・雑談,書庫<1>:99.2.19−99.9.27 表示:古いのを上におきました。 [古代であそぼ]  

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[s_tan] :99/02/19

 川上さん、こんばんわ。待ちに待っておりました、巻頭に続く次が「早くも拝見したい!」のですが、この幹にいろんな方の枝がつくと面白くなりますね。。
 私もちょっと、はっぱくらい。。
「桜」と言うと、鹿占に使った木ですね、「ははか」とも言って「うばさくら」がその木らしい。大和では指定されてた神社の「ははか」を使っていた時期もあったらしい。鹿の肩の骨を焼いての鹿占は今ほとんど無くて、著名な処では群馬の一宮・貫前神社でしょうか。
古代には、木の種類に特殊なというか、ある種の固定された意味があったような気がする。 「母木」ははき、おものき、は小さな地名にも残り伝承もいくつかある、迹見の「赤梼」とか太子の「ぬるで」とか。鹿と柳のセットも興味深い。
 はっぱが縄文の先に行ってしまいました^^;。



[川上しのぶ] :1999年2月20日 20:43

うばざくら、なんていうとお婆さんさんといったイメージだけど、「乳母」には神の子を育てる役目の人、といった意味があるようですね。
生命樹信仰は世界中にあるようで中近東あたりだとナツメヤシとかブドウだけど、北欧だとトネリコらしい。
弓などの材料だからやっぱり大事な木なのかな。
日本、半島、中国南部からヒマラヤ、カスピ、黒海を経てヨーロッパに連なるサクラロードといった分布が見えるんですけど、いつの時代からの分布か。

桜を悪用した時代もあるけど、万葉あたりでは普通に美しきものとして扱われてるだけですね。
薫製用としても桜は優秀だから骨も飴色になって最適??
松じゃ真っ黒けになってゲホゴホッ(^^;

骨占いの起源・・
パチパチ、じゅじゅーっ・・焼き肉中
ピキッ、骨が焦げて割れた。
お、前にこんな風に割れたとき次の獲物がすぐ捕れたことがあったぞ。
ほほーっ。じゃ明日も狩りにでるか。
・・こんなあたりでしょーね。狩猟型の占い。


[桃助さん] :99/02/22、

こんにちは また遊びにきました。
「内務省神社局発行の本」って なんかスゴそうですね・・・興味をひかれます。

川上さんの生命樹信仰のお話も、もっと聞かせていただきたいです。
世界中の広い地域にみられる類似の信仰は、人の移動によるのか、文化の伝播によるのか、
はたまた人間の本質が、別の場所でも同じものを生み出すのか・・・大変興味をひかれるところです。
これからもどんな話が出てくるのか楽しみにしています!


[s_tan] :99/02/20、22:30

 「うばざくら」なんですが、確認したら「うはずみさくら」だった、この「うはずみ」というのが分らない^^;。 うばさくら、は、うばゆり、と一緒で葉の前に花が咲くってのですね。うわずみ?
やはり、肉を焼くのは広葉樹、それも匂いの良いのが優先されるですね、松とか杉だと匂いがきつくて、くすぶり長持ちってのもあるかな。
銀杏は仏教寺院と同じらしいが桜はいつ頃かな、銀杏以前だろうけど万葉集には殆ど対象になかったですね。
際限も無くひろがるなぁ。。調べることが。。


[s_tan] :99/02/21、23:50

 桃助さん こんばんわ ようこそ[古代で遊ぼ」へ。感想ありがとうございます。

 これは私の経験ですが、適当に思い付きなど書いてみますと、それなりにまとまったり、ひらめきなど出て、それなりに確認したりします。 
まあ調べることが際限も無く広がるような気がしてますが、そこは趣味の部分ですから、行動範囲でぶつかるモノのレベルで犬も歩けば・・・の範囲くらいですが。。。 今日、四天王寺のフリーマーケットで内務省神社局発行の本にあたり、早速咥えてきました。^^。


[桃助さん]  : 1999年2月20日

こんにちは 川上氏の「古代で遊ぼ」拝読させていただきました。
しばし時間を忘れて遠い過去へと心をあそばせることができました。ありがとうございます!

「古代で遊ぼ」 これからの展開が楽しみです!! 次回の更新を楽しみにしております
ではまた 桃助。



[s_tan] :99/02/23、23:00

こんばんわ 桃助さん
本は、というより冊子です、100頁ほど。日本書記の神武天皇の段を国文にし、解説を加えたものです昭和15年のものですので、とって着けたような鼓舞的部分がありますが、今のそれとそれ程の解説の差はないようです。

通り過していた四天王寺の鳥居など撮りに寄ったのですが、フリーマーケットを通り過ぎようとして当りました、マーケットの中には5分も居なかったので、きっと本が呼んだのでしょう^^;


[川上しのぶ] :99/02/26、01:10 

桃助さん、ありがとうございます。
拝読なんておっしゃられるとはずかしいです。遊んでいますのでごいっしょにどうぞ。

生命樹のことはよくわかりませんが、森林から生まれた人間だから木に対する特別な感覚は
みな持ってるんじゃないかと思います。
どういう木を大事と感じるかはやはり環境で、一番は食料じゃないでしょうか。
食えない木はよほどの理由がないと選ばれない(^^;
先のナツメヤシではローマとかキリスト教でも使われるようですね。これはメソポタミアなどからの文化の伝播によるものだと思います。

すると日本の場合は・・?
食料なら栗とか桑などがそうなりそうですが、あんまりあがめてるというのは聞いたことないですね。
神社の御神木で梅とか柿なんてのも聞いたことない。
諏訪大社の紋所の梶。これは食料になった木、でも異例といえば異例の感じもします。
うーん、木がたくさんあってどの木も状況に応じて役に立ってくれるからかなあ。
杉が御神木のことが多いのはなぜだろう??
生命樹には鳥がからむことがあるようですが、そうなると・・鳥居・・いや関係なさそう。

直感ですが生命樹として意識するのは砂漠の文明の場合ではないか、という気がします。
あるものが絶対になりやすい状況の場合です。
インドは砂漠と森の合体で複雑ですが、東南アジアにも生命樹といった感覚はあるのかなあ。

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うばざくら、実はそういう種類があるものとしてコメントしてました(^^;
あは、ないですね。
ウワズミザクラは、ちょい特殊ですね。花は樺の花みたいな感じでぜんぜんきれいじゃない。 木か皮を使う工芸用の木に思えます。
工芸用材ではミズメザクラというのもあって、これも実は樺の仲間。梓といったほうがわかりやすいかな。
樺属はBC1万にはあったらしいけど、花のきれいな桜はわからない。 もしBC1万にないなら、はいってくるのはBC4000あたりではないかとみてるんですけど。
ウワは単純に「上」じゃないかと思いますけど。


[s_tan] :99/03/03、00:50 

 うばざくら というのは変種にしかすぎないのかどうかは分らないですが、今「古代であそぼ」のTopページで使っているのは昨年10月吉野での桜。説明あったような気はするが失念^^;
うわずみさくら探索^^。で奈良葛城を回ってきたのですが、新庄町から南、特に御所市は孝昭5陵近くに鴨都波神社があったり殆ど葛城氏、鴨氏の跡。山添いでも当麻町から北は中臣の影がちらつくのですが。
現地に立つと東北に見える明日香、畝傍あたりを見下ろす扇状丘陵、まあ良い天気でした日曜。
で、うわずみさくら、ですが通称「笛吹神社」葛城金剛の中の笛吹山山麓にあり式内では「葛木坐火雷神社」。境内の案内には波波迦のちょっとした説明があって神紋も桜の様子、波波迦はどの木なのか社務所あたりうろうろすれど人気なし、で現物確認できずでしたが桜はみな蕾で特異なものは見当らず。
この山裾に「鴨山口神社」がある、山口といえば今も伊勢神宮での有名な山口祭の建築材の切出しの場、この辺り一帯は朝廷への材木の供給指定地だった。建築に適する大木が無くなった後も、特に神聖な地から供給していた鹿占用の桜の木は続いたと考えるとのが適当ですね。地形からすると「うわずみ」は「うわみず」の気がしますが、波波迦の「はは」は「母木」「母山」からきているのかどうか?

 神紋での葉は、関西では恵比寿、少彦名系は三柏が多いです、有名どころでは西宮、飛鳥坐あたりですか。神紋も時代によって変ったり神官と一緒に変ったりするのでなかなか断定はできないですが、変化の無いというか、かたくなに守っている所もある様子。いくつかは紋の以前に対象となる樹木などがあって紋として意匠したのだろう。。。
 杉といえば大神神社の紋が三杉なのですが、神社境内では河内では少なく吉野あたりには多い、気候が関連すると思うが、五十猛とか江戸期の一時的流行の大杉信仰などと一致してるかも。まあ生育が早くて有用ってのが一番かな。あがめる対象の木はほとんど大木古木ですね、船かな。




[川上しのぶ] :99/03/12、18:00 

ウワ「ミズ」ですね。ウワミゾともいうみたい。上墨桜もあるようでまぎらわしい。
ウワミズザクラの実は食用にするようですから古代から意識される木でもありそう。
北方型の樺に近いんじゃないかなあ。バラ科に分類されているけれど分類の方がうまくない(^^;
ウワミズザクラは花のきれいなサクラが広まってから、上を見てもしかたないが葉や木肌は似ているので上見ずのサクラと呼ばれるようになった・・だめかな(^^;

万葉集では梅がメインだけど古今和歌集では逆転して桜の方が圧倒するようですね。
中国では梅、桃、梨が多くて桜はでてこないから、中国の影響じゃなさそう。
花の美しいサクラは奈良時代あたりから栽培されるようで、これはなにがきっかけなのか・・
総じて平安時代に現在につながる日本文化が確立してゆくと見ているんですが、桜も同じ。
食糧事情の好転とまさに平安時代で実用より美しさを見るようになったのか。

花のサクラをなんらかのモチーフにする古い由緒の神社ってないんじゃないかと思うけどどうでしょうか。

瓊々杵尊は后に美しい木花開耶姫を選んだ。で、姉の木花知流姫は大国主命の祖先の八島士奴美に嫁ぐ。
木花開耶姫が花のサクラであったなら、木花知流姫は実のウワミズザクラだったかもしれないなあ。

書紀の一書に咲いた花は散るのみだが木花知流姫の子孫は永久であろう、という一節があります。
書紀編纂者が深い意味を含めて書いた命名とその一節ではなかろうかと・・
瓊々杵尊が花より団子だったら日本の歴史は変わっていた?(^^;


[s_tan] :99/03/12、21:00 

「ウワミズ」は食用にもなったのですか、やはり西洋さくらんぼの様に甘くて大きいのかな、山桜系の味は渋いと言うか苦かった記憶です。
「ウワミズ」は現地の説明板、「ウワズミ」は誰か?の本だった。呼び方の変化で無いとしたら、「ミズ」「ミゾ」は「水」「溝」で大事な用水の上流では?下には弥生後期に鴨氏が水稲を始めたという鴨都波神社がある。

桜といえば南北朝のイメージが強いですが、散り際が良すぎるためか武士の家紋には殆どないですね。神社では結構あります、先の笛吹神社、天武が隠れたという桜のある吉野宮滝近くの桜木神社、尾張氏の流れの柏原市片山神社、新しいところでは津山市近くの作楽神社、明治期の近江神宮ってところでしょうか。
桜はその根が広がり土砂を止めることから、土手、堤防には特に多いですね、ひょっとしてこの辺りが広がりのモトかも。吉野に多いのも土砂止と考えてます。

木花知流姫が実のある桜・・・^^。比喩としてはありそうですね、しかし美味いのだろうか。
木花開耶だと短命と言うのは、外見にこだわって実力ある家の娘と仲良くしないと短命(天皇在位が)だ、という比喩だと思うが。。皇族への教科書かしらん。。


[桃助]  :99/03/22

「第2回 南の人々」楽しく読ませていただきました。
「世界最古の土器が日本で発見された」と報じられたのは何年位前でしたか?その後、どのような歴史解釈が行われていたのか知らずにいたので、大変良い勉強になりました。

スンダ大陸と温暖化・寒冷化を軸に人々の動きを読み解いてゆく視点が大変新鮮でとても面白かったです。
トンティン湖周辺やジャワ海には果たしてどのような遺物が埋もれているのでしょうか?今後の発掘や研究の進展が楽しみです。
もち麦の話が出ていましたが、私の住む兵庫県の福崎町という所にはもち麦麺という麺類があり、おいしいです(^^;  やはり日本人はモチ好きなのでしょうね。

いよいよこれから縄文時代、はるかなる祖先の記憶の伝承の生まれた時代に入ってゆくのですね!次回を楽しみにしております!





[川上しのぶ] :99/04/12

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東京の桜の季節は終わりましたが。ウワミズ桜の続きです。

植物名の由来/中村浩によると・・これの古名がハハカの木とありますね。
名前の由来について著名な植物図鑑の引用をしていて、納得できないとありますが、私も同感です(^^;
で、自説として占見桜、卜食桜が転嫁したものだろうとなっています。
うーん、そういう文字が実際に使われていたならあり得るかもしれないけど・・納得せず。

別名をヨグソザクラとかクソザクラという、これが興味深いです。
前に書いたミズメの別名が梓でありミネノクソバリともいうんですが、名前に天地の差があります。
共通項は花の形。確かにウ○コがぶらさがってる形(^^;
樺の仲間はたいていそうみたいで、そうとしかみえないのもある。
で、そういう名があるということは、一般にはどうってことはない木とみなされてる証拠(^^;

笛吹神社の神様には申し訳ないけど、植えた時は大事な目的で植えても、占いとは縁のなくなった時代にはつまらない花の桜にすぎなくなって、花を見ない方がいい桜として上見ずの桜と俗称されそれが通称となっていった・・自説はやっぱりこれでいっときます。

その実は梅酒のように使ったり、新潟あたりでは塩漬けにして食べるそうです。
写真で見る限りではサクランボ風ですが豆粒くらいの大きさに見えます。

ウワミゾについては梓とのからみをチェック。「上梓」ミズメを版木に使った。版木なら溝だらけ(^^;
由緒ある木なので高尚な解釈をしたいと思った結果ではなかろうかと・・
ウワミズ桜もコンゴウ桜と別称されるようですから硬ければ版木に使ったかも。
神社の桜も卜占をする実用品の時代から美しい桜の時代への移り変わりがありそうですね。


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桃助さん、毎度ありがとうございます。
最古の土器に関しては近日アップの分に詳しい推理を書きました。

餅麦麺というのがあるんですか、それではうどんもやってみようかなあ。
うどんはだれがはじめたのかなあ、関西かなあ。

それと掲示板の方に仁徳天皇や継体天皇のお話がありましたけれど、資料は記紀しかないといっていいと思うんです。記紀に書かれてる以上のことは専門家でも推理でしか言えないと思うので、各論自由自在(^^;
自説はありますが、ちょっと視点をかえて大臣の去就がその前後でどうなったかに注目しています。
皇后や妃の問題も類似です。
もし大きな変化があったのならば、こういったことも変化するだろうと思うのです。

もし日本書紀をお読みでなければぜひどうぞ(資料としては古事記よりずっと上だと思います)
継体天皇や筑紫の磐井の発言などなかなか興味津々と思っています。
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[stan] :99/04/15、 

こんばんわ、久しぶりです。
ここ「古代で遊ぼ」投稿、は、読みやすくするため「主文」と「雑談」を分けるなど、川上さんが現在、構成を修正中です、多謝!。

投稿など、、著作権からみの話ですが、Top-indexに、総てstan_originalとあります様に、作成者=著作者になります。同じように、投稿戴いた文などは作成された著作者のものであり、hp管理者であるstanが改変することはありません。
常識としても著作者に無断で他への転載などは”もってのほか”と思っております。
また、hpに限らずですが、この場所に公開された情報以外は「例えばメールから得る情報はhpの不特定多数への公開とは違う」出さない。事が基本と考えています。

話は戻って、雑談は現在の掲示板で展開してもいいと思うのですが、いかがでしょ。長文をupできるのはないのかしら。
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re:「南の人々・・」
BC15000の海面が100m違う、と言うのは地図で見直すといろいろ空想が広がりますね。国境がない時代というのは気候が因子として最大だったろうし、双胴船もカヌーも帆も丸木船に乗れば当然考え付くことだろうし、現在でもスンダ辺りから無動力で20日前後で日本に着いた例が結構あるし、古代の人は今一般的に考えられているよりはるかに行動範囲が広いと思います。なにしろ木の船は沈まない。
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>桃助さん
もち麦麺というのは、お近くだけですか、大阪にはないのかしら。。
縄文と言えば、今や縄文の常識がひっくりかえってますね、
考えてみると、縄文の頃の素材で考えられる技術を駆使して材をつくり生活したとして2千年以上後にどれだけ残るのか疑問ですね、にしては発見が相次ぐですね。
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「波波迦」
波波迦を気にしてたら、生駒神社にもあるということで、早速行ってきました。幸いにも宮司さんと話をすることができて。
波波迦木、ウワミズ桜は固有名詞でない。との結論です。
生駒神社(往馬大社)のそれは川上さんの言う樺の一種のようですが、笛吹神社のそれは、花から看ると八重に近い。波波迦と呼ばれても木は違う。
波波迦の使い方は、大嘗祭などで斎田を決める(ユキ、スキどちらかは失念)占いの時、忌火から細く乾燥した波波迦木に火を移し20cm径(角)の乾燥した亀の甲羅を熱し亀裂を看る。
ウワミズは甲羅の溝、ウワミゾではないかとする説が有力のようです。
尚、宮司さんに燃やした時の匂いは?とお聞きしたのですが、今度試してみる、とのこと。
ウワミゾがなぜ波波迦なのか、ですが。ハハカはハワカとも言い、古く母をハワとも言うのでこの辺りが推理の出発点かな、と思います。母といえば、母木(オモノキ)で、古くオモ=母でして、、守る、生む、などの力の源、人知を超えた「モノ」「神」が、ハハ=ハワ=オモ、ではなかったか。と今のところ。。




[川上しのぶ] :99/04/18

ウワミズ桜は現時点では「品種」の名称だと思います。
笛吹神社の現在の桜がその「品種」ではないなら、今の桜がいつ植えられたか調べてみたいところです。
伝承だけが残って木は植え替えられてる可能性があるんじゃないかな。年輪を調べればいつ植えたかわかるはずで、桜に対する意識の変化がわかるかもしれない。面白い調査対象になりそうですね。
吉野桜は役行者が蔵王権現を桜で彫刻したのがきっかけで桜の寄進が始まった、と数日前の新聞記事にでてました。

亀の甲羅も推理のひとつだと思いますが、どれが正しいかを決める必要があるなら次元の違う研究がいりそう。
「波波迦」の文字は漢音だなあ。波は後の当て字で迦は梵語だから仏教との習合があるのかな。
語源はわかりませんが、ハハは生母で、オモは乳母、といったイメージがあるようで、本居宣長説では子を養育するのをオモとするようです(字訓/白川静)。
インドでは大地母の乳と樹液を同一視することもあるようで、オモには伝来系のなにかが関係あるのかも。

森が人間の故郷、すべての人間が木に特別な潜在意識を持ってると思う。あとはそれが環境によってどう表され、どう伝承されるかだろうと思います。アップした参考の始祖伝承に生命樹と神樹のことを少し書いておきました。
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ファイル名を変えてしまうとブラウザの既読チェックがリセットになるようで申し訳ないです。
ひとつのファイルだと大きくなりすぎて扱いにくくなるので、各章を単独ファイルにしてリンクでつなぐように修正しました。
著作権といった問題は楽しみでやってる場合にはいやらしいですね。
不特定多数に対してHPの主催者がそういったことに目を配るのは無理な話です。
新聞にそういったトラブルの記事がありましたので、なかなかきりだしにくい問題ですが、あいまいではまずいのでひとことどこかに書いてあればと思います。
私の場合は文末に(c)を追加しました。文責の意味らしいけどないよりはいいでしょう(^^;

短い発言は掲示板、了解です。掲示板に書いたことまだない(^^;(ようやくインターネット2ヶ月)。 長いメールは頂戴した方と相談の上で適宜投稿雑談コーナーなどにアップさせていただくといったところが当面の方法かなあ。
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re:「南の人々」
最近東シナ海の海底の25mピッチ等深線の地図発見。
アップした陸地状況とほぼ同じで一安心(^^; 100mの海面低下で対馬の両岸に若干の海が残って150m下がると完全に陸続きになる感じ。五島列島と大陸側もほぼ陸続きになります。
BC1万くらいなら五島列島から大陸沿岸まで100キロ程度。風向きがよければ夕方までには向こうへつけそう。
こんないい場所ほおっておくはずがない(^^; ミニ版スンダです。



[stan] :99/04/25
 3章一挙掲載、圧倒されました。古代を考えるに根元となる内容と思います、hpだけでなく沢山の方に読んでもらいたいものです。出版も考えたほうが。。。
「ウワズミ桜」は品種でしょうね。再度、笛吹にと思っていたのですが時間が取れなくて^^;。 今、生駒神社の境内は普通の桜のほうが多いですが、生駒のウワズミ桜はかなり昔から一体に群生していたということで特に貴重な木ではなかったとの事。隠れたとか懐に抱かれて助かったという由来の樹を「おもの木」と言うことが多いのですが特に種類は決まっていない様子、欅であったり楠だったり。
「ははき」「ははか」というのも特定の樹木を指すのではなくて特定の由来のある木、がそう呼ばれるのでは、と考えてます。ある氏族を代表する樹木なのかも。「ウワズミ」は上墨なのか上澄なのか上溝なのかまだ特定できないですが、笛吹と生駒神社の立地からすると上水も十分ありそう。
「さくら」というのは、花が似ていて堅い皮の無い小さな実がなるのはすべて「さくら」だった、の可能性が強そう。。もっと古くは実のなる木はすべて「はは木」だった。。^^。



[桃助] :99/04/26

第3章〜第5章、大変興味深く拝読させていただきました。
 自然条件から人間の営みを推測する手法がとても説得力があり、面白かったです。文字色を変えて書かれた、ほぼ確証のある事項と大胆な仮説と当時の人々の生活の様子を描写する読み物、そして地図(すごい力作だと思うのですが、作るのは大変だったのではないでしょうか?)によって、まさに縄文の世界へと心を遊ばせることができました。

 猪と鹿、漆、縄と綱、麻、土器、石器、そして米等々、いくらでも興味深い話題がありますね。自分たちの文化の根元を知ることは、今の自分たちを見つめることでもあると思います。

大国主命と少彦名命の会話は意味深なものを感じます。特に少彦名命の「うまくいったところもあれば、うまくいかなかったところもある」というセリフは「人生」や「世の中」というものの深い所を簡潔に言い当てているような(^^;
 漁業の神は私は海神様と住吉様と宗像様だと思い込んでいましたが、たしかに言われてみれば海神は漁業というよりは海の神様だし、住吉様は筒之男で戦の神、宗像様は宗像族の祖神ですね。本来の漁業神というのは農耕が普及する過程でいなくなってしまったのでしょうか?でも私の住む兵庫県の東播磨地域の漁師さんたちは海神様、住吉様、宗像様を漁業神として祭っているようです。
スサノオに関する神話も興味深いですね。スサノオが泣きわめいたのが飢餓をあらわすのなら、アメノフチコマを機屋へ投げ込んだのはもしかして鬼界カルデラの大噴火を表すのでは?などと想像をふくらませています。ますますこれから面白くなってゆくであろう「古代で遊ぼ」、次回も期待しています。

>s_tanさん
 兵庫県福崎町の餅麦麺は福崎町以外ではほとんど知られていないようです。でも福崎町ではとてもポピュラーな食べ物で、福崎町に行けば餅麦麺を出してくれる店がたくさんあります。とてもおいしいのですが福崎町以外には広まらないようですね。(^^; 昔、大阪駅の地下に各地の特産物を売るお店があったと思うのですが、もし今もあれば、兵庫県の特産物として売っているかも・・・

 縄文時代の遺物はほとんどが土の中で朽ち果ててしまっているでしょうし、朽ち果てていなくても、今の人間がその上に家を建てて住んでいたりする場合も多いと思うし、当時の人々の生活を知るには想像にたよらざるを得ないというのがまた楽しみであったりして(^^;
でも、縄文の人々の血と文化をたとえわずかでもどこかに受け継いでいる我々自身が最大の遺物とも言えるような・・・で、そうであるなら今の自分をよーく観察することにより古代の人々が見えてくることもあるような、などと取りとめのないことを考えてしまいました。

>川上さん 
 やはり、日本の古い時代の記録といえば記紀ですよね。必要に応じて参照はしているのですが、やはり古事記の方が読みやすいのでついつい日本書紀はおろそかにしてしまいます。興味のあるところは読みふけってしまったりもするのですが・・・。
「継体天皇や筑紫の磐井の発言」早速読んでみようと思っています。また色々教えて下さい。


[stan] :99/04/26、23:00

桃助さん、こんにちわ。
 連載、面白いですね、読んだ後もなにかの時に調べ読み返す内容だと思います。
発掘と年代判定はどんどん遡りますね、縄文時代はBC16000まで行きそうですし。しかし、遺物として出るのは生活の何分の一なのか、ですね。昔、森浩一氏も土器について、生活の中の台所のほんの一部をみているに過ぎない。。といった様な事を言ってました。人の生き方というか生活は一元的ではないし一面からの断定はなかなかできないですね、古代も多面的ですし縄文も変わらないと思います。

餅麦麺、福崎町だけというのはなかなか^^。いつの時代からなのでしょう。いろいろ想像しています。


[川上しのぶ] :99/5/4、21:40

≫桃助さん
縄文時代になるといっぺんにいろいろがでてきてまたフィードバックするかもしれません。

住吉様や宗像様は弥生〜古墳時代の典型的な西日本の神様みたいですね。
住吉様は最初から海かもしれないですが宗像様はもともとは海とは関係なくて祀られた場所が航海の要衝になったので航海の神様になっていったのだと思います。
もっと新しくなると金比羅様かなあ。こちらは仏教の影響が大きいけど竜神などと合体もしていそうです。
カニを食べてはいけないとか、それぞれ微妙に違いますね。
遠い神様より近くの神様、なんてこともあるでしょうね。
神社の由来は大事な資料でもありますが。このあたりはstanさんの調査に期待(^^;

月読神はアマテラスやスサノオと同格になってるので本来は重要な神様だったんじゃないかと思います。
月読神を祀る最大手はなんといっても山形の月山神社ですね。
東北の山にあって山岳信仰のようでありながら漁師さんの信仰も厚いそうで、このあたり狩猟も含んだ縄文の神様なんだろうと思うんです。
鹿児島や壱岐にも月読神社があるようですが、壱岐だと漁業に専門化しているのかな。

鬼界カルデラの噴火はどんな様子だったんだろう、それこそ原爆みたいなキノコ雲が海から立ちのぼったんだろうなあ。津波もすごかっただろうし。

≫stanさん
その土器破片は素人目にはただの小さい土のかたまりにしか見えないやつかなあ、TVで見ただけですけど。
BC1万あたりで炭素14測定のベースが乱される「なにか」があったらしくそれ以前のは実は2千年くらいは遡る、という話もあるそうです。

最初の土器ってのは粘土の上でたき火して気がついたってところかもですね。
土器より先に木製器のほうが先にあったんじゃないかって気がしています。土と火を合わせて作る土器の方が石器で木を削るより気がつくのは遅いんじゃないかと思うのです。

庭をちょいと耕したんですが(^^; 三爪の鍬は使いやすいですね。家庭園芸用のじゃなくてプロ用の重くて丈夫なのを仕入れたんですが、重くて大変かなと思ったら逆です。力いれなくてもズブッと土に食い込むので軽いのよりずっとはかどった。
長年使い込まれてきた道具ってのはやっぱりすごいや。
火山弾がスサノオの投げ込んだ馬だったかどうかは別にして、魏志倭人伝にでてくる「投馬国」の名の由来が気になっています。


[stan] :99/05/18、22:00

そうそう破片です、縄文1万5千年とかになると呼び方を変える必要が。。北方系優勢時代とか南方系とか混在とか。^^。絶対年代がもっと鮮明になってくると対話の時などのズレは少なくなりそう、ですが地球がもつまでに分かるだろうか。。
住吉は3神ではないですね、もともと。少なくとも同列の3神ではなさそう。住吉と言えば鳥居が4角柱なんですわ、境内には普通の明神もあるが要所は4角柱。社殿の配置も変っているし。。調べると面白そうです。
神社の由来伝承は、血族氏族など横と言うか離れたところにつながったり、神階がつく以前のなにやら痕跡があったり、創建自体が意図的であったり、いろいろの様です。まあ、記紀に比べると知恵を絞って編纂したのではないので素朴な伝承と言うか感覚的時代の痕跡を見ることが多いようです。
月読は、南方とか海の民が優勢だった頃の記憶と思う、潮と潮流は月の影響が大きいですね。月読の月山といえば日本海からの重要な山あてになりますね。

何が最初の食器かというのは面白い、葉っぱを別にすると今のお膳、その前の三方、三方のその前が食物を食べる時の食器の形じゃなかろーか、小枝と葉っぱなど組み合わせた。食事の始めから終りまで個人に属する食器というのは縄文から?
火を使った調理具としてのモノはやはり土器かなぁ、甌穴というか川の石に穴があいて凹んでいるのを使ったようなことがあったかも。甌穴といえば「蟻通神社」には穴のあいた石があるですね、現在2社確認。
最初の土器は粘土の上の焚火、可能性大ですね。日本は火山があるから縄文土器は古いという説もある。粘土と言えば子供が泥遊びに熱中するのをみると、ま、子供と言わず大人も泥をいじると熱中するようですが、コレ本能に近いものなのかも知れない。とすると最初は偶然でなく意識的だった、の可能性もありますね。

古い道具は、使い勝手がいいですね、雑木の森に入る時はやはり鉈がいい、山刀なら尚良さそうな気がするです。


[川上しのぶ] :99/06/08、

住吉の四角柱の鳥居は鎌倉以後ではないかという説があるようです。
建築でも四角い柱は新しい。平安時代でも四角柱には大きな面取りがあって8角柱に近いようです。
住吉造りは神社建築のひとつですが高床でも床が他のものより低いのが特徴みたい。
住吉の四角鳥居はある時代からのなんらかの自己主張でしょうね。
(ある鳥居研究書の著者は周囲にとけ込みにくくてわたしゃ嫌いだといってる(^^;)

住吉3神の登場は神巧皇后と不可分と思いますが、本家筋は壱岐か下関の住吉神社ではないかと思ってます。
3神と神巧皇后は当然として、壱岐では八千戈神(大国主命)、下関では応神と武内宿禰と建御名方神を加えて祀っているのが興味深いです(stanさんには無用の説明ですが、建御名方は大国主命の子とされ、諏訪大社の祭神、武内宿禰は神巧皇后の知恵袋(^^;)。
福岡ではアマテラスが加わるようですが、大阪では基本形のみ。
神巧皇后の出自は・・それぞれの地域での歴史が空想できるようで興味津々(^^;

食事と同時に腰掛けるかあぐらをかくかなんてのも面白そうです。中国では座りこむ慣習は長江など南方だけで北では椅子を使う。
騎馬が腰掛ける慣習を生み、舟に乗ることがあぐらの慣習を生んだのではないかという論があります。
現代でも道に座り込む慣習が登場しているけど先祖がえりかな(^^;

お膳も座った時に食べやすくする工夫ですね。ただ正座というのはいささかマゾ的な姿勢だと思う(^^;
椅子がない場合に椅子と同じ形を作るためにできた形ではないかという気がするけどどうでしょ。

TVでアフリカのマサイ族の聖なる山に登る話をやっていましたが、案内のマサイの若者は噴気が立ちのぼる頂上にゆくのを拒否するんです。神様すぎて近寄りがたいようです。

鉈にも先端に鳶口みたいなのがついてるのがあったりいろいろな形式がありますね。
ジャングルを切り分けて進む場合だと、もっと強力に山刀ってところかな。

古代の木製鍬だと軽くて土に打ち込むのはつらいんじゃなかろうか。できるだけ重い木を使ったのかな。
後に金属の先端をつけるのは摩耗だけじゃなくて重さを増やす意味もあるのかもしれないなあ。
鍬は前進しながら使うのか後退しながら使うのかいまいちよくわからないです。

川上しのぶ

 

[stan] :99/06/12、

 川上さん、第6章、お疲れ様でした。編年を大工道具?からしたであろうとの説は秀逸です。直線で伸ばすのを基本とシタのは間違い無いでしょう。
誉田山古墳(応神15陵)は今では5世紀半ばとする説が有力のようですが、第6章からすると雄略21あたりになるでしょうか、大山古墳(仁徳16陵)は出土物(ボストン美術館蔵など)からすると、武寧王のそれと類似、武寧王はad520の死とすると。。。
陵の発掘ができ古墳の被葬者が特定されて、その年代が10年単位で分かると、記紀の作成主旨もよく分かるようになる、ですね。

 住吉の鳥居の四角柱は、残る図会によると、1670年頃には丸柱、それから100年ほど後には四角になっている。この間に本殿4棟の配置も変ったと思われる。
神功と住吉では、下関ができてその1年後に大阪(攝津)の住吉が出来たとされている。下関から攝津まで神功が創祀したと伝わる社は、福岡市・住吉神社、近くの志賀海神社−下関・住吉神社−広島県・沼名前神社(ぬなくま)−神戸・海神社−大阪・住吉大社となり、凱旋の道としてはつながっている。これ以外にも、神功を祀る社は、筥崎、香椎、廣田、生田、長田など北九州から瀬戸内、さらに淀川沿岸、下って泉南まで集中してます。和歌山には神功終焉の地、など伝わる神社もある。

大阪の住吉大社の文献をみると、
1670年頃の大阪鑑(蘆分船)での祭神は、第1殿:天照太神、2殿:宇佐明神、3殿:底筒表筒中筒為為一座、4殿:神功皇后。本殿は向きは西で現在と一緒、3棟が魚燐の構え(三角の頂点にそれぞれある)で、その後ろに第1殿があり鶴翼の陣よろしく別の瑞垣に囲まれている。
1790年頃の住吉名所図会では、4棟のレイアウトは現在と同じで第1殿は別の瑞垣で囲まれている。この頃の祭神は、現在公表と同じになる。
この他、祭神はいろいろと説がある。古文献の著者なかには、祭神についてつっこんだ話を神官とすると、にごされる、と書いているのも有る。
 他の説をいくつか。
9神1神という伝あり。伊奘諾からでた大直日・神直日・八十枉津日、この3神は、天照太神。底津少童・中津少童・表津少童、この3神は月読尊であり、塩土老翁・豊玉彦・猿田彦。底筒中筒表筒は素盞嗚尊。これを一神三神、三神九神、九神一神と言い、この一神は伊奘諾尊である。と住吉の祭神は伊奘諾の変化であるとしている。
本殿4棟の北に住吉宮司津守氏の氏神と言う式内「大海神社・2座」があり、その側に彦火火出見・塩土老翁・豊玉姫を祀っている。大海の祭神である豊玉彦をもともとの祭神とする伝も有る。
この他に、筒の「つつ」は王朝の意味があり、3筒は3代をあらわすとか、3つの国を表すとか。
 ま、今のところ私としては、神武東征の難波渡の話とか、八十島祭の難波の(みどころ)三津浜(みつのはま)住吉津(すみのえつ)安曇江口(あずみえのくち)で禊をした、話などで、もともと住吉の祭神は3つ部族が共同体として祀っていた(まとめていた)一神だろうと考えてます。

 神功を助けた将は住吉以外でも恩地などで28神として伝が有るのですが、住吉でも28の神木というのがあり、1殿:栢(柏)、2殿:松、3殿:桂、4殿:楠とそれぞれ7本が充てられ計28本、皆船の素材となる樹ですね。

−−−−−−−−−
椅子とあぐらといえば、平城京の天皇の執務室(公)は椅子で天皇が生活(私)する部屋は椅子、ベッドなど無い様です。あぐらといえば、その先の正座する風習は日本以外に見られないようです、ズボンと着物(下着なし)の違いでしょうか。。
古代の木の鍬?は沼地の使用で重すぎると沈みこんだのかも。田といえば相模二宮川匂神社の近くから弥生後期の「田船」がでているんですね。あと足柄松田の寒田(さむた)神社には弥生後期と伝わる轆轤で作った欅の椀が伝わっている。相模も調べ始めると面白い、資料が少なく出回っていないのが難点ですが。
鍬は後退しながら使うのだと思うです、その方が疲れないはず。


[桃助] :99/06/22、

待望の第6章、拝読させていただきました。神代から神武〜開化〜神功〜倭の五王〜継体という最も興味深い時代、胸が踊りました。「神功」はもともとは「神巧」なのでしょうか?浅学者のために教えていただけると有り難いのですが(^^;

表面的には物資の争奪のための争いでも、つきつめれば氏族(民族)対立が原因であり、一度争いが生じてしまえば平穏な長い年月のみが根本的解決となるというお話は、非常に良い勉強になりました。今も昔も人間社会の根本は何一つ変わっていないですね。

まず紀記がどのような意図を持って書き換えられていたかというところから入ってゆくアプローチは、まさしく目からうろこです。記紀の記述を手がかりにするにしても、記紀の記述が事実とどのような方向性を持って食い違っているのかを考えておかなければ、解釈のしようがないですね。

CADを用いての年代推測には恐れ入りました。私の脳みそには少し難しくて、実はあまり理解できていないのですが・・・(^^;・・・何やらものすごい説得力を感じます。「近畿ヤマト東征は開化の事跡で、それを神武の類似事跡に重ね移して神武〜開化間の事象をすべて削除し、神武と近畿ヤマトをワープドッキングしてあるのだ」との仮説、非常に合理的だと思います。これならば綏靖〜開化間の記紀における記述の簡素さも説明できますね。

前半部分を読んだ時には、卑弥呼の死去が開化の在位中で、開化の時に東征があったということは、ヤマト朝廷は神武から開化までが九州で開化以降近畿に移り、ヤマタイコクはヤマト朝廷の東征以前に近畿で勢力を張っていた、ということなのだろうかと思いましたが、そうではなく、「卑弥呼はあくまで九州ヤマトの女帝」という解釈なのですね。この時代に九州から近畿地方へ何らかの勢力が東征したことは確実なようですが、その勢力とヤマタイコク、ヤマト朝廷との関係はどうなのかという点は非常に多様な推測が可能で、日本古代史の最も面白いところですね。

崇神〜景行の頃の地方豪族とヤマト朝廷との関係、神功皇后伝説、倭の五王等々、まさしく興味の尽きない時代ですが、次回第7章は継体以降へと進んでしまうのでしょうか?私としてはずっとこの時代に止まってあそび続けて欲しいと思うのですが(^^;

>stan様
住吉神社のお話、大変良い勉強になりました。1670年頃の祭神や「9神1神」等、全く知りませんでした。やはり浅知恵はダメですね。浅学者でいいかげんなことばかり言ってますが、これからも愛想をつかさず色々なことを教えて下さい(^^;


[stan] :99/06/23、

こんばんわ、桃助さん。感想ありがとうございます。
ほんとうに興味のつきない時代ですね。神代から神武、神功、継体、このあたりは「古代で遊ぶ」には楽しいところ。。

例えば<9神1神という伝あり。伊奘諾からでた大直日・神直日・八十枉津日。>でも、伊奘諾といえばその最後を過ごしたといわれる伊奘諾宮・多賀のある淡路島。八十枉津といえば、枉は王で、津は港、八十は旧河内湾(湖)の呼び名でもあった?八十島。とすると大直、神直は単なる飾りか、大阪湾墨江と明石海峡、それとも淡路河内に続く地域か。。。河内から播磨にかけてを大和と言っていたとの考え伝えは江戸期以前からあったようですね。

ご質問は、大歓迎です。今回も”住吉は1神”となぜ思っていたかを確認まとめる事ができました。有る資料の活用もできますし、ココの話題も広がります^^。 なんといっても他の人からの質問は”目からうろこ”というのがあります。




[川上しのぶ] :99/06/27、18:00

stanさん
≫誉田山古墳(応神15陵)は今では5世紀半ばとする説が有力のようですが

墳墓が本人生存中に築造を始めたのか後継者が築造したのか、でもだいぶ見方が変わってきそうですね。
仮に強力だった天皇でも巨大古墳にはならないかもしれないし。
発掘OKとなっても実際にはほとんどが盗掘済みで残り物しか見つからない、なんてこともありそうです(^^;
住吉の鳥居は丸と四角が共存する場合もあったようですが、1670以降100年くらいの間に丸から四角というのは面白いですね。
本居宣長が古事記伝を執筆中の時代、この頃は考古ブームだったようです。
京都の某学者が邪馬壹国を邪馬臺国の誤りであると言い出したのもたしかこの時代。
いろいろと元禄と明治は要注意の時代だと思います。

四角になったのは・・綱吉のワンちゃんがおしっこかけるので削ってるうちに四角になって・・それからは塀に鳥居の絵を描いておしっこ禁止にした・・嘘八百(^^;

≫宮司さんなども口を濁す(^^;
各神社の個人的理由は別にして古代の盟約などが今も生きているのではないかと思ってます。
陵墓の発掘などもそのあたりの問題が背後にあるんじゃないかなあ。
同時に年代確定の手法が必要ですね。この時代でひと世代ずれたら解釈がずいぶん変わるはずだし。

710平城京の頃は徹底的に唐文化導入時代ですから公式では椅子というのはありそうですね。
しかしその一方で50年前には唐は新羅を支援する敵国でもあったわけで、このあたりの両刀使いは今も昔も変わらず。
NHKで遣唐使の話をやってたけど唐からの国書の記録は抹消されているんですね(^^;


桃助さん(えーと桃助さんとどっちが正解??)
≫「神功」はもともと「神巧」なのでしょうか

あちゃーミスです。「巧」に関する部分は読み飛ばしてください(修正予定(^^;)。
ご指摘ありがとうございます。
ワープロの単語登録ミスがそのままで気がつきませんでした(昔に書いたのもたぶんみんな同じ(^^;)。

≫つきつめれば氏族(民族)対立が原因であり、

戦の原因はひとことでいえるほど簡単ではないですが、一番奥にあるのが自己保存本能で恐怖や疑惑がこれを発動すると、戦になるのだと思っています(あくまで食欲など他の本能が満たされている場合は、です)。
そのきっかけの重要部分に氏族があるわけですが、同列に宗教(信仰)もあります。
一般には同じ宗教=同じ氏族ですが同じ氏族でも微妙に宗教が異なるとこれも問題になります。

聖徳太子等の仏教導入はこのあたりの考えも含んでいるのだと思っています。
ただし異なる環境で生まれた文化を別の環境の文化の中にうかつに導入するとかえって摩擦を生じるので、この案配が難しいところだと思います。

≫CADを用いての年代推測には恐れ入りました。

この年代復元はもともとはCADではなく計算で試行錯誤した結果なんです。
数年前から自分の考え方のベースになっていて、発掘物などを書き込んだ年表を作ってあります。
「大工道具」でやれば簡単なのに気がついたのは最近です。
数字で表現したりきちっとした道具を使うとその結果はいかにも正しそうに見えますが、実際にはその途中や根拠となってる部分はいたっておおざっぱでもあります(^^;
いまのところ各事象をこれで説明できるので自分なりに満足しています。

≫これならば綏靖〜開化間の記紀における記述の簡素さ

九州北部などで発掘される鏃や短剣の刺さった人骨の時代はBCゼロ前後、魏志倭人伝の倭国争乱はAD200前後、これがどう説明できるか・・
第一次倭国争乱(神代末期〜神武時代)と第二次倭国争乱(孝昭〜開化時代)があった。
銅鐸の巨大化は第二次倭国争乱の時・・などなど空想いろいろ(^^;

最近小銅鐸が大阪で発見されたようで、池上曾根崎遺跡の巨木柱(確か年輪法BC51)などなど「ヤマト」以前の先住開拓者の人々がどういう人々であったかの有力な物証になりそうです。
(風鈴を吊り下げたところですが、現在その慣習のあるのは日本、半島、インドネシアだそうです)

≫第7章は継体以降へと進んでしまうのでしょうか?

第6章は偵察部隊でありまして、アマテラス、スサノオ、ニギハヤヒなどを抜きにしては福神漬けのないカレーライス(^^; (地域によってはラッキョウかなあ)
しかしこの時代は真っ暗闇で空想というより創作に近くなりそうです。

川上しのぶ


[stan] :99/06/27、23:00

>川上さん
古墳の被葬者の100%の特定はムリですね。ですが記紀作成の頃に”大きさで歴代の天皇にあてはめたのか”、”墳墓の伝承に充てたのか”、”歴代の伝承で充てたのか”。それとも皇祖ではない伝承か。。
10年単位で絶対年代を決められれば、、というのはムリでしょうね、埋葬品からはX年以前はたぶん無い位までだろし。皇室陵が大事にされているのはほとんど明治から平成だけで、省みられない時が千年以上続いたわけだから文献からはなかなか正解は見つからない。却って陵戸に伝わる伝承あたりがあると正確なのかも、しかしこれも蝦夷の再配置などが多いから。。

住吉の角鳥居は現在の石の前は木製で1670年の図会に描かれている丸柱の鳥居以前にも拝殿と本殿の間の鳥居(?)は四角柱でこれが鳥居として表に出たのだろうと思われる。拝殿と本殿の間の鳥居は角柱を使っているのは河内にいくつか今でもある。
角鳥居といえば伊勢神宮前の猿田比古神社は8角(6角?)だった。
他人の墓(^^。)をあれこれ言う余裕は平和な時代でコソ。元禄の頃、松下見林「前王廟陵記」あたりからブームが起きたようで100年ほど後の1800年過ぎの幕府の陵修繕もこれを参考にしたらしい。この頃は水戸学が流行り出した頃で、賀茂の流れをくむ本居宣長も復古の火付け役だったでしょう。

NHKの遣唐使見たです途中からですが。中国の「弩」の青銅部分が仙台近くで見つかったとのニュースやっていた頃、これもすごいですね日本に入ったのは610年頃とか。

戦の原因というか、氏族部族の宗教の発生は戦の理由付けから始まったという説がありますね、食う為に動物を殺していたが同じ形の人間を殺す理由が”拝む対象が違う”から同類ではない。というの宗教の発生と言うのですが。強き者=善、とする西欧的発想のソレとしては十分納得できる。

>桃助さん
長いこと失礼しました。考えられるところ総て訂正いたしました。
九州と言えば南ですが、鬼界カルデラ6500前の前、1万年ほど前の平底の「貝殻紋土器」これ気になっているところ。。
  stan



[桃助] :99/06/29、09:00

こんにちは
いつも楽しませていただいております。

川上さん
さっそく疑問・質問にお答えいただきありがとうございます。まだまだこの時代であそんでくださると知ってうれしく思いました。次章も楽しみにしております。

聖徳太子等の仏教導入は確かに部族統合の目的でなされたものでしょうね。仏教というものは、このような目的には非常に都合がよい宗教だと思います。それでも導入の際にはいろいろな摩擦があったと想像できますが、またこのあたりもいずれ話題になるでしょうか?銅鐸の謎も非常に興味深いですね。銅鐸が消えた頃にどのような社会の変化があったのか、興味はつきません!

stanさん
「氏族部族の宗教の発生は戦の理由付けから始まった」との説、逆説的で非常に面白いです。わざわざ理由をこしらえてまで戦をしようとするのは人間の性でしょうか?宗教(部族・民族)対立→戦ではなく、戦をしたい、人を殺したい→宗教(部族・民族)対立であると考えた方が確かに納得の行く部分が多いように思います。特に最近の世の中を見ていると・・・ いや、良い勉強になります。

川上さん、stanさんとは全然知識のレベルが違い、教えていただくばかりで恐縮ですが、これからも「古代であそぼ」の発展・充実を楽しみにしております(^^;


[stan] :99/07/01、00:30

桃助さん 投稿ありがとうございます。
 やはり同じ外形のモノを殺すのは躊躇しますね、草木は簡単にへし折っても犬とか猿となると、まして相手が人間だと。。憎しみとか恐怖が強くないと、でしょうね。祀るトーテムが違うから我々とは違うのだ、というのは戦の理由付けの他に個人が納得する逃避にもなるのでしょう。

 舞楽とか伎楽については、まだ手をつけていないのであさって方向の話かも知れないですので、眉唾でひとつ。
山の民とか大道芸人とか、決められた税がない人々のネットワークがあったのだと考えてます。権力闘争に敗れた人間も、もう私は世の中から隠れます、と宣言すると受け入れる場所としてのネットワークが。現代のように、よってたかって引き摺りだし隠れる場所も無い、ではなくて^^;
 伎楽を伝えたのは聖徳太子の頃の味摩之といわれてますが、その後、大和を中心に納税を芸能でかえる楽戸ができて、恐らくその流れが生産に関わらないという共通点をもつ山の民と合流していったのだと思います。鎌倉の頃、雅楽におされて伎楽が表(朝廷)から衰微し逆に楽戸からの流れを強めたのではないかと考えています。

 この流れのポイントを今のところ、次ぎのように考えています。
・味摩之:滋賀敏満寺・胡宮神社での伝承(開基、後世文人歌人の参詣)、白山信仰をもつ。近くは昔の秦荘で伊勢越えの山には木地師の総本山、北畑、南畑があり。北畑・大君ヶ畑(おじがはた)の白山神社には藤原薬子の兄仲成とか惟喬親王の隠遁が伝わる。
・奈良豆彦神社:桓武50の第2子、田原太子が隠棲した場所でこの子孫は正月の飾り物などの独占販売権をもち、後の大道芸人のルーツと言われる。
・奈良、大安寺・村屋坐弥富都姫神社:この辺りは秦氏・多氏・の地で楽戸が多く後に世阿弥もこの地を本拠に活躍している、また世阿弥は風姿花伝のなかで猿楽の祖は秦河勝といっている。大安寺といえば、空海を代表とする人材を輩出した寺で白山の開基といわれる泰澄も秦氏である。また村屋あたりは物部氏の大和での本地であり神官は守屋を名乗る。

・四天王寺:舞楽といえば四天王寺。物部、聖徳太子、秦などみな絡んでいる。
・住吉大社:おおきな社といえばイベントが付き物でどこも舞楽は多いのですが。田植神事、これは神功が長門(新羅とも)から女性を連れてきて行ったのが始まりと言われているが、この女性たちはなぜか結婚できずなぐさみものになったと謂い、この辺りの遊女の祖(^^;)とされている。で、御田植神事は堺・大阪の遊女がするのが続いていた。住吉での舞楽、田楽・猿楽などは多くの祭事に見られるが、天正・秀吉以降は社地が減りまるがかえ出来なくなり、四天王寺の楽人を呼ぶようになったらしい。
猿楽といえば、住吉と伝承が重なる河内恩地神社には、春日大社の猿楽はこの恩地より出張していた、という伝承がある。
と、今のところキーとなるのはこのくらいですか、どこかで文献に当たったら肉付けしようとしてます。

神功と兵庫で少し。住吉関連の文献に、現在の場所は分からないですが仲哀14の皇子、香坂が仲哀14死後明石に陵を造ったとあり。忍熊皇子は暫く住吉大社あたりで陣をはったとあります、その間、神功が住吉神を祀ったのが神戸住吉の「元住吉神社」とあります。






[かたばみ] :99/07/18、

千夜さん、stanさん、こんにちは。

牛嶋神社のコメントを掲示板に書こうと思ったんですがコピーアンドペーストができないですね。 (前の掲示板はそれができたのであらかじめ書いておいたのを一撃でアップできた) オンラインで数行以上を書く気がしないので(^^; こっちにメールで送ります。 (500文字制限解除(^^;)
手元の資料で見たところでは牛嶋神社は860に慈覚大師(天台密教)がスサノオを守護神として勧請した神社で、牛宝山明王院最勝寺が別当(管理者)となってこの別当が牛御前を称し、明治の神仏分離で牛嶋神社となったとあります。(地図ソフトで最勝寺は都内で5件ヒット、最寄りは江戸川区平井で山号も牛宝山ゴホウザン)

牛嶋神社は清和天皇の子の貞辰親王(母は藤原基経の娘)が当地で没したのを合祀しているようで、源頼光は清和源氏ですからこのあたりが鬼退治と牛のからむ伝承の種になっていそうですね。
渡辺綱や坂田公時(金太郎)など、尾鰭がひらひらしていそう(^^;
神社の管理者の牛御前が斬られたのだとするといろいろと騒動があったんだろうなあ。

祇園社、天王社など牛頭天王を祀っていた「社」は少なくないようですが、これらがスサノオを祀る(復活)ようになるのは明治以降のようですね(八坂神社、八雲神社などなど)。
スサノオには牛頭天をかぶせることが当時の神仏習合の「規定」だったのではないかと推定しています。
牛嶋神社もスサノオを勧請したというのは名目で、古来から当地にあったスサノオ信仰に牛頭天をかぶせたのではないかなあ。

牛頭天(ゴズの発音は梵語から)
神々と魔神アスラ(阿修羅)が戦ったとき、女神ドゥルガー(シバ神の妃)はアスラが水牛の姿になったときその首を切り落として勝利したとされ、ドゥルガー祭はインドの盛んな祭りのようです。
牛頭天はインダス文明の先住民と侵略者(西北アジアのヒッタイトなど)の抗争から生まれた神話というわけです。
先住民にとっては聖牛、侵略者からは強敵のおっかない魔牛(^^; 両者が合体した後のヒンズーの立場では二面性を持つことになります。
これがインド密教に取り込まれ、日本に伝わって角のある鬼の原型になったのだろうと思っています。 このあたりスサノオと牛頭天の習合はよく考えられてる(^^;

なお、朝鮮半島の伽耶山は別名牛頭山、古代伽耶の建国の地・・
蘇民将来といった牛頭関連信仰は半島での密教と道教の習合による形成ではないかと思っていますが、伽耶とヤマトの関係は複雑で微妙・・いろいろありそうです。

かたばみ


[stan] :99/07/19、

こんにちわ かたばみさん^^。

nifはBBSに限らずオフラインでの処理がめんどう、というよりオンラインの時間がかかる設定が多いですね。
 牛嶋に限らず、社寺は隠されたというか、お上から咎めを受けない程度に伝承の登場人物を代えるとか、著名な名を借りて、声無き声というか事実を後々まで残そうとしたのではないかと思います。
総てではないが各地の神社本殿の下に古墳があったり、奈良・当麻寺の基壇の下から古墳が出たり、本堂の下に人柱の石碑があったり。鎮魂、封じ込め、どちらが主なのか位置関係とか伝承を重ねて看るのも一趣です。

 860年と言うと慈覚大師円仁が無くなる4年前か。円仁は下野出身と謂われているので実際に通りがかった可能性大ですね。こんな伝承があります、円仁が通りがかった折、”・・・位冠せし老翁あらわれ、我首に牛頭を戴き守護せん・・”。浅草寺も円仁がからんでますね。
清和56といえば、惟仁・惟喬ですが、この争いの時、全国の寺で祈祷ゴッコをしたらしい、台密は円仁の弟子・恵亮、東密は空海の弟子・真済。結果は惟仁側についた台密の勝利、この時、何度も形勢不利となりながら恵亮は脳みそが噴き出るほどの祈祷をしやっと勝利を得たとある。叡山では恵亮は「山門無双の面目」と有名だが、地方では調布・深大寺くらいか。この時、惟仁側の川崎・影向寺など惟仁即位の翌年(859)、痛んでいた堂塔すべて修理できている。と、(860)は台密が鼻を高くし始める時期だった。

浅草寺の由来は、推古36(628)に江戸浦から、土師真中知・桧前浜成・桧前竹成(浅草三社)らが観音像を引き上げ草堂に安置したのが始まりとか。その後、大化1(645)身元不詳の勝海上人がやってきて浅草寺の本尊と定め観音の夢のお告げと称し秘仏にしてしまった。とあるようです。つまり、今まで地元での信仰が取り上げられ隠され別物になった、とも採れる訳です。

この頃、オカミは。
皇極4(645)6/12蘇我入鹿殺、6/13蝦夷天皇記・国記を焼き自殺。孝徳即位、6/19大化元年。8月東国の国司が召集され人別・検地、武器狩り、良民・賎民を明確化するよう詔。
この東国国司の召集と良民・賎民の明確化と(645)の観音の秘仏化が関係し、川向こうの島に追いやられたのが牛嶋神社と関わりがあるのでは。。。

  stan


[かたばみ] :99/07/23、

現代に伝わる日本の伝統文化とされる多くがこのあたりの時代に起源を持ってるように見えますね。
明治維新と対比できる時代かな。
慈覚大師は最後の遣唐使の一員じゃなかったかな(弘法大師を上回る機密情報を持ち帰った(^^;)。
浅草寺は慈覚大師が中興の祖らしいので牛嶋神社ともなんらかのつながりがありそうですね。

浅草神社は観音様を拾った漁師二人とそのお堂を作った大工ひとりの合わせて3人を祀って三社祭り。
平民を祀っているのが気に入っています。他に平民が筆頭祭神の神社はあるのかなあ。
そのためかどうかはわからないけど浅草神社となったのも明治ではなく昭和のようで、大国主命を合祀していますがこれもごく近世での追加かもしれないなあ。

かたばみ


[stan] :99/08/07、

百年近く続いた蘇我氏の時代を民統治のひとつ、藤原氏の(710)前後を神統治のひとつ、でしょうね。
蘇我氏の痕跡は出雲にも意外にある地名も残るが出雲大社にも痕跡が有る。境内に素盞嗚を祀る素鵞社があるが蘇我氏支配の頃の出雲地区の星を信仰する社であったとの説もある。素鵞といえば須賀で出雲大社付近は半島への好立地の港で半島の西との往来が多かった。東の美保神社のある美保崎は半島の東・新羅との往来が主だった様子。

関東では房総の内海、千葉市近辺に蘇我氏の痕跡が多いですね、まだあたってないですがこれを(645)の前なのか後なのかで関東での位置関係が随分変ってきます。
(645)直前あたりに房総勝浦辺りで屯倉を造らせたとか、東国の国司の配置も直前で、直後に再配置強化をしている。(700)過ぎには西の宇佐神宮から東国、相模まで藤原・中臣の息のかかった神社管理者が配置されている。このあたりは実におもしろい時代です^^。

寺に付いてはよく分からないですが、オカミ管理の最たるものでしょうが、民間とオカミの波の強弱が百年とか2百年の波であったのではないかと。。行基がオカミに取り込まれ(逆か^^;)百年後に空海が。。空海といえば、寺僧は今で言う国家公務員ですが年をとると放り出されることが多かった様です。ま、ミバが悪くなると華麗な寺院にには似合わないってことでしょうか、その姨捨の先を体系づけたのが四国巡礼という看方もありますね。

平民が主祭神の神社というのは、かなり多いですね。小さな祠に地元の信仰が多く集まり、それがいつのまにか著名な神・神社に替ってしまうというのが。
神奈川では横浜の「お三の宮日枝神社」の民間伝承に埋立の人柱となった「お三」があるが、祭神は「大山咋」で社伝には無い様子。あと川崎の「女躰神社」これは多摩川の水害防止の人柱で(1600)頃、ですが主祭神は伊邪那伎・伊邪那美など、あと同じく川崎の「馬絹神社(旧女体神社)」これも主祭神が伊邪那美でたぶん。女体神社といえば茨木にもたしかあったなぁ。江戸期の人柱の(民間)伝承は痕跡がまだ残っているが、ソレ以前の古くは殆どタテマエしか残っていないような気がする。弟橘比売の「橘樹神社」「走水神社」なども似たような話が基と思える。伊邪那伎・菊理・あたりを祀る社は良く見つめないと。。

浅草寺は家光が菩提寺に指定したのが今も大きく残る結果らしいですね。でありながら三社祭が今も盛んなのは心意気を感じられますね、きっと何人かは事実を伝え聞いていると思うです。


[stan] :99/09/10、

「神無月」

#藤原清輔の「奥義抄」に神無月の解釈として「天下もろもろの神、出雲国にゆきて異国(ことくに)に神なき故にかみなし月というをあやまれり」とある。(1170)前後でしょうか、これが初見と言われてます。
この頃は、神は出雲という漠然とした地区に集まる意識だったようです。
南北朝になると、神々は佐太神社へ集まるようになり。
戦国以降になると、出雲大社へ集まるようになったようです。

南北朝には紀州熊野神人が進出したらしく佐太明神と呼ばれ式内の祭神1座から12座に増えている。この熊野神人の流れが御師(おし)として組織的に活動したと考えられる。またこの頃の社地は大社290町歩、佐太340町歩と大社より広い。
大社は、鎌倉時代以降開墾などで社有地を増やしたが、秀吉の時大幅に減り、その後、御師の制度を強化し壇場(御師が定期的に行く場所)の開発にのりだした。近世末にはその範囲は江戸以西24ヶ国にもおよび、この御師の活躍が神在祭の普及につながった。(古代出雲文化展・神々が集う)

現在は神々が参集する上記2社と立寄る6社の計8社に神が集まると言われているが、どうも神事は社殿ではなく近くの山がその対象らしい。
地区の共同神事・祭事として行われていたのものが、佐太に大社に代表凝縮されていったのではないかと考えられる。
神奈川の神々が集まる国府祭の山近くに六所神社がある。この相模総社は柳田大明神といい出雲、おそらく8世紀意宇郡よりの開拓者と思われ、近隣にいくつか杵築社が見られる。

神在・神無は、山からの神を迎え送る、神迎え・神送りが原点で稲作が拡大した頃からその行事が各地で行われていたと考えられる。宣伝の力もあり流行として出雲が代表される様になったのではないか。



[stan] :99/09/18、23:40

「出雲」掲示板「90」から
>耕作可能面積をみれば吉備や大阪、福岡、佐賀平野とは比較にならないですね。

#そうなんです、特に西(大社)側は。斐伊川は暴れすぎる川だったでしょうし。振根の頃は出雲市あたりは海水かせいぜい汽水域で斐伊川・神戸川の河口でしょう。

出雲と言うと四隅突出型墳ですが、その時期的分布は今までのところ、弥生中期末:鳥取と美作あたりの山中、後期:島根松江・宍道湖の南岸あたり、その後その外郭に散見されている。
出雲西谷墳からは吉備・北陸から丹後系の弥生土器の出土があり、その量は地元が2/3、北陸から丹後、吉備、半島と続く。北陸の壺・高杯など特に吉備の大型の特殊土器が目に付く。
その後、景初3年の銘の有る三角縁神獣鏡の出土で有名な神原神社(出雲市南東)の方墳ができる。

振根(多分4c中)は風土記での筑紫とのつながり,古墳・神々からみると海洋民的で今の加茂町から西,須佐辺りまでの南、の連合の首長といったイメージ。
崇神紀に振根神宝の話があるが、その後の土地をどうしたとか後処理の話が無く物部のイメージが残る、といった話である。
この頃、近隣で交流が深く大きな所は吉備。突然にも見える神原神社方墳(前方後円墳?)は吉備進駐軍の跡ではないだろうか。

出雲の玉造り遺跡は東の玉湯川・忌部川から松江市にかけて集中し生産が継続していた様子から大きな戦乱はなく、いわゆるオウの王の支配下と思われる。
4c末から急激に生産をあげた出雲の玉造りだが出雲内での古墳からの出土は少なく、畿内の古墳からの出土が多い。

吉備が凋落し、6cに入り出雲では特出した大きさの100m級の前方後円墳が、西の大念寺古墳、東の山代二子塚と築かれる。
東の山代二子塚は5c後半から続く茶臼山周辺の古墳群のなかであるからオウ王の流れと見られる。
西の出雲市の大念寺古墳は年代と日本最大といわれる石棺から見ると蘇我氏の流れではないだろうか。


で、ほぼ妄想。。

縄文の頃から九州・半島との交易が盛んだった西の日御碕から稲佐港、半島から越と中継港としての中海・美保崎。
弥生に入り西より大きな平野を持ち定住性が強くなった東の意宇。
古墳に入り、財力人力に勝る吉備に侵略された出雲の西。吉備としては小さな平野の意宇よりも海洋性の強い(海賊か。。)振根の宝と日本海への港が優先した。恐らくこの時、吉備から稲佐への途中に有る須佐の首(スサノオ)がその尖兵になったのではないか。

吉備が凋落すると、意宇の王の力が強くなるが、まもなく物部が恐らく海から入り(丹後からか)、その後、蘇我が南から山越えで入り、西の有力者である神門氏と手を結んだのではないか。須佐川(ソガ川)が流れる須佐神社をもつ須佐の王もまた。

この6c頃、出雲の西をも支配下においていたかも知れないオウの王は6c終り頃、西の支配を放棄したのではないか。この時のオウの王の西の支配といっても強権による強固な国とは思えない。後、意宇の王は国造となったが、(650)頃の対唐に備えての杵築社の修造には地元の抵抗を受けている。

また、8cに入り出雲初代国司・忌部宿祢子首(おびと)が来る。子首は正5位下で国造であり出雲臣は恐らく外正6位、5位以上と未満の差は社長と社員以上の差が有る。また出雲国の他の郡司にも同等の官がいる。

出雲、現在の島根は朝廷にとって特別な存在であったとは特に言えない。
記紀に載る出雲の実態・場所は今の出雲と違うのではないだろうか。

出雲の特異さは記紀の神代で1/3程の記述量がありながら、次の記事は推古朝までないことである、つまり実態の有る記述に乏しい。
では、支豆支・杵築など書かれるキツキの大神、このオオカミは日御碕から美保までがまだ島だった頃からの絶好の港の目印。これが杵築社の古伝、いわく32丈(96m)、16丈(48m)、そして今に残る8丈の高さ。32丈はともかく16丈については平安から鎌倉まで本殿倒壊の記録が何度か残る事も有り300年ほどは16丈の高さであった可能性が高い。
縄文時代から航海の目印であったキツキ岬は灯台と管理棟の役目を持つ高い建造物も持ち、弥生中期以降になると港湾管理者として管理料・通行料を集めこれがキツキの神宝になったのではないだろうか。財はあるが直轄の兵力に乏しい為に港湾近くの連合の首であったが支配拡大する力を持ち得なかった。

出雲というコトバも記紀以前に島根では見られないが、では記紀の言う出雲の実態はどこか。
丹後半島から福知山、奈良三輪山あたりを注目している。
三輪山近くには出雲郷の地名も残り、出雲の地名は古くその範囲が広かったとの伝承も有る。京都鴨川の出雲郷も(700)頃に三輪山北の兵主神社あたりからの移配らしい。三輪山から山辺の道に沿った地域が出雲と呼ばれたのではないだろうか。
島根・杵築に移された理由は、奈良からみた方角と、夷をもって夷を制す、とか、敗者の血筋・民に元主人を祀らせる祝、の理由から根を同じくする出雲族に祀らせたのだろう。

妄想+。
出雲が三輪山近くとすると、ヤマトは何処か。
二上山の特に西麓から河内潟である大阪上町台地あたり。兵庫あたりもヤマトの範囲であったかも。
港として絶好の河内潟、謀略策略の朝廷が千年ほど続けた上町台地を主とする八十島祭。
書紀崇神10紀に、神懸りした丹波の氷香戸辺のコトバに「山河の水泳る御魂」があるが、この「みくくるみたま」神社が二上山西麓石川を挿んで富田林市喜志駅近くにあり、崇神、物部十千根、氷香戸辺の伝承が残る。現在の社名は美具久留御魂神社。
この美具久留御魂神社と二上山の間には太子町が有り、北に隣接して応神15・仲哀14陵を含む大型古墳群である古市がある。

(主な参考:古代出雲文化展、大社発行物、各神社由来)




[かたばみ] :99/09/26、14:30、woodsorrel

弥生の考古学上の年代表現はこんなところかな。
弥生早期:BC450〜BC350あたり →三苗文化と半島避難民の定着終了期、西日本の人口激増
  前期:BC350〜BC150あたり →ムラ単位の紛争の始まり?
  中期:BC150〜AD 50あたり →弥生出雲の全盛期(王の登場)第一次倭国争乱
  後期:AD 50〜AD250あたり →弥生出雲の衰退期、九州ヤマトの全盛期 第二次倭国争乱
古墳時代:  250〜  645    →九州ヤマトの衰退、近畿ヤマトの拡張と新興勢力の登場

考古学的には土器の分類などによるのだろうと思いますが、自説での人々の動きと一致する(^^;
弥生時代の出雲は後の章での空想になりそうですが、以下先行して概略空想。(神々や人物の敬称略ご容赦)

出雲で興味深いのは「神」がいないように見えること(^^;
これは祭祀者→王の段取りなしに突然に「完成された王」が登場したためではないかと考えています。
スサノオや大国主は瓊々杵や神武と同列の実在の「人物」であって祖先神。
書紀の大己貴に登場する三輪山に祀られたとされる正体不明の(^^;幸魂奇魂(サキミタマクシミタマ)が本来の自然神ではないかなあ。

大己貴の三輪山がどこにあったかはなんともいいにくいですけど、大物主を祀る奈良の三輪神社が山そのものをご神体とすることからも、アマテラスの原型と幸魂奇魂は同源かもしれないと考えています。
出雲では幸魂奇魂がはっきりした神になる前に強力な王が登場してしまったわけです(^^;
瓊々杵の場合も同様ですが九州では三苗の展開が早くすでにアマテラスが存在し、お隣で遠縁でもあったために様相がちょっと違ってくるわけです。
そのあたりの状況を知る崇神が幸魂奇魂をベースにしてかっての出雲の王達を神格化した存在が大物主だとみています。アマテラスと対応する存在として祀ったわけです。
ちなみに葛城山は事代主など出雲の祭祀者達を祀った山か・・役行者登場と無関係にあらずとにらんでます(^^;

崇神以降の近畿ヤマト王朝は出雲に対して建前と本音を使い分けていると思います。
神格化の建前と領土化の本音、現代に伝わる「出雲」はこのふたつがいろいろに混じり合った形で伝承されているんじゃないかな。

出雲熊野大社のクシミケヌ神は本居宣長説ではスサノオとするようですが、はるかに古い三苗時代の長江文化を伝えた祖先神ではないかとみていてます。格式が出雲大社より上で神事からも食料神のようだし。
熱田大神もまた同じ。ただし濃尾や東海では山岳縄文避難民+三苗文化であってスサノオとの関連は薄かった。
紀州熊野のケツミコ神も同じ。出雲に三本足の烏の痕跡ありやなしや?
神社に多い三つ巴紋はひょっとして・・? 四つ巴はもうひと氏族を加わえた意味か・・?
高杯や三足土器の源流は三星堆文化にあり、という中国研究者もいるようです。少なくともこの土器と三苗との関係はありそう。

諏訪に伝わる2神の争いの伝承は縄文系と外来系の葛藤を示す唯一の伝承なのかもしれない。
この一帯にあるミシャグチ神など正体不明の神々は山岳縄文最盛期の神々だったのかもしれない。
愛知県の朝日村の環壕は強烈、ムラ同士の争いのレベルじゃないと思う。
この集落がどういう立場だったかわからないけど、それだけの防御が必要だったということ。
出雲と天孫の争いだけでなく縄文を含めた争いの接点にあったのが朝日ではなかろうか。

この時代は激動の時代で短い年代で様相ががらっと変わった地域もあると思います。
(別人が住み違う様式の建物に変わったりする・・浦島太郎(^^;)
これらの集落が少なくとも±25年の確度で年代決定できれば具体的な流れが推測できると思うのだけれど・・(大阪池上曽根遺跡の年輪法による誤差ゼロの確定は貴重です)

濃尾はある時期では出雲と連合し、近畿型とはやや異なる形式の銅鐸の製造をおこなった(三遠式銅鐸)。
しかしある時期から出雲との連合が解消され、少なくとも中立の立場をとったのではないか。
尾張出自と思われる妃を開化が迎える由縁です。銅鐸製造も中止されます。

東征といっても補給路を確保できない場所へ突入することはありえない。事前の根回しがあったわけです(^^;
正面攻撃は撃退した出雲も大阪の背後にゲリラ的クサビ(^^;を打ち込まれ拠点間の連絡路を失って敗北へ。 (このあたり山上にある環壕などと関連してきそうです)

この時代では瀬戸内海の西部は九州ヤマトが制海権を握っていて通行不可能(^^;
山口の宇部市あたりは稲作によさそうですがここからは銅鐸(大型)はでていないようです。
大型銅鐸が使われ始めた時点では九州ヤマトの支配下になっていたのかもしれない。

AD100あたりでの出雲人口のメインは大阪、吉備、香川、淡路だろうと思いますが、祭祀場としての中枢は現在の出雲で、初代の「王」の渡来地がずっと象徴としての中枢だっただろうと空想しています。
これらに三苗時代からの文化と半島避難民の行動が重なってくるので複雑ですけど。

同一鋳型から作られた銅鐸4個のうちひとつは滋賀、もうひとつは鳥取からでているのが興味深いです。 (残りのふたつは個人蔵で出土地不詳)
この銅鐸は大阪〜滋賀(琵琶湖)〜若狭〜鳥取の連絡ラインを確保する氏族の所有だったんじゃないかなあ。
ひょっとして銅鐸には法螺貝的用法があったか・・
吉備〜鳥取大山の山越え道もあっただろうと思いますが物資を運べるような道じゃなさそう。

かたばみ


[かたばみ] :99/09/27、21:00、woodsorrel

えと、またまた失礼(^^;
尾張系妃をいれるのは垂仁でした(^^; 若狭一段落で後方地固め。
開化は若狭方面(丹波)と大阪方面(葛城)の妃で手一杯(^^; もちろんこれは築城後で、贈られてきた妃かもしれない。

出雲大社の大きさについて。
45mで頂上が軽い建家なら可能だと思うんだけど、空想図のごときで90mとなると無理だと思う。
柱の直系が平均で2mなら柱だけで重さ100トンを越えると思います。
これを支えるには岩盤の上に立てるか末広がりの根っこごと埋めないと無理だと思うのです。

立てるのは櫓を組んで水平に吊りあげてから傾けて穴に差し込んで引き起こせばなんとかなるとしても。
河姆渡だったかな、ここの巨木柱の穴の片側が斜めに掘ってあるそうです。
斜めに差し込んで垂直まで押し上げたか、斜め柱を組み合わせたかは不明のようです。

90mというのは伝承のどこかで大尺と小尺が混同されたんじゃないかな。
大尺は唐の尺を導入した単位で約30cm強なんですが、小尺は周尺とほぼ同じで17〜18cmのようです。
小尺は親指と人差し指をのばした長さで、これがほんとの尺取り虫(^^;
(ちなみに唐の尺は用途によって長さに違いがあります)
なぜ尺がどんどん長くなったかはいろいろ説があるようですが、税収アップのためといったところが妥当そう。

奈良時代には大尺を公式としますが、祭祀用に限っては小尺が使われたようです。
神様用なので古来からの単位を使ったのでしょう。
大社造営は小尺だったのではなかろうか。伝承が小尺での320尺を大尺として読んでしまったわけです。
それでもまだ誇張があるとは思うけど(^^;
灯を燃やす台があっただろうなあ。銅鐸の親分が吊り下がっていたかも。
教会の鐘みたいに長いひもを下でひっぱってグワンゴオン・・舟がきたぞー

かたばみ