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いろいろれす 投稿者:s_tan  投稿日:03月04日(月)00時03分09秒

>首長さん
岡山の古墳、おもしろいところですね。
岡山から、鳥取、島根と間にある、津山から根雨あたりの山岳地帯。日本海側と瀬戸内との中間地域の古墳は地域を繋ぐ関連性とか見えませんでしょうか。
吉備津神社と吉備津彦神社位置も連想を楽しめますね。

>志水さん
卑弥呼は、ピメコ?と発音したらしいですが。日本の史書に卑弥呼を特定する史料がない、記紀の編纂者達は魏志を読んでいなかった(訳はないと思いますが)、などなど興味つきないところです。
環濠といえば、北九州、丹波よりも房総の木更津〜千葉あたりの環濠が使われた時間が極端に短いようです。

>直さん
中央構造線、興味深いテーマですね。道教−修験と続く時代毎の先端技術者は鉱脈を追って山野を駆けめぐったのでしょう。
熊野大権現も北九州−四国−紀伊−熊野と構造線に沿って移動してますね、応神15との関連が直接なのか興味深いところです。
二宮ですかお近くですね、相模は8世紀から10世紀、大仏の良弁、天台初代座主義眞などなかなか偉大な宗教者がでたところ、良弁の出自は近江と相模の2説ですが、相模漆部というのが強いと思ってます。金鷲衆ですし大仏鍍金の陸奥の金もおそらくからんでいるでしょう。
相模の神社は、史料が少なくて苦労しています。なにか資料がありましたら宜しくお願いします。


神奈川の神社を調べ始めました 投稿者:直さん  投稿日:03月03日(日)06時45分41秒

初めて訪問いたします。
私は神奈川の二宮在住です。秦野、伊勢原、平塚の神社を調べていて、貴ホームページを訪問いたしました。大変勉強になりました。
私は、中央構造線と古代史というテーマで、古代の金属をめぐる話をかってに想像し、話題を集めています。時々訪問させていただく所存です。よろしくお願いいたします。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5442/


無血だった倭国統一?⇒卑弥呼は職制 投稿者:志水 満  投稿日:03月02日(土)22時13分19秒

・朝日新聞の夕刊(2/2)のこんな記事が載ってました。
魏志倭人伝に「倭国は男子を王としていたが70〜80年間乱れて互いに攻めあっていた。
このためともに一人の女子を立て王にした。その名は卑弥呼」
政治的な根回しと談合で卑弥呼登場となっている。根拠は古代中国の都市国家の特徴である環壕集落の大半が、埋め立てられていて弥生中期以降戦いがなくなってきている所から推察されているようです。

これを読んで私は古代中国思想がやまとにはいって、渡来民族との人種の混血を繰り返すなか縄文人は「和の思想」に収斂した。そして鬼道を旨とする巫女を中心にまとまったのではないかと思う。そうすると極端にいうと卑弥呼は職名に近いものだったのではないか。
2代目卑弥呼が台与でそれ以降ででこないのもそのせいだという説もうなずける話だと思う。


かたばみさんへ 投稿者:首長  投稿日:02月28日(木)21時18分57秒

かたばみさんどうもレスありがとうございます。私どもは、全く古墳については、ど素人から初めています。かたばみさんは、古墳に詳しい方と存じております。いろいろわからないことあれば、アドバイスをよろしくお願いいたします。吉備の古墳については、ひとつづつ詳しく調べていきます。明日UPしますのでまた、遊びにきてください。


re:THE古墳NET 投稿者:かたばみ  投稿日:02月28日(木)12時12分22秒

首長さん、はじめまして。
吉備あたりはもうひとつの有力な勢力のみえるところ、勝山古墳のごとき正確な年代推定できる古墳の登場を期待しています。

地図上で正確な位置を示されていますが、これはいいですね。
カシミール3Dという立体地図ソフトを使って全国の遺跡や古墳をすこしずつプロットしています。
奈文研のデータベースをときおり参照しますが正確な位置がわからないことが多いです。
地元の方とか専門家ならだれでも知っている場所でも地図での明示が必須と思っています。


古墳と言えば 投稿者:D.K  投稿日:02月27日(水)01時33分55秒

こんなページを作っていますが巨大古墳は大和の先住民族の司祭物と言うのが
私の一応の研究結果です。此処の古墳の調査結果如何で大きく歴史が・・・
ナンテ浜北原人や遺跡捏造等で今までの権威や常識なんて脆くも崩れ去っている
筈なんですが興味が無い人は詳しくは突っ込まないので歴史も趣味の範囲で終わって
しまっているのはどうか・・・浜北近辺は縄文遺跡絡みで観光地化の流れが出ている
そうで、アラハバキ神の威光なのか、歴史研究も現代的な価値が出る流れになると
良いですね。

http://members.tripod.co.jp/dreagon/takane.htm

↓ 

THE古墳NET 投稿者:首長  投稿日:02月26日(火)15時45分40秒

古墳について調べています。まずは岡山県からスタートしました。よろしければご指導などいただければと思いまして投稿させていただきました。

http://plaza9.mbn.or.jp/~daokikaku/i/metyapc/kohunmain.htm


天孫と秦氏 投稿者:かたばみ  投稿日:02月26日(火)00時52分38秒

九州では呉を中心とする東シナ海〜長江系の影響力が大きかったが、朝鮮半島では秦王朝滅亡時の脱出者を源として呉楚七国の乱から脱出した秦王族の影響がきわめて大きかったのではないか。
新羅の赫居世がその系譜であるのはむろん、半島南部〜西部にかけてもその有力者が少なからず存在していたのではないか。

後に百済が南下したとき百済内部に秦王族が含まれることにもなる。
欽明539-571の百済帰化人に己知部コチベがあります(己智も同じ)。
姓氏録に出自は秦太子胡亥とあります。胡亥は秦王朝の2代目=滅亡時の王です。

類族にみえる葛井(藤井)、船、津、の氏族も百済系。百済船の技術をもたらしたグループと推定。
(百済貴須王の末裔→大阪府羽曳野市の埴生野古墳群)
百済の造船技術が秦系であった可能性もみえてきます(外洋航海不得手の形式となるでしょう)。

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大己貴の己が気になっているのです(^^;
白川静氏によれば「己」は定規や糸を巻き取る道具の象形で「紀」と同じとあります。
珍彦(菟道彦)→紀氏は百済系秦氏(民間系)と天孫系秦氏(王族系)の合体が祖か??
さらには武内宿禰にもこの流れ(母系)がはいっているのではないか。

万葉3844「ぬば玉の斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも」

土師宿禰水通(はにしのすくねみみち)が、巨勢斐太朝臣と巨勢朝臣豊人(の顔)の黒いのをちゃかした歌です。
巨勢氏は武内宿禰の後裔、そこに黒い色の形質が流れていた??

大己貴≒大国主→大黒様←大黒天←インド経由(^^;
加羅の首露王の妃はインドのアユタヤ出自の伝承。

アユタヤ=アヨーディーヤ:ガンジス川中上流域、叙事詩ラーマーヤナの主人公はここの王子(征服側)。
釈迦時代にこの一帯に有力な古王国が登場し、マウリア朝につながる。
(タイのアユタヤはこの地名を由来にする)
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日本における秦氏族浸透には3段階があるのではないか。
第一グループは呉楚七国の乱での渡来者、BC150頃。王族そのものです。
脱解などを含め初期の新羅王となり九州天孫と緊密な関係をもちます。

次が弥生黄金時代(BC130〜AD1頃)の渡来者。
九州の秦王族の基盤を頼りにして、発達する弥生を好機とみる商業人としての渡来。
山東半島発の朝鮮半島西南岸経由がメイン、このときに山東半島文化が大量に運ばれてきたのではないかと考えています(技術および祭祀)。

その人々は先住の王族系秦氏族と混合して海運者(物部氏の祖)とともに西日本全域で活動する。
九州以外ではすべからく出雲勢力のなかで行動することになります。
「珍彦」がこの王族系であったなら、宇佐伝承における神武との仲介役として最適の立場になります。

次が応神時代の百済に内包された秦氏の渡来です。八幡神は百済における中国系信仰であった可能性あり。
これが宇佐八幡と大隅正八幡の確執につながります。
大隅正八幡が天孫降臨に同行した秦王族の関連地であったなら、大隅正八幡が本家なりの論の存在もでてくるでしょう。
霧島の韓国岳の地名も秦氏族の2度の到来があったなら妥当。
(韓国の韓の文字は1897年に李朝が大韓帝国を称したときがはじまりのようですが、なぜその文字を使ったのだろう)

秦王族といっても、征服した魏・趙・韓・楚・燕・斉などのいろいろな氏族が含まれているはず。
始皇帝や胡亥が祖とは限らないことが「ハタ」の読みの由縁ではないかなあ。遠慮しているわけです。
ハタとは「外」「舶来」といった意味ではなかったかと推定。
「はたから物をいう」、端、傍、の意に近いものです。


この場合、「串間の穀璧」は秦王族の所持品であった可能性がでてきます。
(神武もうかつに宝物検査はできない(^^;)
中国でも王族しか持てない大型の異体字銘帯鏡が存在するなら国宝級の穀璧を所有していておかしくない。
徐福所持品説には不利な状況になるけど(^^;

宮崎県の延岡市、日向市あたりには初期天孫に関するなにかが埋もれているのではないかなあ。
まだ古墳は登場していない時代だから発見は困難かもしれないけど。
(なお、景行紀に登場する「高家の宮」は延岡ないし日向市にあったとみています)


異体字銘帯鏡と弥生2 投稿者:かたばみ  投稿日:02月26日(火)00時36分45秒

玄界灘沿岸からでる大型鏡は中国王族が渡来時に所有していたもの、渡来後に入手はできない鏡。
大型鏡はその王族の墓に副葬されて消えてゆきます。
渡来に使用した天の橋船なども朽ちて失われ、以後は在地の船の利用になっていったのではないかと思います。

スサノオとの長い戦乱は停戦協定成立で終結。これがアマテラスとスサノオの誓約伝承のベースになる。
(第9章スサノオと天之忍穂耳、停戦協定参照)
弥生黄金時代が到来します。
呉系、秦系、箕子朝鮮系、先住縄文系、混合しながら弥生文化が発達してゆきます。
(このころ北九州で甕棺葬が大流行する)


「古出雲」は福岡付近から有明方面へ進出、佐賀平野に生産拠点確保(吉野ケ里遺跡)。
さらに豊前の行橋、宇佐を拠点に瀬戸内へ進出してゆきます。別府も四国側の瀬戸内航路の要衝。
島根の出雲臣(天穂日)は但馬、若狭へ。

天孫系の瓊々杵は九州西岸の海神族の養子に(^^; 天孫の海運力確保です。
日向へ展開した天火明はさらに伊勢濃尾へ渡ります。
日向勢力と出雲勢力の海の接点は豊後水道。
これらの新しい弥生勢力に大型鏡を入手する力はなかったが中国内で一般に出回っている小型鏡は入手できた。

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このころから北九州では墳墓であった場所の上に建物を建てたり重ねて墓を作るようになってきます。
これの示すものは人口急増でしょう。
土地にゆとりがあるなら墓地を壊して利用するようなことはしないでしょう。

吉野ケ里の墳丘墓は台形で最古とみられるようです。酷似する墳丘墓が大阪の加美遺跡にもあります。
方形周溝墓の発達型と思います。

渡来者の王が登場したがそれはごく一部の突出現象で、墳丘墓を作れるほどの民力はまだなかった。
(代わりに副葬品は豪華です)
底辺の民力が大きくなったとき墳丘墓が登場した。しかし富と権力の集中はまだ少なく副葬品はささやかだった。

後の前方後円墳のごとき形式は出雲勢力(出雲臣族)が生み出した形式で、それを天孫系が継承し発展させたものと考えています。
古墳時代=寒冷時代です。労働力の対価として食料分配を行うための古墳築造であった可能性あり。
(ナイル氾濫季節の人々の生活保障のためのピラミッド建設、公共事業)
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瀬戸内の出雲神族はさらに近畿上陸、河内へ進出。日本海側の出雲臣族は若狭から琵琶湖へ南下。
海運者がこれらの動きの中心となった。後に物部氏族を生み出す連帯意識の強い集団の登場です。
青銅器生産技術が定着し自家製の鏡生産も開始(実用品としての小銅鐸の生産も)。

ここまでが異体字銘帯鏡のありようががしめす具体的状況の空想。


そして繁栄をもたらした温暖化が終わり寒冷化がはじまります。
九州の生産力にかげりがみえはじめるのがAD1頃。
出雲には伊予、吉備、播磨など開拓の余地がたっぷりあったが天孫の生産力は九州の一部のみ。
拡大の余地がなく出雲優勢へ。

そのころ、日向へ分家した天孫一族は九州南部の隼人族と西岸の海神族の統合に成功しています。
(彦火々出見〜鵜草葺不合伝承)
そして神武が霧島山麓に奴国を建国し、隼人部隊を率いて北上を開始した、AD30頃。
大義名分は本家の窮状を救うこと、本音は九州全土の掌握。

魏志倭人伝でいう「なになに奴国」は霧島の奴国を発した神武の北上の途上で同盟を結んだ国(あるいは服属した国)。
神武が九州統一を果たし時の拠点が北九州の奴国であると考えています。

魏志倭人伝に登場する二つの奴国はこれを意味するもの。
後漢書にある倭その使者は霧島の奴国を本国と考えていたわけで、「倭国の極南界」が無理なく説明できます。

魏志韓伝に弁辰24国あり、そのうち辰王に属する国が12国とあります。
これが新羅の前身ではなかろうか、辰王≒秦王族です。
国名に「弁辰」が冠されているのが辰王に属さない国と思いますが、その中に弁辰樂奴国があります。
この国も神武と関連する国なのではなかろうか。

鏡は呉系渡来者が重視し、秦系渡来者は「穀璧」を重視した可能性もあります。
半島内での異体字銘帯鏡のありようを知りたいところです。


異体字銘帯鏡と弥生1 投稿者:かたばみ  投稿日:02月26日(火)00時34分59秒

前漢時代に中国で流行した鏡に異体字銘帯鏡という鏡があり、ベトナム〜南シベリアまで分布するようです。
前漢が滅び王莽時代から後漢になると代わって方格規矩鏡ホウカクキクキョウが流行します。
他に内行花文鏡や獣帯鏡もあります。
異体字銘帯鏡と内行花文鏡は文様がよく似ていて私には違いがわかりません、同じ系統なのかな。

方格規矩鏡や内向花文鏡は九州出土が多いようです。
方格規矩鏡を副葬した福岡や佐賀県の遺跡の再検討から、これらが弥生後期前半以前(AD50以前)である可能性はないようです。
235年銘の方格規矩鏡が京都から発見されていますが、これらの場合は別の考え方になるだろうなあ。
「卑弥呼が魏からもらった鏡を日向天孫が近畿に運んだもの」・・とか。

後漢鏡の日本登場は光武帝の金印受領以降だとみるなら自然ななりゆきだと思います。
とすると異体字銘帯鏡のありようが金印以前の弥生の状況のヒントになるかもしれない。
日本では130面ほど発見されているようです。


(以下は東アジアの古代文化110の西川寿勝氏の異体字銘帯鏡に関する論の自己流解釈)
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異体字銘帯鏡の詳細分類については研究途上のようですが、大型(20cm級)で精緻な鏡と小型(10cm級)で粗雑な大量生産の鏡があるようです。
さらにおおざっぱには前、中、後期型に分かれる。

中国での発見は800面ほどですが、大型で精緻な鏡は中国でも有力な諸王の墳墓からの出土のみ。
日本での大型鏡出土も弥生中期(BC150〜AD50頃)の玄界灘沿岸の墳墓のみです。

日本では後期型はみつかっておらず、弥生中期以降では大型鏡も出土しなくなる。
代わって登場するのが小型の大量生産型でこれは有明から西日本全域に分布する。
そして須玖岡本遺跡あたりから小型の国産品が登場するようになります。

弥生中期頃(BC150〜AD50頃)には大型の異体字銘帯鏡を所有できる勢力が玄界灘付近にあった。
しかしその勢力はなんらかの理由で衰退し、小型鏡を所有できる勢力が西日本全域に広まった。
次いで須玖岡本遺跡付近を拠点にする勢力が模倣の鏡を生産するようになった。

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出土品や遺跡の年代には±50年の誤差があるだろうと思います。
なぜ日本から中国王族しかもてない大型鏡が出土するのか。
以下は具体的空想・・


民間人が大型鏡を入手できるとは考えられない、日本に大型鏡を持ち込んだのはやはり王族だと考えるのが妥当でしょう。
大型の異体字銘帯鏡を所有していたのは、天之忍穂耳など呉楚七国の乱から脱出した王族(BC150頃)。
旧秦王朝系の脱出者もいます。天穂日は山東半島系か。

天之忍穂耳は呉系でしょう、旧来から長江と関係の関係の深かった九州に上陸した。
旧秦王朝系の脱出者は、50年前の秦滅亡時の渡来者が先住していた朝鮮半島に上陸した。
(魏志韓伝における辰国、その子孫のひとりが新羅の始祖とされる赫居世と推定)

列島側と半島側の脱出者は当初から緊密な連絡を保ち、それぞれが往来もしていたでしょう。
後に新羅が脱解という「外国人」を王に迎えるのも脱解が秦系の同族であったなら不思議はありません。
(すなわち、脱解の後裔と推定できる天日矛も秦王族の後裔となります)

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天之忍穂耳の妃となる萬幡豊秋津師姫が秦王族系の娘であるなら・・九州天孫と新羅初期王朝は秦氏族を介して縁戚となる。
萬幡豊秋津師姫は秦王族と先住者の間の娘で、記紀神話はその先住者をアマテラス神に重ねているのではないか。
九州先住者≒アマテラスとは、長江三苗(神産巣日神、高御産巣日神)と縄文の結合体(BC2000以降)。
(鵜草葺不合王朝73代伝承のベースになるもの)
アマテラスの子である萬幡豊秋津師姫と天之忍穂耳の子はすなわち「天」の孫。
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九州側でも半島側でもこれより50年ほど早く箕子朝鮮系王族(スサノオ)が先着しています。
この中にさらに中国系の王族がはいってきたわけで、紛争発生。
弥生中期の北九州で戦死者と見られる遺骨が急増しているのは先住者を含めたこの紛争によるもの。


個人的な研究成果は 投稿者:D.K  投稿日:02月20日(水)03時40分43秒

大分違ったトンデモ解釈に飛躍していますが、
葦原色許男は超有名人ぽい感じです。

十代天皇までの中八代が偽者だと言う話も
分析は一応出来ていると思いますが、歴史的な
背景を裏読みする感じです。

因みに私、スサノオ=アラハバキ説を取ってます。
分量が多いので纏めている所ですが、葦原中国、
下手をすると日本じゃない気もします。世界的に
比較検討すると読み解けそうなんですがマダ・・・

何が正しいかわからない。歴史はロマンですね。

↓ 

国譲りと神武東征2 投稿者:かたばみ  投稿日:02月20日(水)01時28分13秒

国譲りが事実をベースにしているならどこを譲ったのか。
現在の島根はその土地の生産力からみて古出雲の中枢になりえないのは明らかだと思います。

はしょりまして、大国主が豊前豊後を神武に割譲、出雲に引退することで神武との和平が成立した(AD50頃)。
福岡の春日市≒奴国からみれば神武が東征したことになります。ただし九州限定の。
AD57金印の受領者はいわずもがな。
新羅はAD59に倭国と国交を樹立しています。その新羅王は脱解。

AD1頃〜AD150頃の伊都国や奴国の出土品の変遷は興味深いです。
神武東征説話と国譲り神話、記紀が投げ込んだ偽ピース。
それを捨てればジグソウパズルはぴたりと収まってくるんだなあ(^^;


新出雲と神武の新たな接点は周防灘。
タカ派の建御名方は神武と徹底抗戦したが敗れて諏訪へ逃げたか蟄居となった。
諏訪大明神と戦ったミシャグチ神もこの頃となります、AD50頃。

協定に反して徹底抗戦した建御名方は出雲からも違反者となります。
出雲の神々の集会(神在月、神無月)に建御名方が参加していないのが納得できます。

以前でた宇佐家伝承も国譲りに付帯する伝承と推定しています。
宇佐家伝承に登場する「珍彦」は神武と大国主の停戦交渉の仲介役をつとめた人物と推定。宗像あたりか。


周防は和名抄には「須波宇」とあるようです。ス・ハウに近い発音がいろいろに変化したのではないかなあ。
ス・フの地名も愛媛と須佐の島根県側にあります。

スサノオは単純にスサの王ないしスサの男の意だと考えています。
スサノオ上陸地点は山口県の日本海側の須佐町、単純ですがいろいろ総合すると可能性が高い(^^;

日本語の場合、狭田とか早苗のごとく形容詞?は前につくのが普通のはず。
するとス・サとかス・ハウと分解した場合、スが形容詞ということになる。
スのようなサ、スのようなハウ・・なのか?



国譲りと神武東征1 投稿者:かたばみ  投稿日:02月20日(水)01時27分02秒

≫スサは、私は山口県の「須佐」を考えていましたが、考え直しが必要でしょう。
≫追われて(戦いに負け?)転々と北の方に行ったのか?
≫其の先々に、「スサ」の地名を残したのかな?(確信・傍証は一切有りません。)

「即位法門」をまったく知りませんが、スサノオ時代にスサノオ系の人物が諏訪に進出する可能性は少ないんじゃないかなあ。
スサノオとは何者かの問題があるけれど、諏訪にはいる必要性がみえないんです。
滋賀県大津市の日吉大社ヒエタイシャは縄文系と出雲系の合体祭祀が源で、後に天台密教の影響を受けてゆく課程でスサノオとの関連が強調されていったのではないかなあ。
スサノオ→牛頭天王と同類です。

諏訪にはいったのは、建御名方(諏訪大明神)であり、国譲り時代であるのは正しいとみています。
このあたりは大国主の国譲りをどう解釈するのかがポイントになりそうですね。
以下ちょっとずれるけど・・


出雲系譜の年代推定はちとやっかい。
大国主という存在自体があいまいだし。
しかし、国譲り以前のスサノオから天之冬衣に至る系譜には不自然さはなさそうです。

大国主と国譲り年代を推定するにはスサノオから下ってくる他はなさそうです。
スサノオ−八島士奴美−布波能母遅久奴須奴−深淵之水夜禮花−淤美豆奴−天之冬衣−大国主
(八島士奴美に平行して大年がいる)

スサノオを箕子朝鮮の人物と仮定し、渡来をBC190頃とみて一世代25〜30年平均とすれば、大国主はBCゼロ頃の人物となります。
天孫系譜の年代推定と重ねると大国主に同時代になるのは神武(36- 66)となります。

天之冬衣という天孫を思わせる名は天穂日系が混じったことを意味するわけで、出雲にスサノオ系の出雲神族と天穂日系の出雲臣族があることを示すもの。
淤美豆奴時代にその接触があったとするとBC70頃と推定可能。
BC150頃の天穂日渡来(=天之忍穂耳渡来)から数世代後に発達した双方が接触したわけで自然な流れだと思います。

大国主以降は記述がないけれど、播磨風土記にある葦原色許男と天日矛の戦がキーワードです。
天日矛については崇神時代から遠くない時代であるのはまず確実。
葦原色許男=大国主だとすると、国譲りは崇神時代近辺での事象、となります。
はるか8世代も前の神武が天皇となっているのにその後に国譲りなどありえない。

葦原色許男は大国主とは別人でずっと後の瀬戸内の出雲系人物とみなせば自然な流れになる。
大国主の別名とされる葦原色許男、八千矛、宇都志國玉、の三人はAD50〜250の各時代の出雲の主。
(大穴牟遅も別名とされますがこちらは大己貴≒大国主の一体化との関連でしょう)
記紀は国譲り以後の出雲系人物伝承を大国主と同一化することで、出雲を大国主で終わりにしているわけです。

なお、播磨風土記には大汝命の子として乱暴者の火明命が登場します(大汝命は大穴牟遅の変形か?)。
但馬伝承の火明命と同じ人物かもしれません。
畿内の火明であれば後に伊勢濃尾の天火明伝承と混同されてゆく可能性少なからず。


「大国主」という名は出雲系譜の中で異質の名です。
類例は事代主と大物主、これらも個人名ではなく出雲系の祭祀者や王の総称だとみています。

大国主は出雲の主の総称として記紀が創作した呼称である・・
そうすることで大国主の名をどこで使っても嘘にはならなくなります。
そして、読む人は個人の如く錯覚し混乱の系譜も登場する。
複数の人物が大国主へ一本化される、思うつぼ(^^;

出雲風土記の中にも疑惑の表現が見えます。
「天の下造らしし大神、大穴持命」という用法が各所にでてきます。
ところが「天の下造らしし大神」のみで大穴持命の名がない用法も各所にでてきます。
そして大穴持命のない用法での記述がたとえば杵築大社(出雲大社)の神となっているのです。

「天の下造らしし大神」という共通賛美によってここでも嘘は言わずに読者を誘導している。
根幹部分で記紀と出雲風土記は連係プレーをやってるわけです(^^;


スサノオ〜大国主までの出雲を自説では古出雲としています。記紀での神話世界に相当します。
神武以降崇神時代までの出雲を自説では新出雲と称しています。

天皇の始祖たる神武以降ではその系譜の王朝のみが存在する、服属しない勢力があってはならない。
新出雲の存在は抹消せよ・・王朝は神武が制圧した大和以外にはないのだ・・
同じ考え方は推古時代あたりまで貫かれているのではないかと思います。
(邪馬壹国の卑弥呼の問題は年代を補正して神功に重ねることでなんとか処理した)

国譲り神話は天之忍穂耳渡来と神武時代の大国主の敗北と隠居という事象の合成。
神武東征説話は神武時代の九州制覇(大国主撤退)とAD250頃の開化時代の近畿制圧という事象の合成。
事象そのものは事実だが、いつ、だれが、どこで、に関しては偽。史上最大の偽(^^;


トンデモ 投稿者:D.K  投稿日:02月17日(日)03時45分45秒

 マハーバーラタ、古代核戦争の記述のあれですね。
実は古事記、聖書にも同類の要素を見つけていて、
殆ど暗号読解に近いのでもっと多角的に分析した上で
説の展開をしたいんですが、大国主命はニギハヤヒ、
ナムチ(チョット書きにくい物も)等の複合体として
記述されているような感じです。


弥生のインド文化 投稿者:かたばみ  投稿日:02月16日(土)13時22分46秒

福岡市の南八幡遺跡(弥生後期)から赤いガラス片出土。
奈良文化財研究所の成分分析によるとインド東南部の古代交易都市アリカメドゥ遺跡(位置不明(^^;)出土のガラスと同じものとみられるそうです。

中国〜インド航路が少なくとも弥生後期には九州ともつながっていたことを示す物証。
9章アジア航路参照
伽耶(加羅)の首露王(推定AD50頃)がインドの王女を妃にしたという伝承にも真実味がでてきます。
甕棺葬のインド〜東南アジア〜日本の類似性、登場年代を含めて要検証。
もし、葬送儀礼にまで影響があったとすればなまはんかな文化流入ではなかったことになります。


アスベルさーん・・
大己貴(推定BC200頃)と古代インドの伝説上の人物ナムチ(Namuci)との関連・・まじに可能性でてきたですね(^^)
Namuci:叙事詩マハーバーラタ(BC200〜AD200成立)などに登場する神(悪魔)。
(征服者(鳥)に反抗した先住系(蛇)であるために悪魔として扱われる)


サンクスです、かたばみさん 投稿者:D.K  投稿日:02月12日(火)21時50分07秒

秋葉山と春埜山、秋分点・春分点、立春日の出ラインとの
関わりがあるかどうかのチェック、入れて見たいですが。
まあどうでもいいのか、よくないのか。そろそろ古代史への
エネルギーが枯渇してきて・・・色々と調べていると、
真っ白に燃え尽きたぜ・・・って感じになりますね。

↓ 

春分点 投稿者:かたばみ  投稿日:02月11日(月)19時19分05秒

≫春分点・秋分点の割り出し方、詳しい方いらっしゃいませんか?

年代によるずれのチェックでしょうか。

プラネタリウムソフトでチェックはどうでしょう(シェアウエアですけど30日は使える、簡易版はフリーですが過去の再現ができません)。

黄道と赤道を表示させればその交点が春分点ないし秋分点。
現在の春分点はうお座にありますが縄文時代では牡羊座にあるますね。

竜骨座のカノープスが弥生時代には今よりよくみえる星であることもこれで確認しました。
縄文から弥生にかけての日食をこれでチェックすると、皆既日食ないしそれに近いものが列島内で2年〜10年に1回発生しているようにみえます。


re:歴史的事実の論理整合性 投稿者:かたばみ  投稿日:02月11日(月)19時17分50秒

書紀が何を隠したかは、どのような目的があったか、ということでもありますね。

私はいろいろな方の論を読むときその論がどういうデータから生じているのかに注目(重視)しています。
知らなかったデータがあればそれを加えて自分の考えを修正してゆくわけです。

6章で書いていますが、ある伝承があったときその伝承を年代「いつ」と場所「どこで」と事象「なにが」にわけて考えるようにしています。
連続的に年代を示す手段がなかった時代の伝承では年代がもっとも不確実な情報になりやすい。
(年代を仮定してから推論することが必須)

次に不確実なのは場所と人物。
その伝承をもつ氏族が移動と興亡を繰り返せば、伝承の場所がある時代の場所と入れ替わってしまう可能性がでてきます(意図的なものがあればますますです)。
地名も後に有力となった場所に以前の地名が移される可能性があります。
また、別系の類似伝承が、有力となった別伝承と合成されてしまう可能性もあります。

伝承のうちもっとも変化しにくいものが、事象「なにがあったか」だと思います。
だれかとだれかが結婚したとか戦った、といった伝承のうちの結婚とか戦争という事象そのものは完全な創作ではないかぎり変化にくいものと思います。
(ただし大きく異なる文化の伝承がはいってきた場合は、文化の違いによってその内容解釈に違いがでる可能性はある)


歴史は大きな質量をもっていますからその流れは曲がる場合でもゆっくり曲がる。
現在と過去がわかればある程度の未来も予測できるわけです。
したがって古代で遊ぼでは遡るのではなく下りながら流れを作りフィードバックを繰り返す方法でやっています。

ある伝承が推定される流れからあまりにかけ離れる場合はいかに著名伝承であろうと疑う。
その流れの中に新発見の物証が登場すればバンザイで、昨年発見された禹餘粮はそのひとつです(^^)

記紀の神武東征という伝承の場合、「だれかがどこかへ攻め込んで占領した」という事象は正しいであろう、だがいつだれがどこでに関しては疑ってかかる。
全体の流れの中で年代、場所、人物に不自然さが目立つ、現代にそれに関する地名が残るがそれも含めて怪しい・・(^^;
記紀における要の話であるだけに意図が含まれる可能性も高いのでますますです。

播磨風土記に姫路市の北10キロ付近でアシハラノシコヲ(大国主と同一ともされる)と天日矛が戦った記述があります。
これは自説の流れの中では十分ありえることになります。この伝承は正しい可能性が高い・・(^^;
だれかの利害にはからみにくい話ですからこの伝承に意図が含まれる可能性は低いと思います。
そういう可能性の積み重ねとフィードバックのくりかえしで下っています。


女心は分りません 投稿者:D.K  投稿日:02月09日(土)14時12分56秒

足高で全て長脛彦かと言えば断定出来るかどうかは分りませんが、
ニギハヤヒとの連合で出雲の関係ならば可能性は高そうですね。
女心多寡か女心多過なら分り易いですが、アラハバキは男女和合の
神とも言われているそうです。私は関わると何故か女難ばかり・・・
女神ではなくバリバリの男神だと思いますが古事記にも出てきている
有名な神のようですよ。

島根の出雲、四拍手ですね。何故仏教山と言うのか不思議ですが、
四で死者を祭る意味があったのでしょうか。お前はもう死んでいるとか、
祟られないようにするとか・・・壊すと大変そうですね。工事関係者が
死んだりする事は実際に存在はするようですが。


D.Kさんへ 投稿者:神奈備  投稿日:02月09日(土)12時05分24秒

ありがとうございます。
島根県のお知り合いの方にメールででも注意を喚起して頂ければ幸甚です。
よろしくお願いいたします。

出雲国風土記の秋鹿郡の所に、足高野山と云うのがありますが、女心高野山とも云うそうですね。足高=女心高、アラハバキ女神説はありましたか?


神奈備さんへ 投稿者:D.K  投稿日:02月08日(金)21時38分18秒

詳細・・・見れませんでしたが高根山古墳の時と似た様な事をしていますね。
協力出来る事があればしますが、色々と御教授ください。


出雲の神名火山,仏教山についてのアッピール 投稿者:神奈備  投稿日:02月08日(金)21時18分04秒

大和の神奈備山の三輪山を突き抜けるトンネルを掘るという話があれば大和の人だけではなく全国の人々が身の毛もよだつ程吃驚してしまうでしょう。それから、その工事を中止させるべく全力を尽くすはずです。
但し、島根県人だけは素知らぬ顔をしているはずです。なぜなら:ー
今、出雲国出雲郡の神々の坐す山、祖霊の静まる山=神名火山=である仏教山のドテッパラに穴をあけようとする企てが進められています。
山陰自動車道を通すためです。どうやら国土交通省だけではなく、島根県までがそれを認めているようです。
島根県の観光パンフレットをご覧になったことがおありでしょう。「神々の国」をキャッチフレーズにしている自治体です。
その神の坐す神名火山にトンネルを掘ることが進められています。
小泉改革の腰が抜けて止まっていた工事が進み出すようです。島根選出のAなる参議院のボスがからんでいるとか。
島根県は、国土交通省のは神をおそれぬ行為、神を侮蔑した行為を認めることで、他の県の人々を欺く行為を行おうとしているのです。
言うこととやることなすことの違いが極端な県が島根県だと全国に平然と宣言して居座る行為に見えてしまいます。
心ある島根県人よ! 立ち上がって仏教山への穴開けをやめさせて、山陰自動車道を迂回させましょう。

詳細は http://www.kamnavi.net/takaramail.htm をご覧下さい。


コンピュータの反乱 投稿者:かたばみ  投稿日:02月08日(金)19時47分13秒

新パソコンが不調で交換しました(^^;
電源オフ(ソフトオフ)しても再起動して停止しない、CDがびゅんびゅん回転してるうちに飛び出してくる、勝手にプログラムが動く、インターネットが遮断される・・コンピュータの反乱です(^^;

メカの故障ではなくどっかで1か0かが不安定になったものとにらみました。
なぜかサポート電話が全く通じないので販売店に連絡したら即応で交換してくれた・・メーカーのドジかな(^^;

XPのセキュリティホールは修正のダウンロードでOKみたい。
どのみち追いかけっこになるだろうなあ。

XP自体は良さそうです。旧来のフリーウエアを順次テスト中。
表示方法にクラシックタイプがあって旧来の98WINとほとんど同じ状態にもできます。

↓ 

紀元前の仙人 投稿者:かたばみ  投稿日:02月08日(金)19時42分11秒

≫最近は徐福伝承等にも興味がありますが、日本が神仙の国として・

昨年、奈良の唐古・鍵遺跡から興味深い出土物が発見されています。
土中の粘土に鉄分が付着して固まってできた饅頭のような褐鉄鉱の中空の石で、BC100〜0頃。
中にヒスイの勾玉がはいっています。画像参照

正倉院の御物にもこれがあるそうで、中国の神仙思想では「禹餘粮」ウヨリョウと呼んで、その中の粘土が不老長寿の仙薬(仙丹)なのだそうです。
勾玉をいれるのは日本独特のようで、この頃には中国の神仙思想と縄文文化が合体していたことがわかる貴重な物証です。

自説では、唐古・鍵遺跡は若狭側からやってきた出雲臣族(天穂日系)と瀬戸内からやってきた出雲神族(スサノオ系)の合体による遺跡ということになるのですが、禹餘粮は天穂日系文化と先住縄文文化の合体ということになってばっちりであります(^^)
他からも発見されるのを期待するところです。

仙丹の基本は水銀で辰砂→朱におおよそ同じ、酸化鉄ベンガラも赤、ここにも縄文との接点がありそう。
仙丹とその製法を探求する人々(≒錬金術師)も登場していたはずで、これが自然鉄による独自の製鉄法発見の端緒になる可能性もありそうです。

徐福が渡来していればやはり仙丹を探しただろうなあ。
封神演義という殷と周の王朝交代時代の仙人の活躍を描いた小説があります。
周を西方系(山岳系、おそらくは西王母系)の仙人、殷を南方系(海洋系)の仙人が応援していて天界にも内部抗争があるのが面白い。
禹餘粮はどっち系かなあ。


大耳の面 投稿者:かたばみ  投稿日:02月08日(金)19時31分40秒

≫大耳の武人埴輪」知らなかったです

NHKで正倉院にある伎楽面を使って当時の伎楽を再現する番組をやっていました。
(狂言役者の方の努力による再現なのですが名前忘れました)

なんだぁ、その面はみんな大耳じゃないですか(^^;
インド、チベット、インドネシアなど各地にその源流を訪ねて復元の源にしていましたが、たいへん参考になりました。

カラス天狗風の面はインドのガルーダの可能性があるようです(鳥)。
鼻の長い天狗風の顔立ちもありまして、現地でたしかにそっくりな住人が紹介されていました(^^;
治道という面(役柄)もでてきましたが、猿田彦伝承とぴったり重なりそうです。
面の容貌もそうですが、神様の先導役とか護衛を勤める人物なのです。


RE:RES;環境と行動様式1 投稿者:かたばみ  投稿日:02月08日(金)19時29分12秒

現在の考え方の多くが近代ヨーロッパの考え方の影響を多大に受けている、これを白紙に戻して見直すとなにがみえてくるのか、といったところですね。
時代によってその地域の人々の行動様式は常に変化する。
ある時代のイメージを異なる時代にそのまま重ねてしまうとおかしなことになりそうです。

≫文明発祥の地メソポタミア・エジプト・インド・中国はどれも略奪闘争の末つくられてその

以前に生命の基本原則にエネルギー最小の法則があるのではないかと書きましたけど、これだけではその生命は消えてしまう。無が最小だから(^^;
対応するもうひとつの原則があると考えています。「生命は常に増大しようとする」

このふたつの原則が両立するように、生命は試行錯誤を繰り返してきたのだろうと思っています。
熱帯ジャングルであれば選択肢はたくさんあって生命は多様化する。
冬が厳しい地域なら増大できる季節までエネルギー最小に切り替えて春を待つ。
落葉や冬眠など待機してチャンスを待つ技を会得した生命が生き残った。


人間は自分自身を変化させずに環境に対応できる技にひいでていた(短時間での対応が可能)。
道具、技術、ほかの生命にはほとんどないもの。
(芸術ないし「遊び」も人間の特技と思っています、満腹のライオンは寝るけれど人間は遊ぶ(^^;)

狩猟も漁労も農耕も遊牧もみな知恵と技術のたまものだと思います。
しかし、それも自然界が減ってしまう規模で行うなら略奪です。
そして人間も自然界が生み出した生物のひとつにすぎませんから、人間が人間から奪う略奪も同じです。

ただし、「同族」から奪うということは「人間の増大」に違反することになる。
やらないですむならやらないと思いますが、環境が厳しいなら「同族」の意識を狭めざるを得なくなります。
同族の意識が人間から種族とか氏族の単位に狭まったとき、それぞれの間で略奪が発生するわけです。
(ここには欲望や宗教的概念などいろいろな要素がからむと思いますが、これは棚上げ)

儒教での礼の根源もここにあるのではないでしょうか。
個人から家族さらには国家規模でその関係を律する、上下関係を律することで乱れも防げる。
記紀の構成の主眼のひとつも同じところにあると考えています。

家族という最小単位の同族を神話世界に設定し、みなその子孫であるとして「内乱」の可能性を減らそうとしているわけです。
高度な識見に基づくものと思いますが、縄文文化を劣等とみなし出雲や蝦夷がその中間にある文化と見る意識が強いかなあ。


自然界の余剰に頼れる人々に略奪はもともとから不要、自然界への畏敬と祈りも多くなると思います。
略奪が必要な人々にはその手段を生み出す人間、守るべき人間、「同族」が重視されるようになると思うのです。
白か黒かではなくその中間のどの位置にあるかです。
そして略奪(≒自然界)に限界があることを知ったときその人々はどうするか・・

増大どころか消滅するかもしれない・・純粋にその危険を回避する手段であれば否定できるのかどうか・・
他者を犠牲にせずに生きるにはどうしたらよいのか・・
同族の意識をどこまで広げることができるのか・・
さらにはそれを木石(自然界すべて)にまで広げられるか、ここに森の文化のありようが参考になると思っています。

日本の人口が減少し始めたようですが、自然の摂理(本能)の一部かもしれないなあ。


諏訪の神 投稿者:D.K  投稿日:02月07日(木)22時26分20秒

 諏訪大社上社前宮が一番古く、守屋山を御神体として祭る
ミサクチ神信仰があったそうで、ミサクチ神=アラハバキ説が
あるそうですが個人的には違う分析を入れていて・・・
 
 諏訪大社では御頭祭が行われていて、タケミナカタは伝承では
征服しに来たと・・・大国主の子って嘘っぱちなのかどうか?
諏訪の下社を詳細に分析すればスサノオとの関連性も分析出来そう
なんですが、春分点・秋分点の割り出し方、詳しい方いらっしゃい
ませんか?


ヤット・・・ 投稿者:KENJI  投稿日:02月07日(木)21時46分04秒

風邪をひき、ヤット何とか治り始めました。
昨日から会社にも行き始めましたが、本当にマイッタ・・
こんなに長引いたのは、久しぶりでした。皆さんも気を付けて下さい。

かたばみさん、1.4Gですか。良いナァ
XP、今年の初め、少し触る機会が有りましたが、始めは戸惑いました。
95〜98〜Me の画面とは、少し趣が違う気がしました。
復元ポイントは、Meにも有り、便利ですが、気を付けないと、後から入れた
データーやソフトが消える時が有りました。
それで、再度、元に戻した事が。(爆)

少し前に「スサノオノミコト」を漢字入力しようとし、「すさ」で入力しましたら、
「諏訪」も、有るのですね。
尊海(1253〜1332)の「即位法門」には、スサノオの嫡子は、オオタタラ(日吉山王)
で、その王子が諏訪大明神とか・・(詳しい裏は確認していません。(^^ゞ)
その様な関係が、スサノオと、諏訪には有るのでしょうか?

スサが地名で、其処の王様だから「スサノオウ」。
具体的な名前が「タケミナカタ」(この名前も、「猛々しい名前の御方」の意味?)でしょうか。
スサは、私は山口県の「須佐」を考えていましたが、考え直しが必要でしょう。
追われて(戦いに負け?)転々と北の方に行ったのか?
其の先々に、「スサ」の地名を残したのかな?(確信・傍証は一切有りません。)

「諏訪」だけで、風邪の間、遊んでいました。マサに「古代であそぼ」でした。(爆)

http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/


re:XP導入 投稿者:s_tan  投稿日:02月03日(日)21時50分04秒

1.4Gですか^^。画像処理は格段にいいでしょうね。
XP常時接続にはくれぐれもご注意ください。

↓ 

XP導入 投稿者:かたばみ  投稿日:02月03日(日)19時23分45秒

パソコン(WIN98、CPU350メガ)のLAN回路が故障、修理に時間がかかるので1年先のつもりだったWINのデスクトップXP機(CPU1.4ギガ)を導入しました。
システム構成が微妙に違うのでとりあえずのパソコン体制の移行だけで1週間かかってしまった。

接続機器はすべて既存利用ですがドライバを最新化するだけで動いています。
まだ??部分もあるのですがいまのところ原因不明、様子をみているところです。
一般ソフトで新規購入が必要になったのはウイルスソフトとグラフィックソフト1種(うんと古い)のみです。
使い勝手向上の大半はフリーウエアとカスタマイズに依存しているので、もとの使い勝手に戻るにはまだ時間がかかりそうです。

マルチメディア以外は98でも十分ですが画像処理は速い。これはCPU性能から当然か。
しかし画面表示が3Dもどきになっていたりかえって見にくい、みんなWIN98ライクのシンプルに変更。
キーボード配列が異なるのでやりにくい。無理に小さくする必要があるのかなあ。

WIN98よりは安定なようですが、それでも再インストールを1回やりました(^^;
システムを前の状態に戻せる復元機能があってこれはたいへん有効です。
復元ポイントは任意に何カ所でも記録できるので、危なそうなソフトや機器を使う前にポイントを記録しておけば無事だった状態に戻せます。
これには何度もごやっかいになったです(^^;


re:有り難うございました。 投稿者:s_tan  投稿日:02月02日(土)23時21分56秒

とよた 時 さん、わざわざありがとうございます。

伊勢原から秦野にかけての大山の南麓は、むかしの山里の雰囲気を残す所で史跡も意外に多く気にいっている場所のひとつです。
加羅古神社は、名前に惹かれて気になっている社です。扁額を含めて境内は「加羅古」ですが、案内などでは唐子と記すものがあるようです。
背後の雨乞山も気になり登ろうとゴルフコースの中まで入ったりハウスで聞いたり、大きく迂回する裏からの林道は通行止です。車では登れないようです。
北条早雲の時代に既に在ったこと、現在の宮司さんは少し西にある堀之内八幡と兼任されている。
と、探索は今のところここまでで中断しています。一ノ塔(燈)が無いわけの話もいろいろ連想できて面白そうです、情報が増えましたら神社探訪にupしたいと思います。


re:大名持神社情報 投稿者:s_tan  投稿日:02月02日(土)23時20分48秒

大名持神社、岩神神社の調査ありがとうございます。先ほど当方手持の画像をあわせて神社探訪にupしました。

 大名持(十二社神社)は、地域の12社を集めたのでしょう。。とするとご神体の神像13体とあわせると、境内末社の祭神応神15がメインの可能性もあるのかも知れませんね。まあ全く流行としての12社(12所)なのかもしれませんが。
 岩神神社で思い出したのですが、特徴ある祭が行われているらしいのですが、手持の資料では見つからず確認できずです。
tizeさん、また、なにか情報ありましたらよろしくお願いします。


◇歴史的事実の論理整合性 投稿者:志水 満  投稿日:02月02日(土)23時05分37秒

・遠山美都男氏の「日本書紀は何を隠してきたか」という本を読みました。
そのなかで彼がいってるのは大事なのはここの事実ではなく、全体のストーリイである。歴史書といってもそう事実を赤裸に書くわけにはいかない。
確かに近い時代の事実ほどゆがめられてしかるべき、したがってその事実を相対化し論理整合性をはかることが重要な検討作業である。
彼のいっていることは必ずしも全面的に信用出来ない部分があるが、発表を続けているその姿勢は敬服する。 
たとえば卑弥呼は女王ではなく女性が就任する地位・身分の名称であったこと。
そうであれば、確かに 突然姿を消したわけも後継者が台与であったことも理解できそう。
卑弥呼の時代に精霊信仰や呪術信仰があってそれがどうして大和王朝に受け継がれていないのか。
これを読んでますます私の疑問は尽きなくなりなした。
女王という制度は中国にはないわけで日本の女帝の歴史的構造というのも興味が湧きます。


有り難うございました。 投稿者:とよた 時  投稿日:02月01日(金)08時36分09秒

秦野の加羅古神社(唐子神社?)については唐子明神の伝説(丹沢表尾根に一ノ塔がないわけ)位の知識がありません。ぜひご研究の一端を拝見できればと思います。

http://tokipro.cool.ne.jp


大名持神社情報を更新 投稿者:tize  投稿日:01月31日(木)23時40分52秒

川上村史からの抜粋ですが、大名持神社(川上村河西)の情報を更新しました。
現在は、十二社神社と言うそうです。
情報量が多いですが、下記リンクにて更新しておきましたので、よろしくお願いします。

http://plaza.harmonix.ne.jp/~taizou-u/kan_sprt.htm


中国の聖人は 投稿者:D.K  投稿日:01月30日(水)02時49分22秒

 キリスト教圏の聖人とは感じが違うところがありますね。
仙人であり軍師であり武術の達人であり商人であり・・・と
戦っても強いぞの世捨て人的なイメージとは違っていますが
大地のエネルギーを活用する戦闘スタイル、流石は中国です。

http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/kikaku/kahou/kahou7.htm


re:岩神神社&大名持神社 投稿者:s_tan  投稿日:01月28日(月)23時14分50秒

情報ありがとうございます。

>地元では大神神社と同じく巳(蛇)が祀られていると
#吉野と大和神社のつながりは丹生神社とのそれで聴きますが、岩神神社の蛇と大神が繋がるとは面白そうですね。またこの地区の郷社が川を挟んだ桜木神社というのも、宮滝も近いですが「この地区」には宮滝も含まれるのでしょうか。

> 川上村西河の方は、大名持神社(川上村西河)。祭神は12神祀られているそうですが、
#大名持でしたか、小振りでしたがよく手入された境内と素木の社殿が記憶に残っている社です。河原屋の大社大名持と関係が深いのでしょうか、どちらも古道の喉元を押えるといった位置ですね。
12神も気になりますね、8神+4神なのでしょうか、なんとなく古の地主神が隠されている気もするのですが。

>URLに画像を掲載しています。
#画像ありがとうございます。2社間違いなく確認できました。後ほど手持の画像を神社探訪にupします。


岩神神社(矢治)&大名持神社(西河) 投稿者:tize  投稿日:01月27日(日)23時20分49秒

>ところでお礼しながらの質問で恐縮ですが、吉野宮滝の北東、矢治?の岩神神社。
>少し手前の五社トンネルを出てすぐ左の川上村西河?にある、小振りだがなかなかの雰囲気の社>(社名失念)。この2つの社の祭神・由来等お分りでしたらご教授いただけませんか。

矢治の岩神神社は、実際の祭神は不明で、地元では大神神社と同じく巳(蛇)が祀られていると
言われているらしいです。ご神体は、社殿後方の苔生した大きな天然の裸岩。
由来も判りませんが、灯籠の年代が、その古さを物語っています。
また、宿神社(しゅくじんじゃ)とも呼ばれているらしいです。
因みに、この地区の郷社は桜木神社(吉野町喜佐谷)です。

川上村西河の方は、大名持神社(川上村西河)。
祭神は12神祀られているそうですが、現在地元の方に調べてもらってます。
(わかり次第報告します。)
古くからの地元2地区(西河・東川?)の氏神社で、月次祭を毎月1日に行っているそうです。

URLに画像を掲載しています。(一部画像ぶれもありますが・・)以上でよろしいでしょうか?

http://plaza.harmonix.ne.jp/~taizou-u/kan_sprt.htm

↓ 

RES;環境と行動様式1 投稿者:志水 満  投稿日:01月26日(土)23時54分42秒

かたばみさんへ
「古代アフリカ・エジプト史への疑惑」を覗きました。
>そこでわたしは、あらゆる学説を、根本的に疑ってかかることにした。また、アフリカ大陸の中心部から、>すべての歴史をみなおすことにした。データを整理し、いままでの学説の論理を、裏がえしにしてみた。>もちろん、採用できる点は、とりいれた。
>その結果、アフリカ史のみならず、人類史全体にかかわる、..............

おもしろいサイトですね。考え方に賛成です。

教科書で教えられてきた文明発祥の地メソポタミア・エジプト・インド・中国はどれも略奪闘争の末つくられてその覇者によって国家が創られてきた。環境破壊や精神破壊と権力による支配抑圧など人類の罪悪全てはここから生まれている。それが現代に略奪闘争から私権統合国家に繋がっている。
それに対しては善悪の判断は下しにくいが、現代の行き詰まった状況から考えると方向性に誤りがあったのではないでしょうか。
東洋と西洋では集団の破壊のされ方に違いがあると思います。
急速に乾燥してきた地域では情け容赦のない略奪のくりかえしが行われたはずで、自分以外は敵という意識になるのは当たり前であるが、例えばモンゴル高原はかなりの期間草原が維持され遊牧が行われていた。
そうなると支配被支配という関係には成るが、皆殺しまでは必要がない。
集団の考え方も違ってくるはずです。孔子の考え方にもそのような東洋的風土があるとおもいます。
ただ支配者がいかに私権統合国家を治めるかという発想になってしまっていましたが・・・・


確かに 投稿者:aruce  投稿日:01月26日(土)15時56分25秒

確かにD.Kさんがおっしゃるように、小説の中の孔子も並外れて体格がよく武術にも長けている事になっています。
でも、文天祥が衣帯中の讃で「孔は仁を成すと言い、孟は義を取ると言う」と孔子をよんだように、すっかり孔子は中国でも聖人として定着していたのでしょうね。

stanさん 儒教的な考え方って、わたし達がそれと意識しないほど深く、わたし達の考え方に影響を与えているのでしょうね。

かたばみさん 「大耳の武人埴輪」知らなかったです。
初めて教えていただきました。
この掲示板に来るといつも知らない世界に遊びに行かせていただけます。

http://www.ztv.ne.jp/aruce/


息抜き 投稿者:D.K  投稿日:01月25日(金)23時53分18秒

たまにはね。

http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/sou/2002/1/1.htm


リンクミス失礼 投稿者:かたばみ  投稿日:01月25日(金)23時52分28秒

リンク部分にミスしてました(^^;
「方格規矩四神鏡」と「大耳の武人埴輪」がつながってしまいました。


但馬国司文書 投稿者:かたばみ  投稿日:01月25日(金)23時48分18秒

原田実氏の「もうひとつの高天原」を読みました。
近江に王朝があったかどうかといった論に関する解釈を書いていますが、物部王国論や出雲の解釈とどうかみあうのか、といったところかなあ。
神武東征をどう解釈したうえで推論を進めるか、がやっぱりキーワードになりそうです。

「但馬国司文書」の話があって「竹内文書・但馬故事記/吾郷清彦/新国民社」があると書かれていたので探したけれどみつからず。
大己貴が天火明に命じて但馬を開拓させた、なんてのは出雲と天孫の日本海側の様子を示すもので興味深い。
ただし、天火明系譜がAD250以前に但馬に存在する必然性があるのかどうか。

農耕適地は南にあるわけで南から北への移動は考えにくい。
天照大神など後世の記紀神話上の概念を歴史につなげても意味はないし。

いまのところ但馬にやってきた天孫は出雲臣=天穂日系の島根からの東進以外には考えつきません。
(そして琵琶湖方面への南下、さらには瀬戸内から進出する出雲神族との奈良での接触合体、BC100頃)
但馬国司文書での記述や籠神社の天火明伝承は日本海側に天穂日という天孫が登場していることを間接的に伝えているのではないだろうか。
但馬での天穂日伝承が旧事本紀にひっぱられて天火明に変化してしまったわけです。
天穂日がどっかの古墳で苦笑いしてるような気がする(^^;

出土土器は弥生中期頃から人々が丹後半島から南に移動していった痕跡を残しています。
ただし農耕とは異なる目的をもつ氏族の行動は別でしょう。
海運者→資源探索者→物部氏といった人々です。その行動様式は複雑になると思います。

籠神社には有名な海部系図(847成立)がありますが、旧事本紀の系譜とよく似ているのは日本海側と太平洋側の海運者の結合によって関連が生じたためと思います。
開化、崇神、垂仁が日本海側と太平洋側(尾張系)双方の妃をいれていることがそのきっかけかもしれない。


京都府の弥栄町(丹後半島)の太田古墳から魏の青龍三年銘(235)の方格規矩四神鏡ホウカクキクシシンがでているようです(後漢初期以降ブームになった形式)。
方格規矩四神鏡(後漢初期)参照、ただし村上開明堂の所蔵品

この鏡が後代の複製でないならば服属した丹後の氏族に崇神あたりが手持ちの鏡を与えた一枚とみたいです(すなわち卑弥呼の鏡の1枚である可能性がある)。
そして三角縁神獣鏡の大量生産がはじまった、でも鍛冶屋不足で不良品もたくさん登場(^^;


但馬国司文書にも日子座王がクガミミと戦う話があるようですが、クガミミは土蜘蛛族とも関連して相当な海運力を持っていたとあるようです。
だとすると、この戦いは開化に妃(意祁津姫)をいれて服属した日本海系の海運者(日子座王系)と服属を拒否した海運者の争いかもしれない。

肥前風土記にある五島列島小値賀島の「土蜘蛛大耳」を服従させる話とも関連しそう。
景行紀にでてくる宇佐の賊の耳垂や鼻垂は蛮族どころか、筑前豊前のナガスネヒコの縁者の可能性あり。
(ただし鼻垂は猿田彦の後裔(^^;)
土蜘蛛、手足が長い→長臑日子、いろいろな形質がこのころではまだはっきり残っていたわけです。

埼玉県の本庄市付近の小島古墳群からは大耳の武人埴輪が出土しています。
弥生中期の土器片もでているようで早い時期に農地開拓が始まっている地域です。

小値賀島にも古墳があるところからも大耳族は弥生の有力者だった可能性がありそうです。
天之忍穂耳や神武の容姿が埼玉の埴輪みたいだったら・・なんとなく愉快(^^;


始めまして 投稿者:D.K  投稿日:01月24日(木)00時33分03秒

孔子は頭でっかち貧弱云々のイメージではなく、甘く見てかかったら
実際は武術だの気功だので鍛えまくっていて・・・等という話が在る
ようで。日本の古代史も良いですが、海外も興味深い所がありますね。
最近は徐福伝承等にも興味がありますが、日本が神仙の国として・・・
その時代にはそうとられていたんですね。秦の始皇帝の時代ですから、
魏志倭人伝の邪・馬台国なりの失礼記述とは正反対、コナンならピンと
来そうな情報ですね。


re:お久しぶりです 投稿者:s_tan  投稿日:01月23日(水)23時42分11秒

>かなりあざとい真似も権謀術数もあえて行う野心家に描かれていて、
孔子は、大陸の歴史から入ってゆくとこんな見方になるのかもですね。老子が喝破したなどの逸話もありますね。
孔子の弟子たちが創りあげて、歴年経て国教になって、孔子本人の真意とは各所にズレがあるような気がしてますが。。わりと淋しく死んでいったと思われる最澄と重なるんです。

むかし、ポリテカを読んでいて頻繁に出る「善きもの」が理解できず、儒教的?な善きもの=ほどこし、ではなくギリシャ西洋の善きもの=強き者、と分るまで時間がかかりました。儒教的部分はかなり染付いているのでしょうね、2千年とそれ以前。


お久しぶりです 投稿者:aruce  投稿日:01月23日(水)21時04分01秒

お久しぶりです。
と言っても、みなさんが素晴らしいので、気後れがしてナカナカ書き込みはできませんが、拝見は何度もさせていただいています。

酒見賢一さんの『陋巷に在り』を面白く読んでいます。
顔儒の丘に野合の子として生まれた孔子が、新しい自分の「礼」を持って魯国を治めようとする、1種の孔子伝ですが、主人公でもあり、陋巷にあるのは若くして世を去った顔回です。
孔子は自分の理想国家を目指すため、かなりあざとい真似も権謀術数もあえて行う野心家に描かれていて、やがて魯国を退去する運命になるのも、なるほどと納得できる描かれ方をしています。
古いタイプの呪医、巫祝達と新しい礼法(儒教)医師との対決など、とても面白いです。

http://www.ztv.ne.jp/aruce/

↓ 

環境と行動様式2 投稿者:かたばみ  投稿日:01月22日(火)20時56分31秒

地球全体の自然は大きくうねりながら変化しているようです。
サハラ砂漠も拡大縮小を繰り返しているBC10000〜8000では現在より大きい砂漠だったが、BC8000〜2000頃は湿潤化時代でサハラには草原があった。
それ以降は再び乾燥化し砂漠が広がってゆく。それが現在のサハラ。
古代アフリカ・エジプト史への疑惑の一読をお勧めします。

地球自身の変化の摂理のなかに人間は翻弄されてきた。
ある時代のある地域での森や海に頼れる生活ができる人々は恵まれた人々。
砂漠の民は常にその世界を夢見ていた。

記紀神話では食料神の大気都比賣が殺されてそこからいろいろな穀物が生まれています。
大気都比賣とは自然界のこと。生きている森を切り開いて穀物を作ったことを示す神話だと思います。

現代なら生きているものは殺さずに「寿命で死んだ自然界」から食料を得ることが可能なはず。
自然の摂理に従う、砂漠化が現在の摂理ならそれにも従う。
だが縄文の人々になかった技術をもってその砂漠を食糧源に変えることができるなら・・
増大した人口を維持できるかもしれない。

さらなる技術と智慧が生まれるまで、もてる技術と智慧で大自然のうねりをしのぐ。
千年後か1万年後かはわからないけれど再び大自然のうねりが森林化にむかえる環境を保持すること・・
それが環境保存の本質だと考えています。

ps.
読売新聞にシュメールより古いかもしれない都市遺跡がみつかったとでていました。
海底の遺跡のようで9500年前というけれど、ほんとかなあ。
これが自説の「オーシャノイド」の遺跡なら\(^^)/なんだけど。


環境と行動様式1 投稿者:かたばみ  投稿日:01月22日(火)20時54分48秒

東洋の思想とはなにか、これだけでもむずかしいですね。

儒教は森林の少ない北の文化、孔子が手本とした周礼に春秋戦国の背景が加わって生まれたものと思っています。
人間を中心に考え、ある程度の掟が必要だった。
儒教が拡大するのはほとんどの中国王朝が北の王朝(内陸王朝)であったことと、人間対人間の関係を明確にすることが王朝にとって必要だったからだと思います。

北の人々が南の人々を「従わず勝手にふるまう」と批判していますが、返せば南の人々が自由奔放を許される環境だったということ。
史記の司馬遷も北の人々は貧しく、南の人々は豊かだといっています。
南では、人間対人間の「掟」の必要性は薄かったと思うのです。


掟の概念が強烈なのはユダヤ教やイスラム教。
個人に勝手な行動をされては部族の存続が危険にさらされる、そういう厳しい環境にあったからだと思います。
(同時に掟に違反しない限り積極性や独自性が奨励されることになる→新たな手段の開発)
一般に西欧では「契約」を重視しますがこれも掟の延長上にあるものと思います。

西欧においてもハローウインとか良い意味での魔女など「精霊」は残ってる。
精霊が活躍するのは北欧が多いんじゃないかなあ。森の国です。
ローマ帝国以前のヨーロッパ大陸は森林地帯でケルト人が勢力をもっていました。
むろん森の文化でオーク(樫)を神聖な木としてあがめています。

しかしケルトの古代伝承はほとんど残っていないようです。
キリスト教国(ローマ帝国など)によってドルイド祭祀や伝承者(語り部)が徹底的に弾圧されたためのようです。
森林もつぎつぎと伐採されて農耕地に変わっていった。


地域でもない、人種でもない、類似環境が類似文化を作る。
ヨーロッパでは征服者が森を短期間に消滅させたためにその文化は残らなかったが、インダス文明を征服したインドヨーロッパ語族の場合は文化の方が森側へ接近してゆきます。
森が巨大で消滅することがなかったから(ただしインド西部は砂漠化してゆくので複雑)。

ある環境では優れた文化であっても他の環境でも優れるとは限らない。
新しい文化はその環境の方向へ変化する。
ただし、文化が変化するより早く既存環境のほうが変化してしまった場合は別です。

ある文化のうちの一部だけを導入してもいい結果になるとは限らない。
ある総合文化の一部であってこそ機能を発揮するわけで、根のない花だけでは枯れてしまいます。


魏呉蜀、三国時代に日本の思想はいささか混迷状態になっていったかもしれません。
倭国争乱も重なります。
西日本での人口の急増、戦、寒冷化、飢饉・・
このころに儒教的考え方が日本にも登場しはじめたのではないか。それが必要になったのではないか。

縄文での東日本の人口密度はおおざっぱには50〜200人/100平方キロ前後、西日本では温暖で常緑樹が多いために人口はその1/10ほどです。
(常緑樹は木の実が少ない→それを食べる動物も少なくなる)
自然界にも限界がある、人間がそれ以上にはならないこと、それが人間にも課せられた限界だった。
(ちなみに現代日本では3万人/100平方キロ)

それが農地の開拓によって短期間で東日本の人口密度と同じになった。
技術が生み出したものが人間を支えるようになれば新しい考え方も必要になります。
冠位十二階や律令などを最初に制定したのは近畿ヤマトではなく九州勢力である、の論に賛成です。
地理的に中国との交流が容易という理由が大きいでしょうけれど、環境の面からもその必要が高まったのではないかと思います。

それぞれの時代のそれぞれの地域でおおよそ適切な考え方が選ばれているのではないか。
では、現代はどうなのか・・


ホピの記述は 投稿者:D.K  投稿日:01月22日(火)00時58分04秒

 漫画喫茶で数ヶ月前のムーの記事で見ましたが・・・
神話の民なので。アメリカ大陸をイスラエルの民のように
移住したようですが、洪水後に云々の記述がありノアの
箱舟の時代の事を言っているのか?浜北原人を始め、
太古の歴史も色々と見直しが要求されていますから神話
だからと言って否定は出来ませんが、細かい部分を
ゴチャゴチャ言うよりも儀式などで精霊達と交流する
事を重視していたんでしょうね。インディアンは
チョット調べてみたいので暇が出来たら。英語が
苦手なものでアクセスしたいんですが、英語の勉強
だと思って・・・アラハバキとの関連性等、チェックは
入れてみたいんです。


いろいろれす 投稿者:s_tan  投稿日:01月20日(日)19時10分50秒

>DK さん
何度かお話にあるインデアン「ホビ族」ですが、砂漠・アニマ・独特農法と興味深いです。
ひょっとして太古に中東ーシベリアーカナダ、、と移動した民でしょうか。出自、移動などとその年代などご教授いただけませんか。


>tize さん
勝手神社の訂正情報、ありがとうございます。
大社吉野山口は、吉野山のかなり離れた北ですね、2、3年前に行きそびれそのままになっています。
ところでお礼しながらの質問で恐縮ですが、吉野宮滝の北東、矢治?の岩神神社。
少し手前の五社トンネルを出てすぐ左の川上村西河?にある、小振りだがなかなかの雰囲気の社(社名失念)。この2つの社の祭神・由来等お分りでしたらご教授いただけませんか。


>御輿洗い
武虎さんの掲示板の書込みで決定催行されたような「いり豆の会in沼津」、いり豆の会が火種?となっての神事復活。縁はイなものイキなものですね。当日たまらず急遽かけつけました^^。
これからも育成・熟成にお忙しいと思いますが御身お大事にがんばってください。

↓ 

一口に縄文と言っても 投稿者:D.K  投稿日:01月20日(日)00時55分49秒

 定義は難しいんですが、諏訪のミサクチ神等を見ると旧約聖書以前のユダヤの
信仰形態が存在したようですし、古墳の形態にそっくりなマウンドや縄文式土器
がインディアンの文化圏から発見されたりと言う話が在るようで、海上交通等を
使って結構グローバルな交流をしてきた可能性が在るので、断定しきるのは結構
厳しいところがありますね。パーフェクトとは言い切らないまでも現代に生きる
我々が見失った大事な物を思い出させてくれる魅力が縄文の研究にはあり縄文の
研究の真価はグローバル的な感覚なのでは無いかと思います。所謂西洋一極化の
形態ではなくそれぞれの民族が互いの信仰や文化等を尊重してやってきた痕跡が
発見されるのが大きいと思うのですが如何でしょう?(特にアラハバキと諏訪の
ミサクチ神との交流の痕跡、裏が取れれば良いんですが) 


◇縄文人的精神基盤の重要性2  投稿者:志水 満  投稿日:01月20日(日)00時28分27秒

2600年前頃に、西洋ではユダヤ教(→その後キリスト教)、東洋では儒教が登場するが、西洋の観念信仰が自我に基づく極めて独善性・排他性の強い唯一絶対神を非現実世界に構築したのに対して、東洋の儒教は残された本源規範に基づく仁・義・信など、現実世界を導く関係規範に収束した。

それは東洋人は、遊牧→掠奪の北方モンゴロイドが、採集→農耕の南方モンゴロイドを征服した混血であり、従って東洋人は小氏族(大家族)の本源性を色濃く残しており、西洋人ほど自我を肥大させていない。
本源的集団と本源的共認が残存している東洋人の方は、本源規範を私権秩序と整合させることによって現実世界を律しようとした訳である。

この内面的価値は縄文人的精神基盤として大事にしておきたい。


◇縄文人的精神基盤の重要性 投稿者:志水 満  投稿日:01月20日(日)00時07分44秒

モンゴル高原は見渡す限りの大草原であって、そこには同じ遊牧部族しかいない。加えて、イラン高原ほど乾燥が激しくない。従って、ここでは掠奪闘争というより覇権闘争の色彩が強く、皆殺しも発生したが、それより支配・服属という形が主流になる。従って、勝者はもちろん服属した氏族も、氏族集団としての本源性を強く残すことになる。東洋人は、概ねこの遊牧→掠奪の北方モンゴロイドが、採集→農耕の南方モンゴロイドを征服した混血であり、従って東洋人は小氏族(大家族)の本源性を色濃く残しており、西洋人ほど自我を肥大させていない。

現在の経済危機、精神破壊など、原始本源集団を破壊した私権文明が滅亡の危機を迎えた今日、東洋人の心の底に残る本源集団性・本源共認性は、人類再生の基盤を成すものとして極めて重要になる。中でも、島国ゆえに1700年前まで掠奪闘争に巻き込まれることなく原始文明を発展させてきた日本人の心の底に残る本源的な共認体質は、極めて貴重である。もし、人類に絶滅を免れ得る資質が残されているとしたら、それは東洋人、とりわけ日本人の心の底に残された、類い稀なる縄文人的精神基盤なのではないだろうか


楊原・大朝両神社ご神事 投稿者:武虎  投稿日:01月19日(土)15時35分12秒

1月15日「神輿洗い」ご神事の復活、無事執り行うことが出来ました。
ご支援下さった皆様に、改めて、心より御礼申し上げます。

どうもありがとうございました。

武虎(ちょっと鼻風邪気味)


勝手神社の所在地 投稿者:tize  投稿日:01月19日(土)14時50分49秒

勝手神社の所在地は、吉野町山口ではなく、吉野町吉野山です。
因みに、吉野町山口の方は、式内大社である吉野山口神社があります。
同じく、式内大社・高鉾神社と境内を共有している神社ですが、
それなりの大きさを持ってますよ。


砂漠の民は狩猟的か 投稿者:D.K  投稿日:01月17日(木)23時37分09秒

ホピ族も砂漠の民でしたが独特の農法などで存続してきたようですね。
日本も経済が崩壊寸前で縄文の食料等を見直す必要性があるとおもい
(上手く自然の恵みを活用したようです)チェック中ですが、現代の
文明が行き付いてきたので崩壊後の事を考え縄文的なライフスタイル
等を研究している人もいるようですね。

一神教が砂漠の民として云々は、聖書のカインとアベルの記述からも
読み取れますが物部守屋絡みの守屋山のミサクチ神の研究から古代の
ユダヤ信仰は農耕蔑視、狩猟的な物ではなかった可能性を見ています。
色々な話を聞きましたが観光地化等はして欲しくないとの事で敢えて
書こうと思っていない話が在ります。物が無いなら無いなりに幸せに
やっていけるから綺麗で静かな自然があるほうがいいとの事です。
豊かさの基準は物だけでは在りませんね。縄文は現代とは別の基準で
内面的な豊かさ等が現代とは比較にならなかったような気もします。


環境と手段 投稿者:かたばみ  投稿日:01月17日(木)23時11分58秒

ここんところ哲学的になってますけど失礼して継続(^^;

自然界の豊かさによりそって生きる人々と、それの乏しい人々では基本的な行動様式が違ってくると思います。
消極的と積極的です。
例えば、森林の豊かさに生活を委ねる場合は森を守ることも必須、そして森は限りなく複雑です。
うかつにこれに手を入れたらどんなしっぺ返しがくるか予想もつかない、人智及ばず。
なにもしないのが最善と判断される場合が多いと思うのです。

対して例えば砂漠の場合は極論すれば砂漠と空と人間しかない。
森に比べてはるかに単純です。多くのことがYESかNOで判断でき、積極的に介入もしやすい。
介入し搾取しなければ生きてゆけない、自然(人間も含む)は戦う相手です。

戦う手段の開発も必須、これが物質文明だと考えています。
森林系でも道具は必要ですが砂漠系よりはずっと小規模ですむ。
もしこの両者が戦という形で争ったらどちらが勝つかは火を見るよりあきらか。

豊富な自然界が搾取を包容できる大きさをもつ限りは搾取による発達が可能だった(植民地など)。
しかしそうでなくなったときどうするのか。
自然界の許容度にあわせて人間側が譲歩(縮小)する、これがもっとも簡単確実だと思います。

でも、人間が拡大しながらかつ他者を犠牲にしない他の手段はないのか・・
釈迦の時代では空想すらできなかったことが、現代では空想できるところまではきていると思います。
例えば宇宙空間の水素原子を鉄や炭素さらには食料にも変換する。

大自然に頼らず自給自足し、場合によって余剰も生じるならばその余剰に頼って生きる生命が登場するかもしれない。
これは人間自身が森になるのに等しい。
技術はそのためにこそあると考えています。


しかし技術は危険な諸刃の剣、危険性はふたつあります。
ひとつは単純、戦争の道具となった場合です。

もうひとつはちとめんどうですがより深い危険性があります。
人間が楽をするためだけに使われた場合です。

あらゆる生命には基本原則が存在すると考えています。
・・その環境において生命は自ら消費するエネルギーが最小となる方向へ変化する・・
尻尾がいらなくなれば無駄にエネルギーを使う部分になるだけです。尻尾はなくなる。

いったん楽を体験すればそれを捨てたがらない・・その方向にのみ技術を向けると、必要以上の楽をするためにかえってエネルギー消費が増えてしまう。
歩かなくてよいなら足はいらない、退化してゆくでしょう。
より大量にエネルギーを消費する環境に人間という生物が順応してゆくわけです。

そのバランスポイントをみきわめ最善を選択するのが智慧、うまくできるかどうか・・

↓ 

re:混血の証としての猿田彦 投稿者:かたばみ  投稿日:01月17日(木)23時07分09秒

≫猿田彦の役割はどこまで解明されているのでしょうか

わずかな伝承しか残っていない現状では、解明はむずかしそう。
いまのところいろいろな推定ができるだけではないかと思うのです(7章の三苗関連参照)。

縄文人の形質と文化は北方のツングース系と東南アジアの南方系の人々のドッキング。
日本人の基本的資質と文化の形成時代だと思います。

中国南部には禹と戦って敗れた防風氏という巨人族の伝承があります。
フィリピンにはネグリト族のごとき小人族がいます。
形質だけでも耳がでかいとか鼻がでかいなど現在よりずっと多様な種族が存在していたんじゃないかな。

そういった複数の形質や文化が入り混じっているのが縄文だと思います。
1万年近い安定期間のなかでそれらが列島内に混合拡散していった。

そして寒冷化がはじまって縄文世界は大騒動となる、BC2000頃。
人々はそれぞれの地域からもっと暖かい温暖地へ、あるいは山から平野へ移動してゆく。

この頃、はるか長江でも異変がおきた、栄えていた良渚文化や屈家嶺文化の遺跡は大洪水の泥土に埋まって出土します。その後数百年この一帯は文化空白地域になります。
その大洪水から周囲に散った人々が三苗です。

ニューギニアの東にあるビスマーク諸島周辺にメラネシアやミクロネシアでは例をみない土器を作るラピタ文化がBC1600頃から突然に登場します。これも南へ展開した三苗の影響による文化とみています
日本へも高度な文化をもつ人々がやってきた。

もともと縄文が南方系の要素を持っていたところに、それがさらに高度に発達した文化がやってきたわけで、九州などでは違和感なく三苗の最新文化がとりこまれていったと推定。
BC2000〜BC500、縄文と弥生の過渡期です。
縄文を弥生へ変化させた文化を持つ人々が猿田彦伝承になったとみています。

猿田彦は焼き畑(陸稲含む)と漁労を兼業とする文化をもっていたのではなかろうか。
漁労といっても沿岸漁労で、いわゆる海神族のような航海はやらなかった。
猿田彦は海神族に運ばれて全国に展開したと思います。
宮崎日向の米良神社メラや銀鏡神社シロミの神事や神楽のほうが猿田彦文化の本家で伊勢志摩の方は記紀神話による影響が大きいものではないかなあ。

猿田彦の文化は水稲に比べれば地味ですが、その基礎があったればこそ後の水稲技術(BC500頃と推定)が急速に展開できたのではないかと考えています。
(水稲は農耕専業者の技のために陸伝いのみとなって伝播はずっと遅くなったと推定)


三苗文化の残滓は現在の雲南やベトナム、ミャンマーなどの少数民族が伝えていると思います。
その文化と現代の日本文化の類似性はよくいわれるところです
しかし容姿としての影響はどうなのかなあ。
容姿もそっくりといえばそっくりだけど、雲南も日本も双方がペチャンコ系(^^; の影響を受けた結果が現代での類似なのかもしれないし。


BC500以降、中国の戦乱からの戦争避難民が渡来しはじめて弥生の様相が変わります。
玉突き現象で朝鮮半島からの渡来者も急増。
黄河系の人々とその文化が大量にやってきた。
スサノオもそのひとりで、日本にはじめて王の意識をもたらした人物とみています。BC200頃と推定。

渡来者は西日本全体の人口に匹敵する人数だったのではなかろうか(といっても10万の単位です)。
人数が多ければ人々の形質も変化するはずです。

スサノオに少し遅れて前漢で呉楚七国の乱BC154が発生。
短期間の内乱ですが東シナ海沿岸全域をまきこむ大きな内乱です。
この内乱に参与した漢王朝の王族が日本へ脱出してきた。
最先端の王族文化をもつ人々がやってきたわけです。
これが天孫の親(神話上では天神)だと考えています。名に「天」を冠する系譜の人々。


≫梅原猛さんがいってましたが・・国津神と天津神、縄文人と弥生人の混血のシンボルである

ちょっと違うと思ってます(^^;
王族文化を持つ渡来人≒天津神、先住の一般人≒国津神(弥生も縄文も含む)であって、縄文人と弥生人を分離はできないと思うのです。
天津神というのはあくまで記紀神話上の概念であって、歴史上の事象に対応させるなら特殊な一部の人々のみを示すものと考えています。

また、「弥生」というものが文化的なものなのか、人種的なものなのかを考えておく必要があると思います。
「生粋の縄文人」でも弥生文化を用いているならそれは弥生人であって、人種的な差異は生物学上の問題でしかないと思うのです。

≫猿田彦神社の由来を読むと道祖神ということだったり、あと庚申祭の

太古からあった境界とか村を守る神様の信仰と新しい文化を伝えた人々が結合し、それが猿田彦と道祖神の対応になる可能性は高いと思います。
庚申祭をよく知りませんが、もともとは道教系の信仰が江戸時代あたりで日本化したもので、こちらの猿田彦は庚申の申と猿を付会しただけではないかなあ。


穢れの思想 投稿者:D.K  投稿日:01月17日(木)01時27分20秒

 神道的な世界観も結構深いようで、縄文太古の信仰・思想形態が
何処まで深い物であったのかは計り知れませんが神伝武術等もあり
ニギハヤヒ系の王位継承も霊的な基盤の上に成り立っていたそうで、
聖書的世界観の原罪や単純な善悪論等では割り切れない領域もある
とは思います。鏡が我をとると神が写るとか結構凄い物はあります
ね。やはり道が重視されていたんでしょう。インディアンが地球を
破壊的状態まで追い込むことはありませんから道から外れたツケが
出て来ているといったほうが個人的にはしっくりしますが。

 猿多彦は関連情報を集めていくとおぼろげながら正体が推理でき
そうな感じですがアラハバキのみでなく猿多彦の復権もトライして
見るのもどうかと言う所です。


縄文人。猿田彦。 投稿者:s_tan  投稿日:01月17日(木)00時30分51秒

縄文の時代も、すべて楽園だったとは言えないようですが少なくとも大量殺戮はなかったようですね。縄文から弥生への変化は富(生活物資)の蓄積が可能になり大きくなった事が源でしょう、弥生の代表が米でしょうか。
殺戮の有無が生活環境のみで行われるのか否かは、性善か性悪かとか原罪あたりの論になってくるので判断はなかなか困難なところです。

縄文がたやすく侵略・駆追されたのは富の蓄積という歴史のうねりが背景でしょうが、縄文から弥生初期に続いた海の向うからやって来た客人は、良いものを与えてくれる、というマレビト信仰があると考えてます。言霊信仰というか文字による書類よりも相手の言葉(相手自身)に信を置くという流れ。インデアン嘘つかない、が侵略されたのと同じ流れと思います。今でも書類をろくに見ずに印鑑を押してしまう国民性は縄文まで遡るのかもしれない。

>縄文人と弥生人の混血の証としての猿田彦です。
#縄文から弥生初期での客人への崇敬が猿田彦に集約か反映されている、と思います。猿田彦が白山、白髭とつながるのは古墳の極初期まではマレビト的要素がかなりあったのではないかとも考えてます。


神事復活おめでとうございます。 投稿者:s_tan  投稿日:01月17日(木)00時16分25秒

御輿洗い、神事の催行、おめでとうございます。
3ヶ月に満たない期間で、ほぼ白紙状態からの神事の再興。おつかれさまでした。

↓ 

間違いました 投稿者:志水 満  投稿日:01月16日(水)10時57分20秒

縄文人「も」ではなく、縄文人と弥生人の混血の証としての猿田彦です。


re:縄文人は実にうまく支配された?U   投稿者:D.K  投稿日:01月16日(水)00時11分18秒

アミニズムと言えば現在知られている中で代表格がホピ・インディアンですね。
侵略される以前は長期にわたり荒れ果てた大地でも精霊達と交信を取る儀式や
独特の農法等でずっとやっこれたのですが、縄文時代のアラハバキも似た様な
所が多々在ったのではないかと。長脛彦が個人名なのか足が長い部族の象徴で
在るかは解りませんが、霊的な領域を基盤とした(神々に王位継承の資格を
受ける儀が在った感じですが)王権的な部族であった感じなのでホピとは少し
違うようですね。西洋一極化の国際経済も危うい昨今、見直す価値は多々在る
感じですが古代縄文とインヂィアン、何かしら似てますね。


◇縄文人も弥生人の混血の証としての猿田彦 投稿者:志水 満  投稿日:01月15日(火)01時00分07秒

・猿田彦神社の総本山は三重県鈴鹿市の椿大神社(つばきおおかみやしろ)というそうです。
あちこちにある猿田彦神社の由来を読むと道祖神ということだったり、あと庚申祭のような神楽をやるところ。となにか独特な不思議な感じがします。

・梅原猛さんがいってましたが、伊邪那岐と伊邪那美は国生みのセックスだが、猿田彦と天宇受賣のセックスは、国津神と天津神、縄文人と弥生人の混血のシンボルである。そうすると猿田彦は鼻高でくっきりした縄文人の相、天宇受賣はペチャッとした弥生人の相で、形態人類学的にも符合する。
ちょっと強引な感じもしますが、僕は手塚治の火の鳥のイメージがあったのでちょっと違ってました。いずれにしても猿田彦の役割ッテ重要だったのですね。

・猿田彦の役割はどこまで解明されているのでしょうか。


re:楊原神社 ご神事再興 投稿者:かたばみ  投稿日:01月14日(月)17時27分18秒

神事の復活おめでとうございます。

大朝神社は「なにか」を感じて気になった社でした。
最古の海人の祈りの場だったのではないかと思っています。
古と共通する祈りがあるなら資料がなくてもそれは復活だと思います。

次は古式帆船?による大朝〜大瀬の船渡り競争(神事?)なども・・期待しています(^^)


re:縄文人は実にうまく支配された? 投稿者:かたばみ  投稿日:01月14日(月)17時25分48秒

≫自然の恵みのままに、自然を壊さないで、自然の一部として生活していこうという

哲学の分野になりそうですが・・
最善の生き方を選んだ結果がそうなったのかもしれないですね。
いつの時代でも手段の選択に誤りが少なからずあったはずですが、経験によってそれは修復でき、自然界もその程度の誤りは許容した。
だから人間は今も存在しているのだと思うのです。

うまくいくかどうかは人間にはわからなかった(これが祈りだと思っています)。
誤りを修復できなかった生物は消えた。無数にいたと思います。

現代も同じだと思います。
若干の「智」が増えたこと、誤りを選択した場合の危険性が大きくなったこと、そして人口の多さ、の違い程度ではなかろうか。
自然界が包容できなくなるなら人間がそこから離別するか(≒エデンの園からの追放)、適切な人口の維持(≒ノアの箱船伝説)が必要になると思っています。


自然を壊さないで生きる、とは他者(人間を含む動植物)を犠牲にしないで生きる、に等しいと思います。
釈迦が悩んだ基本問題です。
どうしたらそれができるのか・・お釈迦様にも結局わからなかったのだ、と思っています(^^;
(キリスト教でいう原罪も人間が他者を犠牲にして生きていることを意味すると考えています)

弥生〜古墳時代は、先行する文化の「過去の経験」が外国から伝播した時代。
それによって縄文人や弥生人は未来の手段を知った。
しかしそれは環境の異なる場所で生じたものであって異なる環境でも正しいとは限らない。
それをいかにうまく取り込めるか。
けっこううまく取り込んだのかもしれないです。


神事の無事を祈念します。 投稿者:Kon  投稿日:01月13日(日)21時04分17秒

全国492の式内大社のひとつである古社、楊原神社の祭礼の復活を、お喜び申し上げます。
御輿渡御は日本の祭の基本ですが、御旅所と言われる仮宮に出向くのが一般的です。
本祭は式内社である大朝神社に渡御するという点で由緒深いものを感じます。
楊原神社と大朝神社は、元宮と若宮、あるいは、奥宮と里宮といった関係
なのでしょうか。

1月15日の祭礼日は新年祭の朝廷儀式の流れを汲むものなのでしょう。
伝統ある多くの日本の祭礼の歴史はここまで遡るのが通例ですが、その背景には
それ以前に行われた土着儀式が根にあるようにおもいます。6世紀〜7世紀の下香貫古墳群が
それを暗示するように思われてなりません。

なを、祭礼日は本来旧暦1月15日とおもいます。この日はちょうど
空に満月が浮かび、海に映っていただろうと想像いたします。神事の無事を
尾張の地より祈念いたします。何時の日にか参加させていただける事を夢見て。

では。

http://www.ne.jp/asahi/naoi/kon/2001/


楊原神社 ご神事再興 明後日 投稿者:武虎  投稿日:01月13日(日)17時51分29秒

 伊豆国式内社である楊原神社と大朝神社の例祭日が明後日(1/15〜17)に迫りました。
敗戦年の空襲で社殿と神輿庫が焼かれて以来、実に半世紀以上途絶えていた神輿洗いのご神事が、ようやく再興されます。
 愚生が言い出しっぺとなって、世話人となり、多くの支援をいただいてここまで来ることができました。
 昨年の10月15日の秋祭りの直会で再興を決心してから、丁度3ヶ月。あっという間の準備期間。でも、そもそものきっかけは、「いり豆の会」沼津誘致(!)にあったといっても過言ではありません。皆様にご提供する「沼津古代史遊ぼう情報」を整理しているうちに、この幻のご神事に心惹かれていたのです。その後、地元古老の方々のお話を伺い、神主さんとご相談を重ね、氏子総代の方々の知恵をお借りして、ご神事再興への歩みを一歩ずつ進めてきました。Stanさんや、KONさん、(いり豆の皆さんと参拝した)熱海来宮神社の雨宮禰宜さん他からのメール、情報提供にも大いに激励されました。ありがとうございました。
 再興といっても全く部分的で、「浜降り」のご神事を神輿不在(焼失したままなので)で行うに過ぎませんが、ヒモロギを担いで海中みそぎを敢行する事により、往時を幻視してもらおうと思っています。
 NHKはじめ地元テレビ局の取材も予定されている(NHKは、1/16県内特集番組にスタジオ出演します)ので、今回は「少数精鋭」の祭りながら、来年度以降の本格的な祭祀復興に向けての「大きな弾み」になるでしょう。
 「褌サラシ巻き」で寒さ吹き飛ばして頑張ります!

1/15(火)当日は、13:30大朝神社出発
14:00から我入道海岸(沼津御用邸北東・芹沢文学館奥の浜)でご神事開始です。
どなたでも参加できますので、紅白の招福お餅を拾いに来て下さい。

沼津湊 武虎

http://homepage1.nifty.com/numazu-daisuki/


◇縄文人は実にうまく支配された? 投稿者:志水 満  投稿日:01月12日(土)22時55分06秒

おおざっぱな感想ですが・・・・・・
縄文人の信仰はアニミズム(精霊崇拝)だったようで、人間も生き物も、風、雨、太陽、月、星等の自然現象もすべて精霊を持った平等な存在とみていた。人間は何とでも互いに友達になるという発想で、むやみに木を切ったり、動物を殺したりしない。狩りで捕えた獲物にしても粗末にはしないで手厚く祭りますし、人間も動物も、死ねば同じところに葬ったわけです。自然の恵みのままに、自然を壊さないで、自然の一部として生活していこうという考え方です。
いまでいうエコロジストだったんでしょうか。

それに対して弥生人の末裔である大和朝廷は、「天皇霊(すめらみことのみたま)と呼ばれる大王(おおきみ)の首長霊を最も尊いものとし、これを頂点として、豪族達の首長霊の序列をつくりました。
天照大神(あまてらすおおみかみ)がいちばん偉い神だとし、天皇の祖先神を中心に神々の序列をつくったわけです。
そしてそれをあまり上から一方的に強制するはしていない。同じ神様を信仰するもの同士、助け合いにつながっているわけです。後世で「和をもって尊しとなす。」という言葉に代表される日本人の停留に流れる考えです。

夏や殷の時代から祖先信仰を旨としてきた渡来人が培ってきたものが天皇の祖先神信仰の由来だとすると 実にうまく支配されてきたものだと感心します。

↓ 

空想:天日矛と脱解 投稿者:かたばみ  投稿日:01月10日(木)18時49分32秒

新羅の王位継承は朴氏(赫居世系)、昔氏(脱解系)、金氏(閼智系)の3系譜が行うとされますが、BC57〜AD154までは朴氏系、AD184〜310が昔氏系で356以降が金氏系となっています。
(例外的に脱解AD57と味鄒王262が系列外から即位)
赫居世は秦王族の後裔、金氏は先住民系ではないかとみています。
それでは外国からやってきたという脱解は何者か。
新羅王統図参照


天日矛が昔氏系譜が王位についていた時代の人物であるのはまず確実と思います。
昔氏系譜の中から「なにか」がありそうな王位継承を探すと・・

奈解王196は伐休王の継承者である骨正(長男、太子)と次男の伊買が早死にしたために王位についています。
そのためもあるのか、遺言で次の継承者を骨正の子の助賁王230に指名しています。
これではなかろうか。
天日矛は10代奈解王の子か11代助賁王の兄・・

もし天日矛が奈解王の子であるなら、骨正系に譲位することに反発する可能性大。
もし助賁王の兄であるならば父でもない人物の遺言による弟への継承に反発する可能性あり。
(垂仁紀に弟の知古に(王位を)譲って渡来した、とあります)
ま、推論に推論を重ねることにはなりますけれど。不自然さはなさそうです。


奈解王の子に宇老角干という助賁王の右腕となった大臣がいます。
宇老角干は倭人に殺されています。

倭国使臣の葛那古を接待したとき宇老角干の言葉に問題ありとして倭王が干道朱君将軍に新羅を攻めさせ、宇老角干を火あぶりにした。
味鄒王262-284のとき倭国大臣が新羅にきたとき宇老角干の妻がその大臣を殺して仇をとった。
倭国は怒って金城(首都)を攻撃した。

宇老が殺されたのは新羅本紀では249年、この時代の日本側は崇神248-273時代。
(崇神即位248の使者を迎えた新羅の応対に関連する事件とみなせる(^^;)
宇老の仇をとられた倭国が新羅を攻めたのは垂仁273-311時代。
神功紀で宇流助富利智干が殺されていますが、記紀年代では神功にあたるためにここに移されたのでしょう。

宇老角干事件以降では新羅と倭国はぎくしゃくし始めています。事件以後に天日矛が日本へ渡来する可能性は低い。
書紀によれば天日矛は垂仁273-311の3年に渡来となっていますが、半島からの多くの渡来者の伝承が混合したものと思います(ツヌガアラシトなど)。
なお、この頃における「新羅」の範囲は新羅本紀でも記紀でも「伽耶」の相当部分を含んで「新羅」といっている可能性がありそうで要注意です。

天日矛から神功に至る系譜を信じ神功360-386を基準にするならば、210年あたりに天日矛が誕生していることになります。
助賁王即位の230あたりで20才ほどの青年であったならばぴたり(^^)
天日矛は開化225-248年間に渡来した可能性が高い。

開化時代では出雲が播磨攻防戦をおこなっていたが出雲に戦況利あらず(兵主神社は出雲の戦勝祈願が源と推定)。
ここへ天日矛が天孫軍に参加して上陸した・・(^^;
播磨風土記に伊和大神(≒葦原志許乎≒出雲神)と天日槍が接触する話がでてきますが、これもぴたり。
(波加村では戦なし。邑曰野オホワチノという場所では戦)

崇神の奈良入城となってから天日矛は近江〜若狭と定住地を探し但馬に落ち着いた。
頼る王朝に遠からずかつ故郷に近い場所、これも妥当だと思います。

後に神功が新羅を攻撃したときの新羅王は金氏系の奈忽王356で、神功の祖の父系も母系も奈忽王とは無縁。
全面攻撃をとどまらせるものはなくなっています。



記紀が天孫系譜に「天」を冠していると仮定し、新羅本紀の系譜をこれに重ねれば・・記紀は天日矛を介して脱解が天孫であることを間接的に記述していることになります。

1:BCゼロ頃の弥生土器は北九州から半島南部に流れ込んでいる。
2:三国遺事によれば脱解の出自は倭国の東北1千里にある竜城国で卵として生まれた(三国史記では多婆那国)。
3:加羅国(≒伽耶)に上陸しようとしたが金首露王に撃退されて新羅へ上陸した伝承がある。
4:姓氏録の新良貴の条に、稲飯が新羅国王となった、と解せる説明がある(その根拠の出所は?)。
5:ウエツフミでは神武の兄の稲氷が新羅を攻撃し、その家臣が新羅王となっている。
  (神武対出雲の戦のなかでの神武軍の伽耶への攻撃とみることができる)

書紀では神武の兄の稲氷(稲飯)が海に飛び込んでサヒモチの神となったとあります。
なんだか意味のわからない話です。
古事記の海幸山幸では山幸が故郷に帰るとき、送ってくれた鰐にを小刀を与え、後にこの鰐をサヒモチの神と呼んだとあります。
両者に共通するのは海の神になったということ。

倭国の北東1千里にある竜城国の生まれ・・
希薄でも複数を重ね合わせれば、脱解は対馬の天孫族の出自である・・が濃く浮き上がってきそうです(^^;


記憶も新たに・・ 投稿者:KENJI  投稿日:01月08日(火)22時42分32秒

KONさん、早速拝見いたしました。
記憶も新たによみがえり、楽しかった時間を思い出しました。(^○^)
あの、楽しさ、今年も何処かで味わいたいですね。
新たに、参加して貰えそうな方々も居られるようですし。(勝手に決めています。爆)

今年の私の版画年賀状、あの時に行きました、大瀬神社です。
それほど、楽しく、嬉しい時間でしたので、記念に製作しました。

今年も宜しく、お願い致します。

http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/


本年もよろしくお願いします 投稿者:Kon  投稿日:01月07日(月)22時53分44秒

年も改まり、皆様ご清栄とおもいます。
昨年のいり豆の会に参加させて頂いたKonです。

年賀状に代えて旅行記をと思い準備いたしておりましたが、
88才の父が12月28日腸閉塞で緊急入院。
体力を落とし、すこしアルツハイマ−のようなので
できるだけ側にいて話し相手になってやっていました。

そんな訳で、遅れ馳せなのですが下記にいり豆の会
旅行記を掲載いたしました。御笑覧下さい。
ttp://akon.cool.ne.jp/numazu/

本年もよろしくお願いします。

http://www.ne.jp/asahi/naoi/kon/2001/


ワーム 投稿者: s_tan  投稿日:01月07日(月)22時30分05秒

まだ、蔓延中のようです、W32.Badtrans.B@mm、40kb程

発信元が分ったメールには、連絡さし上げましたが。

koizumi-?さん、kitagawa-sonokoさん、Tsutomu-keinoさん、shin-suzukiさん、Toru-yamadaさん、PCを点検してください。
もし心辺りある方は連絡してあげてください。


アラハバキ 投稿者:s_tan  投稿日:01月07日(月)22時28分59秒

アラハバキとは、いつ頃からで最盛期?はいつ頃なんでしょうね。あてる字も、随分多いですね、荒波々伎、阿羅波婆枳、荒吐、荒羽吐、角鹿巾・・。
東日流外三郡誌の周辺をみると、およそ2700年前長髄彦の兄が。古来より全能の神なる天地水の。晋国の古伝に曰く荒羽貴将軍の古事より。支那及び韓民の大挙して流着し。支那郡公子家の祀神。安日彦、長髄彦2柱の称号。とまあいろいろ紹介しています。

神社では客人社(神)門客人社との呼称されるものがアラハバキに通じるのではないかとする事も多い様子。武蔵、相模の荒吐の社・祠のある神社は、総社的位置か道の岐に位置する神社に多く見られる。猿田彦と同じとする社、近くに祀る社、などありますが客人(まろうど)となると旅人で、これがアラハバキと通じるなら、アラハバキは流浪の民の神。
いずれにしてもアラハバキから強い土着性は感じられない、追いやられ消された神かも知れないが、もともと流浪することが本来のモノ達の信仰かな。とすると、北方系縄文まで遡る?


いろいろれす 投稿者:s_tan  投稿日:01月07日(月)22時27分54秒

D.Kさん
>アラハバキ信仰のリバイバル的な領域があったのか、此処の辺りは”いり豆の会”でも開いてじっくりと話したいところですね。
#次回、入り豆の会、楽しみが増えそうです、ぜひ参加ください。
アラハバキは、特に意識しない神社廻りでもひっかかってきますので、考えさせるものが多いですね。


志水さん
#石切剣箭の近くに枚岡神社もありますが、随分雰囲気が違いますね。石切は庶民というか民間信仰の雰囲気ですね。そういえば駅からの参道に寺がいくつかあり空海が修行したという寺もあったです。石切上ノ社・登美社の方が神社としての雰囲気は強い感じでした。
長髄彦といえば、先入観もあると思うのですが、生駒東麓を含め石切から北と南では各神社の雰囲気が違うですね、生駒市北の登美辺りとか私市あたりの社も生駒山を意識した場所に建つ物が多く見られました。
信貴山もそうですが生駒の西麓は水に関する社寺が特に多いですね。河内平野は水に苦労した土地だったのでしょう。


迷探偵コナン 投稿者:D.K  投稿日:01月07日(月)00時39分56秒

 香香瀬男(アラハバキ?)は悪神として記述されているようですが、
蝦夷のアミニズム的信仰のヒエラルキーのトップを指して言っていたのか?
古代蝦夷の王位継承は神々の霊的な権威をベースに行われていたようなの
です。基本的にノータリンなので実地で行って感じを掴む事を基本として
いますが、どうも浜北方面は桓武天皇が焚書を行ったようで、痕跡からの
推理では秋葉山、春埜山信仰等の様に自然界、宇宙の運行と合致した文明
形態を持っていたようで、星神の香香瀬男、本当に金星信仰ではなかった
のかと思われる所もありますね。太古には金星を特別視したと言う記述が
世界中に在る様ですから。インディアンの様に精霊達が非常に身近にいた
であろう古代蝦夷の自然界との調和した文明形態は行き詰った西洋一極化
(インディアンを虐げた)を見直すのに必要な物ではないかと感じている
所です。まあ経済破綻して食い物が無くなったら縄文人に学ぶところから
スタートですかね。

↓ 

アマノカカセヲ 投稿者:かたばみ  投稿日:01月06日(日)18時55分19秒

≫天之香香瀬雄がアラハバキではなかったかと推察しています。

アラハバキとはどういう性格の神なのかがありますが、弥生以前の神につながりそうですね。
「天」のつく名前でもあるので横から失礼。

書紀では天津甕星アマツミカホシ、天香香背男アマノカカセヲ、の名で登場しますが、本文内の註書きでは「其所不服者、唯星神香香背男耳」(従わぬ者は星神の香香背男耳のみ)、と名に耳があります。
(岩波文庫の場合、原文では香香背男耳ですが翻訳文では耳がありません)

天津かつ天之で「耳」がつく星神、アマノカカセヲ。
天之忍穂耳渡来以前の呉越楚〜秦時代(BC400〜BC200頃)に日本に渡来した中国戦争避難民のうちの長江系文化をもつ東シナ海沿岸域の人々のひとりではないかと考えています。

渡来系の新文化を持つ人々が縄文と接触して生まれたのが弥生文化であり、その文化を運んだのが初期開拓者、と考えています(8章初期開拓者参照)。
(東北にまで達している、青森県弘前市砂沢遺跡の弥生初期の水田遺跡など)

少彦名や猿田彦が初期開拓者の最古参(BC2000に遡るかもしれない→三苗文化系)。
西日本では弥生初期の伝承が残ったが、東日本では初期の伝承がほとんど消えた、その残滓のひとつがアラハバキではないか。

五男神のひとり熊野久須毘も初期開拓者のひとりとみていますが、アマノカカセヲと親類かもしれない(BC400〜200頃)。
熊野久須毘は内陸系で後に天孫と協調関係になった(出雲熊野大社も熊野久須毘が関連すると推定)。
しかし天孫に従属しなかった初期開拓者もいたはずで、それがアマノカカセヲではないか。
那富乃夜神社参照

天之忍穂耳と同族の渡来者にも主流と反主流がいた(^^;
書紀編纂者にはそういった認識があったのではないかと考えています。


「耳」の名も興味深い。
道教の祖ともされる老子(BC400頃?)の名は「重耳」ジュウジです。重い耳≒でかい耳?(^^;
神仙伝(東晋時代の仙人列伝)には、頭より上にでて肩まで垂れる耳の神仙が漢の武帝(BC141-87)に長寿の薬を教えたとあります。
蜀の劉備(AD161-223)の耳もでかかったという話もあり。
(この頃には大きな耳≒優れた人々といった信仰が生じていたようです)

縄文末期〜弥生初期の長江系文化を伝えた人々(の後裔)には大耳族がいた可能性あり。
(地名では日向周辺にミミが多い)

スサノオの妃となる櫛名田姫の父のアシナヅチが須賀之八耳。
天之忍穂耳には書紀1書で別名ないしその子の名として天大耳アマノオホシミミがでてきます。
神武は大耳系譜であることを知っており、それを意識したゆえに我が子すべてに耳の名をつけたのではないか。
魏志倭人伝にも「彌彌」の名を持つ官吏が登場。

中国南部の少数民族にそういう特徴ある人々が現存するか・・要、民俗学方向からのチェック。
一般的お釈迦様の耳もでかいし、ガンダーラ仏の耳も大きいようにみえる。
西アジアとつながるなにかがあるか?


余談
徐福の出自は江蘇省のようです(山東半島と長江の中間の東シナ海沿岸、戦国時代では楚の領土)。
初期開拓者にその地域の出身者が含まれるなら東海地域に徐福伝承が生じるのも理解できる。
草木が言葉を話す・・自然崇拝・・仙人・・修験道・・
徐福・・串間の穀璧・・隼人・・海幸・・

香香背男耳:アマノカカセヲも同じ流れのなかにあるのかも・・


RE:ことしも、よろしく  投稿者:志水 満  投稿日:01月05日(土)23時27分38秒

STANさん
>少年時代、石切といいますと、近所はまだ別宅別荘地の雰囲気が濃厚に残っていたころでしょうか。
>少し上ると枚岡で、この辺りから見る夕陽の大阪湾はキラキラとなんともいえない雰囲気ですね、淡>路も割と身近に見えますし

そうですね、三市合併まで山荘という地区名でした。
ところで「日本古代史とアイヌ語」というサイトで石切というのは
石切剣箭神社:饒速日尊と可美真手命
登美霊社  :三炊屋姫
石切祖霊殿 :石切大神、
の三神が祭られており、「石切」がアイヌ語で「長い・足」の意味になるのだそうです。
如何にも「長髓彦」の名前を隠蔽しながら、祭っているような気にさせます。

現在でも大和川と淀川までの間とさらに淡路島から六甲連山までよく見渡せます。


RE:RE:隼人の舞について 投稿者:志水 満  投稿日:01月05日(土)22時47分23秒

D.Kさん
隼人の舞について
今まで残っているということに感心しました。
>薩摩隼人の侍的な高貴な精神性等は国津神的な信仰がベースに在る
>はずなので、支配され舞で朝廷に仕える事になった彼らの
>心情が仮面の裏に隠されていたのではないか・・・

渡来人に征服はされたが薩摩隼人の心は残った。
中国では侵略すると九死三族にわたり皆殺しで、西洋なら侵略して奴隷にするか
はたまた自らの信仰を押しつける輩が多い。日本では和をもって尊しの精神でなのでしょうか。
明らかに西洋や中国とは対応が違います。
政策的な意味もあるでしょうが、私は万物の背後に精霊がいるとかどんな神であれ恐れがあるとか、
日本人の心の奥底にあるものが、そうさせるのではないかとおもいます。


stanさん 投稿者:D.K  投稿日:01月05日(土)01時08分17秒

アラハバキは蝦夷の神、取り込まれずに歴史から
抹殺された神ですが、個人的には天之香香瀬雄が
アラハバキではなかったかと推察しています。

文献における調査はかなり厳しい物がありますね。
私は古代風水の調査から追求して来ましたが・・・
秋葉三尺坊の秋葉信仰、秋葉原の語源ですが、
アラハバキのアナグラムの説も在り、縄文太古の
アラハバキ信仰のリバイバル的な領域があったのか、
此処の辺りは”いり豆の会”でも開いてじっくりと
話したいところですね。


ことしも、よろしく 投稿者:s_tan  投稿日:01月04日(金)22時49分37秒

>D.Kさん
>穂の国、三河。瑞穂の国の説もあり、アラハバキの浜北との隣接地です。
#浜北、といいますと、分寸、釣と細江の船渡と南丘陵の銅鐸出土地がありますが、この銅鐸の時代とそれ以前、それ以後の方形周溝墓、続く古墳時代と山あいから広い丘陵へ移る大型古墳の時代。
これらとアラハバキとの関連はどうなんでしょう、これらの時代と連続してかかわりがあったのでしょうか。三遠・畿内と2種の銅鐸の時代以前なのでしょうか、それとも久努国造の時代でしょうか。

>志水さん
少年時代、石切といいますと、近所はまだ別宅別荘地の雰囲気が濃厚に残っていたころでしょうか。
少し上ると枚岡で、この辺りから見る夕陽の大阪湾はキラキラとなんともいえない雰囲気ですね、淡路も割と身近に見えますし

>KENJIさん
やはり版画は写真と違い独特の雰囲気でいいですね。
ぼかしもきいて独特の味があります。

>武虎さん
建部大社、近江神宮、三井寺。。建部だけ行っていない。そういえば岩間観音裏の神社からの琵琶湖方面への景色は雄大でなかなかでした。

>かたばみさん
>制作中の小屋の断熱工事がようやく9割ほどできた。
#えーかぞえてみると、足かけ7年ですか。。ウチの小屋はいまだ外装手付かず内装途中、足かけ8年です^^。
伊豆白浜神社、本殿への参道神域、大明神岩、磐座、なかなかです。

>hahahaさん
勝手神社の仮社、吉野水分のご由緒、よろしくお願いします。
仮宮の写真は意外に残りにくいから大変な価値がありそうです^^。

↓ 

re:隼人舞 投稿者:D.K  投稿日:01月04日(金)00時49分32秒

夜の8時から高千穂神社で行われると聞いていったのですが、
既に第二部まで終わっていて500円のところを300円にまけて
貰いましたが・・・

全部見れなかったので残念ですが、足捌きが独特でしたね。
岩戸を力でこじ開ける所、半身から半身の転換など、古伝の
武術や八極拳等の中国武術に通底している物を感じました。
仮面を被って踊る姿、何故面を表と言うかと言えば、裏が
あるからだと言う話を聞いた覚えがありますが、薩摩隼人の
侍的な高貴な精神性等は国津神的な信仰がベースに在る
はずなので、支配され舞で朝廷に仕える事になった彼らの
心情が仮面の裏に隠されていたのではないか・・・

宮島から様々に廻ったのですが宗像三神とやけに出逢って
しまい、どこか釈然としない宗像三神、調べているのですが
すっきりとした解釈が中々見つかりません。個人的には
ベルダンディー三女神さまが良いんですけど。神社に会いに
行っても顔が見えないからチョット残念ですね。


天日矛と日子坐王 投稿者:かたばみ  投稿日:01月03日(木)23時38分02秒

≫原田実に刺激されて菊池山哉の『天の朝の研究』を読み終えました

原田実氏や菊池氏の著作を読んだことがないですが(^^; 原田実氏のHPの各種批評は興味深いです。

≫「天之日矛」の存在を、どう捉えるか、また「日子坐王」に

天日矛は天孫である、ということになるわけですが・・
AD57に新羅の4代目の王に即位した外国からやってきたとされる人物「脱解」に「天日矛」のキーワードがあると考えています。
謎のふたつが結合すると謎でなくなる・・かも(^^;

奴国王が金印をもらったのが脱解即位と同じAD57。
その直後のAD59に新羅と倭国が国交樹立(新羅本紀)。
この時代は神武が九州統一をはたした時代(自説(^^;)。
ウエツフミでの神武の兄の稲氷が新羅を攻め、稲氷の代理の人物が新羅王になった、に注目。

弥生初期の九州土器には半島からの流れがありますが、弥生中期になると逆に弥生土器が半島南部に流れ込んでいます(甕棺も半島に登場)。
弥生中期後半(BCゼロ頃)になると糸島、壱岐、対馬の朱塗りの祭祀土器が金海(釜山西方)から出土するようになります(渡来人と土器・青銅器/雄山閣)。
この流れの中に脱解がいる・・脱解は赫居世(新羅の祖BC57)の長男の2代目南解王の娘とAD8に結婚しています。


新羅では味鄒王がAD262に即位しますが前王の子ではなく、200年も遡る脱解の子閼智の6世孫です。
天日矛(AD250頃?)はこのときの王位継承争いに敗れて日本へ亡命した人物ではないのか。
日本では原則1系譜ですが新羅では昔氏(脱解系)、金氏(閼智系)、朴氏(赫居世系)の3系譜が王位につくべき者とされています。
(ただし閼智は脱解の実子ではないなど、韓国側の研究もいろいろのようです)
(自論では赫居世は秦滅亡時の秦王族の子孫とみています(^^; →魏志韓伝の辰国)

天日矛が脱解系譜の子孫であるならば・・
崇神248-273が天日矛の所持する宝を調べたのはその系譜を確認するため・・そして確認した。
それが「天之」を冠する理由になっているのではないかと考えています。

孝霊175-204以降では「天之」を冠する人物はみあたらなくなりますが、倭国争乱と氏族混合によって意味がなくなったためかもしれません。
例外的に欽明が「天国押開廣庭」ですが、これは欽明が「継体の子」ではなく仁賢皇女の子=天孫系譜の子であることを強調するための「天之」の復活と推定。
天日矛の場合は「天之」が渡来者の性格を表すのに最適だったのではないか。



開化225-248が天津日子根系と活津日子根系の双方から妃をいれるのは政略的に妥当だと思います。
開化の母は穂積氏の祖=物部系≒天津日子根系≒天孫系海運者と推定、兄の大彦の母も同じ。
崇神の母も同じく物部系ですが、異母兄弟である日子坐王の母は意祁津姫で≒活津日子根系≒旧出雲系海運者と推定。こちらは丹波氏族の祖です。

王位継承は崇神の子垂仁273-311となったが、日子坐王の子サホヒコが垂仁暗殺を謀る。
それでも垂仁は活津日子根系を切り捨てるわけにはゆかず、日子坐王の孫にあたる日葉酢姫を妃として景行311-333誕生・・この時点で「天孫」の意味は事実上消滅したと考えています。
そして日本武尊が生まれ、仲哀へ。

日子坐王が活津日子根系を母系に持ち、父(開化)からは天津日子根系を引き継ぐならば、いわば天津日子根と活津日子根の合体というわけで、日子の尊称は必然と考えています。
なお、日子(太陽の子)系譜はBC2000縄文後期の海洋系三苗に源があり、さらには縄文を形成した南海民にも遡れるならば、後に「日子」が「彦」として日本での一般尊称に使われるようになるのも不思議なしと思っています。


余談ですが、神功360-386の曾祖父は日子坐王の子、山代之大筒木真若王。
神功に天日矛の血筋がまじるかどうかはおくとして、神功が新羅を攻撃したのは新羅王朝の継承者争いと百済の南下に機を見て乗じたものと考えています。
新羅本紀では356に奈忽王が即位しますがこれも前王の子ではなく、天日矛時代の味鄒王の父の孫、すなわち脱解の子閼智の8世孫に相当します。

倭国争乱以前では神武系譜と親密だった新羅とその内紛、百済勢力の南下、それにはさまれた旧出雲と親密だった伽耶の衰亡。
これが神功の行動を生み出し、神功と応神は百済に急速接近していったと考えています。


宇佐口伝 投稿者:かたばみ  投稿日:01月03日(木)23時35分56秒

≫宇佐口伝、掲示板で聞きかじったので国道2号を通る時、宮島によって

隼人舞いは武術的でしたか。いちどみたいと思っています。探訪記おねがいします。

私の宇佐家口伝に関する資料は「宇佐家伝承、古伝が語る古代史/宇佐公康/木耳社」、同じく「続」のみです。
語り部的に伝えられたものかどうかが問題かなと思っていますが、大きな部分での変化は少ないという前提で考えています。


タイトルページの伊古奈比盗_社の鳥居の写真はいいですね。
琵琶湖、次の有力候補になりそう(^^;


正月早々に大停電(^^;
近所のどっかの電線が故障したらしく、緊急車両がやってきたけれど復旧に手間取ったようで1時間以上も停電。こんな長時間は記憶にないです。

その間動く機械はなにもなし(^^;
灯油ストーブもFFなので停電だとアウト。電話もデジタルだと電池がきれればそれっきり。
電気なしで使える道具の少なさを実感でした。


初詣取材 投稿者:hahaha  投稿日:01月03日(木)02時32分35秒

明けまして、おめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

初詣を兼ねて、吉野山へ行って参りました。
金峰神社 −> 吉野水分神社 −> 勝手神社(閉鎖中) −>吉水神社
の順番です。
特に、勝手神社の本殿は、幌がかぶせてあり焼失跡が生々しいでした。
また、消失を逃れた「こま犬」が吉水神社に置かれ、仮神社とされていました。
一応、撮影を行いましたが、ご入り用でしたら、お申し付け下さい。
吉野水分神社の由緒も、いただいてきましたので、添付します。

↓ 

謹賀新年 投稿者:かたばみ  投稿日:01月02日(水)13時56分13秒

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

今年は地元の神社にも元日深夜に参拝。
ありゃ、ここの神社も元日には大きなかがり火焚いていたのか・・知らなかった・・(^^;

神田明神では拝殿前に到達するのに30分くらいかかったかなあ。
深夜のせいか若い人のほうがずっと多いですね。
隣にならんでいた学生風の何人かが、新しいお守りをもらう時には古いお守りを返すのが先か後か、なんて話をしているのが聞こえてきました。


制作中の小屋の断熱工事がようやく9割ほどできた。
小型ガス温水器の80度の熱水を床下のチューブに流して、特殊ファンで床下と室内の空気を循環させます。
床暖房は快適ですが暖まるのが遅い、温風暖房は暖まるのが早いですが床が冷たい。
2兎を追う方法をねらっています。
まだ仮設状態ですがタイマーで朝の4時から7時までのいちばん寒くなるときだけ自動運転させています。


天之朝 投稿者:武虎  投稿日:01月02日(水)09時36分18秒

明けましておめでとうございます。

今年のお正月は、伊豆国田方郡名神大・楊原神社で迎えました。
大祓、元旦祭と参席して、初詣の氏子の方々にチラシを配ったり。「チラシ」は例の「1月15日海中禊ぎ」のご案内です。戦後途絶えていたこのお祭りの復興に向けて、最近は奔走しています。「禊ぎ」を決行する参加者が、なんとか6名ほど集まりそうです。

かたばみさん
>神話時代の名前では「天之」「天津」「日子」「熊野」に注目しています。
#最近の考察、興味深く拝察しています。
年末に、原田実に刺激されて菊池山哉の『天の朝の研究』を読み終えました。「天」を冠するおくり名の神々は「天の朝」系、「倭」「倭根子」をもつ皇祖は「大和」系と菊池氏は読みとっているわけですね。彼の時代には、九州から考古学的遺物がたいして(と山哉が認めるほどは)発見されていなかったことの他、いくつかの時代的制限がありますが、微に入りかつ大胆な推考には、大いに刺激されました。菊池や原田実も注意を促しているように、「天之」に特定系譜を見いだすとしたら、「天之日矛」の存在を、どう捉えるか、また「日子坐王」に下る系譜の流れをどう見るか、関心がわきますね。

stanさん 皆様
いり豆第2回 琵琶湖周辺は興味深いですね。祖父母が大津市ですので、子供の頃の初詣といえば、建部大社、近江神宮、三井寺などがもっぱらでした。中学校の卒業旅行で、ガキばかり5人で琵琶湖一週自転車旅行をしたこともあります。野州川河口周辺の神社境内に野営をしようとして叱られた想い出も懐かしい。

今年もよろしくお願い申し上げます。


明けましておめでとう御座います 投稿者:KENJI  投稿日:01月02日(水)08時00分48秒

明けましておめでとう御座います。
今年も宜しく、お願い致します。
今年の年賀状、昨年のいり豆の会で行きました、伊豆大瀬神社です。



志水さん、いり豆の会は此処、古代であそぼを中心にして、
歴史好きが集まった会なんです。
昨年10月末、沼津市に集まりました。其の時の内容は、
私のHPにも、UPしています。一度ご覧下さい。

http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/


あけましておめでとうございます。 投稿者:志水満  投稿日:01月01日(火)18時29分26秒

あけましておめでとうございます。
丁寧なRESいつもありがとうございます
私は今は東京に住んでいますが、河内の国日下の近くの石切というところで
少年時代を過ごしました
ところでいりまめの会ってなんでしょうか・・・・・
今年もあんしんして話の腰を折らしてもらいます


明けましておめでとう御座います 投稿者:D.K  投稿日:01月01日(火)10時26分49秒

穂の国、三河。瑞穂の国の説もあり、アラハバキの浜北との隣接地です。

高根山古墳等、開発ではなく観光地化等の保護の流れを出したいので
やっていますが"いり豆の会"、此方で開催するならば穴場をご案内
しますよ。


献春 投稿者:s_tan  投稿日:01月01日(火)05時13分54秒

新年が、皆様によりよい年であることをお祈りします。

さて、21世紀のスタートです。
「いり豆の会」21世紀in琵琶湖周辺もいいですね、美濃の南宮あたりとか、穂の国・三河も気になっています。清水廬原から日本平、磐田原、と流して三河に入る、のもいいかな、と一瞬。^^。

DKさん、高千穂夜神楽、いいですね。神楽が武芸継承に近い形をとるところは、吉備あたりとか各地に結構残っているようです、山奥とか現在メジャーでない神社に多そうですから、明治以降に神璽祭事の統一がなされた以前はかなり多かったような気がしてます。まあ、八幡で多い騎射・奉射も武芸のウチですが。

情報ソースは(といった角張ったモノではないですが)、図書館が多いですね、月に2度ほど行きます。神社訪問で宮司さん氏子さんとの話とか地元の歴史家の方を紹介して戴いたりする事がありますが、これらは実に記憶に残ります。まあどちらかというと、気になることをinputしておいて情報が身近を通るとき捕まえる、といった感じです。

さて今年も5時間経過、初日の出を見ようとしてますがアト2時間、眠ってしまいそう。


お世話に成りました 投稿者:D.K  投稿日:12月31日(月)19時48分01秒

九州に行ってきました。幾つか発見が在り、皆様のお陰と感謝しています。
高千穂夜神楽を見て来ましたが、武芸、舞に優れた隼人族が行ってきたと
言う話が在りますが、あの神楽の動きは武術に通底していますね。熊襲も
くま族と隼人族を併せた名称だと言う説も在りますが熊も隈族であったと
言う説を聞きました。

宇佐口伝、掲示板で聞きかじったので国道2号を通る時、宮島によって
来ましたが、皆さん色々と詳しいですね。情報ソースを教えて下さると
嬉しいのですが。邪馬台国論争もしてみたいのですが、邪の馬台国等と
言う話(人の説なので控えていましたが)等を含めると意図的に低く
書いていますね。宇佐口伝、詳しくは知らないので下手な事は言えま
せんが、捏造された部分がある様な・・・宇佐と言えば八幡ですが、
ウズヒコと言えばアメノウズメノミコトを連想してしまいますね。
猿田(サダル)もチェックを入れていますが謎の多い八幡神等、
アラハバキのように真相にいたれるか?

機会を見て九州の話題でも提供しようかと思いますが、今年も残り僅か、
2002年が皆様に良い年になりますように。処でいり豆会って何ですか?
場所が決まっていないのならば、アラハバキの聖地の穴場でも紹介しま
しょうか?


来年もよろしく 投稿者:かたばみ  投稿日:12月31日(月)17時08分22秒

今年も残り7時間。
来年もまたよろしくお願いいたします。
次のいり豆会はちょいひねって若狭、琵琶湖あたりなんてのはどうかなあ。

初詣は毎年同じくで神田明神の予定。


re:歴史的正当性 投稿者:かたばみ  投稿日:12月31日(月)17時06分38秒

≫掲示板に投稿するだけでも議論の腰を折るようで

そんなことないです、大勢の方のいろいろな書き込みがきっかけで空想が広がってゆきますし。


≫歴史的事実をまげてその正統性を訴えたわけで

中国の場合、天上界の指示「天命」によって王朝の交代が行われるといった考え方がありますが、新しい支配者には天命を受けるべき人物である正当な理由が必要です。
滅ぼされる者と継承する者の両者に必然性がないと新王朝は単なる簒奪者になってしまうわけですが、うまくやれば新しい支配者にとって都合がよい考え方なのでいろいろ利用され喧伝されたものと思います。
(荀子(性悪説)など法を重んずる思想家はこの考え方を否定しているようです)

中国の場合、多民族国家であるゆえに祖先を祭ることは日本以上に重いと思いますが、多民族ゆえに新王朝にとって系譜はそれほど重要ではなかったと思います。
天命では王朝あるいは王個人の所業の善悪のみが問われるわけです(合理的だと思います)。

殷→周の場合は殷の最後の紂王が悪なので滅び、善なる周王が交代したことにされてる。
実際には紂王は悪ではなかったともいわれますが、悪にする必要があったのでしょう。
勝者が善で敗者が悪になるのは常。

ま、歴史が文字ではっきりと残るようになってからは、あいつは草履取りだったんだと書かれてはいやだなんてことで出自を偽ることはあったかもしれませんけど(^^;
名家であるほうが受けがいいのはどこでも同じだろうなあ。


日本の場合は王朝が連綿とつながっているとするのが基本なので、それが事実かどうかは別にして意識として特殊性がありそうです。
すなわち、まず神話世界の人物を美化(善)する。次いで現在の氏族はそれが祖であるとする。
王はその系譜でなければならない。これが記紀などの系譜の基本だと思います。

スサノオや海幸など敵対関係があっても有力系譜の祖の場合は「改心した」として結局は善に変える。
逆に土蜘蛛といった先住民は伝わる系譜の記録はないでしょうから悪のままで問題ない。
建御名方(とその関連)の扱いが微妙なのは高貴な氏族の後裔だが反逆者でもあるためでしょう。

そして、記紀に書かれなかった伝承を自ら書いたものが各種古伝書だろうと思います(風土記含む)。
ただし、総合的に体系化された古伝書を作るにはAD600頃の大和王朝と同レベルのパワー(情報力、学識)が必要なはずで、AD600以前にそれを持つ集団が存在していた可能性は少ないと考えています。
(体系化されていないばらばらの伝承の継承は別です)

古伝書編纂まではとてもできない場合が、単に善なる祖、優れた祖の後裔だとする系譜の詐称になるのだと思います。
日本の場合では、一国の主になるには個人の所業の善悪ではなく、神話世界に遡れる系譜が必要だった。
これが中国とは異なる部分ではないでしょうか。


日本武尊に名を与えた熊襲は日向天孫の後裔だろうと考えています。
(熊襲は熊本側の瓊々杵後裔や薩摩大隅の隼人族も含めた総称かもしれません)
熊襲の取石鹿文トロシカヤ(川上梟師カワカミタケル)は本家の子孫。
日向天孫からみれば近畿天孫の日本武尊は分家の子孫(文化的にどちらが上位かは別です)。

名を与えて当然であり、日本武尊も相手の出自を知っていたから名を受け取ったのだと思うのです。
(記紀編纂者にその認識があった)
天孫の後裔であっても王朝に刃向かったために賊とされただけ。
もし熊襲が自らの古伝書を残していたらどんな話を書いたかなあ、邪馬壹国のその後、あたりかなあ(^^;



神話時代の名前では「天之」「天津」「日子」「熊野」に注目しています。
名前や出自の政治的意図はおくとして、これらの尊称の使い方は記紀編纂時代に伝わる現実の歴史事実の認識を慎重に表現したものとみています(少なくとも漢字に意味を持たせただろう書紀では)。

天照大神の子とされる五男神は
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳
天之穂日(天之菩卑)
天津日子根
活津日子根
熊野久須毘

「天之」は呉楚七国の乱BC154からの王族級渡来者を祖にもつことを示す(=天孫)。
「日子」はBC2000に遡る海洋系三苗を祖に持つ人々(日子根=太陽の子の祖)=海神族。
(後に日子が一般の尊称に変化して用法があいまいになったものが「彦」と推定)
「天津」は天孫と縁戚関係を持つ海神族(天神に近い地祇、これは微妙なところ(^^;)北九州以外の九州系。
「活津」は天孫と縁戚関係のない海神族(地祇)北九州、日本海系。(活津=壱岐津か?)
「熊野」は重要ですが?、BC2000に遡る内陸系三苗(農耕系≒楚系)を祖に持つ人々としておきます。
 呉楚七国の乱での楚系渡来者が直接の源かもしれません。
春秋戦国の代々の楚王の名には「熊」の文字が使われています。本来は「熊之」だったのかもしれません。


今年は・・・ 投稿者:KENJI  投稿日:12月31日(月)00時59分29秒

今年も残す所、24時間を切りました。
私に取って、今年の大きな成果の一つに「いり豆の会」が有りました。
此れも此方のHPのお陰と、感謝しています。
もう、この日付ですと、鬼も笑わないでしょうから書きますが、
出来れば、来年もその様な機会を、是非作りたいと思っています。

いり豆の会後にも、ココを訪れた方々も居られると思いますが、
其の時は、ご一緒しませんか?

今年同様に、来年も宜しくお願いいたします。m(__)m
風邪など引かず、良い新年をお迎えください。

http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/

↓ 

re:王位簒奪 投稿者:s_tan  投稿日:12月30日(日)00時56分25秒

志水さん、今年もあと少し、21世紀は?ですね。
>この掲示板に投稿するだけでも議論の腰を折るようで緊張します。じっと興味深く読ましていただいています。
#ありがとうございます。ですが、緊張などなさらずにお気軽にどうぞ。。といいながら遅いresで失礼します。暫く古代へ切りかえる時間が取れなかったものですから。

王位簒奪の痕跡ですが、神武以前は見つけられないですが、神武兄弟の話も、喧嘩別れ的ニュアンスが強そうですが王位簒奪ではないとは言い切れない。
神武以降、欠史7代の后妃の出自は、
古事記が、磯城地方ー大物主―物部系
書紀では、葛城地方―事代主―武内宿祢系
と、たかだか20年?程ちがう正史?でもこの様子です。史書に載るのは事実のカケラ。
大陸では、各種制度の基は周(制)にあるといいますが、これは長年続いた殷を簒奪するために周が国を挙げてその理由付けの為の論理を創りあげたから、と言われているようです。
正史というのは表向き納得させられそうな論の書というのが大きな側面でしょう。

おくり名といえば、漢の高祖は庶民の出でその父母のおくり名は、たしか「おじさん、おばさん」に近いものだったとか。。


re:宇佐口伝 投稿者:s_tan  投稿日:12月30日(日)00時55分26秒

宇佐公康氏の本に気になるところがいくつかありました。
「一族の祖が縄文早期にシベリアから南下してきた、猿田族といわれ列島を南下し列島を移動していた。備前辺りを中心として山城から北九州にかけて流浪していた一族を菟狭族という。」
シベリアからの南下は先のTV以降は認知も広まった感じで、山城から兵庫あたりは同一部族がおそらく日本海側と回遊的移動生活をしていたと考えられる出土物が出ているようです。
口伝(宇佐家家伝)では、アマノタネコとか突然史料上にでてくる御友別なども簡明な説明をしてますね。

>神武、
古事記では「1・五瀬命、2・次稲氷命、3・次御毛沼命、4・次若御毛沼命、亦名豊御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命」とあり、上の2人は「故、御毛沼命者、跳浪穗、渡坐于常世国。稲氷命者、爲妣国而、入坐海原也。」とあって、どうなったのか分らない記載。長男は矢の傷で3ヶ月ほど後に大坂・泉南辺りで死亡。

北九州?から瀬戸内のあたりはまだ追ってないですが、河内での五瀬、神武の動きは神社の伝承で繋がります。
主な所では、坐摩(今の大阪城北辺)→楯津 →石切剣箭 →梶無 →恩智 →伴林氏 →男乃宇刀 →男神社、とつながり、河内に入ってからもかなりの部分を舟を使った気配濃厚、といったところです。

>鬼道、
お上と裏取引し儒教が公認となってから、それ以外は巫術・妖術(妖族)・鬼道など「その他ひとまとめ」で色々呼ばれたようです。
呉の孫堅が世に出るきっかけの何万人の巫術者(妖族)の乱(172)続いて黄巾の乱(184)と、2世代前の後漢に制圧された巫術者の乱(101)。
この(AD101)指導者は「許氏」で翌年後漢内で反乱を起す朱氏とつながりがありそう。
黄巾の乱はかの許昌と息子(昭)ですが、乱は鎮圧されたにもかかわらず指導者親子の生死が中国史書には珍しくはっきりしていない。
江南は仏経も取りこみ道教を体系化した地で、超能力者を崇拝する伝統があり、許氏は江南の巫術者を代表する家系。
・・許氏+朱氏(女系)+亡命=ヒミコ。かな、
句麗(高麗)初代・首露と結婚した許黄玉も気になるところです。


読ましていただいています 投稿者:志水 満  投稿日:12月26日(水)22時59分36秒

今年もあと数日となりました。この掲示板に投稿するだけでも議論の腰を折るようで緊張します。じっと興味深く読ましていただいています。
ところで魏の曹操や晋の司馬緯は王位簒奪をしたあと、自分の祖先におくり名をして歴史的事実をまげてその正統性を訴えたわけでこのようなことが日本でも行われていたとおもいます。
神武以降はもちろんあり、それ以前にそういう痕跡があるのでしょうか。


孝の字4代の天皇 投稿者:かたばみ  投稿日:12月25日(火)21時02分45秒

神武本国の奴国(北九州)は綏靖 66-78(淳名川耳)、安寧 78-92が継承し、宇佐(豊前豊後)は八井耳系譜の支配下になったのではないかとみています。
みな出雲系妃の子でもあります。

次の懿徳92-105はまだしも、孝昭105-137以降はどういう系譜なのか・・?
妃も出雲系ではなくなります。
107年に「倭面土王師升」が漢に使者を送っている。倭の体制に変化があったからではないか。

懿徳の妃の出自不明、孝昭の妃は尾張氏の祖の娘ですから濃尾に渡った天火明の後裔の娘だと思います。
魏志倭人伝にいう卑弥呼の前7、80年を男王が支配したとすれば、神武36-66〜孝昭105-137がこれに相当するわけです。

日向は五瀬の後裔が継承したと推定(天火明の日向での後裔)。
五瀬は神武の兄かもしれないけれど、同じく兄弟とされる稲飯や三毛野は親類だが兄弟ではないと推定。
孝霊175-204、孝元204-225、開化225-248には「倭根子」の尊称があります。
しかし、神武〜孝安137-175では「倭根子」の尊称がありません。
「倭根子」とは倭を祖先とする子の意でこの尊称には意味があるとみます。

寒冷化と倭国争乱のなかで北九州の神武系譜は分裂弱小化し、懿徳以降その権威も瓦解していった。
しかし温暖な日向宮崎の天孫系譜は実力を保持していたのではなかろうか。
弱体化した北九州の神武系譜を引き継いだのが日向系譜の孝霊・・その背後に九州物部氏の台頭。

ただし卑弥呼が「女王」となって(物部氏の縁戚の可能性少なからず(^^;)。
王が王としての実力を保てなくなった時代、それが孝の文字のつく天皇。
孝霊175-204から尊称に倭根子がつきます。日向系譜にバトンタッチしたのではないか。
新羅本紀で卑弥呼の使者が書かれるのも173年です。新羅に挨拶していることが重要。

神武系譜は事実上消滅し代わって日向系譜が登場した、その認識が「倭根子」の名ではなかろうか。
その混乱の九州から独立して近畿に殴り込んだのが日向天孫の開化225-248だった(^^;

記紀の系譜は、天孫降臨〜ヒコホホデミや鵜草葺不合など南九州のあいまい系譜〜神武系譜〜倭国争乱中の北九州のあいまい系譜(孝の字の天皇)〜開化につながる日向系譜を「整理整頓」して記述したもの・・

なお、鹿児島の奴国(神武の最初の建国地)は神武の隼人系妃の子手研耳が継承したが、淳名川耳に謀殺されて以降は北九州から離反して独立状態になっていったと推定(後に邪馬壹国に属さない狗奴国となる)。
これらは熊本以南と宮崎大淀川流域から出土する弥生後期の免田式土器のありようがキーワードとみています。
(なぜか大隅半島からは出土していません)

大隅半島串間から発見された穀璧の所有者は・・(8章穀璧と支石墓)
後の熊襲は日本武尊に名を与えた。名を与えるなどは上位の者が下位の者に行う行為。
ただものではない熊襲とも関連しそうです。

↓ 

re:宇佐家口伝と神武 投稿者:かたばみ  投稿日:12月25日(火)21時00分49秒

≫神日本磐余彦天皇 諱彦火々出見 彦ナギサタケウガヤフキアエズ尊第四子也・・」と、

天孫降臨から神武に至る過程の伝承のあいまいさ、あるいは混乱によるのではないかと思ってます。
ヒコホホデミが九州の東と西、あるいは山と海の民を「統合」した存在であるのは海幸山幸伝承からたぶん間違いないと思います(ただしひとりの人物ではないかもしれない)。

ここに神武の本来の伝承の痕跡がみえるような気がしています。
神武はもう一段スケールをあげて九州を「統合」した人物。
統合という事象をもとに伝承や名が交錯した結果ではないか、というわけです。
(ただし近畿まで統合はしていない、念のため(^^;)


≫宇佐家の口伝の様に、初期の頃の大王は、宮島に葬られているのでしょうか

宇佐家口伝は神武の本来を知りうる伝承のひとつではないかと思っています。
神武の宇佐への侵略に対抗して戦っていた宇佐族を珍彦ウズヒコが仲立ちして、神武屯田兵による宇佐への進駐という形で戦を収めた・・とありますね。

宇佐族が敗れたことに変わりはないですが、「駐留する神武軍」の食料は神武自ら農耕地の開拓を行ってまかない宇佐の人々からの徴用にはよらない、という若干の益を得ているわけです。
これは大国主が国譲りするとき大きな社殿を建造してやった、という話にも類似の「和平協定」にみえます。

宇佐津姫が神武の家臣のアマノタネコと結婚したという公式記録は、宇佐家口伝のように敗れた宇佐族が娘を神武に差し出した、というのが本来だとみています。
その後に神武の家臣に下げ渡しになった(^^; その家臣が天兒屋根の孫のアマノタネコ。

孫というのは年代的に?ですが曾孫でも曾曾孫でも大差ないでしょう。
もうひとつのそっくりのシチュエーションが、事代主の娘の五十鈴姫(おそらくは日向の五十鈴川付近)が神武の妃になったこと。
五十鈴姫の場合は出雲本家筋の出自のためにこちらが「皇后」となっただけの違いではなかろうか。

宇佐の出雲縄文祭祀と天孫の楚系祭祀がドッキングするわけですが、これは卑弥呼につながる祭祀とは若干異なる別流とみています。
卑弥呼系は日向系、ないし阿蘇≒アマテラス族の祭祀+天孫系祭祀と推定。


厳島神社の誕生が宇佐津姫を葬ったことを縁起にする可能性は高いんじゃないかなあ。
自説の流れでゆけば神武は近畿には東征していない。
記紀における神武は家臣に戦勝の褒美を与えただけで他にはなにもしていない。

まさに武ではじまって武で終わったのではなかろうか。
安芸の宮島あたりも戦場となったかもしれないけれど制圧まではゆかずに、妥当な線で出雲族と停戦が成立したとみています。九州統一のみです。

大国主は神武と協定を結んで停戦したが、建御名方は納得せずに周防灘あたりで徹底抗戦、ついに敗れて捕らわれたかあるいは逃げて諏訪へ・・BC50頃。諏訪の地名は周防を建御名方が運んだもの。
これが「国譲り」伝承の実体と考えています(そして神話世界の話に移された)。

出雲族の方が宇佐族より格上ではないかなあ。神武が宇佐津姫と同じ場所に葬られた可能性は低いとみます。
共に葬られたとすればやはり実際の旦那であった人物ではなかろうか。
具体的な名にはアマノタネコしかみえませんが祭祀者系譜である可能性が高いんじゃなかろうか。

では神武の墓はどこにあるのか・・今のところ手がかりゼロですが春日市の須玖岡本遺跡の奴国王墓がそれではないかと思ってます。


re:卑弥呼の鬼道 投稿者:かたばみ  投稿日:12月25日(火)20時58分14秒

≫鬼の道等、劣悪な文化の様に記述している所を見ると

1986、87年に長江中流域洞庭湖の北にある荊門市チンメンで楚の鬼神信仰を詳細に記した簡帛資料が発見されています(簡帛:カンパク、竹簡や木簡に書かれた古文書)。
卑弥呼の鬼道とはそれに記された鬼神信仰と同じと考えています。

(以下、日中文化研究10/勉誠社より)
漢書地理志では楚の信仰について「巫鬼とは巫者が鬼神を祭祷して福を請うなどの方術」とあります。
戦国時代末期の秦の文書にも類似の記録があり、淫ら、楽しみにふける、不従順といった意味の言葉が使われていて、黄河系の文化圏からは邪教のごとくみられていたようです。
(北の儒教と南の道教の対立と同列にある見解だろうと思います)

以下鬼神信仰に関する抜粋
「鬼神とは死亡した人間の霊のこと」
「鬼キ=帰キであり、夭折したり横死した人が鬼となって家に帰ってくる・・」
「巫者は鬼神につかえ祷解して以て治病請福する者なり」
「鬼のいやがる行為は民が身をかがめて臥し、両足を箕状に前に開いて座る・・1本足で立つ・・髪を解く・・」
「鬼は生人には見ることができないが、それをみることができるのが巫者で・・」
「巫者は鬼の正体を暴くのに、鬼を日月の光に照らしたり、鏡に写したり・・」
などなど

鬼を暴くのに鏡を使う・・卑弥呼が鏡を求めたのはこれが理由ではなかろうか。
飢饉と倭国争乱で怨念を持つ死者が増えた時代だと思います。
平安時代の怨霊信仰もこの鬼神信仰に原点があると考えています(平安の道教と合体したのが陰陽道だと思う)。


楚は洞庭湖周辺を中心にする国で戦国時代(呉越楚、BC400〜220頃)では東シナ海沿岸域も領土にした最強国家だった。
BC3000頃の良渚や屈家嶺などの古代文化(三苗文化)が新規復活したのが楚文化で、呉越を含む長江流域と東シナ海沿岸域〜山東半島に影響をあたえています。

糸島の三雲王墓出土の桃氏青銅剣は湖南省(洞庭湖の南側)で作られた剣です(9章武器参照)。
朝鮮半島西南岸や九州に楚文化が及んでいないほうがおかしいと思うのです。
洞庭湖のBC1400頃の遺跡からは銅鐸埋納と類似状態で山麓に埋められた青銅器が出土しています。
銅鐸埋納もまた山東半島の斉文化を介して楚文化の影響を受けたものと推定。


天孫降臨の天之忍穂耳は呉楚七国の乱(BC154)の呉地域からの脱出者とみています。
同行の祭祀者天兒屋根や天鈿女も楚文化の影響下にあった→天鈿女の官能的なダンス(^^;
その祭祀が卑弥呼にも継承されているのではないか。

漢の武帝(BC141-87)は長江南域の越を制圧してその住民を江蘇省に強制移住させています。
この時代にその人々が少なからず避難民として九州に渡来したと考えています。
骨のDNA分析でも九州側人骨との一致がみえるようです。
鏡を大量に副葬する風習を持つのは越のみ。日本でのそれもこの影響を受けたものと思います。


卑弥呼時代でも少なくとも西南九州では長江系文化の流入が継続していたでしょう。
(魏呉蜀の三国時代、呉蜀≒春秋戦国時代での呉楚)
黄河系文化圏の魏の人間がその文化に接すればやはり「異端」に感じたと思います。

しかし、魏に親なる国を九州に得られるなら呉に対抗するのに好都合。
卑弥呼の求めに応じて鏡を送り、軍師(軍事顧問)の派遣もおこなった。
その見聞を記したものが三国志魏志倭人伝というわけです。

(魏に接近する卑弥呼に反発する人々もいた。呉の出自を意識する邪馬壹国の男王・・(^^;)


宇佐神宮家口伝 投稿者:KENJI  投稿日:12月22日(土)20時19分49秒

宇佐神宮家の口伝によりますと、東征の大王が宇佐津姫を連れて、東征の途中、
安芸の国で亡くなり、安芸の宮島の弥山に葬られたそうです。
宇佐津姫も、其の後亡くなり、同じ場所に葬られたそうです。

宇佐津彦・宇佐津姫は夫婦の様な関係より、卑弥呼と其の弟の関係=シャーマンと後の神主?
的な関係では無かったかと想像しています。
卑弥呼と男弟の形が継承されたのかも。(宇佐神宮=邪馬台国説の場合。私はこの説です。)

鬼道は、三国の呉の国に其の源流が有ると言うのを、読んだ記憶が有ります。(出典不明)
呉の国の年号「赤烏」が書かれた鏡が、確か二面(山梨県と兵庫県)出土していますので、
呉の国との交流が有ったのは確かでしょう。

文字ですが、卑弥呼の其々の文字を如何こう言うより、発音を重要視したいと思います。
卑弥呼=日神子(日皇子・日巫女・姫子・等など)と考えても良いかと思います。
固有名詞に文字を当てたので、日本の後の時代に当てた文字と、魏志倭人伝の時代に
魏の国が当てた文字が違うのは当然かと思います。
日本では、文字の意味も考えてでしょうが、魏の国は、「音」だけを合わせて書いたと
考えた方が良いかも。(逆に、自分の国を良く表示させる為に、意識的に、卑下した文字を
使用した事は有るかもしれません。)


宇佐家の口伝? 投稿者:D.K  投稿日:12月22日(土)12時01分16秒

KENJIさん、始めまして。

宮島は幾つか在る様ですが、どの宮島でしょうか?
宇佐神宮の神功皇后は魏志倭人伝絡みの記述から、
卑弥呼ではないかと言われていますね。因みに倭人伝、
日巫女や日御子、日皇子、日神子ならわかるのですが、
卑しく呼ばれる、鬼の道等、劣悪な文化の様に記述して
いる所を見ると実際には優れた文化であったかのか、
それとも中国との政治・文化的な問題が在ったのか、
倭人伝事態が何処まで正しいのか何とも解りにくい
ところが在りますね。


ヒコホホデミ 投稿者:KENJI  投稿日:12月22日(土)02時31分30秒

日本書紀に依りますと、神武天皇の最初に、
「神日本磐余彦天皇 諱彦火々出見 彦ナギサタケウガヤフキアエズ尊第四子也・・」と、
書かれていますね。
諱(イミナ)は、実名と解釈しますと、祖父の名前と同じ名前が神武天皇の名前と成ります。
後の時代の記述との意見も有りますが、この辺は、如何なのでしょうか?
又、東征の初期の頃の大王は神武では無い筈なのに、(兄の死後に大王に成ったのだから。)
神武の様に書かれているのも、面白いですね。
宇佐家の口伝の様に、初期の頃の大王は、宮島に葬られているのでしょうか。
そう言えば、宮島には古代文字らしき物が岩に彫られていると聞いた事が有ります。
脈絡の無い事ばかりで済みません。(^^ゞ

↓ 

この掲示板は親切ですね 投稿者:D.K  投稿日:12月22日(土)00時47分41秒

九州の歴史は色々な人に聞いても良く解らない所ですね。
どちらにせよ現状の歴史観もはっきりと断定できないの
ならば、皆で推理を楽しんでも良い気もするんですが。
解らないのに知った振りをするよりも楽しいですよね。

因みに個人的には崇神=応神天皇ではないかと推理して
いますが神武=崇神説もあり、この辺りの歴史は文献の
裏読みの方が深層に近着けるのか?古代縄文の在り方、
アラハバキの調査などである程度見えてきていますが、
高根山が日本最大規模の古墳であると立証されれば
それを足掛かりに現代に有益な説が展開出来る物と・・・

現代の歴史観では猿の惑星の様な進化論が横行して
いますが、遥か悠久の歴史が存在するのかも。
”証拠は揃った!”なんてコナンみたいに言って
みたいんですが、いけるかな?

http://members.tripod.co.jp/dreagon/takane.htm


re:ヒコホホデミ 投稿者:かたばみ  投稿日:12月22日(土)00時03分23秒

≫ホホデミノミコトが良く解らないのですが

ほんとに九州は外来者の出入りが激しいから、1年で様相が変わることもあったかもしれない。
ある物証が「ある状況」の存在を示すならば、その状況が変わった物証が発見されないかぎり物証のある状況がずっと継続していたとするしかない。
これが現在の弥生や古墳時代の「歴史」だと思います。

彦火々出見は古代探訪の11章の天孫降臨で書いていますがそれ以上のことはいまのところ??
伝説のいろいろは九州に散在すると思いますが、歴史上の事実とどれだけつながるのかなあ。
ほとんどは空想と推定によるほかはないのかも(物証にはならない(^^;)。

個人の情報が歴史として扱えるようになるのはいつごろからかなあ。
雄略456-479でさえあぶなそうだし。

記紀では彦火々出見は瓊々杵の子とされていますが、私はBC100〜BC50頃の九州日向の天火明の子と西岸の八代海あたりの瓊々杵(天津日子系海神族)の子に大隅薩摩半島の隼人系の人物が加わって彦火々出見という人物(伝承)が作りだされているとみています。
ちなみに天火明の伊勢、濃尾での子が天香語山、尾張氏族の祖。こちらの系譜の方がシンプルで事実に近いのかも。

先代旧事本紀の彦火々出見は記紀とほとんど同じですね。
ホツマでの彦火々出見は25,26綾あたり。
ウエツフミでは14綴あたり(火遠理)ですが、こちらは他と趣が違って、猿田彦なども登場して興味深いです。


英彦山神社の御祭神は天之忍穂耳(瓊々杵ないし天火明の父)ですから日子山であるのは妥当そうです。
(ただし、これらの概念は早くとも神武時代、名称としては古墳時代以降だろうと推定)

英彦山を発達させたのは神武(奴国建国者)じゃないかと考えています(^^;
古出雲を豊前豊後から追い出して(国譲り)九州統一を果たしたとき、先住者の祭祀をまとめられる霊山が必要になった。
完全な武力制圧(抹殺)でないならばなんらかの政治的祭祀的妥協(懐柔)は必須と思います。
英彦山、宗像、宇佐・・・古出雲祭祀を尊重しながら神武は自らの祭祀を行った。
むろん、記紀にそういう話は登場しません。書くと神武の実体がばれてしまうから・・かも(^^;

崇神の場合は大神神社など「先住者の神」を祀ったことをしっかり書いています。
これは神武が東征したのではないことの傍証になるのではなかろうか。


(無題) 投稿者:D.K  投稿日:12月21日(金)01時52分43秒

彦火火出見、彦は日子だったんですね。英彦山ももとは日子山だったそうで、
太陽の子、王者としての尊称でしょうか。ホホデミの古墳もあるそうですが、
高千穂王朝の王だったと言う説もあり、南九州も興味深いエリアですね。
漢字文化導入以前の名称ならば火火出見も当て字の可能性も在りますが、
神話を創る時に山、海、様々な物を取り込む形でいったのでしょうね。


re:ホホデミ 投稿者:s_tan  投稿日:12月21日(金)00時26分00秒

>九州は中々難しいところですね。

#入口・出口の場所セイで、入れかわりが激しいところですね。事象の年代をおさえないと。。ですがなかなか入代りの時が特定できないですね、史書も伝承も新旧かぶっているようで、考古学も50年100年単位で、それもずれたりしますから、実に難しい。コナンでもちょっと難しそうです、とりあえず現時点で断定、ということが必要ですね ^^。

ホホデミ、詳しくはないですが一般的なことを。
火火からやはり火山でしょうか、穂穂だと稲ですね。火山も稲も生成の根源としてとらえたのでしょう。子供は穂の家と水ですね、基本的生活物資はこれで大体揃う、といったところでしょうか。

ホホデミ、瓊瓊杵尊と木花開姫の子、兄が海幸彦、本人は山幸彦。
彦火火出見尊、日子穂穂手見命(書紀)。豊玉姫との間の子が鵜葺草葺不合尊となってます。


ワーム、 投稿者:s_tan  投稿日:12月21日(金)00時11分30秒

まだ、蔓延中のようです、W32.Badtrans.B@mm、40kb程

発信元が分ったメールには、連絡さし上げましたが。

?Eguchi Hiroko さん、?Aya さん、?Manabu Ueno さん、?Yukie Kadoyama さん、PCを点検してください。もし心辺りある方は連絡してあげてください。


※ IEのパッチが発表されてます。(12/14付)下記。

> http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/computer/ie_outlook/

> http://www.microsoft.com/japan/technet/security/frame_prekb.asp?sec_cd=MS01-058


re:物部二十五部 投稿者:s_tan  投稿日:12月21日(金)00時10分19秒


>吉川弘文館の国史大系7(伊勢神宮文庫所蔵が底本)のその頁のスキャンは下記です(期間限定)。

#お手数かけました。downしました。


処で 投稿者:D.K  投稿日:12月20日(木)00時53分29秒

ホホデミノミコトが良く解らないのですが、
詳しい方、いらっしゃいませんか?


有難う! 投稿者:D.K  投稿日:12月15日(土)00時57分17秒

九州は中々難しいところですね。熊襲や土蜘蛛等の復権が出来たら良いんですが、
蝦夷の神、アラハバキの調査は何とか出来ているのでヒイキだなんて言われると
厳しいです。金も無いし・・・

ホホデミの実態等、良くわかりませんが、八幡は伊勢の様に色々と転々として、
現在の宇佐に行き着いたようですね。神宮皇后が卑弥呼ではと言う説もあり、
磐井の乱辺りにネックが有りそうな気もしますが仏教導入の神とされる八幡神、
私の頭で解読できるか?漫画喫茶に通って名探偵コナンを読み漁らないとダメ
かも知れませんね。

↓ 

re:物部、25部 投稿者:かたばみ  投稿日:12月14日(金)23時04分16秒

日本列島の場合は地形が細長いから海運は特に便利で、天孫と出雲が共存していたBC100〜AD100あたりに海運の大発達と組織化がはじまったんじゃないかなあ。
この頃に「物部氏族」の種も全国にまかれた。いつどういう芽を出すかは別にして。

ちなみにNHKの日本人はるかな旅の最終回はペケのペケ(^^;
単独情報を羅列しただけで時代もばらばら、脈絡のない構成。
おまけに大和に各地の人々が集まって仲良く・・なんて、いかにも近畿ヤマタイ国誕生みたいな結末では・・

≫#あと20氏、載ってますか、ありましたらお願いします

旧事紀登場の物部氏は神奈備さんのところに一覧があります。
吉川弘文館の国史大系7(伊勢神宮文庫所蔵が底本)のその頁のスキャンは下記です(期間限定)。
1頁 2頁 3頁 4頁 5頁

底本によって一部の文字が異なるようです。
武虎さんが紹介されていたと思いますが、日本語訳?のは先代旧事本紀訓注/批評社だけなのかな。


旧事本紀が記紀と同列にある古伝書であるなら・・
天孫降臨には瓊々杵と天火明の2系列があった可能性が高くなる(11章ふたつの降臨参照(^^;)。

旧事本紀では饒速日の別名が「膽杵磯丹杵穂タキイソニキホ」で、瓊々杵の名となんとなく雰囲気が似ているとみえなくもない(^^;
瓊々杵が九州西岸の海神族へ降臨(養子)した人物であり、その後裔が九州系の海運者であるなら・・

日向へ降臨した天火明は後に伊勢濃尾へ進出。
天火明→彦火々出見→五瀬→神武に至る日向系譜と瓊々杵→鵜草葺不合→神武の速日系譜?が合体されて神武系=九州系譜となり、記紀ではそれのみが記された。

伊勢濃尾へ進出した天火明後裔は九州系海運者(瓊々杵後裔を含む)と融合し、旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日がその祖として記された。
この系譜の海運者は瓊々杵の後裔という他の海運者とは異なる意識をもっていたかもしれません。

彦天火明(櫛玉饒速日)と天道日女(アマノミチヒメ)の子が天香語山、その名から嫁さんは天孫一族でしょう。その子も天孫で名に「天」を冠して尾張氏族の祖となる。
(彦天火明)櫛玉饒速日と地元(奈良あたり)の「ナガスネヒコ」の娘の御炊屋姫ミカシマヤヒメの子が宇麿志麻治。
饒速日(海運者)が瓊々杵の血を引くとしてもその子の名に「天」はつかず、物部氏の祖として記される。
饒速日伝承の実体は瓊々杵の海人族(九州海運者)への降臨と、天火明の日向降臨と伊勢濃尾への進出(九州系海運者の協力)にあり。

櫛玉饒速日の櫛玉とは地祇の流れにある系譜に冠する尊称ではないかと考えています。
出雲熊野大社のクシミケヌ神のクシや大神神社の大物主櫛甕玉命(櫛甕魂)も同じ。
対しては日子(彦)は天神の流れにある系譜。
大国主以降の出雲族にも彦ないし日子がみえますが、これは天孫系譜(出雲臣族含む)との婚姻で生じたものと推定。


旧事本紀に記される宇麿志麻治の三世孫が「孝照天皇」の大臣であることを信ずるなら、現実の饒速日はその100年ほど前の人物となります。AD50頃。
旧事本紀では孝安をはさんで「孝照天皇」が二度登場します。
倭国争乱で孝昭105-137〜孝霊175-204ころの伝承が混乱しているのかもしれません。
(ウエツフミでは「この頃」に飢饉の話が重ねてでてきます)

AD50ならば神武36-66にぴたり一致(^^;
神武が饒速日の噂を聞いた、という事象そのものは正しい可能性もありそう。
前出の「膽杵磯丹杵穂」なる人物が噂の張本人で、神武時代に豊前や豊後の古出雲と交易をしていたのかも。
(8章饒速日の祖先参照(^^;)
ウエツフミを信ずるならナガスネヒコと斯羅人とは交流がある(斯羅とは伽耶のことと推定)。
ナガスネヒコもまた宗像〜宇佐あたりで朝鮮半島と交易していた人物か。



re:お久しぶりです 投稿者:かたばみ  投稿日:12月14日(金)23時00分13秒

≫今度、九州に行こうかなと思っているのですが、九州方面の古代史情報が

九州は高千穂の渓谷と桜島に記憶がある程度(^^;
伊勢あたりから紀州を回って土佐、日向、種子島とフェリー乗り継ぎの海の旅をしたいと思ってます。

南九州ならこちらにも書き込まれたことのあるnickさんのHPなどが参考になるかもです。
梅原猛氏の「天皇家のふるさと日向をゆく」/新潮社なども参考になりそう。

九州の八幡神は興味深い。
応神と隼人族の抗争の実体がわかれば九州の古墳時代の様相のてがかりになりそうです。

宮崎県西臼杵群高千穂町岩戸の天岩戸神社近くの粉砕されて捨てられた蓋岩にあったという古代文字の碑文の事実関係が知りたいです(^^;


物部、25部 投稿者:s_tan  投稿日:12月12日(水)23時17分07秒

物部は、その広がりに比して氏族というか血族としての求心性とかドロドロしたものが感じられない。
史上(列島)にいきなりそれも軍制らしき組織を伴って大量にあらわれた、とするといろいろ納得できることが多いような気がするのですね、読んだり聞いたりしていると。

物部25部は、徐々に各地に広がったのではなくある程度一斉同時に各地に赴いた。この裏づけがとれないかと、考えてます。
5部、25部、とくると周というか周官、となりますが、後の50を単位とするのもひっかかってます。
まあ書の編纂段階で遠くに倣ったのか、その制が実体ごときたのか断定はできないでしょうが。。

>二田物部、当麻物部、久米物部、布都留物部、讃岐三野物部などなどで、地名を姓に使っているとみえます。
#あと20氏、載ってますか、ありましたらお願いします。


re;お久しぶりです 投稿者:s_tan  投稿日:12月12日(水)23時16分06秒

今度は九州ですかいいですね、できたら2、3週間かけて行ってみたいものです。なにか面白い情報ありましたら、ご教授ください。
九州は北の香椎宮あたりの有名どころ神社を廻っただけで地理不案内であまり詳しくないので。。どなたか。。
川上さんの連載に結構詳しいと思いますが。


re: 全く 投稿者:s_tan  投稿日:12月12日(水)23時14分48秒

まったく。。困ったものですね、おかげでメールを開く頻度が減っています。
W32.Badtrans.B@mm、は感染者のPCに症状が出ない(判り難い)から、なかなか止らないのでしょうね。WEB訪問履歴など記録するそうで怖いものがありますが。。


また、連絡です。心当りありましたらPCを点検してください。

?Masaya-さん、?Michikoー さん、?eri さん、?Katsu・* さん、


お久しぶりです 投稿者:D.K  投稿日:12月12日(水)00時06分59秒

今度、九州に行こうかなと思っているのですが、九州方面の古代史情報が
思うように集まりません。ホホデミノミコトや猿田彦、八幡神等に関して
詳細情報等をご存知の方、お教え頂けない物でしょうか?

因みに以前お話した洩矢の神、ミサクチ神は諏訪から水窪(双方イサクが
入っていますね)で祭られるようになった様なのですが、アラハバキと
共に諏訪で祭られていた痕跡などは此処を探れば見つかると思います。


re:25物部 投稿者:かたばみ  投稿日:12月09日(日)23時38分29秒


≫どなたか、25物部を追った資料などご存じないですか

旧事紀にでてくる25物部以外には知らないけど・・若干の自己流を。

旧事紀の降臨時の随伴者にはまず天神グループがあって、次にその補佐らしき5氏があり、その中に物部造の祖と筑紫弦田物部の祖が含まれています(他は物部ではない)。

次に天物部として5氏(5部)登場。二田造、坂戸造など名はすべて「造」です。
おそらくはオサ相当でしょう。

次に25氏(25部)あって、兵杖を帯びるとあるので戦闘部隊の指揮官といったところか。
二田物部、当麻物部、久米物部、布都留物部、讃岐三野物部などなどで、地名を姓に使っているとみえます。

次に船長、梶取(舵取?)うんぬんとあるのが配下の船員たちだろうな(兵士も兼ねるか)。
船長が跡部首等の祖、梶取りが阿刀造祖、つづいて倭鍛師、笠縫などの祖が続きます。
(後の製鉄集団やサンカあるいは水軍との関連をひしひしと感じます)
このグループは職種を姓に使っているようにみえます。
末端の一般工人集団を総じてここに含めているのだと思います。

天神補佐の随伴者の物部が「物部造」と「筑紫弦田物部」のふたつに分けて書いているのが興味深い。
物部といっても生産系とそうでない系譜の2流の意識があったためではなかろうか。
また、25部より先に書かれている5部がすべて「造」であることから軍人は生産者の下位にあるという意識がうかがえます。
旧事紀に農耕系が登場しないのはある時期以降の物部氏の状況をベースに記述しているためだと考えています。

旧事紀の序文に蘇我馬子や聖徳太子が編纂者として登場しますが、物部系譜の人々が編纂したのなら恨み骨髄の人物を書くはずがない。
しかし、旧事紀が王朝サイド主導による物部氏への鎮魂歌として編纂されたのなら、納得できます。
怨念を封じるために寺を建立するのと同じです。

消えてしまった濃尾天孫(天火明後裔)や出雲の事象に物部の祖として架空の饒速日を重ねて書いた・・ならば編纂者が聖徳太子であってもおかしくない(^^;
後の記紀も一部これに連動、神武東征と物部東遷は表裏一体の説話になっているわけです。
旧事紀は記紀と同列にある古伝書なのではなかろうか。

↓ 

re:物部 投稿者:かたばみ  投稿日:12月09日(日)23時36分45秒

物部氏が有力氏族として台頭するのが崇神の奈良入城あたりからではないかなあ。
物部的相関図参照
(実験的にpng形式の画像を使っています。古いブラウザだと表示できません(^^;)

だとすれば、出雲配下だった海運者も崇神以降では「物部氏族」の支配下になったでしょうから、ナガスネヒコや蝦夷の場合の物部との関係の解釈はちとめんどうになりそうです。

物部の前身が海運者であれば星と太陽を信仰していておかしくない。
日下といった地名も納得できます。ナガスネヒコが東北に逃げて日の本になるのもありえる。
(崇神入城時に多数の出雲系が東国へ脱出したと思う)

白鳥伝説の谷川健一氏は物部東遷論のようですが、そのなかに日下と草香はもともと「ヒノモトノクサカ」という表現があって飛鳥=明日香のごとく双方が同義になったのでは、といってますね。
太田亮氏の物部東遷論は、豊後の直入郡(阿蘇の東麓)から大分〜四国北岸〜近畿というルート。
自説の出雲発達の過程と一致(^^;

鹿島神宮など「鹿島」の地名は各地にありますが、肥前風土記杵島郡のカシシマ{爿羊+哥弋}カシ=船をつなぐ杭、の島の地名由来がずばりだろうと思います。
「鹿島立ち」の表現も旅=船着き場から出発の意となってぴったり。
常陸国風土記では鹿島神宮は孝徳645-654時代に下総、海上(ウナカミ、東京湾岸)、那珂の神を天大神社,坂戸社,沼尾社として合わせたものを由来としています。
「坂戸」は25物部とつながるのかもしれません。


≫漢字が広まる(?)前に広まっていた呉音

弥生後期の記録が魏志倭人伝しかないだけのことで、九州が呉越地域との交易をしない方がおかしいと思う。
中国人が異国の地名や人名に接してそれを文字に写すとき、その人物が漢音系か呉音系かで文字が違ってくるはずです。
奴国の奴→呉音ならヌ、漢音ならド。
那→呉音ナ、漢音ダ・・奴と那、どっちの文字も同じ発音を表していそうですが、ナと読むのかダと読むのかは判断できず。
それを漢音なり呉音なりで適当に読んでしまうとまずいことになる。

AD107年には倭国王師升が後漢に朝貢。
倭国王師升とはだれか、これに関する論が少ないようにみえます。
自説なら単純明快(^^; 孝昭105-137の着任挨拶。これまでと若干体制が変化したための挨拶と推定。

新羅本紀ではAD173に卑弥呼の使者が新羅を来訪とあります(自説では孝安137-175年間)。
なにかの間違いだろうの一言で無視されてるようですが、卑弥呼が即位?した挨拶ならぴったりの時期です。
このころの新羅本紀における倭の記述は貴重だと思います。

≫どうも呉の水軍が気になるところです

春秋戦国の呉越ではなくて魏呉蜀の徐福探索で夷州には到達したが亶州にはゆけずに難破したという孫権艦隊ですね。
孫権艦隊は東シナ海沿岸を北上して朝鮮半島南岸から日本へ向かった、と推定すればここでの夷州は朝鮮半島西南岸〜九州西岸と推定。
自説では亶州の亶は高床式倉庫の意とみて九州南端〜西南諸島とみています。

徐福探索だけで大艦隊を送るとはちと考えにくい。魏に対抗して九州西南岸に拠点を作ろうとした可能性はあると思います。
しかし、夷州に達するのがせいいっぱいで亶州へむかった艦隊は難破して帰ってこなかった。

若干名が救出されたとして、南九州になにがしかの影響を与えたかもしれないけれど・・
呉→天孫の出自→神武→神武軍の主力隼人族→狗奴国→魏に朝貢した卑弥呼と喧嘩(^^;
孫権艦隊は置くとして、呉とのつながりを深めようとする九州西南岸の勢力があって不思議なし。

前漢、後漢鏡はたくさんでているけれど、呉鏡は山梨と兵庫から2枚でているだけで少ない。
倭国争乱と寒冷化で鏡どころではなくなっていたんじゃないかな。
しかし崇神以降は状況が変わる。

少なくとも卑弥呼は魏と親密だった。
三角縁神獣鏡は呉鏡をモデルにした国内産の説に賛成です(三角縁神獣鏡を魏鏡とみる中国側研究者はいないようです)。
崇神が魏鏡を使わずに呉の鏡をモデルにしたとすると・・

開化は東遷ではなく邪馬壹国から独立した可能性が高い(ただし平和的に)。
男王を認めない邪馬壹国のもとを飛び出したか、あるいは親にするのを魏か呉かで意見が対立した。
開化=稚日本根子彦大日日の「稚」は新生日本の意。
鏡の年号を間違えるようだから当初の近畿ヤマトの情報能力はたいしたことないか、粗製乱造だったのでしょう(^^;
その背後には海運者から豪族へランクアップしてゆく物部氏族。

ま、いろいろ空想が広がる部分であります。
(少し前のコメントで「邪馬臺国と物部氏」と書いてしまった、「邪馬壹国と物部氏」に訂正(^^;)


全く・・・ 投稿者:KENJI  投稿日:12月09日(日)17時48分15秒

今回のウィルス、全く衰えませんね。未だに来ます。
対策のHPアドレスを書いて置きます。参考にしてください。
http://vbc.trendmicro.co.jp/vbc/vinfo/badtrans/index.asp


注意(再)ワーム 投稿者:s_tan  投稿日:12月06日(木)21時29分54秒

まだ、蔓延中のようです、W32.Badtrans.B@mm、40kb程

発信元が分ったメールには、連絡さし上げましたが。

?shigeyukiさん、?eri さん、?kokoro さん、?J・* さん、心当りありましたらPCを点検してください。