日本の米国旅行記


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「コモンセンス」――常識と銘打った冊子を眺める。
 イギリスからの独立を道理だと説いたその説は、今でもイギリスにとって、受け入れがたいものだ。
 独立時からアメリカが高らかに唱える平等や自由は確かに美しい理想であるが、それが現実で成し遂げられないのは当のアメリカが証明している。
 独立後も続いた奴隷制度で国際的に非難を浴びたのは、自由と平等を謳うアメリカ自身。制度がなくなった後でも、つい最近までアメリカという『国』は黒人に対する差別に救いの手を差し伸べなかった。
 イギリスからの独立の象徴となった『自由の鐘』が奴隷制反対運動や人種差別撤廃運動のシンボルとなったことは、彼が唱える自由と平等を、彼自身が実現できなかった事実を図らずも露呈するものだ。
 それはあまりにも滑稽で、アメリカにとっては不名誉なことに違いない。
 だが、『国』というものはそういうものだ。
 一部の『富める者達』の意向に沿って『国』の沿革は形作られる。
 崇高な理念を掲げて成し遂げられたように見える革命も、裏を透かせば『富める者達』のパワーゲーム。実を取るのはいつでも庶民ではなく『富める者達』だ。
 アメリカは『富める者達』をより富ませるために社会の仕組みを整え、庶民の不満はほんの少しの譲歩とアメリカンドリームという幻想、そして人種間の隔絶や「正義を推し進める」と銘打った対外戦争への介入で逸らし続けている。
 そうやって富を増やし続け、力を増し、今や世界の覇者となったこの国は豊かに物が溢れていて、不況と経済難に喘ぐ自分には眩しいほどだ。
 けれども歴然とした階級制度が残るとはいえ、各々が各自の立場に満足しているイギリスよりも、経済格差が激しくスラムや貧困層が多いアメリカが幸せだと言えるだろうか。
 彼が唱えた自由や平等は、恐らくけして成し遂げられることがない。
 ならばどうして『富める者達』の抗争や夢物語でしかない自由や平等という言葉で分断され、自分達は兄弟として共にあり続けることができなかったのか――。
 
 
 公開終了時刻を告げる係員に追い出されるようにして、建物を出た。
「すみません、まだ時間があるなら木陰で少し休んでいいでしょうか。――さすがにこの時間ともなるといささか時差ボケがきつくなりまして」
 申し訳なさそうに切り出す日本に、イギリスは「もちろんだ」と応じた。
 アメリカとの待ち合わせは三十分後。歩いても五分程度の場所だから、充分時間はある。
 イギリスとしても泣いた後だと分かるに違いない今の顔を往来で晒したくない。
 そう考えて、ふと日本は自分のその考えを見越して申し出たのではなかろうか、と思い当った。
 普段はいささか焦れったく感じるほど自己主張をしない彼が極稀に自分から希望を述べる時、その希望は自分にとっても好都合なことが多かった。
 謝罪と感謝の言葉に惑わされるが、大抵の場合、彼の意向は――もちろん国事行為は別としてだが――相手の意向を推察し、自分の希望とそれが調和していると判断して初めて示されるもののようだ。
 イギリスがそのことに気づいたのは、彼と結んだ同盟が終わり、少し離れた所から彼を見るようになってからだった。
 先に相手ありきのそのような発想は、西欧の考えには馴染まない。だから主体性がないとか、とらえどころがないと思われがちなのだろう。
 だが、イギリスは彼のその気遣いは嫌いではない。
 気づいた当初は、同盟時のあの行動もあの言葉も自分に遠慮してのもので、単に自分の意に添うようカスタマイズされたものだったのかと落ち込みもしたけれど、彼のその気遣いは本能のようなもので、親しい相手へは思いやりとしてより一層発揮されるようだと理解すれば、彼から気遣うに足りる相手と尊重されているのだと思え、誇らしい気持ちになった。
 日本のそんな気遣いが理解されず侮られるのは腹立たしいし、ましてやそれをいいことに図に乗って、自分の良いように扱おうとする態度には虫唾が走る。それでいて、彼のそんな美点に気づいているのは自分だけであったらいいとも思う。
 先の大戦からこの方、日本とはプライベートで話をする機会は皆無に等しく、いつもアメリカとべったりな彼とたまに会話をする時は、一歩も二歩も距離を置かれているように感じていた。
 嫌われたわけではないはずだ――そう思っても、アメリカの陰に隠れている、いや、アメリカが抱え込んでいる彼に、自分から近づくことが憚られて、もどかしい気持ちでいたのだった。
 そんな彼が以前と変わらぬ気遣いを示してくれて、こうして昔と同じように二人で並んで歩いていると、同盟の頃に戻ったような心持ちになる。
 ぼんやりそんなことを考えていると、隣から改まった声をかけられた。
「あの、イギリスさん……先ほども申しましたように、私はどうもアメリカさんのところでは時差ボケが酷く、ここも何度か観光をしたことがあるはずなのですが、さっぱり覚えていないていたらくでして。イギリスさんはもう飽き飽きされて今更観光というのもつまらなかったかと思いますが、案内してくださって助かりました」
「――別にお前のためというわけじゃない」
 婉曲な言葉を使い、彼にしては珍しく謝罪ではなく礼の言葉を寄越すのはイギリスの心情を憚ってのことだろう。
 その言葉に、改めて申し訳ない気持ちに襲われる。
 確かに日本の存在がなければ来なかったとはいえ、観光先に美術館を選ぶこともできたし、そこらの店で時間をつぶすこともできた。
 この場所を選んだのは自分だ。
 そのせいで彼には余計な気を使わせた上に、みっともない姿を晒して困らせてしまった。
 やけになっていたとはいえ、八つ当たりめいた感情を抱いた日本に申し訳なく思うし、今更ながら自分の醜態に身が竦む。
 彼は見て見ぬふりをしてくれたが、自分が彼の前でそのような態度をとるのは彼ならば許してくれると見越しての甘えだろう。
「――こっちこそ……悪かったな。みっともないとこを見せた」
「いえ、いいえ」
 驚いたような顔をした日本は、はっと気づいたように首を振る。そのまま謝られそうな気配を感じ、イギリスはやや強引に話題を変えた。
「ところで、アメリカとはこの後の予定はどういう話になってるんだ? おれには休みだから遊びに来いと言って呼びつけたんだが」
「私も同じです。急にお電話をいただきまして、遊びにくるようにとお誘いだったのです」
 予想外の言葉に驚く。
 日本の国内では、もうすぐ満期を迎えるアメリカとの安全保障条約を巡って反対運動が起きていると伝え聞いている。てっきり彼はその条約更新の話し合いに来たのだと合点していたのだが。
「……何を考えてるんだ、あいつは」
 ベトナム戦線にようやく見切りをつけたのか、兵の撤退は始まっているとはいえ、いまだ終戦にまでは至っておらず、むしろ隣のカンボジアにまで手を広げているありさまだ。
 のんびりホリデーと洒落込む時期でもあるまい。
「すみません、ご兄弟水入らずにお邪魔してしまう形になりまして……」
「べ、別にお前が悪いんじゃない! ――聞いてなかったんだろ?」
 日本の口からの兄弟、という言葉にカッと頬が染まるのを感じたイギリスは、咳払いをして落ち着かせた声で訊ねた。困った顔で肯定する日本に、まぁそれもそうかもしれない、と納得をした。
 よほどでない限り、アメリカは自分と二人で休暇を過ごそうなどと思わないだろう。寂しいが、ついつい口煩くしてしまい、彼に疎ましく思われているのが現実だ。
 とはいえ、グループの中では常に王様になりたい彼が誘えるのは限られた相手。その中でも今一番のお気に入りの日本――優しくて親切でNoを言わずにアメリカの我儘を受け止めている――に声をかけるのは当然のことであろうし、その彼に自分が一緒だと伝えれば、今のように兄弟水入らずのところへと恐縮し、尻込みするとアメリカも考えたのだろう。
「べ、別におれはお前と一緒でも悪くないと思ってるからな」
「ありがとうございます。――光栄です」
 付け加えられた言葉に、ふわっと体温が上昇し、やけに熱くなった気がする。
「そろそろ行くか」
 尻がむずむずするような感覚に耐えきれず立ち上がると、折しも吹いた風がざわっと梢を揺らす。
 心地よさに目を細めたイギリスは、先ほどまでの胸の痛みが消え去っていることを自覚していなかった。
 
 
 



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