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空海とスズラン 投稿者:かたばみ  投稿日: 6月15日(土)20時34分16秒

≫私は空海の帰朝後洛京までの数年間の足どりを追っています

玄賓は法相宗の高僧くらいしか知りませんが、能楽の三輪に登場してその内容が神仏習合のはじまりのようみえますね。
これは玄賓がその考え方をすでに持っていたことを示すのだろうか??
江戸府内にあった神社の別当を調べてみると9割が密教系で、それを高野山系、紀州根来寺系、比叡山系、熊野修験系が四等分しているようにみえます。


スズランを調べていたら山菜の「行者ニンニク」にであいました。
修行者が体力増強に食べたのでその名があるようですが、スズランによくにているので要注意とあります。
植えてみたらきれいな花が咲いて食べられなかったのが広まった、なんてことは・・ないか(^^;

かたばみ


なしょなる 投稿者:アスベル生きていたか  投稿日: 6月12日(水)20時42分22秒

こんにちは。色々とレスいただいて感謝です。
なかなか定期的に見ていないので、きちんと調べることもなく、感覚的に書いてしまうのですが、神功皇后関連は面白いですよね。証明云々となると、主観絡みでむつかしいのですが。

なしょなる関連については、私はサッカーファンなのですが、御承知の通りこちらも短絡なナショナリズムと結びつけて語られることも多く。。

さびしいなあと思いますね。
個人的にはインターナショナリズムだと思ってるんですけど。
韓国−米国戦も、盛り上げの「材料」として五輪のスケートの話使いますけど、試合が終わったら選手同士で健闘をたたえ合う。そういう「清々しい殴り合い」みたいなのが好きですね(^_^

一方の古代史は。。図らずもこのエリアに首を突っ込んで、一般的には認められないか書物に肩入れしてますけど(苦笑)、これもさびしいトコロ、ありますね。記紀の見直しすらあまり進展していない(と思われる)現状で、こういったものが「普通」に評価される道筋ってあるのかなあと、ぼんやり考えております。

あ、あと「レスでぇーす」は同行者の代筆なのでした(汗)。
こちらも困ったもんです。それではまた。

http://www.hoops.ne.jp/simasiba/


re:拝見しました。 投稿者:s_tan  投稿日: 6月11日(火)22時43分02秒

>今のロックやヘビメタ等の需要とはズレテしまっている事が、今回音質を聞き比べてよくわかりました。
#実にそうですね。どうも耳障りに聞こえます、最近の音。コンピューターの電子音が原因かもしれません。いまだに電話の電子音に馴染めずいます。
クラシックなどBGM、的に聞かれるのなら天井に穴をあけてSPユニットを埋め込むのがいいかも知れません。壁の状況によっては壁に埋め込む、というのも良さそうです。

>、自分で再生できる技術を持った方がうらやましいです。
#いえいえ、今回は技術というより根気でした、ゴミ取りという^^。多分誰にでもできます。
それよりも、LE8Tはアメリカの製品ですが、30年前の品の部品が手に入るという事に驚きです。
int-netも特に役立ちます。


re:わるさ神 投稿者:s_tan  投稿日: 6月11日(火)22時41分23秒

以前、倉敷から湯郷−津山−勝山−根雨を通り島根に入ったのですが、津山、勝山あたりの風景は懐かしい感じでした。旅先の民俗館などで地元の方の古い写真など見るのも興味あるものでした。

楽楽福、ささ=鉄、ふく=吹く、で製鉄(産鉄?)民にまつわる伝承との事ですが、鉱山開発−長者−お上の収奪−没落、といったサイクルが各所各時代にあり、虐殺と富裕長者の両極端とその間にある伝説は産鉄民にかかわるものが多いのではと思っています。
気になっている神社があります。御津郡建部町の「志呂宮(神社)」、大同年間に中山の地から現在地に移された、弓削庄の鎮守、特殊神事の京尾御供、棒術など。機会があればじっくり尋ねてみたい社です。

楽楽福伝承が丹波からかなり広くまで伝わっているのですね。中国山地は地名も面白いのがありますね「鑢」「鈩」こんな漢字も「たたら」と訓ませている。探すと外にもあるのかも知れません。


拝見しました 投稿者:aruce  投稿日: 6月11日(火)19時01分39秒

エッジの張替え作業、拝見しました。
気の遠くなるような作業ですが、出来上がりは素晴らしいですね。

わたしもリビングで気楽に聞けるミニコンポが欲しくて、最近、電気屋さんに行ったのですが、最近のコンポは金属音ぽいと言うか、高音はキレイなのですが、低音が深みがあってキレイに聞こえる機種が少なかったです。
わたしの場合は、一人で居るときはほとんどテレビはつけません。
クラシックかジャズのCDを掛けながら、何かしていることが多いのです。
今のロックやヘビメタ等の需要とはズレテしまっている事が、今回音質を聞き比べてよくわかりました。
s−tanさんのように、自分で再生できる技術を持った方がうらやましいです。

http://www.ztv.ne.jp/aruce/


re:九鬼文書 投稿者:かたばみ  投稿日: 6月 9日(日)19時00分14秒

「九鬼文書の研究/三浦一郎、昭和16年」復刻版を再チェックしてみました。
摂政神功皇后の段に
「諸国に令して神祇奉祭の儀を行わせ給い亦武内宿禰に勅命皇史及び万国の史文を編せし給う」
これですね。

神史略に「伊弉諾三代天皇、白人根国「ヱヂプト」に降り後伊駄国を造営成し給う」とか「天皇の治世万国の文化u々進み・・」
といった文があるから、万国の史文を九鬼文書であると解釈する、そんなところかな。


神史略の最後に天の岩戸の話があります。

伊弉諾十二代天皇のとき、天皇の治世万国の文化u々進み、鬼人の増殖激しく生存競争も激しくなって暗黒の時代となった。
伊弉諾天皇はこれを憂いて天照日大神に祈り暗黒世界を治める子を授かるように願い、皇后の伊弉冉尊は天の岩戸に籠もって神懸かりして天疎日向津姫尊(たぶんアマサカルヒムカツヒメ)と月夜見尊と健速素盞鳴尊を生んだ。
多くの神々が岩戸の前に集まって喜び祝い、天疎日向津姫尊が皇位につき明るき御代となった。

三代の天皇健速素盞鳴尊の御代となったとき再び騒がしき世となり、素盞鳴尊の皇后が岩殿にはいって暗黒世界を照らす御子の誕生を願った。
このとき月夜見皇子と天兒根命等は・・石凝止女命は八咫鏡、棚織姫命は神衣、・・をもって祈った。
宮姫命が木に登って榊をもって祓うとき岩殿の中から産声が聞こえた。

手力男命が岩戸を押し開くと天津日御子が誕生していた。
この御子が皇位に登って、天照日嗣身光天皇あるいは天照皇大神あるいは天照オオヒルメ尊と称された。


この話の直後になぜか「大中臣神祇没落と鎌足公の奮起再興」という記事がおかれているのが奇怪ですけど。
(守屋は東北に落ち延び牟知麿は再興を期して諏訪湖の山中に落ち延びたとあります)

ま、それはおいて、岩屋、洞窟といった場所で人の目を避けて出産する慣習がみえます。
記紀の岩戸隠れの設定はいかにも物語になっていますが、岩戸の登場はこちらの方が自然に見える。
この岩戸の話はだれの益にもならない内容ですから意図をもって創作されたとは考えにくい。
(具体的な人物名の配置は別です)

この時伊弉冉尊から生まれた3人の天皇を出雲天皇と称しています。
                    ↓
伊弉諾伊弉冉天皇(神皇12代)−1:天照座天皇(天疎日向津姫尊)
                2:月夜見天皇
                3:素盞鳴天皇−・−1:天照オオヒルメ天皇
                        ・−− 佐男登美命−−3:大国主天皇
                        ・−2:天忍穂見天皇−−瓊々杵天皇−−
−−瓊々杵天皇(高千穂天皇初代)−−彦火々出見天皇−−鵜草葺不合天皇(73代)−−神武天皇
以下62代村上天皇まで続きます。
鵜草葺不合を73代とするのはウエツフミとの共通認識なのでしょう。

月夜見天皇の系譜に黒人根国があり中臣の祖天兒根命はこの系譜です(この系譜に釈迦、シッタルタ登場)。
佐男登美命の系譜が白人根国の系譜、大国主はその第一皇子(この系譜にイエス登場)。
イエスやシッタルタは強烈な史観による追記でしょうから問題外として、大国主(大己貴)が黒人根国へ渡りまた戻ってきた人物とするのが興味深い。

記紀の伊弉諾伊弉冉は混沌からの国生み、こちらは暗黒からの脱出の努力、基本線は同じと思います。
(自説では寒冷化によって縄文が崩壊し弥生の発達に至るBC2000〜BC500ころの事象とみる)
出雲天皇があってそこに外国系とみえる存在が登場し、そしていわゆる天孫系の天皇になってゆく。
出雲−外国人(降臨)−天孫の流れと同じとみえます。

しかし、天孫降臨のエポック記事がありません。
天とはいえ外来者の子孫ですから、それすらも排して日本中心に寄せているためではないかとみています(そういう改変はごく近代かもしれない)。
なお九鬼文書の研究の巻末にある「偽書を攘ふ」という当時の談義は面白い、いつの世も同じか(^^;


用明天皇の段で、古来の神祇文書が聖徳太子と蘇我馬子によって焼き捨てられ、代わりに天皇紀と国記が編纂されたがそれは嘘の書だといっています。
その後、中臣鎌足等が蘇我入鹿を暗殺して今度は天皇紀と国記が焼かれて消える。
そして古来の神々が復活するなかで登場するのが古事記と日本書紀ということになります。

かたばみ

 


ありがとうございました。 投稿者:iroha-uta  投稿日: 6月 9日(日)11時49分39秒

かたばみさん、レスをありがとうございました。私は空海の帰朝後洛京までの数年間の足どりを追っています。その間、記録がないことがありまして、空海はひとところにとどまらず、ご修行でいろいろな所を歩いてる、その中に当地域が含まれているのでは?ということで調べています。そしてその修行されている姿こそ、人々の胸を打ち、今も尚、語り継がれてるまま、尚その思いは育まれていると、ホームページを開いています。当時、京とつながりがある玄賓と出会っているのは、ごく自然な気がします。が、公式な記録の上に無いことで、地域の特性が手がかりになるのでは?と古代とのつながり、砂鉄、石灰岩、そしてスズランに着目しています。

>スズランのようなめでるための植物
私も知らなかったので、あらためて調べてみるとスズランは球根というより、根で増えるそうです。この地域に有ることを、この地の学者は「残留植物」と呼んだと、聞いたことがあります。図鑑を調べると毒性があって、昔放牧地だったところに、残っているというのです。後の草は牛が食べてしまっても、スズランは残るということです。
でも毒性故に食べなかった、そして残ったとするより、何かメッセージを宿して咲いた花なんだ、それを牛が感知して食べなかったと、思うと、また地域の人にとっては、ありがたい気がするのでは?と思っています。

どうぞよろしくお願い申し上げます。


わるさ神 投稿者:iroha-uta  投稿日: 6月 9日(日)10時59分21秒

s_tanさん、レスをありがとうございました。私の所は島根・鳥取・岡山・広島の境界線が十文字に交わるあたりです。この地に引っ越してきたものですが、伝承等を聞く機会が多く、自分でどう聞けばよいのかを、これからの地域に役に立つ方向で組み立ててます。

>楽楽福(ささふく)伝承
鬼の伝説のことですが、実はここ何年かこの地域の活性化の施設の名前に「楽楽」という言葉が使われました。でも、今風に、「らくらく」と読んでしまっています。名づけた本人の内には「楽楽福」に因んだものがあったのでは?と、奥を思っている所です。

地域の伝承では「わるさ神」という大変大衆的な名前の神様の伝承があります。この神様はわるさをして鉄に繋がれる話ですが、この地には、怖い話が、こうしたなるやかな名前と共に近年、変化して楽しく伝える流れがあるようです。今のその名前が付く前には、どのような伝承だったのだろう?と思います。

どうぞよろしくお願い申し上げます。


九鬼文書 投稿者:D.K  投稿日: 6月 8日(土)17時12分16秒

神功皇后に関しては、佐治芳彦氏の日本超古代史の謎に「天地言文」(地乃巻)に
神功皇后が竹内宿禰に命じて・・・と書いてありますが、原文、読んでいないので。
卑弥呼説もある皇后ですが、鬼道と言えばコチラ↓

http://members.tripod.co.jp/dreagon/img001.jpg


九鬼文書+ニギハヤヒ 投稿者:かたばみ  投稿日: 6月 7日(金)23時53分18秒

九鬼文書は拾い読みしかしてないけれど、神史略、神代系譜、天津皇神祇大中臣秘文天地言文、大中臣神字秘遍の4部があります。
中臣との関連は濃厚ですが神功皇后と関係がある様子はみえないです。
九鬼文書の概要は原田氏の紹介文が簡明だと思います。


≫ニギハヤヒって人間なんですか?

縄文末期から弥生初期の「初期開拓者」を各地に輸送した海洋系の人々が「饒速日の祖」と考えています。
弥生時代中期では出雲系や天孫系の海運(原始商業)を担っていた人々。

古墳時代にはいって海運力を背景に有力氏族となっていったのが物部氏。
各地の海運者組織であってだれが祖とはいえなかったが、ひっくるめてその祖として「作り出された人物」が饒速日とみています。

物部氏を中心にすえる先代旧事本紀では巻頭に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとあります。
物部を滅ぼした張本人が編纂・・なにがしかの事実があると考えています。

中国では前王朝の史書を次の王朝が作ることを慣習にしています。
唐文化に染まる時代、これをうけて滅亡した物部氏の事象が記され、それをベースに記紀と習合させながら書かれたのが先代旧事本紀ではないかと考えています。

記紀編纂者もその原文を熟知だったのではないか。
しかし記紀の方針に一致しないので神武時代にシフトしてあいまいな存在に書いたのではないか。

モデルになっているひとつが弥生中期の九州の海運者、次が濃尾へ渡った天火明と随伴の海運者(旧事本紀)、最後が出雲系で活動していた若狭〜河内の海運者、と推定しています。
饒・速日=九州(熊本)の豊かな人々の意、呼称は九州時代からとっているのかも。

かたばみ


鉄の分布 投稿者:かたばみ  投稿日: 6月 7日(金)23時50分34秒

iroha-utaさん、はじめまして。

≫その分布の様子を地図で教えていただき

砂鉄や鉄鉱石の産地の分布の地図ですね。
弥生時代に青銅を作るようになった時点で低温還元による製鉄も開始され、岩手の超高純度な餅鉄の発見が日本最初の製鉄であろうと考えています。

奈良時代あたりでの岩手周辺の蕨手刀はほとんどが砂鉄を用いたもののようです。
この蕨手刀は砂鉄を溶解できる段階に達した炉で作ったのだろうと考えています。
タタラ製鉄の一歩手前の段階です。
(しかし、平安時代になるとこの砂鉄による製鉄法はいったん消えます)

低温還元にはチタン成分が少ない材料でないとだめなようです。
ニッテクリサーチの砂鉄成分をごらんください。
全部砂鉄とありますが、塩釜の砂鉄が桁違いの高純度です(餅鉄が砕けた砂鉄と思います)。
これほどではないけれど、チタン成分の少ない砂鉄がとれるのが福岡の糸島と島根の斐伊川なのだそうです。


≫植物の生態に何かつながりがあるのかな?と

杉は縄文時代に造船用材などで各地に植林したのではないかと思いますが、スズランのようなめでるための植物も育てたかもしれないですね。
(球根だと思いますが、食用になるのかなあ(^^;)

かたばみ


ナショナリズムとねつ造 投稿者:かたばみ  投稿日: 6月 7日(金)23時48分53秒

これはいろいろなことがからみあっていそうでやっかいですね。
おらが村が一番だ、もナショナリズムかなあ。
欲望(利益と名声)にからむことが源にあるからではないでしょうか。

プロフェッショナルはあることに秀でた人のこと、プロとはある分野の仕事で飯を食っている人。
プロが秀でているとは限らないのですが、秀でた人≒専門家とみなされることはたいへんに有利となります。
なんらかの理由で専門家であるという一般の認識を失う恐れ・・それがいろいろを曲げていると思うのです。

一般に注目される状況が生じればそれを利用するのも必然。
一般がなにに注目するか、この部分がナショナリズムにもつながってくるのだと思います。
まずい方向になるのを押さえる最大の力は一般の人々の認識にあるんじゃなかろうか。
(逆にまずい方向へ押し進める場合も一般の人々の認識にある)


中国領事館への亡命問題、当初はナショナリズムに乗って大騒ぎしたが、それが恥であることに気がついて急速に沈静化(^^;
もし統制された情報のみであったらなら、一般の人々はそれに気づかずナショナリズムのままでとんでもない方向に進んでゆく可能性もあった。紙一重だと思います。

都合の悪い情報を隠蔽して方向を曲げることがあれば、それもねつ造と同列だと思います。
多様性を知り得ること、インターネットはここに計り知れない可能性を秘めていると思っています。

静止衛星と情報端末機能だけでいいからアフガンにパソコンを100万台ばらまく(^^;
安定化はずっと早くなるんじゃないかな。
一時的にカルチャーショックと別の欲望が生じるでしょうけれど。

かたばみ


(宇佐)口伝 投稿者:s_tan  投稿日: 6月 7日(金)23時09分37秒

>これが真実と決め付けるのではなくて色々な可能性が有ったほうが何かと有益な気がして
#ですねぇ、諸手をあげて賛成です。答えがひとつ、というのはお受験の弊害ですね。

>宇佐口伝
KENJIさん、ありがとうございます。猿田彦系に追われて・・あたりも非常に面白いですね。アマノタネコは、天(皇)の種の子というのもたしか、この本だった気が。。

 


iroha-uta さん 投稿者:s_tan  投稿日: 6月 7日(金)23時08分45秒

こんばんわ。ご訪問有難うございます。
ひょっとして吉田町あたりにお住まいでしょうか。中国地方山間部は通り過ぎただけでいつの日かのんびり廻ってみたいと思ってます。
丹波に近いと、楽楽福(ささふく)伝承などあるとの事ですが中国山中はいかがでしょうか。スズランの自生地の分布は不明ですが、気候と土壌なのでしょうか。人について回るのも結構ありそうです意識的と無意識で,山との行き来が結構あるので知らず知らず自宅庭に野草がでてます。
今後ともよろしくお願いします。


因幡の素宇佐祇 投稿者:D.K  投稿日: 6月 7日(金)00時16分57秒

スサノオに類似した神話がバール(だったかな?)神話で
七頭の蛇を倒したの何ので、ついでにニギハヤヒを匂わせる
ものがあったような。調べなおさないと。

ニニギ神話と対比されるように海部氏等の祭紳のような気も
するんですが、少なくとも記紀では神で有ったとしても重要な
神は封殺しないと拙いでしょうから断定しずらいですね。

宇佐神宮、結構謎だらけで御祭神も裏が色々とありそうな。
猿田彦は古事記の裏読みをする限り###神のような感じで
今月号のムーで速くも唾つけられた宇佐絡みネタ、結構分析は
進んでいるんですよ。北九州は秦氏の影も結構見えますね。
猿田彦系に追われて九州に行ったと言うより海部氏が九州から
追われて京都(丹後)に行ったような気もしますが情報不足で。

ビグザムのレーザーに良く当たるんですよ!!陸戦型先行者や
シャア専用先行者なんて使ってみたいんで隠しコマンドか何か
有ったら教えていただけません?


宇佐口伝 投稿者:KENJI  投稿日: 6月 6日(木)22時45分40秒

アスベル生きていたかさん、「宇佐口伝」は、宇佐神宮と関りの深い、宇佐家の嫡流、
宇佐国造57世の、宇佐公康氏が宇佐家の伝承・口伝を纏めて、1990年に木耳社から
「宇佐家伝承・古伝が語る古代史」として発刊した本です。
続編も有ったと思います。

宇佐家は最初は今の京都辺りに住んでいたのだが、猿田彦系の一族に追われ、流れ流れて
今の九州、宇佐の辺りに住んだとか。
岡山の児島地方も宇佐氏の一族の地だったとか。
神武東征の時、最初の大王は広島でくなり、宮島の弥山に葬られたとか・・・
記紀には無い話も多く有ります。

真偽の程は兎も角、違う方面から見た古代史の一つに成るかも。

http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/


鴨川より(京都府京都市) 投稿者:アスベル生きていたか  投稿日: 6月 6日(木)21時07分06秒

 アスベル生きていたか@鴨川です。
いや、ホントに鴨川来てるんですよ!・・・

アスベル:ここは 鴨川のどの辺りなんですか?
同行者:京都の繁華街、中心部の四条河原町から 下りたところ、直ぐですよ。
アスベル:所謂、ポント町って奴ですよね?
同行者;うーん・・。まぁー、凄く近いですが・・・。微妙に違いますネ。
    鴨川河原沿いですからね。直ぐ横に流れてるのが 高瀬川です。
    今は、納涼のお客さんの灯りが綺麗ですネ。
アスベル;なんか、一定間隔ごとにカップルが いるんですよね。
同行者;そうですね、何時の間にか・・・そして長年続いている京都の1つの歴史ですよね。
アスベル;ウワぁー!!今、 何か鳴きましたよね。
同行者;鴨です。だって、何て言ったって”鴨川”ですから。
アスベル;おあとが よろしいようで。

はい、以下 レスでぇーす。

>アスベルさん、素人質問ですみませんが、
>ニギハヤヒって人間なんですか?

 ニギハヤヒですか。えっとですね。”ヒト”ですよ。
僕のサイトだと、下記ページに出てます。
http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/nigihayahi.htm

 ところで、ヒトじゃない、ニギハヤヒってあるんでしょうか?
逆に聞いてみたいです。 神さま?

>キャスバル生きていたかで続編、出ないかな。
 出ないと思います。(笑)
 作ってください。

>>アスベル・・さん
>準常時接続環境、いいですよ、PC内のデータも軽くできるし、
>ただ、必要ないときは切っておく方がいいですね。実に様々な所から
>PC内に入ろうとしてきます。

 そうみたいですね。
幸い僕はそうした目に遭ったことは無いんですけど、今となりにいる同行者に聞くと、そういうこともあったみたいです。

ところで「宇佐口伝」ってどんなものなんでしょう?
九鬼文書って神功皇后が書いたという伝承があるんでしょうか?

謎を残しつつ、鴨川よりでした(^_^

http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/


今日は。 投稿者:iroha-uta  投稿日: 6月 6日(木)08時32分52秒

初めまして。iroha-utaと申します。製鉄のことで検索して、入室させていただきました。
私の今住む所は「たたら遺跡」のことがよく云われているのですが、最近になって北海道にも製鉄所があり、そしてこのホームページに来て、その分布の様子を地図で教えていただき、感激しています。関係のないことかも知れませんが、当地ではスズランが自生しています(中国地方です)。北海道がもちろん主でしょうけれども、植物の生態に何かつながりがあるのかな?と、思いをはせています。
これから沢山の資料を読ませていただきます。ありがとうございました。

http://homepage2.nifty.com/iroha-uta/


志水さんへ 投稿者:D.K  投稿日: 6月 6日(木)00時23分40秒

私はアマチュアで、馬鹿にされようが傷つく物や被害が出ないので気楽にやっていますが、
これが真実と決め付けるのではなくて色々な可能性が有ったほうが何かと有益な気がして
色々とやっています。

進化論自体、産業革命時代の宗教に変わる正当化のプロパガンダに近いような感じで、
今西進化論を始め様々な進化論も有り、聖書的な創生論対進化論的なゼロイチ対立では
なくて、もっと沢山サンプルが有ったほうが面白い気がします。

古代縄文に関しては、アナサジインディアンのチャコキャニオンやペルー、インカ、
マチュピチュ、九州の古代史の研究等を含めると、結構面白い仮説が提示できそうな
感じです。九州に関しては神功皇后が残したと言われる九鬼文書が結構ヒントに
成りそうな感じです。


皆様へ 投稿者:志水  投稿日: 6月 5日(水)23時33分28秒

いつも拙い質問に親切な返信ありがとうございます。志水です。
『ゴッドハンド』遺跡捏造問題について思うところがあります。
少し長くなりますが、
【チャールズ・T・キーリ氏】意見抜粋
〈日本で前期中期旧石器を探索し、発掘している考古学者達(註3)は、筆者には、あまりにも学問的注意を欠いているように思われた。彼等は、批判を無視する傾向が強く、批判者を嘲笑することすらある。彼等は、発見遺跡に対する地質学者や年代測定研究者の専門家としての意見を、拒絶することがある。彼等には、注意力と懐疑が、決定的に不足していた(註4)。遺跡の立地する古地形を検証すべき地質学者の研究を、見たことが無い。〉

【日本考古学協会】意見抜粋
〈前期旧石器問題、いわゆる「原人遺跡」問題は、「新発見」の連続によって認知され、定説化されたように受け止められていますが、学界にはなお異論も多く、論争の渦中にあるというべきです。しかし一方、本協会が、わが国及び東アジアの人類史を考える上できわめて重大なこの問題に関して、必ずしも積極的に取り組んで学術的な検討を進めてきたとは言い難いとの指摘は、謙虚に受け止め、反省しなければなりません。〉
〈捏造問題を経て気がついたのは、前期旧石器遺跡が「ナショナリズム」を背負っていた事実である。国外における報道や、国内でも教科書問題と併せて論じられた。理論的には、種のレベルで異なる前期旧石器文化が(事実存在しても)、日本の歴史と関係を持つはずもないのだが、そんなことは問題にはならないのだ。実は、埋蔵文化財は「国民の共有財産」であることによって、必然的に「ナショナリズム」を背負っていたのである。前期旧石器は、研究上の文脈や研究者の認識とは関係無く、まさしく貴重な埋蔵文化財であることによって、大衆的理解の中で「文化」を背負っていた。それは人類共有の文化遺産ではなく、日本列島の悠久の過去を語ることによって、古墳や銅鐸を越えた、別次元の歴史を語っていた。歴史を語るという一点で、前期旧石器も古墳も通じていたのだ。どのみち、日本列島で出土したものは、日本の「文化」と見なされるのだ。なぜなら、それを管理するのは「国民国家」たる日本の行政機構なのだから。〉
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/zenki/index.htmlより抜粋


もちろん発表された一部の文章を持って全体を判断することはできませんし、まして私は素人です。
どちらが正しいのか判断する材料を持ってはいません。でもこれだけはわかります。
いったい事実にまっすぐに向かい合い、追及する姿勢がどこにあるのか?
学者としてのスタンスに疑問があるということです。事実を素直に認めるという気持ちが伝わってきません。批判するばかり、言い訳ばかりです。私の息子は大学で考古学を学んでおり、彼なりに腹立たしく思っているようですので、とてもひとごととは思えません。もちろんとまともな学者もいるとは思いますが・・・

感情のおもむくまま書いてきましたがもう少しお付き合いください。
ところでここからは紹介になります。私は、認識形成のサイト 「るいネットhttp://www.rui.jp/ ]に参加しています。
事実を追求し、仮説を立て新たな事実があれば認識を組みなおす。歴史的事実とはそうあるべきと常日頃思っています。すでにそういう視点に立たれているs tanさん・かたばみさん・DKさん・KENJIさんそして秦さんには、失礼かと思いましたが、改めてこのサイトを紹介します。

実現論序のところにこのサイトのスタンスが伺えます。
〈000101〉
この書は、沈黙に包まれた時代閉塞の現況を突き破る、その答えを提示しようとするものである。しかし、社会が全面閉塞に陥ったその病根は、(危機が迫っているにも拘らず、どこからも突破口が提示されないぐらい)とてつもなく深い所にあり、人類の進むべき方向を確定する為にはとことん歴史を遡って、人類の原基構造を解明してゆく必要があるだろう。その意味では、この書はサル時代や哺乳類にまで遡って人類の存在構造を解明しようとする、悠大な史観である。  
 

会社のサイトですが、私もほとんど本業そっちのけで参加しています。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
◇るいネット      http://www.rui.jp/              
  感想などいただければなおうれしいです。                         
       志水  満 simiz-mi@rui.ne.jp
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


re:回覧で・・・ 投稿者:s_tan  投稿日: 6月 2日(日)23時58分38秒

光ケーブル設置おめでとう。100Mというと、、すごい。
ちなみに、1.5Mだと動画はギクシャクしてます^^。
リンク変更、完了です。


回覧で・・・ 投稿者:KENJI  投稿日: 6月 2日(日)21時58分53秒

今晩は。(^o^)丿
回覧メールを流しておきましたが、この度、HPアドレス・メールアドレスが変わりました。
お手数ですが、お手元の書き換えをお願い致します。m(__)m

光ケーブル(100M)、驚くべき早さです。ソフトのDL等も威力が違います。
テスト的に動画も見てみましたが、綺麗でスムーズでDVDを見ているような感じです。
毎晩、より遅く成りそう。(爆)

http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/

↓ 


宇佐口伝 投稿者:D.K  投稿日: 6月 2日(日)06時10分42秒

宮島と宇佐神宮、類似点と相違点を色々と探っていくと
北九州に祭られている神々の謎が色々と解けそうなんですが、
古代九州王朝をテーマに色々と練っています。

6ゾロに因んでこんなネタを。↓

http://www.glennbeck.com/news/05172002.shtml


ぞろ目 投稿者:s_tan  投稿日: 6月 2日(日)00時44分57秒

6666ですか、フォー6。玉ならこぼれても止らない! ^^。
なにも用意してないので、このhpで使用の画像の大、お好きなの宜しければ送ります。
宇佐口伝は機会があればもういちど読んでみたいですね。


う・・・ 投稿者:D.K  投稿日: 6月 1日(土)01時56分11秒

カウント6666を踏んでしまいました。

またHPを作ろうかと考えていますが、
纏めるだけの体力が無くて。
九州は大分解けましたよ。
宇佐口伝・サンクスです。
猪群山ストーンサークル、何が
祭ってあったかは目星はつきましたが、
来月号のムーでやるようで同じかどうか。


れ、れ 投稿者:s_tan  投稿日: 5月30日(木)21時35分27秒

>アスベル・・さん
準常時接続環境、いいですよ、PC内のデータも軽くできるし、
ただ、必要ないときは切っておく方がいいですね。実に様々な所からPC内に入ろうとしてきます。

>D.Kさん
パソコンダウンでしたか、今後ともお気をつけて。


お久しぶりです 投稿者:D.K  投稿日: 5月29日(水)23時50分12秒

やっとパソコンが生き返りましたが・・・

アスベルさん、素人質問ですみませんが、
ニギハヤヒって人間なんですか?

機動戦士ガンダム・連邦vsジオンdelxに
はまってますが、テレビではあんな単純な
操作で動かせるのかと思っていたら、
十字キーとボタン四つで動く動く。
キャスバル生きていたかで続編、出ないかな。


あしあとです 投稿者:アスベル生きていたか  投稿日: 5月29日(水)18時14分32秒

おひさしぶりです。
久々に拝見したので、取り立てて話題もないのですが足跡です(^_^

ハタ氏関連の話題にちとそそられるところもあるのですが、今回はパスです(笑)。
相変わらずかたばみさんは良く調べておられますね。
古代史関連では、最近ニギハヤヒの簡単な説明を電話で問われ、アワ食ってしまいました。

ビジュアルな表現に関しては、『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザインを手がけられた安彦良和さんの『ナムジ』及び『神武』が素晴らしいです。未読の方にはお奨めです。

ひもろぎ→このタイトルを持つイラストレーターさんのサイトがあります。
美しいので目の保養に。

ウイルス→大変ですね。以前の騒ぎ以降OutlookのプレビューウインドウをOFFにし、怪しいメールは即刻削除しているためその後は大丈夫です。メーラーを変えるとかなり安全な様ですが、Outlookを継続的にご使用の方はプレビューをOFFにし、件名の化けている添付ファイル付きソフトが来たら、即刻削除されることをお奨めします。

それではまた。
最近準繋ぎ放題な環境になったので、チラチラ覗いてみようかなと思います。

http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/


ウイリス、ワーム対策 投稿者:s_tan  投稿日: 5月28日(火)22時28分35秒

hpをやってますと知らず他の方のアドレスなど知ることが増え迷惑をおかけする可能性も高くなりますのでますので、それなりに気を使ってます。

対策ですが、いつも最新の対策ソフトを用意するのは大変です。

・簡単なのは、メールソフトをMSのoutlookから他のソフトへ乗りかえることです。乗り替えた場合はoutlook本体とアドレスブックも貴方のPCから削除したほうが安心です。
・ブラウザのMS/IEは、汎用に近く他に乗りかえるとなにかと不便です(いまのところ)。

●・ウイリスの総合的情報は、「 IPA-ISEC 」
< http://www.ipa.go.jp/security/ > へ。

●・ウイリス等が勝手にint-netへ接続する、のを監視できるソフトがあります。一部勝手な侵入を防ぐこともできます。ZoneAlarm、英語版(freesoftも有)、downloadは日本語の説明がある「竜の情報館」から
< http://www.ryulife.com/net/index.html > へ。
 ※windowを再インストールできる方なら使いこなせます。(恐らく)

●・知らない内に国際電話で膨大な料金請求。への対策は「ダイアルアップチェッカー」
< http://www.dion.ne.jp/dialup/netmanner/index3.html > へ
 ※国際電話を使わないお宅は、お近くの電話局に申請、完全に止めることもできます。


常に最新アップデートを 投稿者:かたばみ  投稿日: 5月28日(火)19時13分30秒

古いままのウイルスソフトはなんの意味もないですね。
ウイルスなしだけれど怪しいので隔離しておいたものを、1週間後にアップデートしたデータで再チェックしたらやっぱりだったです(^^;

かたばみ


詳しい情報です 投稿者:KENJI  投稿日: 5月27日(月)23時51分55秒

今回のウィルスの情報です。
ウィルス名「WORM KLEZ.H」
差出人の名前は、感染者のPCの中から選ぶみたいで、差出人名が感染者では無いようです。

詳しい情報のアドレスを書いておきます。

http://www.trendmicro.co.jp/vinfo/virusencyclo/default5.asp?VName=WORM_KLEZ.H

ウィルス対策ソフトは、最新のバージョンをDLして下さい。


緊急!連絡 投稿者:s_tan  投稿日: 5月27日(月)23時15分52秒

いり豆の会、参加の皆さん。

だれかが、最新のワームに感染している可能性が高いです。即、PCを点検してください。

KENJIさん、s_tanは、PC点検済です。

↓ 


ゆうま さま 投稿者:s_tan  投稿日: 5月25日(土)05時58分51秒

>ちょっと気まずいかも・・・^^;
#なにか、楽しそうな雰囲気ですね
 うれしい?結果、経過になりましたら、ひとことお知らせください。メールででも^^。


s_tan 様 投稿者:ゆうま  投稿日: 5月22日(水)06時15分52秒

御丁寧なお返事本当にありがとうござます!!
女性的でたおやか・・・神秘的ですか・・・(〃∇〃;)
だとしたら本当のところを本人に聞くのは
ちょっと気まずいかも・・・・^^;
本当にありがとうございました!!^^;
助かりました^^親切で早かったレスに感謝致します

ゆうま


re:ひもろぎ 投稿者:s_tan  投稿日: 5月21日(火)22時07分07秒

ゆうまさん、こんばんわ。

「ひもろぎのような人」こうした慣用句、ではないですよね。
神籬、胙、の基本の意味をご存知の、ゆうまさんが分らないとなると使った本人に聞くしかないかも。
俳諧など専門的?の世界で特別な意味を持たせているのかも知れませんが、残念ながら不明(不勉強)です。。
この「ひもろぎ・・」の使われた前後というか状況は分りませんが、ひらかなを使っていることからすると、”女性的でたおやか”に”神秘的”を重ねてイメージし使ったことばなのかも。


はじめまして 投稿者:ゆうま  投稿日: 5月21日(火)08時29分53秒

はじめましてこんにちは ゆうまと申します
いきなり書き込んでヘンな事聞いてしまいますが
教えてくださるととても助かります 
失礼な事をしてたらごめんなさい
「ひもろぎ」という言葉を聞いて調べていたらココにたどりつきました
「ひもろぎのような人」という表現がわからなく調べていたのですが
神籬や胙は人にたとえていいものなのでしょうか・・・?(T-T)
それともちがう「ひもろぎ」なのでしょうか・・・(T-T)
知っている方がいらっしゃいましたら
どうか・・・よろしくお願い致します・・・
本当にいきなりすみませんでした


五胡十六国と秦氏 投稿者:かたばみ  投稿日: 5月19日(日)17時26分18秒

史記には始皇帝の先祖が鳥獣や馬のあつかいがうまいので「舜」から{エイ}性をもらったとありますから、馬を重視するなら始皇帝の祖先は遊牧民であった可能性がありそうです。
また、秦の名は周時代に秦という村を領土にもらったことから始まるようです。

五胡十六国相関図配置図
前秦は甘粛省にあった{テイ}族の建国で、四川省にあった同じ{テイ}族の「成」の滅亡と入れ替わるように登場する。
西秦の建国者は甘粛省にいた鮮卑族のようです。
世界の歴史、中華文明の誕生の付図によれば、この一帯は始皇帝の祖先のあったとされる地。

後秦は羌族の建国。羌族はチベット〜西域の遊牧民。最古は殷の捕虜として登場。
いわゆる漢人の祖はこの氏族で、周の太公望も羌族。
建国者の父は前趙、後趙に属してまずは山東省、ついで東晋に服属して河南省、その子は前秦に服属していたが前秦の弱体化で後秦を建国する・・

羌族といっても少なくとも王様はあちこちに引っ越しの連続(^^;
戦闘に優れていて注目されていたようです。
で、{テイ}羌族は養蚕を得意とする氏族なんだなあ・・蜀の文字は蚕の意。


五胡十六国時代の黄河流域はシャッフル時代ですね。どこにどの氏族がいてもおかしくない。
始皇帝が西域の遊牧系出自なら、前秦、西秦、後秦の王は漢よりは秦に親近感を持つのではなかろうか。
その国の位置がかっての秦の首都の位置にあるならそれだけでも秦王を名乗るだろうと思います。


≫徐氏はもと贏(ヱイ(類字)氏。伯益の後「夏、徐を封ず。

始皇帝の先祖の出自が山東半島付近であるという説の論拠がこれじゃないかな。

尭舜禹の実際の時代は長江文明と黄河文明が洪水で崩壊してから殷建国の間、BC2000〜BC1600頃とみています。
この時代は長江系氏族(三苗)と黄河系氏族のシャッフル時代だと思う、その結果が「夏」の登場。
舜が{エイ}の名を与えたのなら殷より古いわけでこの年代あたりでしょう。

生活環境が変わって千年経過したら以前に持っていた文化や慣習も完全に変わると思います。
氏族の名だけが継承されていた場合、わけがわからなくなりそう。
{氏+_}テイ氏族もそういう氏族ではないかと考えています。




秦系譜として京都の広隆寺(蜂岡寺、秦寺、太秦寺)の由来書には、
(秦始皇帝−胡亥皇帝−孝武皇帝)−宋孫王−法成王−功満王−融通王−7代略−河勝秦公とあります。
功満王が仲哀朝、融通王が応神朝(弓月氏)とみるようですが、200年を8世代なら25年平均で妥当なところ。
しかし、始皇帝から功満王まで5世代が600年というのはありえない。

渡来以降では記録があった、渡来時の新羅における祖父までも確認できた、しかしそれ以前はあいまいで、「始皇帝の子孫という伝承」のみだったために「その系譜」につないだもの、そのあたりだと考えています。


ふたたび新羅王統図参照
どの系譜がどういう始祖かはおくとしても、新羅王の系譜ははっきりと3系譜にわかれます。
(朴、昔、金)

ま、可能性の積み重ねでしかないけれど、365以降に新羅王朝が金氏系に変わったことに鍵があるとみています。
応神紀の記述だけではなぜ新羅が弓月氏の出国を妨害したのかわかりません、しかし・・
新羅の「旧王朝の有能集団」だった人々が倭国へ帰化しようとすれば、新体制の新羅は頭脳と技術の流出を防ごうとするでしょう。
葛城襲津彦が出国の支援に向かうのも葛城氏に弥生の秦氏の流れがあるなら自然です。

この人々は製鉄に関連していた可能性大とみます(少なくとも須恵器生産技術をもつ)。
須恵器登場は450頃(→陶スエ)です。鉄鉱石使用の製鉄開始もこれに平行すると推定。
鉄は記紀編纂時代でも最高機密、記録は残らないでしょう。
(なお、餅鉄などを使う簡易製鉄は弥生中期に遡ると推定)

しかし、この人々が隋書でいう秦王国の風景を作るとは考えにくい。
応神が一般技能者を望むなら百済経由で中国から直接招請できると思います。
それが後秦など五胡十六国時代末期の人々ではないか・・養蚕を得意にする人々(^^;

商業や軽工業の人々でしょう。漢氏も含まれるかもしれない。
隋書でいう秦王国とはこの人々が作りだしていた町ではないかと思うのです。

これらを統率したのが当初は葛城氏であり、葛城衰退後ではその集団から秦氏として台頭した人々だったのではないか。
初期新羅王族系と最新の中国渡来者が混じり合った人々、その系譜の有名な方だけ、あるいは一本化されたものが現在に伝わっているのではないかと考えています。

かたばみ

↓ 


秦氏その他 投稿者:かたばみ  投稿日: 5月19日(日)17時25分01秒

≫志水さん
あくまで自説ですが・・
天日矛は秦氏の流れにあるとみています。
秦滅亡時の脱出者→秦韓の系譜ないし半島における呉楚七国の乱時代の秦王族系です。

天孫が呉楚などの渡来者と九州の先住者の間に産まれた人々であるならば、天孫系譜にも当初から秦氏が含まれている可能性が高い。
天孫と新羅の初期王朝は縁戚というわけです。

天日矛はなんらかのお国の事情で縁戚である日本に渡来した。
先の新羅王統図に天日矛の推定位置を書いてありますが、王位継承にからんでの渡来とみています。
播磨風土記に天日矛と葦原志許乎(出雲系譜)が姫路市の北方で戦ったとありますが、天日矛が天孫側であったことがうかがえます。

記紀は天日矛が垂仁紀に渡来と書いていますが、その曾孫のタジマモリが同じ垂仁紀に登場するのはおかしい。
タジマモリの年代を正しいとみるなら、天日矛は開化時代225-248あたりの渡来となります。
出雲がまだ存在している時代で、播磨風土記の話が理解できます。
記紀の孝昭〜開化の事象を抹消する一環で垂仁紀に移されたものが記紀での天日矛だと考えています。
(ツヌガアラシトの渡来はこれとは別とみます)

だが365以降では新羅王朝が秦氏系(朴氏、昔氏)から金氏系に移り、倭国は新羅と敵対して百済と親密になっていった。(神功の新羅攻撃)
そして蘇我氏など百済とつながる新興勢力が台頭する。

天日矛は目立ちますが、個人の渡来であって初期新羅王朝と日本の王朝の結びつきの再確認といったところで、「日本への影響力」は応神時代の秦系譜に比べればはるかに小さいと考えています。



≫はたさん
秦氏が政権の表面にでなかったのはその通りだとみています。
瀬戸内の海運が基盤だと思います。商業に優れる人々が登場していたはず。
商業をメインにしたために政治で覇権を握るといった方向には動かなかったのではないかと考えています。

水路の築造は総合力がなければでない、軍人や政治家だけではできない。
記紀は王族関連記事しか書いていませんからそれらがみえないだけだと思っています。

かたばみ


re: 秦 投稿者:s_tan  投稿日: 5月16日(木)00時44分55秒

>志水さん
確かに記紀には秦氏=日槍とはないですね。ですが、
#波多臣、秦・許勢・蘇我・平群・紀臣らの伝承上の祖はすべて半島との関連伝承を持っている。
#『日本書紀』応神14年条、弓月君が百済から渡来し、自分の国の120県の民を従え来朝しようとしたが新羅人に道を塞がれ渡航できないので民を加羅国に留置いた朝廷に奏上。
・天皇は武内宿祢の子である葛城襲津彦を韓国に遣わしたが新羅の力が強く失敗。
・同16年8月に襲津彦の兄である平群の木菟宿祢と的の戸田宿祢の両名に精兵を授け新羅境まで進行させ襲津彦を救出し弓月の民を引率できた。
#弓月の民、葛城襲津彦、平群木菟、身狭村主青、が「手末の才伎」や「漢織(あやとり)・呉織・衣縫」の女工を連れてきた(雄略21紀14、4月条)。
#新撰姓氏録の山城国諸蕃の秦忌寸条に「秦酒公、雄略21大泊瀬稚武の時、普洞王のとき略奪されたと聞き,小子部雷を、大隈、阿多の隼人を集め秦の民、92部18670人を取り返した。

ハタの語源?のひとつに「大・巨・多・衆」などの意味を持つ朝鮮古語「hata」とする説もありますから、許勢蘇我平群などまとめてハタかも、渡来の意味でも合いますね。
波多臣出自と思われる、磐之媛は「皇后」と書かれている。たしか黒姫は「皇妃」。
日本での漢字の読みは十干でも呉音ですから、その流れが古く多いことは間違いないでしょう。恐らく。。


>かたばみさん
>秦は統一王朝といえど20年弱の短い王朝です。この年月では支配された国々(氏族)の固有意識が薄まることはないでしょう。
#、後の16国のうち鮮卑テイ羌が西秦、前秦、後秦と秦を使用してますが、この理由はなんだと思いますか。

>秦から脱出した人々が日本へやってきたとしても、祖国を占領した国の名「秦」を用いることはありえないと思います(徐福などを含む(^^;)。
秦王族の後裔であり、それを誇る人々だからこそ「秦」の文字を使うのではないでしょうか。
#徐氏はもと贏(ヱイ(類字)氏。伯益の後「夏、徐を封ず。?王に至り楚の滅ぼすところとなり国をもって姓となす」後に秦、徐、黄、江などの姓を賜ったとされる。
天稚彦的密命を帯びてたのかも知れない。しかし秦氏の系譜は融通王と弓月王系ではみごとに区別されてますね。
秦といえば応神?の頃の苻堅の秦国、この辺りも気になりますね。しかし符洪、苻堅あたりを祖に置く等しないだろうな。



歴史の裏方として 投稿者:はたよしのり  投稿日: 5月16日(木)00時09分40秒

志水さんのご意見もっともで、僕も以前からどうしてだろうと考えていました。蘇我氏や秦氏はよく研究されており。ルーツについてもある程度正しく解釈されていると思います。
しかし天皇家のルーツとなるとタブーです。神話の世界ですね。秦氏にしても相当な技術と財力を持っていたようですので、クーデターを起こす事も出来たはずなんですが、蘇我氏は反対に中大兄皇子によって滅ぼされます。いわゆる大化の改新です。蘇我氏は天皇家転覆を図っていたのでしょうか?
仮説1、秦氏は政権を握る必要がなかったと考えればどうでしょうか?倭国に紀元前2世紀ごろから第1段の渡来人がやってきた。そして勢力を広げた。紀元1〜3世紀に第2段と言う風に何度か渡来しており、お互いにそのルーツを知っていたとしたら。それも似たような地域や文化をもっていたとしたら?京都を開いて天皇を迎えるという裏方に徹するのも、先に来た同族のため?
仮説2、政権よりも宗教やその他文化を伝えるとともに、商売に徹していたから?権力よりもお金だったりして!でも平安遷都で財力を使い果たすと言うのも変ですけど。
どなたか真相をご存知の方、教えてください。


re:僕個人のイメージなら 投稿者:s_tan  投稿日: 5月15日(水)23時31分39秒

赤と白

流れのもとを、赤と白、基数偶数、太陽は男か女か、北方か南方か、など大きく分ける学者さんがいますが、判断の基というか位置としては明快で役立つひとつと思います。
太陽を赤・女性と見るのは南方系とする見方があります。太陽が赤いのは空気中の水分が多いから、とそれなりに納得できます。砂漠の太陽は白い。
赤で面白いのは漢民族の使い方、会計帳簿で赤は大体マイナス=赤字ですが、中国だけは赤はプラスのイメージ、世界の取引市場で中国のみプラスに赤字を使用している。香港を含めて知る限り他の国は赤はマイナス。


秦氏の始祖 投稿者:志水 満  投稿日: 5月15日(水)21時47分29秒

新羅の王子・天の日槍は葛城氏の始祖と思っていたのですが、秦氏の始祖ということになると蘇我氏・秦氏はいずれも呉系楚人ということになるのでしょうか
また天皇の后になったり、天皇に仕えたという話は多くありますが、どうして天皇家とは同格ではないのでしょう。
単に先に日本に入っていたということなのでしょうか。

↓ 


re:初めての帰化人 投稿者:かたばみ  投稿日: 5月15日(水)19時33分22秒

秦氏のありようは中国情勢が鍵になるのでなかなか容易ではないですね。
どの論も決定ではありませんから総合として可能性が大きいか小さいか、ということで以下は私の考察です。

まず、ちょっと違う方向から。
朝鮮半島では、馬韓、弁韓、辰韓・・李氏朝鮮・韓国1897・大韓民国1948・・「韓」が少なから登場します。
中国の春秋戦国時代の韓と密接な関係があったからだと考えています。

中国の韓氏族は長江北側の安寧省に韓の名があるようですが韓の発祥地かどうかは不明。
春秋戦国時代では黄河南側の河南省あたりで韓を建国する。安寧省の西隣です。
戦国の七雄の秦,楚,斉,燕,韓,魏,趙のひとつですが、韓は小さい。

しかし、周であった位置の中枢にある国で、遡れば殷の地であり、BC2500まで遡れば龍山文化につながる可能性があります(朝鮮始祖とされる檀君の出自は龍山文化とする論もあります)。
箕子朝鮮(?〜BC194)は周が殷の貴族を移封したことを始祖とするともいわれます(これも各論あり)。
朝鮮の始祖檀君が殷の前身の出自であれば周がその地に殷の貴族を移封するのはさらに自然です。


秦は韓、趙、魏、燕を順次滅ぼして中国を統一する。
秦に追われた人々は縁故ある地域へ脱出するでしょう。
多くの避難民が朝鮮半島へ逃げています(魏志韓伝など)。
南へ逃げるなら呉越楚など長江方面。

大量の避難民がやってきた箕子朝鮮は燕の衛満に国を乗っ取られて滅亡、BC194。
箕子朝鮮滅亡から半島南部へ脱出した人々を魏志韓伝は「韓人」と呼んでいます。
これが朝鮮半島での「韓」(韓族)の文字につながっていると考えています。
中国に陸続き、日本よりはるかに大きな影響力があっただろうと思います。



日本の秦氏はなぜ「秦」の文字を使っているのか。
秦は統一王朝といえど20年弱の短い王朝です。
この年月では支配された国々(氏族)の固有意識が薄まることはないでしょう。

秦から脱出した人々が日本へやってきたとしても、祖国を占領した国の名「秦」を用いることはありえないと思います(徐福などを含む(^^;)。
秦王族の後裔であり、それを誇る人々だからこそ「秦」の文字を使うのではないでしょうか。
(羽田、羽多などの場合はハタだが秦ではないからかもしれない)

しかし、秦王朝全盛の時であれば内陸の民である秦の人々が海の向こうの日本へ渡ることは考えにくい。
すなわち秦を名乗るであろう氏族の渡来は秦王朝が滅びて以降、だと考えます。BC200以降です。



伊都国の誕生は記紀でいう天孫降臨の基礎となる事象で、呉楚系の人物が建国者だと考えています。
出土物の状況から年代はBC150頃とみえます。
呉楚系の王族がどういういきさつで渡来したかの推定は9章の呉楚七国の乱をごらんください。
(もし呉楚系の堂谿系譜が伊都国とつながるならば自説の補強になります(^^))

呉楚七国の乱BC154の状況からこの時代に秦王族も日本に渡来した可能性が非常に高いと考えています。
(朝鮮半島ではさらに可能性が高い)
しかしこの時代の渡来者は前漢からみれば反逆者ですから中国(前漢)との表立っての交流はできない。
数世代のうちに地元文化の中に拡散し、350年を経た弥生末期では地元と一体化していたと考えています。

日本での「古秦氏」は葛城系譜に濃く残るとみています。
朝鮮半島では新羅の初期王朝(BC57〜AD154頃)が「古秦氏」系譜とみています。
新羅王統図参照


隋書に秦王国があると書かれていますが、中国史書がうかつに「秦」の文字を使うことはないでしょう。
その住人が秦の関係者であることを確認したから秦の文字を使ったのだと思います。
では、それがかって渡来した秦王族の後裔の国なのか・・
700年も経過していたら随の使者に自国と区別がつかないといわせるような状況にはならないと思います。

応神時代に渡来したという弓月氏、その集団が中国風俗を作りだしていた地域、それが隋書でいう秦王国だと考えています(葛城襲津彦が弓月氏渡来に関与)。
いわゆるチャイナタウンのイメージです(ただし日本の場合は最新文化保有者)。

応神は各地から最新文化を求めてそれを持つ人々を招へいしていたのではないかと考えています。
中国北部は五胡十六国の混乱時代ですから新天地を望む人々も少なからずいたと思うのです。

秦氏系譜の場合は物部系譜や出雲系譜のように記紀の編纂目的(王権の唯一化)に問題を生じるところがないために系譜が曲げられている可能性は少ないと思います。
ただし、五胡十六国時代の中国中心部に前秦、西秦、後秦といった国が登場します(始皇帝とは無関係)。
弓月系譜がこれらと関係している可能性はみておくべきと思います。

かたばみ


僕個人のイメージなら 投稿者:はたよしのり  投稿日: 5月14日(火)22時36分57秒

個人的なイメージとしては、色で言うと赤です。太陽は男と言うより、女性的に思えます。太陽は
沈んではまた上ると言う、輪廻転生というか、再生のイメージで、再生はすなわち、母親です。僕の家族は池田なので、亀岡の親戚とはあまり会う機会が少なかったのですが、結婚式などで顔をあわすと、あらためて血が濃いなーと思います。顔がすごく似ているような気がします。同族同士の結婚も多かったと思います。


雨乞いと東方 投稿者:s_tan  投稿日: 5月14日(火)00時21分36秒

雨と東方についてさらに古い伝承などと読み返していると、
水に関係深い「龍」は「殷(商)」の前の「夏」のご神体であった様子で逆鱗に触れるという語は殷湯王が夏を倒したときに出来たものらしい。次に龍をご神体とするのは千年ほど後の秦始皇帝。
雨は風とともに多くの人の生死を支配するもので、中国ではこの風雨の支配者を漢民族の祖とされる黄帝においてます。東王父、西王母のイメージは同じ頃につくられたというかまとめられたのかも知れない。
商王朝の甲骨文のなかに「東天にむかい火まつりを行い雨乞いをする」とあり、その祈りの内容は「東の天に向い、3匹の豚、3匹の羊を火まつりにし、犬の肉を削ぎ落して燃やし、黄牛を2つ裂きにしたらいいでしょうか」とあるらしい。この時期すでに馬は食用の位置から外れていたらしい、お供えの重要度はやはり牛肉、豚肉、羊肉、の順だったのだろう。
『史記・天官書』の中に天候を占う名人・魏鮮が正月の吹く風によりその年の吉凶をどのように占ったかが記されている。この中に、・風は八方から吹くものと考える。・・・西風ならば戦争がある。・西北風ならば大豆が良く実る。・・北風があれば穀物の実りは中くらいである。・東北風があると豊作である。・東風があると洪水がある。とあって真東に祈るのは洪水ほどの雨が欲しい時で東北に向って祈るのは豊作祈願で切羽詰っていない時。商の湯王が「柴の上でまわりに火をつけよ」と命じたのは5年も続く旱魃の後らしいから真東に向って祈ったのでしょう。なにしろ東=龍=夏、を倒した後の話ですから。
(殷代甲骨文に関する本は未読ですが、末次信行の『殷代気象卜辞之研究』(玄文社)があるそうです)


re:初めての帰化人 投稿者:s_tan  投稿日: 5月14日(火)00時20分30秒

歴史、つまり書・記録での最初の帰化人は都怒我阿羅斯等、次が天日槍でどちらも垂仁期ですか、あらためて考えると奥深い。
たしか呉の織姫も帰化は複数の天皇期に書かれてますがこのあたりはいかがでしょう。

秦氏の主流が呉系楚人というのは今までの所ですが私も同意見です。トーテムが牛・蜂というのも面白い、ハチといえば名古屋の市章が「丸に八」ですがこの関連などは調べたことはございませんか。
秦さん故にお聞きしたいのですが、一族・親族として男・父親のもつ(イメージ)旗などの色は赤色でしょうか、それとも白色でしょうか。
同じく太陽は男として、それとも女としてとらえてますか。


初めての帰化人 投稿者:はたよしのり  投稿日: 5月12日(日)22時37分56秒

塚田敬章氏によると、歴史に登場する最初の帰化人は、日本書紀、垂仁天皇二年、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)で、「角がある人」の意で、額に角の生えた牛トーテムを表し、ウシキアリシチカンキという別名があるそうです。現在の福井県敦賀市付近の伝承では、角の土地という意味で「ツノガ」となったようです。
新羅(=弁辰)のソシモリに天下り、土船に乗って渡来したという八坂神社の祭神・須佐乃男命(神代紀)は八坂神社、八俣のヲロチなど八に結びつき、牛頭天王となって祭られています。また、記、紀神代では頭に蜈蚣が付いた姿に描かれていますし、ヘビ、蜂(=八)とも関係しています。全て、呉と楚に分類できる要素で、須佐之男は呉系楚人の神とすることができると聞きました。
次に登場する帰化人は、垂仁紀三年の、新羅の王子という天日槍(天日矛)です。この神は、伊都県主との関係から、呉系楚人、堂谿氏(姫氏)の祖神と既に判明しています。つまり、天之日矛と都怒我阿羅斯等は同じ一族ということになります。
新羅(弁辰、辰韓)は、長城築造のため、秦の始皇帝により遼東半島に強制移住させられた楚人、越人が、秦の滅亡後、逃亡して建てた国でした。この秦から渡来したと唱える呉系楚人が秦氏ですから、天日矛は秦氏の祖神でもあります。
呉系楚人(秦人=ハタ人・熊襲)の神、須佐乃男は、人身牛首の形をし、どちらかと言えば、海や冥界を支配する月に重きがありますが、日、月の両面を持つ神であり、且つ、火の神、竃神だそうです。
そういえば、秦氏の神社である、京都の大酒神社や秦河勝を祭る大避神社では牛祭りと言うのが行われます。
とにかく、牛を神格化するほど大切にしていたようですね。
また、八咫烏(ヤタガラス)=三本足のカラスについて調べるうち、九州で秦王国を築いた後、熊野から大和に入ります途中で出雲の大国主とも出会うと言う話になり、神武天皇の東征とダブってきました。熊野神社の神紋がヤタガラスです。法隆寺にもあるとか。古くはやはり朝鮮半島のようで、朝鮮では太陽を背にしたヤタガラスです。ヤマタノオロチもしかり、三種の神器の一つが八咫の鏡。八幡も語源が近いようです。
池田の南、豊中市に服部と言う地名があります。服部天神の由来にむかし秦氏が住んでいたと書かれています。どちらも機織(はたおり)に由来があるようです。秦氏と服部氏は関係が深いと思います。平安遷都する以前、秦氏は蘇我氏におさえられていたようです。聖徳太子のパトロンとして秦河勝の存在は有名ですが、聖徳太子の力が弱くなると、蘇我氏との関係は悪化し、河勝は兵庫県の赤穂に逃れました。赤穂に河勝を祭る大避神社があります。京都に残った秦氏一族が平安遷都を成し遂げるようです。また豊中市で開業されている秦医院の先生に出身を尋ねた所、平家と一緒に落ちていき、因島にたどり着いた一族で、因島出身らしいです。

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re:近況報告 投稿者:かたばみ  投稿日: 5月10日(金)19時59分12秒

≫明応凶年記に御葬場殿に白木の鳥居を作る事見ゆ。大和国は死人を焼くなるところに必ず鳥居立ちたり。

この記事は面白いですね。

鳥居の研究の鳥居の史的考察の章に、神ならざる神の堂前に建てた鳥居は枚挙のいとまなく・・明治初年における神仏分離の実施で・・神仏不分明の祀堂前に鳥居を建てることが禁じられた、とあります。
神仏習合時代に仏教側が鳥居の概念を取り込んでいたことを示すもので、倭訓栞の記事もこれを示すものと思います(明応は1492)。

仏教にとって鳥居に意味があったために取り込んだのだと思うのです。
(神仏習合の流れから見てここでは仏教=密教でいいと思います)
どのような意味があったのか、ここにひとつの鍵がありそうな気がします。

四天王寺(境内案内、石鳥居)の説明にインドからきたものとあるのですが、その根拠は??
仏教であるなら朝鮮半島や中国に類例が多くあってもいいはず。
単なる門や結界と解することはむずかしい。

陵墓型鳥居(古墳など)はもっとも古典的な形式のようですが、これの本質は神ではなく葬送だったのではないか(鳥葬→鳥の居る場所を設ける、これとなんらかの合体の可能性)。
インドに鳥居らしきを知りませんが、日本古来の葬送儀礼に鳥居があったなら密教がそれを取り込んだ可能性がある。
インド(ヒンズー)が火葬であり、密教はヒンズー文化を取り込んで誕生していますから、このあたりに火葬と鳥居の連結があるのかもしれない。

天皇の火葬は持統686-696が最初のようですが、天照大神を生み出す記紀編纂時代でもあり意識の変化がみえる時代。
生は神社、死は寺といった暗黙の分離が背景に生じはじめた時代ではなかろうか。

かたばみ


桑、補足 投稿者:s_tan  投稿日: 5月10日(金)01時09分50秒

肝心なところが抜けてました。
雨と桑の関係、お気づきと思いますが、四神の東は青龍。四神として固まる漢代以前から東は水と関連深いのかも。木と水は密接。
桑の木を切って雨を降らせるのは「怒らせて」でしょう。

鳥居と火葬(死者)が密接と思うのは、鳥居の根本藁巻きに亀腹、藁はどうも時のお上に反抗の象徴的使い方もされて、亀といえば「カメにする」といった使い方、吉備津神社の恩羅が埋められたともいう社殿基礎の亀腹。
柴も柴巻きとか謂い、子供を巻いて川に流すなど口碑もあったりして、死者と密接な話によくあたる。


ワームとメールアドレス 投稿者:s_tan  投稿日: 5月 9日(木)23時36分15秒

Topページからメールアドレスを外して変なメールは減少しましたが、最近また殖え出す気配です。面倒ですね処理が。。

当、掲示板は書庫として、旧ログを残していますが、
邪魔なメールでお困りの方は、この掲示板かゲストブック(s_tan)まで連絡ください。
メールアドレスを変更、又は削除します。

追:プロバイダ odn でこのhpを御覧になっている方で心当りの方、PCを点検されたほうが。。


re:都市の周辺の・・ 投稿者:s_tan  投稿日: 5月 9日(木)23時28分53秒

>石切神社はすごいところのようですね(^^;
#神社探訪の石切剣箭神社から瓢箪山稲荷・・鐸比古辺りまで占いの歴史などちと載ってまふ。

難波から見て真東の位置、の補足。発掘された難波京から東の風景は、
冬至には生駒山系高安山山頂から日が昇る。同方向にあるのは佐麻多度、御野県主、加津良神社。山の先には龍田大社、片岡神社。
夏至には生駒北山裾の重なり清滝から日が昇る、間に深野池があり朝日がキラキラでしょう。同方向に国中、御机神社。山の先に磐船神社。
春、秋には、生駒山山頂から日が昇る、同方向には石切剣箭、山の向うに往馬大社。この方向も古河内湖に朝日がキラキラでしょう。江戸期には深野池は別として河川・湖沼への反射でしょうか。


re:近況報告… 投稿者:s_tan  投稿日: 5月 9日(木)23時27分18秒

聖月さん、がんばってますね、ウラとり有難うございます。
そうでした、学術では出所文献が必要なのですね、分る限り明記します。

倭訓栞も一度読んでみたいですね、江戸期の書に200年前の話が載っているのですね。大和国、伊勢長官、東寺の慧果、紀州の墓所、興味深い。全国的ではなく部分的鳥居の使用とのニュアンスですね。
この鳥居の使い方は列島でも室町よりかなり古くからと考えてますが、

●「三国史記」の辰韓の昔于老(せきうろう)列伝、于老の暴言に腹を立てた倭王は于道朱君を大将にし攻め寄せ、干老は冗談と弁解したが、倭人達は返事もせず捕らえ柴を積んだ上に于老を置いて焼き殺してしまった。東川王死後7年後AD253のこと。

>王だけでなく巫(呪い師みたいな人)も多く人身犠牲となったようです。
#王みずからが後、巫女など呪術者に代ってこれを「焚巫ふんふ」。権力の世襲が強くなってきたのでしょう。


>桑
#これは凄い所にあたりましたね、奥深いというか信仰と権力交替が織物のようになっているというか暗示的使い方も多いようです。簡単には『扶桑略記』の桑のイメージですが。

●神功紀5年3月条に、桑原、佐糜(味、さび)、高宮、忍海の4邑の漢人の起源伝説あり。これらの漢人は葛城襲津彦が新羅から連れてきた俘子であるという。
●『日本書紀』雄略6年秋7月、詔して桑に宜き国県にして桑を殖えしむ。又秦の民を散ちて遷して庸調を献らしむ。
とこれは反物主としてですが、臨済栄西が桑の薬としての効用を記した『喫茶養生記』も。

●古代中国では、天地の間を上下するための天橋・天梯を二種類考えた、一つは「建木(けんぼく)」「若木(じゃくぼく)」「扶桑ふそう」「霊木れいぼく」などと呼ばれる樹木。・・ ●殷の時代、神話の10個の太陽に甲乙丙丁など十干の名がつけられている、殷の王も祭祀の時には大乙、中丁、など十干の名で呼ばれる。
●『史記・周本紀』西周は幽王の代で滅亡するが、幽王の父・宣王のころ「童女謡いて、{厭シタニ木}弧(えんこ)箕服(きふく)、じつに周を亡ぼさん、」。エン弧は山桑の木の弓。
●『礼記』(周礼)「皇后は斎戒し、親ら東に向き桑をつむ」。黄帝が昇天のとき地上に残した「烏号」という弓は、烏のとまっていた柘桑の枝で作ったものだという。
●10個の太陽は東にある扶桑から順に昇る。「山海経」「淮南子」
●清代(1644ー1912)の詩、
  観海(徐福島)  黄体中
 東海茫茫万里長 水天何処是扶桑
 海船一去無消息 徐福当年賺始皇 

●日本、常陸国での伝承「・・事情を知った父はここで苦労するより新天地でと桑の木をくりぬいたウツボ舟に姫を乗せ大海に流す、やがて常陸国豊浦にたどり着き権太夫に拾われる。姫の死後 棺に蚕が居てやがて見事な繭を作った。」
●「月の出羽路」江戸後期の地誌、羽後国仙北郡横沢村の「白神」の条に、「白神社(おしらさま)・・・そのそもこの御神は養蚕の御神霊にして、谷を隔てて生ひ立つる桑の樹の枝を伐りもて、東にあたれる桑の朶(えだ)を雄神とし、西を雌神として八寸あまりの束の末に人の頭を刻み作りて、陰陽二注の御神に準えて、絹綿をもて包み秘め隠し、巫女それを左右の手に握りて、祭文、祝詞、祓いを唱え、祈祷加持して祭るなり。このおしらを行神(おこなひがみ)といふ処あり。是に姫頭、鶏頭、馬頭なんぞの品あり。・・・」

と、桑は朝日の昇る東方の象徴で日本では新天地との意味合が強くなる、といったところでしょうか。



re:都市の周辺の大衆信仰 投稿者:かたばみ  投稿日: 5月 9日(木)19時17分38秒

石切神社はすごいところのようですね(^^;
饒速日を祀っているようですが、いつごろからどうなって現在に至っているのかその流れを知りたいです。

商工業が生業となった地域の神社はおのずと様相が変わってゆくのではないでしょうか。
農耕や漁労を生業とする地域では大自然への畏敬が消えることはないと思いますが、周辺がすべて人為による商工業であった場合にどうなるか・・

東京の水天宮もふだんからずいぶんと混みあっています。
もともとは水神信仰(龍神)で水天とは密教の雨乞い祈祷の「水天供」によるようです。
安産の御利益はどうも明治あたりに東京の水天宮から広まったらしい。

アイデアマンがいたに違いなし(^^;
今参拝する方々は水神様の存在などはこれっぽっちも意識していないと思います。
ここでは子供用のおもちゃの土産屋が少なからず並んでいます。

石切が腫れ物や病治癒なら薬、悩みがあるなら占いましょう、で願いに欲望が加わってさらにそれを呼び寄せるのではないかなあ。
饒速日という謎の人物、それでいて武器という明快なご神体、謎でありながら明快、これもその筋をひきよせる力を持ちそうに思います。


stanさん
≫初めて石切の参道を歩いた時は、何か”おどろおどしい”といったイメージが残ってましたが、3,4年前にはその感じは受けなかったです。

朱に染まる前と後、その違いではなかろうか(^^;

かたばみ

↓ 


近況報告… 投稿者:聖月  投稿日: 5月 9日(木)18時44分40秒

stanさん、お久しぶりの聖月です。
例の鳥居のルーツについてですが、ボツボツ調べていると、おっしゃっていた『殷の時代に王が積柴の上で焚殺される風習があった』という話をようやく見つけることができました。
どれも漢代以後の記録で、”風習”とまで言えるのかは分かりませんが、

@其の年大いに旱す。(略)…薪柴菱草を積み、(略)…火を其の傍らに構まえ、将に自ら焚けんとす。しばらくして雨ふる。(『後漢書』「諒輔伝」)
A其の夏大いに旱す。(略)…乃ち薪を積み、其の上に坐し、以て自ら焚く。火起こりて大雨暴に至る。(『後漢書』「独行列伝」)

とありました。この他『説苑』には君主が自身を三日野にさらし、雨を降らしたなどという記述もあったりして、やはり雨乞いの時に多く王が自身を捧げることが多かったみたいです。また、雨乞いの時に焚かれるのは、王だけでなく巫(呪い師みたいな人)も多く人身犠牲となったようです。
それから少し話がズレてしまうんですが、当時の雨乞いの記述を見ていて、

・湯既に夏に克つ。大いに旱すること七年なり。(略)…湯乃ち身を以て桑林に祷る。其の爪髪をきり、自ら以て犠牲と為す。…
・大いにうするは旱すればなり。鄭大いに旱す。(略)…桑山に事あり。その木を斬るも雨ふらず。
とかあったんですが、雨乞いの祈りの対象が、雨や水に関係がある所にではなく、桑林や桑山というのは、桑が何か雨と関係があるということなのでしょうか。

ところでサハリン北部の土着民の”死者を火葬した場所に鳥居のようなものを置く”という風習ですが、根岸栄隆氏の『鳥居の研究』を読んでいたら中に、

倭訓栞前編の『とりゐ』のところに、
明応凶年記に御葬場殿に白木の鳥居を作る事見ゆ。大和国は死人を焼くなるところに必ず鳥居立ちたり。伊勢神宮長官の墓所に鳥居建てたり。東寺にある慧果の廟所に鳥居あり、(略)…紀州の墓所には皆鳥居あり。

とあって、少なくとももうこの頃日本には死人を焼いた所に鳥居を建てていたというワケなんですね。


re:都市の周辺の大衆信仰 投稿者:s_tan  投稿日: 5月 9日(木)00時15分35秒

GWの歴博、近辺混雑してませんでしたか。am10-pm05ですとかなりじっくり御覧になった?VTRも殆ど?ソフトも当然食して?

昭和40年代に初めて石切の参道を歩いた時は、何か”おどろおどしい”といったイメージが残ってましたが、3,4年前にはその感じは受けなかったです。参道の風景が変ったのか、年齢による感受性の問題でしょうか。。
石切で占いが活発だったのはどうしてでしょうね、難波から見て真東の位置が関係あるのか、古くからの占の場所なのかは調べていませんが。現代の新宿の母(古いか)ではないですが、東高野街道・北の野崎観音・生駒からの景色・・という行楽立地と神秘性を持たせられる伝承とか古墳の多さなどが占、易が盛んな理由では、と思います。
しかし、お大尽は台地から屋形船に華を乗せ生駒麓で花を愛で粋な桂垣の内で茶会、かな。庶民は土手をてくてくの行楽でしょうね。

意識関係といいますと色々な側面があるでしょうね、庶民―村のお上―地方のお上―国のお上、それぞれが似たような意識をもつでしょう。神社と大衆信仰、この場合の占いは寺社の商業施設(行楽施設)としてが強いのではないでしょうか。


re:はじめまして秦です 投稿者:かたばみ  投稿日: 5月 8日(水)00時16分51秒

はたよしのりさん、いらっしゃいませ。

秦氏は古代の重要氏族ですね。
時代の異なる中国からの渡来者が日本で混合して秦氏の祖になっていると考えています。

ひとつは秦の始皇帝の直系で、記紀神話でいう天孫降臨と同時代の渡来。BC150頃と推定。
天之忍穂耳の妃となる萬幡豊秋津師姫もその血筋を引くと空想しています(^^;

もうひとつは弥生末期〜古墳時代にはいってからの渡来者で、山東半島〜朝鮮半島南部経由で渡来した人々。
応神時代では弓月氏系譜が有名ですね。
この時代では15世代くらい経過ですから子孫は万の単位になっているだろうなあ。


秦氏の「はた」はパタ=海の意という論に賛成です。
ただし弥生以降では「はた」は海の向こう(外)=舶来、といった意味で用いられたのではないかと考えています。
ハタ・オリとは舶来の織り、ハタ・ケ(畑)とは舶来の農耕、といった使い方です。
(ハタ=端・傍、も同類とみています、はたでやきもきする→外部から心配する)

始皇帝につながることを誇りとして秦の文字を使い、渡来者を祖とすることでハタの読みをもって名にしたのではないかと考えています。
同族でも羽田などの場合はちょいと流れの違う渡来者なので秦は使わなかったのではなかろうか。

秦氏に対抗する後漢霊帝の子孫ともいう漢氏をアヤ氏と読むのもなんらかの「弥生語」ではないかと思っています(半島南部の加羅国のひとつアヤ国にちなむという説があるようですが??)。
アヤ:模様のある絹織物・・うーむ。

かたばみ


都市の周辺の大衆信仰 投稿者:志水満  投稿日: 5月 7日(火)06時59分31秒

歴博にいきました。縄文の展示部分が多くて満喫できました。改めて見ると銅鐸の美しさは格別でした。ずっと光り輝いた状態で使われていたはずはないと思いましたが、私は食事の合図とか日常的に人を集めるのにちょうどいいなと思いました。娘も真剣に見ていました。朝10時に入って5時までいて疲れました。
それから都市の周辺の盛り場のコーナーで浅草・稲森稲荷・大阪の水掛不動までは理解できましたが、石切神社参道沿いの金と銀の神(占いの神?)の店が復元されているのにはびっくりしました。何故かというとその付近は小さい頃よくいったところで、たしか小学校の同級生がいたという記憶があります。
この展示を提案した人は、私と同じ町(東大阪)の出身ではないかと思いました。有名な高島易からこのようなちょっといかがわしい占いの店は、このあたりには実にたくさんあります。一キロの参道沿いに二十数軒くらいはあると思います。
究極は石切神社ですが、考えてみると確かに珍しい都市の風景だと思います。実家があるので一年に一回くらい訪れるのですが、このような店はおばさん中心の客が多く今でも盛況です。このあたりは今でも村意識が残っています。見た目は大坂の下町ですが今でも寄り合いで物事を決めています。人口は多いのですが大きなむらという感じです。
神社を中心に宿場や商業店舗があるのなら理解できますが、このような大衆信仰は神社とどういう意識関係にあるのでしょうか?


re:はじめまして秦です 投稿者:s_tan  投稿日: 5月 7日(火)01時24分21秒

秦さん、こんばんわ

池田近辺の話題ありがとうございます。今後とも色々とお聞かせください。
ご自分の家系が歴史書などに顕れていると、それも古代から、歴史を身近に感じられますでしょう。

秦氏といえば、書を読んだり神社を調べると関連がでてくる筆頭ですね、関東神奈川でも秦野と云う名の市がありまして、これは「はたの」ではなく「はだの」と読ませています。朝廷にうず高く「肌ざわり」の良い布を献上した、にからみ「はだ」と濁って読ませていると秦野市史に載っています。
秦野市の名の由来になった神奈川県の秦氏は藤原兼家の頃に波多野と名を替え尊卑分脈ではその祖を藤原秀郷に置いています。
あと富士山麓にも多数移住し、どうも以前の同姓の総理大臣がその流れらしいとか。


はじめまして秦です 投稿者:はたよしのり  投稿日: 5月 4日(土)00時44分44秒

はじめまして、秦といいます。名前が難しく、正しく読んでもらえなかったり、読めても正しく書いてもらえなかったりします。「泰」や「奏」とかかかれます。生まれは大阪の池田市。池田市にも伝説があります。大阪湾から渡来人が都に上がるのに水路で猪名川に入り池田に来てとどまった様子。二人の姫がいて、一人を綾服部(アヤハトリ)もう一人を呉服部(クレハトリ)と言います。猪名川で絹を洗って川原に並べた事から絹延(キヌノベ)という地名があり、五月山には絹掛けの松があります。綾羽神社、呉羽神社があり、それぞれの姫が祭られています。秦氏に関係があるようです。池田市には秦野という地名があります。池田の南、豊中市に服部と言う地名があり、服部天神の由来にむかし秦氏が住んでいたと書かれています。どちらも機織(はたおり)に由来があるようです。自分の名前なので興味を持っていました。池田市に秦氏が住んでいたのですが、猪名川の上流の三田市にも多く住んでいた様子。また池田の北、大阪府から京都府に入ったところに亀岡市があります。亀岡市はもともと大きな湖だったのですが、秦氏が干拓し、ここに一族の一つの拠点を置きました。亀岡から嵯峨野一帯に秦氏が住んでいたのですが、そこからさらに今の京都市内を干拓し、桓武天皇を京都に招いたようです。
僕自身は池田市出身ですが、本家は亀岡市本梅町です。
秦氏は大陸から渡来する技術を持っていたわけですから、海上の交通や水路の移動手段には長けていましたし、まず水を治めることが一族を繁栄させることを知っていたのでしょう。亀岡にも湖があった事、桂川や加茂川にも堰を設け巧みに水を操った事、土木灌漑技術が優れ、また、養蚕の技術から、医術、酒作りまで幅広い技術をもった集団であったと思います。
今となれば面影もないのが情けないです。
服部天神の由来:昔、朝鮮を経由して吾が国へ渡って来た秦の人々は、機織りの技術を吾が国に伝えましたので、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着きました。
 当地「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。
 秦氏は、医薬の祖神・少彦名命を尊崇していましたので、この地にも小祠を建てて、少彦名命をおまつりしていました。
秦氏の人々がこの地に移り住んでから数百年が過ぎ、時は延喜元年(西暦901年の春、右大臣、菅原道真公は、無実の罪をきせられて九州太宰府へ左遷される途中、このあたりまで来られて持病の脚気に悩まれ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。
 その時、村人たちは、少彦名命をおまつりしてある祠に詣でて、足病の平癒を祈願されるようにおすすめしました「少彦名命は、神代の昔、大国主神と協力して国土を治められ、さらに遠く海外の地をも巡られて、この世の生きものたちのために医薬の方法を定められ、また生きものにとりついて苦しめる邪霊を祓う方法も定められました。この時より今の世に至るまで、生きとし生けるもので、この二柱の大神のご恩をこうむっていないものはおりません。このように尊い少彦名大神にお祈り申しあげますならば、かならずやおみ足の具合も良くなられると思います。」
 このように申し上げる村人の言葉にうながされた菅公は、少彦名命をまつる天神祠へとむかわれました。
菅公が天神祠へお参りされますと、境内近くの路ばたにある五輪塔が目にとまりました。
  そして、その五輪塔がこの時より百年程の昔に太宰府へ左遷される途中、病に臥され、遂にこの地にてなくなられた川辺左大臣、藤原魚名公の墓であることをお知りになった菅公は「昨日は他人の身、今日は吾が身にふりかかる定めか」と嘆ぜられ、天神祠にご自身の足病平癒を祈願されると共に、魚名公の霊をもねんごろにとむらわれました。:::

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re:「日本列島における和泉の歴史と文化」 投稿者:s_tan  投稿日: 4月30日(火)02時12分05秒

ご案内ありがとうございます。
関西が近くでしたら、ぜひ伺いたい講演内容なのですが。。
和泉といいますと、市役所で古地図をコピーさせて戴いたことがあります。親切な方でした。


「日本列島における和泉の歴史と文化」 投稿者:資料室(和泉市立人権文化センター)  投稿日: 4月28日(日)11時27分49秒

(突然の書き込み失礼します。事業のご案内をさせていただいてもよろしいでしょうか。)
公開講演会・シンポジウム「日本列島における和泉の歴史と文化」のお知らせ。
↓詳細情報(チラシ)を転載しています。
http://www.ican.zaq.ne.jp/m471560/e20020525.htm

▼公開講演会
平成14(2002)年5月25日(土)13:30−17:30
「日本人はどこから来たか」
  尾本惠市 (桃山学院大学教授)
「池上曽根遺跡の文化史的意義」
  金関 恕 (大阪府立弥生文化博物館館長)
「古代史における和泉」
  上田正昭 (京都大学名誉教授)

[参加費 ] 無料
[申し込み] 不要です。当日会場におこしください。
[会  場] 和泉市市民文化ホール(大阪府和泉市)

http://www.ican.zaq.ne.jp/m471560/e20020525.htm


空想で楽しむ大王の時代7 投稿者:かたばみ  投稿日: 4月26日(金)00時36分46秒

清寧は雄略から逃れて播磨に潜んでいた市辺忍歯王の子ふたりを養子としたとされています。
しかし・・
顕宗485-488=弘計王(書紀)、袁祁之石巣別(古事記)
仁賢488-498=億計王(書紀)、意富計王(古事記)、嶋稚子、大脚、大石

仁賢の意富計王からみて、オケではなくオウ・ケ(ヲホ・ケ)だと思います。
稲荷山鉄剣銘文の意富比魁(大彦)のオウです。
顕宗の袁祁之石巣別は「壱岐」「息」「意祁津姫」、日本海系でしょう。

ふたりの母は市辺忍歯王の母と同じ葛城氏とされますが、葛木系にも仁徳系にもオウらしきはみあたりません。
しかし大彦の子建淳川別の子には「意布比」が見えます(系図綱要/太田亮、紹運録)。
(建淳川別は垂仁の五大夫のひとり、阿倍氏の祖)

垂仁紀2年のツヌガアラシトの出自を「意富加羅国」とする一書があります。
意富加羅国を大加羅国と解釈するようですが、大百済とか大任那とする例はないし加羅は大国でもありませんから、大きい加羅の意は無理だと思います。

「意富」が「大」につながるとしても、オウのなになにといった固有の共通項を意味するものと考えます。
意富加羅国とは出雲の縁戚の伽耶、それが出雲滅亡と同時に大彦に制圧された、それゆえの意富ではないか。
(大彦の孫に豊韓別という人物がいる)


市辺忍歯王の別名がなかなかです、天萬国萬押盤アマヨロズクニヨロズオシイワ。
播磨で顕宗が自分の身分を明かす歌に「市部の宮に天下を統治した天萬国萬押盤の御子」があります。
顕宗の読んだ歌というのは信じがたいですが、記紀がこれを書いているのは市辺忍歯王が大王であったことを意識しての「天下を統治」でしょう。

雄略の子である清寧の名は「白髪武広国推稚倭根子」。
顕宗と仁賢が仁徳の孫、市辺忍歯王の子であるなら同等以上の名を与えてもおかしくない。

顕宗と仁賢は雄略時代に京都府の宮津市(若狭湾西岸)に逃げ、さらに播磨へ逃げたとされています。
顕宗は月神(壱岐月読神社)と日神(対馬アマテル神社)に土地を奉納しています。
(そのひとつが京都市西京区の月読神社)
簡素な名は二人が近畿出自ではなく日本海出自の王だからだと思うのです。


顕宗と仁賢は清寧の没後に皇位を譲り合ったそうで、その間に飯豊皇女(市辺忍歯王の妹、履中の娘)が天下の政治を行ったとあります。
またまた女帝の登場で、ここに「飯豊天皇」が存在するとする論もあるようです。
宮殿は北葛城にあったとされますが市辺忍歯王の系譜なら妥当なところでしょう。

顕宗と仁賢の譲り合いは応神時代の菟道稚郎子と仁徳の譲り合いと同じ。
皇太子を受けたということは次に即位することを受けたということ。
譲り合うなら立太子のときにやればよろしい。

譲り合ったとは清寧の後に王たるべき人材がおらず空白が生じたために日本海系の王を呼んだことを隠すための創作でしょう。
雄略が九州系なら瀬戸内は掌中の地でしょう、逃げるなら東国か日本海しかない。
播磨の話は二人を市辺忍歯王と葛城氏につなぐための創作とみます。


弱体とも見える顕宗、仁賢が合わせて13年(485-498)も在位できたとされるのはなぜか。

百済は高句麗の攻撃で479に滅亡し、倭国が送り込んだ東城王でかろうじて命脈をつないでいます。
新羅本紀では倭人の侵入、抗争がひんぱんに書かれています。
(倭国ではなく倭人とあるのが微妙、加羅ないし任那の兵かもしれません)
対して東城王年間479-500に百済と新羅の抗争記録はありません。

倭国は百済の側面支援として新羅を攻撃し、新羅は百済に干渉するゆとりがなかった。
倭王武もまた半島対策で手一杯で近畿(日本海)に干渉する余裕がなかった。
これが顕宗と仁賢の13年間だと思うのです。

顕宗488に任那の紀生磐宿禰キノオイワスクネが高句麗と通じて王となろうとして百済軍に敗れて逃げ帰った、とあります。
百済滅亡に乗じて旧出雲とつながる葛城系氏族が任那で独立を計った事象と推定。
東城王479の時代ですから倭国と百済は一体です、紀生磐宿禰が「倭国」に逃げ帰れるはずがない。
どこへ逃げて「帰った」のか。

日本海勢力なら島根半島あたりから朝鮮半島東岸を北上して高句麗と交流可能です。
国譲り以後の出雲が対外交流できた唯一の窓口も高句麗だった。
紀生磐宿禰が逃げ帰れる場所は日本海沿岸以外にはない。

仁賢紀488-498に高句麗へ技術者を求めた記事があります。
495の百済本紀と新羅本紀では高句麗の侵入に対抗して相互に援軍を送っています。
倭国と百済は一体、「倭国」が高句麗へ援助を求めるなどありえない。
仁賢もまた「倭国」の王ではないことを示す記事です。

これらは「倭国=倭王武」が日本海勢力の独自行動を押さえられないほど弱体化していたことを示すものでしょう。

続く

↓ 


附属の夷 投稿者:s_tan  投稿日: 4月21日(日)23時31分55秒

お疲れ様。
 火葬といえば、弥生時代という群馬赤城の洞窟墓と確か三浦半島の海岸洞穴からも火葬痕跡の骨が見つかってますね。
 殷は北方森林地帯民(北狄)からの南下ということですが、武丁はモンゴル平原の遊牧民(匈奴)を大量に奴隷にしたらしい。
 黒海近くの、キンメリア(BC20C?〜)---スキタイ(BC10C?〜)―サロマタイ・月氏・烏孫―・・・で、このスキタイの敵の髑髏に金を塗り杯にする風習、といえば信長を連想ですね、信長といえば全盛の頃に関西で牛頭天王社が急に増えている。
この黒海から中央アジアへ遊牧騎馬の墓制は地下に埋めて地上に小さな墳丘、馬・家畜など陪葬。殆ど埋め戻しだが一部木槨を梁と小柴で屋根を作り墳丘大き目のもある。
 後のジンギスカン等に見られる墓が周りの地形と自然が同じになる迄、見張警固を置く。この時期の目安に小さな鳥居が朽ちる迄、が使われた可能性はないかなぁ。

あと日本にも来ていた明の鄭和艦ですが、宦官イシハの艦隊がアムール、黒龍へ遠征してるので、この辺りの記録があれば何か関連が載っているかも。


何とか… 投稿者:聖月  投稿日: 4月20日(土)20時30分21秒

今日、大学の図書館行って、ひとまず『間宮林蔵の記録』というのを見てみることにしました。
なかなか見つからなかったのですが、ようやく何とか見つかり、stanさんのおっしゃった通り、東鞭地方紀行と北夷分界余話(他にもいくつか)が載っている本を見つけました。
そこには確かにサハリン北部に住むスメレンクル(またはギリヤーク)の風習の中に、死人を火葬したあとの場所には、木の枝を重ねて鳥居のようなものを置くとありました。ただ、一緒に載っていた当時書かれた絵をみる限りでは、鳥居と違って、横木は二本ではなく一本でした。
しかしこのスメレンクルは『満洲附属の夷』とも、『満洲に至りて交易をなす事屡々なれば』ともあるので、中国文化の影響を受けていた可能性はあると思います。果たして、柴の上に鳥居のようなものをおく風習はどこからきたのか、とても興味深いところです。


re:鳥居 投稿者:s_tan  投稿日: 4月19日(金)23時24分08秒

>ぜひウラとってみたいですね〜(とれるかなー?)
#がんばってください。楽しみに待っています。

間宮林蔵、メモ見直したのですが詳細不明^^;まあ確か2冊しか書いて?ないから。。
メモの時期からすると大阪府立図書館の蔵書だったと思います。
東鞭地方紀行・北夷分界餘話の両方が載っていたような記憶。。
東鞭は幕府提出書だから余話のような気します。
柴、北方(遊牧)、小型鳥居、関連記述の資料があったらぜひ連絡ください。


空想で楽しむ大王の時代6 投稿者:かたばみ  投稿日: 4月18日(木)23時53分16秒

雄略の名は大泊瀬幼武、「泊瀬で即位した幼武大王」・・強力だったわりにはお手軽(^^;
近畿にとって外来者だからだと思います。
安康は穴穂のみ、1年でも穴穂という場所にいたからそうしておけ、程度の名か。

稚なになに、という名がたくさんありますが、若くして「なになに」ではなく、「なになに」を受け継ぐ者の意だと思います。
「幼武」の意味も同じで、安康(倭王済)が武力で近畿を制圧した王であって、その勇武を継承したための名とみます。


清寧はわずか5年の王で大きな事跡はない。でも「白髪武広国推稚倭根子」、雄略よりずっと重い名です。
倭根子、開化以降消えていた尊称をなぜ復活させているのか・・??

他に倭根子(日本根子)を冠するのは元明707、元正715、光仁770、桓武782、平城806、淳和823、仁明833で、すべて天智あるいは天智の子の志貴皇子(田原天皇)にからむことに注目しておきます。
(例外が嵯峨809で「神野」2文字だけ、これもなにか意味があるかもしれません)


清寧の母は葛城都夫良臣の娘の韓姫。
仁徳以降大王家に妃を入れ続ける葛木氏(葛城)に「倭根子」の答えがあるのではないか。

宮崎県西都原の女狭穂塚に飛びます。
隣接する男狭穂塚は九州最大の前方後円墳、女狭穂塚は2番目の前方後円墳です。
隣接の円墳から有名な舟形埴輪や子持ち家埴輪がでています。

男狭穂、女狭穂ともに御陵墓参考地のために発掘できないのですが、女狭穂塚は1980に盗掘されています。
その埴輪類を調査したところ、形式が大和の室大墓出土の埴輪と共通なのだそうです。
室大墓は御所市の葛城古墳群のうちの最大の前方後円墳、むろんこの一帯は葛城氏の根拠地。
葛城古墳群は系列がわからない古墳群のようですが、それが西都原とつながっているわけです。

九州の前方後円墳の数は福岡と宮崎がダントツに多い。
福岡に多いのは当然として、集落遺跡もない西都原になぜ大規模な古墳群があるのか。

日向天孫が近畿を支配したとはいってもそこは出雲の地、出雲の神々は消えてはいない。
故郷で眠ることを望む人々が少なくなかった・・西都原は日向天孫の霊場だった(^^;
西都原には地下横穴式の墓も多数あります。
こちらは将官クラスの隼人の墓、やはり故郷に埋葬されることを望んだ武人の墓ではないか。

大彦は日本海側へ進出、開化は熊野上陸で一気に大和へ突入した。
葛城氏の故郷も日向で、開化時代に瀬戸内経由で近畿へ進出した人物を祖にするのではないか。
葛城一言主、「主」は出雲系の尊称、豊前〜瀬戸内〜河内と進出したなら出雲神族と結合するのは必然です。
弥生情勢図(AD50)国譲り前夜参照

隋書に筑紫の東に秦王国があり、そこは中国のごとくだったとあります。
秦王国が豊前あたりなら葛城氏の祖と秦氏も結合するはず。

記紀に登場する人物で葛城の祖を探すなら、孝元と物部の娘の子とされる「彦太忍信」あたりか。
武内宿禰の父ともされる家主忍男武雄心は彦太忍信の後裔で紀州に祭祀者として着任しています。
豊前や瀬戸内で出雲神族と結合していたなら、出雲族の地とみえる紀州西岸の祭祀者として適任。
出雲親族と秦氏(新羅初期王朝の王族と推定)を介して伽耶(加羅)や新羅とのつながりを持つことも推定できます。

物部、秦、瀬戸内、ここから浮かんでくるのは海運と商業です。
眉輪王をかばった葛城円大臣は雄略に殺されていますが、こちらは商業人としての葛城なのかもしれません。
古事記では雄略が葛城山で一言主にであって神と認めて共に狩りをする話がでてきます。
こちらは祭祀者としての葛城かもしれません。

葛城氏が大王家に妃を入れ続けながらも表面にはでない姿勢は、商業の基盤を持つ豊かな祭祀者だったからではなかろうか(吉備ともつながるか)。
もし仙人思想(秦→徐福系(^^;)の祭祀であるならなおさらです(→役行者(^^;)。

記紀は文化を記述していません。そのあたりが葛城氏の性格があいまいになっている理由だと思います。
物部氏の滅亡で葛城氏も衰退する、物部の性格があいまいなのと共通項がありそうです。


清寧が雄略の子であっても葛城氏が母であり、近畿で生まれた王であれば、記紀が日向の復活を意識して「白髪武広国推稚倭根子」を与える可能性はありそうです。

しかし清寧には子がなかった。
記紀が記している雄略の子もわずかに5人。
隋書でも倭王興(雄略)の継承者倭王武は弟、子ではない。

百済の池津姫など雄略の女性関係は盛んです。一晩に7回という話もあります(^^;
100人の子がいてもおかしくない。
清寧の若くして白髪だったことなど、雄略には九州大王系譜を滅びに導くなにかがあったのかもしれません。

続く


なるほど。 投稿者:聖月  投稿日: 4月16日(火)21時15分59秒

>stanさん、鳥居についての精神的な標という意見、とても面白いと思います。
ぜひウラとってみたいですね〜(とれるかなー?)
初めは”殷の時代”ということですが、ほぼ鳥居の形に近いトラーナがある古代インドの遺跡が、紀元前3世紀頃ということなので、それより前の殷ということには一理あるような気がします。
どこまで調べられるか分かりませんが、いけるトコまでいってみたいと思います。

ところで、サハリン土着民について書かれている江戸時代の間宮林蔵の記録というのは『東韃紀行』のことでしょうか?
ちょっと私はそれぐらいしか思いつかなかったので…(←知識不足でスイマセン…)

↓ 


re:戦争はいつ始まったのか 投稿者:かたばみ  投稿日: 4月15日(月)01時05分23秒

いくつかをはっきりさせておかないとすれちがいがでそうです。

戦争とはなにか・・
動物が縄張り争いをするときこれは戦争でしょうか。
動物の縄張り争いでどちらかが死ぬことはめったにないようです。

死を伴う争いを戦争というのか。
一方が敗北を認めたとき、それでもその相手を殺すとはかぎらない。

自分(集団)が生きるために戦う、これが戦争だと思います。
生きるために動植物を殺して食べる・・これすらも戦争だと考えています。
(欲望のために戦う、これが人間に特有の戦かもしれませんが、おいておきます)

もっと範囲を限定して人間同士で奪うことが起きたとき、これを戦争としてみます。
飢えて死ぬ人間がいない世界・・食料豊富、そういう時代があったなら、その人間は食料が足りる範囲で人口が増えてゆく。
しかし環境は必ず変化する。得られる食料が人口をまかなえなくなる時もくる、その時座して死を待つか。
奪えば生きることができるのです。

そういう状況があったかどうか、それが戦争があったかどうかの判断基準になると思います。
とすれば、BC2000以降の寒冷化の縄文時代では戦がはじまっていたのではないでしょうか。
渡来者とか先住者といったことと戦争は直接の関係はないと思います。


話が飛びますが・・
アフリカのチンパンジーは父系社会なのだそうです。
ある群で生まれた雄はずっとその群にとどまり、雌が群をでて他の群にはいってそこの雄の子を産む。
近親婚を避けるための本能だと思います。
ある群にいた雌の持っていた特技が、新しい群に広まることも確認されています。

対して母系社会の場合は雌はその群から動かず、雄が群をでて他の群にはいってそこの雌に子を産ませる。

縄文は母系社会だっただろうと思いますが、ここに外来者の男がやってきたとき、その外来者が高貴であり知識経験が豊富なら大喜びで子種を求めたのではないかと思います。
(客人の夜の相手をさせる伽の風習はここに源があると考えています)
(井原西鶴の好色一代男で世之介が女護島にゆくなどは、男性の側から見た桃源郷なのでしょう)


天之忍穂耳等が日本へ渡来したとき、三苗文化を受けて近代化していた九州縄文は再び渡来者を受け入れてその子を育て、文化を吸収したと思うのです。
スサノオの場合も基本的には同じですが、略奪者だったとするとちと複雑となりますけど。

九州縄文が天之忍穂耳やスサノオ等の渡来者の子を産みその子孫が増えていったなら・・その九州縄文は天孫の母であり出雲の母です。むろん先住者でもある。
記紀神話の「みな兄弟」はおおよそ正しい、これが理念上の天照大神誕生の源とみています。


母系社会に男性が1人だけしかやってこなくても女性が大勢なら産まれる子は無制限(^^;
母性は基本的に戦いを求めない(岩戸に隠れる)。

ひとりの女性が生める子には限界があります。
父系社会が拡大するとき、女性が足らないならば強引につれてくる(奪う)ことになると思います。
根元的に戦の危険が多くなるのではないかと考えています。
ただし、運が良ければ双方の女性が相互に相手へはいるという形で融合してゆく可能性もあります。

食料を得る手段(環境)が採集から生産へ変わっていったとき、母系と父系では生産体制にも違いがでると思いますが、どんな違いになるのか・・
母系と父系、これも戦の問題に重要だと思います。

かたばみ


re:戦争、、 投稿者:s_tan  投稿日: 4月14日(日)23時50分14秒

戦争の定義も難しいですが、計画的集団喧嘩でしょうか、恣意的なのかも。
清水さんの書かれたように、弥生人と縄文人の対立図式での説明する事には、ちと違うなあ、です。

初期の弥生人?の渡来にはKENJIさんの書かれた、生活手段の棲み分けの出来ていた時代で、渡来者にとっても戦争よりも人手そのものが重要な状況だったと思います。大きな戦争を起す程は富の蓄積ができなかった。命を掛けて集団で仕掛けるにはそれなりの見返りが必要でしょう。
小田原市の西の海近く中里(今はショッピンセンターが建つ)の発掘で弥生縄文の混血児の骨など、弥生人縄文人の共同生活が続けられた痕跡の発見もある。以前にも書きましたが、弥生人渡来=戦争なら、漂着神信仰が列島に広がっている説明がつかない。渡来≒漂着神が3世代以上何百年か続いた筈です。
列島での戦争は、先住渡来人と新来渡来人、新旧弥生人の争い。でしょう。


いらっしゃい 投稿者:s_tan  投稿日: 4月14日(日)23時32分07秒

聖月さん、こんばんわ

鳥居、今でも追ってますよ、情報が身近を通った時に捕まえるレベルですが。
鳥居の起源は色々と説もあり、部族ごとにその意味が違ったり、その時期でも違ったでしょうね、ですから色々な説はそれぞれ正解でしょう。
ただ理由の主流はいくつかに纏るでしょうね、位置の区別の標と精神的な標、でしょうか。
前者は大陸の華表とか神域との区別とか遠くのご神体(本殿)との距離を縮めるとか。華表については国内にまだ瓦が豊富でない頃に造られたのが三鳥居かも知れませんね。
精神的な流として下記に語を列挙します、これがひょっとして鳥居の流れの主流かもと考えてます。資料の豊富な在学中の聖月さんにウラを取って戴くとありがたい。

・殷インの時代には旱魃の時など、王が積柴の上に座して焚殺される風習があったといわれている。
・「高句麗本紀」によると東川王は248年9月に死んだとあるが、その場所は”柴を切って屍を覆った”ので葬地を柴原といった。
・遼東半島に6c前後に台頭した契丹という民族は後、遼を建国するが、重要な会議の前に柴を燃やして天を祭る「柴冊儀(さいさつぎ)」という神事を行った。
・江戸時代の間宮林蔵の記録によると、サハリン北部の土着民は死者を火葬に付した場所には木の枝、つまり柴を重ねその上に鳥居の形をしたものを置いたという。
・・・
 ちなみに古事記で最初に「柴」が出るのは、大国主の隠れ?段の「訓柴云布斯」と「ふし」と訓ませる所。
神社を廻ってますと時々ミニチュアの鳥居を見ますがこれは決してミニチュアではないのかも知れないです。画像が神社探訪の奈良志都美神社、別館dataの七夕神社にあります。
 あとモンゴル高原の民が神降しに柳の木を立てる。常陸鹿島神が大和へ入った時、鹿に乗り柳の杖(鞭)を持っていた。
小柴といえば、阿須波神(竈神)小柴をたてて祭る。とこのあたりも面白そうなところです。


縄文人も・・・ 投稿者:KENJI  投稿日: 4月14日(日)00時41分37秒

志水さん、最近の三内丸山遺跡の研究から言いますと、縄文人も定住していた、に変わりつつ有ります。
其処から見つかる栗の実のDNA分析から、自然の物じゃなく、栽培されていたそうです。
そして、黒曜石や他の遺物から、かなりの広い範囲で交流が有ったのも確認されています。
糸魚川産の翡翠も青森の縄文遺跡から出土しています。
昔、学校で習った、縄文人と弥生人の定義は変わりつつあります。

栗の木を栽培し、交易の品物にしていましたら、其処には、個人単位か村落単位かの貧富の差は
出来ている筈です。(お金じゃなく、物資量的な差)
其の後、海流の流れや地理が変わり、気温が3度程度下がったそうで、栗の栽培も出来なく成り、三内丸山地方は廃れたそうです。
一度、貧富の差を経験した人たちが、戦いを知るのは時間が掛からないでしょう。

これは、一つの例ですが、最近の考古学で明らかにされた事です。
縄文人が山や野原を彷徨い、狩猟だけで生活していたと言う、昔の教育は修正されるべきです。

入ってきた弥生人との戦いは有ったか如何かは、判りませんが、縄文人も戦いをしていたと考えられると、弥生人との戦いは、全く無かったとは言えないでしょうね。
「狩猟=戦い」 に、一番、転化し易い行動ですから。

今風に書きますと、醤油顔=弥生人。ソース顔=縄文人。的な人種(?)の違いが有るそうです。
関東以北の、囲炉裏文化=縄文文化。関西の、竃(へっつい)文化=弥生文化。の説を、見た事が有ります。
昨年の、NHKの放送を見ましても、日本人は、北や南から、何度も渡来した人たちで構成され、複雑に交じり合ってきたようです。
日本の縄文人、弥生人の分類で見るより、北の大陸系、朝鮮半島系、中国系、南の海系等の様に其々の地方で戦いが有ったか如何かを見る方が良いのじゃ無いでしょうか。

元居た人達が、戦いを好まなくても、後から来た人達が好戦的なら、一方的な戦いが有ったと考えるべきです。
インカを滅ぼした、スペインの例も有ります。

この様な考えは、如何でしょうか?(^^ゞ

http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/


戦争はいつ始まったのか 投稿者:志水 満  投稿日: 4月13日(土)23時00分59秒

新聞に佐原真先生の記事が載ってました。世界最古の殺しの証拠としては1万4千年まえのアフリカヌビア地方の墓地で見つかった58体中24体の殺傷痕とその石器が証拠となっていて、日本では約2500年前、高知県居徳遺跡で受傷人骨が見つかったそうです。このことを持って戦争というかどうかは疑問で、さらに到来した弥生人と在来の縄文人との間に戦争があったというには証拠がもっとほしいとあった。どうやら弥生人と縄文人という対立図式が学説のようであるが、私はこれには疑問があります。
たしかにアイヌ人やクマソといった日本古来の部族を南北に追いやったようであるが、戦争を持って征服したとは考えにくい。それはあまりにも自分以外は敵という考え方に染まり過ぎていないか?
ぼくはもっとやさしい部族であったと思います。たしかにその後の弥生社会には戦争があった証拠はあるだろうが、弥生人と縄文人の間に戦争があったとは到底思えない。

というのは縄文時代は人類は定住していたわけではなく、獲物を求めて狩猟または木の実を求めて採取をしていて食うや食わずの生活をしていたわけです。大自然という大きな圧力の中、そんな暮らしの中で同類の仲間を殺してまで生きようとする余裕はなかったのでないか。なぜなら普通仲間は重要な働き手であるからである。掟を破るとその集団全体が餓えて滅亡するわけです。戦争が起きるためには極端に富の偏在が起きて、集団の掟を破る男(破っても生きられる環境があり)が出てきてその規範破りの意識が、全集団に繰り返し蔓延したときにだけではないでしょうか。

縄文人にそのような極端な富の偏在が、起きていたとは考えられず、まして入ってきた弥生人と戦争しようなんて思いもよらなかったのでないか。縄文時代は、自分以外は敵である意識(邪心)が芽生える条件にはなかったとおもいます。だから僕はタヒチの女やインカ帝国の男がしたように弥生人を大歓迎したと思います。

どうでしょうか

↓ 


re:助かりました! 投稿者:かたばみ  投稿日: 4月12日(金)19時21分19秒

聖月さん、はじめまして。
お役に立ててうれしいです。

鳥居ってなんだろ、というのがきっかけではじまったのがこのHPなんです。
それが神様ってなんだろになり、神社になり古代全般になってゆきました。
いまだに鳥居は?ですが、あちこち歩き回るうちになにか見えてくるかもしれないと思っています。

「鳥居の研究」は古本屋の親父にこれ以上のはないよといわれて買わされてしまいました(^^;
鳥居を考えるには必読かもしれません。

konさんのHPのなかの「鳥居と狛犬」もどうぞ。

かたばみ


助かりました! 投稿者:聖月  投稿日: 4月11日(木)19時56分01秒

初めてカキコします、聖月と申します。
今大学生の私は、卒論で鳥居をテーマに考えていたのですが、大学の図書館でも資料が少なく、難儀していたのですが、色々なサイトを回っていて、こちらの投稿コーナーに辿りつきました。
鳥居のルーツにはかなり多くの説があるらしいことは調べて分かっていたのですが、具体的にどういった説なのかよく分かっていなかったので、本当に勉強になりました。
『鳥居の研究』がどうやら大学の地下書庫にあるらしいので、(しかも再版らしい)実際に見てみようかと思っています。こちらへもまた時々、伺わせていただきたいと思います。


大王の時代5の補足 投稿者:かたばみ  投稿日: 4月 9日(火)01時15分47秒

宋書では倭王済の子が倭王興、倭王興の「弟」が倭王武となっています。
倭王武の親父は倭王済です。

「禰祖」デイソの辞書での意味は「父祖の廟」なのですが、上表文では「「祖禰」ソデイで、その解釈をいろいろ考えていて「先代の王」の意とみていたのですが、辞書の「禰祖」=「親父」で書いてしまいました。
大王の時代5の「親父」は「先代の王」に読み替えてください。

その他の訂正はありません、いまのところ(^^;

かたばみ


空想で楽しむ大王の時代5 投稿者:かたばみ  投稿日: 4月 8日(月)22時40分12秒

宋書での高句麗が梁に送る使者の間隔は3〜4年、百済は7〜10年です。
梁書502に倭王武が登場します。
すでに死去していた人物だったが、それを知らずに書類上の進号をしたものだと考えても、百済495の使者は倭王武の送り込んだ東城王ですから倭王武の死去を知らないはずはなく、その報告もするでしょう。
倭王武は少なくとも495までは在位していた。

雄略は456-479の人物。それでは雄略とは?

雄略紀の内容には近畿周辺とみえる記事がある。
雄略が没したとき、吉備の蝦夷が反乱を起こしていますが、「わが国を支配した天皇が死んだ」といっています。
雄略が東国を支配していたこと示すものです。

倭王武の上表文に「祖禰」ソデイが周辺国を制圧したとあります。
「禰祖」とは父の廟のこと。親父すなわち倭王興があちこちを征服した、といっているわけです。

倭王興が朝鮮半島に進出しているのは間違いないでしょう。
東の毛人の国を制圧した可能性があるのは景行大王と雄略大王のみ。
倭王武の上表文は倭王興が雄略であることを示しています。

年代的にはどうでしょうか。
雄略の没年は479、倭王興の跡継ぎの倭王武は476頃には登場していますから数年重なってしまう。
しかし・・
記紀の雄略没年479は百済本紀の東城王即位479の記述が雄略の晩年にあることから決定されるものです。

百済の東城王の話は倭国が百済より上位であることを喧伝できる事象です。
記紀に登場する大王でそれが不自然でない大王は雄略のみ。
東城王即位のとき倭王興は没していたが、記紀が雄略の寿命を数年延ばして雄略紀に取り込んだ。
神功応神年代を150年もずらした前歴からすれば数年ずらすくらい屁のカッパ(^^;

さらに空想を広げます。

451:宋 伝 倭王済(安東大将軍)
460:宋帝紀 倭王名不明
462:宋 伝 倭王興(安東将軍)

倭王済から倭王興に代わるのは451-462の間。
安康大王が眉輪王に殺されるのは456です。

倭王済は仁徳の子の大草香皇子を攻め滅ぼして近畿を制圧し、1年後に眉輪王に殺された・・
記紀は、近畿における倭王済の2年間を安康454-456として記述しているのではないか。
そして、その子倭王興は仁徳系譜の皇子を皆殺しにして近畿王となり、近畿を拠点として東日本も制圧した。

その4年後の460に名のわからぬ倭王が朝貢していますが、これが倭王興の即位挨拶でしょう。
倭王済の最後の2年が安康であり、その子倭王興が雄略456-477である。
大王系譜チャートをごらんください。
安康、雄略年間で近畿の仁徳系譜(開化〜日本武尊系譜)は消滅したのではないかと思います。


埼玉県稲荷山鉄剣の祖先名「意富比魁」は大彦のこと、九州大王大彦の子孫であり、雄略の系譜であることを示すもの。
鉄剣名のワカタキロは雄略でよいと思います。
(稲荷山古墳が雄略時代ということではありません、伝世の鉄剣を後に埋納したものでしょう)


雄略の妃は仁徳の娘(大草香皇子の妹)の幡梭姫ハタビ、葛城円大臣カツラギツブラの娘韓姫、吉備上道臣の娘稚姫、春日和珥臣の娘春日大郎女。

清寧480-485は葛城円大臣韓姫との子。年齢不詳。
この大王の性格はちとむずかしい。

雄略に対する敵意らしきはみえず、雄略を墓に葬っています。
雄略の墓の傍らで隼人が7日食事をとらずに殉死したという記事があります。
(これも雄略が九州系であることを示すものと思います)
清寧は雄略の子としておきます。

清寧には星河稚宮皇子と磐城皇子の異母弟があるとされます。
雄略記には遺言があって、星河稚宮皇子は悪逆でおまえ(清寧)を害するだろう、注意せよといっています。

本当に兄弟でそうなら関東へでも転出させればよろしい(^^;
雄略でさえそれができない力を星河稚宮皇子が持っていたということ。

「星河稚宮皇子が権勢をほしいままにした」という乱が起きたとき、星河稚宮皇子の母方である吉備上道臣が水軍を率いて星河稚宮皇子支援にかけつけています。

権勢をほしいままにしたとは、星河稚宮皇子が大王となった、に等しい。
それができる皇子であるなら、雄略は星河稚宮皇子を太子に任ずるべきでしょう。
少なくとも星河稚宮皇子は吉備勢力を背景にして雄略に対抗する存在だったことがうかがえます。

少々休憩(^^;

↓ 


空想で楽しむ大王の時代4 投稿者:かたばみ  投稿日: 4月 8日(月)22時22分34秒

安康紀は安康454-456が眉輪王に殺される理由だけを書いています。
眉輪王は仁徳の子大草香皇子の子。
「安康の弟」の雄略は眉輪王や允恭の子とされる皇子を皆殺しにし、さらに履中の子の市辺忍歯王まで謀殺した。

詳細は書紀をお読みいただくとして、この状況は いささか不自然かつ尋常ではありません。
兄弟縁者かどうかはおいて、仁徳系の王位継承者を皆殺しにして近畿王となったのが雄略456-479。

大王系譜は1系列しかないを前提にするなら、安康も雄略も允恭の子で兄弟同士の権力争いだった、とせざるを得ませんが・・


ここで倭王武について。
以下は中国史書での倭国の登場記事です。
413:東晋  倭王名不明
421:宋 伝 倭王讃(官位受けるが内容不明)
425:宋 伝 倭王讃
430:宋帝紀 倭王名不明
438:宋帝紀 倭王珍(6ヶ国安東将軍)
443:宋 伝 倭王済(安東将軍)
451:  伝 倭王済(安東大将軍)
460:宋帝紀 倭王名不明
462:  伝 倭王興(安東将軍)
477:宋帝紀 倭王名不明
47?:  伝 倭王興没して武が継承(7ヶ国の王を自称)
478:  伝 倭王武 上表文(6ヶ国の安東大将軍)
502:梁   倭王武(6ヶ国の安東大将軍)

記紀年代を正しいとして雄略456-479ならば、462に倭王興の朝貢記事がありますから倭王武が雄略ではないことが確定します。
460が新倭王、倭王興の即位挨拶でしょう。

宋書倭国伝の462と478の倭の記述の中間に書かれている「興没し世子の武即位」の年代不明記事は帝紀477に記された名のわからぬ倭王の報告によって書かれたとみるのが自然でしょう。
477の名のわからぬ倭王は倭王武の即位挨拶ということです。
即位挨拶は数年のうちとみて、倭王武の即位年は475としておきます。

倭王武は477に安東大将軍と7ヶ国(倭、百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓)の王を自称して挨拶した。
しかし、百済を認めてもらえなかったために翌年478に上表文を提出した。
全羅南道(慕韓、任那か)、全羅北道南部(慕韓か)、慶尚南道(任那、加羅、秦韓、新羅か)といったところか。


さて、この頃の半島情勢は・・

倭王讃の428以降百済本紀から倭の記事が消えます。
再登場は653の倭国との国交樹立の記事で、なんと225年もの空白があるのです。
戦闘状態だったのなら戦闘を記述するはず、友好状態ならそれを書くはず、なぜ記述が消えるのか。
608に倭国への隋の使者が百済の南を通過した、という記事はあるので倭国を認識はしているはずなのに。

対して記紀では盛んに百済関連の記事がでてきます。

百済本紀475で高句麗が侵入し百済の蓋鹵王が殺され、その子は南へ逃げて新羅の援軍を受けて文周王として復活即位しています。
しかし2年後に家臣の「解仇」によって2年で殺害され、その子三斤王も2年で没します(死因不明)。
479に百済は滅亡しているのです。

しかし・・
百済本紀479で東城王が即位する。文周王の弟の子とあります。
雄略紀では雄略の宮殿にいた末多王に筑紫兵500と武器を持たせて百済に送り、これが東城王になったとあります。
東城王は王族が消滅した百済に倭国が送り込んだ傀儡王である可能性が高い。

東城王479-501は他の半島史書では王とみなされておらず、百済本紀でも悪王として書かれています。
斉書495に百済王牟大(東城王)朝貢の記述がありますが、百済本紀はこの朝貢を書いていません。

東城王の子、武寧王501-523も武烈紀に筑紫で生まれた記述があります。
これも倭国に渡来していた百済王族が百済王を継承していることを示します。
(武寧王では傀儡から脱して百済が再興してゆく様子がみえます)
(百済本紀で512に武寧王が梁へ朝貢とありますが梁書には記載なく、梁書521の記事から百済本紀と一致)

記紀では雄略が慶尚北道の慶山付近まで進出しています。
新羅本紀では459、462、463に倭との激しい戦が書かれており、釜山の北30キロほどにある城を攻撃されたが撃退したとあり、記紀と一致しています。
(新羅の朝貢は梁521、この頃の新羅は中国から認知されていません)


全羅南道の前方後円墳を築くには倭の勢力が生半可ではできないでしょう。
百済は倭国の事実上の傀儡となっていたが、百済本紀はそれを書きたくなかったために倭国関連の記事を削除したのではないか。
逆に記紀は優位を意識してこれを喧伝しているわけです。

倭王武には百済や新羅を支配したという意識があった。
これが倭王武が7ヶ国の王を自称した由縁だと思います。

しかし宋は倭王武の7ヶ国支配を認めなかった。
478以降倭国は中国へ使者を送っていません(梁書502の倭王武は中国王朝交代による追認とみる)。
宋に対する反発が生じたのかもしれません。

さて、倭王武が雄略ではないとすると、雄略は中国史書には登場していないのか・・

続く


空想で楽しむ大王の時代3 投稿者:かたばみ  投稿日: 4月 4日(木)00時37分23秒

日本の古墳の埋葬部分の形式には竪穴式石室と横穴式石室があります。
竪穴式は垂直に棺を納めた後に完全に密封する形式で、古墳時代初期からあります。
横穴式は横から石室に棺を納め、通路や扉があって再び石室にはいることができます。

横穴式は前漢の形式が高句麗で発達したものだそうです。
この形式は古墳時代中期から西日本に登場し、て広まってゆきます。
全羅南道の古墳11基のうち10基がこの形式で、残る1基もこの可能性があるようです。
応神が百済や高句麗文化と接触して登場した形式とみればぴたりです。


仲哀側から見れば九州大王Xや応神、武内宿禰こそが謀反人です。
応神が高句麗に敗れたその間隙をぬって仲哀の縁者が讃岐ないし淡路で決起した。
記紀で武内宿禰は仲哀の子忍熊王の遺体確認にやっきとなっています。
仲哀の後継者が決起することを恐れたためでしょう。

それが現実となります。
仲哀の子は消したが、仲哀の父日本武尊の後裔が各地にいた。
仁徳402-434(白鳥→大サザキ)鳥の系譜が正統の大王を宣言した。


かっての倭国争乱は生きるための戦いだったが、この戦は支配権をめぐる戦となった。
怨念も含み、日本海勢力をまきこんで九州の王と近畿の王の宗主争いがはじまった。
最強の兵器である騎馬も短期間で広まります。
王は競ってその力を示すために大型古墳を築造する(生前の造営)。

最古とみられる鐙アブミが箸墓古墳の周濠から発見されています。奈良新聞1 奈良新聞2
北方系の鐙とは作りが違うようです。
もしその年代が300頃であるなら景行大王あたりが、半島西南岸経由で東シナ海から持ちこんだ可能性もありそうです(百済はまだ南下していない)。


応神と仁徳は10年ほど並立していたと推定。応神の即位期間は386-412あたりか。
晋書413に倭夷の朝貢記事がありますが官位の授受はありません。
これは応神を継いだ倭王讃の即位挨拶か。


仁徳402-434は応神の子にあらず。

仁徳が応神の娘の菟道稚郎姫と矢田皇女を妃としていますが、仁徳が応神の子であるなら兄と二人の妹が結婚したことになります。
エジプトではいざしらず、中国でも日本でも容認されないものだと思います。
血を濃くしなければならないなど、この時代ではそれが必要な状況も見えません。

仁徳は応神の娘を妃とした、その事象は正しい。
だが、仁徳が応神の子というのは偽。
仁徳が応神の子であるというのは、交錯する大王系譜を一本化するための記紀の創作と推定。

応神は日本武尊と弟橘姫の孫娘の息長真若中姫を妃にいれています。
(その子が若野毛二派皇子、その子が「意富富杼王」で継体の祖父とされます)
こちらは仁徳が親族の娘を応神の妃にいれたものでしょう。

仁徳紀に白鳥陵の保守を命じる記述があります。
これも日本武尊とつながる系譜であることを示すものと思います。

応神と仁徳がそれぞれ自分の親族を相手の妃にいれて和平が成立した。
応神が二人の妹を仁徳に入れていますから応神側の敗北に近かったのかもしれません。
仁徳の民のカマドの煙が昇り始めます。


応神の皇太子の菟道稚郎子ウジノワキイラツコは兄の仁徳へ皇位を譲ったとされています。
皇太子とは次期大王になることの宣言で、それを後からやめるなどは病弱でもない限りありえない。
これは「近畿の覇権」を菟道稚郎子が仁徳に委譲したことを意味するもの。
仁徳紀の大山守、淤宇宿禰、菟道稚郎子がからむ領土争いはその痕跡でしょう。

応神の次の九州大王が菟道稚郎子、これが倭王讃(宋書421で官位を受ける)。
倭国が九州系と近畿系に分裂し、それぞれに大王が登場した(ただし、中国から見える倭国は九州のみ)。
日本海系は微妙、中立か。


履中434-437、反正437-439、允恭439-454は、仁徳と磐之姫(葛城襲津彦の娘、武内宿禰の孫)との子とされています。
履中の名は真ん中を歩くの意、反正の名は正しきに戻るの意。
応神の娘との間に子があったかどうかの記述はありませんが、仁徳以後の微妙な状況を示すものと思います。

允恭439-454は在位期間が長い、安定していたのでしょう。
允恭が病の時、新羅は医者を送り、死去の時も弔問の使者を送っています。

新羅は周囲すべてが敵です、味方を求めて九州と対立している近畿勢力に接近した。
近畿勢力には対外交流のルートがありません。新羅の接近を歓迎したでしょう。
それが允恭との交流だと思います。

続く

↓ 


空想で楽しむ大王の時代2 投稿者:かたばみ  投稿日: 3月31日(日)00時54分20秒

各地に王がいて、大王が全体をまとめる、そういったシステムだったのがこの時代の倭国ではないかと思います。
王の条件は男系の天孫の血を持つことのみ。

崇神、垂仁時代の大王は九州の大彦の子「武淳川別」あたりではなかろうか。
(武淳川別の子に豊韓別がいます、半島との関係をうかがわせます)
近畿へはいった開化の子崇神は近畿の王、紀州出雲の娘との子豊城入彦は宇佐の王となった。
(豊城入彦は関東へ転出したとされますが、内紛の匂いも若干)

大王は先代の子とは限らなかったが最新文化の到着地である九州勢力が有力だった。
しかし、近畿と日本海のドッキングによって近畿から景行大王が登場。

景行311-333は各地の地元勢力を婚姻による結合で取り込んでゆきます。
新羅本紀312に訖解王が倭国の求めに応じて花嫁を送った、とあります。これもそのひとつかもしれません。
名の残る子がざっと数えても70人を越えますから実際にはその数倍か?
縁戚や家臣の子も含めればそのネットワークだけでもたいへんな力を発揮できたと思います。


景行没してその子成務333-356が大王となる。
景行の血縁ネットワークを継承できるのはやはり景行の子でしょう。
国、郡、県、邑を制定して造ミヤツコや稲置イナギを配しています。

各地の租税の取り立てを成務大王がやったとすれば、各地の王の自治権を奪ったということです。
もしそうなら反発が少なからずあっただろうと思います。
成務紀の記述は少なく地味ですが大王システムの重要なエポックかもしれません。

新羅本紀344で倭国が再び花嫁を求めていますが今度は断っています。
そして翌年に倭国が国交断絶し、その翌年には倭軍が金城を攻撃したとあります。
急速に新羅との関係が悪化したわけですが花嫁だけでそうなるとは考えにくい。

312の訖解王は脱解系の天孫だが次の356奈忽王は閼智系で天孫系ではありません。
訖解王に子がなかったとされますが、300年続いた天孫系新羅王朝が終焉に至る何かがあったのかもしれません。
成務大王のシステムを新羅にまで持ち込もうとしたために紛争となった可能性もあります。

新羅側の内情はおくとして、九州天孫にとって仲間だった新羅が「他国」になってしまった。
天孫勢力の半島の権益が危うくなるということです。

天日矛は天孫系で閼智系の新羅王になじみはない。日本海勢力に天日矛の影響力がなかったとしても新羅寄りにはなりにくい。
北九州で最古の氏族は出雲神族、この系譜の流れを引く者にも箕子朝鮮再興の潜在意識があった。
(百済、扶餘とスサノオはおそらく類族)
すべてが新羅攻撃ないし百済支援の方向で一致しています。

しかし、近畿天孫は日向系で半島との縁は薄い。近畿出雲も出雲臣族(天穂日、天孫)がほとんどで半島への意識は薄かった。
成務没して日本武尊の子の仲哀356-360が大王となる。これも景行の遺産による大王即位かもしれません。

半島に興味を示さぬ仲哀に危機感を持つ九州と日本海が密談。
このままでは半島の権益を失ってしまう、我々の方から大王を出さねばならぬ・・
九州と日本海が結合すれば最強はこちらです。あとはチャンスを待つのみ。

仲哀は熊襲の反乱鎮圧に出陣したが、飛んで火にいる夏の虫であっさり暗殺されてしまった(^^;
武内宿禰は近畿に進撃、仲哀の子香坂王と忍熊王を殺害し、近畿を制圧する。

記紀は謀略やだまし討ちを堂々と書いています。
後の武士道とはあいいれないもの。
長い戦乱の続いた中国で良しとされた手段を受けたものと思います。


大王X(大彦の後裔)は新羅攻撃を開始した。
新羅本紀364に倭兵が大挙して侵入、とあります。

これが記紀では神功の事跡として書かれます。
仲哀の子は殺してしまった。神功が仲哀の妃となってまだ4年、大人の大王が登場してはまずい。
神功360-386を応神登場までの代役とするのがベスト。

応神がだれの子か、仲哀の子と考えるのは無理だろうなあ。
神功の子ですらないと思います。
記紀が十月十日の範囲であることを一生懸命説明しているのが、かえって疑わしい。
だれがどうであれ、大王が開化系から大彦系に戻った。

晋書では372に百済の林邑王(三国史記では近肖古王)が朝貢し、鎮東将軍樂浪太守を受けています。
この頃から百済が力を増したとみえます。
倭の朝貢記事が登場するのは晋書413で、「高句麗、倭夷及び西南夷」とあるだけです。

応神386-402が大王に即位。
応神は新羅を服従させ、半島南部と全羅南道を領土化した。400頃か。
それが半島の前方後円墳の源。
広開土王碑では倭の軍勢が百残(百済)や新羅にいたことが書かれています。
応神の絶頂期だったが、高句麗の好太王(広開土王)と戦って敗れる。402頃か。

続く


空想で楽しむ大王の時代1 投稿者:かたばみ  投稿日: 3月27日(水)23時22分12秒

古墳時代の大王系譜を空想してみます。
どれが事実(ないし通説)でどれが空想かの説明は省略しているのでご注意くださいませ(^^;


日向の邪馬壹国の卑弥呼173-248のお膝元から近畿に入ったのが開化225-248。
邪馬壹国の軍事経済の担当者だったのが開化の実兄とされる大彦(北九州)。
大彦は古墳時代の鍵を握る人物とみています。
大彦は開化の近畿突入(230頃か)に連動して日本海側を制圧、後に北陸も制圧する。

埼玉県稲荷山鉄剣の銘文にある祖先名の「意富比魁」は大彦のこと。
500頃の関東に九州系の大王の子孫が存在したことを示し、倭王武と雄略の問題へのヒントでもあります。

出雲の淤宇宿禰(意富宿禰)は出雲臣族(天穂日)+大彦系譜の後裔。
対立した出雲振根は出雲臣族+出雲神族(大国主系)の後裔でしょう。

大山山麓の淀江町の石馬谷古墳には石馬があります。
島根半島東側と北九州の岩戸山古墳(磐井の墓とされる)がつながっているわけです。
大彦は後の阿倍氏の祖でもありますが、阿倍氏は日本海沿岸で活動しています。

倭国争乱時代の九州での安定地域は日向のみで、祭祀の中枢はそこに置かれていた。
これが魏志倭人伝のいう邪馬壹国。
しかし、倭国争乱の終結で日向の邪馬壹国は存在意義がなくなり、天孫の故郷→象徴の地(霊場)となるのみで表舞台から姿を消します。

開化や大彦が孝元204-225の子であるかどうかはわかりませんが、天孫族と出雲神族の合体した氏族のひとりではあるでしょう(神武の子の綏靖と八井耳でも合体済み)。
開化の異母弟とされる彦太忍信(比古布都押之信)は武内宿禰の祖です。
北九州が拠点だったとすれば後の神功応神との関連も妥当となります。

この当時の倭国の宗主(大王)は北九州那津(福岡)の大彦。
開化は近畿出雲勢力のどまんなかにおかれた大和基地の司令官といったところ(^^;

開化と伊香色謎の子が崇神、大和の王となる。
(伊香色謎が旧出雲に属した近畿物部であるか、天孫に属した九州物部であるかはなんともいえず)
開化と意祁津姫の子が彦座王、若狭の王となる。
(意祁津姫は日本海系海運者=出雲系の娘でしょう)

濃尾では天火明+物部(太平洋系)の後裔が王となっていた。
瀬戸内沿岸は複雑、北九州系、出雲神族に加えて秦氏系の混合体か。

ただしこれらは支配者のことであって、それぞれの地域の一般人がどういう人々であるかは別の話です。


近畿の崇神248-273は周囲の出雲残存勢力の安定化と取り込みで手一杯。
崇神と大彦の娘の子が垂仁273-311、大和王を継承。
崇神と木国造荒河刀辨(紀州出雲系?)の娘の子が豊城入彦(垂仁の異母兄とされる)。
その名から見て、豊国に入った王、豊前の王。
宇佐が古出雲の根拠地であり、紀州に五十猛伝承が残るところから宇佐と紀州がつながるのは妥当なところ。

この頃の倭国の宗主はやはり大彦系の大王でしょう。部族会議の議長といったイメージです。

垂仁は崇神の異母弟の彦座王の娘日葉酢姫を妃とし、景行誕生。
景行は近畿勢力と日本海勢力の双方をバックボーンに持つことになり、最強へ。
景行が倭国の宗主を継承、景行大王となる。

景行311-333は日向に都を置いて南九州の不安定地帯を鎮圧(記紀にいう景行天皇の巡幸)。
景行が日向に6年もいたというのは、「近畿の景行」といった考えはなかったからだと思います。
倭国の宗主であって、部族会議の決定に従わない部族を力で押さえる、そのための拠点にいた。

景行の巡幸談に北九州がでてこないのは記紀が削除したからだとみています。
北九州は大彦系譜の支配地、「近畿の景行」と比肩しうる勢力の存在は認めないということです。

景行は関東も日本武尊の活躍で支配する。(日本武尊の空想はまたの機会に)
全国的な婚姻融和策による血縁支配が成功したわけですが、これが後の混乱の元にもなります。
各地の地場勢力が台頭する引き金になった、無数の分家(別)の登場です。

続く

犬はいつ登場したか 投稿者:かたばみ  投稿日:03月21日(木)22時47分05秒

10万年前である可能性がDNA分析によってみえてきたようで、アメリカ製の番組によりますが形態的な研究でも同じ論に達しているようです。

ネアンデルタール人の鼻は大きくてホモサピエンスの鼻は小さい。
臭覚に差があったのは確実だそうで、臭覚に劣るホモサピエンスが生き残ったのはなぜか。
犬を味方につけたからだ、だそうです。

人間が狼を飼い慣らして犬が生まれたのではない、人間の近くで食料を得られることを知った狼の一匹が人間の隣で暮らしはじめた。
それが最初の犬、人間も犬がいればいろいろなメリットがあるので共存を受け入れた。
それが10万年前だった、そんな論です。


人間のDNA分析では7万年前に数千人の規模にまで人口が減って絶滅寸前となった様子があるのだそうです。
人間のDNAは多様性が乏しいらしく、これは数千人規模から現在の人口に至ったとしないと成立しないらしい。

7万年前にインドネシアあたりの火山が大爆発しています(名称忘れた)。
数十万年に一度くらいしか起きない規模の爆発だったようです。
で、この頃からウルム氷河期がはじまっています。
噴出物が太陽を遮ってそれがきっかけで寒冷化がはじまったのでしょう。

ジャワ原人は120万〜70万年前とされています。この人々?が進化していったなら東南アジアにその人々の痕跡が残るはず。
アフリカ系とは別にアジアにジャワ原人や北京原人の子孫の「人間」が登場しておかしくない。

7万年前の火山爆発の直接の被害を受けて東南アジアのその系譜は壊滅してしまったのかもしれません。
続いてやってきた寒冷化の時代をアフリカ系のホモサピエンスだけが生き残った。

読売新聞(02/03/21)に、エチオピアから100万年前のアジア的特徴を持つ原人の頭骨がみつかった、とでていました。
ジャワ原人はその仲間だったのかもしれません。


ネアンデルタール人の滅亡はBC3万頃とされています。
北方のネアンデルタール人がウルム氷河期に南下してきたが、犬をつれていたホモサピエンスに負けて3万年前には滅びてしまった、ということかなあ。

なお、この爆発と同規模の爆発が起きえる場所が北アメリカのイエローストーン公園で、現在がその爆発時期なのだそうです(^^;


継体天皇が 投稿者:D.K  投稿日:03月19日(火)05時53分04秒

初代天皇だったりして・・・なんて強引な推理をしたくなったりしますが、
失史八代の謎は何とか解けました。個人的には応神天皇は先住民族の王の
モデルが居ると踏んでいます。宇佐神宮は出雲大社と同じ四拍手。応神=
磐井だったりして。


女帝? 投稿者:KENJI  投稿日:03月18日(月)21時23分08秒

五世紀の末期、清寧天皇(22代)の死後、飯豊皇女(いいとよのひめみこ)が、
忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)で「臨朝秉政」(みかどまつりごと)したと、
顕宗即位前紀に記されている。
又、「扶桑略記」や「本朝皇胤紹運録」には飯豊皇女を天皇としている。
この、顕宗と次の仁賢は、二人共、オケの命と呼ばれています。
おなじ読み方です。(文字は違います。)

オケは、秀真では「穢れ」の意味だと、あすべるいきていたか さんに、いり豆の会の時に
聞きました。
天皇(大王)の名前が「穢れ」とは・・・。
其の前には、女帝らしき期間が有ります。
其の後、武烈〜継体期が続きます。王朝交代の臭いがプンプンする時代です。(^^ゞ

この辺もややこしそうな時代ですね。

↓ 


女帝 投稿者:かたばみ  投稿日:03月17日(日)23時46分32秒

≫神功皇后や推古天皇等の女帝は持統天皇に関わってくる・・・
≫と見ています。記紀の編纂時に女帝の存在を正当化するために

本当の女帝は持統が最初かもしれないなあ。
ただし、女帝を正当化するためであれば、卑弥呼という女王がいた。それだけで十分だと思うのです。

則天武后は690‐705 、記紀編纂時代では知られているわけで、中国思想に傾いていたとしても女帝を否定する理由はないです。
縄文からの考え方であっても女性上位は普遍的。
女性を天皇にしないというのは明治22の皇室典範からのことだと思います。


少なくとも神功、推古という女帝の登場する課程は異常事態のなかからです。
神功、推古、加えて皇極(斉明)の各女帝は、ヤマト系ではない大王の存在を隠すため、とみています。

前大王系の男性の場合は「真の大王」に殺されるなどするでしょうから登場させにくい(^^;
妃や近親女性を次の女帝とするのが安全確実、同時代だから名前を書き換えるだけでOKだし。
大王Xを隠す神功と武内宿禰、多利思比狐を隠す推古と聖徳太子・・同じ構造なのではないかなあ。
空想中(^^;

かたばみ


多利思比狐 投稿者:かたばみ  投稿日:03月17日(日)23時45分29秒

≫蘇我氏だったのでしょう。
≫推古女帝の期間は、実は、蘇我氏の支配期間で、記紀の書かれた頃に其の痕跡を無くす必要上

神武以降の指標として「史書」のある時代を予備空想しました(^^;

景行は九州の高屋宮(日向と推定)に6年もいた。
これは巡幸などではなく九州に「都」をおいたのであって、その必要があったからだと思います。
「多利思比狐」の場合も同じで根拠地は九州だが近畿にいる必要があったのではなかろうか。

隋書では多利思比狐の妃が紹介されていますから、多利思比狐が男王であるのは確実ですね。
「いつだれがどこでなにを」、ここでも記紀で信じられるのは事象のみ。
(神功時代だったらなにを信じられるのかなあ)

この当時の「倭国」は豪族の集合体で、そのうちの最強豪族がその「宗主」になっていたのだと思います。
自説での出雲では、農耕技術と祭祀と海運力に優れた氏族が宗主となっていたと推定しています。
推古時代でも農耕技術が軍事力に置き換わった程度の違いではないかなあ。

なにをもって「王朝」というか、この時代でもまだ王朝は登場していないのかもしれません。

石舞台古墳は石室の大きさからみて見瀬丸山古墳と同クラスの古墳と思えますが、どちらも大和飛鳥の500年以降では突出した最大級の古墳。
このあたりに推古時代の大物が隠れているか・・
古事記では顕宗485-488が雄略の墓を破壊しているし、石舞台もだれかに破壊されたんだろうな。
だとすれば、いつ破壊されたのか。



隋書にでてくる「俘の子を女にした文字」→{タイ}について若干の補足。
各史書での倭ないし{タイ}の使われ方は以下です。

後漢書25-220頃で「倭」
魏志倭人伝は290頃までの記述で「倭」
晋書は魏の後裔の西晋〜南朝の東晋の記述で265-420年間、「倭人」がでてきます。

宋書は420-479で「倭国」。
南斉書は479-502で「倭国」。
梁書は502-557で「倭国」は502の帝紀の登場のみで、以後、百済や高句麗は登場しますが倭国は登場しません。
陳書は557-589で「倭国」はでてきません。

南史は宋、斉、梁、陳をまとめた史書で420-589年間。「倭」が登場しますが時代はわかりません。
北史は東魏、西魏、北周、北斉で535-581年間。
 魏志倭人伝の引用と隋書の引用のみですが{タイ}国がでてきます、時代はわかりません。
 {タイ}国より先に流求国が書かれているのが興味深い、流求国の方が歴史が古いからではなかろうか。
 
隋書は581-618で{タイ}国です。
 
言葉で書くとわかりにくいですが
倭国の存在は25−502で、統一王朝ないし南朝との交流。
{タイ}国の存在は535-618で、北朝と隋(≒北朝)との交流。
史書を並べることで倭国と{タイ}国の性格がみえてきそうです。


ps.
春秋左氏伝、越絶書など、中国の著名な史書や古典の多くがここで読めます。漢文ですけど。


女帝の問題ですが 投稿者:D.K  投稿日:03月16日(土)13時15分09秒

神功皇后や推古天皇等の女帝は持統天皇に関わってくる・・・
と見ています。記紀の編纂時に女帝の存在を正当化するために
前例を挙げる事等の理由で捏造した部分が多かったのではと。

聖徳太子が三人いたとか色々な説があって何かと難しいですが、
物部守屋の実在すら怪しいと思っている今日この頃です。


お久しぶりです。 投稿者:KENJI  投稿日:03月16日(土)12時19分12秒

>記紀の「推古女帝」はその存在を隠すためのものだと思います。
>実在人物かもしれないが女帝にはなっていない。

この部分、大賛成。(^o^)丿(爆)
「植山古墳」に一時、自分の子供と合葬され、其の後、天皇にされたので、
別に天皇陵として別に葬られたと解釈すれば、植山古墳の状況が納得できます。

何故、長期に渡って推古女帝の必要が有ったのか。優秀な、天皇の資格の有る、聖徳太子が
居るのに・・・。
その、聖徳太子以上に、権力を持っていた人間が居たからでしょう。
しかも、其の人間は、記紀の書かれた頃の支配者から見れば、天皇としては都合の悪い人。

蘇我氏だったのでしょう。
推古女帝の期間は、実は、蘇我氏の支配期間で、記紀の書かれた頃に其の痕跡を無くす必要上、
推古女帝をでっち上げ、其の期間の出来事は、聖徳太子と言うスーパースターのした事にし、
蘇我氏を、天皇の系譜から外したと思います。

飛鳥の地で、大化のクーデターに成功した時、国記は蘇我氏の屋敷で一緒に焼けたようです。
一家臣なら、国の記録を持っているのも変ですね。
この、焼けた国記は当然、蘇我氏を正当化した物に書かれていた筈でしょう。

蘇我氏と推古女帝+聖徳太子の辺り、相当、後の政権の作為が有ると思えます。
其の政権の製作した「記紀」は、作為の塊ですか。(爆)

http://www1.sphere.ne.jp/tamatebako/

↓ 


中国史書と倭国2 投稿者:かたばみ  投稿日:03月12日(火)20時32分00秒

応神仁徳〜継体は混乱の時代。短命天皇と暗殺合戦。
簡単に色づけはできないですがあえて色分けすれば・・

九州勢力=天孫本家(神武系→多臣族→応神系)+旧出雲神族(伽耶含む)+百済氏族
近畿勢力=天孫分家(開化系→日本武尊→仁徳系)+天火明後裔氏族+東海は微妙な立場
日本海系勢力=旧出雲臣族+天日矛後裔氏族
他に瀬戸内に中国系の独立勢力、関東には日本武尊系の独立勢力の存在、各地の海運者組織・・
加えて新羅と高句麗が直接間接にからんできます。


それぞれの勢力がからみあいながら「倭国の宗主権」を争った時代で、当初は九州勢力優勢。
これが倭王五代の時代です(おそらくは九州年号の制定者)。
(単なる王朝並立ではないということです)

定説では雄略を倭王武に比定していますが、梁の武王が即位した502に倭王武に征東大将軍を与えています。
20年も前に死んでいる人物に官位を与えることがあるのだろうか。
倭王武は雄略にあらず。

梁の武王は同時に高句麗王高雲(高句麗本紀では羅雲)、百済王餘大(百済本紀では牟大、東城王)にも官位を与えています。

百済本紀では東城王は歓楽にふけるように書かれ501に暗殺されます。
梁と東城王の関連は書かれておらず、502に武寧王が継いで512に梁へ使者を送って官位を受けたことになっています(梁513に百済の朝貢記事あり、しかし官位の話はない)

東城王は桓檀古記では王とみなされていないらしい(民族意識の濃い系列の書と思います)。
武烈紀でも東城王(末多王)を悪逆非道としています。
その後継者武寧王は「筑紫」(佐賀県加唐島)で生まれたとされ、武寧王墓誌の生年月日と一致しています。

百済の東城王〜武寧王には内部抗争の様子が見える。
武烈紀には平群真鳥の王位簒奪記事がある。
まさか武烈=倭王武、その同系が東城王ということは・・ま、なにかありますね、おおいに(^^;


そして武烈大王亡き後、近畿系仁賢大王の皇女と日本海系の継体大王がドッキングして形勢が変わった。
継体大王は九州勢力の完全制圧を目した。倭王六代目=筑紫磐井を滅ぼすこと。

大伴金村は任那割譲で百済を継体大王に引き寄せ、筑紫磐井と百済にクサビを打ち込むことに成功512。
そして筑紫磐井は敗北した。528
書紀一書にいう天皇や王子はみな死んだ、筑紫の大王のことでしょう。

九州から宗主たりえる有力者が消えた。継体大王も九州の混乱収拾と掌握で手一杯。
倭国は使者を中国へ送ることができなくなっていた。


九州は求心力を失ったが、半島側には倭王五代の後裔が勢力を残しています。
それが全羅南道の前方後円墳の主たちです(応神の後裔でもある)。
百戦錬磨の百済には好機到来、これを支援して九州への影響力拡大を計った。

九州勢力が復活し(蘇我氏の祖など登場)その勢力は最新文化を近畿に運び浸透拡大していった。
(孝元204-225が宇佐付近にあったとすればその後裔の武内宿禰→蘇我氏は妥当)
仏教の近畿伝来はこの一環、旧来勢力であった物部氏と新興の蘇我氏の対立がはじまります。


欽明539-571が生没年不詳という不可思議な大王であることに要注意です。
継体の子は大勢います。妃も大勢います。
欽明はそのうちの仁賢皇女の生んだ唯一の子。
あれだけ一生懸命手配して得られた跡継ぎ王子なのに、その生没年の記録がない??そんなばかな。

587物部氏滅亡、崇峻587-591も蘇我馬子に暗殺されて近畿大和は九州勢力の支配下にはいった。

そして
「日出る所の天子、書を日没する所の天子に致す・・」
小野妹子の遣隋使、隋は608に使者を{タイ}国へ送った。

隋書で言う{タイ}国のオオキミ多利思比狐の登場です。
多利思比狐とは近畿大王となっていた九州系の大王のこと、これが隋の使者を迎えた。
九州王朝は存在していない、その王は近畿大和に都していたから。

これが隋書にいう「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
都の邪靡堆は魏志のいう邪馬臺の者が(いる場所)である。
だと考えています。

記紀の「推古女帝」はその存在を隠すためのものだと思います。
実在人物かもしれないが女帝にはなっていない。
聖徳太子伝承も九州勢力のもたらした最新文化のありようを、ひとりの聖人に集約したものと考えています。
(律令や冠位十二階などの制定を含みます)


多利思比狐が九州天孫、すなわち本家の直系であるなら隠す必要はないと思うけれど・・
まだ「大化の乱」や壬申の乱が続きます。二転三転・・空想中(^^;


中国史書と倭国1 投稿者:かたばみ  投稿日:03月12日(火)20時30分33秒

中国の史書にでてくる倭国情報から空想を広げてみます。

史記の編纂は前漢BC90頃。記事はBC90以前、倭の登場はありません。
漢書の編纂は後漢82頃。
燕地の条に楽浪の海中に倭人あり・・が倭の登場です。

魏志倭人伝(三国志)の編纂は西晋290頃。
ほぼ同時代の魏略の引用のようですが、同時代の事象を書いていますから確度は高い。

後漢書の編纂は宋で432。
韓の東南大海中にあり、100余国にわかれ武帝が朝鮮を滅ぼして後、30国が朝貢してきている・・
「邪馬臺国」はここで登場するのみです(隋書での引用を除く)。

宋書の編纂は梁で510頃。
倭王五代以外の記述がないのはこの時点での新情報はなかったということでしょう。

梁書の編纂は唐で630頃。
隋書の編纂は唐で636頃。

次の王朝が前王朝の歴史を書く伝統になっていますが、陳、隋は短期間で滅びたためにこれらの南朝や北朝の史書は唐がまとめて編纂しています。


さて、
後漢書:大倭王は邪馬臺国に居し・・・
この邪馬臺国に補注が記されています。

岩波文庫の原文(影印)では「案今名邪摩惟音之訛也」
中華書局版では「案今名邪摩(惟){堆}、音之訛也」
太田亮氏の日韓古代資料の原文では「按今名邪摩推音之訛也」

惟、堆、推、・・はてさて(^^;

「案ずるに、今の名である「邪摩?」は邪馬臺国の音が訛ったものである」
後漢書編纂時代432ではうすうすに「邪摩?」の存在を知っており邪馬臺国との関連も匂わせているわけです。

宋書と梁書は「倭国」しかありませんからいったん飛ばします。


隋書では「邪靡堆」が登場。
後漢書の「邪摩?」と「摩」が微妙に違うけれど同じものを指すとしてよいでしょう。

隋は608に倭国に使者を送っていますからこの時代の倭国の情勢を知っています。
「・・其国境、東西五月行、南北三月行、各至於海、其地勢東高西下」
「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」

その国(倭国)の境は東西五ヶ月の行程、南北三ヶ月の行程でそれぞれ海に至る、地勢は東が高く西が低い。
都の邪靡堆は魏志のいう邪馬臺の者が(いる場所)である。

「倭国」は東西に長い地形です、九州ではない。
東が高いとは飛騨〜中部の山岳地帯でしょう。
邪靡堆に魏志時代の邪馬臺の者がいる、とはどういうことか。

ひとつは自説での卑弥呼(ヤマ・イ)から独立して「ヤマ・ト」へ入城した開化、崇神の系譜の者の意。
もうひとつは具体的です・・後述。


「至竹筑紫斯国又東至秦王国其同於華夏以為夷州疑不能明也、又十余国達於海岸」

使者の旅程は筑紫国の東の秦王国から十余国を経て(邪靡堆の?)海岸に至っています。
秦王国の様子は中国そっくりで、ほんとうに夷州なのか、といっています。
秦王国は宇佐あたりではなかろうか。

他に阿蘇山もでてきますが、これは「倭国」の総合的な風俗描写の最後ですから「邪靡堆」とつなげるわけにはいきません。
旅程と地勢から邪靡堆が近畿にあるのは確実です。
すなわち、この時代に「九州王朝」は存在していないということです。

推古紀はこの使者を「大唐」の使者と書いています。編纂者は隋書を熟読しているはずなのに・・
則天武后はまだ登場していません、随の使者にとって女帝はたいへんにめずらしいはずですが隋書は女帝とは書いていません。
このあたりに推古朝あるいはこの時代の近畿大和の隠された実体がありそうです。


隋書に「倭国」は登場しません。「俘」の子を女に変えたタイと読むらしい文字を使っています。
(岩波文庫の隋書翻訳ではこれをすべて「倭」に改竄しているので要注意(^^;)
以降この文字を{タイ}とします。
(ヤマ・タイに通じるタイかどうかは不明)

隋書と梁書は唐による同じ時期の編纂でどちらも630頃の完成です。
梁書の編纂者の死去は637、隋書の編纂者の死去は643、それぞれの編纂者が相互に情報交換しているのは確実と思います。
少なくとも隋書の編纂者は梁書を読んでいるでしょう。

梁書では「倭」で、隋書では{タイ}としているのには意味がある。
梁書における倭国は隋書時代では性格が変わっていた。
だから隋書は倭だが旧来の倭ではない意味を込めて{タイ}を使ったのだと考えています。

梁書での倭国との公式記録は倭王武に征東大将軍の官名を与えた502が最後です。
梁書に高句麗と百済の使者の来訪記事はたくさんあります。しかし倭国の使者はゼロ。
この大事なときに扶桑国の民間人?慧深の来訪のみ。

梁の502頃〜隋の600頃の「倭国」は使者を送ることができない状態だったということでしょう。

↓ 

邪馬台国小論 投稿者:かたばみ  投稿日:03月06日(水)01時16分22秒

三国志魏志倭人伝(280頃)の文字は「邪馬壹国」で、卑弥呼の後継者も「壹与」です。
これは伊予の地名に通じるもので、四国出自の巫女が後継者になったのではないかと考えています。

後漢書(432)で「邪馬臺国」が登場します(以降識別のために臺を台と書きます)。
ただし「邪馬台国」に居住するのは大倭王で、女王ではありません。
魏志倭人伝の引用部分では「邪馬台国」はでてきません、女王国とのみ記述されています。

原文には邪馬台国の直後に「今名邪摩(惟)(堆)、音之訛也」の補足書きがあります。
重要と思います。今の名の邪摩惟あるいは邪摩堆は音が訛ったものなり・・
ヤマイあるいはヤマタイの2種の発音があった可能性を示すものです。

宋書(500頃)では倭王五代の記述のみで地域を推定できる情報はありません。
梁書(636頃)では「邪馬台国」で魏志倭人伝の文脈を踏襲していますが、女王の記述はなく倭王となっています。
隋書(640頃)では倭国は百済新羅の東南にあり・・邪靡堆の国は東西5ヶ月行、南北3ヶ月行、各海に至る。地勢は東高くして西下り邪靡堆に都がある。
東西に長いから九州ではないのは明らか。中国地方〜近畿を示し、首都の邪靡堆は中部山岳地帯の西側、すなわち近畿にある。
そして「邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者」とあります。
魏志倭人伝でいうところの「邪馬臺」の人物が邪靡堆の王になっている、の意でしょう。
邪馬台国の人物が王になっている、とわざわざ書いているのは邪馬台国と邪摩堆が異なるものであることを示すものと思います(少なくとも場所が)。


さてちょいと空想(^^;

AD250頃までは邪馬壹国が九州にあり卑弥呼が女王となっていたが、その死後壹与が後を継いだ。
ここまでが魏志倭人伝の記述。
九州以外の情報はその他の倭種と侏儒国や裸国黒歯国のみ。
その他の倭種とは出雲のこと、その情報が届いていないということは出雲が対外交流できない状況にあったことを示すものとみます(九州北岸を譲ってしまったためです)。

卑弥呼の死後、邪馬壹国の男王(開化(^^;)が奈良突入に成功し、そこに邪摩惟ないし邪摩堆を建国した。
開化225-248〜景行311-333あたりまでの情報があいまいに伝わって書かれたのが後漢書の記述。

梁書がかすかながら卑弥呼死後から倭王讃の登場を記しています。同じ卑弥呼系からの男王登場と読めます。
中華書局版の原文参照 原文1 原文2

卑弥呼以後の九州勢力のメインは北九州玄界灘沿岸にあったのではなかろうか。
景行天皇の九州巡幸ルートには九州北岸がでてきません。
宇佐付近上陸〜大分〜阿蘇東麓〜日向〜宮崎〜熊本水俣〜玉名〜日田
たぶん日田から大分か宇佐へ戻って帰国したのでしょう。
中国や朝鮮半島との交易の中枢になるはずの福岡や宗像がでてこない。おかしいです。

そこには容易ならざる対抗勢力が存在したからではなかろうか。
景行の祖である日向天孫のさらにその祖、その後裔が支配する地域だった。
(実際には古出雲の吉野ケ里や宗像勢力との混合体)

景行の母、日葉酢姫は日本海系です。この縁で戦闘状態ではなかったが触れることのできない地域だった。
景行天皇の巡幸記はその存在を省略している・・大和王朝系以外の勢力の存在は認めない・・

その勢力(≒日本海系)が後に神功を介して応神を生み出し、倭王五代につながってゆくのではないか。
魏志倭人伝時代と隋書時代の中間を埋めるのが梁書の記述だと思いますが、空想中。

旧唐書(940頃)では倭国と日本国の関係を示す記述が興味深く上記を補足してくれるようにみえます。


魏志倭人伝では邪馬壹国=女王国だが、以後に邪馬台国=女王と書いている書はない。
魏志倭人伝時代の邪馬壹国の後継国が邪馬台国とみてもいいでしょう(場所が同じとは限りません)。
後漢書以降では魏志倭人伝の残像と前代の史書をベースにして、その時点での最新情報を重ねて書いているとみています。

時代の違いでの変化情報がそれぞれの倭国伝に存在するわけです。
後漢書以降の記述内容を魏志倭人伝の解釈に重ねてはならない。時代の異なる事象を持ち込んでしまう可能性があります。

岩波文庫から「魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」、「旧唐書倭国日本伝、宋史日本伝、元史日本伝」の原文つきがでています。
(翻訳文や補注は「そういう説もある」であることを要念頭(^^;)



re:無血だった倭国統一 投稿者:かたばみ  投稿日:03月05日(火)22時35分39秒

≫弥生中期以降戦いがなくなってきている所から推察されているようです

環壕が消える理由は2つあるんじゃなかろうか。
弥生中期のBC130頃〜AD1頃に大きな戦がなかったのは事実だと考えています。弥生黄金時代です。
温暖化、そして新しい農耕技術とそれを生かせる土地が得られた時代。
人口も急増し環壕はムラを拡張する邪魔となってゴミ捨て場兼用で埋められた(^^;

もうひとつは戦の形態が変わったためだと考えています。
それまでは住人=戦闘要員で、場合によっては婦女子も戦う必要があった。
環壕なら少しずつでも婦女子に作れる、それだけでも役に立っていたと思います。

弥生黄金時代は人々に余剰をもたらした。
自分に代わって資産(余剰の蓄積)を守ってくれる者を雇うこともできるようになった。
集落同士が連携し共同で兵を雇うといったこともはじまったのではないか。
軍事的な方向からのクニの登場でもあります。

技に磨きのかかった兵ならばより高い報酬を得られたでしょう。(タケルの呼称の登場はこのころかなあ)
訓練された兵と組織化した軍隊にとって数メートルの環壕を突破するくらいはへのカッパ(^^;
軍隊に対抗するには同じ軍隊をもってするのが最良となって、環壕は消えていった。
奈良の唐古・鍵遺跡では最後まで(250頃)環壕が残りますが、ここのは運河であった可能性があります。

環壕に代わって高地性集落が各地に登場します。
今のところ丹後半島扇谷遺跡が最古でBC150頃(環壕を併設、ここは工人の集落らしい)。
戦では高台に陣取るのが有利なのは古今東西同じ。
そこをつぶさなければいつ逆襲されるかわからない。
防戦のみの環壕と違い、軍事拠点を作ることで広範囲な地域を守れる、城のはじまりだと思います。

卑弥呼時代≒倭国争乱時代、戦死者とみえる遺骨がさほど多くないのは戦が軍人対軍人になったことが理由のひとつと考えています。
軍隊は相手の軍隊に勝てばよい、負けた方の一般人は労働力とするのが得策。
卑弥呼が生口(奴婢)を魏に献上しているのは、「仲間ではない労働力」の登場を示すものと考えています。

かたばみ


STANさん かたばみさんへ 投稿者:首長  投稿日:03月05日(火)12時07分56秒

>STANさんどうもありがとうございます。
>岡山から、鳥取、島根と間にある、津山から根雨あたりの山岳地帯。日本海側と瀬戸内との中間地域の古墳は地域を繋ぐ関連性とか見えませんでしょうか。
吉備津神社と吉備津彦神社位置も連想を楽しめますね。
吉備津や吉備津彦神社あたりを巡ったときには、関連性も含めて調べてみます。

>かたばみさんへ
>とんでもないです(^^;;;
聞きかじり情報を元に空想を楽しんでいます

なんでもいいのでまたいろんな情報教えてください。私の首長は、たまたま古墳の資料を見てつけたものですよ。多分頭領の意味でしょう。首長族の意味では、ないですよ。ちなみに足は長いんですが?(笑)では、またよろしくお願いします。
首長


re:首長さんへ 投稿者:かたばみ  投稿日:03月04日(月)18時29分22秒

≫古墳に詳しい方と存じております

とんでもないです(^^;;;
聞きかじり情報を元に空想を楽しんでいます。

ところで・・首長さんの首長とは「頭領」の意味ですか。
大きな耳の持ち主を捜していたらミャンマーの銀細工で有名なカレン族もその類族のようなのですが、首を長くみせる風習もあるので、ちと気になりました。

かたばみ


魏志倭人伝って 投稿者:D.K  投稿日:03月04日(月)00時15分28秒

嘘っぽくないです?ジャマ台国や卑しいミコ(巫女では無くて弥呼)、鬼の道で民を惑わす、
いかにも日本が劣って酷い国の感じですね。どの様な意図や背景で書いたのか、少なくとも
記述以上の文化があったのは間違い無いような・・・必要以上に酷く言う場合には言っている側
よりも高度な文明が存在した場合も在る気がするんです。ヒミコミコミコヒミコミコって
知ってます?マニアックなネタですみません。