ゆ・う・こ
 
平成12年、2月5日、天国へと旅立ちました

1    少し休んだら、また頑張るから・・
加藤祐子・昭和55年10月1日生まれ・享年19歳
娘は13歳の終わりに急性骨髄性白血病を発症しました。
それまでの娘はとても健康で幼稚園、小学校と元気で通い、時々風邪をひくくらいで休む事もあまりありませんでした。
本当に元気な子供でした。
それなのに中学二年生の秋、だんだん顔色が悪くなって微熱が続き体調が悪い日が続くようになりました。
近くの小児科で血液検査を受け翌日には大学病院を紹介され沢山の検査を受けました。
その結果急性骨髄性白血病と診断されました。
信じられませんでした。これが娘の長く辛い闘病の始まりでした。
まだ13歳という事もあって病名は貧血と通しました。
しかし長い入院と治療の副作用(吐き気、脱毛など)から自分は白血病ではないかと疑いを持ち始めていたようでした。
外泊の時には書店で医学書を開き色々な事を調べてひとりで苦しんでいた事、私たちはまだ知らずにいました。
そして16歳になり今時の高校生活、本当に楽しそうでした。しかし娘はそんな時もさまざまな葛藤のなかでひとりで苦しんでいたのでした。
その事を知った私たちは娘に告知する事を決意しました。
娘は泣きました。
どうして私なの?と泣きました。
みんな同じ病気になってみればいい、そうすれば私の苦しみがわかるから・・
と泣きました。
いっぱい苦しんでいっぱい泣きました。
しかし娘はその苦しみを乗り越えてくれました。お医者様、看護婦さん、周りの人たちに支えて頂いて乗り越える事ができました。
それから娘は自分の闘病を詩や文章に綴り始めました。
辛さ、悲しみ、苦しみ、さまざまな思いを素直な気持ちで綴りました。
娘はとても生き生きと輝いていました。
病気も治ってしまうのではないかと思うほどでした。
そして手作りの手記私の運命が出来上がりました。
感謝の気持ちを込めて、皆さんに贈りました。
娘は本当に前向きに明るく日々過ごしていました。
家族の前では悲しい顔を見せたり、愚痴をこぼしたりする事もありませんでした。
それは娘のなかで絶対に治すと言う強い気持ちがあったからだと思いました。
こんなに前向きに頑張っているのだから、もうこれ以上娘を苦しめて欲しくないと願うばかりでした。
しかし病気はまた容赦なく娘に近づいてきました。
もう最終治療として骨髄移植しかありませんでした。
しかし骨髄バンクに適合者は見つからずしばらくドナーの検索が続きました。
その間に娘は何度か感染症を起こし、危機に陥った事もありました。
そのたびに乗り越えてくれる娘の生命力には驚かされるほどでした。
そんな日々が続きやっと骨髄移植に辿り着く事ができました。
この頃の娘の全身状態は骨髄移植に耐えられるかどうか、いつどうなってもおかしくない状態でした。
しかし放射線と大量の抗ガン剤で起こる壮絶な副作用も娘は乗り越えて、思っていたより順調に移植を終え、あっという間に一般病棟に上がる事ができました。
退院の話なども飛び出してみんな奇跡だと喜びました。
しかしその喜びもつかの間、免疫力のない娘の体を今度はウィルスが容赦なく攻撃を始め苦しめました。
腎機能も低下し、心不全もおこし、娘は本当に苦しみました。
生きたくて生きたくて、今までどんなに辛いこともくじけずに前向きに頑張ってきたのに、もう本当に限界だったのでしょう。
担当の看護師さんに死なせて欲しいとお願いするまでになっていました。
疲れたから休みたい・・・
少し休んだらまた頑張るから・・・
そう言い置いて娘は永遠の眠りにつきました。
19歳の寒い冬の朝でした・・・
 

2    自分自身へのお守り
 
 
 
無菌病棟のなかで、間もなく移植に望む自分に作ったお守りです。
同室の患者さんにも同じお守りを作って
渡しました。
 



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