K-17



混乱するドイツ語新正書法


 



加 藤 良 一

2005年9月21日)


 
 2006年サッカー・ワールドカップ開催地であるドイツでは、去る9月18日に行われた総選挙の結果、過半数を獲得する勢力がなかったため、首相選出を巡って第一党となった野党のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)のメルケル党首とシュレーダー首相の一騎討ちの戦いが繰り広げられている。10月18日までに国会が招集され、首相選挙が実施されるが、過半数を獲得できなければ第二回投票が行われ、それでも過半数を獲得できないときは三回目の投票で最多票を獲得した候補が首相に選出されるという。
 メルケルさんがシュレーダーさんに勝てばドイツ初の女性首相となるが、ことはそう簡単ではなく、メルケルさんは、シュレーダーさん率いる社会民主党(SPD)との連立や自由民主党(FDP)などとの連立も視野に入れ始めているという。もっとも、首相を任命せずに議会を解散する権限は大統領が握っているため、選挙がやり直しとなる可能性もあり得る。いずれにせよ、早期合意は難しく、新政権の成立は大幅にずれ込むのではないかと見られている。

このように政治が混乱している中で、さらにドイツ人の日常生活にとって無視できないもうひとつの大きな混乱が起きている。それは、今年8月に施行された「新正書法」である。正書法とは、ドイツ語の綴りかたなどの表記方法を定めたものだが、その実施にあたって主要な分野の足並みが揃わず、国民の間に戸惑いが広がっている。
 従来の正書法は1902年に制定されたが、もともと地方分権意識の強いドイツ国内はいうに及ばず周辺のドイツ語圏の国々との調整がうまくゆかず、長い歴史の中でたくさんの矛盾を抱え込んでしまったという。「新正書法」は、その100年間で積もり積もった矛盾や不統一を見直すのが主眼のようである。
 「新正書法」は、主に書き方が変更されるので、ドイツ語の話し方までが変わるわけではない。しかし、話し方に変更がないとはいえ、たとえば spazierengehen(シュパツィーレンゲーエン:散歩に行く)がspazieren gehenと分かち書きされるようになれば、自ずと何らかの変化が出てくるのではなかろうか。歌曲の歌詞を例にあげれば、もともとひとつの単語として作曲してあったものが、法律が変わったからといって二語に分けられるものでもあるまい。曲によってはニュアンスが変わってしまう可能性がないとは言い切れないのではないか。このあたりに詳しい方がおられたら教えていただきたい。このままいけば、歌曲の歌詞だけ「旧正書法」のままに取り残されるということになってしまうのだろうか。

 日本からドイツへ嫁いだ友人Mさんに「新正書法」の現状について聞いてみた。Mさんは、現在ミュンヘンに引越し、そこで新居を探しているが、なかなか希望に合った物件が見つからないとぼやいている。ドイツは、来年のサッカー・ワールドカップ開催国として当然のごとく優勝を狙っており、前評判はかなりいい。先日行われた南アフリカとの友好試合では、若い選手の活躍もあって 4−2 で勝利し、波に乗っているだけに国民の期待も大きいとのことだった。いずれにしても、今もっとも注目される国のひとつである。
 さて、Mさんの情報によれば、「新正書法」の影響をまともに受けているのは、学校や新聞社などの出版社であるという。施行後の8月以降にもいくつかの訂正が行なわれたことが、さらに混乱に拍車をかけた。それを不服としたバイエルン州(首都ミュンヘン)やノルトライン・ヴェストファーレン州(首都デュッセルドルフ)が「新正書法」に一本化することに待ったをかけた。そんなことから、「新正書法」を部分的にしか取り入れていない大きな新聞社もあるようだ。
 この混乱の原因は、どうやら強力に推し進めようとしている文部省にあるようで、文部省傘下にある学校はいやおうなく新法を教えなければならず、教育現場はかなり混乱しているようだ。それ以外は、概して冷めた目で見ているのが現実だという。ただし、今回の「正書法」改正にあたっては、20年も歳月をかけて準備し、1996年にドイツ、スイス、オーストリア、リヒテンシュタインの共同声明のかたちで発表されている。その年にドイツ各州では「新正書法」を先取りして導入したところが多いという。このような背景をみると、文部省の対応に無理があるとも思えず、むしろそれだけことばの問題は根が深いということであろうか。

 ドイツ語をドイツ語たらしめているのは「ß(エスツェット)とウムラウトではないかと思うが、エスツェットをssに変更するのは、すべての場合ではなく部分的であるという。また、ウムラウトは母音の上の「¨」を取って、そのあとに「e」を付けることで代替してよいとされているので、われわれのようにドイツ語のキーが適切に使えない者がワープロを打つときはかなり楽になった。このあたりの詳しいことは関連するウェブサイトに書かれているので、興味のある方は覗かれるとよい。
 Mさんによれば、スイスではすでにエスツェットを廃止しているらしく、ドイツ語圏すべてがドイツの「新正書法」に従うということではなく、それぞれ独自の動きをしているという。いずれにせよ「新正書法」が一般の日常生活に大きな影響を与えるというほどのことではないらしいが、仕事として文字を使う人たちにとっては重大な問題にちがいない。

 日常使っている言葉を変えるということは、一朝一夕にやれるものではないが、いっぽうで言葉は時代の流れとともにすこしずつ変わってゆくものでもあるから、あまりに大きな矛盾や不統一はどこかで整理する必要もあろう。ただし、いくら時代とともに変わったとしても脈々と受け継がれてきた基盤の部分は必ず残されてゆくだろうし、そうあらねばならない。このことは、ドイツ語でも日本語でも変わりはしない。
 人は母国語によって自らのアイデンティティを確認するものである。私は日本語なくして己を語ることはできない。もしその日本語の基盤が不安定になることがあるとしたら、大反対せざるを得ない。このように考えてくると、日本が過去に朝鮮の人びとから言葉を奪ったという事実がいかほどに罪深いものであったかが、あらためてよく理解されよう。

 


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