江戸城日本橋


『日本橋図北部』

『日本橋図南部』

『日本橋』

江戸城城下町

 江戸城は、東側を正面とし、大手門を配しました。四神相応の町づくりがされたとよく言われますが、江戸城の場合少し特殊で、本来北にあるべき山が西、つまり富士山に相当し、西にあるべき街道が南、つまり東海道に相当し、南は東京湾、東は隅田川にそれぞれ相当します。
 本町通りが中世から続く城下町の主要幹線道路でした。徳川家康は、新たな城下町建設に際し、当時の輸送手段の中心だった水運と、江戸前島の分水嶺を基にした陸路の延長線が交差する地点を中心と定め日本橋を架橋しました。江戸前島の分水嶺を基にした道路は新たな東海道として整備されました。中山道甲州街道奥州日光道中も同じく整備され町割りの骨格をなしました。
 大名の上屋敷、中屋敷、下屋敷は、主に城の南側と西側に、広大な敷地を占めました。奉行、旗本の屋敷も、北側と西側に配置されました。その武家地の道路は屈折や喰い違いが見られました。それに対し町人地は東側の低地に碁盤目状に設定されました。この碁盤目状に町割りは1町60間四方を1区画の基準とし、そのうち通りに面した20間を屋敷地とし中央にできた20間の空間を会所としました。

概要

 MacintoshとAdobe Illustratorを使って作成した『日本橋図 Rev.1』です。

 江戸時代の日本橋とその周辺を可能な限り詳細に描き込みました。
 明朝体は江戸時代の町名、
太破線は江戸時代の町境、
グレー文字は明治時代以降の建物名、
白塗破線は現在の目立つ建物を
それぞれ表しています。

このページに関するご意見・ご感想などがあればこちらのブログまでお寄せ下さい。

Revised 26/1/2020

城郭 >江戸城 >日本橋