日本の米国旅行記


  16

 
 
 
 
「――寝ちゃったね」
 面白くもないアメリカ訛りのコメディ番組を眺めていたイギリスは、日本へと視線を向けた。
 アメリカの声に目を閉じたままの彼は、確かに眠っているようだった。
 レストランで料理に合わせたワインを皿の数だけ飲み、食後酒に場所を変えてバーではカクテル。部屋に戻ってからもアメリカの薦めに素直にグラスを受け取っていたのだ。普段の彼の酒量からすると――それがイギリスの知るものと変わっていないのなら――明らかに許容量を超えている。
 ジャケットを脱いでブラックタイを外し、シャツの首回りを寛げたラフな格好のアメリカに対し、隣に座ったままソファーで眠り込んでしまった日本はジャケットの釦一つ外していない。
 苦しくないだろうかと心配になるが、真珠に包まれたような日本の姿をもう少しだけ眺めていたいのも本心だった。
 アメリカのデザイナーの作品を認めるのは悔しいが、確かにこの服は日本の魅力を最大限に引き出している。
 柔和な雰囲気の彼には直線的なデザインよりも、着物にも通じる優美なラインの方が似合っていた。
 クリームがかった繻子地はややもすれば彼の肌の色と同化し野暮ったくなる色だが、上品な光沢が真珠を彷彿とさせ、さりげなく配した落ち着いた金糸のアクセントが日本の黒をより神秘的に見せている。
 真珠に金、それに西洋が憧れる艶やかな漆黒。
 何を考えているのかわからないといつもは敬遠される特有の曖昧な笑みも、パールのタキシードと調和し、
 レストランで一番人目を掠っていたのは日本だ。
 そんな彼を保護者然とエスコートしていたアメリカは、得意満面だった。
 本人は気づいていないようだったが、バーベキューの時も観光地でも、日本は衆目を集めていた。
 日本は、意識して自分を周囲に埋没させようとしていて、それは自国内では成功しているようだが、国外、ことに人種体系が異なる国では、それは不可能に近い。
 国の化身というものは、その美しさも纏う雰囲気も人とは一線を画している。だからいくら日本が望んだところで一度人が彼の存在に気づいてしまえば、彼に注目するのは当然だ。
 だが、今日の日本は、同じ国として彼を見慣れているはずのイギリスさえも目が離せない奇妙な誘引力があった。
 目許や唇、頬や首筋が上気したように淡紅なのは、彼が酔っているせいだ。
 爪や先端が赤く染まった指がやけに細く見えるのも、少し乱れた絹糸のような髪を撫でつけたくなるのも、どこもかしこも甘やかに誘っているように見え、思わず手を伸ばしそうになるのも、自分もまた酔っているせいなのだろう。
 あまりにも無防備な寝顔と、相反する色気のようなものに落ち着かない気分になり、無理矢理視線を引きはがす。
 そんなイギリスとは逆に、アメリカは眠る日本に覆い被さるような近さで覗き込むと、少し血色がよい頬を指先で突き、子供のように滑らかにみえる肌を指の腹で撫ではじめた。放っておいたらそのうち日本を起こすまで際限なくちょっかいをかけ続けそうな勢いだ。
「おい、起こすなよ。眠れないって話だったからよかったじゃねぇか」
「時差ボケってやつかい? おれは日本のうちで時差ボケになんかなったことないのになぁ」
 不満そうな顔をするアメリカは、それでも大人しく突きまわすのをやめると、立ち上がって伸びをした。
「まぁいいや。日本も寝ちゃったし、おれもそろそろ寝るよ」
 そう言うと、ひょいとまるで子供を抱き上げるような軽やかさで、アメリカは眠っている日本を抱き上げる。その無造作さに反感めいたものを覚える。
 子供のように見えても日本も成人男性。車を引きずって走るほどのアメリカの馬鹿力は昔から知っているのに、自分との力の差を思い知らされたような嫌な気分になった。
「おい、日本は本当にお前んとこで寝るのか?」
「そうだよ」
 当然、という響きがさらに腹立たしい。当たり前のように日本に対する所有権を誇示するこいつを、なんとか邪魔したい。
「そいつ、おれが引き取ってやってもいいぞ!」
 その言葉にアメリカが首を傾げた。
 言った後でなぜかやけに緊張して、眼鏡の下で青い眼を瞬くのを、ごくりと息を呑みイギリスは見つめた。
「君が?」
「あ、ああ!」
「遠慮しとくよ」
 だが、アメリカはそんなイギリスの申し出をあっさりと断った。
「でも万が一、日本が気分悪くなって吐いたりしたら、お前、面倒見れるのかよ」
「それくらいお安い御用さ」
「ハッ、お前のことだからまた、ハンバーガーを額に乗せておけばいいなんて言うんだろ。だからおれが見てやるって言ってんだ」
「君相手ならそれでいいと思うけど、日本にそんなことするわけないだろう。食べ物を粗末にしてって怒られるよ。食べ物に関しては彼、煩いからね。それにレスキューの講習は受けてるし、実際昔日本が寝込んでた時に面倒を見てあげたのはおれだよ」
 可愛くない。なんだよそれ、あれはお前が強引に日本を抱え込んでおれ達に手を出させなかっただけだろうが。
 内心苛々するイギリスに、追い打ちがかかる。
「だいたい君の手を煩わせたとなったら、日本が厭がっておれが怒られそうだしね」
「日本が厭がるって……なんで…なんでだよ!」
「イギリス、君声が大きいよ。日本を起こす気かい」
 窘めるアメリカに我に返るが、続けられた言葉は聞き捨てならない。
「日本が他人に迷惑かけるの好きじゃないって知ってるだろう」
「おい! 他人って、おれはあいつの友達だぞ」
「おれも日本の友達だけど? それに君はただの友達だけど、おれは彼の初めての友達だよ」
 思いがけない指摘だった。
 確かにそうだ。でも、違うのだ。
「で、でも日本とは同盟を組んでて――」
「君は過去の、だよね? 今の同盟相手はおれだ。それだけでも君よりもおれの方が適任だよね」
 違う、おれたちの仲は「過去の」とか「ただの」とかじゃなくて、もっと特別な――
「君が、過去の同盟を盾に日本に対する主張をするなら、今の同盟相手のおれはそれ以上のことを主張するし、実行するつもりだよ」
「ッ――」
 それ以上ってなんだ――そう問い詰めたいのに言葉が出てこない。
「心配しなくてもおれはもう、君の小さくて何もできない弟じゃないんだ。昔君がしてくれたみたいにパジャマに着替えさせてあげたり、一緒に添い寝してあげたり、――彼を守ることだってできる」
 まるで見せつけるように横抱きにしている日本の頭を自分の首筋に寄せて抱きしめ、アメリカは挑むような眼差しを向ける。
 ガンガンと頭の中が煩くて、何も考えられない――考えたくない。分かるのはアメリカが、この目の前の弟が、たまらなく憎らしいという事実だ。
 腹が煮えくり返るような怒りにその眼をにらみ返すと、アメリカはフッと笑ったように見えた。
「ああ、君のRed Coatは持って帰ってくれよな。またここに来た時に使いたいっていうならともかく、それ、おれには小さ過ぎるから置いてても邪魔だよ」
 じゃあおやすみ、と忌々しいほどの爽やかさで告げると、アメリカは出て行く。
 その後ろ姿の陰から見えた、力なく落ちる日本の細い腕がやけに記憶に残った。
 腹立ち紛れに乱暴にジャケットを脱ぎ、床に叩きつけようとしたところで――のろのろと手を下ろす。
 
「なんだよRed Coat, Red Coatって……それ厭味かよ……」
 
 ジャケットを握りしめたイギリスは、不意に一昨日の朝、眼に飛び込んだ光景を思い出した。
 アメリカの胸に日本が顔を埋め、そんな日本の細い腰をアメリカの腕が引き寄せ、抱きしめ合うようにして眠る二人の姿――。
 あの時は自分がのけ者にされたような気持ちで、やけに腹立たしくて、その日は暫く日本やアメリカの顔をまともに見ることが出来なかった。
 だが、本当にそうだろうか――
 互いの寝袋さえなければ、ぴったり寄り添い抱き合っているような二人の姿に感じたのは爪弾きにされたという憤りだったか。
 この家に着いてからもそうだ。
 アメリカの部屋から出てこない二人が妙に気になって部屋をノックしたら、「日本は風呂だよ。おれ達午後からは部屋で過ごすつもりだから夜まで邪魔しないでくれるかな」と、日本の顔も見ないうちにドアを閉められた。
 あの時自分は二人の仲を、無意識のうちに――
 ざわりと血が騒ぎ、さっと冷や水を浴びせかけられたように躯が震えた。
 
 今までアメリカの性癖を疑ったことはない。
 あの弟が好んでベッドの相手に選ぶのは主にハニーブロンドの肉感的な美女ばかりで、良くも悪くも貪欲で奔放、そしてエゴイスティックな、彼にお似合いな性格の女しかいなかった。
 日本は男で、自己主張もせず、慎ましく控えめで、アメリカの食指が動くような相手ではない。
 そう打ち消すと同時に、アメリカの下で女のように抱かれる日本の姿を頭は勝手に思い描く。
 上気した頬、涙の膜で揺らぐ黒々とした瞳。熱くせわしない吐息の合間に上げる切れ切れの甘い悲鳴、のしかかる肩に縋る細い指――
 固唾を呑んで没頭したその妄想が、どれだけの長さだったのか。もしかすると一瞬の短い間だったかもしれないが、我に返ったイギリスは自分が興奮していることに気がついた。
「なんてこと――」
 想像の中とはいえ、大切な友人を汚してしまい、ぞっとするような罪悪感に襲われ、口許を押さえる。
 違う、アメリカも日本も、自分の下衆な想像のような仲ではない。
 おっとりしているようで誇り高い彼は、意に沿わぬ無体には腹を切ると言い出すだろうし、アメリカのあの態度はあくまでも保護者ぶっているだけだ。
 
 ――だが、本当にそうだろうか。
 
 己に言い聞かせても、心の隅に疑念が忍び込む。
 アメリカにとって日本は特別。アジアの有色人種の国と下に見ていても、昔からアメリカは日本に一目を置き、それは戦後になっても変わらない。
 そして日本も、史上最大の海戦を闘い、二度も原子爆弾をその身に受けながらも、戦後は拍子抜けするほど素直にアメリカの差し出す手を取った。
 敗戦国で、資源も乏しく軍事力も奪われた彼は、そうせざるを得ないという事情がある。先のレストランでのやりとりを見ればそれは傍目にも分かった。
 もしアメリカがそれを望めば、日本はどんなことでもするのではないか。
 それがたとえどんな苦痛を伴うものであっても――。
 
 
 あの二人は今夜も抱き合って眠るのだろうか。
 美しく飾り立てた服を脱がせ、無防備な日本の肌にアメリカが触れていると思えば、頭がおかしくなりそうな焦燥感にいてもたってもいられない。
 けれども、今の自分には、日本に対して何者でもない自分には、それを止める術はないのだ。
「……畜生ッ!」
 その時イギリスは自分の感情をやっと認めた。
 
 ――ああ、自分は彼のことが好きなのだ。
 
 
サンプル分終了



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