東方紅魔郷ショートショート
「不変の月」

 

 空に目をやる。
 闇に浮かぶ深紅の月。境界の向こうにある「人の世界」には存在し得ない、滴る血を思わせる色彩。
 禍々しい情景には違いない。
 しかし十六夜咲夜は、そこに不思議な居心地の良さを感じるのだった。
 館の露台で穏やかに吹き抜ける風を受けながら、細かい装飾の施された手すりに、たおやかな両手を乗せている。背後の部屋に照明は灯っていない。まぶしい光の中では、月の輝きも褪せてしまう。
 視線を静かに落とす。
 月の色に染まっていた青い瞳が細められた。
 眼下には広大な湖が空の紅円を映じて揺らめいている。そして遠方に目を転じれば黒々とした影の連なり――幻想郷の森が密やかに息づいていた。
 館に来たあの夜と同じ。そう、最初に見たのはこの景色だった。
 月は今も昔も変わらない姿で君臨していた。すべてを飲み込もうとする闇の中にあって、それをはねのけるかのように。
 ――首筋にそっと手をやった。
 小さな小さな噛み跡は、とうに消えている。
 些細な契約の証。
 以来、主は二度と咲夜の血を求めようとはしなかった。
 押しつけがましい主従関係ではなかった。支配も強要もなく、紅魔館でメイドとして働く、ただそれだけの穏やかな毎日。
 人間の輪に戻れない寂しさや疎外感はなかった。
 むしろ安らぎを覚えている自分の心を、咲夜はいつも驚きを持って迎え入れる。
 本当に些細な日々。だが、それがいかに大きなことか。
 月夜のたびに疼く首筋は、咲夜を強く締め付ける。
 なんと甘美な疼きなのか、と。
「――咲夜」
 背後から出し抜けに声がした。微かであっても、聞き違えるはずのない主の声。
 振り返る。
 薄紅色の洋服を色濃い血で染めて、吸血鬼は暗い部屋からテラスへ進み出てきた。口の周りに散った赤が、白い肌をいっそう際立たせている。
 両手を腰に当てて、咲夜は小さくため息をつく。
「……また、こんなにこぼしてしまって」
「だって……」
 レミリアが何かを言いかける。
(それを綺麗にするのがメイドの仕事でしょう?)
 いつもならこう続くはずだった。
 しかし今夜は、そうではなかった。
「……どうしたの、咲夜」
 レミリアが驚いたように眉を上げた。
「いいえ、何でも」
 咲夜はごまかすように答えて歩き出す。
 姿勢を正してレミリアの横を通り過ぎる。いつものメイドを装うために。
 レミリアは気づいたのだろう。慣れ親しんだ従者が、いつもと違う懐かしげな表情を浮かべていたことに。
 それがあの出会いの日に見せたものと同じだったことに。
 追いかけるように横に並んだ主が、不意に口を開いた。
「……昔を思い出したんでしょう。今夜は月が綺麗だから」
 言い当てられ、咲夜の心臓が跳ね上がる。足を止めて、躊躇いがちにレミリアを見た。
 悪戯っぽく無邪気な瞳がそこにあった。
 やはり隠し事はできないらしい。気恥ずかしさと――同時に仄かな幸福感を覚え、咲夜は口元を手で覆った。こんな微笑みは見せられない。
「咲夜……何か言いなさ、いっ?」
 語尾が不自然に上がった。
 有無を言わさず、咲夜が空いていた手でレミリアの手を引っ張り、歩き出したのだ。
 人をからかって楽しもうとする様は、まるきり子供のそれだった。何度注意してもちっとも変わらない。世話のかかるお嬢様――いったい、いつ一人前になってくれるのだろう?
 そんなことを考えながら、努めて厳格な調子を装って、振り返ることなく咲夜は言った。
「ほら、早く着替えましょう。そうしたら、後で美味しい紅茶を淹れますから」
「ん――うん」
(……そういえば、あの日も服を汚してましたね……)
 手を引き、先に立って歩きながら、咲夜は微笑んだ。幸せそうに。
 今なら顔を見られることもない。
 風が吹く。
 紅の月光の下、二人の髪が銀糸のように踊った。
 テラスを去る刹那、咲夜は目を閉じる。
 浮かぶのは、単調であっても満ち足りた、紅魔館での日々だった。
 ああ、この館に迎えられてから、どれほどの時間がたったのだろう。
 願わくば、この単調な毎日が、いつまでもいつまでも続きますように――



あとがき
もの凄く短いのは意図あっての仕様です。
トーナメント当時のものに色々書き足してアップしようとしてましたが、文の修正に留めました。

 

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