3年ぶりの再会だった。
「おはよう、こんな朝早くにすまない。今日はまだ早朝訓練に出てないんだな」
三年前ふらりと単身グラスランドへ旅立って行った友人は、姿も服装もそのままで玄関に佇んでいた。
「お、お前!今迄何処にいたんだ?!音沙汰一つよこさないでどんなに…」
「…心配してくれていたのかい?」
揶揄するような瞳に見上げられて、一瞬うっと言葉に詰まるが、次の瞬間には、
「当たり前だろう!!」
と怒鳴り返していた。
いきなり行方も知らせずただ一言、「グラスランドへ行く」との書き置きだけ残し、文字通り失踪してしまった彼の事をとても案じていたのだ。
例えそれが酷い悔恨と苦痛を伴う行為だとしても。
「なるほどそれは有り難いね。それはともかく私達を中に入れてくれたらもっと有り難いのだが」
「あ、あぁ…私達?!」
「そう、私達」
他に誰か一緒なのかと思わず見回すとにこやかな笑顔を浮かべた彼が、足下を指差していて。
素直に視線を落とすと幼児が1人、彼の白いスラックスにしがみついていた。
大きな琥珀の瞳は聡明そうな色をたたえ、幼児にしては端正すぎる程整った美貌が何処か警戒するような堅い表情で見上げている。その面立ちはどこか親友のそれと似ているような気がする。
「お前の子か…?」
恐る恐るそう尋ねると、彼はにこやかな微笑を浮かべた。
「違うね…私とお前の子だ」
「は?」
告げられた意味が分らずに呆然とする。
「…お前女だったか?」
「まさか。そんな事は3年前に自分で確かめただろう…その身でしっかりな」
他意の欠片も感じさせない綺麗な笑みと裏腹に繰り出された言葉に胸をぐさりと抉られ、思わず手で押さえる。
その姿を楽しそうに見遣りながら、
「この子は正確に言うとお前か私の子だよ」
そう浮かべた今度の笑みは、はっきりと人の悪い笑みだった。
凍りついた空間を作り出したのは彼ならば、それを造作もなく蹴り破ったのも彼である。
おもむろに子供を押し付けると、勝手知ったるとばかりに台所へ入り込み慣れた手つきで茶を淹れる。
「ほら、これでも飲んで少しは落ち着け。まったくなんて顔してるんだ、そんな凶悪な顔じゃ、レディが怯えて泣き出すじゃないか」
差し出されたカップを受け取ると懐かしい香りが広がり、一口含むと慣れ親しんでいたその味に一気に時がさかのぼったような気がした。
すっかりその杯を空けると、混乱していた頭も幾分落ち着く。…が、それは無意識に逃避していた現実に向き合わねばならぬときでもあった。
その現実、さっさと自分の腕から逃げ出して向かいに座る彼のところに逃げ込んだ幼児、を見ないようにしながら、恐る恐る本題を切り出した。
「…で、その…その子供は一体…?」
「言っただろう。私かお前の子だと」
ちなみに名前はパールだよ、可愛い名前だろ?
大人しく膝の上で服の飾りを引っ張って遊ぶ幼子を見守りながら楽しそうに微笑む。
「もしかして三年前の…あの…?」
「そう、お前が付き合っていたあの金髪と琥珀色の瞳が綺麗だった彼女の子供だよ」
幼子を見守る優しい視線とは程遠い、皮肉っぽい口調に思わず眉を寄せた。
件の彼女のことは、今まで付き合ってきた女性の中で一番印象に残っている。一年近く付き合って、結婚まで考えた相手だった。自分の身勝手な理由で一方的に別れを告げた後、彼女は目の前のこの親友に相談したらしい。泣いて取り乱した彼女を抱きしめ、慰めている姿が目撃され。明け方忍ぶようにして城に戻った彼は問い詰めた自分にあっさりと、彼女と関係を持ったことを認めたのだ。そして…
「三ヶ月前にグリンヒルに立ち寄ったとき偶然彼女と出会ってね。そのとき彼女は重い病に冒されていたらしくて…数日後に訪ねたときには葬儀が終わった部屋にこの子だけが残されていたんだ。子供の歳を聞いたらちょうどあの時の子供だというし、ほってはおけないだろう」
「で…どっちの子なんだ…?」
「さぁねぇ…回数からいくとお前の子なんじゃないかと思うんだけど。私はそんなへましないしね」
あっけらかんとした口調でものすごいことを言われたような気もするが、深く考えまい。そう自分に言い聞かせ、黙殺する。
「しかし三ヶ月も前に引き取ったのなら、一言くらい知らせてくれてもよかったのではないかと思うのだが…」
「あぁ、つい忙しくてね。それはともかくしばらく厄介になるからよろしく頼むよ」
「それは…構わないが…」
あんなことのあった自分のところに本気で泊まろうという気なのだろうか…。思わず正気を疑うが、眼の前の彼は気にした風もなく楽しそうに部屋の算段をしている様子だった。
「ありがとう。ちょうど路銀が底をついてどうしようかと思っていたんだよ」
「は?」
仮にも赤騎士団長を四年以上勤めた彼は、一生暮らせるとはいかないもののかなりの資産を貯蓄していたはずである。それを全部浪費してしまったというのか。
「それからお前も父親候補なんだからちゃんとこの子の面倒見るんだぞ」
「何をしろというのだ?」
「そうだね…とりあえずお風呂にでも入れてもらおうか。長旅で埃っぽいしな」
自分が。
この幼児に入浴をさせるというのだろうか?
できるのだろうか…そう思わず注視する視線を受け止めて大きな琥珀の瞳がじっと見上げる。図らずも無言で睨み合いになった二人を面白そうに見遣り、
「さて、お手並み拝見といこうか」
そう楽しそうに彼は嘯いた。
■
「こらッ!暴れるんじゃない!」
擦るスポンジを嫌がってか暴れまわる少女のせいで、狭い湯船はさながら戦場になっている。
「女の子だったら大人しく顔ぐらい拭かせてくれないか?」
二の腕まで袖を捲り上げた手を伸ばすが、小さな身体はするりとその手からすり抜ける。
ばたつかせた足で、それでなくとも泡だらけの風呂の泡が浴室中に広がっていて、暴れる幼児を何とかして洗おうと格闘する身体は腕といわず胸元からスラックスまでびっしょりになっていた。
ちいさな身体は少し力をいれると簡単に壊れてしまいそうで、どこを持てば良いのかさえわからない。
正に悪戦苦闘と言う言葉に相応しい努力でもって身体を洗い上げ、長い髪を泡の巣状態にしながら洗う。丹念に湯で漱ぐ頃には、自分の身体に湯がかかろうがないしようが、とりあえず頭だけ洗い上げてしまえば良い、という開き直りの境地に至っていた。
不器用ながらも髪をタオルで巻き上げてピンで止め、湯船に少女を放した時には全身びしょぬれになっていた。
「よかったな、すっかりピカピカの可愛いレディになれたじゃないか」
後ろからかかった声に振り向くと、一人高みの見物を決め込んでいた友人の姿がある。
浴室中にぷかぷか浮かぶ小さな泡をふうっと吹流すその姿はとても楽しそうだ。
「…少しは見てないで手伝ってくれ」
一人暢気なその姿に、思わず苦言を呈するが、逆に不思議そうな顔で首をかしげられた。
「何をかい?もう終わったんだろう」
「……」
「あんまり長湯をすると身体に悪いよ、レディ。ほどほどにして早く上がるんだよ」
あくまでも他人事の表情を向ける親友は、恨めしそうな視線を黙殺すると、少女にだけにそうにっこり笑ってさっさと彼を見捨てて去っていた。
「今なんと言った?」
「だから休ませてもらうと言ったんだ。…よもやグリンヒルからの長旅で疲れきっている友に貸す寝台はないなんて言うなよ」
「いや、ベッドはあるぞ。お前が昔使っていた客間がある。あそこなら勝手が分かって良いだろう…じゃなくて!その後だ!なんだその『あとはよしなに』っていうのは?!」
「言葉通りの意味だよ。レディは夜はちゃんと眠っていたし、今寝たら夜に差し支えるからね、遊んでやってくれ。ということで、あとは頼んだよ」
「おい、ちょっと…!」
ひらひらと手を振り去って行く友を呼び止めようにも、追いすがる声に振り向きもしない。
確かにグリンヒルからマチルダ領までこんな幼子連れで旅するのは、体力のみならず神経も使ったことだろう。彼が休息を欲するのは当然のことだ。となると、残された少女を一人放り出すわけにもいく訳もなく。
やはりここは自分が少女の相手をするしかないのかと腹をくくる。
だが、次なる少女の遊び相手という仕事もこれがこれでたいした重労働だった。
「遊んでやれ」の一言で放置されたが、何をどうすれば良いのか解らない。
何しろ敵は幼子。
とりあえず本でも読んでやろうにも、適した本は何も無い。兵法や歴史等の本の山をひっくり返し唸る彼の前に差し出されたのは人形だった。
「これをどうしろと言うのだ?」
嫌な予感に恐る恐る尋ねる。
だが帰ってきたのは少女の期待に満ちた目だった。
「あ…そぶんだよな…ははは…」
きらきらと眩いばかりにきらめいて、見上げる瞳が眼に痛い。
乾いた笑いを虚しく空に響かせても事態は変わらない。
「人形なんてどうやって遊べば良いんだ…クソッ…」
小さく悪態をついた後で、そういえば彼がいなくなってから久しく口に上らせなかった言葉だと気が付く。
思えば彼がいなくなってからというもの、自分の生活はとても静かな単調なものだった。およそ悪態などつく余地がないほどの。
騎士団の頂点に登り詰めた思い返すに熱血だった若い時分ならいざ知らず、当時より遥かに落ち着きを身に備えた今では、些細なことで感情を揺らすことがなくなった。
ただ彼の存在だけが、こんなにも自分の感情を、行動を、すべてを翻弄するのだ。
三年経ってもまるで変わらない自分たちの関係に、胸が疼いた。
しかし…
不思議そうに見上げる少女の瞳に我に返り、現実を直視した彼は強く思う。
こんな風に翻弄されるのも勘弁願いたい、と。
『きょうはよくはれているので、おそとへおかいものへいきましょう。おやつはパンケーキがいいですか?…』などと人形を片手に幼児相手に話し掛ける己の姿を、悲しく省みながら溜息をつく。
仏調面で人形を操る姿は、およそ部下達に見せられる物ではなかった。
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