五
食欲と性欲と睡眠欲には逆らえない。
なぜなら、我々は人間だから。
「人の心の奥底で、静かに吹く風……そしてさざ波。それは扉を開くひと」
一つの戦いの幕が降りた。拓也と隆一の衝突は、苦い幕切れに終わった。
もう一つの戦いの幕は既に降りていた。歯切れの悪い幕切れだった。
晃司達が到着した時には、集落に火をかけた集団は既に撤退していた。後詰めとして撤退の遅れたごく少数の者も、峰誼の術者によって撃退されていた。晃司達が集落へ戻る途中の車内から見た、術による戦闘の光はそれだったらしい。
住民が避難していた集会所付近は放火を逃れていた。というよりも住民の話では、最初のうちは無差別に放火していたが、住民が襲撃に気付いて避難しはじめてからは、避難後に無人になった地域を優先的に焼き払っていたらしい。
そして隆一が絵里の銃弾に倒れたころ、晃司と美咲は十数名の術者を率いて集落へ戻り、鎮火活動を行っているところだった。峰誼の術者は、燃え盛る家に対して地中や空気中の水分を集めて浴びせかけたりしているのだが、美咲のやり方は豪快かつ強力なものだった。
「空間氷結陣!」
家一軒を丸ごと、もしくはその一部分を完全に凍り付かせるのである。さすがにかなりの霊力を消耗するらしく多発は出来ないが、もはや消火は絶望的と思われた建物をも瞬時に凍てつかせてしてしまうのは圧巻である。
「…さすがに凄いね」
感動半分の呆れ半分といった調子で晃司が言う。
「はぁ…はぁ………戦闘用以外で使う羽目になるとは思わなかったわよ」
美咲は肩で息をしながら答え、地面に倒れ込む。
「美咲ちゃん!?」
「…だいじょーぶよ。ちょっと疲れたから休ませ……」
最後まで言う前に美咲は気を失ってしまった。全身に汗をかいているのは、炎の熱さだけではないだろう。美咲が風邪をひかないように、晃司は自分が着ていたコートを被せてやる。
(僕に出来ることはこれくらいしかない……)
晃司は魔術と精霊術を使うことができるが、神霊術は使えない。
魔術と神霊術には術の組成段階で大きな違いがあり、両方の術を行使できる人間はごく少数である。そういった、両方の術を使いこなす人間を混沌士は呼ばれ、世界に数人しかいないと言われている。その混沌士達が語るには「魔術は術の行使に力を使い、神霊術は力を用いて術を産み出す」らしい。この言葉を言い換えると、魔術というのは精神力、すなわち魔力と引き替えに術を発動させるだけであるが、神霊術は霊力の練り上げ方によって、一つの術に対してアレンジをかける事も可能であるという事らしい。
今、鎮火作業に要求されているのはそういったアレンジなのだ。魔術であっても対火防御術でも使えれば鎮火作業に応用することも可能だが、晃司の術のストックにその類はない。この場にいるのも、峰誼の術者達のボディーガード的な意味合いである。
精霊術ならば鎮火作業を助けることは可能かもしれない。精霊術は魔術や神霊術と違い、自分の周囲にあるあらゆる存在から力を取り込んで発動する。そのために行使できる術は、術者を取り巻く状況----これを場の属性と呼び、それによって大きく左右されることになる。
大きく分けると、現在強い力を持っている属性の勢いを借りて術を発動するか、もしくはその属性を打ち消して場を安定させるための術を発動させるか、そのどちらかである。
今ならば、周囲が火に包まれているのだから場の属性は「火」だと定義できる。この属性に従って火を利用した術が発動できるし、逆に「火」の属性が突出しているのを抑えるための術も発動できるだろう。
だが、属性を打ち消す場合は、属性に従って発動する術よりも難度が高い。下手をすると、それによってさらに被害が甚大になる可能生がある。それが、晃司が精霊術を使うことをためらう理由の一つだった。
そして、もう一つ理由はある。むしろこちらの方が本命とも言える。
(たぶん、姉貴が来ている……)
先ほど、集落にもどる最中に遭遇した敵兵は傭兵だった。だが、峰誼の人間の話では火を放ったのは正規軍だったらしい。
混成軍は利沙が好む編成だ。そして目的を果たした後の撤退の素早さ。目的が火を放つことだけだとすると、それはこれから起こる戦いへの、何らかの布石としか思えない。
そんなことが論拠としては不充分だということは承知している。ほとんど勘といっても過言ではない。だが晃司は確信していた。利沙はここに来ている。彼女の目的は、復活した雪菜を奪取することにある。封印から解放されたばかりで、まだ雪菜が弱っているこの好機を、利沙が逃すはずはない。
だから精霊術は使うわけにはいかない。利沙は精霊術の存在をまだ知らないはずだ。いつか晃司が利沙と事を構える時まで、切り札は伏せておかねばならない。
(……すまない)
心の中でシェラと峰誼の人々に謝りつつ、晃司は失神した美咲を抱きかかえた。峰誼の術者達もかなり疲労しているようだ。
「この辺が限度か……」
まだ燃えている家は多いが、ほとんどが手の付けようがない程の規模だ。なんとかなりそうな建物はだいたい鎮火し、他からの延焼を防ぐためにその近隣の家屋は術で破壊した。
「撤退しよう!シェラのところへ戻るんだ!」
晃司の号令の元、鎮火作業に出ていた者達が引き上げはじめた。陰鬱な晃司とは対照的に、彼らの表情は落ち込んではいない。集落を焼かれたことはショックだっただろうが、それ以上に雪菜の復活は彼らにとって悲願だったのだ。幸いにも死人も出ていないし、復活の代償としてこの程度の事ならば問題にならないのだとシェラは言った。怪我人一人居なかったという報告を聴いた時のシェラの安堵のしようといったら、集落へ戻る最中の不安げなシェラとは別人のようだった。
「一族の人が誰も死ななければ問題なしです」
にっこりと笑ってそう言うシェラを見て、晃司は寒気さえ覚えたものだ。
(でも、もしかしたら……)
人としてはそれが正しいのかもしれない。
隆一の死に顔は、まるで微笑んでいるかのように穏やかだった。
「隆一はね。真実から目をそらす為に、拓也を憎むしかなかったのよ」
ボソリとつぶやくように絵里が言った。
「拓也にだけは本当の事を話しておこうと思ってた。でも、貴方はすぐに姿を消してしまったから……」
「逃げたのさ。俺は」
「それは……」
仕方なかったと言おうとした絵里を、拓也が手で制した。
「もしかしたら隆一が撃ったんじゃないか、って予感はしてたんだ。だけど、その予感が正しいと知ってたら……あの時の俺なら隆一を殺していたかもしれない。そうでなければ俺が殺されていただろう」
「それじゃ、今の拓也ならどうなの?」
「今は……」
そこまで言い、詩織の方に目をやる。拓也達に気を使っているのか、少し離れたところで義体を介抱している。しゃべり声は届いていないだろう。それにしても、ほとんど同じ姿の女性が二人並んでいるのは、ある意味で奇妙だ。
「……いつまでも過去にこだわってる訳にもいかないさ」
「そう。良かったわね」
そう言って絵里は優しく微笑んだ。彼女のこんな顔を見るのは初めてのような気がする。
「ひょっとして、なんか勘違いしてないか、おまえ?」
「別にぃ」
「……まぁいい。それより、これからどうするんだ?」
苦笑まじりに尋ねてみる。
「わかんない……。一人でやっていける程、腕に自信もないしね」
「俺達は仲間が心配だから戻るよ。もし良かったら……」
だが、拓也の言葉を最後まで聞かずに、絵里は首を左右に力なく振った。
「そっか……。それじゃ、少しだけ教えてくれ。今回の作戦の目的と、クライアントは誰だ?」
それを話さないことが、傭兵の流儀だということは拓也も重々に承知している。しかし、絵里はそれを話してくれるだろう。確信があった。
「目的は怪我人が出ないように集落を焼き払うこと。クライアントは知らないわ」
「知らない?」
「今度の仕事は隆一が貰ってきたから……」
「そうか……」
隆一が言っていた「あの人」という存在も気にかかったが、この調子だと絵里が知っているとは思えない。
「じゃ、あたし、行くね」
そう言って、絵里は隆一の亡骸と拓也に背を向けた。
「隆一はどうするんだ?」
「死んだらどうしようもないじゃない。だから、あの娘は死なせちゃ駄目よ」
それだけを言い残すと、絵里は歩き去って行った。
残された拓也は隆一の亡骸を抱え、まだ燃えている家の中へ放り込んだ。
「……さよなら」
かつての恋人の兄であり、拓也や絵里達みんなを支える存在だった隆一。こんな形で別れることになるとは、あの頃は想像もできなかった。いつか本当に兄貴と呼ぶことになると思っていたのに。
そのとき、肉が焼ける臭いで現実に引き戻された。そこでくすぶっているのはかつての友ではなく、もはや肉の塊にしか過ぎない。
「死んじまったらおしまいだよな。人としての意識が宿っていない肉体には、なんの意味もない……」
「……本当にそうなんでしょうか?」
拓也の呟きに、詩織が問い返す。いつの間にか側に来ていたようだ。
「死んでしまっても思い出は残るんじゃないでしょうか。それでも、死んだら終わりなんですか?」
「思い出なんてものに未来はないよ。有限の過去に縛られるのはもうヤメさ」
そう、佳代は既に過去の人間だ。
(さよなら……佳代)
死後の世界、というものを拓也は信じていない。信じてはいないが、もしそういうものが有るのだとすれば、きっと隆一は佳代と再会できたことだろう。そう思いたかった。
そして、今の自分の隣に居る詩織を見る。秘密、と言うよりも隠し事の多い女だ。女よりもむしろ、少女と言った方が近いかもしれない。どこか無邪気さを残したその表情。自分にはないものだし、今まで居なかったタイプだ。惹かれるものはある。
護ってやりたい。真剣にそう思う。出逢ったばかりの彼女にここまで入れ込む自分が意外であると同時に危険だとも判っている。
「どうかしました?」
拓也の視線に気付いた詩織が問い返してきた。拓也の次の言葉を待つその瞳には、彼に全幅の信頼をおいていることが明らかにうかがえる。
「……その堅苦しい言葉遣い、どうにかならないかとか思ってさ」
ふと思いついた言葉で適当に場を取り繕う。今考えていたことなんて言えるはずがない。
「そう……かな?」
戸惑うような表情で詩織は考え込む。本人には自覚がないらしい。
「そうだよ。なんかやりづらいんだよな」
「何を?」
ストレートに言われて、今度は拓也が戸惑う番だった。
「……色々、さ。さて、戻ろうか」
詩織の背を軽く叩き、拓也は絵里が去ったのと逆の方向へ歩き出した。
「ここにはもう、何もないからな」
晃司達が戻ってくるのとほぼ同時に、拓也達も戻ってきた。
「なんでそれがここに有るワケ!?」
拓也に抱きかかえられた義体の姿を見て、美咲が驚きの声をあげた。消火作業の疲れを忘れ、詩織と義体の姿を見比べる。彼女にとって、それがここに有るということはよほどの事態らしい。
「判らない…判らないの……」
答えながら、詩織は首を左右に振る。
義体が先ほど発した言葉の意味、それについては理解したと確信している。その事は美咲どころか、誰には言えない事だが。
しかし、それが判っていたとしても、この義体に何が宿っていて何故ここにいるのかまでは判らない。
「ちょっと拓也、何がどうなってるの!?」
「俺に聞くなよ。判るワケねーだろ」
「詩織ちゃん、その子は……?」
やはり疑問に思ったらしい晃司が尋ねた。
「腕を失った人に義手、足を失った人に義足。魔導工学の完成形の一つとして、こういった肉体の代替品を意思の力で制御するテクノロジーが有りますよね? これは人間の身体そのものの代替品なんです」
「まさか!! 人間の脳にあたる部分を人工的に再現するのは不可能だ!! 肉体を再現してもそれを制御する脳がなければ、そんなものに意味なんてない!!」
晃司にしては珍しく声を荒げる。
「その通りです。でも、脳を再現する必要はないんです。精人の意思というのは、脳の中にあるものじゃ有りませんから。精人はこの世界に形を為して存在するために、自らの構成要素をある程度変化させることができます。なろうと思えば機械の身体にもなれるはずですよ」
「精人専用、って訳だね。でも何の意味が有るんだい? あまりメリットを感じないんだけど…」
その問に詩織が答えるまでに、少し間があった。
「……この義体は私専用の義体なんです」
「詩織ちゃんの?」
「そう。これは私の身体に何かあった時に、意思だけでも守るために用意された義体なんです。霊力の行使は肉体ではなく、意思によって行われますから……」
「でも詩織ちゃんは精人の血をひいているとは言っても精人そのものじゃない。肉体が滅びれば………」
そこまで言って晃司は気付いた。
「……精人因子活性化システム!?」
「なっ、なんでアンタがそれを知ってるのよ!?」
声をあげたのは美咲だった。
「なぁ、さっきから話についていけないんだけどさ……」
拓也がそうぼやくが、晃司の耳には届いていないようだった。そんな拓也に、詩織は優しげな笑みを向ける。
「晃司さん。場所を……変えませんか? 二人だけで話をしたいんです」
「……そうだね」
晃司が頷くと同時に、詩織はその場に背を向けた。
「何がどうなってるんだよ……」
はっきりとした疎外感を味わいながら、拓也がつぶやく。
ふと思い出したように、腕に抱いた義体に目をやる。二人のやりとりを聞く限りでは、全身が機械のようなものらしい。確かに見た目よりは少し重いが、こうして抱えられる程度の重さだ。詩織に瓜二つの外見をしているが、ところどころに金属か陶器かよく判らない素材が露出している。髪に隠れて判りにくいが、額にもなにやら宝石のようなものが埋め込まれている。装飾品の類ではないらしい。魔導水晶だろうか?
「ロボットみたいなものかな……」
「近いわね。その言い方を借りれば、詩織っていうパイロットが乗り込むためのロボットよ。ただね、詩織専用に絆(キズナ)システム……制御部がカスタマイズされてるから、他の人間に操れるものじゃないのよ。できるとしたら、私達の母さんぐらいよ」
ぴくりとも動かない義体の顔を覗き込み、美咲が言う。
「何かのプログラムで動いてるんじゃないのか? よく判らないけど……」
「確かに動作の補助用としてプログラム制御できる部分はあるけど、あくまでも補助よ。それに、宿主になる人間が起動しようとしない限り動作しないもの」
「その宿主、ってのが要するにパイロットの事か。じゃあ、今この中に宿っているのは誰なんだ?」
腕が疲れてきたのか、義体の身体を地面に寝かせながら拓也は平然と尋ねた。そんな彼を、美咲は今にも殴りつけんばかりの目つきで睨む。
「知ってたら苦労しないわよ」
そう答え、美咲は小さく溜息をついた。自分の知らないところで何かが起きている。それが苛立たしくもあるが、だからといってどうしようもない。その「何か」の出方を待つしかないのだ。
が、拓也がそんな美咲の胸中を知る由もない。
「苦労してるのか?」
「してるわよ!!」
「ふーん……ところで、さっきの葉雪? 雪菜? まぁどっちでもいいや、あの人は…」
「あぁ、葉雪様なら集会所の地下室で眠ってるわ」
集会所の入り口を指さして美咲は答えた。
「地下室?」
「うん。防火設備が整ってるんだって。この集会所、避難所っていうか防衛基地も兼ねてるらしくて、地下はちょっとした居住スペースになってるのよ。シェラが言ってた」
「ふーん……」
生返事を返しながら、既に拓也の意識は建物の方へ飛んでいた。
初めて葉雪の肌に触れた時の感触が蘇る。と同時に、何とも形容しようがない衝動に突き動かされ、今すぐに逢いたいという欲求が湧いてくる。
「話がしたいんだけど、どうかな?」
「まだ寝てるわよ。たぶん」
「それでもいい……」
と言う拓也の目は半開きになっていて、まるで酒に酔っているかのようだ。
「地下の……どこにいるんだ?」
「……ろ、6番ってプレートが貼ってある部屋よ」
ここに至ってようやく、尋常ではない拓也の様子に気付いたのか、美咲は半歩ほど後ずさった。
「そう、か。じゃ、ちょっと、行って来るから……」
ふらふらとした足取りで拓也は集会所の入り口の方へ歩いていった。
「拓也!!」
その様子に不吉なものを感じ、美咲は叫んだ。
ゆっくりと拓也は振り返ると、不自然な程に穏やかな笑みを浮かべ、再び美咲に背を向けた。
(………何、あれ?)
美咲の疑問に答えを出せる者など居るはずもなかった。
集会所から少し離れた所。
晃司と詩織はしばらく無言で向かい合っていた。
二人とも言葉を探しているのだ。何から切り出せばいいのか、先に決めたのは詩織の方だった。
「晃司さん、知ってるんですね。私の未来……」
「あれはその為の義体なんだろ? けど、あのシステムの性質上、まだ実用実験には至っていないはずだ。だから……僕は君を止めないといけない」
詩織の目を正面から見据え、晃司は言う。
だが、詩織はその視線を真っ向から受けて尚、首を振った。
「私がやらなくても、誰か他の人が代わりに。なら私が……」
「どうしてなんだ!? あのシステムによって何が起こるか、君にだって判っているだろう?!」
「晃司さんが思うような事態には、絶対にしません!!」
晃司の叫びも力強いものだったが、それに輪をかけて詩織の叫びは強く響いた。少し間をおき、詩織は淡々と言葉を紡ぎ始める。
「私……拓也さんのこと、好きです。最初、怖い人かな、って思ってたんです。でも、ずっと言って欲しかった一言を、あの人が初めて言ってくれたから……」
「一言?」
拓也とはずっと一緒にいたはずだが、晃司に思い当たる節はない。
「………普通の女の子だ、って。母様も父様も、みんなが私のことを『この子は特別な子だ』って言うのが凄く怖かったんです。みんなが求めているのは私の中の力で、私の人格じゃないんです。桜花様も私のことを『我々精人にも匹敵する力だ』って言うだけ……それがずっと、怖かったんです」
そう、怖かったのだ。力以外の存在意義を否定されているようで。違う!自分の本質はそんなものじゃない!といつも心の中で叫んでいた。
「でも拓也さんが、私のことを普通だって。それからどんどんと気付いていって……拓也さんの笑う顔、すごく優しいんですよ。私が普通に話しているつもりでも、拓也さん楽しいらしくて。笑ってくれるんです。あの人と居ると普通で居られるんです」
そう言って詩織は穏やかな笑みをこぼす。女性にしかできない、母性を伴った微笑みだ。
「だから私、拓也さんの前では普通の女の子で居たいんです。でも……」
そこで詩織は一旦言葉を切り、空を見上げた。
絵里に指摘されてはっきりと判った。自分があの人に抱いている、この人に自分をもっと知って貰いたいという感情。彼の過去にこだわり、佳代という女性の存在が妙に気になるこの胸の内。一緒にいると実感できる安心感。恋心以外の何物でもない。
初めて逢った日の夜の居酒屋で、美咲の言うとおり人見知りの激しい自分が、初対面の人間とあれだけ話せるなんて思ってもみなかった。あの時、もう好きになっていたのだ。
月は静かに光を放っている。降り注ぐ光。それは詩織自身の未来を描いているかのようだった。
「力の衝突からは逃れられない。私が逃げたら、橘家側の力でこの星そのものが壊れてしまうかもしれない……」
「僕たちがそれを阻止する。確かに咲夜家も橘家も強大な存在だけど、立ち向かえない相手じゃない!!」
だが、詩織は左右に首を振った。
「拓也さんを、私が守りたいんです……」
その言葉に込められた意志の強さに、晃司はそれ以上何も言えなかった。
(6…ここだ……)
美咲の言うとおり、6というプレートの貼ってある部屋はあった。ここに近づくにつれ、鼓動は早くなり、頭の中にもやがかかったような気分になる。
実に心地よい……。
その感触をひとしきり堪能した後、拓也はドアノブに手をかけた。乱暴かとも思えるほどの勢いで、扉を開く。
葉雪はそこに居た。その瞳に、深く静かな闇をたたえ、彼女は一糸まとわぬ姿でたたずんでいた。
拓也の虚ろな瞳と、葉雪の瞳が引きつけ合うように向かい合う。それまで表情を見せようとしなかった葉雪の顔に、優しい微笑が浮かぶ。
葉雪は両腕を広げた。ゆるやかに丸みを帯びた身体のラインが、ふくよかな乳房が、細い腰が、拓也へと向けられている。
部屋には小さなテーブルと棚、その他いくらかの調度品が有った。だが拓也の目には葉雪の肢体と、その背後にあるベッドしか映っていなかった。
そして彼女は拓也を受け入れた。
「あれ? 拓也は?」
戻ってきた晃司が美咲に尋ねた。
「葉雪様の所に行ったみたいだけど……」
「葉雪さんのトコ? 何しに行ったんだろう……」
晃司は葉雪が居る筈の建物に少し目をやったが、
「ま、いいか。それよりも、義体の様子を見せてもらいたいんだけど」
「あぁ、あれだったら一階の奥の部屋よ」
そう言って美咲は集会所の入り口を差す。
「案内してくれるかな?」
「別にいいけど……晃司さんが見てどうなるの?」
「魔導工学はちょっとかじっててね。ちょっとした興味かな」
嬉々とした表情で晃司は言う。子供がおもちゃを与えられた時のような、そんな笑いだ。
しばらくして晃司は美咲に連れられて、集会所の一室の前に着いた。やはり気になるのか、詩織も一緒に着いてきている。
「はい、それ」
扉を開け、美咲は床を指さす。床に突っ伏すような姿勢で、無造作に義体は放置されていた。
「ひっどいなぁ……」
「いいじゃない。どうせ物なんだから」
ぶっきらぼうに美咲は言った。
とりあえず晃司はしゃがみ込み、義体の体を仰向けに寝かせる。
「さて、と……メンテナンスは……」
単独動作を前提に作られている以上、外部からなんらかの形でメンテナンスをするためのインターフェースがあるはずだ。
まずは白衣に似た服を上だけ脱がせ、その構造を観察する。脇腹と肩に金属部が露出しているが、後は普通の女性とほとんど違いがない。額に埋め込まれている宝石のような物は、おそらくは霊子結晶だろう。
霊子結晶とは魔導水晶の副産物として精製される物質で、従来はただの残りカスと思われていた。しかし、約25年前に風間龍成(たつなり)という学生によって、霊力や魔力を蓄積する性質がある事が証明されて以来、魔導工学によって作られた機械を動作させるときのエネルギー源として用いられるようになった。また、純度が極めて高い霊子結晶は、それ自身が霊力/魔力を産み出す事もできる。この義体に埋め込まれているのは、おそらくはかなり純度の高いものだろう。
「えっち……」
「は?」
思わぬ声に晃司は素っ頓狂な声をあげた。
「詩織そっくりの人形の裸を、そんなにじろじろ見なくたっていいじゃない」
ふと見ると、詩織が顔を真っ赤にしてうつむいている。
「ごめんごめん。ところで彼女、何かメンテナンスをするための部分って無いのかな?」
「あ、それだったら左腕に……」
そう言って詩織が義体の左手を取った。手首の辺りをなにやら動かすと、肘から手首にかけてを覆っていたカバーが外れ、内部が露出する。よく見ると、小さなディスプレイと、豆粒ほどの大きさのキーボードらしきものが有る。
少し遅れて、ディスプレイが点灯し、ログイン名を要求してくる。
「それじゃ、詩織ちゃんお願い」
「あっ、はい」
家にいた頃に、義体の使い方のレクチャーは受けている。それを思い出しながら、義体の使いづらいキーボードを操作する。
「とりあえず、今この義体に宿っているのが誰か調べてみたら?」
横で様子をのぞき見ながら美咲が言った。
「うん、そうする」
指先で一つずつキーを押す。しばらくして、画面に新しい表示が点灯する。
『Soul Code : Shiori Sakuya』
「これはどういうことかな?」
確認するように晃司が尋ねる。この表示から導かれる結論は明らかなのだが、その矛盾に満ちた結論を、晃司は詩織自らに語って貰いたいらしい。
「今、義体に宿っているのは、私だそうです…」
目をぱちくりさせて詩織が言う。目の前の状況が理解しきれていない、そんな顔だ。
「何それ? そんなわけないじゃない。あり得るとしたら……母様だけど……」
美咲はそこで言葉を濁した。彼女らの母、静香であれば義体に宿ることは可能だ。が、美咲はつい先ほど、電話で静香と話している。かけた電話は自宅だったから、ここに静香が居ることはまずあり得ない。
「……誰なのかしらね」
美咲の心中を察したのか、詩織はそんな風に話を逸らした。
「何かのプログラムとかは有り得ないかな? もしくは人工知能とか」
「それと似たような事を、さっき拓也も言ったわ。でもって、それはないわね。補助用としていくらかのプログラムは内蔵されてるけど、単独動作できるほどのものじゃないわ。行動パターンのライブラリ程度のものだもん」
「ふーん、そうなんだ。で、今この子はどういう状態なんだろう?」
一人納得したように晃司はうなずき、キーボードを操作していた詩織に話しかける。
「気を失っているのか眠っているのか、とにかくそんな感じです」
「外部から強制的に起動させることはできないのかな?」
「これはあくまでも義体ですから……。ロボットとは設計思想そのものが違うので、そういった事はできないと思います」
確かに詩織の言うとおりだ。義手や義足が持ち主の意志に反して、外部から動かされたら大変である。
「何よ、こんなのロボットじゃない」
吐き捨てるように美咲が言う。どうも義体というものに良い感情を抱いていないらしい。が、その言葉を聞いた詩織が、彼女にしては珍しくムッとした表情を見せた。
「それじゃ美咲ちゃんは、私が義体を使うような事態になったらロボット扱いするの?」
「えっと、それは……その……」
「あ、ところで詩織ちゃん。シェラを見なかった?」
「えっ? シェラさんですか?」
晃司に言われて気付いたが、拓也と一緒にここに戻ってきて以来、シェラの姿を一度も見ていない。
「シェラだったら、さっき集会所の中に入っていくのを見たよ。出てきたら気付くと思うから、まだ中だと思うけど……」
「ねぇ、美咲ちゃん。拓也さんもそうだけど、年上の人を呼び捨てにするのは良くないと思……」
「いいのよ。拓也はあまり好きになれないし、シェラは峰誼の人間じゃない。咲夜家に比べれば格下よ」
詩織の忠告を最後まで聞かずに、美咲はきっぱりと吐き捨てた。
「そんな言い方って…」
「格下、ね。そんなだから……」
何か言いかけた晃司の目を美咲が睨み付けた。
「なによ。文句ある? 外部の人間が口出ししないで欲しいわ」
「いえいえ。格下のさらに下、被支配階級の人間は口出しなんてしませんよ」
皮肉を露骨に込めて晃司は微笑んだ。
本心を隠すために。
……だから姉貴は君たちを皆殺しにしようとしているんだよ。多大な犠牲を伴ってでもね。
「気にくわないわね、その笑い方」
「美咲ちゃん、やめて」
「言いたいことがあるなら最後まで言いなさいよっ!!」
詩織を無視し、美咲の右手が晃司の胸ぐらを掴む。その手を振り払うべきか放っておくべきか、晃司が僅かに思案する間に、詩織の左腕が動いた。
「……やめてって言ってるでしょ」
気がついたときには、詩織の左手が美咲の右手首を掴んでいた。
目が真剣に怒っている。
美咲の顔が瞬時に怯えに変わり、慌てて詩織の手を振り払う。
「な、何よ、詩織まで。どうしてこんな連中の肩を持つのよ! あたし達は桜花様に選ばれた人間なのよ!?」
そう叫ぶ美咲を、晃司は冷めた目で見つめる。頭一つ晃司の方が背が高いので、やや見下ろす形になる。
「どうかしたですか?」
いつのまにか側に来ていたシェラが言った。状況が判っていないのか、それともそんなフリをしているのか、三人の顔を順番に覗き込んで出方を待っている。
「シェ……シェラ!!」
ひざを震わせながら美咲が名を呼んだ。
「はい?」
「………ノド。そうよ、ノドが乾いたわ! 台所へ案内しなさい!!」
不必要に大声で、そして傲慢に美咲が言う。
シェラはと言えばにこりと微笑むと、
「はい、判りました。こちらです」
頷き、集会所の方へと歩き出す。
口元をひきつらせながら美咲はかすかに笑い、シェラの後について歩き去っていった。否、逃げ去っていった。
「放っておきましょう。しばらく頭を冷やした方がいいんです」
と詩織は冷たく言い放つ。晃司もまったく同じ意見だった。
「それより、拓也さんの様子を見に行きませんか?」
「そうだね。葉雪……さんのトコだって言ってたから、集会所の地下だろう」
さっきの詩織の剣幕を思い出し、晃司は葉雪のことをさん付けで呼んだ。暗かったせいもあってよく外見を見ていないが、年齢がかなり上であることには違いない。
一度車で戻ってきてから、葉雪を地下へ連れていったのは晃司自身だ。その後すぐに、美咲を連れて消火作業を手伝いに行ったのだが、居場所が変わっているということはないだろう。
「そうですね。何か用事でもあったんでしょうか?」
「さぁ?」
バタバタと忙しい峰誼の人たちの間をすり抜け、晃司と詩織は地下へ降りた。地下だから当然なのだが、窓が無いせいで、あまり居心地は良くない。電灯は点いているのだが、なんとなく圧迫感がある。
「えっと、どこの部屋なんですか?」
扉についているプレートの数字を眺めながら詩織が尋ねる。
「6号室、って言うのかな。とにかく6って書いたプレートの貼ってある部屋だったと思うよ」
「あ、ここかな?」
扉のプレートには6と刻まれている。それを確認し、扉を軽くノックする。
「………」
返事はない。試しにもう一度、先ほどよりも強くノックする。
「居ないのかな?」
「まさか。どこに行くって言うんだい?」
晃司がドアのノブに手を伸ばした。
「拓也に葉雪さーん。開けるよ〜」
晃司が扉を開き、部屋の様子を見た詩織が絶句した。詩織の様子に気付いた晃司も、部屋の中に視線を送る。
むせ返るような汗の臭い。きしむベッドと息づかいの音。入り口の方に背を向け、無心に腰を振る全裸の拓也。その拓也の下で至福の表情を浮かべる葉雪。
身体の位置を変え、葉雪の胸に顔を埋める拓也。その目には詩織も晃司も映っていないようだ。麻薬中毒者のようにトロンとたるんだ視線からは、普段の彼の姿など想像もできない。
自らの乳房を赤子のように吸う拓也の頭を撫でながら、葉雪の顔が詩織の方へ向いた。妖艶な笑みを浮かべたかと思うと、拓也の背に腕を回し、切れ長の目を勝ち誇るかのように細める。
その直後、突風が吹いた。
「うわっ!?」
その唐突さと風の強さに、晃司と詩織は部屋の外へと押し出される。それと同時に部屋の扉が、バタンと大きな音を立てて閉じてしまった。
「あ、開かない!」
晃司が扉を開けようとするが、ノブは回れどドアが動かない、中から強い力で押さえつけられているようだ。
「拓也!!拓也!!」
扉を激しく叩きながら、晃司は拓也の名前を呼び続ける。
全身の力が抜け落ちたかのように、詩織はその場に両膝をついた。
「…………なに? なんなの?」
部屋の中に拓也さんが居て、葉雪さんっていう人が居て、ベッドがあって、裸で、熱くて、怖くて、変で、拓也さんで、笑って、笑って、笑われて、居ちゃいけなくて
「詩織ちゃん、大丈夫?」
「え、うん。うん。たぶん、大丈夫、あれ? だいじょうぶ……だい……」
どうして私は泣いているのかな?