● 投稿・雑談コーナー 表示:古いのを下におきました。

雑談 ・書庫(1),99.02−(2),99.10−


[かたばみ]、00/11/15、、woodsorrel

<掲示板のアスベル生きていたか、さんへの総合コメント>

≫「ツ」がいまの「の」にあたる言葉で
≫(格助詞というらしいです

津はなにになにの、とする解釈が一般ですね。それもあると思います。
しかし・・アマテラスとスサノオの誓約から生まれた五男神の二人が天之忍穂耳と天之穂日、二人が天津日子根と活津日子根、もうひとりが熊野久須毘。
天之、天津、熊野、どれも「なになにの」という意味にとれるはずですが、津と之を使い分けているのはなぜか、なんです。

天之火明の子は天之香語山でやはり津は使っていません。
しかし天津彦彦火瓊々杵の子とされる天津日高彦火々出見、孫とされる鵜草葺不合には天津の尊称があります。
(熊も重要なんだけどここではパス)
之と津の使い分け・・なにかあるとにらんだです。

ツミに関しても類似です。妙見信仰というのがありますが、漢字の「見ケン」を星を見る意(観測)の海洋語(^^;にあてたのではないかと考えてます。
狭い日本では山で星を見てもあまり役にはたたないのが星神の消えた理由でもあるんじゃなかろうか。

綿→ワタ、ワダはstanさんが書かれてる通り、朝鮮語での海パタ、バタと同意で間違いないと思います。
ただし、だから朝鮮語を由来とする言葉だということではないです。
同一の源の言葉があってそれが日本語と朝鮮語の双方に影響を与えて共通項になっていると考えています。
むろん、源とは海洋民、オーシャノイド系の言葉(^^;・・縄文時代からの言葉。

確か八丈島と沖縄からニューギニアあたりと同じ石器がでています。まだ年代確定ができないようで残念。
バヌアツの土器に関してはいまのところ情報が乏しくてなんともいいにくいんですが、冬は鍋が最高、煮炊き用土器であるなら北の方が発達しやすいのではないかと考えてます。
煮炊き以外ならひょうたんなどを使うほうが軽いし便利そうですが、大量に使われたとしても土に戻ってしまうので残らないでしょうね。

ツミの名を持つ神様はホツマツタエにも登場しますね。おおよそ海にちなみそうな神様に見えます。
アタカシツヒメがコノハナサクヤヒメという名に変わる話は、記紀の瓊々杵の妃に二つの名が登場する不可思議に影響されて加えられた話だとみています。
瓊々杵の妃は吾田鹿葦津姫であって、東海にやってきたのは「天火明とその妃」の木花開耶姫。
富士や浅間が大山津見神の娘として木花開耶姫を祭るのは必然というのが現在の持論です。

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偽書の話題がでていますが、なにをもって偽書というかがむずかしいですね。
ホツマツタエは東海地域の古伝承を加わえて江戸時代頃に書かれたもの、とみています。
重要なのはその本がいつ書かれたか、ではなくてどういう伝承を元に書かれたかで、元になっている伝承を探ることが大事だと思います。
それらの伝承群が記紀編纂時代より古いものや採用されなかったものが含まれる可能性は十分あると思います。
(なお、伝承内容の時代とその伝承を編纂した時代を混同するとまずいと思います)
これらはウエツフミに関しても同じだと思っています。

事実を連想させるヒントを含むものならば、どれも重要な資料。
古事記や日本書紀と同様にホツマツタエやウエツフミにはそういう情報がちりばめられていると思う。
記紀を含めて答そのものやマニュアルが必要な人には偽書であっても、連想クイズが好きな人にはどれも宝庫(^^;
(その本が書かれた環境がわかれば連想の正確さがより強まると思います。その点では記紀が有利)

ちりばめられているお宝をどう取り出せるかが問題です。そのためには記述された内容や人物の年代を仮定するのがまず最初に必要だと思っています。
これがあいまいだと義経がジンギスカンにすぐなっちゃう(^^;

ある仮定に基づいて時間軸を基本にする歴史シミュレーションの流れを作ってみる。
その流れが遺跡などの物証との食い違いを生じるならば最初あるいは途中の仮定を修正したシミュレーションを再び繰り返す・・
大きな流れとしてとらえ、遺跡や文献など断片としての物証がそれに包含されるならば可能性の高いシミュレーションになっていると考えています。

新発見の物証がその流れに乗っているようならば、これはバンザイの大ニコニコで空想の楽しみここにあり(^^)
伝承や「定説」の方がおかしいという判断も少なからずでてきます(^^;
あんまり無理におかしいとしてしまうのもまずいけど、このあたりは独善とかこじつけなどとの境界線上で微妙な判断(^^;

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≫ああいうのを見るとここでいうオーシャノイド(語呂いいですね。気に入りました^^)
≫はもう定説なんじゃないでしょうか。少なくともユーラシア南岸から南米まで

オーシャノイド、いいでしょ(^^)
空想から定説へ・・どこが区切りかはわからないけど、同じ考えが多数になるようなら定説になるのかなあ。
異なる文化が接した場所でさらに文化が発達する・・異なる文化が接するきっかけは温暖化と寒冷化の波とそれによる植生の変化である、いまのところこれが自分の考え方なんです。

人類の発祥はアフリカ単一・・ほぼ決定か(^^;(現在の人類であっていろいろ話題の原人とは別です)
コーカソイドは地中海をヨーロッパに渡った人々が祖先かな。
モンゴロイドはその後のアラル海〜バルハシ湖あたりの南北混血で生まれ、遊牧文化を生み出して狩猟のみのコーカソイドより食糧確保で優位となってゴビ平原やチベット高原など内陸を東進したのではないかと空想中。
(なお、コーカソイドの道具類は優秀だっただろうと思ってます。環境が厳しく必要は発明の母)

狩猟と農耕の接点が遊牧で、植物の代わりに動物を育てるだけの違いではなかろうか。
その意味では海は遅れてる。現在の養殖は縄文あたりの小規模な家畜を飼う段階と同じではなかろうか。
海が豊かだったので海での「農耕」が必要なかったからかもしれない。

文明発達地域は千年単位のずれで東へ移動してゆくように見えます。
ユーラシア東端の長江沿岸や日本(縄文)でも南北の混血が起きますが、中国大陸や北東アジアの内陸部では南北混血済みのモンゴロイドの東進による再度の混血が進んで複雑化するわけです。
(このとき日本は大陸と切り離されていてその影響を受けるのは弥生になってから)

モンゴロイドと日本人は似ているが南海系に近い性質を持つのはこのためだと思っています。
似ているからといって一方から一方へ伝播や移動とは限らない、赤と白をいつどこで混ぜてもピンクになるぞ、というわけ(^^;

最後の南北接触が中南米で縄文に遅れること数千年といったところかなあ。
このころには北東アジアの人々もコーカソイドとはいいにくくなっていたかもしれない。
ちなみに、マダガスカルはスンダあたりで海洋文化を発達させたオーシャノイドが海を利してアフリカへ戻ったのだろうと思ってます。

日本人の基層・・先住の旧石器人はコーカソイドで古い方の人種を基層というなら北が基層だと思います。
このあたりは「本物の骨(^^;」がでることを期待するのみ。
しかし縄文文化の基層は南だと思います。二者択一に考えることはできないですね。

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≫ちなみに烏帽子もカラス由来な気がします

私もそう思います。鳥の羽根飾りをシンボライズしたものじゃないでしょうか。
カラスが登場するのは人間が集落を作りだしてからではないかと感じてます。
ゴミ袋を食い破って困るというのは人間側の都合で、大昔でも人間の近くが好きでゴミをきれいにしてくれるのがカラスだったんじゃないかなあ。
カラスをどうみるかは状況によって違ったのではないかな。そのあたりが神話での扱いの差になるような気がします。


≫また朝廷に反した不忠の臣アメワカヒコは
≫穢れているということで、その遺体が簡略
≫な鳥葬で済まされたとか。

天之稚彦で注目しているのは、アジスキタカヒコネと容貌が似ていて鳥葬の風習を持っていた、という部分です。
(周辺の詳細関係については棚上げ(^^;)
双子のように似ているということではなく、出自の異なることが容貌でわかる人々が多数混在している時代のために、容貌が似ていることが同じ出身地であることを意味したのだろうと考えています。

また、だれそれの子という表現も、実子というわけではなく同族あるいは同じ出身地であるならばその代表者の子であるという表現をしたのではないかとも推測しています。
例えばスサノオの子と伝承されていても実子とは限らず、スサノオの出身地(例えば朝鮮半島出自)の人物はスサノオの子として伝えられる可能性です。
そういう伝承を編纂者が実子として解釈して書き残すと、伝承原本がない後世では実子として扱わざるを得なくなるわけです。

これは母系社会であればますますその傾向が強いのではなかろうか。
ある部族の男(親父)はあちこちで子を作るかもしれないので親父はだれでもいいが(^^; 産んだ母とその子の方が重要となる。
赤ん坊の生存率の低い時代でもあるし、子供や子供を育てる母が部族全体の宝でもあるわけです。
(狩猟や遊牧の場合は部族全体が移動するでしょうから若干様相は異なってくるかもしれない)
母系社会の伝承を父系社会の文化が記述するとそういう問題がでてくるかもしれないです。

かたばみ


[s_tan]、00/11/15、。

<re:宇佐、道教。。>

宇佐は、なかなか一筋縄ではいかないですね。ま、古代は皆ですが各論それぞれ事実だった、というのが古代でしょうが、それが素人が入って面白いところ。
しかし、宇佐は古くを追うとよくからんできますね、秦氏もそうなのですが。

道教は民間信仰として今でも影響が大きいようですが、大陸の歴代王朝が公式に扱ったのは儒教で儒教以降は公のものではないですね。
ま、道教から施政に都合のよいものを抽出付加してできたのが儒教なのでしょう。
道(タオ)は道教に限らず大陸の思想の根っこと思いますが、陰陽が強いのが道教でしょうか。生があれば死がある、死があれば生があるこれを一人に当てはめると不老不死。
神仙境が三神山で不老不死が錬金術、神がなくて法もない、絶対神はいないが鬼神はいる。
ひょっとして儒教が広まった時期は鉄製品が広まった時期と一致するかも知れない。農業革命というか産業革命が施政用論理を代えた。のかな

道教と神道は似通った部分が多いですが、どちらも根は同じような気がしてます。
集団での略奪が必要でない時代の原始信仰は南も北も対象のカタチが地域の状況で変るだけで信仰の根は一緒でしょう。
それが部族とか国がカタチになると信仰の主な対象をトナリとは違うものにする必要ができて。。
断片ですが殷の祭祀をみると、神道と重なるものが結構ありますね。
三苗も含めて殷の祭祀が列島の原始信仰に混じり原始神道になったのかも、道教も殷が根なのかも、で千年後に列島で渾然一体となった。


>10章にも書いているんだけど、中臣氏は中国道教の姿を消して日本独自の形を生み出すことを意識して動いたのではないかと思っています(これが記紀などの内容にも表れる)。

#日本独自の形。。
鎌足か不比等、ひょっとして親が子に語る継ぐ感じで、大陸と半島の情勢でコロコロ変る日本もそろそろひとり立ちしなけりゃ、と高邁な理想が根底にあったのかも知れない、可能性はあるんじゃないか、と考えてます。
その一環が恐らく不比等による神道の一元的国家管理だろうと。。似たことが千二百年後の明治になされた。。
まあ、支配者の高邁な理想は搾取と管理の強化につながるのは「いつも」が歴史のようですが。

>櫺星
#この意味はどんなんでしょう、櫺の象形文字というか漢字自体の意味などご教授ください。

 stan


[かたばみ]、00/11/08、、woodsorrel


<掲示板のkonさんへのコメント>

≫平安末期には寺に鳥居があったのではないでしょうか。
≫日本の鳥居の流れとして、ひとつ押さえておく必要あり。
≫ご意見、お聞かせ下さい。

stanさんへのコメントの道教ともからみます。
現代の鳥居として象徴される形式ができるのも500〜600頃ではないかと思います。
それまでは丸太ないし直線材だけで構成される「普通の門」で、使用者によってはなんらかの信仰によって鳥や蛇などの装飾をほどこしていたかもしれない。
平安時代は「日本文化」が形成される時代だと思いますが、祭祀においても同じではないかと考えています。


以下、「鳥居の研究」から寺と関係ありそうな引用
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明神鳥居は、大明神の思想を背景として発展した形式とすれば、両部鳥居は本地垂迹説の上に立つ両部神道の理念を表示する形式で、仏教神道の反映最も濃厚な鳥居だといえる・・・
両部鳥居においては表現的にも構成的にも完成している点で、長足の進歩を遂げている・・・
先年熊野速玉神社の神倉神社にコンクリート造りの両部鳥居を建てた。設計にあたり予め伊東忠太博士に意見を求めたところ、両部鳥居にしても屋根がないのが本格で、屋根は雨露を凌ぐため後世付加されたものに過ぎないと謂われた。
社務所では博士の意見を尤もと聞くだけは聞いたけれども、所伝の古図に従って屋根をつけることにした・・・
社務所のやったことも不当でない。両部鳥居の形式は既に門という形を構成しているのだから−−
勿論鳥居そのものも門に違いはないが、門とすれば、発展的に屋根を持つべき運命(?)がある。
鳥居は「上葺かざる御門」とも称するが、島木の鳥居では既にその笠木の上バが屋根への推移示唆する形状をなしている。
・・・
三輪鳥居は、支那の牌楼からヒントを得たものではないかという人があるけれども、三輪鳥居よりもむしろ両部鳥居の方が遙かに牌楼に似ているように思う。
・・・
支柱は貫下から前後へ長くつっかえ棒式に立てて、上の方二カ所を貫で本柱と固く結合させてある。この長大な支柱を手頃なところから切り、垂直に立て直した上で、二本の貫を用いて本柱と結合させたら、そのまま両部鳥居の枠組みである。
叉、石造り牌楼の柱の前後に、足固めとして添えてある装飾化された構造物を、木材で組み立てるとした場合のことを考えても然りといえる。
・・・
総合鳥居は、特に日吉山王の神門として天台宗一派に専ら行われたもので・・・などという解釈で山王権現と唱え、胎蔵金剛両界の諸尊並びに日本全国の諸神を総合する意味で、伝教大師が創案したものだとか、牛尾山の形象を採り、山王の二字を組み合わせてあるとか、
可成り理屈っぽくできている点は、いかにも仏教的でうるさく、その割に大した傑作ともいえないのだが、同じ両部神道から生まれたものでも、主として真言宗の系統に行われた両部鳥居−−全然他宗で使用しなかった訳ではないが、恐らく仏教神道を通じての傑作だろうと思う。
この形式は誰が考案したものか、そしていつの頃に現れたのかも判明しない。代表的なこの鳥居の存在する厳島神社と気比神宮とは、両部神道の思想を具現した最初だとされているが、果たしてそれらの神社に神宮寺や別当が置かれた初めから、建造された形式であることやら、尋ねる由も記録もないのである。
・・・
厳島図会の中に描かれている、いわゆる七浦に散在する諸々の神社にある・・・大鳥居に倣うもので当然だが、関東地方にもこの形式が非常に多い。これとても関東に真言系の寺院が多く、その支配下にあった神社が広く分布していた関係だったのである・・・。
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以下も「鳥居の研究」から引用(起源と関係のある部分)
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寶亀2年(771)2月13日の太政官府に・・・鳥居一基・・・と諸国の神社に鳥居その他の格式を定めた条例にあるのが史書における初見だと謂われ・・・類書がことごとくこれを引用している。もしこの文書にして信用の出来るものなら
・・・寶亀2年の太政官府は偽書だという定評・・・起源説に至っては全く諸説紛々として帰着するところがない。

曰くとりい、和名抄に鷄栖を読めり。鳥居の義なり・・・神代紀の長鳴鳥の故よりおこれり。
曰く、笠木と共下を鷄栖とす。俗に通じ易きがために鳥居と書けり。
曰く、寒川辰清が説に鳥居とは天照大神の天の磐窟・・・長鳴鶏の故事に依るなり。
曰く、・・・内外儀式帳(782-805)に不葺の御門とあるは今の鳥居なり。左右の柱は女柱男柱といふ。上の横木は笠木と云、第二の横木を鳥居と云、この横木に諸鳥のけがれをかけまじきために笠木はありと云へり・・・
・・・鴨居と同義・・・通り入る・・・臣入・・・神代穴居の遺風・・・女性器・・・
・・・インドの外門、梵語でトラナの転化・・・ボナペ島のトリリトン・・・

・・・所詮仮名のトリヰの假り字に過ぎない。とすれば奥州野辺地の方言で入り口の土間をトリと云ふ・・・アイヌ語のト(彼方)リイ(高い場所)・・・鬼界ケ島の方言・・・などに着目した方がよほど気が利いている。
注連縄を以て鳥居の原始形とし、これをソロモンのヤキンおよびボアベの柱に付会している小谷部全一朗氏(日本国及日本国民之起源)の説も・・・
東恩納寛惇氏の「秦・ビルマ・印度」の中に・・・六昆のロブリー城・・・そういう門をソム・プラトと称し・・・その城壁の築造にあたっても恐らく日本武将の意見をも参照したものではないかと・・・
・・・アユタヤ城八方の城門が完全な鳥居型をしている。・・・もっぱら鳥居の発祥地らしく思わせているが、やはり東恩納氏の指摘されたごとく、当時進出した日本武士の勢力を示すものと解釈すべきもので・・・

・・・渋川環樹氏の報告(蘭印踏破行)によれば「ボルネオの奥地林中で、一見鳥居のようでも門のようでもあった五メートルほどの高さの、四メートルほどの間隔をおいて苔むした2本の柱が立ち、その頂には長々と木彫りの鰐が横たわっていた。
鋭い歯をむき出し、目をぎょろつかせた精巧な木彫。その鰐の下に角材が渡され、鰐と角材のとの間に鈍く光るものがあった。木の間漏れの光が静かにこの異様な雰囲気を包んでいた。
キャッキャッと野猿がないた。眼はようやく乏しい光線に馴れてきた。この仄白いものは古びた髑髏であった」
「髑髏の門はダイヤ人の墓であった。ダイヤ人は一つの部落ごとにこんな墓を一つづつ持っている」
と興味深い南洋風俗を奉じている。日本人の遠祖に南方の繋がりを索めようとする人達には、どうやら都合のいい材料になりさうだが、鳥居の起源を何もそんなところまで持ち込む必要はあるまい。

朝鮮でも、咸鏡南道方面にある紅箭門といふのが鳥居に似ている。事実似ているというだけのもので、左右の柱の頂上に鳥の形を彫刻してあり、貫の上に・・・この門は村の入り口に魔よけとして立てるのだそうである。
又昔の新羅今の慶尚北道に・・・第一の貫の上には宝玉の表象らしきもの・・・第二の貫の上には円板の破片らしいものがあり・・・勿論前記紅箭門の一種である。
半島方面にかうしたものが存在するからとて、これを姓氏録に見える百済国人裔としての、鳥居宿禰や島木の姓に結びつけて考える理由にはなるまい。
上代に於ける吾が国と半島方面との深い交渉から、紅箭門をもって鳥居の原型なりとも考えられもしようが、さうすると装飾の行衛が容易にこれを許さない。
元来装飾なるものは後発性のものであることはいうまでもないが、ひとたび現れたなら簡略化すればとて、痕跡すらとどめずに消滅するなどといふことは決してない。

吾が黒木鳥居には装飾の痕跡など更になく、簡素な点でも紅箭門より遙かに原始性に富んでいる。
これだけでも彼と是との間に、血脈的な直接の繋がりを考えるのは困難である。
大和名所図(寛政3年版)巻三の中にある挿絵賤ケ家の門は、黒木造りで額束は一本しかないが、柱の頭が笠木の上にまで伸びているので、紅箭門の原始形のやうにも見える。これとても単に絵師の思ひ着きでしかなからうと思ふ。

鳥居の原始形は黒木鳥居だとすれば、別段その起源を国土の外に求める面倒もなく、これで一切が解決される。
何故ならば、伐り倒した木材−−あるいはあり合わせの材料で門を造るとすれば、誰がやっても何処の人種がやるにしても、この方法以外に考えが浮かび得まいからである。
・・・石井桜樹氏は・・・中央アジア並びに南支那のミン(かたばみ注:門に虫)並びに苗族にみることができる・・・岸田博士(日本文化と神社)は満州地方の農家の構えを・・・黒河南方の蘭旗族の守護神廟・・・その門が吾が神明鳥居に非常によく似ている・・・千数百年前のものだという河内で発見した古墳の内部に、鳥居の形象が描かれているのも当然であらう。
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くたびれた(^^;
「鳥居の研究/根岸栄隆/第一書房」は紀伊国屋http://www.kinokuniya.co.jp/などのブックサーチでは表示されますが入手不可の可能性もあります。

島木鳥居:
笠木の強度を確保するため(あるいは太い材を使わずにすませるため)に笠木を2段に重ねている形式。
丸木あるいはムク角材一本で作る古式(黒木鳥居や伊勢型など)から一歩進んだ(新しい)形式。
(例:春日鳥居など)

牌楼:平凡大百科より抜粋
中国の門型建築で,扉がなく開放的なもの。・・・上に段差のある小屋根をいただくが,奥行はなく,独立して立つ。木造のほか石造のものも少なくなく・・・宮殿,陵墓,孔子廟,道観,仏寺,ラマ廟などの前方に建てられるものが多く, 烏頭 (うとう) 門,櫺星 (れいせい) 門もその一種に属する・・・



鳥居の研究が書かれたのは昭和17年で、検閲を逃れるためと思える表現が随所に見えることに要注意です。
部分だけを読むと真意かどうか判断しにくいです。
否定しているように見えても、他の部分ではそうでもないように書いていたりします。

河内の古墳にある鳥居らしき絵に興味大ですがあいにくどこの古墳であるのか不明。
装飾の少ないことを原始に近いものと判断している事には若干異論があります。
余分なものをそぎ落として象徴化し先鋭化することも装飾の一種ではないかと思うからです。
(日本人はこれを得手にするようにも感じます)
両部鳥居などは中国建築の影響を受けた変化だと思いますが、伊勢型などは門であったものが日本としての変化の結果なのではないかなあ。

古代からの空想とジョイントさせると・・
まずは集落と境界の概念が生まれた頃、「門」が作られた。これは普遍的にありえるもので鳥を信仰する場合には鳥が装飾(守護神、精霊)に用いられた。
蛇を信仰する場合、その象徴化が注連縄だと思います。注連縄は日本独自かなあ。
日本では鳥と蛇が拮抗していて鳥居と注連縄の双方が使われたのではないか。

中国では蛇が龍に変化したのだと思いますが、その過程は単純ではなさそう。
蛇に多くの「装飾」や多民族の概念が追加されたものが中国の龍。
日本の蛇は中国とは逆に単純かつ先鋭化の方向へシンボライズされて、そのひとつが注連縄。

古墳時代まで門+具体的守護神の形が続いたが日本の神道としての萌芽が始まる頃、その象徴としてあるいは結界への神門として鳥居の概念あるいは共通形式が生まれた(黒木型や神明型)。
さらに中国文化(道教)の影響を含んで八幡型や明神型などへ変化してゆきます。
次いで唐文化の流入と神仏習合によって両部鳥居のごとき「近代的な門」の形式へ回帰?した形も生まれた。

数百年程度の短期間のうちに門(精霊信仰)→結界(神道)→門(神仏習合+唐文化)という形(変化)があったのではないかと思うのです。
ちなみに御陵墓の鳥居は黒木型に近いですが、古墳以前の意味を重視したからではないかと思います。

かたばみ


[かたばみ]、00/11/08、、woodsorrel

<RE:宇佐>

宇佐は忙しい場所。
弥生〜古墳時代の要衝にあって、縄文祭祀、三苗系祭祀、中国道教、古出雲王朝、神武・・応神、倭五王、雄略、磐井?、継体・・
50年単位で違う勢力が出たり入ったりが1000年続いたんじゃなかろうか(^^;
これでは文書記録が残っていてもなにがなんだかわからなくなりそう。

中国道教の動きを考える必要がありそうですね。
中国各地でのいろいろな生活の知恵や信仰を熟知する人=「道家」であって、道教という文言は儒教や仏教が中国に広まるのに応じて道家の理論化とともに生じたようです。漢時代あたり。
基本的には長江流域(楚や四川省付近まで山岳を含む)がベースで本質は「長寿のための生活手段」とみていいと思います(これが後に不老長寿や仙人修行といった方向へもゆく)。

日本では「神道」の誕生がこれに対応し、おそらくは500〜600頃にその萌芽があったのではなかろうか。
信仰などが理論化されるのは真の統一王朝の誕生後、というわけでこれは中国と同じだと思う。

中国の原始道家の考え方や祭祀は古くはBC2000以降の三苗文化渡来時に遡り、類似性を持つ縄文文化と融合していたと思います。
道教の五戒十善のひとつに生き物の命を救い種々の果樹を育てる、というのがあってこれは森の民そのものの考え方で、仏教より積極的なわけです。
(仏教は中国では学問として受け取られているようです。日本で儒教を学問として取り入れてるのと同じだと思う)


次いである程度理論化された道教が弥生時代に山東半島経由の文化として渡来し、古墳時代に渡来した最新道教と混じり合って短期間だけ道教として日本に存在したかもしれません。
(最新道教:長江を離れて北の内陸文化に受容される内容を含み、皇帝の登場によってその意を満たす方向も生じたものとしておきます)

仏教の方も弥生末期には渡来していてこれらとも混合していただろうな。
朝鮮半島と北九州での時間差はほとんどなかっただろうと思います。(八幡や妙見などの一方の源となったと推定)
しかしそれらは萌芽しはじめていた「日本型の神道」と混じり合って、後の日本では道教として存在することがなかったのだと考えています。

その萌芽と拡大の流れの中枢に中臣氏→藤原氏があると思う。
10章にも書いているんだけど、中臣氏は中国道教の姿を消して日本独自の形を生み出すことを意識して動いたのではないかと思っています(これが記紀などの内容にも表れる)。
朝鮮半島では地理的に大陸文化(内陸文化)の影響が強く道教の姿を残すが、日本ではその姿は見えなくなったというわけです。

(古くは南海民文化の影響の差もでてくると思う、日本の方がその影響がずっと大きい)

弥生では原始道教と縄文が融合した祭祀があり、飛鳥あたりでは渡来した道教と仏教の姿がくっきりと浮かび上がっていたが、平安に至ると道教は日本型神道と仏教(密教)に混じり合って識別できなくなってゆく・・そんな流れを想像しています。

かたばみ


[s_tan]、00/10/15、。

< 宇佐 >

>放生会ホウジョウエは中国天台の放生池(殺生、慈悲→その説法)に、日本古来の自然界への感謝とか豊穣への願いといった意識が結合したものだろうと思います。

#ですね。。神道をまとめたある程度系統立てたのは道教の影響が大きいとか、仏教にも道教の影が見えるとか、などなど互いに影響を受けたり渾然となったりですね。
神仏混交というか渾然は、やはり列島の自然が強い影響を与えたのでしょう。列島の自然はヒトが手を加え続けないと2、3年で呑込まれてしまうほどの自然ですから。
神と仏は自然(論理外)と論理に対応というか、仏教は恐らく所詮「お上」の出先の認識が強くて普遍的信仰にはなり難かったのでしょう。

道教というのは大陸の紀元前からの民間信仰がまとまったものですが、森羅万象を体系付けようとする風水も源は一緒でしょう。恐らく黄河流域が緑豊だった頃から素地があり、緑が少なくなった頃、緑・自然への希求・回帰が体系付ける力となったかも知れない。


放生会がカタチとして整うには、それ以前の下地というか当然ながら意識が必要で、その下地は列島には縄文の昔から続いていたのでしょう。押し付けだけではなかなかヒトは集らないから、カタチつくるには以前からの行動に理由付して威厳あるカタチを作り上げた、でしょう。

宇佐は、弥生時代から宇佐氏(土豪の宇佐公氏・うさのきみし)が統治し大化以前の国造とされる。
5c?頃には豊前香春岳の辛国神を奉斎する辛島氏が宇佐公氏に服属し辛島郷をつくっていた。
6ー7c頃、正体不明の大神(おおが)比義が畿内?から一族を連れて豊後国へ移住してきた。
平安初期に再度、宇佐氏が主流となり続く。

宇佐氏は菟狭とも言い、縄文の昔より北方より移動してきて以来菟狭族として列島を移動、北九州を本地とする前は、山城から吉備で備前を本地とする時代が長かったとも言う。
宇佐氏は祖を「ウサツヒコ・ヒメ(or高魂命or天降命」とし、要するに天孫としている。
縄文以来御許山の3巨石を神体として祭祀し、原始シャーマンからと思われる比売神を奉斎。5c〜6cの豊国巫は宇佐氏本流と思われ、道教寄り仏教の匂いが強い。また欽明29、物部などとの逸話が見られる。
この宇佐氏が神地として何世紀も守ったのが中津市の三角池(御澄池)でこの池の真薦が枕として宇佐氏の奉斎する神体ともされる。薦とか枕など文献によくでる気になるコトバです。
巫女、巫というと江南の許氏AD190頃ですから卑弥呼あたりからのつながりもあるかも。

辛島氏は祖を「素盞嗚−五十猛−・・・宇豆彦−辛島勝乙目」とし原始シャーマン的で新羅系、特に花郎・弥勒信仰とのつながりが強そう。
韓国−肥前−筑前を経て豊前香春岳に新羅神を祀る。6c末頃に宇佐の主流となったと思われる。(この頃、宇佐氏の一部、水沼氏(みぬま)が宗像に移ったとも言われる。)
辛島氏は女性シャーマンを主としていて、宇佐を管理する主流から外れた後も女性シャーマンとしての血が歴史に顔を出す。また後の大神氏の祝も男を女性として扱っている。辛島氏の神体は銅鏡。
辛島氏と宇佐氏のヒメ神が統合され、北辰の神に守護された、小倉山の比売大神になったような気がする。

大神氏は渡来系氏族とされるが出自不明。
東大寺大仏造立にかかわり八姓2番目の朝臣となる。祖とされる大神比義は敏達13(584)祝となり、その後崇峻2(589)の大神が荒れて5人行けば3人殺し10人行けば5人殺す、という逸話があり、辛島勝乙目が3年かけ祈祷し崇峻5(592)鷹居社を建てその祝となり大神を祀る。これが応神15=八幡とされる源ではなかったかと思われる。
大仏建立が大神氏の源でしょう。行基が大僧正になったとき良弁は律師、聖武45の特例で得度した(737)良弁の最初の派遣先は宇佐の小倉山)。信楽が放火、地震で良弁が聖武45に中止をすすめ、良弁は(745)自分の寺、若草山麓の金鐘寺内に大仏と東大寺造立を勧める。(747)宇佐は勅使に答え大仏建立はエーコトダと託宣、翌(748)唐に金を求め遣唐使を出そうとするが、宇佐は、金は国内より出る遣唐使不用と託宣、直後宇佐は一品。
国内より金、といえば当時、陸奥を治める百済王・敬福が金の上納で一躍昇進したのですが、この行基、良弁、敬福など百済、鉱山開発を共通としてつながりが深いのですね。

と、この後も宇佐の3氏族の話は面白くキリが無いのですが、3氏族の伝承で仏教公伝の欽明29の頃は伝承が一致している。これは公伝前の私仏教として下地が充分にこの地区にあったから。また半島での仏教公伝はたしかAD380、半島と豊国この辺りに国家が認める以前にある程度普及していた、のは充分考えられる。


>中国情勢のよく見える場所だったから最澄や空海が入唐(804)の祭に立ち寄ったのだと思う。

#そうですね。良く見える場所というよりもっと深くて、3山、5山案内を含めて豊国が大陸とつながりが深く太いパイプを持っていたからと思います。なにしろ住民の9割が渡来氏族という資料が残っている地域で、6ー7cには秦王国とも云われたという地ですから。(大宝2(702)の豊前国の戸籍では秦部が圧倒的に多い)


>鹿児島県の姶良郡隼人町の鹿児島神宮は以前は国分八幡あるいは大隅八幡宮と称したようで、宇佐八幡とは違う八幡なのだそうです

#鹿児島神宮の祭神は、彦穂穂手見(合祀:豊玉比売、仲哀、神功、応神、中比売)ですが、式内では祭神一座。合祀は欽明の頃など云われ、それ以来正八幡宮と呼ばれたとある。
古く吾田神とも称されたとされ、もと東の石体宮(しゃくたいぐう)のある地にあり、和銅年間に現在の地に移されたとも云われる。
吾田(吾多)といえば吾田隼人で天武の時(682,686)に踊やら誄をしてます、一族と思える痕跡がかなり後まで河内加津良神社などに残っているから8c頃には鹿児島神宮が吾田神と呼ばせる力もあったのかも知れない。
大隈国は日向国より4郡を割き和銅6年4/3に置かれる。
和銅2(709)に香春神社の新宮が造営され、直前に太宰帥・大伴安萬侶が解任され粟田真人が太宰帥になっているから、藤原不比等の政策の一貫で、その流れが鹿児島神宮造営でしょう。
(700)には豊国から秦氏一族が大隈に移住し、和銅6(713)大隈隼人の反乱で応援が宇佐より大隈へ大量に入った。この時の神体は辛島氏が奉じている、国府のあった国分の西に鹿児島神宮、東には韓国宇豆神社がある。どちらも辛島氏の祭祀で宇佐の大神、宇佐氏と続く八幡に対して、原始八幡を奉斎する辛島氏の八幡で宇佐には対抗意識が強くこれが「正八幡宮」とも称する理由と考えられる。


宇佐の寺は、大宝3(703)9月「沙門法蓮に豊前国の40町を与える医{イ巫}を褒る」とあり。僧としての認識はこの頃から。。医術祈祷の巫としては雄略21には見えるのでこの頃には寺があったとも考えられる。

・宇佐君法蓮、宇佐に虚空蔵寺という法隆寺様式の白鳳寺院を建立(7c末ー8c初頭)、のち官社宇佐八幡宮に神宮寺の弥勒寺が建立されると、初代・別当となる。
−−−
宇佐の座主寺院として、
虚空蔵寺、宇佐市山本、一番旧い、法蓮、俗僧、宇佐氏、弥勒寺初代別当。
法鏡寺、宇佐市駅川町、大化改新30年後頃、華厳、俗僧、宇佐氏、、。
金剛寺、六郷山、養老年間、覚満、俗僧、宇佐氏、六郷山初代西別当。
智恩寺、養老年間、躰能、俗僧、宇佐氏、惣堂達職(執行職)。
*俗僧=妻帯。
弥勒寺の金堂(本尊薬師如来)は大神氏が、講堂(本尊弥勒菩薩)は宇佐氏がそれぞれ担当して建立した。
−−−中野幡能氏による。

 stan


[かたばみ]、00/10/06、、woodsorrel

<放生会>

≫放生会という供養は、恐らく今でも鳥獣供養搭などのように民間信仰というか原始信仰としてあったのだろうと思います。
≫原始は供養というより感謝が先だったように思いますが。

これも難しい問題を含んでいそう(^^;
放生会ホウジョウエは中国天台の放生池(殺生、慈悲→その説法)に、日本古来の自然界への感謝とか豊穣への願いといった意識が結合したものだろうと思います。
(放生池:AD550頃の中国の天台開祖智の事跡、漁師のとった魚を池に放した)
放生池の話を日本に伝えたのは遣隋使あるいは遣唐使ではなかろうか(607〜654・・)。

書紀の天武天皇675に2度にわたって放生を行ったとありますが、これが放生会の初出とされるようです。
「京に近い諸国へ」行わせたとありますから、近畿以外にはまだ寺がなかったんじゃないかな(法隆寺607、山田寺641、薬師寺680・・)。
この頃は全国的な飢饉が頻発する時代のようで、この年にも干ばつや飢饉の記述があります。
その祭祀のひとつとして行ったのかもしれない。

寺のない地域では神社が朝廷の放生を代行することもあったのではなかろうか。
もし神社で行うなら神様的考え方が加わって、神仏習合の具体的なきっかけになりそうです。
日本や中国の神様とインドの仏様が「三つ巴」になって天災やら戦やらの問題をなんとかしようと必死だったのがこの時代ではなかろうか。
(当時の祭祀は「必須の実用行為」で、現代の祭祀に対する感覚とはだいぶ違うものだと思う)


≫隼人征伐(720)に八幡神が出陣し殺戮したのを悔い、隼人の霊を鎮めることが、
≫八幡放生会の始りとされている様です。

宇佐は弥生時代には中国道教と結合し、仏教も早い時期に取り込んでいたんじゃなかろうか。
東大寺大仏開眼750頃では朝廷の九州での総合的な祭祀拠点になっていた可能性が高そうです。
中国情勢のよく見える場所だったから最澄や空海が入唐(804)の祭に立ち寄ったのだと思う。
最澄は中国天台で学び、宇佐との緊密な関係から見て宇佐八幡の放生会が形になったのは最澄以後ではなかろうか。

鹿児島県の姶良郡隼人町の鹿児島神宮は以前は国分八幡あるいは大隅八幡宮と称したようで、宇佐八幡とは違う八幡なのだそうです(神社辞典)。
これは九州における弥生文化の流入経路の違い(出雲系と天孫系)に関連している可能性もあります。
しかし宇佐八幡に大神氏が応神天皇の神格化を持ち込んだ(欽明539-571頃)ことに対して、鹿児島神宮はそうではない、という意味だと興味深い話になってきます(^^;

大神氏が出雲系の青銅技術に長じた一族だったのなら後の東大寺大仏鋳造の支援にもつながります。
倭国争乱時代の隼人は天孫の配下にあって勇猛な兵士、出雲にはにっくき仇だった(^^;
隼人の乱に大神氏は応神を神として八幡神に重ねて出兵、大昔の仇討ちをやった(^^;


仏教にはいろいろな理由で餓鬼になってしまった人々を供養する施餓鬼という法要がありますが、これをご存じの方は寺から案内状がくる方だけだろうと思います。
たぶん、どこでも祭りといった行事にはなっていない。

これには「陽の要素」がなく加えて人間対人間の供養だからだと思うのです。
お盆でさえもお祭りとはだいぶ違う。
放生会も寺での殺生や供養だけであったら表にはでてこなかったかもしれない。

しかし、神社での放生会だと慈悲の部分と古来からの大自然に対する豊穣や生産に対する祈りや感謝の考え方が重なって、その陽の部分が浮上して神社の放生会を「陽の行事」に変化させたのではなかろうか。
お祭りワッショイとなれば(^^;これは神社の受け持ちで、こちらが有名になりやすいと思います。
ちと理屈っぽくなったけど。

かたばみ


[s_tan]、00/10/02、。

<放生会> 掲示板から

放生会といえば、仏教の「殺生を避ける、あらためる」からお寺の行事ですが、なぜか岩清水八幡とかのそれが有名です。
お寺での行事の由来、進行は調べたことはないのですが。

放生会という供養は、恐らく今でも鳥獣供養搭などのように民間信仰というか原始信仰としてあったのだろうと思います。原始は供養というより感謝が先だったように思いますが。

神社での放生会は、石清水の元、九州宇佐神宮が国家からみの行事として整った源でしょう。
行事には「蜷(巻貝)」、香春岳採銅所で鋳造した「鏡」と旧豊前国(田川、京都、仲津)の人々が主役です。
銅鏡を神輿に奉じ神輿は必ず豊日別宮を通り和間浜で蜷を放生、宇佐本宮へ戻り鏡を納める。途中、古要神社の傀儡子人形が神輿の行列に加わり、和間浜の二艘の舟の上で傀儡子舞と神相撲が奉納される。
(TVニュースで見ると現在の放生は蛙とか蛇だったような気がしますが。。)
宇佐では6年毎に行われる行幸会と並び重要な祭りとされている。

この行事というか神事の起りは、隼人征伐(720)に八幡神が出陣し殺戮したのを悔い、隼人の霊を鎮めることが、八幡放生会の始りとされている様です。


宇佐(豊国)は、変遷激しかったようで、
原始、山(東方)信仰。
神功以前のヒメ神信仰、更に古く母系制(信仰)の拠点。
雄略21(460頃)「雄略21病み、筑紫の豊国の奇巫を召し上げ、真椋(まくら)をして・・よりて姓(かばね)を巫部連と賜う。」この真椋とは物部氏。「豊国奇巫」と記される。
用明31(586ー87)では「豊国法師」。

主祭者も、辛島、宇佐、大神と入乱れ、後援者も、秦氏、藤原、一時和家、良弁。後、最澄、空海。
(845)には巫部連が常世の氏に改姓した、泉大鳥在が3人、他が2人右京と大和山辺、常世宿祢。
などなど、興味つきないところです。


[s_tan]、00/10/02、。

>紀州熊野のカラスもサッカー御用達の方は新しいんですか。
>そんなものなんですね。ちょっとデザイン変えてみるか、なんて(^^;

#そんなもんなのですね。
神紋は社務所に人が居ない所はなかなか確認できませんが、確認できても微妙に形が違う種類のうちどれが本来かなど尋ねても(例えば双葉葵というか花葵というか花の長さが随分違ったり葉と花の位置が違ったり)、不明なことが多いですね。
大和、大神神社の神紋は三立杉で有名ですがメインは違うようですし。。ずーーと変らず「コレダ!」という紋は殆どないのかも知れない。
さらに社務所の有無にかかわらず、どうも3割ほどは神紋が無いような気がします。

八幡といえば宇佐ですが、公伝以前の仏教が宇佐にあったらしいが、仏教寄りの道教というか鉱山従事者というか支配者に特化された道教、といった気配がする。
神道は「言あげせず」で直感的というか世代間の体験伝承というかが姿で、論理がつけられる迄は原始的形態をかなり保っていた。
恐らく道教、密教などが山と密接なのは布教先に原始的な信仰を残す山の民が勢力を保っていたから、という理由も大きいんじゃないかな。。
「おりゃーむずかしいことわからんが、あの山おがむだよー」ってのが各所にあった。 今でも、神社に毎日お参りしているご老人が「祭神の名は知らない」というのに意外にぶつかる、これが本来と思うことがありますね。

三苗と言えば、長江、5千年前の洪水、それを逃れて北へ行って「夏」を成す、禹は長江の出身という説。この大洪水で逃げた先は北だけではなかったでしょうね、そうすると神木、祭壇などなどかなり古くに広まった可能性があるなぁ。
まあ文明は大地に吸収される、というのがあるから列島に来ても千年もすれば。。。


太陽、○といえば、シュメール、ウルで◎(中黒)が使われてますね。エジプトでも◎とか日章というか菊が使われている。
エジプトといえばピラミッド、古いほど精巧な作りだとの説があるとか。シュメール,ヒッタイト・・・突然進歩的民族はどこから沸いて来たか良く分らない、ってのが共通かな。


巴紋の意匠のモトいろいろありますね。他には、陰陽二極を表すとか、蛇がからまっている、親子三代(これは新説?^^。)、天地人、三神山、などなど、いずれにしても聖数の「3」が効いているのかも。

>弥生の装飾用青銅器に○の周りに多くのヒレがついている巴型銅器がありますけど、これは○が太陽で周囲は炎じゃないかと思ってます(日本独自の形で外国にはないようです)。

#巴型銅器、銅工芸の傑作ですね、現代でも同レベルでは造れないらしい。廻りの羽根の数は何種類かあるようですね、4つ羽根は手裏剣を連想したですが。太陽が意匠のモトでしょうね。
鉄があるにもかかわらず上品といって銅に執着したのは、長江以来の「玉」の感触に共通するのではないかと。。。さらにめったにつくれない超高度な技で形をつくり貴重さを付加した。


>明神は瀬戸内と東北の太平洋岸に多いといった偏差があり、日本海側にはほとんどないといってもいいくらいなのが意外です。

#鹿島、香取は、これも一筋縄ではないですね。
香取郡は大化直後に物部氏と関連深い匝嵯郡より割譲してできた。鹿島はたしか鎌足以降。
蘇我氏の流れが現在の千葉市付近、意宇族が千葉市ちと南から鹿島,霞ヶ浦周辺、忌部系が房総先端から霞ヶ浦まで。気配が残る。神武の五伴で船には強そうですね。

大化以降朝廷の威が落ちた唯一江戸時代には香取の祭神は「斎主」というのが散見される。これは「ウシ」で地元神でなければ、物部か、忌部に近い。
鹿島も古くは中心は現在地より少し北で産鉄、製鉄の地というのが濃厚。大仏建立の従事者に、これは香春を主とする秦族が銅職人管理者として名を連ね、鉄のそれは殆どが物部系。
以前話に出た、常陸風土記の「遣唐使の船を形が悪い」と言う逸話、これは船を多用したと思われる神武系に祖をもつ流れが常陸,霞ヶ浦に多数居たという可能性が高いのでは。

>見たことはありませんが香取の軍神祭りでは往路は利根川を船で遡るけど帰路は陸をゆくらしい。
#見たことありませんが、馬などかなり現地調達したという話しがありますから。

 stan


[かたばみ]、00/10/01、、woodsorrel

紀州熊野のカラスもサッカー御用達の方は新しいんですか。
そんなものなんですね。ちょっとデザイン変えてみるか、なんて(^^;

八幡さんを忘れてましたが、これは日本の神様と道教がドッキングしたものが源だと思います。
お稲荷さん、金刀比羅さん、住吉さん、修験道、スサノオ:祇園牛頭・・

日本古来の神様(縄文弥生)、三苗のもたらした原始道教(弥生)、完成された中国道教(奈良平安)、インド中国仏教(奈良平安〜)、それらが自然にあるいは人為をもっていろいろに混じり合っていった。
その状況を政治的な感覚で理論化したもののひとつが権現や明神の考え方だろうと思います。


太陽を+や×にイメージする芸術家はいるかなあ。
光を+や×のように見るのはカメラができて光の干渉を劇画的に描くようになってからの発想ではなかろうか(^^;
×や+から感じるのは放射ではなくやっぱりクロスとか交わり。
卍はさらにその原型に近い形。
逆さ卍を使い分けて意味を持たせたのは中国仏教あたりでの理論化ではないかな。

太陽を示すシンボルは「○」じゃないかな。
子供の描く太陽の絵、これが太陽を表す自然なイメージではないかと思うのです。
菊花紋の方が太陽にずっと近い(^^;

ちょい余談。
エジプト文明展を見てきました。
太陽一族の神々の象徴はみんな○で太陽の後ろ側に蛇がいて頭としっぽが見えているのが面白い(インドでも太陽神スーリヤの車に蛇が乗る)。
蛇が太陽を飲み込むと日食かな。

エジプト人の顔はBC2000あたりから変化してますね。
古王朝時代の顔は顎が張っていて丸顔。新王朝時代になると細面な感じに変わってくる。
このあたりは写真ではよくわからないけど現物の彫刻を見てはっきり感じました。

エジプトと戦っていた相手国の頭像というのがあってひとつはアジア人、もうひとつがリビア人だそうです。
アジア人という方は唇が厚くたぶん髭をはやしてる。
この顔はシュメールBC2000あたりのウル第3王朝の神官の彫刻の顔によく似ています。
古いシュメールの顔はエジプト古王朝の顔と似ていると思うけど、シュメールもBC2000以降のバビロンになると顔つきががらっと変わってギリシャ人のような感じになってくる。


弥生の装飾用青銅器に○の周りに多くのヒレがついている巴型銅器がありますけど、これは○が太陽で周囲は炎じゃないかと思ってます(日本独自の形で外国にはないようです)。
激しいイメージだと思う。使ったのは武人じゃないかな。

しかし道教が普及したであろう古墳時代になるとヒレが4枚のものが多くなるらしい。
中国では道教や仏教や儒教が互いに相手を取り込んでそれぞれの体系と理論が完成の粋に達する時代です。
はてさて卍との関係は・・(^^;

3つ巴は神社でなくても瓦の文様に使われるようですが、これは火ぶせの意味があるともいいます。
だとすると水の渦巻きともいえそうです。
道教では水は重要な概念でもあるし、太陽と炎を転じて水の渦をイメージさせるように使うことも十分あると思います(銅鐸の水流模様は道教の影響と見ます)。

弓の道具の鞆の形から巴をトモエと読み巴紋もその形からという説もありますが、はてさて・・
広島県沼隈郡に鞆(鞆の浦)という瀬戸内の重要な港があります。
ここには沼名前神社ヌナクマがあって大綿津見神を御祭神として鞆の祇園とも呼ばれるようです。
(スサノオ命も祭るところからの祇園の名でしょう)

尾張の中嶋郡(木曽川と長良川の合流地点付近)に鞆江神社があるそうで三代実録(865)には鞆江神が登場するようです(現地の方に縁起などご教示願いたいところです)。

また日本地名辞典には佐賀県の東松浦郡呼子町に鞆があり泊まり(船泊)であったとあります(現在の地名は大友、小友)。
徳島県海部郡に鞆浦があって海部氏族の根拠地。
他に鞆を持つ地名は紀ノ川支流の鞆淵川と伊賀上野(こちらは現在は友に変わっている)。

もし弥生の巴型銅器を武人が使っていたのなら・・大伴氏とつながるか。
大伴氏はその後裔のありようからも天孫の武人の元締めであったのは間違いないところ。
大伴氏族の配下には靫負ユゲイがあって靫ユキとは矢を背負うための道具。
すると大伴氏の伴は弓の鞆でもあって、鞆の浦や鞆江は大伴氏配下の海上輸送部隊の港という意味もありえる。
その人々がシンボルを造るなら巴型銅器と水の渦巻きを合成して不思議はないです。

≫明神は「鹿島・香取」など「海」系の神に使われている事が多いようです。

神様系の明神なら海神族など海の有力者が多くなる可能性はありますね。
仏様系の権現は山。坊さんが海で修行したという話は聞いたことがない(^^;
インドでも中国でも内陸だったといったこともあるかな。
地名検索で明神と権現をチェック。
海にちなむ権現は権現岬というのが九州にあるのみで全国的に平均していて予想通り。
明神は瀬戸内と東北の太平洋岸に多いといった偏差があり、日本海側にはほとんどないといってもいいくらいなのが意外です。

武甕槌(鹿島)も経津主(香取)も陸軍の将軍じゃないかな。
どちらも迦具土神を祖とするのでご本人からは海はみえない。
しかし矢作氏ヤハギは経津主を祖として大伴氏配下で矢作りの担当、香取と大伴をつないでくれます。

海上輸送部隊が鹿島香取へ兵士を運んだために海系にみえるのではないでしょうか。
見たことはありませんが香取の軍神祭りでは往路は利根川を船で遡るけど帰路は陸をゆくらしい。
これは海軍が援軍を上陸させ、鹿島といっしょに行軍した様子を表しているんじゃないかな。

だいぶ卍からははずれましたけど。

かたばみ


[s_tan]、00/09/27、。

<神紋・卍・権現> 掲示板からの流れ

神社の紋というのは殆どしっかりした由来が有る所は少ない様ですね、寺もそうですが。
家紋が定着したのは平安以降で寺社はそれ以前からあるから当り前かもですが。
熊野大社本宮は「3本足のカラス」で有名ですが、神官にお聞きするとカラスは神紋ではなくマークと言われてました。そのカラスも正面向きに近いサッカーで有名?な3本足はつい最近作られた様です。/w1kmn11.htm"熊野大社神紋。
今はカラスと三巴の抱合せ紋を多用してますが、本来の紋は三巴のみ、と言うことで、いつからかの使用は不明と云う事でした。

卍は,日本では左巻が多い様ですが,大陸では半々の様です。かたばみさんの言われる様にインド以西では太陽の意が古いようでその後色々理由づけられ派生した様です。
四ツ巴といえば、埼玉の高麗王若光を祀る聖天院の紋が四ツ剣方喰で、三ツ剣方喰も同じ様に使われていると言うご住職のお話でした。

権現の称号は鎌倉時代に最澄に関連付けて3如来を権現としたのが広まる始めだった様です。
釈迦如来を大比叡神(おおひえの神)(大宮権現)、薬師を小比叡神(おびえ−)(二宮権現)、阿弥陀を宇佐宮(聖真子権現しょうしんじ−)。
勝道上人が(770)頃,二荒山開山に使用したのが始めとの説もありますが,天台ではそれぞれの神の本体を各如来に最澄が定めたという事になっています。

江戸時代の旅行本・和漢三才図会ではOO神社の表現よりも、権現・明神・八幡の方が多いです。
明神は名神の転訛らしく,権現を抱合する使い方も見られます。
関東で権現の称号は、かたばみさんが書かれている様に大山祗など「山」に関連深い神が多く、明神は「鹿島・香取」など「海」系の神に使われている事が多いようです。
これに八幡を合わせて、大きく3つのグループに神々を分けていたのが江戸期の意識でしょうか。

江戸期に権現が流行ったのは,武田信玄にも呼ばれたと云う、かの天海が秀吉明神だから家康権現としたとかですが,天海は比叡で修行してまして、比叡と言えば天台宗で山王一実神道の源ですね。
余談ですが東照宮を浜松に造り1年後に日光に移すというのは天海自身の延命策、1年後の場所を日光にしたのは天海の生まれ故郷に近いからだろうと思います。

仏教系神道といえば、山王一実神道と並ぶ両部神道、これは天台と並ぶ真言・空海の創始と言われてます。どちらも奈良時代初期に創始とも云われますが、教義など整い仏教神道として成立したのは鎌倉時代と一般的には云われてます。鳥居はどちらも「両部鳥居」を使うことが多いです。

両部神道は、伊勢神道の影響が大きく両部とは密教の2つの部、金剛・胎蔵の金胎両部の事で、金剛界=豊受大神=外宮、胎蔵界=天照大神=内宮とし。豊受大神は金剛界の大日如来・月天子(水)。天照大神は胎蔵界の大日如来・日天子(火)とされ、仏教界に対峙する勢力になる。
元寇の役の神風は伊勢のものとされ、伊勢の人気が再確認された時代。江戸期に入るまでは内宮より金剛界の外宮の人気・地位が高かった様子です。また恐らく熊野三山として熊野三社が合体したのも元寇前辺りではなかったかと考えます。


[かたばみ]、00/09/04、、woodsorrel

<星神・掲示板のkonさんへのコメント>

≫星神についてもう少し基礎的な所から御教え願えませんか

とてもそこまでいきませんけど、日本の神話に星神がでてこないですね。
日本の旧石器人は北のコーカソイド(白人)でこの人々と南の海洋民がドッキングしたのが縄文人だと考えているのですが、旧石器人は別にしても海洋民には航海を助ける星神を持っていたはずです。

大国主命の前に海面から現れたという幸魂奇魂神はカノープスではないかと思ってます。
(少彦名の星神かもしれません)
縄文時代BC5000あたりだとカノープスは歳差の関係で高度が低く沖縄あたりで見えなくなります。
北上する南海民の船団があったとすれば、カノープスが見えなくなれば沖縄はすぐ近くということ。
BC2000あたりでは高度が上がりはじめて、紀州潮岬でも見えるようになってきます。

エジプトにはカノープス神はいないようですが南が山で意味がなかったのでしょう。
カノープスはギリシャ語、南が開けた海運国だったからでしょう。
BC2000あたりの長江大洪水からの渡来者(三苗)にも多くの海系の星伝承があっただろうと思います。
ウエツフミには多数の星神が登場しますが、海洋系(三苗海運者)の人々の伝承だからだと思います。

全天で1番明るいシリウスが目立つ神様になっていないのは、外洋航海に役立つ位置ではないからかなあ。
アマノカカセオがシリウスかどうかはわかりませんけど。
弥生時代に渡来した人々は陸上文化の人々で、道教での星神以外は伝承から消えていったのではなかろうか。
(アイヌ伝承ではどうでしょうね)


≫物部金弓連公は何か出てきませんでしょうか

古墳時代になると登場人物が一気に増えて手が回らなくて・・(^^;
総じて物部という名の系譜は農業ではない人々と見ています。狭い意味では物を扱う人々です。
物部に限らず山間部にはいった人々は金属資源の探索者ないし開発者ではないかと思います。

他には材木かなあ、それ以外に目的を思いつきません。
山岳地帯へ日本海側からは出雲系、太平洋側からは天孫系の資源探索者が入山していった。
日々の糧のためには狩猟なども必要なはずで、後のサンカとの関連も感じています。

覇者の条件が稲作文化から金属文化に移行する時代、それが弥生だと思います。
これらを動かす商業力も重要になってきたはずです。
饒速日など海運者は最新情報を入手しやすく、その実行者として絶好の環境にあった。

物部氏はその流れに乗って勢力を拡大していったのではないでしょうか。
饒速日の近畿での降臨伝承もこれらの人々の行動と重なって生じたのではないかと思います。
(饒速日は個人ではない、ともいえます)


≫式内社巡りで火明と八井耳のゾ−ンを何とか浮き上がらせようと

近々に天孫降臨と海幸山幸の空想をアップするつもりですが、天火明は阿蘇高千穂から日向へ降臨した2人の兄弟のひとりで、日向から濃尾へ進出したと考えています。
(古事記の記述を採用、瓊々杵の子の火照(ホデリ、火須勢理=海幸)と火明は別人)
火明の火は阿蘇の火、火照の火は桜島の火・・(^^;

岐阜に手力男神社があることたいへん興味深いです。
スサノオに痛めつけられたアマテラスは阿蘇の洞窟へ避難、渡来した天之忍穂耳等の家臣が救援する。
天之忍穂耳の子の天火明がその家臣を伴って濃尾へ展開するならいたって自然です。

記紀に一致しすぎる事象はかえって後の創作の可能性もありますけど、このあたりは微妙な判断です(^^;

100年ほど後の神武の子の手研耳命、岐須耳命、八井耳命、淳名川耳尊にはすべて「ミミ」がつくところから日向系譜とみたいです。
地名が先か人名が先かはなんともいえませんけど、

手研耳命、岐須耳命の母は薩摩出自と思われるので出雲とは無関係でしょう。
しかし八井耳命、淳名川耳尊(綏靖天皇)の母は出雲の事代主の娘の五十鈴姫(日向五十鈴川出自とみます)。
これは当時の大ニュース(政略結婚)だろうなあ。
この二人の血の半分は出雲ということです。
弥生中期末〜後期の宮崎から奈良の唐古や瀬戸内系の土器が出土しているのはその証でもあると思います。
(祝い品とか妃の注文によるものでしょう(^^;)

それ以前に自立した天火明は出雲とは無関係で、子孫は濃尾縄文と融合したと思います。
(はるか以前に三苗の冒険者が到来して定住していたかもしれませんけど)
濃尾は天孫と出雲の抗争の火種になった地域と推定しているんです。
それが銅鐸のありようや朝日村となり、後に崇神がこの地との関係を重視する理由だと思っています。

もし尾張付近で八井耳命や天火明のヒントが得られればたいへんに興味深いところです。


かたばみ