日本の米国旅行記


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「――だからさ、おれは言ってやったのさ。君が持ってきた書類は決裁書じゃなくて、うちのボスのスピーチ原稿に見えるけど、今日はおれがスピーチをするべきかいって。そしたらマットのやつ、なんて答えたと思う、――」
 他愛のない職場の話を楽しそうに喋りながらアメリカは、広いハイウェイを運転する。ブォンブォンと勇ましいエンジン音を立てる車はブルックリン橋を渡り、マンハッタンへと向かっている。
 仕事で訪れる時はいつもサイモン&ガーファンクルの『 The 59th Street Bridge Song 』のタイトルにもなっている島中部のクイーンズボロ橋を渡っているので、この橋を通るのは久しぶりだ。
 橋を渡ると正面は白亜のニューヨーク市庁舎やいくつもの裁判所など公的機関が集まる行政地区。南に下れば世界の金融を動かしているウォール街がある。
「おい、アメリカ。お前、どこへ向かってるんだ?」
 目指すのはそれらの地区ではないのか、ひたすら車を南へと向けるアメリカに、イギリスが訊ねた。
「バッテリーパークだよ。ニュージャージーへ渡るのさ!」
 そう宣言するアメリカの横で、日本は壮麗なトリニティ教会や久しぶりに見る天を突くようなビルの群れに視線を奪われた。
「ニュージャージー? なら大人しくトンネルを使えばいいだろうが。この馬鹿みたいにでかい車がフェリーに乗るのかよ?」
「乗るに決まってるだろ。乗らないわけがないさ」
「お前は、実際に、このサイズの車が乗ってるのを見たことあるのか?」
「それは……ないけど、でも君んとこと違って、うちの船はでかいから問題ないんだぞ」
 またもや車のことで言い争いを始めるアメリカとイギリスに、ニューヨークの市街見物を中断された日本は、二人を仲裁すべきかと迷う。
 車の問題は、空港を出る時に端を発している。
 アメリカが乗ってきた車に、イギリスがケチをつけたのだった。
 確かに日本も六メートルもあろうかという車を見た時は、目を丸くした。仕事柄リムジンは乗りなれているが、その位置づけは飛行機や電車のようなもの。個人で私用に使うものではない。
 そのリムジンもかくやなサイズの車を目にしたイギリスは、こんな馬鹿みたいにでかい車は無駄だろうと眉を顰めたのだった。
 今年出た新車だと自慢したかったアメリカは当然ながら機嫌を損ね、言い争いを始めた二人は周囲の耳目を集め、何事かと空港職員も集まりそうになったのに気付いた日本が慌てて二人を宥めてその場は事なきを得たのだが。
「船も車もでかけりゃいいってもんじゃねぇだろ!」
「心配無用だよ。この車はサイズだけじゃなくて性能もナンバーワンだからね!」
 ここにきて、二人の口論が再燃している。
 胸を張るアメリカの言葉通り、毛足の長いカーペットに何段階も背もたれを調整できる革張りのシート、運転席の集中ロック、自動で動くサイドミラー、その上エアコンは自動で温度調整するという、どれも日本が今まで目にしたことのない、まさに驚くような未来装備の塊だ。もちろんブォンブォンと鳴り響くエンジンも力強い。
「君んちの車はこんなことできるのかい?」
 そう言って動かしたワイパーは四段階で、止めると自動で格納する。それを見てイギリスが黙り込み、さしあたっての決着をみた。
 そうするうちに車はブロードウェイを抜け、バッテリーパークに隣接するフェリー乗り場に着いた。
 ニュージャージーのステタンアイランドにわたるフェリーは一人五セント。ニューヨークへの通勤の足として使われているというだけあり、週末の昼間の船内は人がまばらだ。
 さほど待つこともなく出港した船は、ゆっくりと岸を離れ、摩天楼が次第に小さくなっていく。
 低く飛ぶ海鳥たちを眺めているうちに、自由の女神像が建つエリス島を間近に通り過ぎる。
 ほどなくしてステタンアイランドに到着すると、車は西へ走り出した。
「それでニュージャージーのどこへ行くんだ?」
「行くのはニュージャージーじゃなくて、ペンシルベニアさ。フィラデルフィアにちょっと用事があってね。今日はそこで泊まるつもりだよ」
「用事って……仕事か?」
「まぁね。君たちは観光でもしていてくれよ」
 休暇前の抜けられない仕事でもあるのだろうか。ご苦労なことだ、と日本はぼんやり思うがイギリスの反応は異なっていた。
「おい、ふざけんな! 仕事があるなら先に言え! だったらおれはお前の仕事が終わるまでニューヨークにいるからな!」
「日本はフィラデルフィアの観光をしたことがないよね?」
 イギリスを無視して尋ねる質問に、どう答えればいいのか迷う。
 フィラデルフィアという地名は勿論知っている。
 首都ワシントンやニューヨークの間に位置する古都という知識もある。恐らくこれまでの公務の合間の観光で何度も連れて行かれているはずである。
 しかしアメリカの期待する答えは違うような……かといって、観光をしていないと答えれば先の展開は見えているような……と一瞬のうちに空気を読み、算段をした日本の答えは曖昧なものとなった。
「はぁ、以前連れて行っていただいた気もするのですが、いかんせん慌ただしくて記憶が……」
 なにしろアメリカ主導の観光案内はいつも唐突で慌ただしく、しかも何カ所も一気に引きずっていかれるので、記憶がごっちゃになっているのだ。
 その上、自国と昼夜が逆転するこの地では、時差に苦しめられるので体調は最悪。記憶が朦朧としているのが常だ。この国での観光といえば、アメリカの得意げな独演会に不自然にならないよう相槌を打っていた記憶しか残っていない。
 嘘ではない。本当のことだ、と各方面で胃が痛むような後ろめたさに襲われながらの日本のその返事は、アメリカのお気に召したものだったようだ。
「だったらゆっくり観光をしていればいいよ! イギリス、君、日本を案内してくれよ」
「なっ……! ふ、ふざけてんのか、アメリカ!」
「何がだい? まさかと思うけど、日本を案内するのが嫌なのかい?」
「……ッ! おれは、仕事が終わるまでニューヨークにいるっていっただろうが! お前、おれの話聞こえてなかったのかよ! 聞こえてるならさっさとUターンしてさっきのフェリーのとこまで連れて行け」
「ああ、もう煩いなぁ。聞こえてる、聞こえてるよ。でもナンセンスだから却下だね」
 どうやらこの二人の間には自分の理解が及ばない争点があり、そして自分がその論争の道具にされていることを日本はぼんやりと理解する。
 自分の建てた計画通り、自分達を同行させたいアメリカに対し、イギリスはフィラデルフィアには行きたくない理由があるようだ。
「おれの用事はほんの一時間程度で終わるんだぞ。用事が済むまでニューヨークにいるっていうけど、用が済む頃に来ようと思ったら、ニューヨークに着いたらすぐ、列車に乗らなきゃいけないんだよ。どう考えても非合理的じゃないか」
「ハッ、お前とこのまま同じ車で行くよりはよほどましだ」
「それに日本はどうするんだい? 英語がろくに分からない日本を見捨てる気かい? 紳士を自称する君とも思えない行動だね」
「そ、それは……」
「あの、私は一人でも大丈夫です」
 たまらず反射的に口を挟んだ直後に、しまった、と日本は後悔をした。
 恐る恐る後部座席を伺うと、硬い表情のイギリスと眼が合う。次の瞬間、すっと視線を逸らされて、肩を落とし悄然と前を向いた。
 頼むから断ってください、 という日本の内心の願いとは裏腹に、イギリスの返答は予期していた通りのものだった。
「――分かった。その代わりさっさとお前の用事とやらを終わらせろよ」
「じゃあ、決まりだ。フィラデルフィアはおれの自慢の街だからね。見るところもたくさんあるし、楽しんでくれよ!」
「はぁ……」
 返事をしたのは日本だけで、イギリスは無視を決め込んでいる。
 気づかれぬよう、そっと後部座席を窺い、険しい顔で窓の外に視線を向けているイギリスの姿にまた日本は肩を落とす。
 あのタイミングで自分が口を挟んで遠慮する言葉を吐けば、イギリスがどう返すかなど少し考えれば分かったはずなのに。
 アメリカとイギリス、二人の争いで終始すれば、万が一にもイギリスの主張が通る可能性もあったが、自分がいらぬ口を出すと自分に憚り、イギリスが折れるに決まっているのだ。
 今思えばアメリカは全て計算尽くで、挑発する言葉を述べていたような気がする。それに気づかぬ己はおろかだった。
 むっつりと黙り込んだイギリスと身の置き場がない心持ちの日本の様子に気づかないのか、アメリカは一人機嫌良くしゃべり続ける。
 フィラデルフィアまでの二時間弱の車中、日本は陰鬱な気分に襲われていた。
 
 



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