Moonshine <Pray and Wish.>
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Episode 2 はじまりの失楽園


  君に花を捧げよう。
  そうすれば満たされるんだ。僕が。
「意志と心」


 彼女はまだ、走り続けていた。

 五人を乗せた車は、シェラの運転で夜の山道を登っていた。出発してかれこれ十分ほどだろうか。明かりは月明かりと車のヘッドライトしかない夜道だが、運転しているシェラには充分な余裕が見られる。走り慣れた道なのだろう。
「晃司。一つ聞きたいんだけどさ、どうして咲夜家も橘家も、その雪菜と葉雪っていう二人の復活を恐れるんだ? そんなに強い力を持ってるのか?」
 拓也がそんなことを尋ねた。
「……僕も詳しくは知らないんだけど、その二人の力ってのはさほど強くなかったらしいんだ。普通の人間とは比べ物にならないけど、二人がかり……いや、違うかな。とにかく彼女たちでは桜花にも橘花にも太刀打ちは出来ない」
 助手席に座っている晃司はそう答えた。
「じゃあ、なんで……」
「樹華様ね」
 そこで美咲が割って入った。
「桜花様や橘花に対抗できる精人なんて、樹華様くらいしか居ないわ。その樹華様の枷になっているのが雪菜様と葉雪様なんだから、二人が復活すれば樹華様を止める術はない。そういうことでしょ?」
「ご名答。そういうことさ、たぶんね」
 話の腰を折られたせいか、苦笑混じりに晃司は答える。
「ところで晃司、さっき『二人がかり』ってトコで言い換えたけど、どうしてだ?」
「それは……」
 と、晃司が何か言いかけたとき、車が静かに止まった。
「着きました」
 シェラが静かにそう告げる。晃司の言葉の続きも気になったが、拓也は車を降りた。そして、目の前に静かにたたずんでいる社に目を向ける。
 大きくはない。田舎によくある小さな寺や神社、その程度だ。だが、車のヘッドライトに照らされた社がところどころ光っているのが気になる。とくに飾りもない質素な木造の建物の壁が、光を照り返すはずはない。
「寒い…」
 不意に詩織が呟く。確かに車を降りてから、辺りが妙にひんやりとしている。
 それをきっかけに拓也は気づいた。
「この社、凍り付いているのか?」
「そうです。中へ入ればその理由も判ると思われます。どうぞ」
 シェラに導かれ、一同は社の中へと足を踏み入れた。両開きの扉も凍り付いているため、入口用に一部分が壊してある。
 社の中は暗く、そしてさらに寒かった。詩織は自分の身体を抱きしめるようにして寒さに耐えている。それに気づいた拓也は自分の着ていたコートを脱ぎ、背後から詩織に着せてやった。
「あ……」
「俺はいいから着とけよ。美咲は大丈夫か?」
「だ、大丈夫よ。別に」
 多少強がりながらも美咲は拓也に向けて叫び、舌を出してみせた。
「美咲ちゃん。僕のコート、貸そうか?」
「要らないわよっ!」
「そう? 無理しないでいいからね」
 そんなことをしているうちに、次第に暗がりに目が慣れてきた。社の中は仕切りも何もない、広々とした板間だった。こうして眺めていると、外から見るよりも広く感じる。
 よく見るとその板間の中央に、直径三メートルはあるかと思われる巨大な塊がある。拓也がそれに気づくのと、シェラが懐中電灯のスイッチを入れたのはほぼ同時だった。
「これは……」
 巨大な塊は氷だった。この寒さの元はこれらしい。その中には和装の女性が一人、氷漬けにされている。
「彼女が葉雪様。そして雪菜様です」
「どういうことですか? この中には一人しか……」
 そこまで言って、詩織は何かに気づいたようだった。
「一人分の肉体に、二人の精人が……?」
「そうです。この肉体は葉雪様のものです。そして、お二人はこの肉体の中に共存して存在しているのです」
「雪菜は、この世界の肉体を形作るための力を持っていなかったらしいんだ。本来肉体を持たない存在である精人は、自らの力を血肉に変換することでこの世界に留まっているからね」
 晃司がそう説明する。
「てことは、この女性は、一つの肉体の中に二つの人格が共棲してるって訳か…」
「ま、だいたいのトコはそういうこと。さあ、はじめようか……誰が起こす?」
 そう言って、晃司は拓也、詩織、美咲の顔を伺う。詩織と美咲はとまどいを隠せないのか、互いの顔をちらちらと伺っている。
 そんな二人に気づき、拓也が前に歩み出た。
「俺がやる。晃司も元々そのつもりだったんだろ?」
「……言葉にトゲが有るね」
「では、その氷に両手を触れてください」
 シェラが、雪菜の封じられている氷塊を指した。
「冷たいので、なんとかしてください」
「おい!なんとかって……」
 とは言いながらも拓也は氷塊へと手を伸ばす。
「冷てっ!」
「霊力を集中してください。静かに、熱く……」
 諭すようにシェラが言う。その言葉に従い、拓也は両掌へと己の霊力を集中していく。やがて、手の触れている辺りから僅かずつではあるが湯気が立ちこめ始めた。拓也の霊力に反応し、氷が溶け始めているのだ。
「溶ける……」
「……この封印って、桜花様と橘花様が施したものなんですよね」
 半ば惚けたような口調で美咲が呟き、少し遅れて詩織がそう尋ねた。
「そうだよ」
 短いが、しっかりとした意志を込めて晃司が答えた。

 何かが始まろうとしていた。
 その場にいる者すべてが、そんな事を漠然と感じていた。

 寒かった社の中が、次第に蒸し暑くなってきた。
 氷塊の大半が溶けて蒸発し、上昇している気温と相まってサウナのようでもある。数分後の社の中は、もうもう立ちこめている湯気で視界さえもままらなぬ状態であった。
「あーん!汗でベトベトォ……」
 美咲が心底不快そうに声を上げた。晃司や詩織も口には出さないが、肌に貼りついた服をしきりにバタつかせているのがシルエットで見える。
「拓也、まだ溶けきらないのかい?」
「もう少しだ! いくらか中身が露出しはじめてきた……と言うより、中からも溶けてきているみたいなんだ!」
 拓也がそう答えた直後、ピキッという軽い音が鳴った。
「割れる!?」
 葉雪を封じ込めていた氷にひびが入ったかと思うと、連鎖するようにつぎつぎと亀裂が走り、やがて一気に砕け散った。と同時に、葉雪の身体が倒れ、拓也にのしかかってくる。
「おっと」
 拓也は氷へと向けていた手で、倒れてくる葉雪を抱きとめる。
(軽い…)
 それが拓也が葉雪に抱いた第一印象だった。溶けた氷で濡れた長い髪や服が肌にはりついて妙に艶かしい。自分よりかなり年上の筈だが、とてもそうは見えない。一つか二つ上、そんな程度だ。体温はまったく感じられず、ピクリとも動かない。死んでいるのではないか、とも思えてくる。
「これが精人……俺達とあまり変わらないんだな」
「その姿はあくまでもかりそめの姿に過ぎません。本来精人というのは肉体を持たない存在です。この世界で生きていく為に、存在そのものを順応させた結果が……」
 シェラがそんな事を言うが、今自分が抱いているこの感触の方が、そんな言葉よりもよほどリアルに感じられる。
 懐かしい。晃司は拓也を精人の息子だと言った。だからだろうか、拓也は何か懐かしさのようなものを彼女から感じていた。と同時に、また別の感情も覚える。濡れた肌、閉じられたままの瞳……
(俺は何を考えているんだ!?)
 慌てて首を振り、脳裏にちらつく邪念を振り切ろうとする。
「拓也さん、どうしたんですか?」
 気がつくと、詩織が拓也の顔を怪訝そうに見つめていた。
「……………なんでもない」
 長い間をおいてそう答える。だが、なんでもない筈がない。
 やけに胸がざわつく。
 体温が一度、上がったような気がする。
 コノオンナヲ……
 そのとき、
「んっ…………」
 葉雪が小さなうめき声を上げた。その声で拓也はやっと我に返った。
 当然のことだが冷え切っているので彼女の身体は小刻みに震えていた。だが、外気に触れたせいか徐々に暖かみを帯びはじめたようだ。
「拓也、外に連れていこうよ。ここよりはマシだろう」
「そ、そうだな……」
 葉雪の身体を抱きかかえ、拓也は逃げるようにその場から出ていく。晃司達もそれを追って社を後にした。

「乾いた風がこんなに気持ちいいなんてね……」
 しみじみと晃司がつぶやいた。
 葉雪の身体は拓也達が乗ってきたワゴンの後部座席に寝かせてある。
 拓也が葉雪の封印を解いたせいか、社の中の氷が全て溶けてしまい、周囲の地面はぐしょぐしょになっている。
「これで、俺達が狙われる事はなくなるのか?」
 拓也が尋ねた。晃司とシェラの言葉通りなら、これで詩織達を手段を問わず保護するという任務はキャンセルされることになる。
「まだだよ。この事を急いで咲夜家に知らせる必要がある。それに、雇兵への依頼はキャンセルされても、咲夜家や橘家から追われる立場にあることには変わりないさ」
「けど、知らせるって言っても、どうやって……」
「美咲ちゃんが知らせてくれるさ」
 晃司はそう言い切った。
「………ちょっと、それどう言うことよ?」
 美咲が露骨に不快感を顔に出して問い返した。そんな彼女を哀れむように、晃司は言葉を続ける。
「僕たちの居場所が、咲夜家に筒抜けなんだ。船でこっちに着いたときも、峰誼の里に着いてからも、咲夜家の対応が早すぎる。考えたくはないけど、誰かが情報を流していたとしか思えない」
「だからって、なんであたしなのよ?!」
「……さっきね、シェラの家の電話をリダイヤルしたんだよ」
 その一言に、美咲の両眼がハッと開かれる。
「食事の前、少し席を外したよね。何か妙に思って、後で見に行ったんだ」
「美咲ちゃん………」
 詩織が信じられないといった面持ちで美咲の顔を覗き込む。そんな詩織から目をそらし、
「……そうよ。全部母様に知らせてあるわ。それが、咲夜家からの追っ手を抑えてもらう為の約束だったのよ!!」
「どういう事なんだ?」
 冷めた目で美咲を見つめ、拓也が尋ねる。むしろ、問いただすと言った方がいいかもしれない。
「詩織が……ずっと咲夜家から出たがっていたのは私も母様も知ってたわ。だから約束してたの。いつかあたしが詩織を連れ出しても、居場所さえこまめに知らせれば全力で追うようなことはしないって……」
 最後は涙声になりながら、美咲は事情を説明した。
「港での一件はどうなるんだ? 質はともかく、あの数はちょっと洒落になってなかったと思うんだけど……」
「あれは志帆の独断だって、母様が言ってた」
「教えて欲しいんだ。どの程度、家のほうに話してあるのかが知りたい」
 つとめて穏やかな口調で晃司が聞いた。
「……全部。拓也が桜花様か樹華様の子供だ、って事も話してる」
「君の母さんは何て言ってた?」
「詳しくは教えてくれなかったけど、桜花様の子供じゃあり得ないって……」
「そう、か……」
 晃司には予想通りの結果だった。かつて理沙は「桜花の子かもしれない」と言っていたのだが、晃司の持つ情報の多くがそれを否定していた。むろん、それらの全ては推論に過ぎない事は百も承知だ。
 しかし、美咲の母の言葉となるとある意味で決定的である。一番桜花に近い存在である現咲夜家当主がそう言うのだ。まず間違いないだろう。
「……もう、その辺にしてあげてください」
 詩織が美咲をかばうように、晃司と美咲の間に割って入った。
「ごめんね、美咲ちゃん。ごめんね………」
 美咲の両肩を抱き、詩織はただそう繰り返すだけだった。
 だが、いつまでもその状況を静観しているわけにもいかない。
「……戻ろう。もう、ここに居ても仕方ない」
 拓也が二人の肩を叩いた。
「……うん」
 促されて歩き出した詩織に引かれるようにしながらも、美咲は同じ言葉を口にするだけだった。

 拓也達を乗せて、車は帰路へとついた。泣き疲れたのかそれとも合わせる顔がないのか、美咲は車に乗ってすぐに眠ってしまったままだ。晃司が運転し、助手席には拓也が座っている。
「拓也も気づいていたんだろ?」
「えっ?」
 不意な質問に、窓の外を眺めていた拓也が振り返った。
「二人のうち、どちらかが密告してたことさ」
「……まあな」
 不愛想に答え、再び視線を窓の外へやる。闇夜の森が、静かにたたずむだけの景色。
「……都会の夜って、本当の夜じゃないんだな……」
 誰にともなく呟く。
 いつもどこかに明かりが灯っている都会の夜に比べ、どこまで続くのか解らないほどの闇。だがこの方が心が落ち着くのはなぜだろうか。
「静かですね……」
 同じ事を思ったのか、詩織がそんなことを言った。
 そこでしばらく会話が途絶えた。拓也と詩織はずっと外の景色を眺めたままで、美咲も変わらず眠ったまま。シェラは瞳を閉じたままずっと無言でうつむいているが、姿勢を崩さないところを見ると眠っているわけではないらしい。
「里が見えてきた。もうすぐ着くよ」
 晃司がそう言った直後、車体が大きく揺れた。普通の揺れじゃない。
「くっ!なんだ!?」
 とっさにブレーキを踏んで車を停める。と同時に、数発の銃声が鳴り響き、フロントガラスにヒビが入った。
「銃撃だ!伏せろ!!」
 叫びつつ、拓也は車外へと身を躍らせた。それを狙うように、どこからともなく弾丸が撃ち込まれる。
「晃司!」
「判ってる!相手はプロだ。シェラ達は車の中でずっと伏せてるんだ! 術や術を喰らっても、防御に徹して反撃しちゃ駄目だ。窓ガラスが割れて怪我しないように、窓は開けておくように。いいね?!」
 そう言い残し、晃司も同じように運転席から降りる。
「僕らが戻ってくるのを待ち伏せしていたんだ。こっちの行動を予測して狙撃してくるなんて、なかなかやるね」
 その会話の間にも、二人はじわじわと動いている。
 今、車が停まっているのは、ちょうど森を抜けて草原に入ろうとしている所だ。とすると、敵が潜んでいるのは森側としか考えられない。
「僕は左手に走る。拓也は右をヨロシク」
「OK。敵の数が判らないから、気を付けろよ」
「お互いさまだよ」
 晃司のその一言を合図に、二人は同時に走り出す。そこを狙って弾丸が撃ち込まれるが、二人のスピードに狙いが定まらないのか、当たる気配すらない。
 もっとも、打ち込んでくる方向とタイミングさえ判っていれば、神霊術なり魔術なり、あるいは精霊術で防ぐ手段はいくらでもある。それが、近代の戦闘において白兵戦が重視されるようになった最大の要因だ。銃による狙撃は最初の一斉射撃以外、術の心得の有る人間には通用しないと言っていいだろう。
(……打ち込む間隔からして、狙撃手は三人以下!)
 走りながら晃司は冷静にそう分析する。定石通りだと、相手は今の射撃を最後に術戦闘もしくは白兵戦に持ち込んでくるはずだ。
 そう思った瞬間。森の中から、深紅に輝く光球が放たれた。
「やっぱりね」
 狙いはそれたものの、その光球は激しい爆音と閃光を辺りにまき散らす。どうやら相手の狙いは、拓也達の位置を把握することだったらしい。だが、その頃には二人とも森の中へと飛び込んでいた。

「敵は森の中へ来たぞ!」
「大丈夫、相手はたかだか二人だ! おちついて周りを探れ! こちらの場所を悟られるな!」
 リーダー格の男がそう指示する。
「はっ!」
「はっ!」
 部下とおぼしき二人の男がそれに応えて敬礼する。
 そして、その直後、
「………君たち、騒がしいんだよ」
 声はリーダー格の男の背後から聞こえた。
「何!?」
 男が振り返るよりも、そして部下達が銃を構えるより速く、そこに立っていた晃司の左手が動いた。サイレンサー越しの静かな銃声が立て続けに三発。いずれも男達の眉間を撃ち抜いている。
(闇を生かすんだったら、もっと静かにしなきゃ……)
 二流以下だね。
 心の中で呟き、晃司は再び闇の中へ溶けていった。

「晃司さん、大丈夫でしょうか……」
 車の窓から顔を覗かせ、二人が消えていった森の奥を見つめながら詩織が呟いた。拓也が消えていった方は、時折光る神霊術の発動する輝きで無事が判るが、晃司の方は至って静かだ。拓也の戦い方が派手な分、一層不安も募る。
 その詩織の頭をシェラが押し下げた。
「危ないです」
「でも……」
 自分が見ていることでどうなるわけでもないことは判っている。いや、外に出ていけば力にはなれるのだが、それだけはしたくない理由がある。
 そんな詩織の胸中を知ってか知らずか、シェラはにっこりと笑って言った。
「大丈夫でしょう。あの人は小さい頃から訓練されていますから」
「訓練?」
 尋ね返したのは美咲だった。意外そうな表情を浮かべ、視線でシェラに続きを促す。先程までの落胆していた様子はうかがえない。好奇心を糧に立ち直ったようだ。
「二人は春日琢己という御仁をご存じですか?」
「知らない」
 間髪入れずに美咲が答える。が、詩織はしばらく考え、
「十三年前の第三次オーストラリア遠征軍の指揮官、でしたよね? 近代史の授業で習いました」
「そうですね。春日さんが表舞台に出てきた初めてはあのときでした。ですけど、四十年ほど前には、咲夜近衛隊の総隊長でした。シジョー最年少でしたが、ご存じないんですか?」
 そう言われて詩織と美咲は顔をつきあわせ、そして首を傾げる。
「知りませんでした…」
「実際には三年ほどで袂を分かったそうです。春日さんが二十三、四歳の頃だと聞いています」
「で、その春日っておっさんがどうしたわけ?」
 せかすように美咲が言う。のんびりとした口調で話すシェラに業を煮やしているらしい。
「その春日さんの娘さんの息子さんが晃司さんです」
「要は孫って訳ね?」
「はい。理由は知りませんが、春日さんは咲夜近衛隊を出てから、咲夜家に対して強い危機感というか敵対心というかを抱いていたそうです」
 シェラの話は続く。
 春日は軍に入り、その鬼神の如き戦技と、「番長的」と称されるカリスマで独自の派閥を築き上げる。そして自分の息子・明に己の持つ全ての技を幼少の頃から教え込んだ。
 そして月政府と地球政府との間で開戦。だがその戦争の中で、春日の息子は両足を失うほどの重傷を負う。そのショックから急に意欲を失った春日の隙をつくように権力争いが勃発し、やがて左遷。
 春日には娘も居た。名を百合といい、学者肌の人間で理沙と晃司を産んだ女性である。彼女は夫と二人の子供と共に、戦争とは無縁に日々を過ごしていた。晃司の江藤という姓は、この夫のものだ。だがある日、両足を失った明が、まだ小学生だった理沙を誘拐するという事件が起きた。その際に百合とその夫は殺されている。
 一人残された晃司は、春日と暮らすようになる。このとき、春日は軍を除隊。野に下り、同じ志を持つ者達と共にある目的の為に生きるようになる。
「……その、ある目的ってなんですか?」
 詩織が話の腰を折る。
「さあ? 晃司殿が教えてくれないので、私もそこまでは存じません」
 そんな中で晃司は育てられてきた。明の二の舞はさせまいと渋る春日を説得し、晃司は己を鍛えてきた。当時まだ十歳にもなっていない晃司が何を思っていたのか、本人以外に知る由もない。
 そして時が流れて晃司が十七歳の時、なんの前触れも無しに理沙が晃司の前に現れたのである。
「で、シェラと晃司が出会ったのはその頃かい?」
「あ、拓也じゃない!」
 いつの間にか戻ってきていた拓也が、運転席の窓ガラス越しに顔を覗かせていた。
「もう大丈夫だから顔上げたら? その姿は結構マヌケだぜ?」
 笑いながら拓也が言う。確かに、ワゴンの後部座席で若い女性三人が身体を伏せて顔を突き合わせているのは、ある意味で滑稽かもしれない。詩織と美咲が慌てて、シェラはふだんと変わらずゆっくりとした調子で体を起こす。
「晃司殿はどこですか?」
「拓也の足下。話は座り込んで聞かせて貰ってたよ」
 答えながら立ち上がった晃司が顔を見せる。
「後は僕が話すよ。シェラと初めて会ったのは十五歳の時さ。僕らが通ってた学校の入学式でね。ま、僕は休学中だけど」
「……あの。私、喋りすぎましたか?」
 珍しく不安そうにシェラが尋ねる。今頃になって自覚したらしい。
「別にいいよ。どうせ話しておく必要はあったんだしね。拓也はどの辺から話を聞いてたんだい?」
 どうやら、拓也の方が先に戻ってきていたらしい。
「だいたい最初からだと思う。俺が戻ってきたとき、ちょうどシェラが詩織の頭を押さえつけた所だったから」
「戻ってたんだったら、声ぐらいかけなさいよ……」
 美咲が不愉快そうに漏らす。結果として盗み聞きになったことが気に入らないのだろう。
「悪かったな。俺もちょっと聞いてみたかったんだよ。なあ、晃司……」
 と、拓也はそこで一旦言葉を切った。そしてわずかに逡巡し、
「オマエの目的って…」
 なんなんだ、と言いかけたその時。不意に周囲が明るくなった。
「里が燃えている!?」
 シェラが絶叫に近い声を上げた。里の方に火の手が上がっている。
「拓也!」
「判ってる!畜生!!」
 襲撃者は、先ほど拓也達が倒した者達だけではなかったのだ。急いで車に乗り込み、全力で走らせる。
「やり方が汚ねぇ……」
 助手席で歯噛みしながら拓也が呟いた。一般人を巻き込むなど、雇兵としての道義に外れている。戦争はあくまで兵士達だけのものだ。軍人であれば、命令であれば一般人を殺すこともあるかもしれない。だが雇兵は違う。雇兵には自由意志があり、プライドがある。何があっても無関係の人間を巻き込まない。それが雇兵達の暗黙のルールであった。
 車はひたすらに人家の建ち並ぶ一帯へ向けて走っている。近づくにつれて、ほとんどの人家から火の手が上がっている事が伺える。そして、所々で霊力のものとおぼしき光が発している。戦闘が行われているらしい。
「シェラ、どこに向かえばいい?」
 運転席の晃司が尋ねた。
「家へ。緊急時には私の家の前に集まることになっています…」
 言葉の最後の方は、ほとんど聞き取れないほどに小さく、そして震えていた。
 その直後、車が大きく揺れた。とっさに晃司がブレーキを踏み込む。詩織達、女性三人は体勢を崩して車内に横転する。
「やられた!タイヤを撃たれたみたいだ」
「くそっ!晃司は三人を連れてシェラの家に向かってくれ!!」
 そう言い残して、拓也は刀を片手に車外へ飛び出す。
「拓也さんはどうするんですか!?」
「俺は囮になる。ついでに、襲ってきた連中の親玉の所に行ってブチ倒して来る」
 車を狙撃した人物を気配で探りつつ、拓也は答えた。詩織は不安げな表情で、
「無茶です! 相手は何人いるか判らないんですよ!?」
 半ば絶叫のように叫ぶ。だが、拓也は不敵に笑みを浮かべ
「大丈夫だよ。俺は詩織達を守るって決めたからな。二人が死んでもいいって言うまでは死なないさ」
 そう言い残し、拓也は住宅地への方へと駆け出していった。その後を追って詩織も車を飛び出す。
「詩織! 駄目よ!!」
 美咲の静止も聞かず、詩織は拓也と同じ方向へと走り去る。美咲もその後を追おうとするが、晃司に羽交い締めにされて阻まれた。
「今度は間に合ったみたいだね。一人くらいなら拓也がなんとかしてくれるさ。でもそれ以上は足手まといになる」
「離してよ!!詩織が……」
 必死に晃司の腕をふりほどこうとするが、がっちりと固められているので逃れることが出来ない。そうしているうちに、拓也も詩織も姿が見えなくなってしまった。
「大丈夫、拓也を信じるんだ。それよりも僕たちに出来ることをしよう」
 そう言って晃司はゆっくりと美咲の身体を解放する。その目は静かに、燃えさかる住宅街の中へと向けられている。
「あたし達に出来ること?」
「……そう。里のみんなと、葉雪と雪菜を守ることさ」
 そこで晃司はシェラに視線を送った。つられて美咲もシェラの方を見る。
 シェラは不安げに震えていた。冷静を装おうとしているのか表情はいつも通りだが、
自分の腕を強く抱きしめ、寒さにこらえるようにしている。
(あたし達が来たから……)
「僕たちさえ来なければこんな事にはならなかった。いや、ここへ来るように仕組んだのは僕だから、僕の責任さ」
 美咲の心中を知ってか知らずか、晃司はそう呟いた。
「そんな事……」
 言いかけて美咲は口つぐむ。それは自分に対する言い訳にもなる。いや、むしろ自分のせいではないと思いこみたかったのかもしれない。そう認めたかった自分に自己嫌悪さえ覚える。
「美咲ちゃん、手を貸してくれ。償いをしたいんだ」
「……うん。そうね」

 拓也は違和感を覚えていた。
 家が燃えているにも関わらず、物盗りの姿が見えない。情けない話だが、ガラの悪い雇兵の中には、こういう混乱に乗じて盗みに走る人間が少なくない。物取りだけでなく、単純に人が少ないのも気にかかる。先ほど拓也達を狙撃した兵士はすぐに見つけだして切り倒したが、それ以後は誰にも遭遇していない。住民の避難は済んでいるとしても、敵兵さえ居ないのはどういうわけだろうか。
(こいつはむしろ……統率された軍隊か?)
 この辺りは既に月政府、すなわち橘家の支配下だ。詩織と美咲の居場所を知った橘家が、二人の身柄を確保しようと、もしくは抹殺しようと軍隊を派遣してきたとも考えられる。
 だが、そうだとすると先ほど拓也達が倒した雇兵はなんだったのか。彼らの装備は明らかに正規軍の物ではなかったし、その後で倒した狙撃手も雇兵スタイルだった。
 考えながら走っていると、後ろから拓也を呼ぶ声がした。
「拓也さーんっ!」
 詩織の声だ。振り返ると、詩織が拓也の方へ駆け寄ってきている。
「あっ!なんでついて来るんだよ。危ないじゃないか!」
「自分の身ぐらい守ります!」
 少しムキになったように詩織は言う。
「それよりも拓也さん一人で行く方が危ないですよ」
「自分の身ぐらい守れるさ」
 皮肉気味にそう言いながらも、拓也は内心で驚いていた。今、自分は全力ではないにしてもそれなりのスピードで走り続けていたはずだ。詩織はそれに追いついただけでなく、息一つ切らしていない。以前、美咲が襲いかかってきたときにも感じたが、二人がなんらかの訓練を受けていたのは間違いないようだ。
「……前にも少し思ったんだけど、詩織と美咲って何か訓練でも受けてたわけ?」
 確認するように拓也が尋ねる。が、その返事は予想外のものだった。
「え? ……べ、別にそんな事ないですけど……」
「あ、そうなんだ。全然息を切らせてないから、てっきりそうじゃないかと思ったんだけど」
 口では納得した様子を見せたが、内心では露骨な嘘に疑いを抱いていた。
(何故隠す?)
「わ、私、マラソンは得意なんですよ」
 取り繕うように詩織は言う。根は嘘のつけない性格なのだろう。表情が硬い。
 だが、そんな些細な事を気にしている場合ではない。傭兵部隊か、それとも拓也の懸念通り月政府軍か、どちらにせよ今すぐにでも襲いかかってくるかもしれないのだ。
(月政府軍……)
 その時、不意に拓也は思い出した。
 かつて詩織は、精人が何人生きているのか、という拓也の問いに対してこう言った。
『……他に、この三人の方々の部下の人が何人か居ますので、全体としては二十人程の筈です。中でも……』
 拓也が、由香の依頼で志帆や詩織の救出に行ったとき、拓也が倒した兵士の中に精人と思われる者が確か二人程いた。そして「まだ我らの存在を知られる訳には……」と言ったはずだ。
 何かがおかしい。たかだか二十人ほどしか居ない筈の精人。それが都合良くあの場所に三人も居たというのだろうか。
(あそこに居た軍勢は月政府軍だったはずだ……)
「……なぁ詩織。確か、精人ってのは二十人くらいだった筈だよな?」
「ええ。私が知る限りではその筈ですけど……。もちろん、それはこの世界に居る精人の方の数であって、本来の世界に戻ればたくさんいるんでしょうけど」
 きょとんとした表情で、詩織は拓也の話にそう答える。
「俺が初めて詩織に会ったあの時、俺は確かに精人らしき奴を倒したんだ。姿がこう……霧のようにかき消えて、それがきっかけで俺は精人って存在を知ったんだけど」
「あ…」
 詩織もようやく拓也の言おうとしたことに気づいたようだ。
「あの場所には少なくとも三人の精人が居た。でも、別段強い力は感じなかったと思う。詩織や美咲の話を聞く限りでは、精人ってのはもっと霊力や魔力の強い存在じゃ無かったのか?」
「ええ。その筈です」
 詩織がはっきりと頷く。先程と違い、表情に翳りはない。
「じゃあ、あいつらはなんだったんだろう……」
 その呟きに詩織は答えなかった。その様子からは彼女が何か知っていてそれを隠しているのか、あるいは本当に何も知らないのかは判らない。
「……とりあえずここで考え込んでいても始まらないな」
 拓也は言った。何か掴めかけているような気もするが、今は立ち止まっているべき時ではない。
 二人は燃えさかる集落の中を走り続けた。木造建築の家が多かったせいか、ほとんどの家がもう燃え落ちてしまっている。
「晃司達の向かった方に戦力を集中しているのか?」
「そうかもしれないですね。今からでも向かいますか?」
 詩織がそう言うが、拓也はあっさりと首を振った。
「行き先が判らない」
 苦笑混じりにそう答え----その声と重なるように銃声が響いた。
「誰だ!?」
 詩織を背後にかばいながら、銃声のした方向へを向き直る。
「あの人の言った通りだったな」
「隆一……絵里……」
 そこには一組の男女が立っていた。拳銃を天に向けて、無表情な表情で隆一が。今にも泣きそうな程、苦々しい表情で絵里が。
「この襲撃をまさかお前達二人でやったのか?」
 刀の柄に手をかけ、拓也が尋ねる。
「まさか。本隊は別にいる。俺達は別働隊みたいなものさ」
 答えながら隆一は背中に金具で固定していた剣を手に取った。普通の剣よりサイズが二回りは大きいため、鞘に入れていては抜けないのだ。
「それと、今言ったあの人って誰だ? お前達に指示を出しているのは誰なんだ?!」
「ちょっと大きいクライアントに出逢ってね」
 剣を正眼に構えながらそうはぐらかす。そう言えば絵里も同じようなことを言っていた。
「あの時もこんな廃墟だったな」
 隆一が呟く。彼の妹、佳代が死んだ戦場のことだ。
「……ここを廃墟にしたのはお前達だろ?」
 皮肉混じりに拓也が言う。
 それが合図となった。隆一が飛び出し、渾身の力を込めて振るった剣を拓也が素早く抜いた刀で受ける。獲物だけを見ると、隆一の剣は拓也の刀くらいなら打ち砕いてしまいそうだ。が、正面からその剣を受け止め、さらに拓也はそれを押し返している。
「霊剣士と一般人の差かっ!」
 吐き捨てるようにさけび、隆一が体勢を立て直すために一旦後方へ跳ぶ。
 神霊術を使う剣士を霊剣士と呼び、魔術を使う剣士を魔剣士と呼ぶ。単純に術が使えるというのは充分にメリットだが、何も炎や雷を出すことだけが術ではない。一時的に、そして部分的に腕力や瞬発力を高めることも可能なのである。肉体の動きと術の複合は、時として物理法則を無視したかのような剣技さえも生み出す。術の才能に恵まれなかった人間は、よほどの才能があるか、あるいは人の数倍もの努力でその差を埋めるしかない。
「三年前、白兵戦を恐れてバックアップに廻っていた人間とは思えないな。拓也」
「人は変わるものさ」
 もはや勝敗は決していたと言っても過言ではない筈だった。
 隆一が斬りかかってから拓也は刀を抜き、そしてそれを押し返した。いわゆる後の先を拓也がとった形になるが、さらに力でも拓也が勝っていた。術の使えない隆一には、この初太刀以外に決め手がない。
 だが拓也の方もそれ以上何かしようとはしなかった。隆一が後方に引こうとした一瞬、拓也は確かに攻撃を仕掛けられたのだ。
「クソッ!クソッ!クソッ!!」
 突然、己の剣を大地に打ち付けながら隆一は狂ったように叫びだした。
「クソッ!クソッ!クソッ!!」
「隆一……」
 哀れむように絵里が声をかける。
 剣をがむしゃらに振っていた手を止め、隆一は肩で息をしながら地面を睨み付けた。彼の剣で荒らされた土が辺りに飛び散っている。
「佳代………」
 最愛の妹の名を呟き、隆一はその場に膝をついた。
「………かよ…」
「もう、やめようよ。拓也は何も悪くないよ……」
 慰めるように言いながら、絵里が隆一の肩に手を置いた。
「……佳代が言うんだよ。……拓也に会いたいって。でも拓也はもうお前には会いたくないらしいんだ。冷たい奴だよな。死んだら終わりなんだってさ……」
「もうやめてよ隆一!!」
 絵里が隆一の頭を激しくはたいて絶叫した。隆一の頭が地面に突っ伏し、髪が土にまみれる。
「佳代さんを殺したのは貴方じゃないの!!」
 起きあがろうとしない隆一の背中に向け、絵里はそう言った。
「あの流れ弾を撃ったのは隆一、貴方だったのよ!! 私は見てたわ。走っていく佳代さん達を援護しようとして貴方が撃った弾丸が佳代さんを貫いた!!それが真実なのよ!!」
「そ…んな……」
 呆然とした表情で拓也が呟く。
 隆一は起きあがろうとしない。
 涙を流し、嗚咽しながら、絵里は隆一の背中をじっと睨み付けていた。
「言えなかった。言えなかったからあたしはずっと隆一と一緒に居たのよ。拓也が悪いんじゃない。運が悪かっただけなのよ!」
 その事実に、時間が止まったような錯覚さえ覚えた。
 やがて、ゆっくりと隆一は立ち上がる。
「………知ってたよ。ただ、忘れてたんだ」
 剣を手に、不自然な程に穏やかな表情で隆一は辺りを見渡した。照り返す炎が、彼の顔を紅蓮に染める。
 そして俊敏な動きで彼は動作に移った。そのあまりのスムーズさに、一同の反応がかなり遅れる。隆一は一直線に詩織目がけて斬りかかろうとしていた。

 彼女はひたすらに走り続けてきた。
 今も、燃えさかる炎を苦ともせず、ただ温度変化のみを情報として察知しながら己の本能の命ずるままに走り続ける。
 そしてついに、目標を確認した。男性が二人女性が二人。彼女が目指すものもそこにあった。
 己を切り替える。
 否。そうではなく、かりそめの己を一時的にまとうのに過ぎない。

 殺気のない隆一の動きに、誰もが反応できなかった。
 穏やかな表情のまま、隆一は詩織へと剣を振り下ろす。
 その隆一を、突如飛び込んできた女性が殴り飛ばした。誰もがその接近に気づかなかった。軽く、4〜5メートルは吹き飛ばされただろう。
 だが、飛び込んできた女性もバランスを崩し、その場で倒れ----なかった。倒れる寸前、地面に左掌だけで着地し、一回転して元の姿勢へと戻る。
 吹き飛ばされた隆一も再び立ち上がり、またも詩織の方へと突進する。それに対応して、さきほど乱入してきた女性が詩織の前に立ちはだかり、彼女をかばうように身構える。
 そこで銃声が轟き、隆一の身体が一瞬だけ不自然に歪み、突進は止まった。胸から鮮血を吹き出させ、自分を撃った女性----絵里の方へ視線を送る。
「もう、やめようよ。隆一」
「……ああ、そうだな。佳代…」
 優しく微笑み、隆一はその場に倒れた。
 それを見届けると、詩織をかばうように隆一の方へ向いていた女性がゆっくりと拓也達の方へ振り返った。
 その女性は、詩織とほとんど変わらぬ外見をしていた。だが表情は無く、冷めた目で詩織と拓也を見定めているようでもある。
「……どうして……」
 詩織が何事かを小言で呟く。拓也が聞き取れたのは、かろうじてその部分だけだったが、かなり動揺しているのが判る。
 女性の表情が不意に柔らかくなる。先程までの無表情さとは別人のようだ。
「………やがてくるいのりのあと。あなたはれいのまま………」
 彼女は笑みを浮かべて詩織に似た声でそう言うと、事切れたかのように気を失った。
「やがて来る祈りの後。わたしは零のまま……」
 女性の言葉を、詩織はおうむ返しのように呟いてみた。その言葉の意味を悟るのには、瞬きほどの時間で充分だった。

「……瑠璃奈が義体を奪って逃走した?」
 その報告は桜花の心に少なからず動揺を与えた。
「はっ。研究所で開発中だった、詩織様用の義体を奪った模様です。驚くべきスピードで、ひたすら西へ向かっているとの情報が入っています」
 瑠璃奈は桜花が十九年前に産んだ子供だ。本来、血肉を持たない精人が、それを持つ子供を産むためには莫大な量の霊力がいる。二千年前に最初の子である咲夜を産んで以来、桜花は二人目を産むための力を少しずつ貯め続けていた。
 静香が美咲に、拓也は桜花の子ではあり得ないと言ったのは瑠璃奈の存在が根拠だ。
 だが、そうして産んだ瑠璃奈には自我が無かった。何を呼びかけても反応せず、ただ眠り続けるだけだった。
「何かの間違いではないのか?」
 手を失えば義手。足を失えば義足。そして肉体全てを失ったときのスペアとして生み出されたのが義体。プログラムしか持たないロボットとは違う。あくまでも人の意志を宿し、人の意志によって行動する、第二の体である。
 魔導工学技術の粋を結集して作られたそれは、「祈り」と呼ばれる儀式の後に、詩織の身体となるはずだった。だが、義体は誰にでも動かせるというものではない。詩織用の義体を動かすことのできるのは、詩織か、詩織に限りなく近い精神波長を持つ人間ぐらいのはずだ。彼女の母親、静香ならできるだろうが、美咲では無理だ。だが、静香は常に桜花の傍らにいる。今も桜花の隣で、黙って話に聞き入っている。義体へ意志を転送するということは、元の肉体から意志が失われるということだ。意志の転送はできても、複製はできない。
 では、なぜ瑠璃奈が動かせたというのだろうか。精神波長は親等が近ければ近いほど似かよる傾向がある。だが、義体を動かせるほどの類似となると、一親等(= 親子)ほどの誤差でしかあり得ない。
「いえ。意志変換システムの装置内で、瑠璃奈様の抜け殻が発見されております。間違いないでしょう」
「何が起こったというのだ……」
 報告に来ていた部下を退去させ、桜花は何が起きたのか考えを巡らせる。だが結論は出ない。完全に彼女の予測の範疇を越えた出来事だった。
 しかし、放置しておくことはできない。西へ向かったというのが判っているだけでもまだマシだ。
「……例の部屋に志帆と由香を呼べ」
 静香にそう言いつけ、桜花はその「例の部屋」へと向かった。

 静香に呼ばれ、志帆と由香は咲夜本家の地下五層へと連れてこられていた。三層以降は絶対機密エリアとして、特別に許可でもされなければ桜花と嫡流の者しか入ることを許されていない場所だ。
(……本家の地下にこんな設備があるなんて)
 地上にある屋敷はごく普通の木造建築だが、地下の近代的な様相はなんだというのだろうか。まるで何かの研究所のようだ。
 そんな志帆の後をついて由香が歩く。神霊術や魔術による治癒術の発達した現在では、長期治療の必要な病人でもない限り入院するようなことは少ない。由香の傷も既に癒えている。そして、京都にある咲夜本家に帰ってきた志帆を由香が出迎えた直後、二人は静香からの呼び出しを受けたのだった。
「こっちへ…」
 静香に導かれるまま、無機質な廊下を志帆達は歩く。
「……何が起こるのでしょうか?」
「……」
 由香の問いに志帆は答えなかった。と言うより、志帆自身にも全く予想がつかないのだ。
「私語は慎みなさい」
 静香にたしなめられ、由香はそれ以上何も尋ねようとはしなかった。
 やがて三人は、大きな両開きの扉の前で立ち止まった。静香がドアの脇にあるパネルを操作すると、扉が左右に開く。
「遅かったな。近衛隊長」
 部屋の中では既に桜花が待っていた。いつもならここで、「申し訳ありません」と詫びを入れるのだが、志帆の目は桜花の背後に並ぶ者達へと向けられていた。絶句したまま、何も言葉が出てこない。
「近衛隊の隊員補充だ」
 そう告げる桜花の後ろには、全く同じ顔の女性達が九人並び立っていた。

To be continued.
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