掲示板書庫11   
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蘇我氏は・・ 投稿者:KENJI  投稿日: 8月31日(土)18時37分32秒

D.Kさん、私は蘇我氏は大王(天皇)を名乗っていたと解釈しています。
蘇我氏が大化の改新で滅んだ時に、「天皇記」(国記は船史恵尺が持ち出した)は、
焼けたそうです。
馬子と聖徳太子が編纂したと言われている、国の史書、「天皇記」「国記」を、
一家臣が保管しているのがおかしいです。
推測ですが、両書は蘇我氏を天皇の系譜に入れていたのでは無いでしょうか。
其の事を指して、古事記の序文に
「・・旧辞の誤りたがえるを惜しみ、先紀の誤り錯れるを正さむとして・・・」と、
表示される事に成ったのじゃないでしょうか。

今私の考えは、推古天皇の統治期間は、蘇我氏の統治期間だった。
蘇我氏の行政事実まで消す訳に行かないから、聖徳太子と言うスーパースターを
作り上げ(強化した?)、殆どを、聖徳太子の行政として残した。

額田部皇女=推古天皇 は遺言通り、自分の子供、竹田皇子と合葬された(植山古墳)が
後に天皇として祭り上げられたので、天皇の格式の為に、別の古墳に埋葬し直おされた。

其の他にも、蘇我氏が天皇と同じ格式の事をしていると記録されています。
逸年号も此時期に多いです。此れは若しかしたら、蘇我王朝の年号で、後に抹殺したが、
抹殺しきれ無かったのが、残ったかと予測しています。


タリシヒコ 投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月31日(土)16時27分11秒

−>D.K さん 

>阿蘇山あり・・・の記述ですが、京都の丹波にも九州の阿蘇方面と同系の
>羽衣神話や阿蘇海等が存在し、海部氏の治めていた籠神社等が存在するので
>アマタリシホコは海部氏なのか。本州と九州で二朝存在していたのか、
>どう言った国内勢力図だったんでしょうね。

磐井滅亡のときに磐井が「昔、毛野とは仲がよかったのに---」といって嘆いたとか記紀にあったような気がします。二朝存在よりも磐井と近江毛野、丹波等若狭湾付近勢力との間に対邪馬台国又は大和朝廷の半島侵攻の関係で友好関係のあった頃スワップ又は導入されたと見るのはどうでしょうか。


タリシヒコ 投稿者:D.K  投稿日: 8月31日(土)15時35分16秒

阿蘇山あり・・・の記述ですが、京都の丹波にも九州の阿蘇方面と同系の
羽衣神話や阿蘇海等が存在し、海部氏の治めていた籠神社等が存在するので
アマタリシホコは海部氏なのか。本州と九州で二朝存在していたのか、
どう言った国内勢力図だったんでしょうね。

天智天皇の時代に半島を巡って遠征をし、大敗。唐から二千人送られてきた
そうですが、天武天皇の後の持統天皇は中国との交流が強かったようで、
同時代の則天武后は天部の后に則すると書くので、かなりの策謀を行ったん
でしょう。記紀の編纂もこの頃で、やっぱり先住系をボコボコなんでしょう。
かなり色々と憶測が出来そうな時代ですね。聖徳太子や蘇我氏が仏教導入で
物部氏を抹殺したと言うよりも、唐の大陸側の勢力が仏教を利用して
国内の先住系の精神的支柱を抹殺しようとしたのを国内動乱として残した
気もします。


アマ タリシホコ 号;アハキミ   投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月31日(土)14時19分10秒

>焼尻紋次郎さん 

これは鋭い。大阪府交野市に天のとつく地名が多い。台湾の花蓮にアミ族というのがいるがこれが銅鐸でナックルエイトみたいな舟のコックスみたいな人が頭につけるインディアンの羽根をつけており、これは神武が東遷中に遭遇している。この鳥人については穀霊を運ぶ人とする話がある。オアフ島ポリネシア文化センタのマオリの踊りと、花蓮アミ族のショーに共通点があるがマオリは東周青銅器の文様を持つといわれそのNZへの出発点は台湾とされている。
http://maaori.com/people/maoriara.htm
NZまで足を伸ばすのだから日本などへの河童。
てなことから焼尻紋次郎さんのボート・ピープルは鋭いと思います。


クラカトア火山 投稿者:KENJI  投稿日: 8月31日(土)13時50分47秒

インドネシアのクラカトア火山、535年に爆発した時は、世界中が異常天気に成り、
太陽が見えなくなったとか。冷害で死者が数多くで出たそうです。(ヨーロッパ地方)
その頃、日本は、顕宗〜仁賢〜武烈〜継体の頃か。
顕宗・仁賢は、オケノイワスワケ・オケノミコトと言います。
「オケ」は「秀真伝」に依りますと、「穢れ」の意味とか。(アスベル生きていたかさんの教示。)
太陽を崇める民族にとって、太陽が見えないのは、其の首長が穢れているから・・・と、
解釈すれば、「オケ」は将にクラカトア火山の影響の時代ではないでしょうか。
その後の、継体の出現の大きな原因は、冷害、凶作、等での、国力の低下か??。


 アマ タリシホコ 号;アハキミ  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月31日(土)13時24分07秒

  《 アマ 》
 マ(間)は、倭人の大衆が揚子江の蛋民(ボート・ピープル)だった頃からの“固
有”だったかも知れません。しかし、このマは、柱と柱の間という宗教用語だった可能
性もあります。
 「ア(大)」は、多く含まれている語種はどこだろうと、探しているところです。
 ネパール語には a:shi(強風)のひとつしかみつかりません。でも、古代日本語に
「ア(大)」があったことは、事実です。「ウ(大)」とも似ています。
 アにはネパール語で反・非・不があります。アマは「めくら」だった可能性も大で
す。岩戸かくれの神話は、このアマからの必然湧出だったかも。

  《 ホコ・ヒコ 》
 XO がありますので、わざとまちがえたのかもしれません。ヒコとなったら「土地
神」と解釈するのが順当かと思います。

  《 ハキム 》
 ネパール語 HAKIM は政府の役人です。途中意転があったのでしょう。HA(人・朝鮮
語では大)。KIM は君に直結するか? 朝鮮の KIM で見落とせないのが、毎朝太陽を
弾き飛ばす東海にある桑(*kim)の巨木。

 タリシのシは「の(之)」でしょう。が、朝鮮語 t∫i ./.日本古代語 shi で「強い」
があることは見逃せません(シコオ)。

 さて本論。
 かたばみさんの地図資料でBC500、BC200 にハノイ上流と揚子江上流あたりにテン
があります。
 天竺はインドのことですが、なんで“テン”なんだろうか? 

 アマは「目ではよく見えない(所)」、ナカは「N +akha(目)」で、なんとか目で
確認できるところ……すなわち、地上……とも解せられます。N- は強調接頭辞です。
 ナカは「くに」という用語が普及される前の“国”だった可能性きわめて大です。
 ナカヤマは国家プロジェクトのヤマ(人びとの集まり)。

 ハノイ上流にタ−リ−(大理市)あり。日本人は長音を嫌います。タリと短く発音す
るようになります。
 沖縄には長音くせが残っていて、小生が沖縄に入院していたとき、オバンが毎朝「ウチミソーチ、タ−リ−(だんな)」と挨拶してくれました。
 ウチミは「御起き」。ソー(と、の)チ(疑問詞)……起きましたか?
 朝鮮語もこの場合は短いですね。藤原のXAM(蛇)A-足(ネパール語では若い男)。
 ハノイ上流のタ−リ−は少年童神……かな?


クラカトアと多利思北狐 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月31日(土)10時54分38秒

隋書
開皇二十年、{倭}王姓阿毎、字多利思北狐、号阿輩{雉}彌・・
           アマ  タリシホコ  アハ キ ミ
AD600{倭}王 姓を天 字を多利思比狐、号して大王・・

この一行だけでもいろいろあります。
多利思北狐の北は比の写し間違いという説に賛成です、原文でも間違えやすい文字に見えます。

重要なのは天を姓としていること。
(自説では天を冠するのは天孫系人物への尊称とみています、なおクシ(櫛など)は非天孫系への尊称)。
天を冠する人物はとうの昔に消えていたのが欽明で復活する。
これ以降皇極、孝徳、天智、天武、文武などぞろぞろ登場します。
そして天孫の直系とされる神武をもって天皇の始祖とする記紀が編纂される・・なにかある(^^;


{倭」は倭に似た倭ではない文字です。
この文字には意味がある。
倭を用いているのは梁書の502年が最後(引用文を除く)。
隋書及び北史では{倭}になり旧唐書では「倭だったが現在では倭国の別種の日本国」、となります。

簡単にいってしまえば倭国は502〜600の間に滅亡しているということ。
いうまでもなく、倭王武〜筑紫磐井の滅亡527=倭王五代の滅亡を示すものでしょう。
(そして、内乱の傷がいえないうちにクラカトアが爆発した・・(^^;)

中国史書は正確に記述しているとみています。
隋は倭国の滅亡を知っており、倭ではない倭に類似の国として{倭}で表現した。
継体507-530から孝徳645-654あたりまでが混乱期で{倭}、それ以降が日本でしょう。

記紀は隋を唐と書き換えています。だれが見てもチェックできることで誤記じゃないでしょう。
この時代の記紀の記述には作為がある。系譜の記述もめちゃくちゃだと思う(^^;
だからといって聖徳太子が実在しなかったというのはこれも行き過ぎで、少なくとも火種はあると思っています。

かたばみ


クラカトアと欽明 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月31日(土)10時53分20秒

1883のインドネシアのクラカトアの爆発では数年に渡って世界的に気候異常がおきた。
日本では灰は降らなくても太陽が赤く見えていたらしい。
532〜535頃にもクラカトアが爆発しています。

ジェット気流(偏西風)は北緯30度〜45度付近の上空を流れています。
日本、朝鮮半島、中央アジアのシルクロードと草原ルートに一致。

東南アジアはこの頃から急速にインド文化に傾きます。
また、534に北朝の北魏が崩壊する。突厥の登場も532頃です。
朝鮮半島では金官加羅が滅び、百済と新羅が協調して高句麗と対抗する図式が生じる。

安閑531-534、宣化535-538ではあちこちに屯倉を作り食料移動を行う記述があります。
気候異常のために食料の緊急輸送が必要になったのだとみています。

社会不安のなかから登場した欽明、なにかあると空想中(^^;

かたばみ


世紀を駆動するハミダシ者のエネルギー  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月31日(土)10時38分22秒

 めくら蛇におじず……、ナァ〜ンデカ。
 それはね、蛇はメクラだからァ〜〜ッ。 オ・レイ! がはは。

※ 『波動の極み』を書いた加藤喜八郎さんが遊びにきて、おれたち若衆に「シッダ
 ルタさんは生まれた王城を捨て、脱出した直後に天啓を得た。そのことは△△経に
 書いてある」と云いました。云ってすぐ、ションベンに立ちました。
 加藤喜八郎さんがいないあいだ、おれたち若衆は、「そんならU.F.Oとぜんぜん変
 わらんじゃないか。ナァ〜」と話し合ったもんです。
※ 「ある日の夕方、岩場の上にいたら、天から真っ赤な玉がおれの胸の中に飛び込
 んできた」と云ったのが、インドネシアの市役所に勤務してた青年で、彼が言い出
 しっぺになって一時爆発的に『スブド』という“一種の感染見性の宗教”が世界に
 広まりました。日本での広まりをオジャンにしたのが十菱燐という人物でした。
※ 南浦和駅まえにも、天から火の玉が胸に飛びこんできたという、奇病セラピスト
 がいます。おらも1回35000円×N回出費しました。
※ ムハマドさんも42歳のとき天啓をえて、イスラームの人びとの暮らしを縛りつ
 けました。

※ ミナカタクマグスさん、初代陸軍総指揮官の村田蔵六さん、ミキモト幸吉さん、
 スサノオさん、中臣鎌足さん、ゴッホさん……etc etc 。古来、世紀を駆動させた
 偉人は、どこかが抜けていて異端で、心身に障害をもつ者だらけでした。

 天啓とかU.F.Oの「?格」がかかわる人類への援助交際があったのでしょうか?
 ここは21世紀初頭人のわれわれには、判断のつけようもありません。
 ところが一級身体障害者の神経やセンサー、ハミダシ思考傾向は、まぁまぁのとこ
ろで射程距離内に入るのではないでしょうか。
 普通人の感覚は大幅に視覚に支配されます。目がみえないひとは、一種の「凸凹修
正の生体反応」で、異様な能力を発揮します。
 古代人がこれを見逃すワケがありません。

 イエズス会のフロイスさんは、「えぞ」を「イエゾ」と書き遺しています。当時、
イエゾという発音があったからでしょう。
 小生はこれを I-ADHO と置きます。これは I という神の語形を語頭にたてる古い造
語法です。ADHO はネパール語の「めくら」です。めくら神がイアド → えぞ。
 遮光器土偶は「メクラ神 + 嬰児の童神」です。これは、ひとつには I- ADH-AKI
(矢崎)の語形になりえます。I-ADH はヤツですが、これはすでにソグド語で神で
す。アキタの「デブヤス(あばれ神)」は凡インドの DHEB(神)を伴った語形。

 韓という文字がついてまわる「ソホリの神」の SOHOR は、蒙古語で「めくら」。

 ねぇ〜〜ッ、アイヌ語を見る者はアイヌ語バッカス。朝鮮語を見る者は朝鮮語バッ
カス。なんでヒョイと脇見をしなかったんでしょう?
 でも、とうぶん、おらも異端者ですラ。


津軽海峡付近に堆積する白頭山テフラ 投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月31日(土)06時09分51秒

s_tanさん
KENJIさん
白頭山(中国では長白山)http://www.tanken.com/cyohaku.htmlは日本人向きじゃないそうですから、女性にとっては尚更なのでしょうか。でも平安の爆発は北半球の気流の流れを暖冬方向に変えた可能性もありますね。

 


白山、シラ 投稿者:s_tan  投稿日: 8月31日(土)00時20分11秒

>降灰
といえば、総て東へ降るようですね。黄砂、桜島、富士山、浅間山・・ジェット気流でしたでしょうか、たしか高度違いで逆の気流もあったような。季節による風待ちは色々資料にありますね。

>白山
(AD530-)頃ササン朝のホスロー1世は西突厥のシルジプロスの女婿になり援助のもとエフタルを一掃。この頃のシルジプロスの本拠がタカマラン砂漠中央北の亀茲の北「白山(金山)」、これが突厥発祥の地といわれる。

欽明29の時、稲目が没すと急に高句麗人の来航が多くなる、山背国などに定着などする。これが高句麗人なのか背景or本体が新羅なのかは検討余地有。越に着いた高句麗使を朝廷は膳臣を越に迎えに行かせ、正式な中国からの使者に準じる歓迎をしている。

滋賀の敏満寺(みまじ)は秦氏だが、胡弓神社・白山神社がある。近くの愛知川上流・小椋谷の白山、、北の大君ヶ畑(おじケはた)の八幡とともに木地屋の信仰する本地本社といわれる。(木地屋=轆轤師、杓子、塗物、引物師。)

白山(はくさん・しらやま)信仰は「オシラサマ」なども縁深い、派生したのか合流したのか「?」でしょうか。白髭神社、白髭翁など白山と絡むことが多い、新羅と高句麗を同じとしていた人達が居た、シラをシラギと訓むようになったのが原因なのかも。

>エミシ
蝦夷、以前ちょっと話に出たような気が。。箕子・王、ですか面白い!。エミノオシカツなども重ねられる、ですね。
紋次郎さん、「エゾ」期待してます、

>蘇我
たしか千葉に、蘇賀氏が建立という白山神社があります、詳細未調査。


蘇我./.物部戦争とは インド勢力の代理(?)戦争だった   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月30日(金)08時18分47秒

D.Kさん、歴史の史とは文章ということで、書き遺されたものということですよね。
 それだけではもの足りなくなって発掘考古学が遺跡を掘りはじめました。
 ここにきて、ミトコンドリアでの遺伝形質調査で種族のうごきを掴もうとか、南極の氷
を採って気温の変化を調べようなどの手段が出ました。
 言語手段による古代発掘はできない紋だろうかといううごきが、いま、ポッと出たばか
りでんねん。

> でもNHKの聖徳太子は太子側が物部神道系の呪術を唱えていたのはビックリです。
★ 言語考古学(!!)によれば、仏教(文字読み顕教)流入まえの、ネパールとかペル
シャとか中東方面から伝わったらしい「仏教以前の仏教用語みたいなもの」が浮上してい
ます。
 たとえば、ミロクはサンスクリット語に狂ったオッチャンたちの解釈によればマイト
レーヤ−の“訳語”だそうですが、MI(神)LOK(地上)とドンピシャ(地中のへび支配
ではない)。
 このミロクは沖縄ではへんちくりんな「沖から幸いをもたらす神」のミルクになり、さ
らにギリヤークにはいって「ばけもの」になっています。
 ギリヤーク族はアイヌの先住民族です。
 その他、コメのシャリ、はんにゃ、ドクロ、世話、布施、ウラボン、ホクラ、などな
ど、サンスクリット語で“訳語”とされている大量の仏教用語が、じつは「モノノベ語」
だったということになってきました。ホトケそのものがモノノベ語です。

 言語考古学は、「蘇我 ./. 物部戦争とは蘇我顕教勢力が、稲作へのタカリ構造を奪取し
ようとして起こった、インド勢力どうしの戦争だった」ことをハッキリさせました。


船と航海術 投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月29日(木)20時03分31秒

>かたばみさん
役人は公休を貰い半年は乗馬などの自主トレでもしなければ船長から体力検査されて落とされていたんじゃないかなーって気がします。(〜^^)〜


お手あげです  投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月29日(木)19時57分13秒

>焼尻紋次郎さん
Nice info探していたんだよ♬です。ありがとうございました。m(_ _)m


焼尻さん 投稿者:D.K  投稿日: 8月29日(木)19時39分15秒

 歴史なんて結局は残された文献からでしかわからないので書いた側との
知恵比べに成るんでしょうかね、異端文献も含めて。ビギナーズラックって
馬鹿に出来ないと思うんですよ。

 聖徳太子がいなかったかどうかは別として(色々と情報は入るんですが
裏が取れない・・・)歴史に記された記述はかなり嘘っぱちでしょう。
だって、”日いずる処の天子・・・”だって”阿蘇山あり・・・”や
男性のオオキミのアメタリシヒコの記述が殆ど無視されているから。

 でもNHKの聖徳太子は太子側が物部神道系の呪術を唱えていたのは
ビックリです。


お手あげです 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月29日(木)19時00分25秒

 クーガ−キングさん、すみません。まったくのお手あげです。
 古事記は星の運行をもとにして、(名前もデッチあげられて)編纂された‥‥という研究を続け
ているひとがいます。
 むずかしい漢字と、そして数字も使いますので、おらは逃げだしました、数字もオンチですらぁ。
 HVHY・古事記 でGOOGLE かけると出てくるはずです。
 「屋根瓦ふき」の上手なひとです。

 あ、おらはキカイ・オンチでもあります。それがマッキントッシュ持たされて、アワふきました。


船と航海術 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月29日(木)18時49分13秒

遣唐使がどの季節に出発したかの資料がないですが、逆風になる季節に出発していることもあるようです。

こういうデータがあります
九州付近をみると夏は大陸へ、冬は太平洋へ風が吹いている。
九州付近の風だけなら夏に出航がいいようですが大陸近くでは大荒れになってさあたいへん(^^;

このくらいの情報は漁労民から得ているはずです。
横風で前進できる船なら大陸が高気圧で包まれる冬に出航が安全確実だが、追い風でしか進めない船しかなかった。
太平洋へ流されるより大陸に吹き寄せられるほうがまだいい・・

船と帆の性能の問題もあってやむなくいちかばちかの出航をしていたのかもしれない。
仮病を使って乗船拒否した役人がいたのもわかるなあ。
船は大型化したが帆走技術がおいついていない、そういう時代かもしれない。


9月だけですがこんな資料があります。
First Image (1M)の下段の画像が台風が去って日本全体が高気圧に包まれているときの風かな。
なかなかきれい、壁紙になるかな。

かたばみ


世迷いごとと思われましょうが‥‥ 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月29日(木)18時24分27秒

 へんなおじさんが、へんなことばをモジくりまわして、喋ります。
 拒絶反応は当然です。しかし今、そのリクツを煉りあげちゅうです。

 KENJIさん、恵美ちゃん……いい名前ですね。SI を切り離して考えるとき、SI に
は古代語としてネパール語 SI(ひと)がいえます。
 インドでは人と神とは同じ発音で表されて、具体的な事例をみないと神かひとか
がわかりません。この傾向はそのまま日本の古代に入ってきていると言えます。
 インドから入ったと考えられる「人・神」は SI だけに限らず、ta , mi , wa , o
, i , me , ya , ha , などなど‥‥まだ整理していません。
 それらにあって、ko がこれに入りそうですが、確認まで行っていません。
 地中海にはヒミコにそっくりなヒミルコさんがいますし、マルコ(ポーロ)さん
はお馴染みです。
 この“ko , co ”は、XO と同一かまたは、混同されていると思われます。
 XO とは、何にもないウツロな空間です。日本語「神庫(ホクラ)」によく顕われ
ていることかと思います。
 ウマコはウ(大)マ(目)とも懸け言葉になっていると、ヤブニラミ中です。

 D.Kさん、おらは歴史上の人物の関係など、まったくのドシロートなんです。
 しかし N.H.K 放映『聖徳太子』をみました。そのとき、聖徳太子はいなかった
という説を聞いてびっくりしていましたので、登場人物の固有名詞に注意を払って
メモをとりながらみました。
 すると、聖徳太子を取り巻く固有名詞は、一応古代語ですが、皆んなまったくあ
りふれた普通名詞に還元されてしまいました。
 やっぱ、デッチあげではないでしょうか。


星よりひそかに♭ 投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月29日(木)10時21分12秒

>焼尻紋次郎さん
キトラ古墳天井壁画天体図はピョンヤン(高句麗)の空ですが、これは(1)高句麗人が天測による陸行、水行を行っていたこと(2)キトラ古墳被葬者ファミリーはこれを極めて重要な家宝とし主人の死後天界航行に支障のないようにと祈ったか(3)またはオデッセイ的なその先祖伝説に基づき個人を祖先の地に葬ろうとしたかさまざまな憶測を許します。図星、本星は何でしょうか。星(実行者)は何でも知っている。夕べあの娘と♭・・・なんてありますよねー。


re;白山 投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月29日(木)07時25分05秒

>KENJIさん
>s_tanさん
頂上付近に天池があれば白頭山と同じで高句麗系の信仰対象となる可能性があり、継体天皇のアボジさま、オモウさまあたりもお参りしていたのではないかと思い興味を持っています。(^^;


箕子、百済王キシ、(エ)ミシ 投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月29日(木)07時16分11秒

>焼尻紋次郎さん
#蘇我エミシは蝦夷と書くので不審に思った方は多いでしょ。
 では「エゾ」とはなにぞ。
 かたばみさんの超資料と、紋次郎のヤブニラミにご期待ください。

アラブ(定着牧畜)、ベルベル、バーバー(移動遊牧ノマド)の中間帯(コサック)なんて屯田兵的なのもいますが、当国でもこの中間帯をエミシとすると、コザックとカザフみたいにエゾ、エミシ両方の響きを残して心憎いですが。(。。;非常に期待します。


渤海−日本海 投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月29日(木)06時57分11秒

>s_tanさん 数年前に理科年表には確か平安時代白頭山の火山灰が津軽海峡地方積もっているとなっており、西高東低の気圧配置ではないが冬季季節風の吹く、晩秋から初冬の比較的に気温の高い頃、出羽が直行コースであり、それから季節が深まると共に佐渡、北陸等が到着港になったということでしょうか。いずれにせよ耐寒、気密性の確保された昔の「不審船」だったのでしょうね。ちょっと船体を調査してみたい。(^〇^)


re;白山 投稿者:s_tan  投稿日: 8月29日(木)00時35分35秒

KENJIさん、画像・資料ありがとうございました。画像と地図を見比べながら色々妄想逞しく資料に寄り道、やっと昨夜upして、さすがに途中で睡魔。今日、見直して少し手直し^^。
若狭から越前加賀と続く海岸、このあたりの探索もいつか行きたいものです。


渤海−日本海 投稿者:s_tan  投稿日: 8月29日(木)00時34分35秒

対馬を経ずにやってきたのは、かなりありますね。各種資料を全部まとめている人はいるのかしら。
丹後・網野町付近は弥生の土笛とか初期大型古墳で著名ですが奈良時代の資料に渤海国からの入国地としてその名が載る。
この日本海ルートは8cに中国東北部にあった渤海がしばしば用いた航海路である。大和朝廷が対馬を経ないで日本海を横断するのを禁じてから次第に忘れ去られた。
高句麗の滅亡(668)後、北に逃れた遺民が靺鞨族と複合して建国した渤海国(初め震国)は神亀4(727)から延喜19(919)にいたる約200年間に34回も日本に使いを派遣したが。初期は出羽に集中している。寒い時代の宮廷で持込まれる毛皮が特に珍重されたとか。

佐渡もその名は渡りを佐(助ける)島というのが名前の由来らしく惠子さんは天武40との関連を提示している。天武40は美濃の東?に温泉療養とか曰く遷都とか大和から佐渡への途中にこの時代の天皇としては珍しく逸話が多い。

相模・大住国府跡に近い神明久保遺蹟から鍍金銅製の錠前が出土している、このカラクリ2ヶ所止めの錠前は国内に類例が殆ど無いが、黒龍省東寧県の渤海の古城跡で渤海率賓府跡と考えられている大城子古城遺跡より同型が出土している。
・・・
まあ、何時の時代も正史に乗る客よりは、載らないお客さんの方が遥かに多いことは間違いない。


焼尻さんへ 投稿者:D.K  投稿日: 8月29日(木)00時11分49秒

蘇我蝦夷の蝦夷にやはり目をつけられましたか。
聖徳太子に纏わる話し自体がかなり怪しい部分が多くて、
四天王寺等は奥の院で庚申様が祭ってあり仏教とはかなり
眉唾ですね。物部氏と我蘇りの蝦夷を戦わせて勝者も結局は
討ち取られる話が史実を述べた物ではないならば、とんでも
ない構図をしていますね。

 聖徳太子の後の中大兄皇子から白村江の大敗で日本は
激動の時代を迎え、天武天皇の死後、古事記や日本書紀が
出て来て、伊勢神宮の公式参拝等が始まるので、ここの
辺りから見ると興味深い推理が出来そうです。


なるほど 投稿者:KENJI  投稿日: 8月28日(水)23時32分58秒

平泉寺白山神社の額の文字は、「白山三所大権現」でしたか。
言われれば、その様に見えました。(^^ゞ

焼尻紋次郎さん、蘇我蝦夷、私は蘇我恵美し(「し」の部分は確定できず。)馬子は
美こ(「こ」の部分は確定できず。)の様な、文字ではなかったかと思っています。
蘇我氏の事は、後の、反蘇我氏が書き残したので、どちらかと言えば卑下されるような
(書かれた当時です。)文字を使用したと思うのです。
なにせ、勝ち組から見たら、朝敵ですから。

 


 箕子、百済王キシ、(エ)ミシ   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月28日(水)20時56分43秒

 漢字オンチですのでまちがって読んでいるかもしれないんです。
 
 サンカは箕を売ります。箕とはなんぞ。ゴロ合わせ・ことだまの偏執ならまし。
 かたばみさんのお教えによれば『中国では秦の統一。燕の衛満は朝鮮半島の箕子朝鮮へ脱
出し箕子朝鮮を奪って……」と、あります。
 朝鮮のその國を奪ったあと、そこが箕子となったのか、もともと箕子というくにが朝鮮に
あったのか、定かではありません。
 だが、それはさておき、「箕」は朝鮮語では khi と発音し「背が高い」という意味です。
 キシとは百済の王様のことです。岸総理……わが親戚先も廣島県呉市にいて「岸」です。
 背が高いのが王様になったのでしょうか?

 「箕」は日本ではミです。箕子は「ミシ」と発音できます。
 ミシ……で、なにかを憶いだしませんか? そう、エミシの「ミシ」。日本列島にこの箕
子が入ったときの当座の意味は「王様」ぐらいの意味だったのではないでしょうか。
 この misi の語頭に“e”がついたら「エミシ」です。
 では、「エ」とはなにか……? 
 中大兄王子‥‥、“e”は古代エデン語の「尊い、格上の」という意味でした。南方語の
ほうが、日本語と近い“e”がありますが。ヒマラヤ山麓では je(良い、親方)となり、ネ
パール語では jae(ばんざい)となります。ヘブライ語にも yae(善い)が見られます。
 エミシとは「立派な格調高い王様(クラスの生まれ)」の謂いだったのでした。

 蘇我エミシは蝦夷と書くので不審に思った方は多いでしょ。
 では「エゾ」とはなにぞ。
 かたばみさんの超資料と、紋次郎のヤブニラミにご期待ください。


 ハイエルダ−ルさんが見たもの   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月28日(水)19時57分05秒

 クーガーキングさん、ご応答アマカネ。
 太古では、これ、“ロマン”による突きあげでしょう。主張の行き違いを、ギロンすれば、そこ
でなにかの解決があるのではないか……と呻吟する生まれ故郷での毎日(S_tan さん + α)……。

 忘れられないのが、星の輝きと訪れた島々で人びとが贈ってくれた、あの無邪気なほほえみ。
 「ぼくちゃん、もうちど行きたいなぁ〜」。

http://www.you-i.org


最初は個人・ファミリーの宝物情報だった?  投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月28日(水)18時19分40秒

>焼尻紋次郎さん
偶発的発見(最初はそんな遠距離航海ではなく、短距離の沿岸高校のつもりだったのが時化で流され方角が変わったこともあるでしょうし)、安全性確認検証、売買先の確保、証書類の作成などがあり、又航海日誌、暦、筆記具、星座表、天測機器、のろし等相当の準備をしなくてはならなかったと思います。ある程度の武器、漁具も必要であろうし、中国の貨幣なども携帯したかもしれない。マー、大変なことだったんでしょう。


 最初は個人・ファミリーの宝物情報だった?   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月28日(水)17時51分48秒

 クーガ−キングさん、小生はできの悪い生徒でしたので、まとまった思考向きではないのです。
たしか、海保嶺男さん著『蝦夷』だったと思いますので、もういっぺん読み直してみます。
 ただし、その本は3メートルも先にあります。風呂に行く途中で立ち寄って拾うことになります
ので、いま少々お待ちください。

 いまから25年ほど前、N.H.K が徳島の漁民一家のことを放映したことがあります。
 そこのムスコと親父はひょいと十日間ほどかけて鯛釣りにでかけるそうです。行き先は山東半島
の先だそうでした。
 アザラシのタマちゃんが迷いこんで来て話題をかっさらっています。
 たまたま、流され、たまたま戻ってくることに成功したファミリーは、珍しい経験をしたり珍し
い物を持ち帰ったのではないでしょうか?
 その流されるルートは家単位で社外秘にしたのではないでしょうか(戦友、気仙沼のアベちゃん
はニヤニヤ笑うだけで、とうとう兄さんにも、こごみが生えている場所を教えませんでした)。
 第二次世界大戦が始まるまえ(大正年間だったでしたか?)台湾バナナを海流に乗せて流す輸送
方法が開発されました。→ √♪ このバナちゃん食うたなら‥‥、叩き売りです。
 そのような家宝ルートの集積が、沿岸の親分衆の知るところとなって、給水協定などができあが
れば、ルートとなるのではないでしょうか。

 後三年の役が始まる2年まえでしたか、阿部禎任(?)が家人をつれて、蝦夷地を探険していま
す。『何日も何日も峨々たる海岸が続いたあと、ようやく広い河口にたどりつき、その川を遡って
行ったら200名ぐらいの(インディアンみたいな)氏族が馬を泳がせて病人を運びながら移動す
る風景に遭遇した。そら恐ろしくなって逃げ帰った』……と、書き遺していますね。
 これをどう読み取るかですが、とにかく「舟で遠くへ出た」ということは、集落単位ぐらいなと
ころで、遠隔地の情報は固定していたのではないでしょうか。


こまかい「海流」があった?    投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月28日(水)12時36分20秒

>焼尻紋次郎さん 
 
*秋田城主の誰かが、朝鮮北部とヂカ取り引きを臭わせる文書を遺している。
*名護屋に布陣ちゅうの秀吉のもとに、直後に松前藩の城主となった人物が訪れて、アイヌが
*シナ貿易で得た「蝦夷錦」の陣羽織りなどを贈った。
*このとき、朝鮮へ潮流を利用して早く行けるルート情報を秀吉の耳にいれた。
*これに喜んだ秀吉は松前藩の存在を許す本領安堵のお墨付きを渡した(松前藩誕生)。

 
中国商人が沿海州樺太経由でアイヌにセールスを行っていたのでしょうか、逆はまずないでしょうね。
津軽海峡の潮流は時間によって東西の向きを変えているというようなことを聞いたことがあります。このタイミングをつかみ、また逆流の位置をつかんだ場合、潮流を利用した航海が可能かもしれませんが、それは季節風が安定しているか、無風状態の多い季節とか非常に季節的に特定されたものであったのではないでしょうか。


古代のはなし  投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月28日(水)11時38分53秒

>s_tanさん  s_tanさんにお見せできるようなWebはないのが現実です。お恥ずかしいがご参考までに一つ。http://akasaka.cool.ne.jp/sogawa/index.html
コロコロ変える---云々はその下のs_tanさんの言ってらっしゃることに吸収されます。まー、しいて言えば個性が強く出すぎるとよくないとでも言うんですかね(ニュートン、アインシュタイン、現代の超弦理論、今は11次元ですがコンピュータの動き一つでどうなるかわからぬくらいめまぐるしく動くんですから固定概念ってものはすぐに陳腐化する)、でも本来HPなるものは自己顕示の具たることが本来の使命なんだから言いたいことを言えばいいんだともいえるし。それにしてもs_tanさんの材料はすごく勉強になります。ワァオなんていいたくなるところがありますね。また発散してしまい申し訳ありません。


古代のはなし 投稿者:s_tan  投稿日: 8月28日(水)02時06分13秒

クーガーキングさん いやぁごりっぱ。
Webなど、されてましたらご紹介ください。どうも行間というか、読みきれないのが少しは解消されると思います。
>ところで仮説を立てるときに、不変であるべき事実陳述は別として、コロコロ変えるようなシステムにしておかれることは、つまり、柔軟性を持たせること、のめりこまない、はまらないようにするのがいいと思います。
#この文章のもつ意味がよく分りません。できればかみ砕いて教えてください

>・・ただし主張、議論は本来的に意味はないものではないでしょうか。どう思われます? 
#この辺りは似たような感覚をお持ちのようです。
私は歴史をつくるヒトの動きの原発(原因発生要因元)は2つの「リガイ」と思います、利害と若干の理外です。大きな流れというかうねりは自然環境に左右されるのでしょうが。
歴史学者でもある程度広い年代を研究している方はほとんどが、歴史=収奪の歴史、という事を書いているようです。
まあ、昔の人の収奪方法結果をみる訳ですから、せいぜい「あそばせて」の感じでしょうか。
古代というか歴史を探るのは、よく出来た推理小説を読みとく、感覚ですね。ですから推理の根拠は知りたいですが主張がぶつかる議論には重きは置かないですね。意味が無いとは思いませんが^^。

えーと、このhpの全体図はTop頁下方の site-mapにアバウトtree構造の案内をしてます。

 


中央アジアからインドへ2 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月28日(水)00時03分36秒

再度地図をご確認ください。
BC500頃
BC200頃

BC600頃からの鉄器登場でガンジス流域の開拓が可能になってゆきますが、その原動力が耕作用の牛だった。
しかしバラモンの祭祀(遊牧の祭祀)は牛を生け贄にすることで成り立っていたのだそうです。
豊作を祈願するためにその原動力の牛を殺す。
牛の数が減って農耕に支障をきたすという矛盾が生じたようです。
(牛の増産をしていては農耕に手が回らない)
農耕に移行した遊牧の祭祀が環境にマッチしなくなっていったわけです。

そして商業が勃興します。
バラモンの階級制度の第3階層が商人、商人が国家を支えるようになって商人の不満も増大していった。
そして登場したのが仏教とジャイナ教(菜食主義)です。
仏教もジャイナ教もサンスクリット(バラモンの言葉)ではなくバーリ語(一般民衆の言葉)で布教しています。

釈迦の出自はシャカ族(Sakya)、ガナ・サンガという部族共和制の一部でネパール国境近くの北部インドです。
(このシャカ族がサカ文化圏のシャカ族かどうかの決定資料はありませんが、まず同じと思います)
ガナ・サンガは第2階層クシャトリア(アーリア人のみ)で構成されますが、実際には建前だけでクシャトリアではない部族が多数含まれていたようです。


BC326アレキサンダー大王がインダス川まで進出し進軍停止。
BC317頃、インド内の混乱を利してマウリア朝登場。
アレキサンダーの政策は婚姻融和策です。その征服地域に少なからぬギリシャ系の血がはいっているはずです。

アレキサンダーの後をうけたのがセレコウスシリア、その東部で独立したのがBC250頃のパルティア王国とバクトリア王国。
カスピ海東南にはパフラヴァ族(インド文献の呼称、西欧からはインドパルティア)がいて南下し、後にシャカ族に代わって北西インドを支配しています。バクトリア王国とパルティア王国がこれでしょう。


AD50頃にインド西北からアラル海南方にかけてクシャーナ朝が登場します。
BC100-AD100頃

後漢書がクシャーナ朝の成立過程を詳細に記しています。
中国西北の辺境の遊牧民が匈奴に敗れて西に移動し、バクトリア地方に定住した。
故郷に残った者を月氏と呼び、移動した者を大月氏と呼ぶ。
大月氏の支配下に5部族があったが、100余年後にクシャーナ族が有力となって他の4部族を滅ぼしガンダーラ地方を征服し、その子の代でインド奥深くまで領土を広げた。


サカ文化のシャカ族がトコロテン式で南下(BC500頃)、ここへ月氏が匈奴へ追われてやってきた。
月氏に追われてパフラヴァ族も南下しバクトリア王国とパルティア王国を建国したが、BC130頃に大月氏に征服された。
大月氏の支配した「5部族」にシャカ族とパフラヴァ族が含まれていた可能性が非常に高い。
その5部族のひとつクシャーナ族がAD50頃にクシャーナ朝を建国する。

ネパールは、まずはアーリア人の支配下にはいり、ついでBC500頃からはサカ文化圏のシャカ族の南下とクシャーナ朝の影響を受けていたと推定できます。


敦煌付近の月氏が匈奴の圧迫から逃れてチベット高原へ移動していた可能性も少なからず。
ネパールの西には聖山カイラスがある。東のカンチェンジュンガからはチベット高原への道がある。
ぐるっと回った大月氏ともとの月氏がネパールとチベットを介して大きなリングになっている可能性もありそうです。

このリングを回すと・・アレキサンダー大王の子孫までいっしょに回りそう、いやはやたいへんです。

かたばみ


中央アジアからインドへ1 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月27日(火)23時42分25秒

≫どうもタジク語とネパール語はよく似ていて、原アーリア平民語みたいな感じがします

ネパールと烏孫ないし康居がつながっている可能性大と思います。
以下年代と地域がごっちゃになりますが・・

BC1500頃インダス文明がアーリアによって征服される。
インド神話は先住者(悪玉)を蛇で象徴し征服者(善玉、アーリア)を鳥で象徴する場合が多いです。
BC1000頃に最初のバラモン聖典リグ・ベーダが登場。インド神話の原形です。

バラモンのヴェーダ文献にアーリアの進出(東進)の様子が記されているそうです。
火神アグニが大地を焼き払いながら東へ向かい、人々はこれに従ってインダス上流から進んでいった。
しかしガンジス上流は聖なる火で浄められておらずバラモンの居住には適さなかった・・

森林地帯には住めなかったためにアーリアはヒマラヤ山麓の丘陵地帯沿いに東へ進出してゆきます。
すなわち現在のネパール国境のラインです。
馬や二輪車(戦車)と青銅武器を使う侵入者に先住民(インダス文明)は太刀打ちできなかったが・・

結局はアーリアも農耕文化に吸収されてゆきます。
ガンジスにも先住者の農耕が存在しています。こちらは稲作です。
アーリア支配から逃れて南へ移動した人々もいます、それがドラビダ語族でタミール人の祖先もそのひとつ。


話が飛びまして
バイカル湖のバジリク遺跡やバルハシ湖のケンコル古墳のありようは、モンゴル平原からモンゴロイドがBC500頃からBC100頃にかけて西域へ移動していった状況を示すものです。
匈奴自身が西域に達するのはBC100としても、トコロテン式であればちょっと押せば先からニュルー(^^;

BC400頃の本家スキタイの衰退は東隣のサルマタイの圧迫によります。
そのサルマタイの東隣にあったのがバルハシ湖周辺のサカ文化圏(Saka、最後のaは棒つき)。
その東隣にはタリム盆地があり、そこにかってあった楼欄の白人系が消えています。

サカ文化が東から圧迫されれば西と南がゆける場所。西へでるとサルマタイへの圧迫になる。
南へでればインダス上流です。
BC500〜BC400頃にカスピ海北方〜アラル海東方にあったシャカ族が南下してインダス上流(パンジャブ地方)に侵入、アーリアを制圧してインド北西部を支配しています(西欧からはインドスキタイと呼ばれる)。

シャカ族、これがサカ文化の語源と思います。
また烏孫はサカ文化の継承者でしょう。烏孫とは鳥の子孫の意だと思います。

下図はサカ文化圏バルハシ湖南のアル・マアタ市で発見された有名な黄金人間です


続く

 


 こまかい「海流」があった?   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月27日(火)18時59分39秒

 クーガーキングさん,D.Kさん、KENNJI さん、アマカネ(これニューギニア高地石器時代人
の挨拶。イミシンにして至便です)。お邪魔しています。

 かたばみさん、漢字による國名、地方名などの名前のつけかたの解説有り難うございました。
 古代を言語でもう少し解明できるのではないか……と考えたのですが、小生はおべんきょうを
しなかったので、漢字・オンチです。更に加えて、漢字の固有名詞の読み(発音)がフラついて
いたんでは、手のつけようもないです。

 けふ、森浩一対談集『古代は語る』を見ていましたら、こんなことが書いてありました。
* 十世紀、サマルカンドかタシュケントでガラス壺が作られて、十一世紀に日本へ来た。
* 五世紀、古墳時代にヨーロッパ製品が日本に来ている。
* ローマングラスは高句麗などには入っていない。新羅には入っている。
 パッチ・ワーク、はりぼて情報です。

 なにかの本で読んだのですが……。
* 秋田城主の誰かが、朝鮮北部とヂカ取り引きを臭わせる文書を遺している。
* 名護屋に布陣ちゅうの秀吉のもとに、直後に松前藩の城主となった人物が訪れて、アイヌが
  シナ貿易で得た「蝦夷錦」の陣羽織りなどを贈った。
  このとき、朝鮮へ潮流を利用して早く行けるルート情報を秀吉の耳にいれた。
  これに喜んだ秀吉は松前藩の存在を許す本領安堵のお墨付きを渡した(松前藩誕生)。

 金売り吉次、八戸に残る金のヨロイ、東北日本に住み着いた「コン(今、昆)さん」などを考
え併せると、ボッカイ国との関係は濃密でしょう。
 「コンさん」の特徴は耳がピンク色で、ひとのハナシを「よく聞いてくれる」と安心感を与え
るが如しに、横に張りだしています。更に、その耳にはくびれがなく、アイロンをかけたみたい
です。
 京都でも、かなり子ダネを播きちらしたみたいです。遺伝形質は遺跡の一種です。


「古代であそぼ」の構成について 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月27日(火)17時06分17秒

紋次郎さんからもご質問がありましたが・・
stanさんと私かたばみは別人ですので念のため(^^;

古代であそぼ−−−神社探訪メインで主催はstanさん
  |       公開HPとしての体裁及び
  |       用語の説明などの項目、神社の写真やデータはすべてstanさんの作成
 リンク−−こらぼれ掲示板 設定管理はstanさん
  |
 古代で遊ぼ−−−連載12章のみで主催は私、かたばみ
        (専用裏口あり、DIYで遊ぼからwoodsorrel Top で裏口がみえます(^^;)

雑談コーナーというのがあって長文はこちらでやっていたのですが、掲示板に4キロバイト書けるようになったので現在はデータ保存のみになっています。

かたばみ


渤海が怪しくないですか  投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月27日(火)17時00分13秒

ご指摘のとおり問題は帰りですね。夏場日本海沿岸沿いに北海道、樺太西岸を北上し、沿海州沿岸を南下するのはtoo muchでしょう。やはり半島東岸をアゲインストでセーリングするかどうかでしょうか。ヨット的な技術が必要でしょうね。しかし台風接近を読み誤ると命取りだったでしょうねー。日本人には知られていない半島の中継基地があったのか-難しいところです。クーガーキング


re:渤海が怪しくないですか 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月27日(火)16時31分57秒

クーガーキングさんはじめまして。

≫渤海から平安朝にはうるさいほど交易に来てますね

渤海は沿海州北部の靺鞨とも関係して内陸の突厥とつながっていますから可能性の高いルートですね。
海流もリマン海流がウラジオストック沖を南下して朝鮮半島東岸あたりで対馬海流と合流する。
竹島〜隠岐〜若狭という航海が可能にみえます(唐との関係で新羅には寄港できないはず)。

ただし、どうやって帰るかがむずかしい。
いったん津軽あたりまで北上してから日本海を横断して帰ったのかもしれないなあ。

朝鮮半島北部や沿海州の考古学的調査が進んでいないので謎ということになっているのだと思います。

かたばみ


地名などの読み方 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月27日(火)16時30分45秒

≫たとえば康居……こんなのは、ハッキリした読み方は決まっていましょうか? 

中国側の呼称は、存在だけを知っているだけの場合はその発音の当て字を使い、内容を知っている場合に意味のある漢字を使って独自の呼称を与えていると考えています。

BC200頃のパルティア王国(現在のイラン)は「安息」です。
発音と文字はなんの関係もないですから、中国が独自のイメージで国名を作ってるのでしょう。
危険な旅もここまでくればもう安心・・(^^;

対して中央アジアでもバイカル湖付近の「丁令、丁零」テイレイは→勅勒→鉄勒→突厥と文字が変化しますから、テグレクといった発音に当て字した呼称で、少なくとも突厥以前では文字には意味がないものと思います。

BC500頃のサカ文化はギリシャからはアジアスキタイと呼ばれていたようですが、中国記録の「塞」ソクがそれだろうとされています。これも発音への当て字でしょう。

サカ文化の中枢だったバルハシ湖の南〜アラル海東南はシルクロードの天山北路となります。
中国が情報を得てからの呼称が烏孫ウソンだと思います。

カスピ海北部には「奄蔡」エンサイという地域がありますが、西欧側からはアランの呼称。
アランと奄蔡の発音はつながりそうもないですから、これも文字に意味のある呼称と思います。
奄=覆う、蔡=小さな草、草原の意とみなせます。

「康居」コウキョはアラル海の東南あたりにあって烏孫と奄蔡の中間に位置する。
康居の内容も中国は知っているはずです。
西欧側からはソグディアとかフェルガナと呼ばれる地域ですから、康居も文字に意味があると思います。

漢字名の場合はを音を写したか意を写したかで、発音に意味があるかどうかが分かれますね。
例えばコウキョは漢字の日本語読みにすぎないと思います。

かたばみ

 


黄巾の乱 スサノヲ等 投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月27日(火)11時44分13秒

->D.K さん http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kf09.htmlで説明し尽くされている。私はいきなり掲示板に飛び込みこちらを見なかったもので。
>s_tanさん s_tanさんがWebmasterだったんですね。 イヤー、ご立派。勉強になります。ところで仮説を立てるときに、不変であるべき事実陳述は別として、コロコロ変えるようなシステムにしておかれることは、つまり、柔軟性を持たせること、のめりこまない、はまらないようにするのがいいと思います。古代にかかれたものは玉石混交で、永遠に解けないジグソーパズルでしょう。
しかし模範的に並べてみないと面白くもない。ただし主張、議論は本来的に意味はないものではないでしょうか。どう思われます? 


黄巾の乱 投稿者:D.K  投稿日: 8月26日(月)17時50分07秒

かたばみさん、サンクスです。どうもネタ、うけなかった様で・・・

黄巾の乱は道教集団の反逆とされる物ですが、これを平定するのに尽力した
曹操の時代辺りで魏志倭人伝が出来てます。邪・馬・台国や卑しい弥呼、
鬼道等の蔑視表現が多い記述以外にこの時代に関する日本の記述が
残されていないのが不思議ですね。道教集団とされていますが、日本との
繋がりが存在した前勢力の抹殺が目的だったのではないかと・・・
神武東征はモーセのカナン侵攻がモチーフの様で、古事記そのままに
分析をいれるのはどうかと。詳細はまた。


(無題) 投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月25日(日)22時03分39秒

>かたばみさん
こんばんは。スレッドの最初の終りに出てくるスサノヲ、ホームページでは、平原の女王や奴国王殺害に関与しているように示唆するものもありますが、神武も東遷に先立ってその辺に立ち寄るんですが、奴国はどのようにして滅びたとすれば一番すっきりするでしょうか。黄巾の乱当との絡みはどうでしょうか。この辺の情報はありませんか。


この前の白山・・・ 投稿者:KENJI  投稿日: 8月25日(日)17時56分57秒

 
この前行きました加賀白山の山紀行を、同行者の
山ちゃんがUPしました。

http://users.hoops.ne.jp/yamacyan421/

私の様子も書かれています。(^v^)
是非覗いて見て下さい。

http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/


 ケンカに勝つコツ 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月25日(日)09時23分14秒

S_tanさん>逃げ城
    騎馬・遊牧は定まった城が無い、守る場所が無く強気で戦い不利と見れば何時でも逃げられる。
    富を収奪し倉庫が必要になると守るモノが出来、逃げる=滅亡になる。
    中原の覇者の盛衰は、この繰返し、だろう。
★ ここですね。有り難うございます。もう一歩先を見たような気がします。
  匈奴、トッケツ、モンゴルをやっつけるには、まず彼らを定着させることと見えたり!
  ケンカで勝つコツは「こいつと差しちがえて、オレもここで死ぬと、肚をくくること」
  だと、堅気のわが部下(元○○組の若衆)が教えてくれたことがありました。
  背水の陣を敷いてる敵は、つついちゃならない……ですか。
  自分の陣営の水瓶割るのもテでしたか。


re:中央アジア 投稿者:s_tan  投稿日: 8月24日(土)23時50分26秒

>かたばみ さん
いろいろとレス&情報ありがとうございます。
こちら古代への余裕すくなく、相模ローカルで只今精一杯。今後ともよろしく、です。

>クーガーキング さん
こんばんわ。 スキタイというか騎馬と中央アジア馬道はかなり最近まで世界最長最速の乗物と高速道路ですね。速駈では短時間しかですがそれでもハヤイ。

>逃げ城
騎馬・遊牧は定まった城が無い、守る場所が無く強気で戦い不利と見れば何時でも逃げられる。
富を収奪し倉庫が必要になると守るモノが出来、逃げる=滅亡になる。
中原の覇者の盛衰は、この繰返し、だろう。


古代であそぼオフ会 投稿者:s_tan  投稿日: 8月24日(土)23時37分35秒

「古代であそぼ」のオフ会・通称(自称)「いり豆の会」開催のご案内。

きたる、11月3日、ご一緒に相模の式内社でも廻りましょう。
という案内を、Topページゲストブック(鳥居)へupしました。
お時間と興味が一致するかた、お気軽に連絡ください。
 s_tan

 


渤海が怪しくないですか 投稿者:クーガーキング  投稿日: 8月24日(土)19時35分28秒

>では日本の火打ち金は・・シルクロードよりずっと北の草原ルート〜沿海州ではいってき>たのか。
>だとしたら沿海州からどこへ渡ったのか、謎になっています。
4,000kmほど西に行くとアルタイの西側山ろくに着くのですが、この辺までスキタイの文化が入ってきています。遊牧民族は馬で移動するので伝播速度は相当速いのでは。渤海から平安朝にはうるさいほど交易に来てますね。


 高級な資料の洪水 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月24日(土)16時53分22秒

 高級資料の洪水にアヂアヂ・アップアップしています。印刷してひっくり返って
(行儀わるくなぁ〜い)何ベンも見ています。アタマの皮剥いでつめこむか!

 ひとつだけ教えてください。たとえば康居……こんなのは、ハッキリした読み方は
決まっていましょうか? 研究者がかってに読んでいるだけでしょうか?


自然環境と言語 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月24日(土)13時08分17秒

≫で、逆らうみたいですが、言語さえ同じなら、風俗習慣も人相骨格の永い時間経過の
≫末には必ず均一のものになる。

私は自然環境が人種を作り、文化を作ると考えています。
そして言語は人種と文化の中間にあるもので、言語もやはり自然環境の支配下にあるものと考えています。

したがって・・
自然環境が同じなら言語も風俗習慣も人相骨格も均一化する、であるならば肯定です。

ただし、恐竜と猿が同じ環境で1万年が経過して同じになるかどうかは・・
物理的な基本因子が最初から違いすぎるから。
より環境に適応できたほうが残り、そうでない方は消えるんじゃないかな。
環境変化にマッチしないものは消える、これが自然淘汰だと思います。


自然環境抜きで「言語が同じなら・・」であるなら否定します。
最初に言語ありきではないからです。
ある自然環境で暮らす生物が、そこで暮らすのに必要(便利)だから言語が生まれたのではないでしょうか。

極論・・クジラの言語?を話していればクジラになるか・・(^^;
やっぱり滅びるだろうなあ。


re:二点間の最短距離 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月24日(土)13時05分33秒

地図上で日本を物差しで測る場合だとどの程度の誤差がでるのかなあ。

正確な距離測定には、それぞれの位置の秒単位までの緯度経度データがまず必要ですね。
カシミール3Dで2つの位置をプロットして、その距離を表示させると1m単位で表示されます。
物差しで測るのではないですから距離の計算は正確だと思いますが・・
(高度差も配慮されてるはず)

どういう計算方法であるかはカシミール3Dの掲示板あたりでたずねるのが早そう。
http://www.kashmir3d.com/

かたばみ


騎馬文化と中央アジア3 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月24日(土)01時06分36秒

BC100-AD100頃のアジアをごらんください。
匈奴は漢との抗争に敗れて分裂します。
南では漢に服属しますが西と北の匈奴は西進(逃走)して諸部族を圧迫します。
大月氏は南下してパクトリア王朝を滅ぼして北インドに侵入しクシャーナ朝が建国される。
(大月氏本人が建国かどうかははっきりしないようです、ここでも玉突きかもしれません)
匈奴が西へ移動した後に進出してくるのが鮮卑で、バルハシ湖付近まで支配します。

この頃にフン族が登場します(AD50頃のようです)。
フン族は西進した匈奴という説もありますが、康居や烏孫が匈奴に圧迫されて西進した可能性もあって西欧史に登場するフン族が何者かはわかっていないようです。

で、そのフン族はAD300頃には黒海付近に進出。
AD400頃には東ヨーロッパへ進出して、ゲルマン民族の大移動を引き起こします。
ゲルマンが大挙押し寄せたローマはついに滅亡。
風が吹けば桶屋がもうかる・・漢が匈奴を征討したためにローマが滅びたわけです(^^;


そして漢も滅びて中国でも混乱時代になります。
AD327のアジアをごらんください。

匈奴はあちこちにちりぢりになっていましたが、2の「前遼」と6の「前趙」が匈奴の建国です。
五胡十六国の変遷は五胡十六国系統図五胡十六国地図を併せてごらんください。
各国が興亡を繰り返していますが、興亡に伴って農耕民が大量に移動させられています。
農地開拓による食料生産のためで、これによっても騎馬民族が漢文化に染まっていったようです。
(国をつくるとは定住するということ)


なお馬具の鐙アブミ(輪鐙)は3世紀末に中国で発明されたもので、騎馬民族が鐙を使い始めるのはAD500年代で突厥の登場からだそうです。
ササン朝ペルシャ(AD230頃〜640頃)でも鐙が伝われていません。
ヨーロッパではハンガリーの600年頃の墓からの出土が最初のようです。

ということは・・日本では400年代後半で輪鐙を使っています(ひょっとすると300年代)。
なんとヤマト朝廷は鐙に関しては最先端だったのです。
もし応神が騎馬を導入しているなら、騎馬民族からではなく東晋から騎馬技術を導入していた、ということになります。


火を起こす道具、日本では乾いた木をこすり合わせる方法が縄文古来のようですが、日本武尊では火打ち袋が登場しますから火打ち石を使っています。
日本武尊が鉄の火打ち金を使っていたかどうかはわかりませんが、奈良時代のものが出土しています。


火打ち金は東ヨーロッパから極東まで遊牧騎馬系文化の地域に広まっていますが、なぜか中国と朝鮮半島からはただのひとつもでていないのです(西アジアにもなく南ヨーロッパにもない)。

西アジア(ローマ含む)と中国はシルクロードで直結、どちらも火打ち金のない地域で、中国にないのは納得できます。
朝鮮半島は高句麗が問題になりますが、新羅からは多量の西アジア系の遺物がでています(高句麗にはないもの)。これについては秦氏に関連するので後日別項で。

では日本の火打ち金は・・シルクロードよりずっと北の草原ルート〜沿海州ではいってきたのか。
だとしたら沿海州からどこへ渡ったのか、謎になっています。

火打ち金は騎馬民族経由とみえる。
だが、先に書いた鐙は騎馬民族経由ではない・・
いつ、なにが起きているのか。

 


騎馬文化と中央アジア2 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月24日(土)01時03分09秒

BC200頃のアジアをごらんください。
匈奴が拡大してゆきます。

バイカルの西にバジリク古墳が発見されています(地図の★印)。
年代編年に幅があるようですがBC600〜BC400頃の遺跡です。
ここからモンゴロイドの男女2体のミイラが発見されました(ミイラ処理されている)。
男は腕や肩に動物文様の刺青を施しており、現代の刺青に負けない図象にみえます。
頭皮が剥がれており、これは殺した相手の頭皮を剥ぐスキタイの慣習によるものとみられています。

ということはスキタイ文化を持つ誰かに殺されたスキタイ文化をもつモンゴロイドの男女がその仲間に埋葬された、ということか。

ヘロドトスが伝えるスキタイの蒸し風呂とみえる青銅器も発見されています。
3本の棒をたてかけてこれに天幕をかけ赤熱した石を青銅器にいれ、大麻の種をこれにくべる、スキタイ人は大声でうなりはじめる・・これって大麻で酔っぱらってる状態だと思う(^^;
バジリクで発掘された青銅器にも石と大麻の種がはいっていたそうです。

同地域には匈奴時代以前に遡ると推定される石を円形あるいは方形に積んだ囲いをもつ墓が多数あり、ヘレクスル(キルギス人の墓の意)と呼ばれています。
匈奴文化とは異なるものだそうで、この一帯はキルギス人と匈奴の混合時代を経て匈奴支配に変化していったのかもしれません。

BC300〜BC100頃のバルハシ湖の西にケンコル墳墓群(地下横穴式)があり、ここではその被葬者がモンゴロイドとコーカソイド(参考書ではヨーロペオイドとありますが定義不明)の混在だそうです。

BC500頃まではスキタイ系(印欧語族?)ないしコーカソイド系の人々が中央アジアへ進出していたが、BC400頃からスキタイの騎馬とその文化を獲得した匈奴が西進し、次第に他の氏族を支配あるいは追い出しはじめている、そう考えることができそうです。
敦煌付近にあった月氏も匈奴に圧迫されて西進、天山山脈の西に大月氏を建国、玉突き現象です。


中国では秦の統一。燕の衛満は朝鮮半島の箕子朝鮮へ脱出し箕子朝鮮を奪ってBC195に衛氏朝鮮建国。
滅ぼされた箕子朝鮮王族は半島南部から日本へ・・こちらも玉突き現象です。
その突き出された玉がスサノオと推定(^^;
平穏だった日本にも戦がやってきた。


ゾロ目を踏み損ねて・・・ 投稿者:D.K  投稿日: 8月24日(土)00時53分20秒

アルギ#ッパイ人と読んでしまいました・・・ボディコンと言う木の実を主食とする
なんて最近疲れまくってますね。焼尻氏のハンドルで潜在意識に暗示がかかったようで。

因みに出雲大社が宇佐神宮の鬼門に当たるかどうかをチェックしたいのですが、
ライン上に古代文明の痕跡が乗っていれば双方の神社が日本で二社だけの四拍手なのも
納得いきそうです。まだ調べたいところがあるんですが日本地図だと誤差修正が
出来ないのが難点ですね。


 アルギッパイオイ人    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月23日(金)19時05分00秒

     東西文化の共通性を考えるとき、中央ユーラシア大陸で、最も古い文献にあら
    われている氏族の名前にアルギッパイオイ人というのがいることに注目させられ
    ます。
     この民族はギリシャのヘロドトスが書いた『歴史』に出てくるそうですが、女
    も子供も生まれつき全員がツルッ禿げだそうです。
     スキュタイ人に似た服装をしている。イチジクの高さぐらいの木になる扁豆に
    似たポンティコンという木の実を主食とする……とあります。

     余談ですが、この近くのフェルナガ盆地は当時としては、優秀な梨が採れていま
    した。この梨はナシュパテといい、ネパール語にもありますので、これが日本語の
    「梨」の語源だと目されます(学者はまだ気づいてはいません)。
     
     さらに、特徴的なのがこのアルギッパイオイ人は周辺氏族の紛争を調停するので
    どこからも尊敬され、この氏族に危害を加えるものはいなかった、という記述です。

     いま、小生はタジク語(アフガンなど4ヶ國に住む)とネパール語と、中央アジア
    での貿易公用語だったソグド語の三つをみつめています。いずれも、インドに侵入し
    て支配階級となったア−リア人の言語です。
     こまかい説明は省略せざるをえませんが、どうもタジク語とネパール語はよく似て
    いて、原アーリア平民語みたいな感じがします。
     そして、周囲から尊敬をうけていたアルギッパイオイ人の言語とは公用語のことを
    考え合わせると、ソグド語とはアルギッパイオイ人の言語ではなかっただろうかと、
    空想してしまうんです。

     ソグド語はあとの二つと較べると、音韻がとびぬけて離れているのです。


    「アルギッパイオイ」とは、スキュタイ人がつけていた呼称です。
     スキュタイは古くは前7世紀ごろ、ウクライナ地方で馬と鉄で武装した氏族ですので、
    前1500年に製鉄技術を我がものとしたヒッタイト人を想起させます。

     ヒッタイト人は「製鉄」で印象づけられる民族ですが、人類が闘争関係に駆りたてられ
    たのは8000年前の青銅開発からだと見てよいでしょうから、要するに馬と金属のセッ
    トが、蝟集していた各種言語集団を統一言語のもとにまとめた……と換言できましょう。

     アルギッパイオイ人はスキュタイ人によく似た服装を着ていたとあり、その居住地は、
    広漠な石だらけの曠野を何日も行った果てにあるとのことですので、小生は、その居住地
    は現在のタシュケントあたりではないかと想像します(これ1ヶ月まえ、今はや〜めたッ)。
     そしてアルギッパイオイ人の言語とは原ロシア語からの派生言語だった……と方法仮説
    を置きます(これも、どうかなぁ〜?)。

     シルクロードのルートにはタクラマカン砂漠を囲んだ南道と北道があります。この砂漠
    とオアシス・国群れの地帯がタリム盆地です。
     シナの唐が西方を固めたとき、南北両コースに点在していた36のオアシス国家を服属
    させたそうです。
     北コースには有名な亀茲国があります。

     出雲の古い神名……スクナ、クグ、ソホドはタジク語でした。
     出雲は沖縄の基礎発音をうけてヅ−ヅ−弁です。キジ(亀茲)はヅ−ヅ−弁によってクズ
    とかクジ(久慈……岩手)に変わります。
     
     紛争が起こったとき、発想のちがう人びとの智恵を拝借するのが常道でしょう。
     タリム盆地では、永年のあいだには言語がミックスされ、同じような思考傾向になります。
     √♪ 山の彼方の空遠く……、天山山脈のむこうに住んでいた“幸いびと”の言語こそ、
    アルギッパイオイ語……すなわち、ソグド語ではなかったでしょうか。

  ※ ご推察のとおり、1ヶ月ほどまえ、よその掲示板へ投稿したものです。
  ※ 8000年前は、大野晋教授の記述によります。
  ※ 砂漠公用語のソグド語は子音だらけの感じです。「よそのひとに気づかれないように、子音
    だらけのことばにした」のではないでしょうか? ヘブライ語おなじ。



二点間の最短距離 投稿者:D.K  投稿日: 8月23日(金)00時08分46秒

 日本地図はメルカトル図法なので誤差が出ますが、
実地の二点間の最短距離を分析する方法をご存知の方、
いらっしゃいません?

 某神社間のライン上で調べたい事があるんですが。

 


 逃 げ 城      投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月22日(木)18時36分19秒

 紋ちゃんは歴史に詳しいなどと思わないでくださいよ。
 バカのひとつ覚えです。
 でも中央アジア攻略はハリボテを作るときのように、一枚いちまいの断片情報の貼りあわせが利くのではないでしょうか? 
 あ、テーマは当分間、中央アジア‥‥でいいですカネ?

 逃げ城構造は背骨のマッツグな偉人を産むと思います。
 「来るならこい、いちどは逃げるが、数日後には包囲殲滅させたるからナ」の気概を育てるんです。
 ケネディ大統領が最高に尊敬した上杉鷹山しかり。九州は秋月藩の庶子でした。‥‥逃げ城です。
 気高きこと第一級で孝明天皇のよき相談相手だった会津の山之内容保しかり。高遠藩の気概が生みました。‥‥逃げ城です。

 その点、タクラマカンはどこにも逃げるところが


 言語さえ同じなら、人相骨格も均一化する    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月22日(木)18時09分15秒

 かたばみさん、いつも貴重な資料をみせて頂いて有り難うございます。
 あの地図、みんなかたばみさんが作られたのでしょうか? 
 小生はやっと、リンクさせる技術が身についたばかりです。
 スキャナーで取ってなんとか嵌め込むワザを覚えたい紋です。

 こういうときにも地図を使いたいですね。
 川は海から内陸へはいる‥‥とします。黄海から400キロばかり西南に入った黄河
は次に300キロばかり西へ進みます。函谷関を過ぎたところに多くの川が流れこんで
いますが、そのまま真直ぐ進むと二つの古都があった渭水(いすい)盆地ですよね。
 黄河本流は渭水の手前から90゜方向を変えて北上します。
 五胡十六国時代の割拠地図には、なんとこの北上する黄河上流の東岸広く、万里の長
城の内側に匈奴がいたとあります。
 その本流とは別に、北京に向かう川があります。ここが山西省で、北京とはここを介
しての逃げ城構造だったことをこのごろ知ったばかりです。

 この山西省に行った日本人が日本に帰ってくると「なんと日本人はいろんな顔をして
いることよ」と感嘆するそうです。その目を得て、ふたたび山西省を訪れると、こんど
は「なんとここのひとたちは同じ人相骨格であることよ」と感じ入ってしまうそうで
す。
 シナ語は渭水の都で完成し、これが戦乱の風にのってシナ全土を被い尽したと、小生
は考えます。その歴史はとても浅い‥‥併呑は平均してせいぜい2000年前ぐらいで
はないでしょうか。

 で、逆らうみたいですが、言語さえ同じなら、風俗習慣も人相骨格の永い時間経過の
末には必ず均一のものになる。これ、信念に近いです。どうかブチ壊してください。


re:氏族と国家 アイヌの南下 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月21日(水)20時15分06秒

ユーラシア大陸を歩いていては追いつかないなあ(^^;

釈迦に説法の素人考えでけれど・・民族とはなにか、というのがありそうですね。

人種は血縁関係だけの分類、民族はこれに共通文化の存在が加わった分類と理解しています。
人種が異なっても文化や言葉が類似なら同じ民族とみなせる状況がありえるわけで、より広範囲な人々の集団の表現だと思います。
(氏族は血縁の最小単位である家族の連なったもので文化とは無関係)

A文化を使おうとしても周囲がB文化とその自然環境であった場合にどうなるか。
「生活文化」は結局はBになってゆく。
暮らしに役立たないものは消えてゆく、文化は自然環境によって淘汰されると考えています。

言葉も同じです。
ある言葉を使い続けようとしても周囲がそれ使わなければ話が通じず暮らしてはゆけません。
2種の言葉が混在したとき、その集団の言葉は生活の根幹に関わる方の言葉になると考えています。
(支配者が人為的に一方を禁止するといった場合は別です)

例えば、狩猟と農耕が混在する場合に農耕で得る食料が7割であればその集団は農耕系の言葉になる。
人数の大小ではなく生活基盤の重い方の言葉が選択されるという意味です。
ただし、狩猟と農耕それぞれが持つ専門用語は、狩猟と農耕が継続しかつ代替品がない限りそのまま残ると思います。

騎馬民が移動しながら定住農耕民を支配していた場合は・・やっかいですね(^^;
しかし、そういう場合になにが起きるかを考えないと中央アジアの文化(言葉)はわからなくなりそう。

「記憶」は淘汰を受けにくいです。その集合体が神話であり叙事詩でしょう。
同じ民族でも異なる発祥の神話を持ち得る、あるいはその逆もありえるわけです。
いわば精神文化ですが、母が子に語ってきかせる話などはこれになるかな。

そんな話を俺の子供にするな、なんて親父が怒るかもしれない。
しかしその親父等がどこかへ去ってしまったら・・子の容姿は親父にそっくりでも母の話を継承する。


総じて血縁の影響がほとんどでてこないことにご注目。
人種によって住み分けが生じたのではなく、自然環境に適応して人々の容姿や文化に差が生じ、住み分けも生じたためだと思います。
ここに「民族」が人種を越える範囲を示す意味があると考えています。

江戸に3代住まないと江戸っ子とはいわない、言い換えれば、江戸に3代住めばだれでも江戸民族である(^^;



境界線をどうきめるか、を気にかけていらっしゃるようですが、現在の国境をそのようにしろという意味ではありません。
いろいろあるにせよ数千年の歴史の流れの中から現在の国と民族の関係が生じている。
なんとか「地球という国」を考えることができるようになったとき・・

やはり管理が必要でしょう。でも氷雪の地域と熱帯の地域をいっしょくたに管理はできません。
違いを代表するものが文化、しかし文化はアナログ的で境界があいまい。
言語であればデジタル的に明快で管理もしやすいと思うのです。

地球民族となるためにはふたつの言葉がぺらぺらであることが必要。
標準語と方言、どっちもぺらぺらの人は大勢いる。
方言は差です、差があることが流動を生み、流動があって文化は活発化すると考えています。



私の アイヌの祖先の推定 をアニメにしてみました。
気候変動と考古学的出土物の関連による簡易シミュレートですが、この図で紋次郎さんのデータと分析が説明できるでしょうか。
(アニメを任意位置で止めるにはブラウザの中止、再表示でコントロールしてください)

この推定でゆけば、縄文語とアイヌ語に共通項があるならばそれは旧石器時代に遡るユーラシアン語?の下地によるものである、ということになります。
(大野晋氏のタミル語日本語起源説はオーシャノイド系言語との類似性に注目して生まれた説、となる)

北ないし山岳(狩猟)ではアイヌ語との類似が増え、南ないし沿岸部(農耕)ではオーシャノイド系言語との類似が増えるはずです。
(弥生以降の渡来者の問題はとりあえず省略)

なお、北海道も南北から影響を受けていますから、アイヌ語といっても北からの影響による言葉はそれより南の地域には存在しない場合もでてきます。
人々が環境の変化で移動するとき、移動する先はかっての環境と同じところまでです。

北海道から関東まで南下したりはしない、関東へ南下する人々は東北の人々です。
オーシャノイドも東北までは移動しない、九州あたりで先住者と混血した人々がさらに北上するわけです。



  √♪ 砂漠に日は落ちて 夜となるころ   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月21日(水)19時18分57秒

 月氏‥‥などというとき、どうしても夜になって目をギラギラさせる人類を想像してしまいます。
 ことほど左様に、昼間は熱くってしようがないので、夜間にコトを運びたい‥‥そういう人びと
の土地を彷佛させます。こんな心情は日本列島にいるからでしょうか?

 わたりカラスに関しての民話がアリューシャン列島にこびりついてあるそうです(萩原真子先生)。
 渡りカラスとは、窯場から窯場へ渡り歩いた最初の自由人だった‥‥これ、あっしの空想です。

 いや、この日本列島の特徴のひとつは、シマからシマへ凄い数の自由人がうろついていたことです。
 彼らは毎晩、どのようにして寝泊まりしたのでしょうか。なにかご存じでしたら、お教え下さい。

 


 中央アジアの“黒カニシ”    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月21日(水)10時40分15秒

 普通の日本語でいえば『金属精錬士』ですが、漢字で肩くるしいし、ちょと長い。
 そこで小生はカニシと呼んでいます。SI はひと(士)で、カニは金属です。自分の
好みを押しつけるようでわるいのですが、ここで白カニシ、黒カニシという語を提示で
きますので、お許しください。

 日本の古代をみつめていますと、最初に来たのは黒を重んじるカニシで、その特徴は
カラスに代表されていた。その後にコウノトリ系の鶴や白鳥が重んじられ、一世を風靡
した‥‥みたいな通観を得られるような気がします。

 ネパールには Saligram という神様がいます。小生が見ている辞書での表現が拙いの
で意味がよく通じませんが、『黒い石の形をした神様』という訳がふってあります。
 インドの原野に巨大で、大略丸い岩がころがっていますので、そのことだろうと想像
しています。
 Saligram の GUR(今は“導師”) が神でしょう。-am の末尾辞は小生にはわかり
ません。とにかく、Sar が“黒”らしい。そうしますと、この sal は中央アジア語のX
音を介して,われわれが馴れている Kal(黒)と同根がいえます。
 玄信をハルノブとよませるので X は Hともなり、Hal(黒)という語形も捕らえる
ことができます。玄界灘、玄武岩などはそれでしょう。

 古代日本語が、例えば mal 、 hir , sil などを受入れ借用するときは、末尾の r , l
は消す……か、または -a をつけて ra とするクセがあり、これは音転原理として採用
しても良いと小生は判断しています。

 川崎真治さんの処女作;『混血の神々』にチョカ(ブタ族)ゴカ(牛族)などが出て
います。この場合の“カ”は種族と訳するのがいちばんいいのでしょうか。

 BC5世紀のかたばみさんの地図にでている『サカ文化・烏孫』とは、まさに 「Sal
(黒)カ(族)」であり、「烏の孫」なんでしょう。
 まご‥‥、サムエルソンとかニクソンとか‥‥。孫はソン(英語;son)。
 いま、小生はタジク語の nabera(孫)に注目しています。-ra はネパール語では強
調末尾辞になっています。これを外していいかどうかわかりませんが、とにかく外して
みると、「渡辺とか真鍋」あたりが半分われたような気がします。

 初期の日本列島に到着した人びとは中央アジアの黒カニシ「烏信奉のサカ族」と置い
てもいいのではないでしょうか。


 文化とは乞食三日の偏執だった   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月19日(月)21時32分41秒

 そのとき、その地方の文化とは、われわれが見ている特徴ですよね。
 それを冷たく睨みかえしてみると、人間存在の原点まる出しで、「とかなんとか食える」
状態を金科玉条とする偏執にすぎなかった‥‥、ここのへんに落ち着きませんでしょうか?

 その偏執は地域の特徴を写していた‥‥同感です。

 もし、この地球がすべて準平原で被われていて、言語はしだいに変化してゆくものならば、
 われわれは地球の裏側で、最も変わっている言語に遭って、さらにまっすぐ進めば、しだい
に似たような言語にたどりついて、おしまいには完全に同じ言語へと辿り着くことでしょう。

 小生が11年前、ネパール語を初めてみたときには、そのような地球の裏ッ側の言語をそこ
に見たような思いに襲われました。
 英語、シナ語、朝鮮語、アイヌ語、日本語などなど、少し齧り知っている言語の語彙が、さ
ながらゴム風船から跳びだすバッタのように次ぎから次ぎに弾き出されたのでした。

http://www.you-i.org


 氏族と国家 アイヌの南下 ほか   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月19日(月)17時29分33秒

いま國を造っているのは“民族”でしょうが、民族が民族となるまでには、数百の氏族
がいまま親しんできた言語を捨てて、1本の言語へとまとまった過程が必ずあったと想
います。
 その数百の氏族をこの現代に甦らせ、これらをケンカさせたとしましょう。
 その数百のうち、どこの氏族が勝つか‥‥で数億円の賭けをやりますか。
 そのとき、どの氏族が勝つかは、レッキとした目安あります。それら数百の氏族語の
なかで、いちばん現代語にちかい言語を喋っている氏族こそ、そこの土地で天下をとっ
た連中です。

 アイヌ民族も単一ではありません。諏訪大明神絵巻にも2〜3種でていますが、これ
は津軽海峡周辺だけのことです。
 朝鮮の大衆、骨嵬軍団、アレウト系で2種ほど、ギリヤーク、ウイルタ、日本人、沖
縄から来た巨大な頬骨族(レイテさん)‥‥それにあっしがヤップさんと呼んでいるメ
ラネシアの顔をした人びともいます。
 あっしゃ、このメラネシア系の言語がアイヌ語の基層(文法・統語を含んで)を造っ
た人びとだと思います。
 アイヌが研究の対象となった幕末(?)、すでに10〜11の抜き難い方言がありま
した。これはいちおう谷や平野で区分されていますので、新しく起った方言だとの見方
をも許します。
 さきにだした諏訪大明神絵巻には倭人系も、ヒノモト、マトゥマイ、ワタリなど4種
あって、これらは民族ではなく、氏族として捕捉すべきスジ合いの人びとです。
 
 アイヌの南下が書いてありましたが、従来「ナイ・ぺツ」があれば「アイヌがいた」
とする判断は短絡だと思います(ナイ、ぺツは和人の階級用語を写したもの‥‥と)。
 17世紀以降になって、数家族のアイヌが青森県に入ったことは否めません。
 東北にのこされた地名で「これぞ、まぎれもないアイヌ語だ」といえる地名は大間岬
南の興部(オコッペ)だけです。
 もし、アイヌの南下があったとしたら、北海道のあちこちに残っている然別(シカリ
ベツ)という地名がアイヌ語で分析できないわけがありません。
 アイヌ語に似ている内地(本州)の地名は秋田〜岩手県北山岳地帯を北上したプロ
ト・アイヌが残したものだということになります。

 人類が犬を飼いはじめたのは3万5千年前だそうです。
 あっしゃ、人類が文法らしいものを使い始めたのは、その35000年前との方法仮
説を置いてみたほうがいいと思っています。

 かたばみさんのおカキコ、印刷して読んでいますヨ。でも、いっぺんにはボケアタマ
には入りきれません。

http://www.you-i.org


   MO の効用    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月19日(月)15時02分01秒

  お盆やすみってんで碁仇がやってきたんですよ。
 そんなこんなで「おべんきゃう」が遅れています。
 東ヨーロッパで洪水だそうです。これ喜んじゃ叱られますカネ。
 こんな雨ふりがフェルガナに300年続くと、5ペアの夫婦の子孫は50万人になり
ます。この子孫に寒気が襲うと、スキュタイは強いので、東方にチラホラ散在する遊牧
民を襲います。
 ところがドッコイ、遊牧民は巨大な家族だった。
 30万の大軍となって反撃した‥‥まではよかったが、ハラヘッて興奮した軍隊は盗
賊団に変身し、タリム盆地のオアシス国家群も襲う。掠奪の味をしめた盗賊団はあるい
は東へ、あるいは南へ出向いて農業国家を掠め取り犯す‥‥。
 小生はそう想ったんです。

 あっしのアタマも大洪水に襲われています。しかもこの水はアヂアヂです。
  MO の効用を少々‥‥。
* 日本語の基礎発音をみると、その大本を形成した大衆はポリネシア発だったことが
わかります。
* その日本語の中でも、沖縄、五島、薩摩、津軽のイントネーションが同一であるこ
とが知れて、ここの太古の氏族は同じ MO にいたことがわかります。おそらく、それは
カエルをグクと云ったタジク語系文化によるものと想えます。
 ここは女陰をマンジューという点でも共通しています。
 出雲がどうなのかを知りたいのですが、ここは「その目」じゃなかった「その耳」で
聴かないと区別はできません。出雲では“大”を「ウ」というところまでは、沖縄、五
島、薩摩、津軽と共通しているのですが……。
 あっしにゃ、耳はあっても、耳をはこぶ足がありません。

 あ、國というものは思考のジャマモノですね。でも現実にあるのだからシカタないで
す。あっしゃ、できるだけ用語は氏族と國だけに絞って、部族、血族、民族ということ
ばは避けたいとこころがけています。

 ぼつぼつおべんきゃうしています。ぼつぼつ書かせてください。
 すみません、下の方の標題のところで「うか」が入っているので消したら、二重連続
投稿みたいになりました。消していただけますか?

http://www.you-i.org

 


騎馬文化と中央アジア1 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月18日(日)18時42分52秒

中央アジアについては情報のつまみぐいの合成なので誤りもあると思います。
そのつもりでおつきあいください(^^;

BC7000頃のアジア をごらんください(こちらは自説ではありません(^^;)。
新石器時代、おおよそBC7000以降に動物の皮や肉を切るのに適した細石器がモンゴルから黒海の間で出土し、その形状はどれもみな同じです(BC2000頃ではアンドロノヴォ文化と呼ばれます)。

戦闘用とみられる石器は出土していませんから、戦らしきはなかったのかもしれませんが・・アメリカのケネウイックマンの頭蓋骨には石鏃が突き刺さっています(^^;
BC4000頃の黒海周辺で銅の冶金による金属器が登場します(まだ青銅ではない)。
BC3000頃では青銅器が本格化し、短剣が登場しています。

BC10000頃の野性ヤギの生息範囲がこの細石器の分布におおよそ一致しています。
北の狩猟文化と南の農耕文化の接点に野性のヤギがいたならば・・
動物を栽培する文化=遊牧がこの一帯で生まれるのは必然だと考えています。
ヒツジは西アジア原産のようです。牛はユーラシア大陸全域にいますが、牛よりヤギやヒツジのほうが扱いやすいでしょう。

その後BC3000頃にナイル、チグリス、インダス、長江などに農耕文化が登場しますが、こちらには北緯30度前後の大河が流れる。
西アジアでは冬に雨が降り、東アジアでは夏に雨が降る、それぞれに適するのが麦と米。
この頃のナイルが麦であったかどうかは不明、西アフリカのニジェール川流域では稲が栽培されています。

東南アジアやニューギニアは熱帯雨林化し、文化は「停滞」していったと考えています。
先祖帰りしやすい世界になった(^^;
ただし海で暮らす人々の道具と知識は別で、海洋系の文化は発達していたとみています。


BC2000頃から気候変動が始まります。
情報がありませんがユーラシア大陸北部では全般に寒冷化でしょう。
BC1500頃に印欧語族が登場。印欧語族の定義はいたってあいまいでよくわかりません。

しかし、「人々は温暖化で北上し寒冷化で南下する」、を原則とするなら、BC2000以降の気候変動で北の狩猟コーカソイドが南下し、西アジアで先住者と再混合した人々が印欧語族であろうと私は解釈しています。

中央アジアでも同様で、エニセイ川あたりにあったコーカソイドがバイカル湖周辺まで南下していたのが白人とみえるキルギス族の祖と推定。
楼欄の白人少女のミイラ(確かBC1000頃)も類似の人々と考えています。

前のキルギスの書き込みで「唐時代に鬲昆、黠戛斯と」と書きましたが、唐以前では「鬲昆」カクコンとよばれ、これが青い目の白い肌です。
唐(600頃)以降では「黠戛斯」カツカツシの呼称になりこの人々がどのような様子だったかは不明。
(550頃に突厥に征服されたために様子が変わった可能性あり)

南下する印欧語族の侵入でインダス文明は崩壊。
エジプトの彫刻の容貌がBC2000あたりを境に変化するのも北からの人々がはいったためだろうとみています。

この地域では混合や移動などなんでもありだと思いますが、コーカソイドの南下に押されてチベット高原へ移動した人々、それがチベット族の祖と推定。
後々までチベット高原は3000mという高さによって平原地帯の抗争から隔離されて、安定していたことが桃源郷とも呼ばれる理由だろうとみています。

縄文では海が天然の境界になっていたわけで、縄文とチベットでは古いモンゴロイドの様相が最後まで残されていたかも(ただし縄文は極東モンゴロイドとして(^^;)。


BC500頃のアジア をごらんください。
スキタイ、サルマタイ、サカ(烏孫)の勢力があります。
スキタイは印欧語族が大半、サルマタイやサカではモンゴロイドがより濃くなるといった様相ではないかと考えています。

ギリシャのヘロドトスがBC800頃のスキタイとサルマタイを似ているが異なる人々で、スキタイの祖先伝承のひとつにヘラクレスとその地の蛇女の間に生まれた子が祖というのがある、と書いています(また引きです(^^;)。

黒海の東のグルジア(エンサイ、アラン人の子孫、サカ文化圏に接する地域)のオセットという少数民族にナルト叙事詩という伝承が残っていて、これがスキタイ神話と同一であるとされています。

スキタイによって騎馬と馬具が発達し短期間でスキタイ文化は草原回廊を介して東へ伝わってゆきます。
揚子江の上流〜源流、及びメコン川の源流沿いに遊牧回廊があり、チベット高原〜雲南〜四川省をつないでいたようで、この道は途中からアッサムにも通じます。
弥生と同時代の雲南のテン王国にもスキタイ文化が及んでいますが、このルートかもしれません。

続く

 


re:中央のごったがえしは MO  投稿者:かたばみ  投稿日: 8月18日(日)01時32分13秒

MOというと記録メディアしか思い浮かばないですが・・(^^;
生まれはどちら? に対して北の方ですとか海の方です、でもなんとか答えになる。
相手に「自分が育った環境」を示せればいいわけです。
そういった意味かなあ。


文化は環境が作り出すと考えています。
人種は物理的な血の混合で生まれる。
言語は血と文化の中間にあるものと考えてます。

イギリスで生まれた子が両親なしで日本で育ち成人を迎えたとき、それは「日本人」だと思います。
イギリス人だというとしたらそれは血縁しかみていない表現だと思います。
肌が白いといった肉体的形質は両親を継承する、では精神的なものは・・
それが文化だと思います。
(前世の記憶といったことは棚上げにしておきます(^^;)

境界が必要なとき、なにをもって境界とするか。
文化によっておこなうべきと思いますが、文化は連続的に変化してはっきり境界がみえるわけじゃない。
(日本のように海という環境的境界がある場合は例外です)

文化に血縁が加わって歴史の重みが作りだしたものが言語だと思います。
多数の言語集団があるにしても文化より境界が明確だと思います。
国境なるものが必要なら言語でその境界を決めるべし・・(^^;


イギリスで生まれた子が両親とともに日本で育ち成人を迎えた場合は・・やっかいですね(^^;
両親のもつ言語や文化を継承するのは間違いない。
だが、周囲がすべて日本文化であってその中で3世代目あたりでは・・「日本人」だと思います。
「3代江戸に住まないと江戸っ子とはいわない」はうまくこれを表していると思います。


父と母が異なる文化だったら・・
文化の異なる多数の集団同士の接触だったら・・
父系文化と母系文化の接触では・・
ある文化の地域の環境が激変したら・・

まことに複雑になると思いますが、それでもその方向を決める大きな要素はその場所の自然環境だと考えています。

インダス文明に印欧語族が侵入し征服した。当時の印欧語族は砂漠系文化だと思います。
しかし、インドすべてがその文化にはならなかった。
インドの少なくとも東と南は森林だった。結局は支配した人々もその環境に染まっていったわけです。


優れた文化あるいは面白い文化(=流行)と接触しそれがが導入されたとき、それを表す言葉は相手の文化のそれを用いると思います。
そうして登場した外来語は上記の複雑な状況に比せば単純だと考えています(^^;

歴史上の流れを考えればどのような接触があったかで、ある言葉が外来であるかどうかは推定できると思うのです。
しかし、歴史に知られていない接触もあるはずで、それを知るためにある言葉がその歴史上の事象を探るキーワードになる場合もあるはず。
でも注目した言葉が見当はずれのこともあるでしょうし、単なる外来語ではない場合もあるでしょうから、たいへんな試行錯誤と類推の積み重ねが必要になりそうですね。

かたばみ


re:ただいま〜 投稿者:s_tan  投稿日: 8月17日(土)23時57分40秒

おつかれさまでした。
白山の空気はいかがでした。お山の画像を見ると「リフレッシュ」完璧!ですね^^。
CDR手数おかけしますが、楽しみにお待ちしてます。

KLZが大量に届き、念のため再インスト、たった今、Log-onしたところ^^;また後ほど。


ただいま〜 投稿者:KENJI  投稿日: 8月17日(土)20時49分23秒

白山から、無事戻りました。
初日は雨の中を登りました。(>_<)



翌日の朝は晴れ。室堂平(2448m)に有る、白山神社拝殿です。山頂(2702m)には、奥社が
有ります。その写真も、写してきました。(^○^)
その他にも、勝山市平泉寺の白山神社にも行きました。
その辺の写真は、CD−Rに焼きまして、s−tanさんに送ります。

神主さんの説明で、加賀馬場・越前馬場・美濃馬場の三ヶ所有るのが、何となく判った気がします。
白山からは大きな川が三本流れています。手取川・九頭龍川・長良川です。
上記の三馬場は、この三本の川沿い(又は近く)に有ります。
これらの川の総源流の一番高い所に白山比盗_社が有ります。川=治水の願いが、この神社の
意味が有るのかなと言う気がしました。
農耕民族にとって、水=川 の事は、重要な問題だったと思います。

それにしても、平泉寺の白山神社には驚きました。
今は焼けて有りませんが、昔は拝殿の間口は、45間も有ったそうです。
現在の小さな拝殿の左右には、その礎石が残っていました。
直径が1m程有りそうな、杉木立の中の神社で、古代を偲んできました。

http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/


  中央のごったがえしは MO で緩和できるかな?    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月15日(木)15時27分32秒

 凄い資料の数々、いろいろと有り難うございます。
 しかし、いまのところあっしにゃブタに真珠の赴きこれありです。
 また印刷してボケあたまに詰めこみます。
 それにしても、古代世界地図‥‥、まったく予想もしていなかったものが目の前
に出現したことにビックリです。1万〜14000年前の天山山脈の西北部、グ
リーンベルトの伸び‥‥ワクワクです。グリーンベルト中央で東を向いているへび
みたいな濃い緑は何を表しているのでしょうか。

 ユーラシア中央はいろんな氏族がごった返しているので、把握しにくいのはタシ
カです。しかし、小生がネパール語(ほとんどヒンディー語と同じ)、タジク語、
ソグド語を少々かじる過程で得たのは、「氏族が多いからといって諦めるのはまだ
早い」をだす“MO”という概念です。

 そのMOについて以下に一般論を叙べさせてください。
 日本列島や北海道には、数百の氏族がいたと思うのですが、今は“一国と一言
語”に纏まっています。この日本語とかアイヌ語はまわりを海に取り囲まれている
ために、国家形成の気運が高まってくると、海に囲まれているかぎりにおいてひと
つに纏まって結果した‥‥(やっぱおれ、表現がへたです)。
 タクラマカンの南北一帯は、隊商の通路だったとはいえ南北に大山脈に囲まれて
ひとつの MOを形成していたわけです。
 MOとは「くに」と訳すべきでしょうが、“国家”とはちがいます。
 「おたく、おくにはどこですか?」というときの“くに”です。
 このくにのなかには夫々自己主張のつよい氏族がいます。
 しかし、ここには通婚・通商の関係が永い習慣に支えられて成立しています。

  MO に入ってきた新しい氏族がいたとしても、結婚や交換をくりかえすうちには
どんなに文法統語がちがっていても、使用する語彙は均一の方向に向かいます。文
法には関係なく、文化の接触があったところでは、語彙の貸借がくり返されます。
 よその氏族からお嫁入りしてきた若い母親は故郷のことばで子育てをするにき
まっています。
 文化の接触があったところでは、かならず語彙の貸借がおこる現象は、いま新聞
を広げてみれば一目瞭然でしょう。漢字とカタカナだらけじゃないすか。

 ですから、文法のちがいを挙げつらって言語系統樹を作った西洋の言語学者の努
力はナ〜ンにも役立たなかったのです。

  MO ‥‥アイヌ・モシr のモを取りました。「氏族をこえた暗黙の連合体」とで
も概念規定させてもらいましょうか。
 いま朝日新聞で『静かな大地』となって連載されていますが、これは MOSIR の訳
です。この MO を「静かな」と訳するのは誤りです。
  MO は MOTHER のmo であり、タジク語 mol(へび)の mo でもあります。

 


re:天山山脈の北・弓月國 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月14日(水)19時20分32秒

焼尻紋次郎さん、こんにちは。アチアチ(^^;

ちょい遊びにおつきあい願いまして(^^;
現時点での自説をご覧ください。

2万年前頃の世界
1万年前頃の世界
(以前にもここに出したことがあります)

アメリカ大陸で5年ほど前に発見されたいわゆるコーカソイド系の頭骨、ケネウイックマンBC8000頃。
(政治的な理由で先住民の所有物とされて研究が中断されているらしい)
この発見があいまいだった自説をよりはっきりさせました。

ユーラシアン(北方系の寒冷対応の狩猟文化、コーカソイドの祖先、おそらくは白人))とオーシャノイド(南方系の温暖適応の農耕と海洋文化、おそらくは黒人)という2系譜を想定し、モンゴロイドはその混血で登場した、というのが持論の基本線です。
場合によってはオーシャノイドには東南アジア系の原人の系譜につながる可能性もあるのですが、今のところ原人のその後情報がないのでおいておきます。

2万5千年前は最寒冷の時代で、人々はすべからく南下した。
1万5千年前あたりから温暖化がはじまり人々は今度は北上する。
北方系も南方系も旧来と同じ環境の地域へ移動しようとするわけです。

人々の南下と北上の接点、北緯35度付近の西アジアと東アジアで南北の人々が混血した結果がモンゴロイドの誕生と考えています。
この時代のその地域にはゴビ砂漠もタクラマカン砂漠もありません、氷河の融雪に潤う広大な草原と森が広がる内陸世界です。

東と西では少しづつ環境が違う、その人々(文化)がそれぞれの地域で混合する。
肉体的にはよく似ているが、文化や言語に地域性を持つ人々が登場するはずです。
西方モンゴロイド、東方モンゴロイド・・

さて・・
旧石器時代の日本人は極東ユーラシアンだったとみています。
その日本にも南方の人々が北上してきた、BC12000頃か。
海面上昇によるスンダ大陸の沈没が最大の契機です。東南アジア系オーシャノイドの北上。
フィリピンのネグリト(小人族)の少年、青年、壮年の写真をどうぞ)
日本では小柄な縄文人(朝鮮半島南部を含む)が誕生・・いわば極東モンゴロイド(^^;


なお、北海道では南方系の影響は少なくユーラシアンの形質(文化)が濃く残り、それが現在のアイヌの人々の祖先だと考えています。
少しそれますが、BC2000頃以降の寒冷化で北海道へはオホーツクあたりから南下した人々がはいってきたとみています。
同時に北海道から東北へ移動する人々もいた。
北海道と東北はBC2000頃の北と南の再シャッフル地域。

日本(朝鮮半島南部を含む)の縄文は南北混合の東端かつ海という地域性をもつわけです。
加えて南北に長い日本では北と南でも地域性を持つでしょう。
縄文標準語は人口密度の高い関東あたりか(^^;

そこに弥生の渡来系の影響が九州北部から近畿にかけて流入、西日本は過疎地を別にしてどんどん変化してゆく。
日本の如き小さな島国でさえ容易ではないのに、ユーラシア大陸でなにがおきていたかは想像するのも困難(^^;

まして遊牧が発達して定住しない人々が馬を駆使する時代では、ある地域の民族が1年後には入れ替わってしまうなど頻繁だったと思います。
草原回廊を介してハンガリーから沿海州へ移動するのに半年だそうです。

たとえば、stanさんが書かれているキルギス人、紹介HPの現在の写真ではどうみてもモンゴロイドですが、唐時代では鬲昆、黠戛斯などと呼ばれていて青い目赤い髭で白い肌の人々だったのです。
(コーカソイドないしはインドイラン系、はるかに時代が古いですが楼欄の少女なども同じと思います)
そっくり種族が入れ替わるような状況があって名だけが残ったのではないかと考えています。

後日に続く(^^;

かたばみ


re:140人・・ 投稿者:s_tan  投稿日: 8月12日(月)22時44分03秒

紋次郎さん

 ナシュパティですか、梨は東アジア・中国が原産地らしいですが桃が湿地でよく育つのと逆で「砂漠の水」的イメージを持ってます。梨の原産地を追うのも面白そうですね。

「140人の先祖・・・」以前、月氏をちと追っかけた時に記憶にありました。キルギス人は中国では西北のウイグルとなんと東北黒龍省に住むらしい。中国少数民族に関しては中国政府のhpが良く纏ってます。少数民族=日本人(殆ど身近で記憶にある顔付きです)。
「 http://www.china.org.cn/ri-shaoshu/keerkezi.htm 」
キルギスは「40人の−−」という意味ということです。
西方・騎馬民族はスキタイから烏孫まで割りと男性的というか破壊的で太陽信仰が強いイメージですが、キルギスは女性的で月信仰が強いのではないか、と思ってます。いくつかの流れがあるようですが、日本人に非常に似ている流れが「月信仰」を持っているのではないかと思います(未確認)。同じ月信仰でも世界では稀な「お月見」ですが。
この女性的というか母性的なのが「姫君と従僕」がその祖ではないかとウラ採り継続してますが、未だあたりません。

土井ガ浜(人)はご存知と思いますが、該当(保存博物館)センター長さんが書かれた本が出ています(詳細不明:すみません本が現在手元にありません)。
身長170cm超えで、女性シャーマン?に残る石や貝のヤジリは敵のものではないらしい。

モンゴルでは以前ニュースで見たモンゴル出身力士の日本語が全く違和感なかったのが驚きでした。

また、西方からの騎馬回廊・・ご存知のことなど宜しくお教え下さい。


 140 名の先祖が日本に向かった!! 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月12日(月)13時08分45秒

 S_tan さん、たいへんな情報、有り難うございます。
 さっそく紙に印刷、(ああ、わが年代! 68 歳です)くりかえして読んでいます。

※ あれ、フェルガーナなんですね。「フェルナガ」と、ウソを覚えていました。
   ここの梨がナシュパティ。植物学者も知りませんが、これが梨の語源でした。

※ 「140人の先祖が日本に向かった」‥‥どえらい情報です。
  南部のオトコたちの八戸斬りとりを思わせますね。
  140という数字に信憑性があるのではないでしょうか。
  その当時から、もし日本という極東領域が意識されていたとすると‥‥! これは
  あんがい現実だったかもしれないと思いました。
  モンゴルの老人たちは毎日3人5人と集まって四方山話をするそうですが、とんで
  もない遠隔地のことを、口コミで実によく知っているそうです。

※ 土井が浜遺跡の弥生人は、山東半島のつけね方面にアタマを向けていたそうで、そ
  の山東半島つけねの遺跡から出土した2000年前の人骨は土井が浜人と同一の遺伝
  形質だったとか。そして同じ場所の2500年前の人骨は白人だったそうです。
  10 日ほどまえN.H.K 放映の『楼闌』では、子供のミイラは3800年前の白人だっ
  たことを伝えました。

 こんご、いろいろとあのへんの STAN 情報を、宜しくお願いします。 

http://www.you-i.org

 

re:弓月国 投稿者:s_tan  投稿日: 8月10日(土)23時09分10秒

こんばんわ、紋次郎さん。 Millionさん。

西域、黒海沿岸あたりからの騎馬ロード?の道端は日本ではないかと思ってます。いくつかの流れの一つで頭数は少ないが影響の強い流れだろうと。
細部のつながりは確認してませんが、鉄と馬で思いだすまま列記します。

・ 世界最古の鉄剣(BC2500頃か)アラジャホユク王墓の金装鉄剣。
・アナトリア南部ではBC3000-2000、ハッテイという種族が定着、既に鉄の精錬法を知っていた。
・西アジアBC1500年代、コーカサス地方やザクロス山地に車馬や騎馬の習慣をもつ山地騎馬民族のルリスタンが登場。BC1000頃、騎馬の文化に決定的変革をうながす金属製(青銅)の轡が発明される。
・スキタイ人が初めてオリエント地方に現れたのはBC7世紀初め頃でアッシリアに対する攻撃に参加していた。
・スキタイの起源と由来に対する謎は今だ不明だが、主な2種の説がある。
 1、スキタイ部族がBC7c後半に既に形成されていた文化と共に黒海北岸に移動してきたイラン語族。
 2、スキタイ文化がボルガ河流域から黒海北岸に移動してきた後期青銅器文化(木棺文化又は木室墳文化)を基盤にしてBC7c代に形成された。

・ 烏孫の領域と土{土頓}墓
ウイグル自治区の北部、天山山脈の北西部一体が烏孫の領域と見られる。
山脈北西部を西に流れる伊犁(いり)河流域には、土トン墓と呼ぶ戦国〜秦代から前漢初期にわたる円墳墓(竪穴、木槨、木棺墓)が分布。このような墓は、西はアラル海の東部高地、フェルガーナ盆地、「キルギス・カザフ共和国、東南はパミール高原、東は烏魯木斉市東部の柴窩堡湖東岸、米泉県の草原地帯など広範な遊牧社会に広がっている。

・中国戦国時代の鉄製兵器は、甲、杖、剣、錐、戟、刀、匕首、などがあり。河北省易県の燕下都遺跡出土の、鋼戟と鋼剣は、鉄塊を溶かして炭素を混ぜ鍛造で仕上げたもの。
・秦始皇帝は鉄と馬で統一。各地の製鉄所に鉄官を置き官営とした。司馬遷の父も鉄官。

と、まあざっくりの話ですが、西域からの流れが馬と鉄を道具にして遠くまで移動したのは間違いないですね。弓月国については不明ですが月氏と関係深いのでしょうか。たしかキルギスだったでしょうか「140人の先祖が日本に向った」「戦いを逃れた姫達と従僕が天山の北に国をつくった」とかの伝説のあるのは。


加賀白山 投稿者:s_tan  投稿日: 8月10日(土)23時07分03秒

白山、行って見たいですね。ダブルかもですが事前情報を、
神名帳加賀国石川郡、白山比盗_社。本宮(里宮)の地を加賀馬場といい(石川郡鶴来町三宮)他に越前馬場(福井県勝山市平泉寺町平泉寺)、美濃馬場(岐阜県郡上郡白鳥町長滝)がある。白山山頂には白山比盗_社の奥宮がある。
主祭神:菊理媛(くくりひめ)。配神:伊奘諾神、伊奘冉神。で奥宮は菊理媛のみを祭神としている。菊理媛を祭神とする初見は大江匡房(1041ー1111)の扶桑明月集の記事天孫八王子麗白山菊理比盗_也。

道中、もし古そうな神明社(天照大神)を見つけました、ぜひよろしく。気をつけて、いってらっしゃい。お土産待ってます^^。


ホツマ・ツタエでしょうか? 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月10日(土)21時13分23秒

 ミリオンさん、有り難うございます。それはホツマツタエでの資料によるものでしょうか?
 そういえば、そうですね。
 小生は「ホツマ」がアズマ(東)と解釈されているのを知って、どうもインチキ臭く感じられて、
まだ、解説書も見ていませんでした。
 手許にさいわい、鹿島昇さんの解説書がありますので、性ネを入れて読んでみます。

 あ、小生はアズマ(東)の語源は“馬”だと思うようになりました。
はたからみたらキチガイでしょうね。タジク語;ASP(馬)。

 キチガイのふるさと;『ユー・アイ掲示板 2 言語篇 』
http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html

 かたばみさん、お騒がせしました。


re:白山比盗_社 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月10日(土)14時03分36秒

kenjiさん、白山登山ですか。
奥山の写真期待しています。

白山比盗_社が所蔵する「白山縁起」には菊理姫がでてこないようですが、各地の白山神社の御祭神には菊理姫が登場するのは、何か理由があるのでしょうか。

もし、チャンスがあったら聞いてみてほしいのですけど(^^;
もうでかけてしまったかな。

かたばみ


弓月国 投稿者:Million  投稿日: 8月10日(土)11時58分15秒

天山山脈近辺に都を開かれ、国を作られた神様がいらっしゃいます。
月向津彦月弓命様 亦名月読命様 亦名須佐之王命様であります。
その国が弓月国ではないかと考えます。
となると、弓月国は何万年も前の古い国であるはずです。
考古学的研究、発掘はどこまで進んでいるのでしょうか。


天山山脈の北・弓月國   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月10日(土)06時33分05秒

 はじめまして。
 『神奈備』からやってきました。
 前まえから『古代であそぼ』というH.P は、印象に残っていました。でもラベルが高
く、ついつい……でした。
 ところが、こんかい、8月4日からのおカキコを拝見するや、たまらなくなって駄文
で訴えたく存じます。

※ 小生は南北米インディアン、オーストラリア・アボリジニ、アフリカも資料不足、
 勉強不足でわかりませんが、ユーラシアはかなりひとつの歴史観を通用させることが
 できるのではないだろうか……と、古代であそんでいます。
 あそび道具は“ことば”です。
※ ユーラシアをひとつの歴史観で捕らえる……と大ぐち叩きましたが、まだなにも始
 まったわけではありません。
  今のところはただ、匈奴、トッケツ、蒙古という中央アジアの馬に乗る遊牧民が、
 なぜ農耕民社会をひっかきまわさなければならなかったのか‥‥を考えただけです。
  そうすると、どうしても天山山脈の北にある3〜4本の川スジが気候温暖時に醸し
 だす人口増加……ということに行き着きます。
  タシュケント地方の情報も「ことし3月に植樹した桜が活着した」ぐらいしか知り
 ません。ここにはネツっぽい視線が必要だと、ただそれだけでここ数ヶ月を過ごして
 いました。こんご、なにかとご指導賜りたく、宜しくお願い申しあげます。

 ついでにちょっと‥‥
※ 出雲の古い神名、スクナ、グク、ソホドはタジク語だと思います。このタジク語圏
 は関東にまで広がっています。栃木(タジクという意味)などはそれです。
  このタジク語系氏族と沖縄への進出は密接な関係がありそうです。ブンガ(花)な
 どが南方と連なるところから、いままでは「南>北」の一本ルートしか考えきれな 
 かったのでしたが、神奈備でのおカキコにもあるとおり、“薩摩がらみの沖縄進出”
 からも、目が離せない‥‥を感じます。黒木(タラ)、諫早、奄美等もモンダイ。
※ ハタは雷では? イランのハタミ首相とはニ千数百年前は親戚ではなかったでしょ
 うか。
  ネパール語 hatawdi(槌)、 日本古代語 はたく=粉々にする。俳句季語 ハタタ=
 雷>オオタタ・ネコ。もちろん、PAT(畑)、BAT,WAT(海)も見逃せません。


此方は久しぶり・・(^^ゞ 投稿者:KENJI  投稿日: 8月10日(土)01時39分02秒

ご無沙汰しています。
何時も読んでいますが、此方にカキコは久しぶりです。(^^ゞ
今年の盆休みに、加賀白山に行く予定。ノンビリと山の空気を吸ってきます。
白山と言えば、白山比盗_社。その、奥社の写真、お任せ下さい。
山頂の奥社の写真専門みたいです。(爆)

http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/

 


re:秦氏とカモ氏 投稿者:s_tan  投稿日: 8月 9日(金)23時26分11秒

中村修也ですか、この本は正史の空白である遷都の時期3,4年の記事がまとめられて載ってますね。出典の大阪朝日の本探したが見つからなかった。
秦氏関連では大和岩雄氏が18年掛けて脱稿した『秦氏の研究』大和書房(\7900-),が今のところバイブルにちかいかな。一度は読む価値有。


果たして幡氏 投稿者:D.K  投稿日: 8月 9日(金)18時32分58秒

ガンダムの続編が出たそうで、”キャスバル生きていたか”と思ったら
一年戦争の話だとか。

ゲームの世界にも超古代ネタが隠されているとは中々来てますね。
宮崎氏の映画は物部姫とか結構あって、鬼道先史でも創りたい
ですが、やっぱりアイデンティティーに関わる物は売れるのか?


『秦氏とカモ氏』(中村修也著 臨川書店) 投稿者:アスベル生きていたか  投稿日: 8月 9日(金)04時45分13秒

少しくご無沙汰してます。
暑い日が続きますね。

さて、ハタ氏関連のスレッドがあったもので、以前読んだ本の書名を題名に置いておきます。 ハタ氏に関しては、中国の権威的な「秦」の字に対して、やまとことばの「ハタ」を当てはめた経緯にちょっと興味持っていました。

最近は古代関連の書籍にも目が向かず…なのですが、思いがけず元いた会社が出してる『鬼武者』というゲームの中で、暗号文としてホツマ文字が使われていたのでビックリしました。 ハーフミリオンは売れてるだろう、こんなメジャーなゲームの中で採用されているとは…。

以前御紹介した『ナムジ』にも、黄泉平坂の手前にある目印にホツマ文字が使われているんですよね。この作品も日本漫画家協会賞など受賞されているので、クリエーター関連では密かにご存知の方多いのかなと思いました。 物語を彩るガジェットとしては、面白いでしょうしね。

ちなみに前者の暗号。
関連サイトを開いてるクセして、素で読めなかった自分に(苦笑)です。

http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/


ハタ氏と秦氏3 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月 5日(月)23時48分16秒

資治通鑑(1084北宋)に天山山脈の北に弓月国があったとあるようですが未確認。
(シルクロードの天山北路にある国か?)
資治通鑑は書紀より300年後ですから「弓月」の登場は書紀が最古なのかなあ。
弓月氏はこの出自という論もあるようですがその根拠を知りません。
この地域の記録を中国僧「法顕」が旅行記(399)で書いていますが、あいにく天山南路の通過でみな仏教国になっており、楼欄ではインド系の言語を使っています。

弓月国はおくとして、五胡十六国時代の西域に鉄鉱石系の製鉄技術(筒型炉)があったのは間違いないと思います(箱形炉は東南アジア経由とみえる→タタラの原型)。
この時代では西域の人々が東シナ海沿岸までやってきていますから、朝鮮半島にも渡来していたなら百済、新羅、高句麗の抗争と応神の朝鮮半島進出の混乱に巻き込まれていたはず。
新羅にあった製鉄集団を応神が日本へ引き抜こうとしたのなら新羅がそれを防ごうとするのは当然となります。

応神時代には漢氏も17県の民を率いて渡来しています。
書紀はこの民が漢氏の祖であると明記していますが、弓月氏の渡来の場合は秦氏の祖だとは書いていません。
弓月氏が「弥生のハタ氏」と直結ではないことを意識していたため、とみています。
(古事記では漢直と秦造の祖が渡来したとなっていますが、弓月氏の記述がない)

京都の広隆寺(蜂岡寺、秦寺、太秦寺)の由来書による秦系譜は、
(秦始皇帝−胡亥皇帝−孝武皇帝)−宋孫王−法成王−功満王−融通王−7代略−河勝秦公とあります。
功満王が仲哀朝、融通王が応神朝(弓月氏)とみるようですが、200年を8世代なら25年平均で妥当なところですが、始皇帝から功満王まで5世代が600年というのはありえない。

広隆寺の始皇帝につながる秦氏系譜は日本における秦王族系譜(天孫に含まれる)と新羅における秦王族の系譜に製鉄集団である弓月氏の系譜が不明部分を飛ばして合成されたものと思います。
ねつ造という意味ではありません、秦王族と弓月氏が血縁関係となっている可能性もありますから。


応神は大和の朝津間の掖上(現在の御所市掖上)を弓月氏に与えていますがここは葛城氏の根拠地です。
同じ掖上に波多氏がありますが、こちらが葛城系(弥生のハタ氏)としての先住者か。
武内宿禰の系譜に波多八代宿禰がありますが、この波多氏が葛城氏とともに弥生のハタ氏の後裔のひとつだったとみています。

古墳時代の重要氏族(葛城氏、紀氏、波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏など)がみな武内宿禰から派生しているとされていますが大いに疑問。
これらの氏族は弥生から古墳時代にかけて九州へ渡来し、応神時代に台頭した氏族と推定。
古い氏族は渡来以降の系譜が明確でないこともあって、新旧ひっくるめて景行〜応神朝の「功労者」である武内宿禰の系譜に集約されたものと考えています。


雄略紀に「秦の民を臣や連に分散させて秦造に委ねなかった」とあります。
古語拾遺では雄略が散り散りになっていた秦の民をまとめて秦酒公に賜ったとあります。
渡来者の統括は弥生のハタ氏の後裔≒葛城系譜ないし弓月氏を統括して渡来した秦王族(秦造)がおこなっていたが雄略時代にその管理体制が変わったことを示す記事とみます。

応神、仁徳〜雄略の系譜がいかなる相関になるかが問題なのですが、持論の大王系譜参照
葛城氏は天孫系の外戚の位置を保っていたが、応神以降に仁徳系に傾いたために、雄略によって滅亡に追い込まれたとみています。

そして葛城配下にあった技術集団を自分の体制の中に取り込んだわけです。
その一部が葛城の地に移され、もう一カ所が隋書にいう秦王国ではないか、宇佐〜吉備のどこか。

雄略は弓月氏の後裔から新しい統括者を任命した、それが秦酒公だと考えています。
秦酒公は音楽をもって雄略に接していたとみえますから、後の秦河勝が舞楽を伝えたという伝承に符合。
秦姓(秦の文字)は旧統括者だった秦王族(→秦造)を継承したもので、始皇帝の秦と直接つながるものではないとみています。「太秦」は統括者への尊称でしょう。

だとすると、秦の文字を使わないハタ氏の方に弥生のハタ氏が含まれる可能性もでてきます。
始皇帝の子孫ということではありません。ハタ=海、舶来の意と考えていますが、弥生時代の渡来人を祖にするということです。

現在の「ハタ」の地名分布をごらんください。
ほとんどは畑です。この分布が出雲とつながるハタであろうとみています。
で、ここから九州を除いたもの(国譲り以降)がアラハバキの分布にも一致するのではないか・・(^^;
(近畿周辺では早々に痕跡消滅でしょう)

かたばみ

 


ハタ氏と秦氏2 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月 4日(日)23時08分08秒

半島南部でも類似の状況が生じていたと思います。
平和な村々が次第に混乱に巻き込まれ、そして新羅の始祖赫居世が登場と新羅本紀にあります。
こちらも降臨者です。高度な文化を持つからこその伝承でしょう。

赫居世が秦滅亡時の脱出者の後裔か呉楚七国の乱からの脱出者の後裔か、どちらかはなんともいえませんが、50年しか違いませんから両者が結合した結果の後裔とみておきます。

渡来者が先住者と混じり合って数世代目、それが赫居世。
これは日本の天孫降臨でも同じです。
なぜ瓊々杵が天皇の始祖ではなく神武なのか。
天之忍穂耳から4世代を経て先住者と混じり合って外国人ではなくなった段階、そうでなければならなかったからだとみます(もうひとつの理由は九州統一をなしたから)。

江戸に3代住まなければ江戸っ子とはいわない、これと同じ。
ある文化に芯から染まるには3世代が必要、そういうことです。
(意識していなければもとの言葉を忘れるのも3世代目あたりでしょう)

降臨という神話の類似はどちらも同じ状況だったから。

朝鮮半島東側の辰韓(秦韓)、後の新羅の初期王朝は秦王族系だったと推定。
新羅王統図参照

新羅王朝と初期天孫王朝(九州)は呉楚七国の乱を介して仲間だった。
縁戚関係も結ばれたと思います(ここに脱解が登場、天孫との関係はウエツフミの記述が重要ヒント(^^;)。

神武登場で出雲は国譲りを余儀なくされ、九州を失った出雲は半島南部の伽耶との交流もできなくなります。
そして倭国争乱をへて出雲は滅亡。
出雲と緊密だった伽耶は出雲滅亡と連動して崩壊し新羅と九州天孫の支配下にはいった。
(糸島系の赤色祭祀土器の半島からの出土)
これが後の任那日本府の源。
そして九州天孫の一部(日向天孫)は出雲の中枢=近畿ヤマトに入城する(崇神248-273)。

九州天孫と新羅は秦氏族を介して緊密な関係を保っていた。
天日槍が出雲の葦原志許乎と戦っていますが、兵力を伴って渡来した様子はない。
渡来後に天孫勢力に参加して出雲と戦ったことを源にする伝承とみています。
(開化225-248〜崇神248-273の事象と推定)

しかしこの頃から新羅王の系譜が混乱しはじめています。再度新羅王統図参照
奈忽王365の登場でそれまで天孫と緊密だった王統が天孫と無関係の王統に変わっています。
(それまでの王の尊称であった「尼師今」が奈忽王以降は「麻立干」に変わります)

高句麗や百済の進出がそのきっかけかもしれません。
天孫と新羅王朝の関係が切れたわけです。
神功の新羅攻撃がはじまる(神功が実在かどうかは棚上げにしておきます)
そして応神の半島進出へ。

半島には多数の秦氏族の後裔がいた。新羅にあった秦氏族は自分たちとは無縁の王となった新羅にとどまるより縁戚でもある応神朝(あるいはその支配下の地域)に引っ越す可能性が高い。
(前に書いた済州島の秦姓の人々もその子孫ではないか)

全羅北道では百済が進出し、応神は百済と連合する方針をとった。
応神の文化(日本の文化)の影響をうけて登場するのが全羅南道の前方後円墳です。


この流れで行くと応神朝に渡来した弓月氏は始皇帝の子孫であり、広隆寺の秦系譜は正しいということになりそうですが・・

これだけでは新羅が秦王族の後裔(旧王朝の王の一族)が日本に渡ることを阻止すべき必然性がみえないのです。
国外追放したほうが新王朝にとって安全ですらあります。
そこに、この頃からとみえる鉄生産の問題が浮上してきます。

秦王族であるなら西方氏族とつながりがあって当然です。
武器としての鉄器生産は秦時代にはできなかったが農耕具用の鉄は北方系製鉄で十分だった。
そして伽耶には鉄鉱石があった。
新羅の初期王朝が西方系の製鉄技術者を呼び寄せるのは自然ななりゆきと思います。

弓月氏は半島の秦王族に呼ばれた西方系の鉄生産技術者である。
五胡十六国時代、320頃以降でしょう。それを統括していたのが新羅の秦王族系だった。
しかし新羅王朝は秦王族系から356以降に正体不明の(^^;奈忽王系に移った。

応神は鉄生産技術者を引き抜こうとし、その統括者もその人々へ応神朝への引っ越しを指示した。
万の単位の人々の移動、統括者がいなければできないでしょう。その統括者は秦王族。

続く

かたばみ


ハタ氏と秦氏1 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月 4日(日)23時06分00秒

縄文末期の西日本の人口は東日本の1/10以下、場合によっては1/30です。
これが弥生時代に同等にまで急増します。
これは、弥生に渡来した文化が西日本に影響を与えたなどという生やさしいものではないでしょう。
少なくとも九州北部では渡来者たちの文化の複合体がその文化になった、といってよいと思います。

それが東日本の文化と接触し、古墳時代を経て近畿ヤマト王朝ができあがってゆく。
その過程を推定するためには渡来者がいかなる文化を持つ人々であったかは重要です。

可能性の高いものを組み合わせてシミュレートし、その結果が知られている状況や考古学遺物を説明できるならそのシミュレートは事実に近い、そういう方法で楽しんでいるのが1章〜12章です。
現時点で若干の修正がありますが大筋で不変です。


以下はそのうちの秦氏に関する空想歴史物語(^^;

まず秦氏にからむのは秦帝国の滅亡とその王族の脱出。
魏志韓伝に登場する記述と辰王(秦王)の存在です。
BC200頃に現在の全羅北道〜慶尚北道あたりにあったとみています。

朝鮮半島での秦姓は済州島に多くその人々は慶尚南道出自だそうで、この人々も始皇帝の末裔を称しているそうです。あいにく発音はわかりませんけど。
(血統□家門/秦泰俊/弘人文化社(韓国):□はハングル文字、「また引用」につき内容未確認)
この人々が始皇帝の子孫の秦氏ではないかと感じていますが・・はたして?


記紀の天孫降臨(その親、天之忍穂耳)を歴史上の事象に関連づけた記述をみたことがありませんが、9章の呉楚七国の乱(BC154)を契機とする中国系脱出者がそれであるとみています(ほぼ確信(^^;)。
反乱国は東シナ海沿岸域と山東半島です。

呉楚七国の乱は前漢に対する反乱ですから、前漢に滅ぼされた秦の王族がこれに参加した可能性少なからず。
反乱の主犯格は呉と楚、呉系の王族が日本へ脱出したのが天之忍穂耳。
その仲間に中臣氏の祖となる天兒屋根がおり、忌部氏の祖となる天穂日がいた(こちらは出雲臣の祖)。
そして秦王族もいた、こちらは50年前の縁戚を頼って朝鮮半島へ。

しかし、朝鮮半島南部(慶尚南道付近)にはそれより50年ほど前に箕子朝鮮滅亡からの脱出者がいます。
スサノオの仲間です(^^;
スサノオは天之忍穂耳より40年ほど先に北九州へはいって、北九州の初期開拓者達を制圧しています。
(アマテラスとスサノオの抗争神話の源)

そこへ天之忍穂耳らがやってきたわけで、外来の王が北九州で戦いをはじめた。
その結果が北九州での戦死者とみられる遺骨の急増です。
そして中国王族しか持てない副葬品をもつ墓が北九州に登場した。
迷惑したのは北九州の先住者(初期開拓者、アマテラス含む)だったが、戦が終わって弥生の黄金時代がやってきます。

かたばみ


re:初めて知りました 投稿者:s_tan  投稿日: 8月 4日(日)22時52分23秒

こんばんわ YOHATOMOさん、神崎、いいところですね。
神崎町の歴史は全く不案内でして、なにかありましたらよろしくお願いします。
地図上に標高3m程の等高線を引きますと、大昔に香取の海と呼ばれた海岸線が浮かび上がります。神社のある丘は、古くは香取の海に突き出た岬で180度以上の展望が開ける場所ですね。おそらく神崎神社が鎮座する以前、縄紋とうより石器時代から続く航路の要所だったのでは、と思ってます。
社域があまり広くない割には江戸時代にも20石の社領ですので海上交通の要所として重要で信仰も集めたのだろうと思います。(近くでは笠森観音が同じ石高)。岬としては引っ込んでいますが安食にある大鷲神社も地形は似ていました。


初めて知りました 投稿者:YOHATOMO  投稿日: 8月 3日(土)23時54分55秒

はじめまして、こんにちは。
私は千葉県神崎町の出身なんですが地元にある神崎神社ってこんなに古くからあるんですね。
祖父、祖母から古くからあると聞いていてのですがここまで古いとは...思ってもいなかった
です。小学生の時などよく神崎神社に遊びに行きました。
ちょっと感動しました。

 


re:秦氏 投稿者:かたばみ  投稿日: 8月 2日(金)19時05分02秒

Millionさん、はじめまして。

≫焚書坑儒を行った秦の始皇帝の一族の人間だと聞いています

日本の秦氏の祖先がどうであったかはいろいろな説があるだけで明確にはなっていません。

焚書は許されざる行為だと思いますが、ある人物が悪だったとしてその縁者も同じだとする考え方はそれ以上に危険で許すことができないものと思います。


ある文化にとって善とみなされるものが他の文化からは悪とみなされる場合もあり、人間とその文化のありようの根幹にあるものだと思っています。
もっとこのスケールを小さくしたものが個人の価値観による善悪の判断であり、始皇帝の焚書は始皇帝の価値観によるもの、といったところでしょう。

かたばみ


秦氏 投稿者:Million  投稿日: 8月 1日(木)06時19分45秒

秦氏は帰化人で、焚書坑儒を行った秦の始皇帝の一族の人間だと聞いています。貴重な書物、歴史の記録を灰にした一族が古事記を編纂し、日本の歴史の記録に携わったとなると、それを契機に歴史の書き換えがなされたと考えざるを得ません。皆様はどのように考えられますか?


太安万侶 投稿者:D.K  投稿日: 7月30日(火)23時17分52秒

古事記の編纂にかんでいた太安万侶、太氏は秦氏といわれていますね。
景教的な影響が色濃く出ている可能性は色濃いと思います。

世界中の様々な神話もそのままストレートに残っているわけではなく、
色々と書き換えなどが行われている可能性があるので何とも言えませんが、
日本の古文献の中でも同じ神のエピソードの詳細が違っていたりするのですが、
原型的なものが存在するのでしょうね。色々な可能性があって何が真実か
断定しにくいものが多いですが、道教に関しては中国で魏志倭人伝が書かれた
少し前に道教集団の黄巾の乱が起こったとされているので色々な推理が
出来そうな要素が沢山ありますね。


記紀神話2 投稿者:かたばみ  投稿日: 7月30日(火)20時09分33秒

記紀編纂時代に存在した有力思想は、道教、仏教、儒教、景教だと思います。
記紀にはそれらに付随する物語を参照して再構成された神話が混在している。

仏教系(ヒンズー神話含む)と儒教は除いてよいかもしれません。
仏教の説話の多くは新思想として一般に知られはじめていますからそれを使うのはちとまずい。
中国において道教と結合して伝わっている場合もありえます(易経や詩経などを含みます)。
儒教にはもともと神話の要素はないと思います。

利用されたとすればまずは道教で次いで景教のもつ神話ではないか。
「道教の原型」の影響は弥生時代から連綿と続いていて、記紀が基本構成にこれを利用するのはごく自然だと思います(卑弥呼時代では北方系の伝承もはいっているでしょう)。

さて問題は景教です。
ギリシャ正教やロシア正教と同系の「アッシリア東方キリスト教」の中国での名称です。
ローマと対立して東方へ展開し(AD431)、アッシリアやペルシャ(現在のトルコ〜シリア北部〜イラク北部)で5世紀に栄えます。
ローマとの対立には微妙な理由があるようですが、有色人種の宗派であったからという論もあります。
(なんと1997までローマカトリックから異端とされていた)

旧約聖書ではイエスをダビデの子孫とみてダビデと称することがあり、アッシリアにはバビロンの捕囚と関連するユダヤ人の子孫がおり、景教にはその影響が少なからず含まれるようです。
後にイスラムの支配下にはいりますが、高度な技術や医術によってイスラム文化に貢献していました。
(イスラムは他教徒を排斥しません、少なくとも昔は)

中国へはシルクロードを経て渡来し(記録にあるのは578)、唐の太宗は635に公式に許可して大秦景教と呼ばれました。
大秦は後漢でのローマ帝国の呼称ですが、後に西方国家一般を示すようになるようです。
なぜ「秦」の文字を用いたのかなあ。
秦が大帝国を築いたこととローマ帝国を重ねているのかな。

景教が日本に渡来して近畿に広まっていれば、記紀が中近東やギリシャ、あるいは聖書の神話群を参照する可能性は十分あると思います。

かたばみ


記紀神話1 投稿者:かたばみ  投稿日: 7月30日(火)20時07分32秒

似た神話が登場するには
同じ話が存在する地域とつながりがあった場合。
同じ環境があって類似の話が生まれた場合。

加えて記紀にはその成立状況から見てどちらでもない「類似の話」が存在しそうです。
ある物語を知っている人物がそれを参考に「自前の伝承の断片」を再構成した場合です。

記紀は世界中の情報が集まってくる時代に編纂されています。
断片しかない伝承を物語としてまとめねばならないとき、編纂者はどうするか。
既知の物語を利用して再構成するのが簡単です。
編纂に政治的意図があるならむろんそれを反映させながら。

記紀神話に「ある文化圏の神話」と類似の話が出現しても、過去にその文化圏とつながりがあったとはいえないわけです。
つながりがあるとするには、記紀が古代の伝承を正しく記述しているという前提が必要と思います。

津田左右吉は記紀神話は創作ないし流用であって信用できない、を前提にしていますがこれもまた行き過ぎだと思っています。
その中間に事実が混在しており、それを拾い出せるかどうかが重要なのではなかろうか。


冥界訪問神話は各地にありますが、もう少し分解してみます。
オルフェウスは詩人で音楽家、妻のエウリディケをめとるのはその力によります。
伊弉諾伊弉冉神話にこの要素はありません。

伊弉諾は妻を取り戻すのに失敗しますが、失敗する話はギリシャ、ポリネシア、北米にありますがその他の地域では成功します。
ニュージーランドのマオリ族の話も失敗例ですが、夫が子孫を増やし妻はその子孫を死に導く、と言い合っています。これは伊弉諾と伊弉冉の会話と同じです。
(このあたりを重視して伊弉諾伊弉冉神話は南方系とする論もあります)

後ろを振り向くなという禁止条項はギリシャと日本にしかありません。
しかし帰還後に一定期間妻を見てはならないとか声をかけてはならないといった禁止条項は北米インディアンにいろいろな種類があります。

伊弉諾は後ろに物を投げ捨てながら冥界から脱出しますが、これは北アジア、西アジア、ヨーロッパ、北米など広範囲にあるのですが、ギリシャ神話にはありません。

伊弉諾伊弉冉神話がすべからく流用であるとしたら、当時では情報発信力をもっていなかったであろうポリネシアの話までつぎはぎしたということになりますが、これはありえないと思います。

記紀がいろいろな要素を含んでいるように見えるのは、まずは縄文人の成立が北方系と南方系の合体であり、縄文晩期では中国南部、弥生では中国全般と朝鮮半島、そういった人々が複合しながら西日本の人口が急増していったことにあるとみています。
(東日本の伝承=縄文の伝承は残りにくいわけですが、かろうじて出雲のなかに残っているかもしれない)

記紀はそれらの自前の伝承(断片)と記紀編纂時代でのなんらかの物語の筋立てを合成して全体を組み立てている、と考えています。
特に伊弉諾伊弉冉神話以降から天孫降臨に至る部分は記紀の目的の中枢のひとつであり、天孫系の物語としてまとまりが必要だったはず。

自前の古伝承がどの部分か、それを探すカギが記紀以外の古伝書にあると思っているのですが・・

かたばみ

 


re: すっかりマイペースです。 投稿者:s_tan  投稿日: 7月29日(月)01時08分31秒

こんばんわ。
お盆ですね、南関東は7月の所と8月の所があります。宗派によるものか地域差なのかはよく確認していません。
昔、8月に北海道を廻った時に漁村で灯りを持った行列が鉦や念仏とともに街中を廻るちょっとおどろおどろしい光景に出会いまして、お盆の行事かと思ったら葬儀の列でした。北海道はほぼ8月で、お盆というのは暑い盛りの農閑期、主要作物と地域の気候に合わせて7or8月を決めているのでしょうか。

「くされ縁」というのは「鎖縁」の訛りということですが、縁は衣服(糸)のフチ、「くされ縁」が強固なつながりなら、縁は日常で判る程度のつながり、原因・結果、因縁ということ、程度に理解してるのですが。。

凡人は三つそれぞれ悩み・困惑のもとになってます。。これらは小欲から派生するのかなあ。。無欲に近づくと悟りに近づく。。通り越えると済度にまわれる。。

三密とは心技体(身口意でした?)それぞれの相乗効果が結果、堅固になる、ということでしょうか。
三つは凡人には難だから内一つに重点を置いたのが法然、道元など鎌倉以降なのでしょうか、これら天台も辿ると真言三密になるのかなあ。。


神話と言うよりも 投稿者:D.K  投稿日: 7月27日(土)00時29分49秒

キャラクターがですけれど。

デルメルとアマテラスの岩戸隠れ、ポセイドンとスサノオ、
メドューサとヤマタノオロチ、イアムベとウズメの裸踊り、
オルフェウスとイザナギノミコトの冥界下り、
アドニスと大国主命の恋敵による殺害などがありますね。

ストーリーとしての構成は聖書に類似しているような
感じがしますが、失史八代等はこの仮説をベースにすると
結構解けたりしますね。まあ、対比していない部分も
結構あって、天から下って下照姫を娶って帰って
こなかった天若日子は天孫降臨をしてミカシギヤヒメを
娶ったニギハヤヒノミコトの暗号ではないかと
分析を入れていますが、反逆罪で汚い心があり
殺された所は如何にも悪者にされた感じです。


ギリシャ神話 投稿者:かたばみ  投稿日: 7月27日(土)00時10分15秒

≫古事記と非常に類似しているそうですが

D.Kさんは似ていると思われますか。
私は「古事記」と「ギリシャ神話」が似ていると感じたことはありません。
ただし部分的に似たものはあると思います。

おおまかに分類するならば東南アジア型、中国南部型、中国北方型(シベリア付近まで含む)などがあり、オルフェウス神話やペルセウス神話に似ているのが伊弉諾の冥界訪問とかスサノオの八岐大蛇退治というわけです。
ま、冥界訪問や怪物を退治する話は各地にありますし、普遍的に発生しうる話ではありそうです。

スサノオは出雲で、出雲と蛇は仲がよい(^^;
なのにスサノオはなぜ蛇を退治したのか。出雲風土記にはでてこない話ですし。
出雲と蛇が仲良くなるのはスサノオ以降である、だからスサノオは蛇を退治しても良いのだ・・
ま、あるかも。

古事記は700年頃に編纂されていますが、この頃には仏教にしろ儒教にしろあるいは景教にしろ世界中の情報が唐を通じて流入している時代です。
後漢あたりから中国ははるか西方のローマ帝国あるいはその周辺国を「大秦」と称していますが、相当の尊称だと思います(なぜ秦の文字を使ったのかが興味深い)。

古事記や日本書紀がそれらの影響を受けていないと考える方が難しいと思います。
それらを利して意図的に構成された話も混じっているかもしれません。

火を盗んで得る神話は世界中にありますが、日本の場合は伊弉冉神が火を生んでいます。
女性あるいは体内から火が生まれる神話はパプアニューギニア、メラネシア、南米のガイアナにあります。
日本の場合はこの仲間にみえますが、記紀編纂時代にメラネシアやポリネシアが情報を周囲に発信できる力があったとは思えません。

縄文土器に吊手土器という灯火に使ったと推定される土器があります(中部山岳や関東の出土)。
その形状や装飾文様から体内の火を表すもので伊弉冉神の火とつながるという論があります。
そうかどうかはおくとして、伊弉冉神の火生み神話は古来からの伝承を受けるものかもしれません。


似た部分があると同時に違う部分もある。
ふたつの言語から似た単語だけを抽出して並べて、このふたつの言語は同じだったのだという手法がよくありましたが、今それを受け取る人はいないと思います。
(ある単語がなんらかの理由で別の場所に定着する可能性はありますが)

異なる部分の問題を含めてそれぞれの神話全体の構成や成立過程と現代に至る間の変化など総合的な比較による推定が必要だと思います。

ギリシャ神話には3段階があるようです。
第1世代はガイア(大地母)の時代、第2世代がクロノス等の時代、第3世代がゼウス等の時代。
現在残るギリシャ神話はほとんどが第3世代のもので、それ以前の神々は消えています。
前世代が残っている例外がメデューサですが、蛇の怪物になってしまいます。
(確かもうひとり女神として残っているのがあったはずだけど忘れた)

ギリシャ文明の基本はミノア(クレタ、エーゲ海)文明にあってBC2000〜BC1100頃で最盛期はBC1700〜BC1400頃。
ホメロスの叙事詩に登場するこれらの世界は深い森の世界であったようです。
ミノア文明の象徴は蛇です(ミノアの文字はまだ未解読)。
クレタの大地母神像も蛇を体に巻き付けています。これが第1世代の姿だと思います。

そして寒冷と湿潤という環境悪化の中でギリシャは暗黒時代となって森は消えてゆきます。
BC700頃にアテネやスパルタが登場してギリシャが復活しますが、現代に伝わるギリシャ神話のほとんどがこの第3世代のものです。

日本の縄文から弥生への変化の時代と重なってきます。
縄文中期〜晩期=ギリシャ第1世代、自然の恵みを享受した時代
縄文末期=第2世代(過渡期、暗黒時代)、それが失われる時代
弥生=第3世代、人間の技と智慧で開拓を行う時代

環境が変化する時代(過渡期、BC2000〜BC1000頃)までは日本もギリシャも類似環境であり、神話も類似になる可能性が高いと思うのです。
しかし、その後のギリシャでは森が消え紺碧のエーゲ海と白亜の大地になってしまった。
第3世代では天候を司るゼウスが君臨する。

日本では幸いにも森が失われることはなかった。
強いていえば水神や竜神がゼウスに相当するかもしれませんが、森を守り水の恵みを与えても君臨はしなかった。

縄文末期(縄文崩壊時代、縄文海退)の印象が伊弉諾伊弉冉神話になっていると考えています。
ギリシャにも過渡期の神話があってそれが第3世代へ影響を及ぼしているなら、オルフェウス神話がそれであって類似しているのかもしれません。

かたばみ


すっかりマイペースです。 投稿者:iroha-uta  投稿日: 7月25日(木)22時40分55秒

今日は。久しぶりです。関東地方ではお盆は早済みましたでしょうか? こちら(岡山)では関西地方と同じ8月が盆の月です。
なんとか波に乗り遅れまいと、晴れの日には、草刈りに精を出しながらも、曼陀羅を追っております。
真言宗の寺には、標識の如く祀れば良いと習っただけだった曼陀羅ですが、今は『その時』のための曼陀羅であるということに落ち着いております。それは修行僧を終え、お師僧さんから正式な衣を渡される時です。衣を「ころも」と読むより「い」と読んで、いっそう衣食住と言い切れば、もしかして衣食住という言葉自体、もともと宗教の言葉なのかも知れないと辿ります。
僧侶の衣はいのちを繋ぐ証。そして誰にとっても衣食住という問題はいのちを繋ぐ根本的なこと。
いのちを与えられることと教えられます。縁という言葉ももともと衣食住にかかわる言葉であったのでは。不思議の世界は実は自分に最も近い所にあったのです。

真言とは真の言葉。説得力のある言葉を探し、活動中です。

http://homepage2.nifty.com/iroha-uta/

↓ 


ギリシャ神話が 投稿者:D.K  投稿日: 7月22日(月)22時59分37秒

古事記と非常に類似しているそうですが、
どう解釈すれば良いんでしょう?


出雲とアラハバキ2 投稿者:かたばみ  投稿日: 7月22日(月)00時01分29秒

空想をひろげます。
アラハバキに関する神社情報は神奈備さんのところのデータしかしらないといっていいのですが・・
佐太神社に「あらはばきの門」があったというのは面白い。
島根半島には「アラハバキらしき」が多数ありますがそのほとんどはBC2000以降の三苗系の新文化をもたらした初期開拓者を示すとみています。
祖先神であり客神でもあり、アラハバキ登場よりはるかに古い事象。

出雲風土記の大穴持神も同様の最古の島根半島での祖先神で、大己貴や大国主とは無関係の別人だったのが、記紀や風土記編纂の都合で同一人物であるかのごとくに書かれたものと考えています。

日御碕神社の摂社では櫛磐窗神、豐磐窗神になっていますが、氷川の櫛石窓・豊石窓と同一で夫婦神だと思います。
クシの名は初期開拓者の尊称と考えています。出雲熊野のクシミケヌ命も同じ。
クシミタマも同じで饒速日もこの後裔です。
これが草創期の出雲が接した人々で建御名方にも同じ記憶があり、それが千葉あたりでの初期開拓者の祖先神と結合して氷川での同一神になっていったのではないかと思っています。

伊予、愛媛の瀬戸内側にも多数の「アラハバキらしき」が存在し、佐田岬半島に密集しています。
これもその位置からみて海洋系の人々の行動拠点でしょう。
九州の唯一の「アラハバキらしき」が五島列島と壱岐であるのも、初期開拓者と海洋民が切り離せない存在だったことを示すものと思います。

他にもたくさんあったと思います、消えにくかった地域に残ったと推定。
これらの「アラハバキらしき」の多くの御祭神が伊弉諾伊弉冉神になっているのも、縄文末期〜弥生初期に源があることを示すもので、数百年後の出雲全盛時代に「アラハバキ」とミキシングされたのではなかろうか。


アラハバキの登場は出雲の近畿拠点、唐古・鍵遺跡(BC100〜AD100)が登場する頃。
この頃に石鏃が鉄鏃に急速に切り替わるのですが、なんらかの理由で鉄の入手が容易になったためでしょう。
これがアラハバキの登場に一致すると考えていますが、その切り替わりの正確な年代が知りたいです。

東北の餅鉄採取とともにもたらされた自然神がアラハバキだと考えるからです。
アラハバキが鉄の神という意味ではありません。
蝦夷の山にはいるにはその神を祀り敬うことは必須ですから。
近畿や東海開発で中部山岳や東国の縄文と結合することになれば出雲の主神にまで変化しておかしくないと思います。


スサノオ等の出雲創世時代に存在したであろう神々はなにか。
出雲神族が箕子朝鮮であるならば殷の祭祀をひくかもしれないけれど、800年を経てどれだけその影響が残るかは?
半島北部の箕子朝鮮では燕の影響が大きいとしても、祭祀者や王族の渡来はおそらく少数。

中国戦乱からの避難者やその玉突き減少で九州に渡来していたであろう朝鮮半島からの避難民のもつ祭祀が出雲の祭祀とほぼイコールだったのではなかろうか。
半島南部の人々が接していた最新文化は山東半島のそれだと思います。

その当時に有力だったのが瑯邪八主(八神)。
天、地、日、月、陰、陽、四季を祀ります。
もう一つ兵主神がありますが、これは始皇帝によって斉が滅ぼされたことで登場した軍神(祖先神=黄帝と戦った伝説の人物蚩尤)で新しいものらしい。

徐福の祭祀もこの系譜とみて間違いないと思います。
山東半島には楚系の青銅器を埋納する風習もあったらしい(長江文明の発見/徐朝龍)。
宮城県岩出山町のアラハバキ社の縁起書はいつどなたが書かれたかはわかりませんが、天地水の三神に日月星、山海を祀るとあり、瑯邪八神に共通しそうです。


出雲臣の天穂日の祭祀も重要ですがこちらは出自がまったくわからない。
呉楚七国の乱の関係者であるならば、長江系でやはり自然神系譜の可能性が高くなります。
(天之忍穂耳、神武系の祖もおそらくは同じ)
天孫や出雲の創世時代の「指導者」たちの祭祀は縄文自然神と融合しやすい状況にあったと考えています。

当初の指導者に蛇の概念はなかったと思います、中国でその様子がみえません。
瑯邪八主も自然神ではあってもより抽象化あるいは昇華されてアニミズムではなくなっていますし。

蛇の登場は縄文系からのもので、縄文に強く接した出雲がその影響を受けたと考えています。
天孫が呉越系で、九州の近代化した縄文としか接触しておらず、九州縄文が三苗文化の影響下にあったならばこちらの象徴は中国南方系+海洋民=太陽と鳥になると思います。
九州縄文=初期開拓者でもあるわけで、利根川流域にも三本足のカラスがいるのはこのあたりに源があるとみています。

かたばみ


オマケ 投稿者:D.K  投稿日: 7月20日(土)16時36分07秒

毛越寺常行堂の摩多羅神は33年に1度だけ御開帳される秘仏だそうで。


ホピの預言 投稿者:D.K  投稿日: 7月20日(土)00時26分19秒

ホピ族は原爆投下等を始めとして様々な預言を行ってきましたが、
本当の白い兄弟が太古に海を渡ったとしているそうで、
日本きた可能性があるとか。良く日本にも来ますね、ホピ。

インディアン関係を調べてアラハバキの正体の私説の裏付けに
成りましたが、人類が生き方を改めないと酷い目にあうと
預言してますね。道を外れているそうです。研究の成果、
この辺りで出そうで、もうチョット頑張ろうかな。

ミサクチ神(イサクの神?)に関してはイサク関係の暗号が
隠されている某所で結構、分析が出来ますが、やはり
イスラエル絡みの感じですよ。

イスラエルと言えば秦氏(強引?)、広隆寺の弥勒菩薩像、
見てきましたが、凄いですね。耳が大きいし。
三十三間堂なんて言うのもどうですか?


出雲とアラハバキ 投稿者:かたばみ  投稿日: 7月19日(金)22時53分39秒

神武の神は高御産巣日神とオオヒルメ尊、オオヒルメ尊は母方の祖先神かな。
神武が祀ったのは記紀でいう高御産巣日神だろうなあ(実際にはBC150頃の中国で祀られていたであろう神)。

それでは出雲が祀った神とは・・
大己貴やスサノオは記紀でいう出雲建国の祖であって神とするにはいささか近すぎる。
三苗文化を受けた西日本の縄文は早々に近代化し、初期開拓者となって各地へ影響を与えています。
それを祖先神として祀るのが佐太神社や出雲熊野大社で出雲の神とはちょっと違う。

出雲の主と見える三輪山の大物主はなぜ蛇なのか。
大物主こそが出雲の自然神アラハバキだからだと考えています。
山をご神体とするのは自然神を祀っていることに他なりません。その象徴が蛇。
捕虜となった蝦夷が三輪山に対して誓うのは彼らの神でもあったからで、必然となります。


出雲が農耕技術と海運によって縄文世界を統合した集団だったとすれば、縄文系の祭祀を無視することはありえないというより重視すると思うのです。
天穂日(出雲臣)系の神が山東半島の瑯邪八神であるならば兵主神を除いてこれも自然神です。
より容易に縄文神と合体してゆくはず。

出雲が縄文の地域に進出したとき、その地域で祀られていた自然神を出雲が取り込んだものがアラハバキであると考えています。東北での餅鉄採取がきっかけかもしれない。
それが定着してゆくのは唐古・鍵遺跡と同年代(BC100〜AD100)ではないかなあ。

縄文の神々はほとんどが消えた、だが出雲に取り込まれたためにその名が各地に残ったのではないか。
(なお、東日流外三郡誌はごく近代の創作であることがほぼ確実なのではずしておきます(^^;)
(阿倍氏の祖先というのもありますが・・これも??)


神奈備さんのところのデータによれば島根出雲に多数のアラハバキ関連社があったようですが、ほとんどが客人社になっています。
柳田国男はアラハバキを門客神とみていますが、記紀以降では建国の祖である大国主やスサノオが「出雲の神」となり、それ以外が消されたために外部の神のごとくになったためだと考えています。
(また島根出雲は出雲の中枢ではない)

九州にはわずかに2社の痕跡のようで、近畿から周辺にもたらされたのであれば国譲り以降(AD50頃)に九州にアラハバキがはいることはないわけです。
出雲の神は国譲り以後の出雲の地にくまなく祀られていたということで、出雲の神を祀るのが三輪山だけという不自然さが解消します。

東北では客人社にはなっていないようにみえます(いつごろの創祀かが問題だけど)。
関東の氷川などでも客人社ではなかった可能性がみえます。
蝦夷の地(縄文の地)であったならこれも当然だと思います。
(後に「出雲」から逆流したものものもあるかもしれない)


関東へやってきた出雲には2系譜があると考えています。
ひとつは近畿の出雲が崩壊したときの脱出者、AD250頃。
伊豆の来宮神社の伝承がこれを示すと考えています。

こちらは国譲り以後の体制をもち、祖先として大国主(大己貴)を祀り、海路でもあって海運者との関係が深かったと推定。
伊豆、房総、三浦半島では海運者(物部でもある)の活動を介して早々に近畿ヤマトと接続していったと考えています。
流浪の、とみえるとすればそれは崩壊した出雲の背景を持つからではないでしょうか。

もうひとつは諏訪の建御名方の子孫の関東への進出です。
(ミシャグチ神とはケンカとなった(^^;)
建御名方が諏訪へやってきたという伝承を信じる必要がありますけれど。

建御名方の子に千鹿頭神がありますが、進出したのはこの人々か。
弥生が寒冷化するAD100頃、新天地を求めて妙義山、榛名山、赤城山あたりの山麓から関東平野に展開していったと推定。
常陸国風土記の箭括ヤハズの民の麻多智と同じで狩猟と農耕半々の民とみます。
海運者との関係はほぼゼロ(すなわち後々まで反ヤマトで日本武尊の東征の対象となる)。

国譲り以前の体制を持ち、祖先としてはスサノオを祭ることになると思います。
現在の近津(千勝)社がその痕跡、面足神を祀りますが自然神と初期開拓者が合体して人格化し、後に記紀系譜の第六天神(面足神)に習合されたものとみています。


やや関東的な余談
谷川健一氏は「日本の神々」の中で、大宮市の氷川神社が古くは荒脛巾(あらはばき)神社と呼ばれ、その祭神を櫛石窓・豊石窓の二神であるとしています。
これが夫婦神かどうかはわかりませんが、面足神が夫婦神であることと関係があるかもしれません。

建御名方のアラハバキが夫婦神であったとすると自然神ではないことになりますが、アラハバキが確立する以前に建御名方が諏訪へはいったのであれば、初期開拓者との関連でそういう違いが生じるかもしれません。
このあたりに「氷川」の縁起の複雑さがあるのかもしれないと考えています。

かたばみ

↓ 


アラハバキ神への一考2 投稿者:かたばみ  投稿日: 7月19日(金)22時52分13秒

≫アラハバキとは、いつ頃からで最盛期?はいつ頃なんでしょうね。

年代推定は重要ですね。少し遠回しにやってみます。

BC2000以降、急激な寒冷化がはじまる。
この頃、遺跡数からの推定による人口が激減しています。
BC3000〜BC2000頃の長野や関東で人口が100平方キロあたり300人だったのが長野で1/3に、関東で1/2になってしまう。
東海や日本海沿岸でも150人程度だったたのが2/3程度へ減少する。
東北では50人程度で大きな変化はありません(もともと半寒冷だったためとみられる)。
西日本では10人以下で東日本に比べれば人がいなかったのに等しいので無視します(^^;

縄文崩壊の暗黒時代、BC2000〜BC1000頃。
縄文海退で陸地が増えたけれど葦原の湿地帯でそこから食料を得ることはできなかった。
神話上ではこれが伊弉諾伊弉冉時代だとみています。
伊弉諾伊弉冉神話で千人殺すなら2千人生む、なんてのがありますが、これもこの時代のなにがしかの事実を伝えているものとみます。

ちょっとデータ不足なのですが、関東の巨大貝塚でBC1900以降に存続していたものがみえない。
縄文海退と海洋生物の変化で貝塚を維持できなくなったのだと思います。
仮に中里貝塚が1万人の人口を養っていたとしたらその1万人が食糧源を失うわけで、人口激減に重なるものとみています。

しかし、東海、関東、日本海沿岸など海に面した地域では環境変動がおだやかで魚がとれ、採集文化から農耕への切り替えがなんとか間に合ったのではないかな(出土土器も精緻)。
養殖の概念の陸上化があったのかも。

縄文年月長さから見ればこの切り替わりは早い。
三内丸山時代よりずっと南下していたであろう好漁場へ移動してきた九州発の海洋民がいたと考えています。
その人々の持っていたのがBC2000〜1000頃に九州へ渡来した三苗文化・・(^^;

その人々と接した縄文人は葦原を活用する手段を獲得していった(水田はまだです)。
BC500頃では温暖化がはじまり、早稲種の登場も重なって開拓が加速されていった。
青森の砂沢遺跡では九州と同じといってよい次期に水田が登場しています。
東海では一気に人口密度が500人ほどに増大してゆきます。

その文化を運んだ人々を自説では初期開拓者と称しています。
人間の神、祖先神の登場です。猿田彦伝承は初期開拓者を源にするとみています。


採集文化を支えていた自然神は農地開拓によって祀られ畏れられながらも山へ追いやられていった。
ただし、その地が水源となる地域であればそれは水神や竜神へ変化しただろうと思います。
記紀にいうミツハノメやクラオカミはこれがベースになっているとみています。

これらは開拓者が祀る新たな神にもなり、神聖な場所、禁断の地であれば塞の神的性格をもったかもしれません。
縄文と接しているなら女性神格と合成される可能性も少なからずと思います(東北の瀬織津姫など)。
ミシャグチ神も夜刀神もアラハバキも同源で、それを祀った人々と行動様式が異なるだけではないかと考えています。

かたばみ


ワーム、新種? 投稿者:s_tan  投稿日: 7月19日(金)00時43分22秒

相変わらず、続きますね、ワーム。下記のメール受信
ーーー
<HTML><HEAD></HEAD><BODY>
<FONT>The following mail can't be sent to <br>
From: *   <br>
To:  *   <br>
Subject: JAMSAME.EXE <br>
ーーー
最近のはDBファイル,htmファイルからアドレスを抜き出すのが多いので誰のPCが感染してるか特定できないですね。皆さん大丈夫ですか?
私は「TXT文」でしかメール発信しませんので「HTML」のが行ったら迷わず削除してください。
 s_tan


re:始めまして 投稿者:s_tan  投稿日: 7月19日(金)00時42分21秒

こんばんわ、四国のおっちゃんさん。 訪問ありがとうございます。
四国は今までに合計3日うかがってます^^。しまなみが開通する直前でした。そういえば何度かTAXIで巡礼されている方にお会いしました。
お寺は、寄らないことはないですが神社優先でなかなか手が回りません、
「四国八十八ヵ所巡礼としまなみ海道の旅」hpでその気にさせて戴きます。感謝。


始めまして 投稿者:四国のおっちゃん  投稿日: 7月18日(木)13時39分18秒

台風去って暑くなりそう。

数々の神社楽しく拝見しました。

次にお寺はいかがですか。

ここで私のサイトのコマーシャルを(すみません)
タイトルは「四国八十八ヵ所巡礼としまなみ海道の旅」です。

四国八十八ヵ所巡礼の写真集(930ページ)CD^ROMの販売も。

http://www.icknet.ne.jp/~abehs335/


先住代々 投稿者:s_tan  投稿日: 7月17日(水)23時01分39秒

>アラハバキとは、いつ頃からで最盛期?はいつ頃なんでしょうね。あてる字も、随分多いですね、荒波々伎、阿羅波婆枳、荒吐、荒羽吐、角鹿巾・・。
東日流外三郡誌の周辺をみると、およそ2700年前長髄彦の兄が。古来より全能の神なる天地水の。晋国の古伝に曰く荒羽貴将軍の古事より。支那及び韓民の大挙して流着し。支那郡公子家の祀神。安日彦、長髄彦2柱の称号。とまあいろいろ紹介しています。

神社では客人社(神)門客人社との呼称されるものがアラハバキに通じるのではないかとする事も多い様子。武蔵、相模の荒吐の社・祠のある神社は、総社的位置か道の岐に位置する神社に多く見られる。猿田彦と同じとする社、近くに祀る社、などありますが客人(まろうど)となると旅人で、これがアラハバキと通じるなら、アラハバキは流浪の民の神。
いずれにしてもアラハバキから強い土着性は感じられない、追いやられ消された神かも知れないが、もともと流浪することが本来のモノ達の信仰かな。とすると、北方系縄文まで遡る?(02.01/)

#神奈川厚木の式内・小野神社の現在の主祭神は日本武尊となってますが、宮司さんの伝では境内の阿羅波婆神社は天下春命が祭神で小野神社本来の祭神であった、とあります。イメージとしての神名は、足摩乳、猿田彦・・サバ5神あたりに重なる。先住の神であるが、門客人とすると初期開拓のそれも尖兵である可能性が強い、か。4世紀頃に、のちアラハバキとされる事象のピークがあり大化以前にほぼ完了、8世紀初頭までほそぼそ続き、その後は伝承となる。先祖代々ではないが、開拓先住代々としての合祀としての祀りが続き、縄文からも残滓として残る。のがアラハバキ。祭祀の対象の主たるものは開拓(侵略尖兵)の主と思う、いまのところ。。

↓ 


アラハバキ神への一考 投稿者:かたばみ  投稿日: 7月16日(火)19時55分26秒

東京の中里貝塚は大量の貝を加工した遺跡として有名ですが、貝の種類はハマグリとカキの2種のみといえるほど特化しています(BC2600〜BC1900頃)。
で、200年間で20万トンもの貝を加工しているのです。
1年に千トン、現代の日本人がひとりで消費する量は貝殻つきで年に10キロ程度だそうですが、その10倍を食べたとして1万人分の貝がここで加工されていたことになります。

ここには海中に打ち込まれた杭列があって、世界最古のカキの養殖をおこなっていた可能性を示しています。
(記録に残る最古のカキ養殖はBC100頃のローマ、日本ではAD1500頃)
またハマグリも大型のものだけ採取して小さいのは採っておらず、資源管理の考え方があったようです。


日本で最初に発見された東京の大森貝塚(モース、1877)からは食用にされた可能性のある人骨がでています。
4人の成人男子と3人の女か子供の手足の骨で、長さ20cm前後に切断され、筋肉を剥離した傷跡がある。
(ただし、後の発掘で発見された人骨には人為的傷はなかったらしい)
愛知県伊川津貝塚からも鋭利な道具で切られた人骨が発見され、周辺に散乱する動物の骨と同じ状況なのだそうです。

少なくとも数百年にわたって養殖を行い、資源管理もおこなっていたのなら少なくともこの期間では飢餓的状況にはなっていないことが推定できます。
だとするとこれらの骨は「生け贄」だったということになりそうです。
日本の土壌だと骨は残らない、貝塚だったから骨が残ったのであれば、はるかに多くのそういう事例があったとしておかしくありません。

人間中心ではない考え方、人間も自然界に支配されるもののひとつであって、動物を生け贄にするのも人間を生け贄にするのも大差のないことだったのではないかと思います。
ただし、家族とか仲間意識を乗り越えねばなりませんから、人間は神々に対しての最高の生け贄となります。


古代ヨーロッパ大陸は大森林で、その先住者ケルト人も森の民でありオークなどの木々を神聖視しています。
そこから登場したドルイド祭祀でも人間を生け贄にしています。
後にローマとともにキリスト教が進出しますがこちらは人間中心の考え方で、徹底的にドルイドを弾圧し、農地開拓のためにヨーロッパの森は消えてゆきます。
(BC2000ころまでのギリシャや中近東では多神でしたが、大地の乾燥化に平行して天候を司るバール神などへの比重が高まりついには唯一神が登場する、ゼウスも雷と嵐の神です)


常陸国風土記に以下の話が書かれています。
箭括ヤハズの民の麻多智が葦原を切り払い開墾して新しい田を作っていると、「夜刀神」が現れて開墾の妨害をした。
麻多智は怒って夜刀神と戦い、山の登り口まで夜刀神を追い払い、そこから上を神の居所として永遠に祀り敬うことを約し、代わりに祟らず恨まないことを願った。
夜刀神は蛇体で頭に角がある、とあります。

禁断の山とか池といった概念の源がここにあり、幸いにも砂漠化はしなかった日本での人間と自然界とのありようを示す話だと思います。
アラハバキ神も縄文から弥生〜古墳時代の流れの中で変化していった縄文の自然神のひとりであろうと考えています。

かたばみ


葦原##の 投稿者:D.K  投稿日: 7月15日(月)23時24分13秒

辺りを分析して見ると・・・バレちゃいますね、せっかくの大ネタが。


re:暗号 投稿者:s_tan  投稿日: 7月13日(土)20時55分20秒

>アラハバキの正体も何とはなしに掴めました。
#これはすごいですね、どんな正体でしょうか。特定できずにいます。
それらしき共通する暗号とは何で何を表しているのか、ご教授ください。


太陽の鳥 投稿者:D.K  投稿日: 7月 9日(火)01時38分25秒

 一尺坊・三尺坊、少名彦那神を暗示させる物がありますが、
実際に小さかったのかどうかは一尺では余りではないですか?
烏天狗・烏は太陽黒点との絡みが指摘され三十三観音、阿波姫、
岩井寺等を併せるとそれらしき暗号が一通り揃いますね。
因みに大国主命は個人ではなくニギハヤヒノミコトも暗号として
隠されている感じですが、この辺りを色々と探っていって
アラハバキの正体も何とはなしに掴めました。

 古事記とギリシャ神話が非常に類似していると言われていますが、
某HPを見てメールを入れても返って来ないし更新も無いので
仕方無しに自分で分析をしていったら出るわ出るわ。古代史上の
謎とされる物まで核心に迫る分析が出来たのは驚きで、更に裏読みを
すると聖書以前のシュメール神話等の神々や縄文の神々の姿も
わかりそうな感じです。一通りは出来ていますが、纏めるのが
大変で・・・古代史絡みの足がかりが無いとトンデモになりかねない
解釈の部分もあるので、そそくさと脚を運んでいます。それにしても
イスラエルの一神教対立は古代史の謎解きをしていくとナンセンスな
気がしますが、個人的には聖書の神がすげ代わった暗号等も・・・

http://member.nifty.ne.jp/greatnoon/index.htm


預言と言うか 投稿者:D.K  投稿日: 7月 3日(水)23時31分16秒

暗号ですけど。

天武天皇が古事記の編纂を命じましたが、死後、天智側の系統に代わってから
太安万侶によって編纂されて表に出てきたので・・・天武側には役小角達が
荷担したようで、縄文の正当な史実を書きかえられた可能性は結構あって、
裏読みすれば結構見えてきますよね。日本書紀と古事記では同時代なのに
内容が違うのは・・・ほぼ見当はついてますが。

33も多聞神社の絡みがありそうですが、ニギハヤヒノミコトは三十二神を
従え天孫降臨をしたそうで、32+1で33、この33には結構色々な
意味があるようで。伊勢で元来祭られていたのはニギハヤヒであり、
古来の天照大神はニギハヤヒではなかったかとも言われていますが、
岩戸隠れ、岩戸開き神話に色々と関係が存在していそうな暗号です。
古事記の裏読みをするとニギハヤヒが複数の名前で語られている
感じですが岩戸隠れ神話が古代の何を意味しているか、大体の
見当はついたんですが。答え合せのしようが無いのが難点です。

岩井寺は何とも調べ様がないんですが、秋葉関係の可睡斎は
メールが帰ってきてちょっとチェックを入れています。


re:予言 投稿者:s_tan  投稿日: 7月 3日(水)23時01分09秒

預言としての見方ですか。33と言うのは単純に耳なのですか?。
「###」これが全く見当つきません、詳しくご教授ください。あと岩井寺の創建時期などの類、お分かりではないでしょうか。

閑話休題、別話題
ベーシスト・レイブラウン、ホテルの部屋に公演の時間が、と知らせにいったら亡くなっていた。と、間違えてゲストブックに書いてしまった。まーいいか
痩せた時のレイも良かったが太った時もよかった、暫らくレコードなど聴いて追悼しよう。


豊聡耳命 投稿者:D.K  投稿日: 7月 2日(火)23時20分53秒

 聖徳太子、大勢の話を一度に聞ける、耳に纏わる話があります。
千の耳と万の目を持つナンタラで観音も音・観る。弥勒菩薩も
こんな感じの説明があって、如何にも未来預言をしたとされる
聖徳太子に纏わる内容としてはかなり臭う!推古天皇は
オワリダの暗号があってナント推古天皇の別名は豊御炊屋姫、
ニギハヤヒノミコトが長脛彦の娘君のミカシギヤヒメを娶った
暗号が!!!因みに猿田彦神=ニギハヤヒノミコトの可能性、
記述でこれらに纏わる関連性が色々とあるんです。天照国照
ですし、目や耳の記述も含め。古事記を預言書とする説から
するとかなり暗号めいてますね。

 東に岩、手力男と言えば岩戸開きですが三十三との関わりは
###でしょうね。古代の何かを暗号として残すやり方は、
浜北方面でも結構見られるようです。

↓ 


岩井寺、曼荼羅 投稿者:s_tan  投稿日: 7月 2日(火)22時11分54秒

岩井寺は「がんしょうじ」と訓むのですか。創建造立はいつ頃なのでしょう、遠江観音三十三番ができたのは新しそうな気がするのですが。。33の数の意味は全く見当がつかないです、よろしく。
東に岩の推測は、伊豆のソレに岩の付く山があり手力男を祀る神社があるから、でなんとなく^^。

>iroha-utaさん
>今日は。少しづつですが、アップを始めました。
#これから拝見します。少しづつ・・。のんびりお待ちしてます^^。


曼荼羅の旅 投稿者:iroha-uta  投稿日: 7月 2日(火)09時12分24秒

今日は。少しづつですが、アップを始めました。
いざやってみると、大変です,,,
レスも出来なくて、申し訳ありません。。。
言葉を添えていただければ、嬉しいです。

http://homepage2.nifty.com/iroha-uta/


おお! 投稿者:D.K  投稿日: 7月 2日(火)00時20分26秒

 岩井寺(がんしょうじ)、遠江観音は三十三しかないようで、やはり33には
暗号が隠されているのか。

 33の暗号に関しては、推古天皇が三十三番目の天皇で聖徳太子が摂政を
やっていますが、この推古天皇に纏わる暗号が存在するようです。やはり岩・
闇には特別な暗号が存在するようですね。もうピンと来ますよね、ここまで
書けば。

http://www.kimura-product.co.jp/kannon7/totumi33/totumi.htm


一尺坊 投稿者:D.K  投稿日: 7月 1日(月)22時47分39秒

 粟ヶ岳の観音堂には一尺坊が祭られているそうですが、
三尺や一尺、観音等、ヒントが散りばめられているようで。

 何故東に岩がつく寺がある推理が出来たのかの根拠が
知りたいものですが、33と言えば###の絡みで、
阿波姫と併せて考えると非常に面白い推理が出来そうです。


岩井寺、鳥 投稿者:s_tan  投稿日: 7月 1日(月)21時34分02秒

岩井寺ですか、イワヒでは無さそうかな。観音・補陀落なのか、どんな伝えがあるのか。
ちょっと検索したのですが、掛川あたりは色々な名を持つ札所めぐりがあるのですね。岩井寺は遠江観音三十三番の33でした。

鳥・カルラ、西域のにおいですね、西晋から唐までは僻地担当の軍人が覇権を握るのが多いから西方を愛でるのも当り前か、珍しさなのか郷愁なのか血のなせる業か。 まあ大陸の半分ほどは外国からの流れだったみたい。さらに溯るとほぼ全員なのかも。



岩井寺 投稿者:D.K  投稿日: 6月30日(日)00時20分05秒

 小笠山から孵る途中にナンタラ33番の
岩井寺があって覗いて見ましたが、石仏が
幾つかあっただけで特別関心を引くものが
なかったので帰って来ましたが。

 耳に関してはひょっとしたら33の暗号が
入っているのか、岩関係に意味があるなら
何かあるかもしれませんね。


re:小笠山 投稿者:かたばみ  投稿日: 6月29日(土)19時40分47秒

≫鳥の顔をしています

伎楽復元のために野村万之丞という狂言師の方がアジア各地の舞楽や面の探査をするTV番組をやっていました。
そのHPの面が面白いです(新伎楽の面)。
シルクロード系の流れとインド東南アジア系の流れが合流しているように見えます。

「治道」はその性格が猿田彦伝承がぴったり重なりそう。
すなわち猿田彦の容貌や道祖神的性格は奈良飛鳥時代に形成されたのではないかなあ。
神仏習合ではないけれど、古来の猿田彦伝承がこれらの面によってイメージとして具体化されているのではなかろうか。

カラス天狗もいます(迦楼羅)。カルラ→「カ(ル)ラス」の関係は?(^^;
大鼻もいます。TVではそっくりな人を写していて笑ってしまいました。
面の大半が「大耳」なのでそういう人物の登場を期待していたのですがでてこなかった。

しかし呉公の面も大耳なので、少なくともこの頃ではそういう特徴が残っていたのではないかなあ。
(神武にもその系譜が流れる、たぶん)

かたばみ

↓ 


re:小笠山 投稿者:s_tan  投稿日: 6月28日(金)23時22分09秒

多聞神社ですか、開聞を連想しますね。
鳥の顔をした天狗さんと言うと、小天狗・烏天狗でしょうか。鳥というと呉・楚を連想しますが。
近所、特に東に岩・磐・闇などの名の付く社寺はありませんか。大型古墳の多い磐田台地・天竜と大井川との間で篭陸的地形と言うこともあり、楽しそうな推理のできる素材がありそうですね。


re:曼荼羅、軸 投稿者:s_tan  投稿日: 6月28日(金)23時16分40秒

大阪、お疲れ様でした。
ご夫婦で曼荼羅を描いておられる方、なにか興味ありますね。お二人は時間がゆったり流れているのかな、とか。

>空海の請来した密教の曼荼羅は中国古代思想が根底にある、その見分けに、結界の表現をいわれました。東西軸と南北軸ということがあるのですか? 
#中国古代での東西軸、南北軸というと思い当たるのは、北の太一(北極星)と南の南都六星を結ぶ軸で(天)帝と密接で、ぐるりと廻る乗物が北斗七星。恐らくこれ以前に日が昇り沈む東西軸の概念があったのだろうと思います。交点の地を入れて五行の完成でしょうか。
陰陽でいうと北と西は陰、東と南は陽ですからそれが接する北東から南西の軸線(境界線)を曖昧にする為に少しずらした鬼門と裏鬼門の軸を設定したのではないでしょうか。この軸は特に裏鬼門は弱った太陽(冬至)が沈む(最衰)方向というのが関り深いとも思います。南北東西の軸は星と太陽ですね。

>扉を描かない赤い社の意味・・・。
これも面白そうですね、ぜひお教え下さい。
「生かせいのちhp」で発表されましたら、お手数ですがご連絡おねがいします。


小笠山 投稿者:D.K  投稿日: 6月28日(金)22時23分49秒

 小笠山の多聞神社、不思議なところですね。
天狗の絵が貼ってありますが、鼻が長くて
羽を生やしている異人のイメージではなくて
鳥の顔をしています。

 更には秋葉三尺坊を含めた四人(?)の
天狗が集まっている絵が貼ってあるのは
アラハバキの関連性があるのかどうか。


大阪へ行ってきました。 投稿者:iroha-uta  投稿日: 6月27日(木)09時06分32秒

今日は。曼荼羅の勉強会が大阪で開かれ行ってきました。講師はご夫婦で大きな曼荼羅を描いてらっしゃる方で、ご夫婦のお話しのほうが、なんだか面白い〜、和やかな時を過ごしました。
空海の請来した密教の曼荼羅は中国古代思想が根底にある、その見分けに、結界の表現をいわれました。東西軸と南北軸ということがあるのですか? その思想の歴史の変わり目の話。扉を描かない赤い社の意味も。また実際に曼荼羅を描く材料云々。また浄土教の曼荼羅が奈良時代に日本へ伝わっていたそうです,,,

広大な曼荼羅旅行を3時間強の時間で。とてもとても追いつけませんが、でも、これまで難しく受け止めていた宗教の言葉も、ご夫婦お二人の姿で自然と教えていただいたように思いました。

私も与えられたことと、ここ何ヶ月かの勉強なので、きっちりと内容を理解することが出来ませんでしたが、生活の中に身近に使われる言葉の中にも曼荼羅の言葉が使われてきていることを中心に、わかりやすく説明されました。ずっと奥には古代の世界が広がることを教え示していただき、ありがたく機会をいただけたことと思い、今度は私方ホームページ掲示板でお話しの内容を紹介して行こうと思います。

http://homepage2.nifty.com/iroha-uta/


re:三島、曼荼羅 投稿者:s_tan  投稿日: 6月25日(火)23時22分05秒

DKさん
古代の人は、海の幸も田畑も、もちろん山の幸も、その源である山が大切と言う事をよく知って大事にしたのでしょうね。少なくとも明治以前までは。
小笠山と粟ヶ岳は両者で重要な山あてのような気がします。伊豆の「おがさ」は「遠笠山」と漢字をあてるのも面白い所。
粟ヶ岳は頂上付近まで車で登れるのですか。

iroha-utaさん
曼荼羅についての初心者向けの御教示を「いろは歌」さんのhpでぜひお願いします。宗教とは縁がないのですが、特にこの10年ばかりの政界・官僚の世界を見るにつけ、組織の指導者には10年位の山岳修行を義務付けないといけない等考えてしまいます、もちろん一人で山ごもりですね。
ギリシャの哲学者も賢人の指導が最良の国家形態と言ってます、次が多数民主主義でこれは衆愚になる可能盛大、賢人の指導も永年続くと必ず腐敗すると言ってます。変らないですねヒト。

>曼荼羅は奈良時代にはまだ日本には無かった図です。また何か発見があればレポートしたいと思います。
#レポートお待ちしてます。


神仏と曼荼羅 投稿者:iroha-uta  投稿日: 6月24日(月)22時44分07秒

今日は。iroha-utaです。
明日、曼荼羅について勉強会がありまして、大阪へ出向きます。

>かたばみさん
玄賓僧都が神仏習合についてすでに考えていたとのご意見をお聞きして、その通りと思いました。玄賓の都を出ての山への隠遁をどう考えれば良いのかと思っていましたが、ここに来て空海とのつながりにようやく辿り着いた言葉に出会ったとホッと胸をなでおろしています。

>s_tan さん
遅くなりましたが、リンクありがとうございました。
これまでは自分の見かける範囲でしか考えることが出来なかったことが、こうしてネットでつながると不思議と学習の幅もグッと広がる思いです。神の中に仏を見、また仏の中に神を見る。今まで私の中の言葉では出なかったことに、出会えるようになりました。
曼荼羅は奈良時代にはまだ日本には無かった図です。また何か発見があればレポートしたいと思います。


三島明神 投稿者:D.K  投稿日: 6月23日(日)23時17分00秒

 掛川方面は遠いので中々調査に行っていないんですが、
三島明神は興味深いですね。加茂絡みで役小角や事代主、
大山祇神等、色々な問題の核心に迫りそうなポイントで
今まで調査が余り為されてこなかったのが何故なのかと。

 私が粟ヶ岳に登った時は神社改正中だったのでよく
チェックは入れていませんが、道路が工事中だったり
何かと登りにくい所で・・・

↓ 


re:阿波姫 投稿者:s_tan  投稿日: 6月20日(木)23時04分29秒

掛川、阿波波神社、神奈備さんありがとうございます。
DKさん、粟ヶ岳山頂の神社の南方にお寺さんはありましたか?
阿波といえば、常陸那珂郡、房総安房、伊豆阿波などありますが、これらは祭神は阿波比売ばかりではないですが阿波忌部氏にからむ伝承を持っているようです。
伊豆神津島の阿波神は三島明神の本妻ですが、この島から伊豆半島を見ますと小笠山が聳え見え、この山の東方台地には引手力男神社があります。伊豆半島には「長浜」の名を持つ神社が多いですがこれらの殆どは阿波比唐祭神としてます。
掛川南方袋井ににも小笠山がありますが、この辺りの雰囲気はどうでしょう? >DKさん


有難うございます 投稿者:D.K  投稿日: 6月20日(木)22時50分01秒

神奈備さん、有難うございます。
粟が岳に登ったんですが、イワクラが山頂にあり
古代の山岳信仰の名残を見ることが出来ますね。
色々と調べて見ると一癖有りそうなポイントなんですよ。
何故阿波の国(徳島県)絡みの神社がここにあるのか?

八重事代主命は古事記で大国主命の後釜に任命された
神ですね、国譲りの話を持ちかけられてお隠れになった。
この神話、渡来系の神がヒエラルキーを牛耳ったような
感じですが、何かしら謎がありそうな感じです。


阿波姫 投稿者:神奈備  投稿日: 6月20日(木)07時13分15秒

静岡県掛川市初馬の阿波々神社(あわわじんじゃ)の由緒書きから。
祭神の阿波比賣命(天津羽羽神)
天石戸別命の御子で八重事代主命の后神。御神徳は生産の神.子授.安産成就の神、また御山が駿河湾、遠州灘よりの目標の山として、古来漁師、船員に信仰された。

御山は粟が岳のことと思われます。山頂の林の中にに阿波姫神社があるとか。


re:神魂神社 投稿者:かたばみ  投稿日: 6月19日(水)20時04分07秒

愛うえおさん、はじめまして。

≫神魂神社の成り立ち、神皇家のこと

私の古代史の解釈の流れの中での神魂神社(カモス)の推測を若干。

国造りを終えた大穴持神の前に海から「幸魂奇魂神」が現れ、奈良の三輪山に住みたいと告げた、と書紀に書かれています。
この「幸魂奇魂神」サキミタマクシミタマが縄文から弥生への変化となる文化をもたらした人々、あるいはその文化を持つ祖先を示すものと考えています。
(海から現れ、というイメージはカノープス星ではないかと推定(^^;)

具体的にはBC2000〜BC500あたりの中国南部からの渡来者とその文化です。
(中国史書では三苗という表現で少なからず登場しますがその詳細はまだ不明)
猿田彦伝承や出雲熊野大社や宍道湖北側の佐太神社も、その影響が源になっていると考えています。
紀州の熊野も同じくで、時代のずれや影響力の大小はあっても対馬海流と黒潮を利用できる地域ではみなこの影響を受けたと考えています。
縄文と弥生の接点でもあります。

なお系図綱要/太田亮には伊弉諾伊弉冉神と同位置に5種の系譜の祖を配していて、そのひとつが「神魂尊」です。
その子孫に少彦名や紀伊国造、伊勢国造、鴨縣主、久米氏族などがあります。


神魂神社の源もこれらと同じと推定できますが、延喜式神名帳に記載がないようで正式の神社として創建されるのは平安時代以降なのかもしれません。
現在の主神は伊弉冉神(女神)のようですが、出雲国造の新嘗会祝詞には熊野大神や大己貴命等の名がみえるようです。
出雲熊野大社の御祭神が熊野大神クシミケヌ命ですから、当初は同じ神々を祀っていたのが後に伊弉冉神に置き換えられたのでしょう。

「神皇家」についてはなにも知らないので推察もできません。
やはり直接おたずねになるのが最良と思います。
もし具体的な情報を伴わないのなら、それは信仰の一部であって歴史として考えるべきではないのかもしれません。


≫出雲大社の本家の神社なのでしょうか

なにをもって「本家」というかがありますが、子孫とか弟子といった意味であるならそういう関係はないと思います。

ある村に「客人」がやってきて住み着いたならば、以前からの住人の方が主人です。
しかし、その客人がなんらかの理由で有名になったとき、他人からみればその村の「顔」は客人の方になるでしょう。
古くからの住人が、おれたちが主人なのに、と思っていても。主客が入れ替わってしまうわけです。
島根半島では出雲大社(大国主命)がその客人なのだと考えています。


かたばみ


どなたかご教授お願いします 投稿者:D.K  投稿日: 6月18日(火)23時59分46秒

阿波姫ってご存知有りませんか?
阿波国と関係有るとは思うんですが、
詳しいことが良くわかりません。


re:神魂、 投稿者:s_tan  投稿日: 6月18日(火)23時27分31秒

こんばんわ、愛うえお?さん

あの辺りは風土記の丘、政庁址なども近く散策の場所としてもいい所ですね。
神魂神社は特に調べていないのですが、昔のお上の出張所というか、今で云う県庁の施設の一部でしょう。出雲国造家の本貫の地というのが一般的です、近くは丘・山とも古墳が多い所ですね。
神皇家のことは分らないですね、神皇さんは、どう云ってましたか。


始めまして 投稿者:D.K  投稿日: 6月17日(月)23時40分14秒

神皇さん、戸籍とかどうなってるんでしょうね。
出生年月日、巧いごまかし方、教えて頂きたいものです。
自分から言ったんですか?

因みに神魂神社、個人的には余り凄い感じを受けなくて、
神社内の某所の方が価値が高いような。
出雲って北九州の鬼門方面ですね。
宇佐神宮も出雲大社も四拍手、
九鬼文献では鬼門は貴門ですが、参入側には
恐ろしい方位だとすると?


神魂(かもす)神社に参りました 投稿者:愛と誉(愛うえお)  投稿日: 6月17日(月)13時06分04秒

神皇さんという500歳のひと(?)から
かもす(?)神社にいったら
パワーをもらえるといわれ、いってきました。
神魂、松江に行ってはじめて漢字を
知りました。すごい、すごすぎる。
神魂神社の成り立ち、神皇家のこと
知っている人教えてください。
出雲大社の本家の神社なのでしょうか。