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 ● 代官屋敷

  ★ 子守唄にも唄われた「北田家住宅」
 





「いたら見てこい北田はんの屋敷。四角四面のよい屋敷」と地元の
子守唄にも唄われているのは、昭和54年2月に国の重要文化財に指定された「北田家住宅」です。地元では「北田家住宅」と呼ばれるよりも「代官屋敷」の名前で親しまれています。

主屋(おもや)表門乾蔵、北蔵の四棟が重要文化財の指定を受けています。また付き指定として、土塀、撥木納屋、家相図(2枚)があります。

特に、山根街道に東面する表門は、民家の長屋門としては日本最大のものであると言われています。


  北田家の沿革
 






北田家の家系図によると、同家は南北朝時代に南朝方に仕えていた北畠顕家の子孫で、南朝没落後は帰農し、その姓をはかって、北畠の白を除き北田と称したといわれています。

その後、顕家より9代目の好忠の時に私部城主安見氏の重臣となりましたが、元亀元年(1570)の織田信長による本願寺攻めに参戦した安見氏が大敗し、城は大和の筒井勢により攻められ、遂に開城となりました。この時、なお残って最後まで奮戦し、下仕9人と共に壮烈な戦死を遂げたのが北田
好忠でした。

それから20年経って、京都の叔父の家に送られていた嫡子の好孝が私部に戻り、現在の場所に家邸を構え、田畑を耕し農業を生業として生活を始めたのが現在の北田家の最初で、そのため好孝が中祖の第一世とされています。

江戸時代に入り、私部村の3分の2が旗本畠山修理太夫の知行地となるに及んで、北田家はこの地の庄屋を務めることになります。その後、18世紀前半、第6世佳隆の代には代官職を担うようになりました。

明治になって、庄屋、年寄り役は廃止され、現在第14世の御当主に至っています。

  ★建築物の概要
 
●主 屋
     
 

建築年代は定かではありませんが、宝永5年(1708)から享保19年(1734)の間に建てられたものと考えられています。建てられた当初は茅葺屋根でしたが、寛政8・9年(1796・7)に本瓦葺に葺き替えられました。そして、昭和59年からの保存修理工事で茅葺形銅板葺となりました。
間取りの最大の特色は、上手の前面に突出した角屋を持つことで、その遺例としては最古のものです。
桁行22.2m、梁間10.9m、入母屋造、茅葺形銅板葺、北面庇付、玄関および奥座敷桁行9.8m、梁間5.9m、北面主屋に接続、南面および西面入母屋造、本瓦葺、南面、北面および西面庇付、桟瓦葺。

詳細図面はこちらからどうぞ。


●表 門
     
 

当家所蔵の古文書および出窓根太の墨書等より、天保14年(1843)に建てられたものと推定されています。長屋門ともいい、民家としては最大級の長さを誇っています。長屋としての間取りは、モノミ、オトコベヤ、コメグラ等があります。桁行55.8m、梁間4.9m、二階建、入母屋造、西面南端突出部付属、桟瓦および本瓦葺、東面。
大門は、
桁行3間(5.61m)、梁間2間半(4.92m)、四隅に八寸角のケヤキ柱を立て、大扉の鏡柱は正面通りより真々で4.70尺(1.42m)後退して立っています。大門の部材はすべてケヤキです。

詳細図面はこちらからどうぞ。


●乾 蔵
     
 

棟札から享保7年(1722)に建てられたことが判明しています。蔵前が設けられたのは、東隣りに北蔵を建築した天明5年(1785)と推定できます。土蔵造、桁行9.9m、梁間4.0m、二階建、切妻造、本瓦葺、東面、内側土扉片開き、蔵前付。

詳細図面はこちらからどうぞ。


●北 蔵
     
 

天明5年(1785)の箆書のある屋根瓦(平瓦)が発見され、建築年代が判明しました。土蔵造、桁行3.9m、梁間3.9m、二階建、本瓦葺、南面、切妻造、蔵前付。

   


     ※参考資料: 交野市教育委員会・財団法人交野市文化財事業団発行「北田家住宅」