M-65

 


久喜混声合唱団

モーツアルト「レクイエム」に挑戦

 



加 藤 良 一      
(2005年9月16)



 久喜混声合唱団の創立15周年記念演奏会を聴いた。指揮者の齊藤映二さんの人柄だろうか、「楽しく歌う」をモットーに気取らず高望みもせず──といってはモーツアルトの「レクイエム」を取り上げた意欲的な姿勢に対して失礼かもしれないが、それなりに身の丈に合ったアットホームな雰囲気の演奏会であった。奇しくも演奏会当日の9月11日は、アメリカで同時多発テロが発生した日にあたることもあって、「レクイエム」をメインに据えての演奏会となったようだ。
 演奏会は三部形式で、モーツアルト「レクイエム」ニ短調から始まった。Requiem、Dies irae、Lacrimosa、Agnus Dei の四曲の抜粋であるが、男声10人、女声14人の編成、伴奏はピアノのみ、ソプラノのソロパートは二人で歌った。
 齊藤さんは、演奏会後に、本番直前の心境を同合唱団のホームページでつぎのように語っている。
本番を前にして、取り下げようか、応援を頼むか・・・悩みましたが、直前になっての団員の熱意は相当なものでした。正直なところ、 Moz・Req注 モツレク:モーツアルト「レクイエム」の意は一杯いっぱいの演奏でした、あの人数でのMoz・Reqはやはりパワー不足は否めません、いきおい無理な発声に繋がり「荒削り」なところがそこ此処にありました。歌い込みの足りない部分も多く楽譜に頼るあまり声が前に飛んで行かないと言う現象もありました。
レクイエム」はなかなかの難曲である。演奏会の曲順をどうするかは、さまざまな考え方があると思うが、はじめは手馴れた曲でウォーミングアップし、雰囲気にも慣れて声がよく出るようになってから難しい曲を演奏するというやり方もあろうが、久喜混は難曲を最初にもってきた。
 惜しむらくは譜面を放すことができなかったことだろうか。楽譜はただ持っているだけというところまで仕上がっていると思わせる人から、ずいぶん読み耽っているなと思う人までさまざまだった。譜面を放せないということは、歌詞が咀嚼しきれていないだろうし、譜面の持ち方や見方に問題がある人はさらに指揮者をよく見ないから他と合わないことになってしまう。また、齊藤さん自ら仰るように、部分的には発声に無理があったこともたしかである。
 譜面を放すことができたらもっとよい「レクイエム」になっただろうと思わせたのは、そのあと暗譜で臨んだ第二、第三ステージは、まるで別の合唱団のようにのびのびと歌っていたからである。
「木琴」は、歌いこんでいるだけに不安感はありませんでした、私の友人は「日本語の美しさを感じた」「音楽の表現力は息が詰まる想いだった」「情景を思い浮かべて引き込まれてしまった」と言っていました。合唱は「上手・下手」と言う評価はし易いと思いますが、お客様に伝わるメッセージが心を動かします、「木琴」はそんな要素を持っている曲です。「木琴」の評価が良かったのは、曲が優れている事と歌う側の感情移入が上手くマッチングしたと考えても良いのではと思います。
「上手・下手」の評価はたやすいという齊藤さんの言葉は、開き直りでもなんでもないだろう。むしろアマチュア合唱団の真髄というか、容易には到達できないモーツアルトの世界に自ら身を投じ、苦闘し、難曲に立ち向かうなかで、その音楽の素晴らしさを体験したいという素朴で真摯な態度であって、結果も大切だがそこへ到達するまでの過程をさらに大切にしたということにちがいない。果敢に「レクイエム」に挑戦した久喜混に大いなる共感をもって拍手を送りたい。

 
蛇足ではあるが、演奏会場についてひとこと触れておきたい。無神経な聴衆が発する雑音のために音楽に集中できないことはどこの演奏会でも見られることではあるが、一音たりとも聴き逃したくないと思っている聴衆にとっては、すくなからず迷惑なものである。また、どうみても無神経ではなく、ただ単にマナーを知らないだけと思われる人たちもいた。そのような人に対しては、できればマナーを教えてあげられるとよいと思う。
 まだ演奏が終わらないうちに拍手をする人たちもいたが、アンコールなどのように特別の場面では構わないけれど、普通の演奏では控えて欲しいものである。とくにピアニッシモで静かに消えてゆくような曲では、最後の音が止むまで聴いて欲しい。また、子ども歓迎の「親子で楽しむコンサート」のようなものならともかく、「レクイエム」を演奏するようなコンサートに未就学児童が入場するのはいかがなものであろうか。未就学児童には、静かにしなさいというほうが無理なのである。さらに、会場のドア係の方がいるにもかかわらず、演奏中に出たり入ったりする人がいたが、これなどマナーを知らない典型ではないだろうか。そのような人にはぜひドア係が注意してあげるべきだろう。
 演奏中の出入りについては、二部と三部のあいだの休憩でアナウンスがなかったことも原因のひとつであったと思う。二部が終了したのち、暗転してステージの模様替えが始まったが、何のアナウンスもないから、お客さんは一部と二部のあいだで15分間の休憩があったように休むのだろうとぞろぞろ動きだした。実際に何分かかったのかは憶えていないが、それなりに長い時間だったと思う。これはちょっとまずい状況だなと思っていたところ、三部がいきなり始まってしまったものだから、演奏が始まってから慌てて席に戻ってくるひとが何人かいて、音楽に集中したい者にとってはとても困ったことだった。

 これらの問題は、久喜混だけに限った現象ではなくどこにでもあるものだけに他山の石としたいことがらである。
 もっとも、最後に齊藤さんの七人のお孫さんがステージで花束を上げていたのを見て、なるほど、これも見方を変えれば久喜混流アットホームさのよいところかも知れない、と考え直しはしたが。
 

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○ モーツアルト「レクイエム」 加藤良一 (2005年7月22日)(M-61
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   (音楽/合唱欄 2002年5月26日) ← 聴衆のマナーについて触れています。




       
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