9th October 1940 Wednesday【1940年10月9日水曜日】, John Winston Lennon【ジョン・ウィンストン・レノン】、
Oxford Street Maternity Hospital, Liverpool, Lancashire, England, The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland−The British Empire【大英帝国〔当時〕グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国・イングランド・ランカシャー州・リヴァプール・オックスフォード・ストリート産婦人病院】にて
18:30 [Discover Lennon's Liverpoolによると7:00] 誕生する。
母親はJulia Lennon (nee Stanley)【ジュリア・レノン(旧姓スタンリー)】(1914年3月12日―1958年7月15日)。時は第二次世界大戦中であり、大英帝国はドイツ軍(ナチス)の猛攻を受けているというところであった。しかし当日はLiverpoolでは空爆は行われておらず、静かな一日であった。一般的に言われているような爆撃の下で誕生したという話は、当人たちの記憶違いであると思われる。
Johnという名の名付け親はMary Elizabeth Smith (nee Stanley)【メアリー・エリザベス・スミス(旧姓スタンリー)】(愛称Aunt Mimi【ミミおばさん】) (1903年―1992年12月6日)である。
これは祖父の名John Lennon (愛称Jack)から採ったということである[1] 。
ミドルネームのWinstonという名は母親であるJulia Lennonが、時の大英帝国首相であったWinston Churchill【ウィンストン・チャーチル】から採って名付けた。
Johnは10代の途中までこの「第二次世界大戦において大英帝国を勝利に導いた英雄」と同じ名の響きが気に入っていたというエピソードがある。[2]
John:Lord (God) is gracious. ヘブライ語のヨハナンに由来する名前で、『主は慈悲深い』の意。ヨハナンはラテン語発音(表記)ではヨハネ。フランス語を経由してジョンと発音されるようになりました。
Lennon:Lennon はO' Leannáinのアングロサクソン形。O'はアイルランド語で子孫・息子の意。Leannáinはアイルランド語で『愛する人』の意。
[1]僕は名前の由来についてはMimiおばさんの本名がElizabethなので“新約聖書に基づいて名付けた可能性もある”とも思うのです。
[2]最初この話を聞いた時はちょっと意外な感じを受けたものでした。
父親であるAlfred Lennon【アルフレッド・レノン】(1912年12月14日−1976年4月1日)は船乗り (給士) で当時航海に出ており不在だった。 彼が我が子と初めて対面するのは11月になってからだった。幼いJohnは当時Penny LaneのRoundabout付近のNo.9 Newcastle Road【ニューキャッスル・ロード9番地】に母と母方の祖父George Ernest Stanley【ジョージ・アーネスト・スタンリー】(1874年-1949年)と暮らしていた。
なんとJohnはその当時 (1〜2歳) の思い出を覚えているという[3]。母親であるJuliaはよくJohnにディズニーの歌を歌って聴かせていたそう。
[3]これってかなりすごいと思いませんか?
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Mendips周辺図 |
JohnはGeorge Smith伯父さんMimiおばさん夫妻の家に預けられる前にGeorge伯父さんの所有する家に母と住んでいたという記録がある。
1941年春[ジョン・レノン全仕事](その他1944年, 1946年など諸説あり。文献によって異なり詳細な日付は不明)
JohnはGeorge Smith伯父さんMimiおばさん夫妻の家に預けられる。
その家はMendips【メンディップス】というWalesの地名を冠した名前で呼ばれていた。 MendipsはLiverpool郊外の幹線道路Menlove Avenue【メンローヴ・アヴェニュー】に面した緑に囲まれた場所にあり、周囲には中産階級の人々が住んでいた。George Smith伯父さんMimiおばさん夫妻の家庭自体も中産階級に属する非常に恵まれた環境だった。
裏庭の続きにはIvan Vaughan【アイヴァン・ヴォーン】という少年が住んでいた。この少年が後に非常に重要な役割を果たすことになる…。
1944年頃、Juliaは、夫の不在中に、ウェールズ人の一兵士'Taffy' Williamsという人物と恋に落ち、女の子を妊娠してしまう。Juliaの家族は、Alfredが不在とはいえ婚姻中の妊娠ということもあり、女の子の誕生は隠しておいた。
Victoria Elizabeth(1945年6月19日−)と名付けられたその女の子は結局ノルウェー人に里子に出された。
その後Juliaは、1945年頃(1941年という説もある)John Robert (Bobby) Dykins【ジョン・ロバート(ボビー)・ダイキンズ】(1918年―1966年)という男性に出会う。彼はJuliaの仕事先のPenny Laneのカフェの常連客だったと言われている。DykinsとJuliaは恋に落ち、ふたりはDykinsのフラットに引っ越す。新しい住居は小さく、Johnを含め3人がひとつの部屋に眠るという環境だった。Juliaはその後Dykinsとの間に二人の女の子をもうけているが、Alfredとは離婚してはいなかったようである(難解ではある)。母親JuliaはJohnと一緒に生活することを望んでいたようである。しかし、Juliaの姉であるMimiおばさんは、私生児を産み、婚姻関係のない男性と同棲するJuliaは、母親としてふさわしくないと非難し、この環境は子供(John)にとって健全でないとの理由をつけてJohnを預かるということになる…。
結局Johnの両親は戦時中お互い連絡が取れなくなったこともあり破局を迎えてしまう。
1946年7月のある日突然父親のAlfredが帰って来てJohnをBlackpoolに遊びに連れていく。 そのあとにJuliaとやり直してNew Zealandに移住しようと提案する。しかし長い間放って置かれたと感じていたJuliaは当然この話に反対した。そのあとの話し合いはJohnの養育権についてとなった。この話し合いは両親だけでは決着をみず、子供の意思を尊重するという形で幼いJohnにどちらと暮らしたいかと質問したという。はじめJohnは迎えに来てくれたうれしさと再び父と母と家族一緒に暮らせると思い込みから、父親を選ぶ。が、絶望にうちひしがれその場を去る母親の後姿を見て状況を把握できないJohnは泣きながら母親を追いかける。
後年そのときのことはトラウマになったと語っている。
もしこの時New Zealandに移住していたらその後の歴史は当然大きく変わることになったわけです。
『ALL THESE YEARS TUNE IN誕生』を、基にするとこの部分の記述は事実と異なることになります。
しかし、しかしである。母親JuliaはJohnと一緒に生活することを選択せずに(幼い子供の生活環境を変えるべきではないというMimiおばさんからの提案があったようである)、新しい恋人Dykinsとの同棲生活を選択し、Mimiおばさんが、再度Johnを預かるということになる…。
“Penny Laneはただの通りじゃなく、僕が5歳になるまで両親と住んでいた場所なんだ。母の人生は順風満帆とは言えなかった。父は航海に出たきり戻らない。おまけに戦争中だった。母にもてあまされた僕は伯母に育てられることになった。”
by John Lennon
“Johnは憎めない反逆者でした。他人に従うのが大嫌いで、彼にそれを強いる人、特に教師を憎んでいました。
Johnは動物好きでした。特に我が家の猫のサムのことはとてもかわいがっていましたが、サムはあいにく昨年(原文ママ)死んでしまいました。
そのことを知らされた時のJohnは、ひどくショックを受けたようでした。
幼い頃のJohnはそれはもう可愛くて、銀色がかった金髪と大きな茶色い瞳が愛らしかったわ。
他人の注目を浴びるのはJohnにとっては苦ではないと思います。何しろ小さい頃から注目されていましたから。それが当たり前だったので、誰も自分を見てくれないときには、自分からその人たちの隣にいき、John Lennonですと名乗ったほどでしたから。”
by Aunt Mimi [THE BEST OF THE BEATLES BOOK]
「STRAWBERRY FIELDSは古いヴィクトリア朝の屋敷を救世軍が孤児院として使っていたんだ。その名のとおりかつては苺農園だった。」
by John Lennon[THE BEATLES ANTHOLOGY]
Johnが最初に通った小学校はMosspits Cp School【モスピッツ・レーン小学校】で、1945年11月12日に入学した。しかし1946年4月には転校(もしくは退学)。 理由はAunt Mimi【ミミおばさん】の家に預けられ、通学が困難になってしまったからとか、ほかの子をいじめて退学になったからとか諸説あり。
1946年5月6日JohnはあらためてDovedale Cp School【ダヴデイル小学校】に入学。Pete Shotton【ピート・ショットン】、Nigel Walley【ナイジェル・ウェイリー】、Ivan Vaughan【アイヴァン・ヴォーン】が当時の遊び仲間であった。
John Lennonが最初に手にした楽器はハーモニカだった。
John Lennonが最初に手にしたハーモニカはGeorge Smith伯父さんからもらったものだったとされている[nowhere Vol.19]。
「なぜ僕がこの楽器(ハーモニカ)を手にしたのか理由はよくわからない。おそらく簡単に手に入ったからだろう。」
by John Lennon [THE BEATLES ANTHOLOGY]
「ミミ(おばさん)はよく家に学生を連れてきていたけれど、その中のひとりがハーモニカを持っていて、僕が次の日の朝までに1曲覚えたら1つ買ってくれると言ったんだ。で、僕は2曲覚えたってわけ。確か8歳〜12歳くらいまでの間だったと思う」
by John Lennon [THE BEATLES ANTHOLOGY]
John Lennonはそれとは別の機会に、Scotlandの叔母さんの家に遊びにいった時、Edinburghのバスの中でハーモニカを吹いていたら運転手に気に入られ、前述のハーモニカとは別のハーモニカを貰っている。
1947年The British Empire【大英帝国】はインドが分離独立した時点で事実上消滅しThe United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland【グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国】となる。
1949年Republic of Ireland【アイルランド共和国】成立。Johnの父方の祖先の土地がThe United Kingdom of Great Britain and Northern Irelandとは別の国となる。
![]() John Lennon 7歳のとき 近所の子犬スクウィーカーと |
JohnはThe Quarry Bank School【クォリー・バンク・グラマー学校】に入学。最初は優秀だった成績も、次第に授業に興味を示さなくなったためその成績も下降する一方だった。
Johnの興味は創作活動に移っていた。Spotlight on Sport, Speed and IllustrationやThe Daily Howl【デイリー・ハウル】と名付けた自作の本に物語や絵を書きこんでいた。
The Daily HowlはかつてJohn Lennon Museum(さいたま市2000年10月9日−2010年9月30日))に展示されていた。頭についての記事やAlice
in Wonderland【不思議の国のアリス】の紹介文を掲載していることが確認できるようになっていた。
Spotlight on Sport, Speed and Illustrationも同じくJohn Lennon Museumに展示されていた。Tommy
Wallsという物語が書かれていて虎退治の話の絵を掲載していることが確認できるようになっていた。
国語ノートの3月18日の日付にはSpotlight on Sport, Speed and Illustrationの制作についての記述がある。
John Lennonは「最初のギターは貸してもらった」と言っている。このギターが誰から借りたものなのか、どのようなギターだったのかは一切明らかになっていない。[BEATLES GEAR]
1952年9月JohnはThe Quarry Bank School【クォリー・バンク・グラマー学校(クウォリーの方が本来の発音に近いようだが以下クォリーに統一する)】に入学する。
1955年頃にJohnはJuliaにバンジョーの弾き方を教えてもらう。このJuliaのバンジョーの弾き方は自己流だったらしい。
1955年6月5日Johnのよき理解者であった伯父George Smithが肝臓の病気で急死してしまう。
1956年1月からLonnie DoneganのROCK ISLAND LINEがUK【グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国の略称】で脚光を浴び、大流行した。これはスキッフルという種類の音楽で、この流行は1957年頃まで続いた。
John Lennonが最初に手にしたレコードはこのLonnie DoneganのROCK ISLAND LINE (78rpm)だった。このROCK ISLAND LINE (78rpm)は後日、親友でバンド仲間のロッド・デイヴィスに売ってしまう。
1956年5月11日Elvis PresleyのHEARTBREAK HOTELがUKのチャートに入る。
JohnはHEARTBREAK HOTELという曲の名とElvis Presleyという歌手の名をクラスメートのドン・ビーティーから教えてもらう。Johnは最初Elvis Presleyという名の響きを「変わった名前だな」と思ったらしい。Johnは後日ラジオルクセンブルグからHEARTBREAK HOTELが流れてくるのを聴く。それがJohn Winston LennonとElvis Presleyの音楽−Rock 'n' Roll−との運命の出会いだった。まさに心奪われたという感じだった。
JuliaはRock 'n' Rollにも理解を示していた。
さらに近所にはマイク・ヒルというレコード・コレクターがいて、たくさんのロックのレコードを聴かせてもらっていた。その中にLittle Richardのレコードがあった。
1956年夏になるとJuliaは今度Johnにギターの弾き方を教えている。しかしその後しばらくJohnは、バンジョーのコードでギターを弾くという変則的な弾き方をしていた。
1956年10月31日Paul McCartneyの母親であるMary Patricia McCartneyが癌のため死去。享年47歳。
1956年11月11日Paul McCartneyがLiverpoolのEmpire Theatreで行われたLonnie Doneganのライブを観る。
1957年1月16日Cavern Clubがワイン倉庫の跡地に開業する。
![]() The Quarrymen 1957年7月6日St. Peter's Church, Wooltonの夏祭りにて。 Quarry Bankの学友のGeoff Rhindがその時の様子を撮影している。「The Quarrymenが演奏しているのを観るのはその時が初めてだった。ヴォーカル用のマイクとアンプしかなかったのにとにかく大きな音で、当時そんな大きな音を出したりはしなかった。僕は母から誕生日プレゼントにKodakのカメラをもらったんだ。僕はとてもシャイだったけれどどうしても彼らの写真が撮りたくて群衆をかきわけて進み、そのカメラで1ショットだけ撮ったんだ。」 Rod Davisによると写真の中でJohnはバンジョーのCのコードを押さえているとのこと。 |
1957年3月頃The Beatlesの母体となるThe The Quarrymenが結成される。John Lennonが最初に組んだバンドの名前はBlack Jacksだったが、すぐに、Bill Smith【ビル・スミス】らの提案により、母校Quarry Bankの校歌の歌詞からThe Quarrymenと改名した。Johnによるとバンドを作ろうと話を持ちかけた友達は結局参加しなかった。
当時のメンバーは
John Lennon【ジョン・レノン】担当ギター
Pete Shotton【ピート・ショットン】担当ウォッシュボード(nowhere Vol.19によるとティーチェスト・ベース)
Eric Griffiths【エリック・グリフィス】担当ギター
Rod Davis【ロッド・デイヴィス】担当バンジョー
Colin Hanton【コリン・ハントン】担当ドラムス
Bill Smith【ビル・スミス】担当ティーチェスト・ベース(nowhere Vol.19によるとウォッシュボード)
Ivan Vaughan【アイヴァン・ヴォーン】担当後任ティーチェスト・ベース
Nigel Walley【ナイジェル・ウェイリー】担当後任ティーチェスト・ベース
Len Garry【レン・ギャリー】担当ベース であった。
日時 | 1957年5月24日 |
都市名 | Liverpool |
メンバー | John Lennon【ジョン・レノン】担当ギター 他不明 |
演奏曲目 | 不明 |
内容 | The Quarrymen初のステージ。最初の妻であるCynthia Lennon著の『John ジョン・レノンに恋して』によると母親Julia Lennonが観たのはこのステージ。ただし本では日付が1956年となっているけれど記憶違いであると思われる。 |
日時 | 1957年6月9日 |
都市名 | Liverpool |
メンバー | John Lennon【ジョン・レノン】担当ギター(Gallotone Championイースタン・ヨーロッパ・ギャロ・チャンピオン) 他不明 |
演奏曲目 | 不明 |
内容 | The Quarrymen LiverpoolのEmpire Theatreで初の公式ステージ。コンテストの地区予選。結果は落選。 |
日時 | 1957年6月22日 |
都市名 | Liverpool |
メンバー | John Lennon【ジョン・レノン】担当ギター Eric Griffiths【エリック・グリフィス】担当ギター Len Garry【レン・ギャリー】担当ティーチェスト・ベース Pete Shotton【ピート・ショットン】担当ウォッシュボード Rod Davis【ロッド・デイヴィス】担当バンジョー Colin Hanton【コリン・ハントン】担当ドラムス |
演奏曲目 | 不明 |
内容 | Roseberry Street【ローズベリー・ストリート】のトラックの上でライブを行う。 |
1957年7月6日The QuarrymenはSt. Peter's Church, Wooltonの夏祭りに参加し演奏している。
1957年7月6日土曜日The QuarrymenはSt. Peter's Church, Wooltonの夏祭りに参加し、ステージに立ち2回演奏した。 「あの日だった。Paul (McCartney)に出逢ったあの日にすべてが始まった」とJohn Lennonはその日の出来事を回想している。
The QuarrymenはGENE VINCENT【ジーン・ヴィンセント】のBE BOP A LULA、COME GO WITH ME他数曲を演奏した。ヴォーカル用のマイクとアンプしかなかったようだが、かなりの音量で演奏されたようである。
The Quarrymenが演奏を終えてホールにいた時、Johnは共通の友人であるIvan Vaughan【アイヴァン・ヴォーン】に、ガールハントが出来たらいいな、と思って夏祭りに来ていたPaul McCartneyを紹介された。
Paulは“彼ら(John Lennonたち)が昼休みに教会のホールでビールを飲んでいるところに戻って、“誰かがギターを持っていたので「僕は、よし、これは弾いてやらなきゃ」”と思い右利きのギターをさかさまに持っても弾ける曲−BE
BOP A LULAとEDDIE COCHRANのTWENTY FILIGHT ROCK−を弾きながら歌い、覚えていたTWENTY FILIGHT ROCKの正確な歌詞を教え、さらにギターのチューニングの仕方も披露した。
「家の裏手に住んでいたアイヴァンって言う友達がいて、彼がPaulと同じ学校のLIPA (Liverpool Institute)に通っていたんだ。僕が初めてPaulを知ったのはアイヴァンを通じてだった。彼は多分、Paulがいつも音楽をやろうと四苦八苦しているのを知っていて、グループのメンバーにはうってつけだと考えたんじゃないかな。それで僕らがWoolton【ウールトン】で演奏することになっていたある日、彼はPaulを連れてきたんだ。The
Quarrymenは高くしつらえた舞台の上で演奏していた。暖かくて天気の良い日だったから、観客も結構集まっていたよ。その日までは僕がバンドの中心的存在だった。僕が歌を歌っていたし、リーダーでもあったからね。でも今度はこう考えた。彼を入れたらどうだろう?彼はいけそうだった。Elvis
Presleyにも似ていたしね。」
by John Lennon [BEATLES GEAR]
厳密に言うとPaulはすでにJohnのことを街中で見かけていて「知っていた」のだが、お互いを知り合ったということで"出逢った"と言っていいだろう。
それから2週間後ウールトンで自転車に乗っていたピート・ショットンは偶然Paulに会い、こう告げた「ところで…僕とJohnはあれからずっと話し合っていたんだけど、君をグループに誘いたいということで意見が一致したんだ」 Paulの答えはイエスだった。
しかしPaulはすぐにグループの活動に参加したわけではなかった。 PaulのThe Quarrymenでの初ステージは1957年10月18日Liverpoolニュー・クラブムーア・ホールのことだった。
John Lennonは、1957年9月Liverpool College of Artに入学する。 この学校において、Stuart Fergusson Victor Sutcliffeと出会う。彼は、Johnより2年先に入学していて、のちにJohnの大親友となる。
1958年Liverpool College of Artにおいて、未来の妻となるCynthia Powell【シンシア・パウウェル1939年9月10日Blackpool生まれ Hoylakeで育つ】と出会う。
7月15日Menlove Avenueのバス停でバスを待っていたJuliaは非番の警察官の車にはねられ死亡してしまう。享年44歳。このことがJohnにとって第2の大きなトラウマとなる。
2002年10月 THE BEATLES DEBUTデビュー40周年記念企画
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参考文献:
THE BEATLES ANTHOLOGY,
THE COMPLETE BEATLES CHRONICLE 1957〜1964,
THE BEATLES/THE COMPLETE BEATLES RECORDING SESSION,
Discover Lennon's Liverpool,
Discover The Beatles' Liverpool,
BEATLES GEAR,
ジョン・レノン全仕事JOHN LENNON SUPER ONE
引用元は出来うる限り文中に[ ]で記載しています。
Revised 8/12/2023
THE BEATLES >John Lennon >JOHN LENNON BIOGRAPHY