東方紅魔郷ショートショート
「夜の幻灯」

 

 私は腕時計に目を落とし、ため息をついた。遅い。
 針は午後九時を回り、約束の時間から二十分以上も経ってしまっている。携帯は不通で、連絡が取れない。彼女は時間にルーズで、こうして遅れてくることが度々だった。
 暇を持て余して周囲を見回す。
 真っ先に見えたのは、薄暗い路地の角にぼんやりと浮かび上がるスナックの看板だった。
 ――いつできた店だろう?
 記憶を探るが、思い当たる節はまったくなかった。
 暖色系のライトに照らされた店を見つめていると、周囲から隔絶された幻のように思えてくる……捕らえどころのない、まるで蜃気楼のような光景――視界が不意に霞んだ。
 頭を振る。
 ぼうっとしてしまったようだ。
 興味を引かれて近づいていき、看板の店名を読み上げる。
「みすず……か」
 美鈴という漢字が、飾り気のない質素な書体で描かれていた。よく言えば上品な、悪くいえば少しばかり地味な看板だった。
 しかし白い背景に鮮やかな紅色の文字が並ぶ様は、決して嫌いではない。下卑た雰囲気のない楚々とした印象。この近辺では珍しい。
 清掃も行き届いていて、看板は美しく輝いていた。
 新店だからか、営業はあまり上手くいっていないらしい。
 見れば活気のない店特有の空気が、確かにそこにわだかまっていた。
 大きなガラスが填め込まれたドアの向こうで、店主と思われる若い女性が頬杖をつき、カウンターにもたれかかっていた。さぼっていたわけでもないらしく、傍らには磨き上げられたグラスが整然と並んでいるのが見て取れる。やるべきことをやり終えてしまったのだろう。
 しかし客は来ない。
 ため息をついて肩を落とす彼女は、少し不憫だった。
 ……給料日からまだ一週間と経っておらず、懐はそれなりに暖かい。遅刻癖のある女を待つならば、ここで突っ立っているよりも、中で飲んでいた方がいいと思い立つ。
 戸を引くと、カランという軽快な鈴の音が響いた。
 同時に店主が弾かれたように顔を上げた。長い赤毛がしなやかに動き、両肩にかかる。近くで見れば思ったよりもずっと若く、美しい女性だった。十代だといわれても信じてしまいそうだ。
「いらっしゃいませ」
「何でもいい。一杯もらえないか」
 小気味いい返答とともに彼女が棚から取り出したのは、見たこともない銘柄のウイスキーだった。酒はそれなりに飲んでいるつもりだったが――
 ライトに透けて、澄んだ琥珀色の液体が揺れる。氷がグラスに放り込まれ、控えめに鳴った。上から注がれるウイスキーの音に、私は陶然と目を細めた。
 手慣れた優雅な動作だった。店は清潔感があり、雰囲気もいい。忙しない現代にあって、この空間だけ取り残されたような、不思議な郷愁を感じる。なぜだろう。
 差し出されたウイスキーは、まるで今の心情を反映したかのような懐かしい味がした。
「みすずでいいのかな」
「みすず?」
「店の名前」
 問いかけると、彼女は曖昧に微笑む。少し困ったような表情だった。
「よくそう呼ばれます。でも、本当は違うんですよ」
「じゃあ……みれい、かな」
「残念ながら、それでもないんです」
「うん?」
 考え込む。どちらかだとばかり思っていた。私の様子がおかしかったのか、彼女は小さく笑った。
「わたしの名前と同じなのに、なかなか覚えてもらえないんですよ。珍しい読み方だから。なんだか、色々なあだ名がつけられていて……みんなそっちの名前で呼ぶんです」
 あはは、と少し気の抜けた笑い声を洩らす。
 ようやく得られた話し相手だからか、彼女の表情は明るい。
 好きな仕事ができる時間は、来ない客を待ち続ける時間よりもずっといいに決まっている。
「本当の名前は……」
 そのときだった。
 ポケットの携帯電話が不意に鳴った。彼女からだった。
 ボタンを押して耳に当てる。
『――遅れてごめん。どこにいるの?』
 短く説明しながら、私はこのスナックに来いと誘った。彼女が予約したレストランにはもう間に合わないだろう。
 何よりここを立ち去るのが惜しかった。もっと話をしていたい。出してもらった酒についても、色々と訊いてみたかった。
 しかし、レストランへ行こうと彼女は催促した。「顔が利くから」と。確かに、知人が経営している店だといっていた。
 スナックの前まで来ているという言葉にドアの外を見れば、通りすぎる車のライトに照らされる彼女の姿があった。
 ……遅刻する上に、やってくるタイミングはいつもこうだ。一度言い出したら聞かないこともよく分かっていた。着飾った姿が、今日だけはやけに疎ましく見えた。
 少し乱暴に携帯電話を切る。
「――悪いね。連れが来た」
 最後に一度だけグラスを煽り、そう告げた。まだ少し中身は残っていたが、仕方なかった。
「そうですか」
 残念そうに彼女は答えた。客を待って肩を落としていた姿が重なる。胸が痛んだ。
 代金を払い、私は店を出る。
 悪気なく笑っている女が片手を挙げて会釈してきた。
 軽く悪態をつき、並んで歩き出しながら、肩越しに振り返る。
 彼女は中身が残ったままのグラスを片づけようとしていた。その様子が少し寂しそうに見えたのは、ただの気のせいだろうか。
 道行く人がスナック美鈴に入っていく気配は、まるでなかった。
 もっとあの店で飲んでいたかった。愚にもつかない思考が私の頭を満たしていた。今日ばかりは、隣の女が意識の外にいる。

 それから数週間が経った。
 仕事を終えた私は、再びあの街に来ていた。
 ――あの店の近くに。
 時計は午後十時。もう営業を始めているはずのスナック。
 彼女はどうしているだろう。
 少しは客が入るようになっただろうか?
 足を向ける。ひどく気になった。理由は自分でもわからない。
 心持ち早足で繁華街を通り過ぎ、近道をしようと脇道に入る。
 妙な期待感と焦燥感に駆られて、私は急いだ。
 寂れた空気に包まれた、その角の先――
 ――店には、シャッターが下りていた。
 店名を入れた看板は暗くうち沈み、街灯と時折通り過ぎる車のヘッドライトに照らし出されている。死に絶えたような雰囲気のスナックは、そこでしばらく待っても開くことはなかった。
「お兄さん、どうしたの」
 不意に背後から声をかけられた。大きなゴミ袋を両手に提げた初老の男性だった。料理人風の白い制服。食堂を経営している人だろうか。時間からして、店じまいの途中らしかった。
 私は訊ねた。
「このスナック――いつ開いているか知りませんか」
「さあ……。ずいぶん長く住んでるけど、この店が開いてるのは見たことがないよ」
 それを聞いた私は、自分でも意外なほどに落ち着いていた。半ば、その返答を予感していたように。
 世間から隔絶されたような店の雰囲気。
 二度とここには来られないという不思議な予感は、初めて店を見つけたあの瞬間から、心のどこかにあったのかもしれない。
 看板に目を戻す。あれほど暖かく上品に輝いていたはずの看板は、汚れ、ひびが入り、朽ちてしまっていた。この短期間では――決してあり得ないほどに。

 あれから、折を見ては何度か店の前を通ったが、シャッターが開いている日はなかった。
 今では後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように、仕事に没頭する毎日を送っている。
 それでもふと思い出す。
 彼女は、どうしているだろうか。
 今夜こそ店を開け、やはり客が入らないことにため息をついているのではないか。
 ひとりグラスを見つめているのではないか。
 あの夜のことばかりが頭をよぎる。遠い遠い幻のように思われた。
 寂しそうにカウンターに立っていた彼女は、本当にそこに存在していたのだろうか。
 確かに見たはずの光景は消え失せてしまいそうな危うさを持って、記憶の片隅に追いやられていく。郷愁に満ちたウイスキーの味とともに。
 ――スナック「美鈴」
 すべては終わってしまったのだ。店を立ち去った、あの瞬間に。
 私は何も知らないままだった。
 あの店のことも、見覚えのないウイスキーのことも。
 彼女の本当の名前さえも。


あとがき
街でスナックの看板を見た瞬間にプロットが浮かび……
最初は以下のような感じで考えてました。

スナック美鈴。中国がついに自分の店をオープンさせた! 心機一転、イメージ一新。
もうただのいじられキャラとは言わせない!
魔理沙「(通りかかり)あー、スナックみすずだってよ」
中国「・°・(ノД`)・°・」
結局名前を覚えられていない中国だったりする、そんな日々。

蓋を開ければシリアス風味のショートショートになっていました。
読んでいただければ分かると思いますが……えぇと、色々と変化球な作品です。

11/22追記
「SS」という表記を「ショートショート」に書き換え。
SS=サイドストーリー、ショートストーリー……各種の説がありますが、この作品に込めたテーマからもっとも適当な言葉を明記しようと思ったためです。
同時に、本文を少しだけ修正。

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