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げんべの窯たき いつでける あいさの朝まで まってんか まってんか
これは、今も交野に伝わる わらべ唄 「げんべのかまたき」です。
古くから交野は良質の粘土が出ることで知られており、奈良の正倉院に納められている奈良朝時代の「三彩陶器」 五十七点も、交野の土で作られたと言われています。
昭和40年代頃までは、「げんべ」、「またべ」、「浅よ門」、 「屋根市」などの瓦窯があったそうですが、現在は生産はされていません。
昭和50年代になって小田原城の瓦が風で落下した時、 その瓦に 「文政四辛巳歳 河州交野郡私部村 瓦師 甚左エ門 八兵衛 源兵衛」の銘が見つかりました。 文政4年(1821)の小田原城修復の際に、私部の瓦が使われていたのです。 私部の瓦が遠く離れた相模の国、小田原まで知れ渡っていて、実際に使われたというのは、その良質な粘土だけではなく、私部の瓦師たちの腕がよかったからであると言われています。
昭和44年10月、想善寺本堂の屋根の一部が崩れ落ちました。その時に壊れずに残った鬼瓦の一部が境内に安置されています。 想善寺の鬼瓦は、「経の巻鬼瓦」と呼ばれるもので、残っている部分は、その中の「雲水文(うんすいもん)」、通称「足(あし)」と言われるものです。 この雲水というのは、建物が火事になった時、天から雨雲を呼び、その雨水で火を消すということで、この名前がつけられているそうです。 また、火を伏せる(消す)という意味からも、火伏せとも呼ばれます。
この瓦には、「私瓦八」という銘が入っていますので、前述の小田原城で使用されていた瓦の銘にもあった八兵衛の作であるようです。(私部・瓦師・八兵衛の略) また、想善寺に残っている古瓦には「私瓦源」(源兵衛)の銘のある瓦もあります。 この他にも、色々な古瓦が残っていますので、下のボタンをクリックしてご覧下さい。