年 |
元号 |
北条一族関係の出来事 |
歴史の出来事 |
北条時房データ |
漫画 |
1157年
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保元2年
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北条時政の長女政子誕生。
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湯口聖子
(星はめぐり)
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1159年
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平治元年
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平治の乱
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1160年
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頼朝、伊豆に流される
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1175年
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安元元年
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政子18歳。義時12歳。時房誕生間もなく母伊東氏娘が
病死の説がある。
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0歳
誕生
北条時政の三男として産まれる。幼名は五郎。
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佐久間智代
(違えない女)
湯口聖子
(鎌倉以前)
木原としえ
(青頭巾)
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1177年
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治承元年
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時政大番役の為在京。伊豆へ帰還後政子と山木氏の結婚を
決める。政子が源頼朝と駆け落ち。時政が折れる。大姫誕生。
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2歳
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湯口聖子
(風の中の少年)
市川ジュン
(華の王)
佐久間智代
(らせんは時を越えて)
(記憶の破片)
(風は時を奏でる)
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1178年
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治承2年
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頼朝と政子の長女大姫誕生?
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4歳
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1180年
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治承4年
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頼朝の挙兵で時政、宗時、義時が出陣。山木兼隆を討つ。
嫡男三郎宗時戦死。石橋山で敗北。安房で軍勢を立て直す。
頼朝が鎌倉へ入る。侍所を設置。
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頼朝伊豆で挙兵、木曾義仲挙兵。富士川の戦いで平氏が敗走。
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5歳
父達と共に鎌倉へ。
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湯口聖子
(天翔ける星)
(月のほのほ)
竹宮恵子
(吾妻鏡)
上田倫子
(リョウ)
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1181年
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養和元年
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平清盛没。高倉上皇崩御。安徳天皇即位。
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6歳
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1182年
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寿永元年
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頼朝が亀の前と浮気、政子の命で彼女の家、広綱邸を牧の方の
父宗親が破壊。頼朝が宗親の髻を切る。時政が一家を連れて伊豆へ
帰る。義時だけが残る。政子の嫡男頼家誕生。
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7歳
多分父と共に伊豆へ帰る。
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1183年
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寿永2年
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義時20歳、嫡男泰時誕生。幼名金剛。母阿波の局?頼朝復官
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平家都落ち。後鳥羽天皇即位。木曾義仲、源行家入京。
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8歳
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かやまゆみ
(1183年のお婿様)
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1184年
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寿永3年
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義時、平家追討の為源範頼に従って西海へ出陣。
政子の長女の婚約者、義仲の子義高惨殺。
頼朝に知行国三カ国を与えられる。公文所、問注所を設ける。
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木曾義仲が粟津で討ち死に。
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9歳
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湯口聖子
(青の情歌)
河村恵利
(清水鏡)
(冬の落日)
かやまゆみ
(1184年の女武者)
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1185年
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文治元年
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頼朝が従二位に叙せられる。公文所を政所と改称。
時政が頼朝の代官として上洛。京都守護に当る。乙姫誕生
義経が宗時親子を捕らえて鎌倉に下向、鎌倉に入れず。
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屋島の戦い。壇ノ浦で平家滅亡。頼朝、義経と対立。頼朝追討の宣旨が義経に下る。
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10歳
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湯口聖子
(雪月花)
(緋の川)
(銀の翼)
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1186年
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文治2年
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時政が伊豆・駿河両国の守護となる。娘婿の一条能保と替わり
伊豆へ帰還。頼朝が西行と再会。義経と静の子が殺される
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源行家を殺す。
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11歳
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湯口聖子
(昔日)
河村恵利
(霧雨有情)
かやまゆみ
(1186年の舞姫)
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1189年
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文治5年
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頼朝が奥州征伐に出陣。時政、義時、時房も出陣。
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藤原泰衡、義経を討つ。頼朝、奥州征伐。
「選択本願念仏集」法然。
「興禅護国論」栄西。
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14歳
元服、烏帽子親は三浦義連。時連と名乗る。奥州で初陣したかも・・・或いはお留守番?
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湯口聖子
(星が降る日に)
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1190年
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建久元年
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頼朝上洛。権大納言・右近衛大将に任ぜられる、しかし辞退。
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頼朝が法皇、天皇に拝謁。
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15歳
頼朝に従い上洛
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市川ジュン
(よう輝妃)
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1191年
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建久2年
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栄西が宋から帰国。
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後白河法皇没。
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16歳
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1192年
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建久3年
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頼朝が征夷大将軍に。義時、比企氏の姫の前と結婚。実朝誕生。
義時から離縁しないという起請文を取って結婚。熊谷直実が出家。
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頼朝、征夷大将軍になる。
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17歳
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湯口聖子
(氷火)
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1193年
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建久4年
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義時の次男、朝時誕生。曽我兄弟の仇討ち。源範頼が討たれる。
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18歳
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湯口聖子
(天翔ける星)
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1194年
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建久5年
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頼朝が征夷大将軍を辞任。
泰時11歳で元服。烏帽子親は頼朝。頼時と名乗る。
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19歳
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1195年
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建久6年
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頼朝が政子と子供達と上洛。大姫入内工作。
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頼朝、再び上洛。東大寺再建供養
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20歳
頼朝夫妻と共に上洛。
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1197年
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建久8年
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大姫病死。
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22歳
後に佐介家の祖となる時盛が誕生。多分長男。
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湯口聖子
(風の祈り)
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1198年
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建久9年
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頼朝が相模川の橋供養の帰途落馬。義時の三男、重時誕生。
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土御門天皇即位。
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23歳
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湯口聖子
(青、深く)
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1199年
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正治元年
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頼朝死去。梶原景時が追放される。乙姫死去。
時政が13人の合議制に参加。
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頼朝死去。頼家が征夷大将軍。
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24歳
三男資時(輔時)誕生。
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1200年
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正治2年
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梶原景時の乱。時政が遠江守に就任。
時政が従五位遠江守に叙任。
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念仏宗禁止。
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25歳
頼家とその側近へスパイ活動開始?蹴鞠三昧の日々。
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湯口聖子
(道を行く者)
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1201年
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建仁元年
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泰時、将軍頼家の蹴鞠三昧を諌めて怒りをかい、伊豆江間で謹慎。
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26歳
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1202年
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建仁2年
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泰時19歳、三浦義村の娘と結婚。
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27歳
時房と改名。
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湯口聖子
(落日)
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1203年
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建仁3年
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比企氏の乱。阿野全成が頼家の命で殺される。時政、頼家を廃し実朝を立て、執権に就任。
泰時の嫡男、時氏誕生。
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実朝が征夷大将軍。時政が執権。
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28歳
鎌倉寺社奉行就任 幕府営中雑事奉行就任
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湯口聖子
(慕い)
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1204年
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元久元年
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頼家殺害。義時、相模守就任。実朝、坊門信清の姫と結婚。
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頼家暗殺。
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29歳
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かやまゆみ
(1204年のプラトニックラブ)
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1205年
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元久2年
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畠山重忠の乱。牧氏の乱。時政を伊豆に監禁。出家。
義時が2代執権に就任。
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「新古今和歌集」
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30歳
主殿権助に叙任 式部少丞に叙任 畠山騒動で大将軍として出陣 遠江守に叙任 駿河守に叙任
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湯口聖子
(砂の鏡)
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1206年
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建永元年
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31歳
後に大仏流の祖となる朝直誕生。多分四男。時房の子孫はこちらが嫡流かな?
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1207年
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承元元年
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32歳
武蔵守に叙任
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湯口聖子
(夕凪の賦)
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1210年
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承元4年
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35歳
政所別当に就任
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1213年
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建保元年
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和田義盛の乱。
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38歳
和田義盛の乱に出陣
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木原としえ
(風恋記)
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1215年
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建保3年
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時政死去。
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40歳
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1217年
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建保5年
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42歳
相模守に就任。
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1218年
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建保6年
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政子熊野詣。
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43歳
政子に従い熊野詣。皇子将軍要請?
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1219年
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承久元年
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源実朝暗殺。頼家の遺児公暁に殺される。政子が政治を執り義時が補佐する。
泰時、駿河守就任。重時が別当就任。
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実朝暗殺。
九条三寅が東下。
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44歳
皇子将軍要求の為上洛。結局三寅を連れて帰還。
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湯口聖子
(大地燃ゆ)
(流砂の片貝)
中村計
(邯鄲の夢)
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1220年
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承久2年
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「愚管抄」
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45歳
次男時村と三男資時が出家。
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1221年
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承久3年
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承久の乱。泰時、時氏、時房と共に上洛。六波羅探題北方として留まる。
武蔵守就任。
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承久の乱。六波羅探題を置く。後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に、土御門上皇を土佐に。
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46歳
泰時と共に東海道を上洛。そのまま京都に留まる。初代六波羅探題、南方。
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1224年
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元仁元年
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伊賀氏の変。義時毒殺?6月13日。泰時、時房と帰還。三代執権就任。
伊賀氏を伊豆に監禁。泰時の嫡男時氏の長男、経時誕生。
時氏は六波羅探題北方就任中。母は安達の姫の松下禅尼。
時氏と共に時房の子、時盛も六波羅探題就任。
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泰時が執権。
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49歳
義時の死で鎌倉へ帰還。伊賀氏の乱を防いだ後再上洛。時盛が六波羅探題南方就任。
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1225年
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嘉永元年
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政子死去。大江広元死去。連署、評定衆を設置。
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50歳
次男時村死去。
鎌倉へ帰還。
初代連署に就任。
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1226年
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嘉禄2年
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51歳
嫡男?朝直が泰時の姫と結婚。
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1230年
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寛喜2年
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泰時の嫡男、時氏が鎌倉へ帰還。時氏死去、28歳。
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55歳
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1231年
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寛喜3年
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56歳
時房邸の公文所から出火。勝長寿から永福寺、頼朝と義時の法華堂や本尊まで焼けてしまった。
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1232年
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貞永元年
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泰時による御成敗式目五十一ケ条完成。
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貞永式目制定。
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57歳
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1236年
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嘉禎2年
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61歳
正五位下に叙位 修理権太夫を兼任
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1238年
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暦仁元年
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泰時、将軍頼経に従って大軍を率いて上洛。
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63歳
相模守を辞任 将軍頼経上洛の供奉 正四位下に叙位
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1239年
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延応元年
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泰時の急病で大騒ぎ
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後鳥羽上皇が流刑地隠岐で崩御。
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64歳
泰時邸の向かいの自宅で酒宴をやめなかった。
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1240年
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仁治元年
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65歳
1月24日死去。法名は称念。しかし「増鏡」で2年後の出来事に登場。何故?
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1242年
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仁治3年
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泰時死去。60歳。6月15日。法名は観阿。鎌倉市大船の常楽寺
本堂裏に墳墓がある。嫡孫の経時19歳が4代執権に就任。
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四条天皇没、後嵯峨天皇即位。
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湯口聖子
(赤い橋)
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