惟喬親王の別邸跡。
嵯峨天皇の皇子の別邸と聞いていたんだけど・・・歴史読本「天皇 宮家 人物総覧」で嵯峨天皇の皇子の中にこの名前が無い!・・・宿題です。いつか確認出来たら報告します。
チョット不良?の皇子達と在原業平のような平安屈指ののプレイボーイ達?がたむろして遊んでいたんでしょう。別邸跡の廃観音寺に梵鐘だけが残っている。最近歌碑が建てられた。「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」今度行って見て来ます。
京阪電車御殿山駅徒歩10分。近くに渚の湯というお風呂屋があるよ!
惟喬親王、確認しました。文徳天皇の皇子です。嵯峨天皇の曾孫さんですね。どーして嵯峨天皇の皇子だと思い込んでいたんでしょうか。失礼いたしました。
※悲運の親王の話
渚元町に「渚院跡」の石柱と在原業平 朝臣の和歌の記念碑があります。渚院は850年頃、文徳天皇の離宮(別荘)でしたが、惟喬親王に譲られました。親王は第一皇子で天皇になる筈でしたが、弟の第四皇子が天皇(清和天皇)になったので、その悲しみや苦しみを和らげる為、親しい在原業平と共に景色の良い渚院で若い日々を過ごしました。渚院へは、大宮人や都人(都で和歌や文を書く人)が訪れ、梅・桜・紅葉等の見物や鷹狩などをして楽しみながら「古今和歌集」「伊勢物語」等、後々の手本になる和歌や文章を多く残しました。業平は渚院や川向の水無瀬離宮へ親王を誘って優れた和歌作りもしました。天皇になれなかった辛い思いの親王を桜の花に例えて歌にしたのでしょうか。
親王にまつわる話では、鷹を労わった話や河内乙女との出会いの話等が今日にも伝えられています。親王は、常陸・上野太守の役目を終えた後、木地師の祖(木材で食器作りを始めた人)となり、出家して素覚と名乗りましたが、業平との渚院での温かな結びつきは、いつまでも続いたという事です。
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