江戸城

江戸城天守跡・天守台

概要

所在地 東京都千代田区・中央区
築城者 江戸四郎重継・江戸太郎重長、太田道灌、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光
築城年代 平安時代末期頃〜、康正二年(1456年)〜長禄元年(1457年)、天正18年(1590年)〜
雅名 千代田城

『江戸城寛永度絵図』
江戸城地形図
江戸城水部形状
江戸城フリーイラスト素材

歴史

初期の江戸城

 江戸の地名は、おそらく東京都千代田区から中央区にかけての地形に由来するものであると考えられています。

 その地名を採った桓武平氏・秩父氏の流れを汲む江戸氏が、平安時代の終わり頃から台頭し、この地域を支配していました。しかし、秩父氏が桓武平氏の流れを汲むというのは仮冒で、彼らは古代知知夫氏の子孫という説もあります。

 江戸城の歴史はこの江戸氏の江戸四郎重継・江戸太郎重長(『吾妻鏡』治承四年(1180年)8月26日に江戸氏の初見があります)親子が、 現在の江戸城本丸の場所に江戸館を築いたことに始まります(他にも神田から江戸前島−現在の東京駅周辺−に至るいずれかの場所など諸説あります)。

 江戸氏の館がどのような建物であったか、その構造を直接伝える資料はありません。それどころかその位置が江戸城本丸の場所であったという根拠も、その場所が周辺の地勢上一番要害の地であったという理由によります。本丸台地にあった可能性が高いその遺構も、その後の幾多の工事により撹乱されてしまっていると思われ、現時点では一切見つかっていません。

 その後、江戸氏は、源頼朝が一目置くほどの存在となり繁栄しましたが、1368年に反乱に与したとして所領の多くを没収され、没落してしまいます。

太田道灌期の江戸城


『太田道灌期の江戸城』

 その後、室町時代に扇谷上杉氏の宰相・太田道灌が江戸城を築城。

 江戸城は古河に逃れた鎌倉公方足利成氏勢力に対抗するために作られました。築城に際し最初は吉祥寺の台(駿河台か?) に築こうと縄張りまで行いましたが霊夢により変更したとあります。

 工事は康正二年(1456年)始まり、長禄元年(1457年)4月8日(灌仏)(これにも諸説あり)に完成しました。

 城の構造は子城・中城・外城の3つの曲郭に分けられ、断崖には橋が架けられていました。 静勝軒と呼ばれる太田道灌の館を中心に含雪軒・莵久波山亭・泊船亭・香月亭・戌櫓と言った建築物が城内にはあったと記録されています。 この太田道灌の江戸城は現在の江戸城本丸・二丸付近にあったことはほぼ確実です。

後北条氏期の江戸城

 戦国期、後北条氏は関東一円に勢力を拡大し、江戸城もその支配下に置かれました。 小田原城を本拠地とする後北条氏は遠山氏を江戸城城代としていました。

 天正18年(1590年)、天下統一をめざす豊臣秀吉の小田原の役により、関東を支配していた後北条氏が滅亡しました。 その際、後北条氏の支城だった江戸城には遠山景政の弟・川村秀重が守っていましたが落城。

 この時の戦功を評価された形で天正18年7月13日徳川家康に関東八州の所領が与えられることが発表されました。『落穂集』によると、豊臣秀吉は徳川家康に小田原を再興し使用することを認なかったとあります。

徳川家康期の江戸城

 徳川家康が天正18年(1590年)8月1日八朔に江戸城に公式に入城

 徳川家康が入城した当時の江戸の様子は『石川正西聞見集』によると「いかにも麁相(そそう)」 であったこと、本丸のほかに二つの曲輪からなっていたことこれらの間にあった空堀を埋めて1つにしたこと、後の西丸はまだ野原であったこと、 石垣などはなく、芝土居で上に木や竹が生い茂っていたこと大手門はのちの百人番所の門の場所にあったことのちの内桜田門・大手門より三丸の平川門までの間は土居が築かれていたことなどが記されています。

 城の周辺は『岩淵夜話別集』によると、東側は汐入で一面茅原西側は萱原が武蔵野へ果てしなく続いているといった様子でした。皇居外苑・日比谷・新橋にかけて日比谷入江と呼ばれた海が入り込んでいて、江戸前島と呼ばれた半島状に突き出した地形(現在の東京駅から新橋駅周辺)がその東側にありました。当初、日本橋川の原型である平川という川が大手町を南下して流れており、この日比谷入江に流れ込んでいましたが、徳川家康(もしくは太田道灌か?)が、当時の石神井川に流れ込むように付替えています。その東側には入間川(現在の隅田川流路)が流れ、さらにその東側には荒川が合流した利根川の巨大な河口が広がっていました。

 これらの江戸城周辺のさびれた様子は徳川家康の偉業を印象付けるためことさら強調されて書かれていて、当時それほど小さな寒村ではなかった、との指摘もあります。

 まず徳川家康は城の整備として西丸(御隠居御城)の建設を行いました。普請奉行は天野清兵衛と山本帯刀が当てられました。 西側の自然の谷を利用し外堀を築きました。

 城下町の整備としては物資を運ぶために道三堀・塩の輸送のために小名木川を開削しました。 道三堀周辺には最初の町である材木町・舟町・四日町・柳町が開かれました。 城下の低地部の住民の飲み水の確保のため神田上水江戸上水を引きました。


『江戸城慶長七年江戸図』

 慶長3年(1598年)8月豊臣秀吉が死去します。徳川家康は慶長5年(1600年)関が原の合戦で勝利を収め覇権を確立します。徳川家康は慶長8年(1603年)年2月征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きます。江戸城の増築は天下普請となり、その工事は慶長8年3月3日に開始されました。 現在の駿河台にあった神田山を削り日比谷入り江を埋め立てました。

 江戸前島は堀割をして道三堀を平川につなげ日本橋川(紅葉川)としました。整備された江戸前島は日本橋浜町から新橋付近にかけて市街地とし、ここに東海道を走らせ日本橋川を渡る位置に日本橋という橋を架けさせました。

 慶長9年6月1日に江戸城の本格的な普請計画が発表されました。各大名には、石垣を築くための巨石を伊豆から運搬するための石舟の調達が求められました。
命ぜられたのは池田輝政、加藤清正、福島正則、黒田長政など西国の外様大名を中心とした28家、及び堺商人・尼崎又次郎で、普請奉行には内藤忠清、貴志正久、神田正俊、都築為政、石川重次が務めました。

 徳川家康は慶長10年(1605年)に征夷大将軍を息子・秀忠に譲り大御所となりますが工事は引き続き行われました。

 慶長11年3月1日に江戸城本丸部分が本格的に築き直され始めます。縄張には築城の名手藤堂高虎が命ぜられました。江戸城本丸御殿は慶長11年9月23日に2代将軍秀忠が移っているのでこの頃にはほぼ完成していたと思われます。

 江戸城を儀式の場すなわち宮殿としての役目を考えていた徳川家康は藤堂高虎に対しこの慶長11年度江戸城本丸は少し狭いのではないかと尋ねますが、あくまで実戦向きの城を考えていた高虎は当初の計画通り縄張りしました。


『江戸城慶長度本丸図』

 慶長12年には江戸城天守(慶長度天守)が築かれました。これには関東・信越方面の大名が関わり、伊達政宗、蒲生秀行、上杉景勝、最上義光、佐竹義宣、堀久太郎、溝口秀勝、村上義明らも工事に加わったようです。

 銀色の鉛瓦でふかれた家康の建てた天守は現在「慶長度天守」と呼ばれ、天守台慶長11年に、高さ八間で築き、翌年上部二間の切石を取り除き二間築き足して都合十間(約20m)としたもので、その上に棟高48mの天守が載っていました。 江戸慶長十三年図にその創建天守の場所が記されており、それによると現在の天守台よりも本丸の中央寄りにあり、現在の縄張りより実戦的なものでした。

 慶長16年(1611年)には西丸の石垣工事を行いました。西国の大名は名古屋城の工事に関わっていたので、これには東国の大名が担当しました。3月1日に起工し、西丸龍ノ口から外桜田門・貝塚堀・半蔵門などの工事が行われました。 慶長19年(1614年)には西国大名の担当で本丸・二丸・西丸・虎ノ門までの外郭東及び西側の石垣修築工事が行われました。

徳川秀忠期の江戸城

 徳川家康が元和2年(1616年) 4月17日駿府城にて没し、三男の秀忠第二代征夷大将軍として引き続き江戸城増築の充実を図ります。

 元和2年(1616年) 5月城の北部から東部を流れる平川を、神田山を開削し、現在の神田川の流路に変更しました。 平川の流れを変えることにより、城下町の氾濫被害を減らすこと、城北部の守りを固めることができました。工事は10月には終了しています。 これに伴い神田神社(明神)が大手町から現在の湯島に移転しました。 新しく作られた川岸には南岸に徳右衛門町、柳町、北岸に浅草平右衛門、瓦町、神田久右衛門町蔵地といった町が作られました。

 元和6年(1620年)には内桜田門から清水門までの石垣を整備します。和田倉門竹橋清水門飯田橋口麹町口の枡形の整備を行います。

 元和8年(1622年)2月18日江戸城本丸部分を大改造します。江戸城本丸御殿拡張のため、以前切り離した本丸北部の出丸を再び取り込みその位置に新しい江戸城天守が築かれました。この秀忠の建てた天守は現在「元和度天守」と呼ばれています。

 天守台は奉行に阿部正之、御手伝いに浅野長晟・加藤広忠らが担当し元和9年(1623年)3月18日に完成しました。

 本丸御殿は元和8年(1622年)11月10日に2代将軍・徳川秀忠が移っているのでこの前にはほぼ完成していたと思われます。

徳川家光期の江戸城

 徳川秀忠は元和9年(1624年)7月に征夷大将軍を息子・徳川家光に譲ります。そして自らの隠居の場の西丸御殿の改築を行い、寛永元年(1624年)9月22日に移ります。

 寛永元年江戸の鬼門を守護するために上野に東叡山寛永寺の造営が始まります。寛永元年に完成した西丸御殿は寛永11年閏7月23日徳川家光上洛中に焼失してしまいます。

 徳川家光が寛永12年4月2日二丸の拡張工事を行います。これに伴い三丸が縮小されました。

 藤堂高次が、大手門三丸下乗門枡形と二丸石垣、有馬豊氏が、庭、酒井忠世が、本丸と二丸の間の三重櫓、土井利勝が、平川櫓門、稲葉正則が、平川門周辺の櫓2基をそれぞれ担当しました。

 寛永13年1月8日から7月25日にかけて、麹町台地にある外堀にそれぞれ、御成門、虎ノ門、赤坂、喰違外麹町口、市ヶ谷、牛込、小石川、筋違、浅草口の枡形の整備を行います。

 寛永14年酒井忠勝の普請奉行で、本丸東側二丸境、本丸玄関前富士見宝蔵曲輪を築き直しました。

 寛永14年8月27日江戸城本丸御殿完成


『江府御天守図』
家光の建てた寛永度天守の立面図。

 寛永15年江戸城天守が完成。家光の建てた3度目の天守は現在「寛永度天守」と呼ばれています。

 寛永16年8月11日江戸城本丸御殿焼失

 寛永17年4月5日寛永十七年度江戸城本丸御殿完成




















明暦の大火(振袖大火)

 明暦3年1月18、19日明暦の大火(振袖大火)が江戸の町を襲いました。 18日本郷丸山本妙寺から出火、 火はいったん収まりかけましたが翌19日再び小石川から出火。 この日の火災により天守、本丸、二丸、三丸を焼失してしまいます。 この時の様子は『後見草』に「(天守は)二重目の銅窓の戸内より開き、これより火先吹込、移り申候よし」と記録されています。 天守台石垣修復前田綱紀に命じられ明暦4年8月に終了、 しかし保科正之の提言により天守は再建されませんでした

江戸城二丸

江戸城寛永二十年度二丸御殿図

江戸城西丸

 西丸(御隠居御城)は、引退した征夷大将軍や世子が住む曲輪として建設されました。

 文禄元年(1592年)、徳川家康が城の整備として行った西丸(御隠居御城)の建設における建物の詳細は、一切わかっていません。

 寛永元年(1624年)には本格的な御殿が完成しますが、寛永11年に焼失。その後しばらくは山里を中心とした別邸が存在していました。

 再び本格的な御殿が完成するのは慶安度御殿からです。

江戸城慶安度西丸御殿絵図

江戸城紅葉山

 江戸城紅葉山には、将軍の霊廟が置かれ城内の聖域となっていました。最高点南東部分に神式の東照宮(初代将軍家康)とそれに付随する鳥居が置かれました。二代以降は仏式で台徳院霊廟(二代将軍秀忠)大猷院霊廟(三代将軍家光)厳有院霊廟(四代将軍家綱)常憲院霊廟(五代将軍綱吉)文昭院霊廟(六代将軍家宣)が置かれ、それぞれに惣御門、御仏殿、相之間、唐門、四脚御門、御拝殿、御水屋が付随していました。七代以降の造営は中止され既存の建物に合祀する形で対応しました。

江戸城紅葉山絵図

吹上

 吹上には現在御所が建っており立ち入りが著しく制限されている場所です。
 かつて亭、煉土御腰掛、滝見御茶屋、紅葉御茶屋、梅御腰掛、元馬場馬見所、新馬場馬見所、吹上稲荷神社、新御茶屋、腰掛、鳩御腰掛、広芝地主山などの建物・名所があり、現在は御所吹上大宮御所宮中三殿、観瀑亭、花陰亭、建安府などの建物があります。

江戸城御本丸御表御中奥御大奥総絵図

 五代将軍綱吉期の江戸城本丸図です。

遺構

 江戸城の遺構について

日本橋

 江戸城は、東側を正面とし、大手門を配しました。四神相応の町づくりがされたとよく言われますが、江戸城の場合少し特殊で、本来北にあるべき玄武・山西、つまり富士山に相当し、西にあるべき白虎・街道が南、つまり東海道に相当し、朱雀・南は水部で東京湾青龍・東は河川で隅田川にそれぞれ相当します。
 本町通りが中世から続く城下町の主要幹線道路でした。徳川家康は、新たな城下町建設に際し、当時の輸送手段の中心だった水運と、江戸前島の分水嶺を基にした陸路の延長線が交差する地点を中心と定め日本橋を架橋しました。江戸前島の分水嶺を基にした道路は新たな東海道として整備されました。中山道甲州街道奥州日光道中も同じく整備され町割りの骨格をなしました。
 大名の上屋敷、中屋敷、下屋敷は、主に城の南側と西側に、広大な敷地を占めました。奉行、旗本の屋敷も、北側と西側に配置されました。その武家地の道路は屈折や喰い違いが見られました。それに対し町人地は東側の低地に碁盤目状に設定されました。この碁盤目状に町割りは1町60間四方を1区画の基準とし、そのうち通りに面した20間を屋敷地とし中央にできた20間の空間を会所としました。

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Revised 9/2/2020

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