枚方名所

 1      阿弖流為(アテルイ)
アテルイ終焉の地 首塚
坂上田村麻呂が『アテルイ』を処刑した場所。東北地方から連れて来た『アテルイ』を都で見せ物にしたあげく処刑するなんて・・何故枚方で処刑したかは謎。
場所については古文書や言い伝えなどから三つの候補地があります。杜山、植山、椙山。このうち枚方市観光文化課が採用?しているのが植山です。植山→上山→宇山と変換?して現在の宇山地区という事になります。
京阪電車牧野駅下車。牧野公民館の横に看板があります。霊感の強い人には憎しみの光が?見えるそうですので・・・鈍いけど小心者の私は怖くて近寄れません。
※杉本苑子先生の「檀林皇后私譜」では河内の国、杜山という地名になっています。
 
田村麻呂と阿弖流為(アテルイ) ※枚方民話より
1200年程前、桓武天皇が京に都をおかれた頃の話です。朝廷は日本を一つにまとめようと東北の陸奥へ最後の手を伸ばしました。しかし、蝦夷(エミシ)の住む陸奥の国はとても豊かで自分達だけでも十分暮らす事が出来るので、一緒になろうと言う朝廷と考えが合わず、両軍は北上川で戦って勝ったり負けたりしました。3度目の戦いの後朝廷が胆沢に城(今の役所)を立てていると蝦夷の大将アテルイと豪族母礼(モレ)が「降参します」と申し出て来ました。朝廷側の坂上田村麻呂はアテルイらを都に連れて行く道中に「自分の命は捨ててもかまわない。それより蝦夷のみんなを幸せにしてやりたい。」とのアテルイの立派な言葉を聞き、その真心に感動し、熱い友情が沸きました。田村麻呂は朝廷に「2度と戦わないと言っているので、陸奥へ返してあげてください。」と必死にアテルイの命乞いをしましたが、勝った喜びで誰も聞き入れてはくれません。ついにアテルイは都に近い胆沢の景色とよく似た交野郡、宇山で処刑されました。 
※杉本先生の「檀林皇后私譜」ではモレは盤具公母礼等(ばぐのきみもれと)アテルイは大墓公亜流為(たものきみあるい)と書かれています。
 
今年2002年はアテルイ没後1200年です。岩手県水沢市で9月16日に開かれた「アテルイ没後1200記念大会」には枚方市長が出席。古代に想いを馳せながら交流を深めました。
また、枚方市の片埜神社でも慰霊祭が毎年8月に行われています。 
 
2004年3月2日 アテルイに触れた1日
 午前11時より片埜神社にてミュージカル「アテルイ」奉納上演。わらび座によるミュージカル「アテルイ」の最初の公演は坂上田村麻呂縁の清水寺で行われたらしい。そして関西最後の上演はアテルイ終焉の地である枚方の市民会館。首塚のある公園の横の片埜神社では踊りの無い、歌とセリフだけのダイジェスト版のような感じで奉納上演が行われた。最初に数人の人が舞台に上がり、その中には清水寺の住職様や石清水八幡宮の禰宜様で田村麻呂の後裔に当たる人の姿もありました。市長さんの登場にもチョット驚きです。今まで枚方市はアテルイに冷たいと聞いていたので。現在清水寺にあるアテルイ&モレの慰霊碑も最初は終焉の地である枚方に建立を希望されたんですが、市が管理する公園であり、市の許可が下りなかったので清水寺に建立したというエピソードがあると聞いていました。
奉納上演は素晴らしく、こんな少人数で観るのが勿体無いと心から思いました。しかし、それでも関係者の方々の予想より多かったのか若奥様が追加の折り畳み椅子を一所懸命運んでいらっしゃいました。上演後には、わらび座ファンのオバサマ方と一緒に並んで田村麻呂役の方と握手をして頂きました。感激です。
 夕方6時からは市民会館にていよいよミュージカル「アテルイ」上演。実は当日までミュージカルに行くかどうするか迷っていたので(何しろ小さい子供を持つ女)チケットを購入していなかったのです。上の娘の「行って来ていいよ。」の言葉と昼の片埜神社の奉納上演に背中を押された感じで行く事を決心して5時からの当日券発売に並びました。入り口には既に前売り券を持っている人が大勢並んでいらっしゃって、先頭の方には片埜神社でお見かけしたオバサマ方もいらっしゃいました。
最初の20分は関西外国語大学教授、瀬川芳則先生によるミニ講演「蝦夷王アテルイ」。百済王一族の敬福が東北で金山を発見し東大寺大仏の為に寄贈した事が蝦夷征伐の遠因である事を聞き、アテルイと百済一族と枚方の不思議な縁に複雑な想いです。
ミュージカル「アテルイ」は休憩無しの100分間。私は2階の最前列で観ましたが、激しい踊りや和太鼓の大音声に片埜神社以上に感激です。アテルイの首塚があるという事は斬首されたんだろうとは思っていましたが、実は3日3晩首だけを出し生き埋めにされたあげくに鋸引きにされたのです。そのシーンは圧巻でしたしショックでもありました。片埜神社の神域を血で汚す行為が行われた事に多少の疑問も残ります。
上演後は出口でアテルイ役の方に握手をしていただきました。これまた感激です。しかし面食いの私は主役のアテルイさんより田村麻呂さんの凛々しいお姿が眼に焼き付いて離れません。
 今年は絶対9月のアテルイ慰霊祭にも参加するわ!固い決心をさせてくれた1日でした。
こうして私のアテルイデビューの1日は終わったのです。
 
★アテルイ北の耀星 後記 ※枚方公報より
 枚方にもゆかりがあるとされる東北の蝦夷(えみし)の首長・アテルイと征夷大将軍・坂上田村麻呂の伝説をミュージカルにした「アテルイ・北の耀星」枚方公演のプレイベントが、牧野阪の片埜神社境内で開催されました。
 アテルイが討たれた場所として、宇山が候補地の一つとなっていることから、市では宇山東公園(宇山東町)に「蝦夷の首長アテルイの説明板」を設置しています。このイベントは、これら地元の伝承文化を広く市民に知ってもらうため、牧野歴史懇話会が中心となって結成した「アテルイミュージカル開催実行委員会」が企画したものです。「アテルイ」を上演する劇団わらび座出演者によるミニコンサートや、和太鼓演奏などが行われ、ミュージカル開催を盛り上げました。
 また同日夜に市民会館大ホールで開催されたミュージカルには1000人以上の市民が訪れ、1200年前の伝説に酔いしれました。
 
2004年9月12日アテルイ慰霊祭
杜かじか様主催のアテルイ慰霊祭に出席。片埜神社の若神主様も若奥様も相変わらずアテルイファンを温かく迎えてくださって嬉かったです。若奥様は神職の資格をお取りになったそうです。「おめでとうございます。また楽しい本の続編が出ますか?」とお聞きしたら「外から見てる頃は色々書けたけど、神職になってしまったら、もう書けません。」とおっしゃいました。チョット残念ですね。今月から発売のアテルイのお札を見て感激です。「友情良縁」のお札。友情というのは勿論アテルイと田村麻呂の友情の事でしょう。首塚と片埜神社を遠くから訪れてくださる方々に素晴らしいお土産が出来て良かったと心から思います。祭事の後で宇山公園の看板を見て、その後喫茶店でお喋りタイム。初めての参加で皆さん初めてお会いした方ばかりですが、アテルイ談義で時間を忘れるほど楽しかったです。8月に行われる慰霊祭と違って、ささやかな慰霊祭ですが末永く続く事を祈っています・・・でも主催者って大変ですねぇ。もうホントに頭が下がります。良い思い出を頂きました。
 2      片埜(かたの)神社
枚方は大阪から見ると鬼門の方角だそうです。片埜神社は鬼門除、方除社として崇められ昔から普請、造作等土木や建築工事の際、また転居、嫁入り、旅行等の時に方除札と清めのお砂を授かる神社です。京阪間における方除三社は片埜神社と鳥羽の城南宮(曲水の宴で有名な神社)と堺の方違神社を言います。隣の公園にアテルイ終焉の地と伝えられる首塚があるので8月にはアテルイ慰霊祭が行われます。
京阪電車牧野駅東南に300メートル
 
片埜神社のパンフレットに載っている歌
 
☆交野の御野☆
また見んや交野のみ野のさくら狩 花の雪ちる春のあけほの
                       (藤原俊成)「新古今集」
狩くらしかた野の真柴をりしきて 淀の川瀬の月をみるかな
                       (藤原公衛)「新古今集」
けふも早交野のみ野に立つ鳥の 行くへも見えす狩くらしつつ                
                      (足利義詮)「新後拾遺集」
☆天の川☆
狩くらし棚機津女に宿からむ 天の川原にわれは来にけり
                        (在原業平)「古今集」
狩くらす交野の御野の天の川 河風さむし宿はなくして
                          (宗良親王)「千首」
 
※「神社若奥日記-鳥居をくぐれば別世界-」岡田桃子著
2000年早春に片埜神社の123代目の後継ぎに当たる方と結婚された若奥様の著者が祥伝社黄金文庫の為に書き下ろされた本です。内容は1年間に神社で行われる数々の儀式、それの由来や式次第、裏舞台等。勉強になる事が盛り沢山。素晴らしい若奥様だわって感心する事しきりです。
一章 はじめてづくし 十二単を着た結婚式の話等。
二章 なるほど裏舞台 神社の細かな日常等。
三章 たしなみ神道まめちしき 伊勢まいりの話等。
四章 暮らしの中のジャポン 神棚の作り方等。
五章 まつりだョ!全員集合 例大祭、えべっさん等の話。
 
三章にはアテルイのファンサイトを運営していらっしゃる杜かじか様の呼び掛けで2003年の9月に行われたアテルイ慰霊祭についての記述もあります。
 
アテルイのプレイベントに参加した私は図々しくもお忙しい若奥様に声をかけてサインをねだりました。快く応じてくださった若奥様、ありがとうございました。
 
 3      百済寺跡、百済神社
『百済王(くだらのこにきし)物語』
 660年頃、難波津の港に白村江の戦いに敗れ、日本に渡って来た百済王一族がいました。一足先に来ていた百済王の第二王子(禅広)をたよりに亡命して来たのです。
 時は流れ四代目の(敬福きょうふく)の時代に東大寺の大仏に大量の金が必要となった時、陸奥守だった敬福が900両もの金を贈りました。その褒美で河内守になった敬福は枚方に難波津の一族を呼び寄せて住まわせ、壮大な百済寺を建てたのです。
 百済王一族を特に優遇したのは桓武天皇で「百済王等は朕の外戚なり。」と言って、行幸や遊猟などに何度も枚方を訪れました。百済寺の中には桓武天皇が祭祀を行った場所もあったそうです。
 住居や倉庫と考えられる堀立柱建物跡や井戸が11棟以上見つかっているので百済王一族の一大ニュータウンだったのかも。
 
『百済王氏について』
643年        百済の王子の豊璋と禅広が来日
660年        百済は新羅・唐の連合軍によって滅亡 
664年(天智3)   禅広が朝廷に仕え難波に居所を賜る
693年(持統7)   百済王の姓を賜り多数が五位以上となる
749年(天平21)  敬福が陸奥の黄金900両を大仏建造の為献上
750年(天平勝宝2)敬福が従三位宮内卿兼河内守に昇進
            これを契機に一族は交野郡中宮に移住
790年(延暦9)   桓武天皇が後宮を渡来系氏族にも解放
            「百済王等は朕の外戚なり」と詔を下す
797年(延暦16)  調・庸・雑徭(律令の主要な税負担)を免除
※光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇、仁明天皇の後宮に百済王氏の女子が入りましたが、文徳天皇以降は藤原氏の権勢が増大し、後宮は藤原氏一族が独占するようになりました。また、亡命後2世紀余りで百済王氏は日本社会に完全に溶け込んだようです。
 
『百済寺跡について』
文献に初めて名前が見られるのは奈良時代末、長岡京遷都の直前に桓武天皇が交野に行幸した783年(延暦2)10月16日の条です。
文献の上で最後に登場したのは817年(弘仁8)、ただし平安中期までは存続し、一夜にして火災により消失したと思われます。
一般的には双塔式伽藍配置と呼ばれ、奈良の薬師寺にも似ていますが、それより新羅・感恩寺に近いとも言われています。
 
『百済王神社について』
創立は737年(天平9)となっていますが、発掘調査では室町以前の遺構は見つかっていません。
現在の本殿は1827年(文政10)に奈良春日大社の古社殿を移築した物で保存状態が極めて良好です。
 4      伝王仁博士(伝わにはかせ)の墓
江戸時代の儒者が禁野和田寺の古文書から王仁王(わにおう)の墓が藤阪にあることを知り探し出した。自然石が一つ置いてあった。だから王仁王の墓ではなくて伝王仁王の墓なのです。王仁王は4世紀末に百済から渡来し「論語」10巻、「千文字」1巻をもたらした。古代から学問の祖、別名漢字博士と呼ばれる。子孫は文筆をもって朝廷に仕えた。現在墓の近所には王仁公園があり桜の名所。公園内の王仁プールは市営で安くて利用者が多い。
JR学研都市線藤阪駅
 5      車塚古墳
禁野、百済寺から岡を二つ超えた場所。もしかしたら百済関係の古墳かも。5世紀初頭の前方後円墳。国の史跡。
 6      樟葉の宮跡の杜
6世紀初め、継体天皇が即位したと伝えられているのは、この杜の一角にある交野天神社の辺りです。大昔からの原生林の姿が残り、木漏れ日とそよ風が古代へと誘っているような気持ちです。京阪電車樟葉駅下車、バスに乗り「みさき」バス停下車、徒歩10分。
 
★継体天皇陵について JR摂津富田駅北約1,2キロ
明治時代から場所が違う等と指摘され続けてきた大阪府茨木市の継体天皇陵が、6世紀前半の天皇の没年から1世紀近く前の古墳だった事が2002年11月22日、改めてはっきりした。本当の継体天皇陵は東1,5キロにある今城塚古墳(大阪府高槻市)の可能性がますます強まったが、こちらは皇陵に指定されておらず自由に出入り出来、史跡公園として整備中。一方で「明治の考古学」に基づいて指定した陵墓へは宮内庁が立ち入りを拒んでいます。
継体天皇陵の本当の被葬者について、高槻市立埋蔵文化財調査センターでは「継体天皇の曽祖父の意富々等王(おおほどおう)の可能性がある。允恭天皇の外戚にもあたる人物で、この地域で勢力を持っていた」と指摘する。
今城塚古墳から出土した鶏の埴輪は全国各地で展示されているらしい。地元へ帰って来たら、ぜひ見に行きたいと思っています。
 
今城塚古墳で横穴式石室の存在を示す排水溝と石室入り口に当たる前庭部が見付かったと、高槻市教育委員会が2004年1月10日、発表した。大和政権の大王陵の殆どが御陵として宮内庁に管轄されている中で数少ない「調査出来る大王陵」です。近畿で横穴式石室が取り入れられた最初の時期で「大王墓として最新の技術で築かれた、6世紀のハイテク建築?」と推測される。
現在国内最大の横穴式石室は継体の子、欽明天皇の墓という説があり、その橿原市見瀬丸山古墳の全長は28m。継体天皇陵はそれに匹敵する可能性がある。
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