[#掲示板書庫.01]
・[.02]
・[.03]
・[.04]
・[.05]
・[.06]
・[.07]
・[.09]
・[古代であそぼ・Top]
志水さん、石切にご縁ありましたか。日下あたりはとてもおもしろい所です。
孔舎衙、はじめこの字が読めなくて^^。石切辺りは今でも石屋さんが多いですね、枚岡神社梅園あたりの神武祭祀跡伝承とか、枚岡から暗峠の道とか、まだ特定できませんが饒速日山とか、この辺りはゴルフ場が有るほどで結構平地もあって山麓の古い神社からはほとんど山路が続き山歩き散策にいい所ですね。
須波摩とか楯津とか神社名とか地名を追うとむかしの海岸線が浮びあがるのも面白いところです。
KENJIさん、全く気が抜けないですね、ガードを固めるしかないですね。悪意は善意の隙をついて来るから、なかなかガードするのも難しいものです。
また、新しいウイリスが出ているようです。
メールやインスタントメッセージを介して増殖するそうです。「ゴーナーgoner」との名で、スクリーンセーバーを装い、件名は「Hi・・]が多いとの事です。
東国での蝦夷との接点には殆ど痕跡がありますね。活躍したときが、いつの時代なのか、継続しているのか、このあたりが気になってます。▼ ▲
伝承は事象の統合分解がつきものですが、物部氏のメインは?ですね。
神武以前といわれる饒速日、まつわる神宝、物部の広範囲な痕跡、漢字が広まる(?)前に広まっていた呉音、などなど、どうも呉の水軍が気になるところです。どなたか、25物部を追った資料などご存じないですか。
志水さん、お名前間違えて失礼しました。
東京だと稲荷社は多いです。たいていの神社の境内に稲荷社があります。
浅草神社の三社祭は有名ですが、その裏手の目立たない場所にも稲荷社があります。
江戸町火消しの組頭だった新門辰五郎が女房の病回復を伏見稲荷に祈願したところ全快したのでここに稲荷社を勧請したのだそうです。
稲荷の本来は穀物神だと思いますが、商業都市の発達で商売繁盛、病気治癒など町人の求めにフィットしたのだろうと思います(あるいはフィットする方向へ変化した)。
≫物部氏の展開はすごいですね
ありがとうございます。
縄文のあたりから順次下ってきまして、こういう展開ならいろいろな伝承や物証をまとめて説明できるぞ、といった可能性のひとつです(お時間ありましたら古代探訪の古代で遊ぼの各章をご覧ください)。
以下、波瀾万丈の物部補足(^^;
物部氏が東遷したという論は少なくないですが、ちょっと違うとみています。
当初から全国ネットワークを持っており、その時その時の有力者の支配する地域に物部の主力も存在したと考えています。
繁栄する地域があればそこに有力な海運者が集まり、その伝承も生じるので物部氏が移動したようにも見えるわけです。
当初の物部氏は氏族ではなく全国組織であって、弥生初期〜中期での事象と崇神時代(AD250頃)の物部氏族の事象の合成が饒速日伝承になっていると考えています。
神武36- 66、綏靖、安寧の妃は出雲系です(以下年号は自説による推定年)。
「神武王朝(九州)」と「出雲王朝(中国四国近畿)」は共存していた。
出雲は広範囲な各地の農産物を海運で相互補完することで成立していたと考えています。
流通システムの整備によって、それぞれの地域が得意とする作物だけを生産できるようになり、需給の効率が高まった。
出雲信仰が各地に根強いのは「民の益」に効果的な流通システムを作ったことに発すると考えています。
陸の流通をになったのが秦氏系譜と推定、これが稲荷の原型だとみています。
出雲の主、大国主命が大黒様に習合されるようにみな生産や豊かさに関連する神様になっているわけです。
しかし懿徳92-105、孝昭105-137あたりから様相が変わってきます。
寒冷化による飢饉の発生と混乱。魏志倭人伝でいう倭国争乱時代のはじまりです。
懿徳 92-105の母は事代主の孫の鴨王女で出雲系だが、懿徳の妃の出自は不明。
次の孝昭105-137は尾張氏族の祖にあたる系譜から妃をいれています。(天火明+海運者≒尾張氏族と推定)。
孝霊175-204〜開化225-248の妃も物部系です。日向市付近の海運者の娘とみています。
神武〜安寧時代の王朝とは性格が変わったのではなかろうか。
重視する地域も生産がより安定な南へシフトしていった。
中国近畿の出雲も深刻な食糧不足問題にさらされて、濃尾、東海へ進出を開始。
神武〜安寧の拠点は北九州にあった。
しかし、懿徳の拠点は不明。
孝昭〜開化の拠点は温暖な日向、宮崎に移動していったと推定。かっての故郷の地へ。
これが邪馬臺国です(^^; 天孫降臨時のアマテラスの別宅だった地域(^^;
神武〜安寧では男王だったが、気候不順による祭祀の重要性が増し土地柄もあって巫女の権威が復活した。
しかし、宮崎は神武建国の主力だった隼人族の土地でもあります。新参者を歓迎はしなかった。
孝昭〜開化時代が「物部氏族」の登場時期で、物部氏は支配者の意識を持つようになったと考えています。
出雲の崩壊の因はその物部氏の台頭にあった。
出雲崩壊(AD250頃)に激戦の痕跡がみえないのは、戦によって制圧されたのではなく内部崩壊したからだと考えています。
出雲の生命線を握っていたのが海運者であれば、その海運者が九州王朝側についたらどうなるか・・
九州王朝の物部氏が海運者のオサとなったときそれが起きた。
記紀ではナガスネヒコが反逆者となっています。
それは天孫系(あるいは天孫系海運者)からみた話であって、出雲あるいは出雲系海運者からみれば反逆者は饒速日(^^;
弥生初期の北九州では戦死者が多数発生しましたが、海運者の行動が大きな流血をみずに「政権委譲」をうながした、ともいえます。
そして奈良に崇神が入城(AD250頃)。
崇神、垂仁時代の物部氏は影の天皇ともいえる隠然たる力を持っていたと思います。
極論すれば箸墓古墳(倭迹々日百襲姫の墓、たぶん)は物部氏の古墳だともいえるかもしれません。
朝日昇さん、はじめまして。
茂在氏の「古代日本の航海術」はたいへん参考になりました。
オール(櫂)で漕ぐ場合は7時間航海で平均時速3.3km程度の実例を書かれてる。
歩くより遅い・・やっぱり(^^;
BC2000〜BC1000の世界。エジプトでは古王朝から新王朝へ、クレタ文明、メソポタミア文明、インダス文明の崩壊。
良渚文化など長江文明も壊滅し、山岳縄文文化も崩壊する。
そのときそれぞれの地域の人々はどう動いたのか、なんらかのつながりを持ちえたのか、ここに注目しています。
不覚にも、WORM_BADTRANS.B と言う、ウィルスに掛かってしまいました。
多数の方にご迷惑をお掛けし、申し訳有りませんでした。
Outlookを使用の方は、自動開封を止めて下さい。
開封しただけで、感染します。駆除ソフト無しでの削除の仕方を書いて置きます。
削除方法
Shiftキーを押しながら、メールを右クリックする。
この時、ファィルを開いているとかの、メッセージが出ますが、キャンセルし、
再度、メールを右クリック。
「削除」をクリックし、「受信トレイ」から、「削除済アイテム」にメールが移る。
ここまで、Shiftキーは、押したままで作業する。
「削除済アイテム」欄を右クリックし、フォルダを空にする。・・これで、OKでした。
自動開封の設定は、外しておいてください。
私は早速、再インストゥールし、最新の駆除ソフトを導入しました。
上記の方法で削除し、その後、チェックしましたら上手くいきました。
今は、駆除ソフトで削除しています。
ネットをする以上、ウィルス対策は義務なんでしょう。
今回ご迷惑をお掛けしました事、深くお詫びいたします。m(__)mhttp://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
多数の怪しいのが着信中(^^;
どうやら W32/Badtrans.B(または W32/Aliz)というウイルスのようです。
単純削除できない可能性があるので専門サイトをご覧ください。
(シマンテックなら http://www.symantec.co.jp/region/jp/sarcj/data/w/w32.badtrans.b@mm.html など)
もし私のアドレスで怪しいメールがきていたらご連絡ください。知らないうちに感染していた可能性もありますので。
物部氏の展開はすごいですね。いつもここはこうなんでしょうか。
それですこし思い出しました。私の実家のある石切には石切劔箭神社があります。
小さい頃よくいきました。
物部氏の祖先は饒速日命といわれているらしい。そして饒速日山(草香山)というのは
生駒山北部をさすといわれています。
かたばみさんがいうように九州から大和にやってきた物部氏の1部が住み着いたのでしょうか。
確かに須波摩神社や石切劔箭神社のある日下は、先土器時代から縄文弥生の遺跡の多い所であります。
さらに草香の日下が日本となり、饒速日命は我が国の名付け親となったというのは
いかにも本当らしい話です。
ほぼ1週間ぶりにメール受信しましたら、多量のメールが、発信元の確認もそこそこに全て削除しました()。ワームと無関係のも削除した可能性有です。
発信元が分ったメールには、連絡さし上げましたが。
?megumiさん、?makotoさん、?masayaさん、?Akiraさん、心当りありましたらPCを点検してください。
今回の蔓延のワームは2種のようで<W32.Badtrans.B@mm、40kb程>と<W32.Aliz.Wormm>
・sysmantecさんに情報があります。
・micro-soft,japanに、Ver-upでの対応が記載されてます。
*out-lookのdbxファイルでデータの無い場合、59kb程度が初期使用容量です、受信メールを削除済アイテムのフォルダーに移動して完全削除しても59kbを大幅に越えている場合は危険です、すぐ電源offにしてワクチンを入れましょう。
情報、ありがとうございます。▼ ▲
磯原は、裁判というか弾圧などあって社地も変り、感じるものが少なくなっているとは思いますが、一度は伺いたい場所です。
茂在氏は、20年程前の『古代日本の航海術』いまだに身近に置いています。
皇祖皇太神宮で、、またなにかございましたら、ぜひご教授ください。
志水さん、神社にのめり込みそうですか?^^。
色々な側面があると思いますが、神社が理解できると日本が分るのかも知れませんね。
境内でお年寄と話などするのですが、祀られている神様の名を対象にして参詣する方は少ないようです、祭神を尋ねると氏神さん、お宮さん、八幡さんなど漠然とした答が殆どです。
まず神名ではなく拝む場所があることが神社の杜なのでしょうね。
突然失礼します。▼ ▲
下記メールを皇祖皇太神宮に
だしました。
ご参考に
皇祖皇太神宮 http://www.kousokoutaijingu.or.jp/
茂在寅男 http://www.wacnc.net/jibunsi/mozai/
銀座大学 http://www.tokyobbs.or.jp/gindai/
*************
この1ヶ月偶然がいろいろ重なりまして
これは、神仕組みかなと思っています。
雅子様が生みの苦しみの中、私もモーゼ
3000年前の遺書から、これから
1000年紀に向けての日本の役割を
生み出していると思っています。
年内の日曜日に、一番忙しい時かも知れませんが
茂在氏と高坂和導氏(問題ありますか?不仲と聞いて
いますが)らとともに貴社をお伺いしたいと思っています。
宮司さんとお話が出来ないかと
思っています。
または、地元の研究者、出版物等を教えていただければ
幸いです。
*************************
歴史的事実として報告します。
今日、 茂在寅男氏(元東京商船大学名誉教授)の
講演があった。
彼の専門は、電子工学ですが、海洋考古学の
専門家でもあります。
彼は、三内丸山遺跡、吉野ヶ里遺跡、元寇の軍船の場
所を特定した第一人者で、(2001/10/20 西日本新
聞に大きく掲載 今日NHKでTVで丁度そのシーンを放
映予定)、その他世界的発見を多くしています。
彼は、世界のモーぜ(茂在)と言われており
つい最近もユダヤ教のトップ(ユダヤ資本に大きく
影響を与えられる)である、アサ、バン
ミル(この名前も偶然ではナイ)氏にインタビューを
受けている。(銀座大学の学長もインタビューを
受けている。)彼は、20年前に、ユダヤ人を
フェニキア人が日本各地につれてきたことを
仮説として発表しており、各地の地名や民謡、
お祭りの掛け声、八坂神社の祭り(7/17 私の
誕生日)等の中に古代ヘブライ語があるという。
彼は、海流の専門家で香取神宮(私の父の生地)、
鹿島神宮と黒潮との関係も以前はなした。
ここからは最近会った高坂和導氏(竹内文献の
研究家)の話だが、茨城県の皇祖皇太神宮があり
モーゼの遺言は、その神社を再興し、世界の平和を
日本が、積極的に作ることにあり、来年が3000年
(?)の封印が解かれるといわれている。
私が発言しても信用されないが、スミソニアン
博物館にも支持されている茂在寅男氏の発言であれば
少なからず世界の主導権を握っているグループに
大きく影響を与えることが可能である。
今日先生に、「日本は天皇を中心にした神の国」
(著者:河内正臣 )の本(P55 官報 昭和21年
3月6日発行によると、憲法9条は、昭和天皇の強い
意思であることが述べられている)を購入頂き、日本
は世界に向かって武器のない平和な世界を築く
役目があることをご理解頂きました。
モーゼの遺言があるかどうか分からないが
日本と世界のあり方を変える1日であった。
明日、岩倉使節団の世界各国の研究者と
増上寺に集まるマスコミ関係者に
話をしてみようと思っている。
(全く相手にされないと思うが。。。)
>5−6年ぶりに高坂さんという人に会い
>資料を頂いた.
>竹内文献という書物(日本書紀より古い?)
>の専門家であるが、それによると
>アフガカブ(アフガニスタン、カブール)と
>いう天皇家(神武天皇より古い??)の
>子孫がおりそれを世に知らしめることかも
>知れないのである。奇異に感じるかも
>知れないが、これは日本の学者の不勉強さに
>よるものだと思っている。
>(私は、こんな学者に税金を払いたくない)
>
>でも日本のモーゼと言われる
>茂在寅男氏(元東京商船大学教授)は
>別格です。米国や英国政府から招待
>されるくらい本物の歴史を提供しています。
>(上記の話と関係ありません
>11/24(土)講演会があります。
>
>http://www.tokyobbs.or.jp/gindai/
>
>モーゼの墓は日本の石川県にもあり、
>モーゼの遺書も日本にあるそうです。
>
>その遺書は、来年明らかになりそうです。
>香取神宮、鹿島神宮でカジマダチ(?)の
>祭事がそのキッカケになりそうです。
>
>一昨日、木戸孝允(?)の子孫に偶然あい
>上記の話と岩倉使節団の話を聞いた.
>この企画も面白いと思います
>
>
>
>
http://www.wacnc.net/jibunsi/mozai/
≫上野多胡あたりを含めて地方には物部姓を乱発といえるほど許しているが、
≫中央では物部への復姓も許可してない(事例はあるがすぐ不可になる)
よっぽど警戒されたんですね、それだけ力を持っていたことの裏返しかな。
末端の物部は好きにさせよ、だが指導者になりうる物部の登場は許してはならぬ・・
以下の空想をどうぞ。
弥生初期(BC500〜200頃)、最初の拠点は海神族の拠点でもある九州西南岸にあった。
BC100あたりからAD50ころまでの弥生黄金時代の中心は北九州。海運者の主力も北九州へ。
系譜として遡ればすべての物部がここに集まると思います(8章饒速日の祖先参照(^^;)。
この頃に海運者の受け持ち地域が分化してゆきます。九州〜太平洋、瀬戸内、九州〜日本海。
それぞれの海域で祀られた神々が後の表筒男命、中筒男命、底筒男命となります。
星神(自然神)だと考えています。
もし、神功皇后が祭祀しなかったら住吉の神々は今に伝わることなく消えていたかも・・
弥生後期になると情勢流動的となってちとやっかい。
神武による九州統一と大国主の引退(国譲り→瀬戸内近畿への拡大)で2大勢力が九州と中国近畿に登場。
孝昭105-137に至って倭国争乱勃発、各地の海運者は立場の明確化が必要になった。
日本海沿岸の海運者は出雲臣系、瀬戸内の海運者は出雲神族系に従ったでしょう。
九州から瀬戸内を経由して河内〜伊勢の海路をメインにしていた海運者はどうしたか?
出雲の進出を受けた濃尾の海運者(旧事紀における天火明の随伴者)はどうしたか?
AD150〜250の倭国争乱、AD400〜550頃の内戦時代では、それぞれの地域の物部氏がそれぞれの地域の「高貴な出自の氏族」に従っていた。
「従たるべき出自」の根本意識を持っていたのが海運者であり、同時に強い連帯意識でつながっていたのが海運者であると考えています。
各自自由に動いてよい、だがオサの命令あるときはそれを絶対とする組織。
(大草原の遊牧氏族のそれに類似です)
各自が状況に応じて柔軟に行動していたことが饒速日とナガスネヒコ伝承の原型。
ギルドは九州天孫を支援する、といった決定がなされたとき従わなかった集団もいたわけです。
AD250頃の出雲の崩壊に至る過程には海運者ギルドの意志が大きく関与しているのではないかと考えています。
争乱あるいは群雄割拠時代の海運者にとって武器、金属、船(材木)は絶好の営業品目。
金属資源を求める山中の探索には山の民の協力が必須、狩猟と漁労はもともと同質でもあり、山の民も組織に組み込まれた。
海、山岳、情報を得意とする内部結束の固いギルドが誕生した。
このころになんらかの文字を使い始めていたと推定。その必要が生じたと思うのです。
なお、海と山の間隙をぬって穀物や一般消費材で進出したのが秦氏族。平野部の稲倉→お稲荷さん(^^;
こちらは戦の匂いの少ない氏族ですが、物部氏との密な接触があったでしょう。
森浩一氏の論に、継体が奈良に宮殿を造らなかったのは若狭〜琵琶湖〜瀬戸内をつなぐ淀川水系の海運を重視したためだ、がありますが賛成です。
即位前の継体が尾張から妃をいれているのは、日本海側だけでなく太平洋側の海運者と結合するためだとみています(この頃の伊勢付近の海運者と天火明後裔は事実上同体になっていたと推定、これも饒速日伝承になる)。
筑紫磐井との戦に継体が勝利したのは物部麁鹿火を掌握したことによるもの。
ギルドのオサ=物部麁鹿火の指示に九州物部が従ったために磐井が敗北したわけです。
弥生中期〜古墳時代の日本を動かしていた勢力、それが物部氏。
その後の大和朝廷は中央集権に邁進するようになります。
そして、統一王朝が完成したとき、一転して物部氏は王朝にとって危険な存在となります。
物部を解体すべし・・その仕掛け人が蘇我氏ではなかったか。
信長が信仰によって結束する組織を恐れたのと同様です。
物部氏の滅亡は海運者を統括する組織の消滅でもあって、サンカ同様に海でも自由民が登場しこれが自立性の強い各地の水軍の源になったと考えています。
以後の造船はハード的には百済系の構造船となったが、ソフト的な航海術(南海系の技)は衰微していった。
記紀で星神が悪役として登場するのも物部氏の滅亡と連動することと考えています。
ウエツフミには船に帆を使っているとみえる表現が少なからずでてきます。
「舵取りはねぶりなす」は神武紀での「打ち羽振り来る人」に対応しそうです。
また、真舵、面舵、取舵が何度も登場。
櫂でこぐ船なら舵は必要なし、帆がメインだから操船に舵が必要だった。
神功紀では風が吹いて櫂を使わずに新羅へ渡れたという記述がでてきます。
追い風が吹いたのでしょう。少なくともAD360あたりの対馬海峡では帆が使われていたとみえます。
stanさん・かたばみさん
さっそくレスをいただき有難うございました。
なるほどそうすると神社を研究されている方には当たり前かもしれませんが、神社の系図があるようですね。
明治維新の時、宗教体制を整えるため神仏分離がおこなわれ、かなりの神社が統廃合されました。例えば氷川神社はその時の時流に乗っていたためにつぶされませんでしたが、もろに寺社の統廃合の憂き目にあったのがお稲荷様だったようです。
お稲荷様は仏様と神様の習合神として崇められていましたが、明治維新の際の神道促進の布教政策にはあわなかったのでしょう。
志水さん こんばんわ
鞍馬の貴船と真鶴の貴船の関連は、あまり無さそうです。
真鶴の貴船の祭神は大国主・事代主・少彦名の3神で千年ほど前の創祀、明治初めまでは「貴
・宮神社」の名前。真鶴は古くから箱根の石などの積出港で船を主とする祭が古くからあり続いていた、これが「貴・船」に改名した理由でしょう。おそらく明治政府の船への統制、神名の統一化などへの対応だろうと思います。
京都の貴船は、かたばみさんが書かれている様に水神としてが有名です。
貴船山は北と南への分水嶺ですし、標高も高く京都南の淀川、昔の巨椋湖から見ると山アテの一つでもあったのでしょう。今でも淀あたりからよく見えますね。
貴船は、貴布禰、木船、黄船、気生根、木生峰など色々書かれますが、この文字からすると「キブネ」の訓みが正解かもです。が言語上からは「フ」が先で「ブ」は平安以降の訓みであろうとされているようです。
「ブ」は、壬生、土生、埴生、など「生れる」の意が強そうで京都の人は貴船も何か生れる、という意識が強かったのかも知れませんね。
京都貴船神社は、22社にも入っていて特に祈雨(雨乞い)には吉野丹生(これもニブの訓みがある)等と共に朝廷の筆頭社でした。そんな訳で、特に旱魃のひどい時など各地に勧請されたようです。淡路島も水利のよくない島ですのでいくつか京都貴船より勧請されています。かの有名な伊奘諾宮の近くにも貴船神社があります。
>諏訪の御射山神社は中央道の諏訪南ICの東1キロ付近のようです。▼ ▲
#御射山神戸ですね、祭にはここから迎えに出るのですね、きっと。
祭りは、支配者とか流行とかで変るのでなかなかモトを決めるのは難しいものがありますね。自然への感謝と畏怖を表すのにコレがイイとするのは時代背景で色々、少しずつとか急激に変ったりしたのでしょうね。
諏訪といえば、祭りは上社前宮からというのが多く、その前宮に居るミナカタの母という高志沼河姫は東北に位置する大門、白樺湖とを通り諏訪(茅野)に入ったという伝承があるのですね。白樺湖には石器から中世まで続くという祭祀遺跡が発見されているのもなかなか面白い、下社の御射山である高所の湿原という共通条件も。
白樺湖を北に下りると上田ですが、ここは大地そのものを祀る社がいくつか残る所で生島足島神社もそのひとつ、ここでは生島足島の神を閉じ込め監視する位置に諏訪神が鎮座する。
上田から安曇へ抜ける谷間から今の長野市あたりは阿倍・布施氏の痕跡が多く残るのですが、これは蘇我氏全盛頃からと思える。
高志沼河姫の伝承には、逃げてきたらしい痕はあるが上田に入ってから茅野諏訪へ入るまで戦は見られない。
この辺からも年代の推理ができそうと、、ウラ付加調査中。
物部は、いたる所に痕跡あり、なのですが。諏訪近辺では山梨は奈良以降物部系の国司が見られないにもかかわらず平安末頃までは物部神社が一番の神位で一宮の位置なのも面白いところ。
上野多胡あたりを含めて地方には物部姓を乱発といえるほど許しているが、中央では物部への復姓も許可してない(事例はあるがすぐ不可になる)、この辺りが物部姓の特徴ですね。
志水さん、はじめまして。
詳しいコメントがあるだろうと思いますが、貴船神社の御祭神はミズハノメやクラオカミ、タカオカミなどで、水に関連する神様のようです。
滝や谷川や池など水源を大切に思い、それを神様として祀ったことが源だろうと思います。
これらは場合によっては龍神といった形にもなるようです。
ミズハノメやクラオカミを祀る社は各地にありますが、京都の貴船神社は平安時代での発達で有力となったのでしょう。
同じ社名の場合は有力な神社を勧請した場合(カンジョウ、神仏の分霊を祀る)がほとんどだと思います。
水神のような自然神の場合なら、わき水がわいていたなど同じ環境であるとか、もともとから同じ神様を祀っていた、などがきっかけになると思います。
氷川神社の創祀は孝昭天皇の時代と伝承されているようです。
それを信じるとして自説による年代では孝昭105-137となり、寒冷化が始まる時代に一致します。
人々の移動が激しくなるでしょう、倭国争乱の始まりでもあります。
飢饉によって倭人が避難してきたといった記述が新羅本紀に登場する年代です。
諏訪盆地からは建御名方の子孫が関東平野へ進出(移動)。率いる指導者は千鹿頭・・(^^;
狩猟半分農耕半分の人々といったところではないかと推定。
房総の温暖地には海運者に運ばれた稲作民がいますが気候不順となってこちらでも稲作ではやってゆけず生活は苦しくなっています(千葉市加曽利貝塚の花粉分析)。
南系の文化は寒冷化時代では不可。
寒冷適応の諏訪盆地系の生活手段が関東に普及したのではないでしょうか。
同じ頃、かって日本海側から秋田岩手に広まった出雲文化の影響を受けた人々(蝦夷)も東北から南下してきます。
こちらはさらに寒冷に対応した文化の所有者。接点は群馬、茨城、栃木あたり。
近畿濃尾の出雲は大井川あたりまで支配した時点で開発は停滞した(大型銅鐸の東端は掛川市)。
関東までやってきた人々はいなかったと考えています(崇神以降は別です)。
東海より関東のほうが温暖とはいいがたく、瀬戸内での倭国争乱が激しくなって東進どころではなく箱根を越えるパワーはすでになかった。
関東平野の周囲の山麓近くでは狩猟半分の生活パターンで、この一帯には千鹿頭など狩猟にも比重のある信仰が生まれ、東北系をまじえた旧来の縄文を継承する文化が濃く残っていたのではなかろうか。
これが現在の近津神社の源と推定(近津の名称は利根川沿いの港からの変化か?)。
その神々は後に古事記における伊弉諾伊弉冉尊の先代の神、天之御中主神から6代目の面足尊(第六天神)に習合されていった(当初はミシャグチないしアラハバキにも対応する祭祀だったと推定)。
諏訪からやってきた人々のもつ信仰が平野部(農耕地)に根付いたものが氷川神社の源と推定。
東京湾岸までは至らず内陸までです。
建御名方の子孫にとってその祖はスサノオであって近畿出雲の祖大国主ではなかった。
氷川神社の祭神はスサノオになるわけです。
建御名方は出雲の神様の集会(神無月ないし神在月)に出席しないようですが、このあたりに建御名方の歴史上の真実がかくれていそうです(^^;
かっての大宮氷川神社はスサノオ、櫛名田姫、大己貴の三神が分離していたともされるようですが、諏訪、狩猟、農耕、母系社会(女神)に後の一般的出雲祭祀がからみあう状況ならさもありなんです。
関東には須賀神社(スサノオ)も少なからずありますが、こちらはずっと後に西日本から運ばれたものだと思います。
対して房総の温暖地には弥生初期に西日本からやってきた稲作を持つ初期開拓者がいます。
それが加曽利貝塚や利根川河口の鹿島、香取の住人で、縄文色のある祭祀と稲作文化を併せ持っていたと推定。
北からの人々との接点は利根川中流域、牛久沼、手賀沼、取手市あたりではなかろうか。
関東は西日本のような人口急増地域ではなく、争乱になることはなかったと推定。
景行311-333時代に近畿ヤマトに服していない地域へ日本武尊がやってきます。
そのルートは伊豆下田を経て三浦半島から木更津へ渡り、鹿島香取を側面の防衛として東京湾東岸を北上して関東平野へはいったものと考えています。
そして日本武尊は関東平定後に碓氷峠を越えて諏訪へむかった。
しかし撃退されて命からがらに伊那谷を下って熱田へ帰還(^^;
(補給線が長くなりすぎたためでしょう)
日本武尊東征には物部氏(軍事物資補給担当?)や祭祀者が同伴しているはずで、それらの氏族と通過地域氏族の婚姻が少なからず行われたと推定。
これが後の中臣鎌足登場の源でもあり、栃木、茨城に多数の古墳が登場する源になったと考えています。
国造本紀に无邪志(ムサシ、武蔵)国造(兄多毛比命兒伊狭知直)が登場します。
景行311-333時代の人物に類名があり、神功紀に見える海上(ウナカミ、現在の市原市付近)に祀られた五十狭茅命(海人系)との関連がみえます。
なお、欽明539-571あたりでその直系は途絶えて武蔵国造は地元の物部氏などが継承するようです(聖徳太子伝)。
(以上新編姓氏家系辞書/太田亮)
日本武尊が関東から諏訪へ進出する過程で新系譜が誕生しているのは間違いないと思います。
なお、地名のム・サシ=主・城、朝鮮語の論に賛成です。サシは刺国のサシと同じと推定。
(大国主の妃が刺国大神の娘の刺国若比賣)
地名は飛鳥奈良時代の百済系入植者によるものではなかろうか。
関東は後に桓武平氏の根拠地になりますが、その流れの中に現在の氷川神社と妙見信仰発祥があると考えています。
はじめて投稿します。私は学生時代京都に4年ほど住んでいました。
私は貴船神社といえば京都の貴船(きぶね)神社のことだと思っていたのですが、静岡にも貴船(きふね)神社があるのですね。
京都の方は、伝説によると第18代の反正天皇の御代(1600年程前)の御創建といわれています。
浪花の津(大阪湾)に黄色い船に乗った女の神様が現れ、「われは玉依姫なり、この船の留まるところに社殿を建てて、そこの神様を大事にお祀りすれば国土を潤し、庶民に福運を与えん」とのお告げがあり、その船は淀川、鴨川をさかのぼって水源の地・奥宮辺りの川のそばから水の湧き出るところに船を留め、そこに御社殿を建てたと伝えられています。
初歩的な話だと思うのですが、呼び名が違うのでどういう繋がりなんでしょうか。
分社だとしても何でそうなったのでしょうか。質問ばかりですみません。
伊那谷の方の御射山だと思ってました。▼ ▲
諏訪の御射山神社は中央道の諏訪南ICの東1キロ付近のようです。
最近の地図システムは便利で威力ありますね(^^)
やはり付近に御射山遺跡があって出土物は縄文時代と平安時代で中間に消滅期間があるようです。
(伊那谷の御射山遺跡は縄文〜古墳時代へ継続している)
なお諏訪郡下諏訪町東俣(諏訪湖の東北4キロほどの山中)に旧御射山遺跡(モトミサヤマ)があります。
出土物は旧石器時代は別にして中世にはいってからのもので、stanさんの書かれてるのがこれに関するものかも。
国土地理院の1/25000では東俣に神社マークあり。
出土物の流れからこの付近の各時代での盛衰がみえてきそうです。
諏訪郡原村役場あたりからアタックですね(^^;
以下物部氏的補足空想の余談(^^;
諏訪縄文はBC2000頃からはじまる寒冷化で崩壊、人々は周辺に散って弥生初期には過疎地となっていた。
BC500頃に温暖化はじまる、弥生のはじまりでもあります。
交通はほとんど海のみ、各地で海運者が栄えます。
その各地の海運者が物部氏の複数の源とみています。
伊勢津彦もそのひとりだったが、天火明の伊勢渡来で東国へ退却(BC100頃か)。
弥生中期AD50頃、諏訪は九州での国譲りに伴う建御名方の引退?の地となる。
このとき先住縄文神と建御名方が抗争し、のち合体。現在の諏訪大社の原型が生まれたと推定。
AD100頃、再び寒冷化がはじまる(これが倭国争乱の最大の原因とみています)。
諏訪の人々も新天地を求めて関東平野へ移動していった。
近畿の出雲勢力も関ヶ原方面から濃尾東海へ進出し、天竜川経由で諏訪へもはいった。
(目的は金属資源探査と推定、松本でも銅鐸)
このとき、伊勢東海の天火明系譜は進出する出雲に対抗したが敗れて服属していたと推定。
名古屋の朝日村遺跡や浜松市の伊庭遺跡の大環壕はその抗争を示すものと考えています。
そしてAD250頃、日向天孫の特攻隊(^^;(開化)の奈良突入で出雲は敗北、近畿の主は天孫に交代。
このとき近畿濃尾の出雲系有力者が関東方面へ脱出したと推定。
(伊豆の来宮神社の由来伝承はこれを示すのではなかろうか)
記紀の神武東征説話は開化の近畿制圧と神武時代の九州統一伝承(AD50頃)を合体させてAD50〜AD250の歴史を消去した創作。
各地の古伝承も記紀の影響を受けて変形したものが少なくないと思っています。
饒速日伝承も同様です。天火明系の海運者伝承と神武東征説話とが合体したもの。
崇神、垂仁系の有力氏族が濃尾、東海に展開してゆきます(関東へも、鹿島神宮の源がこれと推定)。
垂仁の五大夫のひとり十市根も登場、近畿ヤマト側の物部氏族の祖か。
海運者転じて流通の元締め氏族となった物部氏族は各地に展開して勢力を強めます。
いわゆる山師ですが、詐欺師の意味ではありません(^^;
金属、木材、武器など大和朝廷密着で戦略物資を扱ったのではないかと考えています。
対して食料品や布など一般消費材を扱ったのが秦氏系ではないかと推定。
そして日本武尊が関東の旧出雲勢力掌握のために東征、関東各地にその痕跡を残す・・
その後九州は独立状態になったと推定、朝鮮半島南岸へも進出か→新羅本紀(AD340以降)
応神仁徳〜継体では各地で有力豪族乱立。雄略ですらそのひとりか?
そして温暖化時代=飛鳥時代、大和朝廷の基盤が完成してゆく。
物部守屋の登場は十市根から250年ほど下るので(7代目)諏訪でのモリヤが人名が先か地名が先か、むずかしそう。
なお、物部氏の滅亡でその配下にあった組織が浮遊状態となり、そのひとつが「サンカ」となったとみています。
ミサヤマは色々な所に在るようですね、御射山とか三才山とか。位置的には、大事な「サ(苗)」の水源近くが呼ばれているような気がしてます。
ミサヤマの神とミシャグジ神とは同体の扱いを受けることが多いようですが、古くというか発生はミシャグジがより古そうです。土着、先住など謂われるのもこの辺りからでしょう。塞の神としての認識は諏訪社の薙鎌神事からの表に出た性格でわりと新しいのかも知れません。
諏訪の下社のミサヤマは江戸時代以前は、御射山社(諏訪山宮)と云い霧ヶ峰山中の八島原湿原南端にあり今の霧ヶ峰有料道路観音橋の近くにあります。カワラケ・刀・薙鎌など中世が主の出土が見られるとの事です。
春秋の御射山祭は下社の支配者にとってかなり重要な神事であったらしく鎌倉初期の金刺盛澄に関しての記録が残っています。祭の流れを見ると山ノ神(田の神)への農作物と騎馬・射など行事の奉納で、この霧ヶ峰御射山社廻りに観客席としての段がつくられています。
現在下社の御射山社は近くに下りてきているようですが場所は確認してません、社か近所で聞かれれば分ると思います。
諏訪上社本宮のご神体は拝殿奥にある磐座「硯石」となってますが、ちと離れた守屋山も関係なしとはいえないですね。洩矢については、上下社の記録などにモリヤ大臣の支配地だったとの記録がみえるので物部守谷であることは間違いないでしょう。
上社の御射山祭は、春秋の2度下社よりひと月ほど早く行われますが、上社本宮から進発し前宮に至り、この旧地で行われます。上社御射山社の場所は確認してませんが前宮、高部あたりの扇状地上部でしょう現地で聞けば分ると思います。
上社の御射山祭は、下社より騎馬・狩の部分がより表に出ているようです。
諏訪、ミシャグチについては、過去の掲示板でも話がでてます。Topページの掲示板書庫02、03あたりでチカツ、チカトなどの話も弱冠あります。
s_tan
ミシャグチ・・・ミサクチとも言いますが、M+isaku+chiでイサクの神のようなんです。
イスラエルの聖地はイサクを捧げようとしたモリヤ山ですが、諏訪上社前宮は守屋山を
御神体とし、物部守屋絡み(物部氏は古代ユダヤとの関連性が色々と言われている)です。
タケミナカタは出雲系では無い様な感じです。出雲とアラハバキ、古文献に見られる様に
協力して大和を統べていた痕跡は見つけています。三遠南信方面ですが・・・
もっと突っ込んだ確定的情報も有るんですが、イサク絡みのネーミングで探すと分ると
思いますよ。まわっている内に拾ってしまいました。古代ユダヤは聖書の記述とは違う
ようですね。聖書の記述のユダヤはタケミナカタを祖とする諏訪家の御頭祭等に見られ
・・・って、う〜何故御射山神社や遺跡の写真が無いの!古代は此処で神事が行われて
いたようなんですが縄文系なのかどうなのか、下社の縄文系の御神体山が有るか否か、
何処なのかをチェックしたいんです。
D.Kさん、はじめまして。
御射山ミサヤマ→ミシャグチ・・の推定でしょうか。
伊那谷は縄文〜古墳時代遺跡の大宝庫、神社も山ほどあって社名に興味深いものもありますね。
うちの戦国〜江戸時代のご先祖が伊那谷なのですが、あいにく位置しかわかりません。
御射山遺跡は飯田市近郊、N35.29.56.1 E137.50.34.2
御射山神社は15キロほど北で、N35.36.45.2 E137.55.03.4
以下余談(^^;
関東と諏訪をつなぐようにみえる近津チカツという社名の神社に注目しています。
伊弉諾伊弉冉神の前の代の青橿城根尊(アオカシコキネ=面足尊オモタル、奥方は惶根尊カシコネなど)を祀っています。
茨城や千葉に多いようで、社名は違いますが東京にも2社あり(1社はスサノオも祀る)。
面足尊(七代目が伊弉諾伊弉冉神なので第六天神ともいう)として祀られるのは古事記の神代系譜に習合させたからだと考えています(だから生き残っているのかもしれない)。
長野県佐久市にも近津神社があるので観光課に問い合わせたら昔の地名が千鹿頭だったことがわかりました。
(大蛇と池が由来の神社)
千鹿頭とは諏訪の千鹿頭神(建御名方の子)に違いなし。
伊弉諾伊弉冉より古い神とは関東における弥生以前の縄文神であって、その地へ諏訪出雲がやってきた痕跡が近津神社ではないかと考えています。
近畿東海の出雲と関東の氷川神社(スサノオ)の経路がつながらないのですが、関東の出雲は近畿東海とは別系であるなら納得できるのです。
諏訪に先住の縄文ミシャグチ神まずあり、ここへ出雲神族(建御名方、AD50頃、国譲りの関連と推定)がやってきて支配。
その子孫が碓氷峠を越えて利根川伝いに南下して関東の縄文神とドッキングした(AD150頃か)。
後には千葉氏などの妙見信仰に変化した可能性もあり。
この流れに対抗したのが鹿島神宮で、ゆえに出雲に国譲りを迫ったタケミカヅチを祀るのではないかと考えています。
関東の面足尊(縄文神?)と諏訪のミシャグチ神が親戚である可能性も十分あり(^^;
なお守矢氏は伊勢風土記に登場する伊勢津彦の後裔ではないかと考えています。
最近はアラハバキの研究から諏訪にチェックが入っていますが、
御射山神社や御射山遺跡等、詳しい事は分りませんか?
中々探しても写真等が無くて・・・モリヤ山のミシャグチ神は
古代ユダヤ関係の神の様なんですが、アラハバキも諏訪周辺で
祭られていたようで痕跡は幾つか見つけてはいるんですが。
下社がアラハバキ系の流れを汲んでいないかと文献の資料を
無視して勝手に推理していますが、天竜川や旧秋葉街道で
浜北と諏訪が交流していたのは間違いないようです。
チェックに行きたいんですが、情報が不足しているとマタ
迷いそうで・・・/txt/ng2swm.htm
現在の沼津港はずいぶん新しい港なんですね。▼ ▲
太陽暦が漁労か農耕か、面白い題材。
内浦湾だったかな、湾内にはいってきたマグロを網で囲んだのが養殖実験のはじまりと資料館にあったと思いますが、カツオなど外洋性の回遊魚をいつごろから漁りはじめたのかなあ。
漁労によって太陽暦が生まれる可能性についてはちょっと違う方向からの考えがあります。
北海道の礼文島に「縄文人」の船泊遺跡がありますが、定住したのではなくアシカやトドを捕るために季節移動して冬には洞爺湖付近にいたのだそうです。
太平洋岸や日本海岸でもとれる魚の変化に応じて海から海へ移動する人々がいたのではないかと考えています。
春にはあの海、秋にはこの海へ。大陸における遊牧の移動生活と類似です。
黒潮と対馬海流にはさまれた日本列島の細長い地形がなせる行動。
ある程度の外洋航海術をもち、星も太陽も見ることができる人々。
その暦が地域によって異なる四季の変化によるものでは不便、地域に関係なく通用する太陽の位置によって作られる可能性が高いと思うのです。
伊豆の海でも土佐の海でも同じ暦が使われ、これがギルド的な掟をもつ共通組織のベースにもなる。
弥生あたりに下ってくるとこの人々が「海運者」になってゆきます。
海の時代の到来。
底筒之男、中筒之男、表筒之男といった神々は日本海、瀬戸内、太平洋の星神とみるゆえんです。
(796に星を祀ることを禁止する制令がでていますが、記紀の星神悪役化に関連するものか?)
ちなみに猿田彦などはその舟に便乗して移動した陸の人々(神様)。あちこちに出没可能(^^;
海人の拠点には2種ありひとつは陸上人との交易拠点、五十鈴川の伊勢市、紀ノ川の和歌山市などなど多数。
もうひとつが補給や修理造船用。
紀州熊野川の新宮市や土佐四万十川の河口などで材木入手に有利な場所だが漁港以上には発達しにくい地域。
伊豆の「牛伏湾」は修理や造船拠点ではないかなあ、後に陸路とも隣接して中間的な発達をする。
伊豆のもう1ヶ所が下田ないし白浜、ここも造船拠点。こちらは陸路とは無縁で港のみ。
陸路の発達でポイントが変化したときそこへ引っ越しした神様がいたかもしれないですね(^^;
これは、すごいですね。
KENJI画伯、作品に手が届かなくなる前に、本摺りひとつお願い!
雅号もそろそろ本格的な・・なにか良さそうなの・・考えよう。
日本人はるかなる旅、稲
熱帯ジャポニカがどんな米なのかわからなかったのだけれど、カンボジアのはねばりのある餅米系なんですね。
猿田彦が熱帯ジャポニカを知っていたことはまず間違いないだろうなあ。餅米好き。
しかし赤米は餅米じゃない、熱帯ジャポニカとの関連はどうなっているのか。
番組でも赤米は熱帯ジャポニカの「系譜を引く」、とあいまいになってた。
やっぱりまだわからないんですね(^^;
熱帯ジャポニカが餅米ならば東南アジアでは餅米が好まれていいはずなのに今はインディカ米が主流。
なぜか・・?
雲南あたりでは餅米嗜好になっているので、東南アジアではインドの影響が嗜好も変えるほど強烈だったのかもしれない。
もう一歩インディカ米との関連もつっこんでほしかった。
河姆渡の住人が稲と漁労の民であったことの物証は収穫です。
棚田と潜水・・以前でてきた{氏+_}テイ族の説明が可能になる。
ではBC3500頃に登場した水田稲作はだれがどういうルートで伝えたのか。
さすがNHK、三苗に触れることは避けてるな(^^; 説明なし、これが弥生文化のキーワードだと思うけど。
早稲種の登場が日本か朝鮮半島か、日本での論にやや近い表現かな。
熱帯ジャポニカが朝鮮半島にあるのかないのか、まだ見つかってないみたいだな。
稲の徹底分析で弥生初期の流れが相当程度まではっきりするのは時間の問題とみました。
次に聖徳太子
これは聖徳太子を題材にした大作ドラマであって歴史表現ではないなあ。
蘇我馬子をあれほど悪役に変化させているのに仏像ひとつで改心させてしまうのは、聖徳太子として聖人化しすぎた無理をつくろうためにみえる。
まさにドラマ仕立てといったところ。
瞬間ですが「鳥居」がでてきたですね。横棒を渡した門柱の上に鳥が並べてあった。
蘇我軍(厩戸皇子軍)が弩(イシユミ)を使ってるのはグッド(^^)
この時代の空想は試行錯誤中ですが、蘇我氏を悪役とはみていません。
大和王朝を構成する各氏族と、それら氏族と百済や新羅との関係に切り込めばもっと現実的かつ変化に富むストーリーになったのではなかろうか。
大伴氏が新羅攻撃を始めない将軍(来目皇子)を毒殺したというのはまったく??です。
新羅攻撃を阻止したかったのは保守派氏族であって厩戸皇子ではないとみています。
(具体的には物部、大伴といった古来の氏族(かっての天孫系譜に密着していた氏族→新羅寄り)
蘇我氏はむろん革新系で百済寄り(応神〜倭王五代がその勢力の萌芽の源と推定)。
保守と革新両派の確執、厩戸皇子はそのはざまにあった天皇系譜のなかの革新寄りの人物。
冠位や憲法の制定の原動力は蘇我氏の業績で、それを天皇系譜の厩戸皇子の業績に転化したものが聖徳太子伝承だ、といまのところは推定しています。
余談
当時のズボン?が膝下でたるませてしばっているのは生活の知恵だと思ってます。
貴重な布を無駄にしないための工夫。
裾上げではなくスネ上げにしておけば足が長くても短くても調節自在。
もう1、2本ドラマ作れば流行るかも(^^;
お、楽しみですね(^^)
発売日までに新作をいくつか増やしておかないと・・プレッシャー・・(^^;
ウィンドウズ・スタート別冊『ウィンドウズROM!』「年賀状素材300本」(12月18日発売)
に、私のHP、版画年賀状が載るんですって。
\(◎o◎)/!で、\(≧∇≦)/でした。
本当なのか、半信半疑です。(爆)
嬉しい〜〜〜です。
此処でも宣伝!!(爆)
●予定価格=本体648円(税込み680円)
●発行仕様=A4変形72ページ(オールカラー・中綴じ・左開き)付録CD−ROM2枚
●予定発行部数=25万部
●予定発行日=2001年12月18日
ウィンドウズ・スタート別冊『ウィンドウズROM!』「年賀状素材300本」を、宜しく。http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
KENJIさん ありがとうございます。▼ ▲
>武虎さん、原田神社の名前は、社務所で聞きましたら、「江戸時代の中頃」からだそうです。
戦国時代には近くに「原田城」が有りましたので、地名の方が先のようですね。
#「原田城」の紹介サイト拝見しました。面白くて、前後のページもむさぼり読みました。在野の郷土史家の実証調査にはうならせるものが数多いですね。
愚生のかつて住んでおりました、北大阪千里地区に関しては、
のらねこ商会の「西国名所旅日記(旧・千里骨董協会)」(アドレス下記)がオススメです。
かたばみさん 古代牛臥湾の美麗映像ありがとうございます。
>大朝神社の「牛伏湾」の対岸?の山麓に瓦山神山(桜丘天満宮?)などいくつか神社あるようですが、どんな性格の神社かちょっと気になります。
#桜丘天満宮は、大正天皇がよく御滞在された沼津御用邸の本館(現在の歴史民俗博物館の位置)真東方向で、徳倉山(通称象山)の背のあたりに登っていく中腹にある社です。数年前に社殿が(小さいですが)立て替えられているので、氏子崇敬は高い社だと思います。淳也さんなら、何かいわれを知っているかも?
>すると沼津港はそれ以降の発達ということですね。
#沼津港が、現在の位置に移転したのは、昭和8年着工、同12年竣工で、戦時中は軍用港に使用され、戦後21年に開港してからです。
それまでは、河口から少し遡るまで河岸一帯が、「津」として栄えていたようです。沼津魚仲買商協同組合30年史によると、「吾妻鏡」の承元2年(1208年 鎌倉三代将軍実朝時代)閏4月2日の項に「二日、辛未、神宮寺造営材木、自伊豆国 狩野山之奥出沼津海」とあり、天城山一帯の材木を切り出して、狩野川を利用して船で運んだことが記されている、そうです。
>採集生活の中で太陽が365日で夏至と冬至を往復することに気づけば太陽暦の概念はひとりでに生まれるだろうなあ。
#太陽暦の必要性は、回遊魚(とくにカツオ)を漁獲する海人には大変重要だったと思います。山野での採集は、木の芽や、開花時期、紅葉等で視覚的に四季感覚が得やすかったと思うのです。もちろん、縄文時代の農耕がかなり本格的であり、暦管理が(今日想像するよりよほど)キチンとなされていたという、考え方も成り立ちます。
武虎
http://member.nifty.ne.jp/Nora/Saigoku/
≫島の存在価値が現在よりずっと高くて、淡路はもとより壱岐・対馬・隠岐・佐渡などは、皆一国です
≫(縄張りを守って?)一国に独立していたものだと、と不思議に思います
継体天皇時代の古墳に面白い動きがあるようです。
継体VS磐井の争いの後、継体が勝利してから壱岐と宗像に古墳が増えはじめます。
しかし対馬では逆で古墳が減ってしまう。
これはなにを意味するのか・・遊んでみると(^^;
継体VS磐井の紛争が起きたとき、九州で継体に味方した氏族と磐井に味方した氏族がいた。
勝者は継体、こちらについた壱岐と宗像が勢力をまして大型古墳を造るようになった・・
このあたりの各地の古墳の変遷は謎の時代の空想の重要なヒントになると思っています。
また、応神仁徳402-434〜継体〜欽明539-571〜天智天武673-685の時代は後の戦国時代のありように対応できるのではないかとみています。
強力な戦国大名とそれに従っているが絶対服従ではない近隣の中小戦国大名。
そのグループが次第に絞られて数グループ程度になってゆくのが継体まで。
(記紀はそのうちの大和付近の氏族のことしか書いていない)
海運を持つ地域は特に独立性が高く有力だったと思います
(継体もまた若狭を基盤とする海運拠点を持つ氏族)
そして蘇我氏の登場、信長に対応します。
対外情報と交流に優れて新たな体制を持ち込もうとする新興勢力です。
しばらくは天皇に形式上は従うが実権は蘇我氏(信長、秀吉)にある状況が続き、そして壬申の乱(≒関ヶ原の合戦)。
戦国時代に系譜が粗製濫造(^^;されたのと同様に、現代につながる血脈としての氏族の多くは継体あたりまで遡るのが限度で、それ以前は伝説の世界になるのではないかとみています。
1659に川筋が変わったのですか。徳川家光か。すると沼津港はそれ以降の発達ということですね。
徳倉山や鷲頭山は季節の変化=暦を知るいい目印になりそう。
大朝神社の「牛伏湾」の対岸?の山麓に瓦山神山(桜丘天満宮?)などいくつか神社あるようですが、どんな性格の神社かちょっと気になります。
日本に「四季」が登場したとき(日本海に対馬暖流が流れ込んだとき、BC6000頃)採集生活の中で太陽が365日で夏至と冬至を往復することに気づけば太陽暦の概念はひとりでに生まれるだろうなあ。
ストーンサークルカレンダー造るのは時間の問題か。
大阪は朝だけで雨も止み、良い天気に成りました。
今日、「原田神社」(豊中市)、「広田神社」(西宮市)、「鴨神社」(川西市)の、三ヶ所、
行って来ました。
写真は、「いり豆の会」と一緒に、CD−Rに焼いて送ります。
武虎さん、原田神社の名前は、社務所で聞きましたら、「江戸時代の中頃」からだそうです。
戦国時代には近くに「原田城」が有りましたので、地名の方が先のようですね。
古くは、「祇園神祠(祠の文字、看板は、禾偏)」だそうです。http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
>摂津原田城
#池田市付近の情報がよくまとまっていますね、hp。
関東は雨、昼頃にはあがる予報だったのですが止まず。上記hpで池田あたりを散策してました。
さて、そろそろ雨あがるかな
摂津の原田城に付いて、下記のURLに、少し書いて有りました。▼ ▲
参考に成りますかどうか?
http://www.ikedaya.com/ikedatown/castlepre/p.html
http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
stanさんどうもありがとうございました。
>・摂陽郡談(1702)<原田神社>
豊島郡桜塚村南出口に有。原田姓の祖神とす。
#やはり原田姓の本貫のひとつと考えて、よさそうですね。
貴重な資料をありがとうございました。愚生の母方は、豊前の城井家支族の流れであり、
>いり豆会で教えていただいた田中勝也氏の翻訳HP「解読上紀」いいですね。(かたばみさん)
#の「上紀(うえつふみ)」執筆者のひとりである城井景房がご先祖のひとりになるのですが、父方の本貫がよくわかりませんでした。江戸時代から祖父の代までは淡路島の庄屋であったのですが、その以前が不明でした。摂津の国に原田のひとつの発祥があれば、位置的には近いですね。(原田神社のお守りを沢山買って、親戚一同に配り回っていたのもあながち的はずれではなかった、カナ?)
さて、話は飛びますが、古代の国名は、地勢によりある程度現代と共通する、もしくは合理性を感じますね。でも、島の存在価値が現在よりずっと高くて、淡路はもとより壱岐・対馬・隠岐・佐渡などは、皆一国です。島と同様、半島も重視され、伊豆や能登などがそうなのですが、「志摩」と「安房」は、よくあんなに小さいのに切り取られて(縄張りを守って?)一国に独立していたものだと、と不思議に思います。島原半島・西彼杵半島・天草の上島下島あたりが独立していないのに比べると、意外に思えます。(雲仙天草地方の古文明は噴火で消滅したのでしょうか?)小さくても独立していた「島」「半島(の先ッ緒)」の国々は、やはり「古く」て「海人」系の色合いが濃いのでしょうが、そのなかでも、優劣が生じたのでしょうね。
武虎
>三角形の鉄板を革で結んだ襟付き短甲・衝角付き冑・革製草摺・鉄刀剣類・革製盾・勾玉類が発見され、
#関西での甲ですが
・大石塚、小石塚はAD350年あたりからに編年されているようです。
短甲が現れるのは、三角板皮綴短甲−長方板革綴短甲−三角板鋲留短甲−横矧板鋲留短甲−挂甲。の順で、
見られなくなるのは、a横矧板鋲留短甲−b長方板革綴短甲−c三角板皮綴短甲−d三角板鋲留短甲、
c三角革綴はAD350前に現れ約100年間活躍、abcは30年ほどで続いて消え去り、dがAD500年過ぎまで続くも、8世紀に入ると列島は挂甲一色になる。
3種の甲が三つ巴が100年弱、三角板鋲が7、80年リードするも、挂甲がとってかわる。
おもしろいですね。
>原田神社
日本神社総覧の式内社一覧で探してたのですが、摂津はもとより他の地域でも記載は無くて。社の住所戴きやっと発見、武虎さんupの情報はほぼ網羅されてます、にプラス分を主に抽出。(刊行)内は西暦。
・摂陽郡談(1702)<原田神社>
豊島郡桜塚村南出口に有。原田姓の祖神とす。祭神5座所謂、素盞嗚尊、月神、日神、櫛玉命、稲田姫、也。土俗大日如来を相殿に置て両部の社とす。
神社考:曰、日神者大日也、・・当社往昔は南都春日神職祭事せり。于時春日山鹿是に来り、神前を守り、年在て終に斃ぬ、今衡門の外鹿塚是也。・・毎年9月朔日より9日に至り、荘内11箇所の氏地に、巡渡を以て神事とす。・・
・摂津史(1720頃)<原田神祠>
在桜塚村西旧称桜塚祠、見南郷春日社記、原田荘8村共祭祀。
・槁本各葦探杖(1776)<原田神祠>
式内の神也。桜塚村の西に在。祭る処5座。素盞嗚尊、月の神、日の神、櫛玉命、稲田姫の命なり昔は桜塚の祠と称して原田の庄8村祭礼を倶にす。
・摂津名所図会(1800頃)<原田神社>
豊島郡桜塚村の南、出口にあり。祭神5座。素盞嗚尊、月神、日神、櫛玉命、稲田姫なり。・・例祭9月9日。荘内11村の産土神なり。又恒例として、鹿の頭を造って神事にわたし、臥舞、起舞という事あり。むかし南都春日明神より使いに来る鹿のまねびなり。
下記−2へ続く
・大阪府誌(1902)<原田神社>▼ ▲
豊中村大字桜塚に在り創建の年代不詳。祭神は天照大神、月読大神、櫛稲田姫大神、高オカミ(雨シタニ龍)大神の5座也。天武天皇の御宇悪疫・・退除の詔勅を当社に下して祈願・・、因りて白鳳12年6月18日神宝、神鏡、素盞男命御鏡、獅子頭を奉祀せしめられ是より大宮と称するに至れりという。
後72ヶ村(東は豊嶋郡榎坂より西は川辺郡富松まで)の産土神と為り土民は崇敬して西牧総社と呼び、降りて足利氏の時義澄、義晴、義輝など深く尊崇して原田六車の庄(原田、勝部、桜塚、走井、曽根、福井)を神領として寄進し当時社頭は壮観を極めて善盡し美盡ししが天正6年荒木摂津守村重に火せられ・・社務光廣神璽を奉じて多田の庄に遁れ・・(帰ると)天武御下付の神鏡、獅子頭は灰中に依然として存せしかば、神璽とともに末社十二社の神殿に合祀し同9年2月新たに仮殿を建てて奉遷せり。・・暫次衰頽して氏子も8ヶ村に減ぜり。貞享5年8月に至りて原田大明神の号を贈られ今の社名に改め、明治4年郷社に昇格せり。
祭事は正月8日、2月20日、6月18日、9月10日、11月18日の四季に行う。春祭りは菜摘祭と称え正月7日氏子の少女等野辺に出て若菜を摘み、翌8日神前に供えて聖寿の無窮と各自の長命とを祷り、2月20日は新年祭にして当日は稚児盛装して遂行し典式古雅にして境内雑踏を極め秋祭りは獅子頭を奉じて氏子各部落を渡御するを例とす。(鹿頭を以て祭事を為すと他書に見ゆるは謬なり。)
社域は能勢街道に接して3400余坪あり平坦にして・・、右に熊野神社、天満宮、春日社、八幡社及び十二神社あり。十二神社は延暦2年4月12日の創建、・・社後は上地官林なり、・・。
社宝に伝細川頼之所持是重作の大刀、家吉作剣、伝一の谷の暗礁に逆立せし剣、古鈴、有栖川宮御令旨、吉田大納言筆額などあり。社司を高畠姓とす、先は奈良春日社の祠官にして高畠(神官の邸地)に住せしが白鳳年中移りて当社に奉仕し今に至るまで43世にして此の宮に遷りしより36世なりという。
古墳。境外官林及び田圃の間累々たる封土その数36あり、林中に在るもの多くは琵琶形を為し巡らすに溝渠を以てせり、その最なるものを大石塚、小石塚、仙殿塚、王子塚、身隠塚と呼び年の6月18日ひぐれ時を以て原田神社の祠官其の大なるものに奉幣するを例とせり。・・寡石棺現れ土瓮出でしことありと云う。・・
村民に伝聞書と称する物を蔵せるあり、火焔皇子稲野に住し辺なる椎の大樹の側に宮殿を構え、宮を椎の御殿と云い今の椎堂村(川辺郡)是なれども後水害に遭ひて更に西真木に遷り称して僊殿林とし給ひき(村の西方の地に此の字あり)皇子兄弟3人あり倉若媛、石媛、小石媛と云ひ共に欽明天皇の宮嬪たりしが、天皇崩御の後この地に1社ならびに1宇の蘭若を建てて桜塚善光寺と称し(瑞輪寺)4人没し葬りしもの即今の石塚、北石塚、御位塚是れなりと果して然りや否やを知らざれども原田神社の衡門を距る数十歩にして一古塚あり、古墳の1桜塚にて上古は一大桜樹ありしが枯死し、村名も是に因るといふ。又一名荒神塚と称し鹿塚と呼ぶは謬なると。
・大阪府全誌(1921)<原田神社>
※ほぼ上記大阪府誌と同じ。
−−−抽出転記以上
#これから調べるとすれば、
・天武の白鳳12年という年号の使用。
・式内社と表記あるは「槁本各葦探杖」のみ。杖の字に見られるように編者は盲人。
・摂津史に見える春日神社は足利義稙の時に社地を半減されている。原田神社は加封、室町将軍は、義尚9代、義稙10代、義澄11代、義稙(再)義晴12代、義輝13代。
・明治になり、祭神から櫛玉命が消え、鹿が獅子になった理由。
・村民伝聞書に、欽明29と妃姉妹の逸話。この辺りを追うと筑前原田との関連にあたるかも。
などですね。
吉田大納言からみの原田への改名ですが、神社家元組織旺盛の時、北にある吉田の地名とか縁戚関係、などを追う必要がありますね。
原田の名は、漢字の成りたちからも水に関係在るという気がしますが。北の細川神社、南の垂水神社、などほぼ上町台地へ向って並ぶ。孝徳36の時、垂水神社から難波へ長柄の橋杭という程の水が室町の頃には減し桜町辺りへ移ったのかも知れない。
西牧というのも面白そう、東方面には牛の牧、馬の牧の伝承が伝わってます。
>大朝神社
は「大潮」の写し間違いではないだろうか。
やはり河口は移動していたのですね。
大朝神社と牛臥山ですが、重大な言い伝えを入手しました。
>もし狩野川の流路がこちらだったなら、伊豆山中で伐採された巨木が狩野川経由でここへ集まってくることにもなります・・造船所の適地、有力な神様がいておかしくない。(かたばみさん)
#ピンポーンです。
牛臥山の北側、現在の狩野川がグッと湾曲するあたりの河口に、島上寺という(確か臨済宗の)寺があります。その寺のご由緒によると、万治2年(1659年:隠元が万福寺を創建した年)に狩野川の氾濫があり、狩野川の川筋が変わったとの言い伝えがあるようです。
つまり、それ以前は、狩野川は河口直前で急カーブせず、南南東方向へ、(かたばみさん地図による)牛臥湾へ直行していたらしいのです。それでは、牛臥山が千本浜から現沼津港を経て陸続きだったかというと、多分(愚生推測)泥沼の葦原であったのではないかと考えられます。つまり、狩野川と泥葦原に囲まれた島に牛臥山が位置していたのではないかと思えるのです。島上寺という名称も肯けます。
そう考えると、大朝神社はかつての狩野川河口の湊に面していたことになります。東向きは、日の出向きであるとともに河口向きでもあったのかも知れません。
この川筋を前提にすると、現在の名である「塩場」「塩満」もその位置が理にかないますし、また、平安律令期に「煮かつお」「干しかつお」を納税していたかつお加工場のあった「藤井原」の位置も川筋にほど近く、物流経路がよくわかります。
さらにいえば、この地域一帯が狩野川右岸地域とは統治支配区分では別個のものであった(駿河国ではなく伊豆国であった歴史の方が古い)可能性が強く感じられます。
武虎
いり豆会で教えていただいた田中勝也氏の翻訳HP「解読上紀」いいですね。
http://www.din.or.jp/~uetufumi/index.html
縦書き表示にもできるので読みやすい。ダウンロードしようと思ったけどオフラインでは表示できないな。
田中氏の他の著作も理知的な公平さを感じるので好きです。
吾郷清彦氏の翻訳(絶版)は現代語で読みやすいのですが意訳に近い。
原文も併記されていますが翻訳文と平行はしておらず、また「あの文字」ですからどこが翻訳文に対応する部分か探すのがたいへんです(^^;
田中氏のは原文一致の読み下し文+漢字化なので資料としての価値が高いと思います。
吾郷氏の翻訳と平行して読めば完璧かな。
天照大神誕生部分でその名が4種でてきますが、そのひとつが
つきさかきイヅのおおみたまあまさかるヒムカタひめのみこと
撞賢木厳之大御魂天疎日御像媛の命
この名についての注釈がありますが、クリック一発で表示できるのは電子文書ならではだと思います。
(これらの注釈が貴重と思います)
翻訳漢字は神功紀に登場する漢字を使っていますが、実際にはツキサカキ伊豆ノ大御魂・・でないという証拠もない?(^^;
大朝神社(御祭神:オオヒルメ)は牛伏山東麓で内陸を向く方向(東向き、ヒムカタ(^^;)だったと思いますが、現状ではあまり意味のなさそうな位置です。
しかし海面が上昇していた時代だと・・伊豆は海岸が急峻でほとんど海岸線は変化しませんが、牛伏の東麓だけは海(湾)になる。
大朝神社はその良港を見下ろす位置になります。
海面変化がなくても狩野川の堆積物で埋まってしまった地域ではなかろうか。
もし狩野川の流路がこちらだったなら、伊豆山中で伐採された巨木が狩野川経由でここへ集まってくることにもなります・・造船所の適地、有力な神様がいておかしくない。
三津湾の地名の由来は牛伏津、江浦津、内浦津?? その当時の沼津はほんとの沼で無人だった??(^^;
こんばんわ hahahaさん
鴨山口神社さんへ伺ったときは境内で箒を使われ落葉を集め焚火をされていたお二人と世間話をしていたのですが、櫛羅の地名の話など話が進むうち宮司ご夫婦と分りました。かまえの無い、気のおけないお二人でした。
この頃はデジカメを使う前で写真が少ない頃です、本殿奥の写真等、お手数ですが、ぜひお送りください。かまえのない、あたりまえというかごく普通にそこに神社がある、といった雰囲気を思いおこしてみたいと思います。
>原田神社
奈良時代以前、天武天皇の時(672〜686年)に創建されたという長い歴史を持つ神社です。室町時代には将軍足利家の寄進を受け、周囲72ヵ村の氏神として栄えました。天正6年(1578年)に戦乱で社殿を焼失、江戸時代の慶安5年(1652年)に再建されました。本殿は美しい細工が施された五間社流造で、国指定重要文化財です。本殿に向かって左手には、桃山時代のものと思われる三間社流造の摂社十二神社本殿があり、国の重要文化財になっています。
(豊中市市役所公式サイト「みどころマップ」より)
#というように国の重要文化財指定を受けたご摂社があります。五間社流れ造りのご本殿も勇壮で、電車の線路と商店街にはさまれた一画にある神社とは思えない落ち着いたたたずまいがあります。
#御由緒書きによると
東は吹田市江坂から西は尼崎市富松までの72ヶ村の産土神として尊崇をあつめ、「西牧大社」とも称された。
とあります。
豊中市のまちのヘソである、おかまち地区自体が原田神社の門前町として、交通の要衝であった能勢街道沿いに古くから栄えてきたのです。今でも、地元の方々の崇敬は篤く、愚生が参拝した時(二年ほど前)もひっきりなしに町のおばちゃんやおじちゃんが参拝していました。
毎年秋には獅子神事祭しししんじまつりが行われ、10月9日の宵宮祭は、大松明の燃えさかる炎の中で「おてんさん」とよばれる獅子が舞い踊り、古式ゆかしく壮観なものだそうです。(愚生は未見です)
>原田神社
獅子神事祭しししんじまつり
(市指定無形文化財)
天武13(684)年夏の悪疫流行の際に、天武天皇がここで「妖邪退除」の祈願をされたのが始まりとされています。
10月9日の宵宮祭では、大松明の燃えさかる炎の中で、「おてんさん」と呼ばれる獅子が舞い踊り、古式ゆかしく壮観なものだが、今日なお大切に継承されており、市内の代表的な祭事の一つとして賑わいを見せている。
(大阪府豊中市まちづくり支援課のサイトより)
#上記獅子舞は大祭である新嘗例祭の中日に行われますが、大祭はさらにあと一回、三月一八日に新年例祭が行われ(ご由緒によると)「古例により、稚児奉仕、太々神楽の奏上を行う」そうです。
さて、近くに原田神社がないかと電網調査すると、神戸市にかつてありました。
>●王子神社
川辺賢武「神戸の町名物語」によると、鎌倉時代初期、信州松本から松本忠公がこの地に移住して土豪となり、元久元年(1204年)、郷里の諏訪神社の祭神・建御名乃命を勧請しました。その後、熊野信仰が流行し、諏訪明神の本体は熊野から出たとして建長4年(1252年)、若一王子を迎えて合祀しました。以来、王子権現と呼ばれるようになったといわれています。
この地域は旧原田村に属します。原田村には、大市姫命をまつる高林神社がありましたが、明治39年(1906年)5月、建御名乃命神社に合祀されて原田神社となりました。この原田神社も、昭和25年(1950年)に湊川公園と王子公園を会場とする日本貿易産業博覧会(神戸博)が開かれることになって、前年に王子町1丁目に移りました。その後同31年(1956年)、国民体育大会の総合運動場を設けるため、再び現在地に移転されました。もとにあったところは現在王子動物園になっています。
(神戸市灘区役所まちづくり推進課のサイト「まちのはなし その3」より)
#原田神社の名称は、ご由緒書きによると
「貞享五年(1688年)八月に 吉田大納言から原田大明神の社号を贈られました」ことに因むのですが、なぜ「原田」なのかがわからないのです。筑前原田とは関係ないように思いますし。これでは「古代であそぼ」というより「原田であそぼ」的な狭い関心事なのですが、どなたか推理あるいは、情報開示出来る方はいらっしゃいませんか?
「いり豆」参加の皆さん▼ ▲
「こらぼれ」読者の大阪の皆さん
原田神社のことを教えて下さい!
まず交番に尋ねてみると、以下のような基礎情報が入手できます。
>【原田神社】(中桜塚1丁目2−18 阪急宝塚線岡町駅東すぐ)
素戔嗚尊など五神をまつり、古くは祇園神社と称した。白鳳8年(680)大宮として創建され、豊島郡榎阪村から川辺郡(兵庫県)富松村まで72ヵ村の産土神となった。足利将軍義澄・義晴・義輝らはこれを崇敬し、境内にはそれぞれの植樹がある。
天正6年(1578)の乱のときに兵火にかかり、古文書・宝物などが灰となったが、慶安5年(1652)に本殿が再建された。
原田神社の社名を受けたのは、貞享5年(1688)8月である。また、天明元年(1781)社地の松の根元から弥生式中期の銅鐸が発掘され、府の重要美術品に指定されている。
(大阪府豊中警察署サイトより)
#さてこの原田神社の東には北摂最大級の大塚古墳があります。西隣には、大石塚古墳と小石塚古墳(円筒埴輪が有名)があります。
>【大塚古墳】(中桜塚4丁目15番 阪急宝塚線岡町駅東約750m)
この古墳は、岡町駅周辺に散在する古代中期の桜塚古墳群・36墳(48墳ともいわれる)の代表的古墳で、墳丘直径約50m、高さ8m、周囲に濠跡のある最大級の円墳である。風雨にさらされて頂上付近から遺物が露出したりすることから、豊中市教育委員会は昭和58年発掘調査に着手した。
その結果、頂上中央部に粘土槨割竹形木棺(長さ6.8m、幅60〜80cm)の一部が残存、青銅製の鏡一面、三角形の鉄板を革で結んだ襟付き短甲・衝角付き冑・革製草摺・鉄刀剣類・革製盾・勾玉類が発見され、続いての調査によって装飾性の強い石製つか付き短剣が発見され、古墳時代中期の有力地方豪族の墓と考えられている。
また、青銅鏡も出土したが、調査の結果、中国から輸入されたものではなく国産と判明し、直径18cm厚さ8mmで鏡背に刻まれた文様などから、方格規矩獣文鏡という型で、4世紀から5世紀前半にかけての古墳に多く出土するものとのことである。鏡の縁の文様は普通、流雲文が多いが、この鏡は菱形の直線が交差している菱雲文で、類例が少ないものである。
(大阪府豊中警察署サイトより)
#北摂の古墳群の中心にある古いお社であるわけです。
#祭神は 素盞鳴命 天照大神 月読之命 たかお大神 櫛稲田姫命
他 明治期に合祀されたものを含めると 計九柱
有栖川宮代々のご尊敬を受けていたそうです。
(この項続く)
武虎
おはようございます。
奈良県御所市櫛羅の鴨山口神社へ行って来ました。
stan さんのHPにもご紹介されていますが、今回は、神社の方の
ご厚意で、本殿に入ることが出来ました。
本殿内と、本殿から奥の社を撮影できましたので、ご入り用でしたら
お申し付け下さい。
葛城古道にある神社は、ほぼ網羅いたしました。
大瀬神社 祭神 引手力命(ひきてちからのみこと)
愚生の大好きな杜の五指にはいる神社です。
当社を田方郡の式内社「引手力命神社」に比定する説は江戸時代からあり、現在の祭神も引手力命となっているが、伊東市十足(とたり)所在の引手力命神社(旧田方郡初本村の手力雄山より近世に遷祀されたと伝えられる)を式内社とする説も有力であり、『式内社調査報告・第十巻』も古代の大瀬崎が那賀郡に属していたとみて後者の説を採っている。(日本の神々 東海)
天手力男命は、記紀神話では天岩屋戸前に集える神々の一柱であり、なかでも尊は、天照大神の御手を取ってお出迎えした、即ち日の神の復活に功のあった神と位置づけられているわけで、伊勢皇太神宮の内宮の相殿の神として祀られる重要な神であられます。
愚生は、「引手力命=天手力男命」もしくは「引手力命=(天手力男命)後裔」とあまり根拠はなく考えてます。
由緒書きには、かたばみさんが触れたように
江戸時代の『豆州志稿』(秋山富南)に書かれた縁起を紹介し、
「日本書紀」天武天皇 白鳳13年(684年)の大地震によって生じた岬が大瀬崎と考え、「当時土佐国から土地を引いてきてこの島を造ったという伝説があり、その神霊に感じて引手力命の神名をつけたのであろう」と記している旨を紹介しています。
天手力男命との関連には一切触れていません。
土佐国から土地を引っぱるのは、
かたばみ>土佐から伊豆への国引きではいささか
#遠いのですが、「出雲風土記」意宇の郡 の記事には、当地は新羅の三崎から引き寄せた旨を伝承しているので、距離はあんまり関係ないのかも知れません。しかし、時代が若すぎるかと思います。
「ほつまつたゑ」では、
天照大神(ワカヒト)の妹君である下照姫(ワカヒメ 別名ヒルコヒメ)と思兼(天思兼命)(アチヒコ)のご子息が手力男(天手力男命)(シツヒコ)であられる系譜を伝承しています。
牛臥山の大朝神社の御祭神である大日孁尊(*)が下照姫尊を意味するのであれば、ご子息の手力男命が大瀬に祀られるのは、位置的にはうなずけます。
同じく「ほつまつたゑ」で、楊原神社を読み解いてみます。その御祭神は、大山祇神 磐長姫神 木花開耶姫神 の三神です。大山祇神(「ホツマ」ではオオヤマスミのご子息のカグヤマツミが姉妹神のご尊父)にとって、下照姫神は義理の妹君になられるわけで、後の瓊瓊杵尊(ニニキネ)と木花開耶姫神(アシツヒメ)のご婚姻からみても、両者のつきあいはあったと思われます。下照姫神が、ご子息の手力男尊を訪ねる際に牛臥の浜に立ち寄る、それを大山祇神がお迎えする。そこが、楊原神社と大朝神社の兄弟(姉妹?)関係説につながるとみることが出来ます。「ホツマ」通説では、ニニキネ尊とアシツヒメ尊がお会いになられた大山祇神の宮は、現三島大社もしくは、現富士宮浅間大社と比定されているわけですが、難ありです。現三島大社は、後代に遷座されて現地にありますし、富士宮浅間大社は祭神が木花開耶姫神で、大山祇神が主神ではないからです。とすると、三神が仲良く揃う楊原神社が宮であったと考えるほうが自然といえるのですね。
(*)天照大神は「ホツマ」では別名「大日霊杵(ウヒルキ)」
11月17日が大朝神社と楊原神社の新嘗祭です。今回初めて、愚生も玉串を奉ることになりました。後日ご報告します。
武虎
いり豆の会、UPしました。
詳しいデーターは、此方のHPや、他の方にお任せし、私は、旅行記風に書いてみました。(爆)
少しでも思い出してもらえれば、良いかと思います。(^^ゞhttp://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
≫帰りの箱根山越えの途中,車中で同じ話題でした
手力雄命かな、いや違うんじゃないか・・なんて。
由来書の、648年の地震で土佐のどこかが沈没して代わりに伊豆あたりに島ができた、その神威を引手力命として祀った、というのはなんかちと脈絡がおかしいですね。
土佐から伊豆への国引きではいささか無理がありそう。
室町時代に熊野水軍の一族がここに拠点を持ったともあるけど、これではちと新しすぎて神紋がそうなっても神様にはならないと思う。
伊豆あたり出雲系の神様も有力なようだからその国引き神話と、雄略あたりの事象と天武時代の地震がごっちゃになった伝承といったところかも、と思ってます。
東京湯島天神は菅原道真で有名ですが、雄略天皇が手力雄命を祀ったのが縁起(本来は武の神社ってことですね)。
雄略の東征で武人として手力雄命を伊豆でも祀ったとしてもおかしくないはずだし。
ps.
写真のリンク先を下記へ書いておきます(本文中だとクリックだけで飛べないみたい)
http://photos.yahoo.co.jp/woodsorrelkodai
いり豆会の神社写真をアップしました。▼ ▲
下記無料アルバムを使っています。
http://photos.yahoo.co.jp/woodsorrelkodai
(沼津の神社)
なお御殿(オトノ?)神社は写真を撮っていなかったので地図のみです(^^;
(三島大社からの帰りの途中の八坂神社は場所がわかりません)
古代であそぼのいり豆会探索地の地図とあわせてごらんください。
それぞれの神社の由来感想などはstanさん、切り出してくださいませ。
あとからゆっくり思い出すと牛伏山山麓の大朝神社、ここになにか引かれる感じ。
小さなコンクリートの社殿なのだけど・・朝の雨中のせいかなあ。
それと来宮神社の大己貴ないし五十猛(の子孫?)がここにやってきたときに、波の音の聞こえないところへ祀れ、といったという伝承、いろいろ空想の楽しみになりそうです。
かたばみ
帰りの箱根山越えの途中,車中で同じ話題でした。
天手力雄=引手力命、ではないかと思うのですが。ヒキ=引き、なのか比企あたりを関連付けたのかなど連想してました。
int-netで「天手力 神社」で検索しますと、konさんのhpがhitされます。「引手力 神社」では結果計8項目の内、2項目が当「古代であそぼ」という結果で、これは自ら調べんといけないなぁと思っていたところです。
神社総覧・式内一覧では、田方郡の引手力命は伊東市の引手力男神社に比定してます。伊東から熱海辺りは時代で郡境の曖昧な感じも受けるのでどちらが本来かは判断の難しいところです。
・ヒキ=引き、については6世紀に今の大瀬(枇杷島)が浮びあがりその後陸とつながったという伝承がありますから、この繋がりが「引く」になった可能性は高いですね。ただ四国土佐から土地を引いたというのが、廬原氏あたりにつながるのかどうか、調査要です。
・ヒキ=比企、については殆ど思い付きですが、鎌倉時代の比企一族と埼玉比企郡唯一の式内社・伊古乃速御魂比売神社と白浜神社などに見られる名の類似とか埼玉比企郡にいくつか手力雄を祀る社がみられること、鎌倉時代の比企一族にも縁有、といったところでしょうか。
・房総安房の神社での手力男の神系は下記のようになっています。
ーーー
高魂命−−−O−−−太玉−−−−−O−−−天富−−−飯長媛
||
神魂命・・・天手力男−天日鷲(天日鷲翔矢)−大麻彦−由布津主
ーーー
神魂を高御産巣日とするもの、思兼の子とするもの、などいろいろの様です。
・手力雄神「円天思兼命の子」伊勢内宮の左にもこれを祭る。(内宮相殿)
・熊野修験では、本尊:阿弥陀如来「イザナギ」、不動明王「手力雄命」の様です。
大瀬の鈴木重行に関するものでは、(伊勢、伊豆)
・神武が東に向かった時、海からでた椎根津彦を偵察にいったのが天日鷲、椎根津彦を大和国造、天日鷲を伊勢・伊賀の国造とした。(先代旧事本紀9c中頃編纂?)
・延徳3年(1491)になると、北条早雲が堀越御所の足利茶々丸を攻め、伊豆全体の支配に乗り出してくる。この時早雲の下に馳せ参じた武士に三津(現沼津市)の松下三郎左衛門、江梨(現沼津市)の鈴木兵庫助、大見三人衆の梅原杢右衛門・佐藤四朗兵衛・上村玄藩などがいる。この時期の伊豆には「北条五代記」に「一郡を十人廿人宛分持にし、下々の侍共ハ手作し形義風俗侍共見分かたく、しかとした大将一人もなし」と記されたように、平坦地が狭小であったため、有力な武士団の成長はみられなかった。
と、建武の中興の頃、伊勢より熊野水軍の一派鈴木氏が大瀬に渡り、秀吉の小田原攻めまで大瀬で地方武士として在ったのは間違いないでしょう。大瀬で土地の人に聞いた300年ほど江梨を支配していたというのは資料からも確認できます。
建武の頃の伊勢といえば北畠氏で関東まで来てますし、その頃の紀伊熊野は特に楠党にも縁深いですから大瀬神社の神紋「菊水」もこの頃からのものと思います。
追:伊勢の鈴木水軍を攻め戦では敗退した九鬼水軍が300年後、徳川毛利など合わせた大軍でだが西伊豆で勝利を得る、というのはなかなか面白いところです。
こんばんは。いり豆の会の旅行記の取りまとめで調物をしていたのですが。
大瀬神社は伊豆国の引手力命神社といわれています。祭神なのですが、あの怪力無双の
手力命と同神なのでしょうか。
尾張平野の北端に手力雄神社が二社あります。岐阜市蔵前と各務原市なのですが、2キロと離れて
いない位置にあります。蔵前は火祭りで有名。各務原は古墳に隣接してあります。
各務原は戸隠大明神を祭っています。戸隠神社は手力雄を祭るので一応納得しています。
伊豆の地で手力命にまつわる伝承などありましたら教えていただきたいのですが。
http://nazca-e.hoops.ne.jp/tejikar/index.html
10/28頃にメールを戴いた、
・浄照さん?
・<jingzhaorulai@163.net>?さん
文字化けで文面が見れません、こちらをご覧でしたら、再度メールをお願いします。
当方、Outlookを使用で、mimeセットは現在ありません。
s_tan
aruceさん こんばんわ
凄い熱気の反動かここ数日ヌケガラの日々です^^。というか風邪をひいたようです。
探索先の社、旧跡で、宴で参加の方々と言葉をかわしましたが、まだまだ足りない、というのがひとつの感想です。奥深い色々なものがある方ばかりで、なかなか汲めども尽きない。
次回はaruceさんもぜひご参加ください。
入り豆の会は凄い盛り上がりだったのですね。
掲示板に書かれた皆様の感想を読むだけで、充実した3日間が想像できます。
もう、次回のお話が話題にのぼるなんて、よっぽど、お話も弾んだのでしょうね。
年齢やお仕事などの違いに関係なく、すぐ打ち解ける事ができるのが、趣味を同じにするお仲間だからと羨ましく拝見しました。
27日11:30、皆さんにお会いして、2時間後には親しい友人で、宴への突入後は10年来の知古、でした。はしゃぎ過ぎでの失礼はご容赦ください。
KENJIさんのお手配で、黒曜石の分析から、伊豆諸島・神津島と富士山麓の人々との交流。3万年前と1万年前が立証される、には目を瞠る思い。
konさんのお手配で、熱海・来宮さんでの地元の伝承を採り入れた幅広いお話。
愛鷹山麓・遺跡・古墳・神社、驚愕する知識でご案内戴いた淳也さん。
強力なバックアップと各種資料をご用意いただいた、千本一の原田さん。
各種、いり豆持参いただき盛りあげていただいた、かたばみさん。
お忙しいなか、駆けつけて戴いた、hotumaさん。
時代の先端をゆく業界話と平均年齢を若くして戴いた、アスベルさん。
3日間、一行に花を添えていただいた七海さん。
そして、話に夢中でほとんど写真を撮るのも多々忘れ、参加しただけの小生。
実に楽しい3日間でした。参加の皆様ありがとうございました。
s_tan
ps:konさん、次回、草刈&温泉までは少し待ち時間が多いような気が。。
こんにちは。充実した旅をさせて頂き、皆様ありがとうございました。
名古屋ICをOFFして栄でKENJIさん、アスベルさんに
手を振ったのは7時過ぎでした。8時には帰宅いたしました。
KENJIさん、ほんとうにお疲れ様。
沼津歴史民俗資料館のパンプと写真を整理して
「晩秋の駿河伊豆、岬の神社探訪記」として
この旅行記をまとめようと思っています。
すこし時間を下さい。こちらの図書館で調べ
きれない事は淳也さん、よろしくお願いします。
大瀬の神社、僕は大層気に入りました。大瀬航路
は夏だけなのですね。ラッコのシ−パラダイス
は15年前の家族旅行で訪問して焼津に船で渡ったのですが。
原田さん、大瀬神社ご紹介ありがとうございました。
大瀬の船祭とも引っかけて祭復活を期待いたしております。
セピア色の写真でもありましたら、”まぼろしの祭”として
先にネットで復活させるといいと思いますよ。
お力になれることがありましたら御申しつけ下さい。
11月に入りますと岐阜県垂井町の南宮大社の
”ふいご祭”が11月8日に行われます。
今年はこの祭を逃さず取材しようと待ち構えております。
この祭から壬申の乱に切り込むのが尾張の地の僕の任務と
思っています。かたばみさん、よろしくね。
それと、”ほつま”から伊吹山の物語が何か出そうな予感がして
なりません。木元さん、ご支援の程、よろしく
おねがいします。
さてさて、思い出を胸に次回シュラフ持参で
別荘の草刈りにでもお邪魔します。
Stanさん、その節はよろしく。
お疲れ様でした。
ではhttp://www.ne.jp/asahi/naoi/kon/2001/
皆様、有難うございました。
また、武虎さんと淳也さんには、一方ならないお世話をして頂き、深くお礼を申し上げます。
私は、コンさんを名古屋に、アスベルさんを京都に、無事、送りました。
途中、東名高速道路が、広い範囲で工事規制が有り、私が家に着いたのは、12時少し前でした。
今回は、初めてお会いしました方々でしたが、古くからの知り合いの様に、和やかな会で、
非常に楽しい時間でした。
楽しい時間は、過ぎるのが早いですね。
楽しさだけで無く、新たな刺激も、シッカリと受け止めて来たつもりです。
これからも、長く続く会にしていきたいですね。http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
すばらしいいり豆会でした。
行動拠点となりまた案内をしていただいた武虎さん(千本一)と淳也さんに深く感謝いたします。
また、沼津高専物質工学科の望月先生にはお忙しい中を最先端の黒曜石分析と関連のお話をありがとうございました(黒曜石を頂戴してインドネシアのめずらしい紅茶までごちそうになりました)。
来宮神社の禰宜雨宮さんには地域の歴史由来など興味深いお話をいただきました。
昼は史跡と神社探訪、おいしい食事、深夜になってもとどまることを知らない談義。
中日の28日は雨でしたがこれもまた味のある雰囲気を感じることができたと思っています。
みなさん、たいへんに充実したいり豆会をありがとうございました。
そして早くも次のいり豆会の話が・・
諏訪御柱、北海道、秩父夜祭り、寝袋必須の某山小屋・・はたまた近畿、九州か。
写真を整理中ですが大量です。セレクトしたものを無料アルバムに近日アップいたします。
(一般写真はどなたでも見られる公開、面の割れる写真(^^;はパスワードつきの予定)
なお地理不案内のため、これはどこだったかなというのがいくつかあります(^^;
今回訪問した神社や史跡の場所をポイントした地図をどなたかアップしていただけないでしょうか。
かたばみ
はるばる御来店ありがとうございました。▼ ▲
無事お帰りになられますよう祈念しております。
お気遣いいただいた「浄財」は、ありがたく
古社顕彰会の活動資金に繰り入れさせていただきました。
沼津湊 原田 武虎http://homepage1.nifty.com/numazu-daisuki/
こんばんわ D.Kさん
沼津は、Topページに案内があります。
10/27(土)と28(日)の夜7時頃から下記、本店に集ってます。
<a href="http://homepage1.nifty.com/numazu-daisuki/"target="_top">「さかなや千本一」
浜北周辺のご案内・・ありがとうございます。興味あるところですが、今回はちと無理のようですので次の機会に、よろしくお願いします。
縄文の遺跡からは「大量殺戮の痕跡が出ない。」のいうのが、後裔かもしれない我々のひとつのスクイですね。
沼津は少し遠いですね。27日に何かあるのでしょうか?浜北周辺の重要なポイント
ならば案内できるのですが。
歴史上抹殺されたアラハバキの研究で浜北近辺に重要な物を多々発見していますが、
東三河には東北方面以上にアラハバキ社が存在し、幾つかの関連情報を見ると世界
規模に名を轟かせていた可能性も見えますが一万年近く戦争もせず自然と共生して
きた縄文の神、現代人が一度見直す必要性があるのかもしれません。
PS…HPは古墳保護が目的なので、関心のある方は宣伝でもしておいて下さい。http://members.tripod.co.jp/dreagon/ahi.htm
おかげさまで昨夜、見逃さすにすみました。
しかし、4千年前の多摩丘陵も写真でなく動く映像で見るとリアルでした。
森の共同利用と、トチなどの共同施設、この辺りだけで2時間ほどやってもらうと嬉しいですね。
CD−Rお手数さまです。拝見します。^^。
こんばんわ D.Kさん
荒波々伎、阿羅波婆枳、東北から広島までかなり広範囲にあるようですね。
関東では境内社がほとんどですが「門客人社」という名の神社、この旧名がアラハバキというのが見られます。武蔵一宮・氷川の門客人社もアラハバキだといわれます。
浜北がメインのフィールドですか、銅鐸とか高度な職人集団が考えられる多くの窯とか、興味の尽きない場所ですね。
いろいろお話をお聴きしたいものです。ご都合よろしければ、10/27〜沼津においでになりませんか。
NHK特集、再放送の分、録画しました。(^^ゞ
PC録画ですので、其の侭の形式(mpg)では、888MBに成り、CD−Rには
其の侭では焼けません。
形式を替え(WMV形式)、容量を落とし(248MB)、前回の一部分の画像と
一緒に、CD−Rに焼きました。
PC専用ですが、ご希望の方に焼き増し致します。メールを下さい。
次回の会の時に持っていきます。http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
こんなの作ってます。http://members.tripod.co.jp/dreagon/takane.htm
昨夜、yahooのTV番組表で確認したにもかかわらず。
気がついたら終了10分前、目覚ましが必要ですな^^;
三内丸山の、縄文農耕、配水樋の復元?図など、をチラットみた、だけでした。
>10月23日、NHK総合深夜0:15再放送とあります、明日の夜みたい。
#明日も夜更し決定^^。
そのうち、BSあたりで連続放映のとき、どなたかVTRお願いします。
>前回の放送の、スンダの部分だけなら、CD−Rに焼いていますが・・・
>会の時、持参しましょうか。(12〜3分間程度の、一部分だけです。(;^_^A )
#CDRお願いします、Note持参です。
こちらのお土産(ピーナツ代り)は、全国主要古墳編年表です、必要な方はFDご持参下さい、Excel。
私も(^^;
テロ事件で放送日がかわったみたいですね。
10月23日、NHK総合深夜0:15再放送とあります、明日の夜みたい。
http://www.inpaku.nhk.or.jp/nihonjin/
参照
ありゃ、遥かな旅、昨夜でしたか。見逃した・・・(ーー;)▼ ▲
何方か、ビデオに撮っていませんか?
再放送は、多分、夜中で、何時放送するか解らないし・・・
前回の放送の、スンダの部分だけなら、CD−Rに焼いていますが・・・
会の時、持参しましょうか。(12〜3分間程度の、一部分だけです。(;^_^A )http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
志水さん いらっしゃいませ。
>・先日日本人遙かな旅をNHKテレビでやってました。
#今日もありましたね、縄文。
スンダは、もう10年になりますか、かたばみさんらとメール回覧始めた頃に話題になった場所で「古代であそぼ」の出発点のひとつです。
長江上流からカボト、ラカカク。稲とか建築材木の仕口とか、年代的にも日本海側の大木遺跡とのつながり有、とか、南からの文化に限らず長江の特異な青銅文化などに目を向けるキッカケでもあったです。このスンダー長江の話が終った頃に長江中流で祭祀壇の発見があり、特に記憶に残ってます、新聞で特異な青銅器の展示会などもやってました。
>わたしは素人ですが、日本人のルーツに興味があります。
#皆さん素人です、ですから逆に枠にとらわれない発想も出来、言える、のだと思います。
>このサイトに参加させていただけれがと思います。
#ぜひ、どうぞ。お気軽にご利用ください、それぞれ少し違う手持の情報が集り、新しい思索のキッカケになります。また、同じ情報・データから違う推論をするのも、また面白いものです。
>なみはや
以前大阪に居た時、結構近くだったので身近に感じてましたね。
まず、出土地の久宝寺ですが、この辺りはAD250前後の方形周溝墓の多いところで3世紀末までは、この墓制が続いています。また西は天王寺が荒陵と言われるように高塚を含めて墓の非常に多いところです、かなり昔から殆ど平に均されていますが。
久宝寺は旧河内湾というか湖の河口入江で川としては結構広い状態だったろうと思います。AD250頃とすると大阪城あたりの台地内側などの遺跡出土の貝からすると汽水域の状態だったろうと。。
(今、奈良からの大和川は天王寺南あたりへ西へ真直ぐ伸びてますが江戸時代の河川工事以前は柏原辺りから大阪城の北に主流が向い、いくつかの流れも台地の北から大阪湾に注いでいた。)
奈良から大阪難波までは明治期に鉄道が開通し柏原方面までの私鉄が開通するまでは、舟運の定期便が動いていた。もちろん奈良と柏原の間に滝に近い急流があるので荷を含め積換えが行われていましたが。面白いのは、この頃使われていた船の特に久宝寺あたりの舟の寸法が出土した「なみはや」と縦横ほぼ一緒なのですね。
また古い河内湖の海岸線・河口は古い神社の位置を追うと大体読めます、2つの河川の間の砂洲の先にある社も多い。地名もそうです、菱江・楯津・大津・池島などなど。
大阪の水運もなかなか面白く、秀吉時代は淀川では朱印の大船、それに群る物売りの舟、つかの間の春を売る舟もあったようで。江戸期には河内湖で鴻池が幅をきかす頃にパナマ式にも似た関と船荷積換えの専用の場所があった。
河内は昭和40年代だったかに琵琶湖近くにダムが出来るまでは大雨=水没、で今でも八尾の郊外には納屋に舟を吊るしている旧家がある。
パナマ式運河といえば、たしか関東のどこか(失念)が世界初ではないかと云われてるようです。
大阪近辺は淀川含め上流へ向うのに人足・馬など岸から綱で引くのが多かった様ですが、関東では、かなり帆が使われているようです。
利根川も連続して湊があり茨城・大杉神社から高崎辺りまで特に「あんば様」を祀る社が多くこれは「あんば=安波」で湊の守り神。高崎辺りを車で走ると「倉賀野」という地名案内が良く目に付きますが、これは舟運盛んな時代の荷の集散する地で「倉」が多いからの地名。
相模川も舟運が盛んで大小の舟、三八から馬舟、高瀬舟など、資料では風の悪い時は馬などで曳き風が良い時は帆を使っていた、明治初期の帆フネの写真もあり。
延喜式に房総の元名洲神の注で、忌部五部:天日鷲、手置帆負(たおきほおい)この帆負は帆をすぐ連想しますが鷲も帆の上の帆、かも知れないですね。
大陸では秦代の数百年前から黄海の海上ルートが開発されている。もっと古く甲骨文字に「帆」の文字が28例ある。
近江八景に「矢橋帰帆」などあり、帆と言うのは、かなり古くから少なくとも技術が廃れない程度に連続的に使用されてきたのでしょう。
>『龍の文明・太陽の文明』
おもしろそうですね、収集情報にinputしました。
鈕の龍の、テンとワ、誰かの本で(複数)読んでいるのですが著者は忘れてます。
・私は「共認(仲間)の輪を広げよう」
・頭の柔らかい人集まれ!常識を超えたその奥に新しい規範が芽生えている。
という内容の社会変革を目指すサイトに参加しています。
お暇でしたらちょっと覗いてみてください。
アドレスはhttp://www.rui.jp/index.php3です。
それで(無料で)るいネットの会員になれば、投稿も出来ます。
◇MLもいろんなものがありちなみに私は、
山歩きのサークルの連絡版を兼ねてMLを開設しています。
気楽なページですので宜しかったら(挨拶程度)ご訪問ください。
◆物見遊山的自然丸ごと体験倶楽部 01/09/30開設
(yusan@ml.rui.ne.jp) 管理人 志水mann満
志水 満 simiz-mi@rui.ne.jp
◇はじめまして志水と申します。▼ ▲
東京在住の45歳の男です。
・先日日本人遙かな旅をNHKテレビでやってました。
・約3万年か4万年前、スンダランド(現在のインドネシア付近)には、アジア人の原型ともいえる人々が住んでいました。その後、彼らが東アジア一帯に拡がって、私たちの祖先である港川人や縄文人の主要な母胎となったと考えられていて丸木舟で、黒潮に乗って北上し、日本列島にやってきた人々もいたことが放映されました。
・地球温暖化によるスンダランドの水没に伴い、親潮の後退に伴う黒潮の流れの変化にのって彼らがやってきたのではないかというくだりでは、1大スペクタクルの趣でした。
・どんどん明らかになっていく事実に基づき過去の定説に囚われず新たな歴史観を創りあげるのにはここで行われているような追求の姿勢が不可欠だと思います。
わたしは素人ですが、日本人のルーツに興味があります。
このサイトに参加させていただけれがと思います。
≫安田喜憲先生が、PHP新書で『龍の文明・太陽の文明』を刊行されました
おもしろそうですね、さっそく注文(^^)
安田喜憲氏の花粉分析による環境と文化の考察にはずいぶんと影響を受けました。
DNA分析による日本人のルーツ研究が進んでいますが、DNAといっても従来はミトコンドリアのDNAで母系だけがわかる分析だった。
ある地域に男どもがやってきてその地域の女と子を作ったとき、その子孫は混血氏族になるわけですが、この分析では別系の男の存在は検出できない(狩猟系ではこういう可能性が高いと思う)。
逆に男系だけを伝えるDNA分析もできるようになってきたらしいけれど、科学的とはいってもまだまだあいまいな部分があるようです。
文化と血(人種)の継承(発達あるいは衰退あるいは伝播混合)はむずかしい。
ある環境と文化の地域に他の環境からの血と文化がはいるとなにが起きるのか・・
血に関しては混血ということで単純かなあ。
文化に関してはまったくもって一筋縄ではいきそうもない(言語は文化と血の中間にあると考えてます)。
東京上野の国立科学博物館で「日本人はるかなる旅」展をやってます(11月11日まで)。
360万年前の原人の親子連れが歩いた足跡の化石あり(レプリカだけど畳1枚分以上)。
世界の原人〜新人の化石(頭部のみ、ほとんどレプリカ)など流れが見える展示でなかなか面白かったです。
お近くの方はごらんになって損はないと思います。
(ねつ造に関する石器類もあり(^^;)
茨城県の若海貝塚(縄文後期BC2000-1000)の男性人骨(本物)は身長が171cm。
みただけでうわっでかい・・(^^;
虫歯がすごいんですね、じっくり確認(^^;
関東から巨人の骨がでていることはまったく知りませんでした(龍山文化と同サイズ、大分はもう少し小さい)。残りにくい骨がでてるということは少なからぬ巨人族がいたということか・・
どう空想するかなあ、イザナギイザナミ時代の渡来者かなあ(^^;
舞鶴市で出土した杉製の丸木船(現物)がありましたが「石を焼いて焦がして削った」との説明文。
これは納得できず、どなたか生木を削るのと石焼きで削るのとどっちが早いか丸ノミ石斧で実験しないかな。
(丸木船の幅を広げるために加熱して変形させる手法がありますが、これは意味が違う)
杉は硬い部分と軟い部分の差が極端で、切れない刃物で加工するとザクザクになってしまいます。
杉板の表面を焼いて仕上げるのは工芸の常用手法で、木目が浮き上がってなめらかになるので私もときおりやってます(腐食防止効果は未確認)。
「環境考古学」を確立し、現在国際日本文化研究センターの教授である安田喜憲先生が、PHP新書で『龍の文明・太陽の文明』を刊行されました。
わかりやすくて、「こらぼれ掲示板」の脈絡とも密接につながる内容です。
氏が梅原猛先生らとともに、長江文明の解明に力を注いでおられることは周知ですが、本書ではそれらの最新資料も取り入れ、太陽と鳥と蛇を崇める長江流域古代人の文化と、北方から流入した龍を崇める畑作・牧畜主体の古代人との関係や、日本の王朝の起源に関する説をまとめています。
洞庭湖近くの城頭山遺跡と苗族との関係を考察した記述や、雲南省昆明市のテン王国
>漢時代の{サンズイ眞}テン国は不可思議でここがわかると中国もわかっちゃうかも(^^; (かたばみさん8/21)
のテン王国に関する記述も、当掲示板の皆様の発言と合わせて読むと、とってもわかりやすくて、頭の整理に一役買います。
来る月末の「いり豆の会」では、
1.ニューモードになった以降の当掲示板の発言記録と
2.かたばみさんの「古代で遊ぼ」まとめの第12章が、
談義の切り口を探す際の共通土台になろうかと存じますが、本書も新書版で手軽ですので、参加の皆さんに、ご一読をおすすめします。
<PHP新書170番 9/28刊 660円>
沼津湊
武虎
≫ヤマトタケルは房総へ渡る時「この小さな海(房総が見えますから)など簡単に渡れる」と言った逸話▼ ▲
浦賀水道渡るなら琵琶湖を横断するのとほとんど同じですね。
潮の流れが止まる時間帯、このあたりが弟橘媛伝承なのだと思います。
江戸時代の経済は沿岸航海の発達によって成立したといっていいと思います。
しかしその船頭は北極星をみて自分の緯度を知ることさえできなかったのだそうです。
(むろん陸の見えない夜に航海はしない)
江戸から大阪まで平均で1ヶ月を見積もったそうですが、70日もかかることもあって港での風待ちなど待機の時間がほとんどだった。
運悪く陸の見えない沖合に流された場合は神クジという占いで進む方向を決た(その占いセットが常備品(^^;)。
ただし船体は優秀で運が良ければハワイまで漂流することもあった。
(海水を蒸留して真水を造る装置が江戸後期では工夫されていたようです)
沿岸海運に特化して発達したのが江戸時代の海運だと思います。
航海術は何度も盛衰があったと思います。
各時代でどんな海運が必要とされたか、それによってその時代の船の形や航法も自動的に決まると思うです。
弥生初期での船は漁労用で遠洋にでたついでに交易もやるといったところで、大量輸送は考えておらず、せいぜい10人乗りあたりだったんじゃないかな。
丸木船で船体を2分割とか3分割したタイプもありますが、これで外洋にでたら一発で難破だそうです。
波のうねりの波長がその分割に一致すると船体がボッキリ折られるのだそうです。
(古代エジプトの船がこのつぎはぎ方式で、外洋航海はできなかった)
小型船なら帆も小さくてすむから材料も得やすいと思う。
ハワイや東南アジアのタパ布は帆の必要性から生まれた布じゃないかな。
弥生の早い時期に布の帆が使われたのではないかと思ってます。
スコールのある海域なら水の心配なし。魚が釣れるなら食料の心配もいらない。
海流と風と星を読めれば外洋航海ができた。
しかし水がなかったらどうにもならない、水が補給できない地域や季節での外洋航海はできなかったと思います。
必要性と好条件が重なった地域でのみ外洋航海が行われたわけで、海の存在=外洋航海ではないことは要注意と思います。
日本の地形で帆が必要になるのは山東半島や長江あたりへゆく場合だけで、沿岸を利用できるようになってからは九州や南西諸島の漁業民だけが使うだけになっていったんじゃないかなあ。
外洋航海をやらない地域では動力のメインは櫂になっていったと思います。
陸地づたいであれば休憩任意だから櫂でこぐだけでもOK。
歩くのと大差ない速度でも搭載量はかつぐよりはるかに多いからそれでよかった。
特に国譲り以降の出雲は対外交易できるルートが失われたために帆の技術は急速に衰退して、沿岸航海のための海運が「出雲王朝(連合)」の軸として大発達していったと考えています。
当初の天の鳩船はアウトリガー帆船、諸手船も双胴船だったかもしれない。
しかし帆が失われ、沿岸航海となって双胴の必要もなくなった。
美保神社の諸手船も2隻に分離されたままとなって現在に伝承されているのではなかろうか。
当時の帆船で戦は無理でしょうね(遠距離で相手を破壊できる大砲の登場がいると思う)。
弓は前哨戦、接近して戈の戦いあるいは体当たりが決め技(^^;
下図は板に線刻された古墳時代初期の船で、16隻ほど描かれていて若狭湾あたりを基地にする大艦隊の印象といったところか。
船首下部が突きだしていますが、丸木船に板を張り上げる準構造船の形だとしてもこのでっぱりは不要。
(準構造船の舟形埴輪にこれはない)
この形は戦闘用で、船が重くなるだけでメリットはないようです。
ローマの軍船も体当たり用に船首の下部がでっぱっています。
下図はセレベスの単純丸木船ですが、やはり下部に角があります。
戦のための船の形が形式だけ残ったものだろうと考えています。
鐘と笛(磐笛など)があるのに太鼓は出土物にないのは日本の太鼓が木と皮だったからか。
縄文土器で口のまわりに数ミリの穴がたくさん並んでいる有孔土器というのがありますが、この穴は皮をピンと張って固定する孔で太鼓だったという楽器奏者の論があります(なかなか良い音がしていた)。
(龍山文化の出土品には土器製の太鼓がでています)
小型銅鐸は櫂をこぐときのリズムをとるのにも使った・・かもしれない。
中型銅鐸は教会の鐘や寺の梵鐘のような使われ方で、オーイみんな集まれーといった用途かな。
そのあたりが妥当なところかもしれないですね。
≫三浦から川崎にかけては、漂着とか房総から神が来た、といった伝承の多いところ
≫ヤマトの主体が3回は大きく変っているのだろう
関東での最古の神様になるのはBC400以降の初期開拓者=猿田彦族や大歳族の人々だろうと思います。
稲作も伝えた人々。
関東はAD100以降の倭国争乱時代では西日本との交流が切れて東北とのつながりが濃くなったとみています。
寒冷化で蝦夷の寒冷適応文化が南下してくるわけです。
出雲の太平洋岸の東進は関東には及んでいなかったが、近畿出雲の崩壊で近畿ヤマトに服属するのを嫌う人々が関東や中部山岳へ脱出し、AD250以降にプレ出雲的な状況が登場したのではないかと考えています。
ヤマトタケルの東国での行動は景行311-333の婚姻融和策の一環で、そのプレ出雲的な人々の取り込みにあった。
新羅本紀では312に倭の王子が妃を求めてきたので応じたとあります、王子の名は不明。
書紀の熊襲征伐(景行天皇の事跡)では女性が重要な働きをし、東国でのヤマトタケルの行動も武力だけで押さえ込むのとは違う考え方があったとみています。
その結果、関東に景行系譜の血を引く有力者が少なからず誕生し、栃木や群馬では蝦夷とのつながりも生じた(後に多数の前方後方墳が出現)。
後の奥州藤原はその直系、平安の藤原氏の一方の祖も鹿島香取を介してここにつながると推定。
景行の婚姻融和策は多数の分家(別、ワケ)を生み、分家同士の争いを引き起こすことになるけれど、長い目で見れば氏族意識の低減を促すことになったとみています。
近畿ヤマト王朝は仲哀356-360死去で直系が途絶えた(暗殺とみます(^^;)。
しかし、景行には婚姻融和策によるヤマトタケルを含む無数の王子や姫がいた。
応神に対抗するその人々が阿波あたりで復活。それが仁徳系譜。
鳥を象徴にする人々、このあたり波瀾万丈で空想もはばたく(^^;;;
応神系と仁徳系の内戦勃発。関東はふたたび独立状態になった。
で、応神は高句麗との戦闘で戦死と推定(広開土王碑文)(^^;
近畿ヤマトにつかのまの平穏がやってきます。これが仁徳のカマドの煙伝承。
この頃に吉備、讃岐あたりでも独立国家登場(梁書(636)の扶桑国など)。
応神を継いだのが倭王五代。
九州北岸+朝鮮半島西南部が支配地、首都は朝鮮半島側にあったかもしれません。
朝鮮半島西南部にある前方後円墳はこの人々の墓。
海運と旧出雲系を介して日本海沿岸もこの系譜の影響下になっていたんじゃないかな(後に継体を生み出す)。
なお、天日槍は垂仁時代に当時の新羅王朝から亡命した人物、その当時の新羅王朝とは対立する有力者。
近畿ヤマトは神武時代からの親新羅だったためにその処遇は微妙で天日槍の居所なかなか定まらずだった。
どこかの亡命国王が外国の力を借りて復活しようとするのと同じ事態も発生します。
仁徳系の雄略456-479は九州北部から関東まで一応統一したんじゃないかな。
九州ではこのころ伊都国が滅亡しています、出土物から炎上して破壊された様子がみえるそうです。
すなわち倭王五代王朝の崩壊。
関東では古墳が大挙登場する時代。
倭王武は雄略にあらず。倭王武は502年に征東将軍の名をもらっています(梁書)。
20年も前に死去した人物にそんなことはしないでしょう。
(雄略紀には倭王五代側の事象の取り込みと読める記述があります)
雄略の死去年が500以降であった証拠がでるなら話は別ですが、雄略に九州を奪われてからの倭王武は半島側で雄略に服属していたとみておきます。
これが後に任那日本府とよばれるあいまいかつ不安定な地域となり、百済や新羅の領土拡張の目標となります。
雄略以降、近畿ヤマトはまた内乱、暗殺合戦となって仁徳系譜は途絶える。
関東はまたまた独立状態です。
そして応神系の継体507-530が近畿ヤマトの天皇となって任那の一部を百済へ割譲して近畿ヤマトの安定化を計った。
任那は名目では近畿ヤマトの支配地だが、実際には「倭王五代の六代目」の筑紫磐井が支配していたと推定。
「仲間」のはずの継体に領土を割譲されてしまった磐井はむろん激怒。
(この頃の中国は九州の倭王≒天皇と認識していたと推定)
なお安閑531-534と宣化535-538(継体の尾張系妃の実子)は継体と手白香皇女(仁賢皇女)に子ができなかった場合のバックアップに待機していた人物と考えています(安閑と宣化の妃も仁賢皇女です)。
しかし、手白香皇女が無事に跡継ぎ(欽明539-571)を生んだために、二人にはその御礼として4年間の形式的な天皇即位が贈られた。
この間の実務は欽明がおこなっていたわけです(これより大和朝廷とします)。
筑紫磐井を滅ぼした大和朝廷は中央集権確立を目指して関東と東北へも出兵開始。
いまのところこんな流れで考えています。
こんばんわ 淳也さん▼ ▲
天川社、行かれましたか。車でも結構不便なところでしたね。
雨が降ると濁ってちと怖そうな川が近くでした。しかし天気の良い日はきれいな川です、キャンプ場もいくつかありました。
私が行ったのは3年ほどまですが、社の経営云々については全く知りませんでした。
社務所で由緒など戴いたのですが、なかなか感じが良かったですよ。
大きな屋根の中のまだ新しい拝殿、何度かカメラ構えて、結局撮らなかったのは良く覚えています。白木が新しすぎて、なにか違和感を感じていたような気がします。
KENJIさんからの画像、奥社、あの場所に役行者、空海も通ったのですね。
勝手神社、残念ですね。hahahaさんより、焼失後の境内写真(新聞)の画像を戴きましたので後ほど掲載します。
こんにちは、淳也です。
天川大弁財天社の紹介、懐かしく拝見致しました。
10年ほど前に、私が行った時には、社殿の新築直後で、
真新しい白木の社殿が印象的でした、
その後、借金の返済が滞って競売に・・・、
と言う新聞記事がありましたが、現在、
神社の経営はどうなっているのでしょうか?
文化財になるような建築を建てるには、
いろいろ、苦労が多いようですので、
今回の「勝手神社」全焼は非常に残念です。
全焼ですか、残念ですね。
境内と社殿の配置とか社殿も独特の雰囲気があった、本当におしいです。
撮った写真を確認してみます。
こんにちは。
吉野町の勝手神社が、9/27日、全焼しました。
宮司さんは常駐せず、施錠もされていなかった
ので、不審火の疑いがあるとのこと。
県指定文化財であるため火災警報機の義務
がなかったのが、災いとなったようです。
神社は、大体報知器の設置が少ないらしいです。
それと、吉野山は道が狭く、火災が発生しても消防車の
往来が非常に困難なことも指摘されています。
今年で4回目の火災は、文化財をこれ以上
損失しないために、調整を急がれます。
このところ古代は、駿河−伊豆国、相武ー師長あたりを彷徨っているのですが。。日本武尊の逸話で足柄路からのヤマトの侵略といったイメージが強い相模ですが、やはりというかどうも海からの上陸が先にあった様子です。
5世紀末から6世紀初め、大化直前の師長、相武、鎌倉別の区分の基礎が出来て7世紀初めまでに固まり。7世紀中頃には新しいヤマトが足柄路あたりから酒匂川周辺千代台に進出してくる。
4世紀代の上毛野国の隆盛が5世紀代にはムサシ北部のさきたま辺りに移り、丁度この節目辺りが安閑27紀での笠原直使主と小杵(おき)の乱だろう。この逸話は関東にヤマトに匹敵する力を待つものがあったことにもなる。4世紀中から5世紀中にかけてはムサシ南部も多摩川流域に結構大きな古墳がつくられている。
近年三浦半島の展望良好の山稜に長90m程の前方後円墳が2つ発見されている。三浦から川崎にかけては、漂着とか房総から神が来た、といった伝承の多いところ。房総では国内最古かも知れないという前方後円墳があり、しかも弥生の方形周溝墓あたりからの連続性の可能性もあるという。
これからすると、ヤマトの主体が3回は大きく変っているのだろう。少なくとも6世紀に入るまでは海からというのが主流だった。相模では6世紀以降と見られる古墳に馬具の出土が急激に増す。
上毛野国の4世紀代からといわれる古墳の主も霞ヶ浦辺りから船利用の遡行だろう。東京辺りは別な勢力がいたのかも知れない。
ヤマトタケルは房総へ渡る時「この小さな海(房総が見えますから)など簡単に渡れる」と言った逸話が有りますが、これは大海を制してきた者の言葉か、海をよく知らない者の言葉か、など考えるのも面白そうです。
>「打ち羽振り来る人」、そういう帆をコントロールしてる様子とみることもできそう
#これは、連想が同じでした。神武が時代の違う何人かの投影だとすると、その初代辺りには帆を使う人々がかなり居た。その後、船戦も風を待つほど悠長じゃなくなり火にも弱くいので人力に替っていったのでは。
銅鐸もまだまだ勉強不足ですが、やはり天竜以西で滞っていることがひっかかるです。海の民の小銅鐸と陸の大きめ銅鐸は違うのではないだろうか。というのが今の思い。
初期というか飾りになる以前の銅鐸は音を鳴らすという本来?の機能を果した痕跡がある。駿河というか遠江の銅鐸出土地は谷奥か水辺の近くから、水というか清水湧水に近い。また出土地は小さめの川の平地、初期の稲作とか適地を探してちと拡大した時期にあたる。
この頃の銅鐸は今の(少し前か)工場のベルの音の変りをしたのではないだろうか、あまり言葉の通じない労働者も居たのかもしれない。
その後、言葉も通じるようになり、稲作適地もなかなか拡げられなくなり、水不足など深刻になると、争いも多くなり銅鐸は祭器に変質していったのではないだろうか。
とまあ、最近本を読むに気にしているところです。遠江の銅鐸は畿内式と三遠式が混在してるのがまた面白いところです。馬具・轡・銜の形、鐙、なども特に。鐙の国内出土は北九州のが一番古いようですが。
s_tan
>夜中の3時とかの教育TVで各地の大自然や人々の暮らしの好番組をやってますが、ビデオ・・
#各地の大自然とか、これはいいですね。むかしよくTV見ていたころは^^;顔つきとか生活用具など見入ってました。
むかしは良く特集など録画してましたが最近はVTRの結線も5月以来してない、といった状況です。番組表で期待して見ると、題名ダオシのが多くてがっかり、が続いたからか、知りたい情報の内容が変ったからか、は分りませんが。時々、これよかった、の報告等きくと「失敗」とさすがに思うです。
曜日でジャンル分け、というのはいいですね。どのチャンネル回しても同じ画像の多いTVなら何局もいらないですね、TV。12chはあまり直前に番組の変更がないので好きですが、ニュースなどでどのチャンネル回しても同じ、下手すると時間と画像も一致する、解説も似たよなモノが。。一億総OO、ってのはマスコミが作り出すのか。
森総理のトキあれほど叩いた株価も、さらにさがってもマスコミは大人しい。TVの報道とはイッタイなんでしょ。
・・・とまあ、TVからは客観的情報はとれない、のがTV離れの原因かな。お祭り単眼視の国内TVより、int-netのほうがはるかに複眼視・客観視の情報が手に入ります、国内も海外も。
夜中の3時とかの教育TVで各地の大自然や人々の暮らしの好番組をやってますが、ビデオ録画させるのが目的なんだろうな。いい企画だと思います。▼ ▲
毎日番組表チェックするのはめんどうだけど、曜日でジャンルを分けて再放送ををやってくれると見逃すことも少なくなるんじゃないかなあ。
月曜の深夜は古代史や民族関係、火曜日は芸術関係といった具合で。
チャンネル数も増えたことだし→放送局殿へ(^^;
かたばみ
まず縄文文化あり(自然崇拝)、北では旧石器文化が濃く南あるいは沿岸では南海系文化が濃い。
BC2000〜1500、九州縄文が東シナ海系文化(三苗)の影響を受ける(原始アマテラス、猿田彦族など)。
BC500頃、早稲種登場、朝鮮半島南部の大歳族も渡来(やはり三苗文化の影響を受けた人々)。
温暖化とともにBC400頃からそれら初期開拓者が東進し各地の縄文文化と融合していった。
これが菊理姫や瀬織津姫、オオヒルメムチ、アラハバキなど現在見える各地の「謎の神々」の源だと推定。
この時代が200年ほど続き、スサノオがやってきてひと騒動(^^;
天孫の親もやってきてもっと大騒動。
海運者は夜間でも船を使う必要が生じ、敵味方の識別の必要もあって船に「鈴」をつけはじめた(^^;
騒動が一段落して弥生黄金時代、海運者は全国津々浦々へ。
BC130頃、伊勢濃尾に天火明がやってくる。その海運者のオサが饒速日。
先住の伊勢津彦は追い出されて諏訪へ、伊豆や千葉などに移動した人々もいます。
伊勢の宮川上流にある瀧原宮の本来の御祭神は伊勢津彦であった伝承があるようです。
このころ出雲神勢も兵庫、大阪から奈良へ進出。若狭方面から琵琶湖を経て南下していた出雲臣族と接触。
出雲神族の近畿総帥は五十猛あたりか。
AD50頃、神武が九州統一、大国主は島根出雲、建御名方は諏訪へそれぞれ撤退(あるいは強制移住(^^;)。
そして寒冷化による混乱から倭国争乱時代へ。
AD130頃、出雲は瀬戸内を徐々に失うが、逆に濃尾東海へ進出。天火明や饒速日の後裔との抗争激化。
(朝日遺跡や浜松の伊場遺跡の環壕の大規模化)
熊野の速玉大社の摂社神倉山神社境内のご神体?の巨岩の下から近畿型銅鐸の破片がでています。
津市でも銅鐸出土、高地性集落もある。しかし伊勢志摩では銅鐸はでていないようです。
大型銅鐸出土の東端は掛川市なので濃尾東海の出雲支配の東端がこのあたりか。
AD150頃には天火明後裔の勢力地は伊勢志摩のみとなり、出雲に服属していたかもしれません。
紀州西岸の田辺湾付近には高地性集落がたくさんあります(銅鐸も多数)。
出雲は天孫の近畿上陸を警戒して水際防衛体制を整えていた・・
(神武東征説話での上陸失敗の話の源はこのあたりのこと)
AD240頃、開化は警戒の手薄だった紀伊半島東岸への上陸を目した。
上陸地点は尾鷲市付近と推定。厳しい山道だが奈良背後の吉野へ最短。
しかし後背支援なしで山中を縦断して奈良への突入は自殺行為でしょう。
このころ出雲は瀬戸内のほとんどを失い、伊勢志摩の旧天火明勢力も出雲への反旗を掲げ始めていた。
出雲からみれば反乱分子だが、旧天火明側からみればお家再興です。
そのグループが倭迹々日百襲姫と開化部隊の上陸を支援します。
沿岸部の海運者が支援の主力となったために、天火明と饒速日の同体化伝承が生じたとみています。
情勢急転の中で各氏族の対応に差があり、連絡不徹底もあったのが神武東征説話でのナガスネヒコと饒速日のお話となる。
そして出雲は背後から本拠地を奇襲攻撃されて敗退。
崇神248-273が奈良へ入城し、祭祀の統合化を推進するも周囲は全て出雲文化圏。
出雲の神々も祭祀しよう、しかし象徴である銅鐸はすべて破棄せよ・・
その後、近畿ヤマト王朝は鏡を大量生産して配布、支配者の交代を明示した。
三角縁神獣鏡、これが出土する古墳は崇神以降の古墳ということです。
新支配者と旧支配者の交代あるいは結合のシンボルとして倭迹々日百襲姫の墓が他を圧するサイズで築造された。
この古墳は結合シンボルゆえに記紀に築造談が書かれるわけです。
400年ほど後・・人の思惑で神々まで動かしてしまう時代。
天武、持統が氏族融合と王朝権威強化を目的とする日本書紀の編纂(原本修正)をおこなう。
平行して九州系祭祀(日向天孫)をベースに母性をもつ理念上の「最高神」を創成して神々の統合化を断行。
今に続く信仰に直結するので以下やや書きにくいですけど(^^;
本来の地元神(数千年の歴史と実力をもつ神々)は「最高神」の荒魂(別の姿)へ置き換えられます。
ために、荒魂を介して地元神→最高神あるいはその逆の解釈の混乱が生じることにもなります。
(インドのシバ神には百の姿があるとされます、先住者の多数の神々をシバ神の化身のひとつとしたためです)
(祓いなどのパワーを要する祭祀では実力のある神が必要、ために荒魂=地元神が登場する→中臣祓いなど)
近畿では置き換えが進んだが、東海では多くの神々が入り乱れ、さらに東国では古来の山、川、滝など自然崇拝を源とする地元神が濃く残った。
旧事紀の「天照・国照・彦天火明・櫛玉饒速日」の名も混乱を表すものだと思うのです。
アマテルとは九州系地元神、クニテルとは出雲系地元神(縄文系が濃い)、それに天孫と海運者が合成された名。
彦(日子)と櫛玉の尊称は出自による使い分けか?
また見逃しました。。途中で終った様子ですから、また再・放送でしょうか?
先日、珍しく古墳探索に。
神奈川も結構あるようです、千葉ほど古くなく群馬ほど大きくなく、というより大きいのは消滅したのが多いようですが。。
墳丘をけずりほぼ玄室の上に社殿のある神社がありました。これは珍しくは無いですね、本殿社殿改修の時に古墳が見つかることも多いようですし、古墳のそばにはほぼ神社というのは、いまさら、でした。
丹沢の麓の秦野市の水無川の傍に桜土手古墳公園というのがあり、中小の円墳のいくつかを保存しているのですが、ひとつ葺石で覆った2段築造の復元円墳があり墳丘に登ることが出来ます。
公園内には展示館もあって無料で入れます。展示は馬具の銜・轡、直刀、玉類、土器類。
秋晴の天気のよい祭日に混雑もなく、のんびりできるところです、おすすめです。
昨夜遅くに、NHK特集の再放送をしていた。
途中から録画していたら、突然、放送中止。
首相と大統領の共同記者会見になった。
又放送するのかナァ
退院おめでとうございます。
京都貴船行かれましたか、鞍馬の裏の、京都でもよく雪が降るところです。参道前の茶店の並びと小さな流れもちょっとした風情でしたね。
>奉納の和船が可愛くって、見とれてしまいました。
#2艘つないで筏のようにし石、岩を積んだのでしょうね、京都御所の小玉庭石とか江戸城の石垣の石もこの辺りからも運ばれています。
近くに温泉もひかえて湯河原もなかなかいいところです。
掲示板への書込みは、学校と違い個人の興味で調べた情報ですから同じ命題でもそれぞれ少しずつ或は大きく情報の方向が違うです。このズレが集ると大きな情報になると思っています。
ですから、宮城谷昌光さんの小説とかのお話を聞かせていただけるとうれしい。史記の風景というのを1冊読んだだけです。
stanさん、お久しぶりです。
やっとPCが修理完了で復帰です。
1ヶ月以上遊びに来ない間にいっぱい大好きな神社の写真が増えていて、ビックリ、そしてニッコリでした。
貴船?!京都の!?行ったよ、って思ったらブーでした。
奉納の和船が可愛くって、見とれてしまいました。
この掲示板の書き込みは、みなさんとっても専門的なのにわたしだけミーハーでごめんなさい。
でもとても面白く読ませていただいています。
1ヶ月ぶりに戻ってきたら、今度はニムダなんですね。
KENJIさんがバージョンアップできるサイトを書き込んで下さっていたり、他のお友達からもメールや電話で注意していただけたので助かりました。
Nimda、困ったものですね、
KENJIさんに言われて気がついて、MSへ入ったのですが、いつのまにかMIEはVer.SP2に代ってました、ADSLにしてから自動でVer-upに設定してるから^^。と思います。
感染チェックと対策ソフトが9/20付ででてます。
http://www.trendmicro.co.jp/nimda/、トレンドマイクロ、さんです。
対策ソフトをダウンロードして、起動しますと、メモリーなめてからPC内の全ファイル確認するようで時間が結構かかります。
昨夜処理したのですが、PC内3.5Gで30分程かかるようです、途中で眠ってしまって正確には不明。特にMIEのテンポラリファイルの使用量設定の多い方は調査時間がかかるようです。
結果は感染無しウィリス無し。
>バックアップ・メデア
PCの修理で仕方なくbackupにHDD探しに入って、思ったより安かったCDR使い始めたのですが、これは便利です、dataのやりとりができるのがいいです。
CDR以降は常時使わないデータとほぼ使わないソフトはCDに移してます。現在PC内の大量dataはカシミールの地図、2Gほどあります。
メール受信とかHP見るだけでとからしいけど、困ったもんですね。
メールソフトはやたらマイナーかつ古いのを使ってますがかえって安全かな(^^;
全ファイルのウイルスチェックはうちの場合は2時間くらいかかる。
寝る前にチェックスタートでやってますがひんぱんにはちとめんどくさい。
重要ファイルはMOにバックアップしていますが640Mだと区切りよく入らないのもあるのでDVDが円板ともども安くなるのを期待しています。
Nimdaワームと言う、新ウイルスが広がっているらしいです。▼ ▲
IEのバージョンUPで対策できるらしいです。
下のURLから、ダウンロードできますから、一度見てみたほうが良いかも知れません。
http://www.microsoft.com/japan/technet/security/nimdaalrt.asp
ダウンロードに、時間は掛かりますが、対象者は修正した方が良いみたい。
私も、先程、修正しました。
困った連中が多いですね。(ーー;)
ピローグ型の一方の帆柱をしっかり固定して垂直に近くすれば現在の一般的なヨットとなんら変わらないですね。
この姿からのイメージは鳥の羽じゃないかなあ。
神武の案内をする椎根津彦の登場は「打ち羽振り来る人」、そういう帆をコントロールしてる様子とみることもできそう。
日本の最初の外洋航海時代は弥生黄金時代、BC130〜AD50頃だったのではなかろうか。
それ以後帆らしき描写はでてこない。仁徳ないし応神の枯野も船の大きさのみ。
倭国争乱〜古墳時代初期あたりでは対外交易どころではなく外洋航海の技術が消えたのかもしれない。
王朝の所在地も対外交易のやりにくい「内陸」になった。
しかし・・これは近畿大和王朝サイドでの話であって九州でもはたして同じか・・
倭王五代の時代(AD400〜500)、梁書(636)に登場する日本の仏僧の話は少なくとも九州からの渡来者がいたことを推定させます。
神功紀(自説神功360-386)では帆船に順風が吹いたので舵や櫂を使わずに新羅へゆけたとあります。
これは冬10月のことになっていますが、この季節に南風が吹く可能性はあるのかなあ。
少なくともこの頃の九州には実用の帆が存在していたということでしょう。
この頃の九州の海人は晋や宋(南朝)の技術を導入していたのか・・
応神〜継体あたりは九州を含めて内乱状態だと思います。
文化的にも騎馬系文化流入の時代で船に関しては衰微の時代かもしれない。
万葉集には舟を榜ぐ(漕ぐと同意と思います)はたくさんでてくるのに「帆」がでてくるのは海人の小舟を歌った一首のみです。
帆船ならば目立つのは帆、絶好の題材だと思いますがそれがないということは万葉時代(AD600〜700頃)に帆は存在しないに等しい状態になっていたと思われます。
遣唐使船はAD630〜838、遣唐使船を歌った歌もないのはなぜか(精査してませんけど(^^;)。
AD759では新羅攻撃用の船500隻が建造されて、紀貫之時代(868?〜945)では帆が使われています。
AD700〜900頃に船と帆が復活、おそらくは百済船の流れだと思うけれど百済船の実体がわからない。
以降の日本の横帆はこの頃がはじまりかもしれない。
ジャンク型の帆は遣唐使船の絵に登場(網代帆アジロにみえます)。
鎌倉時代の宋船をモデルにしている可能性があるけれど、少なくともジャンク帆は知っているわけです。
しかし室町の遣明船ではムシロ帆で横帆です(舷側の張り出し部分は櫂でこぐときの漕ぎ手用)。
横帆のためか五島列島の平戸〜長江河口で実航海は1ヶ月なのに風待ちで1年待ったりしています。
838年の最後の遣唐使以降室町時代まで外洋航海が途絶えてジャンク帆の採用もなかったものと思えます。
余談:
後の千石船も風待ちで何日も港で待機した。
その間、船員は港町で遊ぶことになって遊女たちは「良い風が吹かない」ように願掛けしたのだそうです(^^;
1543の種子島へのオランダ人漂着(船はジャンク船)あたりを契機に東南アジアとの交易が盛んになった。
東南アジアまでゆくにはジャンク型の帆と船形、そして航海術を導入しなければならない。
南蛮貿易と倭寇の行動、その結果が1600頃の朱印船の形だろうと思います。
帆はジャンクとガレオン型の合成、船尾はガレオン型、船首は日本の戦船の矢倉式。
ヨーロッパの船と遜色ない2本マストの船になる(推定全長30〜40m乗員300人以上)。
櫂でこぐことは考えていない構造にみえます。
朱印船時代はわずかに30年ほどなのですが355隻に朱印状を発行、小型船であっても外洋船が数百隻もあったのだとすればこれは相当な貿易時代ということになりそう。
そして鎖国。
木造船の寿命はせいぜい十年でしょう。大型船の建造も禁止されて外洋船の技術は再び失われる。
そして沿岸航海用の中型船の横帆だけが残ることになったと思われます。
総じて外洋航海の技は「開けた海」のある九州のものだったとみることもできそうです。
丸木船の多くが単独出土で時代が確定できないものが多いようですが、形の違いや丸太からの木取りの違いから年代推定ができるようになってきたようです。
丸木船の形で北方型鰹節型(流線型)と南方型(割り竹型)にわけることができる、という論があります。
関東出土の丸木船は大半が北方型なのだそうです。
北の方が船の形態では先進と思えますが、氷の浮かぶ冷たい湖や川での運用が高速で移動しやすい形を作ったのかもしれない。
ただしこれらは陸系の丸木船であって海系とわかるものは発見されていないので話が別です。
木を加工することでもっともむずかしいのが丸木船造りじゃないかなあ。
道具類もそのあたりから発達しそう。
≫中央部だけを焦そうと色々試したが、どうしても端が先に
トーチバーナーでも使わないかぎり中央だけ黒こげにするなんてできないですね。
だれかが空想したのが定説みたいになったんだろうな(^^;
焦がしたくない部分に粘土を塗ってどうなるかなあ。
焼け石をあてるのはお湯を沸かすのと蒸し焼き用、ますます無理だと思う(^^;
生木は想像以上に柔らかい。
ひとかかえ以上ある丸太(スタジイ)をチェーンソウで切ったことがありますが、生木ならケーキ切るみたいなもんですね(^^;
しかし1年ほど経過したものはチェーンソウがはじかれて怖くて切れなかった。
柔らかいうちに加工する、これだと思うです。
船体に油を塗った可能性はあると思う。当時では荏油(エアブラ、エゴマ)かな。ただし食料用が先で天ぷらの残り油を使う(^^;
柿渋は釣り糸にぬったようですね。
船体の材料は日本海沿岸ではモミや杉の針葉樹系、東日本ではカツラやナラなど落葉広葉樹系など、その土地にある木で作っているようです。
≫トン数は3000弱から8000まで、積載量は2500トン前後との試算があるようですが
宝船の大きさは出土した舵の大きさから中国研究者が推定してこれをイギリスの著名学者のニーダムが認めたためにほとんど「事実」になってしまったようです。
しかし、造船学の立場からは否定的。
河川や沿岸用の船の舵との大きさから推定すると150mといったサイズにもなるようですが、その当時の外洋船の舵との比較では50mほどの船に相当するのだそうです。
積載量も「明史・鄭和伝」に記載された寸法比と平底船相当からのもので約4500トン、しかしその寸法比は東アフリカまで航海できる船の形態ではないようです(以上、物と人間の文化史/和船U)。
仮に50mの船だったとしても100年後のバスコ・ダ・ガマの船の2倍近い大きさ。
このあたりが実際なのではなかろうか。
ちなみにひとまわり小さい(全長40mほど)の1600年ころの朱印船の積載量は500〜700トンほどで300人乗りほどだそうです。