$ 広開土王  <Tmp-0−2>

■ 三国史記  廣開土境好太王  

◆【高句麗】
$・19代、広開土王、392-413
 諱を談徳といい、故国原王の子である、生れながらにして雄健・偉大で他とかけはなれた優れた志を持っていた、3年(386)に太子となり、9年王が薨去したので王位についた 
 7月、南進し百済の10城を後略した
 9月、北進して契丹を討伐し男女500人を捕虜とし、本国(高句麗)から連れ去られた民を招きさとして1万人を連れて帰った
 10月、百済の関彌城(55)を攻落とした、その城の四方は絶壁で海水に取り囲まれていたが王は軍隊を7道に分け20日間攻撃し陥落させた
・2年(393)8月、百済が南部の辺境に侵入したので将軍に命じ防戦させた、 平壌に9寺を創建した
・3年(394)7月、百済が侵入してきたので王は精鋭な騎馬隊5000人を率いて迎えこれを撃ち、破った、残りの敵も夜になって敗走した
 8月、国の南部に7城を築き、百済の侵入に備えた
・4年(395)8月、王は百済と{シ貝}水のほとりで戦い大敗させ8000余人を捕虜にした、

・9年(400)正月、王は使者を燕に派遣し、朝貢させた
 2月、燕王の盛は、わが王が[燕に対する]儀礼を怠っているとして、盛自ら2万の軍隊を率いて襲撃した、驃騎大将軍の慕蓉熙を前鋒隊とし、新城・南城2城を攻略し、700余里の土地を奪い、5000余戸を連れて帰国した

・11年(402)王は出兵し[燕の]宿軍城を攻撃すると燕の平州刺史の慕蓉帰が城を棄てて逃げた
・13年(404)11月、出兵し燕を侵した
・14年(405)正月、燕王熙が遼東城(遼寧璋遼陽市)を攻め、まさに落城しようとした、熙は将士に先に入城しないよう命じその城が平定されるのをまって、自分が皇后とともに{輿シタニ車}にのって入城する、そのため城中では防備を厳重にすることができ、[燕軍は]勝てずに帰った
・15年(406)7月、蝗が発生し旱魃になった
 12月、慕蓉熙が契丹を攻撃しケイ北(山西省)まできたが契丹軍の多いのに驚きかえろうと思い、ついに軍隊の荷物を棄てた、軽[装備になった]軍隊がわが国を襲った、燕軍は3000余里も行軍し、兵士も馬も疲れ凍え死者が路上につらなる、わが木底城(遼寧省撫順士鉄背山、運河と蘇子河の合流点)を攻撃したが勝てず帰った
・16年(407)2月、宮殿を修理増築した
▲・17年(408)3月、使者を北燕に派遣し、そして、宗族であることを述べた、北燕王の雲は、侍御史の李抜を派遣し答礼した、雲の祖父の高和は高句麗の分家の一族で自ら高陽氏の後裔といい、高を氏の名としている、慕蓉宝は雲を太子とした、[むかし]雲は武芸[給事の職]で東宮[であった宝]に近侍した、[のちに]宝は雲を養子とし慕蓉氏の姓を賜った。 <慕蓉雲>
・18年(409)4月、王子の巨連を太子とした
 7月、国の東部に禿山城(とくざん、未詳)など6城を築城し平壌の住民を移住させた
 8月、王は南方を巡察した
・22年(413)10月、王が薨去したので、広開土王と謚した

 ※ 東洋文庫372、平凡社、金富泓からが主、

■ 三国遺事

◆$・高句麗
・1、東明王、甲申に即位、治19年間、姓は高、名は朱蒙、鄒蒙とも、檀君の子。
・2、瑠璃王、累利、孺留とも、東明の子、壬寅に即位、治36年間、姓は解氏、
 癸亥(瑠璃王22年、)都を国内城に移した、不而城とも
・3、大虎神王、名は無恤、味留とも、姓は解氏、瑠璃王の3男、戊寅に即位、治26年
・4、閔中王、名は邑朱、姓は解氏、大虎の子、甲辰に即位、治4年間
・5、慕本王、閔中の兄、名は愛留、憂とも、戊申に即位、治5年

・6、國祖王、名は宮、大祖王とも、癸丑に即位、治93年、後漢伝に目を開き生まれた、母弟に譲った
・7、次大王、名は遂で、國祖王の母の弟、丙戌に即位、治19年
 乙巳(新大王1(165))國祖王が年119歳にして兄弟2人の王がともに新王に殺された。

・8、新大王、 名は伯固、伯句とも、乙巳に即位、治14年
・9、故國川王、名は男虎、あるいは夷謨とも、巳未に即位治20年、
・10、(山上王)
・11、東川王
(・12、中川王)
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・13、西川王、 名は、薬盧、また若友、庚寅に即位し治20年
・14、烽上王、 雉葛王とも、名は相夫、壬子に即位し治8年
・15、美川王、 好壤とも、名は乙弗、また憂弗、庚申に即位し治31年
・16、國原王、 名はサ<しょう>または斯由、あるいは岡上王とも、辛卯に即位し治40年、
 甲午(334)に平壌城を増築し、壬寅(342)8月に安市城へ都を移した、丸都城である、
・17、小獣林王、名は丘夫、辛未に即位し治13年
・18、國壤王、 名は伊速、または於只支、甲申に即位し治8年
・19、廣開土王、名は談徳、壬辰に即位し治21年
・20、長壽王、 名は臣連、癸丑に即位し治79年、 丁卯(長寿王15(427)都を平壌城に移した
・21、文咨明王、名は明理好、または个雲・高雲、壬申に即位し治27年
・22、安臧王、 名は興安、己亥に即位し治12年
・23、安原王、 名は寶迎、辛亥に即位し治14年
・24、陽原王、 陽崗王とも、名は平成、乙丑に即位し治14年
・25、平原王、 平岡とも、名は陽成、南史に高陽、己卯に即位し治31年
・26、嬰陽王、 平陽とも、名は元で、大元とも、庚戌に即位し治38年
・27、榮留王、 名は□□、また建武、戌寅に即位し治24年
・28、寶臧王、 壬申に即位し治27年。 戊辰(668)国がなくなった、東明王より、705年

 


 ※ :出典情報など埋め込んであります。
土王碑、 土王紀年 、 三国歴代 
 、