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かたばみさん 投稿者:アルスの保護者  投稿日:08月05日(日)15時39分31秒

かたばみさん、面白いお話をありがとうございます。
宮城谷昌光さんの「太公望」という小説で、主人公の太公望がキョウ族の出身になっていました。
姫氏という氏族も中国の歴史の中に、何度も登場しますよね。

わたしは好きなだけで、体系的な知識が全然なくて恥ずかしいのですが、
卑弥呼の後継者について書いてある本にトヨ?イヨ?2つあるのが、
疑問でしたが、大きな意味があるのですね。
これからも色々お話して下さるとうれしいです。

Stanさん、ご心配とご迷惑をかけました。
そちらに何通も届いたウィルスメールはわたしのPCが勝手に、
デリバリーしていたのでしょうか?
ごめんなさい。


ウイリス 投稿者:s_tan  投稿日:08月04日(土)23時24分06秒

アルスの保護者さん
良かったですね、暴れる前に駆除できて。

hahahaさん
そうですね、自動展開というのもあるんですね。

薬ができるのは症状がでてから、ってことで、なかなか事前に防ぐのは大変です。
自衛としては、データのbackupくらいでしょうか。
あと、複数のPCをLANで繋いでないとか、結構頻繁にHDDの残容量とメモリーの使用容量はチェックしてます。
これで常時接続が当り前になると、次元の違う防御を考えないといけないですね。


ウイルス追記 投稿者:hahaha  投稿日:08月02日(木)01時20分16秒

こんにちは。

ウイルスの話題で、少しだけ追記したいと思います。
out look をご使用の方は、プレビュー機能をoffにされることをお勧めします。
中には、ファイルを開かなくてもテキストをロードしただけで、ウイルス汚染を
開始する物もありますので、必ずoffにされた方が良いと思います。。

なお、今のところ、jpegとgif画像にウイルスを仕込めないみたいですね。
又、件名に(ファイル添付あり)と添えるのも、相手に不安を与えないです。
いずれにせよ、外部ディスクに保存して、チェックされるのが良いでしょう。

s tan さんも、私もHPでアドレスを公開していますので、これは避けては
通れない、道ですね。。

↓ 

re:面白かった!! 投稿者:かたばみ  投稿日:08月01日(水)23時25分39秒

アルスの保護者さん、こんにちは。
邪馬壹国がどこにあったかは、なにかずばりの物証でもでないと議論としてはつきない話ですね。
縄文から下って神武あたりまで空想しましたが、卑弥呼の鬼道という祭祀がどのような目的をもつものかによっては自動的にその祭祀場が決まってしまうかもしれません。
魏志倭人伝も卑弥呼の居所が首都だとはいっていないですから、邪馬壹国の場所はさして重要でないかも(^^;
(霊園がどこにあっても政治経済には関係ないのと同じに(^^;)

卑弥呼の次の巫女が壹与か臺与であるかのほうが気になっています。
倭国争乱終結のときで九州出自の巫女では収まりのつきにくい情勢、すなわち瀬戸内の人々も納得できる人物として愛媛の巫女が選ばれた可能性があるとみているんです。
もし壹与であるならまさに伊予の出自で、伊予の地名と関係あるのではないかと考えています。


KENJIさん、すごいお宝ですね。

祭祀に陰と陽があったとすれば宇佐は陽ではないかとみています。卑弥呼は陰のほうを受け持っていた・・(^^;


PS.
時折うさんくさいメールがきますが、以前にウイルスチェックにかけたらまともに実物だったので以降は差出人未確認のテキスト以外のメールは無条件削除にしています。

かたばみ


re:エミシと  投稿者:かたばみ  投稿日:08月01日(水)23時22分05秒

≫この「テイ」は、「{サンズイ眞}テン」族の北、黄河上流、川が360度曲ったあたりだろうと云われますね。

このあたりは中国の研究者でも論がいろいろでてくる世界じゃないかと思う。

前漢時代ではチベット高原からタクラマカン砂漠までみんな羌(羊の人)ですね。
{低マイナス人}羌氏族テイキョウというのもあります。
黄河といっても源流は長江と同じチベット高原にあるわけで、最も古い内容を含むであろう山海経の{低マイナス人}氏族と羌氏族の合体が{低マイナス人}羌氏族であるなら、{低マイナス人}氏族は海系氏族である可能性も十分あるわけです。
東夷、西戎、南蛮、北狄の呼称は漢時代以降のもののようですが西戎の代表が羌。

{サンズイ眞}テンは漢時代の{サンズイ眞}王金印で有名ですが、{サンズイ眞}国は雲南の昆明市付近です。
雲南なのだけれど例外的に遊牧国家のようです。
史記では{サンズイ眞}王金印の話は「西南夷列伝」に含んでいるので雲南であっても「夷」として扱っている。

本来の東夷とは東に移動した「夷」の意味で、多くの民族が流動的に動いて混合していることを示すもので、いつの時代ではこうだという補足説明が必要なのではなかろうか。
すなわち東夷とは三苗のひとつのグループが山東半島や朝鮮半島に移住したことを示すもので、長江流域の住人をチベット付近まで三苗とするならうまいことみんな納まる(^^;

{魚是}の文字がでてる辞書は大正6年発行の復刻版の大字典/講談社なんだけど{魚弟}と同意でナマズとかヒシコ(鰯)とあります。テイがなんらかの共通項にみえます。
「テイ族」のうちの「海の方」をはっきりさせるために魚を加えたのが{魚是}で、さらにその遠方の類族を東{魚是}として氏族の関連が暗示されているのではないかとみています。


余談になるけれど姫氏族の一方の祖に「姜」氏族キョウというのもあります。羌と同族とみてます。
姫氏族キは周の王族ですが、その祖である亶父タンポの妻が羌氏族の娘です(詩経)。
羌の女、を強調してその一族が姜姓となったのではなかろうか。
姫氏族はひょうたんから生まれたという別伝もある、これは農耕系と遊牧系が接したことを示すのかもしれない。


蝦夷とは夷のうちの特異な存在といったところではないかなあ。
エミシのイメージを最も広範囲にとらえるなら崇神以降の近畿王朝に服属していない出雲の系譜をひく東国人、といったところではなかろうか(単なる氏族の呼称ではないということです)。
日本武尊等の行動で関東付近までは近畿王朝に服属してゆき、服属した時点で蝦夷ではなくなってゆく。
(蘇我蝦夷、小野毛人(小野妹子の子)などエミシを名に使うのは蔑称どころか尊称に近かったからだと思う)

東北北部までゆくとアイヌとも混じっているエミシがいるわけで、ここまで大和朝廷が進出したとき、中国でいうところの毛人もエミシに含まれる状況が生じたのではないか。
本来はアイヌ族は出雲族とは無関係でエミシとは別だが、この時点で同じにみなされ、そしてエゾの呼称に変わっていった。
といったところです。

≫藤原は、のちの源氏と同じで大陸に倣った親衛隊が発端かな、など考えてます

日本武尊のおとしだねなんてこともあるかも(^^;
(西国の日本武尊と東国の日本武尊は同一人物か、の問題がまずあるけど)
中臣の流れが複雑になるのは神功、応神時代での宇佐でのありようがポイントじゃないかな。

かたばみ


stanさんの危惧が 投稿者:アルスの保護者  投稿日:08月01日(水)21時58分18秒

stanさんの危惧が当たりました。
TROJ_SIRCAM.Aに感染していました。
メールに気をつけて下さいませ。
ごめんなさい。
ウィルスは検出隔離出来ました。


増殖ウイリス(ワーム)に注意 投稿者:s_tan  投稿日:08月01日(水)01時11分56秒

TV-newsでもあった、ワーム型ウイリス、先日私宛にも送付されていたので、
皆さんも、気をつけて下さい。
このhpに来られる方、最低一人は感染してます。なおったかなぁ
※不用意にメール添付ファイルを開けないように。しましょう。

下記、で確認対応できます。
−−−
● 詳細は、Symantec.com、など

● ワーム内容 (Symantecさんの例)

感染力:

メール件名: ランダムな件名 - 添付ファイルのファイル名
添付ファイル: 送信者のコンピュータ上のファイルに拡張子.bat、.com、.lnk、.pifを付加したもの
添付ファイルのサイズ: 134KB以上
共有ドライブ: 共有ドライブを探し、自分自身をコピーする

テクニカルノート:

このワームは次の内容のメールで届きます:

件名: メールの件名はランダムです。添付ファイルのファイル名と同じになります。
添付ファイル: 送信者のコンピュータ上のファイルに拡張子.bat、.com、.lnk、.pifを付加します。
本文: メール本文の一部はランダムに生成されます。常にメッセージの最初と最後に次の2つの行の1つ(英語あるいはスペイン語のいずれか)を含んでいます。

スペイン語の場合:
1行目: Hola como estas ?
最終行: Nos vemos pronto, gracias.

英語の場合:
1行目: Hi! How are you?
最終行: See you later. Thanks

これらの2つの文の間に、次のテキストのいくつかが挿入されます:

スペイン語の場合:
Te mando este archivo para que me des tu punto de vista
Espero me puedas ayudar con el archivo que te mando
Espero te guste este archivo que te mando
Este es el archivo con la informaci=n que me pediste

英語の場合:
I send you this file in order to have your advice
I hope you can help me with this file that I send
I hope you like the file that I sendo you
This is the file with the information that you ask for

−−−
※以上、-stan-


ミホ美術館 投稿者:s_tan  投稿日:07月30日(月)21時52分19秒

紫香楽宮とはなれた山の中、了解です。
宇佐ですか、まだ行ってないです。いちど、ひと月ほどゆっくり行ってみたい所です。

「ほつまつたへ」、木元さんもアスベルさんも、お忙しい方ですが、なにか質問などありました丁寧に答えて戴けると思います。

>メールの件、何か思い当たることがあれば、教えて下さい。
#昨日から、同じメールが7、8回着まして、添付ファイルが140kb程で、内容確認しようと古いパソコンと思ったら廃品回収に出した後でした。で内容確認せずに削除してます。

↓ 

re:石斧、鏃・・ 投稿者:s_tan  投稿日:07月30日(月)21時51分41秒


 画像拝見、すごい。鏃、この大きさですと相手は熊か鹿か鷲・・・
旭川北の美深あたりの国道沿いに博物館があって、鏃など手にとってみれるのですが、ほとんどが指先に収まる大きさ、どちらも十勝岳産なんでしょうね。
十勝の黒曜石は、山内丸山、樺太までが主な出土地。国境も無くほとんど身一つで移動できた時代、ヒトの視界はひろかったんだろうなぁ。

応神は400年頃か、前半か、でしょうか。纏向が180年頃隆盛として、古墳初期には外来土器などの割合が2割を超えてくる、庄内はもちろん東海あたりの土器も。このあたり臺与が入った可能性有ですね、

スサノオに限らず、神武など分散集約されてますね、一系にするには&意識的無意識含めて。
山口の「須佐」は考えたことなかったです、島根の吉備よりの須佐かなあ、といった程度ですが。


記憶とは・・ 投稿者:KENJI  投稿日:07月30日(月)17時51分56秒

記憶とは頼りない物ですね・・・(-_-;)
ヤジリ、大きいのは大きいのですが、実際に測ってみますと、長さ、5cm。最大幅、2.5cm
でした。申し訳無いです。それでも大きい部類には違いないと思います。





写真です。ヤジリは黒曜石製で、下の部分は欠けているみたいです。

http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/


ミホ美術館は 投稿者:アルスの保護者  投稿日:07月30日(月)08時36分33秒

ミホ美術館は紫香楽宮跡とは離れた山の中にあります。
是非1度、チャンスがあったら訪ねて下さいね。
後悔しないと思います。

KENJIさんの宇佐説を聞いて、2年前の九州旅行で宇佐神社に行った時のことを思い出しています。
立派な神社でした。
洞窟内の社殿も独特でした。

「ほつまつたへ」3誌を比較しながら書いて下さってるのが、わたしのような素人にはうれしいです。
1度には読みきれないので、何回も何回も読ませていただかないと。。。

メールの件、何か思い当たることがあれば、教えて下さい。
今後の為にもお願いします。
ホント、ウィルスは怖いです。

http://www.ztv.ne.jp/aruce/


石斧、鏃は・・ 投稿者:KENJI  投稿日:07月29日(日)23時57分40秒

石斧、鏃は知床半島出土の品です。
叔父が山形県で漁師をしていまして、昔、波風で漁に成らず、知床半島に居た時に、
近くの遺跡で見つけたそうです。
私が、考古学に興味をもっていたのを知り、昔々にくれたのです。
黒曜石の鏃は、幅3Cm程、長さ7〜8Cm程の(記憶で書いています。)大きな物です。
綺麗な品ですよ。

応神朝に、吸収された頃の「邪馬台国」の女王は、「卑弥呼」とは思っていません。
卑弥呼〜台与〜(それ以後・・・)と、続いた、末裔ではないかと思っています。
シャーマン的な地位の女性は、代々続いたでしょうから。

最近、思うのですが、「スサノオノミコト」は、一人の特定の人物では無いと思えます。
「須佐の王」ではないかと。大国主に色々試練を与えた「スサノオノミコト」と、
アマテラスとの誓約のスサノオノミコトは、人物像が余りにも違いすぎます。
「須佐」とは、山口県の「須佐」。この辺りを治めていた、軍事色が強い国家だったのでは無いか
其処を比定しますと、大国主の行動範囲もスンナリと理解できます。

この意見如何でしょうか?(^^ゞ

http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/


re:やったー!\(^O^)/ 投稿者:s_tan  投稿日:07月29日(日)23時27分00秒

お手数おかけしました。

引越しで、多少容量の余裕ができて、そろそろと「社」をupと。。。
プロバイダ3つ超えると管理が大変で、10年以上のniftyをカットしました。

やはり、九州説ですか、ヤマタイ国でなくて、倭人伝に記載されている邪馬臺国なら、九州のほうが濃いですね。少し他の地方の情報も入っているヨナ気もしますが、倭人伝。


re:ありゃ、とんでもない 投稿者:s_tan  投稿日:07月29日(日)23時26分13秒

しかし、石斧、鏃、が。。というのはすごいですね。

>邪馬台国は、応神朝に吸収され、そのまま奈良地方に東征したのでは・・・

#もう少し前かな、と思っています。オオタタネコの祖が主流だった頃。今のところ、邪馬臺国も多くの事象のひとつ、的とらえで、まだ多くの事象の整理が(永久に^^;)ついてないです。

宇佐家口伝ですか、宇佐公康でしょうか。天種子はアマノタネというのは面白いですね。
菟狭族、縄文からの一族で東からの伝承とか、近畿から中国地方、北九州を流転してたというのも。
京都の秦氏居住地あたりの弥生以前は、出土土器などから何十年スパンで同じ種族が出入りしていた、という説もあって「つながる?」など思って読んでました。


re:ええぇ、神獣鏡! 投稿者:s_tan  投稿日:07月29日(日)23時25分19秒

>磨製石器の石斧や、黒曜石のヤジリなら有りますが。
#ほら、でてきたでしょう ^^。
しかし、石斧、鏃、が。。というのはすごいですね。

「石槌」にも行かれたのですか、修行用というか禊の滝もありましたね。禊の滝といえば大阪の枚岡神社にもありました。近くに渉れるような川が無い神社は滝が用意されていたのかもですね。
しかし氷川ー石鎚というと、広いですね。お好きな神社で当hpに載ってない、の、は有りました?

木元さんの「ほつまつたゑ」全文というのはすごいですね。長く研究されている方です。
「しましば」さんの「ほつま」は視点が広い角度からでこれも面白いですよ。

>stanさんのプロフィ−ルを見つけられなかったのですが
#プロフ、はありません^^。星新一の小説の主人公の名が無気質なのと似た理由でしょうか。

信楽は何度か通りましたが、美秀美術館は寄っていません、いつ頃できたのですか。
信楽といえば、紫香楽宮跡は寄られました?祠に近い社がありましたが。。

↓ 

やったー!\(^O^)/ 投稿者:アスベル生きていたか  投稿日:07月29日(日)17時53分29秒

やったー!\(^O^)/

ということで(笑)。
Joint確認しました。

※やれやれ(^^;
はじめ繋がらなくてどうしようかと思った。

あ、唐突ですが九州に一票!
なんて、そんな日和ですね今日(^^

http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/


ありゃ、とんでもない 投稿者:KENJI  投稿日:07月29日(日)10時26分48秒

ありゃりゃ、トンでもない事に成ってますね。
神獣鏡?珍獣なら私ですが・・・(爆)古代の鏡なんて・・・作りましょうか?(爆)
stanさん、アルスの保護者さんに変な事言わないで下さい。(爆)
邪馬台国、私は九州説ですよ。最近は、宇佐がその可能性が高いと思ってきました。
邪馬台国は、応神朝に吸収され、そのまま奈良地方に東征したのでは・・・
東征の際の、宇佐での「宇佐彦」「宇佐姫」は、卑弥呼と、その係りの男性の
関係と、思います。
「宇佐神宮家口伝集」を読みますと、その時の首長が宇佐姫を安芸の国迄伴い、
その地で亡くなったと。(二人とも)葬ったのが、安芸の宮島の山頂とか。
宇佐つ彦と雖も、奥さんを平気で渡すのは納得がいきません。
卑弥呼の時の形の、シャーマン的な女性と、神主的な関係なら、シャーマンの
女性を連れて行くのは、その地の吸収合併策として納得できます。

まだ、細かい検証は充分ではないですが、そんな所でしょうか?(^^ゞ

鏡は、持ってませんよ。(爆)
磨製石器の石斧や、黒曜石のヤジリなら有りますが。

http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/

↓ 

ええぇ、神獣鏡! 投稿者:アルスの保護者  投稿日:07月29日(日)09時52分50秒

KENJIさんの神獣鏡ですか!?
今度のキリ番を踏んだら、リクエストは神獣鏡を見せて!にしなくては。(爆)
stanさんのHPはコンテンツが多くしかも濃い(こんな表現ごめんなさい、ボキャブラリーが貧困で恥ずかしいです)ので、少しずつしか見せていただけません。
今回で、大好きな神社を全部見せていただきました。
愛知、三重は地元なので全部行っていました、うふふ。
石槌山が乗っていたのがうれしかったです、行ったんですよ。♪

「ほつまたへ」、存在を知っている人がどれ位いるでしょうね?
そして読める人ときたら???
stanさんのプロフィ−ルを見つけられなかったのですが、
ご専門の分野ですか?
わたしは原文では絶対読めないので、このサイトで少しづつ読ませてください。
咀嚼するのに時間が掛かりそうですが、とても興味がわきますし面白いです。

梅原猛さんが初代の館長をなさった、信楽のミホ(美秀)美術館、
とてもセンスが良くて、素晴らしいガンダーラ仏には魅了されてしまい、
暫く前から動けませんでした。
オープン当初は人も少なく静かでしたが、最近は観光バスが着くようになってしまいました。
遅ればせの枝垂れさくらの時季は、凄い人でした。

http://www.ztv.ne.jp/aruce/


re:面白かった!! 投稿者:s_tan 投稿日:07月29日(日)00時16分07秒

いらっしゃませ アルスの保護者さん

スサノオ、アマテラス、古出雲王朝。。おもしろいですね本当に。
かたばみさんの連載は、そのうち長編小説と資料に分けて掲載されると期待してます。混載じゃもったいない。。 と、、催促 ^^。

KENJIさんは、畿内説です、まだ、公にしてませんが、ご自宅の床下に三角縁神獣鏡がたっぷり、派手な薄絹も眠っているそうです。^^。

>箱根神社は写真で見ても、芦ノ湖に写る鳥居、きれいですね。
>観光船からも写したのですか?
#箱根神社の朱はよく映えますね、鳥居と末社。観光船は今回乗ってないですが、湖畔の散策路はなかなかいいです、丁度紫陽花の時期でした。

>氷川神社、わたしが行った時も雨でした。
#氷川も行かれたのですか。雨上りとか天気雨、神社は特にいいですね。


ごめんなさ〜い 投稿者:アルスの保護者
投稿日:07月28日(土)08時03分49秒

Stanさん、Stenさんで送信してしまいました。
見直したつもりなのに、慌て者でごめんなさ〜い。


面白かった!! 投稿者アルスの保護者投稿日:07月28日(土)08時02分06秒

スサノオとアマテラスの解釈や古出雲王朝の記述、とても面白く読ませていただきました。
KENJIさんは邪馬台国畿内説ですが、
Stenさんは九州説ですか?
わたしは神社が好きで、旅行先に神社があると、必ずお参りしてくるのですが
箱根神社は写真で見ても、芦ノ湖に写る鳥居、きれいですね。
観光船からも写したのですか?
氷川神社、わたしが行った時も雨でした。

http://www.ztv.ne.jp/aruce/



re:エミシと 投稿者:s_tan  投稿日:07月28日(土)00時10分36秒


山海経は読んでませんが、「毛民」「テイ人」の絵どこかで見た記憶有、何の本か思い出せない。最近も北欧かどこかのファッションショーであったですね魚の皮の服。
以前「{魚是}」で遠いとか辺境といった意味云々の話で、出所確認すれど不明。。現在手近に資料(本)なし。

合成漢字^^。は、{ }で囲みます(カッコで使われる頻度が少ないので{})

>山海経の海内南経(浙江省周辺とみられる)にはテイ人(低−にんべん)が登場。
後漢書の東テイ人とは東のテイ人の意なのではなかろうか
#この「テイ」は、「{サンズイ眞}テン」族の北、黄河上流、川が360度曲ったあたりだろうと云われますね。月氏の流れの一部とか羌とか云われる,のち五胡の一。

言葉自体は時代とともに動いたり、使う人により深い意味が隠されていたり、なので。細部までの確定は難しいですが。

「夷戎狄蛮」(東西北南)はもともと甲冑をつけ武器を持ち舞う男舞をさす言葉で朝廷の四門で軍舞を奉仕する四方の少数民族。
ということで、もともと方角が決っていたようです。
光武帝の建武中元2年(057)倭奴国が朝貢する(帝紀、東夷列伝)。倭伝条は「倭国の極南海なり」の後に、「会稽海外、東テイ人有り。分れて三十余国を為す。又、夷州及びセン{サンズイ亶}州有り」
また、呉地 :・・会稽海外に東テイ人あり・・。
漢書・地理志の後半に、長安を中心に辺地が列記されてますが、このうち東方の海岸地区は北より、燕地、斉地、魯地、呉地である。
など、見ると東{魚是}は東でもかなり南といているようです。
やはり「なまず」でしょうか、単に魚が好きな、とか、遠いのもあてはまりそう。

列島での蝦夷は、蘇我蝦夷に鴨君蝦夷。これだと甲冑のエビが強いのかも。
蝦夷の初見は景行12条「東の夷エビスのなかに日高見国有り」のようで、房総には、夷のつく、夷隅郡とか今でも結構残ってますね。

弥生以前はのちほどとして、「蝦夷」の単語はいつが初見だろう。記紀以前にあった?
「蝦夷」がエゾと呼ばれるのは平安中期以降らしい。
古代の東北、陸奥は蝦夷と、出羽は蝦狄と書かれるのがあるが、出羽(日本海側)は日本海を越えた北とのつながりを意識していたのではないでしょうか、北の狄からの鉄・武器の補給?

700年初めに,東北の柵戸に中部関東から大量(その頃の相模1国分の人数)を送りこんだり、足りなくてその後犯罪人スレスレを送りこんだり、している。開拓半分監視半分での人海戦術。
700年代以前にもあったでしょう人海戦術。当然混じる訳で、そこに政争(戦争)に敗れた貴人が流れて対抗する核になるのは、十分有ですね。

>このころに藤原姓登場の源ができたのではなかろうか
#この辺り、すこし詳しくお話し下さい。
藤原は、のちの源氏と同じで大陸に倣った親衛隊が発端かな、など考えてます。

>氏族関係が流動的で、それに重なって大和朝廷の意識の変化もある・・ちょいと複雑だけどこんなところだろうと空想中。
#いやいや、事実はもっと複雑、700年以前は^^。

↓ 


エミシとアイヌ 投稿者:かたばみ  投稿日:07月25日(水)22時27分44秒

山海経の海外東経にこんな文があります。
玄股国はその北にあり、その人となりは魚の衣をきてカモメを食う。二羽の鳥を使い腋にかかえている。
毛民国はその北にあり、人となり身に毛が生えている・・

魚の衣はサケの皮で造った着物だと思います。シベリアのギリヤーク族(ニブヒ族)や樺太アイヌにあった衣服。
サケの皮で造った靴もあったようです。
ギリヤーク語でニブヒとは人間の意、アイヌ語でもアイヌは人間の意。
伊福部昭が編曲したギリヤークの吟誦歌のmidiあり。
毛民というのは毛皮をまとった人々だろうなあ、エスキモーみたいに。
毛深いという意味もあるかもしれないけど、アイヌ系のような顔つきにもみえます。

後漢書に「会稽海外の東テイ人」(テイは魚+是)というのがでてきますが、テイはナマズあるいはイワシの意のようです。
山海経の海内南経(浙江省周辺とみられる)にはテイ人(低−にんべん)が登場。
後漢書の東テイ人とは東のテイ人の意なのではなかろうか。
春秋時代では山東半島は「夷」、それより東は蝦夷。ガマの夷じゃなくてエビの夷だったんじゃないかなあ。

BC400頃から東北に弥生文化が到来(初期開拓者→アマテラス族)、そしてBC50頃に出雲勢力の到来で東北に蝦夷が誕生した、これがエミシ族というのが自説。
温暖化の時代、南の文化が北進する時代の事象。

AD1頃から寒冷化がはじまり各地で不穏な情勢が発生。
(新羅本紀や百済本紀でも飢饉で食人すらあったとある)
孝昭105-137頃に西日本で倭国争乱発生、天孫系VS出雲系(+旧縄文系)。
AD250頃、倭国争乱終結、崇神が近畿ヤマト王朝樹立。出雲系祭祀の導入で出雲や近畿縄文との融合を図る。

しかし関東では垂仁273-311で鹿島に拠点をもつのがようやっとだった。
景行311-333が東国の制圧に着手、日本武尊の東征。しかしそれも北関東まで。

仲哀亡きあと西日本は内乱時代となって複数王朝並立で関東や東北どころではなくなる。
雄略456-479にいたってようやく九州〜関東を統一。
栃木や群馬の前方後方墳はこのころのもの。
同地域で大和系氏族と蝦夷系氏族の混合が盛んに行われたと推定。
ふたたび内乱起きるが継体507-530が擁立されてようやく近畿ヤマト王朝は安定化へ(大和朝廷)。

弥生後期からこの頃までが寒冷時代。
この時代に北海道から大勢の人々が東北へ南下してきたと思います。
BC6000〜4000頃に東北から北上した縄文系と北海道の旧石器系(コーカソイド系)の融合によって生まれた人々の南下です。

同じ時期にカムチャッカや樺太からも北海道へ南下してきた人々がいるはずで、この人々とその地の先住者が融合した人々がすでに消えてしまった千島や樺太南部のアイヌの祖先だと推定。
縄文人というより旧石器人の形質をより濃く残す人々が北海道に存在したわけで、この人々が現在のアイヌの祖先とみています。

弥生後期〜古墳時代では東北北部で蝦夷エミシ族と津軽海峡を南下したアイヌ族(の祖先)の混合が進んでいます。
関東のエミシ族は推古592-628あたりでは大和朝廷の中に組み込まれていた。
敏達572-584の蝦夷のオサの誓約などです。
このころに藤原姓登場の源ができたのではなかろうか。

しかし東北のエミシ族は大和政権に組み込まれてはいなかった。
(北海道では擦文文化とオホーツク文化の時代です)
大和朝廷は東北エミシに倭国争乱時代の出雲系勢力の影を感じていたのではないかな。東北への出兵開始。

この時代では氏族としてのエミシは関東では近畿系と融合が進み、東北では南下したアイヌ族が混じって弥生のエミシ族とは言い難くなっていたと思うのです。
蝦夷をエゾと読むようになるのは平安時代以降のようです。
東北北部が大和朝廷に組み込まれた時点でエゾの読みが登場したのではないかと考えています。
弥生のエミシ族は事実上消滅し、エゾの読みで地名として扱うのが現実的な状況になった、というわけです。

氏族関係が流動的で、それに重なって大和朝廷の意識の変化もある・・ちょいと複雑だけどこんなところだろうと空想中。


お手数おかけしました。、投稿者:stan、:07月25日(水)01時12分58秒

hahahaさん こんばんわ

暑さの中、お手数おかけしました。
>これが、全国で最初の七夕行事といわれているそうです。
>画像2−3枚ありますけど、時期はずれですね。。。

#最初の七夕行事、興味あります、よろしくです。 湘南・平塚の七夕は、昼・夜とも駐車場が満車で引き返しました、ところです^^;


re:いろは歌・・、投稿者:stan 、:07月25日(水)01時07分56秒

「とがなくてしす」だったですね、忘れておりました^^;

いろは、、どうすれば、つながり良く重ならず作れるのか、誰が作ったか、気になるところです。。 人麻呂なら時間をたっぷり使えば、できた、可能性は強いですね。

蝦夷と言えば、坂上田村麻呂は金色のつけ髭を愛用してたという話がありますね。

蝦夷は、呼ぶほうから、東の言う事聞かない連中の意味で、出自などこだわりは無かった、と思います。
阿倍氏なども古くに東国へ出た流れが、蝦夷と呼ばれる対象となってます。
そういえば、田村麻呂は阿知主の流れで東漢坂上、桓武とは縁戚かな。ひょっとして東国文芸の種も蒔いたのかも。。
国司、官人&文人が任期終っても都に戻らないのがちらほらみえます。
東北は、山もゆったり景色もやさしい、印象です。東北道でよく感じます。


完了しました、投稿者:hahaha 、:07月25日(水)00時46分55秒

こんにちは。

新規リンク先を、当HP内でも変更いたしました。
改めまして、よろしくお願いします。

7/7、奈良県當麻町の七夕神社で、行事が行われました。
これが、全国で最初の七夕行事といわれているそうです。
画像2−3枚ありますけど、時期はずれですね。。。


いろは歌・・、投稿者:KENJI、投稿日:07月24日(火)18時16分18秒

アルスの保護者さん、此方でも宜しく。他のHPでは見れない私が見れるかも。(爆)

いろは歌の謎とは、「とがなくてしす」ですか。(^○^)
最初知りました時は、驚きでしたね。上手く隠されていると思いましたが、
奈良時代には知られていたようですね。

蝦夷(エミシ)とアイヌ。
蝦夷は、不可解なほど何度も征夷大将軍を送り、征伐した相手と思っています。
後に「安部」「安東」と成った祖先かと。
アイヌは別に「毛人」と、記されていた種族と思います。

蝦夷は元奈良地方に住んでいた一族が、九州・倭族に追われ、其方に逃げたのではないか。
その為に必要以上に征夷大将軍を送り、征伐する必要が有ったのではないかと・・・

詳しい設定などは出来ていませんが、その様な仮説です。

hp

re: 初めまして、 投稿者:stan 、:07月24日(火)00時21分27秒

アルスの保護者さん いらっしゃいませ

その節は、おさわがせ致しました。

>歴史は好きですが、みなさんのように深い知識はなくて、ただ好きってだけなので恥ずかしいです。

#好きなことが一番大切。と思います ^^。
身近を情報が通り過ぎようとするとき、捕まえることができます。
これが「?」を呼んで、暇な時に調べるようになります。そのうち、暇ではない時も調べたり。。。で、時間が足りない、となると大変、というか楽しさ倍増です^^。

偽書とか、一部「とんでも・・」などありますが、あまり区別してなかったりします。
「ウラヅケ」の殆ど無いのは、途中で読まず投げ出したりしますが、、記紀も物理的記述(○○を造ったなど)以外は結構偽書の部類、と思っております。

柿本人麻呂、といえば、たしか「いろは歌の暗号」(人麻呂の暗号?)とかが記憶に残ります。
梅原猛氏のは、哲学者といいますか、人の行動、特に権力者の行動の根は自己への慰め・自己の平穏が主と思ってますので、氏の解釈は行動の大きな部分を捉えていると思います。

↓ 

re:エミシとアイヌ、 投稿者:stan、:07月23日(月)23時43分30秒

>アイヌと蝦夷(エミシ)の関連についてはまず蝦夷とはいつのどういう人々をいうのかをはっきりさせないとすれちがいそうですね

#アイヌと蝦夷の関連、アイヌ=蝦夷、かそうでないか、?

念の為、辞書3つ調べました、広辞苑、Bookshelf、漢辞海。
蝦夷は「東北に土着していた、アイヌ族祖先の種族(新唐・日本伝)」
夷は、「中国東部の異民族、中原以外の少数民族」
「 」内は漢辞海の内容の一部、漢字の用例を遡って調べている、で説明が明確。他は説明に明確さが感じられない。

東夷北狄の言葉があるように、夷そのものが東方を含んでいるですね、狄は北方+遠方。
蝦夷の{蝦マイナス虫:カ}は借りるが主な意味のようですが。蝦夷と呼んだ連中は、虫と反とを合わせてイメージしていたのかも。

>これがアメリカへ渡った最古の先住者で、インディアンの祖先のモンゴロイドはこれより少し遅れて渡った人々・・の説に賛成です。
#なるほど、ナウマン象を追っかけた人々ですか。

>日本にいた旧石器人もまた同じではないか・
#房総半島から利根川沿い以北と、それ以南では、どうも区別できそうですね、石器時代。
房総利根川(北方)優勢が、箱根を越える辺りまで進出するが、その後、西からに押されて再度房総利根川辺りのラインまで戻った様子。
このラインが縄文、弥生辺りまで残るような気がしている。


引越し完了、投稿者:stan、:07月23日(月)23時42分18秒。

ふーっ、引越しひと段落。おかしいところありましたら、ぜひご指摘下さい。
殆ど変更はないです、ので、背景色を緑基調を増やしました。

有料掲示板に比べ4倍使えますね4kb^^。万一量オーバーでも元は残ります。
width指定してないのも使いやすい。
画像使用もKENJIさんご指摘で、分りましたし。。
文字色は遡って変更するようですが、画像のソレは遡らないようです。
かたばみさんも早速、「太字」などお使いで。。
パソコン画面の2ページ分以上は書きでがあります。

hp

初めまして、投稿者:アルスの保護者、:07月23日(月)20時07分57秒。

KENJIさんのところでお目にかかったアルスの保護者です。
リンクでこれまでも何度か遊びに来ていましたが、カキコは初めてです。
歴史は好きですが、みなさんのように深い知識はなくて、ただ好きってだけなので恥ずかしいです。
古代の歴史は正史より、偽書とされているものから、想像の翼を広げるのが楽しいですね。
梅原猛さんの「水底の十字架」など、聖徳太子や柿本人麻呂を書いた本が好きでした。
あと邪馬台国論争もワクワクします。
そんな程度の中途半端な知識で恥ずかしいのですが、これからもよろしくお願いします。♪

hp



エミシとアイヌ、投稿者:かたばみ、:07月19日(木)18時24分16秒。

全角2000文字ということは4Kバイト書けるってことですね(^^)
さっそく・・(^^;

以下メールをいただいた方への応答をかねています。

アイヌと蝦夷(エミシ)の関連についてはまず蝦夷とはいつのどういう人々をいうのかをはっきりさせないとすれちがいそうですね。

アイヌは縄文人というよりは旧石器人を祖先とするのではないか・・(^^;
今のところアイヌと直結するのは北アメリカのいわゆるコーカソイドに近い骨格をもつスピリットケーブマンじゃないかとみています。
これがアメリカへ渡った最古の先住者で、インディアンの祖先のモンゴロイドはこれより少し遅れて渡った人々・・の説に賛成です。

なお、ここでいうコーカソイドは「白人」ではありません、ヨーロッパの白人の祖先にもなる人々の意です。
BC2万5千あたりまで遡って中国の旧石器人もこのコーカソイドとよく似た骨格のようです。
日本にいた旧石器人もまた同じではないか・・

この頃はまだモンゴロイドは登場していなかった・・
モンゴロイドあるいは縄文人はその人々と南方系の人々の合体・・
南方系の人々とは自説でのスンダ大陸あるいはオーストラリアあたりを源にする海洋民族オーシャノイド(^^;
(これには小人族と巨人族があったのではないかと空想中)

エスキモーは後に優勢となって北米へ渡ったモンゴロイド系のベーリング海峡付近の定住者。
しかしモンゴロイドの活動エリア(移動ルート)から離れていた北海道や千島などで「最古の旧石器人」の形質を濃く残した人々がアイヌの祖先だ、というのが私の考えです。


蝦夷エミシはいつの時代をもってそういうかがありますが、弥生から東北争乱時代の当事者、としておきます。
エミシの誕生は弥生時代の東北縄文と出雲族の接触によるもので、鎌倉時代の関東武士の多くにも蝦夷の系譜が含まれていたのではないかとみています。
むろん奥州藤原は蝦夷の出自、骨格がアイヌと異なるのは当然ということになります。

奥州藤原の祖とされる藤原秀郷は下野シモツケ(栃木県)出自。前方後方墳の多い場所です。
ある時期の蝦夷の中枢はこの付近にあったんじゃなかろうか・・
このあたりは日本武尊の東征ともからんできそうで興味深いところです。
関東での氷川神社の存在はこれがベースにあるのではないかと思ってます。

関東の蝦夷に対抗するために鹿島香取に陣を張ったのが大和王朝の中臣系の氏族か。
藤原秀郷の母は鹿島氏の娘(桓武天皇781、大掾氏ダイジョウ系?)、蝦夷と中臣の抗争と和合のなかから藤原姓が誕生した、と空想中(^^;
俵藤太(藤原秀郷)と大蛇伝承・・蛇=藤(^^;

かたばみ


これはどうかな、投稿者:かたばみ。:07月18日(水)00時20分19秒。




一番のり、投稿者:stan、:07月17日(火)23時31分04秒、。

ありがとう、ございます。

>画像が出るはずなのですが・・・失敗したみたいです。(-_-;)
>何故でしょうか?(爆)申し訳無いです。m(__)m
#設定見直し、してみました。
下記、テストです。


でるかな

し、失敗、投稿者:KENJI、:07月17日(火)22時04分06秒。

画像が出るはずなのですが・・・失敗したみたいです。(-_-;)
何故でしょうか?(爆)申し訳無いです。m(__)m
<img src="http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/ur-kan.gif">

オッ!オニュー、投稿者:KENJI、:07月17日(火)21時58分07秒。

オニューの掲示板ですね。
タグも使えますか。画像も貼れるし・・・。
これで、より多彩な表現が出来ますね。
では、最初ですから、お祓いなど・・・(爆)

<img src="http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/ur-kan.gif"> hp


掲示板の変更です。、投稿者:stan、投稿日:07月17日(火)00時29分19秒。

tcup(Tripod)さんにお世話になります。

1回あたり書込み文字数の制限が、全角で2000文字程度(以前nifの4倍)になります。
*全角1800文字、60行×30文字、で確認済です。
(1800文字というと、かの広開土王碑文と量的には一緒ですね。)

 stan

↓ 

42、 Re^2: カシミールと三輪山、 s_tan、、2001/07/08 (日) 00:33、。

>すごーい! ですね(^^
#いえいえ、ここ暫く全く手付かずでした。

>ああまた土日が来てしまった。。
>ゆっくり耽溺したいものの、そうもいかず残念。
#忙しいのは、良いことです。ゆっくり耽溺は、これからさき十分あります。きっと。 私はあまりないかも。。^^;


41、Re: 管理人様に御礼、 s_tan、、2001/07/08 (日) 00:31、。

山森さん おひさしぶりです。

>お手紙を両陛下へお届けるため、来年の歌会始めに詠進歌を宮内庁に登録完了致しました。 お楽しみに? (爆笑)
#燕尾服でご出席となりましたら、事前にご連絡ください。TVで拝見いたします^^。

>「太古であそぼう」がリニューアルしましたね。 素晴らしいですね、 参考にさせていただきます。 よろしく!

#ありがとうございます。
川上さんの、画像付加での考察、目をみはる思いでした。


40、Re: カシミールと三輪山、アスベル生きていたかMail、2001/07/07 (土) 14:09、hp

> 寺社、古代に興味ある方で、カシミールの-NDBファイルを扱える方、データの相互補完しませんか。
> 現在、大阪・奈良・京都・関東あたりの主な神社と山、ほぼ完了。

すごーい! ですね(^^
ああまた土日が来てしまった。。
ゆっくり耽溺したいものの、そうもいかず残念。


39、 管理人様に御礼、山森 国造、、2001/07/01 (日) 22:09、hp

検索エンジンにて、御配慮を下されまして、誠に感謝を申し上げます。
  只今、お手紙を両陛下へお届けるため、来年の歌会始めに詠進歌を 宮内庁に登録完了致しました。 お楽しみに? (爆笑)

今年5月始めに、武蔵野御陵に参拝を致しました。 よくぞ!
生きて、再び、昭和天皇御陵にお参りが出来た事は、私にとっては 感無量の思いでありました。 

「太古であそぼう」がリニューアルしましたね。 素晴らしいですね、 参考にさせていただきます。 よろしく!
                              敬具

38、カシミールと三輪山、s_tan、、2001/06/29 (金) 00:20、。

奈良、大神神社の三輪山頂上は、実に見晴らしがいいです。
盆地はもちろん一望で、神戸六甲山、淡路島まで見える。さらに京都北部の山ならず山麓まで。北東から東方向の山並も一望。 素晴らしい。

多謝:カシミール制作者殿、かたばみさん。

寺社、古代に興味ある方で、カシミールの-NDBファイルを扱える方、データの相互補完しませんか。
現在、大阪・奈良・京都・関東あたりの主な神社と山、ほぼ完了。


37、掲示板リンク、アスベル生きていたか、、2001/06/28 (木) 22:56、。

そういえば、ウチのTOPに掲示板リンク作りました。
あそぼ系のみなさんも、是非ご利用下さい。


36、書き込みたいよお… 、アスベル生きていたかMail、2001/06/28 (木) 22:53、hp

うう、色々お話ししたいけど(涙)
またちゃんと見ます(^^;

あ、大森貝塚オフは7月中かもです(未定)
7月5日夜で新宿OKなら、作家さんとプログラマさんと飲みます。
よかったらメール下さい。ではでは。


35、Re: ああ青春の我が塩爺。、 かたばみMail、 2001/06/28 (木) 08:36、。

23≫ヤマトないしヤマトィ(また)ないしヤマイチ(なの?)

私は「邪馬・壹国ヤマ・イ国」とみてます。もっとも「邪馬臺国、ヤマタイ国」も漢字登録してあってこれも使います。どっちでもいいってことですが、ヤマイ国と書いても通じないから(^^;
今は略字の邪馬台国は使わないようにしています。台では壹との関連が消えてしまうから。

壹の発音は(y1)(y1の表記は正確じゃないです、書けないので)
臺の発音は(tai)または(y1)。
タイがトにつながる根拠なし。壹と臺は(y1)が共通項、発音は「イ」の可能性が高い。
加えて字形が似ている故に写本に壹と臺が生じたとみています。

AD412にインド旅行から帰還した法顕という仏僧の旅行記のスマトラ島付近に「耶婆堤国」が登場。
ヤバタイコク・・邪馬臺国・・何千キロも離れた場所にもヤマタイコクがある。
ジャワ・タイ国が語源で邪馬臺国が正しい・・なんてのだれかやらないかな(^^;

中国語など実際の発音を音で聞かせくれるHP探してますがまだみつけていません。


34、 Re: 苗、 かたばみ、、2001/06/28 (木) 08:34、。

22≫そうそう三苗でした。これのあらましを知りたいのですが。

私の方が教えてほしい(^^; いまのところ7章程度が限度です。
(ちょこまか修正してるので気が向いたら更新チェックしてみてください(^^;)

弥生の基本文化をもたらしたのが三苗であるのは確実とみてますが、骨のDNA分析も各地の大量の資料が集まらないと方向がみえないだろうな。
良渚文化風の土器が九州で発見されれば面白いけど船に重い土器は積まないだろうし、陸の人々も籾をいれたのは篭か瓢箪でしょうし。

≫弱肉強食のこの世界で、階層社会は自然に生まれると思うんだけど

狩猟や採集の場合の腕前の差が階級になるかどうか。
縄文でも純粋に採集や狩猟だけではなく栗林作るとか焼き畑とか生産に近いことをはじめて余剰が生じたとき、その余剰が階級の芽生えになったんじゃないかなあ。

「固定された土地」で連作が効くのが水稲の最大の特徴。そしておいしい、高級食料。
確保した水田の広さが余剰(富)につながって、小作人の登場を含めて階級のシンボルになっていったのではないかと考えてます。


33、Re: 古墳物語、かたばみ、、2001/06/28 (木) 08:31、。

18≫前方後円て円墳に方形の祭壇が付いた、というのが定説みたいですけど、、

丸いとお供えの高坏が転んじゃう(^^;
ホタテ貝型の古墳はその可能性があるけど、少なくとも前方後円墳は中央部は谷だから祭祀場というのは成り立たないと思ってます。
斜面も丸と四角は同等の傾斜で土木工事上の限界傾斜にみえるから、工事用の足場でもない。
−参照−

敏達572(太子西山古墳)までは前方後円墳だけど用明585(春日向山古墳)以降は舒明629を除いて方墳とか八角になる。
舒明陵は本当に舒明かどうかがまず問題だけど、八角と方の合体にもみえます。
称徳704は前方後円墳なんだけど、少なくともこちらは御陵墓比定がおかしいのだと思う(^^;

敏達以降にどのような意識の変化があったのか。
用明585〜天智661はすったもんだの時代だし(^^;

氏族政治から王朝政治への変化が墓の形を変化させたと考えています。
前方後円墳ができたときも同様です、氏族の結合がその形を生んだと考えています(弥生中期に遡ると思う)。
とにかく全ての墓をあばいて連続データとらないと・・(^^; 一部だけ発掘してもだめだと思います。


32、 Re: 「考」考、かたばみ、、2001/06/28 (木) 08:30、。

14≫
日本は倭が本字として、自説年代を加えると
懿徳 92-105大倭彦耜友
孝昭105-137観松彦香殖稲
孝安137-175倭足彦国押
孝霊175-204大倭根子彦太瓊
孝元204-225大倭根子彦国索
開化225-248稚倭根子彦大日日

事実を知ってる人物がその事実に関連した文字を使って名付けたものと考えてます。
懿徳と孝昭の名から受けるイメージは農耕です。

「稲作を行う人々」=倭、が私の解釈です(11章参照)。
すると、倭根子とは稲作を行う人々を祖先とする子、となります。
「天孫」という氏族の姿はもうない。

孝昭に倭がない、松を見て稲の香りをかぐ天皇・・異常な名だと思う、なにかある(^^;
ちなみに名に「徳」の文字のある天皇には「怨」がみえるように思ってます。

孝昭天皇の后は尾張連遠祖の娘とされますから濃尾天孫からはいった妃である可能性大。
その濃尾でなにかが起きた(名古屋朝日遺跡のありように注目)。
あたしの国がたいへんよ、なんとかして・・倭国争乱勃発(^^;

↓ 

31、 Re: 女帝、かたばみ、、2001/06/28 (木) 08:27、。

13≫なぜ女を立てるんだろう…と妙に考え込んでしまった。

母系社会の影響が厳然と存在していたからで、女性の地位がやたら下がってしまうのは江戸時代じゃないかな。
威張るのは男だが実はその後ろで糸をひく・・(^^;

聖徳太子は実在だと思うけれど際だった事跡があったかどうかは?と思ってます。
蘇我政治のうちの良い部分を聖徳太子の事跡に写して蘇我氏を悪玉側にシフトさせたのだとみています。
百済と密着していた蘇我氏、百済を滅ぼした唐、そういった外交上の理由もあったのではないかな。

かたばみ


30、 Re^2: カシミール、s_tan、、 2001/06/26 (火) 23:47、。

> 「DirectX5 以降に対応。なくても可。」
>
> とあるので、ウチのFMでも大丈夫だろうか。。。どきどき(’’;

#ウチの5年程前のFM-V205,32M、ノーマルでも一応見れます、ビデオボードがタルイのでかなり描画が遅いですが。

弓月・都祁、ですが、
弓月君−秦氏−都祁(つげ)−朝日−・・・半島の迎日県(湾)だったかの位置が類似で鉄に関連。
当hpの神社−奈良(東)の大兵主神社の説明に、ちとあります。


29、Re: カシミール、アスベル生きていたかMail、2001/06/26 (火) 21:06、hp

> カシミール3D
>
> これはすごいソフトですね、特にフリーというのは作成者に感謝です。

ちょっと見てみましたが、ほんとスゴイですね。
こんど落としてみよう。

「DirectX5 以降に対応。なくても可。」

とあるので、ウチのFMでも大丈夫だろうか。。。どきどき(’’;


28、カワチ、 s_tan、、 2001/06/25 (月) 01:25、。

カワチ

>ちなみに高知も元はカワチ=河内だったそうですね。水害に苦しんだらしい

#全国にカワチの地名は多いですね、ほとんどが洪水になるような地形。
ナスカの洪水の跡は、あったような、おぼろげな記憶。。

>>大ヒロは取立て用で小ヒロは貸付用、だったりして。。
>うーんStanさん現実的(笑)。
#いやあ、私は収奪される側ですが、支配者はいつも現実的です。
天下太平は儒教の群生の統治・収奪の極意です。漢代の極意が環境保護・福祉の大義名分で安易な増税まかりとおる今も生きてますね、そのうち民の稼ぎの9割は収奪される時代がくるかも。。

>鳥居
古代オタク、ですか、勲章ですね。
徳島の海そばの小山に岡崎城というのがあって模擬天守が展望台と鳥居竜蔵記念館になってます。ここの北方民族の肖像絵が本などに良く載る継体天皇の絵のモトでした。桜の時期以外は空いててお勧めです、たぶん。。


27、 聖数、 s_tan、、 2001/06/25 (月) 01:23、。

左が上だったり(左大臣、左衽)右が上だったり(左遷、右席)。の列島ですが。
3を聖数、8を聖数、奇数と偶数の対立のような気がしますね。
それが列島でごちゃまぜに、だから諺にも対極がある。どちらも正しい^^;
古事記の初めは、3柱、別天5神、神代7代で、そのうち8貴公子に変る。
列島で奇数は土着ほど古く偶数は新参でしょうか。
平城京あたりではモロ北魏系統ですね。
ほぼ個人主義の道教も戦を通じて騎馬の戦法等とりいれてるから、戦い専門は偶数系でその他は奇数系かもですが、やっぱり北方偶数、南方奇数の大別かな。


26、諡号 、 s_tan、、2001/06/25 (月) 01:12、。

諡号は、継体以降だったかな、名づけは淡海三船だったかな、あやふや。。

ネコ、といえば土運びの一輪車なぜネコ。
子の子で北からというのは面白い。意外に本当?

>ところで、彼らは当時どのように呼び合っていたんでしょう?
#実名は呼ばないでしょう、魂とられるから^^;
実名で呼ばれる=身も心もささげる、臣下になる、でしょ。
上とか下とか、川むこうの、楠の大木があったらクスノキのとか、呼んでたんじゃ。

>マキムクの「マキ」は「真東」の意。その方向に何があるか、
#カシミール3Dで確認すると,纏向の倭とと媛古墳を基点にすると、
真東は纏向山と桧原神社の中間あたり、ずっと先は伊勢宮のちょい北あたり、実際は地図上より少し北にずれるので亀山あたりでしょうか。
補:倭媛古墳の長軸を東へ伸ばすと太兵主神社でその先は弓月岳になります。

前方後円墳は、円墳を高く大きくすると土など運ぶ斜め道が必要になりますね、この道をすべて取り除くのはメンドーだから、●と■を理由にして遠くへ残土を捨てる手間をはぶいた、のが真相。じゃないかと。。^^。
理由付は●と■で五行とか、騎馬民族に縁深い八陣、四頭八尾あたりのよな。


25、 Re: 「考」考2 、 s_tan、、 2001/06/25 (月) 01:10、。

> 一昨年高知よりの帰路、香川の白峰寺にも行きました。
高速バスで高知から高松、そこから八十場の駅まで。
讃岐うどんの朝食ののち、終日、白峰登山も含め30kmほど歩きました。
…10s超の荷物持ちながら(^^;

#行きましたよ、白峰寺、下の神社にも。荷物も持たず、車横付けで^^。
歩いたのは境内の中だけ、と言っても金比羅さんはたっぷり歩きでがあったですね。

うーん、崇徳さんが主人公ですか。。

>ちなみにホツマ関連でも、四国の金毘羅さんは大事みたいですね。
#よく分らないのですが、英彦山から吉野、熊野へ続くラインとホツマ、成立(まとめ?)時期が一緒じゃないでしょうか。大神と熊野、伊勢の理論的合体時期。?


24、カシミール、 s_tan、、2001/06/25 (月) 01:09、、。

カシミール3D

これはすごいソフトですね、特にフリーというのは作成者に感謝です。
ソフトはここ、http://www.kashmir3d.com/
* カシミール3Dは3D地図ナビゲータです( Windows用)

50mメッシュデータができて次元が違うですね。今まで使わなかったのが悔まれます。
しかし、フリーソフトは概して使い勝手がいいですね。


23、あ青春の我が塩爺。、アスベル生きていたかMail、2001/06/24(日)06:51、hp

>大和説だと邪馬臺国の主は大物主、出雲となる・・記紀や神社のありようを無視せざるを得なくなる(^^;

もっとスケールをでっかく柔軟にねがいたいところです。

そうそう、中国史のヒメコないしピメハァ(中国語風に)も大事なんだけど、日本史も大事にして欲しいですよね。神功皇后なんてガッコで教わった憶えないぞ。擦り合わせが足りないっ!
ヤマトないしヤマトィ(また)ないしヤマイチ(なの?)国もなんとかして欲しい。でも結局は箸墓古墳でもちゃんと調査しないと×なのか。柔軟になるまで、あと50年くらいストレッチが必要だったりして。なんとかしてよ塩爺(笑)。


22、苗 、アスベル生きていたか、、2001/06/24 (日) 06:50、、。

・かたばみさん
>三苗文化

そうそう三苗でした。
これのあらましを知りたいのですが。
かたばみさんの著作を読めばいいのかな(’’?

>・古代への放浪記→弥生時代のはじまり?、縄文時代に階層社会?参照

ホツマ伝にはカーストそのものが体系化されてますね。
士農工商の写しか、はたまたインド由来か。 

単純に考えると、弱肉強食のこの世界で、階層社会は自然に生まれると思うんだけど。ただそうすると、古伝どうこうも無意味になり、上の憶測に都合が悪く、自滅(笑)。そもそも弥生=階層、縄文=平等的な説がフィクショナルだったんじゃないかとか。狩猟採集、みんな貧しいから平等に分け合う。稲作で蓄財すると、権力へ……誰がこのスタイルを唱えたんだか。


21、 古代オタクと呼ばれて、アスベル生きていたか、、2001/06/24 (日) 06:48、。

・Stanさん
>鳥居は見つからず。=鳥居龍蔵のみ

これ、かなりマニアック(^^ 
なんとなく分かってしまった自分が恐い。
「古代オタク」とひとに言われて、最近反論できず(苦笑)。


20、 面白お菓子、アスベル生きていたか、、2001/06/24 (日) 06:48、、。

・KENJIさん
>其の頃の日本には、邪馬台国しか無いと、思う方が不自然だと思います。
魏志倭人伝にも、東の方に倭種の国が有ると書かれているのに。其の方が、注目を引くからでしょうか?(笑)

・Stanさん
#ほんと、ですね。
しかし、おもしろおかし、が前に出すぎか。

ヤマタイ以外で、おもしろおかし、を書けるひとがいないのかも。
市場もないのかなーと思いますけど。
戦後の学校教育でヒロインにされた女性だから、やむなしかなあ…。

「東方の倭種」でなく、報道にヤマタイが出てしまうのは、分かり易さと、やっぱり相変わらず九州・畿内の対立軸があるのかなあと思ってしまいます。ぼくなんかは「纒向古墳群」とか「勝山古墳」とか「ヒノキ」自体を(?)、もう少し楽しく書いてほしいと思いますけど。現状、いちばん誠実な答えは「わからない」だと思うので、多少間違ってもいいじゃん、という甘えがあっていいような。


19、 忠犬ハチ公、アスベル生きていたか、、2001/06/24 (日) 06:45、。

>なんで「8」?。

ぼくは聖数ということば知らないですけど、3+5=8で、5はもう手指他にも人間にはおなじみな数ですから…というのと、四方(+)の間に四方(×)を入れて、全方位、というのが幼児性な思いつき。プリミティブで証明不可ですが、それだけに案外。

8角堂に須弥壇となると、ものの性質からして中心と方位の相関は抜きがたいのかも。末広がりの八関連は、漢字以降と思いますね。

あとは世界一8にこだわった、「やくもたつ」の作詞歌にお聞きしましょう(^^


18、古墳物語、アスベル生きていたかMail、2001/06/24 (日) 06:44、hp

>前方後円墳の生みの親は出雲臣族か・・(^^;
○と□の接点としても最適の位置にあると思うんだけど。

前方後円て円墳に方形の祭壇が付いた、というのが定説みたいですけど、、どうなんでしょうね。ちょっとこの辺も、古代なひとの心を覗いて、空想してみないといけないのかも…うーん客観性ないぞ。だから物語(笑)。

そういえば、四隅のベクトルって×ですよね。これって何かのカギになるかなあ…。どうしても、「こいつら何考えて…」というところに興味がいってしまう。キャラ指向なワタクシ。


17、 おもしろレス、アスベル生きていたか、、2001/06/24 (日) 06:42、。

>サンザンな目にあうのもこれで最後とか^^。3が聖数というのは面白そうですが。。

お世話になります(^^

>南米ナスカの地上絵あたりの墓などある宗教都市は「カワチ」とういう名前なんですねえ。

お、やっぱり(何がだ^^)
ちなみに高知も元はカワチ=河内だったそうですね。水害に苦しんだらしい。
ナスカのカワチに、川ないしその痕跡はありましたか(’’?
あるとすれば筋通りますね。

>大ヒロは取立て用で小ヒロは貸付用、だったりして。。
うーんStanさん現実的(笑)。

>都祁とか朝日とか控えて、
都祁って何ですか(’’?
恥ずかしながら素朴系疑問。

>風邪なおりました?お気をつけて。
お気遣いありがとうございます(^^
ほぼ、なおりました。


16 方位、アスベル生きていたか、、2001/06/24 (日) 06:40、。

>玄武(北・水星)、青竜(東・木)、朱雀(南・火)、白虎(西・金)。淮南子・天文訓によれば本来は本来は五惑星や星宿を指すものだった。四神に「宮・土」が加わって、五行ですね。

なるほど。ホツマ伝ではキ・ツ・ヲ・サ・ネ(東西中南北)という表現がこれに当てはまるみたいです。中心はキミ(君)なので宮は相応しい。

関連して、サイト「秀真政傳紀」のK氏によると、マキムクの「マキ」は「真東」の意。その方向に何があるか、というのはおそらくご存知かと。
お話し戻すと、時系列はわかりませんが、対応はありますね。またも逸れると、マキは「牧」が定説らしくて、これも魅力的です。みやこの名前に相応しいかはわからないですけど。ちょっと格調ないかな?イセとの相関も。


15、 「考」考2、アスベル生きていたか、、2001/06/24 (日) 06:38、。

(つづきです)。

ところで、彼らは当時どのように呼び合っていたんでしょう?
この長たらしい名前を読むといつも思います。
まさか、いちいちフルネームでは呼ばないよなあ…(^^;


14、 「考」考 、アスベル生きていたか、、2001/06/24 (日) 06:36、。

そういえば、古代の天皇のおくり名まとめた人って何時の方でしたっけ(’’?
「考」に着目したカテゴライズは面白いですけど、当時の趨勢をリアルタイムで想うなら名前で見ていかないといけないのでは?ということで、ぼくも追ってみました。少し襟を正そう。

5.考照=観松彦香殖稲(ミマツヒコ カエシネ)
6.考安=日本足彦国押人(ヤマト タラシヒコ クニ オシヒト)
7.考霊=大日本根子彦国索(オオヤマト ネコヒコ クニクル)
8.考元=大日本根子彦大日日(オオヤマト ネコヒコ オオヒビ)
9.開化=稚日本根子彦大日日(ワカヤマト ネコヒコ オオヒビ)

10代は崇神で、これはおなじみ(?)ミマキイリヒコ+イニエ。
名前の構成要素からして7〜9代はかなり近しい。
欠史と言われる理由もよくわかる。マイナーチェンジっぽい。

ホツマふうに解釈すると、ネコが気になる。
ネ=北なので「北の子」ぽい。根の国の子ども。キタから来た日嗣の御子。
6代のオシヒトも面白い。「天皇の諱に「仁」が入るのは清和天皇以降の慣習である」というご指摘があったので、過去にヒトはいないのか、と思いきや。


13、 女帝、アスベル生きていたか、、 2001/06/24 (日) 06:34、。

・かたばみさん
>聖徳太子あたり以降ではだれがどっち向いてるのかわけがわからないので当面パス(^^;

キャッチしました(^^
うそうそ(笑)。ところで…

>女帝登場が内乱収拾のためといったところが共通項か。

この辺は面白いですね。
なぜ女を立てるんだろう…と妙に考え込んでしまった。
ちなみに…

1.推古帝を擁立するために、由緒正しい物部を滅ぼした蘇我が古伝を操作して天照を女に。
2.女帝考謙(称徳)を篭絡した道鏡が、これまた女に。

…の改ざん二説があるみたいです。
最近では「聖徳太子はいなかった」がブーム(?)らしくて、これまたこんがらがりますね。

↓ 

12、 崇徳院3、 アスベル生きていたか、、2001/06/24 (日) 06:32、。

・神羅さん
≫多賀大社&近江神宮 で、舞姫をやっている

うーんこの情報も貴重かも。
真偽云々は飽き飽きだけど、とりあえず整合性があるなあホツマ伝。
真実なのか、まことしやかに良く調べたのか…という二元がそもそもいかんか(^^;

ところで滋賀の中学二年生、がんばって下さいね(^^
(と、もうここにいないかも^^;)

こちらのサイトでフィーチャーしてるのは、滋賀県産のいわゆる「異伝」ですけど、フラットな目線で、バランスよく見てくれれば嬉しいです。ちなみに「手のつけられない悪ガキ」が主人公ですよん。

※そうそう、アメノウズメはこちらにお話しあり。
hp-yama-v02


11、 崇徳院2、 アスベル生きていたか、、 2001/06/24 (日) 06:30、。

ちなみにホツマ関連でも、四国の金毘羅さんは大事みたいですね。

鳥居礼さんの本で読みましたけど、本殿の斜め後ろに禁足地となる神窟があり、ここを中心とする「お山(み山)」信仰がある。「お山」は古代の貴人のみささぎ(陵)のことで、貴人とはたれか、という段になると、ツミハヤヱという人物が出てくる。このツミハヤヱ、大物主の代行である事代主だから(ご承知の通りホツマ伝ではいずれも官名)、現在の祭神は、然り、というお話しでした。

金毘羅じたいはインドで江戸期のクンビーラなんでしょうけど、古代はどうだったんでしょうね。あ、大野説でこじつけて「もともとインドでOKなんだ!」と言ってしまうことも可能かも(^^


10、 崇徳院、アスベル生きていたか、 2001/06/24 (日) 06:29 、hp

こんにちは。お久しぶりです。
相変わらずメモ帳にコピーしてレス、というリーズナブルな通信状況で(^^

・Stanさん
≫一説には崇徳上皇が四国の金比羅さんに居た時、上皇を慰めるために舞をして、これが神社でのきらびやかな舞(舞姫)の始りともいわれています

お、出ましたねーウチの主人公(笑)。
いいシーンです。これは憶えておかないと。

一昨年高知よりの帰路、香川の白峰寺にも行きました。
高速バスで高知から高松、そこから八十場の駅まで。
讃岐うどんの朝食ののち、終日、白峰登山も含め30kmほど歩きました。
…10s超の荷物持ちながら(^^;
最後は岡山への終電切れそうで、ほとんど泣きそうでした。
懐かしい。


9、 浦安舞、 s_tan、、 2001/06/17 (日) 00:08、。

神羅さん、がんばってますね^^。
浦安の舞、ですか。

かたばみさんが、天照大神がかくれた天岩戸の前で踊った、天鈿女と説明されてますね。この辺りは分りましたか?

天鈿女は佐瑠女(さるめ)という氏族の祖といわれ芸能をする人達に特にご利益のある神様として有名です。

浦安の舞は、昭和15年につくられた舞で祭祀舞のひとつ。五節舞の4人、8人と13才(今の12才)と共通するものがありますね。
各地の神社で奉納されているようですが、2人か4人で(8人もあるようです)、小学6年生か5年生が舞うのが多いようです。
神羅さんの近所の神社や、お年よりの方に、なぜ2人とか4人とか、なぜ童女なの、とか聞いてみてください。
神羅さんか学校かのhpで発表する事になったら、ぜひ教えてくださいね。

金比羅さんの舞は、童舞・巫女舞、と分けると、浦安は童舞で、金比羅さんはどちらかというと巫女舞ですね。
浦安の「浦」は「心」で、心を安らかに、という願いがこめられているそうですよ。


8、 Re: 舞姫、かたばみMail、2001/06/16 (土) 09:58 、。

神羅さん、こんにちは。

≫岩戸の前で酒盛りを始めました。その時に踊った舞が「浦安舞」だった・・・という話なのですが

神楽の舞には、天の岩戸の天照大神の前で踊られた舞を起源とするもの、奈良平安時代以降の宮中での舞を起源とするもの、あるいは各地にある神社がその伝承にもとづいて踊る舞など、いろいろの流儀があるようです。
浦安舞は天の岩戸で天鈿女命アメノウズメが舞ったという神話にもとずいて作られた舞で、多くの神社で舞われるようです。
くわしいことは神社本庁におたずねになるのが確実かもしれないですね。
神社本庁

下記は九州の日向に伝わる米良神楽(メラ神楽)と呼ばれる神楽や舞を研究したHPです。
米良神楽、慶大
たくさんの種類の舞のひとつに浦安舞があります(6章の花の舞のなか)。
女の子4人の場合が多いようですが、ここでは男の子6人が踊っているようです。(ビデオ映像あり(^^)

神羅さんも浦安舞を舞うのでしょうか。

かたばみ


7、 舞姫、神羅Mail、2001/06/15 (金) 19:55、。

 またまた カキコしましたぁ! 今回は舞姫について少し調べてみました!!
なぜ舞をするのか・・・ということなのですが。。。。
あるエライ女神さま「天照大神」という太陽神がいました。その人には弟がいて 名前は「須左之男命(スサノイノミコト)」といいます。須左之男命は手のつけられない悪ガキで、天照大神はとうとう怒ってしまい、天の岩戸に隠れてしまいました。天照大神が岩戸に隠れてしまったため、世の中は真っ暗。。。
「それは 大変!」っつなわけで・・・村人たちは天照大神を天の岩戸から 出してくるために岩戸の前で酒盛りを始めました。その時に踊った舞が 「浦安舞」だった・・・という話なのですが。
 金比羅さんの舞は「浦安舞」 ではなかったですか??
私たちが調べようとしてるのは浦安舞なのですが・・・・・。
ちなみに、うちの近くの神社では夏の祭りの時小学6年生が浦安舞を舞ます!!

  ・・どなたか「浦安舞」についていろいろ知っている人はいらっしゃるでっしょうか??
 いらっしゃいましたら ご連絡お願いします!!!!
 では  お待ちしております!!!!


6、 掲示板の整理、  s_tan、、 2001/06/14 (木) 01:06、。

掲示板、古いLOGを削除しました。

直前のつながりなどは
掲示板書庫05
をご覧下さい。

500件越すと古いものから順に消される、のを暫く気がつかず。。
連番で501となるコメントを 1になるようにしてます。


5、 Re: 笛吹神社、 s_tan、、 2001/06/14 (木) 00:54、。

笛吹き神社ですか、景色のいいところですね。近畿自然道もうなづけます。また関西でゆっくりしたいものです。

>残念ながら、夕刻とあって取材はできませんでしたが、これは、また後日に。
#よろしくです。
笛吹きの笛は、ふえ、増え、ふゆ、冬、を意識してる?
 そいうえば人名の蝿も、もともと生える、映える、栄える、あたりかな。 あと、ははか、で生駒大社、高鴨神社との関連とか神事の分担があったのか、
など気にかかるところです。

そういえば、前回の箱根のトイレ、ダブってましたね後で気がつきました^^;


4、 re:改装オープン、 s_tan、、 2001/06/14 (木) 00:53 、。

こんばんわ

改装オープンおつかれさまでした。
画像を含めて表示が速くなり見やすくなりました。

>ソースを見直せと云われても手をつけられない程の未熟でしたが少しづつ

#あまりお役に立てずに失礼しています。

私は、10keyBasic−Basic−MSdosとかじってきてますが、WINになってからはほぼ投げている状態です。
動作不安定でとりあえず何でもメモリーに引っかけるから原因追求する前にほぼ匙をなげてます^^。 で、簡単・汎用コマンドしか使用してません、出来ないともいいます^^。
画像を追求すると1枚10メガ使ってもデジタルでは不満が残ります。
同じ内容ならソフト&データは軽いほどいい、と思います。データベース的用途は特に。


3、 Re: 地図入力、 s_tan、、 2001/06/14 (木) 00:52、。

カシミール3D、メッシュデータ了解です。

しかし古墳に関する本は、番地を末尾まで載せてないとか、整理されてない地番の所が多いから、かなりラフになりそうですね。
ナビ持って現地探索ということになりそう^^。

>遺跡データもそれをやりたいけれどたいへん。まずは神社と古墳が手頃かなあ。
#神社データは、800超えてますが50mメッシュで置ける程度に記憶してるのは100位かなぁ。

>神社も古墳も簡単な平面図を上を北に合わせて表示させればインスピレーションがうかぶ可能性大(^^)
#これはありますね、インスピ。現地に立っても樹木とか近くの建物で確認できないのが結構ありますから。
しかし、社の位置、本殿の向きなど結構変っているのが多い。


002、 笛吹神社、hahaha、、 2001/06/13 (水) 01:18、。

こんにちは。

先日、奈良県北葛城郡新庄町の笛吹神社に行って来ました。
様子は、相変わらずで変化などございませんでした。
しかし、立派なトイレが新設されていました。。
神社がこのような立派なトイレを設置するなんて・・、と
思っていたら、トイレ建物横にプレートがあって、「近畿自然道?」と 書いてありました。どうやら補助金が出て、設置されて様です。
車椅子ブースもあって、とても親切です。(鳥居から階段を上るには不便)
裏に、宮司さんのお住まいがありこちらは、坂道になっていてこちらから アプローチできます。
残念ながら、夕刻とあって取材はできませんでしたが、これは、また後日に。

なお、ここら辺でホタルの乱舞が見られます。(最近はかなり少ない)
それで、夕刻に行った次第です。。


001 地図入力、 かたばみMail、 2001/06/10 (日) 18:29 、。

> カシミール3D、メッシュデータ手に入ります?条件を揃えて分担入力しましょうか。

カシミール3Dは最高のフリーウエアのひとつだと思います。
3000円かそこらで1年間地図ダウンフリーというのもあって50mメッシュでも1/2万5千でもダウンできるんだけど電話回線だと電話代が(^^; 圧縮版でも400メガあるからなあ。

遺跡は緯度経度で位置が書いてあれば入力は事務作業だけなんだけどたいていは住所表示だけ。
インターネットの地図サービスなどで位置の緯度経度をもとめて数値入力してますが、これがたいへん面倒なのです。

記録ポイントをクリックすると任意のデータファイルや画像表示もできるんですね。カシミールの掲示板で教えてもらいました。
遺跡データもそれをやりたいけれどたいへん。まずは神社と古墳が手頃かなあ。
神社も古墳も簡単な平面図を上を北に合わせて表示させればインスピレーションがうかぶ可能性大(^^) 県単位あたりで分担できればいいですね。



500、 Re^2: 勝山、出雲。。、かたばみ、、2001/06/10 (日) 18:27、。

孝霊あるいは孝元天皇の子に吉備を冠する子が登場してるから、吉備に進出したことは確実。
問題は進出が東からか西からか(^^;
東からだと神武が近畿を征服したけど、瀬戸内は後回しになったということでちとつらそう。

神武、綏靖、安寧までは出雲系の妃が続いて天孫の流れは親出雲となった(あるいは出雲勢力が復活)。
懿徳 92-105の妃は天豊津姫で天のつくところから伊都国出自じゃないかと推定(旧天孫が復活)。
その子の孝昭105-137〜孝元204-225では反出雲の流れになって、それが倭国争乱につながったとみています。

107に倭国王師升スイショウが後漢に朝貢、師升とは孝昭天皇のことだと思う。
体制の変化があったから後漢に挨拶しているのだと思います。
で孝の字の最後の孝元204-225で後漢が滅亡(220)、魏呉蜀三国時代となる。孝の字も消える。
今度は卑弥呼が魏へ使者を送り(239)、魏の干渉がはいったところでタカ派の軍部が奈良突入作戦決行(^^;

聖徳太子あたり以降ではだれがどっち向いてるのかわけがわからないので当面パス(^^;
女帝登場が内乱収拾のためといったところが共通項か。

かたばみ

499、 改装オープン、タケルMail、2001/06/09 (土) 11:55、hp

道を尋ねてを掲載して一年余になりますがこの度「しきしまの道」として 改装オープンしました、stanさんには当初より手ほどきを頂きました事 ありがたく存じます。ようやくhpのシステムが判りかけております、 ソースを見直せと云われても手をつけられない程の未熟でしたが少しづつ 勉強して行きますこれからも宜しく


498、Re: 舞姫、 s_tan、、 2001/06/07 (木) 00:37、。

神羅さん、いらっしゃい。

舞姫と言うと、森鴎外の小説にありましたが。ではないですね。

舞姫=舞妓(ぶき)で=まいこ、さんなのですが。
古代から朝廷で新嘗祭・大嘗祭に少女が舞う行事があって平安期には「五節舞(ごせちまい)」としてカタチになるようです。この頃の舞姫(まいひめ・まいびめ)は4人で公卿から2or3人、国司から2or1人選ばれたようです。
神社などでの舞は、巫女舞(みこまい)といって今でも動作が単純で鈴を鳴らす程度の舞を奉納するところがあります。これは少女と言うか童女が舞をする所が多いようです。
平安も終り頃になると白拍子といって舞いなどを専門にする女の人が出て、これも舞姫と言われます。
一説には崇徳上皇が四国の金比羅さんに居た時、上皇を慰めるために舞をして、これが神社でのきらびやかな舞(舞姫)の始りともいわれています。
金比羅さんでの舞は、[画像書庫」、 ココに1枚の画像があります。

中学生だと分らない言葉があるかもですね、
でも、神羅さんの名だと分るかも^^。分りにくいところは質問くださいね。


497、Re: 勝山、出雲。。、s_tan、、 2001/06/07 (木) 00:14、。

>210年だと孝元204-225天皇が吉備を占領して出雲の苦戦が濃厚になった頃と空想(^^;

#大日本根子彦国牽尊、ですか。一代前の孝霊が三輪のほぼ西の平地に居をかまえて息子あたりを吉備に派遣してますね。孝元8になって見晴らしの良い東の山に移った可能性は十分?

>弥生後期の出雲王朝は近畿にあった・・この方がよほど注目をあつめる(^^;

#出雲の名をつける或は流れは三輪から纏向あたりで天武の前辺り迄、あったような気がしてますが。。 京都・河合神社付近、出雲の地名とか出雲廃寺とか、(700)頃の動き、どうも奈良からの出雲と、出雲からの出雲と対峙してるような感じ。
名前を消すために、同じ名を作って被せるというのは結構常套手段の感が、する。

名古屋(尾張)というのは、縄文の後期あたりから東西の接点と言うか境界線のあったところですね。

カシミール3D、メッシュデータ手に入ります?条件を揃えて分担入力しましょうか。


496、 舞姫、 神羅Mail、 2001/06/06 (水) 15:10 、。

私は滋賀の、中学2年生です。 今 学校の総合学習で「舞姫」について  調べています。 
舞姫について、近所の人に聞いてみると、多賀大社&近江神宮  で、舞姫をやっていると教えてくれました。どなたか・・・舞姫について  少しでも知っていることがありましたら ぜひぜひ教えてください!!!
 お待ちしております!!!!


495、Re^3: 勝山古墳、かたばみMail、 2001/06/03 (日) 07:59、。

≫其の方が、注目を引くからでしょうか?(笑)

弥生後期の出雲王朝は近畿にあった・・この方がよほど注目をあつめる(^^;
多くの方々は内心ではその可能性を意識していると思います。
でも踏み出せない(^^;

なにがでれば論調が変わるかなあ。
やっぱり権威ある中国文献かなあ(^^;

カシミール3D使って国土地理院の50mメッシュ地図(立体地形図)にすこしづつ遺跡プロットしてるんだけどなかなか面白いです。
名古屋は1m海水面をあげるだけで熱田神宮は海岸の神社となってここから西北へ関ヶ原付近まで海岸となります。
海になる部分に遺跡や古墳はありません。多くの遺跡はその海の東北側にあります。

名古屋側の朝日村の出土物状況はいろいろ複雑なようですが、濃尾天孫→出雲→濃尾天孫復活といった支配勢力の交代があったからだとみています。


494、 Re^2: 勝山古墳、かたばみ、、2001/06/03 (日) 07:50、。

≫其の頃の日本には、邪馬台国しか無いと、思う方が不自然だと思います

邪馬臺国はある時期の九州の有力国のひとつですね。
マスコミ共々魏志倭人伝(三国志)など「権威」に弱い体質がでているんでしょう(^^;

記紀を捨てない限り、また現在の伝承を無視しない限り、纒向の三輪山に大物主が存在したのは確実。
大和説だと邪馬臺国の主は大物主、出雲となる・・記紀や神社のありようを無視せざるを得なくなる(^^;
もっとスケールをでっかく柔軟にねがいたいところです。

邪馬臺国の存在期間は「孝」の字の天皇、孝昭105-137〜孝元204-225と一致し、九州における国家連合の祭祀を司った巫女のいた国、とみています。

軍事と貿易に主権をもつ天孫系(渡来系の父系社会)と、祭祀と全体の統括に主権を持つアマテラス族(先住母系社会)が平行(協調)していた時代といったところです。


493、Re^2: 勝山古墳、かたばみ、、2001/06/03 (日) 07:44、、。

210年だと孝元204-225天皇が吉備を占領して出雲の苦戦が濃厚になった頃と空想(^^;

なお兵庫の武庫庄遺跡の年輪測定ではBC245の数字がでていて、土器編年による年代推定はBC50頃だった。
BC50なら出雲の開発地だが、BC245なら初期開拓者の開発地で出雲はそこに「浸透した」ということになる。
奈良大阪の多くも同様にずれているとすると、出雲神族の文化は大半が初期開拓者の文化に吸収され、出雲の最新中国系文化がそれらの地に追加される形だった可能性が高くなってきます。
(そのほうが出雲の蛇や三輪山のありかたが理解しやすいと思う)

となると初期開拓者の勢力は相当に大きかったわけで、ウエツフミに書かれるアマテラス王朝→出雲王朝→天孫王朝の流れの記述は的を射ていることになるんだなあ。
(アマテラス王朝とは少彦名など三苗文化を受けた九州の近代化縄文勢力・・自説だけど(^^;)
オオヒルメなどアマテラスと重ねられる伝承の解釈も自然となって、東海沿岸〜関東、日本海沿岸〜東北にかけての弥生推定にも大きな影響があると思います。

www1.kcn.ne.jp/~tak-yosh/index-0.html
古代への放浪記→弥生時代のはじまり?、縄文時代に階層社会?参照


492、デジタルミュージアム、s_tan、、 2001/06/03 (日) 03:08、。

縄文土器と100年前の写真に魅入ってました。気がつくと3時間費やしていた。

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/dm2k-umdb/contents.html

デジタルミュージアム2000、東大と歴博などで、
データベースでは100年程前の乾板写真が見れます。アイヌ住居、台湾住居・首狩族・丸木舟・チヌソクラン舟。
キーワードは「社」「住居or家屋」。
樺太アイヌの「幣柵(冊)」発見。鳥居は見つからず。=鳥居龍蔵のみ

↓ 

491、Re^2: 勝山古墳、s_tan、、 2001/06/01 (金) 23:12、。

お久しぶり^^。
>其の頃の日本には、邪馬台国しか無いと、思う方が不自然だと思います。
魏志倭人伝にも、東の方に倭種の国が有ると書かれているのに。 其の方が、注目を引くからでしょうか?(笑)

#ほんと、ですね。
ニュースの採り上げの偏向というのでしょうか。三面記事のタイトルに似たものがありますね、興味を惹くものもってこい、って。
ま、国内発掘報告だけでニュースの枠が一杯になるから仕方なし、か。
しかし、おもしろおかし、が前に出すぎか。


490、 Re: 勝山古墳、KENJIMail、2001/06/01 (金) 01:10 、hp

> 奈良桜井市の纒向古墳群の勝山古墳出土のヒノキ板の年輪測定でAD210伐採の板とでたようです。

久し振りです。(^▽^;)>゛
TVニュースでも放送していましたが、この時代の事が出ると、何故か直に イコール「邪馬台国」に繋げるのでしょうか。

私の見たニュース(局は不明)でも、其処が邪馬台国と思えるような解説を していました。

其の頃の日本には、邪馬台国しか無いと、思う方が不自然だと思います。
魏志倭人伝にも、東の方に倭種の国が有ると書かれているのに。
其の方が、注目を引くからでしょうか?(笑)


489、 Re: 勝山古墳、s_tan、、 2001/06/01 (金) 01:09、。

AD210、というと騒乱真只中?収斂直後?
纏向はあたりはいろいろ面白そうなところですね。天武以降は眼を逸らさせる動きが続いているような気がします。都祁とか朝日とか控えて、そういえば桧原境内に製鉄の遺跡が。

>名古屋朝日村の強固な防衛体勢。関ヶ原から進出してきた出雲族と濃尾天孫の抗争によるもの。
#名古屋の市章が「マルハチ」の理由をこの辺りに求めている作家がいましたね昔。あながち外れではないかも知れない。

しかしkonさんのhpにある古代濃尾の絵図、ほとんど海で島、岐阜近くが中心というのもうなずける。
関東は6千年前、群馬の南まで遠浅の海岸、貝塚のある所は伸び出した半島だったが、濃尾の絵図はいつ頃かな。
大阪は戦後も洪水でしばしば河内湖状態になったようですが。
湘南江ノ島も欽明29?あたりに浮きあがった伝承があるし。
古墳の位置も今の地勢を前提に考えると見落すことが多いのかも。

最近千葉の古墳関連ちと読むですが、4c中ーが多く種類は土壙,周溝,方,丸,二子,等多種ですが,市原市辺り土壙暮でも勾玉菅玉など結構高級品の出土が多い
古墳も数が多いから大変です、PC上にプロットして年代別,形別などで表示できると面白そうですね。


488、八束、s_tan、、2001/06/01 (金) 01:05、。

>八束脛洞窟
#なんで「8」?。末広がりとかいうが、ハチにする、八つ裂き、村ハチ分・・といった使い方が多いのは隠れた理由があるのかも。
ハチは何かを象徴する言葉?名古屋の市章が「丸に八」この理由も聞いてみたいですね、市史でなく古老に。

#大ヒロは取立て用で小ヒロは貸付用、だったりして。。
男女の差もあるかもですね。
土地の計測には、歩幅で測る専門員もいたかも知れないですね、多少の起伏があっても3歩で162cm。
しかし社寺の建物は間口3間3尺というのが多いですね。8は8角堂に須弥壇、か。

風邪なおりました?お気をつけて。


487、 Re^3: 朱雀、s_tan、、 2001/06/01 (金) 01:03、。

>歌が耳に残るなあ。ところで南=火なんですか?
#玄武(北・水星)、青竜(東・木)、朱雀(南・火)、白虎(西・金)。淮南子・天文訓によれば本来は本来は五惑星や星宿を指すものだった。四神に「宮・土」が加わって、五行ですね。当hp用語の説明よりコピー^^。

>ちょこっと辞典引いてみましたが「何故33?」の答えになりそうなのは33観音だけ。でもこれも一歩手前で、その数字が何故決まったというのに興味あるんですよね。
#なぜ決ったか33、ですね。アバウト世代の平均交代年数でのち聖数の3を組入れた。のでは。
サンザンな目にあうのもこれで最後とか^^。3が聖数というのは面白そうですが。。

>ちょっと南米ぽいぞ、とか、センスを穿ってみたりして。
#南米ナスカの地上絵あたりの墓などある宗教都市は「カワチ」とういう名前なんですねえ。


486、 勝山古墳、かたばみMail、 2001/05/30 (水) 23:56 、。

古墳の話がでてますけど、古墳はまだほとんどノータッチ(^^;

奈良桜井市の纒向古墳群の勝山古墳出土のヒノキ板の年輪測定でAD210伐採の板とでたようです。
板材でどこまで正確に測定できるのかわかりませんが、正しいなら面白い。

勝山古墳は小さい、箸墓の1/4くらいかな。
崇神を250年あたりの人物とみるのが定説のようで私もそうだと思いますが、210年とするとどんな人物が相当すると説明されるのか興味津々(^^;

もし210年が正しいなら、その墓は出雲の墓だとみます。ただしスサノオ系出雲神族ではなく天穂日系出雲臣族の有力者の墓。

島根半島西には四隅突出墓があるけれど、島根半島から東へ若狭の古墳は前方後円墳です。
岐阜には前方後方墳が多い。縄文と出雲の接点。
名古屋朝日村の強固な防衛体勢。関ヶ原から進出してきた出雲族と濃尾天孫の抗争によるもの。
出雲臣族の存在と行動を空想すると解決するんだなあ(^^;

前方後円墳の生みの親は出雲臣族か・・(^^;
○と□の接点としても最適の位置にあると思うんだけど。

かたばみ


485、Re^8: 古墳の方向性、アスベル生きていたかMail、2001/05/29 (火) 06:13、hp

>群馬月夜野後閑というと利根川を見下ろす名胡桃城址の近く.次回探索してみます。

『リアルクエスト』ですね(^^
略して「リアクエ」。何故略す!
ちょっとシェークスピアぽいぞ。

ともかく(笑)楽しいですよね。羨ましいです。
何気に風邪気味だし(苦しょ…クション!)

おそまつッ _(_^_)_


484、Re^8: 古墳の方向性、アスベル生きていたか、、2001/05/29 (火) 06:12、。

>ヒロというのは両手を広げた長さでモンゴロイドではほぼ身長と同じ。古墳から割り出されたヒロは古墳の主のそれに関連すると考えられる。

うん。これは面白いですね。
同じヒロなんだけど、主で異なる。
カスタマイズですね。いい感じ。

>前方後円墳の築造企画から抽出しているヒロと考えられる長さは、大ヒロ162cm+−数センチのものと小ヒロ150cm+−数センチの2種類がある。

男女だったら尚面白いなあ。
単位にまで陰陽。

>薄葬令が墳丘の大きさを「尋」で表し内部主体を「尺」で表す、小ヒロが墓造りの大ヒロは6尺を一単位とするような土地計量の尺度となっていったのではないか。

明治五年から一尋は曲尺の六尺、と辞典にはありましたが、ヒロはやまとことばでシャクは漢語だから折衷ぽいですねえ。単位の折衷(^^ 昔のひとも頑張ってます。ところで「まほろば」とこじつけられないか…と思い、挫折してみる、今のワタクシ(苦笑)。


483、 Re^8: 古墳の方向性、アスベル生きていたか、2001/05/29 (火) 06:11、。

>東胡(中国東北部の土着民)・扶余・高句麗など遼東の古民族の長さの単位は、後年高麗尺と呼ばれるものと同じで1尺は36cmだった。 山内丸山など東北縄文文化の単位は35cmと推定されている。

これ「鬼ノ城」だったかなあ。岡山の。半島と同じ単位で城の柱穴が掘られてるって話しをNHKの番組で見たことあります。ただ三内丸山となるとグっと古いですね。誰が36センチにしたんだか。肘から指先?…ってこれどっかにあったなあ(笑)。確かに、普通に考えれば肘ついて、指先までを地面計っていくのは計り易いかも。ブレも少なそうだし。


482、 Re^8: 古墳の方向性、アスベル生きていたか、2001/05/29 (火) 06:09、。

>八束脛洞窟
こぶし、手のひら、など体の一部が基準になるのはどこの民族も一緒?,八束の名は地名も含め出雲に多い様な気が。

何かね。お話しだけ聞いてるとどうもソサノヲイメージしちゃいますよね。大男ってだけで(笑)。ただ彼は女装OKだったんで美男子だったんだろうけど。「八」は大野晋さんの『日本語以前』読んで以来南インド由来なんだろうなと思ってますけど。ただ「何で8?」の理由はわからないなあ。48とかも何気にエジプトの方にあったりするし…。あ、ここの問題だと「ツカ」っていうことばの語源を問うのがいいんでしょうね。その独自性を問うてみる。


481、Re^2: 朱雀、アスベル生きていたか、2001/05/29 (火) 06:05、。

>半坡人:仰韶時代の遺跡から発掘された61体の成人の骨から、復元図では南方モンゴロイドに近い、大腿骨からの身長は平均169.45cmになると報告されている。

仰韶と竜山文化は当初対立していたとされたが最近では仰韶の上に竜山が重なり、又両文化の継続性も認められる、らしい。

何気に中国の古代、穴なんですよね。三蹟でしたっけ?かたばみさんが良く書いてるなあと思いつ、蒙昧(こら)。先日の「ふしぎ発見」でちらと見て、蚕の女王、漸くああ面白いとか(笑)。造形もエキセントリックなので、ちょっと南米ぽいぞ、とか、センスを穿ってみたりして。


480、Re^2: 朱雀、アスベル生きていたか、2001/05/29 (火) 06:05、。

>33回忌からでしょう、古来よりの信仰と仏教とどちらが先かは ?

ちょこっと辞典引いてみましたが「何故33?」の答えになりそうなのは33観音だけ。でもこれも一歩手前で、その数字が何故決まったというのに興味あるんですよね。「死後満32年目の忌日」という辞典の定義で捉えると、32で、『ホツマツタヱ』の1アヤに天文との関連で説明があるなあとか、思ってみる性ですけど(^^ あとは牽強付会で日蝕の周期かなあ、と思いついてみたり。

ほんと、何故忌むかキミタチ。観音の変身パターンが「忌み」の理由にはなりようがないから、やはり何らかの周期で、33度目にヤなことがあったから、因習になったんだろうなと、昔のひとを思いやる次第です(^^

↓ 

479、Re^2: 朱雀、アスベル生きていたか、、2001/05/29 (火) 06:03、。

>朱雀
というと、手塚治虫の火の鳥を連想しますが南=火ですね。

火の鳥というと我王ですねー(^^ と、映画くらいしか見ていない私なのでした。 歌が耳に残るなあ。ところで南=火なんですか?

>3ch見逃しましたが、星座は形になる緯度からすると朝鮮半島つけ根あたりから見た、のに近いとか(?)

面白いですね。 するとああした天井画は朝鮮半島にもあるんでしょうか?

>後期古墳石室に使われる漆喰の成分から新羅系と百済系に分けている人もいますね。

職人の「技」系推測。 何かいいなあ(^^マニアック。


478、 Re: 朱雀、s_tan、、2001/05/21 (月) 01:00、。

文字数オーバで後先に^^;

>朱雀
というと、手塚治虫の火の鳥を連想しますが南=火ですね。
3ch見逃しましたが、星座は形になる緯度からすると朝鮮半島つけ根あたりから見た、のに近いとか(?)
後期古墳石室に使われる漆喰の成分から新羅系と百済系に分けている人もいますね。

>33回忌からでしょう、古来よりの信仰と仏教とどちらが先かは ?

>出身地、というと半島経由の渡来民、でしょうか。
半島経由より南海諸島、沖縄辺りから北上ではないかとの説が優位。出発地は江南ではないか、と。

半坡人:仰韶時代の遺跡から発掘された61体の成人の骨から、復元図では南方モンゴロイドに近い、大腿骨からの身長は平均169.45cmになると報告されている。

仰韶と竜山文化は当初対立していたとされたが最近では仰韶の上に竜山が重なり、又両文化の継続性も認められる、らしい。


477、 Re^7: 古墳の方向性、s_tan、、2001/05/21 (月) 00:36、。

>八束脛洞窟
現地探索まだです&現在古代関連手近にはPCのdataのみでして^^;
こぶし、手のひら、など体の一部が基準になるのはどこの民族も一緒?,八束の名は地名も含め出雲に多い様な気が。

寸法を検索すると下記が

東胡(中国東北部の土着民)・扶余・高句麗など遼東の古民族の長さの単位は、後年高麗尺と呼ばれるものと同じで1尺は36cmだった。
我国の古墳時代の前方後円墳も36cmを単位に築造されていると考えられているから、少なくとも4ー5世紀には列島と東北アジアでは長さの単位が一致していた。
山内丸山など東北縄文文化の単位は35cmと推定されている。

ヒロというのは両手を広げた長さでモンゴロイドではほぼ身長と同じ。古墳から割り出されたヒロは古墳の主のそれに関連すると考えられる。
前方後円墳の築造企画から抽出しているヒロと考えられる長さは、大ヒロ162cm+−数センチのものと小ヒロ150cm+−数センチの2種類がある。
薄葬令が墳丘の大きさを「尋」で表し内部主体を「尺」で表す、小ヒロが墓造りの大ヒロは6尺を一単位とするような土地計量の尺度となっていったのではないか。

群馬月夜野後閑というと利根川を見下ろす名胡桃城址の近く.
次回探索してみます。


476、Re^6: 古墳の方向性、アスベル生きていたかMail、2001/05/18 (金) 07:14、。

こんにちは。お返事ありがとうです。
相変わらず詳しくて、嬉しいです(^^

> ・月夜野町後閑の八束脛(やつはぎ)洞窟:八握りもある脛を持つ大男が住んでいた伝説、ここから出土する骨は殆どが焼けている。

なんだかこの辺に引っかかりました。これって説話の詳しい内容あるんでしょうか?そういえば、「握り」を大きさの単位にするのも面白いですね。トツカのツルギもそうですよね。これを単位にする人達は、どこがスタートなんでしょう(’’?

> 宗教というか、今でも33年経つと魂は手近の(特定)の山に戻る(群馬は顕著)というのは、修験以前縄紋より続く信仰と。。
> 山口は出身地を向いているのでしょう。

33年…何故なのだあ(イルカのピンカ)。
出身地、というと半島経由の渡来民、でしょうか。


475、朱雀、アスベル生きていたか、、2001/05/18 (金) 07:05、。

NHK教育でキトラ古墳の朱雀を見ました。
右回りの方向性と天井の星座…。

むむ、既視観あり。

天の御柱巡りと関連づけると、再生への希望かな、とか。
思ったりしました(^^
あれが日本のアイデンならねー。


474、Re: ご無沙汰しています、s_tan、、2001/05/15 (火) 23:49、。

moon さん お久しぶり

長野市ですか、諏訪社圏から安曇野がぼちぼち終り、阿倍氏(布施氏)の長野市近辺に探索を向けようとしているところです。情報おまちしてます。

諏訪は上下別々に何度か行ってますが、見落しの箇所がまだあります^^;

なにはともあれ、お元気そうでなによりです。
早めの復帰をお待ちしてます。


473、Re^5: 古墳の方向性、s_tan、、2001/05/15 (火) 23:42、。

浅間中腹の遺跡は、2年程前の講演とその後の話でしたがメモが見つからない^^;
たしか埋葬物から埋葬の方向を割りだして、それが規則正しく山頂の方向に向いている、といった話。
吾妻川上流(浅間北麓)になるのですが、ついでの話で鉄に関する遺跡はまだ見つかっていないとの事。吾妻下流榛名の周りには製鉄遺跡が残るのですが。

群馬の古墳では・太田市の220mの前方後円墳。
・岩櫃山中腹の鷹ノ巣岩陰遺跡(風食洞穴)から出土の土器は岩櫃式と呼ばれ北関東の弥生中期を代表する標準土器になっている。
・月夜野町後閑の八束脛(やつはぎ)洞窟:八握りもある脛を持つ大男が住んでいた伝説、ここから出土する骨は殆どが焼けている。
県下では各所で再葬墓や火葬人骨が見つかっている。いずれも弥生初期のもの。
あたりが記憶に残るものです。

山口、弥生の骨ですが、これも現在本が手元に無く記憶頼りに。。
ごうほら貝との埋葬、身長170cm位、西(大陸江南?)を向く。

宗教というか、今でも33年経つと魂は手近の(特定)の山に戻る(群馬は顕著)というのは、修験以前縄紋より続く信仰と。。
山口は出身地を向いているのでしょう。


472、ご無沙汰しています、moon、、2001/05/15 (火) 22:01、。

stanさん、大変ご無沙汰しています。moon@月夜の道標(閉鎖中)です。
小野神社、矢彦神社へ行かれたんですね!神社探訪拝見しました。諏訪大社上社・下社も…。
実は昨年から長野市へ転居し、今は全然違った文化圏(歴史圏といった方が適切?)に住んでいます。まだ千曲川流域の歴史背景は理解していません。長野県内でも天竜川流域とは明らかに違った歴史圏ですもんね…。(最近は余裕がなく歴史にも、すっかりご無沙汰です…。^^;;)
stanさんのサイトは、歴史への情熱をかりたててくれますね!


471、Re^4: 古墳の方向性、アスベル生きていたかMail、2001/05/10 (木) 07:58、hp

>  群馬・浅間山の東北麓に近年調査された、石器、縄紋、弥生と続く複合遺址があって、この年代別の墓がほぼ同じ場所につくられていた。一部重なるように。
> この年代別の埋葬状況(骨)は、殆ど山頂を向いている。
> 山口県海岸の弥生人の埋葬も殆ど西(海)を向いている。
> 今の北枕に近い、信仰上の方向性はありますね。

それがどんな信仰だったかというのに興味ありますね。
ひとからげると、山と海に彼岸を見たんでしょうね。きっと。

> 古墳もそうですが、伝応神陵から続く大型運河の存在が気になりますね。

続報お待ちしてまーす(^^


470、Re^3: 参りました・・、アスベル生きていたか、、2001/05/10 (木) 07:52、。

> DVDも見れますし、動画もスムーズに動きます。
> やはり、新しいのは良い・・ですねぇ(^^

おお!何か正しいPCライフだなぁ。
ウチのPC「DirectXをインストールすると変調をきたす富士通の一部の機種」なもので、お知りあいのサイトからダウンしたゲームが出来ない有様です(^^;

PCばかりは「古代であそ」べないよなあ。とほほ。


469、Re:マホ2、 s_tan、、2001/05/03 (木) 02:16、。

>「まほことば」とカデゴライズされることばがあるんでしょうか?
#このあたりが気になるところ、
「まほら」−「ほ」にニアで、中心とか・強いという意味もあるのかも。


468、Re^3: 古墳の方向性、 s_tan、、2001/05/03 (木) 02:15、。

>三輪山と箸墓の場合はどうなんでしょうね
#穴師山、巻向山、三輪山、三輪と穴師の裾が重なる巻向を向いてるかも。

 群馬・浅間山の東北麓に近年調査された、石器、縄紋、弥生と続く複合遺址があって、この年代別の墓がほぼ同じ場所につくられていた。一部重なるように。
この年代別の埋葬状況(骨)は、殆ど山頂を向いている。
山口県海岸の弥生人の埋葬も殆ど西(海)を向いている。
今の北枕に近い、信仰上の方向性はありますね。造成適地を探す条件の中でも大きい可能性は高い。 しかし、古墳、特に大型は基礎として地形を利用したのでしょう。
小型の玄室は南面しているのが多いと認識してます。

古墳もそうですが、伝応神陵から続く大型運河の存在が気になりますね。


467、Re^2: 参りました・・、KENJIMail、2001/05/02 (水) 22:23、hp

> > 新しいのは良いですね。\(^▽^)/

> > ですねぇ(^^

それでも、ノートの方は完全な形では戻っていないのです。
ヒンジの部分は壊れるし・・・
(一応は動いています。)
仕方無く、デスクトップを買いました。
DVDも見れますし、動画もスムーズに動きます。
やはり、新しいのは良い・・ですねぇ(^^


466、マホ3、アスベル生きていたか、Mail、2001/05/02 (水) 03:09、hp

> > ≫ 真秀言葉(まほことば)と言われる言葉について
> > 「真秀言葉」がなにかはわかりませんが、万葉集に「国のまほら」を詠み込んだ歌が3首あります。

そういえば、「まほろば」同様文脈から読み取るならこの歌の内容気になりますね。簡単に確認出来そうだったら教えてください。


465、マホ2、アスベル生きていたか、、2001/05/02 (水) 03:00、。

> #まほ。
> どんな言葉なんでしょう、気になるところですね。
ひとさまのご意見だと「まほ」は「真、誠、真実の、素晴らしい」と言った意味だそうです。ここから「まほろば」は素晴らしい広場、土地、場所、平野等を意味する言葉では、といった見解。

「真洞場」というぼくの見解に対しては、「真穂(まほ)」+「広場(ひろば)」の表現が分かり易いのではとのご意見。「まほのひろば」を「まほろば」と云ったのではないか。

個人的にはマホと言えば「マホトーン」とか「マホトラ」とかなんですけど・・・うーんドラクエ世代(笑)。


464、Re: 参りました・・、アスベル生きていたか、、2001/05/02 (水) 02:47、。

> この前、HDDの交換でバタバタしましたら〜

HDD、最近僕も買いましたよん。

> 新しいのは良いですね。\(^▽^)/

ですねぇ(^^


463、Re^2: 古墳の方向性、アスベル生きていたか、、2001/05/02 (水) 02:44、。

> > 古墳の方向性に対して、何か整合性のある見方、ありますか(’’?
> #地形を利用して造られたのが多いと認識してます。

なるほど(^^スマートな見方ですね。
三輪山と箸墓の場合はどうなんでしょうね。


462、Re: 参りました・・、s_tan、、2001/04/22 (日) 02:03、。
なにはともあれ復帰!おめでとうございます。
なにはともあれおnewおめでとうございます。

こちら、mailが不調。win以外が早く一般的なるといいですね。


461、Re: 古墳の方向性、s_tan、、2001/04/22 (日) 02:01、。

> 古墳の方向性に対して、何か整合性のある見方、ありますか(’’?

#地形を利用して造られたのが多いと認識してます。河内の石川、旧大和川辺りは断層に沿っているようです。応神陵は古い地震による崩れが見られ崩れの箇所は断層の淵にあたる。
地形を利用してつくると付近の古墳の方向はある程度規則性を持つことになるですね。

あと、山裾、尾根筋を利用したもの。河段丘など。
埼玉県の語源といわれる埼玉古墳群(前玉)ですが,地形は縄文海進の時は海状態で、古墳の頃は低湿地の広大な平野。古墳は前方後円墳、円墳ですが方向は一定していない。恐らく古い砂州から発展した小山(小島)を基礎として利用した、と考えてます。

蛇足:
前玉古墳群の内にある、前玉神社は後円部分に建ってます。
鉄剣で有名な稲荷山古墳は当初円墳と思われたが前方部分が壊され均されたのが判明、ちなみに稲荷山の名は後円の頂上に稲荷神社があったから、壊されず円墳として残ったのは神社があったから、らしい。

#まほ。
どんな言葉なんでしょう、気になるところですね。


460、参りました・・、KENJIMail、2001/04/17 (火) 20:34 、hp

この前、HDDの交換でバタバタしましたら、今度はヒンジの部分が破損。
余程、当たりが悪かったのでしょう。
自作するには未だ勉強不足。仕方なしに、買いました。
新しいのは良いですね。\(^▽^)/