[# 掲示板書庫.04] 2000.5.9-  

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341、Re^2: 鳥居の原点?、 stan、、2000/11/08 (水) 23:44、。

> 奈良県橿原市の四条遺跡から出土した、鳥の形の木製品は

#鳥の形の木製品は弥生の遺跡からいくつかでてますね。堺の池上曽根遺跡出土の鳥を古代探訪のtop写真に使ってます。
鳥居の源というのと案山子とするのと2つの説があるようです。
鳥といえば鶏ですが,割と神社には多いですね。
鶏では,生駒東麓の往馬大社の追鶏祭(とりおい)神功皇后が半島出兵の際この宮に泊まり、朝出発のトキをあげる鶏が鳴かなかったので怒り川に流した。この鶏は下流の龍田大社でやっと拾い上げられたという。藤井寺の菅原神社でも道真が主人公で同様の話があります。

烏が神話にあるのは頭がいいというのが基本でしょう,古代の人は今より遥かに自然への観察が鋭かったでしょうから。
部族のカラー(白に対するかな)も大きそうな。

鳥居の形は,材料(木)を長持ちさせる工夫(雨水を溜めない木口を濡らさない)と強度を考えると簡単な門としては鳥居の形になる,のだと思います。


340 Re: はじめまして・・・。、 s_tan、、 2000/11/08 (水) 23:43 、。

いらっしゃいませ みじんこ さん

>このページには神社がいっぱいあるので。
>とても、とてもうれしいです。
#ありがとうございます。こちらも、うれしい^^。
神社探訪は,のんびりとしてますが徐々に増やしますので,またぜひいらしてください。

>おもいきって書き込んでます。
#ありがとうございます。お気楽に書き込んでください。知識は誇るものでも敷居を高くするものでもありません,ただ多くなってもそれほど邪魔にならない,といった程度のモノです。歴史,特に古代は推理できる幅が広いよくできた推理小説と思ってます。推理=あそぼ,です^^。

hp拝見しました。伊勢佐瑠女神社の"おまもり"まるくてかわいい,ですね。気がつきませんでした。

339、Re: あらら下間違ってる。、s_tan、、2000/11/08 (水) 23:42、。

アスたか さん^^。 こんにちわ

小旅行から帰って掲示板みたら、怒涛のup! ^^。 もう、カンヅメ状態?ですか

ワタツミのワタは,半島のpataパタの転訛だろうとの説がありますね。
縄紋から続く繁栄した港は海上から目立つ山(山アテ)を背負っていた共通点があるようです。
海中遺跡というと鬼界カルデラ以前の平底土器がソレ以降はぱったり消えているのが,,,追うと面白いそう。江戸期だったかには鹿児島沖の島が沈んだり、7cだったかに湘南江ノ島が浮いてきた、といった話がありますから海底遺跡は結構あるですね。
住吉のミツは,三津,美津,御津など表示がありますね。

>,,伝承ひとつ、言葉ひとつを考古学における出土品と同じ様に見なして
#です^^。


338、Re: 鳥居の原点?、かたばみMail、2000/11/08 (水) 00:07、。

> 奈良県橿原市の四条遺跡から出土した、鳥の形の木製品は

KENJIさん、こんにちは。
タイの山岳民族の門?の写真に鳥の彫刻が乗せてあって、これと同じ使い方だったんじゃないかと思ってます。
もし取り付け「足」が1本だとすると不安定に回ってしまうのではなかろうか。
でも、その使い方で思うのは風見鶏(^^;

平凡世界大百科によれば風見鶏(vane)の語源は旗(fana)だそうで、加えて鶏は東方から悪魔よけとしてギリシャ、ローマに伝わった可能性もあるらしく、興味深いところです。

空高く飛ぶのは人間の夢、中南米のコンドル、インドやモンゴルのガルーダ、陸の人々だとはっきり神聖な鳥ですが海の人々の場合はそれが船とも重なっているかもしれないですね。
AD250頃の呉には大翼、小翼と呼ばれる種類の船があったようです。

かたばみ


337、Re^2: 石鳥居、かたばみ、、2000/11/08 (水) 00:02、。

> 山形市の市村さんより石鳥居の写真を頂きましたので

最上の三鳥居の写真拝見しました。
丸柱のようですね。写真てのは正確そうでいてけっこう危ないなあ(^^;
ついでのときにでも鳥居の方位を教えてください。どの方位へ社殿に入るかはその神社の性格のひとつを表すのではないかと思います。
(街中だと道の都合のほうが効いてきそうですけど)

寺に鳥居があったかどうか、これ面白そうな命題ですね(^^)
「鳥居の研究」の内容は書かれた時代が時代なので「検閲」を回避するための工夫を感じます。 抜き書きするとそれがわかりにくくなりますが談話コーナーにアップします。


336、あらら下間違ってる。、アスベル生きていたか、、2000/11/07 (火) 06:54、。

なんか切りまぎわにタイプしたら狂ってしまった(^^;)
「おヒマな時にでもどうぞー!」
だよねぇ(ーー)
しかし藤村さんはやってくれましたねー。
上高はホツマ研究者にとっても大事なトコだったんですよね。
反面学界のずさんさも浮き彫りで、両方ダメージですね。
サキタマ県民としては小鹿のバンビが心配このうえないっす。

あ、みじんこさんいらっしゃい(^^)
ちょこっと見せて頂きましたが灰色ですねー(笑)
気がむいたらウチにもいらしてね。
ではまた (^-^)ヽ


335、ねつ造、アスベル生きていたかMail、2000/11/07 (火) 06:43、hp

間連記事置きました=!
おヒマな時んでもそうぞ。


334、はじめまして・・・。、みじんこMail、2000/11/05 (日)23:24 、hp

はじめまして。
みじんこといいます。
このページには神社がいっぱいあるので。
とても、とてもうれしいです。
あんんまし古代の知識がない・・・・。
ので、少々掲示板に書込みするのを躊躇しましたが。
おもいきって書き込んでます。
以後よろしゅうお願いします。



333、エンディング、『四万十しばてん争奪戦』のアスベル生きていたかMail、2000/11/05 (日) 16:38、hp

(下を受けて)
ただし一般人までこうした軋轢にとらわれる必要はないでしょう。

先に挙げた大野氏と松本氏の主張の様に、対立する もの同士を止揚することで、新たな史観が獲得出来 るんじゃないかと思っています。

何よりお話しとしてもすごくオモシロイので、もっと多くのひとに読んでほしいというのが率直な感想です。
全てを信じろというのではなくてね。

これはここによく書き込まれる方だけでなく、不特定多数の古代史ファンに対する言葉ですね。

では、とりあえず!(^-^)ヽ


332、追記の追記、 しましばの@、、2000/11/05 (日) 16:36、。

ホツマが偽書視される理由は「いろいろな疑問」で長谷川さんが概ねまとめてくれていますが 全てを無視される様な決定的な理由はなくて、(ご本人もおっしゃっている様に内容に踏み込んだ 偽書論ではありません)

むしろ内容が極めて合理的なため既存の学説に大きな影響を与えてしまうところ、また明治以降 に神仏が分離され、記紀なかでも古事記ベースの祭神をあわてて立て直した神社の現状−
(そうしないと神社としての社格がもらえず国から下附金がおりなかったそうです。神主さんも職業なのでこれは辛い。そのため地方の名もない社の神主さんは、教員と兼業したりでどちらが本業だかわからないくらいとか)
−にそぐわないところ、また合理に基いたホツマ側の攻撃的な姿勢が学界との軋轢を生む源になったらしいです。
だから公務員が「ある」と言った本を後で「ない」と言換えたりしてしまう。


331、●追記、しましばの@Mail、2000/11/05 (日) 16:34、。

あと、『ホツマツタヱ』についてですが、松本善之助さんの発見されたこの文書は 下記にある大野晋さんの主張の様な理由で学界からは異端視されて来たそうです。

http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/hotuma-sinsyo01.htm

しかしその大野さんも日本語のタミル語源説を唱えたことで、下記の通り異端視されてしまう。
http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/hotuma-singi-kouko-mame02.htm

けれどもそのふたりの主張が、その後の色んな成果によって見直されて来ている。しかもここに来て接点を見せ始めている様な兆しがある。個人的にはこの辺に知的興奮を感じています。


330、●あそび疲れて日が暮れて、アスベル生きていたかMail、2000/11/05 (日) 16:31、。

ふーっ @〜(ー。ー;)
精一杯あそぶとこんな感じですね。
ただこれ以降はカンヅメなのでキツイでしょう(涙)。

でも、折あるごとにこの掲示板を奨めてみようかなと思います。カキコ増えるといいですね(^^) なおネットを自由に使えるほどの時間も環境も整ってないので、何かあったらメール頂けると嬉しいです。
板のコミュニケって実は不慣れなのよ(^^;)

将来的には、何か具体があるわけじゃありませんが、 古代史をベースにしたもので、どっかで賞を頂ける ものが作れればと思っています。
そういう「こらぼれ」の機会があるといいですね。


329、下のつづき、、、 2000/11/05 (日) 16:29、。

>『祭り』の中に私達が読み取るべき『形』が潜んでいるのでは。

祭りとの関わりで言うと、これも上(下になってしまった^^;) に置いてますが神輿の「蕨手」のかたちが気になってます。
なんで渦なんだという。



328、●私の実家はモジ夫君の生地に近い。、Mail、2000/11/05 (日) 16:28、。

>Konさん
これだけの『言葉』を持っていた文明が『文字』あるいは『文字』 に替わるものを持っていなかったとする定説は受け入れることができません。
『文字』ではないとするならば『形』がそれに替わるものでないでしょうか。

ここでの『形』については下記に私見をまとめてみました
http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/hotuma-singi-uzu01.htm

なお神代文字についてはサイト「望夢楼」の長谷川さんとの 対話を掲載してあります(SITE INDEXから行けます)。
こちらもご意見募集中。アツイです(笑)。

で、正直なところ神代文字の有無についてはよくわからないですね。
ヲシデ(ホツマ文字)なんかは石に刻まれたものもあるらしいですが 年代等の具体を聞いてません。

先日『世界ふしぎ発見』でヨナクニ島の海中遺跡から出て来た石版にもV字や+字、また渦が刻まれてましたがああしたものがヲシデに直接するかと言えば、たぶん言えない。
要素は絡むので、間接的には言えると思いますが。
とどのつまり現状では「可能性は否定出来ない」というのが 精一杯な感じです。



327、下のつづき、、、2000/11/05 (日) 16:26、。

>言語学,というとちと頭が痛くなるのですが^^; 列島は式が複雑になりすぎて解がない,という事になるかも

もー全部はさすがにムリだと思いますよ(^^;
ただこれはどっかの受け売りですが、伝承ひとつ、 言葉ひとつを考古学における出土品と同じ様に見なして、むかしを偲ぶというやり方はある程度 有効な気もします。ハタなんかはそのひとつですね。


326、●HATAまさのりの指が心配(><;)゛、、、2000/11/05 (日) 16:26。
>Stanさん
ホツマでの鳥居、「ハタ」といえば伊勢の遷宮で御高機(織機)が納められますね。
[大宮売神社]は/k_otm01.htm#omm01
下記にジャンプを設けました。
ありがとうございます(^^)

http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/hotuma-reisyou09.htm

で、ここにもある通りワカヒト(天照大神)の奥さん連は のきなみ機織を仕事にしてたそうです。
ワタクシ的にはインド→日本という大野さんの流れに最近 惹かれているので、与太話しですが、ガンジーが英国から 独立しようとしたときに、自立の象徴として織機を標榜 したというお話しが面白かったです。
あれがインドのハタの真ん中にも置いてあるんですよね。
衣食住というくらいで、今もむかしもハタは大事だった んだろうと思います。
これが政治に反映されて、「万機の政」と言われたのも うなずける。



325、下のつづき、 @、、2000/11/05 (日) 16:25、。

一考の余地というのは『史記』は縄文より余程あたらしいので 天照の御代をそのまま受け取れば日本から中国というルートも あり得たということですね。
(この辺は『サイエンス・アイ』で、センセが土器について同 じことを語っていました)

ともかく中国のカラス=太陽が地上の聖王の意向により撃ち落 とされる一方、日本のカラスが太陽神に派遣され、地上の聖王 =神武帝の覇業をたすけたという扱いの違いは、オモシロイと 思います。あそべたらあそんで下さい(^^)


324、 ●カラスであそぼ、Mail、2000/11/05 (日) 16:24 、。

(下を受けて)

あとはカラスの語源が邪悪な魂魄を 「枯らす」神であるとか。
この辺も前書いたので下記に置いときますね。

>また古伝によれば、カラスは不浄な魂魄を「枯らす」力を持つ鳥だからカラスと呼ば れる様になったそうです。神葬祭において死者の周囲に配されるカラスは、死者の 霊に近づこうとする不浄なものを枯らすためであるとか。
日本のカラスが鴉やCrowと違って神聖視されたのは、ここが由縁かもしれません。

他にカラスについては下記を追加します。
>太陽のなかに3本足のカラスがいるという伝説があるそうです。
転じて烏=太陽の意味もあるとか。カラスは太陽の精なんだそうです。
となれば天照大神がカラスを遣わすというのも、由縁があるわけですね。
また「烏兎(うと)」で太陽と月を意味し、後者が月にウサギがいるという 伝説から来ているのだから、前者は黒点をカラスになぞらえたのかもしれません。
神話自体は中国由来の様です。『小説 十八史略』(陳舜臣著 講談社)の 1巻冒頭を読むと『史記』のエピソードが載っていました。
ただ詳しく見ていくと、これにも一考の余地がありますね。
ちなみに烏帽子もカラス由来な気がします。


323、●鳥居であそぼ2、 @、、2000/11/05 (日) 16:20

最近ひとから頂いた資料にホツマにおける鳥居の起源がコンパクトに載っていました。 こちらへ転載しましたので、ご参考下さい。
http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/hotuma-reisyou12.htm

後は日本の鳥居の特性というとそれが集落等に通ずる単なる門ではなく神域 への入り口にあるということかな‥(’’? なんて思いました。

甕腹がいつごろ鳥居についたのか私は不明なのですが、鳥居ないし鳥と 死者との関わりは重要みたいですね。
『言霊ホツマ』という鳥居さん(笑)の本にはヤマトタケの葬儀に際し色んな鳥の姿を擬した人々が葬列に加わった様なことが書いてあったと思います。

また朝廷に反した不忠の臣アメワカヒコは穢れているということで、その遺体が簡略 な鳥葬で済まされたとか。
彼にまつわる話しは下記に置いてあります。
http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/hotuma-reisyou04.htm


322、下のつづき、@ 、 2000/11/05 (日) 16:19、。

トン族なんかは「稲」が歌の端々に喩えとして持ち出されて いてこれもおもろいなーと思いました。
モソ族は女性が働き者で男性はひがなブラブラしてるとゆー 男性にとっては天国のよーな社会(こら)だったんですが、 案外この辺に母系の成立する条件が表われている気がしました。
♂♀の行動パターンと経済的な条件。生物学的なお話しかも。
狩猟と農耕、ないし兼業、どこをベースにするかとか。

ホツマなんかだと(こちらのSITE INDEXに載せましたが)タケヒト(神武帝)のツマでイスキヨリ姫というのがいます。
のちにタケヒトの息子タギシミミがこれに惚れて、父にください と言うと、彼はあっさり譲ってしまう。

イスキはこれを否むんですが、それはさておきこういう社会で女性が身を守るために、自分に連なる血族社会を構成していくというのは、生き物として成り行きかなあという感じがしますね。



321、●母をたずねて三千里、@、Mail、2000/11/05 (日) 16:18 、。

>かたばみさん
母系社会ができあがる。

母系社会と言えば折よく3日の読売に記事が出てましたね。
千葉茂原市の下太田貝塚、縄文後期中葉(約3200年前)の土抗から出た人骨40体のうちDNA抽出に成功した13体、さらにそのうち7体が同じ母親。そんな概略。
40分の13分の7なのでこれで母系と言うのもどうかなと思いますがセンセ的にはたぶん他にも例があるんでしょう。

父系母系はセンセの間でも諸説あるそうですが、土曜に 「世界まる見え!」でこれまた折よく中国南部の母系 民族を紹介してました。貴州省のモソ族という方々。
オモシロイのは同じく紹介されていたトン族という 方々で、その風習は歌をやりとりしつつ男女の恋情を 交わすというもの。ちょっと相聞歌でニヤリです(^^) (あ、ちなみにトンは母系じゃないみたい)



320、下の補足、アスたか、、2000/11/05 (日) 16:16

※あとこの辺についてはこちらのサイトの
●SITE INDEX →「いろいろな疑問」
にあります。おヒマな時にでもどうぞ。

そだ、あの辺の記事をここに抜いて意見 くれてもいいですよ。
その方が「こらぼれ」ぽいかも(^^) 私はあまり本読まないので、あの辺で 出てる長谷川さん指定の本に当たれる 方がいたらご意見伺いたいし。


319、下のつづき、アスたか、、2000/11/05 (日) 16:15、。

>この仮説は北アメリカ大陸でモンゴロイドより早い時代のコーカソイドと 見られる骨格が発見されたことからの発想です。
コーカソイドの方が先にベーリング海峡を渡っていた、ということ。

これはたぶんNHK教育で最近やってた様な気がします。
いわゆるインディアンの末裔には面白くない発見で、政治 的な理由から細かい研究が出来なかったとゆー‥ (ホツマも宮内庁書陵部とのアレでなんやかや あるそうですが、いずれも困ったもんだ^^;)

私は彼らに「アイヌが一番近い」という話しを憶えていて、 別な番組でプレインカ文明(だったかな?あいまい)の シカン王の墓からもアイヌ型の人骨が出てきたという話し から、日本にいた連中、ないし経由した連中、引いては その付近にいた連中(おいおい^^;)のなかで向こうに いったカタがいたんだろうなと感じてます。
その程度については未だわかんないですけどね。


318、下のつづき、アスたか、、2000/11/05 (日) 16:13、。

時代については住吉神=カナサキが 天照大神=ワカヒトの命を受けた時代かな、 と私は思いましたが、あそこは神功皇后時代 との間連が深いらしくてその辺りではと 先方はおっしゃってました(祭神ですしね)。
書紀をみると確かに先のトリオと関わり深いですから そうかなあとも思います。あるいはその頃既にカナサキ 以来の伝統があったのかも。

ちなみにホツマでは「神」にふたつの概念があって、 いわゆる観念的な神と貴人が称えられたり死んだり (「神上がり」と称される。日本的な表現) してそう呼ばれる場合があります。
住吉トリオは前者なので、ホツマでも後裔は いませんでしたね。

※あと、この辺はもっと詳しいひとにいずれ聞いてみますね。
間違いがあったらご免ください。


317、下のつづき、アスたか、、2000/11/05 (日) 16:13、。

>他には有名な底筒之男神、中筒之男神、表底筒之男の別名ともされる 底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神がいますが神様どまりで 後裔はみあたりません。

住吉トリオ(笑)については、古代史に何の興味もない ころ住吉大社に行ったことがあるのでなんか懐かしいです。
手前が公園になってて、あそこがその昔海だったとか。

彼らについては先日 日本翻訳センター (ホツマの訳文をUPしている会社。私のサイトの LINK LIST1の頭にあります) の高畠さんにお話しを伺ったときにも出てきましたね。

面白かったのは天平時代かいつか(この辺不誠実な 遊び人‥へんな表現)の古地図を見ると、住吉大社 の前にはみっつの入り江に津=港があるんだそうです。
で、住吉大社とゆーのはこれら三つの津を治める ために建設されたのかもしれないですね、みたいな 話しになりました。


316、下のつづき、 アスたか、、2000/11/05 (日) 16:11、。

あとホツマには船(空中を飛ぶアノ船ではない^^;)の発展 に関する記述もあって、彼らが優れた航海者であったことを 示してくれていますね。
いわゆる大国主も、ホツマでは船に乗って津軽へ去った みたいですから。この辺下記に置いときましょう。 http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/kushikine.htm

ちなみに私見では、出雲と津軽のことばの近似がホツマ的には オイシイなと感じています。「国譲り」で説明できちゃうから(^^)


315、下のつづき、アスベル生きていたか、zad36995@sky.zero.ad.jp、2000/11/05 (日) 16:10、。

あとこないだの「発見」では青森と同型の土器がバヌアツから出たとゆーのが 面白かったです。東北とここまで繋がるか!みたいな。

拙考では大野さんの説とホツマを合わせて考えると、インド→日本という 流れがあったのかなと考えてます。
(こう書いたときに注意しないといけないのはそれが全てでないということ でしょうか。先の南北でもそうですけど分類した途端に相容れない ものになってしまう感じがあるから。真・偽とか、縄文・弥生の2項も)

根拠はホツマのそこかしこにある整合性もそうなんですが 最近だとさっきの土器とか『サイエンス・アイ』で見た縄文 時代に稲作があったらしいという話しとか。
(中国・朝鮮系の温帯ジャポニカ以前の フィリピン・東南アジア系の熱帯ジャポニカという流れ。 中国南部→南西諸島→縄文人というルートが成り立つみたい)。


314、下のつづき、アスベル生きていたか、zad36995@sky.zero.ad.jp、2000/11/05 (日) 16:09 、。

>現在「オーシャノイド」という仮説を考えています。コーカソイドに対応する人々。

先日『世界ふしぎ発見』でヨナクニ島の海中遺跡のことやってましたけど、 ああいうのを見るとここでいうオーシャノイド(語呂いいですね。気に入りました^^) はもう定説なんじゃないでしょうか。少なくともユーラシア南岸から南米まで ダイナミックに動き回った連中がいたことは確かでしょう!(丸尾クン調に) そうそう、人類の起点をアフリカとするとマダガスカルなんかもオモシロイですね。
稲作かなんかしてなかったかな?あそこ。

日本人の起源については『POPな古代史』とゆー本で沿革見ましたけど もー百家争鳴で(^^;)
ただ北方人基層説と南方人基層説とゆー単純な対立軸があって、いまは これをどう折衷していくかという辺りが課題なんだろーなと感じました。
オーシャノイドはそのセンでイケると思いますよ。


313、●海は広いな大きいな、アスベル生きていたかMail、2000/11/05 (日) 16:05、。

>かたばみさん
星神についてはなにもお役にはたてないですけど、 大綿津見神、大山津見神などの「津見」は本来は星の意ではないかと空想しています(^^;

いちおーホツマツタヱを標榜しているサイトの管理者なので(^^) ホツマ的なお答えをしてみます。
とはいえ本格的に詳しいわけではないので、沿革をば。

オオワタツミとかオオヤマツミはたしか 「ツ」がいまの「の」にあたる言葉で (格助詞というらしいです。地名だと中津川とか下津井。
神名だと家津御子大神とか。前者は一音多義で港の意味もありそう) 「オオ」を略すとワタツミ、ヤマツミと読めますよね。

ワタツミなんかは「聞けわだつみの声」のアレでたぶん海の神 なんでしょうが(そういやワタってなんだろ?)、 ヤマツミは「山(の)見」で山のカミ(守・神)の意かなと思います。
(このあと資料見ましたが大山祇と当てられてました) ちなみにオオヤマツミはホツマだとニニキネの妻アシツ姫(コノハナサクヤ姫) の父です。彼女についてのお話しはこちらのサイトの‥

●ホツマツタヱについて  →ホツマツタヱの伝える逸話

‥においてあるのでご笑覧下さい。 (あ、そうか、これだとオオオヤマツミは富士山の近くにいたんだ)


312、●あそびは鬼決めじゃんけんから、アスベル生きていたかMail、2000/11/05 (日) 16:03、hp

そんなわけで(?)あそびに来ました。
ここを先途という感じで(^^;)
ちょっとこれ以降は時間的にキツイかも。

かたばみさん、Stanさん、Konさん、
という順番でゆきます。ではっ o(^-^)o



311、鳥居の原点?、KENJIMail、2000/11/03 (金) 20:41、hp

奈良県橿原市の四条遺跡から出土した、鳥の形の木製品は 鳥居の原点の気がします。
日本武尊が白鳥に成り、倭に帰った様に、古代の人は 死んだ後、魂は空を飛ぶと考えたのでは=鳥。
その為に死者を葬る時、鳥が必要と考え、その止まり木が 鳥居の原点では??

鳥葬にも、それと同じ思想が原点に有るような気がします。

「魂が空駆ける」思想は、エジプトにも有ったような気がします。
モットも、エジプトは船でしたが。
日本でも、「天の鳥船」と言う言葉が有りましたが、似たような 意識から出ているのではないでしょうか。


310、Re: 石鳥居、 KonMail、2000/10/30 (月) 20:03 、hp

山形市の市村さんより石鳥居の写真を頂きましたので ”最上の三鳥居”を下記にUPいたしました。
http://nagoya.cool.ne.jp/akon/torii/tor-yamgt.html
山形の山寺の天台密教との関連が深かそうです。
平安末期には寺に鳥居があったのではないでしょうか。
日本の鳥居の流れとして、ひとつ押さえておく必要あり。
ご意見、お聞かせ下さい。

昭和18年発行の「鳥居の研究」根岸栄隆著 に「ボルネオの奥地にて鳥居類型を発見せり..うんぬん」 と解説があるそうですが、とても興味があります。
概要を雑談にでもUPしていただけませんでしょうか。


309、お久です。、アスベル生きていたかMail、2000/10/30 (月) 06:15、hp

こんにちは(^-^)\
しましばのアスたか(某氏より命名)です。

1週間ぶりくらいに覗けたんですが、いやーみなさんスゴイです。
色々お話ししたいなーと思うんですがバタ足状態でむつかしく、 涙々です。

あ、konさんのHPも観ました。
ウチとはhoops仲間ですねー(^^) 初めて自分以外にhoops使ってるひと観ました。
いちょうのお話し読んでから、リンクさせてもらいます。

神社探訪もまあ‥スゴイスゴイ。
字義通り感心しきりでしたよー。
ジャンプさせて欲しいシーンがほかにもありそうなのでその都度伺います。

ウチのサイトにもいらしてくださいねー。
コラボレ企画してますので、何かお話し書いてもらえれば、絵をつけたりと。

なんだかまとまりませんでしたが、「アスベル生きていたか」の名の 通り、またフラット3‥もとい、ふらっと来ようと思います。

では(^-^)ヽ


308、石鳥居 かたばみMail、2000/10/28 (土) 01:07、。

> 石鳥居を山形市の鳥居のHPで検索して写真確認しました。

山形の石鳥居の追伸です、HPは、
http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgiです。

石造明神鳥居の柱は解説には丸柱とあるけど、四角のように見える。違うのかなあ。
成沢八幡の方は柱が八角のようにみえますがこちらも光の加減?
八角だと外宮鳥居(伊勢型の柱を八角にしたものだそうです)が代表のようで京都吉田神社の鳥居も八角のようです。
このあたりにからむなら春日大社や藤原氏にもつながるかもしれないです。

易(経)では円を陽、四角を陰として八角はその中間とするようです。
当地の龍山信仰がどういうものかわかりませんが道教系の匂いがありますね。

笠木の形状からはどちらも神明鳥居と明神鳥居の中間にある八幡系の鳥居に見えます。
  前記の鳥居の研究では、直線構成の八幡鳥居は実在したのかどうか不明とあります(古書の図のみ)。
笠木2段の直線構成で先端を斜めに切り落としてあるのが特徴らしく、石造明神鳥居の方はそのようにも見えます。


307、Re: 鞆江神社、 かたばみ、、2000/10/26 (木) 00:36、。

konさん、鞆江神社お調べいただいてありがとうございます。
尾張の式内社の記録は放生池や般若経ということで寺系の事が多いようですね。
寺としての活動が多かったのなら、それもヒントになりそうです。

鞆江は地形の説もあるんですか。
神江という名に興味があります。神様がいた入り江といったところかなあ。
はてその神様とは・・

三代実録は日本地名辞典に書かれた記述の引用で、原本を読んではいないので詳細は不明です(^^; もし平安あたりで遊ぶことになれば読むかも・・しれません(^^;

石鳥居を山形市の鳥居のHPで検索して写真確認しました。ひとつはドルメンみたいですね。
「鳥居の研究/根岸栄隆/第一書房、復刻版」によれば山梨県北巨摩郡更科村の勝手神社に天禄元年(970年)の銘文のある石鳥居があるようです。
昭和17年の記録で地名が現存しないですが、現在の北巨摩郡長坂町付近と思われます。
著者は最古の石鳥居だろうと書いています。

他に未確認ということで佐賀県東松浦郡湊村の八坂神社の石鳥居が784の可能性があるようで、もしそうならこれが最古になりそう。
銅製だと奈良県吉野の金峰神社が898だそうです。


306、 Re: 言語の源、 かたばみMailm2000/10/25 (水) 19:09 、。

後ろに引き続いて・・

タミルやパラオ付近、あるいはアルタイにも似ているがちと違う言葉も生まれる。 (文化としてはオーシャノイドが濃くなると思います)

海洋文化は東南アジアではスンダ大陸で最高潮に達し、そして温暖化で海洋に沈んだ(BC1〜2万)。
そして赤道付近は熱帯化してそれらの人々の海洋文化は衰退してゆきます。

この仮説は北アメリカ大陸でモンゴロイドより早い時代のコーカソイドと見られる骨格が発見されたことからの発想です。
コーカソイドの方が先にベーリング海峡を渡っていた、ということ。 (日本付近の旧石器人も同様にコーカソイドです→ドルメンにつながる)

温暖化でモンゴロイドが拡大しコーカソイドを押しのけてゆき、ベーリング海峡をわたる。
この人々が現在のアメリカ先住民の祖先なんだけど、コーカソイドが絡んでくるのでオホーツクあたりの人々を含めて一筋縄ではいかないとみています。
なお中南米へ渡った人々は太平洋を横断したオーシャノイドでしょう(^^;

なお、転載やリンクは常識的な条件とともに一方的に解約もありえるという前提(^^;でどんどん試みていいと思います。
個人のHPはどうしても多様性に欠けやすくなりますし。


305、 言語の源、 かたばみ、、 2000/10/25 (水) 19:07、。

引き続いて・・
以下再び笑ってご覧ください。

現在「オーシャノイド」という仮説を考えています。コーカソイドに対応する人々。
具体的にはユーラシア大陸の南岸を東進して海を基盤にする人々(褐色ないし黒の肌か)。
氷河期では赤道付近は温暖で快適な地域、南の海洋文化が花咲いた。
氷河期では北のコーカソイドの文化より上をいったのではないか。

この人々がカスピ海、アラル海、タクラマカン砂漠(ここも大半は湖だったのではなかろうか)あたりでコーカソイドと接触し、そして生まれたのがモンゴロイドではなかろうか(BC3万頃)。
モンゴロイドは気候の変動の波に乗って東の内陸部へ拡大してゆきます。

オーシャノイドも東へ、東南アジア、インドネシア、フィリピン、ニューギニア・・
日本(朝鮮半島とつながっている)は東のはじっこ。1〜2万年遅れでコーカソイド(先住民)と温暖化で北上するオーシャノイドが接触、縄文が誕生といったシナリオです。

結果としてモンゴロイド類似の人々が生まれますが時と場所が違うわけです。


304、 Re: 星神、 かたばみMail、2000/10/25 (水) 19:04 、。

アスベル生きていたか、さん、こんにちは。

星神についてはなにもお役にはたてないですけど、大綿津見神、大山津見神などの「津見」は本来は星の意ではないかと空想しています(^^;
津見の名が付く神々は迦具土神の子に後裔の知られない神としてずらりといます。
他には有名な底筒之男神、中筒之男神、表底筒之男の別名ともされる底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神がいますが神様どまりで後裔はみあたりません。

底筒之男神等は海底とか海中の神ではなく、星の神ではないかと空想しています。
日本海の航海者が信仰する星神が底、瀬戸内の星神が中、太平洋の星神が表・・

さらには・・津見ツミは女性神を表し、ツツは男性神を表すのではないかと・・
ペアに見えるのは実際に夫婦の神様だから・・
ま、笑って聞き流してください(^^;

狩猟民であった旧石器人と南海からきた航海民のドッキングから縄文が生まれたとみていますが、航海民の星が陸に上がったのが大山津見神です。
で、大山津見神が天照大神の源というわけで、母系社会ができあがる。
ま、笑って聞き流してください(^^;;;


303、 Re^2: 鳥居過去Log、 s_tan、、2000/10/23 (月) 23:23、。
<石鳥居 
石は木に較べると長持ちしますね、地震騒乱以外は。新しい(江戸期等)の石鳥居の近くに或いは境内裏に壊れた古い石鳥居を見かけることがありますが,造立年代をメモしてません^^;
関東の石鳥居は享保前後が多いような,元禄終わり頃の大震災(関東大震災の3倍の強さ)の影響かな,と現地で思うことが多いです。
古い鳥居としては北九州の田島神社の源頼光が寄進した石鳥居(971)を憶えている位。
かたばみさんの鳥居資料に素材別の現存最古が載っている様な。。。

言語学,というとちと頭が痛くなるのですが^^;
医者が死に至る病気は治せ無い様に,言語学からのアプローチもヒトツの結果ですね。列島での古来の言葉にどんな言語が加わると今の日本語になるか,が判ると学ですが^^。
いずれ方程式がキレイに解ける時が来ると思いますが。。。 列島は式が複雑になりすぎて解がない,という事になるかも


301+302、Re^3: 鳥居(転載)、s_tan、、2000/10/23 (月) 02:03 、。

>甕腹。と言う言葉を見て、九州地方に多い埋葬の「甕棺」を思わず連想しました。

#そうなんです。甕ハラという意味は結構深いのかも。
縄文住居入口近く踏まれる位置に埋められた子供が多いという,弥生の所謂甕棺,地表より下の共通点。
後の古墳で地表より棺は上,とすると意味付けされた鳥居はこの時期の発生かも。
殷の黄帝の棺,長江あたり馬王堆も地表下ですね。
恩羅(温羅)と言えば総社市鬼ノ城の百済王子恩羅(うら)ですが、伝承と時期から出雲振根と重なる?。

亀と言えば淡路島では亀のコマ犬の他に鳥居の亀腹が亀の彫り物というのもあったです。
近々,鳥居の画像など公開します。hp当初の予定だったのですが^^;

> 302
鳥居の原型は恐らく神明の笠も貫も柱より左右に出ていた形で皮付き、と思います。
簡単に鳥居の形を作るには縛るでしょうから,鳥居の源はヒトツではないでしょうが,複合される以前はくぐれない大きさで小さかった様な気が。

京都野宮神社はクヌギの皮付。檪といえばドングリで栗とか小楢と類似で...木の実か,或は檪の皮は他の樹に較べ付けたままでも腐りにくいのか...
野宮といえば,今の嵐山に落着くまではその都度場所を卜定したり複数だったりですが,嵐山野宮が黒木鳥居と柴垣にこだわっているのが気になるところです。
柴垣,鳥居とセットになると北方系が強い。
鳥居は門ですが(神官は,大神,伊勢など門という)”標”としての鳥居の流れも強いのかも知れない。


300、Re: 鳥居過去Log、 KonMail、2000/10/21 (土) 02:55、hp

過去Log読ませていただきました
私と旅行を共にした山形の市村さんから以下の情報をもらいました。


山形市には二つの国重要文化財指定の石鳥居があります。
県文化財としては、天童市の荒谷にもあり、何れも平安末期の 作とされ、日本最古のものです。
山形市の「元木の鳥居」「成沢の鳥居」は、ともに、蔵王山の 前山にある「瀧山(りゅうざん)」にあった霊山寺(りょうぜん じ)参道の入口(登山道)に建てられたと云われております。
どうして、山形に日本最古と云われる鳥居が、こんなにあるのか。
謎ではありますが、地震が少ない地とする意見もあるようです。


尾張式内社50社ほど訪問し、神社の石の鳥居の銘文の多くが 明治末期から大正の建立でありました。個々に記録はしません でしたが一応目は通しました。今の神社の形式も明治維新以前 はちがう様相であった可能性大と思いました。多分白木の鳥居 だったろうと思っていました。しかし平安末期の石の鳥居が 山形に3個ある。
平安末期頃に溯る石の鳥居が山形以外にあった記録はご存知ありませんか。


299、Re: 大野晋氏と夕ミル語、 Kon、、 2000/10/20 (金) 22:52、。

『日本語練習帳』は読んで日本語勉強しました。
夕ミル語の新聞記事は記憶にありました。
私は技術屋で数式と決まり文句でレポ−ト書いて生活してます。
その私が、町の祭りの歴史を調べ出して、苦労してるのが古文書です。
神社の祭神の系譜を頭に入れたくて『古事記』を購入して読んだのが つい最近です。中途で投げ出して有ります。

しかし、『古事記』を読んで、ひとつだけはっきり分かったことが あります。『古事記』の漢字以前に、この国には『言葉』ありき。
漢字を無理矢理あてはめた『古事記』からそれを読み取れました。
その後、『いち、に、さん』と『ひとつ、ふたつ、みっつ』。これが共存して 今日に及んだ。これが日本の形なのでしょう。
功成り名を遂げた大野晋氏が80歳にして『日本語の形成』 を著されたことについては素直に称賛を送ります。
これだけの『言葉』を持っていた文明が『文字』あるいは『文字』 に替わるものを持っていなかったとする定説は受け入れることができません。

『文字』ではないとするならば『形』がそれに替わるものでないでしょうか。
『祭り』の中に私達が読み取りべき『形』が潜んでいるのでは。これが私の 作業仮設です。


298、Re^2: 鳥居 (転載)、KENJIMail、2000/10/20 (金) 18:56 、hp

> 岡山吉備津神社本殿の基礎は亀腹と呼ばれその下に恩羅が埋められているという。亀腹は甕腹?

甕腹。と言う言葉を見て、九州地方に多い埋葬の「甕棺」を思わず連想しました。

 鳥居の形は神明鳥居が一番シンプルで原型に近いのではないでしょうか。
多賀城市のアラハバキ神社の写真を見ますと、明らかに神明鳥居です。
黒木の鳥居は、其の前の形とも、その後の変化形とも取れ、どちらが古い形か 私には??です。
 昔見た写真は「モノクロ」で、出土状況から黒く写っていましたので、黒木の鳥居を連想しただけです。形としては、単純なものでした。
 神明鳥居から、明神鳥居に変化し、山王鳥居・四脚鳥居・三輪鳥居等はその後の変化形でしょうか。


297、鞆江神社、 KonMail、2000/10/20 (金) 18:45、、。

かたばみさん、鞆江神社について。
鞆江神社は尾張国中嶋郡の式内社でも、境内の広さ、森の大木、拝殿の風格共に 堂堂として印象的な神社でした。画像のみのアップでしたが図書館で縁起 らしきものを調べました。所在地の尾西市図書館にはその内行って調べますが とりあえず、”尾張の式内社”記載の故事をお知らせします。

**
ここには、明治の神仏分離まで清連山神江(ともえ)寺があった。
明治5年、寺を廃し住職は自ら神官となったという。
静水の脇に道路を隔て池が眺められる。「御手洗池」と呼ぶが、古くは「放生池」 明治40年までは尾張国最大の「放生池」であり神江川が流れ出ていたという。
古くは養老4年(720)9月、疫病蔓延、死者続出。降って弘安4年(1281)、 異国大挙襲来。このような折り、霊を弔い供養の勅命。神江寺にて大般若経六百巻 を奉読。生魚を放つ。この故事により、この池は「放生池」と呼ばれた。
古木曽川により弓の鞆に似た地形より鞆江の名とか。
**
三代実録(865)のは鞆江神はどんな記載があるのでしょうか


296、Re: 鳥居 (転載)、 s_tan、、2000/10/19 (木) 23:32、、。

KENJIさん
>祭事の重要な一部に鶏が関係していたのではないか?
>鶏の居る(乗せる)部分が・・・トリイ だったのではないか?
#墓の位置を決める時に、黄色い雄の鶏を連れて止った所をその位置とし亡骸と鶏を一緒に埋めたらしい。
半島チントベキは木の鳥(古代探訪のTop写真に類似)を3又の木に3羽乗せたもの。案山子の原型という話もありますが。

>黒木鳥居
#野宮神社のソレは木の種類も限定している様ですが,黒木鳥居は東北アラハバキ社とか神体磐座の鳥居などに使われる事が多い様です。
鳥居の横棒は"くぐる"という行為より先に"丈夫にする"構造的意味が強いのかも,貫が特に重要とされたのも"その要"だからかも,と思ったりします。

鳥居の名称で気になるのは柱の基礎"亀腹"。
岡山吉備津神社本殿の基礎は亀腹と呼ばれその下に恩羅が埋められているという。亀腹は甕腹?


295、 Re: 下のつづき、s_tan、、 2000/10/18 (水) 23:23、。

>アスベルさん
ホツマでの鳥居、「ハタ」といえば伊勢の遷宮で御高機(織機)が納められますね。

かたばみさんの星神の話、最近では「雑談」にUPされてます。

[大宮売神社]は
/k_otm01.htm#omm01


294、 鳥居、s_tan、、2000/10/18 (水) 23:22、。

鳥居、といえばこのhp以前に盛上った事がありまして、このhpのテストランの頃掲載してました。下記に再掲載お時間ありましたらどうぞ、65kbありますので「鳥居」で検索下さい。
"/kz001old.htm"
<!try-podで,ページへ直接ジャンプ不能の場合はTopページ「別館」からtri-podへ移り,ページ左の「data」を選択下さい。

鳥居の源は色々説があり特定できない、というのが今の所ですが。。
東北タイ南部のクメール族の村の入口等にある白木造り。
半島でのチントベキ。韓国で見た範囲では韓門というレベルで日本の鳥居と同型は無。
大陸の路辻にあった華表。
などなど。

国内では、鶏が停まった処を古墳を造る場所したと云う「鶏居」。日本海側、チカモリ遺跡などでの巨木サークルの入口が鳥居の形だった可能性。この巨木辺りが鳥居の源ではという気がします。
とすれば門を作る時に瓦のなかった時代に原型が出来た?

あと大陸での、徐福村辺りの民家の,土レンガの玄関の木組が鳥居の形。。


293、鳥居(転載)、 s_tan、、2000/10/18 (水) 23:20、。

転載です。
KENJIさん,10/15発信

掲示板の「鳥居」の件、私の記憶違いでなければ確か、 その原型が何処かの古墳から見つかっていたはずです。
其れが何処なのか調べていますが解りません。
多分、古墳の祭事に関係したのではないかと思います。

ここからは推測になりますが、
 古墳から鶏の埴輪が出たり、記紀にも鶏が出て来たりしますが、  祭事の重要な一部に鶏が関係していたのではないか?
 鶏の居る(乗せる)部分が・・・トリイ だったのではないか?
 先の出土した「鳥居の原型」の写真は、今の鳥居より簡素な  構造でした。
 京都、嵯峨野の「野宮神社」の「黒木の鳥居」に、似ていました。


292、下のつづき、アスベル生きていたかMail2000/10/15 (日) 11:14、hp

(つづきです、たしかに文字制限^^;)

かたばみさんの‘星神’の話についてはWeb上にUPされているの ならアドレスを教えて頂ければ拝読します。
(あ、かたばみさんもアドレスわかったのでこんどメールします^^)
stanさんから話しが行ってると思いますけど、古代史はいろんな 考え方が出来るところにロマンがあってたのしいと思っているので 転載の方考えてみて下さい)

ニューギニアというのは日本人の南方人基層説のひとつとして面白い ですね。最近大野晋さんの学説(下記)に興味を持っているのでちょ っと気になります。
http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/hotuma-singi-kouko.htm

それからkonさんのHPにはいずれ改めてリンクを張りに 行きますので、その節はどうぞ宜しく。
では、とりあえず!(^-^)ヽ
追記
そだ、stanさんおくれてます〜ジャンプ(^^;) ページのアドレスをメールしてもらえれば、ソレ信用 してジャンプ張りますので、手すきがあれば宜しく。


291、トリがいるから鳥居とか、アスベル生きていたか、、 2000/10/15 (日) 11:13、。

こんにちは(^-^)\
しましばの@です。
konさんご意見ありがとうございました。

色々レスしたいんですが、いまちょっと ばたばたしてるので簡潔に。
まず廟と神社の属性はいずれも貴人(神)の 「たまや・やしろ」という観点でだいじょぶだと 思います。
コマ犬については一般的な「高麗犬」の解釈とは 別に『ホツマツタヱ』では「駒犬」の解釈があります。
いわゆる海幸彦・山幸彦のお話しと間連して表われるの ですが、これも結構楽しいです(^^)(あ、コマイヌの中国語も気になりますね)

鳥居については「由来不明」とあるのを本で読んだだけですので 詳しくはこれまた不明ですが、それが日本にあることだけははっきり していますよね。ちなみに『ホツマツタヱ』では何故「TORII」 の音が当てられるのか、その理由も表われています。
(上につづく)


290、 Re^3: 中国の獅子、かたばみMail、2000/10/14 (土) 23:41

上海博物館、機会があればじっくりみたいなあ。

尾張平野をじっくり見たことがないですが実際に住んでみないと感じないことかもしれないですね。
霞ヶ浦の水郷地帯に似ているかなと思いましたがやっぱりそこに住んだことはないからなあ。

≫しかし、決定的な違いを見つけました。中国には鳥居はありません。

後から気がついたのでかっこつきの質問でした(^^;
日本人は特化(先鋭化)させるのが得意みたいですから、鳥居もそのひとつかもしれない。
タイの山岳民族の村の入り口に鳥居そっくりの門?がある写真を見ました。
塀はなく門のみ。上には鳥の彫刻が置いてあってもろに鳥居の原型に思えたです。
もっともタイにはチベット経由でモンゴルとつながってる人々もいるので、長江付近とは無関係の可能性もあって難しいところです。

HPの鞆絵神社の写真拝見しました。御祭神が有名人すぎてなにもわからないなあ(^^;
鳥居は直線的で貫が柱を貫通していない最古(神代)の形式の神明系に見えますが、熱田の形式を真似ているのかもしれない(熱田も伊勢の形式を真似ているらしい)。
御祭神とこの鳥居の組み合わせはちと?なので御祭神や鳥居が変化している可能性もありそうです。


289、Re: 鳥居であそぼ、 KonMail、2000/10/09 (月) 18:06 、hp

はじめまして、しましばの@さん。Konと申します。
”はだか祭り”の起こり,神護景雲元年(767年)。この前後の状況を知り たくて春から夏にかけ、尾張國中嶋郡、丹羽郡、の50社程の式内社を訪ねました。
夏の終わりに中国上海の郊外の村の田圃道を歩きながら、 稲穂や雑草から風土的には尾張の田舎とつくづく同じと思いました。
ただし、中国には神社という領域は有りません。廟となります。
寒山寺以外は日本の仏教寺といまひとつ違う雰囲気で、道教なのか、儒教なのか 分からないのが残念でしたが。
上海、蘇州、杭州、紹興。至る所で阿吽の狛犬にお目にかかったんですが、 少なくとも鳥居とは無縁の存在として巡りあいました。

『ホツマツタヱ』の記事読ませて頂きました。漢字に関しての議論は 私には出来かねますが、”鳥居の由縁が中国に見られない”との記述 に、私の印象が限定された見聞からの誤認ではないのだろうと思いました。
鳥居のル−ツは何処(いずこ)。私の直感として”タブ−”を残す南の国、 例えばパプワニュ−ギニア。かたばみさんの”星神”の話から私の空想です。
韓国に鳥居はあるんでしょうか。どなたかご存知の方、ありませか。


288、鳥居であそぼ、アスベル生きていたかMail、2000/10/09 (月) 01:24、hp

こんにちは(^-^)\
しましばの@です。

・konさん曰く‥
>しかし、決定的な違いを見つけました。中国には鳥居はありません。

鳥居について引っ掛かったのであそびに来てみました。
私が以前学んだことをこちらに載せておきました。
ホツマ真偽
「HATAにまつわることども」にあります。
あるMLへ書いた記事の引用ですが、ご参考下さい。

敬具

追記
そういや奥目付遺跡でしたっけ?水没「させる」縄文遺跡。
ああいうのなんとかならんのかなー。
ニュースでやってましたが、ちょっとヒドイです(::)
そだ、それから昨日の「特命リサーチ」面白かったですねー。
レイラインに圧伝現象。スリリングであると同時に何か サビしい。やはり謎は謎のまま‥かな?


287、 Re^6: 放生会、かたばみ、、2000/10/08 (日) 12:15

> 「放生会」は、仏教の儀式だったのに現在では、神社(八幡宮)で行われている。
> 行事として関東では、あまり残っていないのに、福岡をはじめ九州では、多く残っ

美子さん、こんにちは。
問題を出していただけると、おおそうだったのかなんて新発見もいろいろでてきますね。

放生会も追求すると怨霊封じあたりにまでからんできそうなむずかしい問題(^^;
なかなか情報の少ない時代のことだからなあ。
私の推測も雑談コーナーにアップしました。


286、re:放生会、s_tan、、2000/10/02 (月) 23:50 、。

>ありがとうございます。(^。^)
#いえいえ、こちらこそ、勉強になります。^^。

>「放生会」は、仏教の儀式だったのに現在では、神社(八幡宮)で行われている。
>どうしてなのでしょうか?
#掲示板に収まらないので雑談にupしますね。内容が雑談だから、というのもありますが^^;

>行事として関東では、あまり残っていないのに、福岡をはじめ九州では、多く残っているのは、どうしてなのだろう。
#お寺は、あまり調べたことがないのですが、関東では残ってなくて、九州では多いのですか?
いくつかでも、ご存知でしたらご教授下さい。


285、Re^2: 中国の獅子、 Kon、、2000/10/02 (月) 22:50、。

こんにちは、かたばみさん。旅行の整理をやっと終えました。
上海郊外の金沢鎮の田圃道を歩きながら
ここは尾張平野の原風景だと、つくずく思いました。
屋根の先端の曲線以外はまったく田舎の風景そっくりでした。
阿吽の狛犬もよく見かけましたが、それ以外の獅子も一杯見ました。
上海博物館の前に鎮座する獣は正に狛犬の源流そのものと思います。
旅の最後にこの博物館を見たことは最高でした。
尾張平野から出土するパレス型土器とそっくりの彩色土器。
これが日本の銅鐸のル−ツがと直感する鐘。
舶載の銅鏡の実物と鋳型。
たまたま1階の特設展の1992年蒙古出土の海獣紋銅鏡。
びっくりの物ばかり。

しかし、決定的な違いを見つけました。中国には鳥居はありません。
かたばみさんのご質問の真意は、ここだったんではありませんか。
鳥居は中国江南地方とは別の地域に由来すると思います。
今回の旅では、100%鳥居の源流らしき物に遭遇しませんでした。

400枚の画像にすこしづつ文章を追記いたしました。
おやっと思うものはすべてシャッタ−を切ったつもりです。
中国江南地方と日本の歴史の比較にお役に立てば幸いです。



284、Re^5: 放生会、 美子、、2000/10/02 (月) 03:25

●かたばみさん、s_tanさんへ

ありがとうございます。(^。^)

> 神紋・卍・権現、ちと長くなりましたので、雑談にupしました。
読みました。
とても参考になります。

「放生会」は、仏教の儀式だったのに現在では、神社(八幡宮)で行われている。
どうしてなのでしょうか?
行事として関東では、あまり残っていないのに、福岡をはじめ九州では、多く残っているのは、どうしてなのだろう。

どなたかご存知の方は、いらっしゃいませんか?


283、Re: 中国の獅子、かたばみMail、2000/09/28 (木) 01:43、。

konさんお帰りなさい。
愛知の洪水たいへんだったですね。

江南の写真を拝見して最初に感じたのは台風はこないのかな、でした。
堤防らしきがなくて水面からすぐ上が生活の場になっているように見えたからです。
山が遠いので急激な増水ということがないのかな。

石橋の形は階段を登り降りするように渡っているのがほとんどですね。
広大な平野、水面に近い高さから船用のアーチを越えて渡る。
海が近いし帆柱つきの船かな。
日本なら川で帆を使うのはまずないだろうな。それに土手や谷の両岸から渡るのが多いかなあ。

風景では看板が少なくてアルファベットやカタカナ(^^;がないのがちょっと違う雰囲気ですが、沖縄だよといわれれば、そうですかになりそうです。
屋根の軒先のはねあがりには異国を感じますけれど。


大昔にこういった地域から日本へやってきた人は、どこもかしこも山だらけの場所に見えただろうなあ。狛犬の形のルーツはこのあたりかもしれないですね。でも源流はさらに古くさらに南にあったのではないかと思っています。
(鳥居らしきはみませんでした?(^^;)
今度長江の上流あたりへゆかれることがありましたらまたよろしくお願いします(^^;


282、Re^4:根津権現の卍、s_tan、、2000/09/27 (水) 02:00、。

かたばみさん、ありがとうございます。

美子さん、如何ですか。
不明な点,解答がズレている等ありましたら,ご遠慮なく^^。分る範囲でお答します^^。

神紋・卍・権現、ちと長くなりましたので、雑談にupしました。


281、ご連絡、s_tan、、2000/09/27 (水) 01:59、。

#皆様にご連絡です。
この「古代であそぼ掲示板」は、「@四万十しばてん争奪戦」からリンクもを開始します。
jont_BBSというか、コラボレ掲示板、です ^^。

共通の姿勢は、「古代がキー」、「排他・独善は無し」、というところでしょうか。


280、Re:古代のひとは何を着ていたのだろう(’’?、s_tan、2000/09/27 (水) 01:57、。

アスベル(略します^^。)さん、いらっしゃいませ。

>古代のひとが着ていた衣装を紹介したサイトってないでしょうか?
#たしか、出雲の古代関連のhpで絵物語かなにかで弥生の服装が出ていた記憶があってHDD内検索したのですが、不明でした。また分りましたらご連絡いたします。


279、Re:中国の獅子、s_tan、、2000/09/27 (水) 01:56、。

Konさん、こんばんわ。

集中豪雨大変でしたね、ご無事でなりよりです。
名古屋の知人に連絡したら、ひと昔前はちと降ると水浸しだった、と馴れた口調でした。
古い農家の納屋天井高く船を吊ってあるのを見かけたですね。そういえば大阪河内八尾近く、利根川沿いにもまだ残っているようです。

”江南旅愁”
1/3ほど拝見しました。金沢鎮の赤い欄干の橋、仕切板のついた船。朱家角のコマ?犬など興味深く拝見しました。
橋のアーチというか船の通る穴、この大きさは最低限が決っていて共通性はあるのでしょうか。大昔はこのアーチぎりぎりの大きさの船が往来していた、といった話はありませんでしたでしょうか。


278、Re^3:根津権現の卍、かたばみ、、2000/09/26 (火) 12:50、。

美子さん、こんにちは。
コメントが遅くなってすみません、1分違いだったようですね。続きです。

卍の由来はキリストの十字架、太陽の光などいろいろありますが、×や+は簡単なのでいろいろな地域で自然発生する可能性もありそうです。

根津神社の御祭神はスサノオ以下出雲系の神々です。
再建者の太田道潅(持資あるいは資長)の祖先は丹波ですから出雲とつながりも深そうです。

権現の意味は仏様が現世に仮の姿で現れるといった意味です。
応神天皇と菅原道真も祭られているので、どちらかが権現なのでしょう。
菅原道真といえば湯島神社(湯島天神、ここも太田道潅が再建、手力男命が主祭神)。

権現と対応するのが明神で、神様が仮の姿で現世に現れるといった意味です。
神田明神は少彦名神と平将門を祭る。平将門が明神でしょう。

徳川幕府は権現と明神の尊称を使い分けてバランスをとったのではないかと思っています。
権現さん、明神さん、天神さん、山王さん、それだけでわかるので便利ですし(^^;
(山王、日枝神社、山の王=大山咋神→スサノオの孫)

根津が権現として有名になっていたために明治政府の神仏分離政策以後でも卍が残った理由かもしれないです。


277、古代のひとは何を着ていたのだろう (’’?、アスベル生きていたかMail、2000/09/26 (火) 03:11、hp

拝啓

こんにちは(^-^)\
アスベル生きていたか@四万十しばてん争奪戦です。

ちょっとひとに尋ねられたんですけど、
古代のひとが着ていた衣装を紹介したサイトってないでしょうか?

もしご存知の方がおられたらメール頂けると嬉しいです。そこにリンクを張るつもりです。

敬具

追記

あ、こちらのサイトでは古代史をテーマにしたコラボレーションなど企画しています。
日本の古代史に興味のある方は1度覗いてみて下さい。ご参加お待ちしています。

276、Re^2: 根津権現の卍、美子、、2000/09/25 (月) 17:35

s_tanさん、ありがとうございます。

> 「め組頭中」
やはり、わかりませんか。
残念ですね。
> 判る方おられましたら応援お願いします。
私からもお願いします。

> 根津の「卍」これは、ご近所の方(体調充分ですか?^^)から詳しくレスがあるかと思いますが。
その方からいまだに…。
どうしたのでしょうか。

ある人のWebサイトで「卍」が、根津権現のマークと書いてありましたけど、それって間違いだったのですね。


275、Re: 頭中と卍、かたばみ、、2000/09/25 (月) 17:34

美子さん、こんにちは。

「め組頭中」はわかりませんけれどs_tanさんの説が当たりじゃないかと思います。
職人さんなどは符牒や省略言葉をよく使いますし、逆さ言葉もあるようです。
め組の頭の中川さんの奉納、とか・・(^^;
こんど同じような物を見たら宮司さんなりに聞かれれば早いかもしれないです。

卍マークもよくわかりませんが(^^; これもs_tanさんの説に賛成です。
なお、このシンボルの源は2匹の蛇がからみあっている状態を示す、という説に賛成しています。
メソポタミアやクレタ文明にも類似マークがありますし、もちろんインドにもあります。
蛇は豊穣や生産(セックスでもある)のシンボルで、森から生まれた古代文明では共通項だったのではないかと考えています。
縄文土器の縄文そのものが蛇を表している可能性もあります。
地図ではお寺のマークになっていますがお寺のマークとは限らないわけです。

根津神社の大門や舞楽堂?の瓦をよく見ると、4つ巴紋があります。卍とも4つ巴紋ともいえる中間的なマークもあります。
3つ巴紋は神社に多い紋ですけれど、ひょっとすると4つ巴紋は卍と重なって生じている可能性もありそうです。


274、中国の獅子、 KonMail、2000/09/24 (日) 14:04、hp

> 上海の石橋ですか。いってみたいなあ。

かたばみさん、こんにちは。愛知県のKonです。
中国帰国早々、集中豪雨やなにやらで遅くなりましたが、旅行記まとめました。
http://nazca-e.hoops.ne.jp/kitaiti/
メニュ−最後の”江南旅愁”

上海博物館前には獅子のモニュメントが並んでいます。
中国では、橋やホテルや商店や通路に獅子の像がありました。
日本の神社の狛犬のル−ツを考えてしまいました。
旅行記一度見ていただければ幸いです。


273、Re: 頭中と卍、 s_tan、、2000/09/20 (水) 22:47、。

美子さん いっらしゃいませ。

「め組頭中」不勉強でしかとは分りません。
類推ですが、たぶん「とうちゅう(づじゅうカナ)」で連中とかと同じ意味かと思います。
「中」=連中(良く神社などにある「○×講中」)。「頭」=かしら(め組のカシラ)で、め組の親分と組員一同から、といった意味ではないかと。。
判る方おられましたら応援お願いします。

根津の「卍」これは、ご近所の方(体調充分ですか?^^)から詳しくレスがあるかと思いますが。
根津権現は、はじめ小祠で徳川6代家宣だったかが子供(7代)の病気快癒の勅願所として社領と共に権現の勅号をつけ再興した。権現ですから祈祷したのでしょう。
明治になり皇室の勅願社として氷川はじめ関東12社のうちに入ってます。
明治以前は神仏混交で以降は寺が○×神社と名を変えるのもあり卍を付ける神社は意外にあります。
卍といえばインドですが紋の輪宝(りんぽう)も良く神社で見られますし、京都祇園スサノオで有名な祇園守の紋もインドを由来とする説があります。


272、Re^3:この意味と起源ご存知ですかぁ?、s_tan、、2000/09/20 (水) 22:46、。

こんばんわ 真澄さん

>確かに紙灯篭の絵は、何色かによって描かれた昔絵です。

#どんな昔絵なんでしょう? 物語ふうでしょうか、記号などもあるのでしょうか。
紙灯篭の昔絵を見ながら、出来た時代・地勢など背景をいろいろ推理するのはおもしろそうですね。

>一度、地元のお年寄りにじっくり聞いてみたいと思います。
#なにか分りましたら、ぜひお待ちしております。


271、頭中と卍、美子、、2000/09/19 (火) 14:53、。

はじめて書き込みをします。

9月15日に芝神明祭に行ってきました。そこで2段重ねの餠の前に貼ってある紙に、「め組頭中」と書いてありました。この「頭中」のよみかたと意味を知りたいと思っています。

あともう一つは、根津神社の境内にある「卍」についてです。なぜ、神社なのにお寺のシンボルである卍が、飾られているのでしょうか。

上記の2点について、ご存知の方が、いらしたらおしえてください。お願いします。


270、Re^2:この意味と起源ご存知ですかぁ?、真澄Mail、2000/09/18 (月) 00:47、。

s_tanさん、情報ありがとうございました。
確かに紙灯篭の絵は、何色かによって描かれた昔絵です。
詳細は、その土地によって違うのでしょうね。。。そこがまたそれぞれの土地の文化に繋がっていくのでしょうね。。

一度、地元のお年寄りにじっくり聞いてみたいと思います。
その結果をUPできればいいですね。

ありがとうございました。


269、Re:この意味と起源ご存知ですかぁ?、s_tan、、2000/09/17 (日) 16:54、。

真澄さん いらっしゃいませ。

多摩地区氏神さんのお祭り、詳しい方からの返事が情報があるといいのですが。
多摩はまだ未探索ですがなかなか興味深いものがありそうですね。

9月といえば9日の重陽の節供、太秦の牛祭、十五夜、石清水の放生会、収穫、少し後の案山子揚など浮かびますが。
しめ縄で囲み要所に提灯を取付けるのは、神様が迷わぬ様に(山)に帰って戴くまじないでしょうか。
家々を縄で囲むのは、収穫を狙う悪神への防備の意志かも。
提灯の絵柄、氏神様にスサノオが多いかウケモチが多いかなど推理要件になりそうです。
地元のご隠居さんのお話を聴けるといいですね。


268、この意味と起源ご存知ですかぁ?、真澄@三多摩、、2000/09/14 (木) 20:51

当地、東京の多摩地区なのですが、今週から来週にかけて氏神さまのお祭りが花盛りです。
さて、質問なのですが、祭りのちょっと前から近所の家々(ブロック)毎は、縄で結ばれ、その路の要所要所には、絵と文字が描かれた紙製(骨組みは割り箸のような細い木材)の灯籠?って、いうか、ちょうちん、みたいなのが取り付けられ。、灯が入れられます。
9月の神社のお祭りの前に、たくさん、出されますが、もし、このへんのことに詳しい方、もしくは、描いて掲げていらっしゃる方がいらしたら、お教えください。由来とか、言葉、絵の意味もわかりましたらお願いいたします。
267、Re:道を尋ねて、s_tan、 、2000/09/08 (金)、。

こちらこそ、ありがとうございます。

八王子まで遠征されたのですか、お疲れ様でした。今年7月だったか沿線交通止だったです。
甲斐、諏訪大社は何度か参詣してますが小野は今年初めてでした、写真のアングルなど同異を楽しみに掲載を楽しみにしております。


266、道を尋ねて、日本武尊Mail、2000/09/05 (火) 、hp

2000番hitありがとう御座います、粗品を送りますのでメールで送り先をお知らせ下さい。宜しく
先日香淳皇后様の陵へ参拝に伺いました、その帰路甲斐の国一宮と二宮三宮を巡り酒折宮を参拝して来ました、近日中に掲載します


265、re:尾張の地から、s_tan、 、2000/09/05 (火) 00:38、。

<星神>について。
かたばみさんから、長文を雑談コーナーにupしました。
−−−
尾張と言えば,以前話に出た穴あき土器ですが。木更津の古墳時代初期−の高部古墳群から尾張の技法で作られたという高杯形土器が出土。また袖ケ浦市の根形台とあわせ「手焙形土器(てあぶり」が出土している。近くには意宇族・飫富神社がある。

木更津といえば,君去らず・・・の日本武尊ですが,ちと北の姉ヶ崎・神社では姉弟の伝説がある。
房総先端の安房神社からは弥生時代の人骨出土,四国安房から来たと言えば,当然尾張は海路の途中ですね。

安房の忌部の気配も利根川まで濃い、意宇も場所がほぼ重なっているように見える。


264、Re:尾張の地から、かたばみ
Mail、2000/09/04 (月)、。

> 式内社巡りは大変楽しかったです。
> 中国上海周辺の古い石橋の取材にでかけます。

konさん、
古代に関するコメントは長くなるので雑談コーナーにアップします。

現地であそぶのは後回しになっていますが、そのうちやりたいと思ってます。
上海の石橋ですか。いってみたいなあ。

かたばみ


263、尾張の地から、KonMail、2000/09/01 (金) 00:44、、。

かたばみさん、こんばんは。
式内社巡りは大変楽しかったです。
星神についてもう少し基礎的な所から御教え願えませんか。

話題を変えて尾張の情報
私のペ−ジに”稲葉宿と三宅川”、”稲葉神社と金神社”をアップしました。

”稲葉神社と金神社”は岐阜金華山の山麓に”伊奈波神社と金神社”がありまして当地と岐阜の関係を取材してみました。
伊奈波神社には物部十千根命が合祀されております。
当地の稲葉神社は物部印葉連公、金神社は物部金弓連公です。

物部印葉連公は稲葉の住人でとても古い氏族の長といつた意味で具体的にはつかみ所がないとは想像つきますが、ここに古くから人が住み着いたという根拠にはなるのではと思います。
物部金弓連公は何か出てきませんでしょうか。

式内社巡りで火明と八井耳のゾ−ンを何とか浮き上がらせようと足を運びました。
これらの祭神から星神を思い浮かべられる貴兄に応援宜しくお願いします。
当方は現地からの問題提起をさせて頂きますので。

PS
わたしは橋の設計屋でして、9/2〜9/8まで中国上海周辺の古い石橋の取材にでかけます。ネットカフェでもあったら江南の地からお便りします。


262、Re:サイトタイトルを変更しましたぁ、s_tan、、2000/08/30 (水) 23:32、。

> よろしくおねがいしますm(__)m
#リンクサイト名、変更済! 電光石火になりました。

> 「へのへのもへじ」ってありますよね?
#古い記憶では、どこか屋根裏の落書きにあったような。。
ひらかなより古いかも。

> 他の言語にはああいうものってないんだろうか?たとえば書道のあるペルシア語とかに…。
#古代は神官の専用道具的だったから(残って)いないのかも。
アルファベットでは、ありますね、横顔とかマンガチックなのが。


261、Re: 教えてください。s_tan、、2000/08/30 (水) 22:48

まりる さん いらっしゃいませ。

お守り。
地元の良く行かれる神社が一番と思います。お友達のお父さんの為の、ということですと、その旨、神官の方にお話しされると特に選んで戴けると思います。
私は全国の殆どの神社はつながっている、どこかで1ヶ所になっている、ような気がしています。そのどこかは、まりる さんかも知れません(^^。

富田林ですと。南河内ですから一之宮は東大阪市の枚岡神社です。
昔の和泉国の大鳥神社、攝津の住吉大社。
富田林市内ですと、美具久留御魂神社、錦織神社などがあります。
上記いづれも、当hp神社探訪内に簡単な案内があります。

お薬師さん。如来とは悟りを開いた人で歴史的には仏陀ですか。
薬師如来は,人の病苦・苦悩を癒すなど12の約束をし,12神将というお使いを持ってます。左手には薬壺を持っている像が多いようです。


260,サイトタイトルを変更しましたぁ、MOJO-HANDMail、2000/08/30 (水) 22:39、hp

ちわ。もじょです。
とりあえず、サイトの名前を「それ風」なのに変えてみました。
略して「LOMOrganization」。読みは「ろもぉーがにぜーしょん」で「ロモ体制」。
すみませんがリンクページいじっておいていただけますぅ?
よろしくおねがいしますm(__)m

で、来たついでに下らない疑問。
「へのへのもへじ」ってありますよね?
あれの現存する一番古いものっていつのものなんでしょうか?
「江戸の寺子屋に通う子供の帳面の落書き程度の古さ」までは見たことがあります。
ひらかなの浸透と共に発生したんだろうか?
他の言語にはああいうものってないんだろうか?たとえば書道のあるペルシア語とかに…。


259、教えてください。、まりるMail、2000/08/30 (水) 11:29 、。

 友達のお父さんが入院されて 手術されることになりなした。
お守りをと思うのですが どこの神社が「病気平癒」のご利益があるのでしょうか? 
ちなみに彼女のおうちは 大阪府富田林市です。 この付近の「いちのみや」は どこなのでしょうか? (受験などには えばらの文殊さんとか 北野天満宮とかありますよね。病気にもそんな特定の神社やお寺があるのでしょうか? お薬師さんは 病気関係ですか?) よろしくお願いします。


258、Re:尾張の地から、かたばみMail、2000/08/26 (土) 23:00、。

> 諏訪神社は春、秋、上、下とあり尖石器遺跡との関連も追求できる
> 恐ろしいゾ−ンだと直感しております。はやる心を抑え尾張の地から

konさんこんにちは。
中部地方は縄文と弥生が複雑に接したと思える興味深い地域ですね。
尾張国式内社神名帳のご祭神をずらっと眺めるだけでもその地域の雰囲気というか傾向を感じます。
菊理姫や記紀で敵役になっているアマノカカセオ(星神)を祭る神社が散見されるのも興味深いところです。

そういった各地の雰囲気や傾向をおおづかみに眺めて古代の流れを空想して楽しんでいます。

かたばみ


257、Re:真田氏について、s_tan、、2000/08/24 (木) 、。

>突然横からお邪魔します。
#いらっしゃいませ、大歓迎です。色々な話が大きくなると面白い、個々の情報の断片がつながって新しいモノができる!これが「古代であそぶ」醍醐味です。^^。

そうなんです、滋野氏ですね。信濃守として代々海野小太郎を名乗っていた記録もあります。
なぜ安倍氏とつなげて考えたか、記憶では。
滋野本流の義父が亡くなり(殺した?)滋野一族内で一番出世したが滋野の名を継いでいない。
真田は(1400頃)から記録にあり,さらに古い?。
小県あたりから長野市南にかけて阿倍氏(布勢)に関連深い神社(式内)が見られる。
真田の地は信濃国府に近く,国牧で大伴氏の支配時期があった。
江戸期大名?安倍氏はその祖を小県・滋野氏としている。
最近見ていない戦国以降の資料ひっぱりだして調べてみます。

>紀の国造家の末が、信濃に行くには尾張は当然通り道?だったでしょうね。
#滋野氏は文献に当ってないですが,天道根命は大伴っぽい,河内の伴林氏・和歌山刺田彦神社辺りで話が出たような。。
紀・滋野というと文徳55の惟喬の母が紀氏で文徳の妃に滋野氏がでてますね。
滋野氏に詳しい方おられませんか。


256、真田氏について、KENJIMail、2000/08/22 (火) 00:09、。

突然横からお邪魔します。
信州の真田氏に付いて少々。
本姓は滋野(しげの)氏。信濃滋野氏は出自は3説有ります。
清和天皇の皇子貞秀親王説。
同天皇、貞保親王説。
神魂命(かんむすびのみこと)の5世の孫、天道根命(あめのみちねのみこと)説。

真田家は「寛永諸家譜」編纂の時は、貞秀親王説を届出るが、幕府は「皇胤紹運録」等に貞秀親王の名が無い事から貞秀親王の子供と真田家が言う海野小太郎幸恒を始祖とする。
寛政重修諸家譜の編者は、神魂命から出た滋野氏−−紀の国造家になっています。−−の流れで有る様な書き方をしている。おそらくはこれがあたっているのだろう。
・・・海音寺潮五郎氏著・武将列伝「真田昌幸」章より

紀の国造家の末が、信濃に行くには尾張は当然通り道?だったでしょうね。
詳しい事は解りませんが、想像だけでも楽しいです。


255、Re: 尾張の地から、s_tan、 、2000/08/21 (月) 23:21、。

神社というか歴史・古代は掘下げてもなかなか底は見えてこないですね。幾重にも事象が重なって、あれも真実・これも真実というのが見える事があります。これを織替えるというか織戻すのが醍醐味ですね。
阿蘇、諏訪についてもまだまだ断片しか判りませんが、そこは素人の強みで^^;身近を情報が通る時捕まえよう・・・の状況です。
信州については守谷の没後,蘇我氏の尖兵に近い阿倍氏の蘇我本家滅亡後の動きなど気になるところです。どうも真田氏あたりまでつながっている様ですが。。

Konさんのhp再度拝見しました、春からの尾張式内社めぐり,素晴らしい量,地元ならではの伝承などの収集,これからもお待ちしております。

「nazca-e.hoops.ne.jp/kitaiti/」へのリンク完了しました。おついでの時にでもご確認ください。


254、尾張の地から、KonMail、2000/08/19 (土) 12:10、hp

s_tanさん,阿蘇についての記述ありがとうございました。
諏訪神社は春、秋、上、下とあり尖石器遺跡との関連も追求できる恐ろしいゾ−ンだと直感しております。はやる心を抑え尾張の地からの発信を着実にしていくことが私の使命だと考えております。
皆様に対して発言するには、物語のスト−リ−立てが役者としては必要であります。在住する町の小さな宿場と山車から話を起こし、はだか祭りをご覧頂き、その歴史を追い求める。そのなかで尾張平野の古代が現れ、神話の世界に誘う。これが私の企画です。
”美濃路とこがし祭り”をこの物語のindexにすることにいたしました。リンクは下記にして頂きたく要望いたします。
http://nazca-e.hoops.ne.jp/kitaiti/
s_tanさんのお力を拝借してその他の話題もこのペ−ジにひとつずつ追加してゆきたいと考えています。
まだ2、3のペ−ジのあとに手力雄神社の火祭りを登場させるのですが、神社のしおりで各務原の手力雄神社の祭神は戸隠大明神とあります。この2地点の足跡を諏訪の伝承にからめて遺伝子解析をしたいと考えています。ここが尾張の地からのKonの切り口です。よろしくお願いします。


253、Re: 尾張古絵図、 s_tan、 、2000/08/19 (土) 03:28、、。

>私のペ−ジに尾張古図のもう少し詳細なのを掲載しました。
#拝見させて戴きました。実に面白いですね。
大阪に在住の時,ボーリングの数値などを元にした古河内湖・河内湾の図があり,旧陸地測量部の地図上で等高線など追ったのを思い出しました^^。たしか明治期の大阪平野大洪水・冠水の新聞記事・図などもあったです。
尾張古図も現在の様子がinputされているKonさんにはたまらなく面白い資料と推察しております。

>私のTopペ−ジの”尾張古絵図”の下に”古代であそぼ”のLOGOを張り付けリンクさせて頂きたいのですが。
#ありがとうございます。よろしくお願いします。
こちらからもリンクさせて戴きます。
「nazca-e.hoops.ne.jp/index.html」でよろしいでしょうか。

#中山道からの塩尻、糸魚川からの安曇野、上越からの長野。ヒスイと黒曜石、鉄ですね。長野といえば阿倍氏が濃いですが、塩尻・岡谷あたりは阿蘇氏が濃いようです。塩尻と言えば平出博物館、お勧めです。

#諏訪・建御名方、ちと長くなりましたので、雑談、へupしました。


252、尾張古絵図、Kon Mail、2000/08/18 (金) 00:42、。

私のペ−ジに尾張古図のもう少し詳細なのを掲載しました。
諏訪の藤の伝承とても興味深く拝見しました。
この古図で遠島とあります。藤島が本来なのか遠島が本来なのか疑問を持っていました。この辺の結論を「訂考」を根拠に藤島と結論付けました。あくまで私の仮説ですが。藤島神社の記述を少し修正しました。
近くの神社の”湯の華神事”を”藤”をキ−ワ−ドに注意深く取材することに致します。
塩尻、諏訪、茅野は色々な方向からの足跡でかなり複雑なことは予想します。
尾張の地から木曽川を辿り行き塩尻に出る準備はしておこうと思います。
洩矢=守屋は在地の諏訪古族になるのでしょうか。
科野から諏訪に南下した阿蘇氏。これは諏訪の明神、建御名方とどんな関係なのでしょうか。
何かまた御教え下さい。
お願いですが、私のTopペ−ジの”尾張古絵図”の下に”古代であそぼ”のLOGOを張り付けリンクさせて頂きたいのですが。


251,250、Re^3:鉄穴流し、s_tan、、2000/08/16 (水) 23:05

室町の始め(1335頃?)諏訪社の円忠が散逸していた資料を集めた「諏訪大明神絵詞」この写本が残る。その中に「尊神垂跡の昔、洩矢の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ。」とあり。真弓常忠氏によると、鉄輪が藤の枝に(鉄が藤)負けたのは鉄穴流しで残ったモノを笊(ザル)でさらに選別するが、このザルを強度のある藤で作ったのであろう、としています。
氏はこの時代を6c頃としてますが、諏訪社に伝わる阿蘇氏系図からも阿蘇氏が科野から諏訪に南下したのも550年頃としている他の資料があります。
しかし,この伝承は更に古い事跡を二重に投影してるのでは,と思います。
洩矢は諏訪ご神体・守屋山の名にあるように物部の流れでしょう。聖徳太子の時,物部本家が滅びる以前にどうも産鉄族としての物部が丹波-倭-伊勢--と僻地へ追いやられたのではないかと。。
その物部系が諏訪に入った時は鉄穴流しのザル自体が新手法だったのではと。

(251) Konさんの,須成-多度-伊福-藤島-の神社ですが。
多度の別宮一目連神社の鉄製の弓・矢。伊福の福は丹波から出雲によく残る,楽楽福(ささふく)信仰(ささ=鉄,ふく=鞴),吹くといえば息長氏の伊吹山にも近いですね。
藤島の藤は藤の枝。
南宮大社の奥宮・元宮と言われるのは諏訪。伊勢-尾張-諏訪は鉄の道ですね。
 s_tan


249、Re^2: 蟹江の須成祭りと古代の鉄、KonMail、2000/08/16 (水) 11:54。hp

> 伊勢-愛知-諏訪と流れて建御名方に征服された部族がその流れでは。
> 諏訪の伝承では鉄穴流しの手法の差が優劣を決した、ようです。

こんにちはKonです
尾張の古代の探求の緒についたばかりなんですが、
伊勢-尾張-諏訪と流れて建御名方の線はおぼろげなりに私のこれから辿る道ではないかと思ってます。
諏訪の伝承で鉄穴流しの手法。これについてもう少し御聞かせ願えませんでしょうか。


248、Re:蟹江の須成祭りと古代の鉄、s_tan、 、 、2000/08/15 (火) 01:15

Kon さん お久しぶりです。

>近くの蟹江の須成祭りが源流と思われ春先から取材しておりました。
>この祭りに関して、三重県の多度神社と関係が深いのが興味ありまして

#遅くなりましたが、拝見させて戴きました。
太古の名古屋湾?島の図など興味を持って拝見しました。
”忘れられた時を求めて”での高師小僧。鉄は生産,略奪を容易にする最高の素材ですから弥生時代と言われる高師小僧、暫く続いた餅鉄でしょうか。採り尽くすにそれ程の年数はかからなかった量と思いますが、高師小僧は列島広範囲にあったのではと思います。
金屋子信仰が金のつく地名がその痕跡で、恐らく高師小僧はそれ以前、葦・茅の時代、「みずずかる(鈴)」があると思います。

愛知の高師原に限らず、大阪石川沿い,奈良西,諏訪など葦・茅の地名が残る所は神社の伝承も古いものが見られます。
伊勢-愛知-諏訪と流れて建御名方に征服された部族がその流れでは。。
諏訪の伝承では鉄穴流しの手法の差が優劣を決した、ようです。


247、蟹江の須成祭りと古代の鉄、KonMail、 2000/08/08 (火) 22:18 。hp

こんばんは
御無沙汰いたしております。”国府宮はだか祭り”のKonです。
私の町にも山車が2台ありまして、夏の天王祭り(祇園会)が行われました。
近くの蟹江の須成祭りが源流と思われ春先から取材しておりました。
この祭りに関して、三重県の多度神社と関係が深いのが興味ありまして歴史の本など参考に、尾張平野の古代製鉄に関して ”忘れられた時を求めて”と題して1ペ−ジ作りました。
一度ご覧頂き、ご意見でも頂ければ光栄です。

美濃路と ”こがし祭り”http://nazca-e.hoops.ne.jp/kitaiti/

では


246、Re: 野迫川村へ、s_tan、 、2000/07/31 (月) 23:54、。

こんばんわ

野迫川温泉ですか、いいですね、早速hp拝見に伺います。

荒神社、一度荒神岳を縦断して立寄ってみたいと考えた社です。地図からみると雨の時はちと遠慮したくなる道みたいですね。

>野迫川温泉横にあった、氏神さんの社は撮影してきましたが、
>由緒とか全く分かりません。
>今になって、悔やんでいます。。
#ありますあります、後で悔むことが。。
次回にしよう・・・、が次回がなかなかこない^^; 川上村の五社トンネル近くの社も写真だけが残ってます^^;


245、野迫川村へ、hahahaMail、2000/07/31 (月)。

こんにちは。
昨日、日曜日に奈良県野迫川村へ行って来ました。
目的は、勿論トイレ取材です。ついでに野川弁財天と立里荒神社など取材してこようと思いましたが、あいにく変な天候で、残念しました。また現在、私は車を所有していませんので、友人(取材員)の車と言うことで、無理も言えませんでした。せっかくですが残念。次は、いつ行けるかわかりません。(実は、生まれて初めて行きました)野迫川温泉横にあった、氏神さんの社は撮影してきましたが、由緒とか全く分かりません。今になって、悔やんでいます。。

平維盛歴史の里を尋ねて、帰路に着きました。
また、トイレ紀行時に取材できればしてきます。
山奥に行けば行くほど、寺よりも、大きな神社の方が多いですね。
それでは。

追伸
天然の天女魚は、とてもうまかったです。その後の取材が辛かったけど・・・。


244、Re: 皆既月食、s_tan、 、2000/07/17 (月) 。

> 16日、皆既月食がありましたね。

#22:10、皆既まっただなかの月の近くを流れ星。
あと145年は生きられないので、カメラ持出し、天体はメンドーなので双眼鏡で月見。 重量感もって浮いてましたね。

月といえば、大宮の「調(つき)神社」近々up予定。


243、 皆既月食、hahahaMail、2000/07/16 (日)。

16日、皆既月食がありましたね。
2時間弱にも及ぶ、月食は今後約1300年以上も先のこと・・・。
古代の人たちは、どんな気持で眺めていたのでしょうか?
いやあ、実にすばらしい光景でした。。


242、Re^3: 三塚古墳 、s_tan、 、2000/07/04 (火)、。

全国地図をおもちであれば、R166の竹内峠の付近ですので、山口神社より南側です。
#山口神社の南、R166の峠付近ですか、分りました。

笛吹神社の古墳、やはり南向でしたか。今はガッチリと鉄の冊があって入れませんですね^^。


241、Re^2: 三塚古墳、hahahaMail、2000/07/03 (月) 、。

こんばんわ。

> 三塚古墳は麻呂子山の北あたり山口神社の近くでしょうか。
 全国地図をおもちであれば、R166の竹内峠の付近ですので、山口神社より南側です。当日の案内図がありますので、添付しましょうか?
あんまり役に立たないと思いますが・・・。
あれから、マスコミの情報探していたのですが、購読している新聞には、掲載なかったので、いまいち分かっていません。。

> #なんとなく笛吹神社・本殿横の古墳を連想したのですが、たしか入口は南に向いてました。
 南側ですね。小学校の時勝手に奧まで入っていったので・・・
(時効です、許して下さい)


240、Re: 三塚古墳、s_tan、 、2000/06/28 (水)、。

こんばんわ。
三塚古墳は麻呂子山の北あたり山口神社の近くでしょうか。麻呂子山の南には縄文から古墳時代の複合遺跡、たしか30基程の古墳の有る竹内古墳群がありますね、この竹内となにか共通する?。

>見えていた感じですと、古墳と言うよりは、石室の入口だけが崖に造られている様に見えました。
#なんとなく笛吹神社・本殿横の古墳を連想したのですが、たしか入口は南に向いてました。

風水にかなう配置ですか、縄文の配石遺構も風水ですから、どの程度(時期)なのか興味有る所です。
「太安万侶」の墳墓といえば都祁あたりの茶畑でした? 原寸大の模型見てみたいですね、しかし有っても関西でしょうね。


239、三塚古墳、KENJIMail、2000/06/28 (水) 00:19、KENJIの玉手箱

今日は。
三塚古墳の事ですが、関西では6月20日のサンケイ新聞朝刊に航空写真付きで載っていました。
5月の連休の時、偶然、発掘現場の川を挟んだ対岸から其処を見ました。
ハイキングで降りてきた時に其処に出てきたのです。
同行者は「工事現場?」と言いましたが、殆どの遺跡は青いシートで覆われていた中に、ほんの少しだけ石組みが見えており、「遺跡の発掘」だと直感しました。
見えていた感じですと、古墳と言うよりは、石室の入口だけが崖に造られている様に見えました。
「古事記」に関係の有る「太安万侶」の墳墓の模型(原寸大)を見た事が有りますがその入口を石で囲ったような感じでした。
 新聞の航空写真を見ると、シートで覆われた所も写っていましたが、方墳・円墳?らしき形も見えました。
 「当麻氏」の代々の墳墓群ではないか?と疑問符がついた表現になっていました。
それと、立地条件が「風水」の考え方に合っている場所だそうです。
余り詳しい事を新聞にも書いていませんでしたが、もし、何らかを断定出来る様な(太安万侶の墓誌みたいな。)出土品が有れば又新聞に載ると思います。


238、Re: 三塚古墳、s_tan、、 2000/06/27 (火) 23:31、。

こんばんわ。
三塚古墳、お近くですか! 古墳は当麻氏? 蹴速とつながる地元豪族? 後の臣下の当麻?。。なにか古墳の立地が風水に則っているとか。。当麻寺との関連とか。。など?が色々浮びます。

>詳しいことが分かっていません。また新聞で報道されたらお伝えします。
#よろしくお願いします。

門僕神社、取材ありがとうございました。
先金¥○は門倭神社に劔を奉納の時に関連するモノのなのでしょうね、いろいろ連想するのが楽しい^^。
 「門倭」の名も面白いですし、それが「門僕」になった理由なども面白そうです。

237、三塚古墳、hahahaMail、2000/06/25 (日) 23:52 、。

こんにちは。
奈良県當麻町で三塚古墳の現地説明会が土日に行われました。
実は、私の住まいの少し上にあります。
当日まで、何も知りませんでした・・・。
家の前には、考古学ファンでいっぱいでビックリ!
でも、詳しいことが分かっていません。また新聞で報道されたらお伝えします。
門僕神社、読ませていただきました。参考になりました。
ありがとうございました。

236、Re: 初めまして、s_tan、、2000/06/24 (土) 02:34、。

KENJI いらっしゃいませ  こちらでは はじめまして

古代史へのきっかけ ですか
小さな頃(小3位まで)は城(山城)の絵をよく描いていたようです。この頃祖父が村の端に祠を建てていてたまには遊びに行っていたようです。たぶん小学高学年に家に有った日本刀を自分で砥いで唐黍とか小木を切ったりしてこっぴどく叱られた記憶があります。。と、あまり歴史に興味と言った、記憶はないですね。そういえば近所の崖で化石が採れて二枚貝やら巻貝掘ったりしてたです。
歴史というか城・戦国時代の本をよく読むようになったのはかなり後で、だんだん時代が遡り、超古代とか。。で記紀あたりを見るようになったのは10年ほど前からでしょうか。
神社へ、なんとなく立寄るのはずーっと続いていましたが、神社を目的に動くようになったのはつい最近です。
考古学といえば、新しい発見はいつも時代が遡りますね、それでもほんの一部にしかすぎないのですね。推理・妄想が一番事実に近いのかも^^。


235、初めまして、KENJI、2000/06/20 (火) 18:05、KENJIの玉手箱

初めまして。
私も古代史が好きで、イロイロと空想しています。
 所で皆さんはどの様なキッカケから古代史に興味を持たれたのですか?
ちなみに私は、学校の先生が考古学を私的?にされており、その影響で考古学の方から興味を持ちました。「古事記」に出会ったのは、高三の時図書室でした。それから30年以上たちました。

s−tanさんには、イロイロと参考意見を教えてもらっています。
今後とも宜しくお願いします。


234、Re^4:門僕神社、s_tan、、2000/06/17 (土) 03:27、。

>金石文字は青銅器や石碑などに書かれた古文字の総称で、篆書(小篆、大篆)は周〜秦あたりでの書体。
#周〜秦というと「徐福」^^; 。
大陸で伝説になって記録が無い、鳥がいろいろポーズしている文字の流れ、室町だったかに中国からの人が日本で発見して感激したとか。。一説に、熊野の鳥文字はこの流れとか。。

>門倭神社に剱を奉納するとあり今にその「先金¥○」(画像参照)を伝承する古社にして、昔より曽爾村八ヶ大字の御社なり。
#hahahaさん提供の境内掲示、ほぼそのまま写しの一部ですが。
醍醐といえば900年前後だから、醍醐のからみは延喜式・記載ということで、「先金¥○」は門倭と劔にかかるのでは。
宇陀の北はずれで門(関)とすると、伝承は神武・崇神10・雄略21朝倉宮辺りの夷、桓武50辺りまでの身内のいざこざ、この辺りかな、と思うのですが書紀には記事はないでしょうか。
千字文・応神15にあると、大陸の故事に重ねたモノになりますが、充分ありそうですね。王仁だと交野、大阪府立図書にはありそうですね、資料。


233、Re:情報です、s_tan、、2000/06/17 (土) 03:26、。

SEVENさん いらっしゃいませ。

「歴史読本」さんもhpお持ちなのですね。
最近、本は図書館が多くて殆ど購入してませんが、会員といいますと昔から本末尾あたりについている申込書の、でしょうか。

情報ありがとうございました。


232、Re: 初めまして。、s_tan、 、2000/06/17 (土) 03:25、。

榎田さん いらっしゃいませ。

即興ギターですか、アコーステックですね。
ギターいいですね良く聞きます。ソル、ジュリアン・ブルーム、セルシェル、パコ・デ・ルシア、プラタ、アトキンス、ケッセル。。気分で聞分けてます。

演奏と神社ですと京都1200年祭を思い出しますが、神奈川ですと座間神社、一度訪問されてはいかがでしょうか。


231、Re: お久しぶりです、s_tan、、2000/06/17 (土) 03:24、。

こんばんわ、いつもながら遅いresで失礼します。
hp拝見しました、着々と充実、今後さらに楽しみです。
ちょっと気になりますのが、お使いのHTMソフトが原因でしょうか、タグ(コマンド)の宣言が多すぎるような気がするのですが。。

素盞嗚尊に限らず神々は難しいです。
神格のモデルとしては「スサのオウ」が単純でいいのではと思います。モデルに他を重ねたり、分化されたり、時代・流行で擬されたりでしょうが。源・根っ子はどれでしょう、これが難しいのですが。。


230、Re^3: 門僕神社、かたばみMail、2000/06/13 (火) 19:52、。

金石文字は青銅器や石碑などに書かれた古文字の総称で、篆書(小篆、大篆)は周〜秦あたりでの書体。その後いろいろな書体が次々に創作されそして消えていったようです。
小篆ショウテンは篆刻(印)によく使われますが、曲げたりひねったり変形させることが少なくないです。

アップしていただいたポコチン型心臓が「心」の古形でひも(血管)が一本ぶら下がるのはその後らしい。
それがもうひとつの文字「忌」の下半分で忌はひもつき心臓の上に己が乗った複合の文字。

心臓は上が開いているのが標準?なんだけど門僕神社のは閉じてる。
でも現代の「心」は上に点が3つで下にひも、そうなる過程の形のひとつを模した文字ではなかろうか?

文言については中国の辞書のひとつ「千字文」に注目です。
4文字を韻をふんで組み合わせて構成されていて「夫唱婦随」もそのひとつだそうです。

応神時代に百済から論語と千字文がもたらされてる。
類似本がいろいろ作られたようですが、宇多、醍醐天皇時代に存在した千字文の文言である可能性少なからず。

≫先金肝心・・
いずれかの千字文に載ってるようなら確定(^^;

かたばみ


229、情報です、SEVEN、、2000/06/13 (火) 17:33、 www.jinbutsu.co.jp/

初めまして。
『歴史読本』を出版している新人物往来社が会員制のHPをはじめました。同社の出版物などが10〜30%OFFで買えるなど特典もあります。ご連絡まで。


228、初めまして。榎田竜路Mail、2000/06/13 (火) 13:38 。hp

初めまして。私は神奈川在住のギタリストです。
即興演奏(楽曲を用意せず、その場その時に現れる何かを表現する音楽)を中心に活動しております。

神社で演奏される音楽に興味があり、その情報を探しているうちのこのページに出会いました。何か情報等がございましたら、是非教えていただきたくこの掲示板に投稿させていただきました。
またどこか、演奏させていただくことができる神社を御存知の方、あわせて情報等を教えていただけたら喜びにたえません。よろしくお願いいたします。

P.S 即興演奏に興味のある方は私のページも覗いてみて下さい。


227、お久しぶりです、タケルMail、2000/06/11 (日) 20:51、hp

皆様に教えていただきながら何とかhpが出来てきておりますが、
本日ようやくリンクと掲示板を開きました一度訪れてください

すさのおの尊難しく理解しがたいですね
掲示板へぜひ感想やご意見を宜しくご指導の程も

  やまとたけるでした


226、Re^2: 門僕神社、s_tan、、2000/06/10 (土) 23:58、 。

>10000人おめでとうございます(^^)
#ありがとうございます。

訪問した社の写真と文、データベース化にはhtmタグが簡単便利と始めたhpですが、来訪の方々に励まされここまで続いています。

>先金○×の○は「干」の小篆文字だと思う(石碑や印用に使われる文字)。
#一番似ていると思われるもの、奈良・宇陀・門僕神社 に追加してみました。

>とすれば「先金干心」・・韻も踏んでるように思える。
#センキンカンシン、だろうか。

>お金が先にたつと心が干あがる、といった訓戒の一筆か・・(^^;;;
#先金肝心^^;で、逆の可能性もありそう^^。干の上、左右のヒゲ部分が気になるところ、心はどちらかというと上下逆転すると更に近いような気がします。伝承は全く別物かも知れませんが。。


225、Re: 門僕神社、かたばみMail、 2000/06/03 (土) 13:19

> hahahaさんが取材された、奈良県・宇陀郡の門僕神社をupしましたが、
> 神社境内由緒書にある「先金¥○」の訓みが判りません、記号の由来など、どなたかご存知ではないでしょうか。?

10000人おめでとうございます(^^)

先金○×の○は「干」の小篆文字だと思う(石碑や印用に使われる文字)。
×は同じく「心」の若干の変形(遊び)とみます(ポコチンみたいな形でひと目でわかる(^^;)。
「先」と「金」は現用の文字と大差ない小篆もあるのでそのまま読めるといったところじゃないかなあ。

金石文字の集大成に金石大字典/汪仁壽/1926上海求古斎書局がありますが、その復刻版/マール社の書体画像を送ります。字典の著作権は消えてると思うけど(^^;

とすれば「先金干心」・・韻も踏んでるように思える。
お金が先にたつと心が干あがる、といった訓戒の一筆か・・(^^;;;

かたばみ


224、門僕神社、s_tan、2000/06/02 (金) 23:15。

門僕(かどふさ・かどの)神社。

hahahaさんが取材された、奈良県・宇陀郡の門僕神社をupしましたが、
神社境内由緒書にある「先金¥○」の訓みが判りません、記号の由来など、どなたかご存知ではないでしょうか。?
「¥○」はTXT表示ができません、神社探訪・門僕神社、でご確認下さい。

「¥」は「Ψ」みたいで、なんとなく形から製鉄・武神の「蚩尤」を、次ぎの「○」は「うちわ」みたいで「天狗の団扇・山伏」を連想したのですが。。


223、Re:北向きの神社情報,ありがとうございました、s_tan、、2000/05/31 (水) 02:20。

北向きの社を調べるのも面白いですね。いつからとか、何時変ったかも調べられるとさらにでしょうか、南面信仰(強制,流行)・明治期・意図的などに分けられるのでしょうか。

追:綱越社は東向でした、訂正下さい。
>上野国一宮 貫前神社
#は南向だったと思いますが。。


222、北向きの神社情報,ありがとうございました、瀬藤禎祥Mail、2000/05/24 (水) 06:24

s_tanさん、皆さん、北向き神社の情報ありがとうございました。

播磨国一宮 伊和神社
上野国一宮 貫前神社
北海道神宮  対ロシア南下政策
丹生酒殿神社(和歌山県伊都郡)本社遙拝
も北向きだそうです。


221、Re:北向きの神社を探しています、s_tan、 、2000/05/23 (火) 23:07

あとで思い出すかもですが、とりあえず。アバウトな磁石ですので方位は正確さに欠けます。

・鹿島神宮、本殿・奥宮、神座は東向。
・二十三夜神社、茨城県潮来町。
・氷川神社末社稲荷神社:北,東寄り、埼玉県大宮市氷川神社末社。
・高太神社:東北東、群馬県富岡市下丹生(打越)
・牛倉神社:東北、山梨県上野原町(甲斐国)。
・諏訪上社本宮、諏訪市中州。
・諏訪上社前宮、茅野市宮川。
・佐瑠女神社、伊勢市宇治、猿田彦神社境内。
・厳島神社、天理市田町、石上社行宮。
・高宮神社(神坐日向神社):北北西、三輪山山頂。
(・綱越神社、東だったかも?桜井市三輪。)
・御霊神社(みたま)、生駒郡安堵町笠目。
・常世岐姫神社(八王子神社)、大阪八尾市。
・土生神社、岸和田市土生町。
・指出森神社、北北東、大阪阪南市貝掛。
・厳島神社、和歌山県九度山町下古沢。
・蛭子神社、和歌山県粉河町、粉河寺門前。
・淡島神社、和歌山市加太。
・志筑天神、北西、淡路島津名町志筑?天神。

*誤謬ありましたら、よろしく。
220、Re: 縄文神社、 s_tan、、2000/05/23 (火) 23:06

あまたの精霊にかこまれる、それが縄文神社。こんなイメージでしょうか、

>〜 近いうちにバーチャルでお見せできればと思います。〜
#お待ちしています。


219、北向きの神社を探しています、瀬藤禎祥Mail、2000/05/22 (月)

 ある神職さんが北向きの神社を探しています。
記憶にある神社がございましたら教えてください。


218、縄文神社を造ろう、宇宙原人Mail、 2000/05/21 (日) 21:39

縄文神社は実在しません。縄文神社を造ろうー、を合言葉に一人頑張っています。
とりあえず、近いうちにバーチャルでお見せできればと思います。きっと、皆様
お気に召して頂けるのではないでしょうか。神社の枠を超えた国民神社ー、それが
縄文神社です。


217、Re:お久しぶりです。、s_tan、、2000/05/15 (月)

千夜さん、おひさ。

むかし夏の羽黒へ行ったのですが、スキー場の案内看板をみて頂上からはパノラマが堪能できるかな?と思ったです。
割と近くの、即身仏のあるところ、湯殿山は撮影禁止だったですね。

>今度は是非、修験道関係で見て回りたいと思うこの頃です。
#修験道にはよくひっかります。山を背負う神社の大半が”むかし○×坊あり・・・”というのが。今より、山に住む人の絶対数が多かった様子ですね。


216、Re:邪馬台国が好き!、s_tan、 、2000/05/15 (月) 04:08

かすがさん、いらっしゃいませ。

奇遇でしょうか、お名前に記憶があり。。と思いましたら、先週、リンクをたどって貴hpへお邪魔しておりました^^。

>では、またお邪魔します。
#お待ちしております。いろいろ古代のお話、お聞かせ下さい。


215、Re:縄文神社を造ろう、s_tan、 、2000/05/15 (月) 04:07

>縄文神社は日本の誕生に立会い、日本の基礎又は基礎の基礎を造った縄文人をたたえ、祭るものです。

#縄文神社、いいですね。バーチャルではあるのでしょうか、それとも現実にどこかにあります?。
繊細な香炉土器とか、火炎、水紋・・・最近、勝坂式何点か見て再度驚嘆しております。


214、お久しぶりです。、 千夜Mail、2000/05/11 (木) 20:26 、hp

ご無沙汰しております。退魔鬼行&平安絵巻のページの千夜です。

GWに羽黒の修験者で有名な、山形の月山に行ってきました。
今回は山開き前で、単にスキーに行ってきただけなのですが、4/29になっても雪が降り、リフトが埋まってしまうという自然が壮大なところでして。人家の無い見渡す限りの白い山並みを見ていると、修験者の山岳信仰に浸れそうな気がします。
今度は是非、修験道関係で見て回りたいと思うこの頃です。


213、邪馬台国が好き!、かすが、 、2000/05/10 (水) 10:51、hp

はじめまして、私も古代史大好きです。
特に邪馬台国なんか興味あります。
弥生時代も好き。古墳時代も好き。
もっと勉強しようと思います。
では、またお邪魔します。


212、縄文神社を造ろう、宇宙原人Mail、 2000/05/09 (火) 00:41、

縄文神社は日本の誕生に立会い、日本の基礎又は基礎の基礎を造った縄文人をたたえ、祭るものです。
無くてはならない神社です。皆さんのご意見をお聞かせ下さい。