東方Project
PC用同人ゲームソフト/上海アリス幻樂団


東方考察本「異形抄〜幻想説話」第三版
東方生演奏CD「Closed Session」
東方生演奏CD「Closed Session 2」

個人通販・書店委託・イベントにて頒布中

項目にアンカーを付けてみました
日付の数字がそのままアンカーになっています。項目に直リンクしたい場合はどうぞ。
例:2004/12/15=#20041215

はじめに
このページは、 2003年8月後半(妖々夢発売直後)から「駄文」(現・雑記)のコンテンツに書いていった文章を再録したものです。
上から順に読むことを前提にしていますが、カテゴリーが近いものを固めて配置し直しているため、時系列的に前後しています。
また、最萌えトーナメント関連の文章があったりするのは、その当時に書いたものだからです。
項目によって文体が変わっているのは、それを書いたときの気分と考察の内容によります。
統一感なくてごめん(´・ω・`)

私の考察には真正面から取り組んだものと、わざと正解(と思われるもの)から外れた論を推し進めたものが混在しています。そのあたりの境界は曖昧にしてあるためご注意下さい。創作色が強く出た項目が各所にあります。
「考察」と銘打ってはありますが、一つの「創作物(二次創作)」として捉えていただければと思います。

永夜抄・萃夢想以降の考察は最下段に追加してあります。


考察:十六夜咲夜

▼2003/09/08
咲夜考察

ナイフを武器とする咲夜について考えるとき、殺人鬼「切り裂きジャック」の存在を避けて通ることはできない。

ジャック・ザ・リッパー=切り裂きジャック
ジャック・ザ・ルドビレ=気違いジャック
インディスクリミネイト=無差別

さて、時符のボムグラフィックを見てみると、背景に格子が描かれているのが興味深い。
名称は低速、高速どちらにも「スクエア」がつく。
「格子のある四角い空間」――
そう、犯罪者である切り裂きジャックとの関連を考えれば、プライベートスクエア、パーフェクトスクエアはともに「牢獄」を暗示する。プライベートスクエアは「独房」、パーフェクトスクエアは「逃れようのない牢獄」とでも訳せばいいだろうか。
ジャックの異常な精神世界を「閉鎖的な空間」に例えた可能性もある。ジャック独自の「筋が通った理論」が、その内面にはあったのかもしれない。理解されることのない「密室」が。

時間を止める能力を持つ咲夜だが、前作におけるスペルカード名が「ザ・ワールド」であるため、由来は「ジョジョの奇妙な冒険」だというのが一般的な説になっている。
しかし以上の考察から、また違った考え方も浮上してくる。
19世紀末、切り裂きジャックが出没した街はどこか?
ロンドンだ。
この町には1858年に建てられた、ビッグベンという時計台が存在する。ロンドンを象徴する建築物のひとつであり、ジャックを根幹に考えれば、時間という要素がここに由来する可能性は十分にあり得る。

さらに言及すれば、「動かない時間」は牢獄に囚われた――止まってしまった心を暗示しているのではないか。
ジャックという人物の「世界」が、停滞し、閉鎖された精神世界ならば、「ザ・ワールド」という名称に偽りはない。
あるいは、閉鎖された闇の空間を抱いているのは、その能力ゆえに人間から疎外されたという咲夜自身なのかもしれない。

以下はあくまでも余談となる。
切り裂きジャックは逮捕されることなく、街の闇に消えた。様々な捜査と推理が行われたが、今なおその正体は明らかになっていない。
もしも時を止める能力でも持っていれば、謎の人物「ジャック」が殺しを完遂し、姿を消すことは容易であったと思われる。
――真実は誰にも分からない。

今回の考察にあたって
プロファイル研究所
は切り裂きジャックの事件が分かりやすくまとめられており、大変助かりました。クールで読みやすい文章も素晴らしい。

収束する世界(その後移転し、まよひがねっととなっていましたが、現在はサイトが消滅しています)のグラフィック掲載ページを参考にさせていただきました。格子の存在を知ったのはここのおかげであり、考察の出発点となりました。
なお、記載されていたプライベートスクエアの文字について、こちらでも調べ、考えてみました。

Recapitulation=要旨の繰り返し。要約。概括。
Recessional=退場賛美歌。
Religioso=神聖な。良心的な。謹厳な。敬虔な。(良くない意味で)迷信深い。
Rattenuto=テンポを控えて。

要旨の繰り返し=連続殺人、あるいはさらに繰り返されるであろう殺人事件?
退場賛美歌=歴史や表舞台からの退場、その賛美。人の世を去った咲夜を賛美する人間?
神聖=ウエストミンスター大聖堂などの建築物? 民衆によって伝説化されたジャック?
テンポを控えて=殺人のペースを落として? 周囲の時間を止める(遅らせる)ことの暗示?

頭文字がRで揃っている点が気にかかる。Ripperとかけているのだろうか?
赤と青という色の意味合いは……人間の動脈と静脈? 今はこれ以上のことが分からない。
何か気づくことがあったらまた書くかも。

▼2003/09/10
咲夜の密室

昨日の考察、各所で話題にしていただいたようでありがとうございます。
「元ネタの解明よりも、それとおぼしき情報をもとに想像して筋道を立てる」……ここの文章にはそういう意味合いのものが多いと思います。以前のものも含めて。これからもそんな感じです。きっと。
ところでプライベートスクエアは「独房、心の密室」であると昨日書きましたが、あすとれあさんは「密室の(猟奇)殺人現場」と捉えて思考を深めています。
本日は、私もこの仮定を用いて考察してみました。
さて、Coolierの東方創想話において、Amakさんが咲夜のストーリーに「牢獄」を登場させています。ここの考察とはまた違った使い方なので、未見の人は一度行ってみると吉。他に中国の小説も投稿されているのですが、面白い。今まで二次創作の小説というのはほとんど読んだことがなかったのですが、これはいいですね。
ちなみに妖々夢では咲夜がプレイヤーキャラになっているため、能力の表現が弱めになっています。上の考察にある通り、紅魔郷でこそ彼女の本来の力が表現されていると言えるのではないでしょうか。

▼2003/09/11
続・咲夜考察

切り裂きジャックの被害者たちは、ほとんど悲鳴を上げることなく命を落としたという。ジャックが後ろから近づき、口を塞いで切り裂いたためだと言われている。犠牲者の声を聞いたものがいないため、それが目撃証言と手がかりの少なさ、事件の迷宮入りにまで繋がっている。
妖々夢において、色を失い縫い止められる敵弾は、この状況に似ている。静止し、ボムの有効時間が過ぎたときには悠々と咲夜に回収されてしまう敵弾。まさに「殺された」に等しい。
紅魔郷ならば、さらにジャックの事件に酷似してくる。弾だけでなく、霊夢や魔理沙を完全に静止させ、ナイフを持ち出す咲夜。
――悪夢の中で刃を振りかざすその様は、まさに切り裂きジャックそのものだ。時の止まった空間は、場所を問わず彼女のための「密室」となる。
誰もその犯行を目撃することはできないだろう。そして犠牲者には悲鳴を上げることさえ許されない。

▼2003/09/14
咲夜考察について

Coolierの東方創想話で評価の高いSSを投稿しているAmakさんからメールをいただきました。
咲夜の能力とは? 「The World」とは? 以前、私がここで書いたものとはまた違った解釈をしており、興味深い内容なのでご紹介します(本人許可済み)。

咲夜考察・Amakさんの場合(メールより部分引用)
でも、私のイメージに、彼女の能力はとても孤独なものだというのがあったんですよ。
カーズ様の言葉を借りれば『頂点は常に一人!』なわけですが、彼女は人なので。
私は、彼女の能力は『時を止める』じゃなく『望む世界を創る』だと解釈しています。
 『 the world 』
物理的に考えれば、時間を止めた世界では何もできません。
目には光が入らず、耳には音が入らず、空気は動かず、物は動かせない。
だからあまりにも都合が良すぎるんですよ、あの彼女の能力は。
『彼女の望む世界』を創り『他人の世界』と摩り替える――手品のように――それが彼女の能力かと。
それは誰もが持っている自分と他人の境界を、誰よりもはっきりと自覚することではないのか。
だからこそ『プライベートスクウェア』彼女だけの世界。
だからこそ『パーフェクトスクウェア』逃れられない孤独の檻。

そして
『彼女の道標は月時計』
とAmakさんはメールに書かれています。様々な想像を巡らせることができる文だと思いませんか?
私は以下のように想像を巡らせました。
狂気や神秘の象徴でもある月を道標として進む彼女は、他者の目には「狂気の道」を歩いているように映るのかもしれません。
しかしそれは果たして真実か?
ある意味ではそうでしょう。しかしある意味ではそうではない。
正気と狂気、善と悪の境目は主観的で曖昧なものです。いくら他人が「おまえは狂っている」「おまえは悪だ」と言っても、本人が「違う」と言えば、それはある意味で正しい。狂った道を進むことが、本人にとってはそうではなく、「最善の道」であったなら? 誰がそれを非難できるでしょう。
レミリアとともに過ごす日々をどう捉えるかは、受け手次第ということになります。

「暗い過去を背負って人の世界からやってきた咲夜が見つけた、安住の地」
……これが以上を踏まえた上での私の答えです。
Amakさんは、上の考察の直後にこう書いています。
「レミリアは唯一その孤独を癒せる存在なので、彼女はレミリアに惹かれるわけです」
偶然にも、2人はほぼ同様の結論に至っていたわけですが、これはもちろん、「絶対的な解答」ではありません。
各人で考えてみてはいかがでしょうか。また違った結論に辿り着けるかもしれませんよ。

ところでAmakさんは、あのSSを投稿した時点では、咲夜のボムに格子が描かれていることを知らなかったそうです。にも関わらずスクエアと牢獄を結びつけた発想力は素晴らしいですね。

▼2003/10/10
咲夜のスペルカード

「操りドール」はナイフが自機狙いになっています。つまり、必ず動かなければ避けられない。自機は咲夜によって操られてしまう人形、ということです。
さて「殺人ドール」ですが、同じ意味で解釈すれば自機=人形であり、人形のように殺される様ということになります。
……しかし、最初はこのように考えていた解釈に少し違和感を覚えました。
きっかけはまさに「殺人ドール」です。
殺人。人を殺すこと。
そう、人形ではなく、人なのです。「殺人」の後に「ドール」が並んでいる以上、殺す対象が人形であるという解釈には無理があるのではないでしょうか?
では、一体ドールとは何なのか。

ここでいう人形とは咲夜自身のことです。
ナイフで霊夢たちを操ってみせるのは咲夜。
殺してみせるのもまた咲夜ということです。

以前咲夜考察をした際に(過去ログを参照)、彼女が凄惨な過去を持っている可能性を取り上げました。これを論拠とします。
牢獄を意味するパーフェクトスクエアとプライベートスクエア。
閉ざされた空間と心。
人間の世界を去った咲夜。
彼女はなぜ幻想郷にやってきたのか?
彼女がナイフで人間を切り裂いた可能性は?
――こうした推察をもとに考えれば、殺人ドールとは機械的に人殺しを行う様と連想できます。
同様の解釈は操りドールにも当てはめることが可能ですが、自機と咲夜のどちらを主観にしてもそれぞれの解釈が成り立ちますね。

もっとも東方は弾幕ごっこであり、決して誰も死なないということになっています。
どんなに重い設定があったとしても、登場人物は基本的にそれを表に出しません。
軽妙な会話と相まって、幻想郷に殺伐とした空気はないのです。それが作品の雰囲気であることは前提として押さえておきたいところです。

余談ですが、ドール=doleとした場合はどうなるでしょう? 代表的な意味はこのようになります。
「施す、与える。悲哀、悲嘆」
どちらも意味が通りそうです。特に後者は、同様に以前の咲夜考察を前提とするのであれば、彼女の過去をこれに当てはめることができます。
ただしdoleの発音はドウルに近く、一般的にドールという表記は行わないようなので可能性としては低くなりそうです。解釈としては面白いと思うんですけどね。

▼2004/03/22
咲夜の目の色はなぜ違う?

紅魔郷では紅。
妖々夢では青。
果たしてどんな理由が?

紅魔郷で思い出したいのは、ゲーム全体を通しての色遣い。
暗い一面、青い二面から始まり、いよいよ紅魔館へ進んでいく三面の空は紅。
待ちかまえる門番は「紅」美鈴。
四面で再び暗い魔法図書館へ踏み込み、五面で館の内部へ。
紅の館。咲夜の瞳は射抜くように紅い。
六面は暗い空に深紅の月。君臨するスカーレットデビル――血の紅。
EXTRA:東方紅魔狂。弾幕ごっこをするのはその名の通り、狂った紅の悪魔。

一方の妖々夢ではストーリー通り、青と白で構成される冬のステージから始まります。
チルノやレティの服も青系と白。弾幕の色も同様。
二面以降ではだんだんと春に近づいていくため、紅魔郷と比べると統一された色彩ではありません。これは全体で冬と春が対比される構成でもあるからでしょうが、冬に閉ざされた幻想郷というバックストーリーがある以上、青と白は重要な色でしょう。

このように、二つの作品には象徴的な色が存在します。作品世界の入り口であるタイトル画面やパッケージからもそれが窺えます。
同様に、他のキャラの色遣いにも注目したいところです。例えば小悪魔や美鈴の髪が赤いのも意図があるように見えます。パチュリーに外見的な赤はありませんが、火にまつわるスペルに関連を見出すことができそうです。
(細かい箇所として、ルーミアやチルノのリボンが赤いのは……? さて、どうでしょう)
さらに曲名にも同様の要素がたくさん入っているのが分かります。
咲夜の瞳の色は、こうした観点から変更されたのではないかという仮説を立てたいと思います。

作品の象徴的な色がなぜ咲夜の瞳に反映されているのか……もし深い部分があるのなら、明らかにされる時が来るかもしれません。
作品世界に閉じた解釈をするならば、現時点で私は「状況によって彼女の目は紅くなる」という説の賛同者です。
余談ながら、去年トーナメントに投下したショートショート「不変の月」で私見に基づいた描写をこっそりと混ぜておきました。あの世界においては「レミリアとのささやかな契約」が瞳の色の伏線になっているということを、一説として匂わせています。

今は次回作、永夜抄を楽しみに待ちたいと思います。タイトルから色々なことを考えてしまうのは私だけではないでしょう。
咲夜がどんな形で登場するのか(あるいはしないのか?)、気が気ではないのですヨー。

※先日、永夜抄のスナップショットとシステムの一部が公開されました。咲夜はプレイヤーキャラで登場。その瞳は……青、です。しかし妖々夢よりも暗く、黒に近い青。さあ、どうなるんでしょうか。

なお「不変の月」の描写というのはこの一文。
> 月の色に染まっていた目が細められた。
支援として投下した時のものです。これを分かりやすくしようと、自分のサイトにアップするにあたって、
> 月の色に染まっていた青い瞳が細められた。
と変更しています。当時、妖々夢を踏まえて「瞳の色は赤や青だけでなく様々に変わる」という意味を込めて「透明な」という抽象的なフレーズを含めようかと考えていましたが、考え抜いた結果やめることに。

ところで、目の色と咲夜について考えるとき、Amakさんの作品を思い出します。
「ハートのジャック」で咲夜をワイルドカードとして描いているところが、瞳の要素にも一致して見えたからです。

 


考察:魂魄妖夢、式神、他

▼2003/08/29
十界

5面ボス妖夢のスペルカードはすべて仏教の思想、その用語に基づくものになっているようです。「十界」という仏教における生命観です。ちなみに「じっかい」です。「じゅっかい」ではなく。「十時十分」を「じゅうじ・じっぷん」と読むのが正しいのと同じことです。

地獄界(じごくかい)――苦しみに縛られた、最低の境涯。
餓鬼界(がきかい)――欲望が満たされずに苦しむ境涯。餓鬼=死者。飢えた死者の、食物を欲するありさまから。
畜生界(ちくしょうかい)――他を顧みない、目先のことしか見えないといった「愚か」な境遇。畜生=獣などの動物(これは古代インドの表現)。
修羅界(しゅらかい)――他人に勝ちたがる念。強者にへつらい、弱者を軽んじる曲がった心。裏表。修羅=阿修羅(争いを好むインドの神)。
人界(にんかい)――平静な生命の状態。人らしい境涯。
天界(てんかい)――欲を満たしたときに感じる、喜びの境涯。ただし、いずれは薄らぐもの。
声聞界(しょうもんかい)――仏の教えを聞いて部分的な悟りを得た境涯。
縁覚界(えんかくかい)――実体験などを通し、自分の力で部分的な悟りを得た境涯。
菩薩界(ぼさつかい)――仏の悟りを得ようと努力し、人のためを思って行動する境涯。慈悲の体現。
仏界(ぶっかい)――仏陀(釈尊など)が体現した究極の境涯。無上の慈悲と智慧で人々を導く。

このうち「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」を「六道(ろくどう)」と称し、「声聞・縁覚・菩薩・仏」をまとめて「四聖(ししょう)」といいます。
六道はインドの世界観で、「生命が流転する世界を、六つに大別したもの」。
四聖は「仏道を修めていくことで得られる境涯」のこと。
また、声聞界と縁覚界をまとめて「二乗(にじょう)」と呼びます。これは小乗教の修行で得られる境涯。
さらに「地獄・餓鬼・畜生」は苦悩に満ちた境涯なので「三悪道(さんあくどう)」。修羅を加えて「四悪趣(しあくしゅ)」とも呼びます。

……以上、表面的な知識でしかないのですが、おおよそこういう感じです。
詳しく調べていないのですが、宗教・宗派によって名称が異なったり、数が少なかったり、十界全体の解釈が異なったりといった差異があるようです。上の説明は、「そのうちの一説」程度に捉えていただければ、と。キリスト教にも似たような思想があるとか? まったく裏を取っていないのですが。
妖々夢においては「人界剣」を「じんかいけん」と読んでいたので、これは恐らく「にんかいけん」が正しいのだろう、と思った次第。

十界のそれぞれの意味合いについてですが、妖々夢に限って言えば、これは当てはまらないかも。これは十界を「生命に備わる十種の境涯」と捉えた法華経の考え方です。十界を 「別々に存在する世界」と捉える他の経典では、また違った意味合いになってきます。……相当調べないと、これはまったく歯が立たない予感。
陰陽道、道教にまつわる世界観を持ち込んでいるように思われるので、妖々夢の関連知識を求める人はこれらの資料をあたるのがいいかも。

▼2003/09/01
妖々夢の小話(推測を含む)

西行法師は、反魂の術を使うことができたという。ラストスペルが「反魂」であること、桜がキーであること、弘川寺がスペルカード名になっていること、死者の復活がストーリーの要点であること、西行法師の歌が作中に登場するところなどに絡む。

十二神将とは、安倍晴明が一条戻橋の下に封じ、使役した式神たちのこと。現代において十二神将は京都の新薬師寺で見ることができるが、晴明のそれとは異なるという説も。

道満晴明とは陰陽師・芦屋道満と安倍晴明のことだが、「ドーマンセーメイ」が各地に広まっていくにつれて発音が「ドーマンセーマン」に変化したものともいわれる。

修羅剣「現世妄執」の意味するところは、死者が蜘蛛の糸を伝って甦ろうとする様子である。赤弾と青弾が死者(あるいはその魂)を。妖夢が下に伸ばす白いもやは蜘蛛の糸を表すと思われる。修羅剣である理由は、死者が「我先に上へ登ろう」とする勝他の念(しょうたのねん)が働いているため。修羅界が、他人に勝ろうとする争いの心を特徴とすることに由来する。なお、赤弾と青弾を下に突き落とす妖夢は、恐らく芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に登場する男「かん陀多」に対応する(「かん」は牛偏に建。

修羅剣「現世妄執」については、2chのスレ住人の発言がもとで気づいたものです。「蜘蛛の糸」という点をここで読まなければ、「修羅界」との兼ね合いに気づくことはなかったでしょう。何スレだったかは忘れてしまいましたが、名無しさんに深く感謝。

▼2003/09/22
修羅剣「現世妄執」訂正

> なお、赤弾と青弾を下に突き落とす妖夢は、恐らく芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に登場する男「かん陀多」に対応する。

訂正します。妖夢に対応するのはかん陀多ではなく、釈迦です(本文では「御釈迦様」と記述されています)。
弾幕をよく見たところ、妖夢が下に垂らした白いもやが消えた後に赤玉と青玉が落ちてきます。つまり、糸がプツリと切れて落下する亡者たちを表現していると思われるのです。
かん陀多は、「この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ」と言ってしまったために、地獄から逃れる機会を逸してしまいます。児童書か何かで読んだ蜘蛛の糸は、かん陀多が亡者を蹴り落とす描写があったように記憶しています。原書と違う内容にも関わらず、うっかりこちらを前提として解釈してしまいました。

ちなみに釈迦は仏陀、釈尊とも呼ばれます。
釈迦という呼び名は釈尊の出身である釈迦族に由来するもの。
釈尊は釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)の略。
仏陀とは悟りを開き、仏の境地に至った者……のはずです(詳細をまだ理解できていません)。
彼の教えが現在、仏教として世界中に広まっています。数々の教えを説いたため、宗派が多数存在している上、教義の解釈によりさらに内部で分裂があったりします。
が、一部のカルト教団は、こじつけることで殺人や虐待を正当化していたり。これはそもそも「宗教」ではないため大却下。当たり前です。

▼2003/09/01
餓王剣「餓鬼十王の報い」
Prominence(現在はサイトが消滅しています)によれば、十王とは時に閻魔だけを意味することがあるようです。十王=閻魔と仮定すれば、「報い」が意味を持って繋がってきます。死者を裁くこと、これ自体が「閻魔が犯している罪」であるため、閻魔は一日に三度、従えている獄卒らによって罰を与えられます。焼けた鉄板の上に押しつけられ、溶けた銅を口に流し込まれるという罰です。これが閻魔の受ける「報い」であり、カード名と一致するというわけです。ただ、Prominenceでも書かれている「餓鬼十王=閻魔」説を裏付ける資料が見つからなかったため(ごめんなさいごめんなさい……)、ここでは仮定の話となることをご容赦願いたく。

ちなみに鎌倉・円応寺に閻魔(通称:笑い閻魔)をはじめとする十王の像が安置されています。上の話はここで仕入れたものです。とても小さな寺ですが、興味深い解説が読めるのでおすすめ。場所は鶴岡八幡宮から北鎌倉方面に徒歩十分くらいかな? 近場にもいいスポットがたくさんあるので、散策してみてはいかがでせうか。

▼2003/11/24
人界剣「悟入幻想」の見立て

ZUN氏本人がコメントを出しており、当然これが答えとなります。後は受け手の解釈しだいでしょう。

「人は気を抜くとすぐに悟った気になる。その勘違いで天に昇る魂に飲まれる事無く、人妖を狙い撃ちたい。それにしてもこの衆愚の魂達は鬱陶しい・・・。(ZUN)」
東方シリーズ人気投票・弾幕部門結果ページより引用)

「努力の結果、悟界の境地に到達できた」と思う人間たち。しかし、実は人の境涯(人界)から脱しきれておらず、それはただの幻想にすぎない……ということでしょう。これがスペルカードの名称の由来だと考えられます。衆愚の魂とは、もちろん画面下から立ち上る青弾を指します。
過去ログ8/29で触れた十界についてですが、そこでは「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」を「六道(ろくどう)」、「声聞・縁覚・菩薩・仏」をまとめて「四聖(ししょう)」呼ぶのだと書きました。しかし別の宗派では四聖ではなく「悟界」といい、残りを六道ではなく「迷界」と呼ぶのだそうです。妖々夢の世界観ではこちらを採用しているということですね。十界の捉え方、それぞれの観念も根本的な部分から異なってくるはずです。

ところで、ZUN氏のコメントは誰の主観となるのでしょうか?
主人公側に立ったコメントである可能性も考えました。しかし、悟りや十界といった観点で物事を考える人物は、恐らく妖夢以外にいないでしょう。鬱陶しいという青弾を発生させるのは彼女自身ですが、これは攻撃のために呼び寄せると同時に、魂たちに飲まれる事なく敵に打ち勝つという、自らへの試練を課している構図とも解釈することができます。悟界の境地を体現できる者ならば、衆愚の魂などに迷わされることはない……ということなのかもしれません。「狙い撃ちたい」とあるのは、妖夢が飛ばしてくる「自機狙いの赤弾」に繋がるのでしょう。
エンディングの台詞もそうですが、私の中で妖夢は硬派で格好いいイメージがあります。「衆愚の魂」なんて、蓄積なしでは浮かばないフレーズです。そして生真面目さは登場人物中随一。だからいじられやすいという不遇なキャラになっています……先代と比べるとずいぶん未熟であるという設定が余計にそうさせてしまうのかもしれません。そういえば「この衆愚の魂達は鬱陶しい……」って、微妙に気にしてしまっています。先代ならそもそも相手の人妖以外は意識に入ってこないのでしょう。多分。

▼2004/01/24
畜趣剣「無為無策の冥罰」とは
妖夢が使うこのスペルカードは、何の見立てになっているのでしょうか。まずは単語レベルで意味を見てみます。

無為――「何もせずぶらぶらしていること」。また仏教用語としては「因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないもの」といった意味。
無策――「何の方策も対策も立てないこと。前もって何の策も立てていないこと」
(以上は大辞林より部分引用)
冥罰――神罰、天罰……様々な名称の罰がありますが、これは神仏による罰、といったニュアンスで使われる例が多いようです。
畜趣――十界における畜生界にあたります。畜生とは動物全般、つまり獣、魚、鳥などを意味し、仏教の世界では苦しみの境涯とされます。人間に使役されたり殺されたりする境涯という見方もあれば、目先の利益に捕らわれ、理性のない本能的な振る舞いする人間の境涯という場合もあります。

では畜趣剣「無為無策の冥罰」とは何でしょう。5面EasyまたはNormalのスペルですが、弾の数が多く分かりやすいため、弾幕を確認する場合は後者をお薦めします。

緑と青の弾幕が襲いかかってきます。ここで私はひとつの可能性を考えました。
全体が 「檻」を象っているという可能性です。
なぜ檻なのか。論拠はこのスペルが畜生界の名を冠している部分にあります。背景に目を凝らして下さい。妖夢が発生させる白いもやは、幾筋も縦方向に現れています。これは「畜生を閉じこめる檻」に他なりません。上下に現れる弾幕もまた、通り抜けるのが容易ではない格子に見えます。
これは正しい考え方でしょうか。さらに考えを進めます。

「無為無策であるために冥罰を受ける者」が誰であるかを考えてみます。意味合いからすれば、無為無策が畜生を暗示していると考えて間違いないでしょう。畜趣剣の名の通りです。
霊夢たちが畜生であると考えるならば、このスペルは三人を閉じこめる檻と考えられます。しかし、これはやや不自然でしょう。妖夢の他のスペルを見れば、弾幕の中だけで見立てが完結しています。それが三人にかかってくる可能性は低いと思われるのです。同様に、妖夢でもないでしょう。十界にまつわるスペルを行使する彼女は、死者と魂たちの上に立つ存在だからです。

次にありうる考えとしては、罰を受ける者とは「上下から現れた弾=魂」というものです。畜生、あるいは畜生界にいる魂が、冥罰として檻の中でもがく様を表現しているという可能性はないでしょうか。残念ながら、これも納得のいく説明だとは思えません。もがく魂であるならば、もっと曲がりくねった弾道であってもおかしくないでしょう。直線的に動く弾は、罰に苦しむ魂には見えてきません。

これでは、先ほど書いた「畜生を閉じこめる檻」という考え方には綻びが生じてしまいます。
そこで私は、白いもやが格子を意味するという部分は堅持しつつ、さらに違う方向から考えてみました。
もう一度弾幕鑑賞室の二枚のスナップショットを見比べて下さい。上下の弾は中央で交差した後に襲いかかってきます。注目したのは「上下」と「交差」です。二枚目のスナップショットが分かりやすいでしょう。こうは見えないでしょうか。

白い格子に閉ざされた檻の中で、 獣の巨大な顎が閉ざされていく様であると。

上下から現れた弾を、獣の上顎、下顎であると考えて下さい。
全体を一匹の獣と見るのが妥当でしょう。獣を横から見た状態と考えれば、まるで妖夢を追いかけるかのように顎が閉ざされていくことに気づくはずです。彼女を喰い殺せば檻の外に出られるとでも思っているのでしょうか――
もちろん、数多くの獣が整然と襲いかかる様と見ても、間違いではないでしょう。

無為無策の冥罰を受けた畜生は、まさに「獣」として弾幕の中に存在するのです。

「あれが顎を意味するのなら、中央で止まって戻っていくはずではないか。交差して行き過ぎていくなら、獣の顎であるという意見は的外れである」――この反論に対し、真実はZUN氏のみが知り得るということを承知で言えば、私は弾幕の見立てとは「動作の完全再現とは違う」と考えています。この私見を論拠に、畜趣剣「無為無策の冥罰」の見立てを以上のように結論づけたのです。

▼2003/09/10
魂魄トリビア&妖夢考察

●呪禁道には小動物の魂魄を操ることで呪いを発動させる術があった。蠱毒(こどく)である。厭魅とともに権力者たちの間では非常に恐れられた。律令ではこれを教えることすら重罪としている。民衆の間に広まった呪術は禁止され、取り締まりを受けている。

魂魄を用いる術の一例。あまりにも広範な関連事項があると思われるため、とりあえず知っていることだけ書いてみましたが、蠱毒と妖夢は関係ないでしょう。
大辞林によると、魂魄=「魂は精神を、魄は肉体を司る魂。死者の魂。霊魂」となっています。
ちなみに妖夢が操る幾多の小弾は、魂魄を暗示している可能性が高いです。死を操る幽々子の警護役ですから、縁が深いのも当然。裏付けとしてスペルカードの存在があります(先日書いた現世妄執)。ここから考えを広めると……

●妖夢の「庭師」としての仕事は、幽々子が連れてきた魂魄を世話することである。

幽々子が死に誘った人間や妖怪は、魂魄(幽霊?)となって「西行寺家の広大な庭」に辿り着くのかもしれません。そこにいるのが妖夢です。

> 一振りで幽霊10匹分の殺傷力を持つ長刀「楼観剣(ろうかんけん)」と、人間の迷いを断ち斬る事が出来る短剣「白楼剣(はくろうけん)」を使い、庭を手入れしている。
(キャラ設定txtより引用)

白楼剣=死人の迷い、すなわち生前への未練を断ち切ることで、冥界の住人となす。
楼観剣=幽霊(魂魄)を殺すことができる=死者への優位性、警護役としての武器。あるいは、魂魄を「殺し」て、転生させることができる。

剣の由来は調べていないので不明ですが、このような考え方も可能ではないでしょうか。十王を冠したスペルカードから、妖夢が死者の輪廻をも司っている可能性があります。つまり、庭師とはこれらの仕事をすべて含んだ役割なのではないか、ということです。先代がやはり魂魄の姓を持っていることからも、世襲による重要な役割であることが予想されます(単に親子だから、という可能性もあり)。
庭の広さは二百由旬となっています。獄界剣「二百由旬の一閃」と一致するのは、庭のすべてを影響下におけるからでしょうか。だとすると、獄界の解釈が難しいのですが――。
ところで桜の世話や花見の片づけも妖夢の仕事のようです。後者はともかく、桜の下には死体が眠っているといいますので、幽々子が作った「それ」を管理するのも、やはり彼女なのでしょう。多分。しかし幽霊が花見をするあたり、この世界はとても平和なもののように思われます。

申し訳ないですが、今日の考察、後半部はあまり裏が取れていません。想像による関連づけに終始しています。資料が手に入れば補強、または別の説が紹介できる……かも。
今日はまず、「庭師という名称は表面的なものである」という仮説を立てて、頭にリセットをかけてみました。どうでしょうか。

▼2003/12/05
「広有射怪鳥事〜Till When?」とは何を意味するのか

同名の説話が「太平記」に収録されています。おまけtxtにある通り、広有とは隠岐次郎左衛門広有のこと。彼が「いつまで、いつまで」と鳴き声を上げる怪鳥を射倒すこの話は、ZUN氏が「ただのダジャレなので気にせず」とコメントしているサブタイトル、「Till When?(いつまで)」の由来になっています。怪鳥を「以津真天」と紹介する文献もあるようですが、太平記にはただ「怪鳥」と記載されているのみで、特別な呼称は持っていません。
この怪鳥は「(疫病などで倒れ)打ち捨てられたままの死体を、いつまで放っておくのか」という意味で鳴いていたとのこと。今作で関係がありそうなものは西行妖の下に埋められている幽々子の死体。または生と死の境で存在し続ける幽々子。
「いつまで?」
恐らく永遠に……でしょう。

幻影城の日記2003/12/04で触れられていた疑問に、ささやかながら自分なりの解答を書いてみました。

 


考察:博麗霊夢、霧雨魔理沙、他

▼2003/09/05
パスウェイジョンニードル

ほんのひなんじょにてコメントをいただきました。ありがたや。

> パスウェイジョンをpersuasionと考えるといきなり普通に調伏に使いそうな名前になったり。

をや? ……パスウェイジョン? バスウェイジョンじゃなく?
(;゚д゚)焦る→辞書を引く→バスウェイジョンなんて載ってない(;´Д`)→パスウェイジョン「宗教、説得、etc..」
結論:パスウェイジョンだった。

なお
博麗神社で丑の刻参りをする人っているんだろうか……などと想像してみるテスト。
もう夏も終わりだからネタとしては使いにくいですか? そうですか。

▼2003/09/21
魔理沙に思うキャラ性能

今回レーザーの攻撃能力がえらく低くありませんか?
すきまの人と戦っているとき、いつまで避け続ければいいのか分からないんですけど……通常攻撃をノーミスで抜けるが意外と大変で。
他の5タイプではクリアできているのに、真っ正面の狭い範囲しか攻撃できないレーザーは、何というかもう。
ミサイルは桜点の上昇率が高く、針巫女と同様に攻撃範囲が横にも少し広がっているため、何とかなるわけですが。もちろんプレイヤーとの相性という面もありますが、しかし辛い。

……そうか、分かったぞ。
そこは「努力で何とかしたまえ」という、ZUN氏からの無言のメッセージなんだ。
キャラのスタイルがプレイヤーにも反映されるということに違いない。

魔理沙=努力家=簡単には達成できない。陰で努力を積み重ねる必要あり。
咲夜=要領がいい(?)=手軽にクリアできる(幻符)。動かずに画面端も攻撃できる(時符)。
霊夢=天才肌=間一髪の状況でなぜか避けられる。食らいボムがしやすい。スイスイと進めてしまう。

既出ですが、魔理沙の場合、蒐集家という設定が「低い位置でアイテムを回収できる」という形で反映されています。
だから魔理沙でのクリアが辛いというのも、それを反映したものなのでしょう。
咲夜と比べてボムは半分しか持てないわ、正面キープのために避け技術が問われるわでエキスパート向けキャラになってますが、つまりそういうことなんですね。きっと。
果たして、それでも使い続けられるか?
私は少し挫折風味です。

▼2003/10/11
カゴメカゴメ

童歌の名を冠したフランドールのスペルですが、元々の歌は謎に満ちており意味合いが明確ではありません。
「カゴメカゴメとは、自機を“囲む”ことを意味する。手を繋いで円陣を組む子供の遊びでもそうではないか……」
東方においてはこういった意見が代表的であり、そうした意味合い、思考は確かに含まれていると思われます。
噂話やネットの文章においては都市伝説的な解釈も多数ありますが、先日書いた思緒雄二「送り雛は瑠璃色の」に、民俗学的な解釈をした一文を発見しました。これはもう、全般に渡って東方と絡んでくる内容なので、そのまま引用した方が早いでしょう。思緒氏の後書きに折口信夫氏や柳田国男氏の名が出てきており、ZUN氏が「遠野幻想物語」などを名称に持ってきているという関連から、両者が近い視点を持っている可能性は高そうである、と予想できます。
以下、括弧で括った部分は創土社版p51、パラグラフ28からの引用です。

「修験道において、九字とは臨兵闘者皆陳列在前の九字であり、九字を切るといえば右の親指にて四縦(縦に四線)、五横(横に五線)を空中に描き、“急急如律令”を呪文として唱えることである。」

この後、九という数字の神秘性は古代バビロニアにまで遡り、日本においては陰陽と五行思想的組み込み方をされたのだと述べ、次のように続きます。

「山岳信仰、雷神、気をつけるべき暦神であり、忌むべき八方位を教える八将神と、その外に巡る最も畏ろしい“外なる神”=金神の信仰、翻って、鉄、戦乱、鍛冶師と一つ目、針と一つ目との相関などとに関連していったものと思われる。そのようなわけで、事八日にやってくる一つ目小僧に対抗して目籠を軒先に掲げるのは、“一つ目”にたいする“多くの目”の優位のみならず、この“九字”の格子模様から出た民間呪術的連想なのではないかという気がするのである。わらべうたの“かごめ、かごめ”とは、“かがめ、かがめ”というより“籠目、籠目”という呪的言葉で、籠の編み方によって違いがあるが、“九字”の格子、五芒や六芒星の魔的紋様を指しているのではあるまいか。古代において、籠とは神霊の類が再生(羽化)のためこもる繭であったり、また様々な邪神を捕らえ封じる容器とみなされていた節がある……」

九字を切る仕草を線で書き表せば、スペル「カゴメカゴメ」の弾幕に瓜二つ。
ただし、縦横の線数は異なっているようです。
ちなみに「送り雛」は2003年に待望の復刊を果たしました。民俗学を絡めたストーリーテリングが高い評価を得た名作中の名作です。古くからのゲームブックファンにもぜひ読んでいただきたい一冊。

▼2004/05/25
カゴメカゴメ2

トマトジュースといえばカゴメ。カゴメといえばトマトケチャップ。
説明の必要がないほどの有名企業です。ところで、その名前。

「カゴメ」はその昔、「籠目」だったという記事がありました。

以前スペル「カゴメカゴメ」の項目で触れたところですが、まさかあのカゴメまでも「籠目」だったとは……!
カゴメカゴメの弾幕は九字を切る形に似ていると書きました。
「籠を軒先に吊すのは、鬼がそれを恐れるため」とされます。それは目籠の底が六芒星(清明九字)にあたるためだと。魔除けとしての籠目は、上記の六芒星であったり、縦横に線を引いたものであったり(九字。縦横之秘法門といった術もある)。
六芒星は弾幕の中に入っていません。あえていえば斜めの弾がそれを思わせますが、「縦横斜めに編まれた籠目そのもの」と捉えた方が自然かもしれませんね。

さて、どうもこのスペルは子供の遊びという意味合いが重視されている気がします。
「一緒に遊んでくれるのかしら?」
「何して遊ぶ?」
「弾幕ごっこ」
それは結構ですが「コインいっこ」じゃそれなりに厳しめなので、ちょっとコンティニューさせてもらえませんか。
ダメですか。
そうですか。

おや? 記事を紹介をするだけの予定が、気づけばスペルの再考になっていましたというお話。
……それじゃ、ちょっと行ってきます(←コインいっこ握りしめて右手を挙げる

 


考察:リリーホワイト関連

▼2003/10/14
とりとめもない考え

リリーの春を伝える行為、三人にとってはただの攻撃だった。
もしかしてリリーって喋れないのだろうか? そういえば、スペルカードと会話がありません……もちろんこじつけであり、連想に過ぎないのですが。これを膨らませると、なんだかいっそう哀れなキャラクターになりそうです。ふとキャラ設定txtを読んでみると、

> ゲーム中では一切の台詞は無く、スペルカードも使えない。
(キャラ設定より)

……ゲームの外では喋ってるというニュアンスみたいですね。自己完結してしまいました(をゐ
あ、トーナメントでは冒頭で出てきますね。しかしさすがに相手が悪いか。

▼2004/03/22
リリーホワイトの服はなぜ白い……?

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは」
妖々夢のタイトルの由来というこの一文。白という色が気になります。春の曙=春の到来という意味に解釈すればリリーの服が白いのも当然なんじゃないか、などと考えている明け方の今。
もちろん続くのは次の一文。

「少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」
紫だちたる雲。言葉としては八雲紫にもかかるか。

▼2004/04/03
追記:リリーホワイトと色について

2004/03/22にて、リリーの服が白いのは「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは」にちなむのでは、という仮説を立てました。今日はそれに補足をしたいと思います。
タコパレラ星人の宇宙船4月1日、しらゆりの部屋でナイスなスナップショット群。テキストとともにじっくり見ていきましょう。
……気づいたでしょうか。
弾幕が取り払われた背景に「白い山際」が描かれていたことに。
実は、これを見るまで気づいていませんでした(何度も何度も通過したシーンなのに……)。プレイし直してみれば、3面からずっと暗いままだった周囲がリリーの登場と同時に明るくなっていくことが分かります。つまり、彼女の登場シーンはまさに「あけぼの」と重なっていたのです。
私はこれを、ZUN氏による計算された演出だと予想しますが、皆さんはどう思われますか。

ちなみに山際というのは「山の稜線と接する空」のこと。
「空に接する山の稜線」は山の端。
――嗚呼、古典の授業で覚えた知識がまだ残っている。素晴らしきかな(ぇー


考察:八雲紫と西行寺幽々子

▼2003/09/26
八雲紫考察:十一枚のスペルカード
「罔両(もうりょう)」という語は魍魎と書かれることもあり、食屍鬼の一種とされる。しかし、この場合は違った意味で使われていると見て間違いないだろう。
罔両の別の意味は「影の周りの、ぼんやりとした薄影」。
影ではなく、光の当たった部分でもない――その境目のことだ。

罔両「ストレートとカーブの夢郷」――両者の境目が活路(生存可能な空間)である、の意を寓するか。
罔両「八雲紫の神隠し」――境界に迷い込む人間たち。あるいはその境界に身を隠す紫。
罔両「禅寺に棲む妖蝶」――妖蝶=紫の存在そのものか。

スペルごとの意味合いは不確かで、以上の解釈はこじつけの域を出ない。
しかし重要なのは、多くが「境界」というキーワードに基づいた命名をされているということである。
同様に、大部分のカードは相対関係をなす要素を持っている。

結界「夢と現の呪」
結界「静と動の均衡」
結界「光と闇の網目」
「人間と妖怪の境界」
結界「生と死の境界」

冠されているのは罔両、結界であり、やはり境目と分かたれる世界を暗示している。
「すきま妖怪」とは言うまでもなく、これらと関連づけられているものだ。

下へ続く。

▼2003/09/27
八雲紫考察:紫、その名前の意味
ゆかりと発音するが、文字にすると「紫」である。
紫は、宗教的、高貴さ、神秘、不安といった意味合いを持つ。セラピーの世界では不安を癒すために使われることもある。
また、赤と青の二面性を併せ持つ色であるため、これも境界にまつわるものだと考えることが可能だ。赤と青、本能と理性、不安と癒しである。
一例として、魍魎「二重黒死蝶」で放たれる弾もまた赤と青。他にもこの二色で表現されたスペルカードが複数あるが、境界をなくして(あるいは曖昧にして)混ぜ合わせれば紫色となる。
二重黒死蝶において、赤青の弾は左右別々に動く相対関係をなしている。対照的な動きをするスペル、二という数字がキーになるスペルもまた複数あるのだが、これも「境界」を表現した動きと言えるだろう。

紫は古来より世界各地で「高貴な色」とされていた。日本においては冠位十二階の最上位を意味する色は紫であり、その後の時代においても貴族の色として使用された。身分だけでなく、気品や風格といった美しさの象徴でもあったという。八雲紫の貴婦人を連想させる風体は、恐らくこれに由来するのだろう。
中国では五行や北斗信仰とも関連する色だという。陰陽道や式神といった要素と結びつく部分であり、紫という名前は多方面から意図的に関連づけられていることになる。

また、紫には全く別の意味合いもある。それは「死」である。
日本ではかつて葬式に用いており、西洋でもミサに使用できる色のひとつとされる。
境界、相対関係という面から言えば、「死」に対応するのは「生」となる。
スペルカード、結界「生と死の境界」は言うまでもない。そして紫奥義「弾幕結界」も同義の言葉として受け止めることができるだろう。
まさに弾幕が「生と死を分かつ結界」だと解釈できるからだ。
「あなたは、すでに私の結界の内にいる。ここに居る間は夜も明ける事はない」
この紫の台詞からすれば、結界の中とは光明の見えない死の世界だ。結界の綻びを見つけ、生の世界へ出られるかどうか――プレイヤーの腕の見せ所である。八雲紫のテーマ曲「ネクロファンタジア」は、彼女の存在が死の要素を兼ね備えたものであることを裏付けていると言える。

> 生きているうちは、死を味わうことが出来ない。
> 死は常に生の幻想である。
(ZUN氏のコメントを引用)

さて、「紫色と死」――この二つの要素にはもう一人、関連の深い人物がいる。
西行寺幽々子である。

余談
八雲は八(夜?)蜘蛛の意か。咲夜との会話に蜘蛛の糸、夜は明けない、といった言葉が出てくる。通常弾幕が蜘蛛の巣に見えないこともない。
あるいは「八雲立つ」の歌を引き合いに出せば、八重垣を弾幕とかけて連想できるが、やはりこじつけの感が強い。
よって余談ということで。

▼2003/09/28
八雲紫/西行寺幽々子考察:蝶
中国から日本に伝わった、蝶を長命の象徴とする思想がある。
しかし逆に(あるいは関連が深いためか)、蝶は「魂」や「死霊」を暗示する存在とされる。
「紫」そして「蝶」。ともに世界中で様々な意味合いを持って語られる言葉だが、ここから幽々子が「蝶弾」を使う理由が見えてくるのではないだろうか。
特に紫色の蝶弾は象徴的なものとなる。
死と魂と霊の暗示であり、比喩である。蝶弾は死者の霊、あるいは魂そのものなのだ。幽々子自らが死に追い込んだ人間のものも多数含まれていると思われる。
スペルカードにはまさにバタフライの名を冠したものがあり、一方の八雲紫にも魍魎「二重黒死蝶」がある。

幽々子はともかく、なぜ八雲紫に蝶が結びつくのだろうか? ひとつは、前回書いた「紫色=死」という関連性。
もうひとつは――

荘子の話に「胡蝶の夢」というものがある。
荘周は夢の中で蝶となり、自分が人間であることを忘れて羽ばたいている。しかし、目覚めれば確かに人間荘周である。果たして、荘周が夢の中で蝶となったのか、蝶が夢の中で荘周となったのか判然としない……。

以上のような内容だが、「夢と現実の境」が曖昧になるこの要素は、まさに八雲紫と一致する。彼女がほとんどの時間を眠って過ごしているという設定は、これを踏まえたものなのかもしれない。眠りは魂が遊離する時間である、という説もある。
なお、胡蝶の夢には上記の他に、「この世の生の儚い例え」という意味もあり、こちらは幽々子に似合う。果たして偶然だろうか。
二人が旧知の仲であるという設定が思い起こされる。

そして胡蝶の夢は、このように締めくくられる。

――荘周と蝶は曖昧であっても、しかし、確かに区別できるものである。これを「物化」という。

妖々夢においては、「結界を張り直すことで境界を明確にした」というPhantasmステージのエピローグに対応する可能性がある。

もしかすると亡郷「亡我郷 -さまよえる魂-」も蝶との関連があるかもしれない。
忘我とは前述の胡蝶の夢における荘周を連想させるからだ。
ただし、 このスペルカードについては別の捉え方もある。日を改めて書いてみたい。

▼2003/10/01
幽々子考察:亡我郷
> 元々、幽々子は死霊を操る程度の人間だった。それがいつしか、死に
> 誘う程度の能力を持つ様になり、簡単に人を死に追いやる事が出来る
> ようになっていった。彼女はその自分の能力を疎い自尽した。
(キャラ設定txtより引用)

幽々子のスペルカード「亡我郷」。難易度が上がるに従って「さまよえる魂」「宿罪」「道無き道」「自尽」となっていくのは、生前の幽々子が死に至る過程に対応しているような気がするのです。
死霊を見て操る程度であった能力が、次第に強力なものになっていく。それが彼女の宿罪なのか、人を死に至らしめてしまう幽々子。それはまったく先の見えない、道無き道だったでしょう。そして苦悩した彼女は、これ以上人を死に追いやることのないよう、ひとり自尽する――。

ただの偶然でしょうか?
亡我郷とは、胡蝶の夢ではなく、あるいは以下の文に近いのかもしれません。

> 願うなら、二度と苦しみを味わうことの無い様、永久に転生することを忘れ・・・
(キャラ設定txtより引用)

「亡我」とは文字通り自分自身の死を意味するとともに、「忘我」でもある……それは二度と戻れない、忘れてしまった郷地である「生前そのもの」を意味し、そこから「亡我郷」と名付けられているのではないか――このように思います。
過去を忘れた幽々子が苦しむことは、もうないでしょう。それはひとつの「救い」なのかもしれません。

なお、幽々子自らの消滅に繋がるため、決して西行妖は満開にならない、とあります。
西行妖が開花しつつも満開を迎えずに散っていく。そのときシルエットとしてぼんやりと浮かんでいるのは、西行妖を再び封じる存在――つまり、木の下に眠る幽々子ではないでしょうか。
死した彼女の意志だけは、確かに生き続けているように思われます。

『な……なんだってぇ〜〜〜〜!!!??』
「俺たちは、とんでもないことを見落としていたのかもしれない!」(をゐ
ほんのひなんじょで幽々子戦考察。「東方私見」へどうぞ。
スペルカードの並びそのものを反魂の儀式と読み解きますか。その考え方は全く頭にありませんでした。
確かに面白い推理ですね。

▼2003/10/02
幽々子考察:富士見の娘
キャラ設定テキストには以下の文章があります。

>  「富士見の娘、西行妖満開の時、幽明境を分かつ(死んだという事)、
>   その魂、白玉楼中で安らむ様、西行妖の花を封印しこれを持って結
>   界とする。願うなら、二度と苦しみを味わうことの無い様、永久に
>   転生することを忘れ・・・」

富士見の娘=幽々子であることは、この後に明記されています。
さて、古文、特に歌に多いのですが、ある言葉に別の言葉をかけて別の意味を持たせている場合があります。例えば伊勢物語に出てくる「住吉(地名)」と「住みよし」、「海渡る」と「憂みわたる(辛く思って過ごす)」などです。
そこから、冒頭の「富士見」に「不死見」――不死を見る、という意味をかけている可能性を考えました。

>  生きていることを説明するには、死んでいるものが必要である。
>  だから、死なない生き物は存在し得ない。生きていなければ死ねないし、
>  死なない生き物は生きてもいない。
(曲コメント「ボーダーオブライフ」より引用)

不死の存在をどう捉えるかによって解釈が変わる部分ですが、ここでは「死なないもの」=「すでに死んでいるもの」と解釈します。
不死見とは「死者を見る」意となり、亡霊を見て操る彼女を「富士見の娘」と表現している、という説を唱えたいと思います。

富士見とは、一般的に考えて「富士の見える場所」を連想させます。幻想郷に富士というものが存在するのか、それとも境界を隔てた人間界(我々の住む世界)の富士を見られる場所なのか……詳しくは分かりません。もしも後者であれば、旧知の仲である八雲紫が関係しているのかもしれませんね。

なお富士見=不死身である可能性も考えましたが、「死んだ身体」「死者」を寓することになり、文中の「富士見の娘」にはうまく当てはめられません。死後の彼女であれば不死身と表現してもいいと思うのですが、ここは生前にかかる部分に触れている文章なので、適当であるとは考えにくかったためです。

さて
妖々夢の「境界」で思い出した作品があります。アリスソフトの「アトラク=ナクア」。次回、少しだけこいつのネーミングについて考察を。数年前に考えたきり形にしていなかったのですが、この機会に書いておこうかな、と。
プレイしたことない人は、秀作なのでぜひ。低価格シリーズでの再販なので安いし。……十八歳未満の人は、もう少し待つよろし。
今となっては確かに地味な作品かもしれませんが、シナリオの魅力というのは時間が経っても色あせないものです。なおアトラク=ナクアといってもクトゥルー神話とは関係ないです。蜘蛛繋がりというだけで。
あ……以前、八雲紫=八(夜)蜘蛛ではないか、と書きましたが、こちらの作品の主人公も女郎蜘蛛です。なんたる偶然。

アトラク考察はこちら。どうして東方考察からリンクを張るのかといいますと、「境界」「名前の意味」「偶然では片づけられない要素の配置」といった部分が色々と関係しているからです。東方にも通じる(と私が考えている)ものがありますので、プレイ済みの人はぜひ。

▼2003/11/18
幽々子戦のこと

トーナメント本スレに投下した文章を再掲。

「ところで、>>664のノーショットリプレイを鑑賞していたところ、幽々子戦では背景が「下から上に流れていく」ことに気づきました。
ふと、ほんのひなんじょの「東方私見」を思い出したのですが、反魂の儀式は「死ぬ前後の事柄を一つずつ逆から行うことで成立する」とありました。背景が逆に流れるのはこの裏付けといえるかもしれません。」

最初はどこかに降下していく様子なのかと思いましたが、ユウ氏のリプレイを眺めつつ考えたところ、こんな説が浮かんできました。
世界の時間はいつも通り流れています(幽々子戦の制限時間は他のボスと同じく、ちゃんと減っていく)が、背景だけは逆回しになっている。これが「逆行」を暗示しているんじゃないかなぁ……と思ったんです。スペルに多くの見立てがあるなら、背景もそうなのでは……と。

▼2003/11/22
トーナメントより再掲:「亡我郷」考察

ZUN氏は「ふよふよ曲がる弾は霊体です。多くの霊達を統制出来るのは、姿形がハッキリとした亡霊姫の指揮だけ。」とコメントしています。
東方シリーズ人気投票・弾幕部門結果ページより引用)

亡我郷において、幽々子は赤いレーザーを一閃します。色とりどりの弾幕が霊体であるならば、あれは何を意味するのでしょう?
大きく振るわれるレーザーと同時に、群れをなして殺到する霊たち……あれは、亡霊を指揮する「タクト」の象徴ではないでしょうか。
亡我郷が終わった後に幽々子の背後で扇が開くことから、あれは閉じた状態の扇である(扇をタクト代わりにしている)と連想することもできそうです。
彼女の許に霊たちは集い従う。
哀しくも優雅な<<亡霊の姫>>に一票。
……ところで、ふと思い出したのがカード発動時の表情ですよ。ボケーッとしているあのご尊顔。日常では扇を扱うときにしょっちゅう取り落としていそうだなぁ……
などと愚考したりしなかったり。

▼2004/02/10
考察:牛車の意味するものは何か
幽々子の扇に牛車(御所車)を図案化した紋様があります。「源氏車」とも呼ばれるものです。意図を持った要素が数多く並んでいる以上、一際目立つデザインに意味がないとは思えません。
牛車は平安時代、貴族の乗り物として象徴的な存在だったといいます。今まで私は古典に牛車の出てくる物語があり、それを下敷きにしているのではないかと考えていました。しかし車の意味を考えていたある時、唐突に別の視点に気づいたのです。

「車輪に意味があるのではないか」と。

回転するもの、元に戻ってくるもの――車輪の動作から連想を働かせました。
妖々夢の内容と照らし合わせたとき、瞬間的に思い浮かんだ答えは「輪廻転生」。

> 幽々子が転生も消滅もせずに楼中に留まっているのも、西行妖の封印
> があるためである。
(中略)
> 何時までも幽々子は、冥界のお姫様として、
> 死に絶えた西行寺家のお嬢様として暮すのである。
>
> 幽々子が西行妖の開花を見ることは、決して無い。

キャラ設定.txtにある通り、幽々子は転生をせず生と死の狭間で存在し続けます。その彼女が御所車を描いた扇を開く。どこか物悲しい風情を感じるのは私だけでしょうか。
もう一つ、この説の裏付けとなりうる場面を挙げておきます。
五面――妖夢戦の背景です。
彼女がスペルカードを行使した瞬間、背景が暗転して下部にうっすらと浮かぶものは……そう、同じく御所車なのです。

> 白楼剣=死人の迷い、すなわち生前への未練を断ち切ることで、冥界の住人となす。
> 楼観剣=幽霊(魂魄)を殺すことができる=死者への優位性、警護役としての武器。
> あるいは、魂魄を「殺し」て、転生させることができる。
>
> 剣の由来は調べていないので不明ですが、このような考え方も可能ではないでしょうか。
> 十王を冠したスペルカードから、妖夢が死者の輪廻をも司っている可能性があります。
> つまり、庭師とはこれらの仕事をすべて含んだ役割なのではないか、ということです。

私は以前、妖夢の考察でこのように書いたことがあります。輪廻転生に深く関わる十界・十王が発想の原点でした。今回は、御所車の解釈を行った後で、それが妖夢の背景である意味を考えました。結果として、私はここに「輪廻」という一致を見たのです。
要素がここまで見事に揃うのであれば、御所車を「輪廻転生の暗示」と解釈することは十分に可能であると考えます。

余談:御所車は窓や車輪、装飾などによって様々な形状があり、多くの呼び名があるということです。幽々子と妖夢のそれに、二人の身分の上下といった設定が反映されている可能性もあります。調べてみると面白いかもしれません。

▼2003/12/02
考察:再度、八雲紫

最初は名前と通常弾の繋がりで書いた八雲紫=蜘蛛説ですが、各所での反応(ありがとうございます)を見つつ思考を深めているうちに、「これは合っている」と思えるようになってきました。今考え進めていることを少しずつ書いていきたいと思います。まずは名前について。

地方によって言い回しが異なるようですが、こんなことわざがあります。
「朝の蜘蛛は福が来る。夜の蜘蛛は盗人が来る」
傾向を同じくするものとして、「夜蜘蛛は災いをもたらすから殺せ」「夜蜘蛛は親の敵である」という言い伝えがあります。いずれも由来は不明。

> 紫は1日12時間睡眠で、夕方から真夜中にかけてしか活動しない。しかも冬は冬眠する。
(キャラ設定.txtより)

ここから、「八雲=夜蜘蛛」と解釈するのが妥当であると思います。夜の蜘蛛と盗人という言い伝えが下敷きにあるからこそ、咲夜との戦闘後に「夜の蜘蛛」と「泥棒」が話題に上ったのでしょう。
次は余談であり、私の連想によるこじつけに過ぎないのですが――「家蜘蛛」という解釈も不可能ではありません。「いえ」を「や」と読むことができからですが、「家蜘蛛」は家を害虫から守ってくれる益虫です。つまり家の守り神。さて、これを広い観点で捉えれば、「紫は境界を作り、世界を分ける守り神」とも考えられます。実際、冥界との境界が曖昧になった幻想郷は幽霊がたくさん入り込んで大騒ぎ。それを食い止めてくれるのは紫の結界なのです。
他にも紫と蜘蛛の関連を推測できる要素があります。今後、少しずつ書いていきます。

▼2003/12/05
考察:続・八雲紫

彼女が蜘蛛であることを推測できる要素として、紫のグラフィックがあります。
実は、私が紫戦で最も目を凝らしたのは、彼女を中心に回転している陣形でした。Extraでも藍が曼陀羅のようなものを背負っていましたが、ここにはキャラを象徴するものが配されていると考えたためです。
八雲紫の場合「八つの先端」を持った、雪の結晶を思わせる陣形です。蜘蛛の足の数と一致しますが、偶然でしょうか?
実は主人公三人が低速移動している時に現れるものと似ているのですが、他のボスにはなく、紫だけが終始これを背後に持っているというのは、とても暗示的だと思うのです。

そんなわけで
「霊夢と共に結界の外を見る数少ない者。境目に腰掛ける紫の、こちら側から見える姿を想像してはいけない(ヒント、お尻しか見えません) (ZUN)」
東方シリーズ人気投票・キャラ部門結果ページより引用)

私の場合、境界のこちら側(人間の世界)から見えているのは蜘蛛の下腹部だと考えていました。そこから糸を吐き出し、幻想郷への隙間を隠しているのか――と。紫の持っている諸要素から想像すれば、その姿はグロテスクなのかも。ZUN氏が「想像してはいけない」と書いているぐらいですし。

▼2004/02/19
紅魔郷のキャラセレクト画面にもあの結晶が?
幻影城2004/2/18日付けの日記にて。
Σ(゚Д゚;≡;゚д゚)ほんとだ!
紫や低速移動時のバックに表示される模様が紅魔郷にもあったとは気づきませんでした。
私の場合、以前の考察で「紫の背後のアレは蜘蛛の暗示」と結論していますが、低速移動や紅魔郷との関連については分かりません。強いていえば、紅魔郷のアレを幻想郷そのもののイメージと捉えれば「紫は境界を作り、世界を分ける守り神(家蜘蛛)」という以前の説と結びつけることはできそうです。しかし余談を元にしているのでちょっとこじつけの感が強いですね。

▼2003/12/07
考察:紫と咲夜の会話

今回は、両者の会話について考えてみたい。

咲夜「大丈夫、一本の蜘蛛の糸さえあれば極楽の境界を見つけられる」
紫「その道が蜘蛛の糸より細く、蜘蛛の糸より複雑な弾幕の道でも?」

戦闘直前のやりとりである。
これを受けて、勝利した咲夜が「極楽」というのは、スペル現世妄執の考察で書いた「蜘蛛の糸」にも対応している。地獄から蜘蛛の糸を辿って極楽に至ることができた、という勝利宣言だ。紫と蜘蛛の関連を匂わせている部分と解釈できる。

ところで、霊夢や魔理沙ではこういった会話が出てこない。霊夢は結界について、魔理沙の場合は曖昧であるが月と境界などが話題に上っている。
それぞれの個性の一端を垣間見られるシーンといえるが、ここで重要なのは、台詞から察せられるキャラの内面だ。
結界を操る霊夢がそれを話題にするのは自然なことであるし、逆に魔理沙は様々な要素を捉えきれずにいる。
これらは経験や能力に由来する、その人物にしか喋れない台詞なのだ。

そこで気になるのは、どうして咲夜だけが紫の存在に関係する事柄を話題にしたかという部分である。
咲夜は設定にあるとおり、人からはみ出してしまった存在である。人外の世界に身を置く人間、すなわち「両者の境界に立つ者」。
――咲夜が紫の本質に触れることができたのは、あるいはこの「境界」という要素の一致に由来するのかもしれない。

▼2003/12/07
考察:余談「紫の知恵」

「智恵のあるあなたは誰?」
咲夜は紫に問いかける。このとき、紫自身は釈迦に対応しているのかもしれない。蜘蛛の糸を辿らせたもの。知恵のあるもの。藍が真似た弾幕のひとつ「アルティメットプディスト」。

また、少し調べてみたところ、アメリカ先住民族には蜘蛛が世界の創造に深く関わっているという伝説があり、蜘蛛の巣(糸)は知恵の象徴だという。東洋をモチーフにした今作の世界観にはふさわしくないと思うが、興味深いので書いておくことにする。

紫「あなたは気がついていない」
咲夜「あなたの智恵が無いことにですか?」

これは糸が見えないこと、あるいはその本性を隠している紫を皮肉っているようにも思えるのだ。
面白いことに、この伝説において、世界の最初に存在したものは「紫色の光」であったという。
詳しくはクモニスト・インターナショナルを。蜘蛛について大変詳しい記述がある。
蜘蛛にまつわるエピソードは、世界中に似たような要素が見られるらしい。

▼2003/12/09
考察:蜘蛛と蝶と

紫には、蜘蛛の巣を思わせる形状の弾幕以外に、特に気になるスペルがある。
罔両「禅寺に棲む妖蝶」だ。
単純に「卍を寺、蝶弾を蝶」としているだけかもしれない。しかし、ここではあえて別の方向から考えてみたい。
赤と青の卍が、くの字に折れ曲がった光で表現されているが、両方の色を合わせれば本数が八になる。八雲という姓同様、蜘蛛の足の暗示とも取れる数。一方だけでなく、両方の色を合わせて初めて八となるのは、以前書いた色自体の両面性(紫=赤と青の混合)、境界の表現と見なしていいだろう。

さて、ではなぜスペルの名称が「妖蝶」なのか。以前、「蝶は紫を指すのか」と仮定したことがある。しかし、紫=蜘蛛という考えに基づいた場合、スペル名と一致しない感覚がつきまとう。今作において、蝶といえば幽々子のはずだからだ。
「今、ここ白玉楼の私の周りは妖怪と人間の境界が薄くなっていることに」
紫の台詞からすれば、Phantasmの戦闘は白玉楼で行われている。幽々子たちが住む場所だ。ならば「禅寺に住む妖蝶」とは幽々子のことではないだろうか。

この仮定をすれば、さらに疑問が出てくる。どうして紫が幽々子の名を冠したスペルを行使するのか、ということだ。
私はもう一度、境界というキーワードからこれを考えてみた。
幽々子の弾幕に目を向ける。気になったのはバタフライ系列のスペルカードだ。初見では三角形の白弾が木の葉を、追尾弾が蝶のサナギを表現しているのだと思っていた。しかしスナップショットを見てもらいたい。青弾と白弾が構成する形状が蜘蛛の巣に似ていないだろうか。蜘蛛は巣にかかった獲物を糸で包み込む。それが追尾弾ではないだろうか……。
すると、巣の中央に位置して動かない幽々子は、蝶ではなく蜘蛛ということになってしまうのである。

霊夢「花の下に還るがいいわ、春の亡霊!」
幽々子「花の下で眠るがいいわ、紅白の蝶!」

戦闘前のこのやりとりが、急に引っかかってくる。なぜ霊夢を蝶に例えたのか?
「これ以上踏み込んで、お嬢様に殺されても知らないわよ!」
妖夢は警告を発した。
それを実現する力を、幽々子が確かに持っているからだ。
――幽々子の「死に誘う程度の能力」は、捕食者としての側面を持ち合わせている。
亡霊の姫たる幽々子、生者の命を奪う、その様。
蝶であるが、しかし同時に蜘蛛でもある。
ならば私たちは、紫についてもう一度考えねばならないだろう。

紫を倒した咲夜は蜘蛛の糸を引き合いに出していた。いくつかの解釈が可能だと思われるが、その時の台詞を以下のように読み取ってみたい。
「私が糸を辿り、弾幕の隙間を見つけて、その先で捕まえたのは蝶」
当然、捕まえる対象は紫以外に考えられない。複数の要素が蜘蛛を暗示している紫を、咲夜は最後に「蝶」と呼んだのだ。

毎日十二時間眠るという紫は、現実と夢の世界をちょうど半分ずつ過ごしていることになる。この設定自体が境界のひとつであるのはいうまでもない。「胡蝶の夢」のエピソードで夢と現実、蝶と人の境が曖昧になる部分、そして眠りという要素そのものが彼女に合致することは前に述べた通りである。
罔両「禅寺に棲む妖蝶」に視点を戻そう。このスペルは蝶=幽々子を意味するとともに、咲夜が指摘したように、紫自身が蝶の要素を内包するという事実を暗示している。罔両が意味するところは、人ならぬ蜘蛛と蝶の境界。「蝶は紫を指すのか」という最初の仮定は、間違いではなかったということになる。
幽々子は蝶にして蜘蛛であり、紫は蜘蛛にして蝶なのである。
二つの要素がまったく同じ割合で混在するというよりも、「本来の要素の中に正反対の要素を含み持っている」というニュアンスが近いだろう。

表裏一体である両者の存在は、この世において繰り返し行われる「食う・食われる」の関係――生と死を想起させる。
そして二人の場合は、捕食者であると同時に被食者でもある。私には、ここに輪廻という概念が重なっているようにも思えるのだ。
十界、死者、魂魄、反魂、生命、咲いては散る桜。
妖々夢の諸要素が深い関わりを持って結びつけられていく。
ネクロファンタジア。
ボーダーオブライフ。
二人のテーマ曲が、ともに生と死の境界を意味するという一致は、決して偶然ではないだろう。
紫と幽々子を通じて、私たちは「生と死」という作品世界全体を象徴する要素に立ち戻るのである。

関連事項
ひとつ気になるエピソードがある。
能の「土蜘蛛」には胡蝶という女性が登場する。先日も紹介したクモニスト・インターナショナルで知ったのだが、神楽版の「土蜘蛛」は地方によって設定が違い、悪役である土蜘蛛の精が胡蝶に化けているという例が存在するのである。
先人が蝶と蜘蛛の名を持った両者を表裏一体だと解釈しているのは大変興味深い。
今日は上記サイトより胡蝶が詠むという歌を引用して終わることにする。

「色を尽して夜昼の。色を尽して夜昼の。境をも知らぬ有様の。時の移るをも。覚えぬ程の心かな。げにや心を転ぜずそのままに思ひ沈む身の。胸を苦しむる心となるぞ悲しき」

▼2005/03/07
その後

ZUN氏が「紫」の由来について「可視光線と不可視光線の境界」とコメントしていたことを追記しておく。
(オフィシャルの幻想掲示板にて。2004年の後半だったと記憶している)


考察:作品のパッケージデザイン、タイトル画面など

▼2004/03/24
考察:妖々夢のパッケージデザインに見る要素
唐突ですが、お手元に妖々夢のケースを用意して下さい(ぜひ)。ジャケットを眺めてみましょう。
まず表。八雲紫のシルエットがあり、斜めに線が入っている。左上は赤、右下は青。「赤紫・青紫」と呼ぶのが適当かもしれない、暗い色。

ケースの裏には雪(氷?)と思われる結晶が敷き詰められており、これも紫色。スナップショットや霊夢のイラストが文字と一緒に並んでいます。
「東方奇異シューティングの式!」という一文は「式=パターン」であるというZUN氏のコメントを前提に読むと、購入当初とは違った印象を抱くことでしょう。

蓋を開けて中を見てみます。ジャケット裏は白と水色で八雲紫のシルエット。綺麗な色合いで、表とはずいぶん印象が違います。右側には藍色のCDに描かれた妖夢が。それを外すと、八雲紫の側から続く明るい水色。右に行くほどに暗い紫へ――文字は「Perfect Cherry Blossom」。

> このように、二つの作品には象徴的な色が存在します。作品世界の入り口であるタイトル画面やパッケージからもそれが窺えます。

上の文章は私が「咲夜の目の色はなぜ違う?」で妖々夢の象徴と書いた色についてです。
ここで、あの考察を部分的に撤回します。妖々夢のパッケージは冬を象徴しただけのものではありません。冬というイメージは織り込まれているにしても、それを意図しただけの色遣いでないことは明らかです。
表ジャケットのライン、赤と青、八雲紫。さらに、八雲紫=蜘蛛という考察が正しければ、蝶との関係……これらすべての要素が暗示するのは言うまでもなく「境界」。パッケージから冬という意味合いだけをことさらに強調するのは軽率でした。ここで改めて妖々夢のパッケージについて考えてみたいと思います。

思ったよりもずいぶん長くなってしまったので、次回に続きます。

▼2004/03/26
考察:妖々夢のパッケージデザインに見る要素-2
描かれているのが隠しステージのボスなのは前作・紅魔郷との共通項ですが、どうやらそれだけではなさそうです。
作中で示されている通り、妖々夢には色々な境界が登場します(最たるものは生と死でしょう)。キャラ設定やバックストーリー、スペルなどで示された多くのものが境界という言葉に関連します。
これは一体何を意味するのでしょうか。さらにパッケージを見ていきましょう。

ジャケットの表裏にある八雲紫と蝶。
私は今まで、蝶を死と霊魂、そして幽々子に関係するという部分で注目してきましたが、ここで別の見方をしてみたいと思います。
幼虫から蝶に変わること、それ自体が転生の暗示だという見方です。
十王、御所車、西行……転生にまつわる要素はたくさん出てきます。蝶もまた、その一つなのではないでしょうか。。
そういえばアリスのスペルにも「輪廻の西蔵人形」がありました。ストーリー上重要な位置にはいない彼女ですが、意外なところで共通する要素を持っていたようです。

再びジャケットに目を戻してみます。分かりやすいのは裏面でしょう。八雲紫の傍らには蝶の他にもうひとつの興味深いデザインが見られるのです。
下方の、虹が重なったような図案。
これは「青海波(せいがいは)」という古くから伝わる紋様であり、波、海を表しています。一般に穏やかな繰り返しを意味することから吉祥とされます。
ここで注目したいのは繰り返される波の動き。
まさに輪廻に繋がっている意味合いだと考えられるのですが、どうでしょうか。一緒に蝶が描かれていることから、これは意図的なものであると考えて差し支えないでしょう。先ほど書いた蝶=輪廻という考え方が重なるのはもちろん、蝶=魂の象徴と捉えた場合であっても、青海波の意味合いと重なれば輪廻を暗示していることに違いはありません。

また、遙か彼方まで広がり陸を分かつ大海は、それ自体が一つの「境」。
青海波もまた、八雲紫、ひいては全体のデザインに関連づけられたものだと結論できるのです。
(私はこの青海波を水という関連性から川と捉え、生者と死者を分かつ三途の川ではないかとも考えました。十王とも関係する要素なのですが、ここでは余談としましょう)

さて、このページを見ている人の多くは、ケースの帯も大事に保管してあるのではないでしょうか。では柱の文章を読んでみましょう。
「シューティングゲームは、シューティングである以前にゲームである。然し此のゲームは、ゲームである以前に結界である」
開封する前に全員が目にした文に「結界」という言葉が入っています。

最後に、パッケージから離れてゲームの内容を思い出してみます。
体験版の途中から妖々夢に取り入れられた森羅結界(Supernatural Border)、結界ボーナス (Border Bonus) 。これらも境界にまつわる言葉。
四面を境に生者の世界から死者の世界へ入り込んでいくステージ構成も一つの境界性でしょう。
そして、終盤や隠しステージに多くの境界が明示されていることは言うまでもありません。
妖々夢といえば「桜」「冬」「春」といった要素が脳裏をよぎりますが、それらも突き詰めれば最終的には「境界」という言葉に行き着くのではないでしょうか。妖々夢においてこれは極めて重要かつ象徴的な要素なのです。

以上のことから、「妖々夢のパッケージデザインは、境界という言葉に集約される」と考えることができます。
つまり、 このデザインは作品全体の暗示――「妖々夢全体の象徴」と言えます。ゲームを始める前に、私たちはもう妖々夢の世界に触れていたのです。もちろんクリアするまでその意味は分かりませんから、楽しみが損なわれる心配もありません。
デザインを眺め、文章を読み、ケースを開け、CDを取り出し、PCにインストールする。
全員が必ず行う準備――これは東方妖々夢の世界に入っていくための儀式だとも考えられます。つまり妖々夢のパッケージ、それ自体がある意味では「結界」なのかもしれません。

私たちはそうと意識しないまま、いつしかひとつの結界をくぐり抜けていたのです。

▼2004/03/29
妖々夢のパッケージ考察追記

さっきふと気づいたんですが、CDの表面に描かれている妖夢も「境界」にまつわる人なんですね。
危うくスルーしかけました。

(キャラ人気投票結果ページより)
> 唯一死んでも生きても居ない者、割と理想的な半人半妖です。
> いつも一緒に居る一際大きな幽霊は、実は彼女の半分です。 (ZUN)

この一致がCD盤面のデザインに起用された理由なのかもしれません。

▼2004/04/09
妖々夢タイトル画面考察

妖々夢のタイトル画面で霊夢が手にしているものは「玉串」。榊枝に紙垂を付けたものです。
玉=魂(たま)、串はそれを繋ぐことから「魂を繋げる」という意味合いがあります。繋ぐのは、自分と神(神霊)の魂。神式の拝礼では玉串奉奠(たまぐしほうてん)という儀礼に用いられます。また、葬式の場において仏式では焼香を行いますが、神式で行うのは玉串奉奠。
以上を踏まえて、あのタイトル画面をこう仮定してみたいと思います。

「死者の国に赴く霊夢」と。

あの光は、もしかしたら作中の四面に出てくる門が開いているところなのかもしれません。門は生死、その世界の境目であり、ステージ構成の境目として登場しています。もちろん、門自体が「境」としての意味合いを持っているから、このような使われ方をしているのでしょう。
境界が重要な要素である妖々夢。タイトル画面もそこに基づいて描かれている可能性が高いのではないでしょうか。だとすれば、奥に見える扉のような光が生者の世界(ステージ4)で、彼女はそこから死者の国(ステージ5)へ進もうとしている――「二つの世界の境にいる」という一致が見られることになります。

さて、目を閉じて神妙な顔をしている霊夢は、他の場面ではなかなか見ることができません。少なくとも、いつものんびりとした印象の彼女とは異なります。霊界に赴く彼女が玉串を持っているのは、「博麗の巫女として死者の霊に接する」という厳かな意味あいが込められているのかもしれませんね。
タイトルの霊夢をこのように解釈すると、今までとは違ったイメージになりませんか。葬式は「死者の霊を偲び、慰める」という意味合いもありますが、それと重なる印象を受けるのは私だけでしょうか。

プレイヤーはコントローラーを手に決定ボタンを押します。それは霊夢が赴こうとする世界に踏み込むための第一歩。つまり、タイトルそのものが物語の予兆であるとも考えられるのです。もちろん、門をくぐり抜け、死者の世界で出会うのは……バックストーリーとも一致する見事なタイトルだと思いませんか。

普段何気なく通過してしまうタイトル画面にも重要な意味合いが込められていたようです。
それに気づかせてくれた「玉串」は十分注目に値する品物といえるでしょう。
そして「門」も、また。

※この文章は東方名品市最終日に投下したものです。大急ぎで書きましたが締め切りオーバー……とほほ。神道に詳しい方はこれに関してもっと深い部分まで突っ込んだ考察ができそうですね。


余談など

▼2003/10/16
以前の考察を読み返して

1. 現世妄執――芥川龍之介の作品そのままであれば、蜘蛛の糸を上って辿り着くのは極楽であって現世ではない。あくまで「亡者が糸を競って上る」構図を借りただけなのかも。もしかするとどこかの宗派にはこれに相当する説話があるのかもしれませんが、現状では掴めていません。
2. 富士見は「不死見」ではなく「不治身」なのだろうか、とふと考えたり。
3.これはお詫び。SSを再読していて、咲夜の操り/殺人ドールがAmakさんの解釈とほぼ一緒だったことに気づきました。
> 操り人形は私が繰ろう。
> 殺人人形は私が演ろう。
(Amakさん作:「世界を繋ぐ糸」より)
ここです。踊るヒトガタの印象が強烈で、殺人人形の一文を失念していました。ということで、日付を見れば一目瞭然。初出はこのサイトではなくAmakさんのこの作品です。
他にもほんのひなんじょなど、考察を行っているサイトは複数あります。
極力同じネタは回避するように努めていますが、手違いがあったら平にご容赦下さい
・°・(ノД`)・°・

▼2003/08/25
リポジトリ・オブ・ヒロカワ

語源は何だ? ってことで、先日軽く調べてみました。そこで「廣河女王」を挙げてみるテスト。穂積親王の孫だそうです。万葉集に二首載っていますが、どちらも相聞の歌。

4-694――恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から
(恋という名の草を、力車に七台分も積むほどにあなたのことが愛おしいのです)

4-695――恋は今はあらじと吾れは思へるをいづくの恋ぞつかみかかれる
(もう恋はしないと思っていたのに、どこからか不意に現れた恋が私に掴みかかってきました)

さてこれがスペルカードや内容と絡んでくるだろうか? 「廣河女王の容器」?
最後の桜、西行妖が廣河女王の存在を取り込んでいる。だからリポジトリ・オブ・ヒロカワなのではないか。
……んー……? うまく繋がりません。

……と考えを巡らせたところで、2chの東方スレに目を通すことに。ヒロカワがちょうど話題になってました(;´Д`)
弘川寺のことではないか、というのが有力。549氏の書き込みが論拠を示していていい感じです。
> 願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ
> も、西行法師の歌だし。
なるほど。「repository=墓と解釈して、弘川の墓所=西行法師が眠る場所」。素晴らしい。これで間違いないでしょう。新古今に収められている歌ですが、魔理沙と幽々子の会話に「桜の下で死にたいということでしょう?」なんてのが出てきます。そして、幽々子たちが咲かせようとしている桜は「西行妖」。裏付けとしてはこれで十分ではないでしょうか。repository=保管所、倉庫という意味合いなので、 弘川寺に何か文化財や何やらが保管されていて、などと深読みをしかけましたが、完全に無意味です。上ので確定、ということでひとつ。2chの方々に感謝。

しかし、万葉には桜と恋を関連づけて歌われているものもあり、これはこれで趣があってよいと思う今日この頃。相聞歌を残した廣河女王との繋がりも、ここに一応ですが見出せます。スペルの正しい解釈ではないですが、という前置きをしつつ。

10-1855――桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ
(桜の花は、まだその時ではないのに、見る人が自分を愛でてくれる盛りに、今こそと散っていくのだろう)

このラスボス戦では、桜をバックに戦うことになります。魔理沙が「桜は、咲きすぎるから散るのだと思った」というエンディングがありますが、関連を考えてみると面白い解釈ができそうです。西行妖は愛でられる花ではなかったわけですが。……「作品の解釈」からはずいぶんかけ離れてきましたが、気にせずに。
そういえば魔理沙の曲は「恋色マジック」だったし、霊夢は「東方妖恋談」。稀翁玉の幽香には「桜花之恋塚」……東方シリーズには「恋」をキーワードにしたナンバーが複数見受けられます。「桜花之恋塚」なんて、ズバリ桜と恋の関連で名付けられており、興味深いところです。
恋繋がりというと「おてんば恋娘」なチルノは、今回も「どーでもいいキャラ」扱いされていたので、やはりどうでもよいのですか。そうですか(をゐ

▼2003/09/04
妖々夢の世界について思うこと

妖々夢の要素はオカルト的だったり、日常から縁遠いものだったりします。
ところが、そうした陰の部分が、身近であるはずの日本の歴史を動かしてきたという事実がとても興味深い。
例えば平安時代、桓武天皇が平城京を捨てて長岡京に遷都したのは、井上内親王らの怨霊を恐れたせいだといいます。さらに、続けて平安京へと二度目の遷都を行ったのは、早良親王の怨霊が祟りをなし、親族が次々に病に伏したせいだと。桓武天皇は都を移すというとんでもない手段を使ってまで祟りから逃げようとしただけでなく、親王に崇道天皇の名を贈り、御霊として祭り上げます。どうにか早良親王の怒りを鎮めようと必死になるわけです。
怨霊は他にも菅原道真が有名どころですが、これも桓武天皇と同じように災いをなし、本気で恐れられていた。時の権力者たちは道真を神として祭り上げ、鎮めようとしました。道真が現代でも神となっているのは、そのためです。
(学校でもこうした面白い観点で授業をしてくれれば、もっと歴史の成績が上がったに違いないのに……閑話休題)

で、何が重要かというと。
昔は怨霊や呪い、宗教の秘術や憑霊といったものが、「実在するもの」として確かに信じられていた、ということです。さらに遡れば、邪馬台国の卑弥呼がまさにオカルト的、宗教的な統治をしていたと考えられています。科学的には立証できなくても、それが人を、国を、歴史を動かし、現代に繋がってきているのは事実。これが面白い。
霊や呪いは、TVが主にバラエティの一環として放送しているのが現実です。ドキュメンタリータッチのものもありますが、そこに文化や歴史、精神性へと踏み込む姿勢は見られないように思います。そして宗教は戦争の記憶などから、すべてタブーとされている感が。
かつて当然のように信じられていたものが、現代で縁遠くなっている理由のひとつかもしれません(因果関係が逆かもしれませんけど)。

こうした諸要素を、現代人が昔の人々に近い感覚で、「身近に実在するもの」として捉えればどうなるか?
恐ろしげで、おどろおどろしい……「よく分からないがゆえの不気味さ」は取り払われるでしょう。縁遠かったものも、違う感覚で受け止められるはずです。
道端の地蔵や社に、道行く人が当たり前のように合掌して一礼する……かつてどこかであったはずの、そんな光景に近いかもしれません。

さて。
こうした感覚で作品を捉えるという前提のもと、キャラ設定txtでストーリーを理解した上で、妖々夢の世界についての個人的な意見を書いて終わりにします。

この世界の根底にあるのは「哀しみ」です。
幽々子の設定と、咲いては散る桜の儚さにその思いを強くしました。
昨日、彼女をことさらに取り上げた理由でもあります。
もっとも、哀しいと感じるのは受け手であって、世界の中の人々にとってはそうではないかもしれませんけど。
妖々夢を初プレイした時、涙腺がゆるみかけるほどに心が動いたのは、こうしたものを感覚的に捉えていたからかもしれません。
何となく、わだかまっていたものが形になった気がしました。

ZUN氏の狙いとは受け取り方がずれてしまっている可能性が多々ありますが、感じたままに書いたらこうなりました。
平にご容赦をば。
それにしても、5面以降の設定は物語性も織り込んできれいにまとまっていて、素晴らしいの一言に尽きます。

▼2003/10/29
トーナメント:今日は中国vs藍

その繋がりで、今月の頭に鎌倉へ行った際の写真をupしてみます。10/05に鎌倉を散策した記録です。
どういう関連があるかというと、後半に佐助稲荷の写真が含まれている=狐繋がり。
古都を自分の足で歩くと、その場所の空気が体感できて色々と刺激になります。
配布サイズの関係上、写真は320x240のPreview用ファイル。佐助稲荷の写真だけ欲しい人は、後半を落とせばOKです。コメントをtxtファイルで同梱してみたので、合わせて読んでみて下さい。
File1(805kb)
File2(878kb)

▼2003/12/12
ハートのジャック考察

Coolierに投稿されているAmakさんの作品を考察しました。別ページへどうぞ。

▼2003/11/22
妖々夢考察課題

1.幽々子の扇に描かれた絵は何なのか。古典の資料に何か手がかりがあるのでは、と考えてはいるんですけど、なかなか。
2.妖夢の鞘に咲いている花は何か。密かに重要な意味があるのではないかと睨んでいるんですが――植物関係に詳しい人いませんか。
3.咲夜の目の色はなぜ青くなった?
4.妖夢のスペルカードと見立て各種。
5.その他(8月から今までで、書きたいことをおおよそ書いてしまった気がするので思いつかない)
ほとんど自分用の備忘メモですごめんなさい。課題というだけで実行できるかどうかは謎です。さらにごめんなさい。

※考察済みのものは取り消し線を入れてます。

▼管理人の妖々夢リプレイ
Normal10億突破(時符咲夜)
八分咲き初ゲット(魔理沙のレーザーで隙間の真ん中を見てみる)
「生者必滅の理-魔境-」(霊夢で長時間避け)
Lunaticどうにかクリア
Lunatic2度目のクリア(こっちの方がスコアは上)
Phantasm10億突破(時符咲夜)

▼最萌えトーナメント投下ショートショート
十六夜咲夜「不変の月
紅美鈴「夜の幻灯


東方香霖堂

▼2004/08/05
ピュアガと霖ちゃん(ぇー

今号の香霖堂は「前編」ということで前回分を読んでなくても大丈夫っぽい。ということで読んでみました。天気雨、狐の嫁入り。今回はあくまでもプロローグ?
永夜抄のスナップショットに驚く。弾幕もそうなんですが、特にあの背景! すると、シルエットは法衣か着物か? あるいは?

ああっ、香霖堂について赤目さんの魂の叫びが。
途中、何話か読めなかった回があるのでハッキリとしたことが書けないんですけど、あの霖之助という男――底が見えません。どこか八雲紫にも似た(!?)、超然とした要素を持っている気がします。境に居を構える以上、常人じゃないのは間違いない。恐らく幻想郷の一般人は境や異界という概念を強く持っていると思う(推測)ので、好き好んで境に居続けたりはしないはず。それを平然とやっている霖之助……何者。
「そもそも本当に人間なのか?」という疑問もあったりなかったり。

霊夢と霖之助は飄々としたところが似てますが、境に立つところも似ていて――むむむ。お互い、何か思うところはあるんでしょうか。年齢や経験の差からいって、霖之助は先輩格。霊夢が自ら霖之助のところに赴くというのは、純粋な好意からなのか、それとも。前者だとすればドラマ的にも他の人物が絡むかもしれません……が。
見逃した回が痛すぎます(自業自得)。次回も人間関係のニュアンスが分からないまま読むことになりそうで。
なんか草薙の剣が出たとか4話で魔理沙との絡みがあったとか伝え聞く話が気になりすぎて何というか霖之助テメェこの野郎(をゐ
――失敬、ただの八つ当たりです。お気になさらず。本当は好きです。霖之助。てへ。

しかし「霖雨」(長く続く雨)という言葉があるように、「霖」は雨と関係する語なんですよね。今回の話と重なる部分でもあるんですが、どうなんでしょう。
一方、「森近」という名字。私はこの名字を見た瞬間、霖之助という存在を象徴していると感じました。
私の解釈は、「(異界としての)森に近い」=「境」。
香霖堂が存在する場所ともバッチリ重なっているわけです。人と魔物の領域の境に位置する香霖堂。もう「普通ではないぞ」というニュアンスがヒシヒシと。問題は、その境界性は住居だけなのか? という部分で。多分もっと深い部分がある(それが霊夢や紫にも通じたものなんじゃないか)と思っているわけですが、謎に包まれたまま。だから霖ちゃんが分からない。
で。「霖」と「霧雨」が雨繋がり、なわけですが……はてはてふむー。

話題は戻って。
香霖堂を読みながらとったメモを読み返してみたら、気になる箇所発見。

> 「特別なときのためにとっておいたのに……」「あら特別じゃない日なんてあるの?」
> (・∀・)イイ!! 同じ日は二度と来ない。って感じだろうか。凄く(・∀・)イイ!!

なんかこれを書いた時の私のテンションが妙に高い。この会話、内面描写として面白いです。霖之助は「わりといつものことである。僕にはとても特別な日とは思えなかった」。しかし霊夢はくつろいで、楽しそうにあの台詞を口にした……。
毎日を特別と捉える、ポジティブで快活なイメージ。そんな人間性。
――その一方で、過ぎ去っていく日々への郷愁のようなものを感じさせもする。だとすれば、霖之助には「それ」がないという対比なのかなあ……有限の霊夢と無限の霖之助? そこに根ざした物事の捉え方? 霊夢が霖之助を尋ねてくる理由と絡む?
いくらでも深読みができる部分です。やろうと思えば。

ついでに他の私的メモも抜粋。確か一話と二話を読んだあたりのメモ。ここまでの文章と重なったりしてます。

> curiosities of lotus asia.
> lotus=蓮、睡蓮、忘憂樹。安逸などの他、蓮は仏教的な意味も持つ。かけている可能性は?
> 霖之助は霊夢たちの「何倍も」永く生きている? 「永」く? おいおい、一体あんたは何歳だ?(何倍も、が強調されているし)
> 香霖堂――霖之助は何者だ? 人間と妖怪の住み処の境に居を構える男。商売のため、と本人。しかし……

余談。第一話に神武天皇や月という単語が登場。もしかしたら単語レベルで永夜抄の内容とリンクさせている?


東方永夜抄・東方萃夢想

▼2004/05/27
偶然の思いつきから考えが進み、慧音に着地した夜
ふと思い出したのが東方紅魔郷.exeをエディタに突っ込むと見られる謎の文字列。

「冴月麟」

かなり前から知られていたネタで、

冴月 麟 (風) 冴月 麟 (花)
霧雨 魔理沙 (恋) 霧雨 魔理沙 (魔)
博麗 霊夢 (夢) 博麗 霊夢 (霊)

こう並んでいる(改行位置は変更しました)ところから、プレイヤーの間では「風符、花符を使うはずだったプレイヤーキャラ」と予想されています。永夜抄が話題の昨今、何か気になりませんか。
冴月麟という名前に引っかかるものがありませんか?
ステージ3のボスは慧音……白沢でした。
中国において、徳の高い王の世に現れるという想像上の神獣です。
同じ国に有名な獣がいるじゃないですか。

麒麟。

やはり聖人が王道を行った時にのみ現れる獣だといいます。
大辞林によると、雄の麒麟を「麒」と呼び、雌の麒麟を「麟」と呼ぶという説があるらしい。
(十二国記ではその説に従って命名されていたかな? 余談ですが)
東方シリーズに登場するのは少女ばかり。
つまり雌の麒麟――「麟」。
麒麟は空を飛び(風符?)、生きた草花は決して踏まない(花符?)という。
そして冴えた月。
紅魔郷に登場予定だったのは、紅い月という共通項があったから、なの、だろうか。
永夜抄。
失われた満月。
……これらの一致はまさか……。

なぁーんてことを夢想していますが、みなさんいかがお過ごしですか? こんばんはKEIYAです。
時にはこんな先読みをしてみるのも楽しい。
当たるも八卦、当たらぬも八卦ですよう。


――――で。
気になったのでぐぐってみました。不思議好き人間によると、

> 中国では、動物を羽蟲・毛蟲・甲蟲・鱗蟲・裸蟲の五つに分類し、
> 麒麟は毛蟲(毛のある動物の意)の長とされている。
> ちなみに、羽蟲の長は鳳凰、甲蟲の長はカメ、鱗蟲の長は龍、
> 裸蟲の長はヒトとなっている。
(改行位置を変更して引用)

ここまで読んで思い出した。そうだ、先日電子のたまごの漂泊者さんが5月24日付けで「冥界組の会話は五行説、五虫に基づいている」と書かれていた(無限旋律より発見)。この指摘はとても鋭く、私も「間違いない」と思いました。漂泊者さんに感謝しつつ、さらに考えを進めてみたいと思います。
まず紫の台詞。

紫「羽蟲の王気取りは、絶望的に早いわ」

意訳すれば、「羽蟲の王は鳳凰である。その足元にも及ばない夜雀が、生意気な態度で(王気取りで)邪魔をするな」
……という感じなのかな。
ミスティアは彼女らを「遊び相手」 と思っていたらしいですが、その辺も却下気味なんでしょおか紫様は。ガクガク。
なんだかレミリアと共通するものがあるぞう。
っと、ちょっと待った。霊夢が気になることをいっていた気がする。

霊夢「雀ってあんなだったかなぁ。良く見えなかったけど」

夜雀ですよね? 設定にもそう書いてありますよね?
なのになんで含みを持たせるのか霊夢殿!(殿って
まるで何かの伏線みたいじゃないか!
なんて。
考えすぎですか。霊夢、「暗くてよく見えなかった」っていってますから。そのリフレインですよね。きっと。

閑話休題。
五虫の話に戻ります。
先ほど冴月麟の話題で引き合いに出した白沢――慧音の解説にこんなのがありましたね。

> 普段は人間の姿だがその正体は、満月の時にあらゆる知識を持つといわれる
> ハクタクに変身するワーハクタクであるが、満月が無くなって消化不良気味。
(おまけ.txtより)

消化不良というのはこのように解釈しました。
「人間の時に歴史を食べる(隠す)。そして白沢の時に代わりの歴史を創る。しかし満月が失われたため、歴史を創れなくなってしまった。だから隠した歴史は溜め込んだまま。嗚呼、そろそろ代わりの歴史を創せてもらえないでせうか」
難儀なことです。可哀想に。

そんなことになったのも、慧音が「ワーハクタク」だからです。
――しかしこの設定、どうやら別の意味があったみたいですよ。
どうしてワーハクタクである必要があったのか?
五虫にはこうありました。

「裸虫の王は人間である」

そう、満月がなくなっている現在、慧音は白沢ではなく人間なのです!
彼女自ら「満月じゃなければ人間だ」と発言している通り。
だとすれば慧音は裸虫ということになります。
すると、空位になった毛虫の座にはその長である麒麟、冴月麟が登場し――なんて。
さっきの予想と繋いでみましたがどうでしょうか。

ん?
………慧音が「裸」虫…………?
……エ、エロ担当…………?
なんで一致してしまうんだろう。二次創作の流れと。つまり、慧音をそのように描いている絵師の方々はまったくもって正しかったと。そうなるのはまさに必然であったと。
そんなこんなで今までにないパターンの結末を迎えてしまったこの考察、もうどうすれば。

P.S.冥界組の会話から察する慧音像
幽々子「今日は、虫、鳥、と来て次は獣よ」

……慧音を「獣」と仰るか。彼女はやはり人ではなく獣なのか?

妖夢「獣、って人間を獣扱いしないで下さいよ」
幽々子「いやいや、妖夢。この娘は今は人間の姿をしているけど、半分獣よ。あなたみたいね。 もっとも、人間も獣だと思うので足して2半獣かな?」

やはり人と解釈してよさそうです (・∀・)
うん! やっぱり慧音は江口担当ということで!(爽やかな笑顔で寓意を隠しつつ

…………なんだ今日の芸風は _| ̄|○<だって春だし

追伸:23:19の時点で良心の呵責に耐えかねて一行ほど削除。不幸にも目撃してしまった人は幻想だったと思って下さい。てへ。

2004/10/05追記:やはり色々と違ってましたね(笑)。でも冴月麟はいつか登場すると期待しております。

▼2004/09/15
考察:十五日の永夜抄
コミケから遅れること一ヶ月、本日から永夜抄の委託販売が開始されました。
発売されたのは八月十五日――コミケット三日目。開場を待っている間、私は雨の中で柳田国男「日本の昔話」(新潮文庫)を読んでいました。本の中程に「鶯姫」という説話があって、竹取物語を簡略化したような内容になっていました。僅か二ページにまとめられた「鶯姫」を興味深く読んでいると、「その年の秋の八月十五日に」天からの迎えである真っ白な雲が来たとあります。そういえばかぐや姫の昇天は旧暦八月十五日だったなと思い出したわけです。
事前にピュアガール誌で公開されていた永夜抄スナップショットには竹林が映っていました。月との関連から、竹取物語にちなんでいる可能性は極めて高いものがあったわけです。
「ああ、永夜抄は竹取物語に違いない」と確信した瞬間でした。

さらにいえば、「コミケット三日目」というのも面白い一致。「三」は竹取物語において重要な数(時に聖数)として扱われているからです。竹から出てきたかぐや姫は「三寸ばかりなる人、いと美しうて居たり」と表現されていますし、名付け祝いの酒宴は三日間。車持の皇子は九州へ向かうふりをして三日後に難波へ帰っていきました。そして求婚者たちが難題に挑んだ期間は最長三年であり、帝と出会ってから三年後にかぐや姫は昇天を迎えるのです。

以上のことから、永夜抄は発売日までも竹取物語に絡めていると思っているのですが、いかがでしょうか。しかも旧暦八月十五日を新暦に直せば、およそ九月中旬から十月上旬。ちょうど委託販売を開始している今頃ですね。
果たしてどこから計算されていたのか? デジタル系が割り振られるコミケット三日目が八月十五日に該当する年は限定されているはず。以前からC66に向けてスケジューリングされていたのか、それとも開催日にちなんで竹取物語を取り入れたのか。
どちらにしろ、とても洒落た演出だと思いませんか。

それとも、「そこまで考えていたはずがない。偶然の一致だ」と……?
いやいや、妖夢。
仮にそうだとしても面白い一致であることに変わりはないですよね。

P.S.
開場待ちの時、備忘メモとして掲示板に携帯で書き込み。冷たい雨の中でまったくもう。濡れるからペンとノートを取り出す気にならないんですよね、ああいう状況だと。
(´-`).。oO(……それにしてもあの日は寒かったよなあ……)

追記:その後、ZUNさんがオフィシャルBBSで書き込みをされていました。「(日付について)その環境下で無意識の内に私が選ぶのでしょう」「委託開始の日付はちょっと調整しましたが」とのこと。委託の日付を調整したということは、新暦に直して云々というよりも、旧暦における「十五日」という数字を重視していたということでしょうね。

▼2004/09/26
東方永夜抄考察:十六夜咲夜は本当にジャックなのか?
私が「咲夜=ジャック説」を書いてからすでに1年以上が経過した。
永夜抄で咲夜の謎が明かされるのではないか……そんな声とは裏腹に、彼女のエピソードが取り上げられることはなかった。今回はあえて新たな要素から攻めるのではなく、もう一度ジャックと咲夜の関係性について考えてみたい。

永夜抄では具体的な年数を冠した名称がいくつか登場する。19世紀に実在したジャックについて書く前に、作品との時間軸を確認しておくことにする。
人類が月に到達したのは20世紀だ。

1969年7月20日――アポロ11号月面到達。
1970年4月11日――アポロ13号打ち上げ。

作中の「ヴォヤージュ1969」「ヴォヤージュ1970」はこれらにかけていると見ていいだろう。他にもキャラクターの会話など関連事項は多い。天呪「アポロ13」とは、月を侵略した人類が受けた報いだと解釈できる。

一方、私がジャックであると仮定した咲夜はどのような足取りを残したのだろうか?
ZUN氏によれば、咲夜は幻想郷生まれではなく私たちが住む「こちら側の世界」の人間だった。ジャックと同一人物という仮説には反していない。

時は19世紀。アポロ11号から約80年を遡る。
死者の数とジャック暗躍の期間には諸説あるが、リッパロロジー(切り裂きジャック研究)によれば、ジャックの手にかかった犠牲者は5人という説が有力である。それを基にすると次のようになる。

1888年8月――切り裂きジャック、ロンドンで最初の凶行に及ぶ。
1888年11月――最後の犯行。以降、消息不明。

その秋、ロンドンのイースト・エンドに連続殺人鬼の影が落ちた。
ジャック・ザ・リッパー。ご存じの通りジャックというのは本名ではない。姿も名前も分からない殺人鬼に与えられた仮名である。
ほとんどの犠牲者は遺体に大きな損傷があった。例えば咽頭を切り裂かれ、腹部を開かれ、臓器の一部を切除されている――といった具合に。5人目の犠牲者メアリ・ジェーン・ケリーを除けば、全て戸外で行われた凶行である。決して一瞬で行えるような作業ではないにも関わらず、犯行現場を見た者がいない。発見された時、すでに犯人の姿はなく、息絶えた女性が倒れているばかりだった。
疑わしい男はいた。グラッドストーン・バッグを提げた髭面の紳士が犠牲者の娼婦と一緒にいたという目撃証言がある。しかし可能性は高いものの、彼が本当にジャックだったかどうかは不明である。
こうしてジャックは謎の人物でありつづける。ロンドンの霧に紛れ、闇の中へと消えていった殺人鬼は、それ以降ぷっつりと消息を絶った。当然のごとく警察はジャックを追いかけたし、職業、性別を問わず多数の人々が殺人鬼の正体を暴くために奔走した。今や、作家や素人たちも参加した世界的な「推理ゲーム」の様相を呈している。
多くのリッパロロジスト(切り裂きジャック研究家)たちによって、今まで200人近い容疑者が指摘されてきた。「ジャックとはアルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワードである」――トマス・ストウェル医師が指摘したのは、なんとヴィクトリア女王の孫、エドワード七世皇太子その人であった。
いかに世間を驚かせ、発行部数を伸ばすかという商業的打算に基づいた説も多かったことだろう。著名人を容疑者にした推理は数多い。あのルイス・キャロルやマーク・トウェインといった作家まで容疑者の一人に数えられたことがある。
だが、そこまで枝葉を広げた推理が行われたにも関わらず、ジャックの行方と正体については未だに何も分かっていない。

この連続殺人事件は迷宮入りしている。
ジャックが逃げおおせた主な理由は、目撃されずに現場を立ち去ることができた運の良さにある。しかし本当にそれだけだったのか。疑問を抱いた私は、咲夜の時を止める能力を疑った。
ここまでが1年前の考察である。しかし、まだ説明できない箇所が残っている。

――どうしてジャックは殺人をやめてしまったのか。

欲望が満たされたから? 別件で逮捕されて投獄されたから? 精神病院に収容されたから? 海外に逃亡したから? 自殺? 事故死? 病死?

リッパロロジーは多くの仮説を生み出してきた。
海外で切り裂き事件が発生すると、時々「ジャックは海を渡っていた」という見出しが紙面を飾った。確かに海外へ逃亡した可能性はあるだろうが、イースト・エンドの連続殺人とは関連性が低く、研究者たちの多くが「無関係」と結論づけている。

私は再び全く別の仮定をしてみたい。
ジャックの消息が途絶えたのも、連続殺人が終息したのも、全て「ジャックが幻想郷に入り込んだからではないか?」と。

幻想郷がこちらの世界から隔離・閉鎖されたのは明治ごろとされている。
明治は西暦に直せば1868年9月〜1912年7月。ジャックが消え去った1888年11月は、ちょうど明治の中頃にさしかかった時期である。
5人目を殺害したジャックが何らかの経緯で幻想郷に足を踏み入れる。
その直後に幻想郷が閉鎖されたと仮定してみよう。
時期は合致する。

……長い時が流れたある日のこと、幻想郷に一匹の月兎が入り込む。つまり月から逃亡して輝夜たちの許に身を寄せたレイセン(鈴仙)だ。この出来事の時間軸について言及している資料がある。

> 幻想郷が人間界と遮断されてから、もうすぐ百年も経とうとしていた頃だった。(中略)
> そんなある日、一匹の妖怪兎が輝夜の元に逃げ込んできたのだ。
(キャラ設定.txtより)

「月に敵が攻め込んで来てもう生活出来なくなった」「月に旗を立てた」と語っている以上、冒頭で確認したアポロ11号のことだと考えられる。それとは別件の月面着陸という可能性もあるが、今回は言及しない。
レイセン逃亡が1969年であれば、ジャック失踪から経過した時間は約80年。
そうすると、1888年11月にジャックが幻想郷に入り込んだという仮定には綻びが生じることになる。 「百年」には20年近く足りないからだ。このずれを「もうすぐ」と見るかどうかは人によって異なるだろう。
前者なら問題はない。しかし「あまりにもずれが大きい」とも考えられる。

では、もう一つの可能性に言及してみよう。「もうすぐ百年」という時期を忠実に守った場合だ。
つまり、1869年を少し過ぎた頃――明治初期に幻想郷が封鎖されたと仮定してみるのである。これならば「百年」という部分には矛盾しない。
しかし仮にそうであれば、ジャックがイースト・エンドから消えた時、もう結界は張られていたことになってしまう。
幻想郷に入り込んだという仮定は崩れてしまうように見えるのだが、キャラ設定.txtには月から逃亡してきたレイセンが「幻想郷の噂を聞きつけ、なんとか入り込んできた」と明記されている。困難だが、不可能ではないのだろう。同じようにジャックが結界を超えることは可能だったはずだ。
さらに書くとすれば、何者かの助力を受けたという可能性だろう。
あるいは何かしらの「運命」に導かれていたと考えれば?

――運命を操る紅い吸血鬼の影が見える。

さらに関連事項を挙げてみよう。
他ならぬ咲夜自身の発言だ。彼女が意図的に嘘をついていない限り、有力な手がかりになるはずである。人類はもう月に到達しているといったレミリアに対し、咲夜はそれを全く信じないかのような言葉を返していた。疑問に思った人は多いはずだ。完璧で瀟洒なメイド・十六夜咲夜ともあろうものが、どうしてこの程度のことを知らないのか、と。
しかし今までの考察を踏まえればどうなるだろうか。
1888年11月を最後に幻想郷へ消えたジャック。人類が月面に到達するのは、それからさらに約80年も後のことである。

切り裂きジャック=咲夜は、人類の月面到達を見る前に幻想郷にやってきたのではないか――

人類の月面着陸をレミリアに教えたのはパチュリーだ。しかも彼女の知識を持ってしても具体的な方法は分からず、表面的な説明に留まっているように見える。幻想郷で外の世界の出来事を知ることは難しいのだろう。
もしジャックにとって元いた世界の記憶が忌まわしいものだったなら、わざわざ情報を仕入れようとはしないはずだ。居心地のいい紅魔館で毎日を過ごす……それが彼女の幸せなのだろう。

ここまでいくつかの要素を関連づけてきたが、また新たな矛盾が生じている。
咲夜は「10〜20年ほど人間をやっている」人物だ。永夜抄では自分のことを「死ぬ人間」と語っており、レミリアのような永遠性を持っていないことが明らかになっている。
幻想郷に入ってから80年ほど経過しているならば、咲夜の年齢にはどう説明を付けるのか。ただの人間であればそれだけの時間を過ごして老いないはずがないし、何より10〜20年という説明に合致しない。

いくつか可能性を挙げるとすれば、次のようになる。
紅魔館について、咲夜は「ここに暮らしていると時間が停止しているかのように感じる」という。時間に何らかの影響があるのかもしれない。浦島太郎(浦島子)をはじめとした「異界訪問譚」に重なる可能性である。
あるいは、幻想郷に入り込む時に時間を超えてしまったのかもしれない。結界を超える時に何かがあったのかもしれないし、八雲紫のような妖怪が絡んだのかもしれない。神隠しの主犯と呼ばれる彼女だが、そもそも神隠しという事件には「人間が神に隠され、神の国へ行った」という概念が見られる。つまり「異界訪問譚」の一種なのだ。
多くの伝説では人間界よりも神界の方が時間の進みが遅い。だから人間界に戻った時に長い時間が経過してしまっているのだ。咲夜が「ここに暮らしていると時間が停止しているかのように」感じているのは、時間の進みが違うことを認識していたためかもしれない。普通の人間には感じ取れないはずの異常だが、時間を操る十六夜咲夜ならばそこに気づけるのかもしれない。
考えられることは多岐に渡る。これは詳しく検討する必要がある事項だろう。現時点では仮説を立てるに止めたいと思う。

今回は永夜抄の情報を踏まえつつ、咲夜=ジャック説の確認を行った。不明瞭な箇所がいくつか残ってしまったが、私はまだこの仮説を放棄しない。
彼女についてはまた改めて考察を行いたいと思う。

▼2004/09/30
十五夜

15日に考察した永夜抄の発売日について。公式BBSでZUNさんが書き込みをされていましたね。委託の日付を調整したということは、新暦に直して云々というよりも、旧暦における「十五日」という数字を重視していたと。東幻Walkerでは発売前からそのあたりを予想されていたようです。「東方仮想室」にて。
私は後発でしたが竹取物語の聖数を絡めたということでご容赦願いたく候(をゐ

▼2004/10/16
東方永夜抄考察:咲夜が月の民であったなら
永夜抄のテキストに「永琳は咲夜を見て驚く」とある。ここから「咲夜は月の民ではないか?」という声が多く聞かれるようになった。全てが明らかになっているわけではないが、現時点で考えられる可能性に言及してみたい。

まずは咲夜が月からの使者であり、何らかの使命、目的を持って地上にやってきたと仮定してみる。
これはやや無理がある。紅魔館で毎日をのんびり過ごしている咲夜が月の民としての使命を帯びているようには見えないからだ。潜伏していると考えることはできるが、どうしても不自然な流れになってくる。
何より、地上は穢いものとされている。帝がそうであるように、月の民は本来大地に足をつけない。それほど地上に対する穢れの観念は強いのだ。よって月の民が地上で暮らすのは異常事態だと言える。余程の理由がない限りそんなことにはならないだろう。罪人だった輝夜と、彼女に付き従った永琳は例外だ。
「いざかぐや姫。穢き所にいかでか久しくおはせむ」
月の民にとって地上とはその程度の代物なのだ。そんなところに重要な使命を帯びて遣わされる可能性は低いと考えざるを得ない。
では、少し考え方を変えてみよう。
竹取物語において、月の民であるかぐや姫が地上に生誕したのは月で犯した罪を償うためだった。これは永夜抄の輝夜も全く同じである。いうなれば、地上、ひいては地球そのものが彼女にとっての牢獄だったのだ。
――牢獄。
咲夜が妖々夢で行使したボム「プライベートスクエア」「パーフェクトスクエア」は牢獄の暗示ではないか――以前の考察で私はそう書いた。彼女が元々月の民であると仮定するなら、これは見逃すことのできない一致といえる。

咲夜もまた月から堕とされた罪人である――これが現時点での私の解釈だ。

もちろん、丸い地球をイメージするならばスクエアという単語は不似合いだろう。これについては以前書いたように、あくまでも「彼女にとっての牢獄」を暗示したものと考えることができる。
月を追放され、竹林に生まれた輝夜。一方、咲夜は19世紀のイギリスで生を受けた可能性が高い。時代も場所も、生誕に込められる意味合いも全く異なるため、解釈が難しくなってくる部分である。
咲夜が1870年代に月から墜とされたのならば、恐らく彼女と永琳は出会っていない。すでに永琳は輝夜と共に隠れ住んでいる時期だからだ。そうであれば、「咲夜は永琳の知る何者かに似ていただけ」と考えることもできる。これも一つの可能性だろう。
もっとも、月の民を人間と見なさない場合、咲夜の年齢・彼女が生きていた年数にも疑問が生じてくるのだが……

いずれにしても、輝夜と咲夜の地上における生活は全く異なっていた。
情の深い親に育てられた輝夜。
ロンドンのスラム街で日々を過ごし、連続殺人を犯したと思われる咲夜。
――姫は贖罪を終えた時、月からの使者を迎えた。だが咲夜に使者は来ていない。
これから迎えが来るのだろうか。
それとも彼女の罪が許されることは永遠にないのだろうか。
地上にいること自体が罰であるなら、本来、連続殺人を犯していても月には戻れると考えられる。かぐや姫も求婚者に難題を吹っ掛け、直接的ではないにしろ、結果的に石上の中納言を殺してしまっている。それでも昇天を迎える障害にはならなかったのだから、もしかすると地上人の殺害は月の民にとって大した問題ではないのかもしれない。
それでも咲夜に迎えが来ないのであれば、罪の内容に興味が湧く。 ただし、月の民の中でも高貴な存在だと目される輝夜と同列に語るのは難しいだろう。身分が低い罪人にわざわざ迎えをよこすとは考えにくい。
果たして身分の違いが理由なのか。
それとも罪の内容が違っていたのか。
数え切れないほどの推論が可能だろう。

咲夜は永琳を見ても何ら反応を示さなかった。永琳も内心の驚きを全く表に出さなかったため、両者の繋がりは第三者には全く分からない。
これを「咲夜は地上に堕とされた時に記憶を失った」と考えることも可能だ。
竹取物語におけるかぐや姫のように「天の羽衣」を身にまとい、身を浄化する不死の薬を飲めば月の民に戻れるかもしれない。
だが、そうした機会があっても咲夜が不死の薬を口にすることはないだろう。彼女はレミリアに自分が人間であることを明言しているからだ。不老不死の力を否定した以上、恐らく咲夜はかぐや姫のような昇天とは無縁だろう。彼女自身がそれを拒むに違いないのだ。
(なお、永夜抄では蓬莱の薬が禁忌とされているため、昇天に際して必ずしも用いられるとは限らないということも書き添えておく)

十六夜とは「いざよう」から来た語である。たゆたう、ためらう――月に戻らず、いつまでも幻想郷に留まっている彼女に一致する。レミリアは全てを見通してその名を贈ったのだろうか。

なお、永夜抄のエンディングで彼女は兎の姿を幻視する。
失われたはずの記憶がふと蘇ったのか。それとも、咲夜は月人ではないのか。
果たして真相は……?

最後にひとつだけ書いておきたいことがある。どうして私が「咲夜=ジャック説」を堅持し続けているかだ。
紅魔郷から妖々夢発表までは「咲夜=DIO(ジョジョの奇妙な冒険)」とする考え方が主流であって、「咲夜=ジャック」説は皆無だった。「ありえない」と一笑に付される可能性もあったこの説を書いたのには理由がある。

「幻想」だ。

幻想郷とは、こちらの世界から消えてしまったもの、人々が信じなくなったもの、忘れ去ったもの、記憶の中で生きているものなどが多数現存する世界である。
イースト・エンドにジャックが暗躍してから百年以上が経過した。事件は迷宮入りしており、ジャックは(常識的に考えて)とっくに死亡している。連続殺人の罪を償わせることなど、もはや誰にもできはしない。藤原妹紅が行使する「時効・月のいはかさの呪い」が連想される。
世界中の人々が追い求めたジャックは時に神格化され、密かな崇拝の対象にすらなった。全ては謎に包まれたままだ。私たちは様々な記録、創作物、そして推察を通して「彼」に触れるが、その顔や姿は数少ない情報を基に組み上げられたものに過ぎない。確実にジャックであったと断言できる目撃例が、ただの一つも存在しないからである。
姿なき人物。何者なのか全く分からないがゆえに伝説へと昇華された殺人鬼――それが現代における切り裂きジャックの概念だ。
まさに「幻想」と呼ぶに相応しいではないか。これが私に「咲夜=ジャック説」を堅持させる理由であり、これまでの咲夜考察に共通した本質である。
リッパロロジストたちの間ではジャックを謎の女性――いわゆる切り裂きジル――とする説は極めて少数だという。だが私はもう少しの間、数少ない「切り裂きジル説」の支持者でいよう。リッパロロジストとしては紅に染まり過ぎたのかもしれない。
世の研究家たちは果たしてジャックの正体に辿り着けるのだろうか。
――まさか「彼女」が幻想の世界の住人になっていたとは夢にも思うまい。

▼2004/10/24
東方永夜抄考察:上白沢慧音〜繰り返す歴史

上白沢慧音、知られざる歴史を知る者。

背景には車文。
水鏡の序文に曰く、
「生死は車の輪の如し」
繰り返される生と死。
人は無常観を見出した。

歴史は繰り返す。
円の連環。
車文は停滞しない。
重なり合い、上方に向けて流れ続ける。

産霊。
男女を結ぶ、産霊の神。
それは生命の誕生に繋がる。
生と死を結び、打たれた点は線に変わる。
歴史は繋がっている。
あらゆる生死が繰り返され、結ばれ、歴史を紡いでいく。

始符。137年。
人の歴史、精神性の象徴でもある帝の世。
しかし流れゆく時の中で、それはなんと儚い命か。
天皇制の崩壊は繰り返された。

終符。
幻想の帝は終焉を意味するのか。
否。
神去るは幻想の中。

虚史。
幻想郷の歴史は虚ろなものか。
否。
科学の発達した人の歴史の中で、あり得ないものとされた郷里。
幻想郷は確かに存在する。
絶対的な境界に隔てられた、その向こう側に。

高天原。
原初の地を未来と称す。
歴史とは回り連なる車の如し。
始まりとは終わりであり、終わりとは始まりである。
ある時点における過去とは、すなわちある時点における未来に等しい。
未来――高天原。

短命なる人の記す歴史は、永い永い時のごく一部に過ぎない。
白沢の知識は優にそれを凌駕するだろう。
車文の流れゆくその向こうには星々が煌めく。
広大な宇宙は矮小な人の歴史を包み込み、悠然とそこにある。

上白沢――上方にして「神」の同音。
慧音――慧根(えこん)。真理を見極める知恵を意味する五根の一。

姓は天界「高天原」に通じ、名は地下界「根の国」に通じる。
誕生と死。
ここにも車は隠されていた。
「上」に始まり「音」に終わる。
彼女が愛する人間の住まう、葦原中国を包み込むように。

無何有浄化。
滅びた世界は甦る。
歴史は滅亡と再生の繰り返しである。

慧音は歴史を観る。
知恵の神獣、白沢。
彼女の記す歴史の輪が途切れることは、まだない。

補足
本来結びと産霊は別語源とされるが、産霊「ファーストピラミッド」の弾幕は「おむすび」の形状とかけられている。この作中の用法から、産霊と結びを重ね合わせ、男女の縁を結ぶという信仰に重ね合わせても問題ないと判断した。

妖々夢の考察では「牛車の意味するものは何か」において、「車は繰り返し、輪廻転生の暗示」と結論した。
この考え方は上記の通り永夜抄にも通用すると考えられる。
(未読の方には併せて読んでいただければ幸いです)

▼2004/10/30
東方シリーズ考察:作中における紅の意味は?
作品の随所に配されている「紅」。
妖々夢考察「咲夜の目の色はなぜ違う?」で、紅魔郷において紅が象徴的な色だったことに触れた。
(上記の考察は内容が古いままなので、本題については参考程度に……)
ステージタイトル、曲名、画面の配色を見れば明らかだ。一例はステージ3「紅色の境〜Scarlet Land」。紅魔館との境に紅が配されている。後半はもちろん、序盤にも紅は登場している。

日本では昔から常ならぬ存在がこの色と共に語られてきた。閻魔の服の色、鬼の色、異人と呼ばれた人々の肌の色……紅は「まつろわぬもの」「異端」などの象徴でもあったのだ。もしもそのような意図で使用されているのであれば、西洋的な雰囲気に満ちている紅魔郷は「紅によって東方色に染められている」と考えられないだろうか。

さて、弾幕シューティングはシューティングの中でも比較的特殊なジャンルであるといわれる。東方はその中でさらに一線を画した作品だ。軸になっているのは画期的な「スペルカードシステム」。この点だけを見ても東方シリーズは特異な存在といえる。ならば紅を身にまとうのは自然だろう。 紅にはZUN氏の創作哲学も何らかの形で込められているのだろうか?

永夜抄のスペルカード発動時、その名称は紅い蝶の群れと共に描かれていた。紅い蝶はデザイン面で貢献していると同時に、上記の特異性を暗示しているのかもしれない。
紅の蝶をそのまま「異端である魂たちの飛翔」と解釈してみよう。
蝶という要素から考えれば旅立つ先は冥界である。しかし、その本質は次回作へと引き継がれ、東方シリーズを彩っていくだろう。だからこれは死でもなければ終わりでもない。連綿と続く創作の昇華だ。そうして作品はより高みへと昇っていく。
次回作にも引き続き登場するのは一握りのメインキャラのみだという。だが二度と登場しないキャラクターたちも、紅い蝶と共に飛翔するように思われるのだ。

もう一つ、蝶を長寿の象徴として読み解くのであれば、これは恐らく「異端と不滅」という意味になる。紅を身に纏った藤原妹紅が用いるスペル「インペリシャブルシューティング」。不死にまつわる竹取物語……様々な要素はシューティングの不死性を訴えかけているようにも見えてくる。
永夜抄でも「紅は追い出される色」などとされており、異端という意味合いを含んでいるように見える。蓬莱人となった妹紅も「紅」だ。名の由来「君“も紅”色に染まれ」という意図は?
私には全てが繋がっているように見えるのだが――


……っというわけで、トークショー申し込みの質問事項にそんな感じのことを少し書いたんですわ(いきなり口調を戻してみる)。ZUNさんの意図は全然違うんだろうか。だとしたらどんな意味が? 紅は何らかの本質に関わる事項だと思っているんですけど……興味津々です。採用されたかどうかは不明ながら、トークショーの内容を後日公開予定とのことなので楽しみ。
参加した方は一言一句聞き漏らさない勢いで臨みましたか? バッチリでしたか?

▼2004/11/03
永夜抄ミニ考察(というか雑感):インペリシャブルシューティング
シュートしない自機。撃ってくるのは妹紅の方。ということは。
不死身の妹紅。何度死んでも蘇る。シューティングゲームは衰退しても復活する不滅の存在!
……っていう解釈でOKなんでしょうか。撃破後のコメントで結論を書いてないというのは予想外でした(笑)。

▼2004/11/08
東方永夜抄考察:月と兎と蓬莱の薬
中国の民間伝承においてずる賢い生き物の代表である兎は、同時に「月の魂」と信じられ、月の象徴でもあった。日本では月で餅をつくとされるが、中国の伝説では薬を作る。あらゆる薬を作る天才・八意永琳と月の兎・鈴仙の師弟関係はこれを踏まえるとしっくりくるだろう。
(地上の兎・てゐの位置づけをどうするかは解釈が分かれるところだと思われる。この点については後日、改めて検討を加えてみたい)

その永琳のラストスペル、禁薬「蓬莱の薬」は、発動している間ずっと得点アイテムが出現し続ける。これは不老不死の隠喩ではないだろうか。永夜抄では最終的なエクステンドが「得点アイテム9999個」に設定されている。ゲーム中でそれだけの数を集めるのは不可能だが、仮に蓬莱の薬が永遠に続くのであれば、アイテムも永遠に収集できることになるからだ。
スペルの時間制限こそあるが、これは永遠のエクステンド=不死に繋がる要素だと考えられないだろうか。
先日のトークショーではZUN氏自ら「残機はガッツのこと」と発言されたらしい。これがゲームのあらゆる場面に当てはまるのであれば上記の解釈は難しいということになってしまう。しかし不老不死の妹紅が待つEXTRAステージの曲名が「エクステンドアッシュ〜蓬莱人」であるため、全くの無関係とするのは躊躇われる。

禁薬「蓬莱の薬」のラスト十秒がスローモーションになるのは、弾幕の中で永遠とも思われるような長い時間をプレイヤーに与える演出なのかもしれない。あるいは妖夢がそうだったように「集中力を高めて全てが遅く見える」ようなエフェクトだという可能性もある。
だが、同時に咲夜に通じると考えることもできるのではないだろうか。
「珠は少しでも欠けると価値がなくなる。永遠に丸のままではいられない。でも、傷が付いた珠も転がしているうちにまた珠に戻る」
「そう、永遠とはそういうこと」
幽々子は語り、輝夜が肯定した。
古くから月は永遠の象徴とされてきたが、その伝説の一端を担っているのが「満ち欠け」なのだ。姿を消しては現す月――死しても甦る姿に、古人は永遠という思想を重ねた。
永遠は咲夜が操る「時」の究極的な姿のひとつといえる。そして十六夜は欠けた月なのである。
果たしてこの会話、咲夜には関係がないのか?
ひとつの可能性として考える価値はあるように思う。

▼2004/12/19
香霖堂(elfics第2話)

扉絵に驚いた。前号で姿を拝見していたとはいえ、それでも驚く。んむ。良い。
……ところで紫様。前々から夢想していたんですけど、もしかして冬眠前に巷で神隠しが発生しやすくなるとか、そんなことはございませぬか。ほら、冬に備えないといけないんじゃないかなーとか。色々と溜め込んでおかないとダメかなーとか。そうでもないですか? そうですか。
想像するとドキドキワクワクです。
ところで結界を超えた霖之助が紫に追い返されてたみたい。人間ならそちらへ行けるようなので、霖之助や妖怪たちは本当に幻想郷に閉じこめられているみたいですね。人間界から見てあり得ない存在、隔離された存在だからかな。

前号より裏表紙がアレで買いづらい気がしました。でも羞恥心は十代の頃に捨ててしまったらしく、無事に買えちゃったよ。えへん。
(´-`).。oO(…………なんで胸張ってるの?)

萃夢想考察?:タイトル画面にふと思う
ジャケットにある人影の下部に描かれているのは菊。
隠遁を象徴する花。花の中の君子。東洋画のモチーフとして蘭、竹、梅と共に「四君子」と呼ばれる。
菊は日精、月精、天精であり、仙境の花、神仙の霊薬。延命の効能があり、御酒に入れて飲んだりもしていた。「菊酒は神仙が飲むもの」ともいわれ、その高貴さが窺える。
時代によっては、九月八日の夜、菊の花を綿で覆って露や香りを移す風習があった。菊綿、菊の被綿(きせわた)という。翌九月九日は邪気を払い、無病息災と延命長寿を祈る「重陽の節句」「菊の節句」の日である。菊を観て、菊酒を飲み、菊綿で身体を湿して延命長寿を祈願する。菊綿で身体を拭くことは「老を捨てること」と見なされていた。「九」と「久」が同音であることもこの思想に関りがあるという。
(日本でも中国でも行われていた節句だが、もちろん内容はある程度異なっている)
上記のような思想から菊は敬老の象徴でもあり、花の黄色は皇帝、権威などを象徴する。
また、頭痛や目眩、眼病の治療に使われていたといい、これは永夜抄のエンディングに重なる要素だ。もちろん永琳ならこうした事実は百も承知だろう。もしかすると彼女の薬には菊が使われていたのかもしれない。
延命長寿という要素は今までの東方シリーズの流れに合致している。
さあ、あの影は菊にちなんで延命長寿、不死、永遠に関連した人物なのか?
三十日を刮目して待つべし!

……というわけで、堅苦しい文体で書いたのはいいけれど。
菊は秋を代表する花なのに、萃夢想は夏のお話だからねー。そもそも慧音だったりしてねー。
だからあんまり信じちゃダメだよー(そーなのかー
あ。夏が終われば秋が来る……の?

▼2005/01/03
萃夢想・初プレイと考察(雑記風味)

一通りEasyをクリア。ファーストプレイの咲夜が未だに最高点。あれ?
絶対見たことある絵だと思っていたら、alphesさんだったんですね。もう紫様格好良すぎ。喋りといい動きといい、この感覚ですよ。橙を「+」扱いしているのが紫っぽいというか……。
(もちろん仲良しな八雲一家も好きですよ)
ぜひ持ちキャラにしたいですが、癖があって使いにくい。幽々子よりはまだ楽かな? カリスマ溢れるレミリアが一番肌に合いました。咲夜にも結構意地悪な態度取るんですね。使っていくキャラを選ぶとすれば咲夜、紫、レミリアかな。
どのキャラも動きが良くてワクワクします。
音楽はやはりタイトル曲とそのアレンジが素晴らしい。テンション上がります。紫戦の曲がZUNさんの新曲というのも嬉しい。

ところで萃香が登場した時、かなり気合いが入りますよね。ラスボスだし。鬼だし。
直後、あの動きを目撃して
( ゚д゚)……え!?
となったのは私だけではないはず。しかしまさか鬼が東方に登場するとは思わなかったです。物凄く驚きました。

<以下、考察色が強まります>
鬼に関する勉強はしばらく前から少しずつ続けているので嬉しかった。「ひぐらしのなく頃に」の考察でも書いたんですが、諸説あって特定されていないという鬼の語源については、隠(おん・おぬ)が転じたというのが代表的。姿が見えないよう山などに隠れ住むモノ、という意味です。また、不可視の怨霊・病魔なども鬼と呼ばれる場合があるので、霧になった萃香はこれに重なるものがあります。彼女には人食いや害悪というイメージがほとんどないんですけどね。鬼の中でも異端ですし。

萃香=西瓜(スイカ)。
スイカは実が赤い。すなわち異端の色。鬼の色。
この色が東方シリーズにおいて重要なものだということを、いくつかの項目で繰り返し書いてきました。
彼女が火を用いるのもやはりそこに絡むんでしょうか……妹紅と同じですね。
関連項目:作中における紅の意味は?

ここまで一致していると赤(紅)に対する一連の考察はそれなりに近い線なのでは……と思えます。違うにしても非常に知りたいポイント。色、音、光、文様、名前、呪い、鬼、異端、ゲーム、作品……ZUNさんの創作哲学が気になって仕方ありません。

先月、あのジャケットに書かれた菊の花を元に色々書きました。……ちょっと外してます(笑)。
共通点はありました。「菊は隠遁の花」ということです。萃夢想のジャケットを見ると、「隠棲の弾幕アクションゲーム」と明記されています。まさに菊が象徴している通りでした。萃香を始めとする鬼たちは隠れていて見えません。
また、菊は神仙の花であり、紫色は神仙の象徴色。「ミッシングパープルパワー」って、もしかしたら?

一緒に描かれている曲線が流水であれば「延命長寿」で間違いないんですけど……これ、なんでしょうね? 難しい。
仮に「菊に流水」なら、このジャケットデザインは「古く、長命なモノである鬼たちが隠棲している」――という意味になるでしょう。バックにいるのが鬼の萃香なので。このように、菊は隠遁だけでなく、古い種族という意味を兼ねているのかもしれません。

彼女の姓や名称の由来などは早くもととねみぎさんが書かれてます(diary→べにしょうが1/2)。裏ジャケットに「最も盛大で、最も誠実な失われた力が今甦る!」とあるので、鬼=誠実という考察には説得力があります。
KORさんの考察(1/3)も面白いです。あのスペルの難易度はEasyですら異常……初見、もう蜂かと。スペルの名称がまたいいんですよね。
ところで、ととさんが鬼女紅葉に言及されててビックリ。十月の頭、その伝説に惹かれて鬼無里村に行ってきたばかりです。今も関連資料を読んでいる真っ最中。戸隠の方は中社しか見られなかったので、また機を改めて見に行きたい土地です。

色々なパターンがあるという酒呑童子伝説の中に、伊吹大明神が人間の玉姫との間にもうけた子が、やがて酒呑童子になった……というものも。この大明神、実は出雲のヤマタノオロチが神として祭り上げられた存在。荒ぶる龍神、スサノオ、酒、草薙剣。
また、酒呑童子といえば大江山ですが、「酒伝童子絵巻」だと舞台は近江伊吹山なんだそうです。

酒呑童子・鬼には「排除された土着の民」という側面もあります。萃夢想にもそれを思わせる会話がありました。構図は似ています。
現代の人間も追いやった鬼たちを忘れてしまっている。
こういう観点から眺めると、彼女たちがたまに酒を飲んで騒いでいても「見逃してあげよう」って気になりませんか?
それともZUNさんのあのコメントはまた違った観点からのものなのかな。もう少しちゃんと読んでみようと思います。

▼2005/01/01
東方永夜抄考察:八意永琳〜妙なる見、天に座す〜

<第一章>
月の頭脳、八意永琳。
あらゆる薬を作る天才、輝夜を遙かに凌ぐ力を持つといった断片的な説明はあるものの、肝心なところは曖昧なままぼかされている。偽りの月を用いて地上を密室にした永琳の力とは。
一体、彼女は何者なのか?

彼女と出会った時に目を惹かれるのが赤と青に分けられた衣服ではないだろうか。幻想郷の中でも一際異彩を放つこの意匠には、何かしらの意味が込められていると見るべきだろう。
特に象徴的なのは胸に描かれた北斗七星。彼女は北天の星を服に縫い止めている。天を身に纏う人物であるという構図が彼女を読み解くための入り口になるのだ。

古代中国において北斗七星は極めて重要な星だった。「日本文様事典(雄山閣)」によれば、斗柄の指す方向によって時刻を計る。陰と陽を分け、五行を整える。四方位を治め、時の分割や天の運行を司り、四季を定める。天の中心たる北極星の近くを巡るという意味でも尊貴の念を抱かせる。
北極星は北辰ともいい、あらゆる星座の中心に位置することから最も尊い星である。天帝太一神、あるいはその居所ともされている。北斗七星よりも北極星に近い十五の星々を天の宮殿に例えた「紫微宮」という概念もある。
「論語」に「徳によって政治を行うものは、不動の場所を保つ北極星に例えられる」とあり、これは中国で極めて重要視され、日本にも大きな影響を与えた思想である。

この北斗七星、および北極星を仏教において神格化した存在がある。
名を妙見菩薩という。
台密では尊星王と呼ぶ。
閻浮提の星々の中で最も優れ、全ての菩薩を統べるという大菩薩である。姿は一定ではないが、二臂または四臂であり、雲に結跏趺坐、あるいは青龍に乗った姿で描かれることが多い。
十二宮、二十八宿を含む天の星々を神格化した諸尊を「宿曜」というが、これらの中で信仰の対象になっているのは妙見だけだという。いかに尊く重視された存在かが窺い知れる。

再び「日本紋様事典(雄山閣)」を引くと、妙見菩薩は「四天下中一切の国事我れ悉く之に当たる(北辰妙見大菩薩神咒経)」という。国政を統べ、悪王あれば交代させ、善王あれば菩薩・善神を率いて国土と民を守り、敵を退け、人民安楽をもたらす。死を除き、罪を減じ、延命長寿をなす。月と結びついて表現されたことがあるという後漢の事例は、永夜抄の物語と重なるものがある。

北斗七星には肉眼ではほとんど見えない小さな星「輔星」が付随する。優れた視力を持っているものだけがこれを見分けることができたという。妙見菩薩はこの輔星に象徴される視力、すなわち妙見という名の通り「何ものをも見通す鋭い眼力」を持つとされる。
天地に網を張るがごとく、全ての事象を知り尽くす。永琳のラストワード「天網蜘網捕蝶の法」はこの眼力の具象なのだと理解できる。ZUN氏のコメント「ついでに映画倫理も監視する」というのはもちろん永琳と映倫をかけた洒落であるが、根底にあるのは全てを見通す妙見の眼力なのである。

――さあ、八意永琳の背景が見えてきた。
彼女は天に輝く北極星と北斗七星、すなわち妙見菩薩に重なっているのだ。永琳の服に北天が現されていたことを思い出して欲しい。
「日本霊異記」には妙見が鹿に変じて盗人を見破るという説話がある。それでも幽々子が永琳を鹿料理に例えなかったのは、輪廻を超越しうる菩薩ゆえの配慮だったのかもしれない。

その眼力に由来し、妙見菩薩が持つ治癒の力は特に眼病に対して優れた功徳をもたらすとされる。
永琳が薬を用いて妖夢の紅くなった目を治そうとするシーンはここから来ているのだろう。ナースを思わせる帽子、薬を使うという能力から医者としての役割を果たしているのは間違いないが、その奥には妙見ゆえの眼病治癒という裏付けが存在しているのだ。古来より、妙見を勧請し息災延命・眼病平癒のために修する「北斗七星法」「妙見法」なるものが実在することも忘れてはならない。
禁薬「蓬莱の薬」の考察で触れたところであるが、永琳を師匠と呼ぶ鈴仙にも再び言及しておきたい。月の兎といえば餅つきが思い出されるが、日本と違って中国では薬を作るとされている。「あらゆる薬を作り出す天才と、それに従うもの」と解釈すれば二人の関係に当てはまるのである。

<第二章>
北辰・北斗七星信仰は密教によって日本にもたらされ、平安時代にはすでに行われていた。
七夕信仰や易などにも見られるように古代中国で「七」は聖数とされていたのだが、妙見菩薩を背景に持つにも関わらず永琳の姓は「八意」である。これは一体なぜなのか。

彼女は優れた知恵を持つと説明されている。
日本には記紀神話に登場する天八意思兼命(アメノヤゴコロオモイカネノミコト)という神がいる。日本書紀に「深謀遠慮」「思慮の智」ありと記された神であり、天の岩屋戸に籠もった天照大神(アマテラスオオカミ)を誘い出させた説話が有名である。
八意なる姓と深い知恵は、この天八意思兼命に由来すると見て間違いないだろう。もちろん神脳「オモイカネブレイン」は思兼命のことだ。月の頭脳という異名も当然である。
本来、永琳は月からの使者として地上に降りてきた人物。帰郷を拒むであろう輝夜を――それこそ岩屋戸から誘い出すように――連れ帰る役割を担っていたはずだ。まさか裏切って輝夜の側につこうとは、いかに月の民といえど読めなかったに違いない。

彼女の外見に再び着目してみよう。
多くの人が永琳の持つ弓矢に目を奪われたことだろう。しかしただの一度も矢をつがえることはなく、一体何のために持っているのかと疑問視する向きもあったと思われる。しかしこれはただの装飾ではなく、れっきとした意味を持つものだ。
日本の中世において妙見菩薩は武士の守護神でもあった。北斗七星の第七星が破軍星であることから「弓箭の神」として熱心な信仰を集め、崇拝されたのである。
弓箭を司る妙見菩薩であり、知恵を司る天八意思兼命でもある永琳。
ならば八意という名字は「矢と八を掛けたもの」と解することもできるだろう。弓矢は両者を繋ぐ鍵といってもいい。

また、道教の思想で八角形が意味するのは「宇宙観」だという。中国の皇帝はこれに基づいて八角形の建築物を造営したとされる。永琳と宇宙が密接な関係にある以上、こうした観点から「八」という数字を捉えていく必要もあるだろう。
このように、彼女の姓は多面的な意味合いを持っていると考えられるのだ。

北極星を神格化した存在は日本にもあった。天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)である。古事記神話において神々の世界を統括した最高神だ。天皇、帝の印である鏡と剣、王権神話にも関連するところに上白沢慧音との繋がりを見出すことができる。中国でも日本でも天と帝は切り離せない関係にあったため、「歴史」という名の許に二人が結びつけられるのは必然だといっていいだろう。
妙見信仰と結びつき、天御中主神と妙見を同一視する事も多いようだ。

<第三章>
永琳の弾幕はプレイヤーキャラを閉じこめ、束縛するようなものが多い。
その理由について考えてみよう。
天は丸く地は方(四角)という古代中国の宇宙観をまず挙げてみたい。他にも国の周囲を東南西北の四方に分けたり、宇宙を四、八、九などに分割して捉える思想がある。
これらは八卦にも繋がるといわれ、赤と青に分かれ八卦を配された永琳の服を思わせる箇所である。腰帯で上下が分かれているとすれば四と見るのが自然だろうか。
一方で忘れてはならないのが「壺中天」や「洞天福地」といった宇宙観だ。古代中国には壺や洞窟といった閉所の中に広大な宇宙を見出すという独特の思想があった。
天丸「壺中の天地」および薬符「壺中の大銀河」はそのままである。
妙見菩薩と中国の宇宙観を考えれば、いくつかの弾幕に一定の規則性を見出すことができるのだ。
もちろん、閉じこめるという意味合いも兼ね備えるのだろう。地上を密室と化した永琳の秘術が想起される。永琳は空間を閉ざし、そこに宇宙を作り出していたのだ。偽りの月が輝く宇宙を。「偽の月に偽の星空」と幽々子が見抜いている通りである。
永琳は「満月を無くす程度の術、取っておきでも何でもない」とあっさり言ってのけていた。天を操る彼女にとって天体一つを隠すことなど造作もなかったに違いない。

ベルナール・フランク氏「日本仏教曼陀羅(藤原書店)」には、妙見が中央に描かれた仁和寺の図像が紹介されている。周囲にいくつも配された小円の中には「三本足の烏」や「兎」が描かれている。
この烏は中国の伝説で太陽の中にいるという金烏(きんう)だ。一方の兎は同じく月中に棲むという玉兎。よって、これらは全て太陽と月の象徴となる。
小円は動物の背に乗っていたり、抱えられていたり、「齧り付かれて」いたりするのだが、それについてフランク氏は「天文学的及び占星学的状況、多かれ少なかれ満ちたり蝕されたりする位相を表しているのであろう」と述べている。
日食や月食に通じるという点は、永琳が欠けさせた月に繋がる。彼女がそのような術を行使することに何の不思議があるだろう。
北天の具現である彼女に相応しい、強大な力である。

さて、かつて宇宙にまつわる学問として「天文道」というものがあった。太陽、月、星、風、雲といった天の諸要素を観測し、吉凶を占う術である。観測の結果は決して公にはされず、特に異変が生じた時は密封して帝に奏上されるものだった。
これを「天文密奏」という。
陰陽道と深く関係するこの学問は、平安中期以降、安倍氏の世襲となった。かの安倍晴明が天文道を学び、天文密奏にも従事していたのはいうまでもない。
永琳が最後に行使するスペルカード、秘術「天文密葬法」はこれに掛かっていると考えられる。「奏」という字が「葬」に変わっているため意味合いは異なってくるが、名称と弾幕の形はいずれも重なっている。密室を形作る使い魔が「洞天福地」を想起させる点にも着目したい。天との関わり、そして紅魔郷、妖々夢に配されていた諸要素を考えれば納得できる構造といえる。

だが、この天文道はあくまでも地上人の手によるものだ。永琳はその力で天の変異を誰よりも深く見通していたに違いない。ZUN氏のコメントに「理屈も無く空を弄る永琳」とあるが、逆に「理屈など必要なかった」と考えることもできる。妙見を背景に持つがゆえ、である。

<第四章>
三國演義で最も有名な英傑といえば孔明(諸葛亮)である。彼は熱心な北斗信仰者だった。彼の掲げる旗が北斗七星であることからもそれが窺える。
ある時は星を読み、天命を知り、人民を導いた。赤壁の戦いでは七星壇を用いて風を呼び、死を予感した五丈原では北斗七星に延命を祈ったとされる。すなわち、彼は蜀の丞相であり、軍師であり、神秘を司る道士だったということだ。

視点を日本に移せば、かの葛飾北斎も妙見菩薩を熱心に信仰していたという。
極めて貧しい生活の中で自らの才能に疑問を持った北斎は、三十七日の寺参りを続けて妙見菩薩に祈りを捧げた。結果、凄まじい雷雨が巻き起こるという霊威を目の当たりにして大いなる刺激を受け、それ以降一気に飛躍したのだという。
この説話は後世の創作という説が有力だが、「北斎」「辰正」「戴斗」といった彼の雅号は明らかに北天・北斗に関係している。「戴斗」は「北斗を戴く」という意味である。富士図の傑作と讃えられる「富嶽三十六景」は妙見菩薩への信仰がなければ生まれなかったのかもしれない。
その三十六景の一つに「凱風快晴」がある。
いうまでもなく、藤原妹紅が用いる蓬莱「凱風快晴―フジヤマヴォルケイノ―」だ。竹取物語の結末、不死と富士が重なっているスペルだが、このようなところから繋がりを見出すこともできるのである。
また凱風快晴には「赤富士」という異名がある。妹紅にとって、また東方シリーズにとっても重要な色である赤(紅)が強調されている点でも意味深いスペルといえるだろう。

<第五章>
妙見菩薩は北極星か、それとも北斗七星なのか?
いずれも北天に輝く重要な星である。ところが、この重要な問題には平安時代から今に至るまで結論らしきものが出ていないという。北極星であるといわれることもあれば、ここまで述べてきたとおり北斗七星を含む場合も多い。北極星と北斗七星を含めた意味で妙見を「北辰妙見大菩薩」と呼称する場合もある。
ベルナール・フランク氏の記述によると、人々は時と場合によって両方の解釈で妙見を理解していたようだ。
永夜抄ではどうなのだろうか。
ステージ4で目に留まるのは、大きな月と星々である。月はハッキリとした姿を持ち、星はカメラでバルブ撮影を行ったかのように光の筋を引いている。すなわち、月の周囲を星々が巡っているということだ。
輝いているのは偽りの月であり、この術を行使したのは永琳である。星を従えた月が座すのは北天の中心――すなわち不動の北極星に相当する位置だと考えることができる。妙見菩薩を北極星と見なすならば、あの光景は確かな説得力を持つ。
では、妙見を北斗七星と捉えた場合はどうなるのか。中心に位置する月が象徴するのは月の姫君、輝夜となるだろう。古代中国では北極星のすぐ近くを巡る北斗七星を「天帝の車」と呼んだ。あの月を輝夜の象徴とするならば、糸を引いて巡る星々の中に北斗七星があるに違いない。輝夜の従者たる永琳に相応しい。
どちらの解釈であっても説得力がある。やはり私たちが妙見の位置づけを定めることは難しいといわざるを得ない。「どちらも妙見である」と解釈し、その時々に応じて使い分けるのが最も妥当であると思われる。先人はやはり偉大であった。

<第六章>
アポロ13号はあわや大惨事という危機に直面したが、クルーと地上スタッフの努力によって無事の生還を果たす。この奇跡は映画にもなっており、多くの人々の感動を呼んだ。
しかし永夜抄の物語を基にして考えると非常におかしな事に気づかされてしまう。この物語は本来「あり得ない」はずなのだ。

なぜ、アポロ13号は地球に戻ることができたのか?

果たして、あの強大な呪いをもたらしたのは誰だったのか。
月の民である。
彼らはアポロ11号に怒りを覚えていたはずではないか。勝手に旗を立て、月の平和を脅かす。地上人にとって夢の足跡だった月面着陸は、月の民から見れば侵略行為以外の何ものでもなかった。それがアポロ11号のもう一つの姿だったはずだ。

天呪「アポロ13」――新たな侵略に対して与えられた呪い。月の民だけが知っているという事故の理由。ならば、どうしてアポロ13号は宇宙の塵とならなかったのか。クルーたちが生きて地上に戻ってこられたはずはない。本来ならば宇宙船は完全に破壊され、乗組員の命も奪われていたはずだ。鈴仙を戦いに呼び戻そうとし、徹底的に抗戦しようとした月の民が、憎き地上人たちを生かして帰すのはどう考えても不自然なのだ。

その理由を私はこう考える。
月の民ですら予想し得なかった不測の事態が発生したからだ、と。

天呪を凌駕する力がアポロ13号を守り抜いてしまったのだ。
広大な宇宙で危機的な状況に陥っていた船を、無事に地上まで送り届ける――そんな馬鹿げた力を持った人物は、ただの一人をおいて他にない。

八意永琳。

妙なる目を持って全てを見通す者。
天の具現にして弓箭の神、諸天を率いて君臨する北辰妙見大菩薩。
「日本霊異記」には妙見が海難に遭った漁師を救う説話が納められている。中国へ行くために海を渡った天台宗の円仁が書き残した日記にも、やはり妙見にまつわる記述があるという。妙見菩薩を信仰していた人々は、船上で急病の平癒を願い、嵐の中で妙見を唱え、無事に航海を終えられるように祈った。慈悲深い菩薩は人々を守り、癒やし、救ったのである。
妙見は「航海者の救助」という力を持っているのだ。これは眼病平癒などと同じく、現代の信仰でも変わりがない。北斗七星が古来より航海の指針であることは周知の通りである。

アポロ13号の乗組員は宇宙という海を渡って月を目指した「航海者」だった。天呪という名の嵐に見舞われ、月を目前にしながら酸素ボンベが爆発する。全てのスタッフが必死に戦い、祈っただろう。妙見の名を呼んだ者などいなかったはずだ。にも関わらず、永琳は「愚かな地上人」に救いの手を差し伸べ、地球への道を指し示した。
奇跡と称えられたあの生還劇の陰には優しき菩薩がいたのである。地上の歴史には残らなかった八意永琳という名を、せめて私たちだけでも記憶に留めようではないか。

<第七章>
永琳と月人が対立する天呪「アポロ13」の構図には、使者を裏切って皆殺しにしたという過去のエピソードが重なってくる。ここでも永琳は月人にただ一人背を向けていた。輝夜と永琳は共謀して使者を殺害したと記されているが、私の考えでは月人を始末するのに輝夜の手など必要なかった。その凄まじい力を持ってすれば、たったひとりで月人たちを片づけることなど造作もなかったはずなのだ。
誰かを救うための行動であることは一致しているが、アポロ13号とは正反対に殺害という端的な手段を取った永琳。
彼女が抱くのは慈愛か、狂気か?

司馬遷は「史記」の中で北斗七星を「七政(七つの政治)の調和を司るもの」と記したという。
七政はまたの名を七曜というが、これは七つの天体「火、水、木、金、土、日、月」であり、恐らくパチュリー・ノーレッジが行使する魔術に関連がある。「日本仏教曼陀羅」によると、もう一つの解釈は「春、夏、秋、冬、天体の運行、地球の位置、人間の行い」である。
どちらであっても北斗七星が万物の調整者である事に変わりはなく、永琳によく通じている。
アポロ13号の事例をもう一度見つめ直してみたい。彼女は月の民と地上人の意思を上手く汲み上げ、両者の妥協点を探り出したと考えることができる。それがアポロ13号の爆発という悲劇であり、地球への帰還という奇跡だったのだ。
永琳は見事な調停をやってのけたのである。

その彼女は輝夜と共に幻想郷に隠れ続けている。地上とその天に変異があった時はともかく、月そのものにはもう執着がないように思える。
攻め込んできた人間に徹底抗戦を誓った月の民。調整者を失った月の都は、その後どうなってしまったのか? 詳細は不明だが、資料を読む限りでは古い記憶よりも荒れ果て、醜くなってしまったようである。
さらば、美しき幻想の月都。
もしも永琳が輝夜を連れ帰り、月の都に健在であったなら、その戦いは最悪の事態を招くことなく終結したのかもしれない。八意永琳を失った月が廃退するのは必然だったようだ。
彼女はそれを見抜いた上でなおも輝夜を選んだのだろうか――

四臂で現された妙見は、二つの手にそれぞれ金烏、玉兎が描き込まれた珠を持つ。
妙見菩薩は天に輝く太陽と月を司る存在でもあるのだ。
赤と青に染め抜かれた永琳の衣服はこの現れといえないだろうか。
狂気の代名詞である冷たい月と、全てを明かす暖かい太陽。
私には永琳の複雑な内面、狂気と慈愛の二面性が象徴されている気がしてならないのだ。
彼女の服には北斗七星を始めとする星々の他、人間界・自然界の諸現象を表す八卦が配されていた。
まさに陰と陽。
天と地。
あらゆる事象を全て凝縮した意匠であると思うのだが、いかがだろうか。

私たちは妙見菩薩を軸として、七つの章に渡って永琳を考察してきた。
彼女はプレイヤーにそれほど強烈な印象を残す人物ではない、という声も確かにある。だが、ここまでの考察を踏まえた上で、どうかもう一度永夜抄をプレイしてもらいたい。特に注目すべきは本編たるステージ4以降である。今までは曖昧だったいくつかの要素が意味を持って繋がっていくはずだ。
私が永琳に惹かれた理由は、全てそこに描かれている。

<輔>
永琳戦の背景に表示されるいくつかの建造物には結論が出せなかった。
北辰・北斗・妙見信仰に関連した建物が含まれると考えているのだが、現時点では調べがついていない。

▼2005/02/21
考察:八雲紫が傘を持つ理由
八雲紫はどうして傘を持っているのだろうか。

雨が降っていないにも関わらず、彼女はこれを手放さない。
よって、まずは雨具ではなく日傘という可能性に目を向けてみたい。
弱点ではないにしろ日光があまり好きではないのかもしれない。

> 紫は1日12時間睡眠で、夕方から真夜中にかけてしか活動しない。
(キャラ設定.txtより)

夕日を遮るという使い方は納得のいくものだ。
しかし、僅かな時間で太陽は没してしまう。それ以降はどうなるのだろう。
妖々夢の登場シーンなどを見ると、夜間も傘を持ち続けているようだ。
太陽が出ていない時間に傘を手にする必要などあるのだろうか?

一見すると紫の行為は矛盾しているように見える。
胡散臭いと形容されるほど掴み所のない彼女だけに、それも当然と受け止めてしまいそうになる。
しかし、その奥には何かしらの真意があると考えたい。
「夜に傘を差す」という点にこそ意味があるのではないだろうか。

現代の日本ほど文明が進んでいない幻想郷の闇は、かなり深いものと考えられる。
日が沈んだ後に人里を離れれば、灯りは全く存在しない。
夜が明けるまでは足下もおぼつかないに違いない。

だが、そんな辺境にも光は降り注いでいる。
天を仰げば月と星が輝いているからだ。
月影、あるいは夜光に照らされる幻想郷。
夜といっても、決して完全な闇に閉ざされているわけではないのだ。

傘を差せば夜であっても影が生じる。
八雲紫の周囲には光と影の境界が出来上がることになる。
境界を操る彼女がわざわざ手にする道具として考えれば、夜に傘を持つという行為も不思議なものではなくなるだろう。
スペルカードに冠された「罔両(もうりょう)」という語は、光と影の境に生じる薄影のことをいう。日傘という解釈はこの境界性に通じるものだ。

あまねく幻想郷を照らす光の中にあってなお、陰に身を沈める八雲紫。
自然から隔絶するような在り方からも、やはり並大抵の妖怪ではないことが窺える。

もちろん、夜空が厚い雲に覆われていれば日傘としての意義は薄れることになる。
――紫は傘を手放すだろうか?
そうとは限らない。作中には登場していないものの、「雨を遮る境界を作り出す道具」として使うこともあるのではないだろうか。どちらの役割であっても、そこにはやはり「境界」という一致が見られるのだ。

余談ながら、英語のアンブレラ(umbrella)はラテン語のアンブラ(umbra)――「影」が語源だという。
彼女の西洋的な服装を考えると面白い一致といえそうだ。

 

2005年12月30日、最終稿となる東方考察本発行。
2008年7月20日から第三版頒布開始。



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