Moonshine <Pray and Wish.>
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Episode 07 雪の舞う、寒桜の森で


  ばらばらのピースをつなぎ合わせるのは、結局は人の意志。
  見たものをどう捉えるのかのも、やはり人の意志。

「pieces of angel」

 音々はげんこつの嵐を浴びていた。それ自体は痛くはないのだが、同時に刺さる視線が非常に痛い。
「晃司くんをぶったぶったぶったぶったぁ!」
「いや、だからそれは僕が」
「ぶったぶったぶったぶった……」
 止める晃司の声も聞かず、漣は駄々っ子のごとく音々を叩き続けている。

 音々が晃司を殴り飛ばしてからしばらく後、少し遅れて歩いていた漣が到着した。そして、頬を押さえて地面に座り込んでいる晃司の姿を見るや、すぐに音々に飛びかかったのである。
「あうぅ。もうせぇへん! もうせぇへんから勘弁して〜!」
 考えてみれば、昔から漣にはかなわなかった。何をしても頭が上がらなかったとも言える。だからこそ、晃司を取られても仕方がないとも思えたのだが。
 音々の言葉に、漣の動きがぴたりと止まった。そして、涙ぐんだ瞳で、音々の顔を覗き込む。
「ほんとに?」
 音々は大げさに首を前後に振り、
「ホンマやって。うち、嘘はつかへんやろ?」
 演技混じりでさわやかに笑った。
 漣はしばらく考え込んでいたが、
「……つくー!」
 きっぱりと言いきり、再びげんこつラッシュが始まった。誰もそれを止めようとはしない。
 途方に暮れつつも対処方法を考えていると、漣の動きが急にぴたりと止まった。その視線は、音々の遥か後方を見つめている。ふと見ると、樹華も同じ方向を睨みつけていた。
「あっちに……居る」
「居るって?」
 晃司が尋ねた。
「あのバカ息子だよ。それと、まさか……」
 樹華は顔をこわばらせつつ、言葉を濁らせた。
「行こか。行かな始まらん。なぁ小十郎?」
「そうすね」
 音々と小十郎が駆け出そうとした瞬間、樹華が小十郎の肩を掴んだ。
「いや、私が行こう。小十郎君は漣と一緒に咲夜家の皆を迎えに行って欲しいんだ。そのまま須賀へ向かって、そこで待機していて欲しい。晃司君の方の事情は、うまく説明してやってくれないか?」
「……判りました」
 少し不満ではあったが、咲夜家の皆を放っておくわけにもいかず、小十郎は渋々ながらに頷いた。
「気ぃつけや! コケたらあかんで」
 そう言って背を叩く音々に軽く手を振り、小十郎はもと来た方角へと走っていった。
「晃司君は漣と瑠璃奈を連れて、いったん須賀へ戻って……瑠璃奈!」
 樹華の言葉を聞いてか聞かずか、瑠璃奈はいきなり走りだした。だがその肩を、素早く立ち上がった晃司が掴んで制止した。
「一人で動くのは危険です!」
「でも行かなきゃ! 私を呼んでるの!」
「必ず君をあいつに逢わせます! だから今は待ってください!」
 晃司も必死だったが、それは瑠璃奈も同様だった。
 意識を取り戻してからずっと感じていた。
 誰かに呼ばれているような感覚。
 失った何かが、自分はここにあると訴えているような感覚。
 それらが、森に入ってから急に強まっていた。
 強まり続けるその感覚は、ついに自分を走らせた。
 行き先は判らない。でもどこへ向かえばいいかは感じられる。
「待てません!」
 涙ぐみながら瑠璃奈は叫ぶ。そんな二人の間に樹華が割って入った。
「言っても聞かないよ。私と瑠璃奈で拓也の元へ向かおう。漣はどうする?」
 尋ねられ、漣はしばし考え込んだ。
「晃司君についていく」
「では、晃司君は?」
「僕も拓也を追います」
 晃司は即答した。てっきり、漣を安全な場所へ連れていくという返事が返ってくると思っていた樹華は、かすかに顔をしかめた。
「今の拓也に近づくことは危険じゃないか? せめてシステムの発動を待つべきだと私は思うが……」
「だったらなおさら、あなた方二人だけで行かせるわけにはいきませんよ。それに、あいつは危険でもなんでもありませんよ」
 晃司は、ため息混じりに言い捨てた。
「……何か考えがあるみたいだね。いいだろう。音々さんは?」
 名前を呼ぶが音々は反応しない。地べたに座り込んだまま、ぼーっと上を眺めている。
「音々さん?」
「はい?」
 二度目の声でようやく返事をした。
「私たちは拓也を捜しに行くが、君はどうする?」
「んー。どうしよっかなぁ……樹華さんって、戦闘は得意なんですか?」
「正直、あまり得意じゃない」
 苦笑気味に樹華は答えた。
「なら、うちも付いてきますわ。白兵戦できるのが晃司お兄ちゃんだけやったらヤバいやろうし、せっかくこっち来たのに、何もせぇへんで戻るんもイヤやしね」
「そうか、助かるよ。ところで何を観ていたんだい?」
「この……寒桜、ゆうんですか? 珍しい思うて……」
 桜は本来、春を告げる花だ。それがこんな肌寒い空気の中で咲いているというだけで、音々は妙に違和感を感じていた。だが、それはけして不快なものではない。
「一段落ついたら、ゆっくりと花見でもしようじゃないか」
 少しあきれ気味に微笑み、樹華は言った。
「だが今はそんな時期ではない。急ごう。そこの死体を見るかぎりでは、そう遠くへは行っていないはずだ」
「でも、どないやって探すゆーんです?」
 辺り一面に咲く寒桜を眺めていた音々が尋ねた。けして視界は良いと言えない森の中で、あてずっぽうに誰かを探すのは、なかなか骨が折れそうだ。
「強い神霊術でも使ってくれれば私の方で察知できるんだがね。ここで行われた戦闘に私が気づけなかったくらいだから、おそらくあいつは滅多に術を使わないスタイルなんだろう」
 少し誇らしげに樹華は言った。
「そしたら八方塞がりってことと違いますん?」
「そうでもないさ。ここは瑠璃奈の直感に任せよう。何か感じるものがあるんだろう?」
 皆の視線がいっせいに瑠璃奈へと向いた。しばし逡巡したのち、彼女ははっきりと頷いて見せた。
「たぶん……向こうの方です」
 そう言って瑠璃奈が指さしたのは、ついさっき小十郎が走り去った方向だった。
「……音々さん。咲夜家の人たちは、どっちの方角へ向かっているか判りますか?」
「えーと。太陽があっちやから……北東の方や思いますけど」
 音々の言葉をもとに、樹華は須賀付近の地形と部隊配置を頭に描く。考えがまとまるにつれ、その表情から血の気が失せていくのが自覚できた。
「まずい……その方角だと、完全に背後を突かれることになる!」
 晃司たちが須賀へ向かってきたルートで、自治領軍も攻め込んでくると樹華は予測していた。大規模な部隊ともなると、整備された道でないとすぐに行軍が乱れてしまい、統率が取れなくなるおそれがあるからだ。
 だが、ここの死体の山を見るかぎり、自治領軍は予測とは異なる動きをとっているようだ。ここの一部隊は拓也によって殲滅したが、森を突っ切るルートを取っている部隊がこれだけとは限らない。もし別動隊が居たとして、咲夜家の者たちを追ってこの森を北東へ進めば、須賀の傭兵部隊が一番手薄になっているエリアに出るはずだ。拓也とシェラが自治領軍と敵対しているのであれば、拓也の行動ルートは自治領軍を追っているということになる。
 拓也の向かう先に、自治領軍がいる可能性は極めて高い。そしてその自治領軍は、咲夜家の術者達を追って、須賀の傭兵達の後背を突くことになる。それは一つの可能性に過ぎないが、けして低くはなく、それが現実となった場合の損害は致命的すぎた。
「急いで須賀に引き返そう。急がないと手遅れになる」


 晃司の言葉通り、香織に率いられた咲夜家の面々は北東の方角へ向かっていた。咲夜家の残党のうち、ここに集まった実戦部隊でも200人近くの術者が居る。それだけの人数が、木々の生い茂った森の中を移動するのは、ただそれだけでも困難だった。
 香織は術者全員を7〜8人程度の班に分けた上で班長を選別し、さらに4班ずつを1隊にして隊長を決めた。そうして各班のメンバーは班長を、各班長は隊長の所属する班を、そして各隊長は香織を追い掛けるようにして森の中を進むことにした。そうすれば全員がひとかたまりになる必要はない。細かい伝達は、美樹がよくサポートしてくれた。
「はぐれた班はいない?」
 手元の方位磁針を確かめながら、香織は隣を走る美樹に尋ねた。
「今のところは大丈夫です。み……香織様」
 何か起きた場合、美樹の持つ無線に連絡が入ることになっている。
「呼び捨てでいいわよ。その丁寧な喋り方もやめてくれると嬉しいんだけど」
「は……あ、うん。ごめん、まだあまり慣れてなくて」
 気恥ずかしそうに美樹は笑った。
 術者たちのチームワークは完ぺきなものだった。集団戦闘を得意とする橘家と違い、咲夜家の術者は基本的に個人プレーが中心だった。そんな彼女らが、ここまで集団行動をこなせるようになっていることは、かつての咲夜家しか知らない香織にはちょっとした驚きだった。
 班分けしての移動にしても、ほとんどは美樹のアイデアと言ってもいい。咲夜家当主の娘という、単なる偶像に過ぎない人望でしかない香織と違い、美樹や小十郎の人望は経験によって積み重ねられてきたものだ。
 それが今の香織には少し眩しすぎた。地べたを這いずり回るようにして生きてきた自分が、なんとも惨めに思えてくる。かつての仲間たちが集まり、こんな風に前向きに生きているともっと早くに知り、皆に合流できていれば――
 そんな仮定を脳裏に描いている自分が情けなくなり、香織は自らの考えを振り払うように頭を振った。その時、
「左!」
 義体の声で、完全に現実に引き戻された。
 左前方に、香織達の方向へ向かってくる部隊が見えた。服装からして自治領軍の正規兵、それもかなりの数だ。
 だが退路はない。ここで方向転換をしても、後続が狙い打ちされるだけだ。
「覚悟を決めるしかないわね……」
 足を止め、香織は大きく息を吐いた。が、彼女の服の裾を引っ張る者が居た。
「私が食い止めます。皆さんは先へ向かってください」
 橘花だった。その表情は冷たく、普段音々と会話している姿とは別人のようだった。
(まるで桜花みたいね)
 彼女もまた精人であることを、忘れかけていた。
「それじゃ、頼むわ」
 香織の言葉に橘花は無言で頷いた。
 桁違いの力を持つ橘花ならば、一人でもこの場を抑えることはたやすいだろう。
 橘花の肩を叩き、香織は再び走り出した。当初の進路からやや右方向、方角で言えば東北東くらいの方角へと向かう。その後ろ姿を、美樹と義体も追って走ってゆく。
 先頭を走る香織らが進路を変えたのに気づき、後続の術者たちもそれに続いた。

 その光景を、ひざの震えを必死にこらえながら橘花は見つめていた。遠くからこちらへ向かってくる力がいくつかある。力の強さからして、樹華や音々たちだろう。
 あとは、やれるところまでやるだけだ。
 約束は守らねばならないから。

 ちょうどその頃、後から走ってきた小十郎が術者の一人に追い付いていた。
「美樹か香織さんは?」
「先頭を走っているはずですが……」
 尋ねられた術者が答える。
「判った。今のペースを維持したまま進んでくれ」
「はい」
 頷いた術者に手を振り、小十郎は再びハイペースで走り出した。
 何班かの術者達を追い抜いた後、ようやく美樹の姿を見つけることができた。
「美樹!」
 小十郎が呼ぶと、美樹は立ち止まった。
「来ちゃ駄目!!」
「……えっ?」
 ほんの一瞬だけ自分の耳を疑った後、小十郎は条件反射のごとく走り出していた。
「美樹ぃっ!!!」
 絶叫しながら美樹との距離を詰めていく。何が起きているのかは判らないが、美樹に危険が迫っていることは確かだった。
 美樹まであと数メートルまで迫ったとき、かすかに草を踏む音が小十郎の耳に入った。その瞬間、小十郎は地面を蹴り、音とは反対の方へ身を翻した。
 体勢を崩しながら地面に倒れ込みつつ、小十郎は見た。ナイフを手に飛び出してきた人影を。
「よくかわしたな! 小十郎!」
 声は女性のものだった。
 土の上を横転するように勢いをつけて立ち上がり、小十郎は刀を抜いた。
 相手には見覚えがあった。
「北嶋……由香……!」
 志帆の恋人兼護衛として、常に付き従っていた女性だ。そして、小十郎に戦闘術の基本を教えてくれたのも彼女である。
「気配は完全に殺していたつもりなんだけど。だいぶ修羅場をくぐってきたようね」
 心底嬉しそうに、由香はにやりと微笑む。
 志帆が理沙側についた事は知っていた。だからいつかこういう局面が訪れる覚悟はできていた。できてはいたのだが……
(自分の身近にいた人間を、僕は斬れるのか?)
 迷った瞬間、左腕に激痛が走った。そして腕の付け根に刺さったナイフに気づく。
「間抜けなのは相変わらずのようね」
 そう言ってのける由香の手に、先ほど持っていたナイフはない。
 その時、木陰から別の女性が姿を見せた。
「遊んでいる暇はないわ。はやく始末して」
「分かっているわ」
 そう呟き、由香はその女性の腰を抱き寄せ、耳たぶを軽く口にくわえた。
「姉上っ!!!」
 小十郎は義手でナイフを抜いて投げ捨て、刀を抜いた。
 由香の腕の中で恍惚の笑みを浮かべるその女性、志帆はひどく冷たい視線で弟の姿を見た。
「もう邪魔だから。早く殺して」
 その一言が小十郎の闘争心に火を点けた。刀を水平に構え、由香ごと志帆を斬るような勢いで刀を振るう。
「見え見えよ」
 小馬鹿にするように呟き、由香は志帆を片手で抱いたまま跳んだ。空いた方の手で木の枝を掴み、そのまま身を翻して枝の上に飛び移る。その様子はまるで……
「猿かよあんたはっ!!」
「その無様な姿の方が、よほど猿みたいよ。ぼっちゃん」
 そう言うと、由香は枝の上から唾を吐いた。それを避けた小十郎の口元を、いつの間にか投げられていたナイフがかする。
「今度は外したみたいね」
 投げナイフを手に、由香が残念そうに言った。小十郎が唾をかわすことを見越してナイフを放ったのだ。
 あとほんの数センチ深く避けていたら、確実に首筋に刺さっていただろう。
「志帆はここで高見の見物、ね?」
「ええ。でも早くしてね。そいつを殺せば、咲夜家の残党は烏合の衆も同然なんだから」
 志帆の言葉にキスで答え、由香は木から飛び降りた。
 そんな由香姿を、小十郎は歯を食いしばりながら睨み付けていた。手も足も出ないという言葉は、まさに今の状況を言うのだろう。だが、由香のさらに向こうで、こちらの様子を不安げに見つめる美樹だけは、なんとしても守り抜かねばならない。
 そんな焦りに、小十郎の心が埋め尽くされた。その、ほんの僅かの間に、由香の姿は視界から消えていた。
「小十郎君っ!!」
「しまっ……」
 美樹の絶叫と小十郎自身の呟き、そして彼の真横で微笑む由香の横顔。
 不吉な予感と失意とが同時に訪れ、そして激痛が波のように襲いかかり、感情を塗りつぶしていった。
 わずかに遅れて、ぼとりと何かが落ちる音がした。それは、刀を握ったままの小十郎の左腕だった。
「両腕とも戴いちゃったわね! はははははは!!!」
 由香の高笑いが響く。
「あっ、姉上……っ!!」
 肩からどくどくと流れ落ちる血を義手で押さえ、小十郎は志帆を睨み付けた。
「今更、命乞いをするとでも言うつもり?」
 なんの表情も浮かべず、志帆は冷たく問い返す。
「姉上! やはり貴女は間違っているっ!! 間違えてしまったんだ!!」
 小十郎の知っている志帆は、もっと優しい、優しすぎるゆえに何も変えられない、そんな女性だったはずだ。そんな姉を、彼は尊敬しているとは言い難かった。だが、それはイコール嫌いだったということではない。
 それなのに。
「間違っているというのなら、皆が間違っているのよ。小十郎」
 その言葉を聞きながら、小十郎の視界が暗転していく。血を失い過ぎたらしい。
(そうかもしれない。でも……)
 音々なら。音々は絶対に間違えない。否、間違いを認めない。自分であっても他人であっても、間違っているのならばそれを正そうとするだろう。今の姉上は、間違いに対して開き直っているだけだ。
(死ぬかな……)
 僅かに残っていた小十郎の意識は、そこで完全に途切れた。


 異変にいちばん早く気づいたのは樹華だった。
「この力……まさか橘花か!?」
 樹華が声をあげた直後、他の者もそれに気づいたようだった。
 その感覚をたとえるとすれば、違和感や不快感という言葉が近いだろう。強大な力というよりは、異様な気配のようなものを、一同は感じていた。
「しかもこの感じ、まさか一人で……」
「どないしたんです? メパンチ……橘花ひとりやったら、なんかマズいんですか?」
 顔を青ざめさせている樹華に、能天気な口調な音々は尋ねた。
「我々精人は強い力を持ってはいるが、けっして万能ではない。それぞれ得意とする分野があって、それ以外においては充分に力を発揮できないんだ」
「……つまり?」
「私は付加系、つまり武器や肉体に力を込めるような分野を得意としている。桜花は純粋に戦闘系の術に長け、橘花は増幅系の力に長けている。つまり橘花は、一人で戦うのには向いて……」
 樹華の言葉が終わる前に、音々は全力で走り去っていた。

 香織は無我夢中で追っ手を振り払っていた。気が付くと美樹の姿も見えず、あちらこちらで術が炸裂する轟音が森の中に響き渡っていた。香織自身も、何人もの自治領軍兵士と遭遇し、それを全て撃退していた。
 そうしてようやく森を抜けたとき、後から着いてきていたのは、当初の人数と比べればごく僅かなものだった。
 他にうまいやり方はなかったのか?
 そんな思いが香織の脳裏を埋め尽くす。
「……まだ森の中から向かってくる人もいるよ」
 うなだれる香織を慰めるように、義体が呟いた。その喋り方が詩織の声とだぶり、香織はハッと顔を上げる。
 だがその時には、義体はもう走り出していた。つい先ほど出てきた森の中へ、義体は再び駆け込んでいく。
 香織はその後ろ姿を追おうとしたが、足を踏み出すことはできなかった。
「これから……どうしますか……?」
 香織以上に憔悴しきった顔を浮かべ、術者達がそこに立っていた。それは、香織の行く手を阻むようでさえあった。
「……ここで後続を待ちましょう」
「しかし敵の追っ手が……」
「その時は、刺し違えてでも皆の仇を討つまでよ」


 悪路をものともせず、音々は森の中を疾風のごとく駆けた。
 慣れぬ術を使いながら、橘花は必死に時間を稼いだ。
 二人は程なくして互いの姿を見つけた。森の中で、わずかに開けたその場所を挟み、音々と橘花は、安堵の表情を浮かべ、次の瞬間には驚愕の表情へと変わっていた。
 そこには音々達を含め、八人の男女が居た。
 両腕を失って倒れている小十郎。
 彼に折り重なるようにして倒れている美樹。
 片腕を失いながらも戦意を失わない由香と、その傍らで顔を青ざめさせる志帆。
 そして、互いに武器を構えて対峙する理沙と拓也。
「……ちょうどいい所に来たな」
 音々の姿に気づいた拓也が、両手に刀を構えたままでそう言った。
「いったい何が起きてるんや?!」
「話は後で、そこで倒れてる女に聞いてくれ。急がないとそいつが死ぬぞ」
「易々と、あたしがアンタたちを逃がすと思う?」
 片手で持った刀を、挑発するように拓也へと向け、理沙は笑った。
 だが、そんな理沙の態度を、拓也は鼻で笑った。
「あんたに俺が止められるのかい?」
「笑止!」
 吐き捨て、理沙が地を蹴った。突進のスピードを乗せきって繰り出される刀に対し、拓也も動いた。持った二刀が仄かに蒼く輝き、左下段から時間差を付けて一気に薙ぎ払う。
 一刀目が理沙の刀を弾いた。突進の方向をそらされ、理沙の身体がバランスを失って空を泳ぐ。
 だが、そのまま理沙の身体が竜巻のように回転し、拓也の二刀目へ向けて再び刀を振り下ろした。理沙の刀を受け止めた衝撃で拓也が左手に持っていた刀が叩き落とされる。と同時に、拓也は右手の刀も捨てた。
「顔面がガラ空きなんだよ!」
 あざけ笑うかのように、拓也の右拳が理沙の頬をえぐった。霊力で威力を増したその拳は、理沙の身体を数メートル吹き飛ばす。その隙に拓也は刀を拾い、理沙に追い打ちを掛けるように飛びかかった。
 理沙は空中で体勢を整え直し、迎撃の構えを取るような姿勢で着地した。
 そこで気づくべきだった。
「身のこなしは超人的だな、あんた!」
「一度勝ったくらいで舐めてかかると、死ぬわよ!」
 理沙の刀が赤く輝き、炎をまとった。その炎に目を奪われた拓也の、一瞬の隙を理沙は見逃さなかった。
「だから甘いって言うのよ」
 理沙の放った神速の一撃を、拓也は左手の刀で受け止めた。刀を両手で持つ理沙と片手の拓也。力勝負での不利を悟った拓也は、左手に霊力を漲らせて筋力を増強させる。
「なっ……?!」
「ほら甘い」
 拓也の驚愕と理沙の余裕の呟きは、ほぼ同時に発せられた。理沙の持つ刀の炎が収束し、赤い光はいっそう輝きを増していく。そして、拓也の持っていた刀にまでその輝きが移った。
「なんだよその力はっ!?」
 拓也の刀はまるで水飴のように溶け始めていた。とっさに拓也は左手の刀を捨て、右手に持っていた桜花咲夜を両手持ちに切り替える。
 しかし、その僅かな動作の間に、理沙は拓也の首を狙って刀を振り下ろしていた。拓也はとっさにかわしたものの、刀の切っ先が髪をかすめ、その熱で焦げる。
「くっ……!」
 動きが別人のようだった。少なくとも、拓也の考えている理沙の剣技とはまるで違う。理沙の剣技は霊力や魔力に頼る類のものではなかったはずだ。
「あんた、こんなに力があったのかよ!」
 だが理沙のその言葉には答えなかった。その顔は苦しみに歪み、何かをこらえるように歯を食いしばっている。
「理沙様! まだ制御が……」
 傍らに駆け寄った志帆が理沙に耳打ちする。
「……退くぞ!!」
 理沙は忌々しげに叫び、次の瞬間には脱兎のごとく逃げ出していた。
「待ちやがれっ!!」
 桜花咲夜を手に、拓也がその後を追って走り去る。
 後には、小十郎と美樹、そしてあっけに取られたままの音々と橘花が残された。
 ほんの数分の出来事だった。


 一人、また一人。
 森の中から、咲夜家の術者たちが姿を見せ始めた。その数は時間とともに増え続け、小一時間もする頃にはほとんどの人間が出そろっていた。
 姿が見えなくなった者は、一割にも満たないだろう。
「急に追っ手の姿が消えてしまって……」
「どこからか援護があったんです」
 無事に香織に合流した者達は、口々にそんな風に語った。何が起きたのかは判らないが、今は感謝するしかない。
 程なくして晃司や樹華達が、香織達の姿を見つけて合流してきた。
「みんな……無事だったのか……」
 安堵しながらも、どこか信じられないといった面持ちで晃司は呟いた。
「あたしにも判らないんだけど、奇跡的にね」
 香織はそう応えたあとで、皆が言っていた謎の援護について晃司に話した。
 それを聞いた晃司は、
「……あいつか? でも何故……」
 そう呟き、それまで自分たちのいた森の方を凝視した。
 樹華と漣は怪我人に治癒術を施して回り、瑠璃奈はその手伝いをしている。義体へ森へ向かったまま、まだ戻ってこない。その様子を、香織はぼんやりと眺めていた。
 瑠璃奈という女性。確かに詩織の面影はある。だが、似ているだけだ。詩織を模して造られた、義体の方が外見上は近いと言えるだろう。細かい仕草は確かに詩織を彷彿させるものがあるが、どことなく違和感がある。
(違う)
 ここにいる女性もまた、詩織ではなかった。少なくとも香織にはそう思えた。
(あたし、何をしてるんだろ……)
 捨てたはずの咲夜家。その残党と行動を共にしている今。そしてこの先、自分がどうなるかまるで判らない。どうしたいのかも判らない。
 しかし、それを模索していかねばならない現状は、けして居心地が悪いものでもなかった。確かに自分の足で歩いている、そんな実感があった。
 そんな実感の果てが、この有様だ。
 確かに数の上では被害は軽微だったと言える。だが香織は、美樹と小十郎の姿が見えないことが気にかかっていた。実質的に現在の術者達を支えているのはあの二人だ。今ここであの二人を失った場合、その影響は計り知れない。
 こうなったのも自分の責任だ。先頭切って逃げた挙げ句、今の咲夜家の中心人物を危険にさらしてしまっているのだから。
 意を決して探しに行こうと決めたとき、森の中から姿を見せる者達があった。
 小十郎を背負った音々と、よろけながら歩く美樹を支える橘花だった。不機嫌そうに顔をしかめて歩く音々の全身は、血で真っ赤に染まっている。
 殺気だったその様子に言葉をかけ損ねているうちに、音々は香織の側まで歩み寄ってきた。そして、顔を真っ青にして失神している小十郎を、静かに地面に横たわらせる。
「メパンチの術で傷口は塞いだけど、出血が多すぎる。誰か病院に運んだってくれるか? その時、左腕がちゃんと動くかどうか検査したってな」
 由香によって切断された腕は繋がっていた。拓也達が去った後、橘花が治癒術を施したのだが、音々はその辺りの経緯を説明しようとはしなかった。
「ちょっと待ってよ! いったい何が起きたの?!」
「詳しいことはあとで美樹さんにでも聞いて。うちは、行かんとあかん」
 香織の言葉に対し、音々は静かにそう言い放った。そして傍らに立つ橘花に視線を送る。橘花は静かに頷いた。
 何も質問を許さないかのような迫力が、今の音々にはあった。それに気圧されたのは何も香織だけではない。晃司も、そして樹華も、何も尋ねることが出来なかった。
 音々と橘花は皆に背を向け、再び森の中へ走り去っていった。
「とりあえず……我々は須賀へ向かおう。小十郎君の手当も必要だし、私の仲間達と合流しておいた方がいいだろう」
 嘆息し、樹華は言った。
「そうですね。正確な状況もつかんでおきたい所ですし」
 晃司が頷く。一度、頭を整理させておく必要がある。こちらの被害状況、須賀の兵力、把握しておくべき情報も多い。


 須賀の傭兵達は、晃司や咲夜家の面々を快く迎え入れた。『光の夜』の原因が咲夜家にあると月政府は喧伝していたし、それはあながち間違ってもいない。一悶着あるのではないかと晃司は懸念していたのだが、杞憂に終わったようだ。
 後でその事を雇兵の一人に尋ねた時、
「咲夜家だ何だのと言っても、結局はあの戦争の負け側のスポンサーってことだろ? ま、会社が倒産したようなもんさ。その社長の文句を言っても始まらねえよ」
 と言って一笑に付されたものだった。
 小十郎の容態は芳しくはなかった。切り落とされた腕は橘花の術で繋がったものの、以前に近いレベルで動くかどうかは判らない。輸血用の血液は不足していたが、それは術者達からの提供でまかなった。
 晃司が理沙や拓也に遭遇した一部始終は、美樹の口から聞いた。その美樹は、鎮静剤を打って眠っている。その辺りは香織の判断だった。
 晃司が美樹から聞いた話をまとめるとこうなる。彼女が由香と志帆に遭遇した直後、小十郎もそこに現れた。小十郎は由香と戦闘状態に突入したが、腕を切り落とされ、窮地に陥る。由香がとどめを刺そうとした時、黒いコートに身を包んだ男−−拓也が現れ、その由香の腕を切り落としたのだという。その後も拓也は由香を圧倒するが、そこに理沙が現れた。理沙と拓也は互角のように見えたが、音々と橘花が姿を見せた直後、ふとしたきっかけで徐々に拓也が押され始める。しかし、理沙が急に苦悶の表情を浮かべ、そのまま逃走。拓也はそれを追っていったのだという。
 今、瑠璃奈はいったん自分の家へ戻り、その後は傭兵達の食事を作りに行っているはずだ。
「……ふう」
 あてがわれた部屋の椅子に座り、晃司は大きくため息を付いた。
「音々ちゃん、戻ってこないね」
 窓から外の景色を眺めつつ、漣が言った。既に陽は沈み、須賀は闇に包まれていた。
 自治領軍による奇襲攻撃は、一応は行われたらしい。そしてそれは、明らかに成功しそうだった。自治領軍の唐突な撤退がなければ。
 その撤退のタイミングは、美樹の話にあった理沙の変調と符合する。そのおかげで、大した被害もなく緒戦は終結した。
「橘花さんも一緒だから、心配は要らないと思うけど……」
「なんとなく……胸騒ぎがするんだ。イヤな事が……起きるような予感とは……少しちが……」
 漣の言葉は妙に間延びし、歯切れが悪い。
「それって……」
 問い返そうとして、晃司は苦笑した。
 歯切れが悪かったのではなく、どうやら眠かったようだ。漣は腰掛けていたベッドにうずくまるようにして眠っていた。
「疲れさせちゃったかな」
 まだ眠るには早い時間だが、そっとしておいた方がいいだろう。

 腕の痛みで小十郎が目を覚ましたのは、夜明けにはまだまだ早い時間だった。
 苦痛と呼ぶのも生易しいほどの痛みだったが、前回ほどではない。そう、志帆を咲夜家から逃がす術として、あの時も由香の手によって腕を切り落とされたのだ。今思い出しても、あまりにも突拍子ない浅知恵で、それゆえに咲夜家の目を完全にくらますことのできる手だった。
 それまでは、自分がこうして戦いに身を投じることになるとは思わなかった。
 咲夜家における男女の人口比率は、明らかに女性の方が多い。また、術者としての能力も、やはり女性の方が強い。したがって、咲夜家の男性の立場は弱い。子をなすための手段としか捉えていない者もいる。
 小十郎の家では、男性は術者である女性を守るために存在するものだと考えている節があった。そのため、小十郎は幼い頃から剣を学ばされていた。特定の友人もなく、それでいて咲夜家の体質にも馴染めなかった小十郎が、それを孤独と感じなかったのは、ひとえに剣が傍らにあったからだと言えるだろう。ただ、そこに目的意識はなかった。
 剣を極めること、それが自分の血肉になっていくこと。
 それが生きている実感になっていた。
「ふぅ……」
 これからどうすればいいのか、皆目見当がつかない。
 そのため息に反応するように、微かな物音がした。
「目が醒めたのか?」
 部屋の隅の、とりわけ暗い闇の中からその声は聞こえた。
「……師匠?」
「手ひどくやられたみたいだな」
 穏やかな声でそう言いながら、拓也が闇の中から歩み出た。月明かりでぼんやりと浮かび上がるその顔は、どこか寂しげでもあった。
 上体を起こそうとする小十郎を手で制し、拓也はベッド脇の椅子に腰をかけた。
「まだ起き上がるな。おとなしく寝てろ」
「は、はい」
 拓也の言葉はぶっきらぼうだったが、とげはない。
「あの時……おまえがやられてた所に、音々と一緒に来た小さいやつ、あれが橘花だろ?」
「ええ、そうっすけど」
「やっぱりそうか。だと思ったら任せても大丈夫と思ってお前を放っといたんだが、違ってたら後悔するとこだったよ。腕はなんとか繋がったみたいだな」
「でも、前みたいに自在に動くかどうかは判らないって……」
 弱々しく話す小十郎の声のトーンが、徐々に下がっていく。
「日常生活に困らなきゃ大丈夫だろ」
「でも!刀を手に取って、皆と共に戦えるかどうか判らないじゃないですか!」
「なら、動かなきゃ動かせばいい」
 小十郎の返事を待たず、拓也は立ち上がった。
「見てろ」
 腰に差していた刀を抜き、正眼に構える。ひと呼吸おき、柄を握っていた手を広げる。だが、刀は拓也の手に吸い付いているかのように離れなかった。
「ここからが本番だ」
 そう言った直後、刀身がプロペラのように回転し始めた。その速度はどんどん加速していき、肉眼で捉えるのが困難になってゆく。その間、拓也の腕はまったく動いていない。
 その回転がピタリと止まった。かと思うと拓也の腕、さらには全身を、柄が滑るように刀が目まぐるしく複雑な動きを見せる。
「接触さえしていれば、ある程度は自在に刀を単体で操ることができる。これは霊力の強さの問題じゃないんだ」
 言いながら、もう一本の刀を抜き、同じように手を使わずに操り始める。
「要はイメージする力と、霊力の制御方法だ。固定観念に囚われなければ、もっと幅はあるはずさ」
 そう言いながら、手に刀を握ることなく、二本の刀を鞘に戻した。
「でもな。もうすぐ全てにケリがつく。そうなれば刀を握ることもない」
「ケリがつくって……」
「自治領の今の状況を招いた原因の一端は俺にもあるからな。片づけなきゃいけないことが残っている以上は、責任は取るつもりだ」
 何か含みを持たせた言い回しで、拓也は言った。
「片づけなきゃいけないことって……なんですか?」
「色々な。終わらせないといけない事が多くてな」
 拓也の口調には、どこか悲壮感が漂っていた。
「まずはシェラを止めないといけない。あいつがああなったのは……ほとんど俺のせいと言ってもいいからな。あとは理沙さんを俺が殺すか、音々に殺されるのが先か……そんなとこか」
「ネオンねえさんが、江藤理沙を殺す……?」
 音々が自らの拳で人を殺すなんてことがあるだろうか。なんらかの術の余波でならあり得るだろうし、既にあったかもしれない。だが、理沙との戦いとなればほぼ近接戦闘になるだろう。その時、音々は理沙にとどめを刺せるのだろうか?
 だが拓也は微かに首を振り、
「違う。それもあるんだが、その前に音々が俺を殺すか、だな」
 淡々と言ってのけた。その意味が瞬時には理解できず、小十郎はしばしぼう然とする。
「ど、どうして?!」
「……悪名高い『黒い魔人』は、退治されないとな」
「それじゃ!詩織さんはどうなるんですか?!戻ってこれるかもしれないのに…」
 そのための準備は着々と進みつつある。散らばってしまった彼女の存在そのものが、今この地に集まりつつあるのは、偶然と言えば偶然かもしれない。しかし、人が運命と呼ぶ、何か大きな流れのようなものがあるとすれば、それは確実に詩織の再生の方へと向かっているはずだ。それに賭けてみてもいいはずだ。
 そもそも、拓也にとって彼女は、それだけの価値がある存在ではないのか。
「汚れすぎたよ。俺は」
 黒い魔人。その名はあまりにも広く知れ渡ってしまっていた。
「それにな、シェラを放っておくわけにもいかないんだ。あいつをああしてしまった原因は俺にもある……。それに、偽りとはいえ、俺に癒しをくれた女だ。それにすがってしまった俺は詩織の前に出す顔もない」
 拓也と詩織の間柄については、以前に晃司から聞いていた。だが、拓也とシェラの間に何があったのか、小十郎は何も知らない。かつてのシェラについても知らず、半狂乱に陥って叫び狂う彼女を一度見ただけだ。
 だから、なぜ拓也がそんな女に固執するのか判らなかった。と同時に、彼とシェラの絆が、けっして浅いものではないということも痛切に感じ取れた。
「そろそろ……あいつもここに来る頃だ。行かないとな」
 窓の外を見やりながら呟き、拓也はきびすを返しかけた。
「あいつって、シェラっていう人ですか? どうしてここに?!」
「ここはあいつの力を使うのに格好の場だからな。あいつは、人の精神を過剰すぎるくらいに煽るんだ。ある程度の力を持っていれば影響を受けもしないはずなんだがな。一応、対処方法だけ教えておく。術が来たか?と思ったらそれを自覚しろ。自覚できれば自制できる」
 つまり、あらかじめ術が来ることを知っていれば簡単に防げるということだ。
 倒すべき敵がいる。戦意は高い。武器もある。強い意志に満ちあふれている。
 シェラはそんな人間の理性のタガを外し、精神のバランスを操るのだという。
「力そのものはそう強いものじゃないんだ。ただ、元からそこにあるものを巧みに操る。だから陥りやすいし、陥っていることに気づかない。悪意を持って使わなければ、緊張や恐怖を和らげる類いの力になるんだがな」
「師匠もそうやって……?」
「……俺はわかっていながら、あえてそれに身を委ねたのさ。あいつを失った事実から逃げるために」
 それは愉楽だった。シェラの−−偽りの詩織の声に耳を傾け、その言葉に応える。そして彼女が笑う。さらに言葉が紡がれる。さらに、さらに、さらに。
 歪んでいたとはいえ、それは恋愛の一つだったと言えるだろう。その螺旋に落ちていくことは、心身ともにボロボロになった拓也にとって、安易に得ることのできる安らぎだった。
 拓也が部屋の窓を開いた。夜風が入り込み、室温が急に下がる。
「俺を師匠と呼ぶなら、俺から一つだけ教えといてやるよ。諦めてる暇があったら動け。頭を動かすのでも体を動かすのでもいい。そうしないと何もできない」
「師匠……」
「終わらせてくるよ」
 最後は短く言い残し、拓也は夜の闇へ身を躍らせた。窓際のカーテンが微かに揺れていた。


 異変はほんの些細なことだった。
 広間に集まって夕食を食べていた傭兵たちの一グループが騒ぎだしたのだ。
「俺達の力であいつらに一泡吹かせてやろうぜ!!」
「おうよ!」
 少し酒でも入ればよくある光景だ。だから誰も気にはしなかった。
「殺っちまえ!」
「殺っちまえ!」
「殺っちまえ!」
「殺っちまえ!」
「殺っちまえ!」
 それが徐々に大合唱へと変わって行くまでは。
 片隅で食事を摂っていた晃司と香織の二人は、その異様な光景に寒気を覚えていた。
「ここではこれが日常茶飯事なのか?」
 呆然と呟く晃司。
「み、みんな落ち着けっ! 落ち着くんだ!」
 異変を聞きつけ、広間に樹華が飛び込んできた。しかし、結果的にはそれが引き金となった。開いた扉めがけ、傭兵たちが一斉に殺到したのだ。
「樹華さんっ!!」
 揉みくちゃになりながら晃司が樹華に近づく。
「これは一体なんなんですか?!」
「誰かが近くで精神操作系の術を使っているんだろう。おそらくは前に君の話していた……」
「シェラ!? だったら探して止めないと!」
 傭兵たちの間をかき分けるようにして晃司は建物の外へ出た。その後に香織も続く。
 そこには、先立って外へ出ていた傭兵たちがドーナツ状に集まっていた。その中心には、愉楽の笑みを浮かべ、漆黒の衣に身を包んだシェラが立っていた。
「シェラ?!」
 そこにいるのは、晃司の記憶の中にあるシェラとは大違いだった。面倒見がよく、苦労性で、小心者だが思慮深く、優しい人間だった。
「……どうする? 今なら殺せるわよ」
 冷徹に香織が尋ねた。既にその手には懐から取りだした短刀が握られている。
「待ってくれ、少しだけ待ってくれないか」
 高鳴る心臓の音を感じながら、晃司は眼前の光景に魅入っていた。
 シェラは漣を傷つけた。傷はすぐに癒えたが、その痛みの記憶は消えないだろう。その復讐をせねばならない。報復だ。殺す!
「違う……落ち着くんだ」
 そう言葉にした途端、激情が静かに引いていった。これがシェラの術だ。心の中にくすぶる黒い炎に油を注ぐ。落ち着いて対処すればどうということはない。
「香織ちゃん、落ち着くんだ。シェラの術に呑まれちゃいけない」
 そう言われ、香織も、自分がシェラの術の影響を受けていたことに気づいたようだった。無言で短刀を懐にしまい込む。
「でも手は打たないとね」
「ああ。説得はもう効かないだろうけど……」
 冷静に考えてみても、殺すしかないのか。かつて友だった人を、殺さなくては止められないのか。
 自問自答している間に、傭兵たちの群れが二つに割れた。そこにできた道を、黒いコートの男が歩く。拓也だ。
「ああ拓也さん……」
 シェラの顔が悦びに歪む。
「どこに行っていたの?さあ、また、皆が集まりました。これから戦いです。もう一度」
 一歩一歩、拓也はシェラへと歩んでいく。
「愛してます拓也さん。だからさあ私を愛して。あの女を殺し殺し殺し殺してください」
 そして静かに刀を突き出した。その切っ先はシェラの胸から背中へと貫通していた。
「これまですまなかったな」
「……ありがとう」
 シェラは穏やかに微笑んだ。その瞳には、狂気も憎しみも、ない。
「見失っていた道を、また見つけたんだ」
「ご……めんな……さい。私、本当……に、あな……た……を……」
 拓也の頬に手を伸ばし、それが届かぬまま、シェラは息絶えた。淀みない素早さで刀を引き戻し、こびりついたシェラの血を、刀を一振りして払った。
 シェラの術が解けたことと、目の前に起きた衝撃的な光景も加わり、傭兵たちは徐々に冷静さを取り戻していた。そして目の前で起きていることを理解する。
 この女が死んだ途端、さっきまで熱くなっていたものが冷めた。俺達はこの女に操られていたのか?いや、操られていた自覚はない、あれは自分の意志だった。しかし……
 困惑が広がる中、乾いた拍手の音が響いた。
「見事な茶番ね」
 傭兵たちから少し離れたところに、志帆と由香を従え、理沙が立っていた。しらじらしい拍手の主は彼女だ。切り落とされたはずの由香の腕は、何事も無かったかのようにつながっている。
「茶番に幕を引いたのさ」
「幕引きにはまだまだ早いわ。夜はこれからでしょ?」
 理沙が刀を抜く。拓也も二刀めを抜き、構えた。
 二人が動き出す寸前、
「ごちゃごちゃ言ってる暇があったら、全員まとめてかかってきぃや。ぶん殴ったる」
 もう一組がその場に姿を見せた。音々と橘花だ。
 二人の姿を−−厳密には橘花の姿を見て、理沙が動揺の表情を浮かべた。
「引け? 引けというのかこのあたしにッ?!」
 理沙に問うた者も、理沙の問いに答える者も、そこにはいない。
「また逃げろというのか?!」
「逃げるのではありません!タイミングの問題です!」
 ここにきて発せられた志帆の叫びに、理沙は下唇を噛んだ。
「いいだろう……お前たちがそう言うのなら、ここは一時退く。だがこれが最後だっ!」
 そう言い残し、森の闇に紛れるように理沙は消えた。ワンテンポ遅れ、志帆と由香もそれを追う。
 その間、音々はゆっくりと拓也に向かって歩んでいた。


「理沙さんは行っちまったが、お前はどうするんだ?」
 音々の方を向き、拓也が尋ねた。
「あの女もいずれしばき倒すけど……」
 首を振ってコキコキと音を鳴らし、音々は身構えた。
「まずはアンタからぶっ殺す」
「お前に出来るのか? 人殺しが?」
 鼻で笑い、拓也は刀を音々に向けた。
「やめろ拓也! 僕たちが争う必要も意味もない!」
 晃司が叫ぶ。が、拓也は刀を収めなかった。
「俺にはあるさ。そして、お前たちにもな」
 その言葉が、音々を激しく刺激した。
「だからアホや言うんや! ここで戦争かます理由なんか何もないやろ!? あの女や、戦争好きのあの女さえ止めたら全部が終わるんとちゃうんか!!」
 そう。月政府の統治は決して悪いものではない。日本自治領という火種があるからこそ、今のような状況が続いているのだ。
「咲夜家の人間かて、橘家に投降すりゃええやろ! 自治領じゃなく、橘家に直接や。そしたら悪いようにはせえへんのと違うか?!」
 そう言われ、その場にいた何名かがハッとした表情を浮かべた。
 確かに盲点だった。咲夜狩りから逃れることだけ考えていたが、あれは自治領の独断とも言えるものだ。直接的に橘家と交渉してみれば、活路は開けていたかもしれない。桜花から離れ、戦うことの意味を見失い、自問自答を繰り返してきた咲夜家の術者達には、橘家と争う理由はもはやなかった。そう、少なくとも、こちらに戦う意志はなく、ただ自分たちの身を守りたかっただけだ。狩られることがないのなら、もう戦いたくはない。そう考える者が大多数だった。
「ええか、敵は月政府やない。自治領軍なんや。だったら月政府側を味方に付けるって手もあるんと違うか?!」
「勝算はあるのか? 自治領軍も月政府の一部には変わりないんだぞ?」
 いつの間にか建物の入口近くに立ち、様子を見守っていた樹華が尋ねた。
「少なくとも月政府の大統領は、自治領を問題視しとる。自治領が存在する大義名分が咲夜家の残党の存在やっちゅうことなら、逆にこっちから安全の確保を求めりゃええやろ」
「橘家は……とうの昔に精人から独立しています。咲夜家の方々が敵でないというのなら、両家の間に争う理由はありません」
 音々の陰に隠れるように立っていた橘花が、諭すように言った。
「判ったかアホ。やり方が根本的に間違うとるねん」
 拓也の眼を睨み付け、音々は吐き捨てるように言い放った。
「そうさ、だから俺は理沙さんを殺すためだけに動いているのさ」
「違うわ!だったら最初っからあの女のトコに特攻かけたらええんや。それをシェラの言いなりになりよって、関係のない自治領軍兵士たちを虐殺しまくっとったやろが! それに何の意味のあった言うねや?!」
「……」
 音々の言葉は正鵠を突いている。拓也は言葉に詰まり、返答できなかった。
「つーわけで判決。おまえ死刑!」
 拓也を指さし、音々は断言した。
「うちがお前を……」
 一瞬だけ言葉に詰まり、
「殺す」
 はっきりと明言した。
 身構えようともせず、音々が跳んだ。拓也はゆっくりと刀を構えようとしたが、その前に音々が懐に飛び込んできていた。音々の左手が拓也の右手首を攫み、ねじり上げる。空いた左の肘で音々を殴りつけようとする拓也だったが、その前に音々の拳が拓也の右肘の外側に重い一撃を食らわせた。
 間接が砕ける音がした。その痛みだか衝撃だかで、拓也の身体がぐらつく。その隙に音々は身体を翻し、拓也の背後に回り込む。拓也の左のふくらはぎを、斜めに踏みつぶすような軌道で鋭い蹴りを打ち込んだ。膝が曲がって重心が下がったところで、今度は拓也の右肩を狙って肘打ちを叩き込んだ。うずくまる拓也の右腕を、霊力で増強した脚力で踏みつぶす。足の裏ごしに伝わってくる、骨がつぶれる感触。
「これで両腕が死んだ。もう刀は握れんやろ」
「……この程度で……人は……死なないぞ」
 身体をねじって音々の足から逃れ、拓也は立ち上がった。そして、足下に落ちていた刀を蹴り上げる。
「殺せないんだよ! お前はお前の手で人間は殺せねえんだ!!」
 蹴り上げた刀の柄を、器用に口に挟んだ。
 そのまま音々に向かって突進し、跳びかかる。空中で身体をひねることで刀に軌道を与え、まるで手で操るかのように音々の腕に斬りかかった。
 だが、その刀を音々は手刀でたたき落とした。まるでハエでも払うかのように。
「見苦しいんや、オマエ!」
「どうせ殴るなら俺の胸を殴れ! お前の力なら、拳で胸板を貫くくらい容易いだろう! さあ! さあ! さあ! 憶病者め! 人間一人殺せない奴が、戦いの善悪を語るのか?! 自らの手を汚せない奴が英雄になどなれるか! さあ俺を殺せ! 殺してその拳を俺の血で汚せ! 俺を殺せ!! 殺すんだ!!」
「黙れ! 黙れ言うとるんや! 黙らんのはこの口か?!あン?!」
 叫びながら、馬乗りになって音々は拓也の顔面を殴り続けた。顔面だけではない、みぞおちや脇腹など、拳の届く範囲は片っ端から殴りまくっていた。
「死なねぇ。これくらいじゃ……死なねえんだよ。人間ってやつは!もっとだもっと!もっと痛めつけないと人は死なねぇんだ!!」
「ギャ、ギャアギャア騒ぐな!!言われんでも殺したるわ!!」
「ははは……は……死なねぇ。死な……ねぇって……の……」
 口から血を吐きながら、拓也は嘲るような笑みを浮かべた。
「黙れって言うとるんや!!」
 なおも音々の一方的な暴力は止まらなかった。
「だから……甘いって……んだよ。お前は……」
「ならお前に何ができる言うんや!? 口ばっかり達者で、何もしようとせぇへんやろ!! なんで抵抗せぇへんねや?!」
「……殺せ……」
 この世界に未練はない。
 そして今の自分は鬼か悪魔のごとく呼ばれる身だ。
 詩織が戻ったところで、その前に立つ資格などないだろう。
 ならば、鬼退治の英雄の踏台になってやろう。
 音々なら理沙を倒すこともできるだろう。人を殺せない甘さが枷にならなければ。その一線を越えさせてやれれば本望だ。
 それが修羅の道への一歩だとしても。

 ただ一つ、最後に、望んでもいいのなら。
 自分の身を犠牲にする代償を求めてもいいのなら。
 一目だけでも逢えれば。
 拓也の体から腰を上げ、立ち上がった音々の拳が淡い光に包まれ始めた。持てるかぎりの霊力をそこに集めているのだ。
 この一撃で全てが終わる。
「……詩織」
「あン?」
 音々の声など、もはや拓也には届いていない。
「詩織ィィィィィッ!!!」
 絶叫がこだまし、そして、天地を貫く一条の光が生まれた。


 それよりも少し前。
 二人は出会っていた。
 導かれるように、森の中で。
 自分の中の衝動に突き動かされ、瑠璃奈は傭兵たちの騒ぎの渦中、人知れず森の奥へへ向かっていた。そこには、彼女が来るのを待っていたかのように、義体が一人で待っていた。義体もまた、自らを突き動かす何かに従い、一足先にここに来ていたのだ。
 今、急いで行かないと間に合わない。なぜかそんな気がした。二人とも、それが何なのか、まるで判ってはいなかった。だが、こうして二人だけで逢った瞬間、胸の奥でくすぶっていた何かが氷解した。
 瑠璃奈の意識、義体の意識、そして世界に霧散した詩織の意識。
 その三つの意識が、あるべき元の姿に戻ろうとしているのだ。
「戻ろう。二人に」
 どちらともなく呟いた。
 二人とも、もう全てを悟っていた。自分たちを急かしていた声の主が誰だったのかも。それはかつて、詩織が『祈りシステム』にかけられる寸前で気付いたものと同じだ。
「戻ろう。戻らせてあげようよ。あの人のところに……」
 空を見上げ、瑠璃奈が言った。
「助けなきゃ。あの人の心を」
 同じように空を見上げ、義体も呟いた。
 かつて彼女が救われたように。
 重ね合わせた二人の掌から、暖かい光が生まれた。


 大地が揺れた。比喩ではなく、轟音とともに地面が揺れ始めた。
「お、音々ちゃんの力か……?」
 うろたえるように周囲をきょろきょろしながら晃司が呟く。
「違う!これは……」
 答える樹華の顔は愕然とした面持ちだった。
「『願いシステム』が作動している……因果関係が逆転しているというのか……?」
「どういうことですか?」
 樹華の呟きに晃司が尋ね返す。
「本来、『裁きシステム』により引き起こされるべき事象、その事象が別の要因で起きようとし、結果として裁きシステムが稼働しているのかもしれない。電磁石は知っているな?」
「あの、鉄芯に銅線を巻いて電流を流すやつ、ですか?」
「そうだ。あれは、電流を流せば磁界が発生するものだが、先に強力な磁界が存在していれば電流が生じる。今起きているのは、まさにそういうことなんだよ!」
 その言葉が示唆するものは一つだ。

「ならお望み通り、殺したるッ!!」
 音々が拳を振り上げるのと同時に、空が光った。
 雷か?と誰もが思ったが、雷ならば後に続くはずの音は一向に鳴らない。光は徐々に収束し、スポットライトのように音々へ、いや拓也へと降り注ぐ。
「さあ俺を殺すんだ!何を躊躇するっ?!」
「誰が躊躇なんか……」
「光の夜……」
 誰かが呟いた。
「光の夜の再来だ……」
 パニックになってもおかしくない状況だった。
 だが、その光景は厳かすぎて、誰もが動けなかった。

 森の片隅に、横たわる人影があった。
 その顔は満足げに微笑んでいたが、ぴくりとも動かない。死んでいるように見えるが、厳密には違う。活動を停止しているのだ。
 そこに横たわっているのは、義体の抜け殻だった。

「構うかぁッ!!」
 音々が拳を振り下ろす。拓也の心臓を狙って。
「そうだ、それでいい……」
 懐かしい、ずっと焦がれていたあの気配がする。この気配を感じられただけで、もう満足だ。
 この醜い、そして汚れきった姿を見られる前に、殺されたい。
 拓也が瞳を閉じた刹那、
「死なせません」
 声は頭上から聞こえた。
 音々の拳から肩にかけてが、目に見えない網にからめられたように、その自由を奪われていた。
 見上げると雪が降り始めていた。寒桜の咲く森の中、舞い落ちる雪と降り注ぐ光は、誰の目にも幻想的に映ったことだろう。
 その光の中に、ひときわ強く輝く光の結晶が、霧のように散らばっていた。それらは徐々に集まり、やがて人の形を取り始める。
 そして、その霧の中から染みだして来るかのように、一糸まとわぬ女性の姿が現れる。
「私が、この人を護ります」
 その言葉とともに、彼女は地上に降り立った。そして、血まみれの拓也を抱き起こし、背後から抱きしめる。
「咲夜……詩織!?」
 音々の拳を止めたのも、彼女の力だろう。
「あなたが私を呼んでくれたから、また……ここに戻れたんです。あなたに護られるために、あなたを護るために」
 血まみれの拓也の身体を、詩織は愛おしそうに抱きしめた。
「ずっと、あなたを見ていました。ずっと、ずっと苦しんでいる姿を……」
「詩織、俺は……お前を……裏切った……」
 守れなかった。
 偽りの詩織に魂を委ねた。
 彼女が望まないであろう生き方を選んだ。
 しかし詩織は、全てを受け入れるように頷いた。
「ずっと見てたんです。見ているしかできない自分が、いつだってもどかしかった」
 拓也の身体の感触を確かめるように、詩織はその掌で触れていく。
「手を差し出すことができないことが辛かった。でも今はこうしてあなたを感じられる。それだけで……いいんです……」
 詩織が触れた箇所から、次々に痛みが消えていく。
「これからは、ずっと側にいさせてくれますか?」
 詩織が涙目で微笑む。だが、拓也は力無く首を横に振った。
「俺は……」
 詩織の力で傷が癒えているのか、拓也の声色に先程までのような苦しさはない。
「許される身じゃない」
 その言葉には、諦めに似た響きが込められていた。
「許します。私が、全てを!」
 拓也の身体を抱きしめ、詩織は声を大にして叫んだ。
「世界中の誰もがあなたを許さなくても、私だけはあなたを許します」
「……ありがとう」
 憑き物が落ちたかのような、穏やかな表情で拓也は微笑んだ。
「今度こそ、お前を守り抜く。だから、もう俺から離れるな」
「もう離れません。ずっと側に……」
 そんなやり取りを見ながら、音々は途方に暮れていた。
「独り身の眼の前で、ンなにラブられてもなぁ……」

「天使が降りてきたみたいだったな……」
 誰かが呟いた。
 かくして、咲夜詩織は帰還した。

 お互いの身体を抱きあう二人と、それを取り巻く大勢。
「漣!?」
 その奇妙な雰囲気を切り裂くように、悲鳴が響いた。
 叫び声の主は桜だった。が、そうだと気づくまでに若干のタイムラグを要した。それは桜がそれまでの彼女と違い、髪は黒く、肌の色も常人並みと、外見の特徴的だった部分が全て失われていたからだ。
「漣がいない……いなくなった……」
 顔面を蒼白にし、桜はその場にうずくまった。


To be continued.
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