[#掲示板書庫.01]
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ピローグ型の一方の帆柱をしっかり固定して垂直に近くすれば現在の一般的なヨットとなんら変わらないですね。
この姿からのイメージは鳥の羽じゃないかなあ。
神武の案内をする椎根津彦の登場は「打ち羽振り来る人」、そういう帆をコントロールしてる様子とみることもできそう。
日本の最初の外洋航海時代は弥生黄金時代、BC130〜AD50頃だったのではなかろうか。
それ以後帆らしき描写はでてこない。仁徳ないし応神の枯野も船の大きさのみ。
倭国争乱〜古墳時代初期あたりでは対外交易どころではなく外洋航海の技術が消えたのかもしれない。
王朝の所在地も対外交易のやりにくい「内陸」になった。
しかし・・これは近畿大和王朝サイドでの話であって九州でもはたして同じか・・
倭王五代の時代(AD400〜500)、梁書(636)に登場する日本の仏僧の話は少なくとも九州からの渡来者がいたことを推定させます。
神功紀(自説神功360-386)では帆船に順風が吹いたので舵や櫂を使わずに新羅へゆけたとあります。
これは冬10月のことになっていますが、この季節に南風が吹く可能性はあるのかなあ。
少なくともこの頃の九州には実用の帆が存在していたということでしょう。
この頃の九州の海人は晋や宋(南朝)の技術を導入していたのか・・
応神〜継体あたりは九州を含めて内乱状態だと思います。
文化的にも騎馬系文化流入の時代で船に関しては衰微の時代かもしれない。
万葉集には舟を榜ぐ(漕ぐと同意と思います)はたくさんでてくるのに「帆」がでてくるのは海人の小舟を歌った一首のみです。
帆船ならば目立つのは帆、絶好の題材だと思いますがそれがないということは万葉時代(AD600〜700頃)に帆は存在しないに等しい状態になっていたと思われます。
遣唐使船はAD630〜838、遣唐使船を歌った歌もないのはなぜか(精査してませんけど(^^;)。
AD759では新羅攻撃用の船500隻が建造されて、紀貫之時代(868?〜945)では帆が使われています。
AD700〜900頃に船と帆が復活、おそらくは百済船の流れだと思うけれど百済船の実体がわからない。
以降の日本の横帆はこの頃がはじまりかもしれない。
ジャンク型の帆は遣唐使船の絵に登場(網代帆アジロにみえます)。
鎌倉時代の宋船をモデルにしている可能性があるけれど、少なくともジャンク帆は知っているわけです。
しかし室町の遣明船ではムシロ帆で横帆です(舷側の張り出し部分は櫂でこぐときの漕ぎ手用)。
横帆のためか五島列島の平戸〜長江河口で実航海は1ヶ月なのに風待ちで1年待ったりしています。
838年の最後の遣唐使以降室町時代まで外洋航海が途絶えてジャンク帆の採用もなかったものと思えます。
余談:
後の千石船も風待ちで何日も港で待機した。
その間、船員は港町で遊ぶことになって遊女たちは「良い風が吹かない」ように願掛けしたのだそうです(^^;
1543の種子島へのオランダ人漂着(船はジャンク船)あたりを契機に東南アジアとの交易が盛んになった。
東南アジアまでゆくにはジャンク型の帆と船形、そして航海術を導入しなければならない。
南蛮貿易と倭寇の行動、その結果が1600頃の朱印船の形だろうと思います。
帆はジャンクとガレオン型の合成、船尾はガレオン型、船首は日本の戦船の矢倉式。
ヨーロッパの船と遜色ない2本マストの船になる(推定全長30〜40m乗員300人以上)。
櫂でこぐことは考えていない構造にみえます。
朱印船時代はわずかに30年ほどなのですが355隻に朱印状を発行、小型船であっても外洋船が数百隻もあったのだとすればこれは相当な貿易時代ということになりそう。
そして鎖国。
木造船の寿命はせいぜい十年でしょう。大型船の建造も禁止されて外洋船の技術は再び失われる。
そして沿岸航海用の中型船の横帆だけが残ることになったと思われます。
総じて外洋航海の技は「開けた海」のある九州のものだったとみることもできそうです。
丸木船の多くが単独出土で時代が確定できないものが多いようですが、形の違いや丸太からの木取りの違いから年代推定ができるようになってきたようです。▼↓ ▲↑
丸木船の形で北方型鰹節型(流線型)と南方型(割り竹型)にわけることができる、という論があります。
関東出土の丸木船は大半が北方型なのだそうです。
北の方が船の形態では先進と思えますが、氷の浮かぶ冷たい湖や川での運用が高速で移動しやすい形を作ったのかもしれない。
ただしこれらは陸系の丸木船であって海系とわかるものは発見されていないので話が別です。
木を加工することでもっともむずかしいのが丸木船造りじゃないかなあ。
道具類もそのあたりから発達しそう。
≫中央部だけを焦そうと色々試したが、どうしても端が先に
トーチバーナーでも使わないかぎり中央だけ黒こげにするなんてできないですね。
だれかが空想したのが定説みたいになったんだろうな(^^;
焦がしたくない部分に粘土を塗ってどうなるかなあ。
焼け石をあてるのはお湯を沸かすのと蒸し焼き用、ますます無理だと思う(^^;
生木は想像以上に柔らかい。
ひとかかえ以上ある丸太(スタジイ)をチェーンソウで切ったことがありますが、生木ならケーキ切るみたいなもんですね(^^;
しかし1年ほど経過したものはチェーンソウがはじかれて怖くて切れなかった。
柔らかいうちに加工する、これだと思うです。
船体に油を塗った可能性はあると思う。当時では荏油(エアブラ、エゴマ)かな。ただし食料用が先で天ぷらの残り油を使う(^^;
柿渋は釣り糸にぬったようですね。
船体の材料は日本海沿岸ではモミや杉の針葉樹系、東日本ではカツラやナラなど落葉広葉樹系など、その土地にある木で作っているようです。
≫トン数は3000弱から8000まで、積載量は2500トン前後との試算があるようですが
宝船の大きさは出土した舵の大きさから中国研究者が推定してこれをイギリスの著名学者のニーダムが認めたためにほとんど「事実」になってしまったようです。
しかし、造船学の立場からは否定的。
河川や沿岸用の船の舵との大きさから推定すると150mといったサイズにもなるようですが、その当時の外洋船の舵との比較では50mほどの船に相当するのだそうです。
積載量も「明史・鄭和伝」に記載された寸法比と平底船相当からのもので約4500トン、しかしその寸法比は東アフリカまで航海できる船の形態ではないようです(以上、物と人間の文化史/和船U)。
仮に50mの船だったとしても100年後のバスコ・ダ・ガマの船の2倍近い大きさ。
このあたりが実際なのではなかろうか。
ちなみにひとまわり小さい(全長40mほど)の1600年ころの朱印船の積載量は500〜700トンほどで300人乗りほどだそうです。
確かに、側面が大事ですね。
口の部分が当たれば割れやすいのは、確かにそうです。
>土瓶型の小型土器がでるのはのんべが多かったから??
そう言えば、船徳利の変わった品の記憶が。(現代の物ですが。)
其処が円く成っていて、起き上がりこぼしのように成っている。
船が幾ら揺れてもコボレナイ仕組み。酒のような液体しか入れられませんが。(爆)
驚きました。がらっと、三角帆のほうが古い気がします、と変りそう。
特にインドネシア・ロンボク島のは帆を張った画像ではないですが三角帆の先を1点支持か、これだと左右の長いアウトリガーもあり逆風に向って進むことが出来ますね。インドネシアのアンボン島のも強風を逆手に取る航法も出来そう。
年代確認、どこまで遡るかは帆の材質ですね、帆を風が流れる材質なら何でも帆になる。追い風だけなら鳥網ほど穴ばかりでも結構風を受けますから、ヤシを編みこむぐらいは、すぐ気がつく、でしょうね。竹を編んだのも使っていたかな。。
≫確かに口の部分は狭く、船で揺れても中の物はこぼれ難いでしょう。
≫ですが、下の部分も小さく、安定性は如何でしょうか
雑穀なりを出し入れするのに便利な形はどうみても右の3つだと思うです。
壺型じゃ底の方のを出すにはひっくりかえさないといけない・・なんでそんな不便な形を作ったのか。
口の開いた縄文土器は運ぶには不便な形だと思います。
瀬戸物のご飯茶碗の形は茶碗をいくつも重ねてひもでくくって運ぶとき、重ねた茶碗の縁同士がぶつかると割れやすいので縁が接触しない角度になっているのだそうです(今はどうかわからないけど)。
木のお椀の場合は角度が大きい、割れにくいから持ち易さを重視した角度になってる。
狭い舟の中で安定させるには底の形じゃなくて側面だと思うんです。
複数の壺を積むなら側面同士が接触しておたがいに固定し合う。
球形に近い方が割れにくくもある。
どうでしょ。
遠賀川式土器の形は「輸送」の必要から生まれたとみたいです。
口縁が広がってるのは皮などで蓋をしてひもでしっかり縛るため。
ただし、手が入らないほどの口の細い容器はちょい意味が違うかも。
アルコールがとびにくくするために違いなし(^^; (表面には漆など塗装もする)
東北や関東でとっくり型や土瓶型の小型土器がでるのはのんべが多かったから??
≫カタマラン船(双胴船)タイプで、帆を張るスタイルの船もかなりの古代
≫ダウ船の様な三角帆は新しいかも知れないが、追風利用の帆はかなり古そうな気がする
≫今でも南の島の船には、横に小さな(名前は知りませんが)船を付け、双胴船のような
以下いくつか参考写真をどうぞ。(「舟と船の物語/森拓也/舵社」より)
写真1
写真2
ギニアのは河口の横断用のようでアウトリガーなしのようです。
ピローグ型はV帆柱、でかい葉っぱがあればそれなりのサイズで作れそうですが、帆のコントロールは難しそう。
エジプト型は横帆で追い風のみ。ギリシャ、ローマ、バイキングなどがこの系譜のようです。
この2つからはそれぞれにバリエーションがでてきそうです。
ラティーン型はV帆柱に縦帆柱が追加されたともいえるし、横帆を傾けて取り付けたともみえる。
このタイプは地中海、黒海、紅海、インド、東アフリカなど広範囲にみられるものだそうです。
ラティーンの片側を切り取って帆柱を高くしてゆけばジャンク型、そして片側のみのガフスルやスプリットスルの縦帆型になる。
双胴とアウトリガーの区別は写真2からも微妙そうです。
完全な双胴の場合は輸送力増大の目的の時に使ったのだろうと思います。
ホクレア号という双胴帆走カヌー(FRP製)のハワイ〜タヒチ実証航海参照。
下図はヤシの分布図です。九州が北限の感じ。なお芭蕉は関東以南に分布。
昨日は珍しく現代の政治関連(日本以外)をint-上でいろいろ見てました。 米の公的発表は、なぜかケネディ暗殺の直後とダブって仕方がない。同時代の事象では、なかなかあそぶことはできないですね。
磨製石器の「はじめ」ですが、木の実や穀物をすり潰す行為より後に生れたと思うのですが、つまり磨くという行為は食糧加工の過程から生れたのではないかと。とすると地球上の何ヶ所かで発生した可能性は高いのでは、と思います。
先端の角度・形は機能と用途にあわせ作られる様になるので、同様の使い方・用途の場合は似たような形になっていくのが殆どと思います。
そのなかで丸ノミ形が、あまり他の画像を見ないので、これを追うと面白そうです。
>丸木舟の加工
本、再現などで火をつけて焦して掘り込むなどありますが、どうかなあと見てます。実際の生木を中央部分だけを燃やし焦してゆくのは、かなり難しい。径40cm程の半割り丸太で中央部だけを焦そうと色々試したが、どうしても端が先に焦げる、焼けた石でも中央に置いたのだろうか。
丸木舟の材質は杉、栗、など多様ですが厚さ4cm程への加工は石をカンナの様に使い削っていたはず。南洋の丸木舟の材質は分りませんが石の丸ノミは材の性質に合わせた形状ではないでしょうか。
焦げといえば、丸木舟の外側に焦げの痕跡はないのだろうか、江戸時代の資料に船の船側、船底を焦して腐敗防止をしていたとある、もちろん腐敗防止の塗料も(マニユ等だったかな)使っているが。
>鄭和
宝船は、西から宝を運んでくる、というのが名前の由来だそうで。しかし150m、8000トン大きいですね青函連絡船が140m程で幅は20m切るので幅の広い宝船は海上の山ですね。トン数は3000弱から8000まで、積載量は2500トン前後との試算があるようですが、いずれにしても歴史上木造最大の船。
100年ほど後のコロンブスが200トン強、バスコダガマに到っては120トン程度と言われてますから、いかに明帝国の力と作る技術が大きかったかが分ります。技術は今が勝れているとは限らない、丸木船を作る技術は縄文時代が最高だった。
>黒曜石
黒曜石の加工の仕方が載ってます。十勝石なんです。
黒曜石の世界
≫海洋民族だけが磨製石器の製造技術を持っていた訳では無い・・・と、考える方が▼↓ ▲↑
切れ味、ということなら黒曜石の割れ口のほうがよほど鋭くて良く切れそう。
大型動物を倒すには小型ナイフをずらりと並べたような細石刃石器は絶大な威力だと思います。
磨製石器ではへたをすると大型動物の皮すら貫通できないんじゃなかろうか。
磨製石器は木を加工する必要性から生まれた石器だと思います。
切れ味はなまくらでも欠けたりせずクサビみたいに打ち込んでざっくり木を割り取れる形。
木をくりぬくならなおさら刃先に無理な力が加わるはず。
割れにくい石質のほうが石斧に向くなら、磨いて刃先を作ることにもなると思います。
アイヌの丸木船を石斧で作る実験の映画をみたことがあります。
さすがに石斧は刃が欠けやすいのだけれど、木を砕くように割り取ってゆく作業なら鉄斧に劣ることはないんです。
普通の鉄斧だと食い込みすぎてかえって扱いにくい場合があるようです。
ちなみに燃やして削りやすくするなんてことはしていなかった。
なまじ過熱乾燥させたら固くなって削るのがたいへんだし、太い丸太をうかつに火にあてたらひび割れだらけになって使い物にならなくなる(^^;
火で焦がすのは仕上げでなめらかにする場合だけだ、と考えています。
アイヌの器の製法にニマ工法というのがあります。
大急ぎで柔らかい生木のうちにお皿なりの形をけずりだしてしまう工法です。
木が乾燥するにつれて形がゆがむけれどひび割れしないんです。
ある民族楽器の太鼓の制作者に聞いたのですが、丸太はひび割れする前にある程度の厚みまでくりぬく、時間との勝負なのだそうです。
そのニュースを聞いて喜んでいたパレスチナの子供達がいたことが恐ろしいです。
怨恨の連鎖を切るには未然に防ぐてだてをみつけないと・・
犠牲者のかたがたの ご冥福をおいのりします。
下の写真でも解ります様に、丸ノミ石器と石斧は、形も使用目的も違います。
この前のNHK特集の解説では、丸ノミ石器の製造技術が、その後、石斧の磨製石器に
受け継がれた、との解説が有りました。
私の持っています磨製石器の石斧で、写真左の方は、ホボ全体が綺麗に磨かれています。
右の方は、刃先の部分は磨かれていますが、その他の部分はそれ程磨かれていません。
こうして見てみますと、詳しい事は解りませんが、海洋民族だけが磨製石器の製造技術を
持っていた訳では無い・・・と、考える方が自然ではないでしょうか。
専門家では有りませんので、詳しくは解りませんが、私の石器は海洋民族の技術の流れを
持っていそうな気も、無さそうな気もします。(爆)
当日、皆さんの御意見を伺いたいと思います。
かたばみさんの壺の写真、確かに口の部分は狭く、船で揺れても中の物はこぼれ難いでしょう。
ですが、下の部分も小さく、安定性は如何でしょうか?
揺れると不安定な気がします。この写真の壺自体は海には向かないのでは?
下の面積を広く作る方が、安定性が良いのは誰でも解ると思います。
ただ、流れとして、陸で使用する時の、何らかの理由で下の部分を小さくしたと考えると、
変遷の形の一つかも知れませんね。
stanさん、鄭和艦隊は、現代でも驚くような大きな船だったそうですね。
長さ44丈(150m)幅18丈(62m)で、現在の8000トン級だとか。
巨船62隻、将兵27800余人だとか。
これは、少し余談になりました。(爆)
武虎さん、確かに丸木舟は安定性に欠けますね。
今でも南の島の船には、横に小さな(名前は知りませんが)船を付け、双胴船のような
形をしていますね。
外海では、安定性の上からも、本体だけの丸木舟と考える方が無理でしょうね。
湖なら別ですが。
現代の、想像以上に進んでいたと思いますよ。
状況証拠的な事しか言えませんが、原始的な帆の使用は有ったと思えますね。
帆を何で作ったか?の、想像も面白いです。
>そして、冬はそっくり逆向きの北東季節風が吹く。
#明代の鄭和艦隊も広州から10月か11月に南へ向ってる。大きな風の流れは何万年も変っていない。
機械に頼る航法の現代人よりもはるかに自然を知り駆使する能力は長けていたと思うですね、古代人。
ダウ船の様な三角帆は新しいかも知れないが、追風利用の帆はかなり古そうな気がする、丸太の刳り舟より古い可能性もないとは、いえない、かも。
アカホヤ火山灰層というと6300年前、鳥浜とか房総出土の古い丸木舟の年代と一緒くらいですね。残りにくいとは思うが、どこかで帆柱の痕跡?が見つかると次々でてくるかも。
>NHK特集を見ていました。
#先日の第二集のラスト、鬼界カルデラ大噴火のシーンは衝撃でした。
友人を島原の火砕流で失ったので、火砕流の恐ろしさは何だか人ごとじゃありません。
再現CGも大変凝ったつくりで楽しめましたが、気にくわないのは、丸木船の紹介です。古代人の丸木船というと、いつも単艘のひとり乗り手漕ぎ船に決めつけられているように思います。しかし、カタマラン船(双胴船)タイプで、帆を張るスタイルの船もかなりの古代に遡って実用化されていたのではないかと思うのです。
かたばみさんが
>NHKでは八丈と小笠原の丸ノミ型石斧については触れてなかったけれど、帆を駆使する海洋民なら往復が可能な風の航路があった。
と指摘されるのは、げに尤もなことと思いました。
>遠賀川形式の土器も海の民の流れをひく土器なのかもしれない。
との着眼も、目の鱗モノでした。
武虎
≫では、私の持っている、「知床半島」出土の「磨製石器の石斧」も▼↓ ▲↑
専門家がみればなにか特徴があるのかもしれないですね。
なになに石器といわれてもはてどこがどう違うの?だからなあ(^^;
訂正です。
八丈島の年代不明の南方系は八丈各地から単独ででている磨製石斧で、先端がやや丸ノミ状になっている石器です。
湯浜遺跡の石器は南方系ではなく、鬼界カルデラ爆発(BC4300)の火山灰痕跡と同層にあるものです。
右のふたつは小笠原の北硫黄島からでた丸ノミ型の磨製石斧です。
これはマリアナ諸島にみられるタイプなんだそうです(ポリネシアじゃなかった(^^;)
これを持ってきた人々はグアム→沖の鳥島→小笠原だろうなあ。
黒潮はない、しかしこのコースはグアムあたりから日本へ吹きよせる夏の季節風の風向きと一致。
(この風は知床も通過する・・(^^;)
そして、冬はそっくり逆向きの北東季節風が吹く。
NHKでは八丈と小笠原の丸ノミ型石斧については触れてなかったけれど、帆を駆使する海洋民なら往復が可能な風の航路があった。
小笠原は南海民、八丈が縄文、縄文土器がミクロネシアやメラネシアに運ばれる可能性もありそうです。
壺型土器というのは瓢箪類の形をまねたのが始まりではなかろうか。
海洋民が舟に乗せるなら傾いてもこぼれないように口を狭くする工夫をすると思う。
遠賀川形式の土器も海の民の流れをひく土器なのかもしれない。
かたばみ
>NHK特集を見ていました。
いけない、すっかり忘れてました。そういえばTV見る習慣がないです、最近特に^^。
>スンダから始まり、沖縄、南九州・・・へと広がった海洋民族。
成る程と頷けました。
#スンダといえば、かたばみさんと古代の話が始ったころの出発点です。懐かしい。。
「磨製石器」、ひょっとしてものすごく貴重なものなのかも知れませんね。分析してみたら国内のモノではなかったり、とか。。
しかし黒曜石といい、石器といい、貴重なものお持ちです。
楽しみが倍増です、沼津。このところ関東は断続的に雨が降ってます、武虎さんのご意見で、9月初め避けてよかったです。
#伊豆、いろいろ情報をありがとうございます。
先日、図書館より「日本の古代遺跡・静岡」を借りてきて読み始めています。伊豆山神社と熱海・来宮へも行ってきました、3社まわり当地からは半日コースでした。
相模国の唐浜は、大磯町の高来神社の前の海岸から平塚方面の西側一帯を呼んでいます。昔は馬入川(相模川河口近く)辺りまでを広くそう呼んでいたらしい。
漂流、漂着伝承もいくつか耳にします。応神15の時代では、前鳥神社の菟道稚郎子などがよく知られています。
伊豆山神社ですこし話をしてきましたが、明治以前は真言・天台並立の場所だったようで走湯山の呼称は長いようです。真言は源頼朝の流人時代の師匠さんのお寺でもあり、南関東一円に修行場として高名で盛大だった、など話をしてきました。境内からは伊豆半島から相模湾一望で海の監視所としても実に好立地の場所です。
木生、金生仙人となると、木金土火水と連想しますが、松葉仙人の松は、神社伝承でも「松は植えない。。」というのによく出会います。
資料などみてますと、松=高句麗、という比喩が多いのではないかとこのところ思っております。
>「年金神 月金神 日金神」等の呼び名・・
#これは、月牌堂、日牌堂と連動しているような気がするのですが。。
日金山は、特に沼津から清水辺りにかけて重要な山だとカシミールを操作していて気がつきました。
淳也さんに、死者の集る・・、との話をお聞きし、なるほどと納得しているところです。
民俗学は(も)殆ど未触の分野ですが、群馬の赤城山など独立峰でない山が「死者のゆく山」として信仰されるのは、暦として日の出、日没と彼岸の時期に関連だろう、と考えつつあります。
関連して、神社の場所「好地」の条件は?とぼつぼつシュミレートしてます。ひとつは相模・寒川神社の様に日没、日の出と密接な場所、もうひとつは2対の山(ピラミッド型が多い)を結ぶ直線が交差する地点、これは楊原神社が当てはまります。住居地として付近での好立地でなければ、この2つが信仰を集め永続している条件と思います。
NHK特集を見ていました。
スンダから始まり、沖縄、南九州・・・へと広がった海洋民族。
成る程と頷けました。
其の文化の象徴として、「磨製石器」の石斧が紹介されていました。
では、私の持っている、「知床半島」出土の「磨製石器の石斧」も、
其の流れなんでしょうか?形はホボ同じ様に見えます。
そうだとしたら、北の端、北海道の知床半島まで、其の文化は広がっている事に・・・
私が貰いましたのが、35年程前になりますし、知床半島の何処の辺りかも判らないし
貰った叔父も、もう居ませんので詳しい事は解らないのですが・・・。
http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
≫ご先祖様がこの地に来たのは鎌倉幕府によって豊前守護職に任じられた文治元年
なんだかウエツフミの方に接触してきそうですね(^^;;;
島津氏も鎌倉幕府によって九州に任じられたようでもとの本拠は伊勢にあって信州に飛び地の領土を持っていたなど興味津々。
伊勢津彦と島津氏の関係に注目しています(諏訪の守矢氏の紋所も丸に十らしいし)。
英彦、霧島、石鎚、熊野、東日本では多数・・修験道と縄文、深いつながりがあるように感じています。
縄文山岳祭祀+徐福系祭祀(仙人指向)→葛城→役小角→旧東国縄文と再結合といった流れです。
かたばみ
≫諏訪の伊勢津彦は古い形の鉄製造族なのかもですね、物部以前の。サナギは小銅鐸というより馬鈴のニオイが▼↓ ▲↑
銅鐸の年代がはっきりしていないのが問題ですね。
銅鐸が変化するきっかけはひとつは国譲りで(AD50頃)それ以前が小銅鐸(海運者の実用品)、倭国争乱(AD130頃)以後が大型装飾銅鐸になったと推定。
いろいろ「鉄」に関連づけての解釈が少なくないですが、私はちょっとまてよ、があります(^^;
弥生時代では鉄は農耕具としての用途が90%じゃなかろうか。
弥生で得られたのは鋳鉄(硬くもろい)か鍛鉄(餅鉄など自然鉄)で、武器に使える鋼鉄は古墳時代以降でないと作れなかったとみています(鏃ヤジリは別)。
漢でさえ初期には鋼鉄を作るのは容易ではなかった。
長崎の柔らかい鉄と硬い鉄を合わせて作られた戈などは最高機密だろうな(^^;
これは日本刀(あるいは倭鍛冶)などの源流となる可能性があるので、他にその技があるのかどうか非常に興味深い。
現在の観点では鉄は超重要な物資だが、弥生一般の観点での鉄は作業効率を上げる材料ではあるが必須の材料ではなかったのではなかろうか。
(寒冷化によって、より開拓困難な土地を開くために重要度はましてゆくでしょうけれど)
弥生の銅は武器と祭祀具の需要がほとんだが、同時に死活を決める材料だったのではないかと思うのです。
鉄は弥生中期の開拓時代(黄金時代)に大量に求められたが倭国争乱時代では農耕どころではなくなり、応神以降の内乱時代?となって武器としての鉄の需要が再び急増したと考えています。
土器編年対応年代表参照
(近畿と九州では分類が違っており年代解釈にもずれがあります)
鉄伝承には弥生中期と古墳時代の2系列がある・・
弥生では鍛冶伝承に近く、銅も含む。古墳時代になって製鉄伝承になるのではないか・・
いつの時代の伝承か、これを推定しないと迷路にはいりそうです。
新しい事象が古い事象とジョイントされてしまっている伝承もあるでしょうし。
伊勢津彦もいつの人物かわからない。神武東征時代だとしてもそれがいつなのか?だし。
もし伊勢津彦が天火明時代であるなら弥生黄金時代でもあって、農耕具として鉄器を運んだ可能性はあるかもしれない。千葉でも鉄斧がでているし。
もし鉄が錆びないのであったならこの時代の鉄製工具は青銅武器を凌ぐ数ででているんじゃなかろうか。
サナキの鈴・・
イサナキ、イサナミ、古いポリネシア語だとイは接頭語(英語ならThe)サナは神聖、キは始祖(翁)ミは女だそうです。
サナキの鈴=神聖な始祖の鈴・・海洋系の人々が諏訪にはいっているとすればありえそう。
(早苗、早乙女のサもサナと同意で早稲種を尊んで「早」とサが合成されたと推定)
Minstrel さんの歴史の掲示板
http://cgi.members.interq.or.jp/pluto/minstrel/cgi/h-mssgboard.cgi
で、下記の投稿がありました。静岡に関連するので、ご紹介します。
[628] 三ケ日人は縄文人 投稿者:Stop Press! 投稿日:2001/09/07(Fri) 16:55 [返信]
静岡県三ケ日町で見つかり、旧石器時代人とされてきた「三ケ日人」の骨が縄文時代のものであることが、お茶の水女子大の松浦秀治助教授(人類学)らの年代測定で分かり、6日発表された。聖嶽人(大分県)、葛生人(栃木県)に続き、日本列島の旧石器時代人の資料がまた一つ減ることになった。しかし、三ケ日人骨の発見地に近い同県浜北市で出土した「浜北人」は旧石器時代人として揺るがない見通しも立っており、本州ではほとんど唯一の確実な旧石器時代人の資料として価値が高まりそうだ。
三ケ日人は1959年から1961年にかけて、三ケ日町の石灰岩採石場で見つかった。成人男性の頭骨破片5点、寛骨(腰骨の一部)、大腿骨の一部。同時に出土した動物骨の種類などから旧石器時代人とされており、縄文人骨と似た形のため縄文人の祖先集団とする見方が有力だった。
今回、松浦助教授が人骨3点について放射性炭素法による年代測定を行ったところ、約7500年前から9500年前の縄文時代早期の人骨との結果が出た。
一方、浜北人は1960年から1962年にかけて見つかった。同時に出土した動物化石を松浦助教授らが年代測定した結果、約1万4000年前〜1万8000年前という旧石器時代の数値が出ている。放射性炭素法による人骨自体の測定はこれからだが、別のフッ素分析では人骨、獣骨とも同じ年代を示しており、松浦助教授は「旧石器時代人として確定できる」と話している。木村賛(たすく)東大教授(人類学)は次のように話している。「三ケ日人が縄文人と出たのは残念だが、これが科学の進歩というものだ。しかし、浜北人は確実に旧石器時代人だとの見通しが得られている。静岡県のあの地域に縄文人的要素を持った縄文人より古いヒトがいたという従来の説は揺るがない。そのことが厳密なチェックで裏付けられる意義は大きい。発掘調査をしっかりやれば、今後も古い人骨の発見が期待できる。」
九州墓参りから帰って参りました。
中津城内に祀られているご先祖様にも初めて参拝できました。
ご先祖様がこの地に来たのは鎌倉幕府によって豊前守護職に任じられた文治元年(1185年)ですから、九州の歴史からすれば「今来」のなかでも超新参です。ところが、今回親戚筋といろいろ話が出来て、(もしかするともっと古いかもしれない)興味深い話がいろいろ出てきましたので、又宿題が増えました。大分県杵築市の南にある日出(ひじ)町は城下カレイで有名ですが、そこの今御堂家は、古い家筋かもしれません。鎮座する愛宕神社は地元では全国の愛宕神社の総元社だと信じられているそうです。(要確認?)
それはともかくとして、英彦山1200米に登頂し、英彦山神宮(主祭神 天忍穂耳命)の上宮から、禁足地の奥津城まで参拝できたのは念願の達成でした。また、金印が掘り起こされた志賀島の志賀海神社(祭神 綿津見三神)に参拝しましたが、予想以上によく整備された美しいお社でした。清めのお手水の代わりに海水を含んだ浜の砂で御祓いをしてから参拝する流儀になっているところや、神功皇后の卜占を発祥とする「鹿の角」奉納(一万本以上蔵に奉納されているのが見られる)など、興味深かったです。
海人の総本社と称えられる志賀海神社のご摂社に大変立派な「今宮神社」が鎮座されています。そのご祭神は略記によると「宇都日金析命(別名 穂高見命)」とあります。
「日金」が「山に追いやられた海神(系)」を意味する名称だとしたら、伊豆山神社の元の神体山(説もある)である日金山も、同系である可能性がありますね。(こじつけ御免)
さて、その日金山ですが、古く火之神の宿る山とされていますが、『走湯山縁起』(『群書類聚 神祇部』所載 平安時代の作と称する−実際はもっと後代?−)によると、以下のように渡来神である伝承が語られます。
すなわち、
応神天皇の時代に相模国の唐浜(からはま)に一枚の円鏡が出現し、ある時は海中に、またある時は日金山頂に現れて奇瑞を示した。その神鏡を最初に奉祀したのが松葉仙人である。ついで仁徳天皇の代に神鏡が「吾は異域の神、日輪の精体であって、誓いによって温泉を出し、衆生を救うためにこの霊地に現れた」と託宣した。そののち木生(きしょう)仙人と金地(こんじ)仙人の両仙人がこの日金山で神に仕え、神号を走湯山と称するようになった。このあと文武天皇の時に、役の行者が温泉に浴して霊感を得、嵯峨天皇の代には弘法大師が参詣し、仁明天皇の治世には甲斐国の賢安大徳(けんあんだいとく<僧>)が夢中に権現の示現に接したなど、のいわれがあるようです。<『伊豆文化のルーツを探る』小野眞一>
いずれにしても遊行神として「年金神 月金神 日金神」等の呼び名のある方位神の「金神」の一種として民俗学的に考えるのは、ちと問題があろうかと思います。
「日金山信仰」については、白水社の『日本の神々 東海』の伊豆編に「伊豆地方の鹿島踊り」とともに一章を設けてふれられています。
そのなかでは、
「日金山は東北地方における恐山や立山寺、信州善光寺、越中立山、鳥取の摩尼寺、四国の弥谷寺などと同様に「死者のゆく山」として民俗信仰の対象であったが、地蔵信仰の霊山としての箱根山信仰とも無縁であったとは思えない」
とあります。
箱根山との関連は、当然特記すべきでしょう。
蛇足ですが、以前「穴ぼこ」に関連して紹介した岩戸観音は、日金山の真東の方角にあります。また、伊豆山神社から岩戸観音の延長線上(320度)には富士山山頂があります。
武虎
黒曜石は産地と作られた(削られた)年代が特定出来ると言う事で、いろいろ情報を収集しないといけませんね。
手もちのメモ書から黒曜石伊豆関連を抜きだして、みました。
・ウルム氷河期最盛期に近い約22700年も前の神津島の黒曜石が1973相模原市の橋本遺跡のローム層から出土した。年代測定はフィッション・トラック法による。
しかし神津島では、いまだ旧石器時代の遺跡が発見されていない。
・シベリア沿海州ウスチノカフ村1遺跡(ウラジオストック市北東500km)などでは、島根隠岐島産の黒曜石が鏃に使われていた。
・青森山内丸山遺跡から、新潟姫川産のヒスイ、北海道十勝の黒曜石が出土。また出土花粉よりクリ,マメの管理栽培が想定されている。
・千葉県はイシナシ県と呼ばれるほど黒曜石、安山岩、頁岩にとぼしい。が房総は相模、武蔵とならぶ遺跡密集地帯。
・鈴木正男氏によれば、南関東の早・前期の遺跡別、黒曜石の割合は、信州系37%、箱根系50%、神津島系13%。中期の遺跡では、信州系41%、箱根系36%、神津島系23%となる。
・神奈川県下の前期末から中期初頭にかけての遺跡からは多くの黒曜石が発見される。平塚市五領ヶ台貝塚出土の55点の黒曜石の産地は、ほとんど神津島系、130km離れた所である。
・縄文人は早期中葉の頃すでに大島・神津島・三宅島に遺跡を残し大島では住居跡が発見され神津島の黒曜石も搬入されていた。本来大島には生息しないイノシシまで伊豆半島から持ち込んでいた。
早期後葉の初めには三宅島南の御蔵島まで縄文人は進出していた。御蔵島のゾウ遺跡から南関東の茅山(かやま)式土器が検出されて本州島からの縄文人の渡航が照明されたのである。
・かたばみさんの画像にあるように、伊豆諸島の縄文遺跡は(すべて)本州が見える位置にある。
八丈島の倉輪遺跡からは新潟産の玉類、関西の土器などが出ている。見返り品は神津島の黒曜石や三宅・御蔵・八丈島などのオオツタノハ貝と見られている。
・神津島の黒曜石は南関東から伊豆半島を中心に、西は三重県まで、東は宮城県まで、北は能登半島の石川県富来町のヘラソ遺跡まで運ばれている。
>長野には山岳縄文王朝、伊豆〜関東に海洋縄文王朝があった・・かも(^^;
#沼津の某(名失念)縄文遺跡からの土器の土は、殆どが、神奈川秦野の山奥か甲斐の土、と分析もでてます。
中央自動車道に重なる水煙文土器で有名な釈迦堂遺跡でも魚を含め海産物が日常的に食べられた痕跡が認められている。
千葉の利根川沿いの上流流域にも海産物を食糧とした痕跡が認められ、その骨の個体の出土構成から海岸で加工してから運ばれたと推定される。見返りは石器に使う石で未加工品から加工済まであったらしい。
奥多摩の河岸遺跡では、石器の加工に工程別、用途別の分業体制ができていた、らしい。
・・とまあ、縄紋以前は行動範囲が広い。農耕で土地に縛り付けられる以前は、ちょいとでかける、で半年1年帰らない、というのが普通だった。。そうのうち海方面、山方面と専門家が出来てくる。^^。
沼津近辺の愛鷹南麓の弥生の高地(性)遺跡は、韮山辺りから狩野川河口にかけての平地が水田も人口も過密になった頃に畑作地としての用途だったらしい。しかし比較的短期間で高地遺跡から人影がなくなり、その人員はどこに吸収されたか、また倭国大乱の頃とみられるが。。答えは、まだ無い、といったところ。
>日金山は死者の霊が集まる所と言われていて、春秋の彼岸には、その年に死んだ人があると、家族が日金山にお参りする習慣があります、
#死者の霊が集るところですか、&真言。
沼津の神社で春分の日の出が日金山から、というのが幾つかありそうです。夏至、秋分、冬至の場所を確認しつつあります。
真言は日金の「金」のほうで、鉱産物がありそうですね。
hp拝見しました。楊原神社の位置と、三島の(楊原)気になるところですね。
>黒曜石
KENJIさんの調査で、詳しいhp分りました。ありがとうございます。
なんと、来月訪問予定の沼津市にある、沼津高専です。
HPのアドレス 沼津高専望月研究室
BC3000〜2000頃の浜松〜関東の黒曜石石器はは80%が神津島産だそうです。
御蔵島からはBC6000の土器がでてるようですが、それ以前の土器はでていないみたい。
しかし、BC20000に遡る神津島産の黒曜石が神奈川県から発見されているらしい。
海面が100m下がっているといっても、そこに黒曜石があることをどうやって知ったのか。
BC20000の「北の人々」はある程度の渡海能力を持っていたことになります。
某TVでは北海道から津軽海峡を渡ったのは冬季に凍ったところを渡ったとあるけど・・
伊豆ではイカダだろうなあ、それとも獣皮を貼ったカヌーなどをすでに知っていたか。
津軽なら潮流が止まる時間があるはずでイカダでもカヌーでも伊豆より楽じゃないかな。
九州ではBC4300の鬼界カルデラの大爆発で一帯の縄文は壊滅。
そして熊本方面から系統の異なる縄文文化が南下してくるようです。
その土器は海岸に多く、北は朝鮮半島南部から南は種子島や屋久島、東は山陰瀬戸内まで分布。
広がる海に追われた東シナ海沿岸からやってきた人々だとみてます。
(照葉樹林文化、三苗の数千年前の先輩)
その次世代土器を曽畑式というそうで、これも海洋性で南は沖縄、朝鮮半島でも釜山付近まで拡大。
この頃に西日本と朝鮮半島南部に共通言語圏が生まれたと考えてます。
南方系の人々の渡来はBC10000〜8000あたりのスンダやフィリピン、BC4000あたりの東シナ海沿岸、BC2000〜1500あたりの長江(三苗)の3波があって、みな共通文化を持つ人々だった。
東日本でもその文化を取り込んだ。落葉広葉樹だからそっくり同じにはならないはず。
しかし海では西も東も同じ、ほとんど同じ文化になると思う。
東海、関東ではBC3000頃に諸磯式という土器が関東を中心に北は山形、西は伊勢湾沿岸まで広がってゆきます。
縄文人が八丈島に達するのはこの頃のようで、引く手あまたの腕輪用の貝を採りにいったんじゃないかな。
八丈島の倉輪遺跡からは京都や瀬戸内、中部山岳や宮城方面の形式の縄文土器がでています。
新潟や北陸の翡翠製品(とみられる)や長野付近の装飾品類と同じものもでてる。
御蔵島から約80キロ、見えるから方向は問題なし。
黒潮を横断するのに単なる丸木船では危なそう。双胴かアウトリガーの高速カヌーなら帆なしでいけるんじゃないかな。
BC3000〜2000あたりに西でも東でも縄文の航海術は最高潮に達したのではないかと考えています。
(東では帆は使わなかったかもしれない)
倉輪遺跡の南に湯浜遺跡があって、ここからは縄文とは異質の石器がでています。
ポリネシアないしミクロネシア系の石器です。比較できないので年代不明らしいけど縄文とみられるようです。
半分漂流ではあってもミクロネシアあたりとも相互にご挨拶かな?
長野には山岳縄文王朝、伊豆〜関東に海洋縄文王朝があった・・かも(^^;
数ヶ月を要する旅であるなら、食料を調達しないといけない。まさか泥棒するわけにもいかない。
少なくとも長距離ランナーのためのなんらかの共通システムが準備されていたと思います。
共通システムがあるならばその関連の言葉も共通になるはず。
類似文化による具体的象形なら理解できるんじゃないかな。発音は違っても「お食事処」の意味は同じ(^^;
粛慎と安部氏の接触も双方に無言交易の習慣があったことをうかがえます。
交易を継続したい意識と信頼がなければ成り立たない方法だけど、言葉が通じる必要はないわけです。
日金山は死者の霊が集まる所と言われていて、春秋の彼岸には、その年に死んだ人があると、
家族が日金山にお参りする習慣があります、この日金山にある、
日金山東光寺は、奈良時代に開かれたとされる、真言宗の寺ですが、
この、日金山にお参りする習慣は、宗派に関係無く、地域の伝承として行われています。
また、この日金山の山頂は、十国五島が展望できる事から、
<十国五島とは>伊豆・駿河・遠江・甲斐・信濃・武蔵・上総・下総・安房・相模の十ケ国
大島・三宅島・利島・新島・神津島の五島>
十国峠と呼ばれていて、ドライブインが有り、
ケーブルカーが作られているので、観光的には十国峠の呼び名の方が有名です。
淳也さん いらっしゃいませ
>寝姿山が、あの様に見えるとは思いもしませんでした。
#はじめ白浜神社方面から、次に海上から、最後に下田北の狭い平地に視点を移して、やっと見えました寝姿山、細部もいろいろ想像できて、名前を付けた人(達)の視点に立つと面白かったです。
長浜神社からの富士山は、意外でした。で淡島のほぼ頂上にある淡島神社は地図上でみると西(湾外)方向を向いているようですが、灯台的役目の施設跡などありそうな感じですね。
カシミールと言えば、相模国一宮・寒川が何故あの場所にあるのか理由が判明しました。春分、冬至の日没線です、後ほどupしますが必然的位置でした。
沼津あたりでは、どうも箱根伊豆山に近い日金山が要所になっているようですが、なにか伝承などございますでしょうか。
>神津島の他にも、熱海市の「上多賀」と、伊東市の「柏峠」が産地です
#上多賀はほぼ場所確認、柏峠はまだ見つからず。あと箱根にもあるらしいのですが、黒曜石と言うのはどんな条件が揃うと出来るのでしょう。
どなたか、よろしく。
サヌカイトと云えば、楽器ですね、どこかで見て叩いた記憶がありますが、近飛鳥博物館だったか、弥生博物館だったか。。澄んだいい音色でした。
>私も一度、黒曜石を探してみたいですね。
#河原では、下を向いて眼を皿のように、ですね。熱海の海岸散歩すると黒曜石がみつかる、かも。寛一お宮の場所からはちと離れているようですが。
伊豆山あたりから京都御所などへ旅した小石は「米一升石一升」と言われてたそうです。
>航路標識
大島、利島、式根島の祭祀遺跡が等距離・直線で皆下田から見える位置というのは興味津々。
他の遺跡とか地形とかも気になります。この辺りの島は石器縄紋の遺跡が見られないそうですが、噴火で皆埋ったのかなぁ。。
>小銅鐸
BC100頃の海運者というのは、うなづけます。仲哀、神功を迎えた北九州の県主が飾り船で迎えたときの飾りに銅鐸は影も見えない。これよりかなり昔ということでしょうし。
「魏史」東夷伝馬韓条に朝鮮式銅鐸の記載があり、これも関係深いのかも。
千葉市原からも出土、琵琶湖三上山は大量、瀬戸内含め海・水に近いところが多いですね、海川が主要道の頃には違いないですが。
今、漢字の読みはほぼ呉音ですが、漢字の正式輸入以前に既に読みかたが固まっていたと言う事なのか。?
諏訪の伊勢津彦は古い形の鉄製造族なのかもですね、物部以前の。サナギは小銅鐸というより馬鈴のニオイが強いような感じを受けますが、小銅鐸に馬鈴が押しかぶさった、のかも知れない。
愛鷹、富士の山麓の長い砂洲に囲まれた、たぶんむかし湿地帯は地形の変遷など興味あるところ。
大いなる山アテ富士山、黒潮に乗ってきた人たちは殆どが近づいたでしょうね。
はじめまして▼↓ ▲↑
カシミールの画像がいいですね、
寝姿山が、あの様に見えるとは思いもしませんでした。
長浜神社
からの富士山も、カシミールの画像とほぼ同じ様に見えます。
この、長浜神社は、シーパラダイス(水族館)の裏の、
現在は、周りを埋立てられた岬の上に立っているのですが、
岬の先端から富士山を見ると、淡島と富士山が重なって見える事から、
この場所に神社が作られたのではないか?と思ってます。
伊豆半島の黒曜石は、神津島の他にも、熱海市の「上多賀」と、伊東市の「柏峠」が産地です。
私も一度、黒曜石を探してみたいですね。
関西には、黒曜石の出土地は、全く有りませんから。
関西の石器は「サヌカイト」で、奈良の二上山が、主な採取地です。
航路用と思える祭祀遺跡が大島と利島と式根島の下田を望む位置にほぼ等距離直線で並んでいます。
航路標識だと思う。
日が沈んでから石廊崎を回るような夜行船があるとき、狼煙で知らせて火を燃やしたのではなかろうか。
さて、愛鷹山の山麓から小銅鐸がでていますが静岡市の有東遺跡(登呂遺跡の北部)からも小銅鐸がでています。弥生中期〜後期です。
写真で見る限りでは九州の小銅鐸にそっくり。
この銅鐸の人々は何者か・・弥生中期〜後期ということはBCゼロ〜AD100頃ということ。
考古学の方ではいまのところこの小銅鐸に関しては目をつぶっているらしい(^^;
小銅鐸は初期の海運者が用いていたものと考えれば解決可能にみえます。
日向や伊勢の五十鈴川、五十鈴とは小銅鐸をとりつけた海運者の船がたくさん集まる川の意。
BC100あたりに東海へ渡った海運者が小銅鐸を持ち込んだ。
九州天孫は神武以降漢文化と呉越系文化の影響が濃くなって鏡へシフトしたが、後の出雲は銅鐸を大型化して祭祀に用いた。
−−−−−−−−
伊勢国風土記逸文に「伊勢津彦」伝承があります。神武の家臣の天日別に敗れて東国へ逃げたとされていますが、近畿への神武東征は虚とする歴史観から、天日別とは天火明渡来時(BC100頃)の人物であって、その伝承が記紀の神武東征説話に重ねて記述されたものと推定。
伊勢津彦は九州の初期開拓者の後裔で、原始アマテラス祭祀(三苗文化+縄文大山津見神)をもっていた。
天火明の渡来によって伊勢の祭祀が同系ではあるが楚や斉文化の影響を受けた日向天孫の新アマテラスの祭祀に置き換えられたのではないか。
伊勢津彦の逃げた東国とは諏訪だとみています。漏矢神あるいは守矢氏の祖先。
150年後にその後裔が建御名方と戦った。
祭祀具に使われるサナギの鈴は小銅鐸の諏訪における変化の結果。
初期開拓者=稲をもたらした人々=大歳系譜(スサノオの子の大年ではありません、8章食物神と大年神参照)。
その妻は縄文系だろうなあ・・稲とその妻・・稲妻(^^;
蛇であり龍神や滝あるいは水神でもあって農耕に通じるもの・・
このあたりにアマテラス(日向系)≒オオヒルメ(山岳縄文系と推定)、あるいはオオヒルメの旦那=オオヒルメムチ≒男性神といった伝承が錯綜する根元があるのではないかと考えています。
大穴持・・モチムチ・・? 縄文系の巫女(菊理姫、オシラサマ、天白神など地域によっていろいろ)の日本海側の旦那のひとり(^^;
出雲風土記に大穴持神が繰り返し登場するのが納得できる。
−−−−−−−−
千葉市の東にある加曽利貝塚の花粉分析で面白い結果がでています。
稲作の開始はBCゼロ頃なんだけど、それがいったん消滅するんです。
復活するのはAD500頃で以降はとぎれず拡大してゆくのだそうです。
いったん消えるのは寒冷化がはじまったことが理由だと思います(東北の稲作が消えるのも同様です)。
静岡登呂遺跡の稲も消滅します(定説では洪水で消えたとされるようですが・・)。
愛鷹山山麓の水田もAD250頃がピークで衰退します。
あっちもこっちも洪水で消えるかなあ(^^; 寒冷化に伴う日照量の減少、冷害が原因だと思う。
この頃の新羅本紀では飢饉の記述が多くなっています。飢饉からから逃れる倭人がやってきたともあります。
人口密度の多い北九州では惨状といっていい状態になっていたんじゃなかろうか。
食料を求める人々が少しでも豊かな方へ移動しはじめた。
大隅の狗奴国からは宮崎平野へ、九州北岸からは瀬戸内へ、奈良琵琶湖からは濃尾東海へ。
(東海地域は全国でいちばん日照量の多い地域です)
これを国単位でやるなら戦争です。すなわち倭国争乱の発端がこれだとみています。
愛鷹山の高地性集落もその余波によるものと思う(愛知の朝日村ほどではなかった)。
そして出雲は敗れ、濃尾を占領していた出雲系の有力者が東海や関東へ脱出した(各地で銅鐸の破棄、埋納)。
関東の氷川神社はそれが源流にあるとみています。
以後しばらく空白・・日本武尊がやってきてまたしばらく空白で、雄略あたりで稲作が復活する。
花粉分析と小銅鐸からの空想であります。
匈奴の装飾、拝見
動物の文様というのは、騎馬遊牧民ほとんど共通している部分がある様子ですね。
スキタイの「櫛」にも似たような文様。太い角とか羽の生えた神馬・天馬もあるようで、後の武帝の西国一より上の天馬、帝が天上に昇る交通機関ですね天馬。
BC2千年、寒冷化、北方遊牧民の南下、歴史が大きく動く時のキーワードですね。
「史記、殷本紀」の記述では、「殷の契は母を簡狄と曰う。有{女戎}ゆうじゅう)氏の女(むすめ)にして、帝{學:子=告}コク)の次妃たり」とあり、
この契が商民族にとって祖で、有{女戎}氏は東方の大族。
商としてまとまったのはBC1600頃で南下してきたのは、やはりBC2千年頃でしょう。武丁の頃には甲骨文字もほぼ完成して、商人と名付けられる活動はこの頃からかも、商の人=商人、が広く大陸に認知される程の活動は意外に末期の紂王以前辺りからからかな。
夏王朝はやはりBC2千頃からで、こちらは禹をはじめ南方の匂いが強いですね、黄河を軸に東と西で何百年か夏と殷が並立していた時代があったような気がします。BC1500-1700くらいでしょうか。
山東半島は、始皇帝が死期を意識してから執着したように東と山をセットにした山東半島は大いなる聖地なのでしょう。道教の大発展をなす地域で、山麓から湖沼にかけて鉱物生産精錬の重要地。色々な経典の元は錬金術の実験成果なのかも知れません。始皇帝の墓は水銀で満たされていたらしいのでこれも後世に残る結果ですね。
瑯邪八神など、八がカタチとなるのは漢武帝以降と考えてます、2-4-8ですね、四角が地で、丸が天でしたか、貨幣も丸、四角、八角でしたね。日本の「八幡」という名前も漢武帝の故事から採られたというのが強いと考えてます。
南方(海)文化が基層にあり、北方(馬)が上層(支配階級)に位置するのは大陸も列島も半島も同じ、文化は南方、文明は北方でしょうか。
>石器の実物楽しみです。▼↓ ▲↑
#黒曜石に石器、の実物ほんと楽しみですね。特に黒曜石のあの大きさは手にとって見たことがない。
KENJIさんよろしくです。石器のほうは何に使うと便利な形か実際に手にとってみながら考えるのも楽しそうです。
石器が金属より勝れている部分もいくつかありそうです。たぶん書籍からの記憶ですが、鏃は同じ大きさだと、石の方が破壊力が強い。石庖丁は動物の皮を剥ぐ時、鋭利な鉄ナイフより肉に傷をつけずに皮を剥がせる。などなど、
>伊豆だと神津島かなあ。黒曜石実験できそうなのは(^^;
#大きな黒曜石は、ムリかなぁ。。伊豆のらしい河原でらしい石探しもいいかも、玉が見つかったりしたりして。。
>原田さんの書かれてる旧石器遺跡などもこの付近だと思います。
#休場遺跡は、<休場遺跡 35.09480 138.50282 257.0 シンキ A 1 101 1 Tokyo。です。
(もう少しまとまったら伊豆の。NDBファイル送ります、神社主)
しかし、カシミールはいいですね。使うとさらに欲が出て、10mメッシュがあるといい、とか考えてしまう。大型コンピュータに全世界の地図を入れて1m単位で分析しているトコロがあるだろうな、と、こんなCP&data使ってみたいですね。
武虎さん
>英彦山に登ったり、志賀島に泊まったり、等々してくるためしばらくキーボードから離れます。
#ごゆっくり、日ごろのお疲れおやすめ下さい。
しかし、英彦山に志賀島・・お楽しみください。の方か良いのでしょうか。^^。
伊豆の不思議、1〜10、実にキリがありませんね、あそぶタネは尽きないといったところでしょうか。
掲示板に参加する皆さんで、情報を補完しつつ長い間、楽しみつつ歴史の流れの主流を見つけましょう。
>3.三島大社は、三島諸島→白浜神社→廣瀬神社→現在地と遷座された説を愚生はとりますが、・・
#やはりそうですか、三島諸島、特に神津島の黒曜石以外の位置、潮流など航海上の重要度など気になるところです。
>7.楊原神社の名神大の格付け
#神社の格付けがはじまった、天武の頃から、国造と、後に一宮になる社との結びつきは大きいようです。
相模・一宮寒川は、武刺国造の祖神・伊勢都彦命3世の孫でその領域はのち高座郡・愛甲郡あたりの県央部を占め寒川神社は相武国造の祀ったものと推定される。その後、大住高倉の大領で長い間実力者で富豪の壬生氏が崇拝していた様子です。
武蔵・一宮は氷川神社ですが9世紀後半に一宮としての位置になったらしい。それ以前は知知夫国造の秩父神社が一宮の位置で、9世紀中頃には、その位階など、秩父、金鑽、氷川と三つ巴の様相で、武蔵国造となった足立郡大領家の保護を受けた氷川が最終的に武蔵一宮の位置に落ちついた。
一宮の呼称は新しいですが、地区の地位・位階の争いというか取得は、その地区の実力者とイコールに近いでしょう。特に延喜式以前は。
なお、氷川が一宮として落ち付くのは南北朝以降と考えてます。今、スサノオ・クシイナダ・オオナムチの3神を祭ったと言われるが式内では一座とあり、明治以前の氷川2社(3社)内での暦発行の争いとか、他所の社との争いなど、なかなか社の位階などは純朴な信仰とは別次元にあるようです。
神社への位階が活発になるのは820年頃からで、905年頃に編纂開始された延喜神名帳が固まるまでの百年の社にまつわる歴史がまた面白いところです。
伊豆・三嶋大社は、920年頃には賀茂郡で、その後、大仁に遷り、三島市に遷したのは頼朝旗揚(1180)の前と言われてますので、その時期がわりと短く推測できるので調べるに面白いところ。(そういえば頼朝の夜襲の頃の三嶋は大仁だったという説もあるようですね。)
三嶋大社の遷移については、今のところ、交通の大神で、航海から街道へ交通の主が移り、街道も国府、街道そのものの重要度、の変遷に連れて移動したのでは、と考えてます。
このあたりから、田方郡の大社である楊原社の歴史がとくに気になるところです。
匈奴の装飾も加えておきました。
BC2000、混乱と混合の時代、世界的にも謎と神話の世界。
尭舜禹神話、ノアの箱船、バベルの塔・・日本では伊弉諾伊弉冉神話の時代とみています。
寒冷化、乾燥化、大洪水の時代。
BC1500、温暖化がはじまって現在につながる新しい文化が発達する時代。
北では遼河上流の長春や吉林、もっと北のウスリー川のハバロフスクなどに新文化が登場。
黄河では夏から殷、周。
長江では四川省の三星堆文化、中流域洞庭湖付近の青銅器王国。
ベトナムではBC1000頃に青銅器を伴うフングエン文化が登場。
ニューギニアの北東にあるビスマルク諸島にはBC2000〜1500頃から突如登場するラピタ文化がある。
これまでの中国文化での定説は黄河系文化からの視点によるもので、北に関する情報はそれほど狂いはないと思うけれど、南方系に関する情報(→定説)ははたして?
テイ族を魚とみるのは東シナ海系の人々の視点によるものではなかろうか。
殷の甲骨文字が現在の文字の主体であるなら、そこには殷を構成したであろう南方系の有力集団の視点による象形化も少なからず含まれているんじゃないかと思っています。
燕が日本に関係してくるのは戦国時代での戦争避難民だと思う。
最終的にはこれがスサノオにつながるわけだけど、秦以降は力を失ってしまうので弥生文化への影響はさほど大きくないと考えています。
明刀銭や山形で発見された青銅刀子のように「物」はやってきた。初期開拓者もそれを用いたが縄文とは基盤の異なる文化のために浸透しなかったとみるのです。
出雲の剣に遼寧式銅剣の残映があるけれど、これも形式の継承だけじゃないかな。
スサノオは武力では制圧したが文化では短期間に縄文化したとみてます。
初期の弥生文化の基礎をなすのは春秋〜戦国の楚文化じゃないかな。
BC3500頃の長江中流域に屈家嶺文化(三苗文化のひとつ)あり。
それが大洪水で崩壊し、BC1400頃に洞庭湖付近に山の斜面に青銅器を埋める慣習をもつ青銅器王国が復活します。
そしてBC700頃にその地に楚が登場する。長江中流から東シナ海沿岸域までの広大な範囲を領土とした国。
山東半島の斉が天、地、日、月、陰、陽、四季(+兵主)の瑯邪八主(神)を祀るのも遡ればBC2000頃の長江文化の自然崇拝と三苗文化に源があると推定。
出雲の祭祀の源流もここにあって道教以前の自然崇拝が縄文とも一致して容易に浸透していったのではなかろうか。
はるかに遡るBC4000あたりの縄文への照葉樹林文化到来ともつながっているわけです。
古出雲の文化導入の最盛期は弥生黄金時代でもあるBC130〜AD1頃で、朝鮮半島西岸から南岸の伽耶を経由して山東半島文化を導入した(山東半島は畑作がメインです)。
天孫も同様だけどこちらは呉越文化もダイレクト導入する。
AD50以降の新出雲では神武に朝鮮半島南岸ルートを遮断されて最新の中国文化と接触できなくなった。
これが国譲りの戦略上の致命傷となる(^^;
銅鐸と祭祀の基本は九州時代にすでにあって(古出雲、小銅鐸)国譲り以降の倭国争乱との関連で独自に発達したものと考えています。
石器の実物楽しみです。
普通の石器?は剥片を削り取って整形して使うわけだけど、細石刃石器は剥離させた小さい剥片の方を木や骨にノコギリみたいに埋め込んで作る。
伊豆だと神津島かなあ。黒曜石実験できそうなのは(^^;
沼津の目標場所に小銅鐸の発見地と弥生の高地性集落遺跡をできれば追加。
単なる原っぱでしょうけど、銅鐸を埋めたくなるような大地の気を感じられれば。
愛鷹山の山麓なので、原田さんの書かれてる旧石器遺跡などもこの付近だと思います。
カシミールに落とした図参照
富士山麓、愛鷹山(元富士)を仰ぎ奥駿河に位置するこの沼津地域に
ご関心をもって下さり大変光栄に存じます。
いろいろ宿題があるのですが、愚生は来週九州の親戚を訪ね、墓参りをして
宇都宮鎮房の霊を祀り、英彦山に登ったり、志賀島に泊まったり、等々して
くるためしばらくキーボードから離れます。
出土物については、市内に「沼津市文化財センター」というところがあり
発掘調査のレポートを頒布しているようですので、戻ってきたら訪ねてみます。
(何度も書きますが、考古学方面は不得手なのです)
伊豆地方に関する、愚生の関心事(これまでにふれた以外)のいくつかを
皆さんにも知っていただくために、下記に箇条書きします。
1.伊豆国造としてやってきた日下部氏(後 伊豆氏 後 矢田部氏)の出自?
矢田部氏が三嶋大社宮司も兼ねて、今日まで系譜を継続している理由?
2.三島溝杭姫(溝咋玉櫛媛、活玉依姫、勢夜陀多良比売)と三島明神
同姫と日下部氏の始祖 加里波夜須多気比波預命(かりはやすたけ
ひばよのみこと)との関係?
3.三島大社は、三島諸島→白浜神社→廣瀬神社→現在地と遷座された説を
愚生はとりますが、現在地に元々あった社(水の神?)は何か?
4.大化改新に際し伊豆国がスルガ国、庵原国とともに(大)駿河国になり
天武天皇9年(681)に再び分離した(『扶桑略記』)背景。
また、その後『三代実録』の貞観年間、『延喜式』の頃まで伊豆国
田方郡にあった香貫・静浦地区が『和名類聚抄』の頃には、駿河国
に編入されてしまった、そのわけ?
5.熱海の多賀神社の存在
「多賀」と言う地名は「ほつま」的に魅力
多賀神社を中心に伝承される「鹿島踊り」のご神事があること
またこのあたりが太平洋岸の頭上運搬習俗の北限であること
6.木花咲耶姫神(このはなさくやひめのかみ)<古事記では木花之佐久夜毘売、
日本書紀では木花開耶姫、また別名として、古事記は神阿多都比売
(かむあたつひめ)、日本書紀は神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、
豊吾田津姫(とよあたつひめ)>と
石長姫神(いわながひめのかみ)がそれぞれ象徴するもの?
ちなみに、楊原神社の(現)祭神は大山祇神と両姫です。
*木花知流姫神(このはなちるひめのかみ)・神大市姫神(かむおおいち
ひめのかみ)の姉妹も合わすと、宗像三姉妹同様、複雑な姫様達です。
7.楊原神社の名神大の格付け
「神奈備にようこそ」の瀬藤さんによると「(延喜式において)神社の
格付けについても運動が行われたようで、想像ですが、本来の格付けは
記載順であったが、後に格上げされた場合、記載順までは変更せず、
格付けを追加記入したようです。神祇官はそのような運動に対して、
かろうじて面子を保ったと同時に、後世に、運動によって乱された痕跡を
残したのでしょう。」とのことですが、それでは楊原の大躍進は、どの
ような背景があるのでしょうか?
8.天城湯ヶ島の持越鉱業所周辺に原田姓で平家落ち武者伝説があること
9.阿波・紀伊(志摩)・伊豆・上総(安房)・常陸の黒潮ルート
10.神益麻志神社[かんますまし]「長白羽命」田方郡大仁町神島字神益1307と
伊加麻志神社[イカマシ]・伊加麻志神社、「事代主命」田方郡修善寺町
大字堀切字益山763と、葛城山を結ぶ綺麗な三角形。(北緯35度線)
何だかキリがありませんね。
武虎
1/25000の地図で確認しました、地図にはOO古墳との表記はないですが大体の位置は確認できました。
神明(松長)が他の2つと少し離れているのですね。
前方後円墳は盗掘が多いので殆ど発掘物がないかもですが、馬具の種類・形など分ると妄想も連想位にはなりそうです。
こちらも来週あたり図書館にでも行って調べてきます。
>このあたりJR新幹線沿いにほぼ東西一直線(約2キロ)に子の神神社、神明宮(4,5社)愛鷹社(2,3社)が密集しているのですが、
#地図上に伊豆の神社を置きつつあるのですが、このあたりは特に多い。足柄道が主流の頃の街道が富士と愛鷹山の裾を通り、足柄、箱根、伊豆への分岐・合流点ですね。地名では「岡宮」「金岡」のセットも気になります。
あと海岸沿いの街道沿いにも神社が連なりますが、こちらは山沿いより新しいのではないか、江戸期からの社が多いような感じがします。
>#現住所は、沼津市柳沢697あたり(ゼンリン地図調べ)でしょうか。すぐ傍に、広大寺(真言宗)があります
#柳沢神社=桃沢神社、ありそうです。
青野・桃沢神社の北北東で愛鷹山の裾に囲まれたつけ根あたり。真北に愛鷹の山頂で南に視界が開け大瀬神社あたりが見える位置。東に柳沢川。
柳沢神社裏山の東名高速がかぶさる辺りでなにか出土物が出なかったでしょうか。
500m程山上の「赤野観音」、下流の「青野」の地名が妄想逞しくさせてくれます。柳沢神社のある一方向からの風の強い地形は製鉄遺跡の多いところです。1次か2次かの精錬、或は鍛治址などでてませんか、赤=銅、青=鉄の事が多いのですが。全く違って、赤玉、青玉の玉かも知れませんが。
>大朝神社[ヲホアサ] ・大朝神社、「大日霎命」沼津市下香貫字山宮前3056。
は、比定違いだと思います。
#そう思います。この「アサ」は鉄につながるアサでなく布の麻らしいので、とすると地形的に広さが足りないですね、もっとも式内大朝の水陸の交通の便が良い場所への出張所だったかも知れません。
>地名に残る「木の宮」は、古代木材加工工場だったと思うのですが、
#地図を見てますと、上流に軽野、筏場などの地名があり、下流で受ける場所といえば河口この辺りでしょう。まだなんの裏付けもないですが、狩野川の河口が古代から移動したとかは無いでしょうか。移動したとしても三津から楊原あたりは木材集積と造船所があったでしょうね。
楊原、柳原は親戚みたいな感じですが、楊原すぐ北の「玉作水」、三嶋大社との関連を含めて、楊原神社に関するものは伊豆を考えるに特に興味深いところです。出来の良い推理小説を読む感じで、あそべそうです。
>黒曜石のヤジリの写真をUPしましたが、「いり豆の会」の時、持って行きます。
#楽しみにしてます。
ですが、鹿の角を押しつける訳にはいかないですね。
上質のガラス質に近い石炭が似たような割れ方をします。
>テン▼↓ ▲↑
バックル装飾ですか、
サルマタイ、キンメリアに続く、スキタイ・サルマタイ、ギリシャ人が付けた名前が今でも生きているのですね、遊牧民でスキタイとは違う部族の総称のイメージがあるかも。
ギリシャ人はスキタイと呼んだが、彼ら自身は「スコロテン(王者)」と呼んでいたらしい。この「テン」が意外に{サンズイ眞}の謂れかも知れないですね。
>東胡、烏桓
匈奴に追われて烏桓山に立て篭もったという烏桓。烏丸との表記が多いみたいですが、鮮卑との共同作戦後は勢力旺盛になり、漢は長城内に取りこんで懐柔、匈奴鮮卑と戦わせたり。後漢末には洛東・楽西あたりで王を名乗ったり、袁紹と組んだりしてますね。
この烏丸で面白そうなのは、その習俗で「穹蘆(テント)を家とし、入口はきまって東の太陽の方向に向ける。」あたりとか、母は大事にするが(現実的理由の様子)、親兄弟は殺し合いもする。で部落をまとめる「大人」がいて・・・。
そういえば京都の烏丸通りの名の由来はどうなんだろう。
>山海経
(海内北経)「蓋国在鉅燕南、倭北。倭属燕」。この注釈に蓋国とは高句麗の蓋馬山の東と注釈があるから中国東北部あたり、で、北から燕−蓋−倭と並ぶ。
蓋国は魏書でいう、東沃沮なんでしょうね高句麗とほとんど言葉が同じという。のちの高句麗、蓋蘇文までつながるのかも。
燕国は姫姓の周王室の一族が現在の北京市あたりが首都。この燕国では、広島県三原市、佐賀唐津市、那覇市などからはBC4−3cの燕国の明刀銭が出土しているのが興味深い。この燕が追われた半島から追いだされて・・、続いて呉越から楽器としても使った人々と列島で合流(再会?)して列島の銅鐸祭祀につながった。?
>>長塚古墳、神明塚古墳を参拝してきました。
>#この場所と、出土物など?
#このふたつの古墳は、子の神古墳(未参拝)と合わせて、沼津市内では
もっとも形よく保存されている前方後円墳です。
所在地は、JR沼津の北西方向、愛鷹山の麓で、三つの古墳は
ほぼ直線上に並んでいます。長塚(東沢田)、子の神(西沢田)、神明(松長)。
発掘物は、調べてみます。(不得意分野ですので。。。)
長塚古墳や子の神古墳の近くにある大中寺(夢想疎石による創建と伝承、
臨済宗妙心寺派)の寺宝には三角縁神獣鏡があるようです。
愚見ですが、このあたりJR新幹線沿いにほぼ東西一直線(約2キロ)
に子の神神社、神明宮(4,5社)愛鷹社(2,3社)が密集しているのですが、
すべて古墳ないし古代祭祀跡地ではないかと思えます。(まあ、古社は皆そうだ
と言えばそうですが)
この少し中腹の休場遺跡(約1万4000年前の「先土器時代の細石器段階では
最も古い段階に位置づけられ、日本の旧石器文化の編年上、ひとつの基準として
重要な位置を占めるようになった」<静岡県の歴史散歩>)を頂点とすると
この東西線が底辺で二等辺三角形がつくれます。この三角形は、愛鷹山南麓のなかで
富士山山頂、愛鷹山、沼津アルプス山系を結ぶ線上にあり、南面し、駿河湾の
内浦・静浦を望む絶好の景勝地帯です。
>>「浅間神社」「桃沢神社」「柳沢神社」の三つの名をもつ(?)鄙びた杜
>#現住所おわかりでしたらお教え下さい。
>ご存知とは思いますが、式内桃沢神社は新人物往来社の神社総覧では論社が、
>2つになっています。
#現住所は、沼津市柳沢697あたり(ゼンリン地図調べ)でしょうか。
すぐ傍に、広大寺(真言宗)があります。
*桃沢神社、(愛鷹社(下)「建御名方神 配 瓊瓊杵命、木花開耶姫命」沼津市青野504。
(*桃澤神社、「建御名方命、愛鷹大神」愛鷹山頂上に上社、駿東郡長泉町元長窪377。
上記2社が、通常の比定論社ですね。青野は、柳沢の近くです。こぢんまりとした
清楚な社です。長泉の桃沢神社は、現在第二東名の建設のため裏手が開発されていて
無惨ですが、桃沢川沿いの僅かな耕作地を見守るような位置にあるやはり鄙びた社です。
ここには、立派な(古い)「式内社」の石柱があります。
桃沢川が現在の桃沢川であるとすると、この長泉の社が比定地として最も有力です。
しかし、柳沢神社の脇を流れる柳沢川(高橋川)の源泉と、(現)桃沢川の源泉は
愛鷹山山頂の南東部のほぼ近接したところにあり、微妙です。
三社とも現社殿は「たいしたことない」造りですので、あらかじめ期待しません様に。
比定論社といえば、
>大朝神社[ヲホアサ] ・大朝神社、「大日霎命」沼津市下香貫字山宮前3056。
は、比定違いだと思います。感じのいい社ですし、背後の牛臥山は重要な聖地
だったと思われますが、この社は、楊原神社に付属する別宮だったのだと思います。
木簡でもその存在が証明された古代煮カツオ工場が、藤井原遺跡で(ここは我が家の
夏の花火会場となる公園ですが)また、今は存在しない塩場神社はたぶん製塩工場で、
地名に残る「木の宮」は、古代木材加工工場だったと思うのですが、それらが、
式内楊原神社と牛臥山を結ぶ一帯に形成されていたのではないでしょうか?
出土物と言えば、函南町柏谷(かしや)の横穴群からは、亀卜に使ったと思われる
焼いた亀の甲羅が出土しています。現地は、300基だとか500基だとかいわれる
横穴アナボコだらけで、蜂の巣のようです。ものすごくたどり着きにくい場所に
あるのですが、ご希望であれば案内します。いまは「古代古墳公園?」になっています。
武虎
>鹿の角?を腕の力でぐいと黒曜石?に押しつけるだけで剥片がパリンときれいにはがれるんですね。
黒曜石は、「天然のガラス」と、以前書きましたが、大きな特徴が有ります。
割れ方(剥がれ方?)は、魚の鱗状に丸く広がって割れる(剥れる)のです。
以前、黒曜石のヤジリの写真をUPしましたが、「いり豆の会」の時、持って行きます。
其れを手にとって見てもらいますと、特徴は良く解ります。
特徴の有る割れ方での加工は、大変だと思いますよ。
http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
≫#これは動物文様とか、馬具の類でしょうか
例えばバックルの装飾などです。
人間用か馬用かは不明(^^;
テンの貯貝器です。
側面の動物はグリフィン(コーカサスあたりの空想上の動物)だと思うけど翼がみえないのでチベットの雪豹あたりに変化してるのかも。
左の貯貝器の蓋の群像の一部が中央の人物画。正座に近い姿勢してる人が多い、弥生と同時代のあちらの風俗がわかって面白い。
サルマタイはスキタイ文化を受けた黒海北東のスキタイの後継者。
スキタイ文化は草原回廊上に高速伝播しているようで、東方ではいわゆる匈奴文化になる。
匈奴の北、バイカルの南には丁令族があって突厥、すなわち後のトルコ人の祖先となる、ということは現在のトルコ人と日本人は親戚、たぶん。
匈奴の東にいたのが東胡と称される鮮卑や烏桓ウカン族でおおよそ匈奴の支配下にあった。
モンゴル系とツングース系の混血ともいわれ、後に燕となりあるいは高句麗、百済王族の祖先となる。
山海経では燕の南に蓋国がありその南に倭があり。倭は燕に属すとあります。
(ここでの倭は朝鮮半島西岸の倭以前の「委」だと思う、蓋国とは箕子朝鮮か? 燕も殷氏族の移封による建国)
沿海州では・・たぶん粛慎などでツングース系。さらに東の日本では・・
第1章と2章の改訂予備軍を少々(^^;
BC2万〜1万2千推定図参照。
オーシャノイドはいまのところ赤道付近の温暖気候に適応した海洋系文化の人々。
ユーラシアンは後のコーカソイドに似た骨格をもつ後期旧石器人で中国を含めてBC2万4千頃のアジア各地で発見される寒冷気候に適応した内陸型文化の人々。
モンゴロイドはオーシャノイドとユーラシアンの混血で、西方型と数千年遅れて登場する東方型があったと推定。
遊牧を発達させ内陸の王者となって、現在のモンゴロイドは東西の2グループが草原回廊によって混合した結果だと推定。
BC1万2千〜BC6000推定図参照。
アルタイ、モンゴル、ツングース、中国の各種族、縄文、の誕生は同根で南北接触の時代と場所の違いによって微妙に差が生じたのだ、と考えています。
字通は白川静氏の定説に挑戦する姿勢を知って購入したです。辞書というより研究書じゃないかな。
(そのあたりもあってか対立する人も少なからずのようですけど(^^;)
説文解字の解説や旧来の定説も最新データとつきあわせてゆくと再検討すべきが少なからずあるだろうと思ってます。
NHKで「日本人はるかなる旅」というのやってますね。
第1回は日本人の祖先の話で、古代で遊ぼ第1章とよくにてるなあ(^^;
第2回は9月9日のようで、スンダまででてくるようで以後どうなるか興味津々。
細石刃石器の作り方を実験考古学者が見せていたけど、鹿の角?を腕の力でぐいと黒曜石?に押しつけるだけで剥片がパリンときれいにはがれるんですね。これには驚いたです。
普通の石器がナイフだとしたら細石刃石器はチェーンソウといった感じ。
大型動物を狩るには威力絶大だろうな。
かたばみ
『先代旧事本紀の研究』季刊・邪馬台国のご紹介ありがとうございます。
>長塚古墳、神明塚古墳を参拝してきました。
#この場所と、出土物などご教授願えますか。
このところ伊豆の地図など見ながらいろいろ連想してますが、石器縄文時代の黒曜石は、神津島に限らず、箱根、天城山からのも利用されてるのですね、やはり出土分布は神津島のものが多いのでしょうか。
相模は意外に長野和田峠のものの出土が多いところですが、平塚市近辺だけは神津島のものが多いようです。
>「浅間神社」「桃沢神社」「柳沢神社」の三つの名をもつ(?)鄙びた杜を見つけました。
#惚れ惚れする存在感、これは、気になる神社です。ぜひ行ってみたいです。現住所おわかりでしたらお教え下さい。
ご存知とは思いますが、式内桃沢神社は新人物往来社の神社総覧では論社が2つになっています。
なんとなく、気になりますね、お守り。
なんとなく気にしているところが既に気持が神様に届いているとは思います。
>本日、予定では大神神社に行きます。
#何度も思うのですが、関西は古代好きにはこたえられない程おいしい場所ですね、なにしろ文献も多い。ところでなにか、収穫ございました?
1.安本美典氏が編集されている季刊『邪馬台国』の夏号が▼↓ ▲↑
『先代旧事本紀』の特集です。
絶版となっている鎌田純一先生(皇學館大學名誉教授)の
『先代旧事本紀の研究』所載の論文が転載されています。
『原旧事紀』とでも称すべき原資料の存在の可能性について
考察している論文ですが、このように手に入れやすく
転載されたのは、愚生などにはとってもありがたいです。
アスベルさんはじめ、『ホツマ』伝承を敬愛する仲間にとっては
基本に押さえておきたい論文だと思います。
(安本さんの論調は、個人的には苦手なので敬遠していたのですが
特集内容が興味深いので、ご紹介しました)
2.愚生は考古学に暗く、興味もなかったのですが、皆さんが
お越しになるときご案内することもあろうかと思って、沼津市内の
長塚古墳、神明塚古墳を参拝してきました。その道すがら、かねて
地図上で気になっていた「弘法大師堂」に立ち寄ろうと寄り道したところ
「浅間神社」「桃沢神社」「柳沢神社」の三つの名をもつ(?)
鄙びた杜を見つけました。
沼津市内には、7社の式内社があり、その内6社はほぼ比定社が
確定しているのですが(私見には異議あり)、愛鷹山山頂に
奥宮で愛鷹大神をまつる桃沢神社については論社が分かれています。
愚生が見つけた杜を論じている方がいらっしゃるのかどうか
わからないのですが、根拠もなく、ただ「霊感(?)」的に
此処っぽいと思いました。
惚れ惚れする存在感があるのです。
武虎
s tan さん
ご返答、ありがとうございました。
以前、奈良の春日大社の物を、近所の神社に返納したのが
気になった居た物ですから、安心しました。
逆に、家にずーっと放って置く方が、いけないのですよね。
本日、予定では大神神社に行きます。
hahahaさん
>近くの神社へ返納しても良い物なのでしょうか?
・大丈夫です。その旨を表記されている社もあります。
(お近くで選択される余地のある場合、同系のご祭神がおられる所があれば尚良いでしょう)
>違うお守りを同時に持つと、神様同士で喧嘩して良くない
・神様はこころが人智が及ばぬ程ひろい心をお持ちです。同時に複数持つとお守りを粗雑に扱い易くなるので、扱いが粗雑にならぬよう心がけることが大事です。
こんにちは。
お守りについて、お伺いします。
交通安全や、家内安全のお守りを返納したいとき、事情で
いただいた神社に行けないとき、近くの神社へ返納しても
良い物なのでしょうか?
また、違うお守りを同時に持つと、神様同士で喧嘩して良くない
と聞きましたが、これもいかかでしょうか?
よければ、ご教授下さい。
>このあたりが中国の民族構成にからんで悩ましいところで、ちょい遡ります。
#もうちょっと地域をずらして、ギリシャ・ヘロドトスが黒海沿岸スキタイの創世神話、天帝と河の娘。これをギリシャ人達は、ヘラクレスが河沿岸の森林地帯に住んでいた蛇女(上半身が人間で下半身が蛇)と同棲して生んだ子がスキタイの始祖と信じていた。
山海経は戦国時代から続く民話伝承を晋の時代に纏めた物。説文解字は後漢。それぞれの内容、いつの時代のコトなのか見極めるのが大変そうですね。
テンはほんとうに不可思議、アブミの使用は特に重要ですね。
>スキタイ文化の影響が濃い出土品がでてる。
#これは動物文様とか、馬具の類でしょうか。
テイ(低−人)
確かに低いという意味がありますね、但し、背を屈めるとか一時的ニュアンスが強いような気がする(いくつかの用例)。(字通は実使用例のウラヅケ少ないよな気がする)
それよりも、テイ族という苻堅、色が白くて偉丈夫で、これが(背の低いテイ人とは)結びつかない。
>伏義、神農、軒轅の時代(日本の縄文誕生と同時代)に長江と黄河の流域で東西の接触と混合があったとみています。
#同感です。
半坡遺跡(BC4000頃)は農耕集落で、堀を巡らせた集落、中心には住居跡・穀物貯蔵の穴蔵・共用の家畜囲い。
これ以前はどうも羊あたり主の放牧民が主流で、半坡に続く、竜山文化で家畜として馬が見られるようで、この後暫くしてから、移動便利な馬を使って、広域戦闘の時代になる。ような。。
武虎さん
>義淵は、興味深い人物ですね。
天武との関係、弟子に名を連ねる玄坊、行基、良弁等、癖のある高僧達との
#義淵の流れは面白そうですね、師・智鳳の元興寺から、藤原宮子と玄ム、良弁大仏東大寺。かの道鏡も縁有ですね。
宇佐の八幡大神造営地鎮祭の導師は「行基」、次の比売大神の地鎮祭の導師は「良弁」。
宇佐の1世紀ほど前と見られる「八幡=応神逸話の大神比義」こ2人は百済でつながり、良弁同時期の百済王・敬福とつながり深そうで。で行基をみると、百済+呉が祖なんですね。良弁は近江か相模出身ということですが、行基の後援者に相模の漆部直伊波との名も見えます。
このあたりの人物、共通の縁は、金・銅、鉱山・鍛治になるのでしょうね。
>、丸=わに=和珥の流れであるのか、愚生には判断できませんが、大和発で東国にのびるたぐいの地名のひとつですね。
#丸子は意外に多いですね、鞠、丸、輪、椀あたり、丸い物が絡むことが多いです。天武あたりを過ぎると丸邇、和珥、阿倍、大伴、どれもウチの先祖!という子孫が結構いたのかも知れません。
−−−
義淵→義眞
義淵、義眞を間違えるとは100年も違う。某ご住職さんに、怒られてしまう。ですよねぇ。
関連まとめました、
・道昭 :629〜700。653入唐、火葬。船連出。河内国多比郡生。
・役行者:634?〜?。699韓国広足の讒言で伊豆に。役小角。吉野金峰山、大峰など開山。
・義淵 : ? 〜728。元興寺の智鳳に師事。門下に行基、玄ム、良弁
・玄ム : ? 〜746。716入唐、735帰朝。法相宗、俗姓阿刀氏−広嗣乱・宮子。義淵の弟子。
・行基 :668〜749。河内国大鳥郡生。日本最初の大僧正。
・鑑真 :689〜763。揚州江陽県生。62才で来朝。唐招提寺建立。
・泰澄 :682?〜767?、越の大徳。
・道鏡 : ?〜772。
・良弁 :689〜773。 (737得度)奈良時代の僧。わが国華厳宗の第二祖。近江または相模の人。
・最澄 :767ー822。
・義眞 :757(778,781)ー833 (804.9)入唐、(805.6)帰国。
≫{サンズイ眞}テンは、トーテムが蛇と言うのが面白いところですね
このあたりが中国の民族構成にからんで悩ましいところで、ちょい遡ります。
中国始祖の三皇五帝にはいろいろな論があるようですが司馬遷の史記では、「太昊・伏義」タイコウフギと「炎帝・神農」エンテイシンノウと「黄帝・軒轅」コウテイケンエンを三皇としてます。
伏義は漁労や調理法を教え、神農は農耕や医薬を教え、軒轅は船車や楽器を教えたとされていて、伏義は中国南部(長江下流〜南域、ミャオ、ヤオ族、風姓)、神農がチベット高原(長江上流域、姜姓の祖)、軒轅が中国西方の遊牧民(姫姓の祖→華夏族→後の漢族の中枢)とされています。
別説では伏義が最初の人間、燧人(祝融)が火の発明、神農が農耕の発明者なんてのもある。
伏義といっしょに女{女咼}ニョカが登場してこちらは女性。どっちも人頭蛇体で描かれてる。
神農は陸の農耕者(照葉樹林文化と推定)で、燧人の火というのは青銅を溶かす火で西方からの道具の文化といったところかな。
このあとに続くのが五帝でそのラストが尭、舜、禹、次いで夏、殷、周と続く。
尭舜禹は年代的にBC3000〜2000あたり。
漢時代の{サンズイ眞}テン国は不可思議でここがわかると中国もわかっちゃうかも(^^;
BC300頃〜AD100頃の国で優れた青銅器文化をもっていますが、前漢時代では漢がいかなる国かも知らなかったようです。
稲作をやりながらも騎馬文化が濃厚に残る地域でスキタイ文化の影響が濃い出土品がでてる。
中国最古のアブミの使用地域で騎馬兵が戦う様子を画いた青銅器といっしょに龍船競争や流水紋青銅楽器もでるという不思議な地域。
黒海のスキタイ文化(BC600頃〜BC200頃)がチベット高原を経て長江源流域から四川省に至る遊牧回廊でここまではいっていたのだろうと推定されるようだけど、遊牧回廊はアッサムへも通じてる。
武器が発達しているところから騎馬民族と農耕民族が争った地域であることが推定されています。
前漢時代では騎馬文化との連結は切れて農耕主体になっていたので前漢は金印の紐を蛇としたのだと思います。
≫氏(シ)が崖の張り出した今にも崩れそうな崩れると遠方までその音が響くような場所
これもいろいろな論があるようです。
復刻版の大辞典にもそれが1説として書いてあります。
漢字源では積み重ねた土の底を示すとあって、テイ族を背丈が低いことによる名称としています。
甲骨から篆書につなが部分がちょい?かなあ。
白川静氏の字通によれば、説文解字(中国最初の辞書、AD100頃)では「氏」が崖崩れの土を平らにした意と解せるのであろうがしかし・・うんぬんとあって、「氏」は曲刀の意であって底を削って平らにするの意を第一にあげています。
共通するのは土に対してなにかやる、といったところか。
谷間の傾斜地に段々畑を作る人々というのはどうかな。山彦がこだまするような谷間に(^^;
ちなみに巴蜀地域の人々、これが「テイ羌」族のようですが、羌は遊牧だからチベットないし西方系なのはまず確実。
山海経の人頭魚体のテイ人は漁労者だろうなあ。伏義や女{女咼}が人頭蛇体なのと同じ表現じゃないかな。
沿岸域の縄文人(貝塚系)には外耳道の骨に異常のあるものが多いそうで、潜水を仕事にする人の持病だそうです。
ミクロネシアやポリネシアにも多く、縄文人の場合は男性のみで女性での発見例はなく山岳縄文にもないそうです。
(沿岸でも東京の縄文人ではまだ発見されていないらしい)
長江では水が濁っていて潜水漁法は無理だと思う。魚になるのは潜水ではなかろうか。
伏義、神農、軒轅の時代(日本の縄文誕生と同時代)に長江と黄河の流域で東西の接触と混合があったとみています。
黄河系では北の文化が優勢(石器、土器など)、長江では南の文化(骨格器など)が優勢で、ここに西の文化も接触してきたわけです。
日本列島では黒潮と対馬海流にそっての南北接触で縄文が誕生、本州では南北互角と推定。
かたばみ
申し訳ない、義淵は「義眞」の間違いでした、怒られてしまいますねえ。
とりあえず、訂正のみ。
stanさん▼↓ ▲↑
>#同時期の相模国人、初代天台座主・義淵も訳語として唐へいってます。
>この時代の「訳語」は今来の人と呼ばれる直系が多いから、この辺りも鍵になりそう。
>相模出身とある義淵は、素性は丸子部で、氏は大伴、阿倍、藤原の説などあって確定し
>てないようです。沼津市内の丸子神社もこの辺りから気になっています。
#義淵は、興味深い人物ですね。
天武との関係、弟子に名を連ねる玄坊、行基、良弁等、癖のある高僧達との
法統も、興味尽きません。ただし、義淵は728年没ですし、阿刀氏の流れで
大和国高市郡の生まれが通説ですから、誰かと錯誤してませんでしょうか?
>沼津市内の丸子神社
は、私の会社が商売繁盛祈願をお願いしている古社ですけど、感じのいい神社です。
丸子が、継体天皇・欽明天皇・宣化天皇の皇子「椀子=マリコ皇子」,
用明天皇・敏達天皇の皇子「麻呂子=マロコ皇子」等の伝領地に由来するのか、
あるいは、丸=わに=和珥の流れであるのか、愚生には判断できませんが、
大和発で東国にのびるたぐいの地名のひとつですね。
祭神は金山彦。現在地は遷座されていますが、旧社地も神社として残っており、
戦後の発掘調査では、古代祭祀後が確認されたそうです。
>初代天台座主
について関連のあることといえば、
最澄(近江国滋賀郡の人。俗姓は三津首−沼津にも三津地名があります)は、
『釈日本紀』を撰述した卜部兼方から遡る卜部平野流から日本書紀を伝授された
という伝承<『神代巻私見聞』(良遍)>がありますね。
卜部兼方は伊豆卜部の流れのようですね。
『三代実録』元慶5年(881年)12月5日条に卜部平麻呂の卒伝記事があります。
彼は「伊豆国の人で幼いときから亀卜の道を習い、神祇官の卜部となった。
(略)承和の初め遣唐使に随行して入唐し、卜術をよくした。帰国後、神祇大史(使)
となり、(略)神祇官権大祐兼宮主にまで出世した。(略)」そうです。
平麻呂の曾孫・卜部兼延(かねのぶ)が、一条天皇から「兼」の字を下賜され、
神祇伯長上となって以来、子孫が代々その位を世襲するとともに、兼延以来、
吉田神社の社司を兼ねて「吉田」を称号するようになっているのですね。
卜部の平野流れ、吉田流れは、此処にはじまるのでしょう。
(愚生自宅近隣の式内・楊原神社には、摂社に立派な「吉田神社」が鎮座しています。)
武虎
武虎さん
いやあ、ありがとうございます。庵原氏については殆ど情報がなかったです。
「笠朝臣同祖」孝霊7の流れなのですね、孝霊といえば「大日本根子彦太瓊尊」なのですが、沼津には「瓊・玉」もありますし、孝霊の宮は黒田廬戸(いおど)宮といわれてます。
中国、後漢終り頃の辞書「釈名(しゃくみょう)」に「廬」は「船の上屋」の意味もあるとあるようです(漢辞海)。
孝霊の「考」といえば欠史8代といわれる4人の考−、後漢でも考惠帝以下「考」がつきますね。
連想をさらに拡げると(妄想?)、漢・高祖劉邦の腹心に「廬綰ロワン」がいますが、高祖没の直後、匈奴に亡命してます。
「笠」氏といえば、吉備で下道氏と同祖、下道氏は雄略21の時、前津屋で没落。隣の上道氏は娘が雄略の星川王子を産み、笠氏は側近に近い立場の様子。
「大山上」の官位は、大化直後から30年ほどしか使われてないとされますね。そうすると庵原君臣は、AD620前後の人。
天武賜姓の「君姓」は地方での対象者はたしか上道・笠・上毛野・下毛野の4氏。
駿河国から2郡を割いての伊豆国は天武の頃、仲(那珂)郡は持統41の頃には出来ているから。。
このあたりは、どうも錯綜しているようですね。
駿河の庵原氏が解く鍵かも知れませんね。
『※ この項(8/20分)の、義淵、は「義眞」に読み換えて下さい。この行8/21訂正追記』
>庵原公有守が遣唐訳語に任じられています
#同時期の相模国人、初代天台座主・義淵も訳語として唐へいってます。
この時代の「訳語」は今来の人と呼ばれる直系が多いから、この辺りも鍵になりそう。
相模出身とある義淵は、素性は丸子部で、氏は大伴、阿倍、藤原の説などあって確定してないようです。沼津市内の丸子神社もこの辺りから気になっています。
あと、笠氏との関係は不明ですが「笠原氏」。
ムサシ国造の笠原直使主の同族争い、ヤマト朝廷(大王)が仲介に入り、この後ムサシは2分され今の横浜辺りはヤマト直轄の様相。毛野も含め大きな古墳が作られなくなる時期に入る。(安閑27の頃?、古墳からはAD400過ぎ)
と、この辺りも妄想の範囲。。
stanさん
>庵原君臣のその後(白村江以降)はなにか情報ありますでしょうか。
#残念ながら一般的なことが殆どですが。
『新(選)姓氏録』によると
庵原氏は「笠朝臣同祖」で、(第六代孝霊天皇の皇子)「稚武彦命の後」裔で、その子である吉備武彦命が日本武尊の東征に従い、その後その功により庵原国を賜ったことがわかります。
その子・意加部(おかべ)彦の時、庵原国造に任命されて、この地を本拠としたわけですね。
『旧事本紀』「国造本紀」では、
庵原国造の祖は、「成務天皇・池田・坂井君の祖、吉備武彦命の子、意加部(おかべ)彦命」とあります。
<この間に白村江>
『続日本紀』の記述には、
天平年間 正八位下で駿河目(さかん)となった川原田宿弥忍国(おしくに)が、駿河国の朝集使として国府の公文書を平城京の中央政府に届ける際、随員として(庵原君臣一族と思われる)庵原君足礒(いおはらのきみたるいそ)を伴っている、ことが見えるようです。
<『東海道と人物』静岡新聞社刊 参照>
『庵原公系図』によると
庵原君臣の子・大蓋(おおがさ)が、大山上(のちの正六位上 相当)の位階をもち、「国造」に任じられ、孫の首麻呂(おびとまろ)は、庵原郡大領となり、神護景雲3年(769年)に駿河国内の祭祀を司る律令制下の新国造となっている。
<『静岡県の歴史』山川出版社 参照>
庵原公有子らが朝臣の姓を賜ったのは、承和二年(835年)10月。
同祖の笠臣は、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に際してすでに朝臣の姓を賜っておりますから、遅咲きです。
『続日本後紀』承和2年2月条で、庵原公有守が遣唐訳語に任じられています。
有子も遣唐訳語ですから、律令期の彼らも外交畑で足跡を残していますが、やはり遠江以東の東国ですから、中央での活躍はなかったようです。
時代は下って、
鎌倉時代、頼朝に仕えた庵原左衛門尉朝綱は、庵原郡西方に居住していましたが、子孫は今川氏に従属して代々家老職を務めています。永禄12年(1569年)今川氏没落後、一族は武田氏に属し(武田方駿河先方衆として朝比奈信置の配下)、後に相模北条氏に仕え、北条氏滅亡後、子孫は徳川氏に仕えて、水戸藩士や彦根井伊家臣(庵原八郎右衛門)として名を残しています。
<『静岡県民のルーツ研究』渡辺三義 参照>
武虎
>伊豆方面にお越し下さるのでしたら、当地手配は任せて下さい。
#お忙しい中、ありがとございます。
>1泊2日(ホントは2泊欲しいところですが)の場合、
#そうなんです、特に遠方からですと、丸一日ゆっくりの日がないと、もったいない。
とりあえず現在参加予定の3人は2泊で調整しております。3連休は外したほうがよさそうですね。
魅力的な案の提供ありがとうございます。
1から18まで全部、は無理とは思いますが、絶対外せないのは、
>4.当店 千本一にて食事
http://homepage1.nifty.com/numazu-daisuki/
>5.夜中までガヤガヤやって、何処かで宿泊*
の、この2つ。次に近場の神社でしょうか
夜中までガヤガヤすると、そのまま雑魚寝でお店に1泊はお世話になるのが楽しそうです。日曜がひっかかりそうですが、お邪魔にならないでしょうか。
あと1泊は「古びた旅館」が個人的には好みです。
運転の方は任せて下さい。KENJIさんと、私も車の方が便利ですので最低2台になります。
s_tan
宿泊は人数と予算でいかようでも。
狩野川の夜景が綺麗な東急ホテルで7500円
温泉地のB&Bで6500円
千本浜の古びた旅館の素泊まりで5000円
当店の雑魚寝で0円(風呂の設備無し)
(沼津インターのブティックホテル利用という手?もあり)
といったところでしょうか?
男女別人数が確定すれば、こちらで手配しますが、
3連休の時は混み合いますのでお早めに。
日程は、9月の上旬の台風シーズンを除けば
いつでもいいと思います。
武虎
伊豆方面にお越し下さるのでしたら、当地手配は任せて下さい。
(但し、車の運転を除く。愚生は無免許ですので。)
1泊2日(ホントは2泊欲しいところですが)の場合、
昼過ぎにJR三島駅に集合できるのでしたら、
1.伊豆箱根鉄道で、修善寺へ、本殿、奥の院*(正覚院・駆籠の窟)を訪ね、
2.車移動で、伊豆長岡の葛城山(ロープウェイ登頂)
3.その後、長岡の日帰り温泉で湯に浸かり、
4.当店 千本一にて食事
http://homepage1.nifty.com/numazu-daisuki/
5.夜中までガヤガヤやって、何処かで宿泊*
翌日は、
6.早朝強硬軍可能なら、(丸子、楊原、大朝、玉作)の近場式内社を巡ったあと、
7−1.大瀬崎を中心に西伊豆海岸沿いの古社を訪ねるにいく
(下の15の横穴群ならびに12廣瀬神社と合わせて?)
7−2.JRで熱海に行き(沼津駅から19分)、伊豆山神社と来の宮神社参拝
(来の宮神社は、禁酒祈願と大楠−楠は古代の船用材−で有名)
7−3.富士宮浅間神社参拝(山宮まで行くか?あるいは、
式内 倭文<シトリ>神社−本殿はなく代わりに磐境がある−)
のどれかを選択し
8.三島に戻って(沼津駅〜三島駅間JR5分)
帰り時間に余裕のある人は
9.三嶋大社参拝して、
解散
このほかにも
11.沼津御用邸(当店より車で8分)
12.三嶋大社の先祀地説のある式内廣瀬神社(15のエリア内)
13.沼津市背後の愛鷹山(元富士)旧石器時代遺跡
14.静岡・清水市(沼津から静岡JR1時間)の庵原国古墳群
15.沼津市江の浦、函南町柏谷、伊豆長岡北江間、大仁町等の横穴古墳群
(横穴古墳は、伊豆では顕著な墓制ですが、北江間横穴群は計101基が
柏谷では、106基が確認されている一大横穴群だそうです。一部中にも入れる。)
*修善寺奥の院探索の代わりに選択することも可
16.日本100名水の柿田川湧水群(当店より車で15〜20分)
17.原の松蔭寺、三島龍澤寺、など白隠禅師ゆかりの地
18.源氏一門雌伏の故地
等、ご紹介したい(と言っても自身未訪の地多し)ところはてんこ盛りです。
武虎
武虎さん
>海岸から本殿真下まで続くと言われる洞窟に入ってみたいものです。
#白浜神社、忘れるほど大昔に寄ったかも知れません。おぼろげな記憶だと洞窟は干潮の時だけ入れて、しかも一般は立入り禁止、だったような。。。全くの記憶違いかも知れませんが。。
女郎山に寝姿山、ほんと出来過ぎですね。寝姿山の先に平氏ヶ山というのも見つけました。後で地図3Dソフトで確認してみます。
伊豆山神社・岩戸観音。修善寺・駆籠の窟。この2ヶ所でそれぞれ1日は必要ですね、見るだけで。
沼津近くにも有名な断層がありますが、伊豆は地下地殻に強圧のかかった場所で、このあたりも熊野に似てますね。
伊豆国の式内社、見直してますが、見るほど興味が疑問が湧いてきます。
伊豆山中に「枯野」「筏」の地名。加納も目に付きます。
船といえば、鎌倉時代に大陸からの僧(建築家)が鎌倉で大船を造ったが浮ばなかった、というのがあった。
鎌倉の場合、海岸の遠浅のせいか設計の悪いせいか判別できませんが、伊豆・戸田で幕末の頃、見よう見まねで洋式帆船をつくれるということは、応神15以前からたぶん続いていた、造船の技を含めてインフラがあったということですね。
伊豆国の式内社を見ると、葛城・鴨氏が圧倒的で、たぶん葛城氏(奈良葛城地元では葛城王朝と言ってます)は、雄略21の時、本流が大和を追われてると思うので、その頃、伊豆か土佐あたりに本流が流れたのかも知れないですね。流れたといっても故地なのかも知れませんが。
駿河国に近い辺りでは、安倍氏の流れと色々氏族の入れ変りが結構激しくあった気配が強いよう感じます。
卜部の配置は、潮流の流れが行きつくところイメージでは呉の水軍でしょうか。ただ卜部は蘇我氏の頃、(再)編成された様子ですが、それ以前からボクトの痕跡が東海から房総でポツリポツリ見つかっているようです。三浦半島の洞窟遺跡なども縄紋から古墳まで続く痕跡が見つかっています。
救将・庵原君臣。遠征した水軍が壊滅して、その後、おそらく万単位の引揚者・亡命者を輸送できる水軍力が列島にあったということです。すごいと思います。
俺原は「廬」の字らしいですが、廬、盧、蘆、はどれも草庵というか「葦」とか「移動に対応する簡単な家」という共通部分があるようです。
JISに無い漢字でイオリ「今酉皿」を積み重ねて1文字、漢字からの連想もおもしろいです。
庵原君臣のその後(白村江以降)はなにか情報ありますでしょうか。
かたばみさん、▼↓ ▲↑
>場所と日取りはKENJIさんとstanさんにおまかせ。
>原田さん、はじめまして。料理は原田さんにおまかせ(^^;
#日どりは、遠方の方優先ということで。。
あと、「場所」も「料理」も「武虎」さんにお願いした方が楽しくなりそうです。
武虎さん、
いかがでしょうか、まだ、日時含めてお願いする状態ではないですが、ある程度決りましたら、どこか適当なところお願いできますか。
時期は夏休み終了から秋の行楽シーズンの間くらいでどうかなと考えてるところです。
KENJIさん
ということで、いかがですか。
− 掲示板にお越しの方へ −
静岡県・沼津市、行ってみようかと思われる方。居られましたら。
この掲示板か、「 stan 」まで、ご一報ください。
話半分、史跡半分になるでしょうから。一泊ですと、観光は、三島・沼津市内の神社になると思います。
s tan
stanさん
> どこか洞穴と結びつく社はあるでしょうか。下田の白浜神社は有名のようですが。
# 白浜神社は、西条秀樹の結婚式で最近話題を呼びました。
地名が「原田」ですから何だか親しみをもつのですが、まだ未参拝です。
海岸から本殿真下まで続くと言われる洞窟に入ってみたいものです。
地図を拡げると、
社殿から南東の方角に、ほぼ一直線で女郎山(花郎ではありません)
そして寝姿山と結ばれます。夏至の朝日が洞窟に「射し入る」とき、
その後背彼方に、「女郎」の「寝姿」が横たわっていたとしたら、
出来過ぎですね。
大瀬神社(引手力神社)とは違って、やはり姫っぽいお社です。
洞穴はいっぱいありますが、(富士山も洞穴だらけ)
見逃せないのは熱海の伊豆山神社でしょう。
伊豆山裏側の岩戸観音も修験道の修行地であった洞穴だそうです。
空海は役の小角の故地を慕って伊豆に足を運んだのでしょうが、
伊豆山神社も、元は真言宗の寺だった修善寺(奥の院、駆籠の窟)も、
山岳系の彼ら達の足跡をたどると、洞穴は多いですね。
穴と言えば、鉱物。土肥(とい)金山も、西伊豆です。
伊豆・箱根は関東の熊野だったのです。
駿河の式内社22社、相模が13社、武蔵が44社であるのに対して
伊豆に92社も式内社が鎮座し、名神大も多いのは、ホントに不思議です。
「延喜式」において、神祇官に属する卜部の定員20について、その任命が
「伊豆5人、壱岐5人、対(島)馬10人」とされていたのも謎ですね。
大瀬崎の南に戸田(へだ)という村があります。
タカアシガニという世界最大のカニが捕れる不思議な村ですが
戸田村立造船郷土資料博物館という博物館にヘダ号の模型が展示されています。
幕末の頃、近海でのロシア船大破を機に日本初の洋式帆船として
建造されたのが、この戸田村のヘダ号です。はるかに遡れば、
「枯野(からの)」と呼ばれる大型船が伊豆から天皇に献上された記録が
日本書紀に見られます。また、白村江の戦いの水軍総大将は、
当時伊豆が所属していた駿河の国の豪族、庵原君臣(いおはらきみおみ)でした。
戦国時代の伊豆水軍の根拠地三津(みと)(沼津市内)にも、
式内社長浜神社が鎮座します。
西伊豆堂ヶ島には、加山雄三記念館が近年オープンしましたが、
伊豆を語るとき、「船」は(「穴」とともに!)ポイントなのですね。
延喜式で壱岐・対馬と並んで伊豆の名が上がるのは、きっと
黒潮で大昔から結ばれていたのでしょう。
宮崎県の同業者(日本料理店)と話していると
全く風土が共通します。黒潮文化圏なのです。
原田武虎
>3003mの「雄山神社」ガスがかっていたとすると、なにか「もやもや」が写っていたりしたり。。ない?
残念ながら何も無かったですね。(爆)
>遠方の方(KENJIさん)の日時に合わせる様にしたほうが良さそうですね。
私は土日でしたら何時でも結構です。
勤務地が工場ですから、祭日は殆ど出勤に成りますので、むしろ、出にくいですね。
もし、関西方面(又は中間地点)から参加される方が居られましたら、
多分、車で行きますので、一緒に行けるのですが、何方か居られますでしょうか?
連絡を頂ければ、同行致します。http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
KENJIさん 無事ご帰還祝着^^。
3003mの「雄山神社」ガスがかっていたとすると、なにか「もやもや」が写っていたりしたり。。ない?
いり豆の会は、遠方の方(KENJIさん)の日時に合わせる様にしたほうが良さそうですね。
その前に近場の人間で斥候します。
沼津びいきの、>アスベルさん
おじいちゃんおばあちゃん、人と食べ物がよくて景色気候がいいとくると、これは通わないといけませんねぇ。
靖国、まあもっと取上げるべき問題を逸らしている問題、でしょうか。
クリントン女性問題の時、米国民の捕え方が、国政の能力とソレとは別問題、という風潮が列島にも欲しいですね。
個別には、原田さんの1〜5、シンパです。
「ヘラサカ」「ナラサカ」よく分りません、が場所の設定が違うのでは。。
原田さん
>1時間前にご連絡下されば、いつでも、ウェルカムです。
#ありがとうございます。
>個人的嗜好や伊豆国風土とは無関係の誤字です。あしからず。
#実に含蓄のあるコトバです ^^。
新羅花郎は欽明の前辺りからといわれるようですが、女装と幡、それと船が沼津では表にでてるのですね、北方騎馬と南方船の合体でしょうか、それともあくまで船がメインかなぁ。。
どこか洞穴と結びつく社はあるでしょうか。下田の白浜神社は有名のようですが。
邪馬壹国時代の九州情勢推定図です。
女王ともみえる巫女が登場するなら、邪馬壹国の位置は母系文化の影響力の大きい地域であることがまず最初にあると思います。
弥生以降で外国文化(父系文化)の影響の大きかったであろう九州北岸と西岸は除かれる。
次に、東に海を渡ると別の倭種の国があるということで、近畿は除かれる。
残る地域は九州東岸〜南岸か四国東岸。
その地域で規模の大きい遺跡のある地域なら、延岡、西都、宮崎、すなわち日向の他にはないでしょう。
あとは魏志の方位や距離とかけ離れることがなければ決定・・(^^;
距離に関しては魏志韓伝の朝鮮半島の話と朝鮮半島〜対馬〜壱岐の距離から魏志のいう1里が80〜100mあたりであるのは間違いないと思います。
旧陸軍の歩兵の速度は1日24kmとされていますがこれは条件の良い場合の最大速度だと思います。
末廬国〜伊都国でさえ草ぼうぼうの道、弥生街道であっても平均ではその半分の1日12km程度と推定。
山谷越えの獣道ではさらにその半分の1日6kmあたりとみます。
紀貫之の土佐日記に土佐の大津から大阪の淀川に至る約280kmの航海で39日かかっています(934年)。
帆のある船だけれど帆をまともに使えたのは1日だけで実際に航海できたのは12日だったようです。
水行の場合は天候に左右されることが多く、紀貫之の場合は所要日数の2/3の27日が待機日数だったわけです。
船の平均速度は23km/日となります。
また1976年の野性1号の実証航海では1200kmを47日間ですが、実際には相当部分を曳航されたりしているので実際の航海距離は2/3とみれば17km/日あたりの平均速度になります。
この頃では20kmごとに食事と睡眠のできる仮泊地があったのではなかろうか。
(対馬海峡横断の場合は必死の全力疾走でその漕ぎ手はバタンキューで翌日は漕げない(^^;)
投馬国が水行20日であるなら好天15日で18km/日なら270km、大分付近。西岸であれば川内あたり。
沖縄のサバニのごとき快速帆船なら順風好天なら4日の距離ですが、弥生末期には南西諸島を除いて日本の帆の技術はほとんど失われていたとみています。
はっきりと帆を表現した絵が登場しないからです(補助的な帆はあったでしょうけれど)
「鳥船」の呼称もこのころに伝説へ変化していったのではないでしょうか。
投馬国を大分とすると邪馬壹国へはさらに水行15〜20日くらいで到達できるから水行40日としてもよいのだけれど、魏志では日数的に同等であった古来からあった別ルートを記載したと推定。
すなわち、自説の天孫降臨ルートそのものです(^^;
久留米あたりから川船に乗って筑後川を遡航、阿蘇山麓の小国あたりまで水行10日。
で、高千穂から山谷越えのやぶこぎ道で延岡〜日向へでる。
いったん有明湾へ出て菊池川を遡航して高千穂越えも同等です。
唐津〜久留米の陸路とを合わせて陸行は30日といったところになります。
卑弥呼の住所が延岡か西都か宮崎かはなんともいいにくいです。
西都には大きな集落遺跡がないのに古墳はたくさんある。これがなにを意味するのか・・
神武が建国し、孝昭105-137以下が継承した九州倭王朝の総合霊園がここにあった(^^;
倭国争乱(150〜250頃)の戦死者を船で故郷に送って祭祀をおこなった場所、それが西都原。
戦死者の霊を鎮魂するのが卑弥呼の鬼道の目的だったのではないか・・空想中。
九州倭王朝の精神的中枢は天孫の源郷である日向にあり、近畿ヤマト王朝ができてからも故郷に葬られることを望む場合はそれが行われており、舟形埴輪はその航海を表現したものと考えています。
(近畿の墓の石室に阿蘇の石を使ったりするのも同じでしょう)
ps.靖国問題
勝者にも敗者にも悲しみを生むのが戦争。
英雄や戦犯は勝利あるいは敗北と政治的思惑が生み出すもので、戦没者への哀悼の感情とはまったく異なるもの。
理由はともあれ歴史の流れの中で「戦犯」となった以上は戦犯への鎮魂はその国家が扱うべきではなく、各個人の考えによる行動に委ねられるべきと思います。
本来「靖国神社」は国内のある地域の戦死者(例えば藩単位)を鎮魂するシステムが明治維新によって日本全体を統括するように拡張されたものと認識しています。
その国家が解体し「戦犯」が生じても旧態の思惑を引きずっていることが一番の問題だと思います。
外部からの力でそれを改革してもしこりが残る、靖国神社自らがやらねばならぬ改革だと考えています。
世界の中の日本地域の戦没者鎮魂の場として。
かたばみ
≫何処かの温泉でも集まり、一晩、歴史の取り留めの無い話に花を咲かせたいですね。▼↓ ▲↑
≫関東関西の中間だと、長野か静岡あたりでしょうか。
≫会場が静岡方面になるのでしたら、是非、沼津港の当店「さかなや千本一」にお立ち寄り下さい。
場所と日取りはKENJIさんとstanさんにおまかせ。
原田さん、はじめまして。料理は原田さんにおまかせ(^^;
かたばみ
新羅花郎を女郎と書き違えてしまいました。
個人的嗜好や伊豆国風土とは無関係の誤字です。あしからず。
KENJIさん
いり豆の会へのご推薦を受けとめて下さり感謝します。
「天手力男命」といえば、当地の式内大瀬神社の御祭神でもあります。
当社は春の例祭が勇壮でしばしばTV報道もされますが、見所は各地から
参集する祝い船(漁船群)です。祝い船の男達は皆女装をしているところが
新羅の女郎の様で興味深いです。
アスベル生きていたかサン
当店をいち押し下さり心より多謝。
「靖国」の問題はねじれがあるのでズバリとコメントしづらいですね。
過日の「朝まで生TV」でも、友人と叔父がゲスト参加して激突していたので、
ウンザリでした。愚生としては、
1.隣国からの批判は、@政治的意図に基づくか、A誤解に基づく、
或いはBある政治的意図が誤解を煽っている行為なので、断固、対峙すべき。
2.首相の8/15参拝は、歴代「演出臭」があるので、(ねじれるから)
止めて、キチンと例祭参拝こそを求めた方がいい。
3.東京裁判の是非と参拝の是非は、混同して論じるとねじれるので
注意する。(8/15に拘るから混同しがち)。例祭参拝と宗教分離問題は、
冷静に議論すれば、国民にも隣国にも理解を得られるはず。
4.そもそも刑に服して潔く絶命した人物を死後もあげつらう行為が、
同胞内にもあるのは、日本的心性の摩耗衰弱現象とは言え、悲しむべき。
5.一方、「国事に尽くした英霊」の判断が、当初から「ねじれ」ていた問題。
「神道を結果的に壊死させた(かけた)のが明治政府の宗教政策」と
考える愚生にとって「靖国」は、どうもしっくりこない聖域なのです。
stanさん
新参の「いり豆の会誘致」提案をご評価下さり恐縮です。
> 伊豆国といえば、(中略)この辺りの理由をある程度つかんでから
> 探索に出かけたいと思っています。
#是非お願いします。愚生は、たいがい本店周辺にいます。お見えになる
1時間前にご連絡下されば、いつでも、ウェルカムです。
某所よりふらーっと訪れましたが、あらら、原田さんおひさです(^_^
沼津はいいとこですよー。
おじちゃんもおばちゃんもやさしかったし。
お土産の塩辛や酒の肴のカワハギも好。
めんたいフランスパンも、ほんとのメロンパンも好。
小野シンジファンの私としては、彼の出身地でもあったり(笑)。
他に沼津から熱海までの電車の車内、とあるおばさんの身の上話を聞いたり。
懐かしい日々ですね〜。うん。
もちろん、「さかなや千本一」もお奨めですっ!(強く)
さて、かなしい哉、最近は古代であそぶ機会も減りな私ですが、
関連ありそなの「靖国」ですかね?
というか、あれは近代なのかなあ。。
一応、みなさん的にはどう思われるのかとか、素朴な問いかけを。
あと、明日こちらのサイトも一周年記念なので、
お知り合いに描いて頂いた「ヘラサカの少女」というのをUPしようと思ってます。
崇神帝のころ(以下略)の少女ですケド、ご存知の方、いらっしゃいますか?
ところで、この「ヘラサカ」。
ホツマ伝では「ナラサカ」なんですよねー。
この違いはどこから来るものなんでしょうか?
木元さん辺りが当掲示板をチェックしておられるのなら、ご返答頂きたく。
その他の方にも、是非考察を頂きたく。
さあ、古代らしい問い掛けが出来たところで、ひとまず(笑)。
(あ、冗長に書けていいですね^^この掲示板)http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/
昨夜0時過ぎに無事、帰りました。
立山の「雄山」(3003m)頂上の「雄山神社」にも参拝してきました。
生憎のガスの中でしたが、写真は整理出来次第、メールにつけて送ります。
雄山神社は「伊邪那岐命」と「天手力男命」の、二柱の神様を祭っていました。
「伊邪那美命」は、何故か祭られていませんでした。
富士山と白山は女性の神様ですが、立山は男性の神様で、「雄山」と、言うそうです。
少し強行軍な所も有り、今日は足が「イテテテ」状態です。(爆)
原田 武虎さん、いり豆の会のご推薦有難う御座います。
一度は実現させたいと思っていますので、お力添え頂ければ、有りがたく思っています。http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/
原田さん、こんにちわ。ご案内ありがとうございます。
「さかなや千本一」行かせて戴きます。hpへお邪魔したのですが、豊富な内容、驚きました。桜エビのかきあげはぜひ一度食べてみたい。
原田さんは、いつもはhpにある沼津港本店におられるのでしょうか。ふらーっとお邪魔できるかも知れません。
伊豆国といえば、意識して参詣したのは三島大社だけです。なぜ100社近くも式内社があるのかが未だ分りません。箱根の西の位置以外に理由があると思いますが、この辺りの理由をある程度つかんでから探索に出かけたいと思っています。
>ログキャビンに泊まって、焚き火しながら秋の夜長、という手(ちょっと寒いか?)もあります。
#これもいいですねー。海と焚火とくると、海の幸バーベキュー。。昔の海の民の話で盛りあがりそう。
{低−人}テイについて、前回、場所にちとこだわった訳を少し。▼↓ ▲↑
言葉、文字は
>言葉自体は時代とともに動いたり、使う人により深い意味が隠されていたり、なので。細部までの確定は難しいですが。
#が基本スタンスですが、
{低−人}の語源というか成立ちでは、氏(シ)が崖の張り出した今にも崩れそうな崩れると遠方までその音が響くような場所を表し。{一}はその下の位置を表す。のが漢字の成立ち。(漢辞海抜粋)
氏も{低−人}も巴蜀というか、河で深くえぐれた地形を持つ場所に縁がある様子。{テイ}を使う時、その初めこの地形をイメージしていたのだろうと推測。
羌といえば、その昔、中原で羊を飼って暮してしたが、漢民族に追われ山峡での生活に変ったという伝承。
{サンズイ眞}テンは、トーテムが蛇と言うのが面白いところですね。銅器とも縁が深そう。月氏の流れのひとつらしいですが、その地方で何代も経つと優性遺伝というか、黒髪、黒瞳は強いから。。
蛇、銅器とくると文身イレズミですが、ヒッタイトの流れを汲むだろう西アジアの騎馬民族の北アジアの墓から凍った全身刺青のヒトが出てるらしい。
会場が静岡方面になるのでしたら、是非、沼津港の当店「さかなや千本一」にお立ち寄り下さい。
三嶋大社はもとより、廣瀬神社、丸子神社、玉作神社、楊原神社、大朝神社など、近隣は式内社の宝庫です。温泉は、伊豆長岡温泉が車で20分、修善寺まで30分です。
連休は混み合いますが、宿泊施設はピンきり豊富です。ログキャビンに泊まって、焚き火しながら秋の夜長、という手(ちょっと寒いか?)もあります。当店に宿泊設備はありませんが、雑魚寝なら10数名まで可能です。
訪ねて下さったのに不発だったアスベルさんや、木元さんもこれを機に、なんて勝手に思いついて宣伝させていただきました。
秋の冨士山は惚れ惚れするほど秀麗ですよ。http://homepage1.nifty.com/numazu-daisuki/
いいですね、そろそろ、どこかでとりあえず、やりましょうか。
距離と時間の解決からすると一般的に休日の続くあたりになるでしょうか。
お盆だと、田舎に帰らない方々は時間が取れますが、参加人員の拡縮に対応する宿が問題かな。お盆といえば、もう来週ですね。
次の休みは9、10、11月と3連休がありますが、この辺りでしょうか。
荻生徂徠ほどの罵倒はできないですが、
>一晩、歴史の取り留めの無い話に花を咲かせたいですね。
#これが、いいですね。
どこか鄙びた温泉で、らしい史跡があって、の場所が。。。
関東関西の中間だと、長野か静岡あたりでしょうか。
>そちらに何通も届いたウィルスメールはわたしのPCが勝手に、デリバリーしていたのでしょうか?
#いいえ、ご心配なく、知っている方からなら直接ご連絡しています。
どこからか、メールチェック(アスキーコードだけ)しましたが、不明のアドレスからでした。
stanさん、こうして、掲示板の参加者を拝見しますと、一度、「いり豆の会」を
実現したいですね。きっと楽しい物に成りそうです。
「いり豆の会」は、勝手に命名し、stanさんと私だけで通じています。
説明しますと、歴史作家の海音寺潮五郎さんが、短編集、乱世の英雄の後書きの中で
荻生徂徠の言葉を書いています。
「いり豆をかじりつつ古今の英雄豪傑を罵倒するのは人生最上の快事である」と、
荻生徂徠が言ったと伝えられるが、歴史に興味を持つ者にとって、たしかにこれは
楽しいことにちがいない。(以下略)
この文章を見て、英雄豪傑を罵倒することは我々には恐れ多いことですが、せめて
歴史の話を楽しむのは出来るのじゃないですか?
そんな話をメールでやり取りしている間に、勝手に「いり豆の会」と、名づけました。(爆)
何処かの温泉でも集まり、一晩、歴史の取り留めの無い話に花を咲かせたいですね。
この企画如何でしょうか?
皆さんのご意見を聞かせてください。
http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/