日本の米国旅行記


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 一時間半後に迎えに来るからと言って、アメリカは市街地の中心部に二人を下ろして去って行った。
「どこへ行きたい?」
 不機嫌を押し隠すような平坦な声で訊ねるイギリスに、日本は言葉が詰まった。
「……あの、すみません、不勉強なものでここに何があるか分からないのですが……」
 車やバスが行き交う大通り、そして立派な建物。美しい街並みに観光客と思しき人々の姿があり、ここが大きな都市ということは察せられるが、どんな名所があるかなどさっぱり分からない。
「フィラデルフィアは本当に初めてなのか」
 怪訝な顔をするイギリスに、慌てて「いえ」と訂正をした。
「アメリカさんに何度か連れてきていただいたはずなのですが、恥ずかしながら記憶が曖昧でして……。その、時差の関係でこちらでの滞在の時はどうも体調が良くなくて……アメリカさんのスピードについていけないといいますか……」
 我ながら恥ずかしい説明に、だが、イギリスは表情を緩めた。
「あいつは他人のペースに合わせるってことを知らないからな。――だったら代表的な所をまわるか」
 行くぞ、と歩きだしたイギリスの後に慌てて従う。 イギリスはこの街の何がどこにあるのかを知っているようだ。
「ここはペンシルベニア州最大の都市で、アメリカの首都だったこともある古い街だ。初代の首都はニューヨーク。一七九〇年にここに移転し、以後十年ここが首都だった。今のワシントンDCは三代目になる」
 歩きながら語るイギリスの口調は淀みない。
「その頃はロンドンに次ぐ規模の巨大都市で、国内ではもちろん第一位。今は順位を落としているものの、大学の数も多い学術都市であるとともに、商工業が盛んな国内有数の都市であることには違いない。最新の調査では確か四位だったか。ああ、あの前方にある一番高い尖塔は市庁舎だ。見学は――そうか、今日は土曜日だったな」
 独り言のように小さく呟くと、足を止めた。
 通りの突き当りに見える、周囲の建物より高く立派な建物が市庁舎なのだろう。
 官公庁が週末に開いていないのは万国共通である。
 踵を返したイギリスと軽く肩が触れそうになり、日本は思わず身を引いた。
 引いた後で、まるでイギリスを忌避するような仕草に見えたのではなかろうかと内心慌てる。
 イギリスは変わらぬ様子で歩いていくが、自分のとった今の態度に、彼の後ろを歩いていていいものかと迷う。説明をするイギリスの後ろから従うのには少し違和感があるし、一緒に歩くことや、傍にいるのが嫌というわけではないことを示すべきだと思う。
 けれども隣に並ぶ勇気がない。
 迷った末に日本は、先を行くイギリスの少しだけ斜め後ろの位置を歩くことにした。
 だがイギリスはそれっきり何を話すでもなく無言のまま歩みを進め、やはりさきほどの自分の態度が露骨すぎたのだろうか、イギリスは気を悪くしたのではなかろうか、と日本は気を揉んだ。
 気の利いた話題をこちらから出すべきだろうか。
 気の利いたものでなく、どんな話題でもイギリスは受け答えをしてくれるだろうから、とにかく何かを話しかけようか。
 そう思ったところで、先程の自分の態度を思い出す。
 イギリスが話をしていた時、自分はただ聞いているだけだった。それではイギリスとて張り合いがなく、話をやめるはずだ。
 ただ黙って聞いていただけの自分を、イギリスはどう思っただろう。
 イギリスの内心を忖度しかけた日本は、慌ててそれを止めた。考えかけただけで、心に鉛が流し込まれるように重くなるのだ。どう考えても悲観的な結論になるのは目に見えていた。
 暗くなりかけた心を奮い立たせようと前を向く。
 視界に眩しく飛び込むのは、夏の気候にもかかわらずかっちりとした背広の肩と、爽快な陽射しを受けきらきらと光る淡い金の髪だ。
 イギリスと二人きりになること自体、十何年ぶりのことだろうか、とふと感慨を覚えた。
 連合国軍が日本に駐留していた終戦直後に一度自宅への訪問があった他は、サンフランシスコで開かれた講和条約締結の折の祝賀会の息抜きで偶然居合わせ、短い会話を交わしたきりだった。
 国際社会の場に復帰してからは、二国間の行事でも、常に上司や部下がともにいて、世界会議などの折にはアメリカと行動し、アメリカと別に行動する時でもイギリスとは二人きりになる機会などなかった。
 ましてやこうして二人きりで外を歩いた記憶は、同盟時代にしかない。
 折角の機会なのだから、友好的な雰囲気を作れたら良いのだが。
 気ばかり焦りながらイギリスの後を追ううちに、通りの左右に緑地の公園が現れた。広い敷地だから目立たないが観光客の姿がそれなりに多い。
 アメリカで二番目に出来たという銀行を通り過ぎ、赤煉瓦の建物が建ち並ぶ一角にさしかかる。
「ここは旧市庁舎と初期の州議事堂、旧郡裁判所だ。ここが旧市庁舎。首都が置かれていた期間は最高裁判所として使われていたようだ」
 旧市庁舎と旧裁判所は二階建ての建物で、間に建つ旧州議事堂は鐘楼付きの少し大きな建物だった。
「この手の施設はだいたい十七時までの見学時間のはずだ。あまり時間がないから全ては見られないと思うが――いいか?」
「はい、それは結構です」
 一番の名所となっているのか、観光客の姿がひときわ多い旧州議事堂には国旗が高々と掲げられ、正面には銅像もある。
 近づき銘を見ようとした日本に、「初代大統領ワシントンだ」とイギリスが教えた。
「初代と二代目の大統領就任式が確かここか、隣の国会議事堂だったかで行われたはずだ」
 なるほど、像を見上げれば確かにそれらしい顔だ。
 もっとも日本は、彼の初代大統領と対面したことはない。
 なにしろその頃は鎖国中の身。
 太平の眠りの中、オランダから新しい国ができたと噂で伝え聞いていただけであった。
 
 ――……新しい国?
 
 何か引っかかるものを覚える。
 それが何か分からずもどかしい気持ちのまま建物に近づき。ふと目に飛び込んだ銘板に、日本は雷に撃たれたかのような衝撃を受けた。
 Independence Hall――独立記念館。
 思い出した。
 ここはアメリカがイギリスから独立した時の独立宣言が行われた場所だった。
 
 



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