親友と、彼か自分の子供という曰く付きの少女がいきなりやってきてから三日が経っていた。
言葉が出るかでないかの、女の幼児など今まで一番接することが少なかった人種だ。
初めは戸惑いの方が先に立ったが、有無を言わさぬ友人の育児分担により、どうにかにわか父親業も仮板くらいはついて来たと言いたいところだった。
もっとも友人に言わせると、まだまだ修行が足りないらしい。
できるだけ早く慣れるようにという方針で、文字通り朝から晩まで一緒にいることが義務付けられている。寝汚い二人を起こすことから始め、着替えから食事の準備遊びの相手に至るまで一通りこなし、折角の休日だった昨日は家事に追われて終わってしまった。
その上にやにや笑う友人の前で子守歌を二度も披露する羽目となった。
そして今日も今日とて、少女連れで買い物である。
「パール、そんなに身を乗り出したら危ないぞ」
ロックアックスの市街地の雑踏は、幼子が歩くに適さない。
さすがに幼児とはいえ少女を肩車というわけにはいかないだろう。そう判断して肩に乗せていた少女は、露商の花々に興味をしめしたのか、身を乗り出してバランスを崩しそうになった所をあわてて抱き留める。
街に入るまでの馬上では大人しくしていた少女も、物や人に溢れる目抜き通りではさすがにいろいろな物に興味が行くのだろう。身動ぎをするたびにはらはらする内心を隠し、小さなもみじ手を取ると、頭に乗せてやるとぎゅっと髪の毛を掴んでくる。しっかりと握りこまれた髪に、頭皮が痛むのは事実だったが、落っことして親友から冷たい目で見られた挙句、無能者の烙印を押されるのは御免だ。
『良い歳して子守りの一つもできないのかい?』
と言いたげな揶揄するような視線は受けるたびに心臓に悪い。
押しかけてきて以来、少女の世話を押しつけた友人は、のんびりと悪戦苦闘振りを見守りつつちくりちくりと毒舌を吐いてくれる。あまりにも的を得たその指摘は、笑顔というオブラートに包まれていても、ぐさりと胸に突き刺さるのだ。否、なまじ類稀に見る瑕疵一つない満面の笑みだからか。あの笑顔に反比例するような視線。あの眼差しで見つめられるくらいなら頭皮の痛みなど痛みに入らない。
「ん、どうしたんだ?」
不意に髪を強く引かれ、慌てて少女を仰ぐ。
綺麗な顔をにこりともさせず、黙って指差すその先には食料品店がある。
ぼーっと考え事をしていた為に、行きつけのその店を通り過ぎようとしていたのだ。
「あぁ、そうだったな。頼まれ物を忘れて帰ったとあらば、あいつからどんな文句を言われるか分かったもんじゃない。教えてくれてありがとう」
『――――― 今日日お使いなど五歳児でもできるものかと思っていたが、騎士団長ともあろう人にもできないことがあったとは知らなかったよ』
面白そうな表情を浮かべ、そう自分を眺めやるであろう友人の姿を思い浮かべ、苦笑する。
あなたの為ではない、と言いたげな澄ました少女の頭をぽんぽんと叩くと、店へ引き返すと、軒に近づくとすぐに寄ってくる店主に軽く声をかけ、頼まれていたチーズと共に棚に並べられていたワインも手に取った。
少し考えて今まで傍に寄ったことのない壁際に設えてある、菓子棚で少女を腕に下ろす。
「なにか欲しい物はないか?」
綺麗に陳列された菓子の詰まった硝子瓶に近づけてやると、少女は不思議そうな顔で見上げた。
「飴玉か、糖衣菓子、…ああ人形の形をした焼き菓子もあるぞ」
子供の頃にこの店で菓子を買ってもらうのを楽しみにしていたことを懐かしく思い出しながら、促すと少女は色とりどりの飴玉に硝子瓶に指を向けた。
「よろしゅうございますか」
「ああ」
セロハンの袋に色の数だけ詰めてもらい、かわいくリボンをかけられた飴を少女に渡すと、微かに微笑んだような気もする。
少女が友人に向けるような無条件の笑みとはほど遠い物だが、初めて向けられた微笑みはくすぐったい思いのするものだった。
無意識にかその笑みに見惚れていたせいで、いつもより周囲に向ける神経がなっていたのだろう。
大柄な男達が二人、傍に来るまで自分に向けられた気配に気がつかなかった。
「―――――― 団長殿!」
店を出てすぐ不意に真後ろからかけられた声に、驚きふりかえる。勢い、肩の上の少女が大きくバランスを崩し。
「アィタタタ…ッ!」
思いきり引っ張られた髪に呻き声を上げるのと、慌てて部下が少女を抱きとめるのは同時だった。
「す、すまん」
「いえ、こちらこそ驚かせてしまったようですな。申し訳ありません」
驚きのあまりバランスを崩した少女は、部下の手によって地面に打ち付けられることは防がれている。
だが抱きとめたはいいが、嫌がって頑冥に暴れる少女に部下は困った顔をしている。苦笑して抱き上げるも、支えるために掛けられた部下の手が嫌なのか少女は足をばたつかせ続けた。
「こ、こら」
慌てて青騎士団筆頭部隊長の手から、少女を受け取ると、初老の部下は苦笑していた。
「すまない、躾がなっていないものでな」
「いえ、こちらこそ大事なお嬢様に不調法な真似を失礼致しました。珍しく連日休暇をお取りになられおられたので、我々一同御身体でも壊されたのかと心配していたのですが、そちらの心配ではなかったようで何よりですな」
そっぽを向く少女と自分の顔を見比べ、穏やかにそう笑う。
「あぁ、体調のほうは問題ない。だが急な休みでお前達には迷惑をかけたな」
「とんでもございません。貯まりに貯まった有給休暇を少しでも消化していただかないと下の者も休みが取りにくくなります。一週間でも十日でもお休みになってください」
力をこめてそう言う部下の、あながち演技とも思えぬ迫力に苦笑いをする。確かにここ暫く通常の休日も仕事に追われて、休みをとった記憶がない。
そんな二人の様子を黙ってみていた文部記録省の高官はおもむろに口を開いた。
「ところで失礼ですが…お連れのお嬢様はどちらのお嬢様であらせられるのでしょうか」
そう問われ、はたと言葉に詰まった。
一番自然なのは親戚の子供を預かっているという答えなのだろうが、長らく騎士団の首座についている自分の一族の系譜は、末端の下位騎士にまで知れ渡っているはず。なにしろさして広くない街でも由緒ある一族なのである。見え見えの嘘をつくのも憚られる。
さてなんと答えるか。
咄嗟のことに口篭もるその様子に、部下も控えめに同じ疑問の眼を向けるのが察せられる。
「まさか隠し子と言うことはないでしょうな」
ほんの冗談のつもりで部下の口から発せられたその問いを、否定しようとした瞬間脳裏を過ぎったのは親友の一言だった。
『――――― お前も父親候補なんだからちゃんとこの子の面倒見るんだぞ』
折にも折に思い出してしまったその言葉は、部下の問いを否定することを不可能にし、
そしてそれはその場の空気を凍りつかせるのに十分の威力を持っていて。
ざわめく往来の中にいるにもかかわらず、その空間だけひたすら重い沈黙が流れる。
通行を妨害する大柄な男達の群れに人々が胡乱な眼を向けても、固まった空気が動くことは暫くなかった。
「…ただいま」
街外れの自分の屋敷に辿り着いたのは、日ももう暮れなずもうという夕刻だった。
やはり慣れというものの違いなのだろう、馬から下りるなり一目散に駆け出し客間に向かう少女の後に続きながら、疲れた頭を抑えそう思う。
視線の先では少女が客用長椅子に寝そべっている親友に、菓子の包みを見せているところだった。
満面の笑みを向けて、自分と友人とでは態度が格段に違う少女の姿を見遣りながら、ゆっくりと荷を降ろす。
「何か変わったことはあったかい」
厨室の戸口でぼんやりと二人を見ていた姿に気がついたのだろう。手にしていた本を閉じ、少女を抱き上げながら近づいてくるその姿に、一つ重いため息をついた。
「どうした」
「部下にばれた」
それだけを呟くと、彼の美しい眉が少し上がるのが扉掛燭台の火にも分かる。
「何があったか詳しく話してみろ」
促されるままに、往来でのやり取りを繰り返すと、
「お前の所の部下も可哀相に。今頃胃痛で青くなってるんじゃないか」
と、親友は血も涙もない感想を吐いてくれた。
「同情なら俺にしてくれ、どうしようかと本当に思ったんだぞ」
「お前のは自業自得だ」
ばっさりとそう切って捨てられ、ダメージを受けた心にさらに鞭打たれた身はよろりと扉にすがりついた。
「で、私のことは言ってないだろうな」
「特には話題には上らなかったぞ、…うん」
動揺のあまり細部が飛んでいる会話思い出しながら、一つ頷くと、それで良いというように、親友は安堵のため息を漏らす。
「頼むから私のことだけは、誰にも喋るなよ」
「なぜだ」
思いがけない言葉に問うと、予想もしない強い瞳が帰ってきた。
「言っとくがな、私はこの土地では裏切り者なんだよ」
親友の口から飛び出した不穏な言葉に、眉を寄せる。
「それじゃなくとも先のトラン大戦では騎士団を離反した挙句、恩義のある騎士団領に攻め入ったというのに、復興の最中に役職を放棄するわ、勝手に騎士団から出て行くわ…これを裏切り者と言わずになんと言うんだ」
あっさりと言い放たれた言葉の重みに、咄嗟に言葉を失う。
確かに、客観的事実だけを言葉にすると、彼の告げる言葉に嘘はない。
だがそれに至るまでには彼は彼なりの理由や葛藤があったはずだ。彼を知るものなら誰もがそう考え、納得したにちがいない。だから彼の突然の出奔時、赤騎士団員達は後を追わなかったのだろう。
それになにより彼が三年前この地を出て行かざるを得なかったのは、自分の短慮な暴挙のせいなのだ。彼が自嘲する裏切り者という称号は、むしろ自分に相応しい。
だが、それを口にするにはいまだ心の傷は癒えていなかった。
「しかし…」
そう言いかけたまま固まった姿に、親友は小さくため息をついた。
だから。
「事実だろう?」
それ以上でもそれ以下でもないという、感慨の含まれない言葉にただ沈黙するしかなく。
そんな二人の様子を、少女はただ静かに見つめていた。
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