m。。
「目」をもとに能登をみると、なんと、能登鹿島というのが七尾北湾一望できる場所にある、雨宮のそれからは七尾南湾の出入りが監視できる、さらに雨宮古墳の近くの国造山から七尾北湾の能登鹿島が見え、邑智潟湖からの侵入も監視できる。能登臣はこの監視体制で逃げ場も考え監視の情報集中場所を雨宮鹿島、通常の住居も近くに置いた。邑智潟からの侵入が同じヤマトの配下になった連中が監視対応するようになって、国分寺・万行倉庫群など主要を七尾湾近くに移した。と思い付き。。
太田さんの情報の雨の宮古墳あたりが潟湖からの陸上げ地点で、散田金山が大海への出入口、古墳年代は何時頃なのかなぁ。

>クーガーキングさん
>私は三内丸山の六柱、諏訪の4柱、出雲の社殿など皆台風、地震などについての予測の呪術(科学)と解釈してます。
#これ、面白いです。柱をどんな風に予測に使うのか教えてください。どんな予兆?を読むのか興味津々。

 


re:加賀、能登 投稿者:s_tan  投稿日: 9月11日(水)21時19分15秒

>太田さん

やはり伏流水は多いですか。以前某住宅街の地下調査に立会った事がありますが、伏流水の主流はゴウゴウと音をたて地下深くを流れていました。

金沢付近は大きな古墳がありませんか。継続安心して作物が取れる大きな平野も地形自然からの利権も少なそうですから、でしょう。(鉱山の)利権が大きくなる頃には大古墳の流行は終っていたのでしょうか。

>墓を隠す習性のある騎馬民族が、この金沢周辺にいたように思います。
#これは追う価値ありそうですね、ジンギスカンの流が分るかも。ただ耕作地確保の為に小山がほぼ躊躇なく均されるのは昭和以前は当り前ですから、この辺の確認も必要ですね。

>七尾市・万行、雨の宮古墳、散田金田古墳・・
#興味ある情報有難うございます。
特に豪族が入れ代り立ち代り、というのは実に面白い。古墳・遺物を含めて地方2つの勢力を追うとその背景の中央の動きなども分る事があると思います。
「加賀」の潜戸ですね、地勢から能登と先走りそのままでした、失礼しました。
コウモリ男穴女穴は、他のどこかにと記憶にあるのですが思い出せません、また。
ご存知でしょうが、オンドルといえば比叡山の琵琶湖側、穴太近くにいくつか見つかってます。天智38が(逃げた)場所というのも面白いですね。

>ヤマト、ムサシ
神武紀の宮場所選定の話に「国の墺区」として橿原宮造る。とありますが、この墺(もなか・と訓ませる)は真中の意ですが、これは班固の「長安=天地の墺区」が出典でしょうが、墺には、山間の住むに適した処の意と入組んだ岸の停泊に適した場所というのがあります。738,天平10、諸兄、大倭国を大養徳国(やまと)とする。なんてのもあります。

ムサシはサガミを追っていると寄道してしまう言葉です。
県主・国造辺りを追うのですが、これが資料毎で幅がありすぎて。。まあこの辺りの原資料は殆どないのが実情でしょう。で、時代順には、いまのところ。
・上総・下総のように、ムサを上下に分け牟邪上をサガム、牟邪下をムサシ、とした。
・牟邪下は胸刺と無邪志に分れる(同族内)。
・中央の影が強くなり胸刺+無邪志で无邪志となる。
・東北奥羽への侵略強化で知々夫を含め一括管理、兵站武器補給の重要地区となる、これが定着して武蔵となる、武蔵定着は桓武以降。
国造本紀での出現時代順は、ムサシ近所では、知々夫−上毛野−相武−師長−无邪志−下毛野。。
考古学上からの範囲は、・知知夫(埼玉県秩父郡・児玉郡・南埼玉郡)・无邪志(大宮市・北足立郡・入間郡の一部・東京都の一部)・相武(神奈川県高座郡・愛甲郡)・師長(平塚市・小田原市・中郡)とされてます。乙巳の変後、相武+師長で相模になります。
古事記では「建比良鳥命「此出雲国造、无邪志国造、上菟上国造、下菟上国造、伊自牟国造、津嶋県直、遠江国造等之祖也」から始り、ほぼ无邪志で表示が統一されている。
景行段に佐加牟、橘樹がでる。この橘樹は結構狭い地域。
ムサシ国造の内紛はご存知と思いますが、これが安閑27段なのですね、安閑に限らずどうも天皇紀の事績余談と考古遺物の流れが繋がらない。例えば4世紀中葉の京都椿井大塚山と並ぶ相模の白山・真土古墳が説明できる史料がない。


re:蘇我韓子 投稿者:s_tan  投稿日: 9月11日(水)21時16分49秒

建内宿祢−−蘇我石川宿祢−−満智、韓子−高麗(馬背)、稲目、−馬子−蝦夷−入鹿−。
漢字に持たせた意味からすると、男子としての系統が代った可能性も強そうですね。
このうち枝氏の派生は、建内宿祢、稲目、馬子で宿祢と馬子が特に多いですね。氏族というのは当時の政治的特権階級(搾取できる権利持つ)ですから宿祢、馬子は特大な権力を持っていたことになりますね。

書紀から、乙巳の変、2ヵ月後の8月をみると
1・乙巳変直後の東国への長官派遣8人のうち5人が蘇我氏系(3人が孝元8からの流れ、2人が蘇我氏系)
2・同時に倭国の六御県の実入り調査(田畑)をしている。(大王直轄である倭の六県の実入りを変の首謀者(正史でいう大王側)は知らなかった。何故?)
3・大寺(飛鳥寺:法興寺)に使いを出し仏法礼賛と統制を変える詔を出しているが、馬子が仏教を興隆させた事への礼賛と唐帰りの連中が仏法管理するなど、馬子への礼賛は多いが「聖徳太子」については一言も無い。
と、蘇我≠大王、とすると不思議が多い。

蘇我氏の女系は、石川刀子娘(文武42嬪)が不比等の孫・聖武の為、嬪号を奪われる、まで乙巳変後160年続いてますね。馬子直系でなくとも臣下の傍系がこれほど続くだろうか。。蘇我氏は超美人生産の家系か^^。


廃仏毀釈 投稿者:太田守人  投稿日: 9月11日(水)12時32分23秒

鶴来の金剣宮は、明治政府の廃仏毀釈に異議を唱えたそうです。「今まで、神様と仏様を一緒にして崇めていたのを、なんで神様だけにしなきゃいけないんだ。」と言ったそうです。これで、明治政府に睨まれ、以後社運が傾いたそうです。明治の廃仏毀釈の時に、こんなことを言った神社は、日本中にまだあったように思いますが、どうでしょうか?


かたばみさん 投稿者:太田守人  投稿日: 9月11日(水)08時10分25秒

色々と教えて頂きありがとうございます。ここの掲示板は、非常に水準が高いです。どこまでついていけるか、不安ですが、これからもよろしくお願いします。
魏志倭人伝で、邪馬台国に馬はいないと書いてありますが、私は、縄文馬という野生種が日本にいたと、読んだ記憶がありますので、邪馬台国では、騎乗の風習がなかったか、あってもわずかだったかのどちらかと思っていますが、どうでしょうか?馬は、この時代日本にいなかったのでしょうか?
私の住む石川県には、鹿島と古代呼ばれていた地名が、2箇所今でもあります。一つは七尾市、もう一つは福井との県境である、加賀市塩屋町にあります。塩屋町の方は、横の橋立町と共に、北前船の船主が多い町です。両方とも、古代は貿易港として栄えたと思っています。
古代にあっては、川等の内水面交通は、非常に重要な地位を占めていたと思っています。


武蔵と鉄鉱石 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月10日(火)23時47分40秒

≫大和はダイワでなく「やまと」

山処ヤマト、山の戸、山の中といった意味だったというのが定説のようです。
倭人が住む国=ヤマト、倭が好字ではないので「和」に置き換え、さらに道教思想の太和になぞらえて大和の文字を使うようになり、発音はもとのまま継続されたと考えています。
日本という国名になってからもこれをヤマトと読む場合もでてくるわけです。


≫武蔵に至っては、なんで「むさし」というのでしょうか

いろいろ説はあるようですが「无邪志国造」ムサシあたりが原形のようです(胸刺もある)。
无邪志国造の祖は出雲臣で天穂日の子の健比良鳥とされます。
実在性のある无邪志国造は景行311-333〜成務333-356時代のようで、日本武尊の東征に参加していた出雲臣系の人物が无邪志国造になった、といったところでしょう。

朝鮮語ではムは主、サシは城とか蔵を意味するようです。

新羅本紀300に倭国と国使を交換し、312には倭国皇子へ花嫁を送ったとあります。
日本武尊時代に半島との交流が密だったことを示すもので、半島系の人々が関東に定住したならムサシの地名登場は自然と思います。
出雲臣系と半島からの定住者、これが「无邪志国造」のメンバーで葛城系に属していたとみています。

関東の初期の古墳には前方後方墳が多いですが、この人々の古墳ではないか。
北陸、伊勢濃尾の初期古墳も前方後方墳が多いです。
この形式は出雲の影響が残っていたためではないかと考えています。

余談−−−−
この時点で西域人も少なからず渡来していた可能性あり。
日本の騎馬の登場はこの頃かもしれません。
纒向の箸墓古墳周濠から木製の輪鐙が発見されAD300頃の可能性が高いようです。

新羅本紀では345に倭王が国交断絶を通告したとありますが理由不明、おそらくは鉄に関するトラブル。
AD350以前の半島の精錬炉は馬山市からADゼロ頃のものが発見されているだけです。
魏志韓伝にいう鉄はここで作られていた可能性が高い。

他の精錬炉はAD350頃で、新羅の慶州とソウル東南方の2カ所で発見されています。
百済が七支刀や「鉄てい」(鉄素材)を倭国に贈ってきたのが369、新羅と倭国が敵対するのが365頃、その時期に一致しています。
七支刀は百済と同盟すれば鉄を供給しますよ、のデモンストレーションでしょう。

新羅、百済はAD350頃に自国内に鉄生産拠点をもったが、倭国は伽耶(馬山市)の鉄に頼るのみ。
これが危険な状況であることはだれでもわかる。
倭国も鉄の国内生産を目していたことは確実です。

そのためには鉄鉱石の発見が必須。そのための探索者が全国に送り込まれたと思うのです。
最初の「无邪志国造」はその任務にあった関東での集団だったのではなかろうか。
しかし鉄鉱石は発見できなかった。
その結果が伽耶の鉄を確保するための神功(倭王X)と応神の新羅攻撃であり、百済との同盟締結につながっていったと考えています。

余談終わり−−−−

「武蔵国造」は雄略紀に登場します。
聖徳太子伝には先住のムサシ国造が衰微したので物部系がこれを継承して武蔵国造を賜ったとあります。

雄略456-479によって葛城が滅ぼされ、渡来人の管理が葛城から雄略系の秦酒公に移ります。
関東にあった葛城系の国造も切り替わるでしょう。
これが聖徳太子伝の記述だと考えています。

稲荷山鉄剣銘文には祖先をオホヒコ、その子タカリスクネ・・とあります。
オホヒコは開化225-248の兄とされる大彦(意富彦)でしょう、次に宿禰がでてくるのでこのあたりで大彦系と渡来系が結合し、その人々の子孫が関東へやってきていたことがうかがえます。

かたばみ

 


渡来語と単語の変化 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月10日(火)23時30分59秒

例えば「モデルハウス」が渡来したらどうなるか。
「俺のハウスは2階だての白壁で・・」なんていう人はいない。

モデルハウスという概念が新しいからそのままワンセットとして導入されたためで、モデルとハウスを分割はできない。
家がハウスという言葉に置き換わることはなく、イエとハウスがマジってイェウスにもならない(^^;

ただし、モデルは単独で使われる。
モデルという概念がそれまでにない新しいものだったから。
「うちのキッチンは使いやすいのよ・・」これも同じくです。

ガスコンロに冷蔵庫や電子レンジ、これらは従来の台所文化の概念には存在しなかった。
台所がキッチンに変化したのではなく、キッチンという言葉が新たに使い始められたということ。
両方の文化があるから並立しているわけですが、一方の文化が消えればそれに属する言葉も消えてゆく。


言葉はデジタル、あるユニット単位で消えるか続くかのどちらかだと考えています。
たったひとりの渡来者の新文化でも、それが受け入れられれば付帯する言葉は広まる。
これはある渡来語が存在していても、その文化圏の影響がどのくらい大きかったかはわからないことを示します。

そういう単語が大量にあれば影響が大きかったとなるでしょうけれど、どういう分野の言葉に類似が多いかのチェックが必要ですね。

ただし、2つの言葉に類似が見られたとしてもそれが渡来だとは限らない。
当初は同じ言葉だったものが異なる環境でそれぞれが長年月を経過して独自の変化をしたために似た部分のある異なる言葉になっている場合があると思うのです。

特に川とか山、足とか頭、色の表現といった基幹単語に類似がある場合は源の言語が共通だった可能性が高いと考えています。
この方向からは1万年の単位の過去からの大きな人々の移動の様相が推定できるのではないかと考えています。


オーケストラと指揮者がラテン系(イタリア)で曲がゲルマン系(ベートーベン)の演奏を聴いてきました。
こういう場合はえてしてしっくりしない演奏になる場合がありますが、みごとに融和した名演奏でアンコール。

でも、バイオリンではなく鼓弓、ホルンではなく法螺貝を使う人々が演奏したら・・(^^;
(今回の演奏ではトランペットにドイツ型を使ったそうで、やっぱり考えてるんですね)

加えて使う音階も違っていたら・・
原曲がベートーベンだと判断するには1小節の音符だけでは無理だろうなあ。
芸術的感性が鋭い人ならそこからベートーベンの音楽を感じ取ることができるかもしれないけれど、他人が利用することができない。


発音の変化は物理的に発生するからデジタルじゃない。識別はやっかいそうですね。
とにかく各種パターンを大量に集めた統計処理がまずは必要で今はその段階だろうと考えています。

言語を未知の歴史を知るための理論的指標にするためには時間軸の変化を把握することが必須と思います。
ひとつは歴史上のユニット単語の変化、もうひとつは物理的な発音の変化。
データ量が少なく統計的な処理がまだできないから時間軸をつかむことも困難に見えるのではないでしょうか。

ps.
「鹿島」の地名は各地にありますが、肥前風土記杵島郡にある「カシシマ」=カシの島が鹿島の地名由来ではないかなあ。
カシは{爿羊+哥弋}で船をつなぐ杭の意です。
「鹿島立ち」の表現も旅=船着き場から出発の意となってぴったり。

かたばみ


首すじに緊張を伴わない歴史観 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月10日(火)22時44分21秒

紋次郎さん

私は三内丸山の六柱、諏訪の4柱、出雲の社殿など皆台風、地震などについての予測の呪術(科学)と解釈してます。昔の人をなめたらアカンデってなとこです。(しかし誰がそうした結果的記録(倒れた方向まど)をどんな媒体に保持していたのかと突っ込まれると困るんですけど。)あーすっきりした。


 首すじに緊張を伴わない歴史観  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月10日(火)20時01分43秒

 追加……みたいな紋です。
 なにかこう、リクツが煮詰まってきますと、イヤァ〜〜に首筋に緊張がつっぱるんです。
 でも、それがホントーかもしれませんが、おらはそれをできるだけ、平民のボケーッとした
心情で眺めるのがいいと思います。
 
 けふ、柱についてちょっと考えました。Kumanolife 掲示板というところにラクガキしました
ので、とくにクーガーキングさん、見ておいていただけませんか。
 http://www.kumanolife.com/guestbook/

 柱を蹴たおしたら、ユーラシアの古代が割れそう。
 テーマには事欠きません。


 本州最大のチクシ・邑知地溝帯   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月10日(火)17時49分33秒

 むこうのシマとこっちのシマがくっついて、ニ部族連合が成る現象……を「チクシ」と
呼ばせてください。
 chi は水路にしろ、陸路にしろ「みち」です。kush は串の字に見られるように、ネ
パール語でもアイヌ語でも「貫く」という意味です。
 熊本を含む九州北部には14ヶ所のチクシ地帯が確認できます。それらが縄文海退期に
一挙におこり、急速な古代ポリス国家を形成する原動力になったことが伺えます。
 水路を貫通させ、通る舟から幾許かの GOODS をせしめたなら、左うちわで若衆を食わ
せてゆけます。
 この原理が邑知地溝帯に機能しなかったはずはありません。
 金沢〜小矢部の間がボッカの人力によって物資が運搬されるようになる前は、あの一帯
の通商の実権は能登半島部が掌握していたと想います。

※ 邑知地溝帯中央に鹿島という文字がみえます。これはタジク語 t∫a∫m(目)と同
 根のネパール語 casma(目〜警護?)で命名された地名かと思います。
  アイヌ語に atui sik kasima kamui(海難避けの神)があります。
  古いチクシ部には鹿島がよく認められます。また、「おうち、あふち」は出雲にも
 唐津の南にもあります(合う chi ? ap は水?)。
※ 鳥屋という地名もあります。toliya は組、群、集団を意味するネパール語ですが、
 これは、ギリシャ語で東を意味するアナトリアが起源だ……と、直感します。
※ 羽咋はいろいろ解釈できます。しかし「大きな耳」「耳人」の解釈にいちばん惹かれ
 ます。
※ 気比……手も足もでません。でも ke には「雷(kai)、たべもの、畑、気」。
  ヒは「ヒィ〜〜」お助けクタシャァ〜イ。


s_tanさん     投稿者:太田守人  投稿日: 9月10日(火)12時48分02秒

>海岸近くにビール工場など見えますので伏流水(旧河川跡?)の多いところなのでしょうね。

伏流水は鶴来あたりから大変多いです。鶴来と横の辰口町には、この地下水を利用して、ICチップ等の工場があります。ただ、この地下水は、白山の雪解け水が伏流しているそうです。
金沢周辺は、大きな古墳がない変わりに、よく山岳信仰の遺跡が見つかります。また、小松や能登あたりは、古墳が結構有りますが、金沢周辺には余りありません。そのくせ、なんでもないところから、古代人の墓が出たりします。なんとなく、墓を隠す習性のある騎馬民族が、この金沢周辺にいたように思います。古墳に関しては、能登の方が断然大きく、石川県最大の古墳も能登にあります。国としての独立も、能登の方が加賀より約100年早かったです。また、今の七尾市から今年万行遺跡という大倉庫群が発掘され、越の国か大和朝廷の一大物流センターだったと言われています。能登は、貿易の中継地だったようです。出雲の影響は、加賀には見られますが、能登には余りありません。そのかわり、能登は早期に大和朝廷の影響下にはいったようです。羽咋の側に、鹿西町が有りますが、このあたりに雨の宮古墳群という古墳群があります。これが、能登臣一族の古墳でないかと言われています。この横に、邑知潟という湖があります。羽咋の南に志雄町があり、ここに金田散田古墳と言う大きな古墳が有ります。この古墳は、能登臣と違う豪族の古墳だろうと言われていますが、最初は雨の宮古墳群あたりにいた豪族を臣従させていたが、後に反対に、雨の宮古墳群あたりにいた豪族に臣従したそうです。記録にはありませんが、古墳時代能登は激動の時代だったようです。七尾湾に浮かぶ、能登島にコウモリ塚古墳と言う、変わった朝鮮式古墳があります。一つの古墳に、墓道が2つあり、大きいほうを男穴、小さい方を女穴と言います。ただ、棺や骨は腐ったのか、発掘時に既になかったそうですが。この古墳は、斉明天皇の時代ぐらいの古墳だそうで、全国でも珍しい古墳だそうです。また、小松市では弥生時代のオンドルを持つ住居が発掘されています。ただ、オンドルはこのあたりの風土に合わなかったのか、すぐに寂れたそうです。
この住居に住んだ人物は、矢張り朝鮮半島から来たように思います。


夢想 ヒッタイト 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月10日(火)07時55分20秒

紋次郎さん

具志堅、平安山でヒッタイト関連サイトには関連を発見できませんでしたが、副産物といいますか、鹿児島県串木野
http://www.city.kushikino.kagoshima.jp/kushikino03/kushikino26.htm
が発音で具志堅に近いのが気になります。どちらかといえば具志堅が串木野辺りから出たのかなー(後世の島津藩のような関係も考えられるし)。

 


蘇我韓子 投稿者:KENJI  投稿日: 9月10日(火)01時09分55秒

「韓子」という名前ですが、書記継体紀に「大日本人、蕃女を娶りて生むところを韓子となす」と有ります。
父が日本人で母が帰化人(韓人)の間に生まれた子供の事です。(今風に言いますとハーフ)
蘇我氏が韓女を娶った例は、稲目に見られます。
大伴の狭手彦が韓土から凱旋した時、稲目に、媛と吾田子と言う韓の美女二人を贈った
所、稲目は二人を妻にして、軽の曲殿(地名)においた記録が有るそうです。

蝦夷は天皇を自覚したようです。
皇極紀に「やひろの舞」(天皇の格式の舞い)をさせたり、甘樫の岡の邸宅を、
「みかど」と言わせたり、自分と入鹿の陵墓を作り、「みささぎ」と言わせ、其れを作るのに、私民まで徴発動員しています。これらはドレも天皇がする事です。

馬子は其処まで辛らつな行動はしていませんが、似たものでしょう。
魏の曹操が皇帝を名乗らなかったけれど、実際は其の権限は皇帝と同じだった様に。

中臣鎌足は大和の豪族の中臣ノ美気古(御食子)の子供で、高市郡の出生と言われて居ますが、大鏡の下巻には「おとどは常陸の国にて生まれた給へり」と書いてあります。
つまり、田舎豪族の出身に成ります。
田舎豪族と蘇我の分家の石川麻呂と組んだ中大兄皇子。(石川麻呂の娘を二人嫁にしている。)
しかも、後に、冤罪で石川麻呂を殺した中大兄皇子が本当の、簒奪者だったのかも。


re:加賀、国府 投稿者:s_tan  投稿日: 9月 9日(月)23時17分37秒

>加賀の国府は、諸説がありますが、今一番有力なのが、小松市の国府中学校あたりです。・・

#海岸まで10kmで標高差80mの典型的扇状地で大きな障害物も無いとなるとやはり流路は動きますね、白山から押しだされる土砂も多量でしょう。海岸近くにビール工場など見えますので伏流水(旧河川跡?)の多いところなのでしょうね。
相模国も国府は特定されていません。というより移動があったということです。30年前には歯牙にもかからなかった平塚市の大住国府が結構長くあったというのが今、定説になってます、新発掘が理由で。
相模もご多分に漏れず河川の影響と富士の噴火地震で国府は変遷してます。国も約3国から2国、1国となってますが。加賀と同様国分寺は厚木の頃には
子部の子孫の氏寺を転用してます。
どうも国府国衙は国と呼ばれる地域の内はじめは大和に近い場所にあり国情が安定するにつれ中央部とかに移った様子です、天変地異での舘の崩壊が移動のキッカケだろうと思います。

大王への具物を横取りするのは、九州から大阪住吉など色々みえますね、やはり大王には同僚がいたのでしょう。。

国造にみると、南から角鹿(直)、江沼(臣)、加賀(加宜:道公)、羽咋(君)、能等(臣)となってますので、これからも羽咋が大和に近いというウラになりますね。
江沼と加宜(かぎ)でほぼ賀我ですから、継体26と縁深い江沼氏のその後が気になるところです。このあたりの伝承口碑などありますでしょうか。

能登は出雲・潜戸からとの伝ですか、出雲は(くぐと)と訓んでいるようですが能登はいかがですか。


ちょっと待ってください  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 9日(月)22時45分47秒

紋次郎さん

能動的に検索し、ウイルスの被害のないように努めます。ご心配かけ申し訳なし。P−ケルト、Q-ケルトはブリテン島に到達したビーカー土器の編年などでよく使われているようです。たしか、Q-ケルトが古かったと思います。マー、東京、大阪でHとSの差をつけたりするようなものだと思っています。現代の量子物理ではあらゆることの可能性の計算を行うことを基本にしていますが、しかしこうなるとズルをかましある程度思惑に乗って動くのが当たり前の世の中なのでしょうか。しかしこの分野はまさにそうゆう分野ではないでしょうか。学問というものが立証がないと進まない、思考実験的論争を回避しようとする風潮をどこ吹く風と気にしないいいことですねー。話は変わりますが元寇も本土侵攻がなくてよかったですねー。沖縄に敬礼。では。


蘇我氏の補足 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月 9日(月)21時01分19秒

蘇我韓子、蘇我高麗の名は半島と関係が深かったためでしょう。
蘇我稲目はわかりませんが、馬子、蝦夷(毛人)、入鹿(鞍作臣)は馬との関連をはずせません。
馬子あたりで馬の管理に携わっていたためだろうと考えています。

馬の生産は関東、蝦夷と接触することも多いはずでそれが蝦夷や入鹿の名になった。
環境変化で容易に名を変えてしまうのは、蘇我氏のバックボーンに歴史の重みがない証拠と思います。

蘇我氏はまずは伽耶系譜がはいったために、ついで百済王族がはいったことで栄えた新興勢力であることを名が示しているというわけです。

かたばみ


聖徳太子と多利思比狐3 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月 9日(月)20時27分30秒

最後に聖徳太子の周辺をチェックしておきます。

記紀系譜では推古は欽明の娘、敏達も欽明の子。
すなわち兄妹の近親婚です。
応神と仁徳でも兄妹の近親婚が登場します。

これをもって日本では異母兄妹の近親婚が認められていたと考えるのは、ちょっと待て。
どちらも系譜を一本化したために兄妹婚になってしまったもので近親婚であったことにはならないと考えています。


継体(日本海系)と仁賢皇女(手白河皇女)との子が欽明。
宣化(日本海系)と仁賢皇女(橘仲姫)の子が敏達の母。
記紀系譜は多方向から仁賢につないでいる様子が見えます。

敏達には伊勢系とみえる娘がはいっていて、その子が舒明629-641(田村皇子)。
舒明の名は「息長足日廣額」、息長は日本海系の尊称でしょう。
伊勢〜濃尾と若狭が結合した系譜から登場している大王が敏達と舒明とみることができます。

敏達の名が「譯語田淳中倉太珠敷」という特異だが重そうな名であるのもそのあたりの複雑さを示すものかもしれない。
太珠に注目しています、太玉は忌部系にみえる名です。日本海系の出雲臣。
記紀の系譜には偽装がある、しかしその名には本来の系譜が残されていると考えています。

敏達は日本海系の近畿大王とみて、欽明は??
欽明の「天国押開廣庭」が唯一のヒントなのですが、日本海系(磐井ないし継体系譜)と北九州の古天孫系譜の結合で、半島問題処理のために九州在住だった大王とみておきます。


舒明以後からいよいよ「天皇」登場への抗争が始まる。
皇極女帝(多利思比狐一族の滅亡)、孝徳(蘇我の滅亡)、斉明女帝と混乱を経て天智、弘文、天武の壬申の乱に至る。
壬申の乱自体は663の白村江での大敗と百済滅亡が引き金だと思いますが、近畿系(敏達、舒明系)と九州系(多利思比狐系)の葛藤がその背後で大きな原因になっていると考えています(空想中)。


蘇我氏について若干(といっても情報とぼしく下記以上はありません(^^;)

蘇我石川宿禰   奈良県高市郡付近 古事記孝元204-225
蘇我満智宿禰   履中434-437 履中朝大臣相当
韓子  460頃   雄略456-479 昆支王461渡来 新羅攻撃
高麗  510頃?  継体507-530 事跡情報なし
稲目 535〜571頃 欽明539-571 欽明、宣化、大臣
馬子 571頃〜626 敏達572-584

「宿禰」は渡来系に用いた名とみています(天武の八色の姓以降の宿禰は序列用でその意味は消滅)。
雄略時代の群馬県稲荷山鉄剣銘にある名「多加利足尼」の足尼スニ?が古来の宿禰の意のようです。
武内宿禰以降の蘇我、巨勢、平群、紀、葛城、みな宿禰です。
王族級がからむ渡来氏族を武内宿禰系譜に一括してつないだもので、少なくとも祖が武内宿禰というのは偽とみています。
(八色の姓で宿禰が第3位にあるのは王族級渡来者であった流れを汲むものと推定)

古事記の記述からは石川宿禰が最古、葛城氏族の一部ないし配下だったと推定。
この系譜と神功紀の木羅斤資の子とされる木満智との関係は濃密だと思います。
木羅斤資との結合を重視した表現が木満智であり、石川宿禰を重視した表現が蘇我満智だとみています。

百済経由の渡来系文物に長じるようになって蘇我満智は履中朝の国事に参与する地位になった。
しかし韓子は雄略朝の新羅攻撃の部隊長といった程度の地位です。
大臣と部隊長では天と地の差がある。
蘇我氏が雄略に滅ぼされた葛城氏族に属していたために地位が大きく落とされたため、と考えています。

しかし木羅斤資の後裔でもあって、当時渡来した百済の昆支王と血縁関係をもった人物がいたと推定しています。
(根拠はありません(^^;)
蘇我氏は小氏族だったが、百済王族と結合すればその後裔の意識は「王族の後裔」に傾く。
周囲からもそうみられるようになって、小氏族であった蘇我は消えて百済王の後裔の蘇我に変身した。
それが蘇我高麗の時代だろうと考えています。

雄略系の滅亡後(倭王五代→磐井、継体)で蘇我が復活し再び国事に参与し、大王家に嫁ぐようにもなった。
蘇我稲目〜馬子の登場です。
(多利思比狐が伽耶系の血を引くなら、それを担ぎ出して一旗あげるのも必然となります)

しかし、雄略時代の部隊長から数世代で出世したことに変わりはありません。
馬子、蝦夷ではその苦労の時代の意識がまだあって大王になろうとはしなかったが・・
繁栄しかみていない入鹿ではそれが消えた。
そして反発を買って蘇我本家は滅亡する。

しかし、藤原不比等は蘇我右大臣連の娘を妃にいれています。
その子が武智麻呂(南家)と房前(北家)で藤原氏族の権勢につながってゆく。
貴族言葉というのはどこにその源があるのだろう??

かたばみ

 


聖徳太子と多利思比狐2 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月 9日(月)20時19分16秒

門脇禎二氏が斎王(伊勢へ奉祀する皇族女官)の問題を提示していますが注目すべきと思います。
病気や事故などを除いて斎王は天皇が交代したとき交代します。
聖徳太子が没した年(622)にも酢香手姫が引退しています。

酢香手姫は37年間伊勢に奉斎していたようで、逆算すると585に伊勢にはいったことになる。
用明紀585-586に酢香手姫の斎王就任記事があります。
記紀では崇峻587-591、推古592-628と大王が代わりますが酢香手姫はずっと斎王のまま。

少なくとも伊勢神官からみて用明〜崇峻〜聖徳太子の間に大王の交代はなかったということになります。
(敏達には伊勢系の妃もはいっています)
敏達572-584の後に大王となったのは用明ではなく聖徳太子(多利思比狐)であって、用明、崇峻は記紀が大王と書いているにすぎない、となります。


580頃、欽明に嫁がせた稲目の娘との間に生まれた子等が敏達王朝の要職についていた。
娘等もまた要人に嫁いで九州とのつながりが深くなっていた。
半島経由の渡来者は最新文化を次々に大和へ運んで定着させています。
準備はオールグリーン、蘇我馬子は九州から多利思比狐を呼び寄せた。

多利思比狐(聖徳太子)は「民の救済」を実行しているように見えます。
これは当時の仏教にも道教にもない概念です。
当時その概念を持っていたのは景教で、特に医術と技術に優れています。

多利思比狐(聖徳太子)は仏教や景教など渡来文化からよいとこ取りをしていたと考えています。
医術はだれでも喜んで受け入れます。それをもって民衆に浸透し支持を広げていったのではないか。

民衆はみな多利思比狐を支持し王朝内からの支持者も多く、敏達大王以後に人望によって大王に即位したのではないか。
文化力による無血クーデターみたいなものです。

しかし、新興勢力に旧体制が反発するのが世の常。
用明585-586は疱瘡で死去とありますが・・ほんとかな(^^;
587に旧体制の主力物部守屋を倒して近畿ヤマトを完全掌握した。
崇峻587-591の暗殺はその後で、白昼堂々と実行された(^^;

善の面は多利思比狐が行っていたが、対立者の消去など悪の面は馬子が引き受けた。
後に聖徳太子が聖人化され馬子が悪役にされるのは、この役割分担があったためとみています。



記紀系譜でゆけば、用明585〜崇峻〜聖徳太子の没する622、の37年間が多利思比狐の在位期間。
推古の即位期間は多利思比狐(聖徳太子)没後の622-628の6年間のみ。
記紀はそれを31年遡らせて多利思比狐を隠蔽しているわけです。

雄略の場合は近畿王の系譜が滅亡したために雄略を允恭の子として書くほかはなく、雄略系譜消滅後を履中〜仁賢皇女につないで系譜を1本化した。
多利思比狐の場合は名声と事跡が少なからず残っていてやはり消去は無理。

といって適当な大王系譜につなぐには時代が近すぎてうまくない。
その系譜が強化されてしまい、現在の勢力バランスに影響を与えるからです。
また、その一族が滅びていればなお好都合。
それが、山背大兄皇子一族がすべて滅びたという伝承だとみています。
(実際には後裔がいた・・それが後に「天」を冠する複数の大王(^^;)

実在した推古女帝の在位を延ばし、事跡は大王ではない摂政の事跡として置き換えた。
後に近畿ヤマトに登場する「天皇」を絶対化するためだけの偽装です。
別人に置き換えられた実在人物、それが聖徳太子だと考えています。

続く


 ちょっと待ってください 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 9日(月)19時42分18秒

 クーガーキングさん、ウイルス野郎に腹さらけだすとは、危ない、もったいない。
 ちょと待ってください。過去帳を調べれば渦の中心は分りそうですので……。

 KW というのはラテン系の古い発音なんでしょうか? これも原発音は khu < XU みたいですね。
 目下、蒙古語でいろいろ面白いのが出てきています。元冦のまえの蒙古勢力、あなどり難し。
 


夢想 ヒッタイト  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 9日(月)18時04分28秒

紋次郎さん

船、牛若の丸了解。古ギリシャ語で馬はikkos(つまり<eqwos<esvas<asva)だったそうです。ケルト語でも同様にq>p転換が起きており、バルカンに南下する以前ドナウ河平原地方でギリシャとイタロケルトの接触があったとされ、ジュピターとゼウス+pitar(father)等神話上でも確認できるとか。ヒッタイトと具志堅(gold)、ヘンザン(平安山)についてはヒッタイト語の残存する語彙が少ないようですが、何かで調べてみます。インターネットでケトウ社会に問い合わせるとウイルスの攻撃にあう危険がありやや怖いところがありますが。


 夢想 ヒッタイト 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 9日(月)17時38分53秒

 かたばみさん、こんなムチャクチャなことは滅多には書きませんので、MAPHI ra〜
アマカネ。こういうバカ放言はけっこう下ごやしになるんですヨ。
 いや、ヒッタイトの語源考以外はあんがい真面目なんです。

 《 ヒッタイト人 》 蒙古語に hin(人)これあり。こんなのも大昔は族際語だ。
 ir は馬とみた。ヒイルが促音おこして 「ヒッ・ HIT」となった。意味は馬びと。
 アイシン(ツングース諸派で金)からネパール語の sun(金)を差し引くと ai がの
こるが、これ、金属とかメタル。
 このアイは元々は英語にみられる IRON(発音はアイアルン)だった。初期の鉄は使
いものになったり、ならなかったりしたので「金属」という概念での時代が長く諸氏族
のあいだで使われていたわけ。

 ヒッタイト人はヘテ人から鉄精錬の技術を奪い取って、これを社外秘にし、馬にのっ
て鉄の剣をふりくりまわして、よその氏族とみたらぶっ殺してまわった。
 オーストラリア大陸にも南北アメリカ大陸にも、2500ぐらいの氏族の群れがいた
が、毛唐が虐殺してまわったので、夫々500種の氏族しか残らなかった。
 けっきょく、欧州の白人以外の種族はピレネー山脈に拠ってゲリラ戦で耐えぬくこと
に成功したバスク人のたったひと氏族だけだった。だから、ヒッタイト人だけでも、走
りまわった周辺には300や400の黒人や黄人の氏族がいた……ということになる。

 ヨーロッパみたいな広域に4つ5つの系統しか言語がないという現象は異常なのだ。
 西洋語の音韻対応なんちゅうものは、そういう同族内部だけでのデキゴトだった。

 ところで、クーガーキングさん、沖縄のグシケンとはヒッタイト語で「金」だそうで
す。これ辿れましょうか。グシケンさんは沖縄と台湾にいます。
 同じような現象を見せるのがヘンザン(平安山)さんです。この姓は沖縄とフィリピ
ンにまたがってあります。なんという意味でしょうか?

 


s_tanさん   投稿者:太田守人  投稿日: 9月 9日(月)17時34分03秒

>鶴来町南に国府の名の付く地名がありますが、これが国府跡でしょうか。近くに「日御子」の地名もありますが、気になる処です。

加賀の国府は、諸説がありますが、今一番有力なのが、小松市の国府中学校あたりです。でも、はっきりしていませんので、このあたりを国府だとする人もいます。加賀の国府は、邪馬台国のようなもので、我田引水の状態です。加賀の国分寺は、なかっただろうという説が今は強いです。能登の国分寺は、七尾市にありますが、この国分寺も、能登臣の氏寺を譲ってもらい国分寺にしたそうです。ただ、金沢市の隣町に、野々市町という町がありますが、こちらは由緒正しき町で、今金沢が威張ってますが、欽明天皇の時、越の道君って、とんでもないおっさんが、「我こそ大和の大王である。」といって、高句麗が大和の大王にあてた貢物をポッケに入れてしまったという、記述が日本書紀にありますが、この野々市町末松にある末松廃寺という遺跡が、この道君の氏寺跡ということになっています。また、一向一揆や安宅の関で有名な、富樫の館もこの野々市町にありました。石川県最大の河川、手取川は古来から大変な暴れ川でした。平安時代までは、この野々市町あたりを流れ、今の松任市あたりで海に出ていました。鶴来町を扇の要のようにして、川の流れが振れていたようです。手取川は、昔は湊川と言われていたようですが、織田信長軍が、この川の岸にある川北町あたりで、上杉謙信軍に完膚なきまでに叩かれ、織田軍は壊乱し、この湊川の急流で、多数の溺死者を出しました。まあ、オーバーでしょうが、この時、織田の武者の死骸で、川の流れが止まったと言います。この時、織田の武者達が、急流に流されないようにするため、手を取り合った渡河したので、手取川になったと言います。
羽咋ですが、この地名は、オオクニヌシが、このあたりで狩りをした時、猟犬が鳥の羽根を咥えてきたということに由来しています。しかし、能登は加賀に比べ、出雲の影響が少なく、大和の影響が多いそうです。加賀は、加賀の潜戸で有名なあたりの出雲の移民が、作った土地なので、加賀というという説もあります。


教えてください。 投稿者:太田守人  投稿日: 9月 9日(月)16時55分21秒

大和と武蔵というと、いつの時代でも、日本で一番強い軍艦の名前ですが、大和はダイワでなく「やまと」ですし、武蔵に至っては、なんで「むさし」というのでしょうか?どなたか教えて頂けませんか?まあ、今海上自衛隊が、大和・武蔵なんて、名前の護衛艦を作ったら大騒ぎになるでしょうが。

かたばみさん、私は古代の大王は、諸豪族に推挙されていたのではないかと思っています。私の住む、金沢市の鳴和町というところの山に、誉田別神社という神社があります。ご神体は、誉田別つまり応神天皇です。今では、村の鎮守ってほどの小さな神社ですが、なんでこんなところに、誉田別神社があるのか不思議でした。調べたが分かりませんでした。そして、日本書紀の一書に曰くの、気比大神と応神天皇の名前の交換です。私は、ホムタワケの前半と後半では、人格が違うのでないかと思っています。つまり、前半のホムタワケは、気比大神に負けたのではないかと思っています。ところが、万世一系の記紀は、そんなこと間違っても書けない。そこで、その接着剤として、神功皇后を出してきたと思っています。


 “XO”NOW と 前進々々    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 9日(月)13時11分46秒

 15年ぐらいまえのTV放映での記憶です。台湾生まれで、いつもカナダに行ってる気功の達
人さんがいます。竹を四方に立てて結界をつくりますが、そこへ青年5〜6人が勢いこんで突っ
こむと、逆に4〜5M も弾きとばされます。
 この方のお名前、現況をどなたかご存じないでしょうか。
 いまでも神社にある岩には強い磁気反応が検出されるという現象は、建造物を建てる以前での
聖域指定時に行われた結界(XO )造りの残照かと想われます。

 古いインドの“神”に就いての考え方はサンスクリット語以前のパーリ語に残っているという
のが常識でしょうが、そのパーリ語の前に、ちょうど「成文法の前の自然法」のような形で、わ
れわれはネパール語やヒンディー語が母胎となっている事実をキャッチできます。

 「神庫」と書いてホクラと読ませる古い神さま用語があります。これは「木のウロの中になん
にもない」という奇妙なネパール語形容詞 khokra がヂカに入ってきたことを感じさせます。
 日本の山里を歩くと、巨木が造ったウロには必ず線香や花が供えられています。
 インド〜ギリシャあたりの kho という発音は中央アジア〜ツングース語では XO です。
 kra〜クラは古語の「(貴人、神の)座」です。ですからKRA は目に見える硬い“構”です。
 目には見えない空虚な聖域と、それを構成する KRA という考え方が、かなり長い歴史時間帯
のなかに沈澱して文化(偏執)を形成していた、しかも、それはユーラシア規模だった……。

 クーガーキングさん、西洋語がオスメスの区分に神経質なのは、やっぱ彼らの造語期間は遊牧
に漂っていたからでしょうね。ドイツでは太陽が女性で、月が男性……やっぱ昼間は穴蔵のなか
にいたから皮膚が白くなったんでしょ。ドイツ語 unterhaltung(悦ばせる)は「下・持つ」。
* パーリ語辞典を当たってみました。馬には ASSA と HAYA がありました。HAYA には 
 「速」もあるのでややこしい。ギリシャ語の IPPOS も忘れるところでした。原音; ir -pos
 が匂うのですが、il とか ir がらみでどこかに馬はないでしょうか? >イリ王朝。
* 蒙古語 MORI に始まる極東の馬(MUR 系、BA系)は「正直者」というべけんや。
* 牛若丸……、パーリ語 VAKA に狼の意味あり。蒼き狼はどうなってんだろーと蒙古語に相談
 しました……ら、t∫ono 。……ちょっと取っ組んでみるべ。
 人名の MAR については谷川健一さんが「初期モノノベの男の名前に使われている」と書いて
 いますが、谷川健一さんにはまだネパール語との絡みがわかっちゃいない。物部系ではなくっ
 て、ここはネパール語系と大きく置くべし。
* 舟、船乗りの MAR はメソポタミア、アラビア方面に濃厚みたいです。ネパール語にも船乗
 りで入ってきていますが、これは借用だと……直感です。
* おれ、ちょとだけドイツ語を齧ったんです。一度二度を einstmalich , とか zweimal とか
 いいます(語形?)が、この mal(毎、度)をウイルタ語で見たときにはビックリでした。
 日本語では「いっちょマエ」とか「タテマエ」の“事・人”になっているかと……。 


ちょと 中間まとめ 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 8日(日)21時59分37秒

紋次郎さん
>クーガーキングさん、メアという音が先にあって、mare は母音不足のせいで、あとから>造られたということはないでしょうか?
辞書ではフランス語なんかはズバリ、メアとなってます。だからmareは後から創られたのでしょう。(話は変わりますが狩猟牧畜で動物のオスメスは大切で、日本みたいに分類しないのがおかしいですよね。*marや*asva等のオスメスは定かではなく、お知恵拝借したく。。)
> manger (かいばおけ)はマンゲルではなく、メインジャ−ですね。
英語の試験のようですね。辞書を引いたらメインジャーでした。確かイタリア語でマンジャーレは食べるとかではなかったかなーって気がするんですが。(英語ってのは発音と字面が全くでたらめで、歴史的に国語保存などに気遣う余裕がないとは欧州でも唯一ではないのかなー。勉強しない自由があったか(^_^))
> たしかフランス(ラテン語)にも*mar(悪)がありましたよね。これはエデン語の
>*MURT〜*MIRT(死)と同根では? ほかの言語圏の MAR ,MAL は舟、男、回(枚、物事)>で、“悪”はないみたいです。
非常に古い時代には関係があったのでしょうか、しかし、これが一緒であるのは極めて未開な時代なのでは。船名の丸、牛若丸の丸など日本語のルーツが他の言語圏にあるんでしょうか。


 ちょと 中間まとめ   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 8日(日)18時51分43秒

 かたばみさん、ひとつだけ白状しますが、ほかの一国語(ほんとうは氏族語を当たらね
ばならないとこですが)との類似を摘出しただけでは「それがほんとうに言えるのかどう
かの確たるもの」は、まだ出ていない状況です。ところが、多くの言語を当たってゆくと
点から面への広がりが得られます。
 しかし、それでも、その語彙の貸借がいつ行われたかの、時間の流れは一切掴むことが
できない……がタテマエです。ただ、「お猿さんの段階ではなかった」ぐらいのところで
しょうか。
 タテマエのタテというのはネパール語でも「ウソ」ということです。
 しかし、このタテマエ状況を掴んでおけば、出雲のことを書いた古文献に「sakunat や
sohodo 、guku 」をバカにした記事にめぐまれて、タジク語系勢力がそれ以前にいた…
…という時間差を掴むことができて、タテマエがホンモノの装いを見せはじめるのです。

 ハナシは飛ぶようで繋がりますが、出雲を追われたタジク語勢力はどこへ行ったでしょ
う。やはりそれは栃木県ということになります。そしてその中間に「ホのくに」があるの
ですが、この正体を握っているのが鎌倉武士のメ(馬)だろうと……。が、現状です。

 けふ、www.you-i.org に「XO をまとめる」というリンク項目を造りました。でも“保
存”先をまちがえて、ボロがついたままです。見てくれる人いますかねぇ。どう修正すれ
ばいいのかが、ワカリません。

 きのふ、蒙古語にホト(女陰)があることがわかりました。小生はホトが造語されたの
は「神話で『ホト突いた』と語られたのとによるものだ」とウソついてきました。これが
大学教授のウソだったら、即刻引責ものでしょう。ここはドシロートの強みです。
 恥かき覚悟のうえで、類似語彙を超積極的に採用し、関連ありとして攻めまくるところ
に前進があります。
 最初から「ホンモノ」をねだると足踏み〜躊躇だけが残り、日本言語学者の二の轍を踏
むことになります。
 でも、やはり、多くを見る必要がありますね。

 クーガーキングさん、メアという音が先にあって、mare は母音不足のせいで、あとか
ら造られたということはないでしょうか?
 manger (かいばおけ)はマンゲルではなく、メインジャ−ですね。
 たしかフランス(ラテン語)にも*mar(悪)がありましたよね。これはエデン語の
*MURT〜*MIRT(死)と同根では? 
 ほかの言語圏の MAR ,MAL は舟、男、回(枚、物事)で、“悪”はないみたいです。

http://www.you-i.org

 


聖徳太子と多利思比狐1 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月 8日(日)18時39分33秒

≫小野妹子が国書を紛失して(例え、取られたとしても。)、処罰されていないことが不思議です

国書が踏んだり蹴ったりのケチョンケチョンの内容だったので闇に葬るために違いなし。
隋が短期間で滅びたのでざまあみろ、記紀は隋を書かなかった(^^;
そういうあほくさい理由だろうと思っています。

≫聖徳太子はタリシヒコ大王を隠したい
≫皇統は、崇峻→推古でなく、崇峻→タリシヒコ→推古か崇峻→推古→タリシヒコ→推古の

それぞれその論拠はなにかですね。

≫皇統の正統派九州系でなく、出雲・丹後・越系の大王でなかったのでしょうか?

うーむ、するどい。同じくその論拠はいかに。


記紀は神武系以外の支配者が存在した場合それを消している。その最たるが出雲。
神武以降の王朝が遷都した話はありませんから、支配者はずっと同じ系譜で近畿在住である、これもそうせざるを得ないです。
王朝系譜の一本化と位置不変、これに反する場合に記紀は削除や偽装を行っている・・

実際の日本の王朝は各地に王がいて、だれかが王の中の王=大王になっていたとみています。
ま、九州と近畿がメインですけど。
記紀はそれを常に近畿大王であったように書いた。

例外が応神〜倭王五代と仁徳〜允恭です。ここだけは2王朝並立だった。
むろん記紀は倭王五代は無視します。
しかし近畿大王の允恭が九州大王の安康、雄略(倭王5代の3,4代目)によって滅ぼされて近畿系譜は消滅。
やむなく記紀は安康、雄略を允恭の子として系譜をつないだ。

タリシヒコの場合は近畿王(日本海王)も存在していたために、タリシヒコを消して近畿王を大王として記述したもの。
その近畿王が敏達、用明、崇峻とみるのですがこれは後述します。


継体「男大迹」には多数の子がいますが、仁賢の手白河皇女との子はたったひとりで、それが欽明。
その欽明の生年月日が不明。
必死に呼び寄せた継体との間に生まれた子の記録がない・・そんなばかな。
記紀は安康、雄略以降を近畿大王とすべく必死の偽装を続けている、その系譜を信じるのは無理(^^;

仁賢皇女とその子欽明が偽装だとすれば、欽明の出自は??
記紀編纂者は欽明の本当の出自を知っていたのではないか、だから欽明に「天国押開廣庭」の名を与えているのではないかと思います。
これは建国者であってもおかしくないような立派な名です。仁賢や継体とは大違い。


欽明紀の内容は大半が半島情勢です。欽明が九州在住だったことを示すと考えています。
この時代に飢饉が多発していることも重要です。社会不安は変化を呼ぶ。

欽明と宣化(日本海系)の娘との子が敏達572-584です。
敏達大王は近畿系(ないし日本海系)でしょう。その出自に蘇我はからんでいない。
ひょっとすると欽明の子ですらないかもしれない。

欽明と蘇我稲目の娘との子が用明、推古、崇峻。
蘇我の近畿への拡大の一環で登場したのが用明、推古、崇峻で近畿生まれと推定。
蘇我氏は近畿に地盤を作ったところで敏達の後にタリシヒコをかついでクーデターを起こした(^^;
587物部守屋滅亡。


隋書のタリシヒコが欽明と同じく「天」を冠していることが唯一のヒントですが、タリシヒコは欽明の系譜である可能性が高い。

欽明時代562に任那が新羅に占領されています。
欽明紀では「わが神功皇后が新羅に与えた恩を忘れて」と盛んに書いています。
神功を強く意識させている。

このあたりが、太田さんが出雲・丹後・越系の大王と書かれていたことにつながります。
日本海系大王の祖は大彦だとみているからです(出雲系が結合する)。
倭王五代の祖も大彦で、こちらが本家。欽明はその後裔とみています。

なお、自説では神功皇后は記紀の偽装で実際には大彦系の男王とみています。
(神功の登場も系譜の異なる大王登場を隠すため)
大王系譜参照


新羅の任那占領が562。
任那≒伽耶、加羅です。それが新羅に占領されれば大量の脱出者がでる。
欽明の娘+脱出王族あるいは欽明+脱出王族の娘、その子がタリシヒコ・・
(伽耶と出雲の関係は弥生に遡りますが、自説10章参照)

脱出王族の子が成人するのは580〜590あたりになるでしょう。
蘇我氏が物部守屋を滅ぼしたのが587、そのときタリシヒコは20才あたり・・ぴたり(^^)
蘇我氏の出自に百済王族がまじるなら、同じ半島の血が混じるタリシヒコをかつぐのも必然。

続く


mere a ドシロート されどドシロート     投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 8日(日)17時24分03秒

Mareについては下記の資料あり。

ロシア語:悪夢=koshmar、kosh=遊牧民の夏のフェルト製天幕、mara=幻影、幻覚、濃霧

英語:Mare、アングロサクソン語mara incubus((睡眠中の女性を犯すという)夢魔 )。古高地ドイツ語、アイスランド語 maraに近し。ポーランド語mora、中世ボヘニア語m[*u]ra.] 参照。 睡眠中におきる、ため息 、息詰まるあえぎ、途切れ途切れの口走り、胸中抑えられた感じを意味し、ナイトメアという複合語以外に使用することは廃れている。 -- 夜ともなれば「悪夢(mare)」となりて汝に跨らん。--- シェ−クスピア。

(梵語 mara) 魔。

これは「悪夢」という古い、「馬」とは別の言葉があり、日本語において「馬」と「魔」の発音が同じであるということは、偶然ということで、雌馬(mare)ついては紋次郎さんご指摘の母音から言ってどうかなの線がかなりきつい突っ込みのような気がします。グラグラ?(゜_。)?(。_゜)?です。


mere a ドシロート されどドシロート    投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 8日(日)08時13分05秒

>★ 英語にはついてゆけないところ多々なれど、MARE の発音は「メア」にはなりません>か?

記述参照データでは「ポーランド語mora、中世ボヘミア語m[*u]raと比較せよ」[cf. Pol. mora, Bohem. m[*u]ra.] (Med.)]となってるんですが、これら東方に行くにつれ母音は当初紋次郎さんからモンゴル、ギリャーク等北方モンゴロイド系としてご紹介あった語例と酷似してくることは、上記のメアは西方の地域的な訛りではないでしょうか。


mere a ドシロート されどドシロート   投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 7日(土)21時37分28秒

紋次郎さん

>>従来*asvaについては印欧原郷でできたのかなと考えていた。
>「従来の*asva 」をイマイチ説明をお願いします。

これは*asvaアシュヴァーがサンスクリット、古リトワニ語に*esva、古ペルシャ語*asa、又紋次郎さんの「ASP (これはインドイラン系のにおいがする)はまず ASM になってパーリ語的開音(末尾にーAの母音づけ)をうけて ASMA になり、続いて第二子音濁化のクセで AZMA……,どねぇですりゃあ。」にある*asp等から、初期印欧(原印欧の前段階)で初めにケンタム語*eqwosありきではなく、サテム語の*asvaありきであったのかなという意味です。


mere a ドシロート されどドシロート  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 7日(土)18時28分45秒

クーガーキングさん、すこぶる博学ですねぇ〜。
 普通の常識派なら「ウカツにもの言えない」……となるところですが、めくらなんとか。

☆ タジック近辺のアシュハバード、このアシュハは印欧サテム圏の*asva、これは同
  ケンタム圏の*eqwosとつながり、従来*asvaについては印欧原郷でできたのかなと
  考えていたが、
★ おらなんざは、まったくそんなこと考ることもできませなんだ。
  ただ、辞書みて固有の音転癖を思ったらそうなったまでです。
  「従来の*asva 」をイマイチ説明をお願いします。

☆ 考古学的にトレースは可能なのでしょうかね。
★ 小生はまったくのドシロートなんでげす。
  アシ、アジ、マ、バなどをあそこで挙げたのは「日本の東北」でのことを想定して……
  です。世界規模になると、もっと精査する必要もありましょう。
  同じ馬でも軍用、農耕用、荷は運び(これを駄馬というようになりましたが、ネパール
  語では *DA=馬がいえます)。
  青森の青も馬らしいですね。青荷温泉‥‥電話線は引いたが普通の電線はわざと引かない。
★ 英語にはついてゆけないところ多々なれど、MARE の発音は「メア」にはなりませんか?
  もし、ありうるなら鎌倉武士が言っていた「メ=馬」が匂います。語源はこんなふうに
  必死になって探してるんです。
  鎌倉周辺はいちおう「XO のくに」でしょうか? 神庫(ホクラ)の XO です。ホツマ
  ツタエの「 XO 」です。そこでの「メ(馬)」。
  まれうど、まろうど……など連想したらどやされるかナ?
  Eメールいただけませんか?


馬産地の東北 と みち   投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 7日(土)11時47分20秒

紋次郎さん

英語mare(雌馬)はポーランド、ボヘミア、ケルト、ゲルマンと、匈奴征服地帯に分布してたようですが、いわゆる悪夢(nightmare)との強い連想があったようで、被征服者として受容した言語であったのでしょうか。
Webster's Revised Unabridged Dictionary (1913) :
 Mare \Mare\ (m[^a]r), n. [OE. mere, AS. mere, myre, fem of AS.
   mearh horse, akin to D. merrie mare, G. m["a]hre, OHG. marah
   horse, meriha mare, Icel. marr horse, OCelt. marka (Pausan.
   19, 19,4), Ir. marc, W. march. Cf. Marshal.]
   The female of the horse and other equine quadrupeds.
Webster's Revised Unabridged Dictionary (1913) :
Mare \Mare\, n. [AS. mara incubus; akin to OHG. & Icel. mara;
   cf. Pol. mora, Bohem. m[*u]ra.] (Med.)
   Sighing, suffocative panting, intercepted utterance, with a
   sense of pressure across the chest, occurring during sleep;
   the incubus; -- obsolete, except in the compound nightmare. 
      I will ride thee o' nights like the mare. --Shak.
From WordNet (r) 1.7 :
 mare
    n 1: female equine animal [syn: female horse]
    2: a dark region of considerable extent on the surface of the
     moon [syn: maria]
ダリウス、アレクサンダー同様の多国籍軍であったとも考えられるフン軍は当然ながらその中に多くのアルタイ遊牧民族の言葉を持っていたことと考えられますが。


馬産地の東北 と みち  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 7日(土)08時29分56秒

紋次郎さん

馬の談義にKABAYO---全く無関係の連想ですが---鉄と馬で装備し、エジプトを侵攻、駐留したヒッタイト軍がエジプト側にナイル河のカバの泣き声がうるさくて安眠妨害となるから何とかせよとエジプト側に要求した記録が残っているということが思い出されました。鉄と馬を手にした時の天下無敵の気概がよく現れています。古墳時代のヤマトタケルなんてのもきっとこんなMentalityがあったのかなー。なんて思ったりしました。

 


馬産地の東北 と みち 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 7日(土)07時33分10秒

紋次郎さん

タジック近辺のアシュハバード、このアシュハは印欧サテム圏の*asva、これは同ケンタム圏の*eqwosとつながり、従来*asvaについては印欧原郷でできたのかなと考えていたが、バ、マ、マル、メ、モ、モリ、アシ、アジ、アサ、アザ を地図でたどれば、昔日の自然放牧の跡が甦るということを考慮に入れてみれば、アズマが全てを解くキーワードとなります。マルが一番古く、これにアズが前に付く、そのうち後ろのマルが変化してバになってアルタイ圏から印欧圏に入り、まずは東方方言地域で *asvaとなり西方に入ってから(サテム/ケンタム境界通過後*eqwosとなる)、この一方アズマは東方に向かい、古形を留めたままで日本列島に持ち込まれる。そうすると馬というものは本来的に、少なくとも言葉としてはアルタイ圏で発生、印欧圏に西進、シノーチベット圏に南進したもので東南アジアフィリピン等の言葉はこうした初期の伝播の圏外にあったことが想像されますが。考古学的にトレースは可能なのでしょうかね。


お知らせ 投稿者:s_tan  投稿日: 9月 6日(金)23時47分08秒

掲示板の書庫(旧LOG)を容量の関係でhoopsに移しましたが、
サーバーにない文字セットを使うと、それ以降の文字を認識しなくなります(文字化け)
とりあえず「比刀vの字を使うと文字化けするので「ヒメ」に直しました。

尚、書込みは、使う文字気になさらずお使いください。


re:白山ヒメ  投稿者:s_tan   投稿日: 9月 6日(金)22時54分31秒

>太田守人さん、こんばんわ
金沢ですか。。地元からの情報有難うございます。金沢はなぜか時間に余裕が無い時ばかりで唯一石川門から入り城跡を縦断したのが記憶にあるだけです、たしかブラス・楽団?の練習の音が聞えてました。

鶴来町南に国府の名の付く地名がありますが、これが国府跡でしょうか。近くに「日御子」の地名もありますが、気になる処です。
白山は、羽咋の気多大社から真南(85km)、手取川河口(55km)、から九頭竜三国まで、白山各峰が特徴有る重なりを示して、海上からも行先(港)の確認しやすいという山並ですね。遠く海上から白く目立つ山が見えた時点でもう迷うことはなかったでしょうね。まさに聖なる山です。

金剣宮も面白そうですね、石川−敦賀−丹後と「剣」と名の付く神社が多いですね。


re:キサガタの象はネワール語 投稿者:s_tan  投稿日: 9月 6日(金)22時52分34秒

言語・語学には全く疎いのですが、紋次郎さんクーガーキングさんのLOGに少しずつ慣れようとしてます。

>紋さん ^^。
#イエゾ−ゑびす、はこれです↓。
> Byes という語形だったでしたか「外来の」とか「よその国の」という意味が、・・・
#エビス信仰は、外来神・流れ神で少なくとも土地神ではないですね、なぜエビスと言うのか?が分った!。カミ+Byesですね、このByesは英語のbye-byeにも通じる?

太古、言葉以前の叫びの時代に、a,i,u,e,o,あたりが最初とすれば、a,=吾・我で、i,u、と順に我から遠くなり、o,が遠い存在を表していた。カモ、など思ったりしてまして。。
このhp立上げの頃、ハハカの木とハハソの森というのがあって。ハハソの森というのは、どんぐり、シイなど硬く食するに加工の必要な実の成る木が多い森。ハハカというのは卜というか新嘗関連で使う木ですが使う社により木の種類が違うようですが、これはサクランボに近い実で一応そのまま食べられる。故「ソ」は加工が付きもの、「カ」は無加工で役立つ。では「素」は?「素+材」でのセットかなど強引に理由付けなどしてる^^。
で、a,--,o,の近い・遠い、簡単・面倒、が一致する言葉ほど古いコトバで、民俗地域を超えて意味も共通するモノが多い。?^^。など考えながら、
お二人のやりとり拝見してます。


白山ヒメ神社  投稿者:太田守人   投稿日: 9月 6日(金)17時30分11秒

白山ヒメ神社は白山山頂が奥宮になっていますが、昔はこちらが本宮だったようです。今の白山ヒメ神社は、みなが山登るのは大変なので、麓にお宮を作って、こっちで拝んでもご利益は一緒としたのが元らしいです。この近所に、金剣宮というお宮さんがありますが、こちらの方が古いらしく、この両神社とも,鶴来(つるぎ)町にありますが、この「つるぎ」は、金剣宮が元らしく、元々は、剣とかいたそうです。この鶴来町は、清盛の愛妾仏御前の出身地ともされています。今は、白山ヒメ神社の方が有名ですが、かっては、金剣宮の方が勢力のあった時期もあったらしいです。そして、この金剣宮は、男の神様で、確かタカムスビがご神体のはずですが、かっては、オオクニヌシがご本尊だったとも言います。この鶴来という町は、白山山麓の村々に石川県最大の河川手取川を使い、海から物資を運び、ここから小さな川船に積み替えたところでした。昭和30年代まで、このような川船で白山麓に物を運び、また、白山山麓の物資は、鶴来に集積し、各地に運び出す積み替え地として栄え、大きな遊郭もありました。私の住む,金沢は石川県では新参者で、一向一揆の時代の尾山御坊が元になっています。


かたばみさん 投稿者:太田守人  投稿日: 9月 6日(金)12時56分35秒

早速のお返事ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。
遣隋使ですが、日本書紀では大唐になっています。聖徳太子の時代は、隋で唐はまだ一地方政権です。まあ、書紀の一番古いのが、鎌倉時代だったかの写本らしいので、中国を意味する「もろこし」と言う意味で、大唐にしたのかもしれませんが、不思議です。もし、唐に行ったとすると、唐の歴史書に、倭がきました。なんて書いてあって、しかるべきだと思いますが、旧唐書等になかったと思います。大体、小野妹子が国書を紛失して(例え、取られたとしても。)、処罰されていないことが不思議です。隋書倭国伝には、倭の大王はタリシヒコとなっていて、その妻はキミとなっています。この時代は、推古女帝の時代です。いくら、聖徳太子が皇太子でも、隋の答礼使(私は詰問使のように思っていますが。)に、女の大王でも合わせないわけに行かないとおもいますので、この時は、男のタリシヒコという大王だったと思っています。更に、古事記には聖徳太子はありません。まあ、有名でない(?)本名で乗ってるのかも知れませんが。で、私は、聖徳太子はタリシヒコ大王を隠したい、日本書紀が、タリシヒコ大王を元に、馬子等をミックスして創作した、人格のように考えています。私は、皇統は、崇峻→推古でなく、崇峻→タリシヒコ→推古か崇峻→推古→タリシヒコ→推古のどちらかでなかったかと思っています。タリシヒコ大王は、その姓を阿毎とありますが、これをアマと言ったのかアメと言ったのか分かりませんが、私は、アメだと思っています。そこで、タリシヒコ大王は、アメノヒコボの末裔でなかったのかと思っています。皇統の正統派九州系でなく、出雲・丹後・越系の大王でなかったのでしょうか?タリシヒコ大王は、理想主義者であったため、諸豪族がついていけなくなり、その内孤立したと思っています。それが、聖徳太子の「人生は虚仮。」とう言葉ないなったと思っています。後世の後醍醐天皇の治世のような、朝令暮改が多々あったのだろうと思っています。その間隙をぬったのが馬子で、馬子にすれば、タリシヒコ大王が動けば動くほど仕事がし易かったと思っています。それに比べると、崇峻天皇は、しっかりしており、つけいる隙を与えなかった。そこで、暗殺という強硬手段に出ざるを得なくなったと思っています。で、タリシヒコ大王を入れようとすると、馬子の功績を出さざるを得ない。日本書紀の目的の一つに、大化の改新の正当化ということがあったと思います。そこで、聖徳太子という人格を創造したと思っています。

 


馬産地の東北 と みち 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 6日(金)09時26分27秒

 フィリピンでウマを何と言うかについて、辞書と相談したんですよ。
 そしたら、KABAYO 。なんだかバカにされたような名前。
 ついでにウシ COW は? と、相談したら いよいよの BAKA 。

 ま、怒らんでください。大略 *BACCA の語形で「家畜、子牛」という意味がユーラシア規模
で広がっているのです。
 こういうのは文化語、交易語として捕捉すれば、似ていないほうがオカシいわけです。
 先日、パソコンと英語にくわしいご仁がインドのウマについて、どのような語形があるのか
を調べてくれたことがありました。するとそこに BA と AS 系がありました。

 『語源の快楽』だったですか、よんでいたら「あしびきの」は「アシビ(馬酔木)」に関係
があるとの説でした。……おれも「足痺れ」です。
 ここで、ミナシャンが見落としているネパール語の BIK(毒)が浮上。ついでにタジク語の
ASP(馬)が登場するっちゃべっちゃ。
 馬だったアシに“足”の字をあてました。ネパール語の TAR(若い男)を表現するのに、藤
原鎌足のようなときにも“足”の字をあてました(これはネパール語の ADHIN 按司……支配者
を強調したかったのでした)。若い男のつもりの TAR は、タジク語で「岡、丘、小山」を意味
する TAL と日本では同音です。族際感覚でいうと「アシ=足=馬=丘」だったんです。

 言語学者は現地発音をいかに忠実に写しとろうかと、いろんな発音文字をデッチあげていま
すが、それらは語源に関する学問ではなく、構造主義展開のハシクレなんです。日本語語源に
関しての処理は「その発音が倭人に借用されるとき、どのような発音になるか」だけを観察・
判断すればいいのです。超カンタンね。
 くわしくは、おらが庭の「しぜんな音転が許される限度(だったか?)」に書いています。
 ASP はまず ASM になってパーリ語的開音(末尾にーAの母音づけ)をうけて ASMA にな
り、続いて第二子音濁化のクセで AZMA……,どねぇですりゃあ。
 ASM 末尾の M が脱落し易い……アシ、アジ、アサ、アザも考慮に入れおくべし。

 職員になんとか仕事を作ってやらねばならなくなった知床の営林署は「人間が手を加えてや
らないと森林がダメになる……」と、超自然法的解釈を展開したことがありました。
 クーガーキングさん、バ、マ、マル、メ、モ、モリ、アシ、アジ、アサ、アザ を地図でた
どれば、昔日の自然放牧の跡が甦るのではないでしょうか?
 KIT(まっすぐ立った) DI(柱」)が17キロごとにあった……それが吉次(つぐ<rukh)
のカネ売りルートでもあった。馬は舟では運べない。陸(くが)路です。

 「ウリ・売り」とは、ウ(大)LI(ネパール語;人)。だから吉次も襲代名です。

http://wwwyou-i.org


ウマ と ウメ    投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 5日(木)21時47分07秒

焼尻紋次郎さん

>馬;
  >蒙古…………………………MORI  長崎、津軽に森姓あり。タジク語MOL(蛇)。
  >高句麗………………………MUR
  >南部朝鮮……………………MAL  シナ音 MA に L を添えた。朝鮮の常套造語法。
  >ギリヤーク, ウイルタ……MURI


  >アイヌ、沖縄………………ウンマ
  >日本…………………………ウマ
  >シナ…………………………MA 但し、MBA の語形で一時、あるところで。日本語、
              沖縄、アイヌの発音は、これに影響されたか。
これは少なくとも東アジアでは日本列島、中国対北方モンゴロイドが対峙しているがMプラス母音は共通見たいですね。しかし、北方がパッチムのある分なんだか貫禄があるみたいで古いのかなー。それを中国辺りで切り落として日本列島には言ったのかなー。
印欧系とは無関係のようですね。


ウマ と ウメ   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 5日(木)19時21分12秒

 クーガーキングさん、おらはおとといからノータリンのアタマかかえてサンカのナイフ
「ウメガイ」の語源を解明せむとケッケムクリ(豊後方言;いっしょけんめい)ぞな。

☆  馬については中国語から梅などと共に入ったという説は捨てがたい。可能性は強いの
  ではないかと思います。
★ それ言うたご仁は、シナ少数民族語を最低三つか四つつっこんで知っているひとでは
  ないでしょうか?

☆  そうすると東馬は合成語、又は反復して複数、多数をさす、馬々という意味か。
★ 東馬というのは、どこかの記述にあるのですか? おらこのとおりナァンにも知りま
  せん。東馬はアズマと読むのでしょうか。

☆ 馬産地というのがアズマの由来か。ありうることだな。相馬、チャグチャグ馬っ子、
  更には道産子など産地は米作不適地方の補完的生産方式としてアズマ、アズマへと伸
  びる。
★ なにごとも、ことば様のお導きのままに……ですじゃ。
  相馬というのにもなにか、格別な意味が伝わっていましょうか?

☆ そうすると高句麗、フヨ辺りを経由している線がくさいと思いませんか。日本は世界
  中のジャーゴンの吹き溜まりか。
   ジャーゴンとは陸王語でザコちゅうこってすな? 島原では大根をこう訛ります。
  馬;
  蒙古…………………………MORI  長崎、津軽に森姓あり。タジク語MOL(蛇)。
  高句麗………………………MUR
  南部朝鮮……………………MAL  シナ音 MA に L を添えた。朝鮮の常套造語法。
  ギリヤーク, ウイルタ……MURI
   アイヌ、沖縄………………ウンマ
  日本…………………………ウマ
  シナ…………………………MA 但し、MBA の語形で一時、あるところで。日本語、
              沖縄、アイヌの発音は、これに影響されたか。
 梅のシナ音は muang 〜mai であるため、ここからウメが出るには、とっぴょうしもな
い第三ルートが考え出されねばならない。
 ウマを鎌倉武士は「メ」と呼んでいる。これがどこから来たのか(おそらくは、花郎〜
源花軍内部のヘンチクリン造語作用)がモンダイ。
 「大宮びとは何というかシランばってん、おれたちゃ、それをムメ(梅)いうだ」とや
りかえしたアズマびとがいましたよね。

 早期の出雲で MBA との関係でウンマという語彙が造語され、これが沖縄にはいって、
レイテさん(頬骨張り出し横綱)のくちにのって、日本列島を通過してアイヌ社会に入っ
た……が、いちばん考え易いルートではないでしょうか。出雲ではすぐに「ウンマ」は消
えた……と。
 しかし、どう考えても、ウマはウ(大)マ(目)として大臣とか長官の役職名として利
用されたのではないか……との思いが払拭できません。例;大目付。
 ウメもそのとおりで、グヤジイがエセ哲学者・梅原猛にそれがはいっています。
 上掲のシナ少数氏族語に詳しいご仁は、ひょっとしたら、このへんをゴシャゴシャアタ
マの中で考えてひとり楽しんだのではねぇだべっちゃろか。


re:始めまして 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月 5日(木)18時37分50秒

太田守人さん、はじめまして。

≫日本という国を作ったのは、出雲だったと思っています。
≫それを、中国の江南からきた連中が乗っ取ったと思っています。

ある状態を仮定したとして、その状態になるには必ず原因があるはずです。
次の歴史はその前の歴史が作りますから、ある状態の前はどうであったかを調べることが大事です。

もし、ある状態になるような原因がみつからない場合は、仮定が誤っている可能性が高くなります。
ある状態を引き起こしそうな歴史上の事実や考古学的出土物がみつかるようなら、これは「思う」だけではなく立派な「太田説」になると思います。

1〜12章は私の考えでそれを積み重ねでシミュレーションしています。
もっと別の可能性もあると思います、なにか見つけられたらどんどん書き込んでください。
今後ともよろしくお願いいたします。

かたばみ


キサガタの象はネワール語   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 5日(木)15時16分51秒

s_tan さん、“紋ちゃん”もよろしくゥ〜〜。

>  #イエゾですか、これですと、夷・ゑびすが素直につながりますね。
★ この意味ちょとわかりませんが、モン公にもわかるようにワンス・モア。
  Byes という語形だったでしたか「外来の」とか「よその国の」という意味が、かな
  り広くインド〜シッキム方面でいえるそうです。
  ビシュヌにも影響しそうです。
★ 神、KAM . アイヌ語の kamui には、いろんな古代の「強くて影響力ある語彙」が付
  着してるようです。
 ※ カーニバルの KARN(肉)は“フィリピン固有”だそうです。アイヌ語の肉は
   KAMU 。「クマは人間に肉を運んでくるものだ」と人間勝手に考えられています。
 ※ ゲタというのは古い日本語で骨ということだそうで、秋田でうわあごをアゲタ、宮
   崎でカマゲタというそうです。KAMA は KAM に還元できます。
   たしかに、いたずら烏の首をしめて棒にブラさげていたら、生きているカラスはき
   もち悪がるのか、来なくなります。
   集落の周辺にサンを設けてクマやキツネ、狼の頭蓋骨を飾る風習は自然発生的に興
   るのではないでしょうか。
 ※ 日本語のカミにはネパール語 KAM(しごと) I(人)が語源として考えられます。
   裃といえばレッキ、立派ですが、元を正せば鍛冶屋のナッパ服だったりして……。
   あ、鍛冶屋のことを KAMI とも言い習わしている……それもあります。“鍛冶”は
   カトマンズ先住氏族のネワール族がこれを言います。ついでに……、鳥海山の麓の
   象潟のキサもネワール語です。これでキザっぽくなくなったでしょ?
   カミアリ月のカミは、いま様にいえばフロアー・マスターぐらいなものかな?
   年にいちどコミッティー。ネパールでは KAMITI とか SAMITI といいます。
   S と K が通音になってる現象は中央アジアの X(ブッフのフ)癖音を介して……
   とも言えますが、*SAM は英語の SUM (集)。これが JAM-AT(集会)となった
   果てが邪馬台国(クマリをたてての部族連合)。 

 


スクネの語源に大接近か? ほか    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 5日(木)11時57分14秒

 かたばみさん、紋チャン流言語処理へのご不安疑問は責任(?)もって、早晩クリアーに
なることウケアイ。いまあっしの庭で言語リロン構築ちゅうなれど、目下、アタマが梅干し
漬けになっていますのでアマカネ。

* スオウの意味はわかりませんが、諏訪はまちがいなくネパール語の iswar(神)の系
統と思います。坊さんの尊称をスワミっていうでしょ、アレです。
 アショカ王は150ヶ所に分けられ祭られていたシッダルタさんの骨を掘りおこし、これを
ふたたび砕いて500ヶ所の仏舎利塔に収め、「まつりごと」の基盤に据えました。
 その、最初の150ヶ所分骨のアイディアを出したのがモリヤ氏族でした。諏訪にもモリ
ヤさんが来ていたことはタシカです。これは個人名ですが、蘇我 /.物部戦争の立て役者も
モリヤさんですよね。
 モリヤさんはユダヤの……旧約かなにかにも出てくるのでしょう?
 
* アスカはアス(馬)の……、この場合は KA(処)で、馬の集散地ではなかったか?
 とヤブニラミちゅう。
 713年にボッカイ建国。
 718年にオジマのエゾ87名が馬1000匹を朝貢。この朝貢の記事はポロンと出てい
るそうで、これは定期的にやってきていたことを匂わせます。その馬の分配を掌握していれ
ば「飛ぶ鳥」落とす権勢をえられる。
 チャグチャグ馬ッコの「チャグ(ネパール語;TYAG-」とは、「自分の所有から切り離
す、提供、断念」の意味を持っています。貢ぎとか交換の意味がカラッとないのはニクいで
すね。
 ただし、朝鮮人に鈴の音を真似させたら「チャグ・チャグ」といいます。アイヌに轡の音
を真似させたら「チャン・チャン」です。チャンチャン。

* スクネ……はワカランです。いままでは -NE は指導者だと訳してきましたが、タジク
語の SUKUNAT(住まい)みたときからビビンチョ・ビンチョです。
 宿の字がくさいじゃないすか。 ネパール語;NETA は指導者。
 アアア〜〜ッ! 17キロごとに設置されていた駅逓の取締役だったカ!
 江戸期にも宿場役人がいましたよね。サイの神、鹿島。RUKH(木)、柱……と、ここは
紋ちゃん紋々ちゅうです。
 おへま(女房)の実家は秋山郷に近い河岸段丘の上にあります。ここは本家ではなくって
「親家」だそうで、この親家の敷設は武田信玄の発想によるものとされてきたのですが、そ
れにしてはかなり場所ちがいです。あんがいタケノウチ・スクネの代からかもしれません。
 屋号はシタといい、これは「強い人」と解釈できます。うちのおへま、強いよ〜〜。

 ミナシャ〜ン、「カストリ」ということばは、どういうことで使われたとお思いですか?
個人的見解でけっこうですので、なんでも構いませんのでカキコください。
 小生の記憶では「ヤミ・ドブロクのことだったかなぁ〜?」ぐらいです。
 この、ちょっとした言葉が「秦酒公」のナゾを解きます。
 酒はオトコの顔の繋がりを造ります。このネット・ワークから女(ネパール語;ストリ)
を閉め出した。KAS(タジク→出雲貴族)TOL(区)ではないとおら想う。チャンチャン


たらちねの 母がなりたる ひとつ星 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 5日(木)07時41分18秒

焼尻紋次郎さん

>ついでに AS , az ,azma が馬だったことがでました。

馬については中国語から梅などと共に入ったという説は捨てがたい。可能性は強いのではないかと思います。ヒムガシ、沖縄のイリとかは太陽の関係でこれも古いのではと愚考。そうすると東馬は合成語、又は反復して複数、多数をさす、馬々という意味か。馬産地というのがアズマの由来か。ありうることだな。相馬、チャグチャグ馬っ子、更には道産子など産地は米作不適地方の補完的生産方式としてアズマ、アズマへと伸びる。
もし、シノ-チベット語族、印欧語族両方の語根を使用した言葉であるとすればその双方の使用地域を経て渡来したということで、南回りは排除され、中央アジア、蒙古高原、満州、朝鮮半島経由の線が強くなるが、そうすると高句麗、フヨ辺りを経由している線がくさいと思いませんか。日本は世界中のジャーゴンの吹き溜まりか。


 たらちねの 母がなりたる ひとつ星  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 5日(木)06時25分52秒

クーガーキングさん、たいした直感力だ。言われてみて、おらいま気がついた。
 だから、みんなで辞書読みすればいいんですよ。一冊4万円という辞書も珍しくは
ありませんが、総じてほかの趣味よかゼニはかかりません。しかも、どこでも楽しい。
 *TARA というのが毛唐社会での星の族際語です。どこの毛唐も、全員同じ通過時間
帯を持ったわけで、ゲルマン社会にタジクの爺さまのことばが飛び込んだ……のでは
なかっちゃべっちゃ。
 「たらちねの」……、いちどアッこれだと分析できて喜んだことがありましたが、
決定的なそのキーは忘れました。
「あしびきの」はわかりましたよ。ついでに AS , az ,azma が馬だったことがでました。

佐賀県・多良岳のタラは星にあらずして、あれはシュロの木の「黒木」でした。
気仙語で売り出した玄(黒)さんの親友が黒木さん。‥‥こういうこと考えたら、なんだか
コトダマの存在を信じたくなりますね。

http://www.you-i.org


re:蘇我とは? 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月 4日(水)23時02分46秒

歴史ファンさん、はじめまして。

蘇我と須賀ですか。
須賀については紋次郎さんの説のほうを取りたいです。
須賀はスハ(州波、周防、諏訪)のほうに関連があるのではないかと考えています。こちらは海、海岸になります。
蘇我氏とスサノオが接続する可能性があれば話はちがってきますが、いまのところそれはないと考えています。

飛鳥についてはこの地名がいつごろ登場したかが問題。
蘇我氏の登場は461以降だとみているからです。


蘇我氏が武内宿禰の系譜というのは取りません。
渡来系氏族をひっくるめて武内宿禰の子孫としたのが記紀系譜で、蘇我氏もそのひとつだと考えています。

半島系の渡来者であるのは間違いないと思いますが、倭と関連をもつであろう氏族もいろいろありそうです。
以下は自説からの話になります。

最古は始皇帝系譜→新羅の古王朝系譜です(赫居世及び脱解系、朴氏と昔氏)。半島東岸。BC200頃から。
日本でこの系譜とつながり深いのが葛城系で、後に渡来した人物の代表が天日槍とみています。

わずかに遅れてスサノオ系の半島側系譜です。いわゆる伽耶、加羅といった地域。BC150頃から。
これに属する人々は日本側の出雲の盛衰に合わせてきわめて複雑な動きをしただろうと考えています。
ツヌガアラシトがこの系譜ではないかと思っています。

ずっと遅れてAD400頃の全羅南道の前方後円墳の主たち。
この人々は応神〜雄略あたりまでの応神系(倭王五代系)王族の半島への渡来だとみています。
(むろん倭王五代は九州です)
逆に九州へ百済王族もやってきていた。その代表が461渡来の昆支王。
ここで倭王五代系と百済王系の混血が生じていると推定。


雄略紀に「秦の民を臣や連に分散させて秦造に委ねなかった」とあります。
古語拾遺では雄略が散り散りになっていた秦の民をまとめて秦酒公に賜ったとあります。
これと連動するのが雄略による葛城氏の滅亡。

渡来者の統括管理をしていた葛城氏が滅ぼされて、雄略直属の氏族による管理に切り換えられたということ。
葛城の地であったところに秦氏がはいるのはこのためでしょう。
百済の昆支王の子孫も葛城の地あるいはその近隣(河内など)にはいっています。
(古来氏族の物部氏にとってこれは我慢ならならなかったでしょう(^^;)

はしょりまして昆支王の日本における子孫のだれかが蘇我氏の祖だろうとみています。
このあたりは聖徳太子の実像とからんで一筋縄ではゆかないのですけれど。


余談
応神あたりに西域人が渡来して葛城の管理下で各地に散っていたとして、その本家の葛城が滅びたらどうなるか。
各地の西域人を統べていたのは各地の葛城分家でしょう(物部もそうかもしれない)。
それが雄略に服属しようとするか・・大半は各地で自立を図り多くは落ち武者的生活になると思います。

かたばみ

 


知ットラ古墳 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 4日(水)21時35分51秒

焼尻紋次郎さん
>クーガーキングさん、先日からのキトラ古墳。云うていいかどうか自信なかったので
>云えなかったのですが、タジク語で SITORA は星なんです。

ではSTARと変わらない。アングロサクソンというのはえたいが知れませんねー。何語でも借用する、どこにでも出かけているということなのかなー。いや違う。タジクのご先祖のサカ、サルマート更にはその先祖辺りの言葉が流れ流れて。まるで流れ星のように飛んだ。そんなとこですか。


知ットラ古墳 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 4日(水)13時28分49秒

 かたばみさんから、順序だてて1からサイトを報せてあげて……と、云われていたの
ですが、キカイ・オンチはそれができなくて、古代船1、2だけを報せました。
 太田さん、ここ周辺のリンク箇所を当たってみてください。ビッツラ地図入り情報が
びっしりですから。

 クーガーキングさん、先日からのキトラ古墳。云うていいかどうか自信なかったので
云えなかったのですが、タジク語で SITORA は星なんです。
 沖縄ではキとチが入れ替わって発音されるのですが、シとキの入れ替わりは考え難い
ところです。でも、やっぱ、ありうるのかなぁ〜。
 お屋根のテッペンは夜にのぼるにかぎります。星がみえる紋な。
 ひるまじゃアヂアヂ黒△△ね。


始めまして 投稿者:太田守人  投稿日: 9月 4日(水)12時34分14秒

他の板で、焼尻紋次郎さんの書き込みに釣られてきました。私は、日本という国を作ったのは、出雲だったと思っています。それを、中国の江南からきた連中が乗っ取ったと思っています。騎馬民族征服説というのがありますが、私は、逆に先発の騎馬民族を、後発の海洋民族が吸収していったと思っています。現代もそうですが、古代も騎馬民族のにおいは非常に少ないと思っています。信州に、安曇野という地名があるように、古代の海洋氏族が日本を統一していったと思っています。道鏡事件の時、近くの伊勢神宮でなく、わざわざ宇佐くんだりまで、御神託を聞きに行っています。これは、宇佐神宮が九州系皇祖を祭る神社であったのではないかと思っています。それに対し、丹後半島に元伊勢神宮がありますので、伊勢神宮は出雲系皇祖であったと思っています。
出雲は、大国主の時代に最大版図になり、少なくとも本州の半分と北九州あたりまで傘下に納めていたと思っています。任那日本府という組織がありますが、これは倭人の朝鮮半島でのテリトリーでなかったでしょうか?倭人は、中国江南等相当広範囲にいたように思います。出雲は、中国の元のように、その領地を分け、分国を作り、それぞれに王を置き統治していたと思います。(例えば、大和はニギハヤヒというふうに。)しかし、この統治方法は、代を重ね血縁が薄れると、タガが緩むと思います。それを各個撃破して、出雲を乗っ取ったのが大和朝廷のように思います。  


蘇我氏 投稿者:s_tan  投稿日: 9月 4日(水)02時39分26秒

^^;。
>大和の実質的な大王と言うよりも追い出された土地で・・
いやぁ、ごめんごめん、蘇我氏の中央大和での活躍は初歩の周知の事実ってことで、周知前提での書込みで^^。
まあ、道鏡とは時代ズレがあるですが、物部の全国の支配地のそれぞれ主要地を蘇我氏が押えて、それに「+」して以前からの支配地。で大王としては経済背景も十分と思えますね。
道鏡は先祖が関連した土地を一部一時期とり戻した、といったところでしょう。関東から九州まで広範囲ですよ。


蘇我氏って 投稿者:D.K  投稿日: 9月 4日(水)01時02分50秒

大和の実質的な大王と言うよりも追い出された土地で
王権を復興して我蘇りでやった感じみたいですね、これだと。
神武東征で奪われたエリアで政権奪取をした様には思えなかったんですが
何故蘇我##と物部守屋の対立が記されたのか、納得行きそうな線ですね。
チョット聖徳太子で気になる情報を小耳に挟んでいるんですが、
色々と調べてみないと何とも言えない話で暇があったらやっときます。


re:道鏡 投稿者:s_tan  投稿日: 9月 4日(水)00時33分44秒

坊さん道鏡です、恐らく矢作氏の流れの。
小田原市千代台には国分寺(?尼寺)千代廃寺跡があり相模最初の国分寺といわれ、現在も千葉(ちよう)寺がある。道鏡左遷の折の伝説もある。
千葉市の千葉も千代で少し南に道鏡が流された国分寺、いずれも道鏡一族の一時支配地と思われる。


>s_tanさん 投稿者:D.K  投稿日: 9月 3日(火)23時48分18秒

道鏡って坊様の道鏡ですか?
関東周辺って聖徳太子の時代では
道だったんでしょう?

追い出された物部系や蝦夷は
この辺りのサイドに逃げてきたと
思いますが、銅なんでしょう?


エミシ、ソガ 投稿者:s_tan  投稿日: 9月 3日(火)21時15分24秒

>紋次郎さん(もっと省略して紋さんと呼びたい親しみ込めて^^。)
#イエゾですか、これですと、夷・ゑびすが素直につながりますね。
カムイとの違いは、カムイは山・陸など限定された神?

スカ・ソガは砂洲、ウハ・ウガは波打ち際、などだろうと考えてます。言語上からもウラがとれるのですね。ス・ソが砂ツブとすると、ウは海・生?
島根の山奥の須賀川、これは砂鉄で要所にスガ・スサの民かな。

>蘇我氏
KENJIさん同感。これはやはり100年ほどは実質大王でしょう。物部に較べると戦闘嫌いというか文官出身血筋と思える、岩・石の加工が得意というのがキーだろうか。
広く各地に残るソガの痕跡、特に関東海側には密集している。道鏡の縁と重なるのも面白い、相模、千葉の「チヨ」あたり。残る言葉・地名から大化以前300年ほどは部民含めて開拓拡大したと思える。

>倭
矮小、に通じる、船乗・漁撈従事者はかがみしゃがみの作業で猫背になる。反して騎馬は姿勢良くしないと疲れる。当り前ですね。。

>特殊能力
ヒトは環境変化対応能力が優秀でハコビッテル。昔TV実験で、景色が逆さまに見える眼鏡(プリズム)を着けての行動観察で、最初満足に歩けなかった人間が、2,3時間後に自転車さえ乗りまわす様になる。
1器官が不具になると他の器官能力を研ぎ澄まし補完しようとするのは本能、意識すればさらに磨きがかかる。(超)能力はヒトが大地と直接接触していた時代はコンクリに囲まれた今より現代遥かに鋭かったでしょう。


王様黒焼き陰謀、失敗せり  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 3日(火)18時15分11秒

 王様の黒焼き陰謀……、失敗したみたい。モーカのホシとどっちがうまいべがとよ
だれ垂らしてたが、……屋根のてっぺんまでおびき寄せたまでは成功。なれど「コケ
コウ’ローゥ」がむずかしかったんやと。
 しゃぁねぇや、今夜は雀の黒焼きでカンパ〜〜イあるネ。

 1週間ほどまえ「どうして日本語にネパール語がはいったりするのか、わかり易い
ように説明してくれ」と、中学に先生が奥さんつれて、わが枕頭に訪ねてきてくれた
んです。そのとき奥さんもごいっしょで、やっぱ先生してはるとのことでした。
 喋っていくうちにダンナ先生が「一般の言語学者は語源開発などについては何をし
てるんですか」と質問してきました。
 おらは「ナァ〜〜んもしてないんですよ。じぶんじゃナァ〜〜ンにもしないくせし
て、ほかのひとがなにか研究でも発表しようもんなら、そのひとの足ひっぱることに
は、えらぁ〜〜く熱心になってケチつけるんで……」
 と、ここまで云いかけたところ、奥さん先生が下むいて「くすくすくす……」笑い
はじめたんです。
 「どうかしましたか?」と訊いたところ、「まったくそのとおりなんですヨ」との
答え。
 そのカミサン先生も「くが地」がつく名前の大学での言語学者のハシクレで、「紋
次郎とはどういう男なのか」を、ダンナを全面に出して、カムフラージュして探りに
来た……というのが、来訪の本筋だったらしいのです。
 言語学者にも良心というものが、まだ残っているらしいですヨ。
  
  ※ モウカのホシ……気仙沼の漁師のあいだで珍重されるサメの心臓。
    ほんとうは、たいしてウマクはないらしい。
    MAUKA(ネパール語事典で「チャンス」と訳)……僥倖ぐらいの意味か。
    POS(ネパール語で栄養)。結局、栄養がつくものがホシの原義だった。
    「干す」のは栄養をつけるためだった。ほぞ……栄養を運ぶ緒。

 


栃木とタジク語 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月 3日(火)17時40分37秒

タジク語をみたことも聞いたこともなくて栃木弁も意識したことがないので、これについてはなんともいいようがないですが、その可能性はないとはいえないかも。

いつ影響を受けたとみるかなあ。
その当時の栃木方言がいかなるものだったのか、はわかっているのでしょうか。
平安時代−鎌倉−戦国−江戸−明治・・現在と同じ方言だったとは思えません。

タジク語(の方言)についても同じくです。
ソグド、ホラズム、バクトリアひょっとして大月氏やギリシャといった大量の攪拌が連続していた地域の言語、その結果が「現在のタジク語」だと思うのです。当時のタジク語はどんな言葉だったのか。


そういう方向からのチェックがOKになったとして・・
外国からの渡来者を栃木に招待できる可能性、その「相応の理由」を積み重ねてみます。

いつごろそれが起きた可能性があるか。
紋次郎さんが書かれていた新羅のローマングラスの問題が一番近い位置にあるヒントだと思います。
(新羅の西域文化は日本との関係でも重要なので後日詳細を書きます)

1:AD400年代、応神時代に西域人が渡来していた可能性は低くない、弓月氏もそのひとつです。
2:雄略456-479は関東へ勢力を伸ばしている、渡来者の子なら言語も文化も保持している。
3:その人々が関東へ送り込まれた。

目的は鉄鉱石の探索。西域系の製鉄技法では砂鉄から鉄を作れない。
鉄鉱石がなければ須恵器を焼いて飯を食うしかない(^^;
鉄鉱石探査では一般人の踏み込まない地域へはいってゆく。
地図も必要、そこに記される地名には彼らによるものが含まれる。

その地名が残るためには、その後もその地域が過疎地のままであることが必要、これも重要です。
西域技術者を案内(護衛)できる人々も必要、まあ物部系だろうな。
馬を使用した可能性大・・古代の馬の生産地は馬が群れる県。
(火打ち金を使った可能性も大(^^;)

ここまでは応神を決めれば自動的にそろう条件だと思います。地名にその名が残る可能性はある。

ただしイントネーションの変化のごときは短期間の少数の人々の影響だけでは生じないと思います。
一時的に真似をすることがあってもすぐ元に戻る。

ちょいとやってきた渡来人の言葉が方言に影響を与えるようでは、あちこちにある方言同士が相互に影響しあって短期間で類似化していると思うのです。
言語はデジタル、ある限界点を越えたとき突然に0が1になる、ちょっと押しても0のままと考えています。

しかし、ヤマト朝廷が自説のごとき大王系譜であるならば、限界点を越える可能性がなくはない。
この系譜は古墳時代の可能性として少しづつ修正しながら検討中のものですが、今のところ大略で問題なし(^^;
(内容については3月27日以降に投稿した「空想で楽しむ大王の時代1〜7」にあります)

ヤマト朝廷(ないし有力者)によって送り込まれた西域人がヤマト朝廷の体制変化によって帰り場所を失えば、西域人はその地に定住せざるを得なくなる。
ならばなんらかの痕跡があるはずです。赤褐色の顔にでかい鼻・・天狗。

かたばみ


紋チャン流古代固有名詞のぶった斬りかた  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 3日(火)14時33分30秒

 蘇我、須賀、イルカに関して、小生が自分自身で許している古代固有名詞の分解・解
釈の方法を披露させてください。これは小生にも再確認の作業でもありますので。

  《 蘇我 》
 まず、ネパール語適用について説明する必要があります。これは、ネパール語が、ケ
タ違いの類似語彙数を日本語・アイヌ語との間に見せることを承知してもらわねばなり
ません。短文ではいえませんので、ここは小生のカキコ(『ユー・アイ掲示板 2 言
語篇 』http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html )などをご参照ください。
 また、tree 式で「しぜんな音転が許される基準」を書いています。
 S- は強調接頭辞ですので、取り外してみます。SOGA の末尾の A も開音(母音づ
け)の可能性もありますので、取り外します。
 すると、残るのは OG ですが、第二子音濁化のクセで、OG は OK まで還元できます。
 こういう裸の語形をまず掴んでおくのが一番目の作業です。
 OK はオキナガタラシやオキクルミ(童神……アイヌの始祖神)に入っています。
 朝鮮語に OK(玉、赤ん坊)AGI(子供)があります。
 R . L 音脱落を考えておかねばなりません。SO は SOL . SOR が原形だったかもしれま
せん。また、GA も GAR . GAL だった可能性も排除できません。

 SO には朝鮮語で鉄が匂い、アイヌ語では「*外」があります。アイヌ語適用は「日本
語からアイヌ社会に流入したものの、その後日本語のほうで語彙が消えてしまった…」
との見地からです。
 GA で最も考慮に入れる必要があるのはネパール語の GHAR(家・家柄)でしょう。こ
のセンスはいろんな言語種をにらみ続けた成果に得られたカンです。

 以上のことで総括しますと、「鉄・族」ではないでしょうか? GHAR を族とやって
しまいましたが、慣用によって概念が変化したと考えました。
 足軽、やつ(くに・階級、身分)がれ、しんがりなどは、やはり「家 → ひと」の移行
があったとしか考えられないところです(まだまだ、未熟ですが‥‥)。

  《 須賀 》
 第二子音濁化のクセによってスカと同様です。岩をハタ(こなごなに砕く)いた土砂
が河口に堆積した砂州をスカと言った……、この言い伝えは正確だとおもいます。
 裸にすると UK , UG が残ります。宇賀神とは何でしょうか。宇都宮には宇賀神さんが
います。
 UKA はエデン語で「上」です。
 やはり、鉄族である可能性が大となってきます。

  《 イルカ 》
 小生の友人が「なんで甑島というんだろう、いちど甑島へ行ってみよう」と云いだし
ました。小生は、行ってわかるもんじゃないので、そんなことよか辞書買って読むこと
を奨めました。甑は「かしぐ(炊ぐ)」から、コシキ島は XO(神聖の空虚)SIKI(敷
地)からで、同じ音でも起源がちがうのです。
「魚(?)のイルカと人名のイルカは音が同じだから、同じ意味であるはず」 との思い
込みはどうでしょうか? 
 魚の名前は関東信越に遺されている渓流地名が解けると同時に解けるでしょう。いや
永久に解けないかもしれません。
 人名のイルカを凝視してみると、まず気がつくことは、語頭にイが立っていて次の子
音は R です。そうすると、このイルカとは I-LU(龍)が考えられます。
 I-LU の“I”はもともと意味はないのですが、造語のうえからは I(神)を先行させて
の古い神名の造語法に叶っています。
 *KA には 「鳥」がいえます。
 I-LUKA は有翼神獣ののことではないでしょうか?

 紋ちゃんナマイキこきますが、他言語の辞書は まだ25種ぐらいしか読んでいませ
ん。ツングース少数民語はもっともっと読まねばなりませんが、辞書がありません。


こんどはクダカキのまねしてみれじゃ   投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 3日(火)14時13分20秒

>焼尻紋次郎さん

北陸3県とソウルの共通性はありそう。だけど立証するとなると言語学とかいろんな先生が入ってきてうるさくなる。日本の学界は薩摩隼人や江戸っ子なんかと正反対で一所懸命(保身に手がいっぱい)なのでは。こりゃ学会のみならず政界他全てについて言えそうだが。紋次郎さんが出てくるのもこういう世界への無意識の反動か。だけど鶏の鳴き声はようわからんなー。


こんどはクダカキのまねしてみれじゃ  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 3日(火)11時53分38秒

 クーガーキングさんは英語圏の王様にありしか。
 貴重な情報アガアガ。だども、おら青い目をした連中は何考えているかわがらねハデ、
気しょくわるいバイ。
 高校の英語教科書に出ている単語はいちどぜんぶ覚えたことがありますが、その後日本
語で暮らしていたら、90%以上は記憶からぬけ落ちました。
 これも紙に印刷して、辞書と相談しながらひっくり返って読みます。

 一昨日から仰せの朝鮮のイントネーションですが、陸の王者さんは朝鮮も支配しておら
れたんですね。
 でもアレは、ありますね。あんましヤル気のないオンドリが、短く啼くときには、コケ
コッコーではなぐって、「コケコゥ’ロォ〜ゥ」とやります(九州ではコケコッコーと、
このコケコゥ’ロォ〜ゥの二種で真似をします)。
 このコケコゥ’ロォ〜ゥの音調に合わせて「そしてぇ’え〜ェ」と言ってみてくださ
い。これが福井・石川・富山にあります。
 この地域のバーに入ってバーテンと話をするときには、早いとこ止り木のイスに腰掛け
ることをお奨め。でないと、この「そしてぇ’え〜ェ」をぶちくらったときには、ドテッ
とカウンターでアタマを打つ虞れ十分なり。
 ひとは相手とともにイントネーションに乗せて気分を共有しながら会話をしているので
すが、こっちにその備えがなかったときには、「そしてぇ’え〜ェ」に突然に襲われると
足腰にきます。
 この「そしてぇ’え〜ェ」がソウルにあることはタシカです。南朝鮮のほうもあるので
しょうが、確認できていません。

 総理の北朝鮮訪問のことを北朝鮮のTVが伝えていました。「コイズミ・ジュンイチ
ロー」のほかは、何しゃべっているのかは、皆目わかりませんでした。しかし、われわれ
はイントネーションで、その大意を掴むことができます。
 でも、あれ聴いてゲラゲラ笑いだした日本人は多かったのではないでしょうか。
 事大主義、権威主義……百万遍ウソついたら……の、ヒットラーが現代に顕われた、そ
ういうこと(「発音と意味」のほかのこと)を物語ること雄弁デシタ。

 


蘇我とは? 投稿者:歴史ファン  投稿日: 9月 3日(火)09時17分39秒

蘇我って一体何なんだろう。似たような地名は全国にたくさんある。県名でも、滋賀県、佐賀県など、渡来人に関係深い場所の名前になっている。飛鳥もなんとなくあ-「すか」というように分解したくなる。全国の横須賀、などの「なんとか須賀」を数えるのも楽しみ。はやいはなし、無数にある。

だれか蘇我、曽我について講釈を聞かせて欲しい。


で、もうチョット 投稿者:D.K  投稿日: 9月 3日(火)01時23分19秒

蘇我馬子は嶋大臣、蝦夷は豊浦大臣とよばれ、浦島太郎絡みっぽいじゃないですか。
しかも!竹内宿禰は三百年生きたとされていますが、浦島太郎が帰ってきて三百年、
神功皇后と推古天皇、蘇我蝦夷には豊浦宮の伝承が関わっていて、神功皇后には浦島太郎
伝承に非常に類似した伝承があるんですね。

三十三代推古天皇は豊浦宮から小治田宮(オワリダ宮)に移しますが、日本書紀に
出てくる浦島太郎の伝承は丹波から伊勢外宮に豊受大神を呼んだのと同じ年。
豊・炊飯屋姫と聖徳太子の関係が豊受大神とニギハヤヒ(ミカシギヤヒメを娶ったと
されている)なんでしょう。豊受大神は国常立尊とも言われ男性神ですが、
女帝の暗号に対比されて女神にされているんでしょう。と勝手に想像です。
で、33なんですが、推古で太古を推察してどうなるか。


蘇我のいるんかい 投稿者:D.K  投稿日: 9月 3日(火)00時12分41秒

海豚の起源は調べても良く分からないんですね、これが。
何故、豚に見えないのに海の豚かすらはっきりしないし。
豚と女を手に入れるは家畜と女で結局欲望の対象と見れば
尊称かどうかは何とも言えませんね。海豚と書かないのは
暗号じゃないかと。迫害された先住系の蝦夷の漢字を使う
事自体、殆ど無いでしょうから。

まあ、過去の事なんで絶対いたともいないとも言えないと
言ってしまえばそれまでですが、アメタリシヒコがソガ
タリシヒコではないんで。って言っても駄目ですね。
蘇我氏は竹内宿禰を祖とするそうで、天智朝から見ると
正当化や前王朝を抹殺するための大義名分として蘇我氏の
存在が不可欠なんでしょう。突如として出現して四代で
滅んだで、ひょっとしたら海人氏の先住系の王権奪取を
我蘇りで表現したのかもしれないですけれど、何処までが
史実か良く分からない時代ですね、二重三重の情報操作が
入っていそうな時代です。


もしかしたらアムール河畔かも 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 2日(月)21時40分29秒

>焼尻紋次郎さん
ひょんな偶然で日本語は印欧スキタイ語と関係があるとするウクライナのサイトを発見。おらえぐわがねどもモンズロさだばなんとかなんべどおもって声掛けただ。よろすぐおねげすます。http://www.icfcst.kiev.ua/forform/Serdyuk.html


D.Kさん 投稿者:KENJI  投稿日: 9月 2日(月)17時38分55秒

>蘇我氏が実在していたかどうかすら最近あやふやで、

浅学で、この説は未見です。

>天皇記が焼けたと言うのも古事記編纂時辺りで古代の系譜の抹殺を行うために・・

此れは可能性は有るでしょうね。どちらにしても無視された(?)。

>入鹿(海豚で海の豚・海人の蔑称か?)

この部分、二つの疑問が有ります。
入鹿と書かれた頃、イルカ=海豚の漢字が使われていたのか?
海豚は漢字の「意味」を利用した文字だと思います。入鹿は「音」を利用して書かれたと
思われます。入鹿の事を書かれ始めた頃は、万葉仮名など、「音」が主流かと思います。
イルカ=海豚で、使用されたのは何時頃でしょうか。

現在では、「豚の様に(食べる。太っている。)」は、侮蔑した意味が有るのは否定しません。
ですが、昔(入鹿の事を書いた頃。)は、「豚」と言う言葉には、「侮蔑」の意味が
有ったのでしょうか?
「人間が戦いを始めたのは、豚と女を手に入れる為。」と言うのを、聞いた事が有ります。
此処の「豚」は、財産、食料、の意味です。

この二点は、私は調べた事が無く、否定も肯定も出来ません。
ですが、上記の二点が確認されたとして、何故、直に「蘇我海豚」と書かないのでしょうか?
其の点が、不可解です。

最初の、蘇我氏の存在あやふや説、教えて下さい。私は如何考えても判りません。


もしかしたらアムール河畔かも 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 2日(月)16時56分34秒

>焼尻紋次郎さん
 
日本東部太平洋沿岸、朝鮮半島で強勢の方法として √♪ お屋根のてっぺんにのような高低のない、音節の長さのそろった表現を使用する共通点が見られるような気がします。しかし、この二つの現象になんらかの関係があるのか、それとも偶然の一致なのかについては(?_?)・・・負けた、おらーお手上げだ。全面降伏。



もしかしたらアムール河畔かも  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 2日(月)13時13分33秒

クーガーキングさん、好漢惜しむらくはマージャンをやるかね。あれは健康にえぐねべっ
ちゃ。おら、マージャンだきゃあしねぇ。
 クーガーキングさんは慶応ボーイとみたが、おらがヒガ目か。

 古代語「たにぐく(蛙)」がタジク語起源であることを突き止めたは、ノーベル賞もの
だと、おら惟ふも、だぁれも褒めてくれない。 TANI は身体。ビキタンのタン。
 日本人はこれを「くぐ」と言い易い。おらも3回まちがえた。
 身を土地神(へび)に捧げる蛙もまた、宗教感覚で尊敬される。諏訪では冬の蛙を掘り
おこす神事が残っています。朝鮮語 hik(土壌)に関係あらむか。
 KUG はパーリ語的開音(母音づけ)化で KUGA (陸)となる、久我さん、空閑さんね。

 栃木をタジク人のくにと見たには、まだほかに理由があります。
 秦野市の民俗学者、鈴野藤夫さんは貴重な資料を遺されました(まだ現役です)。
 『関東信越・渓流釣場事典』がそれですが、これには地図入りで沢名がビッシリ書き込
まれています。その沢の名前がぜんぜんまったく普通の日本人にはワカラナい。アイヌ語
でも朝鮮語でも、台湾語でもないです。カタカナばかりの沢名と言っても過言ではありま
せん。
 これにビックリしたはいいが、まったくワカランままに放りだすこと18年。
 ところが、このほどタジク語語彙集を読んでいたところ、そこにBOTLOK(沼地)がある
じゃないすか! 記憶が甦りました。調べてみると現地音はベットロックです。
 ベットロックとボットロックでは音が一字だけちがいます。しかし、こんな超ハミダシ
の地名はほかにあるわけがありません。
 紋々としましたが、ふとみると BED がタジク語で“柳”です。

 しかし、栃木市の東北には怪奇地名の「思い川」があります。これはウイルタ語の OMO
(沼沢)であることはまちがいありません(I は、じつは○○語で川)。
 ですから √♪ お屋根のてっぺんに が聴けるのは、或いはアムール川周辺かもしれない
のです。オソマツ(朝鮮語でう△こ)。


√♪ お屋根のてっぺんデェ♂    投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 2日(月)10時03分33秒

>焼尻紋次郎さん

>>でも、タジク人の集落に入れば √♪ お屋根のてっぺんデェ♂ が聴けることでしょう。
これって戦前の半島=>戦前の樺太=>戦後の中央アジアに入った半島人の影響を受けたんじゃーないのかなー。そしてミッチーのほうは奈良時代の半島帰化人の影響。


√♪ お屋根のてっぺんデェ♂  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 2日(月)07時10分59秒

>焼尻紋次郎さん

>>クーガーキングさん、おカキコ内容が高級すぎてワカランばい。もちょっとドカタにも>>わかるようにたのんまっせ。 
 
気仙沼へいって1点1円でマージャンをすると分かります。

 


漢に委ねる奴(奴隷)の国の王 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 2日(月)06時09分46秒

D.K さん

磐井と宇佐とはフレッシュですねー。秦氏はありうべくしての感がします。高千穂はヒミコ日食論、アマテラス日食論が嘘っぱちで、古代の先輩方はあの谷底のせせらぎから空を仰いで、又、阿蘇の草原に出ては対照的な広大な風景で高天原のメルヘンを生み、現代人に君たちもたまには息抜きしろよと教えようとしたのではないかと思います。なんだかふるさとって感じですね。


漢に委ねる奴(奴隷)の国の王 投稿者:D.K  投稿日: 9月 2日(月)02時36分42秒

>KENJIさん

蘇我氏が実在していたかどうかすら最近あやふやで、天皇記が焼けたと言うのも
古事記編纂時辺りで古代の系譜の抹殺を行うために大化の改新の事変をでっち上げた
可能性があるような気もしていますが、蘇我氏が我蘇りで蝦夷などを蘇らせて
入鹿(海豚で海の豚・海人の蔑称か?)や物部の守屋(モリヤ信仰は諏訪に存在)の
先住系の食い潰しを平定する形で政権を取る形になっていますね。

>クーガ―キングさん

九州に行って思ったんですが、岩井って半島との交流を司っていた北九州の王の
可能性は無いかと。岩戸山古墳が墓とされていますが、殺されたのが宇佐の地だ
そうで、下手をすると宇佐神宮の下の古墳には岩井が眠っているのか?北九州には
秦氏の痕跡が非常に多いですよ。でももっと興味深かったのが阿蘇周辺や高千穂の
岩戸神社周辺ですね。旅館で話を聞いたら遥か太古の人骨が発見されたとかで
進化論ぶち壊しだそうですが、この周辺の神社群の構成は本州の歴史を解くカギに
成りそうな感じです。


√♪ お屋根のてっぺんデェ♂ 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 1日(日)22時03分08秒

>焼尻紋次郎さん
沖縄のシーサ(獅子)、キムヨンジャ、と同じで千葉じゃすす(寿司)っていってましたがね。この点中国語も千葉と同じですよね。


√♪ お屋根のてっぺんデェ♂   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 1日(日)20時19分01秒

 さきほど「人ベンに委……アワワ」と題して書きかけましたが、かたばみさんのレッキとしたカキコ
が出ましたので、ひっこめました。
 あれを出すまえに学研の『漢和大辞典』と相談したのですが、漢字オンチはどこをどう見ていいかも
解らないのです。
 でも、正規(?)のワと言う文字にめぐり遭えました。
 
 クーガーキングさん、おカキコ内容が高級すぎてワカランばい。もちょっとドカタにもわかるように
たのんまっせ。
 おれ、千葉市内に半年いましたが、イントネーションの上では、不便や違和感は感じませんでした。
 40年ぐらいまえ、九十九里浜では、たしか合わせ瓶棺が出土した筈です。


 √♪ お屋根のテッペンで、の調子に合わせて、早口で「このバスがそうですね?」と言ってみて
ください。つづけて「3時10分発ですね?」と、言ってみてください。
 栃木県下でです。おら、これを初めてきいたとき、ホ〜〜ンとびっくらこいた。同時に「こんなモノ
言いしてるヤツらの地域には絶対に大物政治家は育たんぞ!」と、思いました。
 ところが、4年か5年前、渡辺ミッチーが宇都宮を地盤として急成長して、4月20日、自民党を
一日のうちに出て、また舞い戻った。
 このザマをみた田中角栄のムスメは、「もう、こうなったら次の選挙では何が何でも勝たねばなら
ない、交通違反のモミ消しなど、やりたい者はさっそくにもやったがいい」と、発言しました。
 そのあと、ミッチ−はすぐに死んぢまった。TOT∫ は王冠、TO∫ik はタジク人という意味です。

 榛名山麓(群馬)には“類”がつく姓があります。……語頭の R 。

 ネパール語でもそら(空)と海が同一に認識されていたことを匂わせます。“相模”にも密接です。
 ネパール語の WA は「人」ですが、なにか倭とは直結しないものを感じていました。

 アフガンでもタジク人が天下を取ることはできないでしょう。
 でも、タジク人の集落に入れば √♪ お屋根のてっぺんデェ♂ が聴けることでしょう。


倭と委 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月 1日(日)17時52分27秒

倭の文字が登場するのはAD100頃完成とみられる中国の辞書「説文解字」が最初とみえます。
AD57の光武帝が奴国王に送った金印では「漢委奴国王」で「倭」はでてこない。
この「委」を委ねると読むのではないかぎり、この時点では「委奴国」の文字が正式国名だったと推定できます。

金印は偽であるの論があります。
その書体や彫りが近代のものに見えるのでちと怪しいとみていましたが、最近中国の古墳からそっくりの書体の印が出土したことから、現在は本物とみています(古墳の名前忘れました(^^;)。

中国の民族分類では奴国王は「委」だった。
「委」の文字は稲穂が垂れる様子と女のように弱々しいといった意味です。
中国からみておおざっぱに東方諸国は「夷」(y1)です。
「委」(wei)は、夷のうちの稲作を行う人々を示す文字だった、と解釈しています。

正式な国家と認めた相手に送るハンコに略字を用いることはありえません。「漢委奴国王」はそれを示す。
その後ににんべんを加えて「倭」の文字が作られたと推定しています(格上げかな)。
国交のある国への文字、その時点での「倭」は奴国に限定されるわけです。

奴国王とはだれか・・神武(^^;
魏志倭人伝に登場する「ふたつの奴国」と後漢書の金印授受のときの「倭の極南界にある」がキーワード。
AD57頃では鹿児島が本拠であり、AD240頃では北九州が本拠になっていた国、それが奴国だと考えています。


倭の文字が作られたのは金印を授けてからすぐだろうと考えています。
当然ながらAD100の説文解字には倭が登場する。
倭(wo、wei)の一方の発音が委(wei)に同じなのは必然でしょう。
呉音でも漢音でも発音が同じであるのも統一国家の後に作られた文字だからでしょう。

以降は倭をもちいることになるわけですが・・

山海経は戦国時代の作と考えられていますが、実際には次々と書き加えられていていつの完成とはいえないようです。
海内北経に「倭は燕に属す」という文言がでてきまして、この倭は遼東半島あたりになるために議論のある部分になっています。
しかしこの倭が本来は「委」の文字だったのなら解決です。
遼東半島にも稲作民がいます。本来はこれを示していたのだが、「倭」の文字の登場でそれ以降の写本では「委」が「倭」に一括変換されてしまった。
そのために遼東にも倭があったように見えるだけだと考えています。


孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化までその名に「倭根子」が含まれます。
(後にも倭根子は若干登場)
この意味は「稲作の民を祖とする子孫」と考えています。すなわち北九州ないし宮崎を祖にする人々。

孝昭天皇の子に天足彦国押人命という人物がおり、天を冠する人物はこれ以降みあたらない。
(孝昭は倭根子でも天でもない、奇妙な名でキーワード人物)
(天日槍が例外、これもキーワード)
で、天足彦国押人命の末裔である意祁津姫(袁祁津姫、姥津姫)が若狭の彦座王の母なのです・・なにかある(^^;


アマを「天」の文字に置いたのは記紀だろうと思いますが、隋書によってアマ族が記紀編纂時代以前に存在していたことが確認できる。
説文解字では海とは「天池」のこととあるそうで、ここでは天は大きいの意のようです。
天と海が文字の意でも接続するのが面白い(毎は母に同類で次々に子を産む意のようです)。

なお、雲南のテンは{サンズイ+眞}で雲南あるいは四川にある池の意だそうです。
天の池なのかなあ。


白川静氏の字通によれば、本来の天は人間の頭部を表す意。
髪の毛を切る刑罰があったそうでこれを易経では「天せられ」と書いているそうです。

周の鳥紋玉圭や玉jに彫られているうねうね文様(^^;は髪の毛の表現であり「気」を表すと林巳奈夫氏は解しています。
頭に羽などの飾りをつけるのは「気」を強調するためでしょう。
「夏」という文字はシャーマンが頭に羽根飾りをつけて踊る様を写した文字。
秋の収穫を願う祈願、だから夏の季節を表す文字になった。


天地の本来は「天墜」で神が地上に降りる所に土(社)を設けて神を迎えることを意味したようです。
四方に色の違う土を使って祭壇を作ったことが逸周書にあるそうです。
漢代には四角の土壇の中央に穴とみえるものがあり、ここに木があって神のよりどころになっていたそうです。

木を植えているのは生命樹の概念と合体しているのかもしれない(四川省経由か?)。
「巫」の文字は天地をつなぐ生命樹を人間がとりまいている様子。

日本の神籬ヒモロギも同じ流れにあるものだろうと考えています。
そして、この土壇(祭壇)の原形が玉jの形で、基本形は□のなかに○。
良渚文化からの出土が最初です。


隋書の{倭}の文字は  です。

かたばみ

 


日本とポリネシア 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月 1日(日)17時43分33秒

≫マオリは東周青銅器の文様を持つといわれそのNZへの出発点は台湾とされている

いんや、出発点は長江三苗、BC2000頃。
ま、台湾は位置的にお隣ではありますが・・ここでは自説を強く主張しておきます。

http://maaori.com/people/maoriara.htm でポリネシアがBC1500となっているのはニューギニア東方のビスマーク諸島周辺のラピタ土器の広がりを据えての論だろうと思います。
ラピタ土器の登場はBC2000-1500頃です。

図が小さいので読みにくいですがニューギニアでBC5000になってる。
東南アジアからの伝播を前提にして内陸的考え方で伝播速度を考えているからではないかなあ。
船を得意にする海洋民ならこの距離は1年だと思います。

メラネシア東部とポリネシアは言語や文化は類似なのに肉体的形質が異なっています。
東南アジアからの文化や人の移動もあると思いますが、これだけではラピタ文化に前後関係や周辺地域との関連がみえないことを説明できません。

私は東メラネシアに高度文化をもつ直接渡来者があり、それが突然のごときラピタ文化の登場になったと考えています。

篠遠喜彦氏のポリネシアの貝製釣り針の分布研究はこの一帯の状況を知る強力なデータのようです(楽園考古学/篠遠喜彦)。
ラピタ土器についても書かれていますがビスマークからフィジー、トンガまで広まるのに100年の差しかないそうです。
当時の大ブームだったにちがいなし(^^;

なお、ポリネシア〜マダガスカルまでオーストロネシア語が基幹のようですが、これとぴったり重なるのがアウトリガーカヌーの分布なのだそうです。
自説では、この人々がオーシャノイドの直系となります(^^;
2万年前1万年前を再度参照


ポリネシアやメラネシアの主食はイモです。煮炊きはしない、石焼きにする。土器は不要。
水を運ぶなら瓢箪のほうが軽くて便利。
なぜ土器を作ったのか・・そういう文化を持つ人々がやってきたから。
穀類あるいは米を煮炊きするために特異的に土器が登場したと考えています。

東南アジアからゆっくり伝播したなら、必要のないものは途中で消える。
本来の環境には合わないにも関わらず土器がある程度広まっているのは、その渡来者が高度な文化を持っていたためだと思います。神様同様だったかもしれない。

そして、その土器文化はBCゼロ頃には消えてゆきます(地域によって消滅年代は異なります)。
ヤシ殻は絶好の燃料で、粘土もあるのに消えた。
土器の必要のない環境だったからに他ならないと思います。


BC2000頃にそういう高度文化を持つ人々がいたか・・長江下流域の良渚文化。
良渚文化が長江の大洪水で滅亡する時期がBC2000頃、ラピタ文化登場と一致しています。

稲作を大発達させた長江の人々(三苗)が土地を失い、四方に散っていった。
三苗と黄河などの内陸文化が結合してできたのが夏、殷だとみています(周は殷文化の継承者)。
良渚文化の図像と殷の図像の類似性は大きい(中国古代の神々/林巳奈夫)。

縄文にもやってきます。それが自説の初期開拓者の祖です(BC2000〜1000)。弥生の基礎を作った人々。

なお、マオリははるかに新しくAD1000頃のクックやタヒチから南下した人々。
日本との関連は縄文を形成したオーシャノイド(BC12000〜)と同祖であるといったところか。
伊弉諾伊弉冉神話とマオリの冥界訪問神話の類似性は縄文に遡る、ということになります。

かたばみ


イントネーションでの区分が云えそう    投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 1日(日)16時27分18秒

>焼尻紋次郎さん

和歌山、奈良、三重(更に便宜上滋賀方言を加え)方言を南近畿方言とし、京都、大阪、兵庫を北近畿方言としましょう。すると北近畿方言は歴史時代の半島の影響を受けていることが、リエゾン的なもので説明でき、他方南近畿方言は利根川右岸から九州までの(四国は都合で省略)弥生標準共通イントネーション地域とは別の、だが、日本語体系破壊的であることには間違いない、北近畿とよく似たイントネーション地域に属すると考えられます。現代中国語は単音節で音楽イントネーションを持ちますが、南近畿地方は主として2音節程度で中国語によく似た音楽イントネーションがあるような気がします。私は利根川右岸から九州までの弥生共通イントネーション地域の中心部にあるこの特殊地域の発声を記述の北近畿同様国外からのインパクト抜きでは考えにくいものと思います。さすれば、おりしも徐福伝説のできた頃、長江下流から南紀、熊野に大規模なボートピープルの侵入があり、これが利根川右岸から九州までの弥生日本語圏の統一性を破壊したのではないかとの仮説を提示します。焼尻紋次郎さんのご意見をお待ちします。


イントネーションでの区分が云えそう   投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 1日(日)10時33分16秒

>焼尻紋次郎さん

関東のイントネーションで九州北部(熊本、佐賀、筑紫)と同一であるのは旧利根川(東京湾に注ぐ)の右岸、群馬、さいたま、東京、神奈川と長野、山梨、静岡
であろうと思われますが、この東西側は全く異質のようで、特に房総から下北は(エミシといってあまり日本語習得に熱意がなかった名残をのこすような)日本海同様の地理的配置である海岸沿いの基盤があるようです(しかし三内丸山の言葉には近いのかな)。

妻木晩田、松江、出雲と行ってきましたが豊後〜備後〜吉備イントネーションに現代的借用大阪弁といったところでしょうか。

奈良は奈良市、三輪とか吉野とかには行ったことがありますが、和歌山、奈良、三重でしっかりしたグループがあるようで、徳島にも共通な部分がありますが、京都、大阪、滋賀とは明白に違うようです。それらより古いのではないでしょうか。(京都、大阪には意識的にアクセントの位置又はイントネーションを他の地方と変えてみたり、韓国語に多いリエゾンを多用してみたり、明らかに日本語を破壊し、これに敵対する外国かぶれの伝統があるようです。)

日本海沿岸は山陰から出羽辺りまでは共通の基盤があるようですが海運が媒体となったのでしょうか。


イントネーションでの区分が云えそう  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月 1日(日)09時25分02秒

>焼尻紋次郎さん

焼尻紋次郎さんのやり方は何かの本で読んだが、典型的な科学的な研究アプローチであり、百科事典的にたたき台を出すという点で「公案全集」といった非常に現代的な感じ。アドリブのきいたピアノ、吹奏楽器の好きな人にはたまらない、私はそんな人間ですから尚更です。兎に角、Extensiveな音頭とり、こと日本に関してはNon-localであり、おっかながる人もいるんではと思うくらいですね。その全てに一人の人間がレスしていたのでは大変です。どれか一点に絞らないと他の人が困る。私も遠慮しているんですが、他にも焼尻紋次郎さんの公案につなげたいものが多々(たとえばもう消えちゃったけど南部印欧のデヴァがスラブの高木の魔神、奇跡、処女なんかにでてくる*divで残っており、印欧の母体の発祥地を櫛文土器圏に入れること、これは私の個人的質問の一つなんですがジブラルタル海峡結合崩壊の環境、アフリカ・ユーラシア文化への影響等無限に近い問題が)あります。だがそれは他の人が始めたときについて行くこととしたい。まー、こういうことを黙っていると、焼尻紋次郎さんのいいとこ取りをしてるみたいになるのでちょっと言わせて貰いました。


イントネーションでの区分が云えそう 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月 1日(日)08時30分08秒

 クーガーキングさんから褒められたぁ〜〜ッ、と喜んでみた‥‥ら、ほめられたのは蛋民
の着想デシタ。
 かたばみさんの解説のなかにある倭人のワですが、人ベンに委をつけた文字もワとは違い
ましょうか? 漢字オンチですので、この点差し引いてご判断ください。人ベンに委の文字
は矮小の矮に似ています。これ、こびとではないでしょうか。
 
 こびとは金属精錬士の“強執”のひとつですが、九州は背の低いのが多いです。
 胴の長さはいっちょ前ですが足が短い。筏を竹竿で押すにはうってつけです。
 この胴長の矮人(?)は、シナでは蛋民、筑豊に来て海賊……だったと、直感です。
 背の低い人とは「ひぢ」だったでしたか、ネパール語にもこれに少し似たのがあります。
 
 倭がほろびた……というより、主だった連中が奈良に行ってしまったという発想は許され
ませんか?
 そして、あっちこっちから集まった(アンチ出雲の)豪族連合が Jamat-ai では?
 jamat とは「人びとの集まり、集会」というネパール語で、-ai は強調末尾辞です。
 ヒミコが九州にいたにせよ、近畿にいたにしろ、ヒミコの正体は女王ではなく、としとった
「クマリの変形」でしょう。部族連合の象徴がクマリです。   

 関東のイントネーションは九州北部(熊本、佐賀、筑紫)と同一です。これは奈良で増えた
王族の末裔がタマキハルということで、伊豆や関東に入植した跡だと思えます。
 防人や足利武士の影響だけでは、イントネーションは変わらないと思えるのです。
 
 なお、山口廣島をとびこえた「豊後〜備後〜吉備」のイントネーションは近畿を飛び越えて、愛知
駿河、相模、甲斐まで伸びています。
 「琉球〜薩摩〜五島〜長崎西部」は津軽と同一で、女陰の「マンジュウ」をのっけています。
 出雲と奈良盆地の田舎のイントネーションを知りたいのですが、この領域はだれもやっていません。
だれか行ってくれないかなぁ〜。

http://www.you-i.org