Moonshine <Pray and Wish.>
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Episode 07 雪の舞う、寒桜の森で


  全ての結果には原因がある。
  偶然というのも原因の一つである。
「ひびの入った卵の中で、殻を破らず眠る天使」


「あ、美樹? 僕。小十郎」
「どうしたの? こんな夜中に……」
 衛星回線越しに携帯電話から聞こえる美樹の声を、小十郎は妙に懐かしく感じていた。
「大至急で皆を集めて、新潟地区の方に来て欲しいんだ。詳しい場所は……」
 ポケットからメモを取り出し、そこにかかれた場所を美樹に説明する。
「うん。判ったけど、どうして?」
「晃司さんの指示なんだよ。それに、詩織さんや自治領政府も絡んでる。これ以上は直接話すよ」
 事が事だけに、今は最小限の説明しかできない。だが、美樹にはそれだけで充分だった。いや、小十郎の言葉ならば彼女は必ずそれを果たそうとするだろう。
「うん、判った。大急ぎで支度して、そっちに向かうね。昼までには行けると思う」
「あんまりこんな事は言いたくないんだけどさ。晃司さん、かなり危険なことを考えてそうなんだ。皆にもそれなりの覚悟はしておいて貰った方がいいかもしれない」
「大丈夫だよ。みんな、小十郎くんや江藤さんには感謝してるんだから……」
「……ありがとう。それじゃ」
 名残惜しかったが、そうそう長電話をしている訳にもいかない。この電話は風間から借り受けているもので、電話代などの心配は不要なのだが、だからといって安全というわけでもない。誰かに盗聴されている可能性もゼロとは言い切れないのだ。

 そして翌朝。晃司は皆をロビーに集め、雇兵用ネットワークが復旧していた事実と、これから向かう先で理沙と一戦を交えるかもしれないという予測を語った。
「総大将自らが動く、っちゅーわけ?」
 理佐がしゃしゃり出てくる事がどうも腑に落ちないらしく、音々は首を傾げた。
「自分の強さを誇示しておきたいんじゃないかな。かつての傭兵達が再び組織化して動いているのなら、決して侮るわけにもいかないさ。仮に僕が姉貴の立場でも、そういう相手を叩くなら一撃で殲滅させて戦意を奪うことを試みるだろうね」
「そんな所に乗り込んでいって、大丈夫なんでしょうか?」
 橘花が尋ねる。
「そうですね。大丈夫とは言い難い状況にはなると思います」
 言葉とは裏腹に、いささか楽観気味に晃司は答えた。
「大丈夫かどうかなんて関係ないわ。詩織が……詩織がいるかもしれないのに!」
 激高しかけた香織を手で制し、晃司は改めて橘花の方へ身を向けた。
「香織ちゃんの言う通り、僕たちが目指すものがそこにある以上は、避けて通るわけにもいかないでしょう」
 そう言いながら晃司は小十郎に目配せをする。小十郎はそれに対し、無言で頷いた。
 晃司の指示を受け、小十郎は咲夜家の人間に招集をかけていたが、その事については厳重に口止めされていた。他の誰にも、音々にすら話していない。晃司の意図は分からなかったが、何か考えがあってのことだろうと考え、とりあえず指示に従うことにした。
「場合によっては雇兵たちと合流して、姉貴と一戦交えても構わないと思ってます。どうせ、いずれは戦うことになるんですから」
「晃司くん、本当にそれでいいの?」
 漣が尋ねた。晃司は迷わずに頷き、それに応える。
「晃司お兄ちゃんがそこまで言うんやったら、うちはええよ。うちがええんやから、当然メパンチも文句はない、よなぁ?!」
 語気を荒げ、音々は橘花を睨み付けた。
「は、はい……」
 ビクビクしながら橘花は首を縦に振った。
「それじゃ行きましょう。何にせよ、今のままじゃ情報不足ですから」
 晃司の言葉に、誰も異論はなかった。程なくして出立の準備も整い、晃司たちはホテルを後にした。この日は晃司と漣がバイクに乗り、残りの者は車に乗り込んだ。
「あんた、ちゃんと運転できんのか?!」
「まっかしといてくださいよ!ネオンねえさん。こういうのは得意なんですから」
 自信たっぷりに胸を張る小十郎。その時、音々の座る助手席側の窓を晃司がノックした。音々が窓を開けるのを待たず、晃司は軽く手を振るとアクセルを捻り、バイクを急発進させた。
「追わなくていいの?」
 後部座席で、けだるそうに香織が尋ねた。
「あ、ええ。僕らは行き先が別なんすよ」
「別ってどういう事ですか?」
 それまで義体の膝の上で、音々と小十郎のやりとりを楽しそうに眺めていた橘花も話に加わった。
「えーとっすね……」
「もったいぶらんと早よ言わんかい!」
 三人に詰め寄られ、小十郎は口元を引きつらせた。
「……晃司さんの指示なんすよ。詳しくは到着してから話します」
「ぐっ。晃司お兄ちゃんの名前出されたら、これ以上は言えんやないか……!」
「とにかくこっちも出発しましょうよ。あんまりノンビリしてる余裕だってないんじゃない? いい加減、退屈だし」
 香織が言った。確かに、動かない車の後部座席に座りっぱなしというのは退屈だろう。特に彼女には急ぐだけの理由がある。詩織がどうなってしまったのか、それを知る鍵が瑠璃奈にある。
 だが、これから向かう先が瑠璃奈の許ではないことを話したら、香織はどういう反応を示すだろうか? それを考え、小十郎は気が重くなるのだった。

 曇り空のせいで太陽は見えないが、おそらくは真南に昇っているであろう頃。小十郎たちは予定のポイントへ到着した。本来向かうはずだった集落へは、まだ若干の距離がある。
「……到着しました」
「あんた、寝ぼけてるんじゃないの? どこに人が住んでるって言うの?」
 とげとげしい物言いで香織が言う。
(損な役回りだよなぁ……)
 心の中で小十郎は呟く。
「さっきも言ったんですけど、晃司さんの指示なんですよう」
 サイドブレーキを引き、小十郎はエンジンを切った。そのまま、有無を言わさずに車を降りる。
「とりあえず、私たちも降りてみませんか?」
 橘花の言葉を皮切りに、他の一同も車を降りた。
 そこは森に囲まれたキャンプ場だった。いや、かつてはキャンプ場であったと言うべきかもしれない。今は訪れる者も手入れをする者もなく、山の中にぽつんと存在しているだけの、人工の空き地に等しい。
「なんだってのよ、いったい……」
 ぼやきながら周囲を見回しているうちに、香織は何か妙な気配に気づいた。
「囲まれてる?!」
「みたいやな。それも半端な数やない」
 香織と音々はそれぞれに表情を引き締め、身構えた。義体も橘花をかばうようにしながら、周囲の様子をうかがっている。
「こっちから攻め込むか……?」
 音々がそう呟いた直後、森の中から数名の女性が飛び出してきた。
「美咲様! 美咲様じゃありませんか!!」
「えっ?」
 不意に、捨てたはずの名を呼ばれ、香織は呆気にとられた。飛び出してきた女性の数は三人。年の頃は香織と同じくらいだ。
「お久しぶりです! よくぞご無事で……」
 そうだ。見覚えがある。名前までは覚えていない、だが確かに会ったことはある。そう、かつて咲夜家で共に修行した仲間たちだ。
 その三人に続き、ぞろぞろと森の中から人々が現れ、香織の許に集まってきた。
「美咲様!」
「美咲様!」
 皆が口々に美咲の名を呼び、再会を喜び合っている。
「……ど、どういう事なんや?」
 香織を中心としたお祭り騒ぎを呆然と眺めながら、音々は目をぱちくりとさせた。
「だからですね。全部、晃司さんの指示なんですってば……」


 晃司が会おうとしている傭兵たちが拠点としているのは、須賀という小さな町だった。標高の高い山中にあるこの町は、古くから高原野菜の栽培が盛んだったらしい。それ以外にはなんの取り柄もない田舎町だったのが、二十年ほど前に日本地域では初となる、水力と霊力を併用した発電所が須賀の近くに建設された。その後は霊力に関する研究施設や大学が相次いで建てられ、学術都市として生まれ変わるプロジェクトの中心となる……はずだった。
 実際には多くの施設は建造中のまま、そのプロジェクトは無期凍結となった。事実上の破棄である。戦争の長期化による研究予算削減がその原因だ。
 町へと続く峠道を、晃司の乗る車が走り抜けていく。
「ねえ晃司くん」
 後部座席で、周りの景色をぼんやりと眺めていた漣が、呟くように声をかけた。
「ん?」
「無理しないでね」
 その言葉に、ハンドルを握っている手が僅かに震えた。これから晃司がしようとしている事は、ある意味で綱渡りのようなものだ。何かを成すためにリスクが必要ならば、そのリスクを軽減することが戦略だと晃司は考えている。結果を求めるだけでは戦略とは呼ばない。だが、今の晃司はその自説を無視しているに等しい。
 返す言葉が見つからないままバイクを走らせていると、前方に人陰が見えた。両手に紅白の旗を持ち、目立つように振り回している。
「須賀の傭兵かな?」
 旗を振っている男の手前、2メートルほどの距離でバイクを止める。その直後、ガードレールの向こう側から数名の男達が飛び出してきた。全員が武装しており、そのすべての矛先が晃司たちに向けられている。
「自治領側の人間か?」
 振っていた旗を地面に置いた、リーダー格とおぼしき男が晃司に尋ねた。
「違う。むしろ自治領とは敵対しているくらいだよ。君がリーダーかい?」
「俺はただの部隊長だ。自治領側の人間でないと証明は……」
 そのとき、晃司の側で武器を構えていた男の一人が、部隊長を名乗る男に何事がささやきかけた。
「……なるほどな」
 納得したように部隊長が頷く。
「うちのリーダーに用なのか?」
「まあね。会わせてくれるのかい?」
「いいだろう。とりあえずそのバイク、ちょっと借りるが構わないか?」
 答える代わりに晃司はバイクを降りた。
「結城。長崎。これで先に戻って、車を回してこい」
「りょーかーい」
 名を呼ばれた二人の男は、晃司のバイクに乗って峠道を駆け上っていった。
「ここから須賀まではそう遠くない。三十分もしないうちに戻るだろう。まぁそれまで待っててくれや、江藤君」
「僕を知っているのか?」
 名を呼ばれた事に驚きを隠せず、晃司は尋ね返した。
「『光の夜』以前から、若手の稼ぎ頭として有名だったからな。俺は秋山だ」
 そう言って秋山は左手を差し出した。
「まぁよろしく」
「こちらこそ」
 晃司が握手に応じると、秋山は白い歯を見せて笑った。歳は三十過ぎと言ったところか。
「自治領のボスの弟でありながら、姉とは敵対しつつ在野で復興活動。『光の夜』以降も、よくアンタの名前を聞いたよ」
「そんな大層なもんじゃないよ」
「そう言うな。その話を聞いていたからこそ、あんたを信用したようなもんだからよ」
 そんな会話をしばらくしていると、二台の車が峠を下ってきた。先ほどの男達だろう。
「じゃあ行こうか。俺達のリーダーに会わせてやるよ」
 そう言うと秋山は、結城と呼ばれていた男の車の助手席に乗り込んだ。晃司と漣はその後部座席に乗り込む。
 結城の運転で峠道を進むにつれて飛び込んできた光景に、晃司は自分の目を疑った。
「桜? こんな季節に……」
 窓の外には、満開とは呼べないものの、見覚えのある花が咲き誇っていた。しかし桜は秋冬に咲く花ではないはずだ。
「寒桜」
 ぼそりと漣が呟いた。
「お、そっちのお嬢さんはご存じみたいだな」
 秋山の言葉に漣は頷いた。
「でも、寒桜って普通は年明けから春分くらいまでに咲くって聞いた」
「この時期に咲くやつもあるのさ。須賀の森林公園には、そういう品種が多くてね」
 しばらくすると寒桜が途絶え、代わりに田畑や住居が広がる光景に変わった。どうやら須賀に到着したようだ。
 よく目を凝らすと、道路の脇には見張りとおぼしき雇兵の姿もちらほらと見える。
「リーダーの居る建物はあれだ。あの山際の、学校みたいなやつ。江藤君」
 そう言って秋山の指さす方向には、何かの研究施設らしい建物がぽつんと建っていた。このさほど広くない集落からすれば、明らかに中心部とはほど遠い立地だ。
「例のネットのサーバもあそこにある。まぁ俺はああいうのは苦手でよく判らんのだがね」
「リーダーってどういう人なんですか?」
 何気なしに尋ねた晃司の言葉に、秋山は頭をかきむしって考え込んだ。
「……俺の口からはうまく言えないな」
 それだけを答え、秋山はにやにやと笑った。その姿にどことなく違和感を感じながらも、晃司はそれ以上の追求をやめることにした。

『須賀霊力技術研究センター』
 傭兵たちのボスが居るという建物には、そう彫られたプレートが掲げられていた。あまりにもストレートなネーミングに、思わず晃司は苦笑さえ浮かべてしまう。
 建物の内部はきわめて近代的なものだった。話に聞いて予想していた、もっと工事中っぽいものとは大違いだ。
「アンタも、この辺りが建造途中で放棄されてきたって聞いてきたのかい?」
 晃司が意外そうな顔をしていたのに気づき、秋山は意地悪く笑いながら尋ねた。
「あれはあくまでも公式発表だ。ま、俺もここに来てから気づいた口だがね」
「どういう事なんですか?」
「ボスに聞けば判るさ。こっちだ」
 病院を思わせる冷たい空気の漂う廊下を、秋山に連れられるように晃司と漣は歩いた。時折すれ違う人々は、皆が忙しそうに早足で歩いている。その中には、明らかに雇兵には見えないような者も多々見られた。
 と、あるエレベータの前で秋山は立ち止まった。
「こいつに乗り込んでくれ。勝手に最下層まで降りていくように遠隔操作されるはずだから」
「貴方は来ないんですか?」
「俺には俺の仕事があるからな」
 そう言って秋山がエレベータのスイッチを押すと、程なくして扉が開いた。
「じゃあな」
 片手をひらひらさせ、秋山は二人に背を向けて去っていった。
「どうするの?」
「行くしかないさ」
 漣の問いに対し、間髪入れずに答えると、晃司はさっさとエレベータに乗り込んだ。その後に漣が無言で続く。二人が乗り込むと、扉が閉まり、エレベータはゆっくりと降下を始めた。
 罠の可能性は否定できない。須賀の雇兵が、何らかの理由で晃司に対して敵対心を抱いていないという保証はない。理沙の弟という事で、人質としての利用価値があると考えられている可能性もある。
 とは言え、相手の懐に飛び込まない事には事態が進展しない。こうしている間にも、理沙の軍勢はこちらに近づいてきているはずだ。その前にここのボスに話を付け、そして瑠璃奈にも会わねばならない。
 感覚としては地下五〜六階程度は下った頃、エレベータが止まり、扉が開いた。扉の前はちょっとした広さのある部屋になっており、階段状に机が並び、最前列には大きなホワイトボードまである。
「まるで大学の講義室だね」
 電灯は点いているものの、人影はない。ホワイトボードのすぐ脇に扉があり、その他には晃司達が下りてきたエレベータ以外に出口はない。
 考え込んでいると、エレベータの扉が閉まった。そのまま上階へと昇っていく。
(……今ここで襲われたら退路はないな)
 周囲の気配を伺いながら、晃司は扉へと近づいていった。
「漣。気をつけて」
「うん」
 漣の返事を確認し、晃司は意を決して扉を開いた。
 先ほどの部屋を講義室とするならば、そこは講師控え室だった。いくつも並んだ本棚と、その片隅に埋もれているような事務机、そしてさらに奥へと続く扉。広くはないが、密度は濃い。
 そして、その机で本を読んでいる初老の男性。
「ようこそ。須賀霊力技術研究センターへ。私がここの所長を任されている、来生裕悟です」
 いかにも学者といった感じのその男は、分厚い眼鏡越しに晃司と漣を観察するような視線を送った。
「江藤晃司と、妻の漣です。ここの施設の所長という事ですが、傭兵達のリーダーも兼ねていらっしゃるのですか?」
「私の方で伺いますが、何か問題でも?」
 来生はにこにこと笑みを投げかけるが、明らかに作り笑いだ。
(一筋縄ではいかない、か?)
「いえ、別に」
「そうですか。まぁお掛けください」
 来生は机の前にあらかじめ用意してあったパイプ椅子を指差した。座らないことには話をしないと、その目が語っている。
「なにぶん耳が悪いもので、あまり離れたところからだと聞き取りづらいのですよ」
 そう言って来生は、補聴器の付いた自分の耳を晃司達に見せた。
 本当に補聴器なのかどうかは判らないが、とりあえず言葉に従い、晃司達は椅子に腰を下ろした。
「で、ご用件は?」
「いきなりですが本題に入らせていただきます。江藤理沙と一戦交えるためのお手伝いがしたい」
「ほう。しかし、まるっきり無償というわけでもなさそうですが?」
「僕は姉を討てればそれでいいんですが……」
「では本音をどうぞ」
 目を細め、微笑みながら来生は言った。
(……やりづらい)
 まるで風間を相手にしているようだ。奇襲の連続で先手を打たれているような錯覚に陥りそうになる。ならば、
「おもしろい材料を用意してあります」
 こちらも変則的な流れで挑むしかないだろう。
「咲夜家の残党の身柄を、そちらに引き渡します」
「咲夜家の残党、ですか?」
「ええ。自治領側との交渉材料に使うも、実戦部隊としてぶつけるもあなた方の自由です」
『そのくらいにしておいたらどうだい? 晃司君』
 声は天井から響いた。気が付かなかったが、スピーカーが備え付けられていたようだ。晃司が天井を見上げようとした瞬間、奥の扉が開いた。
「久しぶりだね」
 白衣を着たその男に、晃司は確かに見覚えがあった。
「だが、慣れないことはしない方がいい。君は謀略向きの性格じゃないよ。あ、来生君はもう現場に戻ってください」
「判りました。それでは……」
 来生は一礼し、奥の扉から退出していった。その様子を呆然と眺めていた晃司だったが、扉が閉まる音で我に返った。
「どうして貴方が……いや、いったい何をしているんですか?! 樹華さん!」
 混乱を隠しきれず、晃司は声を荒げた。
「色々とね。それより漣、桜はどうしてる?」
「最近はあまり表に出てきません。出てくる時間も、すごく不定期です」
「そうか。ちょっとこっちへ来てくれるかい」
 漣は頷き、樹華の方へ近づいていった。その額に樹華は触れ、瞳を閉じて意識を集中させる。
「存在力が不安定になってきている。あまり時間はなさそうだな……」
 樹華の表情に暗い影が落ちる。
「桜さんがどうかしたんですか? それに、貴方はここで何を」
「詳しい話は奥でしよう。こっちへ来てくれないか」
 樹華が指し示した扉の奥には、巨大な機械が設置されていた。どれくらいの大きさなのかはっきりとは判らないが、ちょっとしたマンションくらいはあるだろう。しかも目の前に見えているものが、この機械の全容というわけでもなさそうだ。
 その異様な機械に対し、晃司は脳裏にひらめく言葉があった。
「まさか祈りシステムですか?!」
「原理はほぼ同じものだ。晃司君、君は電池で動く模型で遊んだことはあるかい?」
「小さい頃に、戦車の模型で遊んだことがありますけど……」
 樹華が何が言いたいのか判らず、晃司は言葉を濁し気味に答えた。
「あれをね。電池のプラスマイナスを逆にセットしていたらどうなると思う?」
「物にもよりますが、簡単な作りのものだったら、戦車は逆に進むはずです」
「その通り」
 満足げに頷く樹華。
「これはまさにそれだ。私はこれを『願いシステム』と名付けている」
「願いシステム……」
「晃司君。君は祈りと願いの違いについて、どう思う?」
「祈りと願い、ですか?」
 尋ねられ、晃司は考え込んだ。
 違うものだとは思う。だが、どう違うのか?と言われると具体的な言葉が出てこない。
 答えあぐねていると、樹華が口を開いた。
「これは私の見解だけどね。祈りは神にするものだけど、願いは必ずしもそうではない。そう思うんだよ」
「それがこのシステムとどういう関係があるんですか?」
「まぁ待ちたまえ。どちらにせよ、何らかの望みがあるからこそ行われる、貴い行為には違いない。だが、しょせん祈りは他力本願と言えなくはないかい?」
「そういう見方もあるかもしれません。それで?」
 晃司は観念して先を促すことにした。樹華の意図は判らないが、ここは彼の話に付きあうしかなさそうだ。
「また質問だが晃司君。君は何か特定の宗教への信仰はあるかい?」
「ありません」
 神頼みをしないわけではないが、特に信仰心があるわけでもない。
 ふと、シェラを始めとする峰誼の民のことを思い出した。峰誼家というのは、ある意味で宗教団体と言えなくもない。かつて拓也に峰誼のことを説明する際にも、宗教団体という風に言ったくらいだ。特定の教義があるわけではないが、集落には掟があり、それは峰誼の民として暮らす以上は絶対的なものだった。そして、一族の始祖である峰誼や雪菜、葉雪をまるで神のように崇め奉る。
 だがそれは峰誼家に限ったことではない。咲夜家も橘家も、結局のところは峰誼家と大差がないように晃司は思う。峰誼家と決定的に違うのは、この二家には神が実在し続け、絶対的な権力を持っていたことだ。だが橘家はその支配を力づくで払いのけたし、咲夜家の支配体制も今や壊滅状態に等しい。
 不意に、ある一つの疑問が浮かんだ。
「質問をしていいですか?」
「なんだね?」
「あなたにとっての峰誼家と言うのは、桜花にとっての咲夜家と同じものだったんですか?」
 樹華は桜花や橘花と違い、独自のコミュニティを形成しようとはしなかった。だが、それは自らの手を煩わせなかったというだけではないのだろうか?
 だが樹華は、晃司の問いに首を左右に振った。
「そんなつもりは私にはなかったよ」
「ですが、峰誼の民の生き方は咲夜家の術者達そのものじゃないですか」
「あれは私の意志でも、峰誼、葉雪、雪菜……誰の意志でもない。あの地で暮らしていた皆が、自分たちで選んだ生き方だった……」
 樹華は悲しげに答えた。
「最初はね。親の病を治すために力をあわせる兄弟、そんな感じだったんだよ。だが、長年にわたる生活の中で、独自の決まりごとが出来はじめ、そして歪んでいったと言ってもいいだろう」
「あなたは何もしなかったんですか?」
「しなかった。する気もおきなかったし、もしその気があっても、聞き入れられなかっただろう」
「どういうことですか?」
「私もまた、彼らにしてみれば神だったからさ。結局のところ、新しい神にすがって生きようとしただろう……」
 そして樹華が去った後、峰誼家は自分たちのすぐ側に封じられていた葉雪と雪菜の復活を、一族あげての悲願とした。それはシェラたち峰誼家の人間にしてみれば、神の復活と同義と言ってもいいだろう。
「もう一つ質問です。僕は橘花に逢いました。峰誼家の民の話では、峰誼を滅ぼし、葉雪と雪菜を封印したのは桜花と橘花だと聞いています。ですが、正直言ってあの橘花がそんな事をする人には見えないのですが……?」
「……あのときは、そうしなければ峰誼家の民が皆殺しにされる可能性があったんだ」
「皆殺し? 誰にですか?」
「桜花だよ。正しくは返り討ちと言うべきだったかもしれない。峰誼は桜花と橘花に対し、第三勢力として戦いを挑もうとしていたんだ」
 それは彼にとって辛い記憶なのか、どこか苦しそうな表情で樹華は答えた。
「なぜそんな事をしようとしたのかは判らない。だが、峰誼は本気だった。あの日、数十年ぶりかで会合を開いていた桜花と橘花の所に、峰誼は葉雪と術者を率いて攻め込んだ」
「そこで返り討ちにあった……?」
「そう言うことだ。あと一歩で桜花と刺し違えるところまではいったらしいのだがね。それを庇おうとした橘花が、結果としてはとどめを刺したことになる。ま、峰誼が決起した理由も、もはや闇の中さ。さて、話を戻そうか。晃司君」
 ため息を一つつき、樹華は襟を整えた。
「さっきも言ったが、祈りは神にするものだが願いはそうじゃない。このシステムの第一目的は、精人のためじゃないんだよ」
 そこで樹華は、言葉を止めた。そして声を待つかのように、晃司の瞳を正面から見据える。
(さっきの電池の話。そしてこれは精人のためのものじゃない……)
 祈りシステムとはなんだったか? 人間の存在力を低下させるものだ。
 では失われた存在力はどうなる? これは推測だが、おそらくは霊力に回るはずだ。神霊術に関する風間の理論によると、無限に存在する平行世界に流されようとする力をX軸、物質がそこに存在し続ける力をY軸、物質にかかる時間の流れをZ軸として仮定したとき、この三つの力の総計は常に一定のはずだ。言い換えれば、Xを不安定力、Yを存在力、Zを持続力と呼び、これらはそれぞれ霊力の強さ・精霊術の強さ・術の持続時間に影響すると学んだ。ここで存在力を低下させたとしても、総計が一定である以上は、他の二種の力に分散されることになる。
『人間の持つこれらの力を、ちぎっては投げ、またちぎっては投げるのが神霊術。もしくは魔術なんや』
 風間はかつてそう語った。さらに風間理論によると、霊力とはこの「不安定力」と「持続力」の二種によって強さが決まる。が、持続力というのは同じ人間であれば大差がないものらしい。つまり、人間の霊力の強さは、実質的には不安定力によって決まる。精人はこの不安定力が極めて強く、代わりに存在力が限りなくゼロに近い。人間は、その逆というのが本来の姿だ。だが精人の血族との混血や、魔導水晶を用いることにより、不安定力の高い人間も居る。これが術者ということになる。
 祈りシステムの逆ということは、この存在力を高め、不安定力を下げる装置ということになる。
(精人を人間化するシステムか?)
 違うはずだ。樹華は、願いシステムの第一目的は精人のためではないと言った。
 考え方を変える必要がある。祈りシステムによって、何が引き起こされた……?
「そうか!」
 自分が導いた予想は、すぐに確信に変わった。
「詩織ちゃんを、再び人間のかたちに戻すシステムなんですね?」
「それじゃ60点、という所かな」
 言葉とは裏腹に、樹華は満足げな微笑みを浮かべた。
「祈りシステムによって放出されたものを回収する、と言った方が正しいね。祈りシステムによって精人化した詩織さんは、今はバラバラに散らばった状態だ。その形態の一つとして、京都地区を中心に日本地域を覆っている特殊な霊力がある」
「特殊な霊力、ですか?」
「そうだ。それ単体では何の意味もないし、さほど強い力でもない。だがこれが、咲夜家の人間を捜し出すという例のセンサーに一役買うことになってしまってるんだ」
「咲夜検知フィールドと呼ばれている結界のことですね」
 晃司の言葉に樹華は頷く。
「橘家の方でも計算外だったようだが、元々はあの結界は咲夜家に連なる人間の霊力を封じ込めるためのものだったようだ。が、それと詩織さんの霊力が混じり合った事で、その効力が抑えられたってわけさ。しかし、そのせいで詩織さんの一部がその結界に取り込まれてしまった。そして、この結界が桜にも影響を及ぼしている」
「桜さんにもですか? どうして……」
「私にも判らない。ただ、元々不安定だった桜と漣の存在に対し、ゆるやかな消耗を強いているのは確かだ。だから私はなんとしてもこの結界を取り除かねばならない。さもなくば、桜と漣のどちらか……あるいは両方の存在が失われることになる」
 それで樹華は、漣に逢った時に桜のことを尋ねていたのだろう。漣の様子に変わったところが無いため、何も心配していなかったのだが、まさかそういう事態になっていたとは思いもしなかった。
「詩織さんを本来あるべき姿に戻すことで結界を取り除く。さらに、できることなら桜と漣の存在力を高め、個々の存在に分離させたい。それが願いシステムの目的さ」
「漣と桜さんを?! それが可能なんですか?!」
「できることなら、さ。詩織さんの場合は本来のバランスに戻るように力を調整すればいいんだが、あの二人の場合には力の絶対量が不足している。足りない分をどうやって補うかが問題なんだよ」
 そう言うと樹華は肩を落とした。
「詩織さんを元通りにするのだって、彼女を構成していた要素がまだ揃いきらないからね」
「それなら心当たりがあります!」
 晃司は義体の事を樹華に話した。
「……詩織さんと瑠璃奈さん、もしくは詩織さんの子供が混じり合った存在か」
 顔をしかめ、樹華はうつむいて考え込んだ。
「確証は持てません。風間さんは『ノイズ』と呼んでいました」
「とりあえず、その義体に会わない事には始まらないな。後で連れてきてくれないか?」
「元よりそのつもりです。ところで樹華さん。僕たちは、この町に瑠璃奈という名の女性がいると聞いてやってきました。ご存じですか?」
「ああ。おそらく、君たちの目的はそうだろうと思ってたよ」
 苦笑いにも似た笑みを浮かべ、樹華は頷いた。やっと本題に入ったのか、とでも言いたげだ。
「彼女は何者なんですか?」
「君ももう、予測が立っているんじゃないかい?」
 樹華の言葉に晃司は頷いた。
「詩織ちゃんを構成していた要素の一つ、ですね?」
「おそらくは……そうだろうね」
 樹華ははぐらかすような言い方をした。
「おそらく? どういう事なんですか?」
「……質問責めだなぁ」
「す、すみません!」
 樹華の言うとおり、さっきから晃司は質問ばかりを並べ立てているようなものだ。だが、それを聞かないことには話が進まない。晃司は無言で樹華の答えを待った。
 そして、樹華はようやく口を開いた。
「ここの所忙しかったせいか、ちょっと苛立っているようだ。すまないね」
 苦笑混じりに樹華は言った。
「いえ……こちらこそ焦っていたようです」
「晃司君。あくまでも要素の一つにすぎない彼女が、どうして普通の人間として存在を保っていられるんだと思う?」
 言われてみればその通りだ。存在できるはずがないからこそ、彼女の存在が分散してしまっているのだ。だから、存在力を補うために義体が必要だったはずだ。
(義体?)
 晃司が連れてきた義体こそが答えではないか。
「彼女も……元々義体に宿っていた存在も、混じっているんですか?」
「そう。詩織さんと何かが混じりあい、咲夜瑠璃奈の姿をした者。それがこの町に居る瑠璃奈さんだというのが私の出した結論さ。君がこの地下へ下りてくる前、ここへ来るように伝令を頼んでおいた。もうそろそろ来る頃だよ」
 ちょうどその時、晃司達のいる方へと駆けつけてくる足音が聞こえてきた。
「いいタイミングだね」
 樹華が言った。
 だが、二人の前に姿を見せたのは秋山だった。
「鳳さんよ! 公園南の森の中で、自治領軍とドンパチ始めた連中がいやがるぜ!」
「あっちの方に展開している部隊はいないはずだが……まさか、晃司君?」
 樹華の視線に、晃司は歯を食いしばりながら頷いた。
「僕が音々ちゃん達と咲夜家の方々を呼び寄せたポイントです……」
「……秋山君。遊撃部隊を含む、すべての部隊を町の防衛に回してくれ。私が直接迎撃に出る」
「了解!」
 軍隊風の敬礼で応え、秋山は足早にその場を去っていった。
「晃司君、案内を頼む。急ごう」

 まさかこうなるとは予想できなかった……。
 舌打ちしながらも、小十郎は退路に頭を巡らせていた。
 美咲との再会の喜びに、咲夜家の皆は湧いていた。それは、これまでただ生き残るための逃亡生活を強いられてきた咲夜家の術者達に、ようやく訪れた歓喜の瞬間だった。
 だが、それが気の緩みに繋がることを、小十郎自身も完全に失念していた。
 気が付くと自治領軍の部隊に包囲されていた。おそらくは先遣部隊だったのだろう、決して敵兵の数は多くなかったため、包囲網そのものは簡単に突破した。だが、本隊の到着もそう遠くないだろう。現に今も、執拗に追いかけてくる部隊との交戦中だ。
 咲夜家の術者にも、何人か死傷者が出ている。明らかに悪い流れとしか言いようがない。
「晃司さんは僕らを売ったのか……?」
 不意に口をついて出たその言葉に、先頭を歩いていた音々が振り返った。
「あほか! んなわけ無いやろ!!」
「でもネオンねえさん。そうでなきゃ、どうして晃司さんは僕らをこんな所に集めたんですか?!」
「じゃあ小十郎。なんで晃司お兄ちゃんが、うちらを自治領の連中に売り飛ばすんや?」
「それは、自分の身かわいさで……。あるいは何か弱みを握られていたとか……」
「ありえへんわ。晃司お兄ちゃんは、んな人とちゃうからな」
 何の根拠にもなっていないが、音々はきっぱりとそう言いきった。
「でも……」
「信じたらんかい」
 決して強い口調ではなく、音々はぶっきらぼうに言い放った。その言葉には迷いのかけらすら感じられない。
「小十郎。とりあえずしんがりに回って守りを固めとき。この森が例の町に近いんやったら、戦闘に突入したことはもう伝わってるはずや。迎撃部隊が出てくるなり晃司お兄ちゃんが戻ってくるなり、とりあえず状況が変わるまでは、こっちの犠牲を抑えるしか手の打ちようがないやろ」
「……ういっす。それじゃ、こっちはお願いします。橘花ねえさんも気をつけてくださいね」
 その言葉に、音々の脇で二人のやりとりを聞いていた橘花が微笑んだ。
「あ、ありがとうございます」
 そうやって照れ笑いを浮かべる姿は、どうみてもまだ少女にしか見えない。荒みかけていた気持ちが少し穏やかになるのを感じながら、小十郎が音々の言葉に従おうとしたときだった。
 それまで後方にいたはずの香織が、息を切らせて走ってきた。
「また追っ手が迫って来てるわ! どうするの?!」
 苛立ちを隠そうともせず、香織は怒鳴った。
「くっ……」
 音々は歯噛みした。数の不利に加え、土地勘もない。自分一人と、身近な人間くらいならなんとか出来るが、咲夜家の皆を守りながら戦えるとは思えない。
 頼れるのはただ一人だけだ。
「メパンチ、なんとか皆を守ったって!!」
 橘花ならば。桜花に匹敵する力を持つ橘花ならば、なんとかしてくれるはずだ。
 相棒として力を借りるのではなく、精人の力をもってして敵軍にあたらねばならない事態が悔しかった。人間同士の戦いならば、精人の力など借りたくはなかった。
 だが、そんなエゴを貫いている場合ではない。今は人命が最優先だった。
「わ、わかりました! でも音々ねえさんは?」
 不安そうに見上げる橘花に、音々はにやりと笑って見せた。精一杯の意地だった。
「小十郎! 迎撃に行くで!!」
「ういっす!」
 刀を抜き、小十郎が頷いた。
「香織さん。義体とみんなをよろしく頼むわ」
「あんた何言ってんの? あたしも行くわよ」
 音々の言葉に、香織は露骨に不快そうな表情を見せた。だが音々は首を振り、
「咲夜家のみんなの支えになれるんは、香織さんしかおらへんやん。義体のねーちゃんを任せられるのも、香織さんくらいやし」
 香織が何か言い返そうとしたが、音々はその唇を自分の指で塞いだ。
「それにな。さらに伏兵が来たときに、指揮を執れる人間がいないと困るやろ?」
 微笑み、香織の唇から指を離す。
「……判ったわ。でも、死なないでよね」
「わーってる、って」
 手をひらひらを振り、音々は香織に背を向けて走り出した。その後を小十郎が追う。
 咲夜家の術者達が、香織達の方へと足早に向かう流れに逆らうように、二人は森を駆け抜けていった。
「あのー、ネオンねえさん。やっぱ僕らいいコンビじゃないすか?」
「んな台詞は七年半早いわ、あほ」
「きっついなぁ」
 しばらく走っていると、最後尾に居たはずの美樹の姿が見えた。
「小十郎くん!」
 二人の姿を見つけた美樹は、猛烈な勢いで小十郎に駆け寄り、その胸に抱きついた。
「ひゅーひゅー。あっついね……」
 その姿を茶化そうとした音々だったが、尋常ではない美樹の様子に言葉を失った。彼女の顔は青ざめ、小十郎の姿に安堵したのか、堰を切ったように涙をこぼしている。
「百合花と利香子が……追っ手に殺されちゃったの」
「美樹……」
「いやなの。もうこれ以上は、怖くて、つらいから」
 小十郎の呼びかけさえも耳に届かないのか、美樹は一方的に言葉を並べ立てる。
「美樹!」
 美樹の肩を激しく揺すり、小十郎は怒鳴りつけるように声をあげた。その剣幕に、美樹の視線が小十郎に釘付けになる。
「ここは危険だから、橘花さんや香織さんたちの居るところへ行くんだ。追っ手は僕らがここで食い止める」
 そして軽く口づけをしたかと思うと、次の瞬間には美樹の身体を突き放していた。
「走るんだ!」
「小十郎くん! 死なないで!」
「ああ。約束するよ」
 その言葉に美樹は頷き、小十郎達が走ってきた方へと走り去った。
「ひゅーひゅー。かっこいーーー」
 にやにやと笑いながら、音々はシラケた拍手を小十郎に贈った。
「いやいや。彼氏のいないうちの前で、よくもまぁそんだけラブラブできるこって。若い子は羨ましいねえ」
「僕は隠し事はしないんすよ」
 軽口をたたき合いながら、二人は森の中を駆け抜けてゆく。
 だが、いっこうに敵の気配は感じられない。
「まさかすれ違ったんじゃ?」
 立ち止まり、小十郎が呟いた。
「だったら最悪やな。戻った方がええんやろか……」
 小十郎より数メートル先で立ち止まろうとして、音々は絶句した。
 彼女の目の前にある急な下り坂。その一帯だけ、森が壊れていた。少なくとも、音々の目にはそう映った。
 音々の様子に気づき、小十郎もあわてて駆け寄り、坂の下を覗き込んだ。
 そして同じように絶句した。修羅場は見慣れているつもりだったが、眼下のそれは次元が違う。
 地面がぬかるんでいた。雨が降った訳ではない。そこに飛び散っている、おびただしいまでの血がそうさせているのだ。
 風上にいたせいで気づかなかったが、鉄と生魚を混ぜたような臭いさえも漂ってくる。 そこにあったのは虐殺の跡だった。大勢の自治領兵士の、原型をとどめない死骸が、不法投棄されたゴミのごとく森を汚していた。
「えぐいこと……しよんな……」
 音々の頬を脂汗がつたった。
「ほとんどが斬殺っすね。こんなこと出来るのは、あの人しか……」
「せやな。あいつもここに来てる。そう言うことやろ」
 鳳拓也。そしてシェラ・峰誼。あの二人もまた、須賀へ来ている。音々も小十郎も、それを確信していた。
「音々ちゃん! 小十郎くん!」
 聞き慣れた声が、死体の海の向こうから聞こえてきた。声の方に目をやると、そこには晃司と二人の人間の姿があった。一人は樹華だとすぐに判ったが、もう一人が誰だか思い当たらない。
 女性だ。歳は音々とそう離れてはいない。見覚えはあるような気はするが、どうにも記憶のピントが合わない。
「あの人、どっかで見覚えが……」
 小十郎も首を傾げる。
 その女性は目の前の惨状に驚いてはいたが、それだけだった。普通の人間なら吐いてもおかしくない状況だし、逃げ出しても不思議ではない。ただ目の前のすべてを受け入れ、そして悲しんでいるような、そんな表情を浮かべていた。
「とりあえずあっちに行こか。晃司お兄ちゃんには言いたいこともあるしな」
 小十郎の返事を待たず、音々は走り出した。
「あ! ネオンねえさん! 早いっすよ!」
 慌てて小十郎も後を追う。そして、小十郎が音々に追い付いた時、彼女はその拳で晃司を殴り飛ばしていた。
「……なんで殴られたか、判ってるやんな?」
「ああ……」
 殴られた頬を押さえ、晃司は上半身を起こした。
「なんでうちらを売り飛ばしたんや?」
(さっき『ありえない』って言ってたのは、ネオンねえさんじゃ……)
 突っ込みたい衝動を必死にこらえ、小十郎は二人のやりとりを見守るしかなかった。もし口を挟もうものなら、次に殴られるのは自分だろう。
「そう言われても仕方がない。弁解のしようもないよ……」
「ふん! そうやって自分で全部抱え込むのがカッコエエとでも思うとるんやろ。勝手にし!」
 吐き捨て、音々は樹華の方に向き直った。
「で、その人は誰なん?」
 樹華の傍らに立つ女性を視線で示し、音々は尋ねた。
「彼女は瑠璃奈。町の皆が、彼女のことをそう呼んでいる。今はそれだけしか言えない」
 樹華に促され、瑠璃奈は音々に一礼した。

To be continued.
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