私の鎌倉北条一族
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   名   前         時   代       人  物  紹  介
華麗なる北条一族
   
北条時政
初代執権
保延4〜建保3年
1138-1215/1/6
腹黒狸の北条一族の頂点に立つ狸!桓武平氏の末裔だが小豪族だった。源頼朝の外戚として北条氏を大豪族へと導いた。しかし北条氏の台頭を快く思わない御家人も多く、対抗勢力との争いで数々の陰謀をめぐらせた。そして娘達の結婚を上手く政略に使った。先妻の子グループと後妻と後妻の子グループの対立の時は後妻を庇うあたりがチョットカワイイ。しかしそのせいで晩年失脚する。
牧親子?
大岡親子?
牧の方
(北条時政正室)
 
??
時政の後妻。もしかして政子くらい若い妻。叔母は池の禅尼(平清盛の継母)。京都育ちなので北条家や将軍家と京の貴族の姫との縁組みには何時もこの人がしゃしゃり出たらしい。先妻の姫の嫁ぎ先の畠山氏滅亡の立役者?娘婿を将軍にと企んだとか実朝暗殺を企んだとか色々あったが先妻の子グループに負けて失脚。頼朝と亀の前の浮気を政子に告げ口した方です。
北条宗時
?〜治承4年
?-1180/8/24
時政の嫡男。頼朝旗揚げの時の石橋山合戦で戦死。おそらく北条氏では当主と嫡男は行動を共にしない。いや、戦の時は何処の家でも当主か後継ぎのどちらかは生き残るように努力したんでしょう。時政、義時とは別行動で戦死したんだと思います。なので泰時は父の義時より叔父の時房と一緒の事が多かったのかも。
北条政子
(源頼朝御台所)
保元2年〜嘉禄元年
1157-1225/7/11
源頼朝と駆け落ちして結婚。頼朝が征夷大将軍になると御台所と呼ばれる。4人の子総てに先立たれる悲劇の女性。夫の浮気相手の亀の前が住んでいた邸を叩き壊したエピソードが有名。弟の時房とは18歳も離れている上に母が時房が幼い頃亡くなったので母親代わりだったので婚期が遅れた・・・という説もある。夫や息子達の死後は尼将軍として幕府の最高実力者。愛しの時房君のおねーちゃんなので決して悪女ではなかったと思いたい。時房君は40を過ぎても政子から五郎ちゃんと呼ばれていた。
北条保子
(阿波局)
(阿野家正室)
?〜嘉禄3年
?-1127/11/4
政子のすぐ下の妹で頼朝の弟、阿野全成に嫁ぐ。時元を産む。保子という名前は昔の大河ドラマ「草燃える」から頂きました。実朝の乳母となってから阿波局を名乗る。御台所となった姉や大豪族や京都の名家へ嫁いで行った妹達にコンプレックスがあったかも。政子は長男を乳母一族に取られたように感じて傷付いたので次男の乳母は妹にして安心したかったんでしょうが、結局実朝も阿波局に懐いてしまったようです。この人の夫も非業の最期だったが、外孫の孫の娘が阿野簾子、後醍醐天皇の寵姫で後村上天皇達を産んだ。
北条育子
(稲毛家正室)
??-1195/7/4
稲毛重成正室。若い頃は元気イッパイで弟の五郎ちゃんと特に仲の良いお姉ちゃんでしたが嫁いでからは病がちだったようです。
北条祐子
(足利氏正室)
??
足利義兼正室。義氏を産む。約9人?もいる姉妹の中で特に美人。この人の姫は実朝将軍の御台所候補になった程で母に似た美人だったらしい。しかし実朝は都の姫を望んだ。
北条章子
(畠山正室)
??
畠山重忠正室。重保を産む。夫重忠はカナリの美形だったらしい。有力御家人であり頼朝のお気に入りでもあった。夫と息子の重保を北条の陰謀で殺された後に足利義純、妹祐子の継子に再縁。泰国を産む。畠山家を再興。
北条義時
2代執権
長寛元年〜元仁元年
1163-1224/6/13
北条政子の6歳下の弟。兄の死で思いがけず北条の嫡男になる。政治力で北条の地位を固めた男。承久の乱に勝利して天下を手に入れる。2度目の妻と結婚する時、起請文を差し出したエピソードが有名。4番目の妻に毒殺された疑いがある。政子、義時、時房の結束の固さが北条家の基盤だと思う。
阿波局
(泰時母)
??
義時の最初の妻。義時は20歳で息子が産まれ40歳で孫が産まれた。名前からして御所に仕える女性で多分御家人の娘。泰時が幼い頃に亡くなったんでしょう。
姫の前
(比企氏)
(北条義時正室)
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義時の2度目の妻で比企の姫。頼朝の御所に仕えていた。義時のプロポーズ作戦が頼朝にバレて頼朝の入れ知恵で絶対に離縁しないという起請文を取って結婚。義時の次男、三男を産む。後に義時は比企氏を滅亡させるが、亡き妻の実家だからといって容赦はしない人でした。当然ですが。
伊賀の方
(伊賀氏)
(北条義時正室)
??
義時の4番目の妻、もしかしたら5番目の妻かも。因みに3番目の妻は二階堂の孫姫。先妻の子泰時ではなく自分の産んだ子を執権にする為に夫を毒殺・・・したという噂。しかし失脚し蟄居の地で自害、或いは誅された。
北条尊子
竹殿
(村上源氏〔土御門家〕正室)
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義時の側室の姫。父の邸で育たなかったので父に素直に甘えられない分叔父の時房君に懐いている。政子さんにも可愛がられる優しく可愛い姫。土御門家はナカナカに評判の悪い?家だったので苦労の耐えない生涯だったかも。
北条時房
(大仏?)
(初代連署)
安元元年〜仁治元年
1175-1240/1/24
愛しの「ときぼー♪」時房君は青年期には父の命令で頼家の蹴鞠仲間に入りスパイ活動を、兄が執権の時は有力御家人と北条の数々の戦いで活躍し、その後甥の泰時と絶妙のコンビを組みながら六波羅探題や連署を務める。湯口聖子先生の漫画では最初の妻は比企の姫ですが、okayamateワールドでは最初の妻は二階堂冬子さん。容姿端麗、亜麻色の髪、何時までも少年の心を忘れないような所が大好きです。しかし酒好きで結構遊び人だった。
二階堂冬子
(北条時房正室)
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時房の最初の妻。二階堂家は戦よりも政治に秀でた家かな?政子に仕え、お気に入りだったので時房の妻となる。新婚の頃はナカナカ遠慮が取れない感じの夫婦でしたが、長男の時盛を産んでからは束の間、幸せでした。時房のアクの強い継母や兄嫁、気が遠くなる程沢山の小姑にもよく仕え良妻賢母の評判が高い。しかし、若くして亡くなりました。そのせいで時盛は嫡男になれなかったんでしょうか?
足立暁子
足立遠元娘?
(北条時房正室)
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時房の妻として足立遠元の娘が「吾妻鏡」に記されているらしい。時房の次男、三男、四男を産んで四男が嫡男となる。我が子を嫡男に・・・という気持ちが強くて気性が激しくなったのかな?ところで安達と足立って紛らわしいなぁ。
北条方子
(一条家正室)
時房の庶子ですが最初の正室の娘として父の邸で育ちました。兄の時盛とは特に仲良しです。執権の命令で一条頼氏に嫁します。頼氏の父高能は頼朝の妹の子で頼朝の大姫の縁談相手でもあった。大姫の死により成立しませんでしたが。
北条時定
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時房の6男。多分平々凡々な人物だったのでしょう。この人がどうして泰時の孫姫を嫁に貰えたのか不思議です。案外大恋愛だったのかも?
北条泰時
(得宗家)
3代執権
寿永2年〜仁治3年
1183-1242/6/15
幼名金剛丸。「やっくん」です。義時と最初の妻、阿波局の間に産まれた長男。継母達の産んだ異母弟達との間で嫡男争いがあったようだが、叔母政子や叔父時房の信頼は絶大で3代目執権となる。時房とは叔父甥というより兄弟のようなコンピ。「御成敗式目」を作った人として歴史のテストに出題されるかも?
三浦義子
矢部禅尼
(北条泰時正室)
 
?-1256
泰時の最初の妻。大豪族から嫁いで来たので多少気位が高く気が強かったらしいが泰時の継母伊賀の方や継祖母牧の方に太刀打ち出来る程のスケールでは無かった。嫡男を産んだ後円満に離縁。三浦一族の佐原氏と再縁。そして産まれた佐原兄弟は宝治合戦で三浦一族でありながら北条に味方した。
安保実子
(北条泰時正室)
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泰時の2度目の妻。武蔵の御家人の姫で次男時実が産まれる。
北条時子
(足利家正室)
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泰時の姫。足利義氏の正室。義氏の母は父の叔母で時政の姫。足利家は代々北条氏から妻を娶る。
北条行子
(北条〔大仏〕朝直正室)
(北条光時正室)
??
泰時の姫。多分後妻の産んだ姫。父の命令で既に正室の居る時房の嫡男朝直に嫁ぐが嫡男を産んだ後に離縁。北条光時と再縁。
北条時氏
(得宗家)
建仁3年〜寛喜2年
1203-1230/6/18
泰時の嫡男。先妻(三浦泰村の姫 矢部禅尼)の産んだ子。泰時の後任の六波羅探題を勤めた。28歳の若さで亡くなったわりには・・・子供が6人はいた。
松下禅尼
安達長子
(北条時氏正室)
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安達景盛の娘。時氏の正室で経時と時頼の母。経時を産んで間もなく夫の六波羅探題就任に同行して上京。時頼は京都で産まれた。
北条泰子
(北条時定正室)
?-1246/8/18
泰時の孫姫、つまり時氏の姫。母は安達義景の娘。時氏は早くに亡くなったのに子供が6人?姫は3人で一人は将軍に、もう1人は足利へ嫁ぎました。
北条経時
(得宗家)
4代執権
元仁元年〜寛元4年
1224-1246/4/1
 
泰時の長男時氏の長男。母は松下禅尼。幼名は藻上御前。乳飲み子の頃に父時氏が六波羅探題に赴任したので幼少時を京都で過ごす。執権在任期間は僅か4年、23歳の若さで亡くなった。息子が2人いたが、家は弟に譲った。
北条時頼
(得宗家)
5代執権
安貞元年〜弘長3年
1227/5/14-1263/11/25
父時氏が六波羅探題の頃に京都で誕生。4歳の時に父が没したので、祖父泰時の元で成長する。兄の死により20歳で執権に就任。出家後の諸国漫遊?伝説がある。
北条重時
(極楽寺)
建久9年〜弘長元年
1198/6/6-1261/11/3
義時の3男。姫の前の産んだ子。得宗家に反抗する事無く、彼の家系は時房流や政村流と共に執権・連署を多く出した。「六波羅殿御家訓」を残したが・・・堅苦しい事がいっぱい書いてあるらしい。かなり真面目な性格だったんでしょう。若い頃から、いずれは連署・・・と期待されたらしい。しかし真面目な人が遊女を側室にするか?
北条長時
(極楽寺)
(6代執権)
寛喜元年〜文永元年
1229/2/27-1264/8/21
重時の嫡男。父の六波羅探題就任に伴い2歳の時から京都。19歳で父の後任として六波羅探題就任。(佐介)時盛の姫順子と京都で新婚生活を始める。後に父が高齢の為連署を退くと鎌倉に帰還して評定衆。そして時頼から執権職を託される。嫡流以外で始めて執権となった。激務に追われた人生で36歳の若さで死去。
北条義宗
(赤橋)
建長5年〜建治3年
1253-1277/8/17
北条重時の子長時と時房の孫姫順子との間に産まれる。幼い頃に父母を亡くした。若くして六波羅探題北方に就任。執権時宗の異母兄、時輔を討つ。25歳で鎌倉へ帰還、その年に死去。
北条政村
(政村流)
7代執権
元久2年〜文永10年
1205/6/22-1273/5/27
義時の4男。母は伊賀氏。この母が父を毒殺したという噂があった。父の死後政村を執権に・・・という陰謀があったが失敗に終わった。兄泰時の厚情で連座を免れる。時宗を補佐して一門の長老として重く扱われた。
北条時宗
(得宗家)
8代執権
建長3年〜弘安7年
1251/5/15-1248/4/4
時頼の嫡男。異母兄の時輔は側室の子なので、時宗が正室の子として産まれた時から嫡男と決められていた。蒙古襲来前に18歳で執権に就任。
北条貞時
(得宗家)
9代執権
文永8年〜応長元年
1271/12/12-1311/10/26
時宗と正室堀内殿の嫡男として産まれる。平頼綱のバックアップで14歳で執権に就任。この後、御家人の勢力が弱まり内管領が台頭する。
北条守時
16代執権
(赤橋)
永仁3年〜正慶2・元弘3年
1295-1333/5/18
鎌倉最後の執権。赤橋家は重時流(極楽寺)の嫡流。32歳で執権に就任するが高時と長崎家の争いに振り回される。足利尊氏の正室は守時の妹。倒幕側と通じている事を疑われ死を覚悟して新田勢との戦いに出撃した。州崎で自害。北条一門が東勝寺で滅亡する4日前の事でした。尊氏の事を恨まず、妹を責める事無く死んでいったと思います。
北条登子
(赤橋)
(足利尊氏正室)
徳治元年〜貞治4・正平20年
1306-1365
最後の執権守時の妹。足利尊氏の正室。つまり室町将軍の御台所であり2代将軍義詮の母。足利家は代々北条家から妻を迎えたが尊氏は正室の子では無かった。波乱万丈の人生を北条の血を誇りに思いながら強く生き抜いた女性だと思いたいです。政子さんのような気の強さで尊氏の浮気を封じ、庶子を冷遇させた。
北条朝時
(名越)
建久4年〜寛元3年
1193-1245/4/6
義時の2男。姫の前が産んだ子。19歳の時父を見習って?御所の女房とスキャンダル!父から義絶され駿河で謹慎した。泰時とは仲が良かったのか悪かったのか微妙な所。名越邸は祖父時政以来の地であり、嫡男への野心はあったと思いますが。時房の娘と結婚した。子孫は得宗家に反抗的。
北条時盛
(佐介)
建久8年〜健治3年
1197-1277/5/2
時房の長男。ですが嫡男で無いのはどうしてでしょう。六波羅探題を18年間務めたし決して愚鈍な人物では無かったと思うのですが。やはり異母弟朝直との嫡男争いに敗れたんでしょうか。46歳で出家。79歳で孫時国と共に上洛。そのまま京で長い人生の終幕を迎えた。81歳。
北条順子
(佐介)
(北条長時正室)
1247年3月27日に嫁ぐ
通称越後入道息女。時房君が溺愛する孫娘。夫長時との間も円満で幸せな女性だった筈だけど幼い子供を残して亡くなったらしい。
北条朝直
(大仏)
建永元年〜文永元年
1206-1264/5/3
時房君の4男。始めの妻は伊賀光宗の姫。舅は伊賀氏の変で配流された。泰時の姫との縁談が起きた時妻を愛していたのでカナリ固辞したが結局結婚した。しかし妻を追い出したりはしなかったようです。泰時の姫とは息子を儲けた後離縁。妻を愛していた筈ですが子供が24人!側室がイッパイ居たのかな?
北条高時
14代執権
嘉元元年〜正慶2・元弘3年
1303/12/2-1333/5/22
湯口聖子さんの漫画では出家姿が殆ど。湯口先生を見習って?私も高時の事を愛情を込めて「ハゲ」と呼んでいる。田楽踊りと闘犬に熱中し政治を疎かにした。鎌倉幕府滅亡の原因の半分はこの人かも。しかし死に際だけは潔く美しかった。一門の人々と共に菩提寺東勝寺で自害を遂げた。
平家
   
平典子
(七条修理太夫〔藤原家〕室)
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平清盛と正室時子の間に産まれた姫です。姉徳子が高倉天皇の中宮だったのに継娘殖子が高倉天皇の寵愛を受け皇子を産みました。その皇子は甥の安徳天皇が平家と共に都落ちをした後、後鳥羽天皇となります。複雑な思いだったでしょう。平家の姫として継子信清の姫が実朝に嫁ぐ事も悲しかったと思います。平家の姫達は公家に嫁ぐパターンが多かったので平家滅亡後も生き延び鎌倉幕府を冷めた眼で見ていたと思います。典子姫の夫は七条を名乗っていましたが継子信清からは坊門を名乗りました。
平教経
(能登守)
?〜文治元年
?-1185
平清盛の弟教盛の子です。壇ノ浦の戦いで壮絶な最期を遂げました。平家は壇ノ浦で滅亡しましたが後鳥羽天皇の子順徳天皇の母は平教盛の孫、土御門天皇の母は清盛夫人の姪、平頼盛の孫は後高倉院との間に後堀川天皇を産みました。また、清盛の孫の孫が後嵯峨天皇に入内し亀山天皇と後深草天皇を産みました。「とわずかたり」の作者も清盛の孫の孫です。
源氏
   
源頼朝
鎌倉初代将軍
久安3年〜正治元年
1147-1199/1/13
源義朝の三男。伊豆で流人生活の頃に北条時政の娘政子と結ばれる。やがて旗揚げ。平家を滅亡させて鎌倉に幕府を開いた。
源義経
1159-1189
今年の大河の主役。某東京系?テレビの番組では「最初のヒーロー」と呼んでいました。
戦上手で兄の為に一所懸命に働きましたがチョット軽はずみで有頂天になっていて、それが転落の原因になったのかな?
静御前
??
 
河越重頼娘
(源義経正室)
-1189
義経の一応正室。後に平清盛夫人の姪も正室として迎えたらしいが、河越氏は頼朝の乳母の一族で政子が選んだ女性らしい。奥州へも伴い、途中で姫を産んだという。おそらく夫と姫と共に平泉で自害。義経を愛した女性というと静御前って感じで、影の薄い女性という印象です。でも坂東の御家人の娘らしく芯の強い人だったかも。
大姫
〜建久8年
-1197/7/14
頼朝の挙兵前に産まれた姫なので、幼い頃は母親の膝の上で育ったのかも。おそらく政子が一番可愛がった子でしょう。
許婚の木曾義高(木曾義仲の嫡男)が誅された後、一途に亡くなった人を想い続けたらしい。従兄の一条氏との縁談も入内の話も辛かったらしく、若くして気の病で亡くなった。
源頼家
鎌倉2代将軍
寿永元年〜元久元年
1182/9/11-1204/7/14
 
三幡姫
乙姫
1186-1199
姉の大姫と違って元気イッパイの姫でしたが、父の死後間も無く重病に罹ります。原因は不明。大姫の代わりに入内させる話もあったので、都から医師を招いて治療に当らせたが、この医師による毒殺の説もある。病が治らないまま医師は都へ引き上げ、三幡姫は亡くなります。
源実朝
鎌倉3代将軍
建久3年〜承久元年
1192-1219/1/27
頼朝と政子の次男。乳母は政子の妹の阿野全成夫人。一時期、祖父時政の邸に居て、牧氏の乱の時は祖父と義理の祖母に命を狙われましたが母と乳母の執念で?助かったようです。大人しい性格でしたが結婚の時は自分の意思を押し通しました。側室を持たず仲の良い夫婦だったらしいが子供が無かったので源氏の将軍は3代で終わりました。右大臣拝賀の儀式で頼家の子公暁に討たれます。
藤原信子
(坊門)
(実朝御台所)
建久3,4年〜文永11年
1192,3-1274
実朝の御台所。父坊門信清は後鳥羽天皇の叔父で姉が女御。父の継母が平清盛の姫典子。実朝とも姑の政子ともよく一緒にお出かけをして仲睦まじかったらしい。しかし子供が出来ないまま実朝が殺害され、翌日出家。間もなく京に帰り西八条の邸を寺にして夫の菩提を弔いながら余生を過ごす。承久の乱で兄が罪に問われるが鎌倉の政子に助命を願って聞き届けられている。よほど政子に可愛がられていた嫁だったんでしょう。
源よし子
源鞠子?
竹御所
(藤原頼経御台所)
〜文暦元年
1202-1234/7/27
頼家と比企の姫の間に産まれた。幼い頃、比企一族は滅亡し母も弟も亡くなったので、実朝夫人の養女となり多分、祖母政子の庇護の元で成長する。すっごく年下の頼経将軍と結婚させられたが、意外に仲良く暮らしていたらしい。しかし、出産の時に子供と共に亡くなった。
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