・雑談,書庫<3>:00.05- 表示:古いのを上におきました。 [古代であそぼ]
 
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[s_tan]、00/05/19、21:00

 *四国高松の話がでていますので、伊藤さんの了解を得、メールから転載します。神社関連のみ抽出してますので文のつながり等、?かもですが、ご指摘、補完などのお話を戴ければ幸です。

[伊藤 洋]、00/04/18、
 わたしの住む土地は、高松市内ですが、市の平野部の南に、三谷という土地がございます。その三谷の西三谷という部落に<加摩羅神社>という社があるのです。
神域は狭く、手入れが行き届いているとは到底いえませんが鳥居などは割に新しく、熱心な氏子もあるのでしょうか、その由縁を誰も知らない。地神というほどではないのです。
 ところがこの神社、縁起や歴史がさっぱりわからない、祭神すら記されておらず、訪れたもののどこをみたものか手持ちぶさたな思いをしました。
しかし<カマラ>というのは不思議な名前。市内の神社や小祠も含めてそのような社名は他にないとおもいます。
<カマラ>とはなんなのでしょう?。もしご存知でしたらご一報くだされば幸いです

[s_tan]、00/04/20、

#私のデータベースでは、ヒットしません。結論は不明ですが。推測してみますと、「古代であそぼ」です^^。
加摩羅の名前は、面白そうです。その土地の近所を含めての伝承とか、古代の地形が分るとより面白そうですが。。
“羅”は羅紗ラシャとか、質の良い織物の意味があります。また、羅は南加羅の多羅国など新羅に通じ、O×羅尼師今など王の名によく使われてます。(尼師今=王)。
“摩”は「鬼」ですが「磨く」です。また、摩多羅=麻多羅=妙多羅=日吉大神。このマタラは、鉱山ばかりでなく、麻=鉄・織物にも通じます。マタラは京都・広隆寺に見られるように「秦氏」につながり。日吉大神をキーに「秦=加茂(鴨)氏」 になります。
推論で言いますと、織物・鉱山で当時の先端技術にかかわり深い氏族の社でしょう。マタラは京都・広隆寺に見られるように「秦氏」につながり深い。
とすると、殖産・鉱業の神で、一般的神名としては、「カモ大神、阿遅鋤高日子根(味耜)、マタラ、金生(金精)」あたりではないでしょうか。
 加摩羅神社の近くに、織物・鉱業、秦氏、ひょっとして丹生などの痕跡、伝承などありませんか。

いやあ、面白そうで現地に立ちたくなりました。

[伊藤 洋]、00/04/24、

> その土地の近所を含めての伝承とか、古代の地形が分ると より面白そうですが。。

今日再度、社の付近で尋ねてみたのですが有効な情報は得られませんでした

地形といえば三谷より北にあたる林という土地一帯は条里がしかれていたらしく縦横に道の走る広大な田園地帯です.

> 加摩羅神社の近くに、織物・鉱業、秦氏、ひょっとして丹生など の痕跡、伝承などありませんか。

小さな山を南に越えますと八幡宮があります。八幡神信仰と渡来系の人々との関係ということをいえば、痕跡といえなくもないのですが、八幡宮は犬も歩けばなんとやらであまりあてにはなりません。

 八幡宮から山を西にむいて進むと仏生山という土地になりましてそこにチキリ神社という社がありますチキリというのは機織りの道具だそうです。社の由来は池の治水に機織りの乙女が人柱になったとかなんとか...

ともかく引き続き資料にあたってみますね。<カマラ>に関する考察など、大変参考になりました。ありがとうございました.

[s_tan]、・・・

> 地形といえば 三谷より北にあたる 林という土地一帯は 条里がしかれていたらしく 縦横に道の走る広大な田園地帯です

> 小さな山を南に越えますと 八幡宮があります

> 仏生山という土地になりまして そこにチキリ神社という社があります> チキリというのは機織りの道具だそうです
> 社の由来は池の治水に> 機織りの乙女が人柱になったとかなんとか...

#チキリ、縢(かが・り)の糸を木に代えるとチキリなのですね。勉強しました^^。
池の治水と言うと、いつ頃のお話でしょうか。関東では江戸期の伝えが多いのですが、古い人柱の伝承は確認できていません。
岡山市にも江戸期初めの伝はあったのですが、四国ですと、行基とか空海の時期でしょうか。

> ともかく引き続き 資料にあたってみますね
#おもしろそうです、あたりましたら、よろしく。

[伊藤] ・・・

> 池の治水と言うと、いつ頃のお話でしょうか。関東では江戸 期の伝えが多いのですが、古い人柱の伝承は確認できていません。岡山市にも江戸期初めの伝はあったのですが、 四国ですと、行基とか空海の時期でしょうか。

#おっしゃる通りです、定かではありませんが人柱の伝承は江戸初期を舞台にしていたように記憶しています。ただ溜池自体の成立は行基による開拓であったとおもいます。

では引き続き近所の神社うろうろしてます収穫があったらご報告しますので
ごきげんよう

[s_tan]、 ・・・

> 人柱の伝承は江戸初期を 舞台にしていたように記憶しています ただ溜池自体の成立は 行基による開拓であった とおもいます。

#江戸期だけに人柱があってその前になかったとは思えなく、古くて消えたか、あたりまえすぎたか、のどちらかではないかと思ってます。
行基の時代は、どうだったのでしょう。地元の伝えは片鱗でもおもしろいと思います。
神奈川では、江戸へ奉公に行った下女が切られ遺体が帰されたが、お手討になったものは墓を作ることが許されず、泣く泣く土手道端に埋めたという話が伝わってます。
横浜に下女が人柱になり「おさんの宮」として伝わっている神社、(おさん)は(おさんどん)で婢、飯盛女ですね。など川沿には必ずといっていいほど人柱の話にあたります。

> 収穫があったら ご報告しますので
#よろしく、おまちしております。

[伊藤]、 ・・・

> #江戸期だけに人柱があってその前になかったとは思えなく、古くて消えたか、あたりまえすぎたか、のどちらかではないかと思ってます。

#なるほど、さりげなくラディカルな仮説です。でも説得力ありますよね
「おさんの宮」の例も興味深く読みました。

話は変わりますが、改めて、先日お話ししました三谷の八幡宮に参ってきました。いくつか疑問な点がありご意見伺いたいのです。
 一つは八幡宮で合祀している小社の紋なのですが、二本の剣が×の形に交差したデザイン...
これは何か特定の祭神をアイデンティファイする条件になりうるのでしょうか?
鳥居に刻まれている年代が日露戦争前後であることから英霊を祭ったか、戦勝を祈念したものかとも、考えたりしています。

もう一つは八幡宮の南にある池の水神様(と地元の人は表現していました)が、日吉神社であることですが...。なんか、納得いかない気がしません? よくある例なんでしょうか?
最後にもう一つ、社の縁起に、平安期に鬼門の鎮守として男山神を招き祭った、とあるのですが...男山神って、なんでしょう?
また、社の南西は「馬山」という山それより南に、平安期にそれらしい建造物というか...村落自体なかったんじゃないかとおもうんだけど、。鬼門除け...ねえ
お知恵拝借できたらと思う次第です

[s_tan]、 ・・・

> 一つは八幡宮で合祀している 小社の紋なのですが 二本の剣が×の形に交差したデザイン...

#諸刃の剣ですよね、紋だと清和源氏の流れで使っているようですが、伊予の加藤氏が×で、あとクルスかな。

> 日露戦争前後であることから> 英霊を祭ったか、 戦勝を祈念したものか とも、考えたりしています

#片刃だったら濃厚。

> 南にある池の水神様 (と地元の人は表現していました) が、日吉神社であることですが...

> 鬼門の鎮守として男山神を

#男山は淀川の男山八幡でしょう、長岡、平安からみて裏鬼門の位置です。また、平安鬼門は比叡が代表で、日吉神社、木嶋、松尾が関連します。hpの神社探訪、京都をご覧下さい。


[かたばみ]、00/05/27、22:00、、woodsorrel

<弥生と氏族>

≫(姫氏)箕子=紀氏、!?と、こんな時に、論じている文章にあたると、むさぼり読むのですが、どこかにそんな本ないでしょうか。

古文書にそれらしき記事でもあればスサノオ=箕子といった論がわさわさでてると思うけどないんだろうな(^^;
古代中国社会/張光直/東方出版に若干中国古代氏族の話がでてるけど、詩経や易教など古文書研究の一環になるんじゃなかろうか。

その内容によれば姫氏は周の母体氏族で、その祖先は遊牧民の姜氏族(キョウ)。
姜氏族から姫姓が生まれる伝承には巨大な足跡を踏んだら妊娠したというのと、瓢箪から生まれたという二つがあって、その子が穀類の栽培を得意にして姫氏族が発展したらしい。

姜氏族は遡るとトルファンやタリム盆地、あるいはチベット高原あたりの人々と思えます。
ある時期からは青海湖周辺など黄河源流域系とチベット高原から南下する金沙江(長江の源流域)系の2系列ができるようで、これが姫姓にも二つの伝承がある理由なのかもしれない。
(三皇五帝の五帝の最初あたり、BC3000頃か)

足跡の方はなんとなく砂漠ないし雪男の足跡をイメージするなあ(^^;
瓢箪は照葉樹林帯の人々との接触といったところか。
これらの人々がドナウあたりの麦を中国にもたらした人々じゃないかな。

殷(商)の母体氏族はその神話体系(卵生始祖)から中国東海岸や東北アジア系の出自らしく、契氏族(セツ)→子氏族(シ)といったところのようです。中国古文書からは箕子はこの一族の後裔ということになる。
BC4000あたりまで遡れば大ブン口文化圏の人々、自説での南北融合の黄海民で縄文人とも親戚ということになりそうです。

朝鮮の研究者には箕子はもともとから朝鮮半島の氏族という説もあるらしいけど、大ブン口文化→龍山文化→殷と続くなら人種としてはそうかもしれないけど、はるか内陸で千年以上暮らしていた人々と、ずっと半島で暮らしていた人々を同じとみなすのは無理だな。
中間で龍山文化圏からやってきたと思える檀君も存在するし、扶余や鮮卑もはいってるはずだし。

内陸モンゴルの始祖伝承はオオカミ。現在のチベットもモンゴル系だし姜氏族との関係は濃厚と思う。
モンゴル系と沿海州系の合体と思える鮮卑の燕も姫姓のようですが、これは周から姫姓の領主を移封したためのようで、領主は姫姓でも一般民は姫姓とは無関係だと思う(箕子朝鮮を奪った燕の衛氏も姫姓)。

秦の始皇帝は贏姓(エイ)で西方の遊牧民であったというのが一般のようですが、山東半島付近がその先祖だという説もあって出自は不明のようです。
秦からの脱出者や避難民であれば「秦}の文字は使わないと思う。
秦を誇りにしている人々なら読みを変えても文字に「秦」を使うかもしれない。
徐福の場合もその意識が問題になる。始皇帝を利用したのだとすれば使わないだろうな。

周によって建国された山東半島の斉は姜姓のようです。先祖帰りかな(^^;
同じくそのお隣の魯には少なからぬ子姓(殷の母体氏族)の人物(母系かもしれないけど不明)がはいっているようです(龍山文化の地域でもあるから当然だと思う)。
しかしその流れの中に姜姓である「紀公」、「杞公」といった人物が見える・・(^^;
女+以(ジ)姓(夏の母体氏族)も魯に流れ込んでいます。

斉と魯の関係は複雑、確か斉専門の中国史HPがあったはず。
山東半島は弥生から古墳へかけての西日本氏族構成のキーワードだと思う。

戦国の中国氏族は多くが姫姓系譜を標榜してるけれど、源氏や平氏の後裔であるのが天下取りに必要だったのと同じで周王朝の後裔であることがステータスシンボルだったのが理由のようです。
周から分かれた呉泰伯の建国とされる呉は当然ながら姫姓だけど楚は姫姓ではないのが三苗の捉え方からは微妙なところ。越は不明。

そういった流れの中で周は箕子(箕伯)を祖先の地のひとつであろう朝鮮半島に移封したのだと思う。
ということで姫氏と箕子は似た発音だけれど別系とみています。

紀氏と箕子が同じという意味ではないけれど関連はありえると思う。
古くは金属精錬など弥生中期の背振山南麓の青銅工人群に箕子氏族や山東半島の中国氏族が含まれていておかしくない。
この人々は国譲りとともに出雲各地へ引っ越しもしてるはず。
残った背振山工人は神武に所属することになって出雲系工人と神武系工人グループができたと思います。
木の国と重ねられているかもしれない(五十猛伝承)。
AD25あたりでは貨泉などを山東半島から運び込む中国商人も伊都国などへやってきてると思う。

伊都国との関係も生じて=紀伊・・(^^;
イトコクではなく本来はイツコクではなかろうか。
夷津国→夷の港の国、壱岐は夷岐国(夷の分かれ道の国、あるいは夷から分かれた国)・・などなど
ましかし、ありえるという以上にはなんともいいにくいなあ(^^;

紀氏が神武時代の天道根命を祖とするというのは、神武東征説話にジョイントさせてどこかでなにかが入り交じって作られた伝承だろうと見ています(国東、大分あたりの事象がそっくり紀州に転写されている可能性)。
武内宿禰の子を祖とする説は具体的な意味で可能性が高いと思う。
母系(影姫ないし日影姫)が紀州に先住していたスサノオ末裔というわけです。

国譲りと神武東征の実体がわかるような物証がでれば日本史の糞詰まり状態(失礼(^^;)は大半が解消されると思うんだけど、当面は空想で解決しておくしかなし。

≫海からの灯台としては日御崎あたりとか高さとしては大社裏山辺りが場所として適当と思えますが。

発見された出雲大社の柱が奈良時代のものとして、これは信仰上の建物でしょうね。
これに灯台や銅鐸ゴーンの機能があったかどうかはなんともいいにくいけど。

縄文〜弥生の海運拠点の灯台としてはまさに現在も灯台がある日御碕ヒノミサキの日御碕神社だと思います。
スサノオを祭ると共に、アマテラスが降臨したという伝承(初期海運者を意味すると思う)があるようだし、各種神事も興味深いです。夜を守る神といった信仰もあるらしい。
大国主命の親父さん?の天之冬衣(天之葺根神アマノフキネ)が関与しているということは少なくとも国譲り以前から存在していて現在の出雲大社より古いということだと思う。

もう1カ所の灯台は島根半島東端の美保神社周辺。客人神マロウド神事(寄神、漂着神)があるのも船旅の人々(あるいは漂流者(^^;)の来訪を意味しているのだと思います(日御碕神社にも類似神事)。
ここに諸手船神事が残るのは必然。

ちなみに天之葺根神の母の名が布帝耳。
日向のミミ、神武の子のミミ、瓊々杵の父とされる天之忍穂耳もミミ氏族・・
現在は見えなくなったが弥生初期に大きな影響力を持つ「ミミ氏族」が存在したのではないかと思う。
また、「天之」と名の付く人々は三苗直系の人々であろうと考えています。

柱穴発見器があればそこら中から灯台跡がみつかるんじゃないかなあ(^^;
縄文の温暖化時代では南から北へ文化が流れた、でもBC2000あたりからの寒冷化時代では北から南へ文化が流れる。
千曲川から遮光器土偶がでているのはその流れの中でのことだろうと思います。
BC1000あたりでは半島からはむろんのこことして沿海州からの人々も少なからずやってきただろうな。

信州ソバなどはこの頃に源流があるんじゃないかな。まあソバが有名ということは一般農耕でぱっとしない地域ということではあるけど。ソバであるなら出雲ソバより信州ソバが先だと思う(^^;
BC100付近ではやや温暖化傾向のようで、東北の稲作が成立したのはこの影響もあると思う。
ひょっとすると遼東半島あたりでも稲作が可能になったかもしれない。

≫出雲といえば、その主体が奈良・三輪山近くという論は結構いろんな人が言っているようです

共通の祖先信仰(文化伝達者グループへの信仰)はあったが組織としては未完の弱い連邦といったところが出雲じゃないかと思う。
祭祀は斉建国後の山東半島文化と縄文祭祀のまじりあったものだったのではなかろうか。
もし、九州北岸が出雲のままであれば「首都」は祭祀と生産が一致した吉野ケ里とか福岡あたりになっていたかもしれない。

しかし国譲りで「首領」が島根出雲(海運拠点、物流拠点)に移動したことで、祭祀は島根出雲が司り、経済や軍事は生産力のある吉備や大阪が受け持つといった体制になっていったのではなかろうか。
離れた地域へも支配力を保てる王権の登場があったことも祭祀と生産の分離が可能になった理由でしょう。
祭祀が生産拠点にならなかったのは祖先神スサノオとともに朝鮮半島と連絡(交易)する拠点として島根出雲が重要だったからだと思う。

山そのものをご神体とするのは縄文系の信仰をひいてるんじゃなかろうか。
三輪山はスサノオ以前のアマテラス系の初期海運者の入植が源で、出雲の開拓時代に先住縄文とのいろいろが重なって変化していったものではなかろうか。

九州での近代型祭祀の始まりは縄文に遡ると見ます(三苗渡来→アマテラスの登場)。
このあたりウエツフミのアマテラス王朝、出雲王朝(スサノオ王国)、瓊々杵王朝と続く表現は事実に近いとみています。

饒速日など海運者が出雲や天孫、アマテラスを股にかけて活躍していた時代。
物流(商業)が生じ、その人々と祭祀や軍事が結びついて有力氏族が誕生する時代。
軍事力を持つ「渡来王ではない地元王」が登場しはじめる時代。
神武が初代天皇とされるのはこのあたりに理由があると思います。


アフリカの1800年前後の南アフリカのズールー族の王シャカの伝記風映画をTVで見ました(だいぶ前のイギリス映画、深夜放送(^^;)。
シャカ役の俳優?の肉体美にほれぼれ(^^; 本物の現地の人かなあ。
興味深かったのがシャカが考案した新型槍を製鉄集団(呪術集団)に制作依頼して呪術者が動物の内蔵で槍にまじない(仕上げ)をかけるシーン。
あれは焼き入れと同じだな。
弥生の製鉄集団(鍛冶集団)の雰囲気はこれとそっくりだったんじゃなかろうか。

もうひとつは殉死です。王の死で妻と殉死者がいっしょに埋葬される。
これも弥生のある時期では類似のシーンがあったんじゃないかなあ。
どの程度の考証にもとずいてこの映画が作られているか知らないけどなかなかの大作だと思う。

シャカの登場前の部族間の戦は形式的なもので殺し合いではなかった。しかしシャカが新たな武器や戦法によって戦を変えてゆく。その戦で死者の山が作られるのを他の部族はただ呆然として見ているのみ。
総じて弥生のイメージに重ねてみていました。シャカがスサノオや瓊々杵や神武に重なって・・

かたばみ


[s_tan]、00/06/24、23:30、。

RE:<弥生と氏族>

>古文書にそれらしき記事でもあればスサノオ=箕子といった論がわさわさでてると思うけどないんだろうな(^^;
#BC200〜以降の箕子と半島(亀旨)からのスサノオ、亀旨が天山・西方の匂いが強いとしても全くつながりが無かったとは考えにくい。
亀旨といえば伽耶・首露王でインド・アユダ王国の王女を妻にし、この妻になった許黄玉、天山−江南につながるんじゃないかなぁ。

>姜氏族から姫姓が生まれる伝承には巨大な足跡を踏んだら妊娠したというのと、瓢箪から生まれたという二つがあって、その子が穀類の栽培を得意にして姫氏族が発展したらしい。
#瓢箪と言えば、半島では瓢公で列島の人のような気配をもってますね。巨大な足跡は初耳でちと連想できるものがない。
そういえば、瓢箪、山内丸山発見前の最大の縄文遺跡・鳥浜から出土してますね。

>秦を誇りにしている人々なら読みを変えても文字に「秦」を使うかもしれない。
#そうなんですね、さして長くもいい意味もなさそな「秦」の字をなぜ使うのか、ですね。姓氏録にも始皇帝末裔というのが見えるし。他に似た字で泰山神君とか、
あと、− 徐氏はもと贏姓だったが、後に秦、徐、黄、江などの姓を賜ったとされる。「夏、徐侯を封ず」。「元和姓纂」には“徐はエイ姓、伯益の後、夏、徐を封ず。?王に至り楚の滅ぼすところとなり国をもって姓となす。−とあるようです。

半島からと南海からの流入ですが、卑弥呼以前の倭錦(絹織物)の糸は年に4回採れる繭からで、それ以降は3回繭で殆ど九州からの出土らしい。この4回繭は南海ルート江南からといわれ、3回繭は半島からと言われている。

>国譲りと神武東征の実体がわかるような物証がでれば・・・
#大小の波が何度もあって、それを神武東征でまとめたのではないかなぁ。。だれが何時来たかを時系列・氏族で纏めて覚えてはおられない程、波が有ったが、とりあえず征服・侵略は西から来たモノだったのは周知の事実だった。
まあ、主体の侵略は東からだった、のを曖昧にする為という逆もありますが。。


[s_tan]、00/08/19、

 <諏訪大社・阿蘇氏>

神武皇子・神八井耳の流れに,多氏・阿蘇氏・金刺氏がありますが,阿蘇氏系図によると。
崇神10のとき武五百建命(別名:健磐竜命)が日向から阿蘇に入ったと伝わり,亦科野国造も賜るとある。[武蔵・阿蘇神社]>

その後,欽明29金刺宮の時,金弓君が金刺舎人直姓を受け,その子・麻背君が科野国造に復帰する。
麻背の子・倉足は諏訪評督にその後裔は金刺姓を称する、倉足の弟・乙頴(おつえい)は諏訪大祝になる。
乙頴の別名は熊子・神子(くまこ)といい8才の時,夢に建御名方が現れ,これが御衣木の式となる。
(麻背の兄・目古君は池田直姓となり系統は伊那郡の支配をする)

評督の館が諏訪の北,春宮・秋宮。乙頴は用明31の2年諏訪湖南の山麓に社(上社)を構えた。
大同年間(806ー810)金刺氏は売神祝(めがみはふり)を兼ね、この頃上社に対抗する女神を祭神とする神社としての社殿が整備されたと思われる。この頃、上社では有員が大祝になり、御衣着祝・神氏の初代になったとされる。

式内で南方刀美神社2座と有る様に評督館の南にあり「南方」はその位置からのからの連想でしょう。或は水潟からかも知れない、この場合は禾本科の根元にできる褐鉄鉱の記憶がまだ強かったのでしょう。
記紀で諏訪社と建御名方が見られるのは多氏とのつながりからと良く言われますが、タケ=阿蘇氏の祖・武五百建からか、或は多家、多食なども重ねたのかもしれない。

建御名方の母とされる八坂刀売命は,住んでいたと言われる処が白樺湖の南で、裾には尖石遺跡、白樺湖には石器時代から戦国時代までの続く痕跡の有る祭祀後が発見されています。八坂刀売の諏訪入は大門街道に重なっているようで、どうも日本海からの沼河比売と重なってみえます。
春宮・秋宮の奥宮・霧ケ峰から白樺湖への信仰とか本殿が無く,古くを思わせるミシャグチとか,洩矢氏を配下に置かざるを得なかったのは阿蘇氏侵入以前の信仰が深く定着していたと考えられます。

諏訪湖西北の中央道岡谷ジャンクション近くの天竜川の北岸に「藤島神社」、南に「洩矢神社」があり、明神と守矢氏の戦いの場であったとされている。

これらの伝承は、入諏訪に北東、北西、西からを伝えるものですが、南からの伝承も見られます。
諏訪湖東南の上原に「葛井神社」があり、底無し池、片目の魚が住むという「葛井の清池」があり、この池と静岡県の「さなぎ池」がつながっているという伝承があります。「葛、片目、さなぎ」とくると、これは「鉄」ですね。

(文献、御柱:宮坂光昭、神社100撰、諏訪大社発行概要、など)