[#掲示板書庫.01]・[.02]・[.03]・[.04]・[.06] ・[古代であそぼ・Top]
459、マホ、アスベル生きていたか、Mail、2001/04/16 (月) 03:39、hp。
> ≫ 真秀言葉(まほことば)と言われる言葉について
> 「真秀言葉」がなにかはわかりませんが、万葉集に「国のまほら」を詠み込んだ歌が3首あります。
> 真秀(マホ)は文字通りすぐれたといった意味のようですが、万葉集のは「国のマホ達」の意なのかもしれません。
単純な語感からすると「ま=真」で「ま+ほら」とか「ま+ほろ+ば」という感じ。
前者は「国のまほら(真洞?)」で国のヘソみたいな意味(’’?
まほろばは有名なヤマタケの歌で、「大和は国のまほろば(真洞場?)」=国のもっとも大事な場所、優れた場所、美しい場所、といった意味かなあと思う。
ほんとはどうなの?日本武尊さん(^^
458、古墳の方向性、アスベル生きていたか、、2001/04/16 (月) 03:29、、。
木元さんのサイトへ行ったら面白い記事があったので転載です。
●ここで大切な事のもう一つに、大物主神の御座するところは御諸山(三輪山)ですから、箸墓の作られた方向は御諸山(三輪山)の方向に向けて作られている、ということです。即ち古墳は方向性をもっているのです。考古学者や歴史学者たちの多くが、古墳の方向性を意識していないのが現状ではないでしょうか。
僕も古墳の方向性って気にしてるんですよねー。何気に。
「応神陵は爺さんへの当てつけだろ!」
と、空想してます(^^
じっさいどうなんでしょう?
古墳の方向性に対して、何か整合性のある見方、ありますか(’’?
457、Re: お知らせです。、アスベル生きていたか、2001/04/16 (月) 02:58、。
> その祭りで、5/12日には、安本先生の講演会(午後2時〜5時まで、場所は平塚川添遺跡公園内のガイダンス研修室)
> 5/13日には安本先生と回るバスツアーがあります。
ふと気づきましたけど安本美典先生って『POPな古代史』の方ですよね。こちらのサイトの「はじめに」でお世話になっています。史観がすばらしいなと思って。
ツアーも面白そうだけど、九州は遠いですねー(^^;
1度ご本人に会ってみたいなあ。ゲームとか興味あるかしらん(’’?
456、Re: 教えて下さい・・・、アスベル生きていたか、、2001/04/16 (月) 02:50、、。
> > 真秀言葉(まほことば)と言われる言葉について
> #かなり遅れてのreplyですが、、
> 残念ながら不勉強で存じません。。
> マホ、からは、大和は国のマホろば、とか。真秀からは秀真(ほつま)を連想しますが。。
> かたばみさんの「万葉・・」が正解かもですね。
うーん知らないけど興味あるなあ。「まほことば」とカデゴライズされることばがあるんでしょうか?
それとも単に「まほ」がつくことばかな(’’
どうなんでしょうhotuma1さん(^^
(というわけで、コピーして聞いてきま−す)
455、天竺遊戯、アスベル生きていたか、、2001/04/16 (月) 02:43、、。
> 古代インド史はまだいろいろ謎が多いみたいですね。
> あちらでの研究が進まないと日本との関連も「空想」の段階にとどまらざるを得ないからなあ。
> 特にインダス文明の人々のその後の動勢やガンジス川方面のありようはわからないことが多そうです。
でしょうね。僕も五七調で押せる部分と、それだけじゃ不完全な部分、それから物で確認しないといけない部分があるから途方にくれてます。そんな該博なヒトじゃないし(^^; まあ「空想」を「物語」にしていく段では問題ないんですけどね。ただ史観になると、カタイひともいるので厄介な感じです。それでも真実はひとつなんですよね。ほんとはどーだったんだろ・・・と、そのへんをあそんじゃうのが正しいんでしょう(^^ 我々はいまを生きてるんだし、過去はあそぶもので、囚われるものじゃないですもんね。
454、多賀城址と塩釜もうで。、アスベル生きていたか、、2001/04/16 (月) 02:41
> ≫ かたばみさんにはお返事出来ずすびばせん。
>
> ちょい忙しくて応答が遅くなりました。
いえいえ、こちらも久々に「あそぼ」の掲示板見ました。
10〜11日に宮城県へ小旅行。
『ホツマツタヱ』における聖地、多賀城址周辺と、八角みこしの塩釜行ってきました。後者は夜12時くらいで(^^; 警備の方とお話し。蛙踏んづけました。いっぱいいるんですよあそこ。ただウロウロしてたら「気ぃ悪うしないでね、仕事上・・・」とやんわり退去勧告でした(笑)。それでも「気をつけてね」と、やさしいおじさんでした。
453、 Re: 教えて下さい・・・、stan、、2001/04/15 (日) 00:17、、。
いらっしゃいませ さつき うみ さん
> 真秀言葉(まほことば)と言われる言葉について
#かなり遅れてのreplyですが、、
残念ながら不勉強で存じません。。
マホ、からは、大和は国のマホろば、とか。真秀からは秀真(ほつま)を連想しますが。。
かたばみさんの「万葉・・」が正解かもですね。
今後とも、よろしく。
452、 Re: はじめまして、stan、、2001/04/15 (日) 00:10、。
千尋&彬さん いらっしゃいませ。
> 僕の新世紀を歩むも少しリニューアルしました。
#新世紀のクルーズの写真、感動的ですね。
船上からは、さらに感動的な夜明・幕開けだったでしょうね。
これからも、よろしく。
451、 有難う御座いました。、さつき うみ、、 2001/04/10 (火) 17:01、。
かたばみ様、有難う御座います。
早速万葉集関係のHPを尋ね歩きます。
450、 Re: 教えて下さい・・・、かたばみ、Mail、2001/04/09 (月) 18:12、。
≫ 真秀言葉(まほことば)と言われる言葉について
さつきうみさん、こんにちは。
「真秀言葉」がなにかはわかりませんが、万葉集に「国のまほら」を詠み込んだ歌が3首あります。
真秀(マホ)は文字通りすぐれたといった意味のようですが、万葉集のは「国のマホ達」の意なのかもしれません。
万葉集関係のHPでおたずねになればなにかわかるかもしれないですね。
449、 Re: 今日からまた京都、かたばみ、、2001/04/09 (月) 18:03、。
≫ かたばみさんにはお返事出来ずすびばせん。
ちょい忙しくて応答が遅くなりました。
古代インド史はまだいろいろ謎が多いみたいですね。
あちらでの研究が進まないと日本との関連も「空想」の段階にとどまらざるを得ないからなあ。
特にインダス文明の人々のその後の動勢やガンジス川方面のありようはわからないことが多そうです。
大己貴とナムチのドッキングは十分空想可能(^^;
12章を仮アップしてあります。
形式をリニューアル、細分メニューで長文の任意部分へジャンプできるようにして試行錯誤中。
1〜11章も順次改訂予定、誤りとか今の考えと違う部分がいっぱいあるし(^^;
448、 はじめまして、千尋&彬、Mail、2001/04/09 (月) 05:59、hp。
はじめまして・・・
宣伝をかねて、はがくれさんから来ました。
TOPがすごくきれいだなって思います。
仁和爺に今年の仁和寺の桜をやっとUPしました。
僕の新世紀を歩むも少しリニューアルしました。
また遊びに来てください。
案内役は動く猫君です。
これからもよろしくね。
447、教えて下さい・・・、さつき うみ、、2001/04/08 (日) 23:19、。
真秀言葉(まほことば)と言われる言葉について
何かご存じの方、教えて頂けませんでしょうか?
何から手を付けていいものやらさっぱりです。
どうか宜しくお願い致します。
446、 Re: 京都往来 、s_tan、、 2001/03/30 (金) 23:32、。
>楽しみましたよー。
>伏見稲荷、壬生寺、鞍馬寺、貴船神社、法金剛院、妙心寺、任和寺、蓮寺と参詣してきました。
#南から北まで、ずいぶんお楽しみでしたね、京都・縦断でしょうか、^^。
貴船神社は記憶に残ってますが、あとは行ったという記憶しかないです^^;
遠い昔か、通り過ぎたに近いお寺さんですねー。
夜の伏見稲荷、ってどんな感じなのかなぁ。。
今もまた、京都?でしょうか。
こちらは先週、信濃・安曇、穂高あたりへ足を伸ばしたところです。
小字に面白い地名がありました、波田、倭、氷室、・・・
445、京都往来、アスベル生きていたかMail、2001/03/21 (水) 01:52、hp。
> >アスベルさん
> 京都ですか、いいですねー。
> 余った時間を、或はつくって^^。楽しんでください。
楽しみましたよー。
伏見稲荷、壬生寺、鞍馬寺、貴船神社、法金剛院、妙心寺、任 和寺、蓮寺と参詣してきました。
金閣寺にも行ったんですけど、ここは時間切れでなかに入れず 残念。またトライしようと思います。
個人的には法金剛院の裏手にある待賢門院陵がよかったですね。
風がざあっと吹き抜ける好日、古人の前にふたりきり向かいあう と、感傷にひたれてよいです。
夜の伏見稲荷も、また違った意味で面白かったですね。
荷田神社を見つけたときは嬉しかったなあ...。
お賽銭100円も入れてしまいました(^^
そんなワタクシ、23日にまた京都です(^^;
HP更新すら出来ませんが、みなさんどうぞご愛顧下さい。
444、Re: お知らせです。、s_tan、、2001/03/14 (水) 23:16 、。
梓書院さん いらしゃいませ。
> このたび、5/12(土)、5/13(日)の両日、福岡県の甘木市において、邪馬台国祭りがあります。
#情報ありがとうございます。
ツアーも都合がつけば行ってみたいですが。。。
近くでしたら講演会には、とも思うのですが。
> また、当社HPもよろしくお願いいたします。(下記アドレスです)
#こちらこそ、よろしくお願いします。
443、お知らせです。、梓書院、Mail、2001/03/13 (火) 17:56、hp。
このたび、5/12(土)、5/13(日)の両日、福岡県の甘木市において、邪馬台国祭りがあります。
その祭りで、5/12日には、安本先生の講演会(午後2時〜5時まで、場所は平塚川添遺跡公園内のガイダンス研修室)
5/13日には安本先生と回るバスツアーがあります。(朝9時、甘木駅集合 安本先生の邪馬台国甘木説を裏づける奈良との地名の一致場所を回り、最終地点は吉野ヶ里。バスで回る間、安本先生の説明などが受けられ、参加費は3000円、昼食付き)があります。
また、東京、大阪から安本先生の講演やバスツアーをと考えられておられる方は、是非下記のパックツアーをご利用ください。飛行機往復チケット代、一泊二食の旅館(原鶴温泉)、空港から甘木までの往復チャーターバスがついて・・・詳しくは下記アドレスをご参照くださいね。
http://www.d2.dion.ne.jp/~azusa_co/tour.htm
また、当社の電話番号は271-5288
メールアドレスは azusa_co@d2.dion.ne.jp
です。お気軽にお問い合わせください。
また、当社HPもよろしくお願いいたします。(下記アドレスです)
http://www.d2.dion.ne.jp/~azusa_co/
442、 rere: & 、s_tan、、2001/03/12 (月) 00:34、、。
>アスベルさん
京都ですか、いいですねー。
余った時間を、或はつくって^^。楽しんでください。
>お知らせ
1時間ほど前に、メールの返信、hpの一部upの直後、ノートパソコンが壊れました。 HDD認識せず&ブートデスクも認識せず、なので傷は深いかも知れません。
ココ2ヶ月程の受信などデータは他にbackupなしですので。。、また時間が・・・^^;
教訓:再々の教訓ですが、パソコン&ソフトはいつ壊れるか分らない、物理的に別な場所にbackupしておきましょう。
441、 :『稲作民俗の源流〜日本・インドネシア〜』自費出版、竹取の翁、Mail、2001/03/11 (日) 00:33、hp。
貴方のホームページに、私のHP内容を掲載していただけますでしょうか。
宜しくお願い致します。
私のほうにもリンクさせて頂きますので詳細をお知らせください。
相互リンクHP http://hb3.seikyou.ne.jp/home/koizumi/ 及び
貴社の「ホームページ・メールマガジン」 に、下記の自費出版の記事を 入れていただけませんでしょうか。
●題名:『稲作民俗の源流〜日本・インドネシア〜』自費出版のお知らせ。
投稿者:小泉芳孝
内容:私が民俗調査したのを一冊にまとめて発売中!
古代駅制・山本駅と『竹取物語』では、京田辺市が「竹取物語の発祥地」
とし発表。神社以前の祭祀〜オハケと御仮屋〜では、京都祇園祭 「三条御供社」のオハケ、例祭の古式神饌〜京都・奈良・滋賀を中心に〜 では、秘儀の特殊神饌を紹介。南山城、山本の宮座と講。神々の島 ”バリ”の民俗儀礼。民俗の宝庫・トラジャの民俗など紹介。
出版社「文理閣」FAX 075−351−7560
内容詳細は、 koizumi@mb3.seikyou.ne.jp まで詳細送ります。
URL http://hb3.seikyou.ne.jp/home/koizumi/book.htm
440、Re^12: 三種の神器と縄文語、s_tan、、2001/03/10 (土) 00:31、。
>言語 →雑談に。
神宝
>ある文化段階になればどこでも生まれる考え方だと思う。
#ですね。地域・時代でその象徴のモノが違っているのが面白いところ^^。
覇者の考えが確立した東周以降が神器の確立した時期でしょうか。
神饌
同じく興味あり^^。里芋など根菜類は多いですね。鮭は香取に限らず千葉には意外に多いようです。
調理された(熟饌)供え物はOO神宮に多いようで、神宮とつくのは主祭神は「皇室の人」だろうと考えてます。社殿も住居に近い。
伊勢の鮑はヒモのようですから,税として朝廷でも食べてた物ですね。
肉と麦粉で調理されたものもあるらしい。鹿の生首とか兎・蛙などの供え物と御饌とは別次元なのか?興味在る所です。
生の(生饌せいせん)供え物は「自然」が主祭神が根と思う。
天麩羅は,(広まったのは)家康あたり以降と記憶してますが,古い文献などありますか。揚げ物としては菓子に近いものが古く在った様な気がしますが。
439、Re:リンク、 s_tan、、2001/03/10 (土) 00:28、。
>自分の方にデータ本体をコピーしてしまう場合は了解とらない限りまずいですね
#他者の権利の利用可否の線引は難しいですね。あまり硬く考えるとint-netの良さを殺すことにもなりますが基本は他者を尊重することですね。
相互リンクでは相互同一権利、A to A,Z to Zが基本でしょう。特に営業(会社)に多いようですが,他者の個々のページへのリンクを要望して自社のhpへのリンクはTopのみ、などとこんな会社へのリンクはお断りしてます。
画像ですが、公的場所での3次元のモノを写真にするのは、ほぼOKですが(3次元→3次元は不可)、他者の2次元の無断利用は不可です。int-net上でもこれに準ずると思います。
int-で利用時の線引は状況多岐故,難しい面もありますが、自分のhp内の情報と思わせる使い方は不可、しない,というのが基本ですね。判別不明瞭のhpが意外にあるようです。
当hpの個々の頁へリンクしてる会社があって,気付いた時点で削除指示のml出したが、削除はすれど何の連絡もなし、こんな会社が多くなったですね。
検索システムは,利用用途が一般リンクと違うので同レベルではないですね。まあ紹介文訂正とかリンク不可等の権利は作成者に属しますが。
438、今日からまた京都、アスベル生きていたか、Mail、、2001/03/09 (金) 02:55
今日からまた京都なんですよ〜。アルシンド。
もとい。
かたばみさんにはお返事出来ずすびばせん。
あ『古代インドの文明と社会』は借りましたよ(^^
おっしゃる通りよくまとまっています。
stanさん、上賀茂のお稲荷さんは入って右奥の方にあります。
写真の話しは好いですね。そういう空間なのが好きなところです。
現代でもあそんでしまおう。
あと、フラッシュで「カイダ文字(かな?)」なんてのが出てましたね。
ヨナクニの。ああいうのはどういう系統なんだろう?とか。
個人的にはホツマ文字との間連を探してしまう性です。ではまた(とほほ^^;)
437、Re^11: 三種の神器と縄文語、かたばみ、Mail、2001/02/25 (日) 18:50、。
≫一つの国で一言語というのは今でも意外に少ないから、国(邑)毎に結構違っていたのかも。
これは長くなるので雑談コーナーにアップします。
≫神宝は、三星堆ー殷ーの匂いが強いですね。3種のうち初期の即位に鏡が見えないの
3神宝はBC3000あたりの良渚文化の玉ソウ(祭祀)、玉鉞(軍事)、玉壁(商業、富)がいまのところ最古と思ってます。
ある文化段階になればどこでも生まれる考え方だと思う。
あとは地域性による追加やなにを象徴にするかくらいの違いなのではなかろうか。
余談
各地の神社での神饌シンセン(おそなえ)に注目しています。
伊勢神宮では鮑、香取神宮では鮭、上賀茂神社では鮭とニンニクのようです。
平凡百科によると揚物は神饌 など特殊なものを除くと揚物はまったく普及しなかった、とあるんですが、それではなぜ神饌では揚物が使われたのか・・
天ぷら好きの神様とは?(^^;
ご祭神の好物はそうそう変わらないはず。出自推定の助けになるのではないかと考えています。
かたばみ
436、 Re^9: 九州、朝鮮半島情勢、かたばみ、、2001/02/25 (日) 18:47、。
≫これは不可ですね。画像(データ)借用でHPが作れてしまう^^;
自分の方にデータ本体をコピーしてしまう場合は了解とらない限りまずいですね。
しかし、データの所在を示す場合はOKじゃないかなあ。
(ただし、アドレス表示など引用先が見える方法で行う→ブラウザの改善)
これを気にする場合はファイル名の変更で対応すればいいと思う(自動ソフトを作ればよい)。
このあいまい部分で仕事しているのが検索システムやリンク集だと思う(^^;
≫Top以外の個々のページへのジャンプも同様ですがこれは引用の明記が最低限ですね。
初めて訪問するHPの場合は表玄関の表札確認(^^;が礼儀だと思うけど、これもブラウザで対応してほしい。
例えば表玄関を通ってから指定ファイルへ自動移動するように。
部分引用は前後関係で内容の解釈が変わってしまうこともあるから基本的にはまずいだろうな。
ただし1ファイル以下に分割引用はできないはずだから、作る方の工夫である程度はリカバーできると思う。
画像の場合は画像にはっきりサインをいれておくべきかもしれない。
すかしサインじゃなく、どこに所在するかわかるようにはんこを押しておくわけです。
かたばみ
435、 Re^10: 九州、朝鮮半島情勢、s_tan、、2001/02/21 (水) 00:11、。
「弩」が秦の時代に急速に普及したのは、やはり騎馬ですね、以前の弓は日本と違い中心に矢をつがえる式ですね。弓の中心をずらすのは日本だけかなあ。
>新旧どちらにも共通項があって縄文1万年、結局方言程度の差だったんじゃないかなあ。
#一つの国で一言語というのは今でも意外に少ないから、国(邑)毎に結構違っていたのかも。
逆に頻繁な交易を通じて共通のコトバをつくりあげたのかも知れない。
神宝は、三星堆ー殷ーの匂いが強いですね。3種のうち初期の即位に鏡が見えないのも気になるところ。
>新羅本紀では250前後に「倭」との抗争が始まる。・・・
#どうも讖緯というか比喩がやたら多くて、事実を素直に記録できないのが多かった、と推測。
記紀にも比喩は多いですね、この辺りが政変・入替えとみて良いかも^^。
434、 Re^8: 九州、朝鮮半島情勢、 s_tan、、2001/02/21 (水) 00:10、。
>雑草から貴族まで手広く(^^;
#方喰も剣の無いのは貴族に多いですね(発生が古い紋)。
揚羽は女紋で男は使えない^^;、提灯に53桐の紋があったので桐も使っていたらしい。御用提灯と小田原提灯は剣方喰でした。
酢漿草は擦傷・切傷に効くそうで剣には相性いいですね。黄色い花のは古い種ですか、山に生えてます、半日影が好みのようです。
>掲示板によってHTML文の扱いが違うんですね。
#ココは、文中http以下を判別しタグに自動変換します。
>他のHPの写真をちょい利用する・・便利だけどこれはどういう扱いになるんだろう
#これは不可ですね。画像(データ)借用でHPが作れてしまう^^; 引用の明記をしても感心しませんね。
Top以外の個々のページへのジャンプも同様ですがこれは引用の明記が最低限ですね。
433、 Re^9: 九州、朝鮮半島情勢、かたばみ、Mail、2001/02/20 (火) 20:10、。
≫北九州からの日本海沿岸−対馬−半島南岸では共通のコトバがあった
旧石器時代では陸がつながって、南海の海洋民文化到来(推定)では海でつながってる。
新旧どちらにも共通項があって縄文1万年、結局方言程度の差だったんじゃないかなあ。
(当初のスサノオには通訳が必要だったかもしれないけど)
≫戦の前に神宝の確認,見せ合いが散見されるのは
天日槍のお宝などもそれでしょうね(ナガスネヒコの方はちとうさんくさいけど(^^;)。
鑑定で天孫縁者を確認、名に「天」があるのはそのためだと思う。
新羅本紀では250前後に「倭」との抗争が始まる。
崇神、垂仁は近畿掌握だけで手一杯、新羅と抗争したのは日本海系の倭(出雲系メイン)だろうな。
天孫軍事力がすべて去った邪馬壹国は有名無実となって九州は混乱状態へ。
景行やその王子達ががんばっていっとき回復したけれど、北九州、半島南岸、日本海沿岸が連合して九州倭王朝独立宣言(^^;
記紀編纂者はこのあたりをまとめるのに苦心惨憺(^^;
かたばみ
432、Re^7: 九州、朝鮮半島情勢、かたばみ、、2001/02/20 (火) 20:07、。
≫BG剣方喰はウチの家紋です^^。もうひとつは揚羽蝶
雑草から貴族まで手広く(^^;
(雑草だけど一応は薬草なのだ、小さい黄色い花のが先住種族のようですね)
実験失敗(^^; HTML文がダイレクトに表示されてしまった。
掲示板によってHTML文の扱いが違うんですね。
他のHPの写真をちょい利用する・・便利だけどこれはどういう扱いになるんだろう。
アドレスを書くのはOKだが、それをクリックすると無断利用??(^^;
≫以前でた「弩」ですが、武器として秦の頃から急激に普及したらしく
年輪法が大きな成果をだしてるようですが、土器の物理的な年代測定法の開発を期待したいです。
かたばみ
431,430、 Re^6: 九州、朝鮮半島情勢、 s_tan、、2001/02/18 (日) 23:22、。
葬送儀礼・生前の業績、両方ありですね。
海へ遺体を流すのと、本人が海の彼方からやってきた、とか。 葬送でも先祖が・・というのと、本人を故地へ送るというのと。
まあ記憶・伝えに残る単なる絵・デザインの可能性も十分ありますが。 どちらが主なのかは、古墳それぞれのヌシを考えるに興味深いところ。 大型造船所は秦にも呉にもあったというからこの辺りも探索余地有ですね。
半島南部・東西
テスト地図拝見、原始帯方郡というと漢武帝の頃の流れが半島東南には残っていた。後の公孫あたり、高句麗、新羅まで尾を引くのですね、この残りが。。
>模様替え
BG剣方喰はウチの家紋です^^。もうひとつは揚羽蝶。
>(言葉も方言程度の差の人々ではなかったか・・)
#後世(1500頃)のハングルは口の形と舌の形からの合理的文字だそうで、北九州からの日本海沿岸−対馬−半島南岸では共通のコトバがあった。
李氏朝鮮も国字は漢字で、ハングルの制定はそのコトバを話す人々が国内に多かったか殆どだった、のを表している?。
このコトバの歴史は100年やそこらじゃないですね。
合戦の前に神宝の確認・見せ合いが散見されるのは、元親戚とか元同僚かどうかの確認でしょう。なにが威力ある神宝かは大陸の情勢と連動していたのかも。。
臣下には、秦・呉など末裔が多く見えるが、少なくとも大陸の末裔を名乗ることが臣下として有利だった訳で、、では本体は。。?
など思うと天武あたりまでは、半島・大陸の影とか実態というか支態があった。
>、遡れば同族のよしみで天孫系と友好(呉→周→韓→殷(^^;)といったところか。
# ですねぇ ^^。
呉孫権の末裔も結構多いし(たしか行基蜂田氏も)。次に代ったのが夫余の流れ。天孫以前は、西域の月氏、インド・マガタあたりも^^。
以前でた「弩」ですが、武器として秦の頃から急激に普及したらしく、東北で発見された弩は大化の頃らしいとの報道でしたが、年代測定できたのかしら。。
429、 Re: 変りましたね。、 s_tan、、2001/02/18 (日) 23:11、。
>ワァ!トップ画面、春ですね。
#note(16万色)も使うようになって、見づらい、のを改善^^;
しかし、IEでつくり、NESCで再調整、この調整に時間が・・、Tableコマンドもcol/rowは動きが違うですね。
今日は暖かい、二十四節句・雨水ですね、関東も今夜は雨になるとか。。
428、Re^6: 鴨川なのカモ、s_tan、、2001/02/18 (日) 23:09、。
韓国キムチ3000円−1300円 ^^。どこもどちらかというと空港免税箇所が安いですね。あと裏道の店でしょうか。
勾玉のネックレス\890-量からするとプラでも安いですね、どこかに奉納して100年もすれば神宝になるかも^^。
加茂川は上流で鴨川は下流でした^^。逆でしたね。
大田神社、奥の稲荷さん記憶にないですが、参拝する前に一鳥居でカメラ構えていたら子供が横切りそれを止めたお母さんがいて、こちらが恐縮してちと立話、があって気持ちよい神社めぐりでした。
伏見稲荷は”おおむかし”に行ったきりでネガもどこへいったか・・・状況。なにか面白いもの見つけたら、よろしく。
427、Re^6: 九州、朝鮮半島情勢、かたばみ、Mail、2001/02/17 (土) 18:27、。
続き、ちょい実験(^^; 別図参照。
AD500頃、半島南岸には無文土器の稲作民(倭)の人々がいたが、AD200頃に箕子朝鮮と中国系の人々がまじりこんでゆくわけです。
半島では先住民との抗争のなかで西南岸に馬韓、南東岸に弁韓、東岸に辰韓誕生、九州側ではアマテラスと出雲。
ついで漢が登場。今度は秦の系譜の人々が半島西岸へ避難(^^;
(日本へ渡った人々が後のハタ系となる)
馬韓から追われた避難民の多くが東岸の辰韓へ移動、秦韓とも呼ばれる由縁。
(新羅本紀BC20年に避難民の扱いで馬韓と新羅が衝突とある)
BC150頃、長江系の呉楚氏族も日本へ・・天孫族の登場。山東半島や朝鮮半島へ渡ったグループもあったと思う。
弁韓は古出雲と事実上の同体だったが、馬韓と辰韓に圧迫されながら後に伽耶。
西南岸の馬韓は後に扶餘族が南下し徐々に併合されて後に百済。
おおざっぱにはAD1頃では馬韓、弁韓は出雲を含む日本海沿岸系の倭と友好。
辰韓は複雑なんだけど中国系勢力優勢となって、遡れば同族のよしみで天孫系と友好(呉→周→韓→殷(^^;)といったところか。
426、Re^5: 九州、朝鮮半島情勢、かたばみ、、2001/02/17 (土) 18:25、。
衣替えですね(^^)
≫葬送儀礼の他に、生前の業績・進軍、というのも
それもあると思うけど、根の国の「霊園」へ埋葬にゆく船を具体的に写したものじゃないかと。
≫南西部と、南東部は違う?
半島南部には孔列土器〜無文土器時代があって縄文末期からAD1あたり。この時代の西日本から同類土器がでてる。
時代区分など研究中のようですがこの人々が当初の半島南部と九州北部のベーシックな人々とみています。
初期開拓者でもあり、早稲種の発見者。BC2000以降の長江三苗の文化を受けた人々。
(言葉も方言程度の差の人々ではなかったか・・)
秦に滅ぼされた韓の人々は殷に遡っての縁者である箕子朝鮮を頼って避難(半島での韓の名称の源)。
続いて魏、趙、燕が滅びてそれらの避難民が大量となって箕子朝鮮は崩壊。
燕の衛満によって箕準王自身が半島南部へ追われる・・魏志韓伝にいう半島南部における「韓」の登場。
九州北部と半島南部に「王」が登場、BC200頃、日本側ではスサノオの登場(徐福もこのころ)。
半島南部でも九州と同じく紛争が続いたと思う。
425、変りましたね。、KENJI、Mail、2001/02/17 (土) 09:40、hp。
ワァ!トップ画面、春ですね。
早く暖かくなって欲しいです。
寒さに弱いもので・・・(笑)
春に成れば、ウロウロと出歩きます。
424、Re^5: 鴨川なのカモ、アスベル生きていたか、Mail、2001/02/17 (土) 07:19、hp
> こんど拝見しますね。太田神社も立寄りました。
とか言いつつ、見てきました。
ちょっと懐かしい。天気好かったみたいですね。
おの奥にあるお稲荷さんには行かれました?
あそこでやきもち食べて紅茶飲んだりしたなぁ‥
3月にまた京都行くので、今度は伏見稲荷でも言ってみようかしらん。
423、 Re^4: 鴨川なのカモ、アスベル生きていたか、、2001/02/17 (土) 07:09、。
> #ロッテは出来た頃、まだ工事中の箇所があったです。
> ホテルの地下街で買物したですね、かなり値切った記憶が。。^^。
団体で、帰りにお土産屋さん連れてかれたんですけど、そこでのキムチ3万ウォンが空港の免税店では130ドル(^^; 大まかに言って3000円:1300円なり。あーあ。
でも、そこで買った勾玉のネックレスは1000円から890円に負けてもらいました。ほんとは888円にしてくれって言ったんですけどね。日本では縁起のいい数字だからって(笑)
> 上鴨、当hp神社探訪でご覧下さい。2年前のちょうど今ごろの撮影です。
> のんびりできるところですね。社殿内がガード固いですが。
> 鴨川は、下加茂社から下流は加茂川と表記するらしいですね。(逆だったカモ)
こんど拝見しますね。太田神社も立寄りました。
社殿は確かにガード固いですね。猛獣でもいるのかと言う固さ。
加茂の表記は...そうなのカモ(と、お茶を濁しておく^^)
422、Re^3: 鴨川なのカモ、s_tan、、2001/02/12 (月) 23:22、。
> そうそう、ロッテすごいです。
> あ、コンビニでガム買っておけばよかった。
#ロッテは出来た頃、まだ工事中の箇所があったです。
ホテルの地下街で買物したですね、かなり値切った記憶が。。^^。
上鴨、当hp神社探訪でご覧下さい。2年前のちょうど今ごろの撮影です。
のんびりできるところですね。社殿内がガード固いですが。
鴨川は、下加茂社から下流は加茂川と表記するらしいですね。(逆だったカモ)
421、Re: 神功皇后車、s_tan、、2001/02/12 (月) 23:11、。
いらっしゃい。
>有松の山車の一つ、神功皇后車って「じんぐうこうごうぐるま」と読むのですか?
#でしょうね。「ぐるま」は「だし」「やま」かな。
有松といえば、名古屋?大阪?、地域で全くのアテ字(読みが意味・伝承からとか)というのがあるので、地元で聞かないと。。
名古屋はどうだったかなあ。。
420、Re^4: L前、神武、朝鮮半島年表、s_tan、、 2001/02/12 (月) 23:09、。
>珍彦は倭王珍の祖先でもあったりして・・30%マジ(^^;
#迎えにでた、との表現だが、上位のものでも迎えには出るですね。
舟形埴輪や船の壁画・・・
、 葬送儀礼の他に、生前の業績・進軍、というのも。
>50〜200年あたりの半島南部には扶餘でも中国系でもない人々がみえる。
#南西部と、南東部は違う?
419、 Re^2: 鴨川なのカモ、アスベル生きていたか、、 2001/02/12 (月) 22:49、。
> #あれ、韓国ですかロッテでしょうか、
そうそう、ロッテすごいです。
あ、コンビニでガム買っておけばよかった。
> 上鴨はいいですね、広々とした芝生と山水の庭園、境内を流れる清流で近所の子供たちが遊んでいる、そばに国宝。
> 水面に逆光のきらめき、いい感じですね。
お、ご存知ですね(^^
この文脈、端的によく表われてます。
いい感じです。
418、 神功皇后車、ふりお、Mail、2001/02/11 (日) 20:04 、。
有松の山車の一つ、神功皇后車って「じんぐうこうごうぐるま」と読むのですか?
417、Re^3: L前、神武、朝鮮半島年表、かたばみ、、2001/02/08 (木) 22:03、。
≫珍彦といえば大和神社ですが東殿塚古墳出土の土器、3隻の大型船
珍彦は倭王珍の祖先でもあったりして・・30%マジ(^^;
舟形埴輪や船の壁画の多くはある葬送儀礼の具体的な表現だろうと推定。
その関係者には卑弥呼の姿もちらほら・・大阪の古墳に阿蘇の石を使ったりすることとも関係ありと思ってます。
50〜200年あたりの半島南部には扶餘でも中国系でもない人々がみえる。
半島側での初期開拓者(稲作者)とスサノオ系譜(伽耶、古出雲と同体)だろうとみています。
その人々は弥生後期あたりから南下する百済と変化する新羅にはさまれて圧迫されてゆく。
(列島側でも倭国争乱真っ最中)
新羅の312年に倭国が花嫁を求めてきたとあるけれど、景行天皇の婚姻融和策と合致。
垂仁天皇も丹波や尾張の嫁さんいれてがんばってるけど景行天皇のはケタが違う。
王子は50人以上、実際にはその2倍かなあ。姫も含めればそのまた2倍(^^;
かたばみ
416、 Re: 明日香村、飛鳥坐神社おんだ祭、 s_tan、、2001/02/05 (月) 23:20、。
hahahaさん
「飛鳥、おんだ祭り」
飛鳥坐の社域で何千人もの人というと、すごい混雑ですね。
楽しそう、の雰囲気が伝わってきます。
明治以前は、楽しそうな祭、特徴ある祭が各地にもっとあったようですね。
亀型石情報、お手数ですがよろしくです。
415、明日香村、飛鳥坐神社おんだ祭、hahaha、、 2001/02/05 (月) 00:04、。
お久しぶりです。
4日に、飛鳥坐神社のおんだ祭に行って来ました。
西日本、三大奇祭と言うこともあり、笑いが絶えませんでした。
毎年、何千人もの見物客(神社周辺込み)でその楊子を、撮影 することは出来ませんでしたが、楽しい祭りでした。
どこの祭りも、いろいろあって良いものですね。
特に子孫繁栄の行事は・・・。
この神社の近くに、亀型石の出土があった場所があります。
こちらは、なにやら大きな建物が建設中でした。
そのまま保存したら良いのにと思いましたが、うまくいかないようですね。
*出土した時に、説明会に行きました。
当時の写真がありました。ご入り用でしたらお申し付け下さい。
414、Re^2:豊前、神武、朝鮮半島年表、 s_tan、、2001/02/04 (日) 23:55、。
>神武あたりの年代をまず仮定してから推論広げないと・・・
#メインは割と記紀編纂に近い時期で,いくつかの事跡を重ねたのでは。記紀の表現からすると古墳時代以前は殆ど考えていない。
古いのは、
珍彦といえば大和神社ですが東殿塚古墳出土の土器、3隻の大型船で船上にたなびく幢,船首に消された跡ある鳥,鶏,,の線刻。とこの辺りで。。
次が、黄巾の乱から呉・孫権辺り、
新しいのは、推古の時代、
瀬戸内に大軍来襲の話が散見される。明石市の稲瓜神社(祭神:大山祗大神,百足大神,惶根大神)では 「推古時代唐の兵9000来襲」。
>半島南西部にある前方後円墳はだれの墓・・
#生駒西麓の前方後円墳に多い木棺の材質,特産のコウヤマキが使われている。半島のソレの材質から生駒から運ばれた可能性が強い,というのがあります。
生駒の周りも古墳の展示場の感、丸,ホタテ,前方後円,横穴集合、、甕棺から竹割,箱,石棺。。
〜百済本紀、お手数さまです、これから拝見。
413、Re: 鴨川なのカモ、s_tan、、2001/02/04 (日) 23:53、。
>韓国より帰って翌日、上鴨神社へ参拝しました。
#あれ、韓国ですかロッテでしょうか、
上鴨はいいですね、広々とした芝生と山水の庭園、境内を流れる清流で近所の子供たちが遊んでいる、そばに国宝。
水面に逆光のきらめき、いい感じですね。
412、 Re^2: Re豊前、神武、 s_tan、、2001/02/04 (日) 23:51、。
>宇佐の祭祀を司った辛島氏の系譜によれば、素盞嗚尊ー五十猛命ーの末端に 宇豆彦が出てきます。
#ウズヒコの名は篭神社の海部氏系図に始祖彦火明,本系図に天照国照火明,それぞれ3世孫。
豊国、瀬戸内、吉備、丹波、紀、大和、皆同族・・いや同僚? 可能性はありますね。
辛島氏の素盞嗚は付会だろうとの説もありますが、少なくとも無関係ではないだろうと考えてます。
或は素盞嗚は皇統と由緒血統は同じだがちょっと違う,という表現する代替というか代表する名なのかも。
茨[木]市ですね,茨[城]県でなく。。
411、Re:豊前、神武、朝鮮半島年表、かたばみ、Mail、2001/02/04 (日) 18:47、、。
≫神武東進の逸話は,300-500年間の事跡,大きく3つか4つの事跡を
神武あたりの年代をまず仮定してから推論広げないと袋小路や落とし穴に落ちてしまいそうですね。
豊後や豊前の記録の多くも形を変えて古事記や書紀に移動されていると推定。
空白時代を推定する重要ヒントが朝鮮半島の状況と列島との関連だと思っています。
BC57〜AD650頃までの新羅本紀と百済本紀の対外記事を抽出した年表を第6章の参考としてアップしておきました。
500年頃までは飢饉や天候異変の記録が多いですが、和戦の変化とそれにはさまる事象の流れを見ると当時の国家の性格や権謀術数の様相がみえそう。
半島南西部にある前方後円墳はだれの墓か・・
両本紀に書かれる倭や伽耶とはなにか・・
ほとんどひとつの方向(空想)を指しているのではなかろうか(^^;
かたばみ
410、鴨川なのカモ、アスベル生きていたか、Mail、2001/02/03 (土) 00:30、hp。
みなさんこんばんは (^-^)ヽ
韓国より帰って翌日、上鴨神社へ参拝しました。
寄宿先の恩人に自転車借りて鴨川ぞいを溯上しましたが、午前中の逆光を浴びた水面や水鳥の影など、えもいわれず美しかったです。
これより以前下にも行きましたが、私は上の雰囲気がより好きですね。
個人的にはセオリツ姫の社を初めて発見して、何だか嬉しかったです(^^
409、Re: Re豊前、神武、神奈備、Mail、2001/02/02 (金) 19:48、hp。
> 珍彦といえば、どうも神功の案内をした磯良大神,九州安曇氏の祖神と言う事ですが、珍彦・磯良が重なってみえる。
> 茨城市の磯良神社,通称疣水神社、磯良の貝殻とか神功の疣は何を伝えたいのか。
宇佐の祭祀を司った辛島氏の系譜によれば、素盞嗚尊ー五十猛命ーの末端に 宇豆彦が出てきます。
紀氏の祖と同じ名前です。紀氏も素盞嗚尊を祖とする系図を持っています。珍彦かも。
また火明命の子に武位起命がいます。五十猛命に似ている名前でしょう。この武位起命の子神が珍彦です。
もうひとつ、安曇磯武良、これをイシタケルと読めばずばり五十猛命です。重なって見えるのに同感です。
大阪は城ではなく茨木市でした。・・
408、おんくろう・神相撲、 s_tan、、2001/02/02 (金) 00:01、。
神相撲、取組表の名・勝敗が興味深く、補足します。
八幡古表神社:福岡県筑上郡吉富町大字小犬丸
今は息長大神宮と合併して,本殿祭神は息長帯姫とその妹の虚空津姫で東御殿に古表大明神として40柱の傀儡子の神々を祀る
古要神社:中津市大字伊藤田
宇佐放生会の参加は江戸以降中絶している。村の鎮守の祭に、傀儡子の伎楽と神相撲・神舞が行われているようす。
傀儡子=木彫りの操り人形、動く仕掛は両手、片足。
神相撲=木(桧・杉)でつくられ、これを木偶という、木偶を(でく)ともいい、棒のことで「でくの棒」とは一本の棒状の人形をいい東北の「おしらさま」と同系で「くぐつ」と読む。
神事芸能は木偶を陰遣いし笛と太鼓の単調なリズムの中で時には静かに、時には上下横に強く運動して行われる。悪鬼・悪霊を鎮圧する呪術的意味をもっている。
古表社の木偶神像はもと40体とし、おん相撲(角力)の神22体、おん舞の神18体。おん行司の神4体。計46体である。
古いものは室町時代のものがあるが、元和の頃(江戸初期)に一揃い再興した。
大きなものは力士の40cm位、最も小さいのは「おんくろうの神」と崇められている力士で20cm位。
取組表と勝敗
○誉田大神 − ×龍田大神
×誉田 − ○鹿島
○若宮 − ×鹿島
○若宮 − ×香取
○若宮 − ○塞さえの
×伊多手 − ○塞
○長田 − ×塞
○長田 − ×高麗たかおがみ
×長田 − ○暗麗くらおがみ
○大美輪 − ×暗麗
○大美輪 − ×春日
×大美輪 − ○大歳
○三島 − ×大歳
○三島 − ×若歳
○三島 − ×松尾
×三島 − ○住吉
×白髭 − ○住吉
×熱田 − ○住吉
×磯良 − ○住吉
×酒殿 − ○住吉
×祇園 − ○住吉
---以上、:清輔道生,八幡大神の神託
*掲示板上限,500文字のため削除分を転載時に付加。
407、Re豊前、神武 、s_tan、、2001/02/01 (木) 23:24、。
珍彦といえば、どうも神功の案内をした磯良大神,九州安曇氏の祖神と言う事ですが、珍彦・磯良が重なってみえる。
茨城市の磯良神社,通称疣水神社、磯良の貝殻とか神功の疣は何を伝えたいのか。
景行紀に豊前の,神夏磯(かむなつそ)姫が、賢木(さかき)に、鏡・剣・玉をつけ,船の舳に「素幡しろはた」を立てて参向したとあるが、この「しろはた」が白なら遡ると夫余か。夫余なら百済,高句麗、buyuで鹿、で春日藤原。
豊前の傀儡子,神相撲の住吉は"おんくろう"で黒。黒といえば,天武もたしか黒旗、「秦」以降何度も中原を追われた今に続く客家も黒に近そう。北方から中原経由組かな。
神武東進の逸話は,300-500年間の事跡,大きく3つか4つの事跡を合わせたのかも。
一番最近(天武直前?)の軌跡は豊前−瀬戸内−河内−紀−吉野−宇陀−大和の気がする。
406、Re^6: R下影日売の続編です、かたばみ、Mail、2001/02/01 (木) 19:20、。
崇神あたりになるといろいろな要素が増えてきてたいへんですね。
天日槍の出自は朝鮮半島南岸の天孫系譜の末裔の亡命でAD250頃、とにらんでいます。
根拠は弥生中期の九州と半島の土器形式の変遷といくつかの連想によるのみで危ないですけど(^^;
(ちなみにツヌガアラシトの方はスサノオ系譜(^^;で別人)
朝鮮半島西南岸から前方後円墳が9基発見されているようですが、AD500前後のものだから前方後円墳は日本特有だろうなあ。
兵主神社は争乱時代の出雲の勝利祈願が源で祭神は道教の兵主神(戦闘神)だったが、争乱終結後に一般的な出雲神に変更されたと推定。
では天孫系の巫女が祭祀できなかったという大倭大国魂神とは??
縄文古来の精霊信仰?を総合する神格が大倭大国魂神ではないかと思っています。
出雲の祖先神を王宮には持ち込めないので、出雲に密着していたであろう縄文神?をもって代表させたというわけです。その象徴が蛇かな。
これらの行動が崇神の名の由来とみています。
縄文文化(初期三苗文化含む)との接触は位置的に出雲の方が天孫よりはるかに深く相互の影響も濃かったと思うのです(例えば蝦夷の誕生、栃木の初期古墳は前方後方墳です)。
かたばみ
405、Re^6: 横からスミマセン、かたばみ、、2001/02/01 (木) 19:17、。
≫極端な推理をすれば、神武天皇は応神天皇の写し?
神武の具体的年代や行動はあいまいなのでいろいろな事象と重ねやすいですね。
大和王朝(継体以降)が確立してからは政治的な意識を投影する伝承も増えたのではないかなあ。
確か明治のお札には神功皇后と武内宿禰が登場。
明治政府要人(長州藩系)のヤッターという意識が武内宿禰に写されたんじゃないかなあ(^^;
自説での応神在位は391-406としてますが実際には、仁徳在位(406-437)の前半に重なってもう少し長いと推定しています。
別王朝並立ということで、ドーンといけば応神以降が倭王五代、日本武尊系列が仁徳以降・・(^^;
かたばみ
404、Re^5: R下影日売の続編です、 かたばみ、、2001/02/01 (木) 19:14、。
stanさん、山小屋で雪に埋もれてるのかと思った(^^;
珍彦ウズヒコは神武海軍の水先案内をしたという槁根津彦あるいは椎根津彦の旧名ですね(AD50頃か)。
倭国造の祖、遡れば縄文+海洋系三苗の流れをひく臼杵〜日向沿岸の漁労と農耕の兼業民と推定。
天火明の紀州濃尾への渡海を支援した海神族の後裔でもあると思ってます。
佐賀関には椎根津彦神社があって近辺から祭祀用銅矛がでてる(瀬藤さん解説の水銀鉱脈の西端)。
ここに生活遺跡はないようで古出雲の祭祀あるいは監視所あたりかな。
関連空想(^^;
日向の五瀬艦隊は豊後水道から大分へ上陸作戦敢行、この案内が椎根津彦。
志賀島を発した神武艦隊も関門海峡から宇佐ないし中津上陸を目した・・でもどっちもあっさり撃退されてしまった(^^;
出雲艦隊(=商船隊)は日本海と瀬戸内で鍛えられてこの頃には最強に成長していたと思うのです。
別府市の鶴見岳からは豊後水道から四国まで一望できる、のろし一発で迎撃OK。
やむなく神武は山越え作戦に切り替えた。
晩飯のおかずを釣っていた事代主へ急を知らせる天の鳩船が・・
かたばみ
403,402、Re^7: 横からスミマセン、s_tan、、2001/01/31 (水) 00:02、。
>KENJIさん
#鷹居社,現在は小さな社のようですが,辛島-大神からみで興味深いですね。
(527)筑紫君磐井が新羅と通じ近江臣毛野率いる6万の軍の渡海を遮る。
磐井は大連物部麁鹿火に(久留米市付近で)惨殺される。
(529)毛野は渡海したが敗れる。
(562)頃までに加羅諸国は殆ど新羅に統合される。書紀欽明23年正月条に記載有。
磐井の乱後,屯倉が筑前3,肥後1,豊前5ヵ所豊前は豊国に集中している。
この頃,豊前香春岳の辛島神(神名:辛国大姫大目,亦名豐比売)を奉斎する辛島勝氏が東進宇佐に移住,稲積山を聖山とする。宇佐公氏の配下?に。宇佐神と辛国神の妥協の形が宇佐氏の聖地小掠山の北辰神社とも。
のち,辛島氏が大神氏(八幡)を迎えた当初,辛島の女祢宜の下で祝にしている。
その後長い間辛島氏は女性を神事の頂点に置いている,大神氏が力を持ったときも男でありながら女として扱っている。
-- 半島の花郎は男児が主流だったが,初期のそれは女性が中心だった。この初期のからみが辛島氏と密なのかも,年代もある程度限定できるかも。
八幡神の降臨伝承は豊国の3氏でずれがあるようですが,辛島氏の伝承では、辛国宇豆高嶋(宇佐の稲積山)に先ず天下り,後,大和-紀伊-吉備を巡り,宇佐の馬城峯,それから宇佐郡内を廻り欽明の時(568)鷹居社に鎮座したという。この巡幸先がなかなか。。面白い です。
??ですね,古代は、神名は1+1=1ってのが結構ありそう。
401、 Re^5: R下影日売の続編です、 神奈備、Mail、2001/01/30 (火) 18:49、hp。
> 倭迹々日百襲姫と大物主 からの妄想
百襲姫の古墳を箸墓とすれば、後円部中心、前方部中心が穴師兵主神社と一直線になるとのこと。
穴師兵主神社は巻向の山を神体山とした神社で、兵主神社は天日槍命を祭神としているとのこと。
この山は三輪山より100米高く、三輪山を見下ろすことができます。大神神社はいかにも三輪山を祀る雰囲気ですが、山頂をはずしています。大神神社、三輪山頂、巻向山頂が一直線上にあります。こっそり巻向山を祀っていたのかもしれません。
ついでに、巻向山頂から三輪山頂を見ますと、畝傍山付近が見えます。伝初代天皇陵につきささるのです。
大和の国魂を祀るように見せかけて、本音は天日槍命を祀っていたと考えることができます。すなわち、大和に王権を開いたのは天日槍命を奉ずる連中かも知れません。
葦原色許男と戦った神として播磨風土記に登場しています。
系図を信じれば天日槍は崇神より3代前の年代ですね。
400、Re^5: 横からスミマセン、KENJI、Mail、2001/01/29 (月) 21:05、hp。
> 宇佐はなにかにつけて要注意地域ですね。
宇佐の地は、高木彬光氏が、邪馬台国の想定をしていますね。
小説の形を取っていますが、内容は面白い見識も有ります。
和銅五年(712)応神天皇を鷹居瀬(たかいせ)に祭る。
神亀二年(725)現在の菱形山に移った。
天平三年(731)第二神殿に玉依姫(比売大神)を祭る。
弘仁十四年(823)大帯姫(神功皇后)を祭る。
応神天皇と比売大神が祭られた時代は近いが、 神功皇后は100年程経ってから祭られています。
応神天皇と玉依姫(比売大神)の関係は何か???
極端な推理をすれば、神武天皇は応神天皇の写し?
じゃぁ、神功皇后=玉依姫になる。???
こんがらかって来ました。(笑)
399、Re^4: R下影日売の続編です、かたばみ、Mail、 2001/01/28 (日) 23:07、。
≫多いと思います。霊感では男の比ではないようです。念為。
探してみたら美人神主さんのHP発見(^^)
他にも女性神主さんは戦後から認可になったなんて記述もありました。
宇佐はなにかにつけて要注意地域ですね。
石塚山や赤塚古墳など大和の箸墓古墳群とならぶ最古級の前方後円墳があって円墳や方形周溝墓と混在しているようだし。
崇神紀(自説261-285)に淳名城入姫に代えて大田田根子に祭祀を行わせたという記述がありますが、天孫系祭祀と出雲系祭祀の当時の状況を表現しているのではないかと考えています。
倭迹々日百襲姫なんて長い名が垂仁天皇(285-319)の姫では簡素に倭姫だけ、景行天皇(319-341)では倭のつく姫がいなくなってしまう。
これは天孫系祭祀の衰退ないし天孫と出雲の複合祭祀への変化を暗示するのではなかろうか。
大和でのその象徴が倭迹々日百襲姫と大物主の結婚。
実際には、双方が神様に昇格した後の合体説話で現実の結婚ではないとみていますが、彦火々出見と豊玉姫の結婚同様にすんなり合体ともいえない内容が含まれるのが興味深いところです。
このあたり前方後円墳の登場に関係ありやなしや?
かたばみ
398、Re^4:R下影日売の続編です、s_tan、、 2001/01/28 (日) 00:20 、。
#
影比売というと、物部からみ平群鮪との影比売を思い出すのですが、こちらも平郡を通じて紀とは縁深いですね。
建内宿禰というと名前交換、というと気比が有名ですが明治天皇も甲斐から相模への直前に行っているから天皇と国換えがセットになると名前交換のカタチ、が通例だった?
建内宿禰は神事ではサニワの位置?埴輪の琴弾きは男が通例だから舞台設定も重要な役割?
神功と宿禰は住吉と関連深いですね、珍彦も海草まみれで海から出てきて大和の国主。
住吉といえば宇佐の古要神社の傀儡子では40体の神が相撲をし優勝するのは住吉神になっている。
建内宿禰・神功・住吉が広範囲に広まっているのに、その母の影比売が列島に殆ど見られないのは列島に縁が薄いからでは、という推理もありますね。母は列島の土を踏んではいない、という。
397、いらっしゃいませ、s_tan、、2001/01/28 (日) 00:18、。
正月過ぎより、歴史と隔離された生活を送ってました^^。
本日、久々に出先の千葉から珍しく降雪の中、船橋大神宮へ、さすがに人が少なく駐車場は車2台。
>瀬藤さん
今年もよろしくです。
船橋大神宮(意富比神社)には日影姫の痕跡はなかったですが、摂社に住吉(大鳥神社)があり、あと境内社で粟島、サル田比古あたりが近いところでしょうか。
>アスベル さん
神社境内での”あかあかと燃える火”いいですね。
熊野と火というと結構盛大な火だったのでしょうか。
>山森 国造 さん
ことしもよろしくです。
武蔵野御陵までこられたのですか、お疲れ様でした。今年もお元気で!。
>nick さん
いらっしゃいませ。
>私は単なる疑問から追っかけているだけですが、専門家の所見が今だ見えてきません。
#徐市は、倭人伝あたりと同レベルの史書に記載と思うのですが、いわゆるアカデミックは無視してますね。無視には大きな理由があるのかも。。
列島への移動は多種多様であったと思いますが、徐市は良・質とも大きかった、だろうと思います。
同様に、呉の船団のその後、仙台近くで発見された「弩」の裏づけ、あたり興味津々というところです。
▼↓ ▲↑
396、 Re: 海幸山幸、天孫降臨、拝見しました。かたばみ、、2001/01/27 (土) 22:57 、。
nickさん、こんちは。
長文をお読みいただいてありがとうございます。
この時代になるといろいろな要素がからみあってきてまとまりがなくなってしまいました(^^;
韓国カラクニの名の由来について2つの可能性を考えています。
ひとつはBC220頃、秦に滅ぼされた戦国七雄の韓氏族の到来。
(韓は位置的に殷の末裔が多かった国と推定)
南九州ではこちらの可能性が高いとみています。古来からの済州島〜五島列島経由で九州西岸〜南岸一帯へ。
(斉の徐福の行動は始皇帝へのひねった反抗(^^;)
もうひとつがBC190以降でスサノオ関連、箕子朝鮮が殷由来であるならこれも韓とつながりそうです。
(秦に滅ぼされた韓氏族が箕子朝鮮を頼って少なからず到来していたと推定)
なお、反秦ではなく漢支配から逃れた秦の関係者も渡来。
これもBC190以降でほとんどは最新の朝鮮半島南岸〜対馬壱岐ルートで北九州へ。
こちらは秦ハタ氏に直結か? 韓とは無関係ですが出雲と関係をもった場合は微妙。
かたばみ
395、Re^3: R下影日売の続編です、 神奈備、Mail、2001/01/26 (金) 20:48、hp。
かたばみさん、応答ありがとうございます。掲示板をやっていると、まじめに応答しなければと言う気になり、勉強にもなりますが、ペースも乱れますね。
> 「莵、宇」から宇佐に関連する人物
流石ですねと生意気を申し上げますが、正鵠を得ているように感じます。寒気がしました。
宇佐の辛島氏の後裔に、宇豆彦が出てきます。珍彦かもしれません。それで「神武東征説話」とからんでくるのでやっかい、と言われているのですね。
> 宇佐など古出雲系譜を引く祭祀者は男巫
辛島乙目と言うのが巫ですが、これが香春の辛国息長大姫大目命のモデルともされており、女神でしょうから巫女ではなかったかと考えています。
> 倭迹々日百襲姫を紀州方面軍
これは面白いですね。紀州ではないのですが、讃岐に倭迹々日百襲姫を祀った神社があります。その周辺には見あたりません。
> 女性の神主さん
多いと思います。霊感では男の比ではないようです。念為。
394、海幸山幸、天孫降臨、拝見しました。、nick、Mail、2001/01/25 (木) 20:19、hp。
ちょっと筋がみえないな〜と感じました。
私も「徐福」の線は捨ててはいませんが てがかりがありません。
何か出典でもあればいいのですが、、、
やはりむこう(中国、朝鮮)に頼らざるを得ないのでしょうか。
私は単なる疑問から追っかけているだけですが、専門家の所見が 今だ見えてきません。
素人にも判り易い解説がほしいと感じております。
393、Re^2: R下影日売の続編です、かたばみ、Mail、2001/01/23 (火) 17:44、。
下からの続き
失礼して楽しませていただくと(^^;
「東征」には日本海方面軍(大彦)と紀州方面軍(開化)のふたつがあった。
大彦軍団に随伴した巫女が倭迹々姫、開化軍団に随伴したのが孝霊の娘(開化の叔母)の倭迹々日百襲姫と推定(倭迹々日百襲姫は後に奈良の三輪の大物主の妃へ、箸墓古墳)。
(ちなみに卑弥呼は倭迹々日百襲姫の近親者)
屋主忍男武雄心ないし比子布都押之信は開化軍団に同行した男巫であって居所は九州から紀州にかけて複数あるんじゃなかろうか。
武内宿禰がどこで生まれたか判断しにくく、その母の居所も同じくというわけです。
天孫系の祭祀者は巫女だが、宇佐など古出雲系譜を引く祭祀者は男巫ではないかと考えています。
出雲系の地を支配するつもりなら出雲祭祀を知る人物の同行は必須と思います。
(女性の神主さんっていらっしゃるんだろうか(^^;)
かたばみ
392、 Re:山下影日売の続編です、 かたばみ、、2001/01/23 (火) 17:42、。
瀬藤さん、応答が遅くなりました。
武内宿禰時代はまだぼやけた空想しかしていませんが、祖父が開化天皇の兄弟とされるようですね。
この時代は「神武東征説話」とからんでくるのでやっかい。
孝霊192-219
孝元219-239←<物部系妃:穂積遠祖>
・大彦←<物部系妃>
・開化239-261←<物部系妃と丹波系妃>
・倭迹々姫
・彦太忍信(記:比子布都押之信)←<妃出自不明>
↓
屋主忍男武雄心←<影姫>(紀:莵道彦の娘
(記には登場せず) (記:宇豆比古の妹
↓
武内宿禰330-410頃か
(数字は自説による推定年代です)
武内宿禰関係が武雄市や福岡にありますか。ふむふむ(^^;
莵道彦、宇豆比古、一文字では苦しいけれど屋主忍男武雄心が祭祀者らしいことと「莵、宇」から宇佐に関連する人物とみたいです。
かたばみ
391、今上天皇皇后両陛下へのお手紙をHPに付加する!、山森 国造、、2001/01/13 (土) 05:13、hp。
題名 拝啓 天皇皇后両陛下 様
今上両陛下へのお手紙をホームページに付加し、以下のお歌を追加する。
武蔵野御陵に始めて参拝した折の事を思い出して、 私が、詠みし歌(句)を『昭和天皇と香淳皇后』にお奉げ致します。
紫の 朝日昇りたる 永遠の風
【 むらさきの ひ のぼりたる とわのかぜ 】
お歌の補足
その日、私はNHKのテレビ番組を見ていましたところ、丁度、 「奥の細道・金沢(加賀)」を放送中であった。「時を駈ける少女」で 有名な映画監督さんが、神社を尋ねる場面でごさいました。
斎藤別当実盛の兜を見て、芭蕉の有名な句を詠み上げておられた。
私も、急に俳句を作りたくなり、御陵を思い浮かべながら、詠んだものです。
ですから、芭蕉の俳句の返歌(句)でもある事を御了承下さりませ!
無残やな 兜の下の キリギリス 芭蕉
390、明日から京都、アスベル生きていたか、Mail、2001/01/11 (木) 18:41、hp。
こんばんは。
最近野暮用でサーフするのでお邪魔してみました。
あ!瀬藤さんもいらしてますねー(^^) 著作権ページ有り難うございます。
当方は明日から京都です。
とりあえず白峰神宮と竜馬の墓にお参りしてきまーす(^-^)ヽ
389 かたばみさん こんばんは 山下影日売の続編です、瀬藤禎祥、Mail、2001/01/10 (水) 19:35、hp。
古事記の孝元天皇の条に、孝元天皇と伊迦賀色許売命の子が比古布都押信命、この皇子と木の国の造の祖先の宇豆比古の妹の山下影日売の子が建内の宿禰とあります。和歌山市安原に武内神社や武内宿彌誕生井があります。
一方、佐賀県武雄市に武雄神社が鎮座、やはり武内宿彌誕生の地と伝わっているそうです。
小生は和歌山県の出で、和歌山に軍配を揚げたい所ですが、父親とされる比古布都押信命(比古太忍信命)と母親とされる山下影日売を祀っている神社を探してみました。
父親 佐賀県伊万里の伊萬里神社、鹿児島県川内市の新田神社摂社武内社、近畿地方は京都府天田郡三和町の梅田神社一社
母親 福岡県宗像郡玄海町葛原神社、福岡県小郡市の竃門神社 やはり近畿地方はゼロ
日本書紀では父親は武屋主忍男雄心命となっています。母は影姫。 この父親 福岡1、佐賀2、長崎1に対し近畿では滋賀に3と同数です。 紀氏の誰かが赴任して祖先を祭ったかも知れませんが、肝心の和歌山が皆無とは(!!)
ひょっとすると応神期あたりまでの木の国とは基山のある基肄あたりとも。
388、 Re: ことしもよろしくおねがいします、かたばみ、Mail、2001/01/10 (水) 18:00、。
> 山下影姫の姿が紀の国和歌山には見えないのです。
瀬藤さん、こんにちは。神奈備にはたびたびおじゃましています。
書紀に神武が名草戸畔や丹敷戸畔と戦うところで毒ガスを吸って倒れる話がありますが、火山ガスなら九州の事象だろうと思います(これはAD50頃かなあ)。
影姫の場合はずっと年代が下がるので(AD300頃か)、紀州出雲後裔と開化天皇の縁者あるいは海運系の物部氏との結合が祖で、紀州の名草は神武伝承の影響下で生まれたのだろうと推定しています。
武内宿禰のお袋さんあたりになるともう伝承は残らないかもしれないですね。
かたばみ
▼↓ ▲↑
387、遅れ馳せですが、おめでとうございます。、アスベル生きていたか、、2001/01/06 (土) 20:17 、。
o(^-^)o あけましておめでとうございます。
久方ぶりに寄らせて頂きました。
年明けすぐに近所の熊野神社へ初詣でに行きましたが、 いつになく人が多くて楽しかったですよー(^^ 火もあかあかと燃えていて、何か偲ばせてくれます。
なかなか来れないですが今後ともご贔屓に。
ではまた(^-^)ヽ
386、ことしもよろしくおねがいします、瀬藤禎祥、、2001/01/06 (土) 17:02、。
> 母系(影姫ないし日影姫)が紀州に先住していたスサノオ末裔というわけです。
どなたかの長い書き込みの論考の中に出ていましたが、山下影姫の姿が紀の国和歌山には見えないのです。(=祭神とする神社が見あたらないということ)
九州方面の女性だろうと思っています。
385、Re: れれ、s_tan、、2001/01/05 (金) 00:03、。
今年もよろしく、おねがいします。
kon さん
>今年の尾張大国霊神社の”はだか祭り”は2月5日の月曜日です。
>本年ははだかで参加しようと決意しました
#2月5日、お体にお気をつけて、体験の報告をお待ちしています。
KENJI さん
九州往復、おつかれさまでした。
中国道で雪など遭わなくて、よかったですね。
>正月だけで無く、普段から参拝する様にしましょう。(^。^)
#私は、お客さんが居なくて寂しそうなトキにお邪魔するよう、してます ^^。
MOJO-HAND さん
>集英社新書の「聖地の想像力」をごろごろしながら読んでおしまい。
#新刊は、ほぼ買わない、のですが。「聖地の想像力」は面白そうですね。
今年は、ひとつ「古代・・・」に参加ください。。
かたばみ さん
神田明神、納豆、くず餅、いつだったか神社境内で食べた記憶が。。。
>512k超高速サービスやっていたのでいくつかの大量データを取り込みました。
#高速回線架設が待たれますね。
日本はインフラ(税金)のコストが高いから、この辺が大きなネックですね。何をするにもコスト高の国、日本!。
歴史を看るに、税の高い国は経済力・民力とも凋落・疲弊してますね。
384、謹賀新年、かたばみ、Mail、 2001/01/04 (木) 16:26 、。
あけましておめでとうございます。
初詣は除夜の鐘が鳴り終わってから神田明神へ。
門前にある天野屋で名物の納豆とくず餅を買う(おいしいんだけど正月にしか買ったことない(^^;)。
うちのCATVネットが正月3ケ日限定の512k超高速サービスやっていたのでいくつかの大量データを取り込みました。1メガバイトを20秒程度でダウンできた、さすがにこれは早いですね。
かたばみ
383、新年好!、 MOJO-HAND、Mail、2001/01/04 (木) 11:55、hp。
ご無沙汰してます。
ほとんどROMのMOJO-HANDです。
今年の正月は、コーンウェルの新作/「審問」と集英社新書の「聖地の想像力」 をごろごろしながら読んでおしまい。
初詣はどこの神社にしようかしらん?
では、今年もヨロシクおねがいします。
382、明けましておめでとう御座います、KENJIMail、2001/01/03 (水) 11:31、hp。
明けましておめでとう御座います。 本年も宜しくお願い致します。
九州をドライブして来ましたが、どの神社も凄い人でした。
正月だけで無く、普段から参拝する様にしましょう。(^。^)
381、Re: はつはる、Kon、Mail、2001/01/02 (火) 05:13、hp。
stanさん、そして皆様。おけましておめでとうございます。
旧年同様、新年、新世紀もよろしくお願いします。
今年の尾張大国霊神社の”はだか祭り”は2月5日の月曜日です。
本年ははだかで参加しようと決意しました。祭礼の無事を祈念し 近くの神社に参拝しました。除夜の鐘撞きと初日の出を下記にUP いたします。
http://www.asahi-net.or.jp/~pm7n-kndu/ko2001/21newyer.html。
日本国、尾張平野の地より、皆様のご多幸をお祈りいたします。
380、はつはる、s_tan、、2001/01/01 (月) 02:14、、。
謹んで初春のお喜びを申しあげます。
昨年は「古代であそぼ」ご利用ありがとうございました。
本年もよろしく、お願い致します。
辛巳、元旦、
stan 拝
ついに、21世紀ですね。 今年の干支は「 辛 巳 」 辛巳 → かのとみ → かなとみ → 金富!
と生り増すように、祈年いたします。 ^^。
▼↓ ▲↑
379、 Re^9: 私のルーツ、かたばみ、Mail、2000/12/27 (水) 19:12、。
下からのつづき
同じ漢字を使う文化、漢文をすらすら読めたらそれだけでも古代史の解釈に面白い展開がありそうですね。
少なくともタタラは製鉄以前からの言葉だろうと思いますが、ヒメタタラ=炭焼き姫になるのかなあ、当面保留にしておきます。
若狭周辺では弥生の鉄の痕跡が濃いけれど奈良の三輪山あたりでは鉄の痕跡がわずかしかないようで興味深いところです。農耕拠点と道具生産拠点なんて住み分けがすでにあったのか。若狭は韓鍛冶の源か・・
うーん稲荷と鍛冶ですかあ。商売繁盛といった意味でないなら稲荷は農耕ですから直接の関係はないと思うんですが、古くからの神仏習合と明治の神仏分離が信仰としての複雑な関係を作っているかもしれません。
http://www.sunfield.ne.jp/~kmm/fuigo/yurai.html
http://www.dms.waseda.ac.jp/zaikoukai/kaiho7/toku1.html
などの記述が参考になりそうです。
紀伊国屋文左衛門が嵐をついてミカンを運んだのはここに由来があったんですね(^^) 大分や伊予はミカンの産地、紀州もおなじく。鍛冶の祭りにミカンが供えられるのはなぜか・・
はてさて連想のタネはつきまじ。
かたばみ
378、Re^8: 私のルーツ、かたばみ、、2000/12/27 (水) 19:10、。
お調べいただいてありがとうございます。
原文を確認してみましが、治と冶を見間違ってました(^^;
韓雀高孫王傳第二十四・・・後選楽陵太守、徒監冶謁者、舊時冶、作馬排、(蒲拜反。為排以吹炭。)毎一熟石用馬百匹、更作人排、又費功力、曁之因長流為水排、計其利益、三倍於前。在職七年・・・
カッコ内の部分は原文では小文字になっていますが、編纂者の注だろうと思います。
この注の「蒲拜の反」の蒲拜はなにかの道具かなあ。
馬排、人排、水排・・水排は水車かなあ。納得まではゆかないのがもどかしい(^^;
漢字の意味や用法はいろいろ複雑でよくわかりません。南の呉音や北?の漢音とかもあるし。
拜が排に転ずる(反ずる?)もするようですし。
実は人糞を肥料に使うのは鎌倉あたりでの日本の発明と思っていて、上記の文で魏が先かと思ってがっかりしていたのですが、いやいや期待できそう(^^)
かたばみ
377、Re^7: 私のルーツ、土谷重幸、Mail、2000/12/24 (日) 20:12 、。
> 字訓/白川静のタタラの説明のひとつに、この文の引用に続いて人排はすなわち太々良なり・・すなわち炭を吹き・・とあります。
> (この説明では突然人排が炭吹きになってしまって理解できないのですが・・)
この部分、図書館に行ったので調べてきました。蹈★の★(韋+備のつくり)という漢字ですが、韋はなめし皮を表すそうで、つくりはフィという音と、袋という意味を表しているそうです。また排もフィという音で、★と同じ意味のようです。フイゴのこと。魏誌の該当個所の、馬排、人排、水排、というのを書いてある前に、「冶」というのがありますが、金属を鎔かすという意味で、その作業をするのに昔は馬を使い、その後人を使い、水流を使うようになった。費用が3分の1になったというようなことを書いてあるようです。
★について、大漢和辞典というので調べると、同じ偏の別の漢字のところに、ふいご祭りというのが説明されていて、旧暦の11月8日に鍛冶、鋳物師、などの業を営む人たちがその守護神である稲荷神を祭る神事として紹介していました。稲荷神というのも鍛冶の神様なんですね。
376、Re^8: 私のルーツ、土谷重幸、、2000/12/24 (日) 10:48、。
かたばみさん、こんにちは。
ずいぶんいろいろと考察していただいてありがとうございます。
兵主神社が兵庫にもあるということで検索してみました。
http://www.kamnavi.net/ym/hiboko/
青森県から九州までありますが、兵庫県に大変多く集まっているみたいです。 興味を持ちました。
豊後の炭焼きがいつごろから始まったかですが、これはなかなか難しそうですね。炭焼きの跡は残りにくいと思いますので、文献によることになるかも知れませんが、それも限られていそうだし。
375、 Re^7: 私のルーツ、 かたばみ、Mail、 2000/12/21 (木) 23:59、。
下からのつづき
大分にいつごろから炭焼きの形跡があるのかたいへんに興味深いです。
平安時代では一般燃料として炭を使うことはまずなく、貴族においてもせいぜいが暖房用ではないかと思います。
少なくとも平安以前で炭を作ることは金属精錬にイコールだったと思うのです(青銅含む)。
神武以降から開化天皇(自説ですが綏靖天皇89-101〜開化239-261)の記紀の記述は空白に等しくなっています。
特に孝昭天皇127-156頃から開化までの空白時代が九州の天孫王朝と中国近畿の新出雲王朝が戦闘状態になっていた期間だとみています。
兵主神社は兵庫にもありますがこの頃に造られたのではないかと思っています。戦の時代であるなら武器生産=鍛冶とも関連してくるかもしれません(山東半島には瑯邪八神の信仰があってそのひとりが兵主神で戦の神様)。
大分の炭焼き事始め年代がわかるといろいいろな推察の大きなヒントになりそうです。
茅は弥生の重要植物ではなかろうか、屋根とか壁などの建築用途です。
類似種に真菰マコモがありますがこれは実が食用にもなった。確か宇佐神宮でも神事に使っていたと思います。
かたばみ
374、 Re^6: 私のルーツ、 かたばみ、、2000/12/21 (木) 23:57 、。
下からのつづき
魏志倭人伝で有名な三国志の魏書三の二十四に馬排、人排といった話がでてきまして、読解が違うかもしれませんが馬糞、人糞を長く排水溝に流せば肥料となって農耕に効果がある、といった話と思います。 字訓/白川静のタタラの説明のひとつに、この文の引用に続いて人排はすなわち太々良なり・・すなわち炭を吹き・・とあります。
(この説明では突然人排が炭吹きになってしまって理解できないのですが・・)
以下自説
精錬用の砂鉄を採集するとき砂を選別するために川筋に溝や穴などを作っていたのなら、タタラが水洗トイレの形状から、砂鉄採取の意味にも使われていたのではないかと思うのです。
蹈鞴の鞴はフィであって蹈鞴をタタラとは読めないです。
製鉄時代には足踏みフイゴの文字を使ったが、発音は古代からのままで残ったのではなかろうか。
(鉄鉱石を使う製鉄炉はタタラとは呼ばないことになる)
かたばみ
373、 Re^5: 私のルーツ、 かたばみ、、2000/12/21 (木) 23:55、。
縄文から徐々に下ってくると神武あたりで歴史を遡る方向と具体的に接しはじめますね。
五十鈴姫は古事記ではヒメタタライスケヨリ姫、書紀ではヒメタタライスズ姫のことです。
古事記には、出雲の大物主神がある村娘にほれた、その娘が厠で用足ししているとき大物主は赤い矢に変身してそこへ流れてゆき、娘がその矢をひろって部屋においたところ好男子が現れて・・とあります。 そして生まれた娘がヒメタタライスケヨリ姫で、神武の妃となり八井耳と綏靖天皇(ヌナカワミミ)はその子とされます。
書紀ではこの話はぬきで事代主の娘としています(事代主は大国主の子)。
以下自説
事代主は古出雲王朝最後の祭祀者で所在はAD40頃の大分市〜佐伯市付近と推定。
大物主は国譲り以後の新出雲王朝の主で所在はAD250頃では奈良の三輪付近でよいと思います。
ただし、五十鈴姫は事代主の娘で、記紀の伝承操作によって大物主の名が重なったものとみています。
この伝承で興味深いのは川筋にトイレを作っていたのをうかがえることで、ヒメタタラとは水洗トイレ姫(^^;
ちとおそれ多いので、タタラは水路といった意だったのではないかとしておきます。
とすれば砂鉄とつながる可能性が・・
372、 Re: 生出森八幡神社付属神楽、 s_tan、、 2000/12/20 (水) 00:32、。
いらっしゃいませ 佐藤さん
出雲系の神楽といいますと江戸期からの由来でしょうか。
関東にもよく見られます赤城山麓には、面と衣装を常時展示している場所もあります。
生出森八幡神社の由来はいかがでしょうか、「おいでもり」の名の由来はなにかありますでしょうか。
福島会津に田出宇賀という神社がありますが、創祀由来が似ているのではなど考えました。
神楽CDですが。。
メールアドレスお持ちではないでしょうか。
▼↓ ▲↑
371、 Re^4: 私のルーツ、土谷重幸、Mail、2000/12/19 (火) 11:19 、hp。
> 諏訪は「周防海」の名が運ばれたものではないかなあ。
いろいろと空想して、それを証明しようと試みるってのは楽しい時間ですよね。(^^)
私のルーツ探しも、だんだんと神話の領域に入り込むにつれて、空想の広がりを楽しんでいます。
> 八井耳の母は出雲の五十鈴姫、八井耳の後裔(多臣族)は後々の出雲と天孫の接点
記紀に登場する神々の名前やつながりがほとんど頭に入ってないので、これから少しづつ勉強していかないといけないと思っています。
次回の土谷さんメール新聞は、大分県の炭焼小五郎伝説を中心にまとめる予定で準備に入ってますが、「三輪大明神」「久我大臣」の二つをキーワードにしようと考え、大和の大神神社を中心に調べています。
その中に、姫蹈★(ヒメタタラ)五十鈴姫命(★は、韋へんに備のつくり部分)、という名前が出てきましたが、出雲の五十鈴姫って何か関係があるのでしょうか。
近くに「穴師」という地名が残り「兵主神社」があり、これは鍛冶関係の神社なのだそうです。「茅原」という地名もあるし、なぜか15軒ほどの土谷さん集落も近くにあり、非常に興味をそそる地域です。
370、 こんにちは、PNHO、、 2000/12/18 (月) 06:37、hp。
しましばさんへ
先日(かなり前かな^^;)にメールアイコンの事でご連絡を頂いたのですが、お返事がかなり遅くなってしまって申し訳ありません。
ええと、あのアイコンはフリーアイコンで何処からか貰って来たものなので私の方からは何とも言えないのです。元のサイトなんですが記憶を頼りに探してみますがご期待に添えない時はごめんなさい。もし見つかったら又こちらに書き込みにきますね。
369、Re^3: 私のルーツ、かたばみ、Mail、 2000/12/16 (土) 22:57、。
≫諏訪氏については興味があります。諏訪大社の上社と下社とで、阿蘇氏の系統の
空想をひとつ(^^;
建御名方は大分に迫る神武に対し出雲海軍を率いて周防灘で戦ったが敗れ、信州諏訪の阿曇族の地に流された。
監視役に同行したのが八井耳の類族、このあたりが諏訪氏に2流がある源ではないかとにらんでいます。 諏訪は「周防海」の名が運ばれたものではないかなあ。
八井耳の母は出雲の五十鈴姫、八井耳の後裔(多臣族)は後々の出雲と天孫の接点にあって水面下で重要な働きをしたグループではないかと考えています(宇佐や後の藤原氏とも密接な関係あり?)。
阿蘇氏は八井耳の数代後の後裔になるようですね。
(ア・ソは太田亮によればアイヌ語で燃える岩の意だそうで興味深いですが確認できず)
灌漑技術未熟の初期水田では谷川が注ぎでる山裾の狭い平野部が水田適地だったと考えています。
大分は初期農耕で有利な地形と思えます。
しかし、灌漑技術が発達した弥生中期以降では岡山や大阪平野が中心となって、これが国譲りという譲歩にもつながったとみています。
かたばみ
368、生出森八幡神社付属神楽、佐藤次郎、、 2000/12/15 (金) 01:02、hp。
宮城県仙台市
生出森八幡神社付属神楽 神楽師の佐藤次郎と申します。
私たちの生出(おいで)森八幡神社付属神楽は、 出雲系の榊流神楽です。
その正統な伝承は研究者からも定評をいただいており、 仙台市の無形民族文化財に指定されております。
このたび、伝承活動の一環として、お囃子のCDをリリースいたしました。
私たちのホームページはありませんが、下記のホームページでCDについて 紹介されておりますので、是非一度ご覧下さい。
生出森八幡神社付属神楽
神楽師会事務局長 佐藤次郎
電話 022−281−2243
url http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/2906/
367、 Re^5: 私のルーツ、 s_tan、、2000/12/14 (木) 23:32、。
下のresが500文字、この掲示板の容量オーバーぎりぎりです。
> 平塚土屋
平塚市から大磯町への北回りの途中で山間の集落です、ちと変わった雰囲気もします。たしか有名な寺があったような。
> 今では土屋と土谷は元々は全く別だったのではと思い始めていますが、
#槌谷さんの発生は鍛冶屋さんと直接の関係があるのでしょうか。
>出雲の杵築と間違った
#1712の豊後杵築ができて、明治になり杵築は大分がオモテになったのが出雲をオモテにする遠因でしょうか。或いは大社教あたりでしょうか。
頼宣の時期という情報ありがとうございました。
366、Re^5: 私のルーツ、 s_tan、、2000/12/14 (木) 23:21 、。
ご存知と思いますが、連想の部品を。。
阿倍氏は四道将軍大彦を祖におき特に蘇我氏の下で特に東北にその勢力を伸ばしたとされる。
推古朝を中心とする時期に,内(うち),布勢(ふせ),引田(ひきた),久努(くの),許曽部(こそべ),等に分かれる。(阿倍比羅夫は引田氏)
「吉士集団(海外交渉の専従者)」を率いて吉志舞を奏上している。
権力者は全てですが曽我氏も鉄,銅,瓊など貴重な資源は当然押さえている。当然阿倍氏も配下に鉄の熟練者を置き技術の秘匿性から直接(秘を)管理したでしょう。
琵琶湖湖畔−岐阜南宮大社−諏訪の鉄とかかわりある小野氏も(難波)吉志辺りから阿倍氏との関連が伺えます。
阿倍御主人以降(天武40以降)冴えなく,奈良以降「安部」と変え,その後オモテに出たのは安部晴明くらい。
「鉄山秘書」のなかの「金屋子神祭文」で播磨国宍相郡岩鍋の伝承で「---阿部氏の祖、正重が犬をあまたひきつれて毎夜狩りにきたのに発見されたので、タタラをしたてて鉄を吹く術をはじむべしとの神託により、やがて朝日長者が宮社を建て、正重が神主になり、神みずから鍛冶となって、朝日長者が粉鉄(こがね)を集めてふけば、神通力のいたすところ、鉄の湧くこと限りなし。---」
365、Re^4: 私のルーツ、土谷重幸、Mail、2000/12/13 (水) 17:39、hp。
> 布施といえば阿部氏と関連?
布施弁天のある所です。近くの我孫子市側には古代の製鉄跡などもあると聞いています。阿部氏も鉄と関係のある一族なんでしょうか?
> 平塚土屋
今では土屋と土谷は元々は全く別だったのではと思い始めていますが、平塚の土屋は「ツチヤ」姓の者にとっては無視できない場所です。
私も一度は行ってみたいと思っています
。
> >出雲の杵築と間違った
きつき城下町資料館に木付の文字が杵築と変わった朱印文が展示されているそうです。
「正徳ニ(1712)年7月11日付けの6代将軍家宣の下賜の朱印文に「豊後国杵築領国埼速見ニ郡の中・・(略)」と書かれていた。そこで、7月11日「在所木付・国崎の文字御朱印御同懸大久保加賀守忠増へ相伺、今般被下候朱印の通、国埼・杵築と書改申度段願出同八月十四日より領内都て書改む」と杵築の地名が生まれた。」『杵築市誌』
書き間違えた役人が責任を取らされるのを助けるため、木付藩から杵築への変更を申し出る形で丸く収めたということだそうです。
また、いつからかわかりませんが、出雲の阿国歌舞伎の流れを組む杵築歌舞伎が残っているそうです。
なぜ、杵築社から出雲大社になったかは知りません。
364、 Re^3: 私のルーツ、 s_tan、、2000/12/13 (水) 00:54、。
>すばらしい内容ですね。ある古本HPでは
#大分放送,歴史,驚きました。殆どdownして別ファイルに纏めました,2MB以上ありました,まだ読んでませんが^^;
>歴史の編纂をやらないような国は文化国家などとはとてもいえない(^^;
#税金使っているところが大分の歴史,の半分も公開すると良くなりますね。
IT革命もソフトを伴わないと使い物にならないですね,まず公の情報公開でしょう。
363、Re^3: 私のルーツ、 s_tan、、2000/12/13 (水) 00:52、。
こんばんわ 土谷さん
>こんな形での再会ってのもあるんですね。ちょっとビックリです。
#おどろきでした、それもあまりint-netで検索しない私が大分を調べたりした時で。。
>丹波(タニハ)ってのは、現在の丹波地方に関しての話ですか?
#です。丹波は古くタニハと訓んだようで,以前「谷野」さんという神官の方との話しでタニノと訓むのは丹波と関連深い,丹野と同じなどありまして,なんとなくタニと訓むのは丹波に縁有かと考えてまして。
土谷さんのhpでは丹波に土谷性の分布が殆どないですね。「タニ」と「ヤ」は系統が区別されていたのかな。
古く国東は吉備からの入口といった論などから,丹波,吉備,出雲は別系統?とか、国東は吉備と深く,宇佐は?、など連想してます。
hp内地図拝見しますと,関東でツチヤと関連深いのは柏市の旧地名,これは近くに有名な布施弁天がある所かも知れません,布施といえば阿部氏と関連?
平塚土屋といえば何度も通っているのですが次回には降りてみます。
姓で谷をヤと訓むのは,特に下総から利根川にかけて強いようです。
>江戸幕府のちょっとした手違いで出雲の杵築と間違ったのが原因とか。
#これが杵築社から出雲大社と呼ばれる原因でしょうか。
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362、 Re^2: 私のルーツ、 土谷重幸、Mail、2000/12/12 (火) 09:57、hp
かたばみさんこんにちは。
> 原氏との関係の話もありましたが、
原氏との関係はどこまで本当かわかりません。全くのでっち上げではないにしても、正統な流れの上に土谷が乗っているのではないと考えています。
> 諏訪氏ともつながりあるらしく、
諏訪氏については興味があります。諏訪大社の上社と下社とで、阿蘇氏の系統の金刺氏と諏訪氏がバランスを保っていた関係など。。
> 初期の出雲は大分にあったというのが持論
この話しも面白そうですね。出雲大社はかつて杵築大社と呼ばれていましたし、木次町も残ってますよね。近くの大東町に土谷さん集落があります。大分県杵築市はかつては木付と書いていたそうですが、江戸幕府のちょっとした手違いで出雲の杵築と間違ったのが原因とか。
> 家紋の丸の有無についてですが、
熊本の阿蘇神社の神紋は違い鷹の羽。土谷の家紋に丸に違い鷹の羽を使っている家がありますが、九州だけでなく群馬県下仁田町に同じ家紋の土谷があります。諏訪からは少し離れているけど、重大な関心を寄せております。
361、 Re^2: 私のルーツ、 かたばみ、Mail、2000/12/12 (火) 00:47、。
≫この所特に豊国が気になっており,つい先週大分放送のhp,歴史,を発見した所です。
すばらしい内容ですね。ある古本HPでは23000円の値が・・(^^;
(http://www.e-obs.com/top/heo/heohome.htm)
各地の放送局や新聞社などはぜひともその地の歴史の編纂をやるべし。
現在におけるその地に伝わる歴史をまとめる、現代版風土記の編纂。
歴史の編纂をやらないような国は文化国家などとはとてもいえない(^^;
IT革命とはこういうためにあるのではなかろうか。
かたばみ
360、Re: 私のルーツ、かたばみ、Mail、 2000/12/12 (火) 00:23 、。
土谷さん、こんにちは。
すごい調査と研究ですね。
原氏との関係の話もありましたが、うちの先祖は信州伊那谷で寺の過去帳と村史などから武田家臣の原氏の流れである可能性があるようです(姓は原ではありません)。
諏訪氏ともつながりあるらしく、出雲族の建御名方や神武の子の八井耳まで可能性として登場してきます(^^;
初期の出雲は大分にあったというのが持論なのですが、別の親戚の所在地からもひょっとすると弥生まで遡れるのかなあなんて楽しんでいます。
家紋の丸の有無についてですが、親父から聞いた話では家紋の丸は皇室との縁戚があることを示すそうです。
(清和源氏とか桓武平氏などの流れなら丸がつくわけです)
家紋のこの件について書かれたものを知りませんが、家紋やら姓氏にも関連する職種でしたので正しいのではないかと考えています。
ただしいつごろまでそれが守られていたかについてはなんともいえません。
特に戦国時代では姓氏共々相当にあいまいというか乱れた可能性が高そうですね。
最近古本屋のHPをいろいろ探っています。その地域だからこそといったものを集めている本屋さんがあったりしてなかなか興味深いです。
かたばみ
359、 Re^2: 私のルーツ、 土谷重幸、Mail、 2000/12/11 (月) 09:44 、hp。
stanさん、でいいのかな?(^^; お早うございます。
> お名前に記憶がありまして、hp拝見して氷解しました。系図ソフトのユーザ使わせて戴きました、まだNEC98note,DOSの時代でped02300@niftyでメールさし上げてます。
> その節は色々ありがとうございました。
そうでしたか。系図ソフト使っていただきありがとうございました。
こんな形での再会ってのもあるんですね。ちょっとビックリです。
今、WorkPadを愛用していて、「My Roots」というPalmソフトを使って、 系図データを持ち歩いています。
> この所特に豊国が気になっており,つい先週大分放送のhp,歴史,を発見した所です。
大分放送の「大分歴史辞典」のことですね?あれは、すごいです。私も2年前から かなり利用させていただいています。
> 秦,大神,山の民のネットワーク,丹波(タニハ),長者伝承..
丹波(タニハ)ってのは、現在の丹波地方に関しての話ですか?
> 産鉱の民は苦労して開拓しモノになるとお上に収奪されるといった繰返しだった。。 > ・・・
そういう背景からか、現在の土谷姓の分布を見ると、都道府県別では北海道が 最も多くなっています。明治時代以降に一山当てるつもりで移動したのかな。
358、Re: いつまで載せるのかでたらめの古代遺跡、> s_tan、、2000/12/10 (日) 01:57、。
ばかぼん さん いらっしゃいませ。
まあまあ。。出土した層からの判定でしょうから、四六時中それぞれに監視をつける訳にもいかないでしょう、そのうち加工した年代測定ができる時代がくるかも知れません。
何十万年前に石を加工するヒトがいなかった、とは断定できませんし、ひょっとして記紀より悪影響は与えていないのかも知れませんよ ^^。
357、 Re: 調子が悪いみたいですね ,s_tan、、2000/12/10 (日) 01:54、。
ME、^^; 修正パッチ待つのみです。。
winは悪さする悪魔がいますね未だに、MSの伝統か^^。unixは天使がいるよな気がするけど。。
昨夜MLsendしてから掲示板に入りました、後先になったかも。
356、 Re: 私のルーツ、 s_tan、2000/12/10 (日) 01:53、。
土谷さん いらっしゃいませ。
お名前に記憶がありまして、hp拝見して氷解しました。系図ソフトのユーザ使わせて戴きました、まだNEC98note,DOSの時代でped02300@niftyでメールさし上げてます。
その節は色々ありがとうございました。
>ここのサイト、以前から気になっていましたが、背景知識がたくさん必要に思われ、書き込みをするのを躊躇していました。
#とんでもございません。
土谷さんhpまだ一部ですが拝見しました。感服致しました。
この所特に豊国が気になっており,つい先週大分放送のhp,歴史,を発見した所です。
指針など恐れ多いですが,
秦,大神,山の民のネットワーク,丹波(タニハ),長者伝承..
産鉱の民は苦労して開拓しモノになるとお上に収奪されるといった繰返しだった。。 ・・・
355、 Re^2: お知らせ< s_tan、 2000/12/10 (日) 01:51、。
>未だ、win95でやってます。
快適とは言いませんが、私には、これで充分です。 (^_^)
いつまで、耐えられるやら・・・
#95の後半が一番安定していたかも知れないですね。
新しいモノほど、入りもしないデフォルト設定が多くなってガードも多くて。。。
一番安定しているのは、個人でつくったフリーソフトの様な気がします。
354 いつまで載せるのかでたらめの古代遺跡、 ばかぼん、、 2000/12/09 (土) 00:26、。
科学的根拠もなくてどうして何十万年と言ったのが正しいかのごとく通用してしまうのでしょうか、えらい先生方はバカ集団なのでしょうか
353、調子が悪いみたいですね、KENJI、Mail、 2000/12/08 (金) 23:35、hp。
今晩は。
Meの調子が悪いみたいですね。
最近掲示板にもカキコが無いので、 もしやと、思っていましたが。
マイクロソフトは毎度やってくれます。
暫く、私は98でいきます。これで 今の所不自由は無さそうですし。
前回のメールが届いていませんでしたら 又送りましょうか。
352、私のルーツ、土谷重幸、Mail、2000/12/08 (金) 11:34、hp
はじめまして。北九州市に住む土谷と申します。
数年前から先祖のルーツを探し始め、最近では全国の同姓のかたを調べるうちに、 だんだんと歴史や民俗学の領域に入り込んできました。
かなり個人的な思い入れの強いまとめになっていますが、読んでいただければ 幸いです。
http://tsuchiya.com/zenkoku/sinbun/
ここのサイト、以前から気になっていましたが、背景知識がたくさん必要に 思われ、書き込みをするのを躊躇していました。
上記のページを読まれて今後の調査方針などについてご意見をいただけると 嬉しいのですが。
351、 Re: お知らせ、 hahaha、 、2000/12/08 (金) 05:34、。
こんにちは。
> マイッテマス、ME。
> メールの取り込まで時間が大幅にかかるよになって直らない。
> 接続時間管理ソフトはずしても直らない。
> webも含めONLINE中突然切れる、プロバイダ3ヶ所とも。
未だ、win95でやってます。
快適とは言いませんが、私には、これで充分です。 (^_^)
いつまで、耐えられるやら・・・
350、 お知らせ、 s_tan、、 2000/12/08 (金) 00:11、。
マイッテマス、ME。
メールの取り込まで時間が大幅にかかるよになって直らない。
接続時間管理ソフトはずしても直らない。
webも含めONLINE中突然切れる、プロバイダ3ヶ所とも。
といった状況で、11/27頃から12/6頃までの受信メールに取りこぼしがあるやも知れません。お心あたりの方はお手数ですがよろしくお願いします。
▼↓ ▲↑
349、 Re^2: WIN,MEについて、 s_tan、、 2000/11/25 (土) 00:20、。
>MEはwin95から'98に替えた時よりは不都合は少ないです。win98の時はひどかったです。
#上記、訂正します。
不都合は少ないです。→不都合は少ないです、いまのところ。。
MEその後
MEにオーデオソフトをインストしたら、完全に凍り付いてMEが始動しなくなり、補修 追加インストも動かずHDDをクリアして最初からインスト^^;
ついでにメールソフトが動くようにと入れる順序を変えながら、win95→98→ME とインスト、あしかけ1週間ほどかかってしまった。つい先ほどuserdicをコ ピーして、とりあえず完了。。
updateソフトは不便ですね、最初からやりなおし。。で データ別ドライブでなければひどい目に遭うところでした。
userdic、はコピーだけでは動きません。win98からはHDDクリア後は2000用に変換が必要。 dicの容量は極端に減、約1/10。
しかし、winMEはMS系列への入口(落とし穴^^。)がいたるところに^^;
大人しく使うと個人情報がMSに集まる、よーになっているなぁーー、米でもこうなのか?
348、 Re: 私のホームページの紹介、 s_tan、、2000/11/25 (土) 00:19、。
いらっしゃいませ 山森さん
>私のホームページの紹介をさせて下さい。
#拝見しました。
各所に”そうですね”と同感させられるものがありました。
天皇、神社の創立とのつながりがよくわからなかったのですが。
また、お気軽にお越しください。
347、私のホームページの紹介、 山森 国造、、 2000/11/20 (月) 04:23、hp
はじめまして、山森 国造 と申します。
(ヤマモリ コクゾウ)
私のホームページの紹介をさせて下さい。
題名 拝啓 天皇皇后両陛下 様
http://www.hokuriku.ne.jp/ac-21/
両陛下にお手紙を差し上げるための、 落語で言うところの「まくら」に相当する ホームページです。
不思議な事に、私のホームページが一応完成した時、 郷土出身者の 森 総理大臣が誕生していた。
よろしければ、御覧下さい。
敬具
346、 Re: エンディング、 かたばみ、Mail、 2000/11/15 (水) 18:26。
どれがなんだかわからなくなったけど、
アスベル生きていたか、さんのへの他のいろいろコメントは雑談コーナーにアップします。
345、 Re: WIN,MEについて、 s_tan、、 2000/11/14 (火) 23:28、。
MEはwin95から'98に替えた時よりは不都合は少ないです。win98の時はひどかったです。
使用環境は,desktopが富士通,HDDは2G+4G、noteが日立でHDD6G。
どちらもC,D,Eに分けて,CドライブにはOSとメインソフト,Dには追加ソフトとデータ,Eにはデータと分けて使用。
分けるとハング時等の再インスト,HDcheck等の時間節約に便利です。
PhotoDXはVer2.0ですが動いてます,尤もあまり使ってませんので途中でハングする事はあると思います(他の画像ソフトで何度かハング)
MEでやっと複数のアカウントで通信出来ますが,以前からソレが出来るアドソフトでエラーが出てます。
詳しくない者が勝手に判断し処理するといったwinの悪い癖は相変わらず^^;
MEで気に入っているのは
exploreで画像縮小表示(一覧)が出来る様になった。画像,音関連は強化されている,といった所です。
FEPが2000にupされますが,なにか一杯飾りが付加されたが,基本は変らずといった所でしょうか。
344、 Re: ●母をたずねて三千里、 かたばみ、Mail、 2000/11/14 (火) 18:50、。
> 母系社会と言えば折よく3日の読売に記事が出てましたね。
母をたずねて三千里さん、こんにちは。
うんと古代ではみんな母系で、戦争によって男が中心になっていったのだろうと思ってます。
ライオンくらいじゃないのかなあ、人間以外の動物で雄がえばってるのは(^^;
縄文も、それ以前の旧石器時代から母系とまではゆかなくても女性は崇拝されていたんじゃないかと思ってます。
シャーマンに向くのは女性だと思うし。
東南アジアあたりの少数民族は複雑そうですね。モンゴルを祖先にする人々がいたりもするし。
木の周りを回りながら歌って踊っていい仲になる、あちこちにあった風習のような気がしています。
盆踊りなんかも元は木にタイコや鈴をぶらさげてその周りで踊っていたのが由来だったりして。
その木が生命樹などにシンボル化されてゆく。
伊勢神宮の非公開の「心の御柱」も生命樹だろうと思ってます。
巫の文字の「工」の部分は天と地をつなぐ生命樹を表すという説に賛成です。
そのわきに人が二人、恋愛中の伊弉諾伊弉冉神・・(^^;
343、WIN,MEについて、タケル、Mail、2000/11/12 (日) 23:39、hp。
winME如何ですか先日私もMEをUPしました
ところがPHOTODELUXE3.0が起動せずほとほと困りました
最善の方法として新しく4.0をUPしました
SUTANさんは如何でしたかお伺いします。
342、鳥居&宇佐、s_tan、、2000/11/08 (水) 23:53、。
かたばみさんの、鳥居、宇佐、雑談にupしました。
ご覧ください。
近々、長野の神社をいくつかupします。
一昨日,winMEへV.upしまして、動作チェック中です。
今日は,新しいCADをインスト、JWとは結構ちがう。。。
独り言、でした^^。
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