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コ ラ ム

  


2016/9/28

コラム   【ジョゼフ・フーシェ】

 

ジョゼフ・フーシェは代々海運業を営む家に生まれ、神学校で学んだ後、教師となり、革命が勃発すると政界へ転じました。ルイ16世の死刑に賛成投票し、リヨンでは市民を虐殺、総裁政府、帝政、復古した王政下で、警察大臣を務め、最後は国王弑逆者の汚名が拭えず辞職、国外追放となって、トリエステで死去。

最新の伝記、「フーシェ」(Emmanuel de Waresquiel 著、Tallandier 社刊、2014 年、830 頁、仏語)を読みました。長編、そして未刊の史料からの新発見のお陰で、私人としてのフーシェにも光が当てられています。

まずはマリー・アントワネットに縁のある人々と、フーシェの関係から。アントワネットの娘であるマリー・テレーズは、熱愛していた父、ルイ16世の死刑に賛成したフーシェを生涯決して赦すことができませんでした。第一次王政復古でフーシェは、マリー・テレーズのせいで政界に復帰できないと言って、彼女を非難。第二次王政復古では、「忌まわしいフーシェ」に会うことを余儀なくされたマリー・テレーズと、国王ルイ18世の仲が険悪になっていきます。それからブルボン家がまだ亡命していた頃、ポリニャック夫人の娘が旅券の申請のため、警察省を訪れた時、フーシェは彼女を長く待たせ、椅子も勧めなかったそうです。オーストリア皇帝フランツ1世は、娘マリー・ルイーズがナポレオンに嫁ぐ際、「何かあったら、フーシェに頼りなさい」と進言。

スタール夫人はフーシェのお気に入りで、キュスティーヌ将軍未亡人デルフィーヌは、フーシェを「シェシェ」と親しげに呼んでいます。フーシェは教師時代は同僚や生徒から慕われ、のちに知人を庇護することもあったとのこと。家庭では愛妻家、子煩悩。先妻(本書には肖像画が掲載されています)はフーシェに献身的で、亡くなった時はタンス貯金が残されていました。再婚相手は約30歳年下の貴族の娘(彼女の親戚は見下すように「フーシェおばさん」と呼んでいた)。この後妻に浮気の疑惑が生じた時、フーシェはいつもの冷静さを失い、深く傷ついたそう。先妻との間に儲けた子供たちのその後の人生も書かれていました。

フーシェの身長は、当時としては高かった175cm。後妻、娘と共に音楽愛好家。フーシェは先見の明があり、1804年にナポレオンに宛てた手紙で「国民は平和を愛す」と記しており、19世紀に入ると、新しい時代に気づき、商業と交易が世界を変えると見抜きました。

印象に残っている場面は、王政復古により、サン・ドニ大聖堂の国王の小室で、フーシェがルイ18世に初めて謁見を賜るところです。二人とも、どういう感情が心の中で渦巻いていたのでしょう。

同時代人が他人につけた綽名も秀逸。ルイ18世は「「人生を達観した国王」(スタール夫人)。ナポレオンは「馬に乗ったロベスピエール」(コンスタン)。ある超王党派の伯爵は「白色テロのサン・ジュスト」。

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2016/1/2

コラム   【マリー・アントワネットの頭】

 

「マリー・アントワネットの頭」という洋書を読みました。18世紀に流行した、そびえ立つ髪型よりも、天才的な髪結師、レオナールの生涯に焦点を当てた歴史物でした(“Marie Antoinette's Head”、 Will Bashor著、Lyons Press社、2013年刊)。

本書は著者が冒頭で断っているように、代作者が書いた「レオナールの回顧録」を主要な参考文献として利用しているため、史実や通説と異なる箇所があります。それを承知の上であれば、18世紀の雰囲気にひたれる楽しい本です。

レオナールは美的センスと野心だけを頼りに上京し、様々な人たちと出会って世に出ます。デュ・バリー夫人やマリー・アントワネットの髪を整え、人気者に。服飾商ベルタン嬢に対しては、その才能を認めたものの、嫉妬を覚えて苦悩することも。レオナールの弟2人も髪結師となり、3人のレオナールの存在は歴史家泣かせに。

マリー・アントワネットが出産で髪の毛が大量に抜け落ちてしまった時、レオナールは自分の仕事ももうこれまでかと慌てふためきますが、知恵を絞り、危機を好機に変えました。その後、革命を乗り越えたレオナールは、ルイ18世下のフランスで亡くなりました。

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2014/10/5

コラム   【王妹エリザベート】

 

マリー・アントワネットの陰に隠れてしまいがちな国王ルイ16世。さらに目立たないのが王妹エリザベート。聖女の面が強調されることの多い彼女を本格的に描いた最新の伝記、「王女エリザベート ルイ16世の妹」を読みました(アンヌ・ベルネ著、タランディエ社、2013年刊)。本文が442頁ある歴史絵巻で、読むのに時間がかかりましたが、その分、当時の雰囲気にゆったりひたることができました。

家族から「バベット」の愛称で呼ばれたエリザベートは、幼少期に両親が亡くなり、孤児になります。生まれた時は虚弱だったものの、すくすく成長し、数学と乗馬が得意な女性に成長します。ただ音楽は大の苦手(音痴でリズム感なし)。信仰心が篤く、自領で無料診療所を開設して弱者の世話をしたり、病気で死にかけているのに誰も顧みない、義姉アルトワ伯夫人を気遣ったりする優しい彼女でしたが、利権目当てで計算高い奉公人や友達に利用され、宮廷の陰謀に巻き込まれた時は珍しくマリー・アントワネットに口答えし、アントワネットは呆気にとられました。

革命でヴェルサイユを追われた後、国王夫妻より行動の自由が残されていたエリザベートは、ヴェルサイユへ馬を進め、遠くから宮殿を眺め、その荒廃ぶりに心を痛めます。パリのチュイルリー宮殿にデモ隊が侵入し、喉元に剣を突きつけられても彼女は動じませんでした。タンプル塔に移送される前は、不利になる手紙を細断して飲み込みました。

革命裁判でコンシェルジュリーに移送されると、エリザベートは看守に義姉マリー・アントワネットの居場所を訊ね、死刑判決後はアントワネットに手紙を書くため、筆記用具を要求しました。そうです、エリザベートは処刑直前までアントワネットの刑死を知らなかったのです。

本書にはエリザベートの悲恋、手相占いなど、ほとんど知られていない事実が多く書かれていて、読書ならではの楽しみを味わいました。本当にこのような読み応えのある作品がもっと邦訳されればいいのにと思います。

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2014/7/26

コラム   【パリとヴェルサイユ旅行】

 

久しぶりに一人旅でパリとヴェルサイユを回りました。好天に恵まれ、すでに夏の陽気でした。マリー・アントワネットとその家族のゆかりの品も沢山見てきました。

まずパリから。ルーヴル美術館の一画にある装飾芸術博物館では、ルイ16世一家の肖像画入りの宝飾品、ルイ16世とマリー・アントワネットの肖像画を象眼したクリスタル製品、ベリー公爵夫人の大きな肖像画、アンリ(ベリー公爵夫人の息子)のゆりかごが展示されていました。セーヴル磁器の皿では、ルイ15世からナポリ王妃のマリア・カロリーナ(アントワネットの姉)への贈り物、デュ・バリー夫人の頭文字が記されたものがありました。

コンシェルジュリーで注目したのは、アントワネットが最後に使用したかもしれない明るい花柄の水差し、王妃の独房に敷かれていたとされる色褪せたカーペットの断片でした。アントワネットの遺書があるフランス歴史博物館では、他にも様々な歴史上の人物の筆跡も見ることができます。ロベスピエールとスタール夫人の文字を見て、書きなれていると思いました。ルイ15世夫妻の文書、ナポレオンのロングウッドでの遺言もありました。

パリ近郊にあるサン・ドニ大聖堂では、地下納骨堂でルイ16世とマリー・アントワネットのお墓参りをしました。外は半袖でも暑いのに、地下はひんやりしていました。ルイ17世の墓標と、クリスタルの容器に収められた心臓もありました。売店では、この墓標と心臓を撮影した絵葉書が売られていました。

旅行の後半は、親切で聡明、博学なフランス人の友人が、ルーヴル美術館の改装されたばかりの18世紀工芸品部門を案内して下さいました。マリー・アントワネットのかさの大きい旅行用具は、物が個別に展示してあり、わかりやすかったです。オーデコロンの小さいガラス瓶と漏斗、ココアのポットと専用の泡立て器、ティーポットにカップ、ブイヨン、クリーム、パウダーを入れる専用のポット、一軒家が描かれた小さい盆。磁器の痰壺にはマリー・アントワネットの組合せ文字とピンクのバラが描かれています。ゆで卵立てのような磁器があったので、友人に用途を訊ねると、目を洗う器とのこと。

その他マリー・アントワネットの収集品として、日本の蒔絵の文箱、水差し(元はポンパドゥール夫人の収集品)、小箱、スープ皿(青い縁にピンクのバラ)、真珠と矢車菊の柄の丸皿(載っていたアイスクリームのカップは紛失)が展示されていました。

「マリー・アントワネットの部屋」という一画には、サン・クルー宮からの椅子、なぜかデュ・バリー夫人の火熱よけの衝立がありました。アルトワ伯のトルコ風の部屋には、アントワネットの薪載せ台(フォンテーヌブロー城から)が飾ってありました。ルイ18世の部屋にはハートウェルの小型円テーブルがありました。ハートウェル城を散策するルイ18世のメダイヨン、百合の花の装飾付きです。レカミエ夫人のサロンと部屋も再現されていて、ベッドのシーツとカーテンは、かわいらしいピンクでした。アントワネットの娘、マリー・テレーズに関しては、胸像の他にルイ18世から贈られたエメラルドとダイヤモンドの宝冠、ルビーとダイヤモンドのブレスレットが見られます。ルイ・フィリップ一家の調度品なども数多く展示されていました。

最後にヴェルサイユ。街を上記の友人に案内して頂きました。お陰でサン・ルイ教会の中にベリー公爵をしのぶ記念碑があることを知りました。ベリー公爵は1820年にパリで暗殺された人物です。彼の言葉、「犯人を赦せ」が刻まれていました。昼食後、地元のアイスクリーム店でバラとスミレのアイスクリームもごちそうになりました(美味!)。時間の関係で友人とはここでお別れしなければなりませんでしたが、彼女の案内と説明により、今回の旅行はとても豊かなものになりました。ひたすら感謝です。

その後、フランスで活躍され、つい最近ではNHK-FMの「古楽の楽しみ」でマリー・アントワネット作曲「それは私の恋人」も放送された歌手、唐澤 まゆ子さんとランビネ美術館を見学しました。シャルロット・コルデーの展示品に恵まれていました。サン・ジュストの素焼きの胸像もありました。豪華な室内装飾に目を奪われました。見学後は車でプティ・トリアノンまで送って頂きました(唐澤さん、ありがとうございました!)。アントワネットにとって、自分の家だったプティ・トリアノン。館内は見学者でごった返していましたが、村落は人もまばらで、ゆっくり散策できました。










ルイ17世の墓標と心臓(サン・ドニ大聖堂)
Cenotaph of Louis XVII and his heart (Basilique de St-Denis)













礼拝堂(サン・ドニ大聖堂)
Chapel (Basilique de St-Denis)













球戯場(ヴェルサイユ)
Jeu de Paume (Versailles)











球戯場(ヴェルサイユ)
Jeu de Paume (Versailles)











サン・ルイ教会(ヴェルサイユ)
Cathedral St.Louis (Versailles)











ベリー公爵をしのぶ記念碑
Monument of the Duke of Berry











愛の神殿への橋(プティ・トリアノン)
Bridge to the temple of love (Petit Trianon)











愛の神殿
Temple of love











マールバラの塔
Tower of Marlborough











菜園
Vegetable garden











菜園
Vegetable garden











農場
Farm









(著作権の都合上、美術館・博物館の展示品の画像は載せませんでした)

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2014/4/27

コラム   【カンパン夫人】

 

カンパン夫人はマリー・アントワネットの侍女頭でした。彼女の詳細な伝記を読んでみました(「カンパン夫人 マリー・アントワネットの侍女頭」、イネス・ド・ケルタンギー著、タランディエ社、2013年刊)。

父親が受けさせた教育のお陰で、カンパン夫人は15歳の時、ルイ15世の王女たちの朗読係に抜擢されました。神童と評判のカンパン夫人にルイ15世は興味津々、彼女をからかったりしました。王女たちの部屋に出入りしているうちに、フランスへお輿入れした王太子妃マリー・アントワネットの目に留まり、二人は意気投合。やがてカンパン夫人はマリー・アントワネットの侍女(後に侍女頭)になります。

革命中は命の危険にさらされ、家族の自殺、処刑にも見舞われます。共和制になると、増えた家族を扶養するために学校を開きます。無一文から始めた学校経営も、ナポレオンの家族が入学したこともあって軌道に乗り、後にナポレオンから才能を認められ、レジオンドヌール学舎の監督を任されました。

マリー・アントワネットのことは生涯忘れず、カンパン夫人は生徒に王妃のドレスやカップを見せたり、逸話を聞かせたりしました。終生、マリー・アントワネットの肖像画付きの嗅ぎ煙草入れを持ち歩き、恩知らずが嫌いなナポレオンは、王妃の形見を大切にするカンパン夫人の行為をほめています。カンパン夫人は亡くなる直前までマリー・アントワネットの話をしていました。

度重なる政変で、カンパン夫人の家、農場、財産は何度も消失しました。それでも立ち上がり、一度も亡命することなくフランスに留まり、自分の信念を貫きました。

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2014/1/27

コラム   【フランス革命下の6人の女性】

 

当時の女性はフランス革命にどう関与したのか? またどのような影響を受けたのか? ルーシー・ムーア著「自由 革命下フランスの6人の女性の生涯と時代」(Harper Perennial社、2007年、初版は2006年)は、生い立ちや社会的地位、性格が全く異なる6人の女性のフランス革命との関わりを鮮やかな筆致で描き出しています。主役の女性たちはスタール夫人、テレジア・カバリュス、マノン・ロラン、ポーリーヌ・レオン、テロワーニュ・ド・メリク−ル、レカミエ夫人で、作者によって生命を吹き込まれています。

スタール夫人はマリー・アントワネットに逃亡の援助を申し出たり、王妃救出を一般に訴えたりしていますが、マリー・アントワネットは彼女のことをよく思っていませんでした。テレジア・カバリュスはロベスピエールに目の敵にされ、恐怖政治で投獄された時は、約1か月間、風呂も着替えも許されませんでしたが、その美しさでタリアンの心をとらえ、彼はロベスピエール打倒に加わり、恐怖政治を終わらせると同時にテレジアの命も救います。時の人となったテレジアも、新政府に対して不満が高まると、「新たなマリー・アントワネット」と批判されます。テレジアの最後の結婚相手は貴族で、マリー・アントワネットの女官の息子でした。

レカミエ夫人がまだ少女だった頃、マリー・アントワネットは彼女の美しさに気づき、娘のマリー・テレーズと背丈を比べたら、レカミエ夫人の方が少し高かったそうです。レカミエ夫人はスタール夫人と生涯の友情を結び、ジョージアナ・デヴォンシャーの友情も得ました。

カラーページには、14歳の宮中服を着用したスタール夫人、フォルス監獄内のテレジアの肖像がありました。

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2013/8/11

コラム   【オーストリア皇妃エリーザベト】

 

数年前、ヴェネツィアの書店で購入した、図版の豊富な小型のエリーザベト(シシ)伝を読んでみました。「シシ 反抗的な皇妃」(アレッサンドラ・ミッロ、リーノ・モナコ著、2007年、イタリア語、邦訳未刊)です。

バイエルンの自然に囲まれ、のびのび育った快活な野生児エリーザベトが、結婚してオーストリア皇妃となり、ウィーンの堅苦しい宮廷生活になじめず、次第に無気力な不満だらけの女性となって、絶えず旅に出る生涯が描かれていました。子供の頃から反抗的な性格で、活発なエリーザベトがじっとしている科目はデッサンだけ。嫁姑戦争でシシが犠牲者、姑は冷酷な女とされてきたが、真実はその中間にあると著者は主張しています。

エリーザベトは痩身維持に必死で、夜は塩水の湿布を体に貼ったことも。「体重計に座って食事をしていた」という、根拠のない伝説まで生まれたほど。

暗殺される前の夜、エリーザベトは白い貴婦人の夢を見た、と動揺して女官に打ち明けたそうです。白い貴婦人は、死期が近いハプスブルク家の者の前に現れるとのこと。

この本には占星学から見たエリーザベトの特徴も載っていて、「厭世的」「長い間、同じ場所にじっとしていられない」「大きな魅力に恵まれ、よく賞賛を引き起こす」「欲求不満の人生を送る」「神秘的な雰囲気で魅惑的に映る」「陰鬱、強迫観念の傾向」が当たっていると思います。珍しい図版はゴンドラのエリーザベト。同乗の女性と話している場面で、ゴンドラのへりに犬が前足をかけています。それから白い扇を手にした、白いドレス姿の全身像。ケープをつけたような、銀と青のドレスで、丁寧に編み込まれた髪型に宝石を飾っている半身像。

ところで、エリーザベトの長女が病気にかかった時、皇室医のゼーブルガーが誤診し、長女は夭逝します。エリーザベトはあらゆる手段を使ってゼーブルガーを解雇しようとしますが、姑の庇護が厚かったので、首になりませんでした。このゼーブルガーこそ、ハプスブルク家が瀕死のマリー・テレーズ(アントワネットの娘)のもとへ派遣した医師です。

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2013/6/2

コラム   【マリー・アントワネットの植物図鑑】

 

大型カラー図版である「マリー・アントワネットの植物図鑑」を読みました(Élizabeth de Feydeau著、Flammarion社、2012年、240頁、フランス語)。王妃の愛したプティ・トリアノンの庭園、村落(アモー)に、どのような植物が植えられていたのか、詳しくわかる本です。

マリー・アントワネットは14歳でお輿入れした時から、すでに植物に興味を示し、最期まで花が大好きで、コンシェルジュリー牢でも差入れの花がありました。大好きなスミレは流行になり、管理人は愛情をこめて手入れをしたそうです。自ら植樹した木や摘んだ果物もあり、娘のマリー・テレーズのために小さな花壇を庭師に造らせたり、園芸に情熱を注いでいた王妃の姿が浮かびます。母親のマリア・テレジアも大使メルシーに、彼女の好きな果樹を送るよう頼んでいます。当時の若い女性たちが、アントワネットの身につけるドレスや装身具を欲しがり、出費がかさんで家族を困らせた話を読んだことがありますが、同じようにトリアノン風の庭園も欲しがる女性もいて、これも家庭内の悶着の原因に。革命後は王妃の組合せ文字入りの装飾鉢が破壊されたり、植物が奪われてパリに移植されたり。

この本では、植物が薬、化粧品、香水、装身具、染料、駆虫剤、調度品の材料として利用されたこと、様々な国で品種改良が重ねられたことも説明されています。またフランスで馴化した日本原産の木、日本の種が送付された花、原産ではないものの、日本に数多くあり、学名に「日本」が含まれている植物もあります。

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2013/3/10

コラム   【デュ・バリー夫人】

 

マリー・アントワネットがフランス王室に嫁いだ時、そこには国王ルイ15世の愛妾、デュ・バリー夫人がおり、数年間、女の戦いが繰り広げられました。マリー・アントワネットの敵として、あまりにも有名な割には、実像が知られていないので、理解を深めようと、「デュ・バリー夫人 美の代償」(ジョーン・ハスリップ著、Tauris Parke Paperbacks、2008年刊、英語)を読みました。

デュ・バリー夫人ことジャンヌ・ベキュは、父親が修道士だったので、母方の姓のベキュを名乗りました。ベキュ家は並外れた器量で有名、それゆえ多くが貴族の使用人として雇われたそうです。ジャンヌは幼い頃から目の覚めるような美人で、本人も気づいていました。教育を受けた修道院には鏡がなく、ぴかぴかに磨いた鍋に映る自分の姿にうっとりすることもありました。社会に出てからは、絵の才能もあったので、画家のラビーユ・ギアールと友人になり、彼女からは配色や着こなしも学びました。一方で輝くばかりの美貌により、数多の男性を虜にし、それが元で悶着が起こり、何度か職を解雇されます。そんな中で放蕩者デュ・バリーと出会い、やがて国王ルイ15世の目にも留まり、寵姫の座へ。参内した若いフェルセンも、(肝心の?)マリー・アントワネットより、デュ・バリー夫人の美しさに目を奪われたそうです。

宝石に目がなく、贅沢が大好きなデュ・バリー夫人は、歴史、文学に対する趣味も持ち、シェイクスピアが好きで、ルイ15世のためにハープも演奏しました。

おしゃれな彼女は革命後もベルタン嬢の最新ファッションに身を包み、50歳になっても香料入りのお風呂に入り、毎日マッサージを欠かしませんでした。

革命裁判では、死刑判決に失神しても、その後空腹を訴え、夕食を全部平らげました。最後は激しく抵抗する中、ギロチンにかけられました。

ところで、ルイ15世に未亡人のランバール夫人との再婚話も持ち上がったそうです(彼女は後にマリー・アントワネットの親友になりました)。

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2013/1/1

コラム   【マリー・カロリーヌ】

 

マリー・カロリーヌは、マリア・カロリーナ(アントワネットの姉)の孫です。祖母にちなんで名づけられました。訳書「マリー・テレーズ」で破天荒な性格が際立っていたので、もっと詳しく知りたいと思い、「ベリー公爵夫人 ブルボン家のじゃじゃ馬」を読みました(Laure Hillerin 著、Flammarion 社、2010年刊、541頁、仏語)。

作者が言うように、マリー・カロリーヌは王政復古の時代には王族の中で一番人気があり、ユゴー、デュマ、バルザックの想像力を掻き立てたものの、現在では忘却の彼方。でも人生をたどってみると、波乱万丈で、ヨーロッパ各地を転々としています。

生後間もなくフランス軍に追われ、ナポリからシチリア島へ避難。追い討ちをかけるように母と弟が亡くなりましたが、継母に養育され、大勢の異母弟妹と共にのびのびと育ちます。タレイランがベリー公(シャルル10世の次男)の花嫁候補にマリー・カロリーヌを挙げたので、結婚が決まり、フランスへ。儀礼に縛られた堅苦しい宮廷生活になじめないマリー・カロリーヌは行事に遅刻し、ルイ18世や義姉のマリー・テレーズ(アントワネットの娘)の怒りを買うことも。夫のベリー公とは共通点も多く、夫の浮気を除けば幸せな結婚生活でしたが、夫は暗殺され、あっけなくこの世を去ってしまいます(セント・ヘレナで暗殺事件の知らせを聞いたナポレオンも驚いたとのこと)。

夫の死を乗り越え、マリー・カロリーヌは活動を再開、マリー・アントワネットのトリアノンの庭園をモデルに自分の庭園を造ることにし、現地で調査させます。しかし1830年に7月革命が起こり、親類のオルレアン家のルイ・フィリップが王位に就き、フランスを追われます。寛大でさっぱりした性格のマリー・カロリーヌでも、さすがに王位を奪ったオルレアン家だけは生涯赦せなかったようで、ルイ・フィリップのことを以後、「簒奪者」「フィリポン」と呼びました。ルイ・フィリップの妃マリー・アメリーは実の叔母で、子供時代にかわいがってもらったので崇拝し、大きな姉のような存在でしたが、愛が憎しみに変わりました。マリー・カロリーヌはその後フランスに潜入し、息子のために蜂起を企てましたが、失敗、逮捕され、城塞に幽閉中に女児を出産(この女児の父親については、補遺で作者が仮説を展開)。釈放後はイタリア人と再婚。博識で人柄もよく、陽気な彼は、申し分のない夫、父親だったそうです。

若い頃は様々な肖像画に描かれたマリー・カロリーヌも、晩年は白黒の写真が残っています。

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2012/11/18

コラム   【ヴィジェ・ルブラン夫人】

 

マリー・アントワネットの数々の肖像画を描いたヴィジェ・ルブラン夫人の生涯を知りたくて、「エリザベート・ヴィジェ・ルブラン  革命期の芸術家の波瀾万丈の旅」(ジータ・メイ著、エール大学出版部、2005年、237頁、邦訳未刊)を読みました。簡潔な文章で読みやすく、全体像がつかめました。

自画像を見ると、美しい女性ですが、子供の頃は醜いアヒルの子だったそうです。幼い頃から画才があり、自らの美貌も武器にして、マリー・アントワネットの公式肖像画家になります。初仕事の時は緊張でガチガチのルブラン夫人でしたが、マリー・アントワネットは優しい心遣いを見せ、同い年で音楽好きの二人は身分を越えて親しくなりました。革命が勃発すると、ルブラン夫人は一人娘のジュリーを連れて亡命しました。好奇心旺盛な彼女は、行く先々で史跡や美術館を訪れ、スケッチもしています。ウィーン、ロシア、ロンドンでは、マリー・アントワネットの公式肖像画家として上流社会に歓迎されました。

イタリアのナポリでは、アントワネットの姉マリア・カロリーナと友情を結び、ヴェスヴィオ火山に登りました。ロシアではエカテリーナ2世から肖像画を依頼されましたが、彼女の急死で実現されず。

12年の亡命生活を終え、フランスに帰国したルブラン夫人を待っていたのは、相次ぐ身内の死。教育ママで、愛情深い母親でもあったルブラン夫人は、娘の結婚に大反対したことから親子関係は疎遠になっていましたが、娘の死は大打撃でした。それでも晩年は友達や姪に囲まれ、穏やかな日々を送ったそうです。

ルブラン夫人はナポレオンの妹の肖像画も描きましたが、あまりの無礼な態度に、痛烈な台詞を聞えよがしに放っています。それからダヴィッド画の、ギロチンに赴く途上のマリー・アントワネットの残酷な素描を、ルブラン夫人は見たのでしょうか? その答えも本書に載っていました。

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2012/8/18

コラム   【マリア・カロリーナ】

 

マリア・カロリーナはマリー・アントワネットの姉で、子供時代は一緒に養育され、仲良しでしたが、病死した2人の姉の代わりにナポリ国王へ嫁ぐことになりました。その後のカロリーナの生涯については、アントワネットほど知られていません。数少ない関連書の中で興味深く読めたのは、今から約90年前に書かれた「マリー・アントワネットの姉」(Catherine Mary Bearne著、BiblioLife社の再販)です。英語が一部古いのですが、血のかよった、人物が活写された伝記でした。

夫となったナポリ国王は無教養で粗野、政務よりも娯楽を優先させ、カロリーナは絶望しますが、持ち前の強力な意志、活力で人生を切り拓いていきます。母親のマリア・テレジアのように諸改革を推し進め、大勢の子供に恵まれ、豪華絢爛な繁栄の中に暮らせるようになりました。カロリーナは娘のアメリーをアントワネットの長男(王太子)に嫁がせようとし、アントワネットも実現するつもりでしたが、長男は病死して、この縁談は流れてしまいます。

フランス革命が起きると、ナポリにも余波が及び、共和主義の思想が浸透し始め、人気を誇ったカロリーナは、次第に誹謗中傷されるようになります。彼女と子供たちのコーヒーに沢山の針が入っていたこともありました。カロリーナはルイ16世の弱腰を非難し、ヴァレンヌで逃亡が失敗した時には、彼女の恐怖と憤慨はとどまるところを知りませんでした。アントワネット救出に手を尽くしたものの、力及ばず、アントワネットの処刑に打ちひしがれ、性格が変わってしまったほどでした。アントワネットの次男のルイ17世が亡くなると、その死を嘆く手紙をエマ・ハミルトンに送っています。

カロリーナはシチリア島へ避難していましたが、追い討ちをかけるように、イギリス政府の圧力で島を追放され、オーストリアへ帰郷する羽目に。自室にはアントワネットを含む家族の肖像画をいつも置いていたそうです。ナポレオンはカロリーナの不倶戴天の敵でしたが、彼の後妻であるマリー・ルイーズとその息子はかわいがり、マリー・ルイーズは家族の誰よりもカロリーナを愛したとのこと(マリー・ルイーズとその息子は、カロリーナの孫、曾孫にあたります)。

晩年のカロリーナはそれまでの苦労と心痛のため、顔にはくっきりと皺が刻まれ、髪はすっかり白くなり、神経痛を緩和する阿片の量も増えていました。ウィーン会議が開かれた1814年にカロリーナは卒中で亡くなりました。

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2012/6/10

コラム   【ポリニャック夫人】

 

マリー・アントワネットの親友、ポリニャック夫人の伝記は、本国フランスでも珍しく、長編「ポリニャック夫人とマリー・アントワネット 宿命的な友情」は、これまで光が当たらなかった夫人の生涯を明らかにする、すぐれた評伝だと思います(“Madame de Polignac et Marie-Antoinette Une amitié fatale”, Nathalie Colas des Francs 著, Les 3 Orangers 社, 463頁, 2008年版)。ポリニャック家の家系図、紋章と城の図版、ヴィジェ・ルブラン画のヨランドの肖像画のカラーしおりもついていました。

ヨランド・ド・ポリニャックは1749年9月8日パリ生まれ。著者も指摘しているように、アントワネットのもう一人の親友、ランバール夫人と生年月日が全く同じなのです。ヨランドは3才の時に母親が亡くなったので、叔母に育てられます。19才でジュール・ド・ポリニャックと結婚。ヨランドは生涯ダイヤモンドもつけない地味な装い、常に冷静で控えめ。生来、無気力で怠惰だったので、宮廷での地位や金を狙ったのは彼女の親族でした。ヨランドは親族にせっつかれると、王妃にいろいろねだりました。ヨランド自身は望んでもいないのに、王室の子供たちの養育係に任命され、育てにくいマリー・テレーズにはほとほと手を焼いて、辞職を願い出たほど。

革命前夜になると、ヨランドと王妃はたびたび喧嘩をしましたが、王妃は、本当の友人は2人いるが、そのうちの1人はヨランドだと認めています。バスティーユ襲撃の後、ポリニャック家は身の安全のため、国王夫妻から出国を命じられます。一家はスイス、イタリア、オーストリアを転々とします。それでも一家は王家に対する忠誠心を失わず、とりわけヨランドは王妃を置き去りにしたことで、ずっと後悔の念にさいなまれ、身体も衰弱の一途をたどり、アントワネットが処刑された同じ年の1793年に44才で亡くなっています。

アントワネットがかつて自ら刺繍した帯を贈ったことがある、ヨランドのいとこは、ジャコバン派となり、ロベスピエールやサン・ジュストが嫉妬するくらいの人気者になりました。

訳書「マリー・テレーズ」にアルトワ伯の愛人として、ちらっと出てきたルイーズ・ド・ポラストロンのことも、この本のお陰でわかりました。ヨランドが異母弟の妻に選んだ人物でしたが、結婚後、アルトワの真剣な愛にほだされ、彼のもとへ走った女性でした。

このポリニャック伝は、早く続きが読みたくなる、おもしろい本でした。日本でもこのような本があればいいのにと思いました。

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2012/2/17

コラム   【マリー・アントワネットの書簡】

 

本格的なマリー・アントワネット伝を書いている作家は、一様にマリー・アントワネットの書簡を利用しています。近年出版された浩瀚な書簡集は、「マリー・アントワネット 書簡(1770-1793)」(エヴリーヌ・ルヴェ編集、Tallandier Éditions、2005年、仏語、911頁、邦訳未刊)です。時系列でマリー・アントワネットが書いたり、受け取ったりした手紙が掲載されており、相手は母親のマリア・テレジア、兄のヨーゼフ2世とレオポルト2世、友人のポリニャック夫人、恋人フェルセン、幼なじみなどです。他にマリア・テレジアと大使メルシーとの書簡、グスタフ3世のルイ16世宛の書簡も載っていて、ルヴェの注もおもしろいです。

読んでいると、宮廷生活が垣間見えます。たとえば、アントワネットが熱すぎるお風呂に入って、ひどい風邪を引いた、オペラ座の舞踏会は踊るよりも世間を見るためだった、王太子妃の時から自室で演奏会を開き、自ら歌っていた、義弟のアルトワ伯が麻疹で危篤に陥ったことなど。ヨーゼフには、うっかり便箋を破ってしまったが、読むのに支障はないので、そのまま送ります、というのもあります。

革命の最中は、「正当に自分を評価してほしい」と心の叫びがうかがわれる手紙も。くやしさがにじみ出ています。援助を乞うため、スペイン王妃マリア・ルイサにも書き送っています。メルシーは革命初期から、危険な結果をもたらす革命であると予測。

マリー・アントワネットの人間としての成長が読み取れる書簡集です。

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2011/12/8

コラム   【マリア・テレジア】

 

青い目、赤みがかった金髪、おでこ、素晴らしい手、真っ白な肌。優雅で社交的、乗馬、音楽、ダンス、演技を好み、好きな花はバラ。この文章からはマリー・アントワネットを連想しますが、マリア・テレジアについての描写です(エドガルダ・フェッリ著、「マリア・テレジア  権力を手にした女」、Mondadori 社、2009年増刷、伊語、邦訳未刊)。

マリア・テレジアはやり手で、保守派の反対をものともせず、軍事・司法改革を推し進め、イタリアの領土でも産業を興し、教育を普及させています。責任感が強く、ベッドに書類を持ち込み、眼鏡をかけて読み、夜明けまで仕事。英国政府は彼女を「ドナウのジャンヌ・ダルク」と呼んだほど。

30歳で10子の母となり、体力と老化のために子供はもう充分と考えたマリア・テレジア。その考えを通していたら、この世に生まれなかったアントワネット。彼女のお気に入りの息子はカールでしたが、天然痘に罹り、昼夜手を握って看病したのに若死。偏愛した娘マリア・クリスティーネの恋愛結婚は有名ですが、実はそれ以前にも恋人がいたとは知りませんでした。

マリア・テレジアは最愛のフランツ・シュテファンと結婚するために、父親を脅すことも辞さなかったので、フランツが急死した時は一晩泣き明かし、次の日は死者を包む布を女官と一心不乱に縫います。数か月経っても抜け殻状態のマリア・テレジアに、アントワネットは構ってほしい、ほほ笑んでほしいとお願いします。

ところが夫の死後、隠し子の報を受け、調査すると、どうも事実らしく、苦悩するマリア・テレジア(この話が本当なら、アントワネットには異母姉妹がいたことになります)。生身の人間であるマリア・テレジアを描いた、興味深い伝記でした。

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2011/10/16

コラム   【マリア・アントニエッタ】

 

「マリア・アントニエッタ」はマリー・アントワネットのイタリア語読みです。キャロリー・エリクソンの「To the Scaffold」(「断頭台へ」、1991年)を伊語訳で読みました(マリオ・ボニーニ訳, Arnoldo Mondadori Editore S.p.A., 2010年増刷, 本文442頁)。エリクソンは以前、取り上げた小説「マリー・アントワネットの秘密日記」の著者で、2冊ともいまだに邦訳未刊です。

最初はアントワネットを取り巻くハプスブルク家の家族と彼女の生い立ちにページが割かれ、特に母親のマリア・テレジアについて詳しいです。夫(アントワネットの父親)の度重なる浮気に悩み、アントワネットの姉マリア・カロリーナも気づいていました。

舞台がフランスに移ると、時々、アントワネットから離れ、小姓の生活状況や、革命前夜の狼も徘徊した厳冬のパリの描写も。ヴェルサイユ宮殿は煙突の調子が悪く、煤の臭いが下着まで付着、宮殿には靴が泥だらけのパリ市民や、その多くが野生だった犬猫がいたとのこと。

デュ・バリー夫人とルイ16世に対する評価は厳しいものの、ルイの処刑当日の言行はアントワネットのより克明で、臨場感があります。それから首飾り事件以前にも王妃の手紙を偽造した女詐欺師が存在。

ハスリップの「マリー・アントワネット」伊語版で、イタリア式人名を紹介しましたが、ここでも一瞬考えてしまった人名、地名を挙げます。

人名  ノルマンディア公ルイジ・カルロ(ノルマンディー公ルイ・シャルル)
     パオロ(パーヴェル)
     フェデリコ・グリエルモ(フリードリヒ・ヴィルヘルム)
     フランチェスコ(フランツ)

地名  センナ川(セーヌ川)
     トローサ(トゥールーズ)
     マルシリア(マルセイユ)
     アッシア(ヘッセン)
     カンポ・ディ・マルテ(シャン・ド・マルス)

ちなみにギロチンは「ギリョッティーナ」で、女性名詞です。

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2011/8/13

コラム   【ダントン】

 

シャンパーニュ州の青年がパリに上京し、弁護士事務所で厳しい書記生活を送り、晴れて弁護士の資格を取得。やがてカフェ所有者の娘に恋をして結婚。知り合いから弁護士事務所を借金して購入、息子たちも生まれ、フランス革命が起こらなければ、歴史に残らなかったかもしれないダントン。

時流に乗ったダントンは、その容姿と熱弁でパリ民衆の偶像となり、凶暴な性格ではないものの、革命に積極的にかかわっていく。王一家のサン・クルー行きを阻止し、ルイ16世の処刑に賛成投票し、いいがかりをつけるジロンド派には反論して勝利を収める。しかしマラー暗殺後はロベスピエールとの対立が鮮明となり、恐怖政治に疑問を感じ、人間にうんざりして温和を訴え、ロベスピエールと和解を試みるも失敗。最後は証人も物証もない、いい加減な裁判で有罪とされ、友人のカミーユ・デムーランとともにギロチンにかけられます。

ダントンはマリー・アントワネットを離縁させ、高貴な女性にふさわしい敬意をもってウィーンへ送還することを提案しました。革命が進行すると、ギロチンにかけたくなかったので、釈放を望みました。反対に身の危険を冒して救出に成功したのがタレイラン。

興味深い場面は、ダントンがセーヌ川で泳いでいた時、嫌いなバスティーユが目に入るところ。カフェでダントンとデムーランがワインを、ロベスピエールが牛乳を注文したり、デムーラン宅でロベスピエールがカミーユの子供をあやすところ。

図版のエベールの説明文に「hellraiser」とありました。文字通りには「地獄を出現させる者」、転じて「騒ぎを起こす者」。とりわけマリー・アントワネットとルイ17世にとっては、そうだったでしょう。

今回読んだ本は、「フランス革命の巨人 ダントンの生涯」(David Lawday, Grove Press, 2009)。ダントンの先妻、16歳で未亡人となった後妻のその後についても知ることができます。

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2011/6/5

コラム   【カストロのマダム・ロワイヤル】

 

アンドレ・カストロの「マダム・ロワイヤル」(ペラン社、1962年)は、アントワネットの娘であるマリー・テレーズの伝記で、邦訳は出ていません(原書はフランス語)。

物語はマリー・アントワネットとルイ16世の結婚生活から始まります。文章は読みやすいのですが、所どころに作者の慨嘆が入り、それをうるさいと感じる人もいると思います。

全体を通して、マリー・テレーズの暗さ、悲劇を強調するきらいがあります。彼女の無愛想、つっけんどんな態度もたびたび描かれています。ただ作者は批判に徹しているわけではなく、彼女のそのような態度や行動にひそむ心理的な理由を推測して述べています。晩年の彼女が鉄道に乗った事実、彼女がかわいがっていた甥の恋愛なども読んで知ることができます。

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2011/5/1

コラム   【マリー・アントワネット 言うことを聞かない女】

 

フランス人のシモーヌ・ベルティエールの「マリー・アントワネット 言うことを聞かない女」(Éditions de Fallois, 2002, 仏語)は、文庫本で900頁を越える長編のアントワネット伝です(邦訳未刊)。アントワネットについては、すでに多くの伝記が刊行されていますが、それでもまだ研究の余地があることをこの本は示しています。

まず大きな特徴は、結婚初期の夫婦生活について、従来のツヴァイクの説とは全く異なる見解が説得力のある文章で述べられていること。それから資料を厳密に調査し、これまで当然とされてきた通説、俗説の真偽を追究していることです。たとえば、アントワネットは本当に素直で従順だったのか? フランスへ引き渡される時、衣服を全部脱いだのか? ルイ16世が婚礼の夜に大食いしたのは事実か? などです。他にもアントワネットはフランス革命と破産の原因だったのか、なぜ貴族や民衆はあれほど彼女を嫌ったのか、落度があっても人はなぜ彼女に惹かれるのか、ヴァレンヌの逃亡の失敗の真の原因は何か、などの問いに関しても、著者独自の意見を述べています。

オーストリア大使メルシーが革命中、子供を認知するために長年の愛人と結婚したこと、フェルセンの母の先祖がフランス人だったことも知ることができました。

著者は本文で話し言葉も使い、また当時と現在の仏語のニュアンスの違いについて注釈しています。「とらぬ狸の皮算用」、仏語では狸が熊なんですね。

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2011/3/13

コラム   【ルイ・フィリップ】

 

フランス革命やナポレオンに関する本は数多くあるのに、王政復古から2月革命までのは、あまりにも少ない。この時代を詳しく知りたいという要求に応えてくれるのが、マンロー・プライス著の「危険な王冠」(Pan Books, 2008, 英語)です。約400頁の長編ですが、「エカテリーナ女帝」の著者、ヴァージニア・ラウンディングが書評で「本当にページを繰るのももどかしいくらいおもしろい本」と述べている通り、一気に読める本でした。

主要人物は7月革命で市民王となるルイ・フィリップと、聡明な妹アデライード。兄妹は苦楽を共にし、強い絆で結ばれていました。二人の父親はフィリップ・オルレアンで、マリー・アントワネットの不倶戴天の敵であり、ルイ16世の死刑に賛成投票し、関連書によっては極悪人に描かれていますが、その投票はやむにやまれず行ったことであり、娘への父親としての愛情を持ち合わせていた、一人の弱い人間としての面も本書には書かれていました。

オルレアン家の子供たちは養育係のジャンリス夫人から、従来通りではない、独特の教育を受け、革命が起きると各地を転々とします。王政復古でフランスに戻っても、本家と不仲。マリー・テレーズも快く思わない。そうこうするうちにシャルル10世が政治につまずき、ルイ・フィリップが国王に。7月王政の成立、その後の社会・政治状況、ルイ・フィリップの家庭生活、退位が詳述されています。

マリー・アントワネットの親友だったポリニャック夫人の息子も登場します。ルイ・フィリップの妻はマリー・アメリーで、アントワネットの姪にあたります。家庭的でおとなしく従順なマリー・アメリーも、危急存亡の時にはマリー・アントワネットのように奮い立ちました。


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2011/1/16

コラム   【伊予柑クグロフケーキ】

 

マリー・アントワネットの好物、クグロフ。四国旅行で、その伊予柑版を見つけたので、さっそく購入しました。箱の中にはケーキ本体、伊予柑ソース、粉砂糖の小袋、プラスチック製のくろもじが入っていました。ソースと粉砂糖を上にかけて完成。さわやかな伊予柑ソースがケーキの美味しさを引き立てていました。町の特産品売り場や、空港の土産物売り場で売っています。

 



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2010/12/4

コラム   【ルチア】

 

洋書「ルチア」。肖像画の瞳の美しい青色、「ナポレオン時代のヴェネツィア生活」という副題につられて購入しました。(Vintage Books, 2009)。

読み進めるうちにわかったのは、主人公ルチアの子孫である作家のアンドレア・ディ・ロビラントが行方不明となっていた上記の肖像画を必死に探して現在の所有者を突きとめたこと。そして描いた画家がアンゲリカ・カウフマンだったこと。(アントワネットの姉、マリア・カロリーナも描いた女流画家)。それからこの本の舞台にウィーン、パリも含まれるので、フランス革命史でおなじみの人物がぞろぞろ(!)登場することです。

ヴェネツィア人のルチアは父も夫も要職にあり、平和な時代なら、静かな一生を送ったことと思います。しかしナポレオンがヴェネツィア共和国を滅亡させたので、そこから彼女の運命が大きく変化していきます。ウィーンでは、ルチアがフランツ皇帝夫妻に謁見する前、ベルタン嬢がルチアのドレスに最後の仕上げをしています。マリー・アントワネットに仕えていたベルタン嬢は、この時、皇妃マリア・テレーザに付いていたのです。マリア・テレーザはナポリ王女(マリア・カロリーナの娘)だったので、同じイタリア出身のルチアとの同席を喜び、有能な宮廷産科医も共有。フランス革命が進行すると、ルチアはウィーンの宮廷がマリー・アントワネットの運命を心配しているのに気づきました。

パリに移ったルチアは、マリー・アントワネットについていろいろ聞いていたので、興味をもってヴェルサイユ宮殿、プティ・トリアノン、村落を見学。ルイ16世とマリー・アントワネットの共同墓地も探しに行きました。ルイ18世はイタリアに亡命中、ルチアの夫から礼遇されたので、謁見でルチアの姿を認めると、声をかけました。

ルチアの家庭も波乱に富んでおり、夫婦のあり方を考えさせる本でした。

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2010/10/3

コラム   【マリー・テレーズの宝石】

 

海外で小さな書店に入り、なにげなく平積みの本を見ていた時、目に入ったのが戴冠式のジョゼフィーヌを表紙にした小型本でした。「ルーヴルの宝石」(Goets and Joannis, Flammarion, 2008)の英語版でした。

全ページカラーで、時代はエジプトから皇妃ウージェニーにわたり、宝飾類の説明は丁寧でわかりやすく、ぱっと見ただけでは見過ごしてしまうような細部にも及んでいます。なかでも目を奪われたのが、約1031個のダイヤモンドと40個のエメラルドから成るマリー・テレーズの王冠型髪飾り。説明文によると、宝石はフランソワ1世が創設した国王の宝庫から拝借されており、王冠型髪飾りは皇妃マリー・ルイーズ(ナポレオンの後妻)の装身具の一部を作り替えたものだそうです。その後、ウージェニーも身につけたこの髪飾りは公売でイギリスに渡り、最近になってフランスに買い戻されました。

他にもマリー・アメリー(ルイ・フィリップの妃)の見事なサファイアとダイヤモンドの一揃いの宝石、ウージェニーの真珠の装身具、140カラットのレジャン・ダイヤモンドが掲載され、レジャンが王室、皇室の所有者を経て今日まで保管されてきた経緯は一つの物語です。

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2010/9/16

コラム   【カセルタの王宮】

 

ナポリ中央駅から電車で40分の所に、カセルタの王宮があります。18世紀にブルボン家のカルロがヴェルサイユ宮殿をモデルに建造させました。第二次世界大戦では爆撃を受けたり、連合軍に占拠されたりしました。王宮内にはアントワネットの姉、マリア・カロリーナの部屋があります。立派な図書室は彼女が強く望んだものです。広い庭園には美しい噴水があり、散策にぴったりです。庭園の端にはマリア・カロリーナが妹アントワネットのトリアノン庭園に負けじと造らせた、イギリス式庭園があります。

  

      王宮入口                      鉾槍兵の間

 

      庭園の滝                           池の魚

 

      庭園                         最上部の噴水から見た王宮



下の写真はシチリア島パレルモで発見したレストラン「カリオストロのごちそう」。



それからオーストリア製のチョコレート。黒実サクランボとバニラ入りです。



シチリア島のカターニャでは、ベッリーニ博物館を訪ねました。誕生したのが1801年11月2日から3日の夜なので、11月2日なら、マリー・アントワネットと同じ誕生日になります。展示品には、両シチリア国王フェルディナンド1世(マリア・カロリーナの夫)から授与された銀メダル、オペラ「清教徒」の成功後にフランス国王ルイ・フィリップから授与されたレジヨン・ドヌール勲章に関する文書、パリの墓地から故郷カターニャに亡骸とともに運ばれた棺がありました。

ここからは今回のイタリア旅行について。シチリア島のパレルモのマッシモ劇場は、ガイド付きで内部を見学でき、貴賓席も見られます。練習室ではTシャツ、スニーカー姿の人たちが下稽古をしていました。パレルモから各方面に出ている中距離バスは、時間に正確で便利でした。大きな荷物はバスの下部に自分で収納するようになっています。島内それぞれの地に独自の形のパスタ、パスタソースがあります。シチリア島から本土のナポリへは、夜間フェリーで渡りました。船室には狭いシャワースペース、トイレ、洗面台、プラスチックのコップ、バスタオル、手ぬぐいがありました。二段ベッドの上段は梯子をかけて上ります。ナポリには朝到着の予定でしたが、6時間遅れて着いたのはお昼。船内で到着が遅れる旨の放送が流れると、両隣の部屋から「えーっ!!」というブーイングの声。海岸が見え始めた頃、甲板に出て海や景色を眺めました。黒いエイが泳いでいるのが見えました。カモメが船すれすれに飛び交っていました。

ナポリの駅で鉄道の切符を買うため、自動券売機を使いましたが、「購入不可」の文字が。係員に訊ねると、ほとんどの機械が不調なので、窓口の列に並んで購入するようにとのこと。イタリアでは時間に余裕をみないと、うまくいきません。シチリア島、ナポリともに、今回も町中、駅、港で大きなおとなしい野良犬をよく見かけました。

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2010/7/16

コラム   【アジアで見つけたアントワネット関連品】

 

シンガポールの食品売り場を歩いていたら、アントワネットの肖像が描かれた紙袋が目にとまりました。そこはクッキーのお店で、さっそく店員のお姉さんが売り込んできました。味見をしてから、一番おいしかったパインとバラの入ったクッキーを買いました。(缶にはエリーザベトの肖像)。



ボルネオ島マレーシア領のクチン市(「クチン」はマレー語で「猫」)の猫博物館には、猫に関する物があふれていました。絵画、写真、切手、絵はがき、ぬいぐるみ、置物、まねき猫、本などです。猫好きだった著名人の中に、ルイ15世も交じっていました。説明文には「妃マリーが猫好きで、猫は街中を自由に歩き回れた。最初は猫に無関心だったルイ15世も、王妃を喜ばすために関心を示すようになり、毎朝大きな白猫を寝室に迎え入れていた」と書いてありました。

  猫博物館の入口



市内の土産物店で、Tシャツを3枚買いました。

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インドネシアのスンバ島はお香などに使われる白檀の原産地ですが、大量に伐採されたため、現在では少ししか残っていません。マリー・アントワネットはマリー・テレーズを身ごもった時、気分を鎮めるため、白檀も入った香水をつくらせています。

  白檀の若木



下の百合の紋章が入った大きなろうそくはバリ産です。

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2010/2/7

コラム   【ド・ラ・トゥール・デュ・パン夫人】

 

詳細なマリー・アントワネット伝では必ずといっていいほど、ド・ラ・トゥール・デュ・パン夫人の回想録が引用されています。ただ夫人本人については資料が少ないので、2009年に出版された「Dancing to the Precipice」(Caroline Moorehead 著、HarperCollins Publishers 刊)を読んでみました。本文だけで436頁ありましたが、読み出したら止まらないほどおもしろかったので、一気に読めました。

リュシー・ド・ラ・トゥール・デュ・パン(1770−1853)はアイルランド系フランス人で、父親は軍人、母親はマリー・アントワネットの女官。子供時代は両親、専制的で意地悪な祖母とパリで暮らしました。この祖母とマリー・アントワネットは嫌い合い、リュシーの母の湯治の旅費もアントワネットが出したほどです。英仏両国の大勢の貴族と親交があり、宮廷、宗教界にも縁故がある裕福な家庭でしたが、母親が病気で若死し、冷淡な祖母を相手に気苦労の絶えない少女時代を送りました。

リュシーの運が上向いたのは、取り決められた結婚をしてから。夫とは相思相愛となり、幸福な結婚生活を送りました。子供に次々と先立たれたり、革命で何度か亡命を余議なくされる不幸も乗り越え、最後は異国で没しています。

この本は人物や風俗の描写が克明で臨場感があり、読者を飽きさせない点で優れていると思います。またリュシーの関わった人物も、革命史でおなじみです。リュシーはマリー・アントワネットから借りたダイヤモンドの首飾りを着けて王妃の謁見を賜りました。タリアン夫妻はリュシー一家のアメリカ逃亡を助けています。アメリカではタレイランがリュシーのものだったマリー・アントワネットのカメオを他人から取り戻し、彼女に返還。イギリスでは容色の衰えたジョージアナ・デヴォンシャーに紹介され、帝政下ではナポレオン、ジョゼフィーヌ、マリー・ルイーズとも接しました。(ベルトラン将軍の妻、ファニーはリュシーの異母妹)。王政復古ではリュシーの娘がマリー・テレーズに花束を贈っています。

それから金のイヤリングを片方だけつけたサン・ジュストも登場しています。

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2009/12/10

コラム   【マリー・テレーズ】

 

学生の時にツヴァイクの「マリー・アントワネット」を読んで以来、彼女の残された二人の子供、マリー・テレーズとルイ17世のその後を知りたいと、ずっと思っていました。今回出版の運びとなった、長編の「マリー・テレーズ」は、私にとっては、そのような思いに応える伝記です。外界の出来事のほか、彼女の生い立ち、内面、性格、周囲の人々、晩年の生活なども描写されており、アントワネットの子育てもうかがえます。本書がマリー・テレーズのことを知る一助になれば、幸いです。

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2009/11/1

コラム   【マリー・アントワネットの私生活】

 

カンパン夫人の「マリー・アントワネットの私生活」は、まだ邦訳が出ていない本です。今回は“The Private Life of Marie Antoinette”(The History Press Ltd, 2008)を読みました。「マリー・アントワネットの回想録」と重なる部分もありますが、本書には参考として他の文献からの抜粋も掲載されており、ためになりました。

カンパン夫人はマリー・アントワネットの語学力について述べています。イタリア語は流暢に話し、難解な詩も翻訳できたものの、30過ぎて熱心に教えを受けた母国語のドイツ語は難しくて挫折。さらに上達は速かった英語も挫折。

カンパン夫人によると、マリア・テレジアはマリー・アントワネットを妊娠中、すでに大勢の娘に恵まれていたので、男の子を欲しがっていた、またマリー・アントワネットはジャンヌ・ド・ラ・モットの版画を入手したがっていたそうです。マリー・アントワネットの不倶戴天の敵や、親友ポリニャック夫人と疎遠になった後の新しいお気に入りについても伝えています。王妃はカンパン夫人にエカテリーナ女帝の親書を読ませるほど、王妃から信用されていたので、二人の中を引き裂こうとする陰謀が企てられました。

マリー・アントワネットが断頭台で述べた台詞についてのラマルティーヌの異説、ルイ16世の戴冠式の模様、ヨーゼフ2世の手紙の見本も載っていました。

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2009/9/6

コラム   【マリー・アントワネットとヴェルサイユ最後の庭園】

 

「マリー・アントワネットとヴェルサイユ最後の庭園」(Christian Duvernois, François Halard 著, Rizzoli International Publications, 2008)は英語の大型写真集です。前半は説明、後半は白黒も含む写真で構成されています。

まずは説明部分。ルイ14世がトリアノンの土地を購入し、ルイ15世が当時としては画期的な温室で数多くの植物を栽培した古い話から、マリー・アントワネットの話に入っていきます。浪費、ままごと遊びと非難されたトリアノンですが、マリー・アントワネットが才能ある庭師や植物学者、建築家と一緒になって村落と庭園造り、園芸に励み、現在もその遺産が観光や子供たちの課外授業に役立っているとのこと。庭園の維持、管理や、防火、警備、清掃、職人の待遇、様々な形の花壇、菜園についても書かれています。

トリアノンにはマリー・アントワネットに故郷を思い出させるものがありました。彼女の好物であるアイスクリームを夏に食べられるようにするため、冬から準備がなされました。革命により、実現しなかったトリアノンの計画があり、想像力を刺激します。

後半はなかなか見られないもの(愛の神殿の天井画や洞窟の内部、ベルヴェデーレの壁画)の写真もあり、見応えがあります。

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2009/7/16

コラム   【フランスの王妃たち】

 

フランスの週刊誌「ル・ポワン」は、昨年末にフランス国王の特集を組みましたが、今度は5月7日号でフランス王妃を取り上げています。ページ数は以前より少なく、気軽に読める内容です。

表紙はマリー・ド・メディシスで、「王妃たちの愛」「影響力」「不運」と小見出しがあります。旧制度で女性の摂政がどう見られたか、悪名高いイザボー・ド・バヴィエールの実像、アンリ3世夫妻の相思相愛について説明されています。

インタビューでは、外国の王女のフランス王室への輿入れについて、細かく述べられています。結婚に至るまでの経過、結婚生活の準備教育、フランス人の奉公人で固める目的、新郎との初対面、公開出産、子供の世話、王妃が周囲の監視から逃れる手段など、教科書には載らないようなこともわかります。マリー・アントワネットは食が細く、公開の食事でルイ16世とかみ合わない笑い話も載っています。

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2009/5/10

コラム   【おもしろいお店】

 

インドネシアのジャカルタで、「ヴェルサイユ」という名のお店を発見しました。写真の看板からわかるように、浴槽や洗面台、蛇口などが売られていました。

  


話は変わりますが、市内の国立中央博物館で展示品を見ていた時、地元の女子高生3人からボランティアのガイドの申し出があったので、お願いしました。わかりやすい説明で、英語は高校で勉強しているとのこと。1人の学生は、日本が大好きなので、お金をためて、いつか行ってみたいと、目を輝かして語っていました。夢がかなうといいなあと思いました。

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2009/3/1

コラム   【ヴェルサイユ宮殿の歴史】

 

トニー・スポーフォース著の「ヴェルサイユ」(St. Martin's Press, 2008, 英語)は、退屈な建築史とならないよう、逸話を積極的に取り入れた、おもしろいヴェルサイユ史です。

ヴェルサイユ、トリアノンの名前の由来、ルイ14世が国の中心をヴェルサイユに移した理由から、宮廷貴族の賭博、狩り、音楽、使用人の資格、住居など、ヴェルサイユ宮殿に暮らす人々の生活状況が具体的に明かされています。風呂やトイレの言及もあり、廷臣たちがトイレの悪臭に悩まされたこと、マリー・アントワネットの厨房もトイレの不備で被害を受けたこと、また王女たちの洗濯物を干した場所、宮殿の食べ残しの行方も書かれていました。

マリー・アントワネットが謁見の際の服装規定を変え、首飾り事件の後はイメージを改善しようとヴェルサイユ宮殿で努力したこと、革命前から不穏な空気を感じ、宮殿内でさえ用心していたことを知りました。革命後は大運河の水が抜かれたり、王妃の愛したプティ・トリアノンが一時期営利目的で使用されたりして、今では想像できません。

往時のヴェルサイユを偲ぶことができて、買ってよかったと思えた本でした。

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2009/2/1

コラム   【フランス国王の特集】

 

フランスの週刊誌「ル・ポワン」12月合併号は、フランス国王の特集号でした。表紙の見出しは「歴代国王について語られなかったこと」で、「彼らの秘密」「恋愛」「病気」「孤独」と続いています。もちろん周知の事実も書かれていましたが、確かに知らないこともありました(フランソワ1世の身長が180p、豚の群れが原因で亡くなったある王太子の話)。66ページの記事には学者や作家の意見、寵姫に関する逸話、遺品の写真も含まれていました。

「フランス王妃たちの憂鬱」では、マリー・アントワネットの伝記作家がインタビューに答えていました。未来の王妃を選ぶ基準、彼女たちは事前に花婿について何を知っていたか、最初の顔合わせでがっかりしなかったのか、恋愛結婚はあったか、ホームシックにかかったか、王妃の心得、女の尻を追いかける国王を王妃たちは受け入れたのか、初めての公開出産で懲りた王妃たちが次に取った手段などについてです。

ドルーエの髪をアップにした若いデュ・バリー夫人の素描は、見事に目鼻立ちの整った顔で、はっとしました。カラー写真が掲載されているのは、フランソワ1世の剣、ルイ14世所有の薄赤色の大きなダイヤモンドと、「グラン・サンシー」というこれまた大きなダイヤモンド。ルイ15世夫妻の肖像入りの嗅ぎ煙草入れ、ルイ15世の聖別式用の王冠(282個のダイヤモンド、色とりどりの宝石で飾られ、天辺には百合の飾り)などです。肘かけ椅子に腰かけたルイ・フィリップの銀板写真もあり、ヴィンターハルターの肖像画が真に迫っているのがわかりました。

ルイ14世の克明な病歴、病因を読むには、「強い心臓がないといけません」と断り書きがしてあります。

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2009/1/10

コラム   【エカテリーナ2世】

 

フランス革命に批判的だったロシアのエカテリーナ2世。そんな彼女の内面と家庭生活を中心に据えた最新の長編の伝記がヴァージニア・ラウンディング著の「エカテリーナ大帝」(St. Martin's Griffin, 2008)です。

冷静沈着で手強い君主だった彼女も、心と体はつながっていて、もろい面も持ち、愛し愛されたい生身の女だったことがわかりました。帝位につくまでは、気苦労が絶えず、病気にかかって髪が抜けたり、誰にも顧みられなくて引きこもったり。それでも孤独の中で自分が動く必要を悟り、積極的に行動するようになっていきます。

エカテリーナはロシアでアントワネットの兄、ヨーゼフ2世をもてなしています。彼女はヨーゼフを気に入り、おしゃべりで物知りであると述べています。ヨーゼフがロシアでどのように過ごしたか、また彼の恋愛遊戯の顛末もわかります。ヨーゼフが亡くなった時はマリー・アントワネットに同情する、彼女の勇気をたたえると書いています。エカテリーナはマリー・アントワネットの指物師に家具の製作を依頼したこともあり、フランス革命でルイ16世処刑の知らせが届いた時、エカテリーナは病床に就き、服喪を宣言します(マリー・アントワネットの時も同様)。同書にはアントワネットの身近な人々であるメルシー、ベルタン嬢、ルイ15世についての言及もありました。

エカテリーナがグリムに宛てた手紙には、家庭のこと、孫のことなどが書かれ、おしゃべりを聞いているような印象を受けました。どの手紙もみずみずしい感性にあふれ、気取りがありません。彼女の過去に滞まることなく先に進んでいく、深い悲しみの乗り越え方は、薄情と感じる人もいるかもしれませんが、彼女の精一杯のやり方だったのでしょう。

肖像画は彼女の両親、家族、愛人たちが載っています。音楽が雑音にしか聞こえなかったエカテリーナですが、それでも音楽の楽しさを教えてくれた作曲家がいて、ヴィジェ・ルブランが肖像画を描いています。

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2008/11/22

コラム   【ディノ公爵夫人ドロテア】

 

初めて足を運んだ書店で、4年間売れ残っていたのがフィリップ・ツィーグラー著、「ディノ公爵夫人」です。(フェニックス・プレス刊、2003年、英語、初版は1962年)。ドロテアはタレイランの甥の妻ですが、後にタレイランの愛人となり、末娘は彼との間に儲けた子供ではないかと言われています。

ドロテアの父、クールランド公爵は悪名高い暴君でしたが、末娘のドロテアには優しく、かわいがっていました。母は後妻で、社交に忙しく、ドロテアを放任。公爵はエカテリーナ女帝に公爵領を売却したので、一家はドイツで裕福な生活を送れました。母に愛されたがったドロテアは、主に2人の家庭教師に育てられました。子供の頃はやせこけた、目がぎょろっとしている醜い子で、ダンス、音楽などのお稽古ごとは苦手、そのかわり数学が得意で、木登りをしたり、片っ端から本を読んだりしていました。おませでむっつりした、かわいげのない子でしたが、とっつきにくい外見の下には知性と感受性が隠れていました。

クールランドのミタウ城では、亡命中のルイ18世にかわいがられ、アルトワ伯の次男との縁談話があったので、もしこれが実現していたら、マリー・テレーズ(マリー・アントワネットの娘)と義姉妹になっていました。ドロテアには心に決めた人がいましたが、周囲の陰謀のせいでタレイランの甥と結婚する羽目に。この頃にはドロテアは美しく成長し、分析的思考にたけた知性を備え、複雑な問題も明確に理解できるようになっていました。女主人として活躍したウィーン会議の後、タレイランとの仲は深まり、最終的には夫と別居し、タレイランと同居するようになります。彼女は子供たちの結婚問題、フランスとプロイセンを往復する領地の管理、娘の家庭の不幸などで忙殺されました。印象的な場面は、母の墓の前にたたずみ、「もしお母さんが私を愛してくれたら、私の人生は…」と黙想するところです。ドロテアは長くフランスに住んでいたものの、異邦人である疎外感はぬぐえず、アントワネットのように中傷もされたので、パリには愛憎を抱いていました。

肖像画を見る限り、ドロテアの母は優しそうな美女、ドロテアは大きな瞳をした、意志の強そうな美女です。

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2008/9/28

コラム   【マリー・アントワネットの図版集】

 

以前、フランス旅行をした家族から、お土産としてもらったのが小型の薄い図版集、「Le Style Marie-Antoinette」(Adrien Goetz著、Assouline社刊、2005年、仏語)です。

珍しさで目を引くのは、マリー・アントワネットのカメオとルビーでできたブレスレットや、帆船、宮廷人が描かれた扇。ヴェルサイユの王妃の部屋の扉、肘掛け椅子には花があしらわれており、目にやさしい、ほっとするような色づかい。

イギリス風ドレス、ポロネーズ(ドレス)、18世紀の靴が写真で見られます。かなり傷んで、虫食い状態のもあるけれど、当時の種類豊富な靴は色とりどりでデザインが愛らしく、どれも履いてみたくなります。また羽根飾り、リボンのついた帽子が並んでいる絵もあり、どういうドレスに合うか、想像しながら見るのも楽しいです。

版画では、ルイ17世の手を取って散歩する王妃の後ろ姿があります。プティ・トリアノンの近くで、そばには娘や義妹がたたずんでいます。

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2008/7/12

コラム   【主な国王の寵姫たち】

 

家の中を整理していたら、今から約15年前にフランスで購入した「主な国王の寵姫たち」という、英語のカラー本が出てきました。63頁、アルメル・ド・ウィスム著、アルトー・フレール出版社で、発行年は書いてありません。

シャルル7世からルイ15世までの寵姫たちが肖像画や城と共に紹介されています。年代順に追ってみると、シャルル7世はアニェス・ソレルを熱愛し、片時も離れず、彼女は4人の子供を産みましたが、28歳で病死。フランソワ1世は母親が息子のある愛人を嫌ったので、別の女性を据えようと画策しました。アンリ2世は20歳年上の美女、ディアヌ・ド・ポアティエに最後までぞっこん。ただ彼女は貪欲で自己中心的だったので、人気のない寵姫、革命中は墓があばかれたそうです。アンリ4世の数多い寵姫のうち、ガブリエル・デストレは国王と結婚する予定で、花嫁衣裳まで用意していましたが、病気で急逝。めげないアンリの最後の相手は40歳年下。

ルイ15世の愛人、デュ・バリー夫人は、マリー・アントワネットと対立していました。アントワネット陣営は皆、喧嘩に加わり、側近の婦人たちはデュ・バリー夫人の隣に座りたがりませんでした。しかしデュ・バリー夫人は性格がよく、革命が勃発してからは、負傷した近衛兵をかくまったり、アントワネットに援助を申し出たりして、感謝されています。コンシェルジュリー獄では人を介し、人助けに成功。皮肉にも革命裁判では、王妃の時と同じ弁護士が彼女を担当しました。

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2008/5/17

コラム   【TBSテレビのTHE 世界遺産】

 

先月の4月13日に、TBSテレビの「THE 世界遺産」で、ヴェルサイユの宮殿と庭園が放映されました。豪華な宮殿の映像から始まり、マリー・アントワネットを中心に番組が展開していきます。王妃にとって、ヴェルサイユ宮殿はどのようなところだったのか? ルイ14世時代からの宮廷生活、王妃の生涯が、宮殿内部や庭園、肖像画、当時の絵画と共に語られました。王妃お気に入りのプティ・トリアノン宮や村落、蒔絵なども映され、寝室の装飾は間近で見ることができました。

圧巻は鏡の間で、流れる音楽を耳にしながら、無人のきらめく回廊をゆっくりカメラで追っていく映像は、吸い込まれそう。大運河から宮殿まで、空から見る景観からも、その規模の大きさがしのばれました。

邦訳未刊の大著、「マリー・アントワネット」の著者である、エヴリーヌ・ルヴェ氏のインタビューや、お住まいのアパルトマンも参考になりました。

今回、幸いにも監修の一人として本番組に携わることができました。

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2008/3/8

コラム   【ルイ14世伝】

 

小説のようにおもしろい、ルイ14世伝を読みました。アントニア・フレイザー著、「愛とルイ14世」(Anchor Books、2007年出版、英語)です。戦争など、歴史上の出来事よりも、国王をめぐる女性たちに視点を当てた人間ドラマです。

太陽王ルイ14世に強い影響を与えた最初の女性は、母親のアンヌ・ドートリッシュ。結婚から20年以上過ぎて授かったルイは、まさに「神が授けた」子供で、後に女性問題をめぐって親子喧嘩が勃発したとはいえ、しっかり者の母を尊敬し、強い絆で結ばれていました。

ルイの結婚相手は、従妹のマリー・テレーズ。透き通るような白い肌、突き出たハプスブルク家の下唇、おでこという描写を読んで、マリー・アントワネットをすぐに想像しました。王妃は善良で従順、しかし退屈な相手だったので、ルイの女性遍歴が始まります。主な女性はやはり妖艶なモンテスパン夫人。宮廷や社会を震撼させた毒殺事件に関与したとの説もありますが、表舞台を退いてからは、ホスピスを造ったりして、慈善事業に打ち込んでいます。王妃亡き後、秘密結婚をしたとされるマントノン夫人の人生は、苦難の連続でしたが、国王の寵愛を受けても、私腹を肥やしませんでした。このマントノン夫人を「ばあさん」呼ばわりし、敵愾心を燃やした国王の義妹、リーゼロッテは個性が強く、野性的で、親族に宛てた手紙では、かなりくだけた言葉を使っています。

ルイ14世が晩年、とてもかわいがっていたのが、孫息子の妃、アデライード。快活で初々しく、春を思わせるような彼女がフランスに嫁いでくると、宮廷の雰囲気がぱっと明るくなります。しかし彼女とその夫はあっけなく若死しました。すでに息子も亡くしていた国王に残された後継者は、まだ幼い曾孫(後のルイ15世)。将来どうなるのか、とても気になったと思います。

本書には、主要登場人物の肖像がカラーで掲載されており、見るだけでも楽しいです。

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2008/2/3

コラム   【ルーヴル美術館展】

 

東京都美術館で4月6日まで開催される「ルーヴル美術館展」を見に行きました。美しい工芸品を眺めながら、18世紀のフランス宮廷に思いをめぐらせました。

王家の人々の肖像入り嗅ぎ煙草入れやボンボン入れは、あまり知られていない王族の容貌までわかり、精巧で見事な芸術の粋を間近で鑑賞することができました。ボンボン入れに描かれた、ルイ16世の母、マリー・ジョゼフの肖像もありました。ルイの肥満、角張った顔、大きな青い眼、ふさふさした銀色がかった金髪は、母親譲りとルイ16世伝で読みましたが、そんなことを思いながら見るのも、一興かもしれません。すでに取り壊された王宮を描いた嗅ぎ煙草入れは、かつての姿をしのぶことができ、貴重な作品だと思いました。

この展覧会でも、マリー・アントワネットが大切にしていた漆器が展示されていました。王妃の部屋にあった椅子や大燭台、書き物机は洗練されていました。旅行用具は、食器や化粧道具が大型の箱から取り出されていたので、じっくり見られました。

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2008/1/6

コラム   【ヒバートのフランス革命】

 

初版が25年前に出たクリストファー・ヒバート著、「フランス革命」は、今なお読み返しても、心に訴えるものがあります。フランス革命の功罪、事実をありのままに伝え、決して説教臭くないものの、読み終えた後は、手放しで大革命を賞賛できなくなるような内容です。

この本の特徴は、物語の中にスッと入っていけることです。ダントン、ロベスピエール、マラーなど革命の主役たちが、簡潔な言葉で容姿や性格、行動を描写され、興味が尽きません。チュイルリー庭園で雀に餌をやるロベスピエール。再婚して子沢山だったフーキエ・タンヴィル。サン・ジュストに暴力を振るおうとしたコローを制止するカルノー。バスティーユ襲撃は詳しく、9月虐殺で僧侶や囚人が惨殺される場面は生々しく、気持ちが悪くなるほどです。デムーランの未亡人、リュシルは死刑宣告を受け、彼女の母親はロベスピエールに手紙で命乞いをしますが、最後は処刑を回避できないなら、同じ墓に入れるよう、家族全員の命を取りなさいと非難しています。マリー・アントワネットが「エチケット夫人」と綽名をつけたノアイユ夫人の哀れな末路には無常を感じます。ロベスピエールと反対勢力の死闘の経過を描いたテルミドールの日々は、手に汗握る秀逸な箇所となっています。

ドイツ語訛りが抜けなかったマリー・アントワネットは、あくまで誇り高い、反革命派として描かれています。

原著は Christopher Hibbert 著、“The French Revolution”(Penguin Books社、1982年刊、英語)です。

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2007/12/8

コラム   【タッソー夫人】

 

書店で巡りあったタッソー夫人の伝記(Kate Berridge 著、HarperCollins Publishers 刊、2007年、原文は英語)、これがとてもおもしろい本でした!

前半はタッソー夫人が暮らした革命前のパリの様子が生き生きと描かれており、主人公がタッソー夫人だということを忘れてしまうほどです。階級社会で、娯楽にも文化の棲み分けがあり、蝋燭にも格差があるけれども、毎日24時間、何かしら見世物があり、行商人や売り子の声も加わって、活気あふれるパリ。マリー・アントワネットは大衆的なショーにも肩入れしました。王妃の新しい髪型を見ようと、怪我人まで出る始末(冗談で髪に野菜をつけたが、これは誰も真似しなかった)。入浴、謁見、着替え、公開の食事における王妃の様子、また王妃が軽視した儀礼の意味についても書かれていました。

バスティーユ(自家製ブレンド・コーヒーが美味しかったとか)強襲後、関連商品が販売され、牢獄と百合の紋章が描かれた枕カバーは、図版が載っていました。革命が進むと、服飾店が減り、印刷業者が繁盛。サン・キュロット(過激共和党員)たちは、「貴族」の言葉にうなるよう、楽しんで飼い犬を訓練し、マラーが崇拝されると、赤ん坊にマラーと名づける親が増えました。淑女の間では、悪趣味な処刑ごっこが行われ、ギロチンをモチーフにした装飾品が現れ、ギロチンのおもちゃも流行りました。その他、おもしろい風俗や事柄が、この本にはぎっしり詰まっていました。

肝心のタッソー夫人ですが、エリザベート内親王(ルイ16世の妹)の美術教師も務めました。養父の叔父(実の父親だったかもしれない)に蝋人形製作の手ほどきを受け、食卓にはミラボーやラファイエットら、時の人も連なっていました。自称王太子(ルイ17世)が出現した時は、生存説に傾きました。家業のために出稼ぎで赴いたイギリスに定住することになり、その人生は山あり谷ありです。

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2007/10/14

コラム   【ルイ16世伝】

 

この夏、イタリアで書店巡りをした際、どこの店でもわかりやすいよう、表紙が見える形で置かれていたのが、アントニオ・スピノサ著、「ルイジ16世」(ルイ16世)でした。副題は「ヴェルサイユ最後の太陽」。2007年4月にミラノのモンダドリ社から出版されています。イタリア語で書かれていますが、内容がおもしろく、文章も読みやすかったので、仕事で疲れた一日の終わりでも、毎日少しずつ、楽しく読めました。

妃マリー・アントワネットの影に隠れ、どうしても存在感が薄い国王ルイ16世。この本では、知られざる彼の様々な面、生い立ち(マリー・ゼフィリーヌという、夭逝した姉がいたんですね)が書かれていました。少年時代、詰め込み教育で、テストの出来が悪いと厳しい叱責が。それでも成長するにつれて読書家となり、政務のわずかな合間をぬって、特に理系を勉強。科学に強い関心を持ち、探検隊に巨費を投資。

政策面では、臣民の健康を気遣って、さびついた秤、食器への鉛の使用を禁じたり、恵まれない子供たちを救済しようとしています。

ノストラダムスがルイ16世の運命を予言したとか、チュイルリー宮襲撃の前に、複数の小間使いがチュイルリー宮の幽霊らしき人物を目撃した、といった話も載っていました。

ルイ16世にも愛人と隠し子の噂がたったこと、アルトワ伯夫人(アントワネットの義妹)が寂しさを紛らわすため浮気したこと、アントワネットがたん壺や爪楊枝入れを通貨の鋳造に回したことは初耳(読)でした。

巻末に補足資料として、心を打つルイ16世の遺書、エッジワース神父の手記等が掲載されています。




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2007/9/2

コラム   【イタリアのマリー・アントワネットの家族】

 

この夏、イタリアに旅行した際、マリー・アントワネットの家族の足跡をたどることができました。

まずナポリ。アントワネットと仲のよかった姉、マリア・カロリーナ(イタリア語表記にします)は、ナポリ国王フェルディナンド4世(両シチリア国王としては1世)に嫁ぎました。国立考古学博物館では、1772年の第一子マリア・テレーザ誕生を祝うコインが展示されていました。表には国王夫妻の上半身、裏には赤子を抱く女性が描かれていました。マリア・カロリーナの結婚を祝う、横顔入りのメダル、フェルディナンド4世や息子フランチェスコ1世のコインもありました。また1799年のフランス共和国第7年のコインには、自由の女神とフリジア帽をかぶせた細長い棒が刻まれていました。

丘の上の宮殿内にあるカポディモンテ美術館の国王の居室では、ドイツ人女流画家、カウフマン画の「フェルディナンド4世の家族の肖像」がありました。田園風景を背景に、中心のマリア・カロリーナは髪を結い上げ、白いドレス姿。肩には薄いベージュのショールをかけています。子供たちは、ハープを手にした赤いドレスの少女マリア・テレーザ(後のオーストリア皇妃)、後嗣の幼いフランチェスコ、赤ちゃんのマリア・アマーリア(後のフランス国王ルイ・フィリップの妻)などが描かれています。私が見たとたん、「あっ」と思ったのが、乙女に成長したマリア・テレーザの肖像。ヴィジェ・ルブランの作品のせいか、雰囲気がアントワネットに、どことなく似ているのです。ルブランはフランス革命後、パリを逃れて、ナポリ国王夫妻から王女たちの肖像画を依頼されました。薔薇を持つ、愛らしい王女マリア・クリスティーナの絵にも、ルブラン特有の優雅さが漂っています。こうした肖像画を見ると、なぜルブランがアントワネットのお気に入りの画家だったのか、わかるような気がしました。それから注意を引かれたのは、フランソワ・ジェラール画の「マリア・アマーリアと息子シャルトル公」の肖像画。革命の過ちゆえ、ルイ・フィリップとの結婚を母マリア・カロリーナから反対されましたが、彼女は穏やかな優しい表情を浮かべて、幼い息子とたたずんでいます。

タリオリーニ作のマリア・カロリーナの胸像は、細長い顔と厚い下唇が、アントワネット似です。ベリー公爵夫妻(アントワネットの娘の夫、アングレーム公の弟夫妻)の肖像入りのセーヴル焼のお皿もありました。

ヴェネツィアでは、マダム・ロワイヤル(マリー・アントワネットの娘)が滞在したフランケッティ・カヴァッリ館を訪れました。現在はヴェネト文学・科学・芸術院になっています。大運河に面した、立派なファサードのある建物です。近くには、彼女が通ったサン・ヴィダル教会があり、たまたま夜9時から演奏会が開かれるというので、聴きに行きました。演奏はインテルプレーティ・ヴェネツィアーニ、曲目はヴィヴァルディの「四季」、J.S.バッハの「ピアノと弦楽器のための協奏曲」(BWV1056)、パガニーニの「ラ・カンパネッラ」でした。教会のドームに反響する重厚的なバッハは、とりわけ素晴らしかったです。

ここからはイタリア旅行の話になります。

今回も往復の航空券を入手した後は、その時の気分で行き先を決める自由旅行にしました。時間に拘束されず、行きたい所へ行ける利点はありますが、予測不可能な事態も起き、計画通りにいかないこともあります。

事件は早くも到着した翌日に起きました。ナポリの中央駅から港へ向かう混雑した車内で、夫がカメラをすられてしまいました。荷物には注意していたのですが、腰につけていたケースは盲点でした。降りる時、他の乗客の指摘で気づき、床に落ちていないか探しましたが、見つかりませんでした。旅行保険をかけていたので、警察へ行き、盗難届出証明書を作ってもらいました。待合室には先客がいて、友人が大金を盗まれたという中国人旅行者が肩を落としていました。しばらくして私たちの番になり、個室に通されました。6畳くらいの部屋には宗教画や、パトカーと警官が写った警察カレンダーがかかっていました。警官2名は英語があまり通じなかったので、イタリア語を交じえ(こんな所でオペラの伊語が役に立つとは思いませんでした)、カメラ盗難のいきさつを説明しました。「パスポートを見せて下さい」と言われたので、夫が首にぶら下げていた袋をTシャツの下から取り出すと、警官2人は顔を見合わせて笑っていました! 帰る時、再び待合室を通りましたが、今度はドイツの女性がたどたどしい英語で盗まれた物を係員に説明していました。

ナポリから水中翼船でカプリ島へ行きました。今は無人島となっている、長崎の軍艦島巡りを思い出しました。カプリ島は観光地でも、ふだんの生活が見られる所です。島には色鮮やかなブーゲンヴィリアなどの花が咲き乱れ、空気もおいしく、ナポリの喧噪がうそのようでした。リフトで登れるソラーロ山からは、地中海や島が一望できます。この山で、おもしろい光景を目にしました。イギリス人の団体がおり、年配のご婦人方を撮ろうと、仲間のおじさんがカメラを構えていました。「ハイ、チーズ!」のかわりに言われた言葉。“Give me some sexy poses, please !”。これには女性陣からどっと笑い声が!

映画「ライフ・イズ・ビューティフル」の舞台となったアレッツォからヴェネツィアへ向かう際、電車が2時間遅れ。ヴェネツィアの一つ手前の駅で乗り換えでしたが、ホームのはるか向こうに短い編成の車輌が停まりました。イギリス人のバックパッカーの一団と、すごい形相で必死に走りました。

カプリとヴェネツィアのホテルでは、浴室に次のような文章が掲示してありました。「毎日、世界中のホテルで膨大な量のタオルが洗濯され、大量の洗剤が私たちの河川を汚染しています。洗濯不要の場合は、そのままラックにかけて下さい。希望の場合は、床に置いて下さい」。

カプリのホテルの庭には、鈴なりのレモンの木があり、根元には雑草のようにルーコラが生えていました。そういえば以前、南部のアルベロベッロへ行く途中の道端にも、バジルがたくさん生えていました。

変わった食物としては、やや甘い西瓜のアイスクリーム、さくらんぼのヨーグルト、くり抜いたレモンに詰めたレモン・シャーベット、桃のジュースがありました。

写真はイタリアで輸入された「写ルンです」で撮影しました。盗難事件があっても、イタリアの魅力はびくともしません。また何度でも行きたいです。

家に帰ると、庭には「待ってました!」とばかりに雑草が生い茂っていました。ナポリで照りつける太陽に焼かれ、さらにまたジャングルと化した庭の草むしりで強い日差しを浴び、肌は黒くなる一方です。










「スタール夫人とイタリア」展のポスター(アレッツォ)



















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サン・ヴィダル教会(ヴェネツィア)













ゴルドーニ(王太子妃時代に演じた劇の作者、ヴェネツィア)













ゴルドーニの像(ヴェネツィア)









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2007/7/15

コラム   【ルヴェのマリー・アントワネット】

 

数年前、パリを旅行した際、大型書店で購入したエヴリーヌ・ルヴェ著、「マリー・アントワネット」(Fayard社、1993年刊、仏語) を読み返しました。この本は本文だけで661ページもある大著で、大局的な時代背景を交じえながら、王妃の生涯をたどっていく歴史絵巻です。

類書と異なる点は、首飾り事件の記述で、従来とは異なる見方をしています。アントワネットはロアン枢機卿に対して、“Moi !”(「この私が!」)という言葉を連発しています。首飾り事件の裁判に至る過程も詳しいです。またバイエルン問題では、外交において健全な判断を示すルイ16世を浮かび上がらせ、お決まりの暗愚な君主のイメージを破っています。それからルイの誤った思い込みが結婚の完了を遅らせたことも書かれていました。

母マリア・テレジアとの関係には考えさせられました。マリア・テレジアは娘の長所・短所を他の誰よりも鋭く見抜き、手紙でこと細かな忠告をしていますが、無条件に娘を愛していたとは思えませんでした。まだ幼さが抜けないアントワネットの母恋しさを利用して、国事に役立てた時もありました。

王妃が皆からちやほやされていた頃から、すでに彼女の暗い将来を予見していた神父もいました。革命中、厳しい批判にさらされる中、王妃は大嫌いなラ・ファイエットから、国王との離婚話を切り出されますが、それこそはらわたが煮えくりかえるような思いだったでしょう。

くすりとさせられる描写もありました。舞踏会でアントワネット、弟のマクシミリアン、義弟のアルトワ伯が大口を開けて笑う場面です。マリア・テレジアが見たら、天を仰いだことでしょう。それからフェルセンがアントワネットとルイの大好きな目隠し鬼ごっこに加わっていたとは! またヴァレンヌの逃亡の際、アントワネットは銀の湯たんぽも持っていったそうです。

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2007/6/3

コラム   【ロベスピエール伝】

 

通常、血も涙もない冷血漢として評されることの多いロベスピエールですが、「Fatal purity」(Ruth Scurr著、Metropolitan Books Henry Holt and Company社、2006年刊) という本で、彼の知られざる一面を知ることができました。副題は「ロベスピエールとフランス革命」、原題の「Fatal purity」は、強いて訳せば「死に至る純真」、「はかなき純真」といったところでしょうか。

保守的なアラスで、今で言う、できちゃった結婚の両親から生まれた彼は、6歳で母親をなくし、父親は蒸発したので、家庭には恵まれなかったものの、学業に励み、才能を伸ばして表舞台に出るようになります。少年時代のロベスピエールは、後の彼からは想像できないような優しさも見せています。妹たちに預けた鳥が死んでしまった時、彼は涙を流しています。

殺人犯に死刑を下したことで、食事も喉を通らなくなり、死刑に反対していた彼が、革命の進行とともに非情な人間になっていく。デムーランなどの友と対立し、政争に明け暮れ、やがて恐怖政治で頂点に登りつめる彼の生涯を、著者は時代背景の描写も交じえながら、まるで現場を見てきたかのように語っています。

ある日、ロベスピエールが同僚の代議士とチュイルリーの庭園を散策していた時、幼いルイ17世が彼らに手を振り、拍手をしました。後年、ルイ17世がタンプルの独房に幽閉され、虐待に苦しんでいた時、ロベスピエールはそのような出来事を思い出しもしなかったのでしょうか。

この著書には、ロベスピエールの身辺雑記(飼犬、好きな食物、新聞に掲載された、間違った名前「ロベスピエロ」等)、サン・ジュストの逸話(母親の銀器を盗んで半年間入獄など)も書かれていて、おもしろかったです。

恐怖政治下の言論弾圧は息苦しいものがありますが、まずいワインを作っただけで処刑されるのも怖い話です。

以前、引越をした際、他のロベスピエールの本を、えのき茸の段ボール箱に入れたまま、ずっと押入の中にしまい込んでいたことがありました。「早くここから出せ! ギロチン行きにするぞ!」と箱の中から彼の声が聞こえるような気がしました。

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2007/5/6

コラム   【クイズ番組のマリー・アントワネット】

 

先月、4月7日(土)に、TBSテレビで「歴史大河バラエティー クイズ!! ひらめき偉人伝」が放映されました。頭文字別に知名度の高い歴史上の人物を当てるというクイズ番組で、人物は中・高校の歴史教科書に掲載されている2783人の中から、1000人にインタビューした結果、選ばれたもの。

頭文字「ま」の知名度No.1は、マリー・アントワネットでした。あまり知られていないエピソードが放送されました。厳冬のため、貧民を援助しようと、王妃がお仲間の廷臣に寄付を募ったり、自分の手当を倹約して大金を寄付した話。また子供たちにお年玉のおもちゃを我慢させ、おもちゃ代を貧民の毛布とパン代に回した話でした。

今回、取材に協力したこともあり、このような王妃の良い面が紹介されて、とても嬉しく思いました。

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2007/3/25

コラム   【ある伯爵夫人の紅茶】

 

数年前、夫が買ってきた紅茶を淹れるため、缶を手に取りました。どこの紅茶か確かめようと、ラベルを見てビックリ! 「デュ・バリー伯爵夫人」と記されていました。

デュ・バリー伯爵夫人は、王太子妃時代のマリー・アントワネットが張り合った女性。悪く書かれることが多い彼女ですが、革命の激動期には国王夫妻に援助を申し出て、感謝されたことも。

話は変わりますが、昨年の10月にロッシーニの「ランスへの旅」を観ました。シャルル10世の戴冠を記念して作曲されたオペラのためか、パンフレットには、「1825年ランスでのシャルル10世の戴冠式」とシャルル10世の肖像が載っていました。

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2007/2/4

コラム   【La petite musique de Marie-Antoinette】

 

ご親切な方からDVD、“La petite musique de Marie-Antoinette”(Armide)を教えて頂きました。

前半は、プティ・トリアノンの近くのマリー・アントワネットの劇場で行われた演奏会の模様です。アントワネットのお気に入りだった二人の作曲家の作品を、アンサンブルとソプラノ、バリトン歌手が演奏しています。ソプラノ歌手は日本と縁のある人です。二階席から見た舞台がどんな感じかもわかります。

後半は、アントワネットが現実から逃避できた、この劇場についてのドキュメンタリー。高価に見える装飾物が、実は意外な物で作られていたとか、当時世間で役者がどのように位置づけられていたか、また王妃がどのような声の持ち主だったのか、知ることができます。それから地下、天井裏から見る舞台の仕組み、照明、革命後の改装を含む劇場の変遷など、発見の連続でした。王妃の愛した劇場が、当時に近い形で修復され、現在も大事に保存されていることを、このDVDは伝えています。

DVDの原語はフランス語ですが、英語の字幕スーパーが歌詞にまでついているのは嬉しい心遣いです。

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2007/1/3

コラム   【Queen of Fashion】

 

久しぶりに読み応えがあり、なおかつ示唆に富むアントワネット伝を読みました。2006年に Henry Holt and Company 社から出版されたばかりの Calorine Weber 著、“Queen of Fashion”です。書店で見かけ、おもしろそうと手にとりました。副題に「マリー・アントワネットは革命で何を着たのか」とあるので、最初は単なる服飾史かな?と思いましたが、読み進むにつれて、王妃の生涯も描いた伝記でもあることに気づきました。ファッションに重点を置き、新しい視点でとらえたマリー・アントワネット。

本書から浮かびあがるアントワネットは、受け身のお姫様ではない、強い意志をもった積極的な、勇気ある女性です。長いものに巻かれた方が楽な時にも、自分の考えを通しています。

注と参考文献だけで約100ページを費しているだけあって、よく研究・調査されています。そのお陰で風刺画に含まれるいろいろな意味、アントワネットのファッションが政治・経済に及ぼした影響がよくわかりました。その他、フランスへのお引き渡しの時にアントワネットが身につけていたものはどこへ行ったのか?、当時のそびえ立つ髪型をしていた貴婦人たちはどうやって眠っていたのか?など素朴な疑問にも答えている本です。お輿入れから王太子妃時代の描写が特に優れているので、この期間の細々としたことを知りたい方にはお薦めです。

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2006/12/3

コラム   【ダナオスの娘たち】

 

「サリエーリ  モーツァルトに消された宮廷楽長」(水谷 彰良著、2004年3月 音楽之友社刊)は、本格的なサリエリ伝で、映画「アマデウス」の悪役とは全く異なる、実像に迫るものです。孤児になったイタリア人のサリエリは、周囲に音楽の才能を見出され、やがてウィーンに出て成功し、ベートーヴェンやシューベルトなど、後進の指導にもあたっています。

著者が「中途半端な内容にしたくなかった」と述べているように、音楽だけでなく、当時の時代背景や政治状況も書いてあり、アントワネットの兄、ヨーゼフ2世やレオポルド2世も登場しています。

「ダナオスの娘たち」は1784年に初演され、王妃も臨席し、大成功を収めたオペラ(同書、111頁)。総譜扉には「王妃へ献呈」と印刷されています(同書、112頁)。

5幕から成るこの作品を、さっそくCDで聴きました。エジプトゥスとダナオスは兄弟ですが、ダナオスはエジプトゥスに廃位され、娘たち(50人!)とみじめな流浪生活を余儀なくされます。エジプトゥスが亡くなると、ダナオスは和解と称して娘たちをエジプトゥスの息子たちと結婚させようとします。しかしダナオスは陰で娘たちに夫殺しを命じます。父の復讐を果たせると乗り気なダナオスの娘たち。ただ娘のヒュペルムネストラだけが恋人リュンケウスと相思相愛なので、恋人をとるか、父親をとるかで、激しい葛藤に陥ります。父からは、秘密を洩らしたら、命はないぞと脅されます。

音楽は劇の進行を妨げないよう、台詞とうまく調和しています。歌手の超絶技巧をひけらかすようなアリアはありません。序曲は起伏に富んでいて、様々な旋律に彩られ、劇全体の内容を凝縮しているようで、このオペラの期待感を高めます。

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2006/11/3

コラム   【マリー・アントワネットの回想録】

 

今も広く読まれている「マリー・アントワネット」の作者、ツヴァイクは、カンパン夫人を知ったかぶりと評し、彼女の王妃に関する回想録も当てにならないと一蹴しています。にもかかわらず、他の伝記作家は彼女の作品を参照していますし、書いてあることが全部ウソだと断定はできないのではないかと思います。今となっては史実か否か確かめようがありませんが、全編読み通してみると、王妃の人間像が浮かんでくるような本です。

カンパン夫人はマリー・アントワネットの賢い、忠実な侍女です。外では気丈で弱みを見せない王妃ですが、気心の知れたカンパン夫人には本音を打ち明ける、傷つきやすい、時にはヒステリーを起こす女性として描かれています。

王妃が朝食、夕食、夜食で何を食べていたか、盗まれた結婚指輪の話、母マリア・テレジアにしてほしかったこと、毒殺の恐怖、王妃暗殺未遂事件など、どきどきしながら読みました。

意外な話は、反王妃の気運が高まる革命の最中でも、偏見に惑わされない、真実を見抜く老若男女の民衆が宮殿の外に集まって、王妃へ敬愛の念を表明し、勇気づけたこと。王妃はわっと泣き出してしまったそうです。

それから鈍いとみなされているルイ16世ですが、繊細なところもあって、民衆のひどい仕打ちに陰で涙を流したり、アントワネットが流産した時は、一緒に泣いたりしています。晩年は革命派の様々な意地悪にじっと耐え、人徳がしのばれます。

今回読んだ本は、「The Memoirs of Marie Antoinette」、出版社はKessinger Publishingです。

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2006/8/5

コラム   【マリー・アントワネットのカラー大型本】

 


この春、家族が海外旅行をしました。お土産は、マリー・アントワネットのカラー図版を収めた大型本で、初めて目にする肖像画、胸像、版画も載っており、時間の経つのも忘れて見入ってしまいました。

この本はグザヴィエ・サルモン著の「マリー・アントワネット」で、2005年にフランスの出版社、ミシェル・ラフォンから出ています。フランス語で、155頁あります。

幸せな幼年時代から、痛ましい最期まで、美しいカラーの絵画や胸像等でたどる、女の一生です。珍しいのは、マリー・アントワネットの兄弟の肖像画、最近になって現れたアントワネットを描いた絵、ダゴティによるアントワネットの2人の義妹の肖像画です。

ボワゾ作の胸像は、ゆり柄の頭飾りとマントを帯び、前後左右の写真が見られます。プティ・トリアノンに飾ってあった、王妃のお気に入りの絵も見られます。王妃の所有物だった、花柄の脚付き宝石箱は洗練されています。

それぞれの芸術品の由来、成立ち、批評もわかり、アントワネットに興味のある方にとっては、満足のいく図版集だと思います。

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2006/7/1

コラム   【「アンドレア・シェニエ」再び】

 

昨年、新国立劇場で行われた公演では、最初、貴族が白、飢えた民衆は黒の衣装で表されていました。それから革命後の舞台になると、赤白青の三色があふれ出しました。軍服や女性のスカートの部分、肩かけ、大きなリボンはみな三色。

さて、曲は同じでも、演出でがらりと雰囲気が変わるのが、奥深いオペラのおもしろいところ。6月のボローニャ歌劇場公演では、貴族の女性たちはパステルカラーを基調にした色とりどりのドレスをまとい、とても華やかでした。時代が下ると、マラーの像が据えられたり、舞台奥を死刑囚護送車(マリー・アントワネットも乗ったような、木製の粗末な荷馬車)がのろのろ進んでいったりして、重苦しい雰囲気が醸し出されていました。女たちが掲げる大きな三色旗、細長いテーブルを覆う巨大な三色の布も、効果的に使われていました。マッダレーナ役のマリア・グレギーナの熱唱は圧巻で、心を動かされました。彼女が歌い終えると、しばらく拍手が鳴りやまなかった時もありました。

ここからはフランス革命と全く関係のない話。6月の公演の際、席に着いたら、観衆の視線が1階ど真ん中の特等席に集中していました。「小泉首相が来るんですって!」という周囲のささやき声がすぐ私の耳にも入りました。開幕直前、本当にご本人が、黒ずくめのSP10人ほどに囲まれて入場しました。すると驚いたことに、拍手と「ブー ブー」というブーイングが両方一斉にわき起こりました。小泉首相はブーイングを意に介さず、にこにこと四方の観客席に手をふっていました。


このオペラのあらすじを知りたい方は、2003年12月のコラム【アンドレア・シェニエ】をお読み下さい。


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2006/5/26

コラム   【ナポレオンとヴェルサイユ展】

 

江戸東京博物館で開催中の「ナポレオンとヴェルサイユ展」を見に行きました(2006年6月18日まで)。アントワネットやルイ16世の絵画も展示されていました。

私の興味を引いたのは、バラスの狩猟銃でした。クルミ材に装飾が施された、約1メートルの細長い銃です。こういう物まで残っているとは、思いませんでした。

ポール・ド・バラスは革命期に活躍した軍人、政治家です。ロベスピエールが失脚した後、タンプル塔へ行き、アントワネットの子供たち(マリー・テレーズとルイ17世)の安否を確認しています。アントワネットやその家族と接点があった人物のゆかりの品を見るのは、感慨深いものがあります。

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2006/4/9

コラム   【マリー・アントワネットとマンゾーニ】

 

マリー・アントワネットはタンプル塔で幽閉生活を送っていた時、タペストリーを刺繍して時間を過ごしました。その作品の一部はイタリアの作家・詩人のアレッサンドロ・マンゾーニ(1785-1873)が所有するところとなり、彼は大切にしたそうです(ハスリップ「マリー・アントワネット」より)。

マンゾーニは二度結婚し、多くの子供にも恵まれましたが、二人の妻に先立たれ、娘たちも父親より先に次々と亡くなりました。代表作の「いいなずけ」は、波瀾万丈の長編小説です。結婚目前の若い恋人たちが、悪漢の横恋慕のせいで引き裂かれ、戦争、ペスト、陰謀に巻き込まれ、つらい別離を余儀なくされつつも、最後には結ばれるというもの。改心した極悪人、屈折した心の持ち主の尼僧、私心のない、聖者の鑑のような神父、おせっかいだけど、人情味あふれる庶民の女たちなど、それぞれの登場人物が生きています。

作曲家のヴェルディは、敬愛していたマンゾーニが亡くなると、彼のために「レクイエム」を作曲し、一周忌にミラノで初演しました。この「レクイエム」は歌心のある、情熱的な「動」の音楽で、全世界をかっさらってしまうような、迫力ある「怒りの日」や、あたたかい光が静かに差し込んでくるような、静謐な「神の小羊」などから成っています。ついこの前、私もソプラノの一人として、合唱団で歌う機会に恵まれました。

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2006/2/11

コラム   【小説「マリー・アントワネットの秘密日記」】

 

2005年に出版されたばかりの小説、「マリー・アントワネットの秘密日記」を読みました。作者はハワイ在住のキャロリー・エリクソン、出版社はセント・マーティンズ・プレスです。

「小説」と明記してあるように、この本はフィクションで、日記の形をとっています。マリー・アントワネットが少女時代から日記をつけ始め、コンシェルジュリー獄で絶筆となってしまったという設定です。英文は簡潔で短く、リズム感があり、非常に読みやすいです。アントワネットの心のつぶやきが、そのまま文章になったような印象を受けました。

史実と異なる部分もあり、架空の人物も登場しますが、なんといっても目立って現れるのはアントワネットの恋人、フェルセン。行動的で精力にあふれ、最後にアントワネットを救出しようとする場面は映画さながらで、作者の願望が表れています。チュイルリー宮襲撃の描写は生々しく、阿鼻叫喚が読んでいる側にも聞こえてきそうです。アントワネットのお産の場面も臨場感がありました。

この本の表紙はペラン・サルブルが描いた、まだあどけなさが残るアントワネット。

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2005/12/4

コラム   【ルイ18世】

 

フィリップ・マンセル著の「ルイ18世」を読みました。ルイ18世はルイ16世の次弟で、アントワネットの義弟にあたります。革命時には亡命し、反革命を煽って、アントワネットにとっては厄介な存在でした。何を考えているのかわからない、腹黒い人物として描かれることが多いルイ18世は、本当のところ、どうだったのでしょう。

本を読んでまず驚いたのが、主人公であるせいか、好意的に書かれていたことです。亡命生活が長く、ナポレオンの百日天下で逃亡したこともあり、さぞかしゴリゴリの王党派だったと思いきや、苦い経験から学んだのか、穏健路線を取り、上院・下院がうまく機能する立憲君主として、外交、軍事、財政を建て直し、国家を繁栄に導きました。ナポレオン派も、元共和主義者も官職に就き、宮廷にも現れて、19世紀前半の虚栄、野心、物質主義に満ちたフランス社会が形成されました。

フランス革命で懲りたので、ルイ18世はアントワネットと異なり、世論に敏感で、パン不足に気をつけ、パリを馬車で回って人気を肌で確かめています。超王党派の弟、アルトワ伯(後のシャルル10世)とは意見が合わなくて、時々大喧嘩もしたけれど、家族は大事にしています。

ここで当然出てくるのが、姪であるアントワネットの娘こと、マリー・テレーズ。彼女の性格、物腰、容貌(顔のある部分は彼女に不利となった)、叔父ルイ18世との距離、彼女の好きな都市が述べられています。読んでほっとしたのは、地方を訪問した時、花を浴びて嬉し泣きした場面。それから夫のスペイン平定に大喜びし、祝勝式で彼女の幸せな様子がパリ市民を喜ばせたところでした。人生の辛酸をなめ、あれだけ苦しんだマリー・テレーズも、かたくなな心がとける時が、わずかでもあったんですね。

私が読んだ本は、John Murray社の洋書(英語)です。当時の社会状況が統計で客観的に示されている箇所もあり、大事な台詞は原文のフランス語が併記してありました。 

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2005/10/23

コラム   【マリー・アントワネットの真珠】

 

 “「パール」展―その輝きのすべて”が上野の国立科学博物館で開かれています(2006年1月22日まで)。企画はニューヨーク・アメリカ自然史博物館と、シカゴ・フィールド博物館です。

 真珠の生成過程やその歴史がわかるだけでなく、ピンクやラヴェンダーなど色つきの真珠や、世界各地から集められた宝飾品も展示されています。

 マリー・アントワネットの真珠と思われるものも、2粒ありました。珍しく革命後も残った白い真珠で、1つは丸く、もう1つは涙の形をしています。後に金で装飾されたので、今は飾りピンになっています。

 それからマリー・アントワネットの女官の大きな黒真珠もありました。まわりはダイヤモンド、金、銀で飾られていました。

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2005/9/10

コラム   【マリー・アントワネットの友、ジョージアナ・デヴォンシャー】

 

 ハスリップの「マリー・アントワネット」でジョージアナ・デヴォンシャーのことを知り、興味が湧いたので、伝記を読みました。アマンダ・フォアマンの「ジョージアナ デヴォンシャー公爵夫人」で、初版は1998年です。私が持っているのは、2001年にニューヨークのモダン・ライブラリー社から刊行されたペーパーバックです。次々と何かしら事件が起こり、息をもつかせぬおもしろさ。邦訳は未刊です。日本でも出版されればいいのにと思います。

 ジョージアナ・デヴォンシャー(1757-1806)はイギリス生まれ、スペンサー伯爵家の長女で、弟と妹がいました。17歳の時にデヴォンシャー公爵と結婚、家を切り盛りするかたわら、貴族だけでなく、領民ももてなしたり、ホイッグ党のために選挙運動を手伝ったりで、忙しい日々を送っていました。子供は娘3人(1人は婚外子)、息子1人。気立ての良さと美貌で社交界の華とうたわれましたが、その一方で賭博がやめられず、借金に終生苦しみ、48歳で病死しました。

 彼女は時々フランスにも旅行し、マリー・アントワネット、ポリニャック夫人と友情を育みました。ジョージアナはポリニャック夫人のことを「リトル・ポー」あるいは「マダム・ポー」と綽名で呼んでいました。3人はどこへ行くのも一緒で、髪の毛も交換しています(第2章)。ポリニャック夫人はジョージアナの親友、エリザベス・フォスターが訪仏した時、嫉妬に駆られたので、マリー・アントワネットに働きかけ、ヴェルサイユの社交界からエリザベスを排除したこともあります(第10章)。

 ジョージアナは長女を出産した時は、マリー・アントワネットから贈物をもらい(第8章)、フランスでシュミーズ・ドレスが流行した時は、それを1着もらっています(第10章)。第14章の革命前後では、当時の緊迫した雰囲気が伝わってきます。マリー・アントワネットはイギリスびいきだったので、暴徒はイギリス大使館を包囲、大使のドーセット公爵(アントワネットとジョージアナの共通の友人)にとっては災難でした。1790年夏にジョージアナがサン・クルーにアントワネットを訪ね、ポリニャック夫人の話になった時、王妃は泣いてしまったそうです。第16章では、マリー・アントワネットやルイ17世への虐待に心を痛めるジョージアナの様子が、第22章では、ジョージアナがポリニャック夫人の孫娘、コリザンド・ド・グラモンの世話を引き受ける話が述べられています。

 ジョージアナとマリー・アントワネットには、多くの共通点があります。人を惹きつけるなんともいえない魅力。社交界の華。流行の火つけ役。口うるさい母親。べったりの親友。そして賭博狂。借金。

 ジョージアナの人間関係は多彩です。親友のレディ・エリザベス・フォスターは、ジョージアナ夫妻と生活も共にしました。この3人の関係は実に不可解。エリザベスはイタリアで、フェルセンと恋仲になりました。フェルセン、オルレアン公、カロンヌ(フランスの財務総監)はジョージアナの屋敷を訪問したことがあります。それから以前コラムに書いたメアリー・ロビンソンは、ジョージアナと面識がありました。

 本にはジョージアナやエリザベスの肖像画のほか、クルニエールによるマリー・アントワネットの肖像画もカラーで載っています。初めて見る珍しいもので、なんか顔が違うなあと思いますが、紛れもなくロココのドレス姿。ドーセット公爵のは白黒ですが、キリリとした男前の顔です。

 なお、ジョージアナは故ダイアナ妃の先祖です。

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2005/8/2

コラム   【2005年夏】

 

東京・愛宕のNHK放送博物館で、過去にラジオ放送された講演を聴きました。1963年7月の桑原武夫氏、金澤誠氏による「歴史よもやま話 フランス革命 前・後」(約1時間)です。革命期に活躍した人物が続々登場し、ルイ17世の替え玉説や、ロベスピエールの人物評も話され、後半は特におもしろかったです。人間の本質は、革命から200年以上経っても変わらないとも思いました。

横浜のルーヴル美術館展では、ダヴィッドの弟子による模写「マラーの死」や、フラゴナールの「ブレゼ侯の前のミラボー」がありました。カルル・ヴェルネの「聖ユベールの祝日の鹿狩り、1818年、ムードンの森」では、シャルル10世とその息子が前景に描かれていました。この絵はシャルル10世からルイ・フィリップの所蔵品になっています。

北海道の富良野ワインハウスでは、アントワネットがシャンパン風呂に入っていたとの伝説が、壁にイラスト付きで書いてありました。

  

            ラベンダー畑                       ぶどう畑


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2005/7/2

コラム   【メアリー・ロビンソン】

 

ある日、洋書売り場をぶらついていたら、緑の瞳をした金髪の美女が、「フッ」とほほ笑んでいました。「誰だろう」と思って取り上げたのが、メアリー・ロビンソン(1757-1800)の伝記でした。

メアリー・ロビンソンはイギリスの女優、詩人、作家であると同時に、流行の火つけ役、様々な恋愛遍歴(皇太子時代のジョージ4世も含む)で世間を騒がせた人でもありました。しかし今では本国でも忘れ去られていて、1990年代に一部の学者が再評価し始めたばかり。このメアリー伝の著者も資料を調査していた時、人から誰について書くの?と訊かれ、「メアリー・ロビンソン」と教えても、ほとんどの人が「そんな名前、聞いたことがない」と答えたそうです。

メアリーの俗称は「パーディタ」。シェイクスピアの「冬物語」でこの役を演じたので、そう呼ばれるようになりました。第12章は「パーディタとマリー・アントワネット」。パーディタことメアリーは、アントワネットのドレスメーカー、ベルタン嬢の助けを借り、ヴェルサイユ宮の公開の食事に出席しました。王妃の美しい手に見とれるメアリーや、メアリーが気に入った様子のアントワネットが描かれています。アントワネットはメアリーがちょっとした頼みごとをきいてくれたので、彼女に贈り物も届けています。

他の章にもアントワネットはちょこちょこ出てきます。アントワネットの白いモスリンのシュミーズ・ドレスをイギリスではやらせたのはメアリーです。革命が起きてもメアリーはパンフレットでアントワネットを弁護しています。タンプル塔幽閉、処刑後には、王妃に捧げる詩を書いています。メアリーには人間心理に対する深い洞察力があります。世間の誤解、スキャンダル、病気にもめげず、自分の才能を活かして人生を精一杯生きたところも魅力の一つです。

図版には、ヴィジェ・ルブランによるモスリンのドレスを着たマリー・アントワネットが含まれています。その左隣には、レイノルズが描いた、気の強そうな、きつい視線のメアリーがいます。ロムニーによる肖像画はもっと穏やかな表情。当時のおもしろい風刺画も掲載されています。

原著はポーラ・バーン著、「パーディタ メアリー・ロビンソンの生涯」、出版社はハーパー・パレニアル。2004年刊、430頁で7.99イギリス・ポンド。丹念な調査、研究の上に書かれた詳細な、読み応えのある伝記。浅薄な評伝とは一線を画しますが、読みやすく、人物がいきいきと描かれています。


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2005/6/4

コラム   【フランス革命に関する英語表現】

 

名士会           Assembly of Notables
三部会           Estates General
国民議会          National Assembly
立法議会          Legislative Assembly
国民公会          National Convention
保安委員会         Committee of General Security
公安委員会         Commitee of Public Safety
国民衛兵          National Guard
総裁政府          Directory
神聖ローマ帝国       Holy Roman Empire
オーストリア継承戦争    War of Austrian Succession
パン暴動          bread riots
首飾り事件         Diamond Necklace Affair
テニスコートの誓い     Tennis Court Oath
バスティーユ陥落      fall of Bastille
女たちのヴェルサイユ行進  March of women to Versailles
ヴァレンヌの逃亡      flight to Varennes
チュイルリー宮襲撃     Storming of the Tuileries
人権と市民の宣言      Declaration of Rights of Man and of the Citizen
サン・クルー宮殿      the Palace of St Cloud
エカテリーナ女帝      Catherine the Great
フリードリヒ大王      Frederick the Great
太陽王(ルイ14世)     the Sun King

§以下は長い綴りのフランス人名

Châteaubriand       シャトーブリアン
Talleyrand         タレイラン
Malesherbes        マルゼルブ
Fouquier-Tinville     フーキエ・タンヴィル
La Rochefoucauld-Liancourt ラ・ロシュフーコー・リヤンクール
Beaumarchais        ボーマルシェ

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2005/5/3

コラム   【アントワネットの髪型】

 

箱根のポーラ美術館で、化粧道具特集展示「ヘアモードの時代─ルネサンスからアール・デコの髪型と髪飾り」に出会えました。時代と共に女性の髪が短くなり、それに比例して髪型も簡素になっていく流れが一目でわかるようになっています。

ロココ時代では、高く結い上げたアントワネットの髪型のミニチュアが2つ展示されていました。「フランス王妃スタイル」は、そびえ立つ金髪の天辺に、白い羽根飾り、赤や金色のリボン、真珠、アクセントとなる青い大粒の宝石が載っていました。後ろには数本、縦ロールが垂らしてありました。

イラストでは、「子供風」を見ることができました。お産で薄くなってしまった毛髪のために考案された、短い髪向きのスタイルです。もう一つは「ケ・サ・コ風」髪型。ベルタン嬢がボーマルシェの標語を元に創作し、アントワネットが王太子妃時代に装ったものです。

その他に極端な髪型の象徴である、「フリゲート艦」スタイルのミニチュアもありました。

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2005/3/1

コラム   【私のアントワネット関連品】  

 

  

 

百合柄のクッション

 

マリー・アントワネットのティーカップ

(真珠と矢車菊)レプリカ

リモージュ製

 

 

 

 

ジョーン・ハスリップの「マリー・アントワネット」原本

 

 

「ルイ17世の謎と母マリー・アントワネット」


 キャドベリー原本(ニューヨーク版)

 

 

 

 

「ルイ17世の謎と母マリー・アントワネット」

キャドベリー原本(ロンドン版)

 

 

 

 

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2005/2/2

コラム   【ランスへの旅】  

 

この歌劇はロッシーニがシャルル10世の戴冠を記念して作曲しました。初演は1825年6月19日で、シャルル10世をはじめとする王室も観劇しました。

シャルル10世とは、ルイ16世の末弟で、若い頃はアントワネットの遊び仲間でしたが、革命勃発直後に亡命し、反革命を煽って、アントワネットに多大な迷惑をかけました。長男のアングレーム公は、マリー・テレーズ(マリー・アントワネットの娘)と結婚しています。従ってシャルル10世は、彼女からみれば叔父でもあり、舅でもあるわけです。

ロッシーニに曲をつくってもらって名誉なことなのに、シャルル10世の幸せは長続きせず、時代に逆行した政策により、亡命を余儀なくされます。当然、マリー・テレーズも巻き込まれてしまいます。彼女の不運─民衆蜂起、幽閉、家族の処刑、弟の生死の謎、不幸な結婚、亡命─は、母親のに劣らないと、訳していた時も強く感じました。

オペラの舞台は、フランスの湯治場にある宿、「黄金の百合」。ランスで行われるシャルル10世の戴冠式を見に行くため、宿にはヨーロッパ各国から様々な旅行者が集まっています。おしゃれしか頭にないフランスの伯爵夫人、女たらしのフランス人騎士、ロシアの将軍、イギリスの大佐、ドイツの男爵、スペインの大公。主人公はローマの女流詩人。恋の誘惑、嫉妬、仲直りあり。また伯爵夫人の衣装箱を載せた馬車がひっくり返り、晴れ着がなくてはどこにも出かけられないと嘆く悲劇もあり。しかし後に最新流行の帽子が見つかり、悲劇は一転して喜劇へ。そんな中、馬が一頭も手に入らないので、ランス行きはムリとの一報が届き、一同がっかり。しかしパリで祝典が開かれるとわかり、旅行者たちは一足先に宿で楽しい宴を催します。

余興では各人がそれぞれの国を代表して、国歌や愛唱歌を歌います。ドイツ人はハイドン作曲の「皇帝賛歌」(現在、ドイツの国歌になっています)。ポーランドの侯爵夫人はポロネーズ。イギリス人は“God Save the King”(イタリア語だと、アリアのように聞こえます)。フランス人は「すてきなガブリエル」(アンリ4世の愛妾、ガブリエル・デストレ)。宿の女将はヨーデル。スペインの大公は、フランス軍を率い、スペインを平定したアングレーム公を歌の中で讃えます。最後にローマの女流詩人が、シャルル10世の賛歌を歌います。「最愛のカルロ(シャルル)、フランス人の喜びと愛よ、お幸せに!」と、ヨイショのしすぎが無きにしもあらず。そこへ全員が加わり、「フランス、フランス国王万歳!」で幕を閉じます。

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2005/1/1

コラム   【コンサート「黄金の間」】  

 

2004年12月5日、東京芸術大学のテシュネ助教授が、素晴らしいコンサートに招待して下さいました。チェンバロと2台のハープによる音楽、朗読、バレエで構成されたコンサートです。

始めはきらびやかで楽しげな、明るい音楽。憂いのない、平和な時代、ヴェルサイユ宮の黄金の間に響いたことでしょう。テシュネ氏のチェンバロ独奏による「マリー・アントワネットの音楽小箱」は、鷹羽氏が作曲。7曲から成るこの作品には、「セ・モナミ」の旋律も含まれていました。白いチェンバロには、紅色のバラなど、色とりどりの花が照明によって映し出され、独特の雰囲気を醸し出していました。

曲と曲の間には、女優の中山マリ氏がシャンタル・トマの「王妃に別れを告げて」を朗読しました。張りのある声で、臨場感がありました。革命が起こり、王妃の周辺はにわかに慌ただしくなります。宮廷人が一人、また一人と去っていき、暗雲がたちこめるにつれて、音楽も徐々に重くなっていきました。デュセックの「葬送行進曲」は初めて聴きましたが、なかなかの名曲で、心に残りました。チェンバロ&ハープ版の「妖精の踊り」(グルック)は、たとえようのない美しさでした。

バレエの市瀬氏は前半がパニエの青い衣装、後半は金と黒の衣装でした。

プログラムには、楽譜の表紙が載っていました。王妃に献呈されたグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」、ランバール公妃に献呈されたボールの「ハープのためのソナタ」です。

コンサートの後、皆に赤・白のワインや、お菓子がふるまわれました。

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2004/12/12

コラム   【フランス音楽の彩と翳】  

 

2004年11月12日に「フランス革命、その後─」の演奏会が、東京オペラシティで開かれました。演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。最初はメユール(1763-1817)の交響曲第1番。プログラムに「グルックに師事した」と書いてありました。グルックはマリー・アントワネットの音楽教師です。曲は4楽章から成り、最初のアレグロは沸き立つような、波が渦巻いているような感じでした。200年前の作曲とは思えないほどみずみずしくて、現在でも充分通じる音楽です。最終楽章はハイドンにもひけをとらないと思いました。このような作品が埋もれているのは実にもったいないことです。

真ん中の曲はボィエルデュー(1775-1834)のハープ協奏曲。青いドレス姿の吉野直子さんがハープを奏で、優雅な音色がぬくもりの感じられるホールに響き、ふだんとは違う世界にいるようでした。

最後の曲はグノー(1818-1893)の交響曲第1番。優雅で牧歌的で、よくまとまった曲でした。

プログラムには指揮者の矢崎彦太郎氏による「プログラム・ノート」があり、「ラ・マルセイエーズ」誕生の経緯、フランス革命の原因、経過、その後について記されていました。

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2004/11/3

コラム   【アントワネット世界初演の歌曲】  

 

2004年10月18日に銀座の王子ホールにおいて、唐澤まゆこさんのソプラノリサイタルが開かれました。フランス歌曲のほか、武満徹、オブラドルス(スペインの作曲家)の歌もありました。世界初公開となった、マリー・アントワネット作詞・作曲の歌は2曲あり、最初は「愛よ、私から遠ざかっておくれ」でした。長調の曲で、サビの部分もあり、情感が漂っていました。次の「愛よ、あなたは私達の不幸を生む」も長調でしたが、こちらは問いかけるような歌でした。歌詞からは、一途な激しい愛、ほろ苦い愛が読み取れて、王妃にも1人の女性としての、こまやかな、繊細な心があったのだなあと思いました。

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2004/9/4

コラム   【アントワネットの蒔絵コレクション】  

 

東京で8月まで開催された「世紀の祭典 万国博覧会の美術」で、アントワネットの蒔絵が3点展示されていました。ヴィジェ・ルブラン画の王妃の肖像画の下にありました。蒔絵瓜形香箱(メロン形と英語表記あり)、籠目栗鼠蒔絵六角香箱、蒔絵太鼓形香箱です。どれも黒に金があしらわれていました。六角香箱には文字通り、網目の上にリスが描かれ(私の眼には貂に見えました)、箱の中にはサクランボのような丸い玉の蒔絵が7個入っていました。絵葉書は六角のみ、売られていました。この展覧会は大阪が10月5日〜11月28日、名古屋が2005年1月5日〜3月6日に開かれる予定です。

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2004/8/1

コラム   【王太子ルイの肖像画とアントワネットの講演会】  

 

東京、両国の江戸東京博物館で現在開催中の「エルミタージュ美術館展」を初日に観に行きました。エカテリーナ2世のお皿や容器などの陶磁器セット(ウェッジウッド製)、大サファイヤとダイヤモンドをちりばめた嗅ぎ煙草入れ、宝飾時計などが展示されています。

絵画の部門では、王位に就かず亡くなった、王太子ルイ(ルイ16世の父親)の肖像画がありました。10歳の時に描かれた絵で、画家はフランス人のルイ・トッケ。くりっとした眼が特徴の端正な顔立ちをした少年で、優しい雰囲気が漂っています。謹厳で地味な存在で、家庭生活を大事にしたと伝えられているので、ルイ16世はこの父親の血を強く引いているのでしょう。

この展覧会の日程は、東京が10月17まで、福岡が10月26日〜12月8日、広島が12月17日〜2005年1月30日となっています。


それから7月に読者の方から教えて頂いた、「マリー・アントワネットの首飾りと美術館の誕生」という講演会を聴講しました。講師の先生の「魂(心)を震わせるものが大事」という言葉が印象に残りました。まず最初に美しいと思わなければ、作品は生まれないし、作品がなければ展示はできないからです。あと革命中に多くの貴族が亡命したので、持ち運び可能な小さくて価値のある物、つまり宝飾類は、その多くがイギリスに流出してしまったそうです。講演の合間に、「本日のお菓子」として、クグロフとブランデー入りの紅茶が出されました。

講演会場となった銀座のメゾン・デ・ミュゼ・ド・フランス(松坂屋デパートの近く)の2階には、マリー・アントワネットの食器セットのレプリカが販売中です。真珠と王妃の好きな矢車菊があしらわれた蓋付きクリームポットやお皿などです。他にはMAの頭文字を組み合わせた金色のブローチや、二連の真珠の首飾りとブレスレット(模造品)があります。地下1階には美術専門書や資料が揃っていて、効率よく回るヴェルサイユ宮案内本もありました。

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2004/7/2

コラム   【アントワネット伝のテレビ番組】  

 

気づかれた方もいらっしゃると思いますが、6月18日(金)のテレビ東京「所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物伝」で、インタビューに答えていたのは私です。この番組は「国内外の歴史に名を残した偉人たちの教科書には載らないエピソードに焦点をあて、その人物の実像に迫る」内容です。

今回のアントワネット特集は映像を交じえ、彼女の生涯を簡潔にまとめた後、「トホホな話」をおもしろおかしく紹介していました。初めて知ったのは、アントワネットの血液型がO型だったこと、それから当時の貴婦人が広がったスカートの中に、ポプリのようなにおい袋をぶら下げていたことです。

ところでテレビ番組製作と翻訳は、分野が全く違うように思えますが、何もないところから何かを生み出すという共通点があります。小さな箇所がまとまって、形になっていく過程もまた、おもしろいものがあります。本もテレビ番組も、出来上がるまで、陰で大勢の人の手がかかっています。

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2004/6/6

コラム   【オーケストラ版「セ・モナミ」を聴く】  

 

2004年6月2日に東京の浜離宮朝日ホールにおいて、フランス・オーヴェルニュ管弦楽団によるコンサートが開かれました。質の高い演奏を充分に堪能できました。

最初はビゼー=サラサーテの「カルメン幻想曲」。「恋は野の鳥」、カルメンがなびかない伍長のホセを誘惑する「セギディーリャ」、踊りに我を忘れる「ジプシーの歌」が、ヴァイオリンのまさに歌うような音色によって、奏でられました。特に最終楽章では、ヴァイオリンと管弦楽が渾然一体となり、言葉では表現できない音楽の世界をつくっていました。

次はショスタコーヴィッチの「ピアノ協奏曲第1番」。現代の出口の見えない不透明な不安感が漂う中、ふっとおどけたような明るさも入る曲。まだ若いピアニストのサール嬢は取り憑かれたように、真剣に弾いていました。没我の境地に達していたと思います。鍵盤の上を指が自由自在に走り、たおやかな外見からは想像もつかない、男性的な響きが圧巻でした。

それからソプラノ歌手の唐澤まゆこさんにより、カントルーブの「オーヴェルニュの歌」が5曲歌われました。表現力が豊かでした。この後、日本初演のオーケストラ版「セ・モナミ」が演奏されました。オーケストラの伴奏はピアノに比べると重厚で、立体的でした。春の妖精のような衣装に身を包んだ唐澤さんがのびのびと歌っているところを、作曲者のアントワネットにも見てもらいたかったです。ドリーブの「カディスの娘たち」はリズミカルで、こちらも思わず踊り出したくなるような歌でした。

最後はチャイコフスキーの名曲「弦楽セレナード」ハ長調でした。今はステレオで音をきれいに再生できるとはいえ、やはり生の演奏にはかないません。オーヴェルニュ管弦楽団は引き締まった音と絶妙のアンサンブルで、演奏終了後は拍手が鳴りやまず、アンコール曲が披露されました。

今回も唐澤さんと直接お話できる機会に恵まれ、嬉しかったです。なお「セ・モナミ」、唐澤まゆこさんにつきましては、
「Antoinette's Music Box」をご覧下さい。

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2004/5/2

コラム   【アントワネットの切りぬき人形】  

 

 今から10年ほど前、ヴェルサイユ宮殿美術館で、約750円で買いました。30×40pの厚紙に、21名の人物がカラー印刷され、切りぬいて立てられるようになっています。背景にはトリアノンの村落、帆船、城、気球(モンゴルフィエの?)などが描かれています。

 上段の真ん中には、赤と黄色の宮廷衣装に身を包んだルイ16世、それから羽根飾りのついた帽子と真珠の首飾り、淡い青のドレスを着用したアントワネットがいます(顔は似ていません!)。すぐ隣には、柄がローラ・アシュレイのような、かわいいピンクのドレス姿のマダム・ロワイヤル(アントワネットの娘)と、クリーム色の服に肩からバラのリースをかけ、おもちゃの木馬を連れている、幼いルイ17世がいます。

 そのすぐ下の段には、なぜか首飾り事件に関与したロアン枢機卿、お隣は花を飾ったそびえ立つ髪型のランバール公妃。おしゃれにおいては親友のアントワネットに負けず、オリーブ・グリーンのドレスで、胸には縞模様のリボンがついています。

 その他の人物はフランス衛兵、スイス衛兵、財務総監のネッケルとテュルゴー、ラ・ファイエット、アメリカ独立戦争で活躍したロシャンボー将軍。また啓蒙主義の時代だからでしょうか、モンゴルフィエ兄弟、化学者ラヴォアジエ(ギロチンで処刑)、探検家のラ・ペルーズもいます。

 裏には仏語、英語、独語、西語、アラビア語、日本語(!)で、「切りぬいて、図のように折って立てましょう」と説明があります。人物の裏には仏語で生没年と略歴が書かれています。

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2004/3/6

コラム   【リディキュール】  

 

 映画「リディキュール」の看板は、パリを旅行中、市内のあちこちで見かけました。これは1995年にパトリス・ルコントが監督したフランス映画です。「リディキュール」とは、フランス語で「滑稽な人」を意味します。

 地方の沼地で風土病に斃れる領民が多いことに心を痛めた主人公、ポンスリュドンは、状況改善のため、水路や運河の造成を国王ルイ16世に直訴しようと、ヴェルサイユに乗り込みます。しかし彼を待っていたのは、陳情に聞く耳もたぬ役人という厳しい現実。役人たちもフランスの財政が傾いているので、余計な出費はしたくないのです。

 宮廷人に田舎者と馬鹿にされたり、ヴェルサイユの近くでは追いはぎに追われたりして、散々のポンスリュドンでしたが、彼の機知に魅了された貴族に認められ、宮廷の作法や流儀を仕込まれます。例えば、自分の言葉遊びに笑ってはいけないとか、白い歯を見せてはいけないとか。当時宮廷ではエスプリ、当意即妙の受け答えが重宝されていました。ひらめきを楽しむマリー・アントワネットも、なぜか「キラキラ星」の曲を背景に登場します。薄い青のドレス姿、そでには幾重ものレース。ふくよかな顔で髪は栗色でした。頭には真珠を飾っていましたが、私には髪が爆発してふくらんでいるように見えました。

 ポンスリュドンは回転の速い頭を武器にして、ルイ16世に一言かけられるまでに進歩します。故郷では美少女マチルドに心を寄せています。彼女は自らヘルメットと潜水服を装着し、井戸でどのくらい潜水できるか実験する科学者です。しかしポンスリュドンは住民の劣悪な環境を改善するため、宮廷で幅をきかせている伯爵夫人に接近します。そのお陰でポンスリュドンはとうとうルイ16世に直訴できたのですが、うっかり失言して、ある貴族の名誉を傷つけ、ピストルで決闘する羽目になります。

 幸い、命拾いしたポンスリュドンは伯爵夫人を捨て、ひそかにずっと恋い慕っていたマチルドと一緒になります。彼女は金のために貴族と婚約していましたが、恋のためにそれを破棄してしまったのです。当然、おもしろくないのは伯爵夫人。ある日、宮廷舞踏会で策を用い、一緒に踊っていたポンスリュドンを転ばせます。これを最後に宮廷を去るポンスリュドン。その後、土木技師となった彼は、革命中も領民のために尽力したそうです。

 さて、奇妙な偶然で、マチルドを演ずるのは、映画「ボーマルシェ」でマリー・アントワネットを演じたジュディット・ゴッドレーシュ。また陰謀好きな伯爵夫人をファニー・アルダンが演じています。アルダンは2003年に日本で公開された、ゼフィレッリ監督の「永遠のマリア・カラス」で主人公を熱演した、演技力も知性もある女優です。そしてマリア・カラスといえば、歌劇「アンドレア・シェニエ」でマッダレーナをスカラ座で歌ったCDがあります。(相手役のシェニエは「オテロ」歌いで有名な、マリオ・デル・モナコ)

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2004/2/10

コラム   【アントワネットとクグロフ】  

 

 街でアントワネットが好きだった「クグロフ」を見つけると、よく買っていましたが、昨年ついに美味しいクグロフに巡り会えました。そのお店の許可を得ましたので、クグロフの説明文を引用致します。(なお、お店の要望により、店名は控えさせて頂きます)

 「アルザス地方の郷土菓子『クグロフ』は、18世紀にマリー・アントワネットによりオーストリアからフランスに伝えられたというエピソードを持つ、王冠の形をした焼き菓子です。このお菓子はブリオッシュ生地で作られるのが特徴で、かつてはアルザス特産であるビールの酵母を使って生地を発酵させたといわれています。」

 このお店のクグロフは一目見てすぐ買いたくなりました。まん中をくり抜いた富士山に、雪ならぬチョコレートがかかっている姿なのです。食したところ、中はアレンジされていて、レーズンとオレンジピールが入っていました。卵とバターを使っているので、生地は黄金色、お菓子といっても甘すぎず、パンのようでした。かかっているチョコレートと絶妙に味が合い、いくらでも食べられました。実際、一個ごろんと買ったのに、翌日にはもう食べ終えてしまいました。着色料や保存料が使われていないのも、美味しさの秘密でしょう。アントワネットは食しながら、故郷のウィーンを思い出していたのでしょうか?

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2004/1/4

コラム   【ボーマルシェ】  

 

 1996年製作のフランス映画、「ボーマルシェ−フィガロの誕生」には、ジュディット・ゴドレーシュ扮する、かわいらしいマリー・アントワネットが出てきました。ルイ16世役の俳優は堂々としていかめしく、貫禄があって、実在の人の好い、やや臆病な国王と少しイメージが違いました。

 この映画はエスプリの効いた台詞あふれる、典型的なフランス映画です。時代衣装も完璧で、18世紀の雰囲気を醸し出していました。時計師のボーマルシェは芝居を書くかたわら、貴族の称号を金で買い、裁判官になったり、ルイ15世やルイ16世のスパイになったり、アメリカ独立戦争では武器・弾薬を輸送したりと、大活躍します。警察大臣サルティーヌ、性別不明の騎士デオン、堕落した判事ゴエスマン、アメリカ大使フランクリンなど、「マリー・アントワネット」(ハスリップ)にも顔を出しているおなじみの人物は、興味をもって画面を観ました。

 革命前はこんな感じだったのかなあと印象に残った場面があります。それは「フィガロの結婚」上演当日、群集で埋まったリュクサンブール劇場の前で、到着した馬車から降りたルイ16世の弟、プロヴァンス伯が大勢の人々から喝采を浴びているところでした。まるで歓声を送られたアイドルのようでした。映画は山と谷が普通の人の何倍もあるボーマルシェの人生をテンポよくたどった後、しのび寄る革命を予感させながら幕を閉じました。

 何年か前に上映された時、映画館のロビーには、実際に映画で使われた簡素な女性の衣装が展示してありました。

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2003/12/3

コラム   【アンドレア・シェニエ】  

 

 フランス革命のパリを舞台にした歌劇、「アンドレア・シェニエ」(ジョルダーノ作曲)を観ました。シェニエは実在の詩人(1762-1794)、伯爵令嬢のマッダレーナは架空の人物で、二人を軸に話が進んでいきます。第一幕は伯爵家のパーティー。今宵を楽しく過ごしましょう!という、うきうきするような音楽。ささやくような牧歌劇の音楽。マッダレーナは最初、シェニエをからかいますが、彼が真剣に愛について歌うと、非を詫びます。城の中の華やかな雰囲気とはうって変わって、外では革命の足音が聞こえます。

 第二幕ではギロチン台へ向かう死刑囚護送車が通る時、革命歌の「サ・イラ」が勢いよく演奏されます。落ちぶれたマッダレーナはシェニエにこっそり会い、「すがれる者はあなたしかいない」と言って、二人で愛を誓います。

 第三幕は革命裁判所。女たちが祖国のために寄付をする中、盲目の老婆が孫息子を国家のために捧げるところは感動的です。一方、シェニエの恋敵ジェラールは、告発状にシェニエの名前を迷った末に書き入れ、マッダレーナに迫ります。マッダレーナは革命で天涯孤独となり、落ちぶれてしまった身の上を切々と歌いあげます。そしてシェニエの命を助けるために、体を与えると申し出ますが、ジェラールは心打たれ、今度は一転してシェニエを救おうとします。やがて裁判が始まりますが、ここで現れるのが、フーキエ・タンヴィル。マリー・アントワネットの裁判で検事を務めた人物です。ジェラールは骨折りますが、結局シェニエには死刑が宣告されます。マッダレーナは泣きくずれてしまいます。

 第四幕はサン・ラザール監獄。囚われのシェニエは「五月の美しいある日のように」を歌います。このアリアは心にじーんときます。この後、革命党員が歌う「ラ・マルセイエーズ」が聞けます。そしてそこへマッダレーナが現れて…  最後は意外な結末を迎えます。

 興味深いのは、全編を通して、実在の人物の名前が台詞で出てくることです。国王(ルイ16世)、ネッケル、ロベスピエール、外務大臣のヴェルジェンヌ、デュムーリエ、コーブルク、ピットなど、実際耳にすると、活字を見るのとは、また違った趣があります。

 この「アンドレア・シェニエ」はめったに上演されない歌劇です。(CDはいろいろ出ています)。当日、会場は満席で、補助席にも座りきれない人たちは、立見でした。歌手の熱唱が終わるたびに、拍手喝采が起こりました。女性のドレスは赤系統でまとめてあり、伯爵夫人は裾の広がった紫色のドレス、髪にはティアラで、女王のようでした。

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2003/11/2

コラム   【ヴェルサイユの舞踏会】  

 

 「ヴェルサイユの舞踏会」というコンサートへ行きました。ルイ14世時代のバレエと歌を鑑賞できました。出演者はソプラノ歌手のスージー・ル・ブラン、器楽アンサンブル「アンサンブル・リチャード・ブースビー」、「アナ・イエペス・ダンス・カンパニー」でした。

 第一部は最初にリュリ(1632-1687)の歌劇「アルミード」の序曲が演奏されました。それから時代衣装に身をつつんだダンサーが登場。女性は赤と青のドレスで、白のたっぷりした袖がついていました。男性は波うつ長い髪(仮髪)、衿にはレースのひだ飾りという、典型的なバロック・スタイル。絵から抜け出てきたようでした。バレエは軽やかでしなやか、指先まで神経が行き届いていて、まるで蝶が舞っているように見え、優美な動きでした。バレエの合間には歌が入りました。中でも良かったのは、カミュ作曲「あなたの冷たい仕打ちに」でした。切々と訴えるような歌曲です。

 第二部はモリエール/リュリによる「町人貴族」からの抜粋でした。歌と踊りが交互に繰り返されました。衣装が変わり、女性は鮮やかな紫とオレンジ。途中、アルルカンの姿になった男性二人は、一人の女性をめぐって争う様子を、パントマイムで演じました。これは特に見ていておもしろかったです。最後の「スペイン人たち」では、カスタネットも鳴り響いて、にぎやかに幕が閉じられました。

 バロック音楽を聴いて、「音楽にはその時代の音がある」という、音楽の先生の言葉を思い出しました。まさにその通りだと思いました。それからアナ・イエペスさんの踊りは躍動感があって、素晴らしかったです。小柄な身体から、踊りが好きでたまらないという気持ちが伝わってきました。それにしても、当時の廷臣は踊りも上手くなければならず、苦手な人は大変だったでしょうね。

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2003/10/5

コラム   【最近見たアントワネット関連の展覧会】  

 

 まず7月に「ヨーロッパ・ジュエリーの400年 ルネサンスからアール・デコまで」を見ました。アントワネット自身の宝飾類はありませんでしたが、オルレアン家のものはありました。肖像がついた金のブレスレットです。一つは軍服姿のフランス国王ルイ・フィリップ、もう一つはその妃マリー・アメリーでした。ルイ・フィリップの父親は、ルイ16世の死刑に賛成投票したフィリップ・エガリテ。マリー・アメリーはマリア・カロリーネ(アントワネットの姉)の娘です。この展覧会では、様々な時代、様々な国の宝石が展示されていて、思わず溜息が出てしまいました。どれも装身具というより、精巧に造られた芸術品です。

 次に「ロマノフ王朝展」。私が目を留めたのは、三枚の肖像画。革命中、アントワネットとルイに冷淡な態度をとった、女帝エカテリーナ2世、トリアノンでアントワネットからもてなされた、パーヴェル1世とその妻、マリア・フョードロヴナです。

 最後に今年の10月19日まで開催される、「バラの宮廷画家 ルドゥーテ展」。ルドゥーテは1789年にマリー・アントワネットの蒐集品室画家に任命され、優れた植物画を数多く残しています。またルイ16世が庇護した探検家、ラ・ペルーズの本にも絵を残しています。たくさんのバラの絵は、左下にラテン語、右下にフランス語で名称が書かれていました。「オルレアン公爵夫人」や、「フランス王家の子女」という名のバラもありました。また棘のないバラ、それから「千本の棘」という、ハリセンボンみたいな棘だらけのバラの絵もありました。

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2003/8/26

コラム   【海外旅行の注意点《イタリア編》】  

 

●混雑したバスや電車の中ではスリに注意! 体を密着させなくても、上手に仕事をやり遂げるその道のプロもいます。現地の人からも「バッグに気をつけるのよ!」と注意されました。

●最近、駅では券売機が増えたとはいえ、調子の悪いのも多く、ローマのテルミニ駅では5台目にしてやっと切符が入手できました。紙幣が使用できるはずなのに、受けつけなかったのです。人のいる窓口に行けば確実に買えますが、テルミニ駅はいつも混んでいます。

●行き先を紙に書いて窓口で見せたのに、間違った切符を買わされたことがあります。その場で確認が必要。

●切符は乗車駅で日時を自分で刻印しなければなりません。押さないと検札の時に罰金を取られます。でも駆け込み乗車で押し忘れた時、理由を話したら大丈夫でした。あと機械に切符が巻き込まれて欠けてしまった時も、夫の切符は無事だったので、納得してもらえました。

●ミラノ、ナポリなどの大都市間の移動は比較的うまくいきますが、小さい駅の場合は時間通りにいかないこともあります。悪天候で1時間以上遅れたり、待たされたあげく、プラットホームが変更になりましたと車内アナウンスが入って、大急ぎで移動したことも。

●冷房のない電車もあり、窓から入る風で髪が乱れました。

●少しでもイタリア語がわかると助かります。バス停で待っていたら、近くのバールの人が、バス停は臨時に他へ移転したよと教えてくれました。後ろの壁には「バス停○○へ移転」とA4サイズの紙が貼ってありました。この親切な人がいなかったら、気づかずにずっと待っていたことでしょう。またホテルで教わった郵便局へ行ったら、工事中で何もなかったことが。窓ガラスに「○○に仮設郵便局あり」と貼り紙がしてあったので、近くの人に訊いてたどりつけました。それから営業時間はガイドブックと異なりました。やはり現地の人に訊くのが一番確実です。

●地方では日曜日にバスの運行がない所もあります。

●ヴェスヴィオ山へ向かうバスがなんと途中で故障。半時間後に来た代行バスに乗り換えて再出発。

●山間部の天気は変わりやすく、朝でも昼でも急にどしゃぶりの雨が降ってくる可能性もあります。

●ポンペイの遺跡では砂埃に見舞われました。夏は強い日射しも加わるので、コンタクト・レンズの人は目薬を持参した方がいいと思います。

●冬にシチリア島で、エオリア諸島まで行こうとしたら、波が高くて水中翼船は欠航。唯一動いているフェリーを半日待ちました。

●ソレントからイスキア島への船の切符が満員で、直前で売り切れてしまいました。早めに買いに行くべきでした。(その時はナポリ経由で行きました)

●季節はずれのリパリ島では半分以上のホテルが閉まっていました。ようやく見つけたホテルは英語が通じない上、夜は寒くて眠れず、現地の言葉をもっと勉強しておくべきだったと痛感。

●リパリ島では人間に危害を加えない、おとなしい野良犬をあちこちで見かけました。でも港でシェパードがうろうろしていたのにはびっくり。犬が苦手な人にはちょっと怖い所かも。

●季節はずれのシチリア島の山間部。ガイドブックにも載っている、まあまあのホテルに泊まりましたが、シャワーからは錆びた、赤茶けたお湯が出てきました。

●シチリア島のレストランはどこもオリーブ油たっぷり。ミネストローネにもたっぷり入っていました。

●シーズン中にホテルを予約せずにカプリ島へ行った時、どこも満室でした。今日は野宿かと思っていたら、運よくペンションが見つかりました。

●年齢を問わず、スピードを出すタクシーの運転手もいます。いろは坂のようなくねくねの坂道を走っていた時は、「もう少しゆっくり運転して下さい」と喉まで出かかりました。また夜中にローマの空港から市内へ向かう時、車窓の風景がびゅんびゅん飛んでいくので、速度計をのぞいてみたら、時速170qも出ていました。ダイアナ妃の交通事故死から日が経ってなかったので、不安が頭をよぎりました。市内に近づくと、急に飛び出してきた歩行者をよけようと、車はキキーッと音をたて、大きく蛇行(ハリウッド映画?!)。生きた心地がしませんでした。

●某観光地へ行った時のこと。メイン・ストリートはあまりにも俗化されていて、お店から「シンクウパックデキルヨー」の声が。

●南イタリアのシャワーは日本のプールのように固定式が多く、使いにくいです。

●「風呂付き」といってもシャワーしかない場合があるので、「Con Vasca」(浴槽付き)とはっきり伝えた方がいいです。

●デパートなど一部を除き、午後1〜3時まで店は一斉に昼休みとなります。到着時刻が遅れたりすると、食事に困ります。あらかじめパンなど買っておけば安心です。

●銀行では強盗防止のため、大きなバッグ、金属製品は備え付けのロッカーに預け、1人ずつ金属探知器のボックスに入り、安全ランプがつかないと中へ入れません。時間がかかります。

 いろいろ書きましたが、イタリアで数え切れないほど口にした言葉が「Grazie」(ありがとう)。それくらい大勢の人たちに助けて頂きました。大船から小舟に乗り換える時、足を挟まれそうになり、「大丈夫か?」と心から心配して訊いてくれた海の男たち。レストランで注文していないのに、「いいから食べてって!」と美味しい料理を出してくれたおじさん。どしゃぶりの雨の中、ホテルからバス停まで車で送ってくれた方。顔全体がにこやかで、本当に感じのいいホテルのフロントのおじさん。その他ここでは書ききれない人たちにも改めてお礼を言いたいです。

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2003/8/26

コラム   【イタリアおもしろ話】  

 

 今年の夏でとうとうイタリアが旅行回数最多の国となりました。日本では起こりえないような事態にも遭遇しました。でも好きです、イタリア、奥が深くて。

★入国審査で。日本人の団体と見るや、係員はパスポートを見るどころか手で通れ!通れ!と合図します。ゲートを通る際、個室を見たら、顔も上げずに熱心にクロスワード・パズルを解いているお兄さんの姿が!

★これも入国審査で。パスポートを開いてじっと眺めていた男性係員がいきなり顔を上げて一言。「コンバンワー!!」。ヴァラエティー番組の司会かと思いました。

★ガイドブックにも載っていない街へ行った時のこと。旧市街を歩いていたら、日本人の友達がいるというおじいさんに「我が家へどうぞ」と声をかけられました。狭い階段を上って部屋へ入った途端、夫と共に息を呑みました。見事な絵画、家族の写真、調度品、クリスタルグラスなどが所狭しと並び、映画のセットのようなのです。他にも客室、寝室、奥様のお部屋があって見せてもらえました。奥様にはリモンチェッロ(レモンのリキュール)と焼菓子をごちそうになりました。夕方、眼下に素晴らしい景色が広がる高台で、またおしゃべりしました。なんでも奥様は違う街の出身でしたが、ここからの眺めを一目で気に入り、この街に住む決心をしたそうです。日本に帰ってからお礼状を出しました。

★服装検査のあるヴァチカンの入口で、夫が西洋人の若い女性に「Hey!」と呼び止められました。ミニスカートで寺院の中に入れないので、履いているジーンズをちょっとの間、貸してほしいとのこと。でも貸している間、夫はどんな格好で待っていればいいのか?まさかそのお姉さんのミニスカートを履いたまま、カトリック総本山の前で立っているわけにはいきません。残念ですが、と夫は断っていました。

★イタリアの国鉄のプラットホームは低いので、地下の階段を使うのが面倒な人はそのまま線路を降り、横断しています。もちろんいけないことなので、「横断禁止」とどの駅にも看板があります。でもその看板の前で堂々と横断している駅員を見ました。

★南イタリアの夏は暑いので、ナポリなどの駅には涼を求めて野良犬がやって来ます。ホームを歩いている犬も見たことがあります。でも係員も利用者も全く意に介していませんでした。

★携帯電話が普及しつつあるイタリア。でもマナーは日本の方がいいです。電車内や店内で話している人もいます。でも怖かったのは、携帯で話しながら片手運転で急な坂道を下っていったバスの運転手です。

★店先でサンダルを脱いだまま眠りこけている店番のおじさんがいました。

★ローマの空港で。女性用トイレに中年男性が入ってきました。私の姿を見て眼を丸くしたその人はすぐ間違いに気づき、急いで出ていきました。

★少しお腹がすいた時にちょうどよい食事が、ツーリスト・メニューの「ベジタリアン向け定食」。サラダ、モツァレラ・チーズ、ミネストローネ(野菜スープ)とほどほどの量でした。

★イスキア城の見学に行った時、エレベーターが止まっていたので、ぐるぐると長い階段を上りました。帰る時になって動いていました。

★信号無視はよく見る光景とはいえ、車の流れに飛び込むように悠然と渡っているおばあさんにはビックリ。

★ローマでバッグを買った時、店員さんが大きな紙袋に入れ、口のところをイタリア国旗の三色リボンで結んでくれました。

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2003/7/27

コラム   【ナポリの王宮 ─ パラッツォ・レアーレ】  

 

 アントワネットは3歳年上の姉マリア・カロリーネと一番仲良しでした。そのカロリーネはナポリ王妃となり、王宮にも住んでいました。

 思わず息を飲むような大階段を上がると、まず宮廷劇場があります。贅を尽くしたつくりで、座席は落ち着いた深紅。壁には何体もの見事な彫刻があり、天井には美しい絵が描かれています。

 マリア・クリスティーナの祈祷室からは屋上庭園に出られます。テラスには花壇があって、鮮やかなピンク色のブーゲンヴィリアが咲いていました。またナポリの海や町並が見晴らせて、「ナポリを見て死ね」とはこのことだったのかと妙に納得。

 王の書斎にはアントワネットの元黒檀細工職人ヴァイスヴァイラーが制作した書物机が展示してありました。部屋にあった説明書によると、最初はナポレオンがローマのクイリナーレ宮に置くつもりだったそうですが、妹のカロリーヌ(アントワネットの姉カロリーネとは別人)に譲ったそうです。

 ヘラクレスの間はフローリングで、だだっ広い大広間。天井からは大きなシャンデリアがぶらさがっていて、舞踏室として使われたそうです。

 衛兵の間には部屋の隅にテーブルがあり、カロリーネの胸像が置いてありました。頭にレースのヴェールをかけていて、ふつうのおばさんにしか見えませんでした。


外から見た王宮 《外から見た王宮》  テラスから見た景色 《テラスから見た景色》

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2003/7/27

コラム   【フェルセンの登った山に登る】  

 

 スウェーデン国王の副官として、フェルセンはイタリア旅行に随伴しました。その時、ナポリ湾に面したヴェスヴィオ火山に登っています。この火山はA.D.79年8月24日に大噴火し、ポンペイやエルコラーノは埋没してしまいました。休火山なので、遠い将来、また噴火する可能性もあるそうです。

 噴火口へは途中の駐車場までバスが出ています。私鉄エルコラーノ駅で降りましたが、バス停がないのでインフォメーションで訊ねたら、「ペトロ・ステーション」と指を差します。ガソリンスタンドのことでした。見ると観光客が10人ほど待っていました。バスは急なカーブを何度も曲がりながら、標高1000メートルに位置する駐車場に到着。ここでガイドが火山を説明し、帰りの集合時刻を知らせた後、いよいよ山登りです。

 かんかん照りの中、急勾配の砂利道を約20分かけて登りました。かなりきつかったです。まん中の踏み固められた所を歩いた方が少し楽だと思いました。(でも中には子供や年配の方もいました)。息が切れるほどなので、皆黙々と歩いていました。日本人が珍しいのか、夫と私の姿を見て、「Giapponesi!」(日本人!)とささやく人もいました。

 やっと噴火口に到着。入場券を買い求める入口では、「アツイネー!」と日本語で声をかけるおじさんに大笑い。

 火口は深さ200m、直径600mで、赤茶けた巨大な蟻地獄のよう。実際、目にしてみると、とにかく大きい。火口側には柵がしてありますが、もう片方は柵のない所もあり、もし落ちたらそのままあの世行きなので怖かったです。日本だったら絶対柵が設けられ、「危険」と書かれた看板があちこちに立つのになあと思いました。自分の身は自分で守りなさいという、自己責任の社会なのでしょう。でも火口から地上の眺めは素晴らしく、ナポリ湾やカプリ島が見晴らせました。ガイドのおじいさんのお話によると、以前はリフトがあったそうですが、1944年の噴火の後、閉鎖され、その後は環境団体の反対に遭って再開されていないそうです。

 火口の小さな土産物屋では、溶岩で作った黒い置物(骸骨や小さな像)が売られていました。ジュースを飲む人、記念写真を撮る人など様々でした。

 帰りのバスの中で、隣に座っていた人と少しおしゃべりしました。きれいな英語なので、てっきりイギリス人かと思っていたら、オランダ人でした。私が驚いていたら、「オランダでは学校で習うからね」とのお返事でした。

 写真は夫が撮影。

 《火口》

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2003/5/25

コラム   【映画「アマデウス」】  

 

 この映画は約20年前に公開されました。今回は「Director's cut」という、未公開の場面を含む版を観てきました。映画館で観るべき部類に入ると思いました。ちらっと映る大広間での舞踏会や、ヨーロッパの古い城館の内部は大画面が向いています。またモーツァルトの傑作の数々を大音響で聴くことができます。

 映画「アマデウス」とアントワネットにそもそも何の関係が?と思われる人は一度観てみて下さい。アントワネット本人は出てきませんが、彼女が一番親しくしていた兄のヨーゼフが出てきて、アントワネットの名は2回口にしています。映画のヨーゼフは肖像画から抜け出してきたようなそっくりさんで、余裕のある貴族らしい立居振舞も一層の魅力を添えています。後ろの髪には青いリボンがついていました。

 主要な登場人物は2人。天才モーツァルトに対して凡才サリエリは、なんとかして相手を越えたいと執念を燃やします。でもそこそこの音楽しか生み出せないサリエリは、どうあがいても天才にはなれないことを悟ってしまいます。世間から見れば、宮廷でそれなりの地位に就き、生活苦にあえいでいるモーツァルトよりも恵まれています。でも才能だけは手に入らない。世間は理解しないモーツァルトの音楽の素晴らしさに彼が気づいてしまったのは皮肉です。終わりの方では、瀕死のモーツァルトが絶筆となった「レクイエム」をサリエリに口述筆記させる場面があります。2人とも真剣そのもので、鬼気迫るものがあります。女が入り込めない男の世界です。この時、サリエリはどんな気持ちでいたのか。羨望、憎悪の念の他に、もしかしたら相手に対する好意も少し含まれていたかもしれません。

 それにしても、もっと早くこの版を観たかったです。これまでカットされていた場面を観て、初めて納得できた箇所があったからです。いつもにこにこしているモーツァルトの妻コンスタンツェが、病に倒れたモーツァルトを自宅まで送り届けてくれたサリエリに冷たくふるまった理由がわかりました。

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2003/4/27

コラム   【マリー・アントワネットの歌を聴く】  

 

 4月21日に唐澤まゆこさんのソプラノ・リサイタルを聴きに行ってまいりました。赤坂のサントリーホールで行われたコンサートは、終始なごやかな雰囲気に包まれていました。

 第1部はモンテヴェルディ、スカルラッティ、ラモーなど、イタリア・フランスのバロック音楽で、唐澤さんは淡いピンクのドレス姿、真珠の首飾りもとてもお似合いでした。第2部はクリーム色のゆったりとした衣装でご登場。最初の曲はお待ちかね、マリー・アントワネット作曲「私の友よ」でした。唐澤さんご自身から曲についてのご説明がありました。膨大な文献の中からアントワネットの曲を探し出す作業はさぞかし大変だったと思います。この曲は素朴な愛らしい歌曲で、歌詞は4番まであり、フランス語の優雅でやわらかな響きが聴く者を幸せな気分にしてくれます。

 次に歌われたのはアントワネット作詞、トラヴァネ作曲の「貧しきジャック」でした。これも耳に心地よい長調の曲で、のどかな、憂いのない、牧歌的な歌曲でした。この後ラヴェル、ドリーブなどが続きました。ふだん生ではなかなか聴く機会のない歌曲を充分楽しめました。伴奏はケネス・ヴァイスさんで、第1部がチェンバロ、第2部がベーゼンドルファーのピアノでした。歌の合間に独奏も入り、器楽の魅力を引き出していました。

 アンコールは「かごかき」など日本の歌、ロッシーニの曲など4曲ありました。演奏会終了後は唐澤さんとお会いすることができました。気さくで魅力的な美しい方でした。

 アントワネットを通じて様々な方と知り合え、歴史、音楽なども学べて、今でもアントワネットは人々の心の中に生きているんだなあと改めて思いました。同時代の人々に罵倒されながら最期を迎えた彼女の死は、無駄ではなかったのです。それどころか肉体は滅んでしまっても、高貴な精神は永遠に生き続けているのです。マリー・アントワネットは不思議な宿命を帯びていたのでしょう。 

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2003/4/6

コラム   【「マリー・アントワネット」を読んで改めて思うこと】  

 

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2003/3/12

コラム   【「ヴェルサイユ展」の感想】  

 

 運良く招待券を頂けたので、先月観に行きました。平日なのに大勢の人でにぎわっていました。しばらく待たないと、お目当ての展示品がじっくり観られませんでした。ルイ14世からルイ16世までの時代がテーマで、王室ゆかりのものが展示されていました。

 これは凄い!と思ったのは、壁いっぱいに掛けられた、約2m四方の大きなレース編みの掛け布でした。王冠や紋章が編み込まれ、編み上がるまでに膨大な時間と労力を要したと思います。さらに大きいタピスリーの壁掛けは、下から見ることも、階段を半分上がった所からも見られ、展示の仕方のうまさに感心しました。

 ルイ16世の弟アルトワと妹クロティルドの幼少時の肖像画は初めて知りました。特にクロティルドは本を読んで想像していただけだったので、こんな顔をしていたんだと、思わずじっくり眺めてしまいました。大人になった彼女の絵も見てみたかったです。

 アントワネットの持ち物では、日本の漆器が興味深かったです。はるばる海を渡って、ヨーロッパの宮殿に飾られたとは、不思議な運命を持った品々です。アントワネットは日本がどこにあるか、はたして知っていたのでしょうか? 他にはバラや矢車菊を小さくあしらった、かわいいお皿もありました。デザインは古さを感じさせず、今の時代でも充分通じると思います。

 最後に売店で、百合の紋章入りのミニタオルや、アントワネットの絵がついたクリアファイルなど、結構買ってしまいました。でも品切れとなってしまった絵はがきもあり、残念でした。売り場は女性客で混み合い、さながらデパートのバーゲン会場のようでした。

 外へ出たら、同じ建物で開催されていた「盆栽展」は、入場制限を行うほどの盛況ぶり。帰りは途中、ご一緒した方に誘われ、近くのお寺で「牡丹展」を観賞しました。鮮やかなピンク、赤などの豪華な牡丹が被り藁の下できれいに咲き誇り、俳句も添えてありました。牡丹はアントワネットが手にしていた、ぼんぼりのようなバラみたいでした。休憩所では、今どき珍しい火鉢にあたりながら、お茶を飲みました。

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2003/2/13

コラム   【アントワネットの特徴】  

 

◆華のある女性であった

 この「華」とは先天的なもので、持っているかいないかハッキリしています。男性の持つ指導力と同じで、後から勉強して得られる類のものではありません。平和な時代の彼女は物怖じせず、いつも明るく楽しげで、おまけに茶目っ気もありましたから、自然と周囲に人が集まったのでしょう(もちろん見返りを求めて近づいた宮廷人も多かったでしょうが)。気取りやわざとらしさがないところも人を惹きつけています。

◆自尊心が強い

 ここで言う自尊心とは自惚れではなく、自分の尊厳を大切にする心です。最期まで品位を保った彼女に敵の一人も賛辞を送っているほどです。自分を大事にすることを知っていたからこそ、他人をいじめたりしなかったのでしょう。丁寧な扱いを受けたという召使いの証言も残っています。

◆生身の彼女に接して初めて伝わるものがあった

 たとえば表情、声音、雰囲気、起居振舞などです。同じことを言うのでも、言い方一つでずい分と印象が違ってきます。言葉がいくら丁寧で響きがよくても、心がこもっていないとそれは機械と同じです。敵愾心をむき出しにしていたおかみさんたちも、「会ってみたら案外いい奴だった」と井戸端会議で盛り上がっていたかも。

◆堅忍不抜の精神

 アントワネットは重大な危機に幾度かさらされても堪え忍んでいます。特に牢獄での最後の日々に恨みつらみ、泣きごとを口にしていません。死を前にして、もうそんなことを言う気力もなかったのかもしれませんが、しゃべりたくてうずうずしている女の性を考えると立派だなあと感心します。

◆着こなしの妙

 ごてごてした豪華な衣装も、質素な服も、両方似合っています。ロココ時代の裾がふわっと広がったリボン付きのドレスは女心をとらえます。私も小学生低学年の時、お絵かき帳にドレス姿のお姫さま(この頃はまだアントワネットの存在を知りませんでした)を描き、先生にはな丸をもらったことがあります。

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2003/1/22

コラム   【差別されたアントワネット】  

 

 マリー・アントワネットは二重の意味で差別に苦しみました。外国人、そして女性であったという、ただそれだけの理由で、たびたび中傷の的にされました。

 まず外国人差別。ご存じのように、アントワネットはオーストリア人です。お輿入れした時から彼女の敵はオーストリア人という色眼鏡で見ていました。少しでもフランス風でないと、ここぞとばかりにたたきました。異質なものを排除したかったのです。感受性の強いアントワネットは、まだ世間にもまれていない頃は心ない言葉にひどく傷ついたと思われます。規則づくめの息がつまるような生活に、ウィーンではもっと自由を謳歌できたのよと心の中でつぶやいていたかもしれません。後にフランスとオーストリアが戦火を交えるようになると、彼女に対する攻撃は激しさを増していきました。生まれ育った最愛の祖国を悪く言われて、心は千々に乱れたと思います。

 差別はなにも遠い国の昔の話ではありません。現在の日本にも通じます。私がこのように断言できるのは、今の日々の仕事でまだ差別が残っているのを実感できるからです。

 仕事上、様々な国の人たちと接してきましたが、単に「日本人でない」理由で、最初から拒絶される例を度々見てきました。原因をいろいろ考えてみましたが、過去にトラブルがあったという理由のほかに、相手のことをよく知らないというのが最大の理由だとわかってきました。偏見、先入観、思い込み等で外国人の受け入れに消極的な日本社会の負の面もあります。(日本人も外国へ行けば、立派な外国人です)

 国籍にとらわれることなく、一人の人間として向き合うと、相手の見えなかったところが見えてきたり、別の視点から今まで気づかなかったことがわかったりしておもしろいです。中には約束を守らない人もいて困ることもありますが、日本人でもいろいろな人がいますから、結局は個人の問題だと思います。

 日本は国際化と声高に叫ばれているわりには、まだまだ閉鎖的です。外国語を話せることが国際化ではありません。時には相手の話をじっくりと聞く忍耐力と根気も必要です。簡単にできないからこそ、やり甲斐があるのではないでしょうか?

 それからもう一つ、「女性差別」。これは今でもなかなかなくなりません。特に「若い女性」は仕事をする上で軽んじられる傾向が強いです。全くそういう目に遭ったことがない人は幸運です。アントワネットの場合、夫が国事に介入されるのを嫌ったせいもありますが、大臣からも余計なお荷物と見られていました。後年、民衆からは「オーストリアの娼婦」呼ばわりされて散々でした。(週刊誌やワイドショーが存在していたら、悪口のオンパレードだったでしょう)

 差別はこの先も完全にはなくならないと思いますが、あきらめてしまったらそれで終わりなのは確かです。

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2002/12/1

コラム   【ルイの最後のクリスマス】  

 

 ルイ16世は最後となるクリスマスに遺書を書いて過ごしました。家族にも会えず、さぞつらかったことでしょう。彼は国王としては評価が低く、地味で目立たないながらも見過ごしてしまいがちな長所も備えています。

 まず家族愛。妻子を無条件で愛していたようです。危機においてはいつも家族の身の安全を考えて行動しています。性格や趣味が正反対のアントワネットを完全に理解できなくても、また彼女にフェルセンという恋人ができても、相変わらず愛していました。
 おそらく読書家・勉強家の彼は、アントワネットがろくに本も読まず、友達とキャッキャ言ってははしゃいでいる姿を見て、なんであんなに楽しいんだろうと不思議に思いながらも、温かく見守っていたに違いありません。
 また子供たちにも好かれています。子供は相手が自分を好いているかいないか、たちどころに鋭く察知できる能力がありますから、子供だからと侮ることなくちゃんと面倒をみていたのでしょう。最後まで家族を見捨てることなく愛し抜いたところは、ルイの偉いところだと思います。

 そして自己犠牲。自分のために他人の命が危険にさらされるのを極度に嫌がっています。責任感が強く、慈悲深かったのでしょう。本当にいい男とは気遣いのできる人です。

 最後に人を赦す心。ひどい目に遭ってもじっと我慢。もちろん彼も人間ですから、時にはカッとなったこともあります。でも人徳なのでしょうか、いつまでも執念深く恨みを抱くタイプではなかったようです。おどおどした、消極的な面も一役買ったのかもしれませんが、血で血を洗う憎悪の連鎖を身をもって断ち切ろうとしました。凡人ならなかなかできないことです。

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2002/10/29

コラム   【イタリアで過ごしたマリー・アントワネットの誕生日】  

 

 11月2日はキリスト教のAll Souls' Day(万霊節)で、亡くなったすべての信徒を祀る日です。(その前日の11月1日は全聖人、殉教者を祀る万聖節)
 
 数年前、ジェノヴァに近い北イタリアの寒村を訪れた時、駅を出て宿を探していました。すると見知らぬ老婦人に「あなた日本人?」と話しかけられました。知り合いが日本人と結婚しており、自分も「蝶々夫人」が好き、今空家があるのでよかったら泊まっていかないかとのことでした。

 山の麓にあるその家は小さいながらも台所やシャワーもついていました。敬虔なおばあさんなのでしょう、室内には諸聖人カレンダーが張ってあり、箪笥の上にはピエタ像、ベッドの上にはイエスの絵が掛けられていました。近所には小さなバール、ピツェリア、スーパがあるだけのひっそりした所でした。

 11月2日は出発日だったので朝早く起き、散歩に出ました。山道を登っていくと墓地があり、花を持って先祖のお墓参りをする地元の人もいました。陽気でお気楽なイメージの強いイタリア人もこの時ばかりは神妙な面持ちでお参りをしていました。日本でいうと8月15日の旧盆のような雰囲気が漂っていました。山道からは遠くに地中海が見晴らせました。

 出発前、家の鍵を返し、老婦人にお礼を述べたところ、道中の安全を祈って下さいました。アンジェラ(天使)というお名前の通り、親切なおばあさんでした。そのお陰でしょうか、無事に目的地に到着できましたが、電車の接続が悪くて中部イタリアへ行くのにほぼ1日を費やしてしまいました。駅で言われて初めてこの日が祭日扱いと知りました。

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2002/10/3

コラム   【マリー・アントワネットの命日によせて】  

 

 マリー・アントワネットと聞いてまず何を思い浮かべるでしょうか。フランス王妃、宮廷ファッション、浪費、贅沢などいろいろありますが、やはり一番多いのはギロチンかもしれません。優雅な響きのする彼女の名前と血なまぐさい処刑道具のギロチンは正反対のイメージをもっているだけにかえって強い印象をもたらすのかもしれません。

 彼女は一体いつ頃から自分の死を予感したのでしょう。まさか革命勃発当初はこんなことで命を落とすとは夢にも思わなかったでしょう。身の危険を感じたのはヴァレンヌの逃亡の後か、それとも8月10日にチュイルリー宮殿が襲撃された時でしょうか。

 公人としての務めや義務をおろそかにし、確かに税金もムダ遣いしたから処刑も自業自得と思う人もいるかもしれません。でもそういう風に割り切れず、時代の波に流されて気の毒と思う人も多いでしょう。今の時代ならまだアイドルを追いかけているような年齢(14歳)で慣習の異なる見知らぬ国の会ったこともない男性に嫁がされ、誰が敵だか味方だかわからないまま一人で切り抜けていかなければならなかった彼女。張りつめた生活の中、おしゃれや賭博に逃げ道を見出したのでしょう。この時、もう少し勉強して知識を蓄えておいたら処刑の時を数年遅らせることができたかもしれません。

 いずれにせよ運命があまりにも苛酷だったので、革命の嵐を乗り切れたかどうかは疑問が残ります。ロベスピエール、ダントン、ミラボー(最後は王室に寝返ったとはいえ)等、一人を敵に回すだけでも大変なのに、こんなのが寄ってたかって攻撃してきたらたまったものではありません。実際追いつめられた男たちが後に数人がかりで、それもやっとの思いでロベスピエールを倒しています。

 でも皮肉なことに後世に名前が残り、出版物も数多く出回っているのはアントワネットです。時の権力者、あるいは得意になっていた人物(アントワネットに意地悪をしたエベール)の中には忘却の彼方に消えた者もいます。最後に勝利を収めたのはどちらなのでしょう。

 それから死に行く彼女が唯一楽しみにしていたこと、それはすでに亡くなっている両親、兄のヨーゼフやレオポルド、夫ルイ、幼くして逝った二人の子供達に会えることではなかったでしょうか。

 最後に余談になりますが、最終章を訳し終えた時、結末を知っているとはいえ、やはり胸がいっぱいになりました。彼女はもっと生きていたかったに違いありません。彼女の無念の思いを考えると胸が痛みます。冥福を祈らずにはいられません。

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2002/9/1

コラム   【ウィーン旅行話】  

 

 ウィーンへ行ったのはクリスマスの時季でした。お店はほとんどお休みでしたが、お目当てのウィーン美術史美術館は開いていて、クリスマスということで無料で入館できました(ラッキー!)。ここの彫刻と工芸のコレクションはそれは見事な芸術品ばかりです。まさに本物がそこにあるといった感じで、仕上げるまでに気の遠くなるような手間と時間がかかったと思います。水晶の水差し、ルビーやエメラルド等を散りばめたゴブレット、精巧なカメオなどが目を楽しませてくれます。おもしろいのは自然の産物みたいな胃石を金の皿や宝石つきの台で飾ってあるものです。胃石とは反芻動物の胃や腸の中にできるもので、昔は解毒剤とみなされていたそうです。最初見た時は、何の変哲もない大きな石にどうして装飾を施しているのだろうと思いました。コレクションは目録も出ていて、見ているだけでも飽きないです。ハプスブルク家も代々よくぞ集めたものだと感心してしまいました。

 美術館のそばにはマリア・テレジアの大きな像があります(写真あり)。台座にはゆかりの人々の立像があって、彼女の片腕だったカウニッツもいました。

 夜は写真で見てお分かりの通り、オペラ「フィガロの結婚」を見ました。有名なアリア「恋とはどんなものかしら」はモーツァルトが霊感を受けて作曲したとしか思えない歌で、不安と期待が微妙に入り混じった恋する気持ちが伝わってきます。上の方の一番安い席は、当時約900円でした。日本と違って手頃な値段で観られるのが羨ましかったです。

 ホテルはシェーンブルン宮殿のすぐ近くの「パーク・ホテル・シェーンブルン」に泊まりました。皇室が賓客を泊めたこともあるそうです。でもパック旅行だったので、とても安く泊まれました。部屋は二部屋あり、広々としていて、窓からは遠くの山々や市内を見ることができました。朝は近くの教会の鐘の音が目覚まし時計がわりになりました。エレベーターは手で開閉するもので、大丈夫かなと少し不安になりました。朝食の間は飾りつけがきれいなダンスホールで、雰囲気は良かったのですが、肝心の朝食は固いパンとコーヒーのみ。

 日程は毎日が自由行動だったので、ベルヴェデーレ宮殿や映画「第三の男」に出てくる大観覧車のあるプラーター公園など名所を回りました。中央墓地ではベートーヴェンのお墓参りをしました。

 それから鉄道を使ってザルツブルクにも行きました。車内で一緒になったのは、娘さんの家に行く途中の老夫婦と孫娘でした。途中、雪化粧したモミの木が車窓から見えて、おばあさんが孫娘に「シェーン! シェーン!」(きれい、きれい)と叫んでいました。たまたま私が持っていたエリーザベトのキーホルダーにおばあさんが気づいて、いろいろ話しかけてこられましたが、あいにくドイツ語がわからなかったので悔しい思いをしました。

 ザルツブルクは風光明媚な所でした。空気がよくて、ザルツァッハ川の美しさが印象に残っています。モーツァルトの博物館を見て回りました。

 ウィーンやザルツブルクはローマに比べると比較的新しい都ですが、それでも石の街ヨーロッパの重みが感じられました。時には重苦しく、息苦しささえ覚えました。それと同時に他の場所もそうですが、文化は一朝一夕で生まれるものではなく、毎日の平凡な生活の積み重ねの中から長い時間をかけてゆっくりと芽生え、成長していくのだと思いました。

 最後に食べ物ですが、名物のウィーンシュニッツェル(カツレツ)は美味しかったです。ザッハトルテというチョコレートケーキは甘すぎました。アントワネットの好物だったお菓子クグロフは食べませんでした(職場の近くで売っているクグロフはお菓子というよりパンでした)。

 目抜き通りのケルントナー通りもぶらつきましたが、ショーウィンドウの飾りつけはパリやイタリアの諸都市に負けます。それでも夜に立ち止まってじっと眺めている地元の人たち、観光客は大勢いました。今度は是非暖かい時季に訪れてみたいものです。

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2002/7/24

コラム   【アントワネットの胸の内】  

 

ここでは私が個人的に推察したことを書きます。もちろん彼女の本心は今となっては誰にもわかりませんが…

◆夫ルイに対して
趣味や性格がほとんど正反対なのに大きな危機もなく結婚生活をなぜ続けられたのか。これは一つは価値観が二人とも同じだったからではないか。人道や家庭を大切にし、人間らしい幸福を求めていたところが共通している。ルイは確かに政治的指導者としては決断力、判断力に欠け、頼りないと妻を嘆かせたかもしれないが、愛妻家だったことは疑問の余地がなく、アントワネットだって悪い気はしなかったろう。それに自分にはないものを持っているルイを確かに尊敬していたと思う。激しい情熱よりも静かな愛を夫に対して抱いていたようである。

◆恋人フェルセンに対して
彼女はフェルセンに他にも愛人たちがいたことを知らなかったのではないか。そしてこの世では身分ゆえにほぼ完全に結ばれる可能性がなかったからあれだけ一途に熱い想いを持ち続けられたのではないか。

◆子供に対して
彼女には二人子供がいたが、私にはやはり息子の方が可愛かったと思えてならない。女親にとって息子は特別な存在らしい。彼女もその例に洩れなかったというべきか。

◆民衆に対して
最初は喝采を送ってくれた民衆も革命が進行するにつれて彼女につらくあたるようになる。誰だって罵声を浴びたら嫌だろうし、相手を憎むかもしれない。でも彼女は民衆を憎んだのであろうか。彼女の反応を見ているとどうもそうは思えない。いちいち憎んでいては気分が悪くなって自分が損をするだけであるし、相手にしないことでうまくかわしたのではないか。自分の長所を知ろうともしない、頭から悪女と決めつけてかかる民衆に対して諦めにも似た気持ちを抱き、悲しく思いながら。

◆人生でつらかったこと
一番つらかったのは幽閉中に息子と切り離されたことだと思う。他にも夫や友達との別れなど悲しいこともあったが、これが最も彼女にこたえたと思う。それから母マリア・テレジアの突然の死の知らせ。心の準備もなくいきなり知らされた時のショックは大きかったであろう。まさに「孝行したい時に親はなし」である。

◆なぜ極限状態まで追いつめられても自殺をしなかったのか
カトリック教で自殺を禁じられていたとはいえ、他にも理由があるのではないか。もしかしたら1%の希望を最期まで持っていたのかもしれない。何か事件が起きて解放され、再び子供たちに会えるかもしれないとか。人生に絶望していたとはいえ、明るい子供時代に植えつけられた楽観主義が心の根っこにかすかに残っていたかもしれない。それともここまで耐えてきたのだから今後も我慢できると思っていたのか。いずれにせよ死はいやでも向こうからやって来るから死ぬ時は死のうと覚悟を決めていたのかもしれない。

◆彼女の魅力について
彼女が非の打ちどころのない聖女のような人だったらもっと人を惹きつけていたであろうか。逆にいろいろ欠点やスキがあったから周囲の人たちに安心感と親近感を抱かせたのではないか。よく非難される彼女の軽率さも見方を変えれば包み隠しをしない率直さとも受け取れる。こういう性格の女性は狡知に長けたジャンヌ・ド・ラ・モットのように陰湿なことをやろうと思ってもできなかったであろう。それから彼女には内面からにじみ出る魅力が備わっていたようである。それは誠意かもしれないし、純真な心かもしれない。最後に投獄されたコンシェルジュリー牢では、もはや美しくもない一人の疲れた女に過ぎなかったのに、それでもいかめしい人たちさえ魅了している。元王妃の肩書きだけでこれだけ人の心をとらえることができただろうか。

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2002/5/19

コラム   【海外旅行の注意点《フランス編》】  

 

●パリの地下鉄の改札は切符を入れてバーを前に押すと中に入れるものがあります。以前切符を入れたらタダ乗り目的のお兄さんが背後霊のように私の後ろにピタリとはりつき、改札を通ると「マダム、ありがとう」と言って去って行きました。出る時は切符が不要なのでこんなちゃっかりしたことをしたのだと思いますが、時々抜き打ちの検札があるので切符は目的地まで捨てずに持っていた方が無難です。

●元旦にパリ近くの観光地を訪れた時、駅までの帰りのタクシーがありませんでした。歩いて帰れる距離ではないし、どうしようとカフェで夫と相談していると、現地の親切な二人の女性が車で送ってくれました。「私たちも駅まで用があるからどうぞ」とさりげなく誘って下さいました。元旦の移動は気をつけた方がよいと勉強になりました。

●パンテオンの近くのレストランで手を洗おうとしたところ、水の出し方がわかりません。白鳥の形をした蛇口で首を回しても、頭部を押しても水が出ません。そこへたまたまお店の人が通りかかり、足下のペダルを踏むんだよと教えてくれました。用が済んで出ようとした時、今度は中年のフランス人がさっきの私と同じように必死に水を出そうとしているので説明しました。その女性はにやっと笑いました。

●シャンゼリゼの小さなレストランでトイレにいた時、突然明かりが消えました。個室からは「なにぃ〜?」とあわてた声も聞こえましたが、事情を知っている若い女性がタイマーを回すとまた点灯しました。節電で時間がたつとホテルの廊下の電気など消えるのは知っていましたが、お店のトイレは初めてでビックリしました。

●ガイドブックに載っていなくても美味しいお店ははたくさんあります。ムール貝は日本より安くて量も多く、パンはどんな店でも美味しかったです(パンはおかわり自由)。また本に載っていなくても、広さ、清潔度等、満足のいくホテルはあります。決める前に部屋を見せてもらいました。私の場合はどこも快く見せてくれました。

●慣れていないせいでしょうか、国鉄や郊外急行線は乗り場も表示もわかりにくく、現地の人に逆に訊かれたくらいです。乗る前に「この駅にとまりますか」と駅員に確認できればいいのですが、無人駅のような所もありました。

●券売機で切符を買った時、忘れた頃にお釣りが出てきました。

●小売店は大きな額のお札を嫌がります。あらかじめ両替しておいた方がいいです。

●昼間でも薄暗い地下鉄の通路。フランスに留学していた人から歩く時は人の群からはずれないようにと注意されました(特に夜間)。

●ガイドさんから夜はサン・ドニ、モンマルトル周辺を避けた方がいいと言われました。

●今まで「あくまでもフランス語で通そうとするフランス人」には出会いませんでした。困っていると英語や身振り手振りを交えて親切に教えてくれました。

●時々無愛想な博物館・美術館の切符売り係がいました。

●今もまだやっているかわかりませんが、美術館の入口で荷物検査がありました。金属探知器でも調べられました。

●よくブランドのロゴが入った紙袋を堂々と持ち歩く人を見かけましたが、危ないです。それからホテルの部屋の中でもそういう袋は泥棒の対象になりやすいので、他の袋に移し替えた方が無難です。

●歩道に時々犬の落とし物が落ちたままになっているので、足下にも気をつけましょう。

●現地の歩行者は信号無視をよくします。信号待ちをしているのはだいたい旅行者です。機械を軽んじているのと自己責任でそうしていると聞いたことがあります。歩行者優先なので車は止まってくれますが、渡る時のタイミングがつかめない時は待った方が安全です。

●6月のパリは夏時間のため夜10時頃まで明るく、有意義に使えますが、12月ともなると、朝8時を過ぎても真っ暗です。

●最後にガイドさんに言われたこと。初めてよりも何度か来ている旅行者の方が油断して危ないとのこと。お互い気をつけましょう。

 

【海外旅行の注意点】もあります。 こちらへどうぞ。

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2002/3/15

コラム   【「マリー・アントワネット」(ハスリップ)の翻訳こぼれ話】  

 

 今回翻訳するにあたって実感したのは、まず何よりも母国語の力、言葉のセンス、想像力が必要不可欠であるということでした。それから根気と労力、時間も必要です。それなりに大変でしたが、作品を完成できたのは、ひとえに物語がおもしろく、登場人物に愛着があり、訳していて楽しかったからです。自分が楽しくなければ、他人がどうして楽しいと思うでしょう。今日はこのほか注意した点について述べたいと思います。

●「翻訳は切り貼りではない」

 これは私の知る英語の達人がよく口にしている言葉です。原文をそのまま直訳できたらこれ以上楽なことはないのですが、そういう訳にもいきません。本来の言葉のもつ意味を損なわないように、ある程度こなれた日本語にしなければなりません。例をあげます。

☆ Marie Antoinette's unflinching pride

 文字通り訳せば「マリー・アントワネットのひるまない誇り」。この "unfinching" は他に「尻込みしない」「屈しない」という意味がありますが、あとに続く「誇り」としっくり合いません。そこで私は 「金剛不壊の」と訳しました。文章が引き締まった感じがしませんか? もちろん他にももっと良い訳があると思いますが。

☆ Louis "was not as other men".

 ルイは「他の男とは違う」。意味はわかりますが、つぼにはまった表現とは言い難いので、「一風変わった男だ」と訳しました。

●「語呂を大事にする」

 音楽や料理と同じで言葉にもリズム感が大切だと思います。いくら立派な言葉を使っても、頭にスッと入ってこなければ何にもなりません。簡潔で要を得た訳を心がけました。

●「カタカナ語をなるべく避ける」

 せっかく美しい日本語があるのですから使わなければもったいないです。それに漢字には表現力があります。ただ一つの意味に絞りきれない単語や日本語として定着しているものはそのまま使いました。前者の場合は「プリンセス」で、姫、王女、王妃などいろいろな意味が含まれています。

 

 さて、ここからは日本語だから味わえるワープロ変換の楽しさについて書きたいと思います。ナポレオンやロベスピエールはなぜか一発でちゃんと変換できたのに、そうじゃないのもありました。くだらないと言われればそれまでなんですが…

「政党名」

蛇小判     ジャコバン
持論度     ジロンド

「人名」

ある永久    アルトワ
プロ版巣    プロヴァンス
襟ざべー都   エリザベート
類ー図     ルイーズ
照れ時あ    テレジア
山村      サンソン(死刑執行人なのに)
野愛湯     ノアイユ
倍委      バイイ
炉ー算     ローザン
紺どる背    コンドルセ
まるぜる部   マルゼルブ
傘寿スト    サン・ジュスト
甲板夫人    カンパン夫人
助不乱夫人   ジョフラン夫人
場三樹     バサンジュ(宝石商)
仮雄吐露    カリオストロ(これが一番シュール!)

「地名」

バスティー湯  バスティーユ(温泉みたい)
縫い胃     ヌイイ

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2002/2/14
追加 2002/6/29
追加 2003/6/1
追加 2004/4/3
追加 2004/10/4

コラム   【王妃にちなむ音楽】  

 

厳密に言えば「王妃とその関係者にちなむ音楽」をとりあげます。あの時代、テレビがなかったので、残された文献から情景や声を想像するしかありません。でも幸いなことに当時演奏された曲は今でもCDで聴くことができます。ここでは今一つ知られていない曲を選んでみました。

《王妃が実際耳にした音楽》

★ハイドン 「交響曲第85番」(王妃)
4楽章の構成。かろやかな明るい曲。武石みどり氏のCDの解説を引用させて頂く。「ハイドンの研究者ランドンは、フランス革命で拘禁中の身であったマリー・アントワネットが部屋のチェンバロの上の楽譜の中にハイドンの『王妃』を見いだし、一言『時代は変わりました』と述べたので、まわりの者が涙を禁じえなかったという逸話を紹介している。」(ERATO,WPCS-11112 ハイドン;パリ交響曲集第83,84,85番)

★チャイコフスキー 「序曲1812年」
言うまでもなくチャイコフスキーは後代の作曲家なので、この曲自体を王妃が聴いた訳ではありません。実はこの曲の中に現在フランス国歌となっている「ラ・マルセイエーズ」の旋律が第3主題として入っているのです。1812年のナポレオンのモスクワ遠征に対するロシアの勝利を描写した作品です。私のお気に入りは躍動感と迫力のある小沢征爾指揮、ベルリン・フィル演奏のCDで、最後の部分では大砲も轟いています。

★バルバートル編曲 「ラ・マルセイエーズとサ・イラ」
サ・イラ は「さあ、行きましょう」という意味の革命歌で、当時よく歌われていたそうです。私が持っているテープはトン・コープマン演奏のチェンバロ版で、CDが出ているかどうかはわかりません。

★ベルリオーズ編曲 「ラ・マルセイエーズ」
これもテープでしか持っていませんが、演奏はジャン=ピエール・ジャケ指揮、パリ管弦楽団、パリ・オペラ座の合唱団、独唱者です。血沸き肉踊る勇壮なマルセイエーズが一段と力強いものとなり、聴く者を圧倒します。この旋律は一度耳にしたら頭から消えないほど強烈な、人の心を動かす力があると思います。マルセイユの義勇兵たちが大声で歌いながらパリへ進軍する光景はさぞかし迫力があったことでしょう。

★グルック 「アウリスのイフィジェニー」(歌劇)
アントワネットが初演を大成功に導いたオペラです。序曲はもの悲しい旋律で始まり、展開してモーツァルトを思わせる宇宙の世界が現れます。

アガメムノンは神々の怒りを鎮めるため、娘のイフィジェニーをいけにえとして命じられ、人道に悖ると懊悩します。臣下のカルカスも血を流さなければならない父娘の運命を嘆くものの、神々の命令に従うよう、アガメムノンをさとします。そこへ何も知らないイフィジェニーと母のクリュタイムネストラが到着します。恋人のアキレスに会う約束をしていたからです。しかしアウリスの地から遠ざけようと、父親は策を弄し、母娘にアキレスが心変わりをしたと思い込ませます。アキレスは心乱れるイフィジェニーの誤解をとき、再び幸福感に包まれた二人は結婚の準備をします。

お祝いムード一色の中、突然、事情を知る者が罪深い沈黙に耐えられなくなって、真実を一同に告げます。嘆き悲しむ母クリュタイムネストラ。恋人に未練を告白しつつも、死を覚悟するイフィジェニー。「人でなし!」「青二才!」と言い争うアキレスとアガメムノン。アガメムノンが神々への服従と娘かわいさの板挟みとなって、一人苦悶する場面の管弦楽は、19世紀のオペラを先取りしています。最後は一同入り乱れて収拾がつかなくなりますが、そこへ女神ダイアナが現れて、イフィジェニーは助かります。途端に暗雲がかき消えて日の光がさーっと差すような音楽が流れ、皆は神々のお慈悲を讃えます。

歌手が超絶技巧を聴かせる箇所はありませんが、グルックの音楽にはじわじわと効いてくる魅力があります。あくまでも台詞を尊重し、こまやかな感情表現を支えています。時には嵐のような激しさをもったアリアもありますが、節度が保たれています(それでも当時は斬新すぎて、一部の人はどうとも思わなかったそうです)。主役のイフィジェニーには、透明で細い、可憐な声がよく似合うと思います。

★グルック 「トーリードのイフィジェニー」(歌劇)
これは1774年にパリのオペラ座で大成功を収めた「アウリスのイフィジェニー」の続編です。初演は1779年。今では目立たない作品ですが、なかなかどうして、現在でも充分鑑賞に堪えうる名作です。確かにヴェルディなどのオペラに比べると、華々しさや派手さに欠けますが、叙情的で、人間の感情は古今東西問わない事実を教えてくれます。

神へのいけにえになるところを女神ダイアナに救われたアルゴス王女イフィジェニーは、神殿の女祭司となります。彼女はある日漂着した二人のギリシャ人を義務により、神へ捧げる事態に直面します。そのうちの一人は弟のオレストですが、彼は身分を隠し、アルゴスの悲惨な運命を語ります。父王アガメムノンは、愛人のできた母クリュタイムネストラによって殺されたので、オレストは父の仇討ちとばかり、母を殺してしまいます。悲嘆に暮れるイフィジェニー。今度はその彼女が弟と知らずに彼をいけにえにしてしまうのでしょうか? このように筋も興味深いのですが、音楽も聴きごたえがあります。弟も死んでしまったと勘違いしたイフィジェニーが、彼の霊のために祈る「聖なる霊よ、嘆きの亡霊よ」は、陰影に富むアリアで、いつまでも耳に残ります。その他聴きどころは、荒れ狂う嵐の場面、オレストが訴えかける「私を苦しめる神々」、オレストの回りで復讐の女神が脅かすようなバレエを踊る場面、女祭司たちの讃歌などです。

ミンコフスキ指揮のCD台本には、1780年頃のポン・ヌフ橋を渡るルイ16世とマリー・アントワネットの絵が載っています。前方には衛兵が堵列しており、無蓋馬車に乗ったアントワネットはパラソルをさしています。

★グルック 「オルフェウスとエウリディケ」(歌劇)
繊細で洗練されたオペラ。イタリア語、フランス語版があります。これもギリシャ神話が基になっています。

オルフェウスが墓前で亡き愛妻を思い、嘆いているところへ恋愛の神が現れ、彼に告げます。もし黄泉の国の精霊を得意の竪琴でなだめ、ふり返って妻、エウリディケを見なければ、この世に連れ戻せると。彼はなんとか黄泉の国にたどりつき、妻とともに地上へと急ぎますが、恋愛の神との約束で、後ろをふり返れないので、妻は夫が冷淡になったと思い、プリプリ怒り出します。妻の顔を見るわけにはいかず、なんて残酷な苦しみと悩むオルフェウス。果たして彼は無事、妻をこの世へ連れ戻せるのでしょうか?

第二幕でオルフェウスが「妻がいなければ何の希望もない」と歌うところは、彼のため息も聞こえてきそうです。また第三幕の「エウリディケを失って」は有名なアリアで、演奏会でも時々単独で歌われます。

 

《その他》

★ヴェルディ 「仮面舞踏会」(歌劇)
マリー・アントワネットと親交のあったスウェーデン王グスタフが主人公として登場するオペラ。国王が仮面舞踏会の最中に暗殺された史実が基になっています。愛、友情、裏切りが美しい旋律にのって物語は展開していきます。友人の妻を愛してしまった国王のひそかな激しい想い、国王への愛を断ち切ろうと苦悩する人妻、復讐の念に燃える国王の友人といった人の心の動きだけでなく、さびしい真夜中の野原、怪しげな女占い師の洞窟などの情景も、音楽でここまで描写できるとはと驚いてしまいます。なお当時の検閲により、舞台は北アメリカへ移され、登場人物の名前も多少変えられています。(敵役の一人の名がXX伯爵からただの「トム」になっていて、思わず笑ってしまう)ちなみに昨年の2001年はヴェルディ没後100年にあたっていたため、彼の作品も多く上演され、私もこの「仮面舞踏会」を観に行きました。(もちろん日本です)最後の舞踏会場の場面はきらびやかな衣装で舞台がうまり、豪華絢爛。ミュージカル「オペラ座の怪人」のようでした。

★ベートーヴェン 「ピアノソナタ第26番」(告別)
この曲を献呈された マリー・アントワネットの甥ルドルフ大公(彼女の兄レオポルドの息子)はベートーヴェンの友人兼庇護者でした。1809〜10年にナポレオンがウィーンに進軍した時、ルドルフ大公は一時避難し、また戻って来ました。それがきっかけとなって第1楽章「告別」、第2楽章「不在」、第3楽章「再会」が生まれました。第1楽章の旋律は心にからみつくよう、第3楽章のは嬉しい!嬉しい!を連発しているような喜びにあふれています。ベートーヴェンはこの大公に大曲のピアノソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」も献呈しています。

 

★フリードリヒ大王 「フルート協奏曲第1番」 ト長調
このプロイセンの大王は教科書には文芸愛好家の啓蒙専制君主と出ていますが、実際はオーストリアの領土を分捕ってマリア・テレジアをかんかんに怒らせたほどあくどいことをしています。でもこの曲を聴く限り悪いイメージは浮かんできません。政治と趣味は全く切り離して考えていたのでしょうか。(なお「マリー・アントワネット」(ハスリップ)ではフレデリック大王と英語読みにしてあります)

★☆★☆★☆モーツァルト☆★☆★☆★
モーツァルト(1756−1791)はオーストリア生まれでその生涯もアントワネットのとほぼ重なっています(35歳と短命)。モーツァルトの音楽は聴いていても疲れませんし、飽きがきません。喜怒哀楽を表にバーンと出す音楽の対極にあります。楽想がこんこんと湧き出る泉のように豊かでそれこそ何百年経っても色褪せないでしょう。実際ベートーヴェンやショパンに否定的な批評家はいても、モーツァルトやバッハをけなす人はほとんどいません。音楽のための音楽とはまさにモーツァルトの作品の中にあるのかもしれません。

★「ピアノ協奏曲第13番」 ハ長調 K415
アントワネットの長兄ヨーゼフ2世が音楽会に列席していたそうです。こぢんまりまとまっていて、軽快、うきうきするような曲です。

★「ピアノ協奏曲第20番」 ニ短調 K466
初演でヨーゼフ2世が喝采したそうです。なかなか良い耳を持っていたなと思いました。この曲は映画「アマデウス」で第1、2楽章が使われていました。モーツァルトにしては珍しい短調でやや深刻ですが、一度聴いたら耳に残る深みのある作品です。第1楽章は悲しみに満ちた美しい旋律でなんとも言えないもの悲しさ、温かさがあります。何かを訴えているようでもあり、問いかけているようでもある哲学的な部分もあります。第2楽章はモーツァルト本人が「アマデウス」のために作曲したのではないかと思わせるほど映画にぴったり合っています。第3楽章はモーツァルト独特のそこはかとない寂しさが感じられます。

★「ピアノ協奏曲第26番」(戴冠式) ニ長調 K537
アントワネットの次兄レオポルド2世がフランクフルトで戴冠式を挙行した時、モーツァルト自身が演奏しています。堂々としてのびやかで、繊細なところもあります。

★「フルートとハープのための協奏曲」 ハ長調 K299
この曲はフルート愛好家のギーヌ伯爵がモーツァルトに作曲を依頼して出来上がったことで有名ですが、ギーヌ伯爵はアントワネットがかばった人物です。(私の訳書にもこの伯爵が出てきて、アントワネットを巻き込んだ騒動を起こしています)。伯爵の娘はハープを演奏できたそうで、モーツァルトは作曲も教えています。この協奏曲はきらびやかで明るく、ロココ風です。時代をよく映している音楽かもしれません。

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ダヴォとディッタースドルフは博識な方から教えて頂きました。ありがとうございます!

★ジャン・バティスト・ダヴォ 「2つのヴァイオリンのための協奏交響曲」
「市民」ダヴォはフランスの優れたヴァイオリン奏者兼作曲家だったそうです。この曲はフランスものらしく、洗練されていて、決して重くならず、さわやかな気分になります。冒頭の音からハッとさせられます。第1楽章ではさりげなく「ラ・マルセイエーズ」が取り入れられていて、管弦楽で奏でられるとまた違った趣があります。軍歌のような猛々しさ、荒々しさがなく、あくまでも優雅です。特にこの曲は題名にもある通り、ヴァイオリンが主役なので、のびやかで歌うような独特の音色にうっとりさせられます。最終章ではかわいらしく「サ・イラ」が挿入されています。

★カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ 「バスティーユの攻略」
ディッタースドルフはオーストリアの作曲家で、マリア・テレジアにより貴族に叙せられました。曲は重く暗い雲が垂れこめているようなグラーヴェで始まり、徐々に明るくなって勢いを得ながら激しい、嵐のようなアレグロ・アッサイへ突入。律動的でいて情熱的。強烈な感情が渦巻いています。中間部の物思いに沈んだアダージョを経て、最終章は再びアレグロ・アッサイへ。

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2002/1/13

コラム   【「マリー・アントワネット」(ハスリップ)を読めばこれがわかる!】  

 

☆ 子供時代のアントワネットが好きだった遊び

☆ アントワネットと父親の最後の別れ

☆ アントワネットのせいでルイが受けたと噂された予防接種

☆ アントワネットは面白がったが、ルイは怒って火中に投じた本

☆ 「パンがないならお菓子を食べればいいのに」の真相

☆ アメリカ独立戦争に一役買ったボーマルシェ

☆ ルイの二人の弟はどんな嫁をもらったか

☆ フェルセンの陰の愛人たち

☆ なぜアントワネットは幼い実の娘に嫌われていたのか

☆ アントワネットの弟がパリで愚か者呼ばわりされた理由

☆ 臨月のアントワネットを楽しませたルイ企画のパーティー

☆ アントワネットに母マリア・テレジアの死去を最初に伝えた人物

☆ アントワネットがルイに隠れて読んだ本

☆ 男色家のスウェーデン王は副官のフェルセンに懸想していたのか

☆ アントワネットが早くも30歳で取り憑かれた恐怖

☆ アントワネットが処刑前夜まで一緒だった犬の名前

☆ アントワネットがコンシェルジュリー牢で嬉し泣きした差入れ

☆ 嫌がらせからアントワネットを守った看守

☆ アントワネットが最後にとった朝食

などです。

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2001/12/23

コラム   【王妃をしのぶ旅行】  

 

〈シェーンブルン〉
マリー・アントワネットが少女時代を過ごしたウィーン郊外にあるシェーンブルン宮にはクリスマスに行きました。氷点下で凍えるほど寒かったです。5mも歩くと耳が痛み、手足はかじかむ始末。地元のご婦人方は毛皮にスパッツといういでたち。でも水と空気はおいしかった。シェーンブルン宮はマリア・テレジア・イエローと呼ばれる黄色が使われた宮殿です。動物園や大きな陶器のストーブもあり、生活しても楽しそうです。

〈パリ〉
特に印象に残っているのはやはり王妃が最後に過ごしたコンシェルジュリー牢と処刑されたコンコルド広場です。コンシェルジュリーの内部は昼間でも薄暗くてじめじめしていました。真っ暗な長い夜に王妃は何を考えていたのでしょう。誰も人の心の奥底を推し測れないけれど、人生についてしみじみ思いをめぐらせたことでしょう。コンコルド広場は今でこそ地下駐車場があり、観光バスや自動車もとまっていますが、革命時多くの人々の血が流された場所でした。

〈ベルサイユ宮〉
豪華絢爛ですが、確かに私的な生活には向かないかもしれません。鏡の間は噂に聞いていた通り圧巻でした。社会科見学に来ていたフランス人小学生の中には先生の話など聞かずに磨かれた床の上でスケートごっこをして遊んでいる子もいました。外の運河や庭園を散歩しましたが、近くに見えるのに歩くと結構距離があります。時間と体力のある方はどうぞ。

〈プティ・トリアノン〉
6月のすがすがしい時季に訪れた時は至福の時間を過ごせました。ヴェルサイユ宮から徒歩で20分かかるためか、平日だったせいか、観光客は私一人でした。(貸し切りみたい!)一つ一つゆっくりと部屋を回りました。本当に打ち解けたかろやかな雰囲気が漂う貴婦人の館でした。優雅なティータイムにぴったり! 王妃も面倒な政治や公務を全部すっぽかしてずっとここにいたかったのかもしれません。外に出てみると、庭園には観光客が少しいました。草のいい香がして思わず遠足を思い出しました。アントワネットが兄のヨーゼフに嬉々として見せびらかした洞窟、農家など見て回りました。王妃が内緒話をした愛の神殿は残念ながら立入禁止となっていました。

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2001/11/20

コラム   【海外旅行の注意点】  

 

すでにご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、ご参考までに。

 

  1. 荷物は少なめに。旅行先の移動は悪天候になるとさらに大変。
    無い物は買うくらいの気持ちで。機内持ち込みにできれば荷物受け取りの時間が節約できます。

  2. あると便利なもの。ビーチサンダル(お風呂で濡れてもすぐ乾く)、ミネラルウォーター、ウェットティッシュ。

  3. 自分の身は自分で守る。貴重品は肌身離さないように。空港では虎視眈々と荷物を狙っている泥棒さんもいます。

  4. ナンパにご注意。結婚指輪は役に立ちません。私の場合フランスでは地下鉄の車内で声をかけられました。またルーヴル美術館でイタリア絵画を観ていた時、説明の途中からお昼ご飯どう?と話が変わってしまった係員もいました。

  5. 履き慣れた靴を。ヨーロッパは石畳が多く、足が腫れて痛い思いをしたことがあります。ヴェルサイユでは踵が石畳でボロボロに。気をつけましょう。

  6. トイレは日本と比べて少ないです。またトイレおばさんにチップを取られるので、いつも小銭を用意しておくといざという時慌てなくて済みます。

 

【海外旅行の注意点《フランス編》】もあります。 こちらへどうぞ。

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