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[stan] :99/10/01、23:30

弥生と言うのは、村長が継続的収奪をするのが当たり前になった時期から、かな。。
朝日村の環濠逆茂木はすごいですね、横浜の大塚だったか200m程の楕円を囲むのもあるですね。縄文の環濠は巾5〜6mのが発見されて害獣用とされている様ですが。環濠といえば仰韶が堀で竜山から築壁でしたっけ。

>出雲で興味深いのは「神」がいないように見えること(^^;
#そうですね、出雲の4ヶ所から語部を集めて使えそうな所を記紀に採り入れて残りが出雲風土記でしょうか。使えそうな所は大幅に改竄されて、各地の神々を集めて移封した場所が出雲なんでしょ。
スサノオは須佐の首と、ひょっとして蘇我氏の歴史をかぶせてイメージしたものかも。
熊野大神がクシミケヌになるのは、地元神が食料を提供する立場になった事の結果ではないだろうか。提供を受けるのは意宇氏であり、その後大和の2度であったかも。

出雲熊野の大神は・・伊佐奈枳(いざなぎ)の子である熊野加武呂乃命」とあり。延喜式・出雲国造神賀詞には「伊邪那伎の愛しい子である神聖な熊野大神櫛御気野命」とある。この櫛御気野命は櫛御食沼で、和歌山熊野本宮の家津美御子大神も食だろう。
しかしイザナギ・イザナミにつながり深い神々は朝廷が崇敬するような扱いを受けていない様に思えるのはどうしてだろう。

三輪山は美和とか御倭山ではないでしょうか、

三足といえば、大阪では枚方近くの磐船神社下流の台地から出土しているのですが三足は珍しく近くとは違う祭祀形態のようなんです。これが足が中空の竜山(ろんしゃん)の鬲(れき)、中空でない仰韶(やんしゃお)の鼎なのか、はたまた三星堆に近いのか。発生の根はひとつではないかも知れないですが三足が安定している事が、ヒトがデザインとして安定して見える理由なのかも。

尾張といえば熱田神宮でその古地が氷上姉御神社・元宮としてあるのですが地形的に太古は海辺を見渡す小山で山裾まで波がヒタヒタといった所です。
日本武尊に縁が深く一時歴代の妃をだした尾張、その熱田神宮も(800)過ぎに忌部広成がぶつぶつ言うまでは朝廷の目に入っていなかった様子。
どうも尾張が妃を出した頃とそれ以降の朝廷は違うというのが強い、建前の記紀での重要度をつつかれたから仕方なく熱田に官位をあたえたのでは。

大社の柱ですが、大社に伝わる金輪造営図というのをみると、9本の柱はそれぞれ3本の柱を金輪で締めて1本とし、中央の柱を岩根御柱といい他より太いようです。本殿への階段は引橋長1町と書かれている。
現在の注連縄、拝殿のが1.5トン、神楽殿が3トンと出雲の注連縄が異常に太いのも柱を引っ張った縄の名残りではないかと。。
90mというのは、TVでみたニューギニア?の密林の中の樹上の家がどうもだぶって。。^^。


[かたばみ] :99/10/05、23:50、woodsorrel

仰韶の部落推定図には環壕と小さい土手だけで塀は書いてないなあ。
日本の戦国時代での確実な防御は柵だと思う。人間を防ぐだけならこれで十分だと思うんです。
矢を防ぐなら西部劇の砦みたいに密にした柵(塀)を作る。
これを発展させれば土塁になりさらには城壁になる。
それでも足りないときに堀が加わるわけです。

環壕わきに塀の跡があるようなら純粋に防御用と思うのだけれど、もし環壕だけしかないのだとすると、防御のためだけというには理由がいりそうです。
北海道静川遺跡のBC3000頃の環壕は2軒?の建物跡を囲んでいてその外側に住戸跡があり、環壕で囲われた部分はちょい丘になっていて排水路というにはこれもむずかしい。

石器で木を切り倒すより穴を掘る方が楽だったのなら柵より環壕を作る方が得策になったかもしれない。
穴掘りなら女子供でも手伝える、なんてのは人手の少ない時代には重要な理由かもしれない。
あるいは木をむやみに切り倒してはならないといった共通の不文律のようなものがあったのかもしれない。
環壕ひとつでも一筋縄ではいきそうもないですね。

大社の柱を束ねて作るのはありそうですね。
東大寺造営では1本柱に使えるような太い木は入手できなかったようでやはり束ねて使っているようです。
1町は仮に高さが45mで階段橋?が30度勾配なら長さは90m以上になりそう。そのあたりかもしれない。

≫しかしイザナギ・イザナミにつながり深い神々は朝廷が崇敬するような扱いを受けていない様に思えるのはどうしてだろう。

うーん、伊弉諾伊弉冉は縄文の神々で弥生以降の王朝とは直接関係がないからじゃないかなあ。
遠い神様より近くの神様、自分の祖先が祀っていた神様がまず最初にありきだと思います。
ま、いろいろな都合で表向きはそうじゃない場合もあるだろうけど(^^;
神様の実際の比重は(^^;論理的あるいは神学的な考察とイコールにはならないと思うのです。

一般民間では原則として昔からの信仰が継承されると思うけど、王朝サイドの事情によってなんらかの支援がある神様とそうでない神様では格付けといった形式面で次第に差が出るはず(^^;
民間の人がお参りする場合にも、格式が高く立派で有名なほうが選ばれやすいだろうなあ。
お参りが神様への感謝ではなく祈願となって、どういう御利益があるからお参りする、といったことになればますますブランド指向になりそう(^^;

うちでは台所とトイレに正月にお餅をそなえます(1年中おいてある)。どういう神様か不明だけど気にしていません(^^; (入口と出口の神様ということ(^^;)
ちなみに私の場合、お賽銭をいれるのは神様へではなく、神様を守っている神社方へのお手伝いの意味です(たとえ1円でも寄付なのです(^^;;;)。

三苗文化時代の事象のヒントがないかウエツフミを調査中(^^;
ウエツフミ編纂者の大友能直は源頼朝の重臣(血のつながりはないが頼朝の親族)。
相模在住のまま豊後守に任じられているようですが、実際に大分に定住するのは能直の子あたりからみたい。
妻が「波田野」氏出自というのもなにかありそう(^^;
その他の荒唐無稽とされる古伝書の伝承も実は三苗の体験談なのだとすれば、荒唐無稽どころか中国のある時代の記憶を伝えているのかもしれない。

ウエツフミは記紀のストーリーに独自の古伝承の断片を追加して編集された書と感じます。
鵜草葺不合朝73代目が神武の章で、記紀以上の神武賛歌(^^;
ちなみに東征と遷都はどちらも神武の事跡だが年代が異なるとされているのは、記紀との食い違いの妥協点じゃなかろうか。東征はナガスネヒコを悪役にした戦。遷都はお祭り(^^;
一般民衆の生活文化がいろいろ記されているのが興味深い。女帝が登場し、そこに男王が婿入り?する話もでてくるんだけど、いかんせんどれも時代推定できるポイントがない。

星神が多数登場するのも興味深い。
記紀での星神は退治されるべき邪神としてちょこっと登場するだけなのに比して決定的な違いだと思います。
海洋民にとって昼は太陽だが、夜は星が重要なはず。ウエツフミは三苗の海洋民系の伝承を取り込んでいるのかもしれない。
三星堆の太陽信仰は晴れる日数の少ない四川盆地特有の農耕信仰からで海とは無関係のようです→山幸系でも理由は違うが太陽信仰をもつ可能性がある。

月は農耕と沿岸漁労(潮の干満)に重要といったところか。

何々ツツ何々神という名が星神の共通項です。
ここで思い浮かぶのが書紀での神功の神託に登場する5神のうちの3神、底、中、上筒男神です。
この筒とは本来は星の意味のツツではなかろうか。

ウエツフミでは夫婦神も多数登場、記紀では伊弉諾伊弉冉神以外にはっきりした夫婦神がみあたらない。
ただし、幸魂奇魂神は幸魂神と奇魂神という夫婦神である可能性大。
ウエツフミでは夫婦かどうかはわかりませんが幸魂奇魂は2神として登場する。
サキはわからないけど、クシは櫛と同意で縄文に遡る女性の象徴かなあ。

出雲熊野大社のクシミケヌ神、実は三苗文化時代の夫婦の食料神かも・・腹を空かしたスサノオが穀物神のオオゲツ姫をばっさりやっちゃう状況が見える気がする(^^;

夫婦神を合わせて祀ったのがそれ以後のクシミケヌ神か・・
伊勢外宮のトヨウケ姫も同じ、ただしこちらは太平洋岸なので斬られずに女神として祀られるようになった・・

神功と応神の行動は三苗文化を継承する新興勢力につながるとみています。
物部・・三苗文化を祖にもつ古来からの王朝内部勢力、蘇我・・やはり三苗文化を祖にもつが新興の外部勢力。
中臣・・祖は瓊々杵に随伴した道教の祭祀者・・蘇我物部の消滅で大勢力へ・・

空想は限りなく(^^;
伊弉諾伊弉冉系譜はすべてに共通するけれどこれらの勢力が重要神とする理由はなさそうです。

−−−
環濠が害獣用だとすると、なにが害獣でどういう環壕なら防げるかの説明がいりそうです。
人間への害獣だとすると熊あたりか。虎もいたかなあ(^^;
これらだとして環壕は役に立つのだろうか。
オオカミはその性格から害獣にはならないと思う。せいぜいが山犬くらいか。しかし、わざわざ焼き肉にされにやってくる動物がいるのだろうか・・(^^;

倉庫への害獣とすればネズミだと思う。その場合は環壕には水をいれるのが必須となるはずだけど、水をひいてこれる環壕がどれだけあるか。まさか人手で水を運ぶとは思えない。
倉庫の周囲にだけ溝を掘るほうがずっと楽なはずだしそれで足りると思います。

高床が作れるならそのほうがもっと確実でもありそう。

でこぼこがあると行動しにくくなって困る動物とは・・2本足の人間(^^;
環壕の内側に広いスペースがあるのは内側で人が行動できるようにするためだと思います。
その行動としては防戦以外には思いつかないです。
住まいはなくなっても再建はできる。食料がなくなったら飢え死にするのみ。倉庫こそが守るべき最優先だったのではないかと思うのです。

かたばみ


[stan] :99/10/07、23:30

塀(版築)の確認は竜山からのようですね。
矢を防ぐ塀と言えば、古代の稲城はほんとうに稲を積んだのか、いや稲ならすぐ燃えるし矢も通すと、何かの比喩的語だろうとか色々ですね。まあ稲藁も積み方では矢は通さないので緊急の防御冊としての材料としては十分考えられるのですが。

縄文の丘の上でも環濠の用途は住居地を高くして乾燥する為のものとしては十分考えられますね。住居の傍に溝を掘るとそれを集めるつながった溝が必要になるしそれを集めたのが環濠なら底はいつもじめじめしていたのではないだろうか。住居用途と他との区別にもなる。
害獣は食料でもある訳ですが、やはり寝こんでいる時に突進してこられては困るでしょう。環濠の底は泥沼とか小動物とか害虫除けの毒草なんかがあったのかも知れない。朝起きると掘で食料がもがいていたりして。3〜5mの幅となるとケモノ道を分断する事になるのかも。あと熊笹といった類の侵蝕を防ぐ意味もあったかなあ。

逆茂木は対人馬が主とは思いますが、逆茂木自体は2本足より4足に効果的でしょう。4足はほぼ通れないが2足は時間がかかるレベル。
いずれにしても弓矢は昔からあった筈で矢から遁れるにはかなりの広さの環濠か塀が必要になりますね。吉野ヶ里クラスの集落は他にも結構あったのでしょう。

>うーん、伊弉諾伊弉冉は縄文の神々で弥生以降の王朝とは直接関係がないからじゃないかなあ。
#そうなんですよね。伊奘冉伊奘諾に始まって、宮中から追い出された神々と時期がそれぞれ“直接関係がないから”に当てはまるのでは、と。
お賽銭・おまいりは“おじゃまします”といった感じですね、これだけ訪問先が多いと神様も願い事などすると迷われるのではないかと^^;
しかし、畿内以外の探訪は時間がかかります。

とうとうウエツフミですね。むかし旅先で吾郷清彦の完訳本見つけたのですが値段と重さで止めました、今、抄訳本のみです。
頼朝といえば、島津忠久も丹後の局とのご落胤とか。能直は頼朝の長男とか次男とかといわれ、母は大友四郎経家の娘で斎院次官藤原親能の家で生まれて即養子になってますね、つまり神祗官の家で育った訳です。
この上野利根郡司経家の娘・利根の局の姉が親能の妻でその縁で斎院次官藤原の家で生まれたようです。能直が生まれたのは頼朝が伊豆に流されたほぼ10年後、伊豆挙兵のほぼ10年前になるからなにか小説的題材におもしろそう。
能直は、建久2(1191)豊後国に入国し、同4年には頼朝の富士演習に立ち会って、同じ建久5には大分郡植田(わさだ)郷の旧国府を直して入ってる。40歳頃には家督を息子に譲って隠遁、上記の編纂・たぶん神道三昧に入ったようです、系統には厳島神社の宮司とか神官も多い様子。

お隣の大陸では紀元前に百万の大軍を動かしているのだから上記でいうOO方面OO軍も否定しきれないかも。
住吉神の筒が星というのは昔からその説があり、オリオンの三ツ星(鼓星)としているようです。



[かたばみ] :99/10/11、19:30、woodsorrel

稲城かあ。ムシロで矢を防ぐのは効果的だと思うけれど火矢にあえばかえってまずいですね。
それを逆手に取った戦術が稲城ではないかな。
稲藁を「城」の周囲にうまく配置して敵がそこへきたら火矢を放つわけです。攻め手も稲藁が並べてあれば迂回せざるを得ない。
ヤマトタケルの草薙の剣はその戦法を突破した剣ではなかろうか。
稲城の地名は東京に1カ所のみ。稲垣か稲木なら西日本にたくさん、稲置(イナキ)だと東北に3カ所あります。

逆茂木は鉄条網と組み合わせたときいっそうの威力を発揮すると思います。
当時ならイバラをからめて使ったんじゃないかな。→茨城(茨木、荊木)
環壕も同様でいざ戦のときには底に竹槍をびっしり植えるかイバラを入れる。
もちろん低地や河川の近辺の村では排水路や農業水路を造ったと思うけど、このあたりの識別ですね。

愛知の朝日村の立場は単純ではなさそうですが、その住人はかっての中部山岳縄文の系譜が多く含まれたのではないかとみています。この一帯に人が住み始めるのは縄文後期からのようだし。(名古屋弁はその言葉の影響を含むか?(^^;)

朝日村の村史空想(^^;
貧しかった朝日干潟は三苗文化と稲の到来によって濃尾の最も豊かな集団に変わった→熱田の源泉。
しかし、BC150頃から琵琶湖方面から出雲集団が進出、環壕など防衛体制を敷く(初期の環壕で一重程度)。

瀬戸内からの最新文化をもたらした海運業者も出雲系となってからは、出雲勢力の一員となる。BC100頃か。
BC50頃、出雲にとって濃尾は大阪(半島系主体)に比肩する重要勢力(縄文系主体)になっていたのではなかろうか。

BCゼロあたりの濃尾一帯からでる丸い大穴を側面にあけた謎の壺、どういう用途だったのか。
祭祀など西日本一般とは異なる慣習を保持したグループである特徴か。
(ミノア文明の謎とされた壺を想像してしまいます。蛇を飼うための壺です。後の大物主との関連は・・)

瀬戸内の高地集落は弥生中期付近。第一次倭国争乱終結(神武即位)に対応する瀬戸内防衛用。(朝日の防御が強化されるのもこのころ)
AD120頃(懿徳〜孝昭)で天孫グループはアマテラスとの同盟に成功。九州ヤマト政権の誕生。
九州ヤマトは関門海峡を通過せずに別府あるいは日向に軍団を集結させて瀬戸内へ展開できるようになった。
出雲にとって吉備や高松への攻撃部隊の発見がむずかしくなるわけです。
それが現実となって第二次倭国争乱勃発(徳山、広島、松山付近の平型銅剣の時代)。

BC150頃、九州ヤマトは吉備、高松を制圧。瀬戸内の制海権は九州ヤマトへ。
和歌山の高地集落はこの頃登場する。大阪防衛用でしょう。

大型銅鐸の生産開始は九州ヤマトとアマテラスの同盟あたりが契機じゃないかな。
鏡に対抗する出雲グループ結束の象徴です。
(なにゆえウエツフミにも銅鐸がでてこないか・・記紀の考えに従って書かれているからだと思う)

朝日も三遠式銅鐸を生産するが、九州ヤマトの瀬戸内制海権確保によって出雲との関係が微妙になって生産中止。
朝日の銅鐸生産は50年ほどの短期間だったのではなかろうか。
銅鐸といっしょに出土する土器群から、朝日の銅鐸使用は弥生後期(AD50〜AD250)です。
形式が近畿型と違うのは氏族が異なることの自己主張か?
この頃の瀬戸内や和歌山各地の遺跡には複雑な激動の時代の痕跡が含まれていると思います。

AD200頃に濃尾氏族と九州ヤマトの秘密外交がはじまったかもしれない(^^;
濃尾氏族の多くは中立になったんじゃないかな。
出雲の敗北で朝日は衰退するけれど、新たな勢力と結合して再び有力勢力へ。尾張氏族の登場。

AD200あたりからAD300頃とみられる吉備高松周辺の瀬戸内沿岸と伊勢湾沿岸からでる土器に描かれた人面はだれを描いたものか・・九州ヤマト王の肖像か?(刺青をしているように見える、丸顔)
出雲の加茂岩倉の銅鐸に刻まれた人面は出雲王の肖像か?(瓜ざね顔)

馬が未だにわからない。いつごろから「乗馬用」に使われたのか・・
最古の騎馬軍団とされるスキタイでもBC1千あたりが上限にみえる。
匈奴の騎馬は春秋戦国あたりでBC500以降。前漢の騎馬軍団は武帝のBC140以降。
日本では馬の埴輪がでるのがAD300以降のようだから、伝播したとするなら妥当な流れに見えます。
神功366以降に具体的な騎馬が登場したとする記紀の記述は正しいとみていいのではなかろうか。

労役馬についてはむずかしい、馬が旧石器時代からいてもおかしくない。
古い時代と思われる日本の馬の骨がみつかったという話を聞いたけど未確認。
水田では牛じゃないと無理だろうな。農民が牛馬を飼うようになるのはいつごろからか。

ウエツフミは著者や翻訳者の考え方を排除して白紙で読むのが難しそうです。
瓊々杵以降はパスの予定。
九州の武家には源系列が多いみたいですね。沖縄の源為朝伝説もその関係かな。

余談
白山神社(白山比盗_社シラヤマヒメ)の縁起はなにかなあ。
祭神は一般には菊理比売神、伊弉諾伊弉冉神のようです。菊理媛(白山比淘蜷_)ってどんな神様?(^^;
山岳信仰がベースのようだけど、現在の神社の創建は天台密教と関連があるようです。

かたばみ


[stan] :99/10/14、23:30

稲城の地名が東京に1ヶ所だけですか、稲城は小さいから小字の下の地名になるのかも知れませんね。

愛知の渥美半島は(これもアツか)椰子の実の歌で有名なほど南方からの漂流物がよく着く所で伊良湖岬からは伊勢までのフェリーがでている。三河湾・知多湾は縄文南方からの上陸地点としては好立地ですね。湾奥には降臨の伝承地もある、し。
知多から名古屋市までの伊勢湾はかなり奥まで昔は湾だったろうし、なにしろ中部山岳に降る雨は伊勢湾が出口になる。
西と東の文化圏としては三重から関ケ原−立山のラインが区分の線になっている。コトバは豊橋あたりが一つの区分らしい。
愛知県はアイチですが、滋賀の愛知はエチなんですね、この辺もinputしておかなくてわ。

九州ヤマトとか天孫族とかですが、現在というか益々というかとらえ方がグチャグチャ状態。天武以前は天孫族という幅の広い共通の伝承を持つ族は多々あったが氏族としてひとつの線となる天皇家はなかった、のではないかと。。

>ウエツフミは著者や翻訳者の考え方を排除して白紙で読むのが難しそうです。
#ですね。単純な訳本がほしいものです。どこかで文庫本でも出さないだろうか超古代シリーズ全8巻とか。
上記の能直は神祗官の子みたいなものだから、各地の特に藤原の息のかかった神社の奥にある秘伝などを思うように見ることができた筈。逆の伝承などもあってまとめるに苦労はしたと思えるが断片は残っているような気がする。
吾郷さんは、本居宣長のようで肝心なところで具体的説明が欲しい所で神懸りになってしまう。

三苗というか大陸の断片なら、上記より富士文書(徐福文書)のほうがあるかも。



[stan] :99/10/14、23:30

白山と白山比刀Aこのあたりは(も)諸説混交です。

白山は「しらやま」と呼ばれているように、山頂が白く輝き航海の目印としては最適、富士山・立山と並び日本3名山(3霊山)。日本海から直線で40kmほどの標高2702mの山。

古代の航海からの信仰の対象と思える処の祭神はなぜかイザナギ・イザナミが多く、これに恐らく流され神としてこの2神に菊理比唐ゥ天照大神がからむことが多い。
弥生か古墳初め頃、羽咋の気多大社近くで生馬を供えての祭祀跡が見つかっているが、三国から羽咋までの海岸線は白山を対象として祭祀がされたのではないだろうか。

白山の開基(717)は越前の行者泰澄。登山の入口として、神名帳加賀国石川郡、白山比盗_社、本宮(里宮)の地を加賀馬場(白山寺・石川郡鶴来町三宮)。越前馬場(福井県勝山市平泉寺町・平泉寺)。美濃馬場(岐阜県郡上郡白鳥町長滝・長滝寺)の3つの馬場がある。

泰澄は白山を開山し白山神と習合させて十一面観音に代表される変化観音信仰を普及させたと言われる。
白山大鏡(鎌倉時代の成立と見られる)に“越前国足羽南郡阿佐宇津渡守、為角於父生、古志路行者秦泰澄大徳”とある。
泰澄は越智山で修行し後で林泉で白山神の託宣をうけ白山を開いたといわれる。この林泉が白山神社境内の御手洗池といわれ、ゆかりの深い加賀平泉寺(へいせんじ)が白山信仰の中心地として地位を確立するが、天正2(1574)の一向一揆で全山焼失し平泉寺は廃止され白山神社となる。
この平泉寺は奥州平泉(ひらいずみ)と関係が深く、奥州中尊寺の境内にも白山神社があり、かって中尊寺細大の年中行事は白山社の祭礼であり能楽が行われていたと伝わる。秀衡の無量光院にも東方の鎮守として白山・日吉、両社があった。

白山比盗_社の祭神は、菊理媛(くくり)、配神に伊奘諾・伊奘冉。白山山頂近くの奥宮には菊理媛のみが祀られている。
菊理媛は伊奘諾伊奘冉が泉津平坂(よもつひらさか・黄泉比良坂)で争ったとき泉守道者(よもつもりみちひと)と共に争いをやめさせた神、として出、あと事跡はないようです。
この菊理媛を祭神とする初見は、大江匡房(まさふさ,1041-1111)の扶桑明月集での「天孫八王子麗白山菊理比盗_也」とされている。

白山信仰・山岳修験・ククリヒメのつながりは、「胎内をクグリ生まれ変わる」の共通点でしょう。

白山は「白ろき神々の坐する山」といわれ、白髭神・明神も赤子を元気に育てるという信仰があり、日吉白髭などで“誕生の翌年、社に参詣し神から名を授かり、この別名を数日本名として使えば無事に育ち幸福な一生をおくれる”とある。
沖縄では産屋をシラという、敦賀に式内白城(しらき)神社があり鵜羽明神(うのは)といい産屋を表している。ウガヤフキアエズですね。
東北のオシラサマも類似の信仰。

菊理比唐ヘ、織姫、八百比丘尼などと類似を指摘したいが、白山では「菊理は泳(くぐり)で禊をすすめた神らしく思える」という折口信夫を代表とする論が合っている。
神社での「くぐり」は茅之輪を思いだすが、白山・白髭系では樹の枝などでトンネルをつくり茅之輪より長い場所をくぐらせ、生まれ清まわりする祭事が多かった様子。

山岳・修験は、山を胎内とし峻険な山岳をめぐり生まれ変わること。出羽三山などの地獄めぐりですね、山岳の六道・地獄をめぐると生まれ変われる。白山の祭神・ククリヒメとどちらが先なのかは。。。


白山と奥州平泉と言えば鉱山とは切り離せない、また泰澄・平泉・能楽・白山と来ると「秦氏」なんですね。。
琵琶湖東南の秦荘、多賀大社近くに 「胡宮神社」 がある、敏満寺の鎮守であるが同じ鎮守に白山もある。近くの愛知川上流の小椋谷は木地屋根元地といわれる、犬上川上流の大君ケ畑(おじケはた)現在多賀町にも木地屋集団があり小椋谷を@「南畑」大君を「北畑」といっていた。北畑は白山、南畑は八幡を祀る。
この大君ヶ畑はあの秦大津父にちなむ地名で、南畑には惟喬親王の伝承が伝わっている。





[かたばみ] :99/10/20、01:40、woodsorrel

< 弥生信仰と九州ヤマト>

菊理媛、説がいろいろあって不明なんですね(^^;
山岳伝承=縄文伝承じゃないかと思うのですが、白山にも仲裁といった伝承があるのかあ。
大山と因幡の鷲峰山、富士山と八ヶ岳、赤城山と男体山、などの伝説は古代の戦の痕跡かもしれないな。

大山の大神山神社も牛馬を祀りますね。大山は植物相と季節の変化がわかりやすそう。
熊本の阿蘇神社、阿蘇十二明神。ここも祭られる神々がよくわからないけれど開拓の神々とされるようです。

白山神社あるいは白山の地名は伊勢湾北端〜琵琶湖東岸伊吹山〜若狭湾東岸を結ぶラインを境界にしてその東側にずらりと密集し、東北を含めた東日本全域に散在しています。
九州にも若干散在するのに中国四国ではほぼゼロ。「畑」の地名分布とそっくり反対なのが興味深い。
奈良の唐古遺跡から列柱跡がみつかったようですが、年輪法の使える丸太はでないかなあ。
西の池上曽根より先にここが開発されるのは若狭から南下したグループだからに他ならないと思う。

話が飛びまして兵主神社(ヒョウズ)。やや特異な神社と思えますが兵庫や滋賀あたりを中心とする神社ですね。
兵主とは山東半島の斉の信仰(斉巫)の瑯邪八神のひとりの兵主神のようです(史記封禅書)。
もちろん武の神です(瑯邪八神:ロウヤハッシンと読むと思うのですが未確認)。
姫路市の射楯兵主神社の射楯神は播磨風土記に神功を援助する神として登場するらしい。
兵主神が武神でありその位置からは第二次倭国争乱時代を源流とするか?

ちと話が飛んで
春秋時代の英雄のひとり越王勾践はBC473に呉王夫差を破り、わざわざ山東半島の瑯邪に遷都しています。(現在のチンタオ付近のようですが不正確)
周王朝の「会盟の覇者」となるのに有利な場所に遷都したのでしょう。
もともと三苗勢力の地域でもあるし、このとき越系の最新の三苗文化が山東半島にもたらされたはずです。
戦国時代の山東半島には九州を横断する規模の城壁があるようで、ここは異色の地域だったのかな。

山東半島の斉巫は長江下流域の呉巫とならぶ古来信仰のひとつで道教の源泉になるらしいけれど、中国でもまだよくわかっていない分野のようです。
なお、楚巫という表現はないですが、楚に鬼神信仰ありとして北系の国からは邪とみなされていたようです。
三苗:越(海幸)呉(都人(^^;)楚(山幸)・・悪くはなさそう。

胎内くぐりは母性信仰と生まれ変わり(仮屋→脱皮だと思う)の合体だと思います。
ミソギを含めた通過儀式でもあって源は縄文文化じゃないかな。
(七五三の753といった形式化は後の道教文化の影響だと思う)
チガヤ(茅)、これも江南文化でやはり疫病防止の呪符ですね。
蘇民将来や茅の輪くぐり、祇園社のチマキなどはそれが半島や日本で変化したものだと思います。

三苗の信仰や文化の多くが中国道教の源流になっているようですが、それとは別に日本に渡来した三苗文化が縄文文化と千年の混合を経て弥生文化ができてゆく。共通項が生じるはずでその識別がむずかしそうです。
朝鮮半島でもこの状況は同じと思う。半島南岸や九州北岸ではさらに両者が混在するはず。

また話が飛んで
天武天皇は唐の道教文化を信奉したようですが、多くの伝承や神社がその影響を受けてこの時代以降に変化したと思います。特に祭祀や表現文言など手段や形式の面でそうなると思います。
道教文化=道教ではないけれど、クリスチャンではなくてもクリスマスやっていればそれがいつのまにかあたりまえの慣習になるのと同じ(^^;

記紀に登場する鏡と剣の2種の神器、これは道教の思想。
書紀の用明紀での神道の文言の登場は、道教文化の渡来によって日本古来の文化の再認識がはじまったからかもしれない。唐の道教に対抗する意味で神道を打ち出したのかもしれない。
玉を加えて三種の神器とする場合もあるのは、三苗文化を受けた弥生の考え方を取り入れたからか・・

ま、神道という文言自体も道教の文言らしいけど、漢字で書くならこれはしかたなし。
当時の朝廷の所蔵目録に道教の教典がない。にもかかわらず道教文化が広まっている・・
このあたりに独自文化を表現するために中国文化を使わざるを得ないという当時のジレンマを感じるのです。

記紀あるいはその原本編纂開始時の天皇であろう天武天皇の神格化とも大いに関係があると思います。
万葉のオホキミハ神ニシマセバ・・柿本人麻呂もこの文言を使って歌を詠んでいるから、柿本人麻呂もその必要を認めていたんじゃなかろうか。
認めてはいたけれど、矛盾も感じて姿を消した・・のか?(^^;

≫九州ヤマトとか天孫族とかですが、現在というか益々というかとらえ方がグチャグチャ状態。天武以前は天孫族という幅の広い共通の伝承を持つ族は多々あったが氏族としてひとつの線となる天皇家はなかった、のではないかと。

いわゆる天皇系譜のつながりでいちばん怪しいと思ってるのは応神(神功)です。
応神から継体までの間についてはなにがあってもおかしくないなあ(^^;

神武から成務、それと継体以降はすんなり継承されているだろうとみていますが、以下天孫と九州ヤマト部分の空想年表の抜粋(^^;
物証などはほとんどなしですが、北九州の戦死者のありようの推移、墓の形式の分布、半島型剣、石包丁の伝播などが間接のヒントです。むろん金印受領の中国記録も。

BC2000-BC200
     三苗文化が九州と半島に渡来 山陰〜九州北部に半島系避難民の後裔が激増
     東海、北陸に中部山岳縄文避難民の後裔が増大
     西日本全域と太平洋沿岸に弥生文化誕生
BC190 頃 スサノオ出雲へ渡来 「出雲王朝」黎明期
     スサノオ武力をもって九州進出 アマテラスは阿蘇へ撤退避難
BC150 頃 瓊々杵(天孫)松浦半島へ渡来
     天孫がアマテラスに接触 使者天兒屋根の口上が祝詞のはじまり(^^;
     お土産は天鈿女の踊りと鏡(^^; 護衛はタジカラオ
     スサノオ後裔は西日本各地を開拓、出雲王朝の確立
BC130 頃 スサノオは瓊々杵の鉄剣に敗れ福岡から撤退
     小紛争継続するも宗像で停戦協定成立、停戦ラインは遠賀川 このころスサノオ死去ないし帰郷
BC100-0  天孫が糸島に建国(後の伊都国)大陸や半島との交易で繁栄
     出雲は佐賀吉野ケ里、大分、日向五十鈴川、瀬戸内、四国、紀伊、濃尾を包含する最大版図となる
     情勢流動的なれどアマテラス、出雲、天孫並立でしばしの平穏時代
     (ニギハヤヒやナガスネヒコ活躍、海運業者は各地から注文殺到で我が世の春(^^;)
AD 20 頃 伊都国内紛(海幸山幸)
     神武は伊都国から独立、奴国を建国し九州北部の戦乱再燃、神武東征の開始
     神武の兄弟も半島南岸へ進出(この時点では半島南部と九州北部が「倭の地」です)
AD 50 頃 奴国は後漢との交流を深め大量の鉄剣を輸入し軍備を強化、国東と別府を奪取
     大国主は出雲へ撤退(国譲り)するも佐賀吉野ケ里は最後まで神武に抗戦
     (こうして吉野ケ里を見ると人の動きを感じられて親近感とロマンがうんと増える(^^;)
AD 61   奴国王神武は倭国王を自称し即位 第一次倭国争乱終結。
AD 61-120頃
     神武、綏靖、安寧は九州の旧出雲系妃をいれて九州北部の支配を安定化
     しばしの平穏時代。
ここまでは出雲と天孫とアマテラスの並立時代です。

AD120 頃 天孫とアマテラスの同盟成立 九州ヤマト王朝の誕生
     祭祀はアマテラス女帝が司り、経済と軍事は奴国王が行う連立政権
     九州ヤマト瀬戸内へ進出を開始 第二次倭国争乱はじまる

以降100年以上にわたって天孫はアマテラス系妃を入れて、天孫とアマテラスは融合されてゆきます。
とまあこんな具合で、そう無理のないシナリオだと思っています(^^;

かたばみ



[s_tan] :99/10/22、23:50

菊理比唐ヘ、伊奘冉である、天照大神である、といった説も昔からあるようです。
その祀られ方をみると「人柱・人身御供」がひとつの共通点らしく思える。伊奘冉が水・海との接点でしょうが日神である天照大神が湾,川側に祀られるも意外に多いのは女神であるとの共通点だけなのか、明治になっての阿諛なのかが気になっているところ。

白山に仲裁といった伝承はまだ見てないですが方向を指し示すといった共通点になるのでは。
古代の航海の山アテ・山ダテで地図を見ていたら面白いことに気がつきました。
前述の白山3馬場。
加賀馬場(白山寺・石川郡鶴来町三宮)は白山(標高2702m)北北東の松尾山(標高1163m)を結ぶ線上にあり。
越前馬場(福井県勝山市平泉寺町・平泉寺)は今でも漁師が山アテに使うという武生市の日野山(標高795m)がありその延長線に敦賀半島突端の白木がある。
美濃馬場(岐阜県郡上郡白鳥町長滝・長滝寺)は白山のほぼ真南に位置しその延長線には伊勢湾木曽川河口になる。
白山から真北には羽咋市の気多大社が位置する、ここからは恐らく白山連邦が縦に連なって見える。
そのほか、東尋坊・九頭竜川河口の三国からは白山手前に大日岳(1369m)火燈山((911m)が並んでいる。

面白いことに白山から真南に木曽川河口を超え伊勢湾を過ぎると伊勢の神宮にあたる。もしやと思い調べてみると、白山南麓に白山中居神社がありその南には九頭竜湖、この辺り湖底に沈む前はいくつか神明社があり元伊勢とも呼ばれていたらしい。さらにこの九頭竜湖の真西が武生・日野山、男大迹王天皇とゆかりの深い場所。
次に白山から越前馬場・日野山への線を伸ばすと敦賀半島を超えて丹後・天橋立篭神社になる。適当な地図が手元に無く“およそ”になるが、篭神社への線の更に先は、厳島神社にあたる。
通説になっている伊勢は飛鳥の宮の真東。とすると白山、伊勢、厳島は大きな直角三角形になる。(九州宇佐もこの線に絡みそうな気がするのですが。。)

ちと脱線しましたが、太政官符に「伊勢、尾張、近江、美濃、若狭、越前、紀伊に牛などを殺して神を祀る事を禁ずる(791)」とあり、その10年後には越前に対して再度行われている。
などからも敦賀気比から羽咋気多までは神に牛馬をささげる祭祀が盛んだったようです。白山西麓には古く牛首村、今、白峰村があり牛の着く地名が現在も残る。恐らく牛の首を落す専業の民も居たほど盛んだったのではないだろうか。
牛馬を殺すといえば弥生農耕民俗ではなく騎馬系とみるのが妥当でしょう、シラキの名のつく地名、社がこの一帯に多いのも海を渡って来た人々の多さと影響の大きさを残しているのだと思います。白山は近くに残る地名からも読み取れるように神仏習合的というか修験と言うか泰澄以前からも道教的下地が十分にあった地域だと思えますね。

縄文、弥生には航海の絶好の目印で、農作業にも雪の残る山は季節・時期を知るにも最適でしょう。

>大山と因幡の鷲峰山、富士山と八ヶ岳、赤城山と男体山、などの伝説は古代の戦の痕跡かもしれないな。
#二荒山とか貫前の縁起伝承をみると戦いの痕跡ですね、鉱山をめぐってが正解かも。。

>兵主とは山東半島の斉の信仰(斉巫)の瑯邪八神のひとりの兵主神のようです(史記封禅書)。
#山東省瑯邪(さんとうしょうろうや)と読みがあります。
兵主神社について、内藤湖南は三輪山傍の穴師の弓月嶽にある兵主神社は「史記」封禅書に、秦の始皇帝が山東地方で祀っていた「天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主」の八神のうち根本の神である兵主神を祀る神社だから秦氏の祖の弓月君と、弓月嶽−弓月君−兵主神、と結びつくと述べている。
臥薪嘗胆・瑯邪といえば太平道の教法も瑯邪出身の干吉(かんきつ・うきつ)がからんでますね。道教の5聖山の東・山東省泰山もさらに東の蓬莱を望む処という事で5聖山でも特別だったのかもですね。

丹後風土記断片によると射楯兵主神社の射楯神は出雲よりの神、兵主は東の神で丹波あたりで激しく争っていたが、どうもあるとき手打ちをしたらしくその記念が姫路の射楯兵主神社らしい。

天皇系譜というのは卑弥呼とその弟、神政分離ってやつで、先住あるいは先代のつながりを黙らせる為にわりと人質的理由で先住の血の流れる妃を立てたのでは?。天武以前は男系の系譜はつながっていなかった。時には先住を押さえられなく直接妃が表に立ち天皇となった。。

越前で追加ですが、どうも「鵜」の付く神社が他にも結構ありそな気がしてます。


[かたばみ] :99/10/31、22:00、woodsorrel

<地名と昔の人々>

原始アマテラス(三苗文化)あたりが白山にやってきた可能性はありそう。
古すぎてわからない神様は伊弉諾伊弉冉神に同じとしているかもしれないな。
三苗時代なら原始アマテラスに代わるかもしれない。
わからないのが後に出雲王朝のベースになった人々の神なのです(スサノオの神もわからないけど)。ひょっとすると同じく原始アマテラスだったのか・・(→幸魂奇魂神)

アマテラスと先住縄文が争った可能性も少なからずか。スサノオのオロチ伝承も先住縄文との争いかもしれないな。濃尾の穴あき壺は蛇に酒を飲ませる壺だったりして(^^;

地名検索に使っているソフトはABOC社の日本地名索引というCDで、地味なソフトなんだけど貴重なヒントがたくさん得られています(日本地図上に表示するので「直感」を刺激してくれる) (http://www.aboc.co.jp/ 参照)

鵜を含む地名を検索してみましたが、北海道と青森に少ないことを除けば全国に散在して偏りは感じないです。
*鵜*神*で検索したら宮崎に鵜戸が3社、岡山に鵜江、鵜成の2社、三重に鵜森、富山に鵜坂、鵜川神社大橋、岩手に鵜、鵜鳥の2社。こちらも散在といった感じ。
宮崎日南市の鵜戸神宮は興味深い。崇神天皇時代の創建というという社伝があるようで、その時代に日南市付近が近畿ヤマトと関連をもっていた可能性が見える。
鵜を使う漁は黄河にも長江にもあって弥生では鵜を抱いて埋葬されている女性もいるようだし、鵜は縄文ですでに大事な鳥になっていたのかもしれないな。

なお、茅を含む地名は偏在が見えます。山陰と九州、それに関東に多い。
ただし漢方薬になる種類の茅チガヤとススキなども含んだ茅カヤが混在です。
因幡の白ウサギの蒲の穂もチガヤの仲間だと思う(漢方薬)。
国東の宇佐神宮の奥宮には三つの石体が祀られているそうですが、三つかあ・・マコモもあるなあ(^^;
日本ではいろいろが三苗時代のものと道教時代のものとで重なっているとにらんでいます。

畑の分布は次章あたりで画像で出すかもしれないけど、畑は漢字ではなく日本固有の文字(国字)なんですね。
ハタ・ケの意味だったんじゃないかなあ。249カ所あります。それ以外の意味を持つにしてはあまりに数が多すぎると思うのです(ちなみに畠も国字、他にどんな国字があるか要チェック)。
なお、なぜか新人物往来社の日本地名事典のハタには畑がありません。

「秦」についてはあまり考えたことはないですが、これをハタと読む納得できる理由がみつからない。

人名と地名を同一にはできないけど、いまのところ「秦」の文字にゆかりの人々が畑ハタの人々との関わりのなかで、畑さんの仲間とみなされてハタさんになったけれど、先祖の文字はそのまま継承した結果なのではないかと考えています。
なお秦の地名は高知、岡山、大阪、東京の4カ所にしかありません(波田や羽田もわずかです)。

馬と牛はぎっしり全国的で、それぞれがいつできた地名なのかがわからないと意味がないなあ。
牛を殺すのを禁止する制令なんてのがあるんですか。
確かに農耕民ならやらないでしょうね。
朱蒙の高句麗建国神話では鹿など狩猟動物の扱いがずいぶん乱暴と感じたけれど、狩猟民族ならそれが普通なんだろうな(朱蒙は逃避行の途中で天馬を得ています)。

狩猟民族の生活地域は森林、騎馬民族の生活地域は草原で遊牧。狩猟とはちょっと違うのがデリケートだけれど注意すべきところだと思います。
狩猟民も馬を知って使える地形なら使っただろうと思うけど、遊牧生活ほどの必要ではないと思う。

匈奴は遊牧の騎馬民族だけど鮮卑や扶余は狩猟民族だと思います。鮮卑は匈奴と扶余の中間かな。扶余も高句麗建国時代では馬を使いこなしていたと思うけど。 (かえって沿海州経由で西日本より早くダイレクトに東北に馬文化がはいる可能性を要チェックです)

騎馬民なら馬を殺すこともまたやらないと思う。
モンゴル神話では馬は人間以上に見える扱いだけれど、牛は大地や河を飲み込んでしまう魔王として登場。
このあたりはインドの魔牛ないし聖牛との関連もみえそうですが、モンゴルは後にチベット仏教の影響を受けるのでその影響のありようがまたむずかしいところ。
ちなみに、モンゴルの始祖は馬とは関係なく狼、突厥(後にトルコの人々となる)や柔然も始祖は狼から生まれています。
また突厥神話では先祖はアルタイ山脈の南に住み鉄を生産して柔然に供給したとあります。

牛か馬か儀式そのものの内容によるけれど、その制令は高句麗避難民(AD668以降)の儀式?を禁止した可能性を要チェック(狩猟用動物の代わりに農耕用の牛を使って騒動になったなどもありえそうだし)。
加えて中国経由インド密教の牛頭が上乗りすれば、後には牛馬を大切にする祭りに変化するかもしれない。

伝承の場合は内容がどんどん変化するはずだから、伝承の源から現在に至る流れの背景をチェックしないと判断がむずかしい。
へたすると古伝書に書いてあるのでそれを再現して今に至るなんてのも混じってるかもしれないし(^^; これひとつでも相当の研究がいりそうですね。

かたばみ


[s_tan] :99/11/04、22:10

三苗にかぎらず、南の島からも、潮流に乗ってやってきて流れつくのが多かった場所では。。他にも流れつく場所はあったでしょうが。やはり同系統が同じ場所に集まるには分かりやすい目印が必要でしょう。
イザナギ・ナミ・アマテラスは、はっきり経歴が分かる祖先を祀る以前のぼんやりとした祖先神の始まりのような気がします。いくつかのぼんやりしたそれぞれの祖先を代表する為の。事大主義のはじまりかな。

濃尾の穴あき壺って、どんな形かな、子持に近いのかしら。

地名検索ソフトは面白いですね。細かく見るに地名の年代を追及したりすると際限もないですね、調べることが。。
鵜は全国に散在。富山に、鵜坂、鵜川ですか、お手数おかけしました。茅は、神武の茅渟で関西の地図をみましたが結構あったです。走り回ると河川に限らず、昔大きな池、今、沼みたいな所とか休耕田とかに多いです。茅・葦はどちらかというと褐鉄鉱との関連で探したのですが。。

秦と地名といえば、名前が2文字になってからも「秦」と「漢・あや」は1文字で続くのですね。「ハタ」は全国に散在、「アヤ」は全国要所、ですか。
「ハタ」と読むのは、半島のパタの地名・機織・とか云われてますね。

大阪生駒の西麓からも馬の埋葬がいくつか出ていますが、供えとしての埋葬と愛馬としての埋葬例がみられるようです。骨格からすると小型でモンゴル系らしい。この生駒西麓はアノ鏃のささった人骨もでたところです。
この馬の埋葬の後に牛のそれが見られる。牛を奉納して生かして飼うというのはつい最近まで見られたようです。
祭祀は、殷にかぎらず大事なものを供えるのではと思うですが。まあ藤原の鹿は牧があったり大事にされたようですが。。馬は脚を折ったりして動けなくなると死ぬので、愛馬を泣く泣く埋葬することが祭祀として発展した可能性も十分あるですね。

>(かえって沿海州経由で西日本より早くダイレクトに東北に馬文化がはいる可能性を要チェックです)
#ですね。科野とか東国の馬が珍重されたのも地形だけでなく育てるノウハウの蓄積も大事ですから。

二荒山と赤城ですが、蛇と百足というのは、鉄と銅の比喩というのがあった。製造過程の残滓のカタチが蛇と百足に似るということで。




[かたばみ] :99/11/09、23:15、woodsorrel

漂着物の多い場所、初期の人々もやはりそこに着いたでしょうね。
土佐、紀州、浜松、伊豆・・ひかっかりやすい場所(^^; 
アマテラス神は男神であるという説が少なからずありますけど、アマテラス神が縄文文化と三苗文化の融合によって誕生したのは間違いなかろうと思っています。
その両親である奥様の伊弉冉神は縄文系?、旦那の伊弉諾神は南海系?
(推定BC4000頃、照葉樹林系縄文文化が広まる頃・・)
ま、ここまで遡ると個人ではなく文化の結婚が神々の結婚という形になって伝承されるんじゃないかな。

アマテラス神もまた本質は文化であって、それを具象化する必要があったときその時代々々での適切な対象や場所で置き換えられたのではなかろうか。
ウエツフミの流れであれば九州を中心に山陰も含まれる、ホツマツタエの流れであれば太平洋岸を中心として日本海側はやや薄くなる。記紀の流れであれば近畿が中心(^^;
伝承の源自体ですでに地方色を持って単一ではないわけです。
ましかし、アマテラス神や伊弉諾伊弉冉神などの古い神々は「異伝」の記述の方が流れとしても神話としても自然なような気がする(^^;
たくさんあるのは「ハタ」ではなくて「畑」です。畑以外の文字のハタはうんと少ないんです。
また、畑は数は多いのだけれど全国に散在するのではなくはっきりした偏在を示します。
これだけ数が多いと国字としての畑が作られた時にハタケの意ではない漢字だった「ハタ」が畑に置き換えられた可能性は少ないと思うのです(ちなみにハタ・ケは貴いハタという意味を持つ可能性あり)。
機織りでのハタもあるかもしれないけど、ハタケが普遍的なものであるのと比べるとちょっと弱いと思う。
もちろんハタという言葉そのものは半島からきた可能性は少なからずだけれど。

秋田や岩手にも「畑」が偏在していることが興味深い。
これは秋田や岩手の弥生前期(BC250±100頃)の遺跡から九州遠賀川形式の土器や石包丁がでており、やはり弥生前期の水田跡とみられる遺跡(北上川上流の滝沢村湯船沢遺跡)があることと無関係ではないと思います。
(ただし、秋田や岩手でも南と北では様相が違います)
後の蝦夷もこれに関わるのではなかろうか。さらに下って奥州藤原三代の祖先とは・・
東北の水田がしばらく衰微するのは出雲の衰微と連動するのではないのか・・
出雲の王はスサノオとその後裔だと思いますが、一般平民は半島各地からスサノオよりずっと早くからやってきていた人々で東北縄文の人々とも盛んに交流していたんじゃないかな。
日本海側でも島根、能登、男鹿といった半島部分は「ひっかかりやすい」部分だと思う。

濃尾の穴あき壺は保育社の日本の古代遺跡/愛知の写真を見ただけですが、[朝日遺跡] の朝日の土器群の写真の1枚にも尾張特有の土器として写ってます(保育社の写真とは違う壺だと思う)。
(なお、このHPでの年代表示は古い時代へシフトしたタイプの考え方によるものと思います)
クレタ(ミノア)の蛇用のは複雑な形状ですが、それとは違ってとっくり型の平凡な形で側面に壺の直径の半分近い丸い穴があけてあります。
保育社の写真からは人間が使う壺ではないように感じる・・弥生中期にしては造りが粗雑に見えるし。
そう、ペット用の食器(寝床)ならこの程度でよかろう、といったような造り(^^;;;

話がとんで
司馬遼太郎の街道をゆくで高知の幡田郡(ハタ)だったかな、ここの若衆組の話は興味深い。
理由は不明なれど司馬遼太郎は古代の南方文化ではないかといってます。
若衆組は防災など緊急時の行動ではムラオサをしのぐ権限を持つそうで、知識や経験のムラオサと実行力の若衆組という暗黙の分担があるようで合理的。

九州ヤマトで女帝と男王の並立が成立したとすればこれがベースにあったのではなかろうか。
若衆組は縄文が農耕化し女性上位となったとき生まれた行動様式ではなかろうか。
戦となった場合はむろん若衆が主役、だが戦を鎮める段階では女性が前にでる方がよい。
卑弥呼やずっと後の推古の登場はそのあたりの理由じゃないかなあ。

かたばみ


[s_tan]  :99/11/30、22:10

ご無沙汰しております。

古代、7c以前は、ぐちゃぐちゃの認識になってきてます^^; ワケワカランが続いていたのですが、このところ、事実がぐちゃぐちゃ、諸人・諸氏・諸族が、九州、大和に限らず国内の諸地域で、入り乱れて、が実態だったのだろう。と思いつつあるところ。

漂流レベルでの、ひっかかりやすい場所というのを、着いたという伝承が砂浜かそれ以外かである程度、時代を特定できる可能性があるですね。
伊奘冉・伊奘諾は個人の投影ではないでしょうね、しかし、8cか7cにどの程度ムカシを想定していたのかしら。各部族に伝わるモノを適当に繋いだのかな。

天照大神といえば、「テンショウダイジンと読むのが居る」というのが笑い話になっているが、間違いと決め付けるのは間違いかも。

東北での水田跡が古くて、その後形跡が無くなるのは東北では稲を選ばなかったというのが定説らしいですが、侵略して来た管理者が選ばなかった、というのも有るかもしれない。

濃尾の穴あき壺、hp「朝日遺跡」入ってみました。あれは調理の出来具合(途中経過)を確認する穴では^^。出来あがったら、穴の無い方から注ぐ。。穴に蓋をした痕跡などないかな^^。

TV街道をゆく、は時々見てます、ちょっと前に連続の特集があったですね。偶然・高知のそれも見てます。若衆組とか、半島の花郎などの流れではないかと言う説に傾いてますが、相模などでの左義長の期間内でされる、セエトバライとかアクマッパライなどでは子供にある種の特権(神性)と自治を与えています。近年(PTA以降)はだいぶヤワになっているようですが。一般に昔は6歳になるまで神の子との認識もあったらしい。京都、鴨・秦氏も朝廷に祭事専用の子供を送り込んでいた。などなど、子供についてはいろいろあるですね、子供の甕棺の埋葬位置とか花郎とか多くの流れが渾然としてるようです。

ムラオサといえば、老百姓とは名主のウエをいく位置だった。ほんの少し前まで老人・ご老体という言葉は尊敬を込めたモノだった。老人の意味が変わったのは、司馬遼太郎が日本という国に憤慨するようになった時期と一致しているのかも。

 stan



[かたばみ] :99/12/14、20:30、woodsorrel

「田、穴、海、星」

2世紀あたりとみられる「田」の墨書?のある土器がみつかったと新聞にでていた。
漢字の一般化は6世紀あたりからだから?であるという反論も載っていたけど、「一般化」というのがどういう意味なのかがむずかしい。
文字が祭祀者だけのものではなくなるという意味なら、おそらくは神武時代では一般化が始まっていたんじゃないかと思うな。

「田」の文字の本来は水田のことではなくて囲ってなにかをすることなんですね(狩りの意味も含むみたい)。
日本では「田」=水田だけど漢字には「水の田」を意味する単独文字がみあたらない。(圃は苗代の意のようです)
海と同じく「田」は中国の非水田文化の地域で作られた文字だからだと思います。

タの読みも訓読だから漢字系の発音じゃないはず。ハ・タ・ケに分解できるのかな。(このあたりはハングル以前の朝鮮半東で「田」の文字がどう使われていたか知りたいところです)
わざわざ火を加えて水田ではない意味の「畑」の国字を作ったとするなら、日本で「田」の文字が使われ始めたときには水田が農耕の代表になっていたからだろうな。

当然ながら火+田は焼き畑のイメージだろうと思うけど、だとすると九州に「畑」が少ないのはなぜなのか・・
BCゼロ付近の天孫系譜や出雲系譜とAD250以降の近畿ヤマト王朝系譜での文化の流れ(文字の流れ)の秘密がこんなところにも隠されているんじゃなかろうか。

穴あき壺、無難には料理用かな。大胆には蛇用(^^;
普通の壺を作ってから穴をくりぬいて焼いたんだろうな。
専用の「容器」を別途に作るほどのことではなく、普通の壺の製造工程流用で十分な用途・・ということだと思います。

ちと話が飛ぶけれど、出雲の美保神社の諸手船(モロタブネ)は2隻がペアになってるのが興味深い。
双胴船として使われた名残じゃないかと思っています。諸手とは2艘が連結されて使われたことを意味するんじゃないかな(原型は南海系ないし三苗系の快速双胴船)。
紀州熊野速玉神社にも諸手船があるけれど、こちらはずっと後の近畿ヤマト以降の唐時代の形式。あるいはさらに下って九鬼水軍あたりでの板張り船の姿を写したものかな。

で、穴あき壺はずばり暖房用具ではなかろうか。中にタドンとか炭火をいれて暖める。使う場所は海です。
諸手船あるいは天の鳩船で冬の海を暖なしで航海するのはきびしいと思う。
穴あき壺は大型カイロ、海炉(^^;・・船で火鉢として使うのにうまい形じゃないかしらん。
濃尾からしかでていないというのがちょい弱いけれど、冬だから連絡船は出せないなどといっていられない状況の時代の産物というわけです。

具体的にはAD50前後の九州での対神武激戦時代ないしはAD150前後の四国瀬戸内防戦時代。
大国主命が事代主に使いを出したのが冬だったのなら、その使者はこの壺で手を暖めながら船をこいだのではなかろうか。
こぐだけではなく帆(幡)も使ったのではなかろうか(想像図を描いてるところ(^^;)。

伊弉諾神の淡路との関連は近畿ヤマト王朝の「近い過去」の伝承が遙かに古い普遍的な伊弉諾伊弉冉伝承に上乗せされて生じたものじゃないかと思っています。
これらは近畿ヤマト王朝の「新興神話」だが王朝の援護あるゆえに後まで濃く存続されたというわけです。
天照大神も本来は海照大神だっただろうと思ってます。(天照となってからもテンテルと読むのはやっぱりまずい(^^;;;)
天の橋船や天の鳩船なども海の橋船や海の鳩船だったのが天に置き換えられたものだろうと考えています。

千葉の漁村でカノープス(竜骨座、シリウスに次ぐ明るい星)が見えると亡霊がでるので出漁を控えるといった伝承があるとTVでやってました(なぜ亡霊なのかが興味津々のところです)。
でもその伝承を知っているのはご老体ひとりのみ。現役の漁師は知らなくなってる。
わずか数世代でかっての経験ないしは伝承が失われるとすれば、古代の海洋技術も同様にごく短期間で失われたのかもしれない。

カノープス:めら星、これ米良氏と関係あるんじゃないかな。
南方中国で重要とされ後の道教では南極老人や七福神の福寿老人など。
日本で見えるのは南に海の広がる地域、関東以南の太平洋岸。
九州宮崎の米良庄など藤原の一族が当地で米良を名乗ったから米良の地名となったとされるらしいけれど、ではなぜ米良を名乗ったのか。
それらの地に遙か昔からカノープスの意識があったからではなかろうか。
大国主命のみた海から浮いてきたという幸魂奇魂は水平線上におぼろにゆらめきながら浮かぶカノープスだったのかもしれない。長江以南、少彦名の故郷の星か・・

これに相対する星は天狼星シリウス。エジプトではこちらが重要な星になってますね。
ナイルの氾濫時期を読むのに都合がよかったからか、南が陸地でカノープスが見えにくい地形だったからか。
もっと北のギリシャではカノープスが神話に登場する。南が海でよく見えたからだろうと思います。

かたばみ


[s_tan]  :99/12/17、22:50

>漢字の一般化は6世紀あたりからだから?であるという反論も載っていたけど、「一般化」というのがどういう意味なのかがむずかしい。
#そうですね、この「一般化」の意味が。。量というか広がりと言うかですが、7世紀に民の収奪方法が広がり固まった律令で税を集め管理する役人が増えた時期からとするのが「一般化」でしょう。これ以前の地域での使用となると、これは大陸とか半島の漢字の使用時代とそれほどの差は無い様に思います。

「ハ・タ・ケ」は「ハ・タ・饌」かな、ハは「ハハキ」「ハハカ」「ハハソ」で歯、母などのつながりが気になっている。
以前話題になった「ハハカ」はどうも実のなる木で、京都南部に残る神社の森は「ハハソ」と呼ばれクヌギ・ナラなど硬い皮のある実のなる木の森。すると「ハハカ」の「カ」はその後「果実」になった「カ」で皮ごと食べられる実のなる木。「ハハソ」は皮を剥いたり加工しないと食べられない実、「ソ」は加工前で「素」につながるのかなぁ。これでいくと「タ」は「多」とするとつながりが良くなるですが。
「タ」については、丹波は古く「タニハ」と言い「田庭」ではないかとする説もあるようです。

「畑」が西日本に少なく東北に多いのは、明治以前まで焼畑が継続されていたからでしょう。漢字が普及(一般の民でなく地方の管理者まで)する時代には西日本は効率の良い水田に変わっていた。
列島の気候が600年サイクルで寒冷化しているとすれば、江戸末期(維新)、平安末(将門)、ときてその前は6c継体26。でその前は奴国王あたり。で、このそれぞれの中間に東北での水田の拡大があったのではないだろうか。

穴あき壺は、内部での燃焼、煮炊きの痕跡などの有無をメールで確認した方が早いかも。。
伊勢湾での船の利用、頻度などを考えると十分ありそう、携帯暖房。
祭祀用とすれば、邪霊(蛇霊)を閉じ込めるというのが壺の一般的ながれだから、それに反する祭祀なのかも。

双胴船に限らず、帆も含めて今の我々が思いつくような事はすべてあったと思います、フネ。

カノープスは千葉辺りからだと、ほぼ水平線ギリギリ、海の近くがはっきり見えるにはなにかの天候不順と連動していて、それが出漁を見合わせる伝承になったのでは。。千葉の海岸は縄文のフネの出土がやたら多いですね。
そういえば伊豆の西海岸にも妻良(メラ)がありますね。



[かたばみ] :99/12/23、22:00、woodsorrel

南米の縄文人

ひいさん、こんにちは。
スケールのでかい空想で楽しいですね(^^)
エクアドルのバルビディア(人、土器)あたりを題材にした番組だろうと思いますが、本当かどうかはまだなんともいえないと思います。そういう可能性もあるという段階だと思います。

南米の縄文人あるいは縄文土器の関係といったことを書いている本に「海の古代史・黒潮と魏志倭人伝の真実」/古田武彦著/原書房 があります。
エクアドル土器の研究者との話をベースにした内容で、DNAや固有ウイルスの分布といった話もあります。

また「海を越えた縄文人」/テレビ東京編/詳伝社 も類似の話の本で仲代達矢が出演。TV番組はひょっとしてこれかなあ。
ここではカヌー(canoe)=枯野かもしれないとありますが私も賛成です。
(枯野:書紀の応神紀、古事記の仁徳項で登場する快速船の名)
なお、catamaran(双胴船)はインドのタミル語では木材をつなぎ合わせる意味でイカダとも関係ありそうです。
少し固い内容になりますが「海の道・海の民」大林太良著/小学館あたりも参考になると思います。

で、自説ではどうかというと(^^;
ウルム氷河期が終わってBC1万5千頃、寒冷に適応した陸型の人々と温暖適応の海型の人々がいた。
縄文文化(縄文人)は日本でその二つが合流して生まれたものと考えています。BC1万2千年頃です。

BC1万6千の土器破片についてはありえると思いますが、物証的にはまだ非力だと思います。
ただし土器を工夫するのは北の人の方が早いかもしれません。
寒い冬はなんといっても鍋料理、熱いスープを作れる道具がほしい、必要は発明の母というわけです。
交流があればこっちの土器があっちにあってもおかしくないし、北の方が土器は先進とすれば南の人がそれを輸入したかもしれないですね。

寒冷型の人々はベーリング海峡横断で北米へも移動し、北米インディアンの祖先となる・・
で、南米へ渡った人々がいたとすれば温暖型の南の海洋民が航海術を発達させてポリネシア経由で大航海をおこなったんじゃないかなあ。
大昔の地形で描かれている南極大陸の古地図の謎、なんてのもありますね。

DNAとかウイルスといっても大きな流れのうちの一部のデータで、流れ全体を把握できる状況にまでは至っていないと思うので、縄文人はそういう人々を一方の祖先に持つ人々ではあるが、大航海をしたのも縄文人であるとするのは早計だと思っています。
それはおいておいて、メキシコのマヤ文明は北回りの人々と南回りの人々の合流地点なのかも・・(^^;
異文化の接触地域=新文化の発達地域というわけで、縄文より距離が遠いぶん遅れて誕生というわけです。

かたばみ


[s_tan] :00/3/19、03:00、

第8章、スサノオ
待ってました。
この辺りになると、雑談もひろがりそうです、曖昧模糊から少し出て朧気ながら形が見え始める時期かな。色々な推論ができおそらくどれも可能性アリという時代、何を何処を主流と考えるかが“あそび”のおもしろいところでしょう。

でわ、新しい?時代の雑談(雑談ゆえ校正なしで^^;)

>人間の思惑によって歴史が動き10年単位で状況が激変する時代です。
>にもかかわらず当時の記録はゼロで出土物の年代推定は100年単位です。

#地区別には10年と言わず1日で代る可能性の高い時期ですね。2、3年で景色も変る状況でしょうか。

>信州諏訪付近に神々の戦の伝承が残っていますが、BC100以降に特殊な目的をもつ海運者が入り込んで発生した事件で、これが信州の山奥に海運者の拠点のできるきっかけになります

#この諏訪へ入りこんだ海運者、何処からの人種(族)と思いますか。
諏訪の古代と言うと、諏訪海の時代、南甲府近くの水煙文土器。北のヒスイと須坂市での初期古墳からゴウホラガイ貝輪。松本盆地・塩尻辺りまでの弥生土器。西からの前方後円墳が塩尻辺りで一旦停まりその後諏訪へ進出。
諏訪社での伝承では、古いと思われる鹿が気になるところで、蛙にちなむ神事は前・後3本足なのかどうか、それにからむ御射(ミシャ)が縄文の祭礼弓までつながるのかどうか。。
ヒスイといえば縄文以降途絶えた後、古墳前期(ad200?前)と思える沼河比売の伝は大門峠から八ヶ岳西麓を通り上社前宮に着いたらしい。
鉄でいえば、野焼の発展型までの時代と、炉、フイゴの区分でしょうか。諏訪は水脈河川の集る湖沼地形で、結構古くまで古い製鉄(精錬)が残ってした地域だと思いますが、BC100というと風に頼る炉の時代になるかな?

>これは後漢書の完成がAD432であり、そのころには半島南部に倭と見なせる部分がなくなって韓になっていたことを示すと見ます(魏志はAD290頃の完成)。

#同感。箕子が半島付根から南端へ、で列島へ。。似たような状況はいくつかの一族にあったと思いますが、やはり箕子が大きいかな。

>余談ですが信州の諏訪の地名は山口の佐波、周防あたりが出雲時代に運ばれたものではないかという気がしています。諏訪は諏方、周方、洲波とも書くようです。

#又方とか須波というのもあって、須波は筑波(着く波)と一緒で諏訪海の波からだろうか。。 スワッ一大事!ってのも

>遣将軍衛温、諸葛直将甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中、長老伝言秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海、求蓬莱神山及仙薬、止此洲不還。世相承有数萬家、其上人民時有至会稽貨布・・・所在絶遠、卒不可得至、但得夷洲数千人還。

#徐福といえば、始皇帝の兵馬桶でさえ記述しない司馬遷が「費多」と記載するのは国家的大プロジェクトに匹敵する事業でしょう。徐福の船団は総勢万を超えていたでしょう。
・・・但得夷洲数千人還。この辺りは、数千人戻ったというのと、夷州より捕虜数千人連れて帰った、という解釈があるようです、が、翌年2将軍が処刑されていることから、万の兵士を送りこみ、その半分以上は雲隠れし、実目的である亶洲の情報は殆ど得られなかった、と言うのが実態だったのでしょう。

徐福一団が渡航準備の為、訓練した場所が街になっていたとか、2度(3度)渡航して弓など武器も搭載したとか、済州島・南海島に徐福の通過伝承とかあって到着伝承は殆ど列島。
船団員への周知徹底は、秦から追手に備え緘口令(漢字・文字の不使用など)、遠くへ、散ばる、など当然あったでしょう。
船団員であるための後日の確認が、記に残る「神宝の見せ合い」なのかも。

漢書・地理志の「東{魚是}人」はad100前後定期的に朝貢していたとか、呉地、倭人、より遠い場所に住んでいたのは間違いない、東で遠くというと。。{魚是}は小さいから、遠い・端の意もある)
列島での徐福の話しは、東テイ人の頃、朝廷に威の無い平安後・江戸期(白石など)が盛んで。朝廷に威のある、遣O使の頃は皇帝の質問にも答えず。。明治以降の現在も。。
邪馬台国論争に較べ、資料もスケールもロマンも遥かにしのぐと思いますが。
邪馬台国を騒いでも「さしさわり」はないが、徐福はちとあるのかしら。

穀壁といえば、有明海から串木野の九州西岸にかけて徐福(徐市)が来たという伝承が多いですね、市来なんて地名も内側にあるし。
縄文終りから弥生始めにかけて、列島への人口流入は2割から5割を超えるという試算もありますね。

余談(さらにの)
船といえば、遣唐使の頃の船を「常陸風土記」だったかで、「あんな底の平たい船で行くなんてバッカじゃなかろか」なんて記述があります。常陸利根川辺りにはお上と違う歴史を持つ海の民が居たようです。流れは、オウ氏か。。イムベかも。。




[かたばみ] :00/3/21、22:30、woodsorrel

[信州の弥生]

蛙は縄文土器にあるみたい。
信州からは遮光器土偶類似がでてる。頭部だけだけど遮光器を口のあたりに下げていて目は普通の位置にある。サングラスをちょい押し下げてなにかを見てるといった様子で面白い。
東北縄文と交流があったということですね。ま、信州の縄文土器はとにかく迫力がある。

(ミ)シャグチは赤蛇信仰という説に賛同したいところです。人身御供(生け贄)を伴ってるはずで、八岐大蛇の生け贄イメージとの関連にも注目したいです。

信州への弥生土器の流入は天竜川系と千曲川系のふたつの流れがあるようです。

千曲川系への弥生文化流入は直江津から野尻湖経由で千曲川だろうな。
弥生後期(AD50〜200あたり)の長野市付近からは全身真っ赤に塗られた土器がでる(酸化鉄)。稲作祭祀用とされるようです。卜占に使った線刻のある鹿の肩胛骨?もでているようです。
銅鐸が発見されていないので、千曲川流域は第二次倭国争乱で中立の立場を維持できたってことかな。

この一帯からは日本最古の土器とされた土器もでてる。
縄文土器と弥生土器の切り替わりも連続的で古墳時代に至る土器まで継続してるようです。西日本の戦乱とは無縁のようで、1万年にわたる桃源郷があったとすればここがそれじゃなかろうか。サケマスと狩猟と木の実と稲作のバランスがそれを支えたんだと思う。

ここへ弥生文化が伝わったのはスサノオ以前でアマテラス系の海運者だと思う。九州北部とさほど変わらない時期に稲作が始まったんじゃなかろうか。後には出雲文化が流れ込むはずだけど出雲に服属はしていないようにみえる。

弥生後期では石器の出土が少なく、農工具のほとんどが鉄器だったと推定されています。鉄製の腕輪がでるということは鉄にゆとりがあった、ということでもあります。その鉄はどこから入手したのか。
出雲勢力はのどから手がでるほど鉄がほしいはずで、装飾品に鉄を使うゆとりがあるとは思えない。九州勢力も同じくで輸入品だからこっちからもはいらないだろうなあ。

AD50〜100頃に出雲の「探索者」が千曲川流域の「謎の鉄」に気がついた・・
これについては別項で若干。

伊那の飯田市付近からは遠賀川形式の甕棺がでてる。BC150前後といったところらしい。鯨面土器もでています。
「天竜上り」で北上したグループ、微妙な年代なんだけどこちらもアマテラス系の海運者だろうと思います。
濃尾や東海、さらには伊豆あたりまで開発中というわけ。(ホツマツタエでの瓊々杵の恋物語の伝承もこのころ(^^;)
穴あき壺は山梨からもでてるようですが、この時代にもあったかどうか。

飯田付近の出土物には濃尾の朝日遺跡との共通項もあるようで、戦闘用と思える石器もでているからこちらは第二次倭国争乱の渦に巻き込まれた地域。千曲川系文化と天竜系文化の接点は松本周辺です。

BC100あたりから各地で銅と錫の鉱石の探索が始まっています。生産が増大していた青銅用です。安曇氏の祖先も銅の探索者のひとり。海運者というのは山師でもあったわけです(^^; ま、当時の海運者の生業は現代の商社のイメージじゃないかな。

日本海側からも探索者がはいったはずだけど諏訪で戦になったのは濃尾側からはいった海運者。諏訪湖付近に拠点を確保。一応安曇氏としておきます。AD60頃、安曇氏はアマテラス系譜の一員として国譲り後のタケミナカタの身柄預かり人となった。

話飛んで
、河内の池上曽根遺跡BC52からは大量の石の槍先と石剣がでています。
青銅はBC100には大量生産がはじまっているから、旧式武器が破棄されたものではないかと思います。
だとするなら200本の槍は兵士の数を示すんじゃないかな(剣はすでに大半が青銅になってる)。

芋蔓式に膨らませて・・人口の0.5〜1%が兵士だとして池上の総人口は2〜4万。次々に膨らませれば当時の出雲王朝の総人口は15万あたり。九州勢力は10万、四国で数万・・拮抗状態(^^;

濃尾東海は5万以上か、濃尾がどちら側になるかで国力に大きな差がつく。海路のみの九州勢には圧倒的に不利です、濃尾はAD100あたりに出雲に併合されます。
塩尻からは三遠式に類似の銅鐸が出土してるから少なくとも松本周辺も出雲領土になった。出雲全盛時代、だが第二次倭国争乱の始まりでもあります。

諏訪の安曇氏の周囲はみんな出雲になって屋敷にはタケミナカタの子孫がいる、デリケートな立場だなあ(^^; ましかし100年もたてばどちらも人数の多い側(縄文的)の文化に染まっていたと思います。
タケミナカタだけが出雲の八百万神の集会に出席しないのは幽閉という約束を守っていた、ということなんでしょうね。

長くなったので徐福などについてはまた後ほど。
実は穀壁以外にもうひとつ痕跡があるのです、より考古学的な2重の痕跡が・・(^^)

かたばみ


[かたばみ] :00/3/21、22:35、woodsorrel

[弥生の鉄]

もっと先での空想だけど鉄について若干。

千曲川流域の鉄は東北の餅鉄だった・・高純度の自然鉄の塊。
縄文時代から黒曜石などの交易品に混じって岩手から運ばれてきていたんじゃないかな。鉄製品に加工されてはいなかったけれど珍しい石ということで装飾品に使われていた。出雲の探索者はこれを発見、ただちに大部隊が海路にて東北へ向かった。 AD50〜100頃か。

当時の探索者が探していたのは銅と錫の鉱床。鉄鉱石も砂鉄も製鉄ができなければただの石ころと砂(^^; だが千曲川の鉄は違った。

近畿の石鏃(セキゾク、ヤジリ)はAD100頃に急速に鉄鏃に変化してる。
鏃は鉄でなくてもいいし使い捨てです。大量の鉄が入手できるようになったからだと思う。(しかし農耕具は旧態のままどころか退化さえしています)
斧など工具も鉄製になってるようですが軍事用だろうな。遺跡発掘者の印象ではあっというまに切り替わっているのだそうです。年代の±10年の誤差がほしい。

九州ではBC100あたりから鉄テイ(金+廷、厚さ数ミリの板状製品)を折り曲げて道具を作る手法が登場します。日本独自の手法、折り紙のはじまり(^^;
古墳時代にもこの手法が継続し近畿や東日本にも登場するから、九州勢力の手法なのは間違いない。鉄を柔らかくはできたが溶かすことはできなかった、ということでもある。

弥生の兵庫出土の鉄斧は九州のように折り曲げたものではないことに注目です。
兵庫の斧は塊を叩きつぶして平らにしたように見える。一種の鍛造(こちらも溶かしてはいないと思う)。
朝鮮半島経由の鉄であれば九州と同じ規格の板状であるはず、その鉄ではない。

砂鉄を使う箱形製鉄はインド発で東南アジアや長江系の製鉄法です。
対して邯鄲など中国北部の製鉄法は西アジア経由の筒型炉で鉄鉱石を使う。
古墳時代に日本海沿岸に製鉄炉遺跡がでますが筒型炉で、北方経由と思う(韓の製鉄法)。
九州の製鉄炉は長江経由とみられる砂鉄系で、後にタタラの原型になる(倭の製鉄法)。

韓鍛冶と倭鍛冶は製鉄法の違いによる区分が源である、ということ。
倭人とはなにかにもつながるのですが、半島南岸も倭でありその祖先は三苗だというのがまたまたでてくる(^^;
AD450頃の半島南岸情勢はいろいろ複雑ですが、おおざっぱに北方系譜が韓、沿岸が倭系譜。
両方の製鉄法が日本にやってきた。
韓にちなむのはむろんかっての出雲で日本海側、倭にちなむのは九州です。
これで大和王朝の製鉄方式の変遷が納得できるんだなあ(^^)

朝鮮半島で製鉄がいつごろ始まったかよくわかりませんが、高句麗勢力が南進した時代に北方型製鉄法がもたらされたと思う。AD300以降かな。
後漢時代では長江系も北方系も製鉄法は門外不出の極秘でしょう。
製品のみが交易品として出回っていた。日本へは山東半島→朝鮮半島南岸経由です。
(鉄テイの成分分析はほとんどが長江系の鉄、そうでないものは邯鄲など北方系の鉄でしょう)
製鉄技術が周囲に拡散するのは後漢が滅亡しAD250の三国時代以降だと見ます。

日本の製鉄開始は神功と応神がきっかけを作り(伽耶の鉄鉱石など)、実行したのは仁徳vs応神等の内乱(^^;が収まってからの雄略だと思う。ちなみに須恵器の登場もほとんど同時期だと思います。
出雲の砂鉄に目が向けられるのはこれ以降で、弥生時代では出雲と砂鉄は無関係でしょう。

もし弥生時代に鉄鉱石や砂鉄からの製鉄技術があったなら日本独自の製鉄技術ということでとてつもなくたいへんなことだと思う。それが実用可能ということならぜひとも実証実験をすべきだと思います。
弥生出雲の鉄は東北の餅鉄(自然鉄)だと思う。加熱して叩くだけで鉄製品になった。それを発見するだけでもたいへんなことだけど。(他にも純度は落ちるけれど関東の鬼板、琵琶湖の湖成鉄などの自然鉄があるようです)

男鹿半島あたりへ上陸した人々は釜石から餅鉄を採取して出雲へ輸送した。AD100頃。
大半が海運者だと思います。周辺地域へも大勢の探索の人々が展開しただろうな。
東北の稲作開始、蝦夷誕生、アイヌの祖先の圧迫、北海道の続縄文の始まり、それらの源。

餅鉄は釜石でいまでもみつかるようですが、出雲時代にほとんど取り尽くされたのではないかな。
釜石の中学校だったかなあ、生徒が実験したところ鉄が作れたそうです、うろおぼえだけど。
餅鉄と古典的鍛冶場さえあれば実験できるんじゃないかな。

かたばみ

 
[s_tan] :00/3/30、23:50、

[信州・諏訪・御射]

諏訪というと、千曲川・犀川(長野)−信濃川−寺泊(弥彦山)の流れと、塩尻−松本−高瀬川−姫川−糸魚川市の流れが気になるところ。
これに太平洋岸からの天竜川、富士山・富士川−甲府−諏訪。
この2つが南北2大ルート、後に木曽川が加わった、かな。
諏訪大社の系図は、その出自を「阿蘇氏」としてます。阿蘇氏といえば、神武の子・神八井耳を祖として九州阿蘇で武蔵国にも痕跡があり、この辺りであそぶと相当時間をつぶせそう。res書き始めたら諏訪で寄り道ばかり後ほどまた。で断片res。

< 蛙 >
 蛙は縄文の東北・日本海から、大陸の月にいる再生の象徴(夏と恐らく殷)、再度列島の古墳、奈良以前までつながる様です。
蛙の足は普通前足3本、後ろ4本の足が前後とも3本。どうもこの後足3本は祭祀の対象か祭祀に使われていた様子で、それも痕跡からすると大陸よりも列島の縄文が古いのでは、と考えても可能性はありそう。

<ミシャグジ>
 ミシャグチはミサグチとかも書かれますが、どうも地元の発音からミシャグジが表示としては良いようです。
ミシャグジ神の位置付けは、末社というか税を獲る地区単位の地元の神それぞれがミシャグジ神で総称の様子、あるいはソレ以前の統治者かも。
諏訪上社・下社それぞれに元宮・奥宮に近い待遇を受ける「御射山(みさやま)」をもつが、上社・下社の治める地区が分れていた時代のなごりが2つの御射山と思われる。上社の御射山は社殿の裏(西)に、下社の御射山は霧ケ峰山中にある。

<天竜川> 飯田市辺りまでと、その先(北)は勢力の境界だった時期がありそう。ミシャグジに絡む上社の外県御立座(そとあがたみたてまし)神事は有賀峠を通り辰野町・箕輪町・伊那市のほぼ北半分で行われて来た様子。
小野・矢彦神社がある辰野町北から平出遺跡のある塩尻市は暫く違う勢力で、天竜川が諏訪湖から流れ出る辺りで守矢神が明神に破れたとの話がある。この後、守矢氏は統治でなく神職専念となった様子。
この守矢神が明神に破れた時期が諏訪の鉄生産が変った時期になるのだろう。

アマテラス系海運者の諏訪移住時期と勢力範囲の変遷など遺跡・出土品の時系列マッピング面白そう。やはり10年以上の誤差だとつらいものがありますね。
さらに最近は稲(炭化米)のDNA分析で弥生の米は熱帯ジャポニカが殆ど、という話だし。記紀もその辺の伝承と同程度の位置に置く必要があるかも、ま、紀については古人も結構多くが“まゆつば”といっているから。。式部でしたか清少納言だった?

<出雲>
 松江市の小山(古墳)から大量の鉄鏃が発見されて戦いの痕跡が認められる条件がプラスされた様子。四隅突出墳の草創期と重なる時代らしいが、この程度の戦いは列島至る所であったと考える方が自然ではないだろうか。
古墳期以降の出雲・玉造も製品としての「玉」は出雲より出土してなく「つくり」を命じた主体はヤマトにあった。
縄文の姫川近辺の「玉」も製品の出土は殆ど無く、古墳初期(?)も工房跡・半製品の出土はあるが完成品は無い。この「つくり」を指示した主体の場所もかなり遊べそう。

<餅鉄> 自然鉄は湖沼などの葦類の多い場所では出きるようで、獲り尽くされるまでは列島のかなり広範囲にあったと考えられているようです。うろ覚えですが豊橋から浜名湖にかけてとか。金ヘンの地名のほか「麻」などの地名もその痕跡が見つかることが多いとか。

1977年秋、釜石市立釜石西中学の生徒と新沼鉄夫など先生。校庭の裏を流れる甲子川の浅瀬から「もち鉄」を採取、校庭に小さな炉をつくり、5時間半ほどで12.5kgの還元鉄(鉱滓1k)を得、後で鍛造して蕨手刀を造った。

 stan


[かたばみ]、00/4/1、22:00、woodsorrel

<弥生いろいろと稲>

曖昧模糊のほうが自由に動けて楽だけど、とっかかりがないと動きにくくもありますね。
しかし文献や具体的データが散在しはじめると知らないこともうんと増えるからなあ。
8,9章含めて以後はころころ修正するかもしれません(^^;

新古墳発見、相も変わらずこれぞ邪馬台国の証拠だなんてのが新聞に出てますね。
最古の王朝が近畿であってほしいなら出雲王朝が数百年も前からそこにあるのになあ(^^;

以下はとりあえず前の雑談コメントの続き(8、9章の補足兼用(^^;)。

≫箕子が半島付根から南端へ、で列島へ。。似たような状況はいくつかの一族にあったと思いますが、やはり箕子が大きいかな。

可能性の積み重ねでしかないけど、これをやらないと進めない、つながらない(^^;
原文を読んでないけど桓檀古記に、燕が番韓を攻めたとき「須叟国」の箕ショウ王(言+羽)が番韓を救援。
番韓王が死んだので箕ショウ王が番韓の王となった。その5代後が箕準王のようです。
桓檀古記本体は近代の編纂だけど、須叟国の国名がどういう資料によって書かれたのか。
スソウ国・・スソウの王(^^;

スサノオを暴風の神とすることがあるけれど、箕伯もまた風神とされている・・
三国史記の新羅本紀のBC57の赫居世以前の話に、「朝鮮からやってきた人々」が6つの村を作っていたとあります。スサノオ一族の子孫の村かな、
気候的にBC100〜AD100あたりは温暖時代で中国や半島も飢饉や反乱の記録が少なくいい時代だったように見えます。

それぞれがおぼろではあるけれど1カ所に集まってくるように見える。
特定の事象に比重をおけば別の方向にもなるから、おぼろな情報をどう捉えるかですね。
ま、事実は小説より奇なり。どんでん返しはいくらでもありそう。

総合として「韓」がより北方の燕(鮮卑)や扶余などの騎馬系民族や戦争避難民に圧迫されて南下してゆき、南岸には三苗系譜がいる、といった状況。
考古学的にも箕子朝鮮の存在を考慮した論が出始めてますね。さらに一歩進めればスサノオ登場(^^;

アマテラスとスサノオ神話は東南アジアにある日月など兄弟(姉弟)紛争神話の投影といった考え方もあるようですが部分だけ見ればそうでも、全体の流れからは歴史の投影だと思う。
ちなみに天の岩戸隠れと日食の関係なんだけど、これで年代を判断するのは無理みたい。
プラネタリウムソフトで再現してみるとおおよそ10〜20年単位で頻繁に発生してる。
後漢書にも日食の記録は頻繁です。
物差しの詳細目盛りの修正には絶好だけれど、日本では物差しそのものがないので役に立たない。
岩戸隠れ神話のイメージづくりに利用されているだろう、程度と見ました。


朝鮮半島と沿海州と九州山陰の混血は1:1:1に近いんじゃないかな。
三苗がその間にはさまって双方への文化的影響が大きいのがいろいろ複雑になるところ。
沿海州の避難民には後の粛慎といった人々が含まれるはずで時期が早いぶん影響も広範囲だと思う。
東北に混じった人々もいるかもしれない。沿海州沿岸の人々の船の技、どういったものだったのか。

交流の頻繁な地域では血は物理的に混合し拡散し平均化してゆく。
しかし文化はそうならない。
子の文化や意識は父系のそれが100%にもなるし母系のそれが100%にもなりえるわけです。
これが氏族の意識を作ると考えています。

「外国」で生活していればその外国文化になるかもしれないけれど、かえって「故郷」を強めることもある。
どうなるかはその子の育った環境とその子の意識が決める。
祖先は出雲でも、てやんでぇこちとら江戸っ子だい・・ともなる。
(3代江戸に住まないと江戸っ子と見なされない、まだ江戸文化に染まっていないと見なされる(^^;)

白人と黒人といった見かけの差が大きい場合はその影響も大きいと思うけれど、少なくとも弥生でそれはほとんどないと思う。
DNA技術が進歩してもその人間が持っていた文化や意識はわからないだろうな。

食文化は面白そう。とれたての新鮮な魚を食べてれば山育ちでも魚が好きになる・・環境が決めるかな。
といって納豆のごとく食べなくてもすむ食品ならずーっと食べず嫌いのままになるかも(^^;
江戸時代の味覚ですらわからないからなあ。

稲について若干・・
種子島に水田は少ないようですが宝満神社の御船田神田では赤米を栽培。
浦田神社ではその上から鵜草葺不合尊が「シロコメ」を蒔いたという伝承があるそうです。
新しい品種の稲が登場したと思えるたいへんに興味深い伝承です。

赤米は神社の栽培品種など特殊品種で、弥生の一般米は白かった可能性も十分あり。
このころ早くも小豆による着色が登場していたかも。

ちなみに宝満神社の赤米は熱帯ジャポニカ(大粒で背丈も高い)のようです。
熱帯ジャポニカの分布は台湾、フィリピン、タイ、アッサムのラインの南、BC4000あたりに「南海民」が照葉樹文化とともに運んだ。
これが日本の最古の栽培稲で、湿地帯でも陸でもOKといういい加減な栽培ができる品種のようです(^^;

ルートは柳田国男の西南諸島経由だろうな(考古学的な問題は省略)。
ただし晩生種なので寒冷地では栽培困難で祭祀者達だけが栽培を継承していた。

熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカ、早稲ジャポニカ(早稲は勝手につけた仮の名(^^;)といった区分をいかなる方法でやるかが問題になります。
同じ土俵でないとまずいのだけれど、それが決まっていない。

遺伝子Aはすべてに共通だが、温帯には遺伝子A1があり早稲にはA2がある、といった状況でどれを基準に分類するのかによっては、すべてが熱帯ともいえるしすべて違う品種ともいえるわけです。
(炭化米だと識別はさらに困難)
調べる遺伝子の選び方では東北にまで熱帯ジャポニカが存在するという結果にもなるようです。
これらの話は「稲のきた道」佐藤洋一郎著/裳華房を参照していますが、異なる最新データが登場すれば空想もまた変わります(^^;

中国の稲作はすでに河姆渡が最古ではなくなったようです。
もっと上流の洞庭湖周辺と淮水(淮河)上流周辺の方が河姆渡より千年ほど古いのが確定のようで、当時では黄河流域にも稲作が散在していたようです。
しかし時代が下ると黄河や淮水の稲は衰微して河姆渡に稲作の中心が移ったらしい。
(アジア稲作文化と日本/雄山閣)

洞庭湖や淮水の稲はここでの発祥なのか?(野生種が含まれている)
それとも東南アジアやアッサムから運ばれたのか?
はるかなるアフリカのニジェール川やペルーの稲との関係は?
古いとされていた説が再浮上。
考古学的新発見は考古学の頭痛の種でもありそう(ころころ説を変えないといけない(^^;)。

はしょりまして、河姆渡の稲は晩生種の温帯ジャポニカ、熱帯ジャポニカがより北に適合した品種なんだろうと思います。これは水田耕作のみで晩生種。
(インディカはジャポニカとは遠い関係なので無視できるようです)
温帯ジャポニカはBC2000以降に三苗によって水田技術とともに朝鮮半島や日本に運ばれる。
少彦名ががんばったんだけどこれも安定栽培はできなかった。

数百年の間この温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカがいっしょに栽培されていたが・・
あるときあるところで・・粒は小さいが安定収穫のできる品種が発見された(5章の赤米であります(^^;)。
熱帯にも温帯にもなかった早生という性質を持つ早稲ジャポニカの誕生。
これは実験栽培で確認されたようで、単品種栽培より混合栽培の方が新種誕生の確率は高いそうです。
(「稲のきた道」より)

日本にはBC4000以前から熱帯ジャポニカあり、ついでBC2000以降に温帯ジャポニカ登場。この二つの混合から早稲ジャポニカが誕生した。
東北でも寒くなる前に収穫できる米。太平洋岸でも台風の影響を受けにくい米・・日本に適合した稲。
歴史の織りなす綾だなあ。

熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカが共存する地域で早稲ジャポニカが生まれたのであれば・・
もし朝鮮半島に種子島のごとき熱帯ジャポニカの痕跡がないならば・・(要調査)
早稲ジャポニカは有明〜川内あたりで発見された可能性が大きいとみています。
ひょっとすると早稲ジャポニカは遼東半島あたりまで運ばれた可能性もある。

同時期に広まったとみえる麦(畑作)との関連もいろいろありそうですが、これらは10章あたりにて。

 かたばみ



[かたばみ]、00/4/1、22:00、woodsorrel

<徐福いろいろ>

この時代での最大のロマン?はやっぱり徐福かな。
年代がはっきりしているので扱いやすいし、推理を重ねて取捨選択を繰り返せば事実に近づくと思います。

ふたつめの痕跡は、知る人は知ってる種子島南端の砂丘にある広田遺跡。
2段に重なる埋葬遺跡です。
古い方の(下層の)埋葬跡からは殷のトウテツ文様そっくりの彫刻のある腕輪や貝札、勾玉状装飾品などが出土。
糸穴があるので身につけていたものとされます。戦国末期からAD100頃の装飾品らしい。
屈葬で弥生土器がいっしょにでています。「地元」の人々が「外国人」を埋葬したんだろうな。

その上層の埋葬跡からは下層と違って多数の貝札の明器(メイキ)が副葬されています(糸穴がない)。
骨は整然と並んでいるそうで、こちらは再葬風習によっているそうです。
明器は中国古代からの葬送風習で俑(例えば兵馬俑)と似た意味で、時代によって種類はいろいろ。

日本最古の文字とされた「山」が彫られた貝の明器もでています。
写真で見る限りでは彫刻刀(篆刻刀)で彫った文字のようにみえる。
こちらは三国時代(AD250頃)、孫権艦隊が戻らなかった時代のもの(^^)(^^;

上層と下層合計と思うけど総数113体。女性は42体。
2つの時代の墓みたいなんだけど、中間時代がないならば徐福検証からは非常に重要なところ(^^;
もし上層の墓に女性が含まれないなら・・軍艦に女は乗せない(^^; あいにく不明だけど。
一度見聞したい場所です。
450年の間に再葬風習と明器埋納風習が生じているわけで、ここだけの特異な埋葬遺跡のようです。
それを運んだ人々と文化とは・・

漢書(前漢書AD70頃の完成)には徐福伝承はでてこない。
三国志呉主伝の孫権の場合も長老の話によれば、という前置きつきでの登場。
三国志魏志倭人伝の最後(三国志最後の行)にこうあります。
使譯時通、記述随時、豈常也哉(アニツネナランヤ)
使者や通訳がときおり通る、その話を随時記録したが、内容の保証はできない・・・
どっすーん(^^;
ま、倭人伝は全体イメージとしてとらえておくのがよさそうです。

倭人伝には夷州や亶洲がでてこない。
魏から見た場合と呉から見た場合の記録は別なのかもしれないけれど、交易の可能性から見ても南西諸島が亶洲であろうと思います。
徐福関連としては薩摩大隅半島の沿岸も含まれるかもしれない。

伊豆七島の八丈以南からはパラオあたりの南海型の石器が出土しています。八丈以北では縄文系の石器が出土。
縄文時代にグアムサイパンを経て八丈までやってきた南の航海者が縄文と接触していたということ。
西南諸島でも類似でBC2000あたりが縄文進出のピークらしく、沖縄まで縄文土器南進。
以後寒冷化で縄文後退、高倉(亶?)の南方形式が奄美あたりまで北上。

台湾のイカダ(川用、極限の平底船?)が都合で海にでる場合にはビルジキールといっていいのかな、イカダの隙間から海中へ板をつきだして安定させていたようです。
知らぬは遣唐使の船ばかりなり(^^;

たいへんだと感じるのは大陸の陸上生活者からの観点で、縄文時代にパラオあたりから八丈島までやってくるような航海者の子孫なら東シナ海横断は赤信号を無視して渡る程度のところか(^^;
中国が本当の外洋航海にでるのは鄭和の超巨大船(宝船ホウセン)ですね。AD1410前後。
これはすごい、1490頃のバスコダガマの30m以下の船はボートにしかみえないなあ。
(全長200m以上、世界最大の木造船。ギネスに載ってるのかな)

周建国時代での夷の地域は山東半島だったが、斉が建国されてからは夷と呼ぶ人々の地域はもっと東に移動。
朝鮮半島南西岸、九州の東シナ海側の沿岸といった地域かな。
三国志呉主伝の時代では夷州のイメージはさらに狭くなって半島西南岸の島嶼、長崎周辺の島嶼あたり。
九州や朝鮮半島の多くはすでに国として中国へ朝貢済みあるいは認知済みで夷とは呼ばない地域になっていたというわけです。

人数が万というのは尾鰭に飾りまでついた結果だと思うなあ(^^;
もし1万が上陸したらそれだけで九州全部占領できそうですが、当時の九州人口がせいぜい数万として。一気に1万の人口増を養えるかどうか・・
生き残った人々が百人いればそれだけで立派なムラだしクニでもあると思う。
徐福集団の文化は継続して運ばれていた山東半島文化とスサノオ、アマテラス、瓊々杵等の抗争の中に混じって見えなくなっていったのではなかろうか。

瓊々杵=徐福として空想展開するのはどなたかにやっていただくとして・・(^^;

嵐にもまれた船団の一部が長崎周辺に漂着。
技術者を同伴させたとして具体的にどういう技術だったのか。
着の身着のままだったとしても絹、木綿、葛布あたりは周囲の目を引いただろうな。
(葛布は周の夏服に使われている)

有明沿岸からはいまのところめぼしい弥生遺跡がでていないようですが、発見されていないだけなのか?
磐井の君の石人石馬は類似が山東半島にもあるけれど本家はモンゴルだろうな。
周時代の斉建国時に西方の麦作とともに山東半島へ運ばれたんじゃなかろうか。
長崎には支石墓が多いけれど対馬にはない。

朝鮮半島西南岸と長崎には対馬を経由しない山東半島ダイレクトの流れもありそうで、三苗海運者達のマル秘情報となっていた(^^;
明時代の地図では長崎周辺は「本土」と同じ大きさで書かれている。
徐福は海上の蓬莱山とは長崎であることを確信していたんじゃないかな。
だが、その東に陸続きで九州北岸があることまでは知らなかった。

九州北岸の情報を中国が手にするのは戦国時代の疲弊が復旧し、衛氏朝鮮に目がゆきはじめるBC150あたりではなかろうか(瓊々杵の親たちもその情報を得て送り出す決心をするわけです)。

瓊々杵の子等は海神の玉依毘賣(長崎側)やアマテラス(八女郡側)など周囲の「王妃や王子」と婚姻しながら、九州最後の稲作適地である宮崎へむかった(アマテラスは引っ越し済み(^^;)。
(伊都国の周囲は事実上の出雲領、西は長崎で稲作不可能、拡張は南しかない)
(半島南岸へ向かっただれかもいる)
このとき天の橋船がまだ使えた場合は海路で本隊は霧島高千穂降臨、別働隊が阿蘇高千穂降臨。
天の橋船が壊れて使えなかった場合は陸路で本隊は阿蘇高千穂降臨、別働隊が霧島高千穂降臨。
(これだといろいろ八方丸く治まる・・(^^;)
その軌跡が後に魏志倭人伝に登場する複数の「なになに奴国」の源になります。

その途中で徐福船団の後裔がいれば双方共に「名家?」であって婿なり嫁なりとったかもしれない(^^;
日向あたりに居をかまえるのはBCゼロあたりかなあ。もう少し早い時期かなあ。
天火明ないしは瓊々杵の親族が開発ピークの濃尾へ引っ越ししていたかもしれない。
気候温暖時代でしばらくは出雲とも仲良くやっていた(^^;

徐福船団の種子島あたりまで流された人々は薩摩大隅あたりで後の狗奴国に関与したかな。
ご本人生存ならこっち組。
もしその子孫がいて何らかの痕跡を残していたとすれば・・葛城ではなかろうか・・
宮崎西都のアマテラスの祭祀とは別に一言主系の独自祭祀を維持し大分や日向の出雲へも影響を与えた。
開化の東征とともに近畿葛城山へ移り、後に役行者などが登場する・・

先住の航海者と接して太平洋側の海運者の一員となった人物がいたかもしれない。
徐福船団にはお目付役として始皇帝の側近が随伴していたはずです。
むろん読み書きができる人物。
秦人であることを誇りにもしているはずで、その子孫が秦ハタを名乗る可能性は十分ありそうです。
ハタ作物やハタ織物を得意とする海運者・・(^^;

三重県からAD150頃の「奉」らしき文字が書かれた土器がみつかっています。
どこがどうなのかよくわからないけどほんとに「奉」かな、俺の壺だぞの「秦」じゃないだろうなあ(^^;
産経新聞参照 ( 写真付き)
なお、9章でのハタの地名のうち「秦」は高知市と大阪枚方市と岡山総社市、それに埼玉の宇都宮の4カ所です。

徐福に限らず物証がないというだけでいろいろな状況証拠?はぞろぞろ?(^^;

かたばみ



[かたばみ]、00/4/17、01:30、woodsorrel

新古墳発見なんて書いちゃった、失礼をば(^^; ホケノ山古墳発掘での新発見。
出土物からは開化天皇、大彦命、その親族あたりにぴったり乗ってきそう。AD260あたりの古墳かなあ。
三重では船の埴輪を公開、なんか競争してるのかな(^^;
この船は西都の埴輪と同じ形だな。
仁徳(応神)の「枯野」の高速船や巨木といったタイプとは違うような気がする。
古墳時代の始め頃では2種類の船の形があったんじゃなかろうか。

諏訪の阿蘇氏についてはなにも知らないけど、九州の阿蘇は英彦山や九重山を従えて大山津見神など九州縄文祭祀の中心地だろうと思う。
BC2000以降に渡来した三苗の水田+農耕がその大山津見神と八女郡あたりで接して原始アマテラスが誕生。
後にスサノオと瓊々杵の渡来で原始アマテラスはさらに新しい形の祭祀に変化していった。

記紀にいう天孫降臨伝承は阿蘇高千穂が本命かなあ。
瓊々杵の降臨とするならば高千穂を越えて日向に入るのはBC130〜BC100頃か。
瓊々杵20〜50歳、木花開耶姫は花の18歳あたり(^^;

唐津湾上陸以後のスサノオとの戦の記録が削除されれば唐津湾=阿蘇高千穂となって山岳に天の橋船が到着することになり、「アマテラスの方向」から「降臨」したとも見なせるわけでうまい(^^;
アマテラスから日向や宮崎にいい土地がありますよ、てな「指導」を受けていればますます(^^;
高千穂から日向への道案内の猿田彦はむろん縄文人、住所が日向五十鈴川あたりならこれもぴったし。
スサノオ時代には日向へ下ろうとするアマテラスと戦った「猿田彦」もいたんじゃないか。

こちらは山幸のルート。
瓊々杵は日向に落ち着き、天火明はさらに海を越えて濃尾へ向かったといったところか。
(伊都国は海幸系が継承)
出雲と天孫の拡張時代、空き地はまだたっぷりあって共存可能時代でもあった。

ちなみに1反でとれる米が1石、1石が1人1年ぶん(古くは1反が360坪、約0.1ヘクタール)。
米だけなら10万石のお殿様の領地の人口は最大で10万人まで(^^;
1haで10人。弥生の水田面積が推定できれば人口推定もできそう。

現在みつかっている濃尾の朝日村遺跡は80ha。ただし集落跡だけで水田跡は見つかっていない。
仮にその10倍の水田とすれば800haで最大8千人の村(クニ?)か・・
池上曽根が2万人とするなら2000haの水田が必要。そこまではいってなかったかなあ。

八島士奴美は瓊々杵よりちょい年長か、妃は木花知流姫(木花開耶姫の姉)。
大山津見神が英彦山、九重山の神様であるなら、その人々の娘が西と東へ嫁にいったということで、伝承と符合可能。
西日本の沿岸域や平野部に住む縄文の人々の半分には半島や沿海州の人々が混じってる。
その人々の文化は三苗文化が大半になったとして、内陸山岳地では縄文(大山津見神)が勢力を保っている。
阿蘇氏の祖先もそういった情勢の中での山岳縄文のひとりか。

阿蘇氏が諏訪にはいったとすればAD60頃の出雲の国譲りでタケミナカタの介添え役としてじゃないかな(^^;
(神武サイドだが阿蘇の東山麓では出雲とも接して中立的な立場がとれる人物が選ばれるはず・・)
諏訪には初期開拓者(三苗?安曇氏?)の祖先もいて、信州縄文の中に出雲貴族と神武系九州縄文が混在するという複雑な状況が生じる。
ちなみにナガスネヒコは出雲系九州縄文・・英彦山の(^^;

後に諏訪は出雲領土に・・事実は小説より奇なりがごろごろ生まれそう。
九州でも南九州までスサノオ時代に半島の人々がはいってると思えるし、単純図式は成立しそうもない。

霧島降臨伝承は海幸のルート。霧島はやはり大山津見神の領域。
大綿津見神は東シナ海の神様かな。
こちらのルートは三苗の勢力範囲だったためにウエツフミの鵜草葺不合王朝73代といった伝承が生じた。
これがBC2000あたりからの三苗渡来時からのいろいろを示唆する唯一の記事なのかもしれない。

海神の竜宮(国)は長崎か天草あたりか。海上生活者という可能性もありそう。
後に海幸と山幸が霧島付近でドッキングして神武が誕生する。
潮満玉や潮干玉といった話は津波がその源じゃないかな。
三苗には長江の大洪水の記憶があるだろうし、縄文にも鬼界カルデラの爆発などでの津波や火山灰による荒廃の記憶もあったはず。
隼人の祭祀跡には開聞岳の噴火による損傷が残っているものがあるそうです。

薩摩半島西端に笠沙町(野間岬)という地名があるけれどいつできた地名なのか・・
明治政府のメインは薩摩藩だからなあ、奈良の磯城郡に同じくでちと臭う(^^;
徐福が漂着していたならここかな。

宮崎側の串間とともにへんぴどころか川内平野と宮崎平野を結ぶ海路の重要拠点になりそうです。
川内〜笠沙〜種子島〜串間〜日向。
海流の状況では薩摩や大隅の突端を回るより種子島を経由する方がいい可能性もありそう。

年間を通じての海流変化と風向きがわかれば古代海路の運用も推測できそう。
対馬航路の場合は帆を使うより潮流変化を利用して漕ぐ方がいい可能性あり。
もしそうなら・・「北の船」は東シナ海や太平洋沿岸の船とは違う形になっていったかもしれない。

かたばみ


[s_tan]、00/4/17、01:00、 、

<弥生いろいろ・・>

>しかし文献や具体的データが散在しはじめると知らないこともうんと増えるからなあ。
#ですねぇ。それぞれ、かかえこんでいるから、つながりある博物館で特集などで展示の貸し借りがありますが出土品の横断的・系統だっての展示というのはなかなかムリでしょうね。
出土品の量は膨大だし。。1ヶ所には集めきれない。
 各博物館も国内全出土品のなかから客観的なキーポイントを抽出しての展示・説明というのは無いような気がする。手近なモノ(関連系統が掘出したナド)からの切り口での展示・説明で終っているよな。

展示と言えば、大阪の博物館はカメラ持込撮影OK!が殆どだった、これが当り前でしょうね公的機関なら。税で運営している仕事(モノ・ヒトの結果)をオープンにしないという姿勢・意識の所が今だ多いですが、そろそろ終りにして欲しいものです。ま、営利目的には使用する対価が必要でしょうが。
この国にルーブルの質と量、入場料(安い)に匹敵する「館」ができるのはいつになるやら。。そういえばフラッシュ禁止だが撮影okだった。
出土品の展示ですが、系統・時代を追ってカタチ・分布など全国レベルで見るとなると、inter-netか。館・単独での公開は増えてますが横断的なの、早くできて欲しいものです。

 5代後の箕準王は随分、戦国・戦後の亡命者を受容れたようですね。

箕伯といえば、伯、伯耆。米子市あたりは西伯郡、伯は百済。というとスサノオは4世紀か。。百済王・善(禅)光−−敬福--の流れにも「伯」がでてくる。

赫は「瓠」ですね、13才で即位して新羅の始祖が瓢箪で、大臣の「瓠(かく)公」の倭とつながり深そうで、神功も瓢箪腰にぶら下げて。。新羅初期には「葛」(文)の名も多い。。この頃、半島は楽浪郡以外の3郡はもう消滅していた時期。。馬韓・弁韓も小国乱立。。百済・新羅・句麗が芽を出す頃。BC50からの100年は特に半島南部が入り乱れ、当然、鼻先の列島も同じ状況だったでしょう。
須叟スソウだと扶桑とか、後(BC30頃?)の高句麗の王莽に殺されたという高「スウ」王、ってのも。。

>考古学的にも箕子朝鮮の存在を考慮した論が出始めてますね。
#単純に、箕子=キシ=紀氏、ってのは? ^^。



[s_tan]、00/4/23、23:50、 、

<徐福、船>

>この時代での最大のロマン?はやっぱり徐福かな。
#壮大なロマンですね、まがりなりにも論議が出たのが、朝廷が衰えた平安以降−江戸と戦後というのが面白い。江戸期は現代より盛んですねそうそうたるメンバーが論議している、あと30−50年すると本格的論議が始るのではないかと。。

>ふたつめの痕跡は、知る人は知ってる種子島南端の砂丘にある広田遺跡。
#この大陸から南下して黒潮、対馬暖流に乗るルートが一番安全だったのでしょう。
広田の重層遺跡ですが、同じ場所での祭祀というか埋葬は群馬にも見られます、石器−縄文−弥生と同じ場所に重なっている、同じ山に頭を向けて。

>もし上層の墓に女性が含まれないなら・・軍艦に女は乗せない(^^; あいにく不明だけど。
#下層がBC200過ぎで上層がAD250過ぎか、出土品の確認、おもしろそう。

漢書といえば、衛氏朝鮮を滅ぼし半島に4郡を置いた時期で、地理志に「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国歳時を以て献見に来るという記述がある」で有名で、武帝の記事には方士関連が多いとかですが。。
>使譯時通、記述随時、豈常也哉(アニツネナランヤ)
#推古の時、裴世清が豊国で「東して一支国に至り、又、東して「秦王国」に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり・・」この後ろあたりとニュアンスが似ているような気がする。

>台湾のイカダ(川用、極限の平底船?)が都合で海にでる場合にはビルジキールといっていいのかな、イカダの隙間から海中へ板をつきだして安定させていたようです。
>知らぬは遣唐使の船ばかりなり(^^;
#以前の話つづき、常陸風土記で、船底が平で波を切るのに都合が悪い、の他に、帆柱の置き方が悪い、木材の繋ぎを鉄の釘で止めてない、と書かれている。底が平なのはこの前、三重県で公開した埴輪の流れかな、少なくとも外洋向ではないか。いつぞやOO書店かなんかで実験したような記憶がありますが、あれは途中で挫折、だったかな。。
鄭和の大航海、ガマ、コロンブスに較べると扱いが小さすぎる、ですね。

<弥生時代の航海>
−−−
1kt=1852m。 刳船の速力は4〜8ノット。10人、船長7m、4ノット。20人、船長12m、8ノット。時速14kmほど。
黒潮では平均2〜4ノット、関門海峡の潮流の最大が6ノット。
漕ぎ手10人での航海を想定すると4ノットで1日8時間として1日に約59km。この約60kmおきが湊の繁栄する条件。

*対馬から半島へ(所要4日)、筑紫(34マイル)−壱岐(36)−対馬南端(41)−対馬北端(36)−釜山。
*筑紫から出雲へ(所要5日)、筑紫(30)−芦屋(36)−油谷(37)−須佐(32)−浜田(41)−出雲。
*筑紫から難波へ所要9日、筑紫(30)−芦屋(30)−防府(37)−上関(21)−倉敷(27)−竹原(36)−笠岡(31)−吉備児島(34)−姫路(39)−難波。
*出雲から越へ所要18日。出雲(28)−加賀(24)−淀江(37)−鳥取(38)−久美浜(38)−宮津(32)−小浜(30)−敦賀(39)−三国(30)−金沢(32)−富来(26)−輪島(26)−珠州(30)−七尾(20)−氷見(28)−泊(35)−直江津(29)−出雲崎(32)−越。
(古代日本の軍事航海史・上巻、松枝正根。)
−−−↑こんな数字があります。

>技術者を同伴させたとして具体的にどういう技術だったのか。着の身着のままだったとしても絹、木綿、葛布あたりは周囲の目を引いただろうな
#方士というのは卜占だけでなく百科事典的存在で、徐福が乗船させたという“五穀百工”というのは当時の先端技術と熟練者の集団とみていいんじゃないかな。
有明海を望む場所に、徐福が上陸するのに道が悪いので布をひき、それが地名になったという場所(名は失念)があるそうです。童男丱女(かんじょ・かじょ)に由来する地名も沿岸にあるそうです。


[かたばみ]、00/05/06、23:00、 、

≫出土品の横断的・系統だっての展示というのはなかなかムリでしょうね。出土品の量は膨大だし

棚にしまわれてしまったものを他の専門家がみれば重要な示唆を持つ、なんてこともありそう。
歴史は巨大なオーケストラじゃないかな。ひとつひとつの楽器の響き(時間)が全てとからみあいながら進んでゆく。

箕子=紀氏、可能性はあるけど、ひと文字だとどこにもくっつきそうだからなあ。
このあたりは軽く楽しんでおきましょう(^^;

出雲大社の巨木柱が公表されたですね。(やっぱり競争やってるように見えるなあ)
45mあたりが妥当なところと思うけど、それが奈良時代でのこととして弥生時代にはどうであったのか・・

用途ですね。単に祭祀用で片づけるわけにはいかない。荒神山などの大量の剣や銅鐸の理由も同様、大量にあるのはたいていは問屋の倉庫のはず(^^;
古墳時代では信仰の象徴として神殿になっていったかもしれないけれど、本来は縄文〜弥生の灯台だと思う。
新潟産石油の痕跡でもでないかしらん(^^;

高くする理由はやっぱり遠くから見える、あるいは遠くが見える、というのが最初にありきだと思う。
船が見えれば銅鐸の音がゴワーンン・・
三内丸山の巨木跡の延長上にあるものじゃないかな。
池上曽根の巨木柱もはたして復元されたような神殿だけだったのか・・

ひょっとして諏訪の御柱神事はそういった高層建築用の木を伐採して運び出すことが始まりになってるのかもしれないなあ(比較的新しい時代の起源とみる)。
出雲は弥生のすべての年代で東の縄文と深く接しているはずで、弥生文化の提供と同時に縄文文化の影響も少なからず受けていると思う。
これは九州縄文との接触のみだったであろう瓊々杵以降の天孫系譜とは異なる重要な部分じゃなかろうか。
(紀州と濃尾がデリケートな部分ではあるけれど)


≫漕ぎ手10人での航海を想定すると4ノットで1日8時間として1日に約59km。この約60kmおきが湊の繁栄する条件

定期船の場合は3ノット6時間あたりじゃないかと考えています(帆を使わない場合)。
で、30kmくらいで船泊があったんじゃなかろうか(宿泊設備はなし、休憩のみ(^^;)
灯台と宿泊設備つきの港が60kmおきというのはいい線かな。

対馬の場合だと対馬暖流本体は2ノット程度で、これに潮流が加わる。
上げ潮の時には見かけ上で日本海側から黄海側へ1ノット前後の潮流が生じる時間帯がある。
半島から日本へはこの時間帯を利用。
大潮ならさらに有利かな。月の満ち欠けがポイント・・月読神は潮流のあるところで必須の神様になる。

海上保安庁水路部にいいデータがありました(http://www.jhd.go.jp/ 対馬だと第7管区のHP)
各地潮干狩りデータもあり(^^;
寒冷化で食糧難になった縄文が潮干狩りを始めた頃に月読神が登場したのかもしれないな。

半島から日本へは3ノットで6時間ほど漕ぐことができる船(漕ぎ手)が最低条件。
潮流の変わりはじめるちょい前に出航、しばらく必死に全速前進、潮流が変わったら中休み、到着前あたりで潮流がまた変わり始めるので必死に漕ぐ(^^;
航跡は潮流に流されることを計算したカーブ状になる。このあたりが海人の技。

対馬での風は秋冬では西北風が強く海も荒れるので渡るには危険に見える。
対馬航路では帆を使うより潮流を利用して漕ぐ方が確実だったのではなかろうか。

半島から対馬へ1日、対馬から壱岐へ1日。特急便なら福岡までで3日。一般では対馬で1日を加えて4日あたりというのは妥当そうですね(日本から半島だと一般でも3日じゃないかな)。
BC500あたりまでの環境避難民はそういう航海はできず、多くが漂流に近い状態で山陰沿岸に到着したんじゃないかなあ。(スサノオもおおよそ同様です(^^;)
渡航は危険を承知で西北風が利用できる季節をねらったかもしれない。

底が平らというのはひょっとすると対馬の中央部東岸の大船越あるいは小船越で船を陸に揚げて反対側の海につながる入り江?に運ぶためかも・・コロか台車に乗せるなら底は平らな方がいい。
潮流の具合では対馬の西岸あるいは東岸だけをゆくより反対側に出る方がうまいのかもしれない。
どのみち潮待ちで1日停泊するならその間にエーンヤコーラ・・(^^;

当時の漕ぐ船は対馬航路の船を標準仕様として、時速5kで航続時間6時間あたりの運用が平均的になっていったのかもしれない。
特に神功(自説366-391)以後では瀬戸内用であってもいざというときには半島に渡れる船として使えるように作れ、といった指示があっても不思議はなさそうです。

太平洋岸だと漕ぐだけでは厳しいと思う。
黒潮本体ははるか沖合だし潮流のメリットは豊後水道や紀伊水道を通過するときだけじゃないかな。
帆の技とある程度の外洋航海の技がないと動けないんじゃないかな。
(入れ墨風習を持つ者だけが航海できた、ともいえる)

縄文時代の足摺岬や室戸岬にも灯台があっただろうと思うけど、古墳時代にはいると太平洋航路は衰退し、船とその運用は対馬型のみとなり、帆を併用する快速船は天の鳩船、あるいは枯野などは特殊用途だけになって帆と外洋航海の技は衰退していった。


対馬航路が発達するのはスサノオ渡来がきっかけじゃないかな。
それ以前の中国文化は山東半島や長江から済州島や朝鮮半島南西岸を経由して五島列島や長崎へやってきていた。
それがより安全かつ伽耶と福岡を最短で結ぶ対馬経由がメインとなってゆくわけです。
徐福の持っていた情報はそうなる直前の情報(^^;

対馬に支石墓がないのに長崎にあるのは当初の航路が山東半島から五島列島経由だったからではなかろうか。
長崎の支石墓の方が糸島などの支石墓より形式が古い可能性があるようです。
また南九州の石積みの墓もこれの変形である可能性があるようです。

BC1000以後の周による斉建国で山東半島の三苗文化には畑作を代表とする中国西方と北方の文化が大量に含まれるようになってゆく。
スサノオ以後の出雲はこの影響を強く受けた文化になるわけです。

徐福の後裔は宮崎ないし日向でスサノオ勢力と接触したんじゃないかな(BC150頃)。
出雲時代での山東半島文化の導入の遠回りでの先鞭になっていたわけです。
しかし日向にはアマテラスと瓊々杵がやってきて出雲は消える。出雲系葛城と天孫系葛城の登場(^^;

出雲には古い時代の三苗もいる(天穂日など)、加えて東日本縄文との接触・・
もし弥生出雲が中央集権的な体制には至っていなかったのなら、一言で出雲というわけにはいかなくなるのかもしれないです。

かたばみ


[s_tan]、00/05/15、(up.5/19)

>棚にしまわれてしまったものを他の専門家がみれば重要な示唆を持つ、なんて・・・
#このあたりが横断的展示というか、openにする最大の利点ですね。
しかし税金使いながらムラ的囲い込みするのが、まだまだ多いからなぁ。int-netのhpで公開が増えているようですが、ムラ的囲い込みの姿勢が強いところがまだ多いなぁ、int-netという手段に期待大なところです。

>箕子=紀氏、可能性はあるけど、ひと文字だとどこにもくっつきそうだからなあ。
#(姫氏)箕子=紀氏、!?と、こんな時に、論じている文章にあたると、むさぼり読むのですが、どこかにそんな本ないでしょうか。

>出雲大社の巨木柱が公表されたですね。(やっぱり競争やってるように見えるなあ)
#発見されたのが3月らしいから。。どうなんでしょ、談話採るにひと月なのか、他に触発されたか。。
高さ、どれくらいかな?45mの実績はあったと思うですが。海からの灯台としては日御崎あたりとか高さとしては大社裏山辺りが場所として適当と思えますが。
(唐)の来襲に備えての監視の役割とすると、北と西の出先からの連絡を受ける必要な高さかも、連絡手段は狼煙か鏡かなぁ。連絡手段よりも、この時代だと内外へのコケオドシ要素が強かったかも。
 奈良時代より弥生・縄文が高いモノを建てられないとは限らない、逆だったかも知れないですね。出雲の入海が安全な運河だった頃だとすると高さのある事も実務的だったのかも。

>船が見えれば銅鐸の音がゴワーンン・・
#音を遠くまでと改良したら、だんだん銅鐸が大きくなって。。大きな銅鐸に叩いた痕は?あったかなぁ。

>三内丸山の巨木跡の延長上にあるものじゃないかな。
#函館市郊外での巨大遺跡は三内丸山のルーツとも見られているから、千〜2千年スパンで日本海沿岸を南下した集団が居たというのも有りですね。さらにその前には北上していたのかも、南下する集団と出会い交じり合って、文化の飛躍的発展があったのかも。

出雲といえば、その主体が奈良・三輪山近くという論は結構いろんな人が言っているようです。最初に言い出したのは誰なんだろう、ま、恐らく地元の古老というのが一番古いのでしょうが。