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√♪ オッチャンはどこ行く ノウエ 4  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月28日(木)13時22分21秒

 “国”の語源は「KHU(窯焼き)NI(ごと)」にも分析できます。

 小生は農民漁民猟師以外の人びとを一括して金属精錬士だと考えています。
 典型的な金属精錬士はムラゲをトップとする窯焼き職人でしょうが、小生がいう金属精錬
士には王、神官、官僚、芸人などなどもです。
 言語も文化ですが、これら金属精錬士の言語は容易に国境をこえて、地球規模で広がる傾
向が極めて濃厚だと……みています。
 ですからベトナム語でも、“越”や楚、呉の金属精錬士文化を写しているものと、安心し
てかかれるのです。

 そこでいよいよ‥‥ 
>「サカ」は「境」で「国境」=国、「サカノウエ」で「国境を看る」といった役目を田村
  麻呂の前から東漢氏の一流が担っていたのかも知れない、など思ったりしてます。
★ おらのふるさとの市、飯塚に目尾と書いて「シャカノオ」と読ませる地名があります。
 これにエデン語 je(中大兄皇子の兄)を加えるとサカノウエとほとんど変わらない。
 シャカノオの末尾の「オ」は、青春の門に登場した烏尾峠があるので、丘みたいです。
 普通は、「O =男、神」です。
 ……………………
 ここでハナシを振出しに戻して、「シャカノウ」とはナニを意味するのかを考えます。
 左官は壁塗りだし、寮の管理人も舎官と呼ばれる慣習があります。
 少し前、どんな役職だったかは知りませんが、目(サカン、シャカン)がありました。
 なぜ“目”かというと、ヒマラヤの霊峰の横ワレメが人間社会を見下ろして「見てござ 
 る」から。
 ネパール語で akha は目。これに強調接頭辞の S- がついたのが「サカ」。同じく強調接
 頭辞の N- がついたのが「ナカ(くにの一つ前の呼称)」。ナカの起源は人間の目で確認
 できるかぎりでの地上(or 海上)という意味も感じられます。./.a-ma(天・沖の先)。
 地名の「ウ(優〜大)マ(目)」も、これに N- がついた「ヌマ(沼)」も、目付けみた
いな 地方長官……を濃密に感じます。

 嵯峨天皇とかサガ野も今は結論づけることができませんので、これとの関連は考えること
 ができません。ただ、ここにはそっと「天・海(sagar)」を置いておくだけです。
 ここでサカノウエ全体をみます。中央の「ノ」は、普通の助詞でも収まるのですが、そう
 すると「ウエ」は上となり、「サカ」が上下を持つものでないと収まりがつかなくなる。
 だから、一般日本人が暗黙のうちに大脳内部でゴロ合わせするように「坂の上」となって
 しまいます。
 ナニかおかしい。上手には言えませんが、坂上二郎ではあるまいし、征夷大将軍が坂の上
 とは……隔靴掻痒……これでは正解でないと思えます。
 「境の上」でもオカシイとは思われませんか? ーーー続くーーー

※ 今朝、台湾タイヤル語を見ていましたら、「タムラ=兵隊」をみつけました。
 20世紀に入ってからですが、ネパールのゴルカ(グルカとも)兵が台湾に雇われて調練
 に来ていたことがありますので、もしかしたら、その折に流入した語彙かもしれません。
 台湾ブヌン語でしたか、こんどは「ムラタ銃」もありました。
 「ta-MULA」も「MULA-ta」同じことなんですけどね。 

※ 坂上田村麻呂が巨大な黄色の「つけあごひげ」をしていた……の情報、改めて日本民族
 を代表して熱く御礼申し上げます。
 この日本列島では黒と白二様の「カニシの強執」で、国造りが行われましたが、その白 
(hak……鶴)の前に菊の黄色での国造りがケッケムクリだったことが判ったんです。
 菊とククリの関係は『 KUMANOLIFE 掲示板』にだしましたのでアマカネね。


ミスだらけで‥‥ 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月26日(火)09時49分49秒

 先々回は行とりで大失敗。この前(下)はまちがいや、誤植だらけでんねん。
 修正のワザがなく、すみません。

* 横須賀ではなく、横浜でした。 √カンちがい、炬燵で母の 手をにぎり
* キ・ク・ケ・コ は カ・キ・ク.コ の誤り。
* gaunu は誤りで -garnu が正しい。
* ベトナム語の隙間 khe とやったは誤り、ke が正しい。

 クッキーとは煎餅みたいな紋やろかね。管理者でなくっても修正できたらハチャメチャに
ならへんやろか? 


ちょと インターバル  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月26日(火)07時54分13秒

>    一般的というか、良く見られる「スガ・スカ」の意味は、「清々しい」と
   いうのと「菅」で水辺の禾本科植物、これから鉄、できる形から「鈴」=
  「清々しい」とのニュアンスも。
★ 蘆葦と菅との関係は? 蘆(ヨシ)は「葦(アシ)」が悪しに通じるから、
  歴史の途中で変替えされた……は、ほんとうらしいですね。
  葦はナマハゲさんたちの正装。茅輪くぐり。虚空を囲む構(竹も)なので、
  あるいは柱と同様に強執の対象だった。

>  菅の繁殖する水辺とも共通してます、地名の分布する場所からすると河
    川の上流近くにも見えるので海岸近くの洲だけでなく、船着場というのが加
   味されているのかも知れません。
★ 蘆葦と区別して(……か?)、別個に菅があるのは、方言によるものか、新
  しく造語されたのか、ここの割り出しもダイジですね。
  スゲの笠とはいいますが、ヨシの笠、アシの笠とはいいませんしィ。
  スカのカは「場所」ではないかを直感します。ke がアイヌ語の場所、日本語
  ではキ・ク・ケ・コのそれぞれの単節音が場所の意味を持っています。
  フシギな SHARE ぶりです。
  むつ市の南に横須賀があります。ちょっとした砂だまりもスカと呼ぶように
  慣用化が興ったのかも……。

>  この大根には「ス」があるの空洞といった意味にとると
★ スコラ哲学と同じ SK(隙間)だと思います。有閑ボーイを集めたが学校。
  ベトナム語に khe(隙間)があるのです。この khe が日本語とかに関係ある
  のかどうか悩み多々有。なにかいい智恵ないスかね。
  
>  #サ行=鉄関係、は真弓氏などかなりおられるようです。ムラガル=ムレム
  レ・ガルガルと同じでムレ・ムラ族とガル使用族がムラガッテできた言葉
  だったり^^。
★ 「群れ」は現代朝鮮語にも同根がありますね。これとネパール語の MUL(水
  源・長)とは同根ではないか……と、ヤブニラミちゅうです。
  「村」の場合は、まちがいなく from MUL だと思われます。
  「××がる」は、ネパール語 gaunu(××する)と同根だと思われます。
  それも、「××したがる」という意欲がらみです。

>  #スワ=神、とすると、ミ=尊敬する、でしょうか。
★ “神”は概念構成のうえで最大の結節ですので、解釈にあたっては多用した
  くない、イヤなことばです。「それは神だ」といえば、なんでもかんでも収
  まりがついちゃうんですね。
  ことばが発達してくると、凄ぇ量の神を謂う語彙が砂だまり式に出ます。
  mi も神と置きたいところです。アイヌの始祖のオキクルミの末尾は、明ら
  かに“神”です。でも、その mi は起源的には女陰だと思われるのですが…
  …、あ、女陰も大きな結節デシタ。 /. me(ワレメちゃん)。

> とすると、ネパール語が普及(使われた)した範囲は諏訪社のある、かなり
  限られた範囲という可能性が強くなりますが(中世以前)。さてどう捉えよ
  うか。。、
★ 遮光器土偶文化はネパール語的なインド文化だと睨んでいます。
  「かなり限られた地域」だけなら、とても処理が容易なんですけど。
  安東・安藤さん、安曇さん、安堵地名が広がっているかぎり……すなわち日
  本じゅうが、少なくとも3000年前からネパール語的でした。
  こんな現象見せつけられたので、おれ、キチガイざんまいです。ネが正常で
  あればこそ……。
  「ざんまい」もネパール語で、サンスクリット語流入以前からと言えます。

<  言葉は生きもの、ですから難しいですね。今となっては特異な意味をもつ言
  葉を源の国・民族毎に纏めて、残存する地域を洗い出すなど、状況証拠を量
  として重ねるなど必要ですね。
★ 氏族語を対比させるのが本筋ですが、世界じゅうが国だらけになった現代で
  は、それは望めません。3ヶ国語以上に亘る同根語彙の分布把握が、当面の
  作業かと……、デス。
  キチガイになったら「気がとおくなるような作業」でも、拒絶反応はおこり
  ません。超メチャたのしいです。
  
  現代の青年たちは宇宙人みたいな重装備をしてヤマメ釣りに渓流に入りま
  す。そして異口同音に「いいところは、みんな先輩たちが釣っちまって…
  …」と、ボヤきます。


イヤ、サカ、 投稿者:tan  投稿日:11月25日(月)23時30分46秒

「イヤ」は増幅作用ですか、アイヌ語ネパール語の使い方が普及しているのですね。
イヤよ・イ〜よ、も関連してる? ^^。 「ノウエ」は「ノ〜エ」節、だったり。

一般的というか、良く見られる「スガ・スカ」の意味は、「清々しい」というのと「菅」で水辺の禾本科植物、これから鉄、できる形から「鈴」=「清々しい」とのニュアンスも。

>「スカ」は長くて大きな川の砂だまり‥‥だった、デシタカ。
#以前この掲示板でありました。菅の繁殖する水辺とも共通してます、地名の分布する場所からすると河川の上流近くにも見えるので海岸近くの洲だけでなく、船着場というのが加味されているのかも知れません。
この大根には「ス」があるの空洞といった意味にとると、菅、鈴、ちとこじつけで港も、その範疇に入るのかも、この場合の「カ」は、あまり加工しなくても湊として使えるカ。

>これに従うと、SU GHAR は「鉄族」になります。GHAR はまず、家柄とか・・
#サ行=鉄関係、は真弓氏などかなりおられるようです。ムラガル=ムレムレ・ガルガルと同じでムレ・ムラ族とガル使用族がムラガッテできた言葉だったり^^。

>尊敬する坊さ  んをスワミ・・
#スワ=神、とすると、ミ=尊敬する、でしょうか。
 とすると、ネパール語が普及(使われた)した範囲は諏訪社のある、かなり限られた範囲という可能性が強くなりますが(中世以前)。さてどう捉えようか。。、

言葉は生きもの、ですから難しいですね。今となっては特異な意味をもつ言葉を源の国・民族毎に纏めて、残存する地域を洗い出すなど、状況証拠を量として重ねるなど必要ですね。

 


√♪ オッチャンは どこ行く ノウエ 3  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月25日(月)20時53分23秒

 書き落としていました。 sak がどうして saka となるのか……です。
 小生はあたまがわるいので、これをパーリ語的開音(母音-Aづけ)と呼んでいます。ネパール語を見たあとパーリ語やサンスクリット語をみると、ネパール語・ヒンディー語では子音終わりだった語彙末尾に、やたらに -A がくっついていて、しかも意味は変わらないという現象が目立ちます。
 これはお経を発声するときにできた、ただのクセってぇ紋でしょう。
 これが母音終わりを特徴とし始めた日本語造語期に歓迎された……としか考えられません。
 アイヌ語にも -A の語彙が多く見られます。これは日本語から流入したときの借用証文かもしれません。

> 「須賀」にからんでというか対応して、「須波、スハ」というのがあるので  すが、これはどういった意味になるでしょう。
    「須波」=文献に載る諏訪大社の古い表記に使われているですが、
★ 従来の学者の解釈で、「須賀」はどう理解されているのでしょうか?
  日本語内部だけでの変化態から語幹が掴める場合もあります。
  こんなことを書くと、こころもとない限りでしょうが、ウソついたら、もっ  とイケナイです。
  小生は“石”も“岩”も“砂”も、その語源がわかりません。
  「スカ」は長くて大きな川の砂だまり‥‥だった、デシタカ。

  とにかく、金属精錬ではカナヅチ持ってきて岩を砕くんですよね。それが川  に流れた跡には膨大な量の砂だまりが出現するとか‥‥。
  ネパール語 PISH 、ベトナム語 TAN 、日本語<中東;HATA を捕まえてい  ますが、そいつらはここでは主人の思惑どおりには機能しないようです。
  あ、これらは「こなごなにする」という意味です。 ITAN はアイヌ語で槌。

  朝鮮語 サシスセソは、みんなこれ鉄だとおっしゃる研究者がいるそうです。
   これはネパール語 siu(針)、シナ語 SI YUU(製鉄の神)と無関係ではない  筈です。
  これに従うと、SU GHAR は「鉄族」になります。GHAR はまず、家柄とか   血統を意識しての「人びと」です。ネパール語では「家」ですが、吉野ガリ  なんかではガリは「街角」です。
  ヤツガレ、シンガリ、アシ(ウマ)ガル(足軽)の GAR はここから発達、造  語されたものと、オレ、断を下しました。

  SUWA はまちがいなく、ネパール語 ISWAL(神)が直です。尊敬する坊さ  んをスワミって言うでしょ、アレです。
  時間経過のなかで、日本語(?)らしくスワをスハと、誰か偉いひとは言 
  い、それをたいして偉くないひとが正直に受けて書き遺した‥‥ということ  があったかもしれません。
  その場合、偉くないひとの脳裡に浮んだものは「HA=ひと」だったと思いま  す。
  現代のネパール語で BADSAHA は王ですが、日本語には BADSA までが  チョン切れて入ってきて、これが hatsuse(初瀬)になっています。


DNAと日本人6 投稿者:かたばみ  投稿日:11月25日(月)00時44分49秒

アジア人にはDNAの一部(9塩基)が欠失している特徴があるそうです。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/dna11.gif

欠失を持つ人の多い地域が濃い青です。
ポリネシアとニュージーランドでは100%近くの人々がこの欠失をもつそうで、ラピタ文化(BC1500頃以降)の範囲とぴたり重なってきます。
日本、中国、東南アジアの人々の場合はおおよそ30%ほどがこの特徴を持ち、オーストラリアとニューギニア高地にはこの欠失がありません。

欠失を持つのはグループTだけなのだそうで、「東シナ海へ南下したユーラシアン」の一部にこの欠失が出現して後にモンゴロイドとなって周囲に拡散した、そんな推定ができるでしょう。
それが、ラピタ文化の人々と同じとみるならその年代はBC2000以降となります。
(なぜその欠失が出現したのか・・オーシャノイドでもユーラシアンでもない存在があった可能性もある)

広大な範囲に拡散していますから海洋も得意にする人々でしょう。
ラピタ文化と重なるとすれば、BC2000頃に長江の洪水で滅亡した良渚文化の人々が有力候補となります。
中国史書の尭舜禹時代に登場する三苗、それがこの欠失を持つ人々だったのではなかろうか。
後の黄河文化圏からは悪役扱いをされていますが、後の中国の南方系文化の源流になったとみえる人々。

ニューギニア以東では先住人口が少なく、また後の混血もなかったために欠失をもつ形質が100%近くで残ったのではないか。
容姿もミクロネシアやメラネシアとは異なってモンゴロイドに近い。
ポリネシアの人々は大柄ですが、中国南部には三苗伝承と同時代に防風氏という巨人族伝承があります。

BC2000以降の寒冷化で衰退していた西日本や朝鮮半島に新文化(焼畑や水稲など)をもたらした人々で、猿田彦や少彦名伝承はこの人々の渡来を伝えるものではないかと考えています。

タイ北部のノンノクタ遺跡やバンチェン遺跡などではBC2000〜1000頃から青銅生産が始まります。
殷の青銅器と同時代です。
これも長江文明滅亡から周辺に散った人々によって開始されたと考えることができます。


タイ東北部のバンドンブロン遺跡では鉄生産がBC300〜BC200頃に始まっています。
粒状水酸化鉄を炭で直接還元する製鉄法であることが出土物から判明しています。
粒状水酸化鉄は粘土粒に水酸化鉄が皮膜を作ったものでタイ東北部に無尽蔵にあります。
粒状の原料を炭で直接還元する手法はタタラの砂鉄製鉄と同じ。

水酸化鉄が凝集したもの、これが褐鉄鉱です。
平成3年に長野県飯田市で発見された褐鉄鉱(鬼板)で9回の実証実験がおこなわれ、小刀を作ることに成功しています(伊那史学会)。
弥生にバンドンブロンの製鉄と同系の製鉄法が存在し、後に原料を砂鉄に置き換えたものがタタラ製鉄なのではなかろうか。

9塩基欠失の人々はBC2000以降のアジア情勢の重要なキーワードになると考えています。

続く


 遮光器土偶 文化 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月23日(土)18時52分27秒

 オッ・オッ・オ‥‥
 姐さン、サンナイ・丸山を崩したなァ遮光器土偶文化じゃないだろうか??


 √♪ オッチャンはどこ行く ノウエ 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月23日(土)18時30分53秒

 そういう次第で、まだまだ当たらねばならない言語が山積しています。ですか
ら、小生のほうから乗りまくって喋ることは、まぁまぁの自信があるところです
が、ヒョイと質問されることは「当たらずとも近かからず」が多いです。

> 「イヤサカ」などと繋がりはあるのでしょうか。
★  すでに申しあげたかと思いますが、対比した言語種によっては、200も
  の類似語彙を吐き出すかと思えば、ヘブライ語の如きは30ぐらいしか類似
  語は出てきません(日ユ同祖論はウソッパチです)。
   大野晋教授はタミル語とのあいだに350ペアの類似語彙を揚げられまし
  たが、日本語はネパール語とのあいだに1200ペアの、アイヌ語とのあい
  だには460ペアの類似語彙が認められるのです。
   このように、言語間の親疎は文法統語には関係なく(言語系統樹にも関係
  なく)、類似語彙の絶対数で把握できます。

  そこで日本人には分っているつもりの「イヤ(弥)」ですが、これはアイヌ
  語 iya , iyo に認められ、ネパール語は illo です。意味は「前置された名詞
  の傾向がますます盛ん」です。アレッ、コングラがるかナ?

  サカ……、これも日本人には「栄える」で、わかりきったことじゃないかと
  思える語彙ですが、ではサカエルの語源とはナンぞやと、開き直られると
  タァジタジ……ですよね。

  「栄える」の語源にはネパール語 sak(できる、可能な)があることと、日
  本古代語に sak(開く、拓く)があったことは確かです……と、ここまでは
  言うことができます。
   でも「sak(拓く)」が、ナニ語なのかは、いまのところ、分りません。

 なかなか「ノウエ」までには行かないようですネ。 

 


ガンダーラ 投稿者:かたばみ  投稿日:11月23日(土)17時40分21秒

とおるさん、はじめまして。

≫「健駄羅式」の建築様式を見ることの出来る歴史的建造物ってご存知ですか

ガンダーラ様式の仏像彫刻はたいへん有名ですが、私も建築様式についてはなにも知りません。
ここに若干の写真があります。

この地域の旅行記を中国僧が書いていまして健陀羅国、乾陀羅国、とも書きます。
ガンダーラ国の一帯ははるか紀元前から東西南北いろいろな文化と人が激しく行き来した地域で、アショカ王(BC268-232)の子が建国者とされています。
(王がそうなのであって国民はいろんな人が含まれていたはず)

上野の東京国立博物館で12月15日までパキスタン・ガンダーラ彫刻展とインド・マトゥラー彫刻展をやってます。
(マトゥラーはガンダーラのお隣でほとんど同類、おそらくは広隆寺などの摩多羅神の故郷)


北海道の縄文 投稿者:かたばみ  投稿日:11月23日(土)17時37分38秒

≫北海道千歳(支笏)を中心とした陸繋島文化が見られること

礼文島と洞爺湖付近を季節移動していたとみられる縄文人が発見されています。
抜歯風習は部族によって異なるのですが礼文島の骨と洞爺湖(噴火湾)の骨の抜歯が同じなのだそうです。
温泉にもつかっていたんじゃないかなあ。

礼文島からアシカやトドの骨が発見されるのに、冬やってくるアザラシの骨が発見されていないことからも、冬には暖かい南へ移動していたと推定されてます。

三内丸山から出土する魚の骨はいろいろありますが暖流系の魚がたくさんでます。
ブリの骨が大量に出土するのにサケの骨は少く、サケは北海道側からの輸入品だったのかもしれません。
黒潮が現在より北上していて苫小牧沖あたりに好漁場が存在した可能性があります。

礼文島から舟で南下した縄文人が小樽あたりで上陸し、苫小牧あたりで冬を過ごして三内丸山などと交易していたんじゃないかな。
苫小牧市東部にBC2000頃の静川遺跡があります。おそらくは日本最古の環壕を持つ遺跡。
温暖適応の縄文人はそのあたりまで定住(縄文化)したがその後の寒冷化で立ち去り、再び寒冷適応文化が南下しはじめて縄文にかぶさっていったのでしょう。
(三内丸山も消えます)

それらをつなぐ系路上に縄文文化が定着するのは必然となるわけですが、他の分野からもそれが見えるなら(^^)です。


馬は温暖に適応した動物。
北海道では雪中で木の皮を食べるとか冬眠できる動物でないと冬は越せないと思います。
北海道の馬は松前藩ができてから南部馬が移入された、とされるようで賛成です。
明治維新で飼い主が消えた後にかろうじて生き残っていたのがドサンコの祖先じゃないかな。


√♪ オッチャンはどこ行くノウエ 1  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月23日(土)08時54分06秒

TAN さんの姿勢にことばへの「本腰」が感じられ、紋チャンうれしき限りです。

 とはいえ、おらはナンにも知りません。考えてみたら生まれてこのかた68年
しか経っていないんです。こんな古代語は、300年も500年もかける気持で
みんなで攻め落とすべき領域事だと思います。
 ですが、「言語はむずかしい」といって日本言語学者たちは、紀記解釈などは
本居宣長がやっただけで、明治の開花以来、だれもやってなかったと言っても過
言で無い状況が続いてきたのです。
 底辺を形成するシロートまでが「言語はむずかしい」といって放りだしたら、
もうオシマイです。そのシロートの迷妄発言を圧殺しようとするヘナチョコリン
言語学者がいたとするなら、そいつはミンチにしてブタに食わせたがいい。
 
 ですがパソコン時代です。おらはキカイ・オンチのため、ほとんど活用できな
い現状ですが、恥かきながら悪戦苦闘をやっていくうちに、なにか“まっとう臭
い”方法論の幾つかは出てくる……と、猪突猛進です。
 まぁまぁのところで、言語理論や処理方法論さえ掴むことができたら、あと
20年もしないうちに、底辺からの突き上げで、言語考古学が盛り上がってくる
ものと思っています。
 
 しかし、一方では多くの言語を知れば知るほど、行き詰まりも見えてきます。
たとえば「古代語で“ト”とはどういう意味か」と、“ト”を単独に取り出して
その意味を問うときなどでは、もうお手あげです。
 日本には「トトト」とトが三つも連なる音を持つ神様が坐しますが、現状では
よほどのヒントがないかぎりお手あげです。
 いちいち数えると“ト”には17ぐらいの意味が付着してるみたいです。

http://www.you-i.org


サカ、、 投稿者:tan  投稿日:11月22日(金)21時44分05秒

紋次郎さん
「タカムナサカ(胸の厚み)」。こういった古代語があったのですか、「イヤサカ」などと繋がりはあるのでしょうか。
「サカ」は「境」で「国境」=国、「サカノウエ」で「国境を看る」といった役目を田村麻呂の前から東漢氏の一流が担っていたのかも知れない、など思ったりしてます。
監視といえば、当然、軍部ともつながりますね。

ところで、昔の話ですが、
「須賀」にからんでというか対応して、「須波、スハ」というのがあるのですが、これはどういった意味になるでしょう。
「須波」=文献に載る諏訪大社の古い表記に使われているですが、


re:初めまして 投稿者:tan  投稿日:11月22日(金)21時39分34秒

とおるさん こんばんわ、

「ガンダーラ」ですか、大月氏とも関連ある地ですね。建築様式を追ったことがありませんので該当建造物の所在は不明です。
仏像、弥勒などには、よくその影響があると云われてますね。


初めまして 投稿者:とおる  投稿日:11月22日(金)00時00分19秒

とおると申します。
なんだかすごいですね…歴史は積み重なる、がホームページになったらこんな感じなんですね。読めない漢字がいっぱいです。
初めて来てなんですが、「健駄羅式」の建築様式を見ることの出来る歴史的建造物ってご存知ですか?それ以前に健駄羅式ってなんでしょう…。
ご存知の方があったら教えてください!


月の輪ぐまの白いマフラー地帯  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月20日(水)16時00分02秒

かたばみさん、まいど精密資料と地図、ド感謝です。
 なかでも、4000年前の、北海道千歳(支笏)を中心とした陸繋島文化が見られること
には感激です。ここにどういう人種がいたんでしょうね。深々興味です。
 ここは日本列島最大規模の陸繋島部で、前々から注目してきました。
 こういう高文化地帯が続いて在って来たので、アイヌ語の統一性が実現したのでしょう。
 ここの資料は奈辺から得られしものなりや? 

 20000年前は完全に樺太と繋がっていたんですね。
 またウマですが、日高で野生ウマが5〜6頭しかみつからなかった……という事実と、元と
戦った骨嵬軍のことを、実感できます。上陸した元軍がかっさらって持って行ったのかもしれ
ませんけど。

 TANさん、あれ以来「タカムナサカ(胸の厚み)」という古代語をボヤァ〜っと考えて
います。これも不思議な造語法による語彙です。この場合の「サカ」は“尺”か……?
 坂の上の sakha は「部門」です。sakha といえば、「ああ、あの軍部か」みたいな
常識が定着していたのではないでしょうか。

http://www.you-i.org

 


DNAと日本人5 投稿者:かたばみ  投稿日:11月20日(水)00時27分25秒

中国人66人、琉球人50人、韓国人64人、本土日本人62人、アイヌ51人のDNA分析結果の概要がDNA人類進化学にあります。
中国人では66人中の固有タイプは54種、共通タイプは4種。
琉球人では50人中 〃     40種、 〃    4種。
韓国人では64人中 〃     36種  〃   13種。
本土日本人では62人中  〃  41種  〃   12種。
アイヌ人では 51人中  〃  18種  〃    7種。

詳細データはありませんが日本人登場への重要なヒントです。

中国人では8割が異なるDNAタイプで、複雑な混血が多かったことを示すものと思います。
対してアイヌでは異なるDNAタイプが3割で18種しかありません。
他のタイプが消滅してしまったためかもしれませんが、もともと混血が少なかったとも考えられます。
本土日本人と韓国人はその中間的な様相を示しています。


まず日本全土にユーラシアンありき。
温暖化による南方系の人々の渡来と北上で本土は縄文化してゆきます。
東アジアのモンゴロイド参照)

大陸モンゴロイドが拡大してアメリカ大陸へ渡ったとき(BC8000頃)、北海道は海で切り離されてその影響を受けません。
縄文が北上し、北海道に達した頃に温暖化が終わります(BC2000頃)。
北海道の縄文化もそこで停止し混血も停止した。

樺太では後にオホーツク系の影響を受け、千島などではアリュート系の影響を受けたと思いますが、微妙なバランスポイントに最古のユーラシアンの系譜(グループT)が北海道に濃く残る可能性があります。
これがアイヌの祖先だと考えています(アメリカのケネウイックマンと近縁ともなる)。
アイヌの祖推定図参照(アニメ)


沖縄での分析ではグループTに含まれる人々はわずかに5%だったそうです。
沖縄にユーラシアンが達するには相当な距離の海を渡らねばなりません。
内陸の人々にその可能性は少ないでしょう。
湊川人はBC16000ですから最初期に登場した海洋系(沿岸系)のモンゴロイドであろうと考えています。

沖縄は中国に次いで異なるDNA系譜をもつ人々が多い。
大陸での文化が発達してからその人々と文化の影響(渡来)を多く受けたためだと推定できます。
湊川人と現在の沖縄人との関係はそれほど近くはない、そう予測しておきます。


日本全土に内陸系(北方系)のユーラシアンがまずあった、これが日本人の第1基層(人口は少ない)。
これに海洋系(オーシャノイド)の文化と人々が入って縄文が登場する。
日本海に暖流が流れ込んで日本は多雪気候となり落葉広葉樹が大発達し、そこから得られる豊富な食料で東日本の縄文人口は激増する。これが第2基層です。

その後、沖縄や本土の沿岸地域では東南アジアや東シナ海沿岸の人々の影響をうけて第3基層が生じた。
より複雑なDNA構成をもつ人々です。
縄文文化は狩猟のユーラシアンと海洋系オーシャノイドの複合文化、大陸のモンゴロイドと似てはいても異なる文化が登場した。

中国大陸沿岸域は古長江と古黄河による広大な洪積平野です。
BC7000頃には稲の痕跡のある土器が発見されており、BC4000頃の長江周辺に象やサイが生息しています。
長江流域では河姆渡文化や稲の登場、黄河流域では仰韶文化があって、こちらではアワとキビが発見されています(麦はまだない)。

BC15000以降の温暖化によって文化と人の栄える位置=最適環境の位置は北緯30度前後の大河川流域にシフトしていった。
中央アジアの大森林は大草原へ変身中、狩猟と農耕が合体して遊牧文化が登場する。
対してBC6000〜3000頃の最温暖期では東南アジアは熱帯雨林化してその文化は衰退していったと思われます。


以後は各文明間の抗争や交流によって男性だけによる混血も増えるでしょう。
日本では弥生時代の始まりです。
中央アジアでは馬を用いて東西の移動も盛んになってゆく。

そうなると母系しかつかめない現在のDNA分析だけでは空想もむずかしい。
男性だけに伝わるY染色体のDNA分析の進展を待つところです。

続く


黄布のラン 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月17日(日)12時14分40秒

TANさん、稠密資料あがあが。
 このあと、ゆっくり見させていただきます。

 おれんとこには密教・仏教にあかるい加藤喜八郎さんが遊びに来てくれます。
 高橋稔が作ったトンナンシャンペーの色・「青、赤、白、黒」のイラストをみて、
 「ぼくたちが拝んでいるのは、言うなればこれですよ。でも高橋稔さんはどこから
このヒントを得たのですかねぇ」といいました。
 青はイノチ、赤は叡智とか集団形成、白はどっちらけの経済、黒は情・ロマンの自然。
 その上下左右の座標の中心部が黄色なんです。
 高橋稔の嫁さんが自称「黄・ミコ」です。おれはまだ黄色の意味は聴いていません。

 おらは、なんとかして「神がかり領域」を「ふだん記レベル(言葉が通じる領域)」に
引き下ろしたいと希っています。

http://www.you-i.org


黄色い髪 投稿者:tan  投稿日:11月16日(土)22時53分29秒

> 坂上田村麻呂のあご髭は黄色かったとあります。

#祖は阿知主、応神15の頃に倭に居住したのが東漢氏、河内に居住したのが西漢氏で、田村麻呂は東漢氏(やまとあやー)。東漢坂上直の系統が力を持ち、いつしか坂上氏と称した。
田村麻呂の髭は「つけ髭」で何種類か用意していたようです。
身長180cm胸厚36cm赤ら顔で黄金色のあごひげ、黄金の糸で作った付けひげ、重いモノで201斤、軽いモノは64斤。

何故、金色?ですが、
・中国「黄帝」は、風雨を司る。「阪泉の野の戦い」だろう。『史記、五帝本紀』に「三たび戦う」とある。黄帝は熊や虎なども戦場に放ち・・、
・道教の宗教哲学用語で「黄金の光沢を持つ神仙の容貌を形容する言葉」=金沢
・毘沙門天の略。四天王のひとつ毘沙門天は、黄色の身、忿怒の相の武神形で甲冑をつけ片手に宝塔を捧げ、片手に鉾、または宝棒を持つ。須弥山の中腹北方に住し、北方世界を守護するという神。
などなど。。


髪の毛は、色々(ほんとに色色)伝承がありますね。天皇と近親者にも。

・趙の趙襄子は、ある日、竹に朱書きした予言書をもらう「汝の子孫に英主がでよう、黒龍の顔、鳥のくちばしのような口、髪髭はすべて濃く、偉大な骨格をした偉丈夫で、左前の胡服を着、甲冑をまとい馬に乗り、黄河上流を領有し、戎狄(じゅうてき)の国や貉(ばく・高句麗)の地に至り、南は魏と韓を撃ち、北は黒姑(不明)の戎をほろぼすだろう。」
この話は、胡服を着て胡式の戦法を採り、趙を戦国有数の国にした「武霊王」を指している。
高句麗の大武神は、この武霊王に自分を重ねているらしい。

・清寧22紀に「生れながら白髪で白髪武押稚日本根子天皇と申し、子無きをもって諸国に白髮部舎人、白髪膳夫(かしはべ)

・八尾市の大聖勝軍寺の太子像は60年に一度の開帳。写真では「みずら」に結っている、髪の色は茶色だと言う。
・加古川市の「鶴林寺」(四天王寺ともいう)がある。姫路市の斑鳩寺より小型だが垂髪の太子像がある、年に3日しか開帳しない、髪の色が赤茶という。

・入鹿に殺されたという山背大兄の髪は、斑雑毛(ふぶき)で山羊(かましし)に似ていたので山羊の老翁と呼ばれていた。

・モンゴルで祖先は、まだらの(または青い)狼と言われている。「山海経」(海内北経の注釈)犬戎の祖先は黄帝の子孫の白犬で、赤ひげ、白い肌、黄金の目だったという。 

・斑鳩はなぜ「いかるが」、斑まだらは拝火教で特に好まれる動物。太子の黒馬は烏斑だったという。突厥の始祖も斑の狼。

<関連追加>
法隆寺夢殿に伝来される法隆寺錦(四騎獅子狩文錦)(持つ弓は短弓)寺伝では太子摂政時代、新羅征伐の為製作。西アジア伝来の連珠文に囲まれた中にペルシャ思想からの生命の木を配し、4人の口髭をつけた胡人と思われる騎士が馬上から降り向いた形で獅子を射る図柄。馬上から降り向きざま的を射るのは安息式射法(パルチアン・ショット)と呼ばれ馬術に長けたスキタイ系民族に共通する射法である。
4人は同一人物とみられる。騎士が被る兜はササン朝のホスロー2世(590-628)の兜に似ているという説がある。特に兜の上にある杯の形になった三日月の上に日輪が乗っている構図はホスロー2世の兜と一致している。

髪の色の記録伝承も色々ですが、その形も特徴があって比較するとなかなか面白い。
「山海経」などに、各民族の形が列記されてます。
上の例では、聖徳太子の髪形が、八尾では「美豆良」、加古川では「垂髪」。この垂髪は騎馬民族の一流の指導者のカタチに酷似しているらしい。
呉太伯の子孫が列島に来て、漁に邪魔で断髪したとか。山海経では越は、ザンバラ垂髪だったとか。

つきない話のヒトツです。


re:ニギハヤヒ 投稿者:tan  投稿日:11月16日(土)22時52分20秒

画像、無事受領しています。
このところ、飛歩いていることが多く遅くなりました。

TXT文に添付ファイルの形式の方がメールとしては良いですね、最近は「 HTML 」形式のメールは読まずに削除する人が多くなってますから。


ニギハヤヒの墳墓 投稿者:しきしまの道  投稿日:11月16日(土)00時14分06秒

先日ニギハヤヒの墳墓の写真を送りましたが如何でしたか、もうすでにご存じでしたか
近日中に今一度名古屋の会友と共に山へ登ります、その前に写真が無事に送られており
ましたか、なにせ初めて添付ファイルを送りましたから気にしております.

http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi

 


 調査の予算を組んでいただけませんか  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月15日(金)12時56分58秒

秦野市教育委員会文化財班の須田 さんには、もう一つ訴えねばならないことがあります。
 それは秦野市ご出身・鈴野藤夫さんの偉業です。

 日本語は筑紫地方で形成された言語が日本列島全域に広がったことは、ほとんどの言語学者
が認めるところです。では、それ以前にはどんな言語だったのかは、現在喋られている方言の
ほかは、まったく手がかりもなかったのでした。

 ところが、民俗学者の鈴野藤夫さんは『関東信越釣り場事典』を出されました。そこには克
明に沢の名前を地図入りで記入されています。このことによって、関東信越地方に日本語が普
及される以前の別系言語の重層が把握できるのです。
 
 フシギな渓流名のごく一部を少々ご披露。末尾に「沢」がつきます。
 ワケテア、ジャンボ−、ヨッタカ、シュクセギ、コビツリ、ゴッコ−、フテ、オッパ
タ、ゴロブ滝、ワミ、シゲデ、ソラアゲ、ヨケド、サッサヌキ、スパッ、ドンビン、
ベットロク、ゴザッ原、ヤビゾ、ポクリ、ナダムロ、キギ山、ウ、ドロミ、アンバ、オ
オジャク、ク−ドン、ヨサンノ、シラン、ナベフウシ、ヤゴヒド、メイナイ、ヘイソン
リボン、タンビョウ、シチュー、サップキ、ビン、チャオチバ、ドロブ、ニグラ尾根
シブトビラ、ピツル、ピツウ、小沢コポラ、ネコブ山、デップ、ロンレの滝、ジッピ崖
ニゴリ、ボッチ、デンポー、ヒヨロシ、カンウン、ジュロサス、モンワタ、ソウリンバ
ケ、ヒライヨ、トヤド浅間(頂)、グンナリ、マンナイ、カカイ、イヨ山。

 ※ 一つでも意味がわかる人、ぜひお知らせください。
 ※ ロンレの滝はベトナム語 rong(龍) le(拝み)……か。
 ※ シュクセギ……山越えしてこっちの領域に入った人びとや邪悪なものを咎めだて
   する「柱のサイの神」が立ててあった関だと思える。→ 宿 
 ※ ベットロクはタジク語の沼地だった。これと“トチギ”という地名で、この地にタジク
    人たちが入植していたことが判ります。

 岐阜〜木曾、石川、富山、福島、山形、岩手、宮城などは未調査です。今なら土地の古老が
渓流名を覚えているかもしれません。
 この調査には1000万あればいいとのことです。秦野市で予算を組んでいただけませんか。
 小生が岩手県岩泉町を調べたところ、大略同じようなフシギな渓流地名が浮上しました。


黄色い髪 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月15日(金)09時34分23秒

 秦野市の須田さん、続けてここを見てくれていますか?
 ぜひ、日ごろ気をつけて見て頂きたいものがあります。
 須田さんに限らず、御存知の方はぜひお教えください。
 それは古い絵巻ですが、なんという絵巻か、いつ頃の作品かが判らないので困っているのです。
 それは貴族か何かの武士の集団に山賊が襲いかかっている図です。
 その山賊のひとりの頭髪が黄色いのです。

 坂上田村麻呂のあご髭は黄色かったとあります。
 そのためか、桓武天皇は坂上田村麻呂を最初から気にいっていたのでしたが、戦果が明瞭に
なったあと、彼を征夷大将軍に任命したそうです。

 白老のポロトコタンを訪ねたたび、浜弥一郎エカシは袖やズボンをまくって、「ホラこんな
に毛がないのです、アイヌが毛深いなどと誰が決めたんでしょう」と言っていました。
 その浜弥一郎エカシがいつも言っていたのですが、「伝わっているウエペケルには、
われわれの先祖がこのアイヌ・モシリに来たときには、母方の髪はクンネイロだったが、父がた
の髪はコンカニ・イロだった……ということです」でした。
 ※ ウエペケル……酋長談話
 ※ クンネ=黒 コンカニ=黄金 イロ=日本語“色” 

 出雲にやってきて初めての支配階級に収まった人種はタジク人だったと思われます。
 アイヌに入ったタジク人はオタシュツ・アイヌであることも判明しました。
 少しづつながらも、資料が集まれば「そのタジク人たちは混血を嫌って、同族結婚をくり
返していた……」も言えるようになるかと見込めます。

 黄色い髪の山賊のことは、放送大学で知りました。すぐに事務局に問い合わせて担当
講師に拙著一冊を贈って問い合わせたのですが、事務処理の手ちがいからか、何らの返答
も得られないまま現在に至っている……、そういう次第なんです。 

http://www.you-i.org


『秦野の絵馬と奉納額』販売のお知らせ 投稿者:須田弥生  投稿日:11月13日(水)13時57分47秒

神奈川県秦野市教育委員会ではこのたび、市内の大絵馬などをまとめた本を発行しました!カラーページや解説が豊富で見やすい仕上がりになっています。「馬図」「拝み図」「武者図」「軍事・戦争図」など、色鮮やかなカラーページに掲載しております。1冊2000円、送料340円です。購入希望の方は〒259-1304秦野市堀山下380-3秦野市教育委員会文化財班まで現金書留で代金2340円をお送りください。すぐに郵送いたします。
秦野市教育委員会文化財班 須田


新航路 投稿者:習志野のてつ  投稿日:11月10日(日)07時18分22秒

かたばみさん
理論航路から、新たに実用航路開設、おめでとうございます。
以前の航路、かたばみさんのおっしゃる通り、速度に疑問が
残りました。あの速度だと、やはり帆を付け加えなければ?
と思っていました。
今回の航路なら、人手=漕ぐだけで、航海できそうですね。

 『1986年に対馬の有志が…』これが豊田有恒さんが
一部参加した航海かもしれません。その時は、「釜山市長
が歓送会をしてくれるので、出発地が本来想定していた地
点からずれ、失敗した。」と云うようなことが、書かれて
いたと思います。


対馬海峡横断シミュレート 投稿者:かたばみ  投稿日:11月 9日(土)00時14分30秒

長崎大学の柴田恵司教授と高山久明講師の対馬海峡横断シミュレーションをみつけました。
その抜粋の図

船の定常速度は1ノット(時速約1.8キロ)で、実際の速度は潮流の影響で変化します。
航路がうねっているのは潮流の影響です。
原則として巨済島と浅茅湾を結ぶ航路が往復共に妥当なようで、おおよそ2昼夜必要。
晴天で夜間航海が可能の前提です。

船の定常速度が2ノットであれば1昼夜で航海でき、航路の自由度も広がるそうで、このあたりが実用航海になるのかもしれません。

図の右上のオレンジ色は1986年に対馬の有志が7丁櫓の地元の船で実験航海したときの記録です。
推進効率の最も高い櫓を用いて速度は5ノット。(弥生で櫓があった可能性は薄い)
手こぎの船としては最大速度のようですが、随伴船に交代要員が乗って30分交代ですから実用航海との比較はできないです。

かたばみ

 


奴国と倭国争乱 投稿者:クーガーキング  投稿日:11月 8日(金)18時18分50秒

かたばみさん
習志野のてつさん
極めて微妙なところに貴重な卓見、まことに持ってありがとうございました。暫くは安眠できそうですが、又、夜中に頭がさえる頃になると何を言い出すかもしれませんが、今後ともよろしくお願いもうしあげます。クーガーキング


Re:奴国と倭国争乱  投稿者:習志野のてつ  投稿日:11月 8日(金)08時09分43秒

たとえば三国時代の呉国の年号「赤烏元年」(238年)銘の鏡が、山梨県三珠町、
鳥居原古墳から出土しています。これは魏の景初三年(239年)の前年です。
又、前漢と後漢の間の「新」の銭が、日本各地から出土しています。
歴史書に載っている以外にも、数多くの交流が有ったのではないでしょうか。
日本列島に統一政権が無い時代には、各地域ごとに、独自の交流が有ったと。
統一政権が出来たとき、それらの出来事は、歴史から邪魔なものとして抹消。

◎どこかの「クニ」が魏と結べば、対抗上、対立する「クニ」は呉と結んだ?
>魏もまた高句麗や百済を攻めるにはその背後(倭国)と友好を保つのが得策。
>双方の利害一致。
賛成です。…付け加えて、日本の中でも、同じことがいえる…はずです。


奴国と倭国争乱 投稿者:かたばみ  投稿日:11月 7日(木)22時42分20秒

≫大陸の政治情勢の影響を受けて倭国構成首長諸国は揺れ動いた

これは定説のごとくになっているようですが、本当かどうか疑ってみるのもありそうです。

後漢が滅びるのはAD220です。
倭国争乱が起きるのはAD130〜AD150頃です。
後漢では184に黄巾の乱が起きますが、それより30年も早くにはるか海の向こうの倭国で「外国の影響による混乱」がおきるでしょうか。

ありえないと思います。
帯方郡や楽浪郡のごとく従属国であるとか、高句麗のように国境を接していたとしてもそれほどの影響はないと思います。

倭国は107に使者を送っただけで、それ以後は後漢とは没交渉です。
超大国後漢は倭国にとってうかつにはできない相手だが、実際には交易がメインで政治的軍事的には遠い国だったのだと思います。
(使者を送れる安定状態ではなくなりはじめた可能性もあります、倭国争乱の前兆)

晋書に魏の宣帝が帯方郡の公孫淵を滅ぼし(AD238)、卑弥呼が(魏)に使者を送ってきたとあります。
(使者がいつかは書いてないですが一般に239とされます)

倭国(卑弥呼)にとって帯方郡は背中、背後の心配をしながら出雲と抗争する状況。
へたをすれば挟み撃ちになるかもしれない(^^;
後漢滅亡後20年を経て半島情勢は危険かつ流動的になっていた。
その隣国である魏も倭国もその頃では敏感に反応しているわけです。

240に魏の使者が支援のお墨付きを持ってやってきた(魏志倭人伝)。
倭国は大喜びでしょう。
魏もまた高句麗や百済を攻めるにはその背後(倭国)と友好を保つのが得策。
双方の利害一致。

魏は246に高句麗や百済を攻めています。
倭国も全力を出雲へ向けることができるようになった。
AD245あたりで卑弥呼が死去、その後魏志倭人伝にいう男王が立ってまた乱れたというのが、大和出雲への侵攻作戦にあたるとみています。

倭国争乱は寒冷化による飢饉発生、特に北九州での混乱の増大が原因で、後漢滅亡など中国動勢は倭国争乱の終結を促す働きをした、と考えています。


北九州が列島内のどこよりも最先端文化の保有者だったと考えています。
しかし、食い物がなければいくら文化があってもどうにもなりません。
奴国が斜陽あるいは混乱するとしたら、それは寒冷化による混乱でしょう。
→寒冷化ピークの時代参照。

対して出雲は瀬戸内、近畿に開拓可能な土地が無数にあった。
九州勢にとって瀬戸内、近畿は喉から手の出る地域、それが本当の倭国争乱だとみています。
魏の使者は九州の混乱を見ただけで(狗奴国含む)、はるか東方の抗争のことは見えていなかった。

卑弥呼もせっかく魏の支援がもらえそうな交渉で、余計なことを喋りはしないでしょう(^^;
(以降随に至るまで中国側の認識は倭国=九州であって、大和は見えていないと考えています)


≫出雲の一地方に天下がひっくり返るほどの対価を要求される金属製品が集中する理由がない

以下は神武と大国主はほぼ同時代の人物でAD50頃、の前提があります。

伽耶はAD50以降では北九州勢力の支配下にはいった。出土土器が示すとおりです。
国譲り以降の出雲の対外交流ルートは高句麗経由以外にはなかったと考えています。
朝鮮半島東岸から北上するルートです。

そのためには島根半島が重要拠点になります。
島根半島の美保関町は銅の産出地で自然銅も採れたそうですが、高句麗経由で銅原料を輸入していたとみています。
高句麗系の文化の影響も受けるはずで、それが日本海側の古墳形式にも表れるのではないかと考えています。
また、高句麗=馬。乗馬の登場は出雲が先である可能性は高いです。

大国主の国譲りは農耕地の点ではなんの問題もなかった。瀬戸内、近畿の農地は広大です。
だが後に交易ルートを遮断されてしまう致命的な欠陥があった。
経済封鎖によって出雲は鉄の入手先を失ってしまう。

武器用鋼鉄生産は漢がメイン(西域含む)、農耕具用の鉄と武器用の鋼鉄は次元が違います。
半島で鋼鉄が作れるようになるのは百済の七支刀が目安と思います。AD300以降です。
たぶん高句麗ではもっと早いと思いますがデータがありません。
高句麗も貴重な鉄剣を容易にわけてはくれないでしょう(特に後漢滅亡後は)。

天孫は後漢製の鉄剣を大量に備蓄していたが、出雲は青銅剣で戦うしかなかった。
国がひっくり返せるほどの武器が必要な状況だったが鉄はなかった。
だから青銅剣が大量に発見されるのだと考えています(鉄剣は錆びて残らない)。

かたばみ


DNAと日本人4 投稿者:かたばみ  投稿日:11月 4日(月)19時11分01秒

北アメリカで発見されたケネウイックマンは北上してきたモンゴロイドに追われるようにアメリカ大陸へ渡ったユーラシアン、BC10000頃か。
そしてさらなる温暖化で勢力を増したモンゴロイドがアメリカ大陸へ渡ってゆく。

西アジアや中近東の人々は12万年前あたりの、ユーラシアンでもオーシャノイドでもない人々の子孫かな。
そこに南北からの人々が混じったのが後の中近東イラン系の祖先ではないかと考えています。
(中近東の人々のDNA分析ぜひ期待したいです)

東ヨーロッパやシベリアまではモンゴロイドは北上せず、ここにはユーラシアンがそのまま残った。
それがヨーロッパ人などいわゆる白人系、コーカソイドの祖先。

現在のヨーロッパ人はDNAの多様性が少ない人種だそうです。
ある時期に極端に人口が減り絶滅寸前となった時点から人口が増えたため、という論があります。
ヨーロッパのネアンデルタール人はウルム氷河期が最寒冷となる3万年前頃に滅びたそうですが、同様に絶滅寸前から生き延びて復活した人々の子孫なのかもしれません。

二人だけから人口が増えたのならその二人のもつ多様性しか子孫は持たないわけで、容姿、文化や言語に共通性が多くなるはずです。
前に書いた人類系統図のC5グループにヨーロッパ人が集中しているのはそれを示すのかもしれません。

なお、ネアンデルタールが単に滅びたのではない可能性もあります。
中近東の4万〜3万年前のアムッド人、スフール人、タブーン人などはネアンデルタール系に分類されるようですがホモサピエンスとネアンデルタールの中間的な特徴をもっています。


ユーラシアンといってもみな同じとは限りません。
イタリアで発見されたウルム氷河期のグリマルディ人では上層の骨はフランスのクロマニョン人と類似だが下層の骨ではニグロイドの特徴があるそうです。
またフランスのシャンスラード人ではクロマニヨンに類似だがエスキモーに見られる特徴を持つそうです。


混血を加味して分岐図をいじったものが下図です。

青丸が主要な混血ですが、その年代はいいかげんです。

さて、世界的にこういう流れがあったとして、日本ではなにが起きるかもう少し詳細空想。

BC20000頃の日本にいた旧石器人はユーラシアン。骨の発見を期待したいけど無理かなあ。
南西諸島に渡ったユーラシアンがいたかどうは微妙なところ。
沖縄の湊川人はBC16000、これも微妙な年代です。DNA分析期待したいです。

野尻湖でナウマン象を狩った人々の使った旧石器は北海道系です。
しかし瀬戸内から出土する旧石器は沿海州系の石器です。
瀬戸内でナウマン象を狩った人々は朝鮮半島経由の南回りでやってきた人々なのでしょう。
同じユーラシアンといっても西日本と東日本では違いがあったかもしれません。

そして温暖化がはじまり海面上昇でスンダ、サフールが海没してゆきます。

おおよそ100mほどの海面上昇ですが、5000年で100mなら1年あたり2cm。
パニックにはならないでしょう、親の土地(島)が子の代では消えてゆく、そういった変化でしょう。

海洋系の人々、オーシャノイドは沿岸あるいは島伝いに日本までもやってきた。
これが日本での鹿児島(BC10000頃)や小笠原(年代不明)の磨製石斧の出土。

古東シナ海参照
古黄河と古長江の冷水が古九州沿岸と古南西諸島周辺に流れ込みます。
これが古黒潮と混合する海域は大漁場になるでしょう。だまっていても海洋民が集まってくる。

中国大陸内部ではあっちこっちから全部が混じるのでわけがわからない状態です(^^;
BC8000頃には日本と大陸は海で切り離されますから、それ以降では海洋民の渡来がほとんどになるでしょう。


そして縄文人が誕生した。
より古いユーラシアンとオーシャノイドの人々がより新しい時代に混血して登場した最新版のモンゴロイド。
古くて新しい、だから日本人には12万年前に分岐したグループTとグループUの2系列のDNAが混在するのではないか。

グループTの分岐は古い、こちらはユーラシアンの系譜のDNA。日本の先住旧石器人。
グループUでは分岐が多く複雑、オーシャノイドを含めてもっと新しい時代の東南アジアなどのDNAが含まれるからではなかろうか。

続く

 


奴国 投稿者:クーガーキング  投稿日:11月 4日(月)12時04分18秒

かたばみさん

ご無沙汰しております。

>奴国の存在そのものを書くことができないわけで、奴国が滅びたという証拠もないと思い>ます。→同感。


>後漢書AD57では「倭奴国」の朝貢ですが、AD107では「倭国王」の朝貢で、「奴」が消え >ています。AD57の朝貢で奴国が倭国の代表者であることを認めてAD107では倭国王と書い
>ているのだと思います。ちなみに「倭」の文字はAD57の朝貢以降に作られた文字で、それ>以前は稲作の夷といった意味で「委」だったとみています。(単に倭の場合は倭国とは限>らない)。

この辺で伽耶地方に強い丹後、又は、伯耆、因幡(山陰、特に妻木晩田)、吉備等が実力をつけるのと対照的に後漢一辺倒の奴国が斜陽する。

>しかし、その後に倭国争乱が始まった。寒冷と飢饉多発(新羅本紀)で奴国が倭国の代表>国たりえなくなったのだと考えています。混乱終結のためにはカリスマ性のある中心人物>が必要、それが邪馬壹国の卑弥呼だったのでしょう。

大局的には大陸の政治情勢の影響を受けて倭国構成首長諸国は揺れ動いたということでしょう。

>これは倭国という連合国のうちの邪馬壹国の卑弥呼が指導者となったのであって中央集権>国家の王とはいささか異なると考えています。連合国という状況は景行時代あたりまで継>続と推定、大王は各国の王の代表者の意。ここまでは部族会議の議長といったイメージだ>と考えています。→同感。

>この頃の出雲は開拓可能の農耕地が瀬戸内〜近畿にたっぷりあって九州に比してずっと安>定だったとみています。後に九州の倭国連合がそれを占領する、というわけです。

(トンデモな発想だが、旧奴国の指導層は邪馬台国にパージされ、出雲に「神やらい」された際に、東国の委託輸入で在庫にしていた華北物の銅インゴットを持ち逃げ、これで筑紫の神器である銅剣を製作、荒神谷に秘匿し、崇神政府などにはその後も報告しなかった。これが「国譲り(国替え)請求」となった。---と想像してみたいところです。さもないと出雲の一地方に天下がひっくり返るほどの対価を要求される金属製品が集中する理由がない。)

>この時点でも奴国は存在していたと思います。それどころか応神〜倭王五代登場の母体だ>とみています。→上記のようなことであればイザ鎌倉の際旧奴国の残党が立ち上がることがありえると思いますが。


 東 と 西   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月 2日(土)09時46分11秒

 アイヌが「東方向」をことのほか神聖視することは、よく知られています。
 どこの古代人でも太陽が出る方角をダイジにするのはアタリマエなんですが、ア
イヌの場合は殊更に神経質で、東窓のすぐ横をだれかが無断で通ると「コラッ!」
と叫んで激怒します。

 それと同じ現象がイサハヤにも見られます。
 多良岳の麓の住民は、ヨソモンが多良岳の東を通過するのを拒んだのです。
 やむなく佐賀市方面から陸路で南下する人びとは「黒木峠」を越えてイサハヤへ
入りました。

※ これほどまでに“東”強執をみせるのは、複数の氏族が合体したあとの現象で
  はないか……と、おらには思えます。
※ 窓は穴、アイヌ語;pui(穴), puyar(窓)、ベトナム語; huyet(穴)、
  ネパール語; pwal(穴)。悪魔は穴を通じて出入りする……六根清浄・福は
  うち鬼はそと ネ
※ 「黒木」とはナンでしょう? タラ(多良岳)に関係がありゃしないだろうか
  八女市ちかくにも黒木町があって、黒木さんは仙台方面にまで散在していらっ
  しゃる。一帯は不知火もえる妖炎の地。
  じつはこれ、ネパール語その他で tara(星)で、パーリ語 tala はシュロの
  木でした。イチクロニナガサンマガリ、毛ェまでおまけだ、持ってけドロ  
  ボー。重要な「ホトケ」の受け入れぐちね。
  「タラチネの……」とか「オキナガタラシ」がのど元まで出かかっていたが、
  黄砂の風に目つぶしくらったら、引っこうだ。

 諫早市には中央部に本明川が流れています。川は北から南下し、市の中央部で
90度曲って東の有明海にそそぎます。
 古い昔日の二つの集落はこの川で南北に分かれます。それぞれの集落の東には石
碑が並んでいます。

 西の大村湾に注ぐ東大川と本明川の間隔は2キロ、最も近いところでは1キロた
らずです。大村……MUL(水源・長)が開音(母音づけ)化された語形が mula .
大王がいたことを意味しているのではないでしょうか。


イサハヤ 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:11月 1日(金)21時11分07秒

 9章の中の特にの、エッセンスは、下記でしょうか?

    ……………………

>  よれよれの小集団でも(^^;甲冑と青銅剣を持つ軍隊です。
  王も軍隊も知らぬ一般人は赤子の手をひねるように制圧されたでしょう。
  家臣だった人々も次々と渡来し、数年後には九州北岸を掌握してゆきま‥‥
 
    ……………………

 地図をよ〜〜っく見てください(出せねぇ〜〜んだなァ)、諌早(市)に運河、
または天然の流路があって、舟は陸地を「船越し」することなく、諌早の東西へ
自由に漕いでゆけた……としたら??
 ここの傍証が五島列島での「古代あれこれ」なんです。、もういまごろは N 様が
得意とする分野になっていなければならない時間帯なんですが……。
 でも諌早はズバ抜けた高文化があったはずです。
 
 実際に斬った張ったの戦闘をするのは、愚策ちゅうの愚策ですからネ。太古も今も。


DNAと日本人3 投稿者:かたばみ  投稿日:10月31日(木)12時14分33秒

単純分岐の考え方だけではここまでのいろいろを説明できないようです。
混血の概念を拡大した仮説を立ててみます。

人々の移動は環境に支配される。少なくとも縄文時代あたりまでの人々の移動の引き金はすべて気候だと考えています。
人々は住み慣れた環境と同じ地域へ移動してゆく。むろん動植物も同じです。

寒冷化では南下する。
温暖化では北上する、山岳へ移動することもあるでしょう。


アフリカをでた人類が12万年前あたりで一方は内陸を東進しもう一方は沿岸部を東進していた。

内陸を東進した人々をユーラシアンとします。
その後、徐々に進行する寒冷化で寒冷適応の狩猟文化を発達させた。
日照量が少なく肌は白くなる。
厳しい環境ゆえに道具(石器)の発達がうながされるでしょう。

沿岸を東進した人々をオーシャノイドとします。
赤道に近く最寒冷時代でも温暖な地域です。
温暖適応文化(農耕)を持つようになり肌は黒いままでしょう。
東南アジア到達時には赤道付近に南下し海洋文化を持つようになった。


下図は南極の氷と福井県三方湖の花粉分析による気候変動推定図です。


南極の気候が各地の気候に一致するわけではありませんが、同じ傾向を示すでしょう。
10万年〜9万年前にウルム氷河期の前兆となる寒冷化がはじまり、寒暖をくりかえしながら7万年前から一気にウルム氷河期の最初のピークに突入しています。

福井県の花粉分析では4.3万年〜3.8万年前に間氷期(若干の温暖、多雪湿潤)がはさまるようで、これはギリシャでの分析でも同様だそうです。
3〜2万年前に再び寒冷ピークとなり、以降は急激に温暖化してゆきます。


7万年前頃からのウルム氷河期本格化で内陸のユーラシアンは南下し、千年単位で繰り返される寒暖が人々を南北に揺り動かしながらユーラシアンとオーシャノイドが混血していった。
南北や東西で様相の違う混血になると思います。
これが内陸で登場するモンゴロイドです。
モンゴロイドは単純分岐で登場したのではなく、別系に分かれて数万年を経た人々の再混血で登場した。

BC20000頃の推定図参照
(スンダ:マレーシア、インドネシア、ボルネオ島が陸続きになっていた大陸)
(サフール:オーストラリアとニューギニアが陸続きになっていた大陸)

東アジアではメコン、長江、黄河が混血を促進する重要な働きをしたのではなかろうか。
黄河と長江は南北には容易に渡れない大河で障壁となりますが、東西へ人を運ぶ運河になる。
メコンはスンダと長江上流域(雲南、四川)を結んでいます。
この周辺ではより多くの人々がゆきかうことになるでしょう。

対してヒマラヤ山脈は巨大な壁です。
南下と北上による混血が阻止されて、南のインド亜大陸ではオーシャノイドがそのまま残り、北のタクラマカン砂漠(草原)付近でもユーラシアンがそのまま残る可能性が生じそうです。

サフールでも南端(東端)かつ海で遮断されていて混血は発生しなかったのではないか。
2万年前あたりではインドとニューギニア、オーストラリアにオーシャノイドがそのまま残っていた可能性が推定できます。


そして1.5万年前に至って世界は急激な温暖世界へ突入する。
数万年も寒冷が続けば人類はそれに完全順応していたと思います。
その人々は人々はまったく経験したことのない温暖世界に投げ込まれたわけです。
平均気温で8度も上昇したらこぞって涼しい場所を探すと思います。

オーシャノイドはかってのモンゴロイドの地域へ、モンゴロイドはより北のユーラシアンの地域へ、ユーラシアンはより北へ、北上していった。
あるいは山岳地へ移動していった。
各地でそれまで以上の混血が生じ、新しいモンゴロイドの登場が加速された。

世界中に太陽がたくさんあったとか、太陽の数を減らして涼しくなったという神話があります。
この温暖化によって涼しさを求めた時の印象が生み出した神話ではないかと思っています。

続く

 


単一民族?? 投稿者:かたばみ  投稿日:10月31日(木)12時12分06秒

紋次郎さん
後日書く予定ですが、一部先行させましょう。
中国人66人、琉球人50人、韓国人64人、本土日本人62人、アイヌ51人のDNA分析結果の概要が書かれています。
アイヌ人51人中には18の固有タイプがあり、7の共通タイプがあると書かれています。

この51人には「18種の異なる系譜」が存在するということです。
大量のデータが背景にあると思いますが、これだけでもアイヌ単一民族などといえないでしょう。
宝来氏のDNA人類進化学のアイヌに関する記述はわずかです、その部分だけでもお読み願います。

以下参考
遺伝学電子博物館トップ頁
DNA人類進化学抜粋文。
中立論アニメはわかりやすい。

かたばみ


 漢 字 オ ン チ  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月27日(日)18時44分02秒

かたばみさん、あ〜〜りがとう!!
 天皇名 c_tenno.htm 分りました。
 早く、これを見たかった紋です。
 いままでは下二つはブック・マークしていたのですが、どうも不得要領でした。
 これ以上ねがうとバチが当るのかもしれませんが、神さまの名前の読み方など、どこ
かにありましたらお教えくださいますよう、お願いします。
 『漢字海』みつけたのは、たいした拾い紋でした。あがあが。
 あれ、諡と和風諡と「よみ」ということだったでしょうか? 「とにかく三つある」
と聴いておぼえていました。

  ……………………
 1〜11章 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/
 古代であそぼ http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/index.html
  ……………………

 ところで、十代垂神天皇ですが、ふりがなに「イリメ」がありますが、漢字をみると
「イク」が当然で「イリ」のはいりようはない……を感じるのですが、おらのヒガ目で
すかね? 
 尚、お導きに反するようですが、金 思華(火へんに華)さんによれば sjin が朝鮮語
で「五十」を意味するとか……です。このご仁のいうこと信じて二つばかりソンをした
にがい経験がありますけど。お導きを‥‥。


単一民族 アイヌ ?  投稿者:焼尻紋次郎 こと 浦和の縄紋人  投稿日:10月26日(土)09時09分05秒

 かたばみさん、まさに科学 !……ワカッタと思ったとたんに「そりゃ錯覚だヨ」とのお声
がかりが降って来そうで……。

 でも、DNAと日本人のとこで紹介いただいた「こちらの質議応答」……読んでもワカラン
ことばかりですが、ここでもそうですが、いとも簡単に「アイヌ」という民族名が“科学”の
上に登場することに就いては、「こりゃ少し言うてやったがいいぞ」と思って宝満さん宛に
大略次のようなおエメ送ってしまいました。

 13世紀の諏訪大明神ナントカに、津軽外ヶ浜周辺の異民族みたいな氏族名が出てきますが
そこにはアイヌもシャモ、和人などの呼称はなく、あくまでも「少数氏族」です。
 アイヌが民族と意識され始めたのは、16世紀末になって、初代松前藩主が名護屋(博多)の
秀吉の陣に出かけて本領(?)安堵を得た時点からだと思います。
 
 すなわち、日本人という国家の反射意識でアイヌができあがったわけで、日本人がなければ
アイヌは民族としても、氏族としても成立しないまま現在に至っていた筈……これが基本。
 翻ってアイヌ語を診るに、方言差が著しく、このため服部四郎さんなんざは方言集にとり組
んで、貴重な人生を消耗しました。
 アイヌ語は、例えば5000年まえから単一氏族によって使用された言語ではない……とい
うことです。
 
 また、人相骨格・風俗の面から視ると……
※ 巨大な頬骨はレイテ島・沖縄本島に共通。
※ 知里真志保スタイルは八重山・薩摩の系統。この二者は朝鮮半島にはない。
※ 鼻周辺に手をあてて挨拶したり、無土器文化はオセアニア……とくにメラネシア。
※ 元と闘った骨嵬は朝鮮軍団。白老博物館におられた浜弥一郎エカシは“無毛”だった。
※ モヨロ、ウイルタ、ギリヤークとも混血がなかったわけがない。

 そういうことを総括勘案すれば、この民族は、凡そ「アイヌ」という簡単な単語で締めくく
られ概念化されるものではありもはん。
 DNAにかかわる分析は、いちど民族呼称そのものをすべて白紙化・返上する必要のこれあ
らむか。
 早いハナシ、10万年前、ナニが起こっていたか……。


奴国 投稿者:かたばみ  投稿日:10月25日(金)18時07分53秒

クーガーキングさん
≫半島経由の亡命王族などが考えられます
紋次郎さん
≫弱小の稲作ポリス国家群が興っていて、それをシナからやって来た軍略に
  長けた連中が奪い取った

これらについての私の考えは9章で書いている通りです。
特に北九州唐津周辺の遺跡の状況変化がポイントです。

宇木汲田遺跡ウキクンデンはBC200頃までは甕棺墓で管玉などが副葬される縄文系出土物の遺跡です。
BC200頃から朝鮮半島系の細身銅剣や青銅器を副葬する墓が登場し、その墓や副葬品が増えてゆきます。
支石墓と戦死者とみえる墓も登場。
BC100頃にはこれらの墓が消えて、代わって前漢の鏡や青銅器を副葬する墓が登場してきます。
この一帯からは戦死者がいなくなりますが内陸部では戦死者が増大。

これをどう説明できるかです。
書いてある部分は省略しまして・・

ある時点で抗争は終結して弥生黄金時代がやってくる。
本当の意味での国家登場の基盤ができる時代です。BC100〜AD50頃。
出雲は瀬戸内近畿へ進出し、九州では神武が登場して九州統一向かう。


≫記紀の不思議なのは奴国滅亡の記述がないことで、

後漢書の記述から金印はAD57とされています。
記紀が記述する天皇年代ですとAD57は垂仁天皇時代に相当します。
(自説では神武 36- 66)

記紀は倭の極南界にある奴国王を大和の垂仁とは書けないでしょう。
奴国の存在そのものを書くことができないわけで、奴国が滅びたという証拠もないと思います。


後漢書AD107に倭国王師升が奴隷160人を献上してきたとあります。
(自説では孝昭105-137)
後漢書AD57では「倭奴国」の朝貢ですが、AD107では「倭国王」の朝貢で、「奴」が消えています。
AD57の朝貢で奴国が倭国の代表者であることを認めてAD107では倭国王と書いているのだと思います。

ちなみに「倭」の文字はAD57の朝貢以降に作られた文字で、それ以前は稲作の夷といった意味で「委」だったとみています。(単に倭の場合は倭国とは限らない)。

しかし、その後に倭国争乱が始まった。
寒冷と飢饉多発(新羅本紀)で奴国が倭国の代表国たりえなくなったのだと考えています。
混乱終結のためにはカリスマ性のある中心人物が必要、それが邪馬壹国の卑弥呼だったのでしょう。

これは倭国という連合国のうちの邪馬壹国の卑弥呼が指導者となったのであって中央集権国家の王とはいささか異なると考えています。
連合国という状況は景行時代あたりまで継続と推定、大王は各国の王の代表者の意。
ここまでは部族会議の議長といったイメージだと考えています。

この頃の出雲は開拓可能の農耕地が瀬戸内〜近畿にたっぷりあって九州に比してずっと安定だったとみています。
後に九州の倭国連合がそれを占領する、というわけです。


この時点でも奴国は存在していたと思います。
それどころか応神〜倭王五代登場の母体だとみています。

紋次郎さん
≫綏靖をいっしょけんめいになっ

これらの名はある意味をもつ漢字を組み合わせた漢風の名で、スイゼイは漢字の日本語読みにすぎないと思います。
発音をチェックするなら「神淳名川耳」カム・ヌナ・カワ・ミミで調べるべきと思います。
これらの天皇名はトップページの天皇一覧にあります(掲示板の最後にある「古代であそぼ」をクリック)。

かたばみ

 


 なぜ ナデ なの?   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月24日(木)16時08分03秒

 いま小生はベトナム語ばかりを見ていますので、かなり偏ったアタマになっているこ
とと思います。
 されど少し書かせてください。どうせ漢字オンチ、当らずといえど近かからず。

> BC100あたりで王族でなければもてないような副葬品をもつ墓が北九州で突然の
  ように登場しますが、その後ぱったりと消えます。
  段階を踏んで国家が生じていったにしては説明しにくい事象と思います。
  AD50頃、に底辺からの基盤を持つ国家が登場していたとみています
★ 無数……とまでは行かないが、北九州には縄文海退現象で十数ケ所の二部族連合連
  合による弱小の稲作ポリス国家群が興っていて、それをシナからやって来た軍略に
  長けた連中が奪い取った……という考えかたは成立しませんか?

≫ 私はスサノヲを奉じる出雲族が何故中央豪族とならず、地方で祭られるのかに不思
  議を感じるのです
★ タジク語系支配階級が追っ払われた……。そのあとネパール語系支配階級の群が長
  時間居坐った。追っ払われたタジク語系の人びとは「ホのくに」に頑張って、近畿
  勢力とは隔離した政権を持続させていた……では?

>  記紀での出雲は国譲り以降完全抹消ですから、氏族としてその系譜が記されるこ
  とがなかっただけだと思います。
★ 国を譲るほうも、受け取るほうも、その時点ではすでにナァナァの同族だった……
  では? だから、タジク語系の人びとが頑張っているあいだのことが出雲であって
  国譲りの時点では出雲はただの地方名になっていたのではないでしょうか。
  ただ、出雲での古い家柄の人びと(タジク語系と混血)だけが哭いた。

 ところで安寧から「ニニギ」が出たみたいなような感じがしている昨今です。
 『綏靖の妃はその妹、安寧の妃は……』とあります。綏靖をいっしょけんめいになっ
て辞書ひいてみたら、綏は niu∂r → siui → su∂i の音転が辿れます。靖は dzieη
→ dzieg → tsi∂η です。
 注目すべきは niu∂r → siui の音転です。N から S への音転なんざは聞いたことも
なく、不思議です。
 そうすると、綏靖は「na・di」と読めそう。nadi は川です。矢掛町で堰き止めた水
を福山方面に(舟といっしょに)送りだす運河……、そこに「押撫」という地名があり
ます。岡山市内には中撫という地名があります。
 ところが、天皇様など高貴なひとの(銅製)手水鉢を「お撫でもの」という。
 さぁ、いったいどうなってんだろーか。「お撫で」は綏靖あたりからできた新造語で
はなかったのでしょうか? ベトナム語はまだ当ってはいません。ベトナム語でどう発
音するかが、鍵を握っているらしい。

 天皇様は三つの名前を持っているんですよネ。おくり名とか……あと二つの呼び方
と、その区分の性格を教えていただけませんか? TANさんの受け持ちでしたか、ここ
の近くには、その一覧表が埋めてあるらしいのですが、キカイ・オンチにわかるように
ボタンの叩きかたも教えてくだされば、幸甚至極です。


更に続けて 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月24日(木)08時05分56秒

かたばみさん
王族形成能力ある中国、半島からの渡来が九州地方で単発的にあったことはその後の奴国などのさきがけでしょうか。徐福、半島経由の亡命王族などが考えられます。

物理的な規模においては奴国並のクニは多数あったが、奴国王は特別視されていたということでしょう。記紀神話にも九州北部に天孫降臨する話があります。弥生文化は九州を基点として始まるわけですが、中でも大陸との交易の窓口であった九州北部の地位は揺るがない。九州北部に荷捌きのために各国代表
が参集することがあってもおかしくない。ただ九州から各国を統治するような動きはなく、全国規模の統一への動きがありうるような規模の集合としては四隅突出古墳分布圏辺りで(この地方は奴国よりもはるかに早くから大陸と直接交渉をしていた形跡もあります)、そのうちに吉備、丹後、近江等が強力になり、河内なども加わって、東海方面への要路であった大和に中心が集まるのではないかと想像しています。高天原をムラ、クニなどの合議体とみると、国レベルのものは銅剣銅矛圏、四隅圏、近畿銅鐸圏、東海銅鐸圏等のレベルでもありえたことでしょうが、特に銅剣銅矛圏である筑紫の高天原があるとすれば記紀にあるものによく似合います。筑紫の高天原は既に銅剣銅矛、四隅、近畿銅鐸を含めた地方の上部構造であったとすると、複数のクニ譲りは徳川幕府の各藩のおとりつぶしとか、大名の転封等のようなイメージとなりますが、その主導権は奴国ではなく実力のある加盟国にあったということになるのでしょうか。

記紀の不思議なのは奴国滅亡の記述がないことで、私はこれが神話に埋没してはいないかと考えます。そうすると国譲り、スサノヲ、オオクニヌシの出雲の僻地(既に出雲には独立した地方のクニが存在していた段階での)への筑紫にあった高天原からの降臨にはスサノヲ、オオクニヌシがその降臨に先立っては九州北部や日向にいたことが黙示されており、高天原合議体から国譲り請求を受けたのは筑紫、出雲、大和の旧首長で、筑紫は鏡宗教の布教権利、出雲などは見返りに国引き(干拓)プロジェクトへの予算割当て等の特別措置を受け、また大和などは筑紫、瀬戸内の統治と制海権、新政府人事面で第3代大王辺りからの人事権を(その後は各国に回すという条件で)獲得していたのではと考えてはどうかなどと思っています。
編集済


 エンサイクロペディスト 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月23日(水)07時01分18秒

 STAN さん、有り難うございます。
 でも漢字オンチのおらは、行きづまり・ハナづまり……ハナヂも出らんばい。
 こうして漢字の群を眺めるにつけ、ミナシャンがたのラベルの高さに敬服ぞな。
 漢字を中心とした極東言語の割り出し方法を開発した(……と思ってる)だけに!!
 おらの目の前に提示されている漢字の意味がわかるためには、まず日本人がどう発音
しているのかを知りたい‥‥。
 ああ、日ィ暮れて道遠し。笹沢の大親分さぁも亡くなられやした。

 だがネ、なんで「まぁるく・あそぼ」の意味……、バカのひとつ覚えでの語源分析。
 EN=○○させる。サイクル=輪。PED=足。-IST=△△人。
 クーガーキングさん、これでいいんでしたか?
 まぁるく、あっちこちに足を運んでいる人……、これがエンサイクロぺディスト。
 エンサイクロぺディスト……すなわち歩く百科辞典。
 かたばみさんの百科辞典ぶりのヒミツはここにありしか! 古代で“あそぼ”は、
口だけじゃなかった。

 周辺ぐるぐるは、ロマンの運動法則。けっしてアタマ、目ン玉サンカクのイズム・
純学理の領域ではない筈。ここんとこをそう考えたら、なんとか BON 茣蓙にも尻ィ
落ち着けさせることができそうで……。


これはあくまでも仮説ですが 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月22日(火)17時14分02秒

定義 倭国はXXヶ国の国に分かれていたが、奴国が対外折衝貿易国内流通海運の窓口で、伊都国が高天原会議、宗教儀式を担当していた。奴国は天の御中主命を祖神としていた。
出雲は出雲は奴国が倭国の首府であった時代は鉄材加工などが盛んな倭国構成国。後に国引きプロジェクトと称する埋め立て干拓作業で稲作耕地を拡大した。

高天原倭国首長会議決議

(高天原とは倭国の会議場で伊都国山岳部の景勝地に置かれた)

後漢の弱体化が予見できず、三韓特に弁韓の鉄材確保に失敗し、需要国がこれに代わり山陰経由の輸入ルートに頼らざるを得なくなったことに政治的、宗教的責任を取る必要がある。
(1)瀬戸内海の治安悪化等、海人族の海賊的振る舞いに目に余るものあり、これを統制する全国的海運宗教団体の祖神であるツツノヲの神はスサノヲの神と神名を改めたうえ、これを信奉する集団は居住地を出雲或いは東国に限定し、その神は地祇として神統譜において天神に劣後することとする。ただしこれまで全国に構築された神社システムの温存は認める。瀬戸内海は摂津住吉の海人族の一元的管理下に置くものとする。
(2)奴国志賀島のオオクニヌシを信奉する集団も居住地を出雲或いは東国に限定し、その神は地祇として神統譜において天神に劣後することとする。ただしこれまで全国に構築された神社システムは温存を認める。
(3)豊葦原の中つ国(唐古・鍵環濠集落と周辺地)は奴国から天孫族(日向国の神武を軍事担当とし、九州北部の鏡宗教を奉じる女王を共立する邪馬台国の主要豪族であって軍事以外は奈良盆地大和川流域最上位豪族を中心とする)に譲渡されるものとする。
(4)スクナヒコナの神は須久地方の神ではあるがそのままとする。
(5)豊葦原の中つ国には各国の努力によって新都を建設することとする。
(6)加盟国、特にホツマ東部(中部地方=狗奴国)、ヒタカミが抜け荷、上納不履行を犯す場合は制裁を行うこととする。
(7)伊都国には邪馬台国直属の伊都卒(一大卒とも書く)を置く。
(8)日向から邪馬台国への兵団の移送に当たっては関係諸国は便宜を払うこととする。(実際は摂津遠見のナカテヒコ(記紀においては手を髄と逆にせよとの上からの指示があり長髄彦に変えられたのではないか)が警戒を緩めず、兵団の輸送の妨害し、野心ありと糾弾を受け閣僚から失脚した。処分の結果については諸説あるが表面上は刑死とし、ヒタカミ国に逃亡したという流言がある。)
これに猛反発したのが瀬戸内から関東にかけて、特に中部地方、の海人族で全国的動乱を引き起こしたのが倭国乱。
編集済


re:かつら と あそぼ 投稿者:tan  投稿日:10月21日(月)23時27分29秒

 紋次郎さん
>桂
 は、月桂樹、月桂冠など月と密接につながってますね、今でも。追ってみたら歴史の中の太い流れが見つかるかも知れません。

>娟奴・・
前回の断片の前後を抜きだします。東胡の類と考えられていた高句麗。
「三国志」魏書・東夷伝「高句麗条」
「遼東郡の東1千里にあり、南は朝鮮、穢貊{禾=シ}と東は沃沮と、北は扶余と境を接している。丸都山の麓に都をおき領域は2千里ばかり、戸数は3万。高山や峻谷が多く平原や沢地は無い。山や谷の地形を利用して住居をかまえ、谷川の水で生活している。
良田はなく、田づくりに努めるが口腹を満たすに足る食料は収穫できない。風俗として食物を倹約して宮殿や住居をさかんに建てる。居住地の左右に大きな建物を建て、そこで鬼神に供え物をし、星祭や社稷(土地神と穀物神)の祭礼を行う。性格は荒々しく気短で好んで侵入略奪をはたらく。」
「三国志・高句麗条」「王がおり、相加、対蘆、沛者、胡趨加、主簿、優台丞、使者、早{日=白}衣先人(そうい)、など呼ばれる官あり、身分関係に上下が決っている。扶余の別種とされ、言葉など多くの点で扶余と似ているが、性格や気質、衣服などに違いがある。娟奴(けんな)部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部という5つの部族があった。はじめ、娟奴から王が出ていたが勢力を失い、3世紀代には桂婁部から王を出す様になっていた。
高句麗の官制では対盧があるときは沛者はおかれず、沛者があるときは対盧がおかれない。王の宋族や大加の官にあるものは皆・古雛加と呼ばれる。娟奴部はもともと支配者であったことから、いま王をださないが正統を継ぐ大人は古雛加と称して、宋廟を建て霊星や社稷の祭祀を行うことが出来る。絶奴部は代々王家と通婚している為、古雛加の称号を与えられている。」

>あそぶ
【遊】は「楽しむ」「出歩く、遊説」とか。【游】は「貴族が優雅に園池に舟を浮べ楽しむ」とか。。【あそぼ】は「まあ〜るく、たのしむ」でしょうか^^。


 か つ ら   と   あ そ ぼ     投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月21日(月)18時47分41秒

tan さん、いろいろと有り難うございます。すぐに返辞できなくて済みませんでした。
 
> 言葉の使う方法は一緒だが、単語そのものはそれほど似ていない、という事でしょう
  か。
★ そうなんですよ、もう少し似てる語彙があれば、ただの「海のむこうの人びと」ぐら
  いで収まるのでしょうが……。犬を食うというだけで、日本人が朝鮮人に異質を感じ
  るのはこの類似語彙の僅少なことが大いに底響きしていると思えます。

> 桂
★ もういっぺん、桂にチャレンジしたいです。
  下3回シリーズは、漢字文化圏の語彙の意味割り出しに有効な方法かと自負します。
  シナ語は広大な土地に5種ぐらいに区分けされた群れがあるようですが、いずれも渭
  水(いすい)盆地を振りだしにしていると思います。
  その渭水に、今から2700年ぐらい前(??)に東ヨーロッパあたりで覇を競った
  ミョウな集団がきた……これマチガイないと思います。
  その連中のことばが戦雲にのってシナ大陸に蔓延した……と、惟ふんでアリマス。
★ カツラの一部の香木……。「カ=香」はたしかに日本古代語の範疇事です。シナ音の
  「香」はシャン系ですから、日本はシナ以外の土地から、この「カ・香木」をもって
  きたんでしょう。
  「 CU ・チュ」には「表情をする」、-RA は強調末尾辞……なんですけど、語源は
  ま、そんな紋じゃないでしょう。
> 娟奴(けんな)部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部
★ これらの意味とか内容も、件の『三漢音方式』で割れるかもしれません。
★ 大町桂月というひとが、十和田湖に遊んで、あちこちに「(ひとりよがりの)いい名
  前をつけてまわったんだそうです。
  しかし、どこでどう名前をつけたのかがハッキリしないと、紋チャンなど大迷惑で
  す。二つの「銚子の滝」があります。
  まぁ、それは自然でもありうることだから我慢できても、十和田湖の南に「犬吠山」
  があるのは、どうしようもなく大迷惑です。
  「あそぶ」というのはどういう意味でしょうか? なにか宗教じみた意味があったみ
  たいな幽かな記憶がありますが……。まさか、馬の asp ではないでしょうけど……。


フリーソフトご紹介 投稿者:かたばみ  投稿日:10月21日(月)18時15分15秒

MEのメニューバーにgoogl検索、地図検索、英和や和英などの辞書検索機能を追加するフリーウエア。
その他ポップアップウインドウ非表示、更新自動チェックなどオプションいろいろ。
http://www.vector.co.jp/soft/win95/net/se258115.html

和英辞書を選んで入力するとgooの辞書の英語がでてきます。
住所地名を入力すればmapfanの地図が表示される。
通常はgoogle検索モードになっています。

googleのバーを組み込んでいましたが、切り換えました。お勧めです。


訂正
10月17日 re:日韓両国に跨っていたのでは の「植物和名語源学/深津正」は「植物和名語源新考/深津正」です。
10月19日 カツラ材とイタオマチプ の伊豆「韮崎」の山木遺跡は伊豆「韮山」の山木遺跡

かたばみ


 朝 鮮 語 の 座   3 (完)   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月21日(月)13時30分09秒

 古代語を考えるとき、どうしても MOという概念を設定したくなります。この MO に就
いてはいづれ詳しくしたいと思いますが、簡単にいうと、広域通商婚姻圏です。後世の国家
がこの地域と重なることが多いのです。国家出現を孕んだどん腹ともいいましょうか……。
 4世紀の南朝鮮〜出雲〜九州北部は、歩調を合わせたように同時発生でしたが、助詞がバ
ラバラの状態で発達したのでした。
 助詞までが整備された言語は、かなり共同作業が発達した王朝のもとでしか興らないで
しょう。そしてひとたびそれができあがると、強力な武器の働きともなります。
 余談ですが、秦氏には優秀な、周辺とはケタ外れな高概念の言語があったと見込めます。

 新しいスタイルの言語が統一されたということは、国家権力が MO内部での武力統一を果
たしたこと、そしてそれがまたその権力を支える力になったということでしょう。同じよう
な言葉をグジャグジャと並べましたが、要するに「相乗効果」です。

 ですから、シナ周辺民族で同じような国家形成を辿った言語があれば、言語発達過程とそ
の前の未開発状態が広域俯瞰できるメカになっていましょう。
 それがベトナム語……しかも、いろんな点で超適格です。
※ 二つの漢字を借用して、これを固有の発音でコナして自国語としている。
※ 原始ベトナム語らしき語彙も混用している。
※ その語彙は単節音が多く、ポリネシアの音韻を感じさせる。このポリネシア発音癖は日
  本・アイヌの遠い MOです。
※ J 音、Z 音が言えないらしい。
※ シナ音の si は tra となる。d はdra となる。

 このtra 、dra が朝鮮語の t∫io , t∫yo などの音に“対応(規則的音転)”しているら
しいのです。
 しかも両言語は漢字音をバックにし、それぞれが固有の漢字音をしょっています。
 ここは、法則的音転変化を掴むことができる「宝の原」でしょう。
 従来の語彙対比では、音と内意に少しでもズレがあったときには、それを科学的に処理す
る基準がなく、研究者個人の恣意の選択に任すよかテのない領域だったのです。
 音転と転意の跡が、なんといっても「三漢字」によって裏打ちされているのです。

 『古代史の謎と言語・掲示板』
 http://chance.gaiax.com/www/chance/x/2/x228mzk0/bbs.html で“安寧”を
追いかけ回したところ、「ニニギ」が割れたみたいです。ご感想をアマカネ。


 朝 鮮 語 の 座  2    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月20日(日)20時22分29秒

 ですから、粗っぽい推論ですが、朝鮮南部〜出雲〜九州には鉄器文明を持った支配階級が
ほとんど同時に入ってきた。この鉄文明の支配階級は姻戚関係を強化しながら連合を維持発
展させようとしていた……。このほかに何か考えられましょうか?
 
※ 脱解王は紀元57年から87年までの在位となっていますが、この数字は信用できな
  い。いずれにしろ4世紀に「ワァ〜・ワァ〜」があったとみるべきでしょう。

※ 日韓の被支配階級に就いて言えることは、倭人とは江南の湖や川に筏・舟を浮かべてそ
  こで暮らしていた蛋民だということです。朝鮮には河童はいません。南部朝鮮の被支配
  階級で蛋民出身者は少なかっただろう……と、思います。

※ 3世紀にはヒミコ・邪馬台国が出ます。これは姻戚連合とまでは行かないまでも、そ
  のバックにはネパール系豪族連合があったことを証明しています。
  ヒミコは女王でも何でもなく、後見人たちがケンカばかりしてる間にバァさんになっ
  たところをギシ・ワジンデンの記者に取材されたクマリちゃんです。
  居どころワカランのはあたりまえのことです。

 そういうわけで、4〜5世紀のころは、朝鮮南部〜出雲〜九州には一般語彙は支配階級か
ら降りてきた類似語彙はすくなくとも30%ぐらいはあった……と、 <これまた方法仮説
>です。高麗に政権が渡ったあとに大幅な“支持率”落ち込みがあったのです。
 
 典型的な朝鮮語の造語による語彙は、たとえば
 ※ 「謀略」は日本語ではボーリャクですよね、ところが朝鮮語では morjak
  ※ 「除名」は日本語ではジョメイですよね、ところが朝鮮語では t∫emj∂n
 ※ 「思慕」は日本語ではシボですよね、ところが朝鮮語では samo なんです。
 そこでこれらを動詞化して謀略する、除名する、思慕するにするには、朝鮮語では夫々
morjak-hada、除名するは t∫emj∂n-hada 、思慕するは samo-hada にすればいいん
です(こまかいところは違っているかもしれませんが、ここまで整えた語形なら朝鮮人には
通じます)。
 すなわち、朝鮮には朝鮮固有の漢字の読み方があって、二文字漢字の名詞形をまず借用し
て、これに -hada をつけると朝鮮語の動詞になるというメカです。
 こんな語形での圧倒的な“朝鮮語”出現のために「こまことば」が圧殺されたのです。

 ところがギッチョン、朝鮮語と日本語は助詞の使い方がよく似ているといいましたが、そ
の助詞そのものには1ヶも同じものがないのです。
 すなわち、コレ、トイウコトカ イウ、 助詞テキタ 4世紀 アル ネ
 4世紀になって初めて日韓両言語に助詞が、それぞれの国で、造語されたのでアリマス。
 
 ひとつだけ日韓共通の同じ助詞が豊後にありました。
 豊後浄瑠璃に「なんでん、ここんとこ“イ”うさん臭い(なんでも、ここのところ“が”
ウサン臭い)」があります。やはり、これは新羅の連中が金属精錬士となってワンサと押し
かけて来ていたことを物語っていることかと思います。 


re:朝鮮語の座 投稿者:tan  投稿日:10月19日(土)22時16分41秒

 紋次郎さん
>日本語と朝鮮語は、主語動詞の順序や助詞の使い方に至るまでそっくりです。
#言葉の使う方法は一緒だが、単語そのものはそれほど似ていない、という事でしょうか。色々と連想、暗示させてくれます。次の発表をお待ちしています。
西欧、米、台湾、朝鮮の中で大衆酒場の雑踏(言葉の集り雰囲気)が一番日本に似ていたのが朝鮮(ソウル)でした。

>桂
#といえば、相模川上流の桂川、有名なのが京都でこちらは月桂・月水なのでしょうか、楫(の材料)=桂というのも見えます。河内に「加津良」という神社があって、これは九州からの隼人で朝廷での物まねの他に、津への送迎・警固の役も負っていた様子。
中国での桂はクスノキ科の常緑高木、香料の肉桂油、皮を乾燥してシナモン。

「こまことば」からの連想ですが「高句麗にはもともと娟奴(けんな)部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部という5つの部族があった。はじめ、娟奴から王が出ていたが勢力を失い、3世紀代には桂婁部から王を出す様になっていた。」というのがあります。


↓ 


カツラ材とイタオマチプ 投稿者:かたばみ  投稿日:10月19日(土)19時17分24秒

くるぶしさん
≫かつらの木を用いてイタオマチプを作ったそうです

ありがとうございます、確認しました。
季刊考古学47によれば、地域によって使用材が異なりカツラ、ヤチダモ、バッコヤナギが使用されたそうです。
出土地年代ともに不詳ですが、イタオマチプの舷側板は長さ3.7m幅35cm厚さ2cm、内側はチョウナで削った跡あり。また結束用の穴が20cm間隔で開いているそうです。


アイヌの刳舟を原木から石斧を使って作る試みの記録映画を見たことがありますが、少なくともくりぬく作業では鉄斧で削るより石斧の方がうまく削れるらしい。
鉄斧を使うと刃が食い込みすぎて有利とはいえなかったそうです。

生木で柔らかいうちに大急ぎでくりぬく、これは工芸品のニマ工法と同じですね。
民族楽器の太鼓制作者の話でも、のんびりやってるとひび割れしてしまうのだそうです。
丸木船は焼き焦がしてくりぬいたなんて論がありますが・・ありえない(^^;
(焼くとすればは仕上げ用だと思う)


小さい材は別にして広葉樹は木目が複雑で板材に割ることはできないはずですが、カツラは割れやすい木らしい。
カツラの分布は日本と中国で、軽く柔らかくて加工しやすく広葉樹としては均質な木だそうで、なるほど。
(漢字の「桂」は香木で別種)
ただし腐りやすいようで、船材として不利だと思いますが加工の容易さとのバランスなんだろうな。

サハリンアイヌではヤナギで刳舟を彫り、エゾマツやトドマツの板を舷側に取り付けたそうです。
(年代不明、ものと人間の文化史98丸木船)

エゾマツ類も柔らかい、おおざっぱに割ってから削って板材にしたんだろうと思いますが、これで板を削り出すのは石器では無理だと思います。
鉄斧はBC200頃には北九州で登場、BC50頃には近畿でも石斧が消えてゆきますが関東ではまだ石斧が使われている。
弥生後期の九州宗像周辺から多数のヤリガンナが出土していますが船の製作用かもしれません。

伊豆韮崎の山木遺跡から船首に波除け板を取り付けたとみえる弥生の丸木船が出土。
応神紀の伊豆で作らせた「枯野」という船、宗像の船とは違う形式の船が狩野川を下って駿河湾へ進水していたのかもしれない。
枯野、狩野、カヌー、canoe、の分布は?

かたばみ


士農工商  投稿者:クーガーキング  投稿日:10月18日(金)22時30分30秒

かたばみさん
いつもながらの詳細なRES恐れ入ります。
士農工商等への分化は最初に登場するのが村内部での専業化でしょうが、倭国乱後、環濠集落が解体し、クニ、倭国連合へと成長する過程で、クニ及び首府に農民、木材、土器、金属加工業者、神官、首長が各々おかれるようになったのでしょう。私はスサノヲを奉じる出雲族が何故中央豪族とならず、地方で祭られるのかに不思議を感じるのです。出雲は島が陸につながったりして地形が変化しています。サワタリなんて話もありましたがアナトを関門とすれば出雲辺りが妥当。スサノヲ、オオクニヌシその他出雲系神社は日本中に普及しています。出雲のこの普及度、記紀での悪し様の扱われる理由。私は九州北部、近畿と比較して、韓半島北東部、出雲を含む日本海沿岸の考古学的調査と比較出土品編年は徹底していないと思います。このため謎は深まるばかりです。
極めて大胆な想像ですが記紀作成時、日本歴史の長大化、外国との交渉記録の抹消等の国策があり、出雲が韓半島との関係で、後の沖縄のような日本の主体性と尊厳を傷つける事実があり、(奴国、邪馬台国も同様ですが)、これを不都合として史実の改変と出雲の格下げを行ったのではないか等と思っています。
神武につきましてはこの物語が九州での話は高千穂地方の伝承、成功した東遷は弥生時代初期の話、挫折した東遷は倭国乱時代、奈良盆地周辺制圧の話は唐古鍵環濠集落、葛城などの部族の伝承などと時代、地域の異なる多くの物語を寄せ集めているという感が依然否めません。


士農工商 投稿者:かたばみ  投稿日:10月18日(金)20時23分10秒

クーガーキングさん
≫経済は士農工商の最下位なんて機運があったんでしょうか

本来は農工商士だと思います。
士が最上位にあるのは、その方が都合が良い人々がそうしただけでしょう。
商は士よりは上かもしれないが次いで最下位だと思います(^^;

人間が生きるのに必要なのはまず食料を得ること。農業、漁業、遊牧、狩猟、採集、なんでもいいです。

食料に十分な余剰ができたとき、食料生産に従事しなくてすむ人々の登場が可能になります。
布を織るのがうまいなら布を織って食料と交換する方が得策、そういう人々が登場する、これが工業。
(最初に登場するのが村内部での専業化でしょう)

余分の「物」があったとき、他の「ほしい物」と交換したくなることも生じます。
そういう交換という作業が増えたとき、交渉のうまい人あるいは輸送手段に優れる人がそれを代行して謝礼を得るようになる、これが商業。
(海運者→物部氏の祖と考えるのはここに理由があります)

商業は最後に登場する、最下位にあるのは必然です。
ただし・・
余剰が増えて交換作業が増えるほど利益を上げられるのが商人。
(交換した本人同士は利益をあげたわけではありません、交換だけです)
あらゆる分野の余剰を吸収できるのが商人です。

豊かな社会であればあるほど商人が豊かになる。
そして逆も生じる、商人が活動しやすい場所はより豊かになる。
豊かさが地位とか権力に結びつく状況が生じたなら、最下位であっても実力は商人が最上位、そういう状況も生じるわけです。


本来の武は食料を得るための手段だと思います。あるいは食料にされないための手段。
略奪もむろんこれに含まれます。
略奪から守るためにも武が必要(七人の侍、何回見ても傑作だなあ(^^;)。

本来は本人が武を使わなければならないのですが、余剰があるなら武の専門家を雇えます。
軍人、軍隊の登場です。

貧乏人の家に泥棒ははいらないけれど・・(^^;
優勢な武力によって豊かさを奪うことができるようになる。
いくら豊かでも武力に劣ればそれを維持できなくなる・・物質的豊かさと武力は一体だということ。
(これも物部氏に直結する)

人間の欲望という問題が解決されない限り、豊かさと武力を切り離すことはできないと考えています。


出雲はその変化のまっただ中にあった存在だと考えています。
まず農耕で余剰が生じ始めた。
弥生初期〜中期です。そして余剰を交換する輸送手段が確立してゆく。海運者の登場です。
これが弥生黄金時代、BC100〜AD50頃。

どこでもそれほど格差のない余剰(豊かさ)であった場合は問題ないのですが・・
弥生中期では、出雲の範疇(輸送可能範囲)の生産力と、天孫の範疇(豊前豊後を除く九州)の生産力では圧倒的に出雲が優位になっていったと考えています。
そして寒冷化の前兆がやってきます。AD1頃とみます。九州は余剰ゼロに近づいていった。

しかし、九州勢力の方が武器の輸入、軍人の育成に長じるはず。
特に九州ではそれが必要になってきた。
それを隼人をもって実行したのが神武だと考えています。軍隊の登場。
(それまでの戦は一般人が武装して争っただけ)

加えて武力で奪うことにやぶさかでなかったことで、神武の名が与えられたと考えています。
神武紀「東に美しい土地がある・・・なんとしてもそこを都にせねばならぬ」
この発言に大義名分はないですね。美しい土地だから奪わねばならぬ・・それだけ(^^;
(もっともここでいう土地は大和ではなく、豊前豊後であったとみています)

かたばみ


 朝鮮語の座    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月18日(金)20時09分04秒

 このところ、おれ、ベトナム語と朝鮮語をめぐって思考方法論のうえでメチャすばらし
いこをォ、思いついたんです。そこの解説に至るまで3〜4回シリーズで、場所を貸して
ください。

 日本語と朝鮮語は、主語動詞の順序や助詞の使い方に至るまでそっくりです。
 ですから、多くのひとが「両言語間にはなにかがある」と閃いて、情熱を燃やしてかか
るのですが、……すぐにカベにぶち当ります。

 日本の新聞をみると、漢字とカタカナ英語ばかりですが、それでも日本には「やまとこ
とば」がふんだんに遺されていて、日本建国当時の“日本語”の姿をほぼ完全に復活させ
ることができます。
 ところが朝鮮語は、日本での「やまとことば」に相応する「こまことば」が総崩れみた
いになって喪失されています。朝鮮語は擬音擬態語ならかなり遺っています。
 小生は朝鮮語辞書を持っていない時期がありました。そこで、ひとから借りて、“対比
に耐えられるだけの語彙”をノートに抜き出してみたことがあります。
 それを数えてみたところ、1200ぐらいしかないのです。
 辞書から抜き出すときに、かなり省略もしましたので、小生は「残されているこまこと
ばの総数」は1400ぐらいだと思ってきました。
 ところが、ここにきて、中央アジアのタジク語やソグド語あたりと対比させようと図っ
たときに感じたのは、「やっぱ2200ぐらいはあるのかな?」でした。
 これまでの朝鮮語研究者は、総員ここでカンちがいしています。「こまことば」は無い
に等しいのです。あるのは漢字の読み方を朝鮮人むきにした発音ばかりです。
 そして800回余の外患のため、古文献はすべて消失したのでした。で、残っている朝
鮮語とは16世紀以後のものだとされています。

 それでも大野晋教授が若いときに、徹底的に“借用だとわかりきっているものまで含め
て”日本語との類似語彙をリストアップしたことがありました。そこで得られた数値は
140ペアだったのでした。小生が試みたときは90ペアしか得られませんでした。
 即ち、日本語にとっての朝鮮語とは“ほとんど”対比不能な言語ということです。

 では、何がどうなって朝鮮語と日本語の文法統語が同一になったのでしょうか?
 それは、935年に高麗に新羅の政権が移るまでは、新羅が半島全域に巾を利かせたか
らであることは、ぜんいん認めるところでしょう。
 では、新羅と今の日本海側の日本で、言語を同じようさせたのは平民でしょうか、支配
階級でしょうか?
 ここをハッキリさせてかからねば、このあとの正確な推論も成り立ちません。
 でも割り出しは難しい。ここはやっぱり方法仮説で「大略同系統の言語を使う支配階級
が朝鮮と日本海沿岸を支配した」と置きます。
 特に注目すべきは“竜のくに(鉄生産)からやってきた”という伝説をのこしている新
羅第4代脱解王(dhatu……金属・kai……雷)のうごきです。
 そう……、ムカデ(銅山の象徴)、蛇ときいたらすぐにやっつけたくなる“竜”なんです。

http://www.you-i.org


re:日韓両国に跨る 投稿者:習志野のてつ  投稿日:10月18日(金)02時04分34秒

以前五島列島の最北端、宇久島で天気予報のテレビ番組を見ていました。
驚いたことに、済州島の天気を流していました。なんだ?これは?
天気は西から変わってくるので、済州島の今の天気が、何時間か後の、
宇久島の天気になるのです。

宮本常一さんの「女の民俗誌」岩波現代文庫P78、79に『(福岡県宗
像郡の)鐘が崎の海人たちは、対馬にも枝村をつくった。厳原町の曲
がそれである。…鐘が崎の海人たちは日本の海ばかりでなく朝鮮の海
へも稼ぎにいっていた。
それはいまから600年もまえのことであった。あるいはもっと古い
かもしれない.その人たちは釜山の近くに村を作って住んでいた…』
と記しています。海上には国境は書いてないし、実際にもごく近い。
天気が良ければ、対馬最北端から、朝鮮が見えます。
また去年、韓国南部で弥生土器を産出する窯跡が発見されてます。
近くて遠きは日本と韓国? むかしはもっと、近くて近い仲?


 サタワル島も長男がパイオニア   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月17日(木)11時30分57秒

 なんで金属精錬士たちがカツラの木に強執を持つのか……カツラの語源はなんだ? と思って
ちょっと調べてみました……ら、日本で「カツラ」と呼ばれている木には2種あることが判明。
語源はわかりません。シナ地名の「桂林」の桂は、これまた別の意味らしい。

 明治期に北海道羽幌沖に浮かぶ二つの島へ入植がありました。
 焼尻(ヤギシリ)島へ入ったのは秋田県出身者でした。すぐに全島くまなく植樹(杉だったか
ナニだったか……忘れた)しましたが、他の県から来て手売島に入った人びとは、植樹しなかっ
たために、大半が逃げ出す結果になったんやと。
 アキは童神、ヤギシリも I-aki で、これまた童神。焼尻島北端に賽の川原これあり。
 熊野の舟神事(祭り)でも、へさきに童神の藁人形を立てます。
 五島では長男が7〜8になったら舟に乗せてテテテキに漁業や海のことを教えます。これ、
チェチェメニ号(サタワル諸島フィジー島から沖縄海洋博にバナナ舟でやってきた)と同じね。

 出雲のカミとは kam(仕事)I(人)。今流にいえば、年にいちどスーパーのフロア・マス
ターがコミッティー(ネパール語 kami-ti)やったんやろ。コミッティ−は SAMI-TI ともいう
が、sam は「集まる」という意味。モンダイを summing up したんやろ。
 サツマノカミもカミシモつけた仕事人ね。
 SAMITI と KAMITI ……X 音を介しての同根ではなく、この場合は別語源。

※ ネパール語;車輪の芯棒は dhura 、棟木は dhuri 。アイヌ語 TUR が“たる”木。
  DU が言えなくて、これを「シュ」と発音するは朝鮮語でひどい。
※ アイヌ語 SAN-PE は悪魔・バケモノと訳されているが、これは天上界の神からみたら
  「悪魔」だろうが、もともとは人間にとっての GOODS を天上界から盗んで地上に SAN
   (落っこちた)PE(もの)。だから、人間にとっては恩人の筈。でも、やっぱ、堕落か。
  アイヌ語だけを見ていたら、パンドラの箱は見えてこない。
※ 人間に肉を運んでくる KAM-I(熊)……。カーニバルの KARN はフィリピン固有の語彙
  として“肉”。これがアイヌ語では KAM(肉)、ベトナム語では GAN(筋肉)。
  たけとらさん、肉のシシには同根語にTHIT(肉……ベトナム語)がありましたアマカネ。
※ 石カセ……締めつけるカセもネパール語にありますが、このカセはカトマンズの KATH (材
  木)のような概念から発達して、石カセとは「石材」ではないだろうか。
  舟の下に入れるゴロ……ネパール語 GOLO は「丸・丸い」。
※ TANさん、「たんたんと」は天理教の教祖、中山ミキさんのくちぐせ。TAN には「経過」と
  いう意味がある。母語はアラビヤだったか? 忘れた。
※ 交易や軍隊なしで農業立国はありうるのだろうか? 襲われて穀粒を奪われるのは遠賀川筋
  だけではない筈。また、交易なら多い人口を賄える。サンナイ・丸山然り。
  穀粒を乾燥させたり、保存する技術に負うところも多かったにちがいない。


かつらの木 投稿者:くるぶし  投稿日:10月16日(水)07時29分35秒

萱野茂さんの「アイヌの民具」という本によりますと、二風谷では、かつらの木を用いてイタオマチプを作ったそうです。かつらの木をせんぴ(くさび)と横槌で半分に割って、丸木舟よりやや広く浅く掘って船底を作り、舳先とともの部分には短い板を、中央には長めの板を当て、船底と板の継ぎ目には内側から、ぶどうづるを当て、船の周囲にぐるりとめぐらしたそうです。
かつらの木は北海道にあるので、他の地域のアイヌもかつらを使ったと思うのですが、でもアムール川周辺はどうかはわかりません。それにしても、素材や造り方も考えて古代を調べていくとは・・・!!


船材=杉=日本特産  投稿者:クーガーキング  投稿日:10月15日(火)22時07分18秒

かたばみさん
舷側のブルワーク(bulwark)を立ち上げるってことですね。外材にはこの手のものってありませんねー。蝦夷も大変だっただろうな。閑話休題、天孫ってのがいわゆる体制政治家、出雲って言うのが実業界。昔は何とか主義みたいなのがあって経済は士農工商の最下位なんて機運があったんでしょうか、私はスサノヲ君は帰国子女の大先輩、日本語とか、マナーがうまくできず、ついつい早口のアチャラゴになるような感じの人でなかったのではなんて考えています。


潮流 と 陸繋島文化 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月15日(火)21時37分24秒

焼尻紋次郎さん

縄文土偶のことか、天童よしみのことか、おいのこっか、ようわからんばい。


記紀の裏版  投稿者:クーガーキング  投稿日:10月13日(日)18時06分10秒

沼津湊タケトラさん

自他(特に隣で必ず殺人があり犯人が初めから配役で見当がついているサスペンスをご観覧の目覚めの口吻には縁遠い(入れ歯クチャーイのいや)の方)共に認める「謎解きオタク」である方は多いかも。
「記紀の裏版」として「ほつま」を読み解くことが、われわれ日本人の豊饒なる古代を読み解く為につながる↓かたばみさんのこれなどがヒタカミの原郷か。
 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/kuribune01.gif
時の流れを人魂として流れる「言霊」、バッハが旋律に託した自己主張のようなものでしょうが、それが史実ではなくとも、その言霊の搬送波が論理的に黙示するものの考え方、時代を超えるメッセージなんでしょうか。

 


記紀の裏版 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日:10月13日(日)16時16分18秒

クーガーキングさん(投稿日:10月 1日)
>ホツマは(中略)密かに伝えられたヤマトの記紀に対する裏版であろうと思われます。
>縄文文化の正当な継承者であるエゾ、ヒタカミ、ホツマを中心に描くホツマツタエにこそ

#我が意をくすぐるご発言に往信したかつたのですが、身辺繁忙で、、、、

 史書は「物語」のひとつです。語り継がれる物語は、成文化していようが、成文化されてなかろうが、編集加工されています。事実(史実)を並べただけでも、その取捨選択に編集加工者の主観が加わる。まして、事実に対する評価となれば立場の違いによつて、いくつもの真実が存在しうるわけですから、編集加工の仕上がり物=「物語」は、本来限りがなく多様なはず。

 だが、実際は、そもそも「ある目的」があるからこそ編集加工者が誕生し、物語が出来上がり、語り継がれていくわけです。つまり、仕上がり物を多様にしたくない、ひとつの正統のものにしたい。異端を排除したい。祓い清めたい。あるいは鎮魂したい。その強烈な、往々にして権力的な(あるいは、反既成権力的な)意志が、「物語」を産むのです。当然、偏りがある。しかも、改竄される。重層的に改竄される。どちらかというと成文化された物語ほど(口承の物語以上に)、改竄される。反権力的な物語も、口承から記載に移行する段階で改竄される。そもそも、改竄される価値があるから、語り継がれる、ともいえる。加入、脱落、書換、なんでもこい、です。解釈改竄というのもある。書換などより、通説・定説という名の解釈改竄があんがい一番あやしい。

 いずれにせよ「仕上がつた物語」はいつの時代も「完成品」でありながら「再修正」される危険にあるので、眠ることはあつても、死にはしません。死にきれない。波瀾万丈、過酷な運命。運命の女神は、物語を弄んでおきながら、目覚めの口吻を待ち望んでいるかのようです。

 でも、それゆえに我々の「あそぼ」対象にふさわしいのですね。

 古代史好きは、推理好き。当サイトの「あそぼ」仲間なら、自他共に認める「謎解きオタク」のはずです。

 「ほつまつたゑ」は、興味深い物語。オタクに魅惑満点です。

>記紀がいろいろな要素を含んでいるように見えるのは、まずは縄文人の成立が北方系と南方系の合体であり、縄文晩期では中国南部、弥生では中国全般と朝鮮半島、そういった人々が複合しながら西日本の人口が急増していったことにある(中略)
>記紀はそれらの自前の伝承(断片)と記紀編纂時代でのなんらかの物語の筋立てを合成して全体を組み立てている(中略)
>自前の古伝承がどの部分か、それを探すカギが記紀以外の古伝書にある(記紀神話1 投稿者:かたばみ  投稿日: 7月30日)

#と考えておられるかたばみさんは、出雲の伝承にその鍵のひとつを模索されるわけですが、「ほつま」の古伝も、興味深い鍵のひとつに違いありません。

 「記紀の裏版」として「ほつま」を読み解くことが、われわれ日本人の豊饒なる古代を読み解く営為につながると、クーガーキングさんと同じやうに愚生は思つています。

 ただし、記紀が無謬でありえないように、「ほつま」も物語である以上、無謬で語り継がれてきた訳がありません。愚生は、「ほつま」を神棚にお祀りしていますが、無謬を信じて信奉しているわけではありません。物語の教条化は、不健全です。けれども、無謬を信じることが健全でないのと同様に、真実の解明を信じることも、健全な態度であるとは愚生には思へません。語源や地名変動の解明に正解はありえても、物語の解明に正解はあり得ない。もつと正確に言ふと、「物語」の編集加工者の「ある目的」や改竄者の意図には肉薄できても、物語における史実とその評価(評価されるための史実)に正解は、求めようがないと思ひます。物語は史実を伝えるために語り継がれてきたわけではないからです。

 では、何が目的の推理で、謎解きなのか。あるいは「あそぼ」なのか?

 愚生にとつて、それは物語自身が「語り継げよう」とする「ある意図を持った主張」(意図のない「主張」は無いのですから二重形容ですが)のその「根つこ」です。動機や背景も包含して、幾千年にわたり語り継がれ、再発見され、時には改竄され、さらに語り継がれていくその物語の「根つこ」。そこに迫る「あそぼ」が出来ればなんて楽しいことでしょう。

 別の見方をすると、我々が新たなる「改竄者」になる道が「あそぼ」なのかも知れませんね。


どうもありがとうございます。 投稿者:くるぶし  投稿日:10月12日(土)21時25分32秒

かたばみさん、たくさん教えていただきまして、どうもありがとうございます。

天地創造の神の話は地方によって違うのですが、共通しているのは天上からやってきた神が、国を造りってまた天上に帰ってしまう、という話です。
神は巨人だったらしい…?(支笏湖を造った時に湖の深さがどのくらいなのか調べるのに、湖に入ったら海に入っても膝を濡らさない巨人の神がずぶずぶとうまった)
天上に住んでいる神は、ひとと同じ姿をしています(空から降りてくるときは姿を変えますが)。
でも私もまだ全然無知でシュメール神話と似ている、というのはあくまで想像です。北海道異体文字というのもあるらしく、象形文字のようなその字はなんなんだろう?と不思議だったので…。


 チュラカーギ・冨名腰さん  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月12日(土)15時40分30秒

習テッちゃん、ワッシャ・ココ!(ポナぺ語;びっくりした)

 チャチャいれるようで悪いが、沖縄には冨名腰さんがいる。
 船越ではなく、なにか素直でないなぁ〜。なにか別のこと考えてるんじゃないだろ
うか?
 私案だが puja には参拝、礼拝。pujanie には「尊敬すべき」という意味がある。
 puna はそういう偉いひとかな? kosi は胡人……すなわちペルシャ方面の人か。

 遺伝因子の地域的偏りはリッパな遺跡のひとつでしょう。
 沖縄では男女ともに美人をチュラカーギ(清らかびと)といいます。
 今なら、「これぞ正しくチュラカーギ」と、こころ打たれるご仁にお目にかかれま
す。職場なので手続きがメンドーくさくない。希望者には案内します。
 そういう人びとが按司となって沖縄を支配していたのでしょう。

 習テッちゃんは、今年の沖縄はもう終わったんだったか。
 ならば沖縄出身ではないが、千葉県柏市に日田美人の「○越お恵ちゃん」がいる。
 フェニキア〜カルタゴ系ビーナス型の、これも超美人じゃった(ただし、20年前
までの美貌は保証できる)。行く? モンとひとこと鳴いたら可愛がってくれること
ウケアヒ。


船越 投稿者:習志野のてつ  投稿日:10月12日(土)12時11分13秒

初めて書き込みます。よろしくお願いします。
舟について、関心が高く、馬についても関心を持っており、馬の話題のとき発見
・感心して拝見していました。今度は舟なので、異論で失礼します。

今年の夏、対馬に行き、海上保安庁の船に乗せてもらいました。
泊まった民宿は大船越にありました。ハワイ沖原潜じゃないけど、
民間の船舶を沈没させたりしたら大変でした。ホッ!

かたばみさんの意見
『これも潮流の変化を利用して効率よく船を運用する技だろうと思います』
「船越」は(かついで、あるいは台に載せて)舟が陸を越えたところです。(←同意見)
ただし潮流と云うよりは、実用性では?と思います。つまり、
@反対側に行っても舟は必要(見つかる、貸してくれるとは限らない)
A舟で回漕すれば丸二日、かついで越えれば数時間。…さあどっち?
今の艇でも北の比田勝(ひだかつ)まで厳原(いづはら)から数時間を要します。
(両方とも海上保安庁の基地があります。つまりそれ程、離れている)
反対側まで回れば今でも、一日がかりです.昼8時間労働としてですが。
昔はろくに道は有りません(「倭人伝」)。今でも余り無いです。
樺太探検の間宮林蔵も、舟をかついで行ったことがあると聞き及びます。
また、男鹿半島にも「船越」地名が有ります。ここは、海から渡れば、
反対は昔は湖です(今は干拓で大部分田んぼ)。潮流の影響は考えられません。
で結論、潮流利用の為よりは、時間短縮の為に利用した可能性が高い。

ここからは推測、勝手話しです。
『山車(だし)は、舟を陸上通過させるための車、道具だった。』だから、
舟形に作る(ところもある)。舟が小さいときは、担いでも越せます。
大きくなると、載せる車を作り、それで陸上部分を越したのでは?


ご指摘ありがとうどざいます。 投稿者:s_tan  投稿日:10月11日(金)20時45分08秒

失礼いたしました。

いやぁー、ながいことリンクが切れていました、それもTopページで。
早速、修正しました。
○○さん、どうもありがとう。


 


対馬海峡の潮流 投稿者:かたばみ  投稿日:10月11日(金)10時22分17秒

太田さん
≫対馬海峡を真っ直ぐつきっていますが、このようなことは可能なんでしょうか?

対馬海峡の潮流をごらんください。
対馬海峡の潮流は潮汐によって1日に2度逆流するのです(その時の最大速度のデータだろうと思います)。

潮流の切り替わりは6時間おき、対馬海流は障害どころか潮汐と合わせれば効果的に利用できるわけです。
月を読むことがこの地域の海洋民の必須条件になると思います。
5ノットで走る船なら対馬〜釜山がおおよそ9時間、出発と到着の1時間程度を必死に漕げばいいのではないかなあ。
対馬では帆ではなく潮流+櫂がベストだった可能性あり。

対馬の浅茅湾東部の大船越、小船越は対馬の東西を横断する場所。
もとは狭い陸橋で、陸を越えて反対側の海に船を移動させたことでその地名になったようです。
これも潮流の変化を利用して効率よく船を運用する技だろうと思います。

ただし、そういう技を知らなければ、山陰へ流されると思います。
スサノオや天穂日がそうだったのだろうと思っています。

かたばみ

 


出雲と銅鐸  投稿者:クーガーキング  投稿日:10月10日(木)06時09分36秒

かたばみさん

>起源である可能性は高いと思います、しかし90%であってもやはり可能性です。銅鐸は>馬鐸が原形だろうとみていますが、大型化してゆくのは船の信号用に使ったからではない>かと考えています(音の出る実用品です)。馬の存在がもっと濃くなれば馬でもいいので>すけど、30cmにもなったら馬の首がもたない(^^;

韓国も経由しているようですし。ところで、舌に鹿の角を入れたのを東大がネットでやってるのを聞いたんですが音が弱すぎます。真言のシンバルなどに慣れている現代人の感覚からすると鹿の角は駄目。五円玉でも吊った方がいいような気がします。

>農耕技術の指導、海運力(流通機構)、共通祭祀、この3つによって縄文社会を結合させ>ていたもの、それが出雲だと考えています(九州と北海道を除くすべて)。全国の村オサ>がときおり集まって会議を開いて全体の統括をおこなっていた、そんなイメージです。こ>れが全国の神様が出雲に集まる神無月(出雲では神在月)の源。旧暦の10月というと8>月の25日あたりから9月の25日あたりの間ですが、収穫が終わった後に集まったので>はないかなあ。これだけ収穫があったなんて報告ですね。

ミシンの糸の裏糸、表糸って言うんでしょうかよく分からないが、裏日本を進む海運力と、熊野などが中心となる表日本を進む線、しかし、出雲系は黒潮のそれる辺りまでということは表日本にあっては海運よりむしろ漁業、表裏の結合点が若狭-伊勢湾、中央地溝帯、東京湾こうしたネットワークがあり、出雲はルート商売(中間マージン)型ではなかったんでしょうか。

>うちの村にいい娘がいるぞ、おめえんとこにいい男はいねえかい、なんて情報交換も。こ>れが出雲の縁結びの源(^^;

---とこれは冗談で縁結びによる共同体結束強化、だけど初めは四隅突出古墳分布圏の国連本部見たいなものでなかったのかなー。

>出雲に神話が多いとすれば、やはりその影響下にあった地域が広大だったからだと思いま>す。それが記紀では島根出雲にみんな集約されてしまった。八岐大蛇伝承は大変有名なの>に出雲風土記には登場しない、なぜか・・ですね。

これが却ってその資料価値を高めていますね。

>詳細データが記述され、確度が高い。考古学が飛びつくことを許された唯一の資料・・魏>志倭人伝。しかし、「広大な日本列島」のうちのごく一部の、さらにその一瞬を記したも>のにすぎない。日本の歴史を考えるためには記紀や風土記の方が桁違いに資料価値が高い>と思います。そういう資料へ目を向けることを許されないというタブーがあるゆえの反
>動、それが魏志倭人伝への過剰な傾斜なのだと思っています。真偽入り混じるであろう中>からどうやって情報を引き出すか、それが重要と考えています。

魏志倭人伝---荒れ狂う冬の日本海の空に射す一瞬の陽光をとらえた鮮やかなスナップショット、記紀や風土記---時代の妥協を映し、おかめ、ひょっとこ、鬼面の無表情なお面の裏にうごめく物言えぬ過去の英雄達、そんなイメージがします。


 縫い箔 OHO と 梟 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月 9日(水)19時08分19秒

 もう何年まえのことかなァ、17年ぐらい前だろうか? アイヌのフクロウ祭りが74年ぶり
で復活したことがありました。
 この復活の言い出しっぺはオレです(謙遜して「ハッタリじゃ、創作じゃ」言うとヤロー扱い
されかねないモンネ)。
 ですからフクロウに関しては神経をとがらせていました。しかし、未だにイイトヨの“豊”も
分かってはいません。
 
 モレウの語源も判りませんが、小さな辞書と相談したところ、どんすに金糸などを縫いこむの
がモールとのことですが、これはムガール帝国が主産地だったとのことです。
 ですからこのモール(発音はモガールに近い)が、氏族の訛りクセによってモレウとなったと
見て良いでしょう。思い当るのはアイヌ語 reu には「 鳥(!)が木などにとまる」という意味
があることです。

 縫箔はアイヌ語で oho になっています。この oho がフクロウであること断固です。
 弘前では「○○です」を「○○キャ」といいます(キャはブヌン語)。ネプタのハネトは台湾
ブヌン語で幽霊とかオバケです。
 津軽方言でフクロウはモホ鳥といいます。このモホは元冦のとき子供を泣かせないことば;
「泣いたら山からモゴ(蒙古)が来る」となって利用されましたので、歴史の途中で音も意味も
屈折しました。
 このモホの原意原音が台湾ブヌン語の Pohot(木菟)だったんです。
 moho は遠野では oho(梟) です。精査すれば八戸・下北も oho (梟)かもしれません。
 ウイルタもモレウを作ります。変わっているところは、ウイルタには丑の刻参りに使うような
人形があることです。縫い箔が最初に入ったのはウイルタだろうか、アイヌだろうか?
 人形の髪の毛が伸びたという心霊現象はなんぼでもあります。アイヌは人形を作ったら霊がそ
こに寄ると信じていました。

 いずれにしろ縫い箔の歴史は、ここ500年ぐらいのことではないでしょうか?
 1000年前の出土品には、模様は無いのではないでしょうか。
 心霊現象衝かないと古代は現代には甦りません。バッテン、それ云うと“ヤロー”やろかね。


弥生の交易路 投稿者:太田守人  投稿日:10月 9日(水)17時46分34秒

かたばみさん、弥生の交易路を見させていただいて、ひとつ質問ですが、対馬海峡を真っ直ぐつきっていますが、このようなことは可能なんでしょうか?私は、軍事特に海軍についても興味がありますので、冷戦華やかしころの話ですが、対馬に海上自衛隊対馬防備隊という、有力な対潜監視部隊がいたことが原因らしいですが、ここのソナーに引っかからないよう、ソ連のウラジオ軍港所属の原潜は、対馬海峡(朝鮮海峡も含む。)を通る時には、潜航のまま機関を停止し,海流に乗って通過していたそうです。この状態で、原潜は3〜4kt出たと言います。まあ、弥生時代ですので、海流も変っているかも知れませんし、潜航状態ですので、水面とは違うでしょうが。私は、特に対馬から釜山に向う時は、真っ直ぐ突っかけると,海流に弾き飛ばされると思っていますが、いかがでしょう。対馬から釜山に向うのは、東シナ海の方か日本海の方を迂回した方が安全だったように思いますが。


国母を史上から抹殺した史書 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 9日(水)17時32分59秒

三国志魏書 東夷伝に曰く、旧夫餘の俗、水旱調わず、五穀熟さずは、すなわち王に咎を帰し、あるいは易に当たると言い、あるいは殺に応ずというと。ヤマトトトヒモモソヒメは「殺に応じ」、「ホド突き」の鉄棒により、「土師(はじ)」によって撲殺(引っ掛けは無しと見て)され、犠牲(旧石器時代的に言えばイヨマンテ的な人柱、キリスト教的に言えば国民の身代わり)となって神の御許に去リ、これを建国の記念として箸墓が建設された。これを短絡解釈した記紀編纂者はこの伝承を時代にそぐわないものとみなし、(1)アマテラス、(2)神武を創造して挿入、この結果(1)卑弥呼をヤマトトトヒモモソヒメとしてしまったために倭国大乱平定、女王共立、公孫、魏との通交史、銅鏡分配の実態、(2)宮崎県日向地方の神話、神名、地名を狗奴国のあった伊勢にコピーしたため狗奴国との戦闘の顛末が記紀から消えた。こう言う推定はどうでしょうか。


はじめまして 投稿者:くるぶし  投稿日:10月 9日(水)14時18分51秒

はじめまして。アイヌのHPの管理人をしているものです。
(焼尻さんのお名前はヤゾーさんの掲示板で存じてます)
あまりにもタイムリーなのでおじゃまさせてください。実は、今、うちのとこの掲示板で話題になっているのがアイヌの文様のモレウなのですが、アイヌは船にモレウをつけ魔除けとしていたそうです。そしてこのモレウ(も含めたアイヌ文様)は様々な民具、衣類に施されてまして、よくあるのがふくろう神の目として着物の背中などにつけられています。モレウについては、渦巻き(波)、目、草(確かに山菜のゼンマイに似ています)などひとによって様々な見解があるのですが、魔除けという意味で共通しています。また北方民族の文様とアイヌ文様、隼人の渦巻き文様、ケルト民族の渦巻き文様などはとても似ています。こちらの書き込みを拝見し、船の目、という風習にとても驚きました。アラスカやカナダでは船にシャチのマークをつけることから、アイヌが船にモレウをつけるのは、アラスカ、カナダにルーツがあるのでは、とある学者さんがおっしゃっているのですが、自分的にはこのエジプトの船の目に関係しているような気がします。個人的には、アイヌの神話がシュメール神話に似ていることから、古代の文化、風習、などにも興味があります。これを機に自分も様々な視点から調べていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。


 トトカルチョ と サイタロウ節   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月 7日(月)19時55分21秒

> エジプトでは船が太陽と月を運び、その船は隼であるホルス神の目が守る。
★ √♪ トトカルチョの 語源知りたし 紋次郎
  トトカルチョって、なにかのバクチでしたよね。‥‥辞書と相談したらイタリア
  でのサッカーへのバクチですって。便利な世の中にハァ、なりました。
  どこで音が曲ったのか、HORS が HIR になっていました。おれ、ボケたァー。
  HIR が 日 になったんですぞ。これホント! 
  すでに1回は書いたはずですが、アイヌの CHUP(日月)は「水旅するもの」 。

★ このひとつ見てもお解りのとおり、シナ文明も2000年遅れたら渭水とエジプト
  は「関係ないわきゃねぇ」と、こうなります。
  ま、しばらく待っていてやっておくんなせぇやし。

★ 古代日本語に「ト=鳥」があったことはタシカです。それがトト起源だと……。
  トカゲは「To(鳥)Ka(の)Ge(たべもの)」、マチガヒなしっちゃ。
  バスク語;txori(鳥)。
  コウノトリと「命はこび屋」とおかぁさん‥‥。TOTO とはおっぱい、乳房、母
  で、今のいままで、エデン語でした。√♪ エンヤ.トット(わたしにオッパイ
  下さい……童神)。SAIT(吉兆)-TAR(若い男)-O(神)節。“瑞”カネ。
  エジプトで歴史……この場合は時間の逆流……が止るわきゃない。


マタンタタラ 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 7日(月)14時21分56秒

よくわかりました。
勢矢蹈鞴姫=鋳鏃巫女王、ヒメタタライススキヨリヒメ=族長銅鐸樹巫女王、
ホトタタラヒメ=炉占い巫女王、ヤマトトトヒモモソヒメ=無量寿女王と自分なりに読ませてもらうことにします。

 


船の目 投稿者:かたばみ  投稿日:10月 7日(月)12時05分28秒

ヤミ族の船の進水式では青色の瑠璃玉(mutin)と甘蔗酒(mataないしparek)を用いるそうです。
下図は夜間の漁労に出るヤミ族のタタラ、どっちかというと太陽とみえる文様がはいっています。

船に目を描くのは広東省あたりのジャンク船ではよくみかけるようです。
明の鄭和の巨大船宝船の推定模型(南京の鄭和研究会)にも描かれており、沖縄のヤンバル船でも描いていますから、広東省〜沖縄に存在した慣習とみえます。

しかし、最古はエジプトにあります。
BC2700の折り畳み式のマストと帆をもつ外洋船に描かれています。
下図はルクソールのセンネジェム墓の壁画の一部。太陽神ラーと月神トト(コウノトリあるいはトキ)を運ぶ船です。


エジプトの目はウジャトの目、護符とされます。
ウジャトの目とは天空の神ホルス神の目のことで、右目は太陽、左目は月を表します。
ホルス神はハヤブサの姿で表現されます(山犬の場合もあるらしい)。


下図は河姆渡文化(BC5000頃)の鳥が太陽と月を運ぶとされる文様です。
?
その後の文様をご覧ください
左は良渚文化(BC3000)、中央は殷のトウテツ文様(BC1600)、右は漢の神紋(BC100)。
それぞれ順次変化した文様とみられています(林巳奈夫)。
漢ではだいぶ簡略化されて二重丸のみで中央に神樹(おそらくは生命樹)が追加されています。

鳥が太陽と月を運ぶ。
戦国の呉では船を鳥にみたてています・・船=鳥ならば・・船の目は鳥の目。
はるかに遠くを見渡せる目をもって航海の安全を願っているのではないか。

エジプトでは船が太陽と月を運び、その船は隼であるホルス神の目が守る。
少なくとも海洋文化においては長江文明(BC3500〜BC2000)とエジプト文明につながりのあった可能性をみたいところです。

かたばみ


 落とし穴・失われた文明    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月 7日(月)09時58分51秒

 同じだと思ってみれば同じ、ちがうという先入観(ここの表現がむずかしい)で見れば
ちがう……は、すべての現象にいえることでしょう。
 概念形成とか思考そのものが、この「違う・同じだ」から、振り回されています。
 言語種もこのとおりで、「あの言語とこの言語は同じか、ちがうか」……、は数え方に
よって、大きく数値が変わります。学者の言によれば、現在の地球上ではゆっくり数える
と約1万、普通6300と、数値が大きくかけ離れています。
 中には、使用する文字のちがいによって別名がつけられているヘンなのもあります。

 台湾には約10の言語の名前がありますが、特徴的なのが「ここには○○という言語が
喋られていた」という3種前後の地帯があることです。その消えた言語の名前まで伝わっ
ているのです。その消えた地帯は、いずれも台湾の西側……すなわちシナ大陸寄りです。
 広さは台湾全域の三分の一にはなるのではないでしょうか。
 シナの長期に亘る戦乱の火に焼け崩れた……という表現がピッタシです。

 日本の貴族〜皇族には南方的要素も濃密だそうですが、この焼けシリ(陸地)に注目し
ないでは、アチャラカ解釈にしか恵まれない……とうぜんです。
 台湾諸語は東大退官後、嘱託をうけて台湾博物館のメンド−をみておられる土田滋さん
がトップ情報を握っておられます。連絡可。

 日本列島には沖縄北部(これは海底)から旭川カムイコタンまで、ストーン・サークル
の文明が散在しています。青森県のストーン・サークルは集中して見られます。サンナイ
丸山を掘ったとき、その下部からも現れかけました。恐らく……ですが、この扱いを巡っ
て青森県の箱派と弘大・学理派とのあいだに対立が続いているものと見受けられます。

 関東甲信越の山奥には周辺言語ではマシャクに合わない渓流地名がビッシリです。小生
はその一部がタジク語系であることにたどり着いたばかりです。

 
※ クーガーキングさん、マタンタタラとは、かたばみさんが10月3日に出してくれた
  カラー繪です。舳と鞆にあるマル(○)がマタ(目)です。
  この舟見た735000人ぐらいの倭人は「マタとは“目・神”だから、太陽でもあ
  るナァ〜」と想ったことでしょう。
  アマノマ・ヒトツとはいろんな金属精錬士の強執をひとつにまとめたアマテラスと同
  一内容だったことでしょう。……やっぱ、チガウ? 違う惟ふたらチガウ。
※ かたばみさん、マルキンニ、クリフンニは沖縄での呼び名でしょうか?
  ハジブニのハジは舵かもしれませんね。風かな? 黒潮が南から北上しているとはい
  え、海にかかわるモノや文化を南方起源に結びつけるひとが多いですが、ちょと短絡
  を感じます。出雲にタジク語文化が上陸したんですヨ。
  台湾./.沖縄の言語での断絶現象……。そこへ焼けシリが絡む。
  マ−ランシン……「マ」が舟らしいですね。テンマのテンは海。テンムンは海草(た
  だしこれアイヌ語)。アマとテン……天。
  舟の呼び名のひとつに「ヤ」があった……は、今のとこ、あっしの直感です。矢作。
  ノー、ナオも舟でしょう。シナの「ノ−姫文化」は16世紀だったデシタカ。
  オオヤマツミは古い神社(?)が琵琶湖方面にあったのですか? それを海賊統一の
  神に持ってきたは、ヤ・マが夫々ちがう形態の「小舟・大舟」ではなかったか?
  そこを JAMAT(集まり、集会)の名で陸と海とが大同団結したんでしょう。
  ムラ(MUL……水源・長)カミね。


タミル文化 と 五十偏執 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 6日(日)19時49分27秒

※ マタン・タタラ(目のマークをつけた舟)のこと、碓井さんに連絡とってみましょう
  か?
是非お願いします。特に目が太陽を表すようなことが聞けたらいいんですが。


 タミル文化 と 五十偏執   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月 6日(日)17時42分37秒

※ 1世紀、壱岐へスリランカ船難破……は小生の創作です。
 * 沖縄のオモロやクズの唄は「5、7、5」ではありませんが、その後「5、7、 
   5」調が風靡していること。
 * 壱岐に集落〜市街を意味する pure 〜フレが密集していること。
   これらは、高文化の一派が中央にくらいついた……すなわち、大野晋教授のタミル
   語はホントーにあった事件だと思います。
 * 1世紀というのは、インド〜シナの航路ができたときです。これは教科書に載って
   いました。
※ マタン・タタラ(目のマークをつけた舟)のこと、碓井さんに連絡とってみましょう
  か?
  
※ 「イ○○ー」の造語法で、いすゞを解釈しましたが、「神・すす」……すなわち
  「スス神」もありうるわけです。その場合、これは「童神」です。
  われわれ現代日本人は「スズ」ときいたら“鈴”しか思い浮かばないのですが、
  広く世界のことばを当ってゆくと「susu=こども」にめぐり遭います。
  「木の実のすず成り」などの表現から、杖に鈴をつける……が出でしものならむ。

※ 五十……。インドの通貨の数え方から「五十偏執」が興っていることはタシカ。
  SAE は百です。すでに日本語化されていた SAI(<SAIT……吉兆 蒙古語も)と混
  同があったと見込まれます。
  50paysa で 1 mohar 、2mohar で 1rupiya です。
  -har は複数とか表情を意味しますので、MO が50と知れます。MO + MO =百。
  モノノベを「桃尾」と表記した形跡あり。百官の意か。
  五十と書いて「イ」と発音した。⇒ イイ(善・良)。イイ=百。
  イ・ジュウ(十)は「ウ・ジュウ」でもあった。このウジュウに強調接頭辞の S を
  つけたものがスジュウ。訛ってSUJIN(朝鮮語;五十)=スジン天皇。
  梟も古語はイイトヨ。トヨはオラシラン。豊と書いてデと読ませる……不思議なり。


チャチな宝 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 6日(日)11時14分20秒

>姫踏鞴五十鈴姫は事代主の娘、事代主は国譲りの時の人物で神武 36- 66の妃。この関係を
>否定しないかぎり国譲りは神武時代の事象となります。
>(記紀は国譲りと神武東征が同時だったといっているわけです、神武東征のボロがみえてる
>(^^;)五十鈴とは日向の五十鈴川。天孫降臨の道案内をしたという猿田彦も日向の五十鈴川
>の住人。阿蘇方面から日向に「降臨」するとき、高千穂から五ケ瀬川を下ってくる途中を案
>内したわけで、伊勢の五十鈴川の地名は後に日向から写したものでしょう(なお、神武の兄
>は「五瀬」命)。

庭の山椒の木になる鈴かけての鈴はとても銅鐸とは思えませんが、銅鐸の図案には木にぶら下げて太陽(穀霊)の舟を待つのがあります。そういう民謡も昔をたどれば五十鈴川周辺から出ているのかも。銅鐸は長江下流だったか、確か中国南部が起源ですね。

>五十鈴川のすぐ南に耳川があります。この上流に上八峡、下八峡なんて地名がありまして、
>いかにも苔むす八岐大蛇がのたくるような地形(^^;で、後に櫛名田姫の親父はスサノオの宮
>殿の長となってスガノヤツミミと名乗る・・ミミとはむろん長官の尊称。姫踏鞴五十鈴姫も
>大分〜日向(延岡)あたりの人物。その兄は可茂別雷命、これを雷神とみるなら兄の方は中
>央アジア系製鉄と関連する可能性もあります。(住まいは瀬戸内あたりか)

何故出雲に神話が多いのかと考えると出雲はこうした地方の神話を取り込んだのですね。

>記紀のいう出雲の国譲りとはどこを譲ったというのか。各種条件をまかなえる場所は「豊前
>豊後から延岡付近」しかないとみています。島根出雲は国を譲った後の大国主が隠居した場
>所。

崇神辺りでも出雲の宝を見たいといってますがこれは長髄彦が見せたようなチャチな宝では決してなく荒神谷、加茂に秘匿してあった奴国から奪ったインゴットを精製して創った銅剣銅矛銅鐸だと思います。この量は天下が転覆するときにしか出てこない量です。そして崇神を初めとする近畿以東の資産を前金として奴国に渡してあったものの見返り輸入品であったのでしょう。国替えしてでもこれを取り返すのが倭国王の務めだったのでは。又これこそ倭国動乱の真因であったのでは。

>姫踏鞴五十鈴姫の妹の五十鈴依姫は神武の子の綏靖 66-78の妃。その子安寧 78-92の妃は事
>代主の孫娘の鴨王女。ここまでは天孫と出雲の「合体王朝」です(血としてはほとんどが出
>雲になったということでしょう)。国譲り後の出雲と天孫はしばらくは仲良くやっていたわ
>けです。ところが安寧の子懿徳 92-105は妃に「天豊津姫」を入れ、その子孝昭105-137は尾
>張遠祖の娘を妃にいれて出雲と縁が切れます。尾張遠祖とはすなわち天火明。倭国争乱へ。

そこでこの通り出雲とはひびが入る。


皇祖を卑しめる大不敬 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 6日(日)08時05分55秒

王のみしか使用の許されないピンセット状の竹製品=箸
http://www.hashikura.or.jp/hasi01.htm
「ホド突き」=冶金工具
奈良朝で現代の箸になる訳ですが、現代風の箸で「女陰」を突くという奈良朝の解釈はおかしく(しかし、皇祖を卑しめる大不敬をも顧みず伝承を忠実に現代にまで残した勇気は記紀の真価を高めますが)、古代において建国の母の死因をかかる不敬なこととして、手渡しに昼は人、夜は神が二上山の石を運んだでしょうか。この石を運ぶ風景はそれより2000年前ウラルのクルガン古墳で人々が掌に土を運んだ宗教儀礼と類似します(現地伝承)。大旱魃のときの雨乞いに女王がタタラ儀式を執り行い「操業や作業の開始に先立って成功と安全を祈願し、終了後にも感謝の祈りを捧げる」という事実も箸と同様奈良朝では薄れていたのでしょうか。銅鐸が出た時はカルチャーショックを受けたようで、平城京建設時には平然と古墳破壊をする、そうした時の流れの中で記紀が編纂されたことを考えるとこの点に再考の余地ありと思考する次第。


台湾アミ族(花蓮) 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 5日(土)21時53分13秒

ご参考まで。
http://ccsun57.cc.ntu.edu.tw/~museum/e_aborigines/ami.html
台湾で土器を作るのはこの部族だけだそうです。
[アミ族]  比較的に多数の人口を擁しながら,近隣諸族の圧迫を受けがちだったのは台湾東部平地のアミ(アミス)族である。大きな密集村落をもちながら,村と村との対立反目が随所にみられた。中部アミと南部アミには数十の母系氏族が分散混在するが,その社会的・政治的機能は微弱で,また村々をこえての連帯性にとぼしい。アミ族のうちでも北部および中部の有力ないくつかの村々は,少なくとも17世紀の中ごろから存続していたことが当時のオランダの記録から判明する。しかし,微力な村々は西方山地のアタヤル,ブヌン両族,南方のプユマ族から各個撃破的な打撃をしばしば受け,その結果,東部平原から台湾南端の恒春方面にかけて錯雑した移動混交が行われた。このことについては,他の諸種族の場合に比べ,アミ族への小銃の伝来が著しくおくれたことも考慮されるべきであろう。アミ族の村政をみると,その実権は古老男子たちの手中にあるといってよい。家族レベルでは母系相続・聟入婚・女子家長制で,農業に勤勉であることが聟入りの主要条件であるが,他面において,もともとは軍事的機能をかね備えた男子集会所や,(男子の)年齢階層制度がおそらく男子古老の特権的地位を育成助長したと推測してよいであろう。なお,固有にはアミ族も焼畑農耕民でアワと陸稲を栽培し,特にアワの儀礼的重要性は残存し続けた。ところが19世紀末あたりから水牛犂耕を伴う水田耕作が普及しはじめ,これを背景に彼等の人口が着実に増加し続けたように考えられる。しかし,穀倉の豊かなたくわえを理想とし,必要以上の水牛を所有し頭数を誇りたがる傾向もあって,これは過去の威望経済イデオロギーのなごりかもしれない。

 


タタラ、過去現在 投稿者:かたばみ  投稿日:10月 5日(土)19時41分10秒

≫1世紀に壱岐に漂着したスリランカ発の船は
≫舟の前後がそりあがっているマタンタタラは大阪府と岡山県下で、それぞれ2〜3艘づつ発掘

どちらも初耳です、出所を教えてください。


≫日本語とアミ語との間には13ぐらいしか類似語彙はありません

アミ族とは何者か、いつから台湾にいるのか、ですね。
アミ族自身に渡来してきたのだ、という伝承があるようです。

フィリピンではマレー系とネグリト系が対立しながらも混血が進んでいったようですが、これもいつからなのかなあ。
縄文人が小柄なことからネグリトがはいっているとみていますが、茨城の若海貝塚の縄文人はなんと171cmもある巨人です。
いろいろな人々がやってきたのでしょう。

マレー系は大柄ですがBC2000頃に中国南部から南下した人々とインドやアラブと混血した人々とされるようです。縄文人形成よりはるか後のことです。
BC2000頃の南下というのがくせもの、またまた三苗の登場なんだなあ(^^;
この頃の中国南部に禹と戦って敗れた防風氏という巨人族伝承があります。


東南アジアは縄文時代の熱帯雨林化で文化が衰退した可能性が高いです。
そこへ多民族がはいったらなにが起きるか、非常に複雑な地域ではないかと思っています。
特に台湾〜長江流域は北と南のいったいきたりが多かったのではなかろうか。
どれだけ、いつの時代の痕跡が現在に残っているのか・・

位置と歴史からみて日本語は縄文時代から変化していない言葉の代表ではないかと感じています。
チベットも位置的に干渉を受けにくい地域ではなかろうか。
タミル語も変化の少なかった言葉なのではなかろうか。

類似度が大きいとみえる場合は、双方が変化しにくい状態を保っていたからだ、という考え方もあるのではないでしょうか。



日本の丸木船の次世代に刳舟が登場します。
丸木船の側面に板を張り上げたタイプで、タナ刳舟と呼びます。
さらに次世代では船底も板ないし丸木の削りだし材を接合したタイプが登場します。シキ刳舟と呼びます。
双方の分布が非常に面白いのですが省略。

シキ刳舟の板を継ぎ合わせる方法にはふたつあります。
ひとつは「チキリ」という蝶型の部材を打ち込んでつなぐ方法。
もうひとつは「タタラ」という木栓を埋め込んでつなぐ方法。

どちらも木工で使う手法ですが、木栓は通常ダボといいます。
なんとなくタタラの本来の意味がみえるような・・タタラの舟・・つなぎ合わせた舟。

かたばみ


姫踏鞴五十鈴姫 投稿者:かたばみ  投稿日:10月 5日(土)19時36分45秒

≫村下にとって炉況の管理が最も重要な役目である。第一にホセ(炎)を読む・・

これは出雲の菅谷タタラの棟梁の談話からのものですね。
ホド穴、棒でつつく・・
炎の勢、炎の戸、という分解もできそうです。

燃え上がる、生み出す、女陰のホトは製鉄作業からきた俗称なのかもしれない。
倭迹々日百襲姫の母系の先祖が姫踏鞴五十鈴姫である可能性は非常に高いと思います。
ただし、ホトと箸が製鉄とつながるかはヒントがまだ少ないなあ。


姫踏鞴五十鈴姫は事代主の娘、事代主は国譲りの時の人物で神武 36- 66の妃。
この関係を否定しないかぎり国譲りは神武時代の事象となります。
(記紀は国譲りと神武東征が同時だったといっているわけです、神武東征のボロがみえてる(^^;)

五十鈴とは日向の五十鈴川。
天孫降臨の道案内をしたという猿田彦も日向の五十鈴川の住人。
阿蘇方面から日向に「降臨」するとき、高千穂から五ケ瀬川を下ってくる途中を案内したわけで、伊勢の五十鈴川の地名は後に日向から写したものでしょう(なお、神武の兄は「五瀬」命)。

五十鈴川のすぐ南に耳川があります。
この上流に上八峡、下八峡なんて地名がありまして、いかにも苔むす八岐大蛇がのたくるような地形(^^;
で、後に櫛名田姫の親父はスサノオの宮殿の長となってスガノヤツミミと名乗る・・
ミミとはむろん長官の尊称。

姫踏鞴五十鈴姫も大分〜日向(延岡)あたりの人物。
その兄は可茂別雷命、これを雷神とみるなら兄の方は中央アジア系製鉄と関連する可能性もあります。
(住まいは瀬戸内あたりか)


記紀のいう出雲の国譲りとはどこを譲ったというのか。
各種条件をまかなえる場所は「豊前豊後から延岡付近」しかないとみています。
島根出雲は国を譲った後の大国主が隠居した場所。


姫踏鞴五十鈴姫の妹の五十鈴依姫は神武の子の綏靖 66-78の妃。
その子安寧 78-92の妃は事代主の孫娘の鴨王女。
ここまでは天孫と出雲の「合体王朝」です(血としてはほとんどが出雲になったということでしょう)。
国譲り後の出雲と天孫はしばらくは仲良くやっていたわけです。

ところが安寧の子懿徳 92-105は妃に「天豊津姫」を入れ、その子孝昭105-137は尾張遠祖の娘を妃にいれて出雲と縁が切れます。尾張遠祖とはすなわち天火明。
倭国争乱へ。

かたばみ


“名前”はウソつかない 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 5日(土)10時02分17秒

焼尻紋次郎さん

ヒメタタライスケヨリヒメ=旗艦艦長(環濠集落開拓入植団団長家尊号)冶金占術女王(イスケ<鋳鈴気<#銅鐸の気のあるもの)、この母、セヤダタラヒメのセヤってせやさかい、大阪府高槻市(三島ミゾクヒ)辺りの出でしょうが、なんだんねやろ。アダタラには金のイメージがありますが何か関係はないのでしょうか。

 


 “名前”はウソつかない    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月 5日(土)08時14分35秒

 いろんな固有名詞が現在まで伝わっています。そして、古文書ではそれらの固有名詞さ
んたちが“活躍”します。
 その場合、小生はその固有名詞は信用することにして、“活躍”のほうは「ウソこく
な」という態度でニラミ返すことにしています。なぜなら“活躍”の場は国家形成という
欺瞞の構造に裏打ちされているし、集会にひっぱり出された古老は古老なるが故に、誰か
に養われ、いつも肩身の狭い思いで暮らしているからです。
 「老人、○○については、どういう見識が正しいのか?」と若げ衆から尋ねられたら、
このときとばかり、ナニかを喋らねばならんし、ウロ覚えのボケ頭しぼって、オミキの勢
いを借りて……、結局はウソをこくのでアリマス。
 哲学において、モノはすんなりと共通認識が得られるのに、コト(事)において共通認
識がハチャメチャになってる……、これです。
 国家形成‥‥は、今の北朝鮮、58年前の日本をみれば、いかにウソをまかり通すこと
に長けているかは多言を要しないところでしょう。

 固有名詞(地名、人名、制度、行事)には、のっぴきならぬ真実が張りめぐらされてい
ます。その名前をつけるときに込められた主張や願いが濃縮されて開封を待っています。
 ただし、対象とする発音がイッチョ間違うとすぐにアチャラカ解釈になる宿運を免れる
ことができません。また、古代の名詞には懸け言葉だらけですので、子安貝を掴んだつも
りでも、結果は燕のウンコだったりすることはザラです。

 オトコ紋チャンはそういう落とし穴だらけの道を喜々として、恥かき覚悟で、特攻精神
ばい。バンザァ〜〜イ。


※ ムラゲ……mul(水源・長) AG(火)+ E(強調末尾辞)。形容詞後置形。
  agena ,agano は炉のこと。
  司馬遼太郎さん曰く「ムラゲなどということばが解釈できるようになったときとは、
  それは言語処理手法によほどの革新が見られたときだろう」……と。
※ I-SUSU は「童神・する」の造語法。「童神の力を発揮させる」ぐらいの意味か。
※ ヒメは「HIR・目」。すなわち「長老・目付け叉は神」だからクーガーキングさんが
  睨んだとおり、女とは限らない。神名のヒメの半分は男だと思っていてちょうどい
  い。ここに「黒ヒメ」が光る。


 タタラ アジャ〜カルト    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月 4日(金)13時56分08秒

※ スペインとフランスに挟まれたピレネー山岳地帯に拠って絶滅を免れたバスク人は、ほ
  かのヨーロッパ語とはまったく系統がちがう言語を喋ることで有名です。そのバスクの
  神話に、片目のタルタロという巨人が出てきます。

※ 東京都にいちばん近い埼玉県川口市は、キューポラ(鋳物工場の煙突)の街。

※ かなり古くから金属精錬をやっていた地中海のキュプロス島には、一つ目の巨人としか
  思えない頭蓋骨が転がっていました。じつは、これ象の頭蓋だったんです。

※ おへまの里は新潟と長野の県境のちょっと下流から這い上がった河岸段丘にあります。
  そこから更に信濃川を背にして直角に山手のほうに2時間ばかり歩いたところが秋山郷
  です。江戸期に、ここをフィールド・ワークした記録が残っています。
  秋山郷でもっとも注目させられる風習は、冬でも家人はふとんも寝巻きもなく、筒袖の
  普段着のままゴロンと横になって寝ることです。これはアマカネを連発するモニ族の風
  習とほとんど同じですが、秋山郷で違うのは、板張りの部屋の中央には大きな柱がいつ
  も燃えている点です。
   DADH-(焦がす、焼く)、DAD(柱)、ARA(燃やす、焼く)……。
 
※ 磐井の乱(RAN は戦争)のあった土地に、大刀洗(タチアライ)町これあり。

※ 大野晋教授はタミル語に“フネ”の語源があると、ケッケムクリばい。1世紀に壱岐に
  漂着したスリランカ発の船は、当時としてはどえろうトマートじゃったんやろなぁー。

※ 舟の前後がそりあがっているマタンタタラは大阪府と岡山県下で、それぞれ2〜3艘づ
  つ発掘されていますよね、舳先にMATA(目)が描かれてます。 mata はたしかにエデ
  ン語の目ですが……、MA そのものに舟の意味はなかったんでしょうか?
  マタンタタラの情報は碓井さんが詳しいです。

※ どろの舟はカチカチ山だけでなく、アイヌ民話にも。
  タタラが転意して女陰・舟の要素が強くなったのでしょう。もともと金属精錬はセック
  スの要素が強い。
  地名の大船山、岩船はこれならむ。だからアミ族はイフキ・タタラをどこからか借用し
  た‥‥としかならないでしょう。
  日本語とアミ語との間には13ぐらいしか類似語彙はありません。最低記録です。それ  に較べて、ネパール語との間には1180。


ヤミ族の船、タタラ1  投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 4日(金)13時30分24秒

かたばみさん

>炉の中枢部を大舟、小舟と呼んでいるのに注目。
>舟のような構造だから舟と呼んだのだと思います。今ならフネですが・・
>その炉が登場した時には舟をタタラtatalaと呼んでいた、炉全体をタタラと呼んでいたの>ではないか・・

ホトタタライススキヒメ=炉占術銅鐸樹女王
ヒメタタライスケヨリヒメ=(舳先に首長を意味する目をつけた舟にのる一族の長であり青銅器(鋳鈴気=青銅器)占術女王)首長舟家冶金占術女王
イスケヨリヒメ=青銅器占術女王
と解釈できます。


太陽の里への願いかけ 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 4日(金)13時03分26秒

焼尻紋次郎さん

>しかし、小生が分析したところ、これがアイヌ語でズバリと miru(光り輝
>く)ya(陸地)kana(望む)hi(ことがら)になったには驚きでした。

これは多分正統の縄文語を伝えるものでしょうね。


神罰 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 4日(金)12時56分26秒

狭井川の左の丘はイスケヨリヒメ、ヒメタタライスズヒメのお屋敷、出雲屋敷であり、歴代ヤマトは出雲のヒメの管轄下にあったとするとヒミコの出身地も出雲の可能性が出てくる。大神神社摂社末社のどこを探してもイワレ彦、神武はないようですが、やはり歴史捏造への神罰を恐れてのことでしょうか。
記紀編纂時に朝廷が各豪族におのおのの歴史の提出を求めたところ、稲作の起源である九州から各地に移動し、倭国乱を生き延びた近畿以東の環濠集落より成長した豪族は一様にほぼ同様の神武神話をもっていることに気がついた朝廷はこれを一つに統一しないとおかしいと考えた。こうして統計的におかしくない人工的な話を記紀に挿入した。これが神武神話の始まり。ですから神武だけがおかしいのであって欠史8代などは初代天皇家の家系図としてあって当然。こういうことではないんでしょうか。


ヤミ族の船、タタラ1  投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 4日(金)12時39分09秒

ヤミ族の船、タタラ1 
かたばみさんの
http://www.science-inc.co.jp/meguri/meguri.html#06
には:
「村下にとって炉況の管理が最も重要な役目である。第一にホセ(炎)を読む。操業が順調なときは長吹きホセ(木肌ホセ)となる。黒ホセは砂鉄の装入過剰のとき、赤ホセは砂鉄量が不足で送風過剰のときに起こる。さらに送風口の障害にも注意し、「ほど穴」から時々炉内を覗き込んで、ケラやノロで塞がれていないかどうか観察する。もし付着物があれば「ほど突き」という鉄棒を差し込んで取り除き、同時にその先端に付着したケラやノロを観察し、炉内の状態を判断する。このように炉況の判断は、炎の色、勢いのほか、「ほど穴」からの観察、「ほど突き」の付着物の鑑定等を総合して行い、異常を察知すれば早い時点で修復を図る。」とあるが、この村下を「ヤマトトトビモモソヒメ」と読み替えるるとヒメの死因が分かる。更に「山内社会でも一般社会と同様に、神仏を信仰した。仏教の宗派は色々で、たとえば、菅谷たたら山内では真宗と禅宗が半々であった。たたら師や鍛冶屋の守護神は金屋子神である。その神格は降臨伝説の上でも、男神とも女神とも判然としていない。しかし近世にあっては女神であると一般世人には信じられていた。金屋子神は大旱魃のときの雨乞いによる神助として天降り、その日は7月7日であった。また最初の降臨地は播磨国の岩鍋であったが、この地は手狭ということで、「我は金の神なれば西の方に向かわん」(陰陽五行説では金は西方)と、出雲国の比田に天降ったと言い伝えられている。そう言うことで、金屋子神の本社は比田神社で、そのご神体は女神像である。ともあれ、たたら師達の金屋子神に対する信仰は深く、操業や作業の開始に先立って成功と安全を祈願し、終了後にも感謝の祈りを捧げたと言う。」とあるがこれで命日が分かる。更に、大神神社(宮司中山和敬氏著)磯城ミズカキ宮址(p28)で「金屋の地名通り製鉄に関係のある金クソ、フイゴの口---等が出土」とあり、死亡場所が分かる。結論-「ヤマトトトビモモソヒメ」はAD248年7月7日ころ大神神社の前で殉職(労災適用可能)したのだ。
ご提供の資料では「日本の製鉄の始まりは西高東低で、九州・山陽地方では6世紀前半(古墳後期)、山陰・近畿地方では6世紀後半(古墳後期または飛鳥前期)、東海・中部・北陸・関東地方ではさらに遅れて7世紀前半(飛鳥時代)、東北南部では7世紀の中ごろ、東北北部ではずっと遅れて9世紀ごろ(平安時代)と考えられている。」となり、年表をつけて説明されている。だがこういうHPもある。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/sfuku239/sfuku/tango.htm
http://www.jttk.zaq.ne.jp/sfuku239/sfuku/kyoto.htm
三輪神社の遺跡は天理教会、小学校が建っており掘り返せないが、「ほど穴」、「ほど突き」などの施設、器具が無かったと断定できる証拠もないのだ。


 太陽の里への願いかけ   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月 4日(金)10時25分34秒

クーガーキングさん、沖縄の「ニライカナイ」は、いっちょ前は「ミルヤカナイ」でし
た。ミルヤがいつのまにかニライに変わっていたのです。
 *ni . *nir には地面とか低いという意味がありそうです。nirai は「○○のそば」。
 これだけではニライカナイの意味は確定しません。

 ミルヤカナイに就いては、沖縄生まれ育ちで琉球語を中心に東洋語彙の研究をしてい
らっしゃった中本正智さんが13年前でしたか、雑誌『ゆりいか』にかなり詳しい論述
を発表されています。
 それによると、ミルヤカナイ、ニライカナイともに「太陽の里への祈りかけ」で、
「海の向こうへの……」とはちょとちがう。
 太陽崇拝は、なかったらオカシイと思うのですが、インド亜大陸に氏族の群が蝟集し
ていたころから「オテント様そのものは熱くってかなわねぇ」という思いがあったので
はないでしょうか。
 シナでも、オテント様そのものよりも、そのオテント様を毎日々々空中へ弾きあげる
巨大な扶桑(二股の桑の木)のほうに宗教的意義を置いています。

 しかし、太陽がいのちの本であることには変わりはないと思います。それは雨あがり
の木の枝についた雫のなかに、太陽のカケラ(プリズム)が光るからです。(これを命
とか神だと認識できなくなった現代人は、自ら大不幸を招き寄せました!)。
 Jyan が命です。この jyan が開音(母音づけ)化されたり、意味変化を起こしたりで
janana(女)、janma(生まれ育ち)、janani(ふるさと)などの派生を見ることがで
きます。

 中本正智さんのミルヤカナイ分析は、周辺言語で紆余曲折の末になんとか収まったか
のようです。しかし、小生が分析したところ、これがアイヌ語でズバリと miru(光り輝
く)ya(陸地)kana(望む)hi(ことがら)になったには驚きでした。
 その miru がフランス語(?)のイルミネーションの lumi の転倒、kana もネパール
語に類似語彙があるので kana わんです。


re:温故知新 投稿者:s_tan  投稿日:10月 3日(木)23時09分11秒

iroha-utaさん、こんばんわ

曼荼羅の修復おつかれさまです。修復される若い人の熱意が伝わってくるような気がします。

台風は、備えて雨戸を締めましたが締める必要がなかった、という状況でした。


 



ヤミ族の船、タタラ2 投稿者:かたばみ  投稿日:10月 3日(木)18時05分30秒

ウエツフミには星とみえる神々が大勢登場しますが、縄文から弥生にかけての海洋民の伝承を含むからだとみています。
対して記紀では星神はアマノカカセオのみで、それも悪役になってしまった。
後の妙見信仰は星を読む必要のあった海洋民を源にして復活したものと考えています(千葉氏と大内氏)。
ホツマでは星神はどうなのかしらん?

船のありかたの変化と連動してタタラからフネへの言葉の切り替わりがあったのではないか。
だが船とは無関係のところで用いられていたタタラはそのまま残ったのではないか。
タタラという意味のわからなくなった呼称が今もそのまま残るのと同じです。


弥生初期〜中期の鍛冶遺跡は福岡と長崎に集中しています(10章参照)。
長崎県富の原遺跡から出土した鉄戈は、刃の部分に高炭素鋼を使いその他には低炭素鋼を使っています。
このような鉄戈は半島からも大陸からも発見されていません。
弥生の長崎には謎のスーパー鍛冶屋がいたわけですが、どこの鍛冶屋なのだろう。

沖縄本島国頭の宇佐浜貝塚の鉄滓など南西諸島から多数の鉄滓が発見されており、弥生の南西諸島に少なくとも鍛冶屋がいた可能性を示しています。
インド〜ビルマ〜インドネシア〜戦国時代の呉越に製鉄の時に犠牲を必要とする共通伝承が残るのも興味深いところです。
(ただしフイゴなどは中央アジア系で、日本では両者が合体しているとみえる)

かたばみ


ヤミ族の船、タタラ1 投稿者:かたばみ  投稿日:10月 3日(木)18時03分13秒

≫台湾アミ語 para(原)があります。フィリピン諸語及び他の台湾諸語には bar〜har
≫をもつ原は見当たりまへん。

「フネ」はどんなもんでしょう。船は内陸系ではあまり使わないと思うのですが。

沖縄の丸木船(刳船)はマルキンニ(クリフンニ)、外洋航海のできる板材(剥ぎ板)で作った帆船はハジブニ(サバニ)、大型船は山原船(ヤンバルブニ)、馬艦船(マーランシン、遠洋航海用)といったところ。
サバニは有名ですが300年ほど前の登場で、それ以前は不明。

ヤンバルは沖縄本島の北部の国頭クニガミ地方のことで田舎の意もあるようです。
バルがどういう由来かはおいて、フンニ、ブニの呼称は近世本土のフネの影響下にあるようにみえる。
シン→センに至っては近代かな。
もっと古く、弥生あたりの沖縄では船をなんと呼んでいたのか・・

高床式建物の場合だと、奄美以北では九州型、沖縄以南だと台湾など南方系の形式になるのだそうです。
奄美沖縄が南と北の文化の分岐点。

縄文の沖縄からはメラネシアやミクロネシア系の磨製石斧がでます(丸木船を削るのに都合の良い形態)。
類似石器は小笠原や八丈島からもでていてこちらはマリアナ諸島のものと同じだそうです。
最古では鹿児島の栫ノ原遺跡カコイノハラからBC1万の同様石斧がでています(現物をみました(^^))。


アミ族はヤミ族Yami族とは違いますね。
以下はヤミ族の話。
「えとのす14号/新日本教育図書」1981から参照しています。(たぶん32号で廃刊(^^;)

ヤミ族はかっての高砂族を構成する一員ですが台湾古来の民族ではなく、フィリピンと台湾の中間、ルソン海峡のバタン島からやってきた台湾唯一の海洋民だそうです(それ以前は不明)。
ヤミは鳥居龍蔵の命名のようですが、バタン島をI-Amiと呼ぶことからだろうとあります。

ヤミ族は丸木船から構造船への変化を示す造船を今も行っていて貴重なのだそうです。
小さい方は丸木をくりぬいた単純な丸木船です。

大きい方は構造船で船首と船尾が上向きに突起します。8章参照。

V型船底で舷側にビルジキールあるいはアウトリガーを取り付けますから外洋航海用です。絵では帆もある。
大型船はチヌリクラン、ひとり乗りの小型はピカタギン、ピカヴガン、ピヌヌガンと呼ぶ。
小型船あるいは船の総称を「タタラ」tatalaと呼ぶことが興味深い。


http://www.science-inc.co.jp/main/home.htmlの日本のタタラ製鉄の主要構造参照
炉の中枢部を大舟、小舟と呼んでいるのに注目。
舟のような構造だから舟と呼んだのだと思います。今ならフネですが・・
その炉が登場した時には舟をタタラtatalaと呼んでいた、炉全体をタタラと呼んでいたのではないか・・


神武紀には帆をあやつるとみえる椎根津彦が登場しますが、弥生〜古墳時代の船は櫂をずらりと並べて帆がみえない。
帆は大変目立つはずです。
戦国時代の呉の船では小翼、大翼と鳥に例えて呼んでいます。
これに準じるなら天の鳥船や天の鳩船(出雲の事代主の船)も帆船・・

目立つ帆を描いていないということは帆を使っていないことを示すと思います。
海を渡る船が必要なのは九州だけになって、それ以外では沿岸伝いの船に変化していったのでしょう。
陸伝いであれば星を読む必要もなくなる、航海術も衰退するはず。

本土では船霊信仰がどこにでもありますが、沖縄では「おなり信仰」です。
船霊は船という道具への信仰に移行してスケールが小さくなっているのではなかろうか。
江戸時代の船乗りは星を読むことすらできず、流されて陸地が見えなくなったらサイコロ振って進路を決めたそうです(^^;

ちょっと続く


 バル‥‥ついでに、岩田帯 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月 3日(木)15時09分33秒

かたばみさん、きのふのおらのカキコで「バルは南方系ではない」と断定〜決定されるもので
はありません。その直感をダイジにしてください。
 きのふは長くなったのでベロが短くなっちゃった。
 まず、われわれが観ている言語は“国”語です。ホントーは氏族語を見なくてはならないの
です。いま地上にはゆっくり数えて1万の言語種がありますが、国や金属精錬が始まる前は
200万の言語が「かつ消え、かつ結びて」いたと観るべきだと思います。
 ですから、消えた南方の言語にバルがなかったとは言い難いわけです。
 また、オセアニアや東南アジアは、まったくあたっていません。
 
 きのふは「原、野、広、陸地、巾」で観ましたが、まだ「場、菜園」などの視点が残ってい
ます。
 場のシナ音はdianη〜 tsanη のたぐいですので、日本語はどこからか「バ」を持ってきた
のです。これに朝鮮語のクセ(でもある) L 添えで、BAL が生じたことも十分にあります。

 菜園とか開墾には HAR ,XAR が使われています。古代語は発音はそんなに変わらないのです
が「意味」のほうがどんどん変わります。
 そうだ、タケトラさんからもそのうちコメントもあるだろう。このさい岩田帯の焼き直しや
るべ。
 HAR は「草木の芽がでる」が起源概念と思えます。それは日本語では WAR という発音に
残っています。ギリシャ語では VAR が「春」です。ですから HAR の変化態に BAR がなかっ
たとは云いきれないのです。

 多賀神社は安産の神様だそうです。ナァ〜〜ンでカ? それはネ、フィリピン・タがログ語
で DAGAD が海(産み)だかぁ〜〜ら。オ・レイ!
 このデンで行くなら岩田帯は「イ・ワタ(海)」にもならいしょ(神奈備弁)。すなわち、
「イ・UMI(ウミをする)」です。
 岩田帯にまつわるホツマの行事で、塩を妊婦に舐めさせるなどがあったら、いちおうこの解
釈も成り立つでしょう。
 でもでも、「イ・(ハラ)ワタ」が基本であったればこそ、そういうゴロ合わせ言霊が忍
びでたものだと思えます。

 ことばはかなり煮詰めても、適用はムズカシイですね。これではナンのこっちゃらわから
へん。バル貸して貰ってること感謝しています。


温故知新 投稿者:iroha-uta  投稿日:10月 2日(水)18時16分16秒

今日は。サイト【iroha-uta 生かせいのち】のiroha-utaです。
台風の影響、だいじょうぶですか? 
大師の足跡についていろいろと課題をいただいておりますが、なかなか本題に近づけません。申し訳ありません。

私事ですが、このほど当サイト・トップページの右下にある「四王寺本両部懸曼陀羅修繕情報 up!」のページに掛け軸の表装の様子を写真と共にリポートいたしました。
今、蓮の花に包まれた仏画を表装しなおしてもらっています。
古い仏画から若い職人さんが育って行くと思うと、がんばれ!と声をかけたくなります。
どうぞご覧ください。

http://homepage2.nifty.com/iroha-uta/


西都原サイトバル、台湾アミ語 para(原) 投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 2日(水)11時33分33秒

焼尻紋次郎さん
かたばみさん

>西都原サイトバル、バルと発音するのは沖縄〜九州にみられるようで南方系の匂いがします。
>北九州の糸島(伊都国)の平原遺跡もヒラバルだし。

>台湾アミ語 para(原)があります。フィリピン諸語及び他の台湾諸語には bar〜har
>をもつ原は見当たりまへん。

古くは日本語の「はら」、新しくは「九州、沖縄」の「ばる」が日本近隣では台湾アミ語以外にないという発見は神武東遷中にに目撃され、銅鐸文様にも見られる穀霊を運び丸木舟をこぐ神々の出身地(現在も頭に羽を付けて踊る)アミ族と日本の特別な関係、日本に残るアミノ、アマノ、アメノ、天野、天の等の言葉の語源、海の国かなたの国(ニライカイナ等)の伝説研究に強力な参考資料になります。


 鉄 と 辰 と 龍    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月 2日(水)11時05分59秒

タケトラさん、ゴタ々々忙ちゅう、有り難うございます。
 オシデは膨んだ幣のシデとは関係なく、O(神)SI(の)DE(70の“手”習い……文
字)なんですね。神代文字などという言葉を聞いたことがありますが、“代……ダイ”と
は文字のこととおぼえたり。神文字のオシデはどこが起源でしょうか? ニヘデ−ビル(沖縄弁;あが)。

 タツ(辰・意味は龍)には二通りの語源わりだしが考えられるのでヤヤコシイです。
 ひとつはいとも簡単。TA(神)TSU(龍<LU)。ただし、「lu =龍」がホントーに言
えるかどうかが、哭き所。たしかに、「tsu =龍」はじつにあちこちで匂うのですが銭形
平次みたいな「決めて」に事欠いています。蒙古〜ネパールに lu(水神・龍)が共通しま
す。lu はかなり規則的に tsu へと音転します。
 tsu-ta でないところには違和感を覚えるひとが多いでしょうが、これはまったく気に
する必要はありません。古代は形容詞後置形の「神・○○」の造語法が多いです。

 二つめ;ネパール語 dhatu(金属)が発音できない朝鮮人は、ひねくれて t∫e:t∫
(鉄)と訛った。そんな発音が嫌いな倭人は、これをテツと言った。
  一方、鉄ではなく、金属一般の dhatu が言えない倭人は語頭にイを立ててイダツと発
音し「伊達」という文字を宛てた。伊達男とはキンキラキンシ(si=人)だった。
その後、語頭の D などを発音できる王族が増えてきたとき、“イ”をとっぱらってダツ
……となる筈だったが、語尾音に変化をきたしたか、強調の e を添えてダテが定着した。

 タツ(辰)の成立については「カニシ(金属精錬士)の強執」が転位する現象を桃って
いただく必要がありますが、長くなるので『ユー・アイ掲示板 2 言語篇 』
http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html で bonゴザを広げやす。


※ 台湾アミ語 para(原)があります。フィリピン諸語及び他の台湾諸語には bar〜har
  をもつ原は見当たりまへん。日本語とは僅少な類似語彙しか出さないヘブライ語に
  har(原)があるのは注目させられます。
  蒙古語 halu:l(平原)があります。u:l は山ですので、ここに hal(原)。
  タジク語; bar(陸、陸地、横巾、巾)。
  クルド語;barin(広々とした)。-in は“鏡”のところなどにでてくる末尾辞です
  ので、これを除外すれば bar(広)。アイヌ語にも para(広くある、なる)。
  起源的(?)には印欧祖語 *par-(遠い>ハルか)。
  bar ,har が bara ,hara となるのはパーリ語的開音(母音づけ)化による。
  √♪ 越えた峠のハロけさよ……名曲、山のけむり。


鬼道 投稿者:tan  投稿日:10月 2日(水)08時17分42秒

『魏志』倭人伝の卑弥呼の鬼道、「鬼道に事(つか)えて能く衆を惑わす。」
陳寿の『三国志』なかのひとつですから、陳寿がどのように鬼道を使っているかですが、
『魏志』の張魯伝(ちょうろ)や『蜀史』の劉焉伝(りゅうえん)にも「鬼道」の表現があり、いずれも道教を指していると思われる(この場合は五斗米道)。
道教(原始道教)に反乱を加味しての鬼道の使い方とすると「まつろわぬ者」との意味合いも入っている可能性が高い。
陳寿が道教を発展させた?のが卑弥呼だと考えていた、というのはちと早計かもで、シャーマニズムにプラス道教というほどの認識ではないだろうか。
黄巾の乱の始めの主導者・張角の一族は、その後の様子がはっきりしていない、中国では反乱者の末路は明記するのが殆どにかかわらず。この辺りが気になるというか色々可能性、有と思える。

鬼→先住覇権者?、まつろわぬもの。
この辺りは『鬼の日本史』】沢史生著、1990.6.15,1992.5.10。彩流社。が面白い展開を載せている。


DKさん 投稿者:管理者  投稿日:10月 2日(水)02時33分53秒

たまには、ちょびっとでも誠意ある返事をしないと。。
かる〜く、と、おちゃらけ続き、とは違いますよ。
イエローカード、何枚かでてるわ。


出典・・・何だったっけ? 投稿者:D.K  投稿日:10月 1日(火)23時42分00秒

HPを作ると暫くボケてるんでまた調べときます。
東三河絡みの情報の裏取りも面倒だし、
聖徳太子がこのエリアで云々の話もあって
痕跡を周りたいのに疲労困憊で。

卑しいミコは鬼の道を行って衆を惑わしたそうな。

お婆さんが川に洗濯に行くとピンクのお尻が流れてきたそうな。

桃太郎の三匹の家来、他の話にも出てくるキャラらしいですね。
調べたかったのにゴチャゴチャしてて。

 


若い衆 投稿者:かたばみ  投稿日:10月 1日(火)23時19分17秒

≫うちの若い衆がお粗末な傷害事件に連座してほうり込まれて

おつとめご苦労さまです(^^; なんか勘違いされそう(^^;;;
魚河岸はやっぱり喧嘩っぱやいんですね。


≫。「タツ」は<善玉>、「オロチ」は<悪玉>風に語られます。吉野裕子氏に聞けば、

蛇が一方では日本古来の鹿に置き換わり、もう一方では渡来文化の龍に置き換わったのではないでしょうか。
龍はダイレクトに水、登場はやはり農耕と連動していると思うのです。
蛇+鹿の角=龍かなあ。
鹿への信仰の方が先行していますが、そのイメージならすんなり受け入れ出来そう。
角のある蛇、夜刀神あたりがその中間的な状態か。

メソポタミアでは絡み合う蛇(森?)がライオン(草原)と戦いそして消えてゆきますが、日本では森が消えることがなかったために蛇も生き残ったのだと思っています。

ps.
戦後最大の台風というのが頭上を通過したらしいのだけれど・・
おかしいなあ、風も吹かないしたいした雨も降らないし???

かたばみ


西都原と鬼 投稿者:かたばみ  投稿日:10月 1日(火)23時08分57秒

≫鬼道とは・・・日本の先住民族も鬼とされた事がありますね

出典はなんでしょうか。
卑弥呼の鬼道は人種とは関係ないと思うけど。

桃太郎の鬼退治、こちらは具体的に鬼みたいな風貌のだれかと戦ったのだと思う。
原則として鬼、天狗には褐色肌の渡来人の存在があるとみています。


≫賽の戸」のトはどう解釈して

なんにもないです(^^; 単にドアでいいと思っています。
1音だけじゃ似たものがぞろぞろでてきそう、ひょっとしたらドアだって。

閉じるべき場所との境界線、そこを通る場所があるならそこを扉で閉めておく、単純にそういう感覚じゃないかと思います。

賽の戸がある野原。
西都原になったのはずっと後に仏教の影響化で西方浄土のイメージと大和の都の西にある霊場を重ねてのことではないかなあ。
古墳時代の舟形埴輪も西都原へ死者を運ぶ船を模しているものと考えています。

西都原サイトバル、バルと発音するのは沖縄〜九州にみられるようで南方系の匂いがします。
北九州の糸島(伊都国)の平原遺跡もヒラバルだし。

かたばみ


トと龍  投稿者:クーガーキング  投稿日:10月 1日(火)21時04分13秒

沼津湊 タケトラさん

ホツマは邪馬台国ヒミコ/古墳時代に既に消滅した狗奴国版の記紀の相当するもので密かに伝えられたヤマトの記紀に対する裏版であろうと思われます。これと記紀、風土記をすりあわすことのよって完全な弥生神話と弥生古代史が復活するのではないかと思います。しかし既に作成されたときから相当痛めつけられたものであり、又後代にも体制側の相当の劣化作業(低劣卑俗なものを入れ風格を下げると同時にヤマト有利な話を強調する)等の手が加わったのではないかと思います。しかし、北海道、東北を中心とする縄文文化の正当な継承者であるエゾ、ヒタカミ、ホツマを中心に描くホツマツタエにこそ日本本来の歴史が封じ込められているのではないかと思うのですが。


トと龍 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日:10月 1日(火)11時46分57秒

クーガーキングさん
>(東西の境が)追いやられる、西遷させられる要素以外に稲作を習得した地元民がこれを防御するために柵を作るということも。。。
#稲作についての、『ほつま』の語りについては、しばらく考えをまとめています。『ほつま』は農耕賛歌の叙事詩とも読める内容です。「いね」と「ぞろ」そして「うむぎ(大麦か?)」などの使い分けなど、興味深いことが色々あります。

紋次郎さん
>ホツマの内容となったら、いよいよコロされそう。でもケッケムクリ(豊後方言)読みました。
#長文お読みくださり、感謝します。

>ぜんぶ質問したら、アへアへに。。。
#そうなんです。>岩田帯 についても、『ほつま』では、貴重な語りがあるので、纏めたいのですが。。。

>※ 瓊はトと発音してもいいのでしょうか?
#『ほつま』原文は、ホツマ文字(オシデ)で記述されており、漢字表記はありません。「瓊(と)の教え」や、瓊々杵尊の漢字表記は、記紀表記を援用しているだけです。「トノオシエ」を「瓊の教え」と表記しているのは、ヤマトフミ日本書紀の「天之瓊矛」からの援用(*)です。学会では不詳表現とされている「ト ホコ」(『古事記』では沼矛)が、『ほつま』の「瓊と矛」に関する言い伝えに語源し、その後、誤読されていたけれども、『ほつま』読解によって初めて意味が明らかになった、という『ほつま』研究者の立場によります。(*ニニキネが「瓊(と)の教え」の実践者だつたという「掛け」もあります。)

>瓊々杵尊はトトキネと発音して。。。
#『ほつま』では、この発音表現はありません。
幼名キヨヒト、称え名としてワケイカツチ、ハラヲキミ、イヅオオカミがあります。

※ 海人族とも関係が認められるとのことですが、ホツマには“龍”は出てきませんでしょうか?
#「タツ」が、頻出します。何とか整理してみたいです。蛇は「オロチ」として、スサノオの物語他で、やはり頻出します。「タツ」は<善玉>、「オロチ」は<悪玉>風に語られます。吉野裕子氏に聞けば、とんでもない、と一蹴される役者立てです。「タツ」といえば「タツタヒメ」に関するくだりも興味深いのですよ。

 しつかりお伝えしたいのですが、うちの若い衆がお粗末な傷害事件に連座してほうり込まれてしまつた! り何やで、バタバタしています。ご勘弁。


 √♪ アーノ・コーの黄色いリボン   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日:10月 1日(火)09時32分13秒

かたばみさん、言語考古学が陽の目を迎えることができた……ら、のハナシですけど、ヒミコ
の就任は7歳まで繰りあげても宜しい。&、男子王とあるはクマル(男童神)なるらむ。
 流行の名前だとするとヒミコは地中海に流行っていたヒミルコさん。アイシンカクラ・ヌル
ハチさんは沖縄義賊のヌルハチ……(意味は炎の棟梁)。

 えびの市民にちょと朗報。E は「格上の」。みやびのビは「○○風の」。NO はひと or 神。
 おらが売りに行ったブルーベリーの苗木を斡旋してくれてワンサと注文くれた市デシタ。

 黄色いハンカチもネクラ・ムードいっぱい。青龍(東)、朱雀(南)、玄亀(北)、白虎
(西)……これらは人類共通の色らしい。ただし、あちゃらかの心霊世界で。
 密教では中央が黄色……これもかなりアチャラカ共通語。

 D.K さん、縄文がアメリカ……。これもコロされそう。
 じつは横ワレメの童神の目はメキシコにもあるそうで……アフリカにも。だから2万年前。
場所はインド亜大陸。逗子市の斉藤守弘さんと相談したらそういうことになりました。


※ 「賽の戸」のトはどう解釈しておられましょうか? 古代単節音の「ト」には13〜15
  の意味があって、戸惑うことシキリです。
※ BALA は「こども」が基本。氏子と訳したいところです。
※ 先日、-cci と紹介しましたが、-icc がホントーです。kuiccya は性欲。iss にもなる。
  サギッチョーの SAG は *AK、*AG(火)に強調接頭辞の S- がついたものと断。
  「火にいっしょけんめいになること」。バビロニア語;AKI(火)。ペルシャ語; *AT
  (火)。アッチチチ。強調接頭辞 Nー がついて夏。

http://www.you-i.org


鬼道先史 投稿者:D.K  投稿日:10月 1日(火)01時41分37秒

鬼道とは・・・日本の先住民族も鬼とされた事がありますね。
ユダヤや修験で頭につける角のような物をもって鬼と見ていた
物なのか、と言った一般的なものではなくてぇ・・・
魏志倭人伝って悪口ばっかりじゃん、悪い漢字ばっか使って。
黄巾の乱で悪者にされた道教集団も古代の日本と繋がりが
存在した先住系の神々を祭ったものだったと思うんですよ。

で、東三河の地名が移されたのは古事記の編纂等から
先住系の重要な物を封印した可能性が強い様ですよ。
縄文ってアメリカとの交流まであったそうで、汎世界的な
文化交流があったのか、歴史研究の時代的な意味が
この辺りにありそうな気がするんですよ。

 


邪馬壹国時代の九州 投稿者:かたばみ  投稿日:10月 1日(火)00時10分12秒

自説では・・
神武 36- 66 金印57  男王住むこと70〜80年 (九州統一、国譲り:自説)
綏靖 66- 78            | 隼人系の兄を殺害
安寧 78- 92          安定時代
懿徳 92-105            | この頃岡山に大王級古墳登場
孝昭105-137 師升朝貢107(後漢書) ↓ 就任挨拶と推定 妃は尾張系
孝安137-175 倭国乱、桓帝〜霊帝(147〜189)の頃(後漢書)
      この頃「女子」が就任 卑弥呼の使者173(新羅本紀)は就任挨拶と推定
孝霊175-204 倭人大飢饉193(新羅本紀)
孝元204-225 
開化225-248 狗奴国と抗争 魏の使者、難升米を魏に送る240 
    卑弥呼没240〜、壹与13才 (魏のお墨付きを得て男王開化が出雲占領へ:自説)
崇神248-273 大和占領

卑弥呼の即位期間を最短とみれば67年、15才就任で83才没ですから90才前後はいい線だと思います。
(高句麗の広開土王の子が98才の長寿王)

孝安、孝霊、孝元は卑弥呼支配下にあったどこかの男王でしょう。
先代旧事本紀では懿徳天皇−「孝照天皇」−孝安天皇−「孝照天皇」−孝霊天皇と同名天皇が登場しています。
伝承も混乱していたためだとみています。


韓国岳の名称の解釈はむずかしいですが、いつごろから登場した地名か、ですね。
漢ではなく韓ですから、今のところ応神時代あたりか、720の隼人の乱征討の大伴旅人あたりが臭うかとみています。
その北西にある「えびの市」はいつからひらがなになったのか知りませんが「夷野」じゃないかな。
夷と称される地域であることを知っていただれかがつけた名だと思うのだけれど。
徐福はこちらの方が臭うとみてます。


西都原とは「塞の戸の原」じゃないかなあ。倭国の総合霊場です(^^;
生きている人間の住むところではなかった、ために墳墓ばかりで集落遺跡がないのではなかろうか。
卑弥呼の鬼道とは死者(鬼)を封ずる楚の祭祀(鬼道)にイコールと推定。

漢書地理志では楚の信仰について「巫鬼とは巫者が鬼神を祭祷して福を請うなどの方術」とあります。
黄河系の文化圏からは楚の祭祀は邪教のごとくみられていたようです。
(儒教と道教の対立と同じでしょう)

1986、87年に長江中流域洞庭湖の北にある荊門市チンメンで楚の鬼神信仰を詳細に記した簡帛資料が発見されています(簡帛:カンパク、竹簡や木簡に書かれた古文書)。

以下鬼神信仰に関する抜粋
「鬼神とは死亡した人間の霊のこと」
「鬼は生人には見ることができないが、それをみることができるのが巫者で・・」
「巫者は鬼の正体を暴くのに、鬼を日月の光に照らしたり、鏡に写したり・・」
「鏡は大きい方が良い・・」
などなど

卑弥呼が鏡を求めるのは必然。
後の三角縁神獣鏡が20cm級と大きいのも鬼神封じに用いる鏡だったからだとみています。
古語拾遣では崇神が護符のために鏡を鋳たとあります。

かたばみ


第5回 霊性文化研究会開催 投稿者:universal_forum  投稿日: 9月30日(月)23時57分07秒

とき:平成14年10月20日(日曜日)13:30〜16:30
ところ:花園神社社務所百合の間<新宿駅7分/地下鉄新宿三丁目駅5分、伊勢丹の北>
講師:菅田正昭(神道&シマ文化研究家/宗教史家)
テーマ「琉球の島々と神々〜特に大神島と久高島の御嶽(うたき)について」
参加費:3000円 ユニヴァーサル・フォーラム会員2000円(年会費4000円)
申込先:TEL.&FAX.045-584-0281(杉浦) e-mail:universal_forum@yahoo.co.jp


「世界の古代文明を考える」講演会開催 投稿者:universal_forum  投稿日: 9月30日(月)23時42分02秒

「ユニヴァーサル・フォーラム10月例会講演会」
とき:平成14年10月13日(日曜日)13:30〜16:30 終了後:懇親会
ところ:かながわ県民センター304会議室<横浜駅西口5分、三越の手前を右折>
講師:高坂和導(宇宙医学研究院学院長)
テーマ「“超不思議”世界の古代文明を考える〜アフリカから縄文土器が出た!」
参加費 一般3000円 会員2000円(年会費4000円)
    初参加で前もって申し込まれた方&学生2000円
申込先:TEL.&FAX.045-584-0281(杉浦) e-mail:universal_forum@yahoo.co.jp


ホツマ圏と穂のくに  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月30日(月)14時02分43秒

沼津湊 タケトラさん
 
>しかも、その東国の境は「勿来の関」と「白河の関」から「不破の関」と「鈴鹿の関」に西遷さ
>せた、という不思議があるわけです。

魏志倭人伝に言われる邪馬台国/ナカクニ(近畿・山陽地方)と狗奴国の対立を考慮するとこの国境移動はヒタカミがホツマ(関東地方)、コヱ(中部地方)を侵略、又はホツマ(関東地方)&/ORコヱ(中部地方)がヒタカミを引き込み、ナカクニ(近畿・山陽地方)と対置した際、国境線/戦線を移動したのではないかと理解すると魏が「因りて詔書、黄幢を齎して難升米に拜假し、檄を爲して之を告喩せしむ」という極めて大きな危機感を背景としたナカクニ(近畿・山陽地方)救援政策を打ち出している理由がはっきりといたしますが。


 固有名詞は普通名詞に還元できるはず  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月30日(月)13時19分17秒

かたばみさん、こんな優秀な地図、毎日おがんでいたらバチが当たりそう。日本じゅうの
人に見せてあげたい紋です。

 地名が飛び梅みたいに飛んでゆく現象は、小生は否定しません。しかし、そこには数種
の法則が咬んでいるのではないか……を直感しますがーー。
 まず、それを読むほうのクセ。「地名の意味なんざ分かるもんか」というねっからの絶
望が絡んでいないだろうか? それがたまたま、あっちとこっちに同じ発音の地名があっ
たときには「オヤッ?」を感じるのではないでしょうか。
 古代人が地名を背負って移動させるときには、大略のところで「込められている内意」
がわかるものだけを動かしているのでは? 
 小生が育った稲築町から南を望めば、ウマミ、ヘイ、コショという三つの峰が聳えてい
ます。その山を越えたところが上杉鷹山を出した秋月(藩)で、その手前の丘が秋月藩の
墓地でハセ山といいます。この三峰で“飛び地名”やらかしているのはウマミだけです。
(ハセに関しては大モンダイこれあり ……badsaha=王)。

 インチキ発掘屋がさかんに活躍していたとき、小生は「東北にはすげぇ学者がいるんだ
なァ〜」と思いました。
 岡山には近藤さんがいます。名誉教授だそうです。このひと、医学部にいたのでしたが
担当教授(?)を殴ってまで方向転換をやり遂げたご仁です。
 国民が血税払ってひとりの医学生を育てようとしていた。それを拒否した。
 結果は納税者はナットクしたのだろうか?? ナットクしたことにしてあげませうネ。
 他地域の古代開発が比較的に遅れているという判断もダイジかな?

 岡山県は警官のなり手が日本一。もいっちょ、雇われて神楽舞いをするグループが200
もあります。


 タケトラぶし・震撼 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月30日(月)13時18分26秒

 ワァ〜、タケトラさん、ちょっと質問したら、長文を書いてもらって……、感謝々々です。
 それにしてもタケトラさん、づーたい(図体)が大きいですね。同じ湯舟に入ったら押し潰され
てアヘアへです。(コラボのラボはラベンダーの lav で、風呂入りのことだと……、かたばみさん
ゴメンちゃい)。

 ホツマの内容となったら、いよいよコロされそう。でもケッケムクリ(豊後方言)読みました。
 読んだらまた、質問がいっぱい出たんですが、ぜんぶ質問したら、こんどは誠実なタケトラさん
がアへアへになります。そこで、二つだけお恵みを……!
※ 瓊はトと発音してもいいのでしょうか? 瓊々杵尊はトトキネと発音しても、それなりの意味
  が出そうですが……。
※ 海人族とも関係が認められるとのことですが、ホツマには“龍”は出てきませんでしょうか?
  「ツ=龍」が言えると、ホツマには樺太に入ったオタシュツ・アイヌと同じ意味がでます。

 あとは、愚者のぐだめき(津軽弁)と、読み捨ててください。
※ 古代では「マ」だけでシマ(領界)の意味があろうことかと思われます。沖縄では健在です。
  また、「マ」には mal (朝鮮・ネパールで事物)が言えて、日本語ではこれがマエかと。
  また、マ(空間、隔たり)もインドに認められます。古代では特に柱と柱の間(マ)。

※ 原見山【富士山】../..★ パーリ語;phalaka(柱)。
※ 三種の宝../..★ 瓊と鉾と……やっぱ鏡がはいるのかなぁ?
※ ソ、ソアサ……アサモヨシ(紀・紀の川は四国にも)。馬=アサ。


弥生の九州、吉備、富士 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月30日(月)08時05分11秒

ああ。サイトBALA 焼尻紋次郎さん
雲仙、高千穂の韓国岳は徐福探検隊が最初に調査した場所であると思っています。日本人がこんな名前をつけるのが不思議。

ホツマ圏と穂のくに 沼津湊 タケトラさん
コノハナサクヤヒメの伝説が富士を中心にあること。その付近には多くの稲作弥生遺跡があること。また、富士山は徐福探検隊のターゲットとなった可能性があることを考えても富士山山麓の宮でしょうか。
追いやられる、西遷させられる要素以外に稲作を習得した地元民がこれを防御するために柵を作るということもありえ、却ってこの方が説得性があるような感じがしますが。

弥生の交易路 かたばみさん
新羅本紀173年は霊帝6年目、天理市東大寺山古墳金象嵌太刀の中平AD184-189の銘、桓霊の間を絞めて考えればこの頃の共立もあり得、AD238-239のヒミコ朝貢間で待つまでも無く卑弥呼就任ということでしょうが、推定没年をAD248とした場合、就任後75年が経過していることになります。15才で就任したとしても齢既に90才はどうかな。15年程度は新羅本紀の信頼度を差引いて上記の中平の太刀を祝賀の品とみて、中平の頃即位としてはどうでしょうか。
宮崎-岡山-奈良。何か神武的なルートですね。神体石には縄文時代からの呪術的イメージもあります。鬼道の一要素でしょうか。
串間から穀璧、戦国時代の中国から宮崎向け上陸地点(鹿児島県の串間志布志湾)ですね。
邪馬台国女王共立の起案者は岡山〜兵庫あたりで、各国、出雲、北陸、九州、関東辺りがこれを支持ということですか。(吉備時代というか、相当発言力もあったのでしょうね)。

 


弥生の交易路 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月29日(日)23時59分46秒

まず弥生時代の推定交易路をごらんください。


交易の要衝かつ農耕地のある地域で有力勢力が登場するはずです。
北九州、瀬戸内沿岸〜兵庫、奈良大阪がまず筆頭と思います。
次いで農耕地の大きさとして伊勢濃尾〜東海(温暖では宮崎)。
交易路として若狭(島根で若干)。

食料に問題なければ文化の栄える地域はまず北九州、次いで瀬戸内でしょう。
国内文物の集散地は奈良、中国文物の発進地は北九州といったところか。


D.Kさん
≫地名が東三河から移されたと言う資料

BC100〜AD50頃までは温暖期間でもあってこの交易路が繁盛していたとみています。
当然ながらこの交易路上では文化と人の移動があるはずで、ある人が別の場所に住み着いたとき、故郷の地名を用いるかもしれないですね。


クーガーキングさん
≫宮崎でホケノ山古墳を上回る規模の木槨墳

地元だけあって宮崎日日新聞の記事も面白いです(27日付け)。
檍1号古墳アオキはホケノ山と同じくホタテ貝に近い形状。
邪馬壹国は日向〜宮崎の説なので(^^)です。

木槨墓は前漢の樂浪〜新羅や伽耶に多い方式。
新羅本紀173年に、卑弥呼の使者が来訪という記事があるのですが、なぜか「間違いであろう」だけで片づけられているようです(^^;
弥生時代に半島と無縁のはずがありません。
この年は卑弥呼が就任したであろう年に一致しています。就任挨拶、私は正しいとみています。


岡山県から多数の木槨墓がでているようで、AD1〜100頃の楯築遺跡や黒宮大塚(前方後方墳)などが有名です。
後の前方後円墳などの原形がここにあるとされています。
楯築遺跡から出土した神体石をご覧ください(日本の古代遺跡23岡山から無断転載(^^;)。

神体石なんていうとどうもその筋のほうへ傾きやすいですが(^^; これはれっきとした考古学出土物です。
ここからは「仙人」のイメージを感じざるを得ません(徐福・・葛城・・役行者(^^;)。

おまけ(^^;
鹿児島県の串間から穀璧が発見されていますが(8章)、それとそっくりの穀璧が戦国時代の中国にあります。


副葬品からも大王的古墳の発祥はAD100頃の岡山だそうで、大和じゃないことが重要です。
楯築遺跡は円墳に作りだし(でっぱり)が付属して、頂部に石柱が何本も立つ特異な古墳。
自然発生的な古墳は弥生時代後期に文化と生産力の双方が存在した地域から生まれると思います。
地元の王の登場、それが岡山〜兵庫ではなかろうか。

九州で早い時期に大型古墳が登場するのは宮崎日向、別府湾沿岸、熊本の宇土半島です。
弥生後期に地力のあった地域にイコールだと考えています。
筑前筑後では数は多いけれど小型ばかりです。

かたばみ


タケトラさん 投稿者:D.K  投稿日: 9月29日(日)19時32分49秒

桓武天皇が遷都の調査をした時、静岡西で焚書を行って、
都田と言う名前がついたとか、調べると事欠かないのが
このエリアです。文武天皇や後醍醐天皇辺りの話も
結構ありますね。


ホツマ圏と穂のくに 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日: 9月29日(日)11時57分25秒

クーガーキングさん
ずいぶん前の投稿を取り上げて失礼いたします。
>ホツマ圏の中心地を諏訪とすればこれとヤマト以西の西日本を結ぶ媒介は海人族ではなかったのか、山国の諏訪は皮肉にも海人族の中心地であったのではないでしょうか。

#「西日本を結ぶ媒介は海人族」には、もちろん同意です。『ほつま』には、船にまつわる話が頻出しますが、西側に限ります。ただし、西側といつても、黒潮文化圏の南九州から鹿島灘までと対馬海流沿いの能登半島までの全地域、即ちヒタカミ以外(*)を総て含みますが。(*オオナムチ<大己貴命=『ほつま』ではスサノオの子君で初代オオモノヌシ大物主、オオクニヌシとも称された 本名クシキネ>が、国譲り後の後半生を過ごしたとされるヒスミツガル(日隅津軽國)は、ヒタカミの境界外にあるように読みとれます。)
 シナノあるいはナカヤマという地方(クニ)概念が『ほつま』にはあります。諏訪は、その中にはいるようです。故に「ホツマ圏の中心地を諏訪」とは、『ほつま』は語りません。中心は、富士山山麓の宮です。もつとも、「ホツマ」クニはニニキネの治世に拡張しコヱやナカヤマをはじめ、狭意のヤマト、そしてヒタカミ以外をどんどん取り込むのようにも語られている(それが、シワカミホツマ磯輪上秀真国)ので、諏訪がホツマ圏に含まれるという理解は成り立ちます。
 いずれにしても、東の文化圏(津軽と越のぞく)に対して、西の文化圏が海人族であり、諏訪もその西文化圏に属するわけですね。問題は、海人族には何派(何波)もあつて、何頃かの時点から今来が、古渡を、東国文化圏に追いやつた、ということ。しかも、その東国の境は「勿来の関」と「白河の関」から「不破の関」と「鈴鹿の関」に西遷させた、という不思議があるわけです。
 DKさんの見解(というか、示唆というか謎々なのか)は、愚生のような浅学にはちんぷんかんぷん、なのですが、「穂の国」の存在が不透明なのは、かつての「コヱ」クニの伝承によるところがあろうかと愚考します。即ち、「ホツマ」クニとともに「シワカミホツマ」の文化圏を形成したが、一方で「ヒタカミ」聖地崇拝には、若干遠い立場、むしろ近江琵琶湖にも聖地性を強く意識する風土だつた。にもかかわらず、東国文化圏に追いやられた。その歴史経緯が、反ヤマト意識を産み、反比例してヤマト歴史観からは黙殺された。のかしらん。


 ああ。サイトBALA 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月29日(日)11時52分25秒

 きのふからメチャ優秀な地図眺めながら、左からゴツン、右からゴツンと頭をぶん殴ら
れています。
 tan さん、おらのパソコンでは地図がダブって浦和周辺が見えません。どうすればいい
でしょう? 野田南には運河の位置が見えてたのしい限りです。
 行田で遊んでいただいて有り難うございます。ぜひ足の立つところで暗渠を割り出して
頂きたい紋です。
 そういえば、武蔵大橋の近くには水資源管理事務所みたいなのがあって、50人ほどの
職員さんが詰まっています。ここはかなりな有力情報があるのかもしれません。

 かたばみさん、奈良盆地はライバルどうしが群雄割拠する地形でもありますね。
 見ていたら、地図を煎餅みたいにして両手でプチンと割って食いたくなりました。こん
な衝動に駆られたのはおらだけやろか?
 トヨとはどういう意味でしょうか? トヨムともまた違いますよね。同じ「豊」をいろ
いろ読ませます。シナ音は「ピオング」が古く、「ホグ(祝ぐ)」にもなりそうです。

 D.K さん、ミナシャン、http://www9.ocn.ne.jp/~kyousi/ を御覧ください。
 D.Kさん、いい名前ができそうですね。

クーガーキングさん、かたばみさんの「塩気ナシ、水はけ」の観点から言っても、海賊の
観点からみても、宮崎は大規模農業を産む土地柄だと思います。神武東征みたいな事実が
出ないわけがない。そういえば、ここにもサイト原。

 あ、高千穂の韓国岳の「カラ」に山頂の意味があります。山頂で ku-ni(イフキ)した
場所……。!! 言語種は言わぬが鼻ならまし。


ホツマとヒタカミ 後半 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日: 9月29日(日)10時54分45秒

(前半に続きます)

二神【イザナギ イザナミ】が国を治めるのに用いた瓊と矛の神宝のうちの瓊
とは、まさにト神【トホカミヱタメ八神のうちのト神】との一体化に導くため
の瓊の教えを記した璽(をしで)に他ならない。さらに国号としての「ヤマト」
とは、弥々真(いよいよまこと)の瓊の教えが人々に浸透したことを示す弥真
瓊の省略形なのである。『秀真伝』の思想的根幹をなすところの瓊の教え、あ
るいは国号としての「ヤマト」が原見山【富士山】の麓にある宮を治め、のち
にその上の天界に鎮座したト神と一体なものであった。秀真国における原見山
は、天界に鎮座する神と地上における政事とを結びつける上での重要な地点で
もあると考えられていたのである。神武天皇以降、政事の中心は大和国に遷る
が、それ以前の神代においては、日高見、伊勢と並び、秀真国は極めて重要な
地点であった。このように考えていくと『秀真伝』という書名を、神代におけ
る祭政拠点としての秀真国の古風を伝えるという息味で撰者である大直根子
(おおたたねこ)命が付けたのであろうことは、充分推察できることである。
さらに参考となることがある。「秀真伝序」における大鹿島(おおかしま)命
の讃はほぼ叙事的な記述方法をとっているが、その中で「今天皇の天君はみな
瓊々杵尊の稜威(いづ)による」〔序の五〕とし神武天皇以降のいわゆる天皇
と瓊々杵尊との関係を重視している。すでに述べたごとく、瓊々杵尊は秀真国
を大いに興隆ならしめた天君であるから、項々杵尊の業績を特に尊崇するとい
う意味において『秀真伝』という書名を冠したとも考えられるのではないだろ
うか。
【 】内は愚生加入

#「ヤマ」「ト」が「ホ」「ツマ」と語意的にほぼ対応するという理解になるのでせうか。

 クニ名称としての「ホツマ」について、鳥居礼氏は以下のようにまとめています。

 十一紋に「名こそ得る かねて秀真と 日高見の 境(さか)に出待つ 経
津主命(ふつぬし)が」〔一一の六〕とあるが、この「境」とは勿来(なこそ)
の関であることが前後の原文から推察でき、同時に勿来より北を日高見国、南
を秀真国としていたことがわかるのである。さらに二十四紋に、瓊々杵尊の御
世に原見山(はらみやま)[現在の富士山]の裾野を開拓し、国大いに栄えて磯
輪上秀真国と讃えたことが記されている。また瓊々杵尊の子の火明梅仁(ほあ
かりむめひと)尊の宮は原見山の裾野にある酒折宮(甲府市酒折三丁目に酒折
神社がある)であるが、これを秀真の宮と称したこと、その他『秀真伝』に記
された記述から、秀真国の中心が原見山であったことは確かである。西方の秀
真国の国境に関する記述は見あたらないので明確なことはいえないが、現在の
静岡県あたりまでであろうか。いずれにしても、原見山を中心にした国が秀真
国であったことは確かなことである。

#天照大神の治世には大八州(おおやしま)と呼ばれる如く、『ほつま』では、
ヒタカミ(東北地方)、ホツマ(関東地方)、コヱ(中部地方)、ネ(日本海地方)、ナカクニ(近畿・山陽地方)、ソサ(紀伊半島)、ソアサ(四国地方)、ツクシ(九州地方)の八クニに分けられていたとされます。(異説いろいろ有り また時代が下るとクニ名が増える)
 先に「(*『ほつま』では、東西<中央>南北を「キツ<ヲ>サネ」ともいう。)」と紹介しましたが、愚生が愚考するに、

 ホツマはヒタカミに対してツ「西」にある国、タカマ(高天原)に対する西の「マ」。「ホ」を火系の表意とすると「西の火のクニ」。「ホ」を穂とすると「西の瑞穂クニ」。掛けているのでせう。
 ヒタカミは、ホツマからみてヒ「陽」出づるタカ「聖なる」クニ。
 コヱを「豊饒」のクニだが「越え」るとひときわ別の文化圏となり(*)、ナカクニ中心に北に「ネ」、南に「ソ-サ」と「ソア-サ」、西に「ツ-クシ」の国々があると了解されていたと、語つているのではないでせうか。(*ヤマトの時代からは、コヱから東が東国。だから、ヤマトフミ日本書紀には富士山は登場しない。)

 


ホツマとヒタカミ 前半 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日: 9月29日(日)10時53分28秒

紋次郎さん
>タケトラさん、ホツマの「ツマ」は「つまびらか<隅っこ」でしょうか? 
#「ホツマ」語意の源については、しつかり追究されているとは、まだいえない段階です。

『ほつま』再発見者の松本善之助先生は、「すぐれた」「格助詞」「まこと」と説明されています。直系弟子の池田満氏は『ホツマ辞典』で、「秀でたこと」「強調」「まこと」、即ち「まことの中のまこと」と語意解釈しています。

 ホツマ出版会から会報『検証・ホツマツタヱ』が発刊されました。(木元さんのご紹介。<隔月刊 年間購読二千円 ホツマ出版会 〒107−0051 東京都港区元赤坂1−5−1 宮永 光雄 気付>)

 その創刊号に朝間ヒラク氏が「『ホツマツタヱ』真書の証明」を寄稿していますが、その中で

「ホツマ国」を神武紀三十一年条で「秀真国」(秀れて真なる国)と表記したの
は、八世紀の誤訳である。ツを単なる助詞と考えては、南関東・東海「ホツマ
国」の分国、宮崎県日向「ツマ国」の意味の説明が不可能になる。三世紀に
『魏志倭人伝』を書いた陳寿は、兄アマテルの宮殿に弟が馬を投げ込んだ「ホ
ツマ神話」の存在を知っていた。日向のツマ国を「投馬国」と表記したのは、
その一例である。「ホツマ国」の分国が近畿ヤマトである。別の分国は九州高
千穂周辺で「ツマ国」を名乗った。九州ツマ国は、後にウガヤ大王を記念して
「ヒウガ」と改名したが、ツマ国が存在した事実は南のサツマ国でもわかる。
サがホツマ古語で南(*)だった。

#と書かれています。なるほど。でも、これだけでは「ツマ」に「ホ」がつく根拠も「ツマ」の解釈もわかりませんね。(*『ほつま』では、東西<中央>南北を「キツ<ヲ>サネ」ともいう。)

鳥居礼氏は、『完訳 秀真伝』の冒頭に書名考証をおき

 次に音義的な側面からこの「ホツマ」を考えると、前に示した一般論のごと
く秀れていて整っている義で、「ツ」は格助詞の「島つ鳥」「沖つ白波」「天
つ神」などの「つ」と同様のものとも考えられないことはない。しかし、音義
的解釈をいま一歩深く掘り下げて考えてみると、「ホ」は火、穂、褒む、惚れ
るなどの「ほ」と同義であるとすることができる。また「ツ」は露、つ汁、唾、
水、津、付、月、などの「つ」、「マ」は真の「ま」と考えられよう。「整う」
という義の音は「マ」よりもむしろ「ト」である。「ホ」を火、「ツ」を水の
義とすれば、「ホツマ」は火水真ともなるしかしこれもまた一つに断定しにく
いので結論を急ぐことを避けたいと思う。

#と、音義的な解釈については明言を避けるものの、

「ホツマ」という言葉が単に国の名の意味以外に使用されている原文の例を見
なければならない。二十一紋「秀真お嘗めて 鳥居なりけり」〔二一の二〇〕、
二十三紋「汝ら政 怠らず 秀真なるとき やや安ぶらん」〔二三の三五〕、
二十七紋「秀真なるとき 自づから 三種の宝 集まりて 御祖となすが 秀
真ぞと」〔二七の三二〕、三十五紋「心秀真に 奢りなく」〔三五の一〕、四
〇紋「人素直にて 秀真行く 真神なり」〔四〇の二八〕、三十九紋「ついに
秀真の 政事天に通れば」〔三九の二六〕などは、ことごとく精神的な状態、
あるいは教えといった意味に使われていて、直接秀真国を表わしてはいない。
撰者である大直根子命も序文において「磯輪上の 心秀真と なるときは 花
咲く御世の 春や来ぬらん」〔序の二〕、「磯の輪の 真砂は読みて 尽くる
とも 秀真の道は 幾世尽きせじ」〔同上〕という歌を添えている。この二首
は、『秀真伝』上梓に際し大直根子命が万感をこめて詠んだものであり、『秀
真伝』編纂の意義がこの歌に集約されているといっても過言ではなかろう。し
かるにこれらのある種の精神状態や道を表わす「ホツマ」が具体的にどのよう
なものを示しているのかは、『秀真伝』や『三笠紀』の中からはほとんどうか
がい知ることができない。

#つまり、「ホツマ」の語そのものは意味を明瞭にできない。その代わりとして、「ホツマ」の教え(の理想)として解釈される「瓊(ト)」の教えについて考証しています。

(続く)


D.Kさん 投稿者:tan  投稿日: 9月28日(土)22時17分55秒

>・・、タンタン###♪なんて、連想で潜在意識にバイアスかかってましたね。
#そうです、かる〜くいきまひょ^^。
穂の国、南宮山・・画像拝見。いいですね、穂の国、反大和が底にながれているといった伝承に良く当ります。
画像がキレイになりましたがデジカメ替えられました? 穂の国の紹介お待ちしてます。


行田の暗渠 投稿者:tan  投稿日: 9月28日(土)22時08分10秒

 紋次郎さん
#武蔵大橋から行田市あたりの地図を見直してました。南北の用水路を見落してました。地形から言っても「暗渠」充分あり!です。
この辺りの利根川(現在の)は天井川で標高20m。南北に見沼代用水・酒巻道水路・武蔵用水が通りますがこの西側が標高19-18m、東側が標高18-17m、の境を用水路が通ってます。用水は北から星川・忍川と交差します。
気になるのは忍城の南2.5kmほどの現在新幹線が通る辺りに「がんがら落」という用水がらみの地名?があることです。九州での用途不明といわれる遺蹟を思い出します。
この「がんがら落」まで武蔵大橋の自然堤防が終る現在の星川あたりから6km程の落差はたった1m。地形から見て利根の河川敷の範囲といってもおかしくない。田畑の水抜き調整を考えると排水主の「暗渠」が必然となります。
田畑の水抜きは溝を掘って松杉などの枝葉を埋め土を被せる、といった方式がそこらじゅうにあったのではないでしょうか。
更に忍城あたりは標高20m+。サキタマ古墳群のあるあたりは東西に突出した幅1km近い島・岬といった地形で周りの田畑より2m以上高いです(丸山古墳は+10m強)。このあたりに居館を構えたとすると殷の小屯でみられる形の暗渠の可能性もあるかと思います。

東西を流れる忍川沿いに「小貝真観寺」「馬見塚」などの古墳があります、さらに上流の現在の熊谷バイパス近くに行田市の飛地がありますので、この忍川(途中で見沼用水)が重要な水源の一つかも知れません。

お蔭様で「岡部」辺りまで地図上で遊びました。岡部は倉が建ち並んでいた場所なので利根の氾濫から安全な場所はこの辺りまで離れる必要があったのでしょう。


かたばみさん 投稿者:D.K  投稿日: 9月28日(土)20時33分19秒

ニギハヤヒの降臨が浪速から奈良にあったというのが一般的な説ですが、
奈良(インドでは太陽神の意味だそうで)の斑鳩や生駒を始めとした
地名が東三河から移されたと言う資料が存在すると言う事です。
裏を取ってみたかったのに資料名を紛失してしまい残念。
このエリアの歴史関係の研究者と話をした事があるんですが、
著作権等の問題で私は問題提起や火付け役辺りを狙っているんですよ。


失礼 投稿者:D.K  投稿日: 9月28日(土)20時28分28秒

桃尻、自分が使おうかな。s_tanさんもsを抜いてしまって、タンタン###♪なんて
連想で潜在意識にバイアスかかってましたね。

長って長脛彦とか、ナーガとか、他にもナガは重要なネーミングで使われるみたいですね。
で、葦原中国は地上世界とか注が為されていますが、メソポタミアのギエンギ辺りを見て
みると、大国主(オオナムチ)の国譲りは日本の事では無いような感じがします。

ネタはまだストックがあるので更にHPをアップしようかとも思っていますが、
疲れますねホントに。

 


豊葦原 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月28日(土)20時11分47秒

D.Kさん
≫豊葦原の瑞穂の国って何処なんですか

神話時代でいう豊葦原は縄文海退によるもので全国各地にあると思います(BC2000以降)。
しかし神武東征でいう豊葦原は奈良盆地に限定だと思います。
奈良湖推定図をご覧ください。

水色が縄文時代の湖推定、水面の標高50m前後。白のマークは縄文遺跡でこの外側にあります。
青色が弥生時代の湖推定、標高44m、橙のマークが弥生の遺跡で、かって湖だった位置に登場しています。
(Uマークは銅鐸出土地)
濃い青が古墳時代あたりか。標高41m、9平方キロほど。
奈良飛鳥でも同じかどうかはわかりませんが、万葉の歌は記憶によって海とみたてたのかもしれません。

奈良盆地周辺の山からの川が奈良湖で合流して、生駒と葛城山地を横断する大和川で河内平野へ流れ出ています。
(1704以前の大和川は柏原市から北に向かって大阪城付近で淀川に合流)
矢印部分のわずか1キロほどが天然のダムの役割をはたしていたと思われます。
この部分が水流で削り取られて奈良湖の水位が徐々に下がって広大な豊葦原が生じていったのでしょう。
(もし誰かが掘削したのならすごい)


海退による葦原は海に接続していて容易に水田にはできなかったのではなかろうか。
佐賀平野の有明湾岸はあまり発達していない、ムツゴロウしか住めなかったのでしょう。
対して、奈良の場合は塩分なし、適当な勾配があって灌漑も容易。
奈良盆地が大発達したのはこれが理由じゃないかな。

なお、奈良の地名の多くは崇神以降に九州からコピーされたものと考えています。

かたばみ


宮崎でホケノ山古墳を上回る規模の木槨墳 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月28日(土)14時58分10秒

上記の新発見がありますのでご参考まで

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020926-00000004-yom-soci


個人的には神武伝説を裏付ける感を受けます。


 暗渠へモグリ案   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月28日(土)12時23分54秒

DKさん、ナマ兵法で……穢れさせたみたい。
 “長”が入ってましたか……。考えてもワカランでしょう、これは。但し、下に註。
 桃尻と讃えてくれて有り難うございます。この場合、桃は「モノ」なんでしょう?

Stanさん、おらが育った遠賀川スジの大川にはさかんに石畳みがありました。このなかに
巨大な鯉が棲みついていて田主丸から「鯉とりマ−シャン」も来たことがあります。
 川の流れがモロにぶつかるところの地盤がゆるいところでは、川岸が削られます。関東
ローム層ではいつもドカタ工事ばかりしていなければなりません。暴れ川というのは、ひ
とつは土質の柔らかいことではないでしょうか。
 堰堤……がありますね。石で流れを塞き止めて落差を作っています。行田市から北へ8
キロ行ったところに武蔵大橋がありますが、そのすぐ上流に通称・武蔵大堰があります。

 小生が日本最古の“くに”とニラミつけているのが諫早です。ここにも運河の引き入れ
地点とおぼしき場所に川の両岸に亘っての石畳みがあって、流水はその石の上をこえて流
れています。
 もし、暗渠があったとしたら……、大水のとき、どのようにしてサイフォンの原理を遮
断したのでしょうね。やっぱ、おらのラベルじゃマシャクに合わないみたい。


※ ナガには「街並」の意味も認められます。
※ narkat は葦です。葦は中が空洞(xo)。太古から凄い偏執がこめられているみたい
  です。氷河期での着物ではなかったでしょうか? ナマハゲに出てくる鬼は洋の東西
  をとわず、葦を纏っています(今は藁)。葦からは鉄がとれますし、ちいさな葦(足
  ……柱)で、スクナヒコナとイメージが重なります。スクナヒコナはこの中を“住 
  居”にしていた……? 出雲で記録が書かれるひとつ前の古い神のソホド(風神)、
  ぐく(蛙)はタジク語ですが、同じ古い神……sukunat は住居です。
※ サギッチョー;-cc は「いっしょけんめいになる」。-au は「する、なる」。
  sag の意味は絞りきれませんが sag は一般的にいうと「植物」で、サグミは沖縄で陸
  稲と解釈されています。sag =稲? 藁? みのり? 七戸にサグミという地名があ
  ります。


>桃尻さん 投稿者:D.K  投稿日: 9月28日(土)00時24分30秒

 豊葦原千秋長五百秋水穂国って成っていますね。
葦原中国や豊葦原の水穂国、表現が幾つかありますが、
どうですか。文献によって誤差があると拙いですが、
自分が見た処、ビミョーな使い分けがありそうです。

 で、また懲りずにやっちゃいました。

http://members.tripod.co.jp/dreagon/hm.html


暗渠、浦和、関東汀 投稿者:tan  投稿日: 9月27日(金)22時05分39秒

 紋次郎さん
>暗渠
#行田市あたりは一昔前よく車で通ったところ、サキタマは3度寄ってます、古墳の上からの眺めは気持がいいですね、そういえば稲荷山の復元は終ったのかなぁ。
ところで水路ではなく暗渠ににする必然性はどんなもんでしょ?

#佐倉城は水城の位置付けで江戸初期までは水に浮ぶ城、との一般の理解だったらしいです。

>浦和調神社
#あたりの縄文海進頃?の海岸線の画像をupしました、「杜の風景」
kasi/kssur0.htm
気になる神社、気になった神社、など大概こんなことしてあそんでま。。

>サイトバライ
#は左義長と同じです、大磯の高来神社(高麗)の海岸でのそれは結構有名です。相模ではこれを「サイトバライ、サイトッパライ」などと言う処が多いです。

 


注連縄、●・■  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月27日(金)18時07分35秒

s_tanさん

日本古墳時代の壇にはこういうことがあったのか。殷の首なし死体、ポリネシアの人柱、それにNZマオリの話などから古代中国文化の太平洋諸島への伝播が感じられます。他にも有益な情報ありがとうございました。


青谷上寺地遺跡 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月27日(金)18時05分49秒

->かたばみさん

かたばみさんのするめは大きく、入れ歯が壊れそうです(これほんと(^^))が、弥生中期ごろからの中国人来日には次の3段階を想定してはと考えてみたくなりました。

(1)BC3世紀、秦の始皇帝のころ徐福の航海。(霊山での薬草を探索しながら九州串木野、雲仙、高千穂、和歌山熊野、奈良、富士山山麓あたりまで)

(2)呉楚七国の乱王族渡来、BC150頃。弥生黄金時代(BC130〜AD1頃)の渡来者。(この辺が銅鐸ブームをもたらしたか)

(3)「見る銅鐸」、イミテーション三角縁神獣鏡などの鋳造集団で邪馬台国建国直前に来日。

閑話休題。

韓族の儒教のこなし方には本来的なものが感じられ、韓族が山東半島に渡り、自国の風俗を広めたのが始まりではないかなどと思っています。

又、唐古・鍵遺跡は若狭側、瀬戸内、それに伊勢、和歌山(イタキソなど)経由で熊野の徐福の文化(三輪に残る薬の神様)を共に受け入れているのでしょう。

更に、秦の時代倭の海人族が接触するのは殷をバックアップした中国海人族がすでに太平洋のかなたに移住し終わった頃でしょうから禹餘粮の話が得られるのは秦の息のかかった西方系魔術者集団からでではないかとおもったりしますが、貴重な情報は夢を膨らませてくれました。


 鼻 と 龍     投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月27日(金)12時59分05秒

 Tan さん、暗渠のハナシ、うれしいですねぇ!
  「これで日本言語考古学が半分誕生したような紋だ」……は、まだ早い。
  行田市役所横の濠周辺を掘りまくればいいのですが、そのまえに濠水の水準(レベル)をどう確保
  できるのかぐらいは机上でも掴めそう……だが、おらの水準じゃコリャダメだ。
  成田山の場合はどうなってんだろう? 佐倉には王様がいて桜川を掘らせた筈だが……。
  利根を越えた向こう側には巨大な鼻の遺伝因子があります。大宮の氷川神社の所在は高鼻町です。
 
    > これは浦和市の「調神社」のことでしょうか。
  ★ そうです。調神社に来られたときは、ぜひギョクゾウインもみてください。県庁のある場所は
    鹿島台ですので、ここから西を望めば昔日の海とか入り江が実感できるはず。
    浦和名物で忘れちゃァなんねぇのが海上町出身のアイヌさんと焼尻紋次郎。
  
    > サイの神……、その発祥の時期、大きさなどお分りにならないでしょうか。
  ★ 始発は遮光器土偶(BC1000)よりも古いと思っています。等身大の大きさです。
    インド中央部デカン高原に住むアディバシー氏族には、代々「シバ神だ」と伝えきた偶像があ
    りますが、これが遮光器土偶そっくりで、横ワレメの目です。
    サイトバライ……有り難うございます。初めて知りました。どういう行事でしょうか?
     お蔭さまで、サイの神は 蒙古語 sai ではなく、やっぱ SAIT のほうが正統を汲んでいるこ
    とが分りました。
  
   >  暗渠 式の用水抗・排水抗が、この土壇の下を通過している。
   ★ このイデーが龍でしょうね! これはもう“へび”ではない。「へび+流水=龍」でしょう。
    出雲の一年の神事はうみへびを捕まえることから始まります。
    沖縄文化にのめりこんでる友人がいます。来ると「○○島の地下水は5〜600キロも離れて
    いる△△島の地下水と連なっている」を、一日のうちに5〜6回は言うのでウルさいです。

    キカイ・オンチのためサイトを紹介できなくて残念ですが、タジキスタンあたりでしたか、大
    きな井戸があって、そこの水面をじっと見つめていると、水が流れているのがわかるそうです。
    これこそ、龍なんでしょうね。「水=いのち=龍」。

   D.Kさん、おらもドシロートですが、あれって「チイホアキ・ミズホのくに」となっていなかったで
    しょうか? 1500ものアキ・ミズホ(いちおう稲穂)ですから、シキシマぜんぶを謂ってい
    るのではないでしょうか。


※ アキは「農業・童神」の二様が考えられます。 AGRI(農)とアキは同根と思います。
  日本最後のサイの神が立っている字が「秋宮」です。
※ ミズホは懸け言葉になっていて MIZ(吉報)、XO(虚空蔵な神聖な空間・ =神)。


最近ボケてんのかな 投稿者:D.K  投稿日: 9月27日(金)00時17分13秒

素人質問で今更なんですが、豊葦原の瑞穂の国って何処なんですか?
日本の事だとか書いてあったりしますが、神武東征で瑞穂の国を目指すんで
大和地方の事です?奈良の三輪山は別の場所にオリジナルが存在したようなん
ですが。

http://members.tripod.co.jp/dreagon/P9250025.JPG


調、鹿島人形、暗渠 投稿者:tan  投稿日: 9月27日(金)00時05分49秒

 紋次郎さん
> ツキノミヤはソヨーチョ−の調で、そこの土地から都に行ったひとを dukh(世話する、・・・
#これは浦和市の「調神社」のことでしょうか。
実は式内社の始めは(朝廷がからんで創建した社)の多くは、貢物を蛮地から運ぶ前に(悪霊がついて来ない様)お払いをする場所の意味が強かったなど、考えています。これらは殆ど近くで特産物がある。

>「日本最後のサイの神」として紹介されましたが、作っている菅さんらは鹿島様と言ってます。
#その発祥の時期、大きさなどお分りにならないでしょうか。
木更津の鹿島人形は二百十日の頃行われ、強風で作物がダメにならぬようの為、ということです。ですがサイトパライ・左義長に類似の藁束に虫を集めさせ焼いたり流したりの除虫が実務ではなかったかな、など思っています。

そういえば、サキタマ古墳群あたりのお話で、
#殷墟の水溝:小屯の中心部は1.2mの土を固めた檀上に礎石を置き王室の宮殿が建てられ、この地域に巾40−70cm深さ1m余の砂底の溝が幾筋も掘られた址がある。あるものはこの土壇の下を通過している。暗渠式の用水抗・排水抗とみられている。
というのがあります。


注連縄、●・■ 投稿者:tan  投稿日: 9月27日(金)00時04分55秒

 クーガーキングさん
>鈴懸の径、
#最初に聞いたプロの生バンドが鈴木章二とリズムエース、小学の時。メロウ(メリハリ無いとも云う^^。)なクラが良かったレコードは+p・ハッコーでしたね。

>壇
河姆渡・羅家角の頃の長江中流で壇が発見されてますね。
殷の王宮の家屋の土台の壇は要所から首無し死体が発掘されている。
中国では禅譲(王朝交代)された王は壇場を設けて儀式をするのが慣例だった。天武40も壇場(たかみくら)を設置し即位式を行っている。
天皇は毎朝、清涼殿の東南の隅にある2間1間の白い漆喰を塗り固めた石灰壇と呼ばれる場所に立ち神祗を拝す。石灰壇は、地上から殿上の高さまで消石灰をたたき固めた土間。延喜の醍醐60朝にはその設備があった事が記されている。この他、発遣儀式にも壇を使用する。
壇といえば、円形と四角、吉野ヶ里は変形8角との見解。南朝にもあったですね。持統41も8角。
そういえば中国で貨幣の角の多さで額・材質を変えたのは何時でしたか、漢と記憶してますが朧げ。。やはり、円=天、方=大地が基本でしょうか。
伊豆利島の阿豆佐和気命神社、青森唐松神社などは丸石の円形基壇です。

>二見が浦
年1度の注連縄張替、紙垂は波と風で無くなる、と神官の話でした。

 


兜巾と法螺貝追伸 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月26日(木)18時57分23秒

≫行者が頭に小箱をゆわえつける風習はユダヤ教にも見られます

これですね。

かたばみ


兜巾と法螺貝 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月26日(木)18時02分54秒

兜巾は実物をみたことすらないなあ。
山伏用具参照

以下全部余談(^^;
チベット舞楽で法螺貝使っていますね。
インドのヴィシュヌ神とその妃のクリシュナ神が法螺貝を持っています。
インダス文明からは儀礼用とみられる線刻を施した巻き貝がでています。

シュメールBC4000頃の彩文土器にはくっきりと卍や十字紋が描かれています。
クレタ文明などでも卍やXがでてきますが、クレタ文明は蛇崇拝の文明です。

シュメールのBC2500頃になると2匹の蛇が絡み合って雌ライオンと戦う図がでてくるそうです。
雌ライオンは多産の女神。森が草原に変化し、神々も変化していることをうかがわせます。
BC1200頃では太陽、月、星が最高位に登場する。

メソポタミア文明とインダス文明は密な交易をおこなっていますから、この時代からなにかがあるのかも。

かたばみ


青谷上寺地遺跡 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月26日(木)18時00分10秒

クーガーキングさん
≫青谷上寺地遺跡出土の鉄斧と共通点のある鉄斧は、保定市の満城漢墓の
≫中山靖王劉勝(前漢時代。在位紀元前一五四−一一三年)の墓から出土。

すばらしい最新ニュースです(^^) 自説の強力な傍証となります、9章\(^^)/

青谷上寺地遺跡の出土品の総合解説はこちら


自説では・・
天孫の親たちは呉楚七国の乱154からの脱出者である、です。
天之忍穂耳は呉の出自。唐津湾へ上陸し、九州縄文との間に子を作った。それが瓊々杵や天火明などの天孫系譜。
スサノオは出雲神族の祖ですが天之忍穂耳に敗れて伽耶へ隠居、その子孫が大国主。
天穂日も呉楚七国の乱からの脱出者で島根に上陸し、出雲臣の祖となる。
ま、こういった流れです。

天穂日の出自は山東半島ではないかとにらんでいます。

河北省の趙と膠西、その隣の山東半島の膠東が呉楚七国の乱に参加しています。
青谷上寺地遺跡から弥生前期〜中期の木製の沓(靴)がでています。
この時代の一般人が沓をはいていたとは考えられません。
王族級渡来者が存在したことを示すものと思います。

加えて「鋳造」鉄斧がBC150頃の河北省と同種となれば、渡来者の出自がBC150頃の河北省周辺である可能性がうんと高くなります。


山東半島と出雲はいろいろの事象がぴたぴたと重なってくるのです。

山東半島は楚の祭祀の影響下にあったようで、瑯邪八神(八主)が祭られています。
天、地、日、月、陰、陽、四季、と兵主神。(徐福の祭祀もこれと同じとみています)
これは自然崇拝(中国南部)が昇華されたもので縄文祭祀と融合しやすいはずです。
八主という呼称も大国主、大物主といった出雲の「主」の呼称と一致する。

兵主神は始皇帝によって斉が滅ぼされたことで登場した軍神(祖先神=黄帝と戦った伝説の人物蚩尤)で新しいものらしい。
兵主神社の現在の祭神は出雲系の人物ですが、もともとは天孫と抗争中の出雲が軍神を祭ったものと考えています。


以下は長江文明の発見/徐朝龍によります。
BC1400頃の長江中流域の洞庭湖に青銅王国があります(まだ名前はないようです)。
ここの青銅器は山の中腹に浅く埋められていて周囲に他の遺物はなにもないのです。
日本の銅鐸と同じ状況です。

おまけに青銅器の内部に別の青銅器が入れられている場合もあるときては、日本の銅鐸埋納と全く同じ慣習であるとしかいいようがない。
で、その文化は楚に継承されて、山東省でも楚人による同じ埋納遺物がいくつも発見されているそうです。

天穂日が山東半島の楚系の人物ならその慣習を継承していて不思議なし。
中型〜大型銅鐸の登場は寒冷化による農耕不振に対する出雲の豊作祈願用であろうと考えています。

中国思想が弥生中期にはいっている物証に禹餘粮もあります。
2月8日投稿の「紀元前の仙人」をご参照ください。

かたばみ


 馬の腹帯と岩田帯    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月26日(木)17時07分31秒

 おれ、岩田帯の語源をつきとめたくて、永いあいだネパール語の PATAR(馬の腹おび)
との関係を考えていました。Tar はネパール語でもアイヌ語でも紐です。
 身体に巻き付けたら振動する健康器具で、肌に水ぶくれができたと言う苦情があるとの
ことです。
 ネパール語には jin(鞍・厚い布)があります。厚い帆布もジンといいますので、あんが
い作業着のジンベェーはこれと関係あるかもしれません。
 クルド語でも zin は鞍、馬は asp でした。日本語のクラとは「峠・座」ですよね。
 馬を乗りまわすには、いままでとは違った布も要るみたい。

 今なら鳴子温泉から鬼首峠を抜けると“日本最後の鹿島様”が拝めます。チンポコ立てた
伝統あるホンモノです。新聞では「日本最後のサイの神」として紹介されましたが、作っ
ている菅さんらは鹿島様と言ってます。
 サイは埼玉のサイ、ネパール語 SAIT(吉兆)、蒙古語 SAI(良い)。くにや集落の境
(DOSADH……咎めだてする目くら……道祖土)に立てられます。とにかく古いです。

 ナマハゲはスイスの東、オランダの内陸側の二つを覚えています。
 ナマハゲはアマミハギと同根だと思うのですが、アマミハギの実体については知りませ
ん。どなたかお教えください。BHAGE は“幸運”です。また、神でもあります。

s_tan さん、身体は身体でもお身内デシタカ。
 五智……グワッチ・イサベラ(沖縄弁;いただきます)。
 ツキノミヤはソヨーチョ−の調で、そこの土地から都に行ったひとを dukh(世話する、
構う……ツキ)することが豪族連合(JAMAT)に基づいた起源ではないか……と思ってい
ます。
 それが、保存米のクラ(蔵)とホクラ(神庫)のクラが「ことだま・ゴロ合わせ」によっ
てゴッチャになって……、そこへ食い詰め坊主が転がりこんできて、病気を治したりした事
件があったりして、「鳥居のない神社」へと格上げされたのではないでしょうか。

 《 グワッチ・イサベラ 》
GO……母語不明ながら日本古代語で「たべもの」。これが沖縄癖音でグワと訛った。
TI……名詞を作る末尾辞。GOTI で食事。ごちそうの「SAU」はやはり中東方面に同根をも
つ「最高」〜「とてもいい」。ぜんたいとしての語形が形容詞後置形なのが気になります。
ISA……いさぎいい。九州ではイサァーギ、イサァーギュ。タガログ語 ISA (1)。
BE……英語のBE 。ただし、ここは BIR の約まり。
RA……強調末尾辞。

 《 岩田おび 》
「イ○○ー」の造語法に拠る。ワタは……ナァ〜〜ンだ、臓ワタのワタだった。
九州では「ゾ−・バタ」ちいいますだ。「イ○○ー」の造語法も古いんですね。


注連縄、綱  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月26日(木)07時08分37秒

->s_tanさん

>紙垂、丸、四角。この辺は話が尽きないです^^。根っこに近いですからエンドレスの課題>でしょうか。色々なものを時に応じて重ねたのではないでしょうか。何が最初の意味で、>どう変ったか、など「あそぶ」にはもってこいです。

>>紙垂

>服属儀礼で樹に宝物を飾り出迎えるという飾りの中の、木綿・麻ということですから、こ>れが紙垂の古いカタチとすると、やはり人の表現と思います。まあ飾る事が先にあって飾>ったものを後でモットもらしく理由付けするのが多いだろうと思いますが。

鈴掛の径なんて現代の歌がありますが、銅鐸にも木に銅鐸をぶら下げているように見える模様がありますね。

>モンゴル山地で見られる細い柳の木を四隅に立て縄を張り山の神へ感謝依頼するのは確か>紙垂は見れません、場所の確保(魔除)が重要になり目立たせる為に縄に目立つモノを付>けたのでしょうか。

二見が浦などでは普段の日は付いてないですね。正月なんかはわかんないけど。

>相撲は中国での角觝のころは正装で天子の前で行ったらしいですが。日本では裸で御覧で>す、力持に武器を隠させない為の裸と思ってますが、服属儀礼の流も感じさせます。

>確か占領した地で褒美をつけ参加者を募り相撲大会を催し、その上位者を皆殺しにした、>などの記録もあります(←脱線^^;)

これって強い若者を殺してその肉を食べてというポリネシア古俗を想起させますね。

>>丸、四角

>丸はマンモスハンター。これを判断の基準にすると分り易いですね、さすがです。

全方位に外敵を意識した旧石器時代、四角はある程度役立つ加工物が造れる様になってからでしょうね。

>四角はある程度役立つ加工物が造れる様になってからでしょうか。八幡・四方が史の全面>に出るのは角觝・ヤツラの舞いと同じ頃でしょうか、日本でも古代宮廷の祭儀では、四拍>手(再段再拝)・八拍手(八開手(やひらで))が使われています。隋使・裴世清が真似を>したとあるので、この頃には中国では拍手の風習は無くなっていたでしょうが。

大人の敬する所を見るに、但だ手を搏して以て跪拜に當つ-と魏史倭人伝でも
興味を引いていますが、やはり漢族には無かった習慣なのでしょうか。

>>鬼瓦

>これは、魔除以外にあるのか!ッて感じですね^^。ローマの例など興味深く拝見しまし
>た。TVで見たのですが西欧の山間で秋田ナマハゲと同様のお祭がありました、大き目の仮>面をつけての。

確かバヴァリア近辺ではなかったかと。あれには驚かされました。

>東北の藁人形は田の半分(おおげさか^^。)5-6m以上のデカイのでしょうか。

丁度それくらいで男根が胴、足と同じ程度の長さで約2m、胴、頭なと他の部分と同じ径で、水平に突出してるのが天狗の鼻を想起させます。

>房総木更津付近に、等身大の刀を差した藁人形を2体つくり、これを鹿島人形と呼んでい>ます。昔は広範囲の祭だったが今は小さな春日神社で残るだけらしいです。

この辺がヒタカミの極南界に当たるのでしょうか。

>ヒタカミ

>江戸期に残る神社の分布では、西に氷川神社、東に鹿島神社。その間の新川あたりに沿っ>て、まるで緩衝地帯のように久伊豆神社があります。

「神社配置から天皇を読む」という本では関東は西部の出雲式と東部の住吉式が交わる地帯が金尺型に走ってますね。    お疲れ様でした。

 


注連縄、綱 投稿者:tan  投稿日: 9月25日(水)23時22分06秒

 クーガーキングさん
紙垂、丸、四角。この辺は話が尽きないです^^。根っこに近いですからエンドレスの課題でしょうか。色々なものを時に応じて重ねたのではないでしょうか。何が最初の意味で、どう変ったか、など「あそぶ」にはもってこいです。

>紙垂
服属儀礼で樹に宝物を飾り出迎えるという飾りの中の、木綿・麻ということですから、これが紙垂の古いカタチとすると、やはり人の表現と思います。まあ飾る事が先にあって飾ったものを後でモットもらしく理由付けするのが多いだろうと思いますが。
モンゴル山地で見られる細い柳の木を四隅に立て縄を張り山の神へ感謝依頼するのは確か紙垂は見れません、場所の確保(魔除)が重要になり目立たせる為に縄に目立つモノを付けたのが。。でしょうか。
相撲は中国での角觝のころは正装で天子の前で行ったらしいですが。日本では裸で御覧です、力持に武器を隠させない為の裸と思ってますが、服属儀礼の流も感じさせます。
確か占領した地で褒美をつけ参加者を募り相撲大会を催し、その上位者を皆殺しにした、などの記録もあります(←脱線^^;)

>丸、四角
丸はマンモスハンター。これを判断の基準にすると分り易いですね、さすがです。
四角はある程度役立つ加工物が造れる様になってからでしょうか。八幡・四方が史の全面に出るのは角觝・ヤツラの舞いと同じ頃でしょうか、日本でも古代宮廷の祭儀では、四拍手(再段再拝)・八拍手(八開手(やひらで))が使われています。隋使・裴世清が真似をしたとあるので、この頃には中国では拍手の風習は無くなっていたでしょうが。

>鬼瓦
これは、魔除以外にあるのか!ッて感じですね^^。ローマの例など興味深く拝見しました。
TVで見たのですが西欧の山間で秋田ナマハゲと同様のお祭がありました、大き目の仮面をつけての。
東北の藁人形は田の半分(おおげさか^^。)5-6m以上のデカイのでしょうか。
房総木更津付近に、等身大の刀を差した藁人形を2体つくり、これを鹿島人形と呼んでいます。昔は広範囲の祭だったが今は小さな春日神社で残るだけらしいです。

>ヒタカミ
江戸期に残る神社の分布では、西に氷川神社、東に鹿島神社。その間の新川あたりに沿って、まるで緩衝地帯のように久伊豆神社があります。

(長くなりました、とりあえず。。文献非参照為間違いご容赦。 Zz。。。...)


こんどは”3”・・ 投稿者:tan  投稿日: 9月25日(水)23時20分45秒

 紋次郎さん
>tan >するどい! ^^。stanはミウチのイニシャルの寄席集めでもあります。

>ビラビラの名前がブラサキ。そのブラサキの色がムラサキだそうです・・
#ブラサキですか初耳です、ありがとうございます。ぶらぶら・ブラサガルもこれから?

> sex の退廃はケトゥインと接触したときに無くした文化……デシタカ!
#「いやぁ、あまり楽しそうにするとオカミのトリタテが増えるものですから。。」「今もいっしょヨ」なんて^^;

> 景教の風が吹いたあとに“鳥居”ができているのではないでしょうか?
#可能性ありますね、大阪久太郎町(渡辺?)に坐摩神社があり、大和・三輪神社の三鳥居に近いものを使ってますが、江戸期に見える図では一般的な明神しか見えません。結構神社も変るのですが、最初に鳥居らしきを建てた人に直接聞いてみたいものです。こりゃドモラエモンポケットが必要か。。^^。

>ですがその“3”には三位一体の偏執が入り込んでいませんか?
#中世以降に、優秀宣伝マン御師あたりが原因というんは可能性高いですね。調べればある程度時代など伝承など残っていそうです。

>トキン #たしか、五智を表すもので基本は5角ではないでしょうか。円いのやら12角のもあったような気がしますが。。


ヒタカミ軍の大勝利か 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月25日(水)22時30分54秒

「暦博フォーラム-邪馬台国時代の東日本」pp76-77では図27弥生中期後葉(1世紀)の土器分布図中でヒタカミとおぼしきは関東東北部の渦文土器群と図28弥生後期(2世紀)の土器分布図中でヒタカミとおぼしきはほぼ同地方なるも顕著に西部(本庄辺りまで、大宮はきわどい国境地帯)、南部(千葉県養老川付近まで)に深く拡大を遂げたその後の継者縄文多様土器群を見事に表しているのを発見しました。戦争は倭国乱に便乗したものであったのでしょうか。


高句麗の流鏑馬 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月25日(水)20時26分42秒

高句麗に関する若干の資料を入手したのでそこからいくつか。
(高句麗文化展実行委員会編の小冊子5冊他、1984)

平壌付近の徳興里古墳408年に流鏑馬そっくりの壁画がありました。
「馬射戯」だそうで四角い的を先端にはさんだ棒(竹?)を何本も並べて、その横を走り抜けながら射ています。
弓は上下対象の短弓です。
なお、馬で狩猟をしている図もありますが、貴族の競技で実用の狩りとみえるものはありません。

キトラ古墳など高句麗文化の影響を考えれば668の高句麗滅亡による帰化人が、流鏑馬をもたらしたと考えるのが妥当ではなかろうか。
年代的にstanさん指摘の「朱鳥年間(698.3)山背国の賀茂祭の日に人々が集って騎射する事を禁止する(続日本紀)」の記事とも付合します。

大和に流行した高句麗の騎射が関東の武士の間で流鏑馬になっていった、といったところか。
日本式の長弓を馬上で使うのが工夫かな。


次に馬具について。
最古の出土古墳を遅くともAD250頃以前としたうえで、世界で最初に鐙を用いたのは高句麗であるといって過言ではあるまいといっています。
ただし、片側なのか両側なのかは不明です。

この年代だと古事記で八千矛神が鐙を使うのをAD200頃とみた場合と一致はします。
国譲り以降の出雲が対外交流できるのは地理的に高句麗のみでもあるから、出雲が鐙を使っていた可能性を示すものではあるけれど・・

次に鞍について
出土した現物は日本の古墳時代のものと同じとみえますが、意外と出土数が少ないようです。
現物は前輪、後輪のみですがともに垂直に使う形と思います。
資料中に垂直か傾斜かの記述はありませんが、いくつかの騎馬姿の壁画をみるかぎり、座布団型か後輪傾斜型にみえます。
貴人の乗馬姿の1枚で後が垂直かもしれないとみえるものがありますけれど。

垂直では戦闘ができないという論を信じるとして、高句麗でも垂直はあったが初期のみ、と解釈しておきます。
年代的にもしばらく垂直型と斜め型が併存していた、という北魏と同じ状況だろうとみておきます。

高句麗の騎馬の特徴は重武装です。馬にも桂甲(小さい鉄板を縫い合わせた鎧)をかぶせて馬の顔もほとんどを鉄板で覆っています。
これでは機動性は落ちるでしょうけど重戦車としての使い方ですね。

結局流鏑馬以外でさしたる収穫なし。

かたばみ

 


馬と弓と土器絵 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月24日(火)23時01分29秒

かたばみさんのトピ参照。
「弥生人の鳥獣戯画」では弥生末期(図ではY、AD200前後)に奈良大阪の絵がぷっつりと消えており、銅鐸の埋納にもつながるなにかの発生を示唆するではとのことですが、このことは同図Vの山陰、北陸で既に始まっております。一方、最近のことですが、鳥取県青谷上寺地遺跡では北京南西200kmの保定にあるBC154-113年前漢景帝、武帝時代の中山靖王劉勝の墓から出土してものと共通点のある鉄斧と「見る銅鐸」が同時に出土、
 http://www.sanin-chuo.co.jp/news/2002/09/12/05.html
この地方が約350年の長期に渉って大陸と深い関係にあったことを示唆します。
このことはその何かの発生はV期に山陰地区で始まり、奈良、大阪に伝播した、そしてその起源は大陸にあると考えると丹後籠神社の沖津鏡、辺津鏡などが典型となる鏡の宗教のドグマとの関係が浮上するんですがねー。


馬と弓と土器絵 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月24日(火)19時02分14秒

自分なりの馬の推定がまとまってきたかなあ(^^;

沼津湊タケトラさん
≫「乗馬術と弓術を駆使して」は、即ち「騎射(流鏑馬)」と解釈して良いのでせうか。
≫良いとすると騎射(流鏑馬)技術の出現は神武時代をさらに遡つて天照大神治世にまで、
≫(『ほつま』では)いつてしまいます。

縄文の西日本の人口が東日本の1/10以下であるのは狩りの獲物の量に比例するとみていいと思います。
弓の名人は東日本に大勢いただろうなあ。
で。馬に乗って狩りをするような人々がいたかどうかですが、少なくとも日本では考えにくい。

弓は古来からだれでも知っているし、最強の武器。
やはり戦闘のために馬に乗ったとき同時に弓を持ったと思います。
また、馬に乗った理由、それもやっぱり戦だと思います。
でも、実戦では遮蔽物のない野原に敵がはいったときにどどっと囲んで矢を射かけるといった程度の運用かなあ。

弓が得意で馬に乗ることを知れば、早晩だれかが「遊び」をやると思います。
これが流鏑馬という「競技」であり、神様も楽しませてさしあげる「祭り」になっていると思います。
ホツマが馬上で矢を放つことに触れていない(あるいは明確でない)のはそれが実用的ではないことを承知していたから、かもしれないですね。

一般の刀は刃渡り70cm程度ですが蕨手刀は40cm前後です。
馬上で振り回せる長さがこれだったのではないかと思います。
サウスポーが相手の左側をすり抜ければ必勝か(^^;

最初の蕨手刀の登場が榛名〜妙高〜佐久といったラインにあることは信州勢力と関東勢力の抗争がここにあったということ。
「チカツ神社」の分布に関連があるのかもしれません。
関東南部、千葉では第六天社、チカツ社との中間ラインに氷川社、これも同じ関連かもしれません。


以下余談

奈良県香芝市二上山博物館編集の「弥生人の鳥獣戯画」(1996)に橋本裕行氏がまとめられた弥生の土器絵をご覧ください。

だれがみても馬とみえるのは九州の9でしょう。土器編年はAD50〜AD170頃。
奈良の81あたりも馬が含まれる可能性はありますが尻尾がないですから雌の鹿かもしれません。
鹿である特徴は角があって尻尾がないこと。
逆に馬の尻尾は目立つ特徴と思います。

四国の19、山陽の28、北陸の104、中部東海関東の110、111が興味深い。
私には馬としかみえません。
土器編年はBC50〜AD50頃になります。
(余談ですが龍と見える11、56、73,74その他がAD50〜AD170頃に登場しています)

これらの絵は祭祀につながるものがほとんどのように見えます。
鹿が注目されたのは狩りの獲物であるのと同時に、その繁殖が農耕サイクルと一致するからだという論に賛成です。

播磨風土記に鹿の腹を割いてその血に稲種を蒔いたら一夜で苗になった、と書かれています。
いわば「大地母」の化身といった感覚が鹿に対してあったのではないでしょうか。
大気都比賣が死して穀物を生じさせたというのと同じ位置にあると思うのです。
農耕の登場で蛇に変わって鹿が主役になったと考えています。

対して馬は人の下にある家畜。すべからく人の意志で動くだけ。
狩猟に参加することもなく黙々と畑を耕すのみ。
祭祀に登場もせず描かれるチャンスが少なかったのではないか。
これは銅鐸でも同じです。

弥生中期(BC100〜AD50頃)では盛んに絵が描かれていますが、弥生の黄金時代です。
「芸術」をやるのはゆとりがあるときだと思います。
ところが弥生末期(図ではY、AD200前後)になると奈良大阪の絵がぷっつりと消えています。
絵を描いていた人々になにかあったんだろうと思います。
銅鐸の埋納にもつながるなにか・・

乗馬は目立つ行為ですからそれがあれば描かれる可能性が高い。
この図表からは、乗馬はまだ登場していないと判断できると思います。
もし八千矛神が馬に乗っていたとしたら、それが最初の乗馬で年代はAD250に近いのかもしれません。


自説では記紀の天照大神の源イメージは新文化と稲作(早稲種)を掌中にしたBC500〜200頃の九州縄文の母系社会にあるとみています。
新文化とはBC2000以降の三苗文化、加えて海洋民と太陽と星。
その九州から初期開拓者が稲作をもって各地に進出してゆきます。
ウエツフミではこれをアマテラス王朝と称していると推定しています。

天照大神を卑弥呼や極端には神功に比定したりもする。
それぞれの情報の年代を特定できなければそういうことはいくらでも生じます。
ホツマでも神話伝承を乗馬の時代に繰り下げて合成しているのではなかろうか。


 こんどは“3”でゴチョゴチョ   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月24日(火)17時53分52秒

Tan さん、tan は身体、stan は場所でしょ? 大地を身体になぞらえたんですね。
 「その場所だ!」というキヤイをかけた語形が stan ならまし。
 「抱える」を「たなぐ」という方言これあり。胸あたりまで持ち上げるが基本か?

 黒の情報有り難うございます。
 エジプトのファラオの行列にかかげる旗の骨組をヤタイというそうです。その横棒
から垂れさがっているビラビラの名前がブラサキ。そのブラサキの色がムラサキだそ
うです(川崎真治さんからのウケウリ)。

 sex の退廃はケトゥインと接触したときに無くした文化……デシタカ!
 それまで神社などの文化は、イノチについて堂々たる世界観を持っていたのですが
……ザンネンです。青少年が紊れないワケがありません。どんな考えかは“柱”で。

 おへま言うには、髪の毛は三つ編でないと、二重ではすぐにほどけるそうです。
 ですがその“3”には三位一体の偏執が入り込んでいませんか?
 神社で祭る神は、二柱の場合も一柱の場合もありましょうが、三柱が圧倒的に多い
のではないでしょうか? 
 景教の風が吹いたあとに“鳥居”ができているのではないでしょうか? 小生は鳥
居を「tri(3)i(座)」と断じました。
 ……これも時期尚早デシタカ。


 四の五の ゴニョゴニョ   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月24日(火)12時20分18秒

 どなたか山伏の頭にのっかてるトキンは4角形か5角形か、まちがいのないところをお
教えあれ。行者が頭に小箱をゆわえつける風習はユダヤ教にも見られます。

 パンドラ……には エデン語 *PAN(5)が含まれています。ペンタゴンはこの系統で
しょう。朝鮮語パァ〜がバカ(手をひろげて‥‥)。
 小生が子供のころ見た英彦山の行者のトキンは5角形だと記憶しているのですが、密教
の秘法で死人も甦らせる加藤喜八郎さんは4角形だといいます。
 これが4角形がホントーなら、この“大”起源は、やっぱカイラ−ス山でしょう。
 どこのユーラシア氏族でも「隅=角(かど・とんがり)=つの」という偏執(文化)を
やらかしています。
 
 タケトラさん、ホツマの「ツマ」は「つまびらか<隅っこ」でしょうか? そのへんの
こと詳らかにアマカネ。
 このリクツのアヤ周辺をウロチョロしてるのが東屋(アズマ屋)です。なにかこう、四
隅に密接に関係ありそうですが割れません。
 東屋は湖面に張り出したオバシマに建てられました。その OB がタジク語で水。

 いま、クルド語を読みなおしていますが、渭水(いすい)盆地に立てこもったシナ語の
源流も、やっぱ中東の偏執を十分に引き継いでいる傾向を感じています。Jin は神です。


ヒタカミ・ホツマ戦争 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月24日(火)12時13分52秒


思いついて付言させていただきますと、尾瀬の下群馬県片品村には日光方面より進入した神を撃退した神話があり、埼玉県から群馬県に入ると県境に流れている、神流川(かんながわ)というは民話によれば、神々の戦いがあって傷ついた神がこの川を流れ、神流川の名前もそこから名づけられたといわれ、ヒタカミからホツマへの進入は大規模でヒタカミの狙いは上つ毛野をたたくことにあったのではないかと思います。北部戦線前線である越の国渟足柵・磐船柵・都岐沙羅柵の状況は不明ですが、ホツマが大和に援助を求めたということは全面戦争であったのではないかと思います。

 


注連縄、綱 投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月24日(火)07時53分24秒

s_tanさん

関連しますが、
(1)紙垂と地鎮祭:地鎮祭での紙垂、力士の回しの紙垂を考えると紙垂は豊作祈願ではなくキープ的起源を持つ魔除ではないかと思います。
(2)地鎮祭と方形
四方、八方(八幡)というようにストーンサークル(環状列石)、ストーンヘンジの円形全方位に対し、四方に纏める(麻雀)ことは中国の影響ではないでしょうか。さすれば、ホツマ圏の中心地を諏訪とすればこれとヤマト以西の西日本を結ぶ媒介は海人族ではなかったのか、山国の諏訪は皮肉にも海人族の中心地であったのではないでしょうか。また前方後方墳、四隅突出墳などもその起源が中国(長江下流)に求められるのではないでしょうか。
(3)地鎮祭と魔除:ローマの例:ローマのルーペルカリアの狼僧はローマの古期パラティーネ市城壁の周囲に犠牲となった犬と山羊で作った革紐を回らしては、自分たちの市の周囲に魔法の境界を引いたとのこと。ストーンサークル(環状列石)、ストーンヘンジと照らして考えるとこれらの慣習は旧石器時代以上に遡る北部ユーラシア(マンモスハンター文化圏)共通の儀式だったのでしょうか。
(4)鬼瓦:四方に鬼瓦を配するのは確か欧州もそうかと思いますが、上記の四方からの魔除の目的と沖縄のシーサなどに見られる屋根に魔除を置く考えが一緒になったのでしょう。
(5)ヒタカミ圏といいますか、東北では村々の境界に男根を天狗の鼻のように強調した藁人形を置くそうですが、用済み後は鹿島神宮に流すというような話を多賀城市の博物館で聞いたことがあります。ヒタカミ圏は旧利根川をはさみ鹿島神宮と上つ毛野の古墳群、大宮氷川神社等のホツマ圏とが対置していたのではないかと考えますがどうでしょうか。この藁人形と出雲の太い注連縄は農業生産高を誇示しているところに共通性があります。余談ですが建国の母アマテル神はヒタカミ圏からの米による徴税を考えておらず、景行の代で初めて馬に課税するというアイデアが出たのではないかなーなんて考えています(笑)。


 暑さ寒さは山を登ったり下ったり   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月23日(月)21時20分27秒

 ウマの幕おろしはちょと出過ぎたか、早かったか、スンマセン。
 かたばみさん、またまた優秀なサイトの紹介にわが頭脳との落差を見せつけられ……です。
 それにしても、バックに飛行するU.F.Oの群、日本語の上手なモンゴルのお兄ちゃんが自転車
旅……、カッコいいですね。
 カイラ−ス山のタテ割れのワレメちゃん、はじめて拝みました。お有り難うございます。
 これがなかったら人類に陰門崇拝とか観音様崇拝はなかったかもしれませんよね。
 卍模様が見られる山はカイラ−ス山でしたか。おらはサガルマタ(エベレスト)だとばかりに
思っていました。

 氷河時代は、インドなど赤道ちかくには、いろんな氏族がワンサとつめかけて屯していたと見
込めます。その証拠のひとつがインド・グループとオセアニア・グループが見せる語彙の近似で
す。
 基礎200語彙で、約59語彙が類似を見せるのです。
 そのうち *MAR(D)(死)、*PAE(足)、*EK(1)、*KOR,*KEL(掘)*YAK(胆)、*PHAL
(果物)、*XAT(笑)、*TI(3)はインド・オセアニアのどこに行ってもで喋られています。
 こんな大事実……ミナシャンご存じでしたか?

 《 山と人類……》
 大きな山の傾斜面に依拠していれば、寒ければ下るし、暑けりゃ登ればいい..。
 ただ、周辺にいる羊やヤギ、猪などがいつも人口に見合っただけいれば、のハナシですけど。
 ハラへったらギッチョンやへび、蛙などを食いながら移動する‥‥。
 高い山に拠れば雨が降るし、水にはこと欠かない。

 今のインドは暑すぎます。シッダルタさんが生まれたころも暑かったんでしょうね。
 「もう、二度と生まれ変わらないように、この世に出現しないような方策をとるのが修行」な
んですって。となりのご仁を横目でニラみながら「アンタかてイヤや」と思うのがアタリマエ。
 その点、日本列島では、待てば花咲き鳥が歌う春が必ずやってくる。その春を迎えるために、
寒さや暮らしの困難を乗りきろうという気構えが出てくる。
 なろうことなら、死んでも、もういちど生まれ変わってこの世にかえり咲きたい……。
 シッダルタさんの教えとは正反対。輪廻解脱は通用しまへん。

 『生まれ生まれ生まれて暗い。死んで死んで死んでまた暗い……』じゃと? おきやがれ。


鐙、流鏑馬 投稿者:tan  投稿日: 9月23日(月)21時17分32秒

>鐙
『ほつま』というか古文献をみるに、その中に古の風俗伝承がどれだけ溯ってみられるか、に興味有なのですが。
鐙という道具以前に機能を持っていたモノがあるのでは?ですね。
東胡の扶余あたりから続く流れに、文献の白衣長ズボン、新羅の副葬品にみられる特に貴人の「裾を縛ったダブダブズボン」これは鐙のフンバレル機能を持っていた名残りではないか、など思ったりしてるんですわ ^^。

>流鏑馬
#上代に「うまゆみ」と称され、鎌倉でのはじめは(1186)鶴岡八幡宮の放生会。記録の初見は「中右記」の永長1(1096)鳥羽殿馬場。平清盛が伏見稲荷で。平広常が頼朝武運長久を祈願し上総一宮で。。。

京都下賀茂社では明治の前は「騎射」。朱鳥年間(698.3)山背国の賀茂祭の日に人々が集って騎射する事を禁止する(続日本紀)。と大同にも同様に有。賀茂祭が国祭となるのは大同4(809)このあたりは二所朝廷の頃で賀茂は中心地、祭日前後に人々が群集して不穏な空気があったらしい。これが禁止令となったのでしょう。

流鏑馬は的が3個で放生会とよく重なっているので八幡(4)と縁深い宇佐が発祥ではないでしょうか、おそらく欽明29あたりまで溯ると思います。

東国での流鏑馬は神社に300m程の馬場を持つ所が実に多い、これは鎌倉以降に増殖らしいのですが。
律令制度では、正丁3人につき1人を兵士に、各国に軍団を置き、一部を衛士(えじ)として京に、一部を防人として辺防守備に。
装備は自前で弓1、弓弦袋1、副弦2、征箭(そや)50、胡{竹シタニ録}(やなぐい)1、太刀1、刀子1、礪石(といし)1、藺幅(いかき)1、飯袋1、水桶1、塩桶1、脛巾(はばき)1、鞋(かちわらぐつ)1、、と規定する。
延暦11(792)には、陸奥・出羽・大宰府管内以外の国の軍団を全廃して健児(こんでい)を国衙に置いた。国衙には健児所(こにしょ)を置き健児はこれに所属した。このとき健児の置かれたのは51ヶ国で、相模国は100人、武蔵は105人。
この延暦の健児制以前に、自前の健児を奥羽などに送込むのですが、だんだん人材に犯罪人など質が落ち現地より批判続出。さらに蝦夷退治には騎馬が有効と判り、延暦に騎馬の費用を一部朝廷持ちとなるのですが、それに先立ち相模・武蔵で騎射軍団の編成が行われる。相模では天平5(733)軍団の兵士300人を健児に切替、健児1人に馬子として中男(17-20の男子)2人をあてている。この特典が東国武士(主に郡司の子弟)の発展につながる。
と、これが鎌倉期の流鏑馬大流行の元でしょうか、諏訪大社に残る記録では関東一円、西国からも祭りに集った時期が有ったとあります。伊豆でも流鏑馬を行った社はみえます。


注連縄、綱 投稿者:tan  投稿日: 9月23日(月)21時16分52秒

 クーガーキングさん
「外来=良い物」の反転時期は、どうも半島からの勢力が力を持つ時期、ではないかと思っています。

>としてはまず太綱の♀(メス)のそれ(先端)はまぎれもなく「環」で、注連縄の大きさは太さで出雲の注連縄の太い端で2本よってある内の1本程度の径で30-50M程度あったかと思います。
#股でなく、細太でなく、「環」というのは色々連想できて面白いですね。30-50mという長さも又連想させてくれます。
やはり縄全般に流れるのは、右捻りと左のそれで出きるものですから「陰陽、男女」というのが元なのでしょうね。


re:本質と諸説 投稿者:s_tan  投稿日: 9月23日(月)21時15分58秒

 紋 さん
>小生はこのような現象をエデン語と呼ぶことにしています。
#叫びから、少し口腔喉が発達した語彙のまだ少ない時代あたりってことでしょうか。

>★ 司馬遼太郎さんの本で知ったバカのひとつ覚えですが、マッカツという意味は“黒”だそうですね。
#黒といえば古く中国では一番高貴な色だったらしいですね。赤など単色が好まれたそうで、紫などが高貴なになるのは後世だったらしい。どうも単色など色を総て集めると黒になる、とのイメージだったらしく「黒=玄」=真)の認識はこれかららしい。
黒といえば葬式に黒い服というのは戦の逸話からでそれ以前は白服を葬式に着ていたらしい。

>★ 大きく編んだ縄ですが、三本を捩ったものはあるのでしょうか?
#おさげの三つ編み状態でのブットイのはまだ見ていませんが、東北に多い中心が俵状ともいえる注連縄は3本で作られています、その端の細い部分におさげ三つ編みを見た事はあります。

>そういえば、日本には交合の神の名前がまったく見られないようですが、これ異常なんではないでしょうか? 
#史を残すサイドでは略奪・供物の一部で、個人の想いが高まっての交合は殆どなかった、からではないでしょうか。 ^^。
でも、正史に載らない出雲風土記残片などに「(玉造)温泉などで大らかにのんびり日を過す情景、」などありますから、民自体は結構おおらかさが大きかったと思いますから。。あと明治になり民間に伝わっていた神と伝承が殆ど消されたというのも大、かもです。

ps: 小生もさらに短縮して、昔使った「tan」も使うようにします。 ^^。

 


カイラス山 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月23日(月)19時20分52秒

カイラスといえばボン教
そして「卍」
卍は南斜面なのですがこの方向からの写真が少ない。
この写真でも縦の割れ目ははっきりしてますが横は雪との関係になるのかな。

最近カイラスへ登ろうとした登山家が登山を中止したようですね。

かたばみ


馬いろいろ 投稿者:かたばみ  投稿日: 9月23日(月)18時19分15秒

氷河時代では馬も南下したはずです。
人間に狩られながら南下し森や高原に逃げ込んでいった馬がヒマラヤ、雲南、東南アジアの馬ではないか。
中央アジアではアルタイや天山山脈へ、西アジアではイラン山岳地帯へ逃げ込んでいった。

雲南は照葉樹林地域です。キリンが灌木の間を通るのはちょい無理(^^;
馬は弱い動物、虎などから身を守るには逃げるほかなし。
樹林帯では小さい方が得策でそれに適応したのが南方系の小型馬ではなかろうか。

対して西アジアや中央アジアでは草原が登場した。
餌場や水場を渡り歩くために高速移動がほしい、敵から逃げるにも早く走るしかない。
その適応が森の馬より大型にさせたのではなかろうか。


馬の主食は稲科の雑草。飼うためにはこれを集めないといけない。
農耕が始まったとき、自動的に稲や麦の藁が余ります。馬の餌は探さなくても得られます。
遊牧民よりだいぶ早い時期に農耕に使われ始めていたと思います。
ただし、牛と馬とどっちを使うかは地域によって難しいところ。

船で馬や牛を運びたいなら、子馬か子牛を運べばよい。
これなら人間がゆけるところなら牛も馬も運ぶことができたと思います。
縄文登場と同時に牛や馬が日本に存在した可能性もあるんじゃないかな。


中央アジアでは大草原に遊牧が発達してゆきます。
ひとりの牧童がヒツジを扱うとき、徒歩だと150頭が限界なんだそうです。
ところが馬を使えばはるかに多くのヒツジを扱えるようになる。

必要は発明の母。
乗馬の登場はこれでしょう。遊牧の大規模集団が登場したときだろうな。
乗馬を得意とするようになれば、後に戦で有効な戦力になるのは明らか。

騎馬軍団の登場につながってゆくわけですが・・
牧童に弓は必要ない。馬上で弓を使うのは戦がはじまってからだと思います。

狩猟と弓は馬につながるイメージになりやすいですが、馬に乗って狩りをする民族っていたのだろうか。
草原を爆走するバファローを馬に乗るインディアンが追跡しながら弓で射る・・
映画にありそうな勇壮なシーンですがほんとかなあ?
だとしても、狩猟の平原インディアンが突然ヨーロッパからの馬を入手したことで生じた例外だと思います。
(ヨーロッパ貴族の狩りは遊びで実用じゃない)

馬に乗るマタギというのを聞いたことないです。馬に乗って獲物に居所を教えながら狩りをするか?
蝦夷も戦によって乗馬をはじめたのだろうと考えています。
弱体とはいえ古墳時代の騎馬兵と戦い、その威力を知ってから、というわけです。
蝦夷の乗馬は日本武尊〜雄略あたりに始まる、というのが妥当そう。

蝦夷が騎馬戦に優れていた、というのはこのインディアンの場合に類似なのではなかろうか。
馬を入手したが鞍はなかった。
裸馬同然で乗るために、貴族用の鞍を用いる騎馬より軽快に動けて川を渡ることもできるようになった。



書紀の馬の最古はスサノオが馬の皮をはいでアマテラスの機織り小屋に投げ込んだという話(BC180頃か)。
これはスサノオが馬の重要性を知らなかったことを示す。
(騎馬民族は馬を神に捧げるが乱暴に扱ったりはしない)
逆にアマテラスは馬を飼っていたことを示す。縄文系の小型馬。

ウエツフミではアマノフユキヌ(大国主の父)が(農耕用の)馬を移送する(BC50頃か)。
出雲が農耕馬を使っていたことを示す。この馬も縄文系でしょう。
そして大国主で国譲り。

古事記で八千矛神が鞍に手をかけ、鐙に片足を入れた。(AD200頃としておきます)
ここでは馬が乗り物になっている。中型馬だと推定。
日本の最古の乗馬の痕跡、倭国争乱によっての登場でしょう。

出雲は関東へ中型馬を運んで増産していたのではないかな。最適の空き地が関東にあったわけです。
ほとんどは荷役と農耕用だと思います。


書紀に武内宿禰が「東国に馬がたくさんいる、取るべし」と景行311-333に言上しています。
これだけでは用途がわかりませんが、これも荷役と農耕用じゃないかとみています。

九州は弥生後期からの飢饉で壊滅状態になっており、出雲を制圧した近畿ヤマトは九州へ食料支援をしていたと推定しています(そのための出雲攻撃、ただし開化と大彦の東征)。
畿内の庄内式という土器がこの頃に九州から出土するようになるのはこのためとみています。

食料輸送と不足している農耕馬の補充のために東国の馬が必要だった。
景行の九州巡幸も混乱状態の九州を安定化するためと考えています。
そして日本武尊の東征がはじまった。


ピラミットの原形はカイラ−ス山  投稿者:クーガーキング  投稿日: 9月22日(日)22時35分24秒

焼尻紋次郎さん  

クーガーキングさん、“馬”はいちおう卒業……、それもいいでしょうね。

例の米国サイトではこんなもの:

「リグヴェーダの詩歌と賛歌は彼らの詩歌に歌われた故地東部、多分イラン及びアフガニスタン東部、からパンジャブ地方に侵入する彼らの記憶を彼らの歌で述べている遊牧民によるインド/ パキスタンのパンジャブ地方において約BC1500-1200年頃に編纂された。 リグヴェーダと同一の神々、倫理観を正確に知り、同一方言をも話し、戦闘馬車を乗り回す首長は、多分傭兵として、シリア、文字を持っていたミタンニにおいてBC1500年頃に歴史に登場した。彼らは多分当時パンジャブ地方に向かって東方に移動中のものとの同族の極西支流だったのだろう。」

又、別にこんなのもあります。
http://www.imh.org/imh/kyhpl1b.html

 クーガーキングさんの、十日ほど前のおカキコに、柱を別の目的に使用し
たり、燃やしたりするときには“お祓いみたいなこと”をする……とありま
した。

諏訪では柱の霊を抜くようです。四隅突出、前方後方、相撲の土俵なんか似ている感じ。
 
 じつはじつは、「天井界から神が降りてくる通路は目には見えない、しか
し、その通路はカイラ−ス山のイタダキへ天からまっすぐに降りてきている
のだ」という人類規模の共通認識ができていたと思えるのです。しかも、約
2万年まえに。

タスマニア、豪州、南米パタゴニアに向かうホモサピエンス先頭集団中にはアフリカ、エジプトに引き返すものがいたとておかしくはないということになりますか。ただ非常に古い時代というか、原始社会でも脳外科の手術なんかやるっていいますからありえることかも。それよりアルタイ、フィンノ-ウゴル、印欧語は1万年以上前の旧石器時代には単一言語であったことを比較言語学で証明している人がいます。


 ピラミットの原形はカイラ−ス山   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 9月22日(日)17時24分34秒

クーガーキングさん、“馬”はいちおう卒業……、それもいいでしょうね。
 タケトラさん援助交際で XO のくにでホツマツタエが書かれたときの支配
階級用語では馬が MBA と表記されていることにより、いちおうここは「シ
ナ直」が出ました。ただし全面的なシナではなく、この MBA は地域・時代
が限られていると見込めますので、いよいよ焦点が絞られてきます。皇室の
馬調教にかかわりがありそうなので、事態は重大。

 一般の馬とウンマ(沖縄・アイヌ)がアッシリア直で入ってきているこ
と、しかも「ウマ・ウンマ」のセットとしてひとつ(アッシリア)の言語に
詰まっていた……ということも、これまた事態は重大です。
 もしかしたら、アッシリアの隣とか、周辺氏族が「ウマ・ウンマ」のセッ
トを持っていたのかもしれません。でも、目安として“アッシリア直”とし
て睨みつけていいのではないでしょうか。
 ということは、日本列島に外国の二つの棲み分けが見えたということ。
由々しき事態。あっしとしてはこれでウマ・チャンチャン。

 クーガーキングさんの、十日ほど前のおカキコに、柱を別の目的に使用し
たり、燃やしたりするときには“お祓いみたいなこと”をする……とありま
した。
 柱は世界的にみると三つの性格があるみたいです。
 ひとつは柱が神そのもの……これが日本で顕著です。ほかに類例はあるの
でしょうか? もしあれば、その第三氏族〜国は日本に非常に近いといえる
のではないでしょうか。
 二番目は神のヨリシロとしての機能。クーガーキングさんおカキコはこ
れ。善玉の精霊や神が集まって集落を庇護するという考えかたで、英国のメ
イ・ポールなどはこれでしょう。
 三番目は神の通路。アイヌ語の柱は「イ(神)KUSH(貫く)BE(も
の)」ですので、この部類でしょう。
 山のイタダキは落雷がおこり易いのでしょうか? 実際問題としてはどう
なんでしょう。じつは「タダ=柱」が言えそうなんです。記憶の片隅にひっ
かかっていますが、母語は忘れました。ハタタは完全に日本語化されている
雷です。タタナズク‥‥なんざも権威スジの解釈ではなさそうです。

 じつはじつは、「天井界から神が降りてくる通路は目には見えない、しか
し、その通路はカイラ−ス山のイタダキへ天からまっすぐに降りてきている
のだ」という人類規模の共通認識ができていたと思えるのです。しかも、約
2万年まえに。
 カイラ−ス山はヒマラヤ山脈の西端にあって、人里はなれて、歩いて2週
間かかるインダスの源流にあります。山容は四角屋根がとんがって、その下
に堆積水成岩の造型が「神の目」を見せています。ピラミットの原形はこれ
だと思います。
 太古々々の大昔から、ここには多くの巡礼者がお詣りにきました。ヘンロ
(遍路)ということばがレプチャ語にある……。これは横浜在住の建林賢司
さんからの情報です。

 リトアニア語にも「あっし(わたし)」がある……も、建林賢司さんの言
です。

 


皇室の馬行事 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日: 9月22日(日)12時40分50秒

 皇室、他に伝わる「馬関連」行事について

19-12        ムマノサダメハ             馬の定めは
    メハナヨリ オホネエヤタノ  目鼻より       尾骨え八尺の
    ツツタチハ ヰタヰキノリオ  ツツタチは      五尺五寸法お
    ハツキモチ サツキヰツカノ  ハツキモチ(八月望*)五月五日の
    コトホキノ ノリにカケルハ  寿きの        乗馬にかけたは
    アヤシアリ タトエフトクト  奇しあり       たとえフトクト
    ヤツヰヰノ ワリアヒカガヱ  八つ五五の      割合考ゑ
    タマフベシ          給ふべし      

 このくだりを『ほつま』研究者の鳥居礼氏は、
「馬というものは、目鼻より、尾骨までの八咫の内の五咫五枳の部分に乗るのですが、その長さを、八月十五日(*)の駒牽(こまひき)と、五月五日騎射式のお祝い(*)の乗馬に掛けたのは、あやし方と関係があるからです。常に八つと五・五の割合を考えてお乗り下さいませ」
 と口語訳され、

 注釈として

<八月望> 宮中で馬を親覧される儀式である駒牽(こまひき)は、八月十五日に行なわれていた。のち八月十五日は朱雀天皇の御忌に当たるため十六日に変更された。『延喜式』の規定では、御牧は甲斐に三箇所、武蔵に四箇所、信濃に十六箇所、上野に九箇所設けられ、毎年九月十日に国司が牧監等と牧馬の検査を行ない、四歳以上の良馬を指定しておき、翌年八月に牧監がこの馬を牽いて貢進する。

<五月五日の 言祝ぎの> 中古朝廷で行なわれた公事として騎射が知られる。天皇が武徳殿に親臨して、騎射ならびに走馬をご覧になる儀。五月三・四日を荒手結(あらてつがい)《試演》、五・六日を真手結(まてつがい)《本勝負》とした。また京都市北区上賀茂の別雷神社においても、五月五日加茂競馬の行事が取り行なわれる。記録によれば宮廷では奈良県朝以前から例年五月五日の行事として競馬(くらべうま)が行われていたとされているが、その行事を移行したものであろうか。加茂競馬は、五日午後、乗尻(のりしり)《騎手》が、左方十人は緋の闕腋袍(けってきほう)、緋の裲襠(りょうとう)、右方十人は同種の黒の装束を着け・ともに「おいかけ(糸ヘンに委)」をつけた細纓(ほそえい)の冠をかぶり、腰に菖蒲を巻いて打ち揃って社前に進み、奉幣、祝詞があって退下、馬場を九回めぐり、休所に入る。ここで神主以下座につき、念人(ねんじん)《判定役》が仮屋に座し、競馬がはじまる。競馬は左右一人ずつ出て馬場のもとにある桜のところから、頓宮の前まで走り、そこに立っている桙(ほこ)の地点を早く過ぎた者が勝ちとなり、左方が勝つと赤丸の扇、右方が勝つと白丸の扇を念人が上げる。  (以上)

 と8月と5月の馬行事について特筆されています。

#「記録によれば宮廷では奈良県朝以前から例年五月五日の行事として競馬(くらべうま)が行われていたとされている」が、どういう文献によるのか愚生にはわかりかねますが、参考のため『完訳 秀真伝』(鳥居礼)より引用ご紹介します。


流鏑馬 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日: 9月22日(日)11時12分31秒

かたばみさん
>19アヤの最後に「祭る乗馬弓」ノリユミというのがありますが、これは流鏑馬とは違うのでしょうか。

#『ほつま』研究者の鳥居礼氏は、明確に流鏑馬のことと解釈しています。

 「祭る乗馬弓」の「祭る」という表現は、神社行事としての流鏑馬を推察させるに十分ですね。
 二荒山神社の例大祭(4月17日)に流鏑馬が奉納されるかどうか、未確認ですが、一ヶ月遅れの日光東照宮春季大祭(5月17日18日)では、流鏑馬が主なる行事になつているようですね。この19アヤ(章)最後はフタアレカミ(二荒神)に関する記述なので、いよいよつながりを感じさせます。愚生の(母方)ご先祖の城井氏は宇都宮氏の嫡流ですが、「鏑矢の秘伝」を口伝していたこと、「家宝の弓を相続していたところを秀吉に所望された」伝承が残るところなど、このあたりに弓道の源流の一つが探れる気配を感じさせます。(宇都宮競馬もそうか?!)
 この19アヤの記述は記紀にもよくある「〜という史実の名残が、○○じゃ」的表現とも考えられます。つまり、「乗馬術の奥義を究めたイツヲバシリ(建御雷之男神の父君)とタカヒコネ(味鋤高彦根神)が、乗馬道を極めて、荒乗りの両雄(ふたあら-二荒)と称されたことを顕彰するのが今の流鏑馬の奉納祭事じゃぞよ」と語つているのかもしれません。その場合でも、執筆者(=執筆時点)は、クシミカタマ(神武時代の右大臣)と『ほつま』では語られているのです。

 さらに、もう一カ所。見落としていた!(^^;、「ノリユミ」表記が、おなじ19アヤにあります。(木元さんHPより)

19アヤの中程 <「」と(*)は愚生加入>

          ミツレバカクル            満つれば欠くる
    ヨコシマノ ハヤルマスビト  邪心の       逸るマスビト(益人*)
    ムラガルル ナンマスコチノ  群がるる      何増す九千の
    サマタゲモ ヤブルヲシデオ  妨害も       破るヲシテお(追討の勅*)
    タマワレバ ホドヨクハラフ  賜われば      程よく祓ふ
    ムツノカミ タケモノノベラ  六つの首      武モノノベら(物部*)
19-11  アレイツオ ノリユミワザニ  荒れ逸お      「乗馬弓業」に
    ヨコシマオ ノゾケバスベテ  邪道お       除けば総て
    ヨソヤマス オヲンタカラモ  四十八ます     大御宝も
    ミナスデニ ヰオヤスクヌル  皆既に       居お安く寝る
    ノリユミノ イザオシタツル  「乗馬弓」の    功績立つる
    モノノベオ メグミタマヒテ  モノノベお     恵み賜ひて

 「イフキトヌシ(伊吹戸主命)とスサノオ(素戔嗚尊)が逆臣シラヒト・コクミらとその煽動に乗じたハタレ6部族の反乱を鎮圧した際に、物部の兵士たちとともに乗馬・弓術を駆使して撃退し、恩賞に預かった」ことを語ったくだりです。
 「乗馬術と弓術を駆使して」は、即ち「騎射(流鏑馬)」と解釈して良いのでせうか。良いとすると騎射(流鏑馬)技術の出現は神武時代をさらに遡つて天照大神治世にまで、(『ほつま』では)いつてしまいます。

 史実としての真偽はともかく、いずれにしても9/17投稿の
(愚生)>『ほつま』全編には弓に関する記述が頻出するのに、いわゆる流鏑馬まで話は進みません。
#は、撤回して訂正します。失礼しました。

S tanさん
>腐り易い素材(軽い)での使用を推測させる表現は上述の他に「ほつま」「上記」でありませんでしょうか。
#後日、鋭意検索してみます。


『ほつま』のタカギ 投稿者:沼津湊 タケトラ  投稿日: 9月21日(土)22時05分07秒

かたばみさん
>ホツマは神代を別にして以下のように(略)
(数字は愚生加入)
@オシホミミ+Aタクハタチチ姫
     |
Bホノアカリ・Dニニキネ  Fタカギがアマテル神からもらった独立国
C(大和国) E(ホツマ国)G(ヒタカミ国)
  |    |      |
Hナガスネ  I関東?  J諏訪?、東北南部?
の悪事を   |      | 蝦夷
を神武が   |      | |
 誅する   |←K攻撃?−−・−・
  |  L救援要請     |
  ・−−−−−−−M反撃?→・
         ヤマトタケ

#『ほつま』を取り上げるにこの部分を問うとは、流石、かたばみさんの慧眼です。BホノアカリとDニニキネの存在がその後のH神武やM日本武尊の話の根元になっている点、そしてそこにFタカミヌスビ(系)が深く関与する点、は『ほつま』史観の要ともいえ、記紀や旧事紀との比較においても重大だからです。あまりに全体像に関わるので、愚生では簡潔にはご返答できかねます。少しずつ、でお許しください。

 Fタカミムスビ(タカギ)は、数代にわたつてヒタカミ国に宮をおいた神で、常陸以北の統治に関わり、ヤマトタケの時代に下つてからは「ヱミシ」につながる存在です。
 『ほつま』読解上の注目点は、
1.タカミムスビ系がミナカヌシ(天之御中主神)の嫡流と語られること
2.イサナキ(伊弉諾尊=本名タカヒト)は、五代目タカミムスビの娘であるイサナミ(伊弉冉尊=本名イサコ)の元に「婿入りした」とも理解できる表現があること
3.アマテル(天照大神)ご自身をはじめ、皇祖歴代が、ヒタカミ国の教えを授かったと語られることなどが、まずあります。

 故にまず、F「タカギがアマテル神からもらった独立国」の解釈は『ほつま』からズレます。

 次に「@オシホミミ+Aタクハタチチ姫」ですが、
両神のご成婚はその通りで、「兄」ホノアカリ(アスカホノアカリ 別名アスカヲキミ また別名テルヒコ)と「弟」ニニキネ(キヨヒト 別名ハラヲキミなど)を生みました。Aタクハタチチ姫は、第七代目のタカミムスビ(タカキネ 「きね」が詰まって「ぎ」=タカギ 故に「高木神」は『ほつま』では七代目の個人名。 別名フリマロなど)の娘君で、即ちイサナミ(伊弉冉尊)の甥っ子の娘君になります。@オシホミミは成婚後 妻であるAタクハタチチ姫の実家の里「ヒタカミ国」に長く暮らしますから、祖父のアマテルに習つて、再びタカミムスビ系への「婿入り」的な選択をしている、といえます。

 何故、始元神の嫡流をタカミムスビと語るのか、何故その根拠地はヒタカミであり、何故、皇祖の正統性を「婿入り」として語るのか、ここが『ほつま』の不思議です。

以下

BCは ○
DEは △
Fは  ×
Gは  ○

Hは  ○
Iは  △
Jは  諏訪が△

KLは ×
Mは  ○

と先に愚生の判断を述べますが、解釈は、また後日。