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 PCの前で、獄寺隼人は硬直していた。視線はモニタに釘付けである。そこに表示されているのはWEBサイト「Sの日記」。
「……嘘、だろ」
 そこに書かれているのは、自分と沢田綱吉しか知らないはずの出来事。
 最後まで読み終えた直後それを見越していたようなタイミングで、来訪者が鳴らしたチャイムの音が聞こえた。もともと来客の予定が入っていた。そのつもりでいたから準備は万端だったのだが、今、かき乱されてしまった心は簡単に立て直せそうにない。
 獄寺は玄関の方向に視線を向け、その先に立っているであろう人物、沢田綱吉の姿を思い浮かべながら視線をモニタに戻して、待たせていることを後ろめたく思いながらも今一度文章にざっと目を通し、不満で拗ねているのか困っているのか自分でもよく分からない心境で唇を尖らせて少しの間考え、PCの電源を切りながら椅子から腰をあげた。
 小さな電子音を響かせて、モニターの電源が本体に連動して切れる。半月ほど前に購入したデスクトップPCはまだ新品同様で、物が少なく生活感の薄い獄寺の部屋にあってもまだ馴染んでいない余所者の風情だ。
 獄寺は複雑な思いで暗くなった画面を見おろして、一つ深呼吸をしてから気持ちを切り替え玄関に急ぐ。
 その間も、急かすようにチャイムが重ねて鳴らされることはなかった。
 ドアを開けた瞬間に鼻先を掠めたのは洋酒の匂い、チョコレートの匂い、それから大好きな、自分が心底ほれ込んでいる少年の匂いだった。
 顔を合わせるなり笑いかけられて、それだけで獄寺は膝から力が抜けそうになってしまう。走ってきたのか、それとも気恥ずかしさのせいなのか、その頬に少し赤みが差しているのがたまらなく魅力的だった。獄寺の意識はもうこの瞬間から完全に目の前の少年に奪われる。部屋に上がるように促すのも忘れて見惚れてしまえば、綱吉の笑顔は視線を気にしてか少しぎこちないものになって、さらに困った表情へと変化し視線をそらされてしまう。綱吉の頬の赤みはさらに増していた。
「えっと、来るの遅くなってゴメン」
 呟くような声で告げて、綱吉が俯く。
 微かな動作にも空気が流れて、甘い香りを意識させられる。
 甘ったるい洋菓子の匂いは、今日学校中に漂っていたものによく似ている。校内ではうんざりするほど嗅いだ臭いだが、それと大差ないはずなのに綱吉と一緒に部屋に入ってきたものとなると、とびっきりのよい香りに思えるから不思議だ。
 今日は2月14日、バレンタインデーだ。
 それは、昨日から獄寺が考えないように考えないようにと、頭の中から追い払おうとしていたイベントである。
 男同士だし、綱吉はそういうイベントをあまり意識していないようにみえていたから、獄寺は期待しないようにと自分に言い聞かせていた。浮かれる自分が馬鹿みたいだと思おうとした。けれど、綱吉の愛らしい態度としっかりと嗅ぎ取れてしまう甘い香りに、必死に抑えていた期待を膨らませてしまう。通学鞄を家に置きに帰った綱吉が、片手に提げている小さな紙袋に気付き、胸を高鳴らせながらも自分を宥めるように、けれど、と思う。
 けれど、ここまで来る途中にどこかのアホに会って押し付けられただけかもしれない。
「獄寺君?」
「あ、いや、俺のほうこそすみません、お待たせしました。ちょっと手が離せなくて」
「ううん、オレも家でバタバタしてて時間かかっちゃったから……予定狂わせちゃったんじゃない? ゴメンね」
 一緒に下校していったん別れて、家で私服に着替えてから綱吉が獄寺の部屋にくるという約束になっていた。確かにそれだけにしては時間が経ちすぎているが、別件で気をとられていた獄寺は綱吉に言われるまでまったく気づいていなかった。
 綱吉を部屋に通して、まず飲み物を用意し、ローテーブルの前、定位置に並んで腰をおろし一息ついたところで、綱吉は紙袋から小ぶりな箱を取り出した。ほのかに漂っていた洋菓子の匂いがひときわ強く香る。
「これ、母さんから。ビアンキとは別に作ってたから、ちゃんと食べれるはずだよ」綱吉が悪戯っぽい笑みを見せる。
 気落ちは、しなかった。
 綱吉からだったら嬉しいなと、やめておけと思いながらも期待してしまったのは事実だけれど、綱吉の母親から綱吉の手を通してもらえるチョコレートなら獄寺にとっては十分すぎるほどありがたいものだ。
 甘い匂い。きれいにラッピングされた箱を笑顔で差し出されて、獄寺はその差し出された品よりもそれを持っている人に手を伸ばしたくなった。引き寄せて抱きしめたくなってしまう。獄寺は高まる欲を押さえ込んで箱を受け取る。
「ありがとうございます! オレ、誰にももらわないって決めてたんですけど……十代目のお母様なら話はべつです。いただきますね」
 今日、獄寺が受け取った唯一のチョコレートだ。学校で特攻してきた女生徒たちからは一つも受け取らなかったし、勝手に置き去りにされていたものはすべて遺失物として処理した。
「誰にも?」
「当然っス」
 瞠目した綱吉に、胸を張って即答する。良いことをして褒めてくれと言外にねだる子供みたいに得意げな顔になっている自覚がある。あくまで『当然のこと』なのにと思えばちょっと恥ずかしかったけれど、綱吉が微笑んでくれるから、それが獄寺にとっては最高の褒美に思えた。
「それじゃ、こっちはどうかな」綱吉は、また紙袋から箱を取り出す。「……オレから、なんだけど」
 それは冬季限定と銘打って発売されている市販のチョコレート菓子の一つだった。気軽に買えるチョコレート菓子の中ではちょっと上等な感じで、その『ちょっと上等』の部分には綱吉の特別な想いが詰められているのだ。
 今度は獄寺が瞠目する番だった。
 綱吉の口調はややそっけないくらいだったが、その瞳が獄寺の反応を期待して楽しげに笑みの形を作っていた。唇の片端を上げた、らしくないどこか皮肉っぽい感じの笑い方。驚きに言葉もなく見つめ続けてしまえば、見ている間にも朱に染まっていく頬や目元が、綱吉の本心を獄寺に伝える。恥ずかしくて照れくさくてどうしようもないのを誤魔化そうとしている表情と口調。
 今度は、獄寺も我慢ができなかった。
「獄寺君?」
 トクンと跳ね上がった鼓動。二人の間にある僅かな空間がもどかしくて、獄寺はその距離を詰めて綱吉の肩に腕をまわす。
 唇を寄せて、けれど唇どころか綱吉の肩に触れている指先が震えてしまうから、照れくさくて恥ずかしくて、誤魔化すように頬にキスをした。それでも足りなくて結局綱吉の目元や耳元にも唇で触れてしまう。
 体温が一気に上昇した。汗ばむほど体が熱くなる。
 綱吉が擽ったそうに、心地よさそうに零すため息にも劣情が煽られる。
 唇にキスがしたくてたまらなくなるけれど、俯き加減の綱吉の唇を奪うのは難しい。頬に指を添えて仰向かせればいいのか、下から覗き込んで掬い上げるようにして唇を押し当てればいいのか、綱吉の唇を見つめて考えるけれど思考が纏まらない。ただそれだけのことなのに方法が選べなくて、でもそれは、本当は獄寺にとって綱吉に仕掛けるキスが『ただそれだけのこと』ではないということだ。熱に浮かされたように意識をふらつかせながら夢中で少しずつ触れる位置を変えながら何度も綱吉の頬にキスをした。それが獄寺には精一杯だった。最後にもう一度綱吉の唇を見つめれば、喘ぐように吐息を零してその唇が震えて、その艶かしさに激しく動揺させられてしまうからそれ以上動けなくなる。煩いほどに鳴り響く鼓動を意識しながら、獄寺は緊張に強張る身体を胸中で叱咤して綱吉から少し距離を取った。
 触れる瞬間もそうだけれど、触れた後も緊張してしまう。目のやり場、手の置き場に戸惑う。見つめていたいけれど気恥ずかしくて、ずっと触れて抱きしめていたいけれど嫌がられないだろうかと考えてしまう。
 とりわけ今のように、唇にキスをしようとして未遂に終わったときはそんな気持ちがより強くなる。
 離れてもなお近すぎるくらいの距離で視線を絡ませればお互いにちょっと困った顔になっていて、照れくさくて、それを誤魔化すようにぎこちなく笑った。
「あ、ありがとうございます。それから、その……すみません、オレもらってばっかりで。なにも用意してなくて……」
 綱吉が手に持っていたままだったチョコレートを受け取った獄寺は、自分から返せるものがないことを今さらのように気付いて申し訳なくなった。一応予定していたものがあるにはあったけれど。
 綱吉は首を横に振って、獄寺の言葉を遮った。
「違うでしょ? 本当は今日買いにいくつもりだった指輪が、プレゼントの予定だったんだよね? ぜんぜん気づいてなかったから……昨日はそっけなく断っちゃってゴメン。鈍いよね、オレ」
 綱吉が鈍いわけじゃない、自分が俗的な思考に浸っていただけだと獄寺は思う。自分の趣味を綱吉に押し付けて、指輪を恋人に送る、そこに含まれる束縛的な意味で綱吉を繋ぎとめようとしていた。そんなものにすぐ縋りたくなってしまう自分の不安定さが恨めしい。
 不意に『Sの日記』の指輪のくだりを思い出した。
 鈍いのは自分だ。こんな自分に彼は呆れたことだろう。
 獄寺は綱吉があのリングを選んだ理由に気付いていなかった。
「すみません……実は年明けぐらいからずっと、なにかしたいなって考えてたんですけど、そんなつまんねーものしか思いつかなくて」
「つまんなくないよ! なんでそういう言い方するの? 獄寺君が謝ることなんて全然ないだろ」
 憤慨したように頬を膨らませ、いつになく厳しい口調でキッパリと告げた後、綱吉は少し困った顔で照れくさそうに笑う。どちらもたまらなく可愛い表情で、獄寺はその表情の変化に見惚れながらアメと鞭だななんて、考えた。
「なんかさ、同じだね……オレも同じくらいの頃からチョコレート買うなら早めに買わなきゃって思ってたんだ。このチョコレート、一ヶ月前から用意してたんだよ。ほら、2月になってからだと、男がチョコレート買うの、けっこー恥ずかしいし。でも、チョコレートは渡したかったから」
 部屋には二人しかいないのに、綱吉は秘密を打ち明ける内緒話みたいな小声で身を寄せて話す。
「オレ、めちゃくちゃ愛されてますねー」
 それは本心だったが嬉しさと恥ずかしさの狭間で、つい茶化すように言ってしまえば、ひどく優しい包み込むような真摯な眼差しを向けられて、それ以上何もいえなくなってしまう。
 綱吉の笑みが深められる。
「そうだよ。獄寺君はオレの愛しい恋人で、オレは獄寺君が大好きだよ」



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