Moonshine <Pray and Wish.>
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Episode 2 はじまりの失楽園


  ここから全てが始まる。
  でも、全てという言葉の定義を私は知らない。
「楽園になれなかった場所」


 その扉が開いたのは、最後に閉じられてから五日後の事だった。扉の前で座り込んで眠っていた詩織が、ドアノブの回る音で目を覚ます。彼女はこの五日間、ずっとこの地下で待ち続けていた。
 詩織の前に姿を見せたのは葉雪だった。全裸の上にシーツをまとっているだけの姿で、詩織を気だるそうな目で見つめている。
 だが、そんな葉雪には構わず、彼女を押しのけるようにして詩織は部屋の中に飛び込んでいった。
「拓也さん!!」
 その拓也はと言えば、ベッドの上でうつ伏せになって眠っているようだ。詩織が入ってきたのに気付かないらしい。
「……拓也、さん?」
 身体を揺すってみるが反応はない。さらに力を込めて拓也の身体を揺すると、その拍子に拓也の身体がベッドから転げ落ちてしまった。そうして向けられた拓也の顔を見て、詩織は愕然とする。
 眠っていたのではない。その証拠に眼は半開きになっている。青白い顔と、紫色に変色して乾いている唇。あまりに病的だ。
 拓也も全裸のままだったが、そんな事に構っている場合ではない。詩織は拓也の身体を引きずるようにして廊下へと出る。既に葉雪の姿はない。
「誰か! 誰かいないんですか!?」
 誰もいないのならば、一旦拓也の身体を放り出し、上に上がってから誰かの手を借りに行った方がベターではあるのだが、今の詩織にそんな事を考える余裕はなかった。
 が、詩織の声に応じるように、階段を駆け下りてくる足音がした。
「詩織ちゃん! 何があったんだ!?」
 足音の主は晃司だった。詩織と拓也を交互に見比べ、即座に拓也の身体の状態を確認する。
「かなり弱っているみたいだ。とりあえず上へ運ぼう」
 拓也の身体を抱え、晃司は走り出した。詩織もその後を追う。
「葉雪さんが上がってきたから何事かと思って降りてきたら……いったい、何があったんだい?」
「私にも判らないんです。何の前触れもなしに扉が開いて、葉雪様が出てきて……」
 後は無我夢中だったから、なんとも説明のしようがない。
 とりあえず拓也を医務室のベッドに寝かせ、医師に見せる。栄養失調の類らしく、すぐに点滴が打たれることになった。とりあえずその場は任せ、晃司と詩織は医務室の向かいにある応接室で茶を飲んでいた。拓也の衰弱も激しかったのだが、部屋の前で待ち続けていた詩織にしてもかなりの疲労が溜まっていることには違いがない。精神的にもかなり参っているのが見てとれる。
 やがてシェラに連れられて美咲も姿を見せた。美咲は晃司に食って掛かったあの時以来、部屋に閉じこもり、シェラ以外の誰とも会おうとしなかった。詩織への告白が失敗したこともあったのだろう。だが、葉雪のいた部屋へ向かう拓也を見届けたのは美咲だけである。そこで晃司はシェラに頼み、無理に部屋から連れ出してきてもらったのだ。
 はじめは気まずそうな顔をしていた美咲だったが、詩織から事情を聞くうちにいつもの調子が戻ってきた。最初に詩織が部屋を訪れたとき−−拓也と葉雪の情事の現場を目撃したときの話を聞いたときには、吐き捨てるように
「下衆ね」
 と言い放つ程だった。
「それにしても異常だ」
 難しげな表情で晃司は言った。
「まず、あの衰弱ぶりはひどすぎる。飲まず食わずでもあそこまでひどくはならない」
「いったい、何あったですかね?」
 葉雪に関しては一番詳しいはずのシェラでさえこの調子だ。
「それについては予測はできるよ。シェラに美咲ちゃんを呼びに行ってもらってる間に、葉雪の部屋を見てきたんだけど……まぁむせ返るほどの湿気と、汗でボトボトになったベッドとシーツ。部屋中に立ちこめる独特の臭い……」
 何かをこらえるようにグッと拳を握り締めながら、詩織は晃司の話を聞いていた。
 これが現実なんだ。あの部屋に入ったときに、私もそれを見て感じてきたんだから。
 そんな詩織の様子に気付き、晃司はそれ以上の描写をやめた。
「……とにかくこの五日間、あの部屋で二人はずっとヤり続けてたってことだろうね。睡眠をとっていたかも怪しい」
「いやらしい……」
 心の底から嫌悪するように美咲が言った。「詩織ちゃんとの事を棚に上げて、そんなこと言えた義理かい?」と突っ込もうとして、晃司はその言葉を飲み込んだ。
「けど、僕たち男性というのは、そんなにずっと性行為を続けられる体にはできていない。ここにいる乙女の皆さんでも、それくらいの事はたぶん判ってると思うけどね。けれど、さっき拓也を運び込んだときに気付いたんだけど、どうも拓也の性器を見る限りでは、つい先ほどまでヤってたらしい。それも、そこだけ見る限りではまだまだ元気そうだった。おっと、たまたま目に付いただけだよ。僕は断じてホモじゃないからね」
 晃司は苦笑まじりにそう言うが、他の誰もが笑っていない。シェラは相変わらずの表情だし、美咲はずっと忌々しげな顔をしている。詩織はと言えば、ずっと視線をテーブルに落としたままピクリとも動かない。いつもの彼女なら、話の内容に赤面してそうなものだが、今の詩織は顔から血の気が失せてしまっているようだ。
「……まぁ、それはともかくとして。この状態は明らかに異常だ。そこで、生物学的もしくは生理学的観点に立って、精人と人間について話を聞いてみたいんだ。精人と普通の人間の交配に関して、知っていることがあれば教えて欲しい」
「…………」
 誰も口を開かない。
「恥ずかしがる必要はないんだ。別に本能や性行為を否定するつもりはないから。僕だって好きな女性をこの腕に抱きたいといつも思ってる。率直に言えば、『その人としたい!』っていつも思ってる」
 だが、相変わらず誰も口を開かない。口は開かないが、美咲とシェラの視線が、やけに落ち着きなく動いている。詩織は要領を得ないのか、そんなシェラと美咲の顔を交互に見比べている。先ほどまでの思い詰めた表情は消えきってはいないが、他に気になることができたせいか、いくらかマシにはなっている。
「実は」
 耐え兼ねたように晃司が切り出した。
「ある程度の統計と観測結果は得ていたし、そこから導かれる推論もあるんだ」
 その言葉に、美咲とシェラの視線が同時に晃司へと向けられた。
「咲夜家、橘家、そして峰誼の里。すべての集団において、同族意識というものが極めて高い。高すぎるせいか、婚姻はほとんど親族間でしか結ばれない。ほとんど近親婚と言ってもいいようなケースもかなり多いらしいね」
「そう言われてみるとそうかも知れません。私の父も、元はと言えば母の従兄弟にあたるそうですから」
 詩織が言った。晃司との会話に集中することで、先程見てしまった拓也の姿を忘れたいのだろう。
「正直言うと、僕達はこの事態を半分予測していたんだ。予測していたからこそ、拓也をここに連れてきたかった。それが僕に与えられた役目でもあったしね」
「ど、どういうことなんですか!?」
 詩織は声を荒げたが、美咲とシェラは何かに気付いたようだった。
「責めてもらっても構わない。言い訳かもしれないけど、僕は寸前で拓也を止めるつもりだった。いや、僕が本来、拓也をここに連れてこようとしていた目的からすれば止めちゃ駄目だったんだけど、それにしても詩織ちゃんと拓也のことは答えを出した上で、葉雪と接触するかどうかを拓也に選んでもらうつもりだったんだ。まさかこんなに早く、拓也が葉雪に呼び寄せられるとは思ってなかったんだ!」
「呼び寄せられる? どういう事なんですか? それに本来の目的って……」
「結論から言うよ。これは仮説だけど、同族間での性行為には霊力や魔力を高める作用が有るんじゃないかと思う。それと表裏一体で、肉体が成長するのと同じように、霊力や魔力も成長しようとして、同族への性的衝動が感情に影響する」
「少し違うわ。別に性行為である必要はないの。互いの精神を同調させ、高めることが重要なの。それに一番適しているのが性行為であるだけのことよ。少なくともあたしは母様からそう教わったわ」
 観念したように美咲が言った。だが、詩織は納得がいかないらしい。
「でも、霊力や魔力を持つ人なんて、たくさんいるじゃないですか! どうして私たちだけが……」
「たぶん、その衝動の強さというのが、霊力や魔力に比例するものなんだろうね。そういった力を持つ副作用とでも言えばいいのかな。詩織ちゃんは、そういう感情を抱いたことはないのかい? 美咲ちゃんや、他の咲夜家の人に対して」
「ありません!」
 きっぱりと断言する。
「じゃあ、それが極めて珍しいケースなんだろうね。前に、美咲ちゃんが詩織ちゃんを襲おうとしたのにも、こういった衝動が作用している可能性はあると思うよ」
「違う!! あたしは詩織のことが好きなの!!」
 晃司の言葉に、美咲が激しく反論した。
「本人がそう言うのならそうなんだろうね。あくまでも可能性の一つさ」
「それじゃ、晃司さんの目的っていうのは……」
「そう。拓也と葉雪を対面させたときの反応で、拓也の出生が樹華系なのか否かをはっきりとさせたかったんだ。と同時に、今まで性行為なし……精神の同調なしで成長してきた拓也の霊力を、さらに高めるって目的もあった。僕自身の目的って訳じゃないけど」
 葉雪に対して、拓也が性的衝動を抱かなければ、少なくとも葉雪と拓也は同族ではないという可能性が高い。が、抱いてしまった場合は葉雪と拓也は同族、すなわち拓也の母親が樹華であることが確定する。そして結果は後者だった。
「拓也さんは、樹華様の子ですか?」
 確認するようにシェラが尋ねた。
「それで間違いないだろうね。拓也の母親は樹華だ」
「そういうことかよ!」
 扉が開くのと拓也の怒鳴る声が響いたのはほぼ同時だった。葉雪の肩を借り、悪い顔色に怒りの形相を浮かべている。
「それがお前の目的だったのかよ、晃司!」
「君のことを勝手に探っていたことは謝るよ。どう非難されても構わない……」
 晃司はうなだれ、拓也の次の言葉を待った。だが、拓也のほうでもいきなりの事態に戸惑っているらしく、それ以上の言葉は出てこない。
「いつから聞いてたです?」
「そいつが」
 拓也は晃司を指差し、
「好きな女とヤりたいとか言ってた辺りからだよ」
 とすると、重要な部分は大体聞いていたことになる。
「……俺の母親は樹華ってことか。とすると、俺は実の姉貴と、五日間もヤり続けてたってことだな」
 自嘲気味に拓也は吐き捨てる。同情とも憐れみとも、あるいは嫌悪ともとれる、そんな目で一同は拓也の次の行動を待っていた。
 だが、拓也が何かするよりも早く言葉を発する者が現われた。
「待て。皆、何かを勘違いしている。樹華は拓也の母親ではない」
 声の主は葉雪だった。拓也を除けばこの場にいる一同が、初めて葉雪の声を聞くことになる。
「そこの若い男の仮説は、大筋では間違ってはいない。確かに我らの力を継ぐものにはそういう感情が芽生えやすい。なぜなら、我々はそういうように自らの肉体を構成しているのだから、まぁ一種の遺伝だな」
「……構成?」
 晃司はその言葉の意味を把握できなかった。
「だが、樹華は拓也の母親ではない。だから拓也は安心して私を抱けばいい。拓也の母親が誰かは、私は言えんがな」
 そう言って葉雪は、拓也の頬を指先で撫でた。
「そう……だな。俺も、まだ、足りないん、だ……」
 拓也の目から理性が失われていく。
 あの時の目だ。
 美咲は思い出した。これは五日前、葉雪の居場所を聞いたときの拓也の目だ。
「拓也さん!!」
 詩織が叫び、その声に衝撃を受けたように拓也の目が見開かれた。その直後、体が大きく揺れたかと思うと、そのまま床に崩れ落ちる。失神しているようだ。
「拓也さん!!」
「拓也!!」
 詩織と晃司が同時に叫び、拓也のの側へと駈けよる。詩織が拓也の肩を揺するが意識は戻らない。
「医務室へ運ぼう!」
 そして二人は拓也を抱え、応接室を飛び出していった。
 しかし、一番驚いたのは葉雪だった。
「私の力が弾かれた?」
 あの娘から感じた霊力は、桜花のそれと同質だ。確かに自分は桜花よりは格下だが、だからと言ってその末裔に劣るとは思えない。霊力のキャパシティは桜花と同じでも、実際に行使できる力は世代を重ねる事によって失われているはずだ。血の薄まりもある。
 しばらく思案したところで、先ほど聞いた会話を思い出す。
『……詩織ちゃんは、そういう感情を抱いたことはないのかい? 美咲ちゃんや、他の咲夜家の人に対して』
『ありません!』
 扉の外で拓也と二人で聞いていたあの会話。
「ふむ……」
 一人納得したかのように葉雪は頷いた。そんな葉雪を、美咲とシェラは呆然と眺めるだけだった。

 医務室では、医師が気を失っていた。拓也の仕業か葉雪の仕業かは判らないが、まずは拓也をベッドに寝かせ、続いて医師もベッドに放り込む。医務室のベッドは三つあったのだが、あっという間に二つが埋まってしまった。
 医師の方は気を失っているだけのようだから問題ないとして、拓也の衰弱はかなり激しい。点滴の針は引き抜いたようだ。再び打つにも医師がこの様では頼めない。
「仕方ないな。僕がやるよ」
 そう言って晃司は点滴の針を新品と交換し、拓也の腕をとる。
「できるんですか?」
「大怪我のときの応急処置として、痛み止めの注射の仕方なら前に教わったからね。たぶん同じ要領じゃないかな」
 言っている間に、晃司は拓也の腕の静脈に点滴を打った。見よう見まねで、刺した針をテープで固定する。
 それを見届けたように詩織が身体のバランスを崩した。
「おっと!」
 とっさに晃司に支えられたおかげで倒れずに済んだが、足元はおぼつかない。
「これで一安心だと思うと力が抜けちゃって……」
「疲れが溜まってるんだよ。ベッドはもう一つ有るから、詩織ちゃんも休んだ方がいい」
「……そうさせて貰います」
 晃司の肩を借りながら、詩織もベッドに入る。これで空きのベッドはなくなった。
「ね、晃司さん。晃司さんは、拓也さんをどうするつもりなんですか?」
「どうする、か……。こんなことを詩織ちゃんに言うとまずいんだけど、僕達が咲夜家や橘家と戦うための、仲間になって貰いたかったな」
 ベッド脇の椅子に座り、晃司はそう答えた。だが、今の拓也にそれを望めるのかは甚だ疑問だ。むしろムキになって敵対してしまうかもしれない。葉雪の思惑も読めない。
「いつも『僕達』って言いますけど、晃司さんの仲間の人達ってどんな人達なんですか?」
 ベッドに横たわっているため、晃司の顔を見上げるようにして詩織は尋ねた。
「それは秘密。でも僕達は、別に君達を滅ぼしたい訳じゃないんだ。あのシステムを破壊するだけでいい。最悪、誰かを討つ必要が出てきても、できることなら桜花と橘花だけに留めたいと思ってる」
「『祈りシステム』……ですか」
「詩織ちゃん達はそう呼んでいるんだね。正直言うと、あのシステムの全容は判っていても、その使用目的の最後の一割が判らないんだ」
「私にも判りません。最後の仕上げは桜花様自身が行うと聞いていますが…」
 『祈りシステム』。晃司が精人因子活性化システムと呼ぶシステムを、詩織達はこう呼んでいるらしい。
 霊力・魔力を持つ人間と持たない人間の間に、生物学的な違いは一切存在しない。にも関わらず、これらの力は遺伝によって伝えられる。とすると、何か非物質的な要素が人間に関与しているとしてもおかしくはない。この仮説を突き詰めた末に存在を立証された要素が精人因子と呼ばれるものだ。無論、精人の存在というものが一般には伏せられている以上、正式な名称ではない。
 この要素が強ければ強いほど、その人間は精人に近い存在になり、それに従って霊力・魔力も強大になっていく。そしてその強さが、あるラインを超えたとき、その者は精人に近い存在から人間に近い存在へと変貌する。すなわち、精人化するということだ。
「そんなことまで僕に話していいのかい?」
 詩織は何も答えなかった。
「……祈り、か」
 あのシステムが、そんな神聖なものだとは思えない。
「とりあえず、しばらく休んだ方がいいよ。拓也は僕が見ておくから」
「はい…」
 答え、詩織は瞳を閉じた。この様子だと、五分もしないうちに眠りに落ちるだろう。

 しばらくして、シェラが医務室にやってきた。
「晃司殿。様子はどうですか?」
「みんな寝てるよ。医者も拓也も詩織ちゃんもね」
 拓也のベッドの脇の椅子に腰掛け、晃司は答えた。
「晃司殿も休んだ方がいいです。ずっと休んでないじゃないですか」
「それはそうなんだけどね。拓也もこんな調子だし」
 そうはそうなのだが、休む訳にはいかないのだ。先日の峰誼襲撃から、何も動きがない。葉雪の復活は既に咲夜家に知らせてある。橘家へ向けては、月政府宛でメールを発送しておいた。晃司の思惑通り、詩織達の保護にかけられた賞金は解除されたため、とりあえず雇兵に狙われるという心配は消えるだろう。
 だが、峰誼を襲撃した連中は雇兵だけではなかった。正規軍が絡んでいる以上、賞金以外の目的があるのは確かだ。そんな状況下で休んでいられるわけがない。それが、今の晃司に出来る、結果として拓也を利用しようとしていた事に対しての贖罪だった。
「……俺なら大丈夫だよ。少し休んだ方がいい」
 覇気に欠ける声だったが、拓也は横になったままで言った。
「拓也、起きてたんだ?」
「ぼんやりとな。なぁ晃司、お前はいったい俺をどうしたいんだ?」
 その質問は、晃司の心に深く突き刺さる。明らかに込められた疑惑と嫌悪感が、二人の間に溝が出来ていることを示している。
「拓也を……利用しようとしていたことは事実だよ。それについては僕に弁解の余地はない。僕は咲夜家や橘家と敵対する存在だけど、彼女たちほどの力はない。どうしても、真っ正面からぶつかれるだけの力を持った仲間が欲しかったんだ」
「どうして咲夜家や橘家……精人一族に喧嘩を売るような真似をするんだ?」
「それについては…色々と、有るんだ。咲夜家と橘家がやろうとしていることや、僕の祖父のこと、それから姉貴のこと」
 一つ一つの言葉を選びながら晃司は続ける。
「姉貴がやろうとしている事と僕がしようとしている事は、途中まではほとんど一緒なんだけど最後のツメで決定的に異なる」
「回りくどいな。なんなんだよ、その目的って」
「……魔導工学技術が産んだ、ある兵器があるんだ。一撃で星そのものを破壊することさえ出来るような兵器さ。咲夜家と橘家に、それぞれ一つずつ有る。僕はそれを破壊しようとしていて、姉貴はそれを奪い取ろうとしているのさ」
「一撃で、か? この地球そのものを?」
 正直言ってどういう兵器なのか、話を聞くだけでは想像もできない。
「そうです。『あれ』は、それ以上の力を持つものです」
 シェラが横から割り込んでくる。彼女は兵器とは言わず、「もの」という言い方をした。
「兵器という言い方は間違っているのかもしれない。ある術を執り行うための機構と言った方が正しいかと思う。でも、咲夜家も橘家も、その術を執り行う事だけを最終目的として栄えてきた一族なんだよ」
「その術の目的というのが判らないのです。超高密度の霊的エネルギーの放出、相打ちになってもその余波で、月と地球を完全に破壊できるだけのエネルギーだと試算されています」
「僕たちはそれを知ってしまったし、それに関わってしまった人もいる。だから止めなくちゃならないんだ、でも姉貴は……姉貴が、どうしたいのかは僕にも判らないんだ」
 最後の方は、珍しく弱気な声だった。いつも冷静な晃司にしては珍しい。
「どうしてなんだよ、お前と理沙さんは……」
「姉貴の事については、本当はよく判らないんだ。僕が小さい頃に行方不明になってたから。僕が雇兵になったのも……仲間から離れて単独行動をとるようになったのも、姉貴に再会したからと言ってもいい。姉貴は言ったんだ。『晃司もあのシステムを目指しているんでしょ? だったら協力できるはずよ』って。でもそれ以上の事はほとんど判らないんだ。そもそも、姉貴が咲夜家にいたってことは、再会するまで知らなかったんだよ!」
「なるほどね……」
「僕と姉貴はまったく別の系統の人間なんだよ。むしろその最終目的において、敵対していると言ってもいい」
「まったく、ドイツもコイツも腹黒くてやってられねぇな……」
 ふてくされた風に、拓也は目を閉じた。うんざりしているのが容易に見て取れる。
「怒ってるですか?」
 シェラがいつもの口調で言う。本当にいつでも冷静でいられるのは彼女だけかもしれない。
「怒ってるってのは違うな。誰も信用できないって言ってるんだよ。晃司も、理沙さんも、シェラも、美咲も、詩織もな」
「……どうして詩織ちゃんの名前が出て来るんだい?」
 晃司が尋ねた。かなり意表を突かれたらしく、喋り終えた後で、口をぽかんと開けっ放しにしている。
「なんか、嘘臭いんだよ。普通の女の子を装っちゃいるが、あの動きと体力は訓練された人間のものだ。そもそも、美咲が何らかの訓練を受けてるんだから、詩織だって受けているはずだ。なぜそれを隠すのか、俺には判らないね」
 吐き捨てるように、拓也はまくしたてた。
「拓也、それは言い過ぎだよ。詩織ちゃんは……」
 君の前ではそうありたいと思っているだけなんだよ。
 とは言えなかった。言えるはずはない。いや、晃司には言えなかったのだ。
 それを言うのは、「詩織ちゃんは拓也のことが好きなんだよ」と言うことに繋がるだろう。だが、それを言うのは詩織自身の役目だ。晃司が口を出すことではない。
「とにかく、俺を一人にしてくれ…」
 晃司達に背を向け、拓也は布団に潜り込んだ。今、自分が向いている方に、仕切り一枚を挟んで、詩織が居ることを知らずに。
(……しまった、詩織ちゃんが……!)
 拓也は知らなかったが、晃司は気付いた。今、この部屋には、詩織自身が居るのだ。眠っているはずだ。眠っていて欲しい。
「早く出て行けよ、しばらく一人で考えたいんだ」
「………判った。行こう、シェラ」
 シェラを促し、晃司は部屋を後にした。

 詩織は眠ってはいなかった。
 そして、取り繕うことの出来ないであろう己の失敗に、声を出さずに泣いた。

 拓也の回復には、それからさらに五日を要した。その間、外部からの襲撃も一切無く、集落の復興作業も順調にはかどっていた。
 拓也の病室の前には晃司の指示で、葉雪との接触を断つための見張りが立てられていたが、
「お前にどうしてそこまでする権限があるんだ」
 という拓也の非難により、すぐに廃止された。代わりに晃司は葉雪と直接交渉し、拓也との面会は日に一時間までにするよう申し入れ、葉雪側もそれを受け入れた。

 拓也が自由に動き回れる程度にまで回復してからさらに三日。
 晃司はなんの行動も起こしようがなかった。仲間へ連絡するにも現在の状況は混乱し過ぎていて、どうしてもうまく説明できそうにない。拓也への罪悪感もある。
 ただ、何らかの変化を待つしかなかった。あてがわれた部屋の窓から、外に広がる草原をぼーっと眺め、ときどき尋ねてくる美咲やシェラの話し相手になり、そして日が暮れる。そんな日々が続いていた。
「拓也様の調子はどうですか?」
 紅茶をいれて部屋を尋ねてきたシェラが尋ねる。
「今日も変わらず。昼間はそこの草原でずっと昼寝して、夜になったら葉雪の部屋」
 溜息混じりに答え、晃司は紅茶をすすった。
「最初の時ほどの症状は出ていないんだ。ただ、疲労が溜まっていることには違いがない。だから昼間はずっと寝てるんだろうね。ところで詩織ちゃんはどうしてる?」
「美咲様と一緒に、義体さんの所に居ます」
「……義体ね」
 あの義体は、つい二日前に再び起動した。
 自分が何者かは知らず、いつ生まれたのかも知らない。目覚めたときにはここにいた、と義体は言った。今は美咲の暇つぶしと、詩織が気を紛らわすための話し相手となっているらしい。
「もう、何がなんだか判らないよ……」

「私は美咲さんを知っている。だけど、どうして知っているのかは判らない」
 義体は言った。
「そりゃそうでしょ。だってアンタは詩織のコピーなんだから」
「……それは違う。私はコピーなんかじゃない」
 表情を崩さず、義体は答える。
「じゃあ何よ。調整中だったアンタに、いきなり自我が芽生えたってワケ? そんなのあるわけないでしょ!」
「私はここにいて、美咲さんも詩織……さんもそこにいる。それぞれが違う個体だと識別できる。だから私は私自身のオリジナルだと思う」
「そうね。あなたはあなたよ。私のコピーなんかじゃない」
 義体の髪を撫で、詩織は言った。そうされている間も、義体はその表情を変えようとしない。
(……あの時の表情はなんだったんだろう)
 初めて逢ったときに見せたあの安らかな笑顔。あれはなんだったのだろうか。安心しきったように微笑み、そしてこの義体は活動を停止したのだ。
 それは違う。彼女は気を失ったのだ。
「ちょっと詩織。これがここに有るっていう事が、どういう事だか判ってるの?」
「うん。祈りの後、私が宿る身体が無くなる、って事でしょ?」
 祈りシステム、晃司達が言う精人因子活性化システムに組み込まれる事で、詩織の存在は精人に近い人間から、人間に近い精人へと変貌する。だが、純粋な精人ほどの力は持たないため、桜花達のように肉体を構成する事は難しいだろう。
 義体は、その状況下において、詩織が自らの肉体代わりとして使うために開発されたものだ。当然、美咲がシステムに組み込まれる可能性もある以上、美咲用の義体も用意されてはいるが、詩織用のものとの互換性は一切無い。
「判ってるんだったら……」
「ううん。きっとこの義体は、この子がここに在るために産み出されたんだよ。きっとそれが、運命だったんだと思う」
 諦めたふうではなく、それが当然であるかのように詩織は言った。その表情に迷いも翳りも無い。
「……ね、システムにはあたしが」
「それを決めるのは私たちじゃないよ。母様や桜花様が決めることだから。でもね」
 そこで詩織はいったん言葉を切った。
「……でもね。私、別にシステムに組み込まれたって構わないよ。それが誰かの為になるんだったら」
「駄目!」
「駄目!」
 まず義体が、そしてほんの一瞬だけ遅れて美咲が、同じ叫びを発した。
「詩織さん、消えちゃ、駄目。消えちゃ、駄目……」
 先程と同じく、表情を全く変えずに義体は言った。だが、ほんの一瞬ではあったが、声を発する寸前、彼女の表情に怯えの色が浮かんだ事に、詩織は気付いていた。
「消えるわけじゃないよ。ただ、肉体を失うだけ」
 そう呟きながら、詩織は何かが引っかかっていた。
(……この違和感はなんなんだろう?)
 彼女は、何かがちぐはぐなのだ。

「晃司殿。どうして葉雪様は目覚めたのに、雪菜様は目覚めないんでしょうか?」
 不意に問いかけられ、晃司は言葉に詰まった。
「……そう言えば忘れてたよ。盲点だった」
「それに、どうしてあんなに拓也様の身体を求めるんでしょうか」
 そうだ、どうしてそこに考えが行かなかったのだろうか。起きている行為にだけ意識が集中し、その理由を考えようとしなかった。
「一目惚れ……違うな。そんな生やさしい理由じゃない」
 晃司が、霊力や魔力を持つ者達の同族への性的衝動に対して言及したとき、葉雪は言った。
『……確かに我らの力を継ぐものにはそういう感情が芽生えやすい。なぜなら、我々はそういうように自らの肉体を構成しているのだから』
 そう。なぜなら、と言ったのだ。
 それはつまり、精人たちがそれを必要としていると言うことになる。何故か? 力を高めるためだ。どうして? 自分たちが存在するために。霊力も魔力も、体力と同じように消耗するものだ。それを、何らかの形で補われなくてはならない。
 晃司達が食事を採るのと同じように、精人達はそういった行為を必要としているのではないのか。そしてそれは、同族間でのみ有効となる。
「もしかして、拓也は葉雪か雪菜の末裔なのかも……」
 だとすると、拓也では桜花や橘花に太刀打ちすることは不可能に近い。この二人と葉雪とでは、圧倒的に格が違う。
「それはない筈です。峰誼様も含め、樹華様の子らの血縁は厳重に管理されてきました。拓也様の力がそれほどまでに強いのなら直系以外は有り得ないでしょうし、それならば峰誼様や葉雪様、雪菜様の子ではないでしょう」
「とするとやはり樹華の子……。葉雪が嘘をついているか、あるいは……」
 葉雪の言葉が脳裏をかすめる。
『だが、樹華は拓也の母親ではない。だから拓也は安心して私を抱けばいい。拓也の母親が誰かは、私は言えんがな』
「……父親が樹華、っていう可能性はないのかな?」
 拓也の力が直系のものでしか有り得ない。そして母親が誰かは言えない。それは母親が普通の人間であることが知れたら、父親側が精人であるということにが判明するからではないのか? 拓也の父親、鳳一馬。彼が実は樹華であった、もしくは樹華から拓也を預かっていたのだとすると……
 だが、シェラは首を振った。
「精人のほとんどが女性体をとるのは、その生殖機構に起因します。すなわち、女性は精を受ける存在であり、男性は精を放出します。いわば命の源を、男性は放出しているわけですね。己の力を削って自らの肉体を構成している精人にとって、体内に新たな命を抱えることは自らの負担を軽減することになりますが、命を放出することは死と隣り合わせです。だからそれもないでしょう」
「……そうだよな。うん、そうだった」
 それはかつて学生の頃、精人の全てが女性体だと聞いて疑問に思った晃司が、シェラに尋ねたことと同じだ。そして、シェラが語る解答も、その頃とまったく変わっていない。
「と言うことはさ。葉雪が拓也を求める目的って、ひょっとして妊娠にあるっていうのはどうかな?」
「体内に子供を宿すことで、自らの肉体構成に必要な負担を軽減する、ということですか?」
「そうさ。そう考えると、辻褄は合ってくると思わないかい?」
 が、シェラはいまいち納得がいかない様子だった。
「では何故、拓也様である必要性があったんですか?」
「そんなものはないだろ? 別に誰でもいいんじゃないかな。僕はそう思うけど」
 一人うんうんと頷く晃司の姿に、シェラは、
「晃司殿。何を焦るですか?」
 冷ややかにそう問いかけた。
「焦る? 僕が?」
 問いには答えず、シェラは自分の分の紅茶を飲み干し、席を立った。

 やがて日が暮れ、夕食の時間が近づいていた。
 美咲にとって、夕食の時間は憂鬱なものでしかなかった。朝は皆が起きる時間がばらばらだし、昼は食べない者や、集落の復興作業現場で食べる者もいるからいい。しかし、夕食の時間だけは、一同が食堂に集うことになる。詩織も居るから美咲もそれに倣っているが、そうでなければ一人だけ時間をずらしてしまいたいところだ。
 それというのも、拓也とそれにべっとりまとわりついているあの女の存在が気に入らない。あの、葉雪という女の存在が。
 そして、それに対して何も言わない詩織の態度も気に入らない。食事を採るわけでもないのに食堂に来て、詩織の側から離れようとしない義体が気に入らない。
 シェラはいつも似たような反応しか返さないし、晃司もどこか表情が暗い。この辛気くささも嫌だが、葉雪と二人の世界を築き上げている拓也が一番気に入らない。
 気に入らないことだらけだ。ここには美咲の居場所が無い。
 いらいらしながら、食堂へと続く廊下を歩いているうちに、玄関の前を通りかかった時だった。
「ごめんくださーい!」
 見慣れない女性が立っている。背は女性にしては高く、髪の色は濃い茶色。肌はやや白いが、全体的な印象は日本地区出身っぽい気がする。理知的な美人、とでも形容するのが正しいだろうか。
「どなた?」
「あぁ、貴女。ここの家の人?」
 訛りも特にない。シェラのように日本地区出身でない人間は、どこか独特の訛りがあるものだ。
「んー、まぁ。そんなトコです」
 適当に答えながら美咲はその女性を詳しく観察する。腰に下げている日本刀と、ラフな服装からして、雇兵かその類の人間には違いないだろう。どことなく拓也に通じるものがある。よく見ると、瞳の色が青みがかっている。
「こちらに、江藤晃司って人がお邪魔してると思うんだけど……」
 家の奥を覗き込み、彼女は言った。
「失礼ですけど、どなたですか?」
「あ。あたしは江藤理沙。晃司の姉よ」
「あぁ、晃司さんのお姉さんなんですか」
 晃司に姉が居るという話は聞いたことがある。拓也が電話で親しそうに話している所も見た。だが、それ以上のことを美咲は知らなかった。晃司と理沙が、必ずしも協力関係にあるとは限らないという事を、拓也達の一行の中では美咲だけが知らなかったのだ。
「晃司、居るかな?」
「ええ、今からみんなで食事なんですよ。良かったら一緒にどうですか?」
 あの居場所の無い中に、誰でもいいから自分と同じ境遇の人間が欲しかった。
「あ、いいの? それじゃ、ご一緒させて貰おうかな」
「どうぞどうぞ! あたしも話し相手が欲しかったんです」
 理沙を先導して、美咲は食堂へとやってきた。覇気のかけらもない晃司とシェラ、拓也とそれにまとわりつく葉雪、少し離れた所でその様子を伺う詩織と義体。いつもの構図だ。
 美咲が小さく溜息をついたその隣を、一陣の風が通り抜けた。
「姉貴っ!?」
 晃司の絶叫する声が響いた瞬間、理沙は数メートルの間を一足飛びに詰め、いつの間にか構えていた刀で葉雪の胴体を真っ二つに切り裂いた。
「アンタは居ない方がいいわ」
 地面に転がっている、半ば姿を消そうとしている葉雪の残骸に向かって、理沙は吐き捨てるように呟いた。
 その隣に座っていた拓也の表情が凍り付いていた。
「………え?」
 何が起こっているのかを、理解したくないのだろうか。呆然としたままぴくりとも動かない。
「計算違いだったわ、拓也。アンタは桜花の息子じゃなかったのね」
「理沙……さん?」
 拓也は虚ろな目で理沙を見上げ、理沙は侮蔑の視線を拓也へと向けた。
「まったく。おかげであたしの計画も大幅に変更よ。参っちゃうじゃない。アンタと晃司を引き離してしまいたかったのに、まさか葉雪に取り込まれてるなんて」
「理沙さん! 一体なにをするんだ! 葉雪は、葉雪を」
 虚ろだった拓也の目に怒りの光がみなぎっていく。
「命の恩人に向かってその口のききかたはないんじゃない?」
 口ぶりは明るいが、その手に持つ刀の切っ先は拓也の喉へと突きつけられている。
「命の恩人……?」
「そうよ。まさかアンタが樹華系だとは思わなかったわ。桜花の第二子ってのは、そこにいる義体の中身だなんてね。予想外もいいところよ」
 その言葉に、一同の視線が義体へと集まる。
「この子が……瑠璃奈様?」
 呆然とした表情で詩織が呟いた。が、当の義体の方はまったく顔色を変えない。
「そう、瑠璃奈って言うのね。ま、それはいいとして、拓也。アンタこのままだと、葉雪との接触で急激に引き出された霊力と、消耗した肉体とのアンバランスさが原因で、霊力が暴走して死んでもおかしくなかったのよ」
「……俺が?」
「あぁ、もう! ここまでの仕込みにどれだけの手間と時間をかけたと思ってるのよ!」
 そう怒鳴った瞬間、刀を持つ理沙の手元がわずかにぶれた。その隙を逃さず、拓也は刀を払いのけ、足下に置いてあった自分の刀を拾い上げる。
「畜生! 何がどうなっているんだよ!?」
「ふん、自分から何もしない人間は、誰かに利用される為だけに存在するのよ。拓也、アンタも同じよ。自分の置かれた立場と宿業を考えようともせず、ただ流されるように生きているよりは、あたしの野望のために死んだ方があたしの為だわ」
「何がアンタの為だよ!」
 叫び、拓也は理沙へと刀を振るう。切っ先が上段から下段へと流れるように移行し、理沙の足下を薙ぎ払う。しかし理沙は、拓也のその動きを予知していたかのように、その剣技の全てをあっさりと避けた。
「言ったでしょ。仕込みには時間をかけたって」
 拓也の刀を踏みつけて動きを封じ、いつの間にか手にしていたナイフを拓也の首筋に添え、理沙は笑った。
「あたしがアンタに、剣技を基礎からたたき込んだのはね。あたしの型に、アンタの動きをはめ込んでしまうためよ。つまり、基礎になっているのがあたしの仕込んだモンなんだから、斬り合いの手の内はぜーんぶ、読めてるのよ」
「そんな……」
 そして、拓也が半ば諦めかけた時。異変は起きた。
「いやっ!? 何。なんなの!?」
 突如、詩織が頭を抱えてうずくまった。
「いやだよ、入ってこないでよっ!」
 絶叫した直後、がっくりと肩を落としてうなだれ、そして顔を上げる。
「そこの人間。よくもやってくれたな」
 声は詩織のものだが、その声色がどこか違う。いつもの彼女ではない。
「……葉雪?」
 拓也が呟く。確かにあの口調は葉雪のものだ。
「消える前に、この代償だけは払わせてやろう」
 いつもの詩織とはまったく異質の笑みを浮かべ、葉雪は地を蹴った。
「往生際が悪いわねっ!」
 理沙は拓也に突きつけていたナイフを葉雪へと投げ、自らは真横へと飛ぶ。葉雪はと言えば、投げられたナイフを手刀でたたき落とし、理沙が元いた場所へ着地する。
「姉貴! そこまでだ!」
 体勢を立て直した理沙に、晃司が拳銃を突きつけた。
「拓也を助けてくれたことには感謝してるよ。僕にはここまでは出来ない。だから今日の所は帰ってくれよ。もう、用事は済んだんだろ?」
 一方、詩織の身体を乗っ取った葉雪の前には、義体とシェラが立ちはだかっていた。
「我に連なる者よ。裏切る気か?」
 シェラの眼を睨み、葉雪が問う。
「我々が望んでいた葉雪様はこんな邪悪な存在ではない。我々を導き、そして樹華様を助ける者だったはずです」
「ふん、そんな自分たちに都合の良いように物事が進むと思うな。忌々しい封印の間に失われた力、取り戻さぬことには、桜花にも橘花にも太刀打ちできぬ。それが何故判らん?」
「そんな事はどうでもいい。詩織さんを返して貰う」
 そう言って義体が一歩前へと踏み出した。
「言われなぁくとぅもーーーーーーーー」
 不意に葉雪が苦悶の表情を浮かべた。端正な顔つきの詩織の表情が醜くゆがみ、脂汗を流している。
「………申し訳ありませんでした」
 再び詩織の口調が変わった。先程までの葉雪から感じられた高慢さは消え失せ、いつもの詩織に近い穏やかさがにじみ出ている。
「葉雪の不始末はお詫びします。この身体はお返ししますから、あともう少し、私たちが消えるまで……話が終わるまで、待っていただけませんか」
「あなたは、雪菜様ですか?」
 シェラの質問に、彼女----雪菜は弱々しく頷いた。
「葉雪は、消耗しきっていた私に、生きるための力を注ごうとしていたんです。おかげで、こうして皆さんとお話しできるくらいの力は戻ってきました」
「それで、話ってのは何だい?」
 理沙に拳銃を突きつけたまま、晃司が尋ねる。雪菜は頷き、
「拓也さん」
 と名を呼ぶと、拓也の方へと身体を向けた。
「葉雪の事はお忘れなさい。葉雪との事はただの通過儀式であり、貴方にとっては性質の悪い麻薬のようなもの。霊力は活性化しているでしょうが、それは本当の意味での強さではありません。貴方は人として、歩むべき道を歩まなくてはならないのです。それが、貴方のご両親の願いなのですから」
「両親だかなんだか知らないが、勝手な願いを押しつけらるのはゴメンだ」
「これは姉として、私から貴方への遺言です。葉雪とのことは、儀式だったのです。愛なんてどこにも無かったのですよ」
 淋しく微笑み、雪菜はその場に崩れ落ちた。

 この瞬間、葉雪と雪菜がこの世界から消滅した。

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  私の真実は偽りと共にある。
  そして時間は流れる。
「虚構の楽園」


 数分後、詩織は目を覚ました。
「目が覚めた?」
 自分の顔を覗き込む、自分にそっくりの顔。それが義体だということを思い出すまでに一瞬の間を要した。
「……瑠璃奈様」
 が、義体は首を振った。
「違うと思う。私はそういう風には生まれていないよ」
「詩織ちゃん、大丈夫?」
 二人の会話に割り込むように晃司が現れた。
「はい、私は大丈夫です。それよりも拓也さんたちは……」
「一人になりたいって、部屋にこもった。姉貴は『今日の所は帰るわ』って言って、ついさっき出ていったよ」
 まだだるい身体を起こすと、シェラがさっきの騒ぎで割れた食器の後かたづけをしている。その向こうで、美咲が不安げに室内の様子を伺っていた。
「あ、あたし、あたしが、あの人をここに連れてきたから」
「それは違うよ、美咲ちゃん。別に美咲ちゃんのせいじゃないし、どうせ姉貴のことだから一人ででも上がり込んできたと思うよ」
「でも。あたし、みんなに迷惑かけてばかりで……」
 美咲にしては珍しく狼狽している。いつもの高慢さがまったく伺えない。
「あまりそんな気はしないけどね。全部起こるべくして起きてきた事だと思うし」
「晃司さんの言うとおりだよ、美咲ちゃん。たまたま、運が悪かっただけだよ」
 だが、そんな詩織達の言葉から逃げるように、美咲はその場に背を向けてどこかへと走り去ってしまった。
「……やれやれ」
 溜息混じりに晃司は呟き、再び詩織の方へと向き直った。
「それより、さっきは何が起こったんだい?」
「私にも判らないんです。急に、心臓を素手でなで回されるような感じがして、頭の中で声が響きはじめて……あとはずっと、夢でも見ているような感じでした」
 拳を堅く握り締め、詩織は答えた。
「何が起こっていたのか、全部覚えてるんです。でも体の自由が全然なくて、心の中を全部覗かれて、笑われて……」
「それはやっぱり、葉雪が?」
「はい、そうです。消滅する前に、最後の力を振り絞って……私の身体を一時的に乗っ取ったんです。でも、葉雪様は無理矢理でしたけど、雪菜様は私に話しかけてきたんです。しばらく身体を貸して欲しいって」
 そこまで話して、詩織は小さく息をついた。
「少し……疲れました」
「そうだね、詩織ちゃんも休んだ方がいいよ。シェラ、空いてる部屋は有るかい?」
 晃司に問われ、シェラは掃除の手を休めて考え込んだ。
「たぶん。二階の奥の部屋が空いてます」
「だってさ。一人で大丈夫かい?」
「私がついていく」
 晃司の言葉に義体がそう言ったが、詩織は首を振った。
「私は大丈夫だから。あなたは、シェラさんの手伝いをしてあげて」
「うん、判った」
 頷き、義体は床に散らばった食事の片づけを始めた。
「晃司さん。何か有ったら、呼んでくださいね」
「あぁ、判ったよ。ゆっくりと休むといいよ」
 晃司達にいる食堂を離れ、詩織は二階への階段を昇り始めた。
 一歩一歩、階段を昇るごとに、葉雪が入り込んできたときの嫌悪感が蘇る。
「そうかそうか、お前がそうだったのか
「いや、なかなか良く鍛えられた体じゃないか。霊力の出力も問題ない
「ほう、このことを拓也が知ったらどう思うのかな
「それは美咲とかいう娘に対する優越感じゃないのかな
「結局、誰でもいいんだろう?
 嘲笑するような葉雪の声が脳裏をよぎる。
 自分の身体を抱きしめるように身を縮こまらせ、詩織は説明のしようがない寒さに身を震わせた。
 駄目だ。一番知られたくないところを知られた。
(でも、もう消えた筈……)
 気を取り直して廊下をとぼとぼと歩き、シェラの言っていた部屋へと向かう。部屋の中はベッドが一つあるだけの質素な部屋だ。
 お世辞にもふかふかとは言えないベッドに潜り込み、詩織は寒さに耐えていた。
 五分か、一時間か、十年か。しばらく時間が過ぎた頃、部屋をノックする音がした。
「詩織……起きてるか?」
 拓也の声だった。
「は、はい! 起きてます」
「ちょっと、話があるんだけど、構わないか?」
 気落ちしているのが扉越しでも判る。それほど、拓也の声は弱々しいものだった。
「………どうぞ」
 拓也のことが気がかりで自分の状態を忘れ、詩織は拓也を部屋に招き入れた。思えば、こうして拓也と会話するのはいつ以来だろうか。
 拓也は、葉雪を連れて食堂に居た頃とはまるで別人のように憔悴しきっていた。
「正直言って、疲れたんだ」
「拓也さん……」
 力無く拓也は笑い、後ろ手に閉めた扉にもたれかかるようにして、その場に座り込んだ。
「なぁ、詩織。葉雪は……死んだんだよな」
 実際には死ぬこととはニュアンスが違うのだが、拓也にしてみれば大した違いではないのだろう。
「……はい」
 詩織は複雑な心境で答え、頷く。
「もう何がなんだか判らないんだ。葉雪が死んだって事は判ってるのに、佳代が死んだときほどの喪失感はないんだ。あれだけ身体を重ねた相手だっていうのに、なんの感慨も湧かない。俺は何か、壊れちまったのかな……」
『葉雪とのことは通過儀式だった』
 雪菜は消滅の間際、拓也に向かってそう言った。その言葉は詩織の口から紡がれ、詩織自身もそれを記憶している。
「いったい、この一週間ほどの事はなんだったんだろう……その答えを出してくれないまま、葉雪は死んだんだよ」
 拓也の気持ちが判るような気がした。詩織と出会って以来、あまりに突然に事態が動きすぎ、何が何だか判らないのだ。用意されていた運命だったのかもしれないが、それにしても予備知識も何もないまま、流されてきたのだ。そして葉雪の死で、それは極限に達したのだろう。
「もし……」
 詩織は肩の震えを悟られないよう、ゆっくりと拓也の方へと歩み寄っていった。
「もし、葉雪様にもう一度会えるとしたら、どうしますか?」
 悟られてはいけない。心の動揺を。
「……え?」
 惚けたように拓也が問い返す。
 足を伸ばして座り込んでいる拓也の膝をまたぐように腰を下ろし、詩織は拓也の顔に自分の顔を近づけた。
「葉雪様のかけらは、まだ私の中に残っています」
 嘘だ。そんなものはない。
「……長い時間じゃないですけど、でも、呼び起こすことは可能です」
「もう一度、葉雪に会える……?」
 詩織は静かに頷くと瞳を閉じ、両手を胸元で組み合わせた。
 思い出すんだ。詩織を乗っ取った時の葉雪の嘲笑を。拓也を見ることしかできない自分に向けた、あの淫靡な笑みを。思い出すんだ。
 そして、私は葉雪になるんだ。
 目をうっすらと開き、拓也の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……葉雪?」
 拓也の問いに、詩織は微笑みで答えた。
「葉雪っ!!」
 詩織の肩を強く抱きしめ、拓也は葉雪の名を連呼した。そのまま床に、詩織の身体を押し倒す。
 だが、そこで動きが停まった。
「……どうしたの?」
 心の中の動揺を必死でこらえ、平静を装いながら詩織は尋ねた。
 この鼓動に気付かれちゃいけない。葉雪なら、きっとこんな事くらいじゃびくびくしない。むしろ、笑って拓也を受け入れるはずだ。
「身体は詩織のものだから。抱くわけにはいかないよ」
 情欲のままに突っ走ろうとした自分をあざけ笑うように拓也は呟き、詩織から身体を離そうとした。が、その首を詩織が抱き寄せた。その勢いで二人の唇が重なる。
「気にしなくていいよ。拓也さん」
 一瞬だけ本当の自分で言葉を発し、再び詩織は葉雪の殻をまとった。
「そう、気にしなくていいのよ。拓也」
 これは私自身の望みだから。


 嬉しかった。この場に及んで自分の身体を気遣ってくれたことが。
 嬉しかった。自分自身が必要とされたことが。

 だから詩織は、迷わずに全てを捧げられた。

 嬉しかった。その想いは偽りでも、愛する人に求められていることが。
 そう、嬉しかった。こうして愛する人と一つになれたことが。


 やがて、拓也の腕の中で詩織は目覚めた。
「……ごめん」
 目覚めて最初に聞いた声は、拓也の謝罪の声だった。
「初めてだったのに、こんな……」
「いいんです。私は……」
 貴方のことが好きですから。という言葉を慌てて飲み込んだ。それは言えない。言うと、拓也を苦しめるだけだ。
 けど、謝って欲しくなんてなかった。それが悲しかった。
「詩織。俺と逃げないか?」
「え?」
「もう疲れたんだ。晃司にも理沙さんにも、利用されるのはまっぴらなんだ」
 詩織の髪を撫で、拓也は苦々しく呟く。
「葉雪と……詩織だけが居れば、もうそれだけでいいんだ」
 違う。拓也さんが必要としているのは葉雪様だけだ。私じゃない。
「幸いって言うか、九州地区はほとんどがゴーストタウンになっている。いくらでも逃げようはあると思うんだ」
「私は……貴方がそれを望むんだったら、どこへでもついていきます。だって……」
 真実は言えない。
「拓也さんは私のボディーガード、なんですよね? 私、ようやく拓也さんにお礼が出来るんですよね」
 そう、これは彼に支払う報酬なのだ。
 拓也の腕に身を預け、気付かれないように詩織は涙を流した。


 そして翌日。
 太陽が昇るよりも早く集会所を抜け出した拓也と詩織を、既に待っていた者が居た。
「……私も行く」
 詩織とそっくりの姿をした義体が、そこに立っていた。
「拓也さん……」
 不安そうに、詩織が拓也の腕を掴む。
「……仕方ない。だが、俺達の事に口を出すな」
「判ってる」
 無愛想に義体は答え、拓也の一歩後ろに回った。

 西暦2021年3月16日。こうして、三人の逃亡の日々が始まった。


幕間

 咲夜瑠璃奈。
 咲夜家内部でもその存在は極秘とされていた、桜花の次女。長女は咲夜家の祖となった咲夜であり、当然ながら故人である。
 力の象徴として産み落とされた筈の瑠璃奈だったのが、彼女は生まれて以来ずっと眠り続けていた。眠り続けているのだから、自我があるのかないのかも判らない。
 極秘事項になるのも当然と言えば当然だ。
「その事をどこで知ったのですか?」
 晃司に聞いた「約二十年前に桜花が子を産んだらしい」という事について尋ねた志帆に、静香は疑いの色を露わにして問い返した。
「……それは言えません」
「その事は咲夜家でも最高機密の一つとされているのに……」
 そうして静香は瑠璃奈の存在を認めた。
 二十年前に桜花が産んだのは一人の女児。と言うことは、晃司の姉が言ったという「拓也は桜花の実子だ」という説は可能性が極めて低くなる。
「深入りはしない方があなたの為ですよ、志帆」
 静香はそれ以上の追求を許さなかった。
 これは、瑠璃奈が義体を乗っ取って失踪した二日後の事で、志帆が失踪の事実を知るのはこれからさらに三日後の事となる。


To be continued.
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