日本の米国旅行記


  12

 
 
 
 
 賑やかなキャンプファイヤーはアメリカの解散の宣言で終わりを迎え、少し気の抜けたような寂しさの中で後片付けを終えると、寝る時間になっていた。
 管理棟で水のようなシャワーを使い、思いのほか寒いほどの夜気に震えながらテントに戻ると、風邪をひかないよう早々に寝袋に潜り込む。
「懐かしいな。昔はこうやってお前と枕を並べて寝たよな」
 昔を懐かしむ声を出すイギリスとは逆に、真ん中で横になっていたアメリカはむくりと起き上がると固い声で日本に告げた。
「ごめん、日本。場所変わってくれないかい?」
「おい、なんでだよ!」
「本音は君の隣で寝たくない、建前は日本を端っこに寝かせると心配だからね。熊やコヨーテが出た時にはヒーローのおれが守ってあげないといけないだろう」
「お前、いつから本音とか建て前とか可愛くないこと言うようになったんだ! 昔は天使みたいだったのに!」
「日本、後ろで譫言を言ってるヤツのことは無視していいよ。あんまり煩かったら柔道で投げ飛ばしてくれよな」
「はぁ……ええと、ではお隣失礼します」
 今替われ、すぐ替われと枕元で急かすアメリカに躊躇いながら移動する。
「…お、おう」
 会釈してアメリカとイギリスの間に入ると、イギリスはさりげなく顔を背けた。イギリスにしてみれば、思いがけぬ伏兵に遭った気分で面白くないのは確かだろう。
 
 ――折角の兄弟水入らずの邪魔ですものね。
 
 面罵されないだけ、まだましだろう。
 そっけない態度に、当然だと己を納得させようとする心と、軽い落胆と反発とが入り混じる。
 賑やかにおしゃべりをしていたアメリカの声に眠気が混じり、やがてそれが穏やかな寝息にとって変わられるとテントに沈黙が落ちた。
 イギリスは寝たのだろうか。
 横を見ると彼も同じことを思っていたのか。
 暗闇に黒味を帯びた翠の瞳と至近距離で目が合った。
 普段は彼我の身長差で見上げる瞳が同じ高さにある。
 そのせいか自分でもおかしいほど動揺するが、イギリスが弾かれたように寝返りを打って反対を向く姿に、動揺は失望へと形を変えた。
 自分もそうだが、イギリスも、あまり他人との密な接触を好まない。それなのに思いがけずもこんなに近い、いつもと違う距離感に惑うのは理解できる。
 しかしいくらなんでも顔を見た途端に反対を向くなんて失礼と思わないのだろうか。
 不愉快な相手にも常に紳士としての誇りでもってして接する彼らしくない態度は、アメリカとの間に割って入られた苛立ちゆえか。
 
 ――でも私だって別に邪魔したくなかったです。
 
 そんな日本のささくれだった思索は、「日本」とかけられた小さな声に破られた。
 内心不満を述べていた相手からの声に、咄嗟に言葉が出てこない。
 返事をするべきかと迷うが、それっきり黙っているイギリスに、気のせいにすることに決める。
 眠くて聞こえなかったことにすればいい。
 疲労を覚える躯は睡眠を欲し、うっすらと眠気の薄いヴェールが意識を包もうとしているのを感じる。
 目を閉じて、このまま身を委ねればきっと眠れるはずだ。眠ろうとする日本は、しかし、再度のイギリスの言葉にはっと眼が覚めた。
「――おやすみ、いい夢を」
 それは今までに聞いたことのないような、甘く優しいイギリスの声だった。
 一瞬夢かと思うが、夢を見るほど眠りに落ちておらず、意識もはっきりしていた。
 アメリカは小さい頃、こんな声で話しかけられたのだろうか。だったら――
 
 ――一緒に寝てほしい、帰らないでと泣いたという言葉も納得できる。
 
 それほどに優しい、愛情にあふれる声だ。
 そっと隣を見ると、イギリスは背中を向けたままだ。
「……おやすみなさい、イギリスさん」
 囁くと、びくっと寝袋の山が揺れた。
 内奥に潜む豊かな感情を面に出し、それが相手に伝わること自体を苦手とするのがイギリスだ。
 もしかすると彼は、自分が寝てしまったと合点して声をかけ、返事があったことに慌てているのかもしれない。
 彼が狼狽えている様を想像する。
 紳士然としている彼が、少年のような反応を見せているその想像は悪いものではなかった。
 耳に残る声が薄れないように、日本は記憶に鮮明なそれを何度も反芻した。
 とはいえ、いい夢をという言葉通りの優しい眠りは、なかなか日本の元に訪れなかった。
 いくら目を閉じてもやけに意識が冴える。躯は疲労を訴え、眠らなければと思えば思うほど眠ることができない。
 これはまさしく時差呆けだ。昨日は寝酒の力を借り、労なく眠れたので楽観してしまったが、アメリカで時差呆けにならなかった試しはないのだった。
 普段は仕事に障りがないように睡眠薬を使うが、今回はプライベートなので処方してもらっていない。やはり準備してくれば良かったと日本は臍を噛んだ。
 隣のアメリカもイギリスもすうすうと気持ちよさそうに眠っている。
 アメリカなど寝言まで呟き、羨ましい限りだ。
 順応力がないのは歳のせいですかね……欧州ではここまでではないのですが……ぼんやりと色んなことを考えるうちに、躯の疲労が限界を超えたのか。
 はっと気がついた次の瞬間も意識は鮮明で、ほんの一秒も経ったように思えなかったが、先程は感じなかった躯の重みに、意識が飛んでいたことを知る。
 テントの中は真っ暗で、まだ真夜中なのだろう。
 枕元の腕時計を見ようとして、日本は躯が動かないことに気がついた。状況を把握せんと頭を上げようにも、まず頭が持ち上がらないことが分かる。重い腕にがっちりと首から頭まで抱きかかえられているようだ。
 誰の腕だ、と思うが、目の前が相手の寝袋でさっぱり分からない。
 だが、眠りについた時の並び順を思い出した日本は、イギリスの腕だと気づき、硬直した。
 この遠慮のない、無駄に力が強い腕はアメリカのものではないかと思いたいが、躯の向きからしてイギリスに間違いはないだろう。
 イギリスに頭を抱きしめられている――そう思えば緊張で神経がちりちりと灼けるようにざわめく。
 居心地が悪い。離れたい。できればイギリスが起きないうちに、お互いに気まずい思いをしないうちに。
 とにかくこの体勢から抜け出そうと、日本は焦る。
 無理矢理にでも寝返りを打てば抜けられないかと思い、寝たふりで躯を反転させようとするが、その時になって腰にも重しが乗っていることに気がついた。
 イギリスの腕は首に回っているし、恐らく躯は寝袋の中だ。……となるとアメリカか。
 
 ――なんなんですか、この人たちは……!
 
 場所なんて変わるんじゃありませんでした!
 抱き人形が必要な子供じゃあるまいし、そんなに何かに抱きつきたいなら。いっそ兄弟仲良く抱き合って寝ればいいんですよ!
 子供というよりは、むしろこの距離感はまるで――
 イギリスは誰かと間違えているのではないか、いつもの調子で傍に眠る相手を抱きしめて、などと一瞬のうちに日本は妄想を巡らせる。と、同時になんだか罪悪感とも、嫌悪感ともつかぬ嫌な気持ちに襲われ、知人のプライベートを想像してしまったせいだと自己嫌悪して、内心溜め息をついた。
 イギリスだっていい大人だ、抱きしめるような相手だっているだろう。日本だって今はともかく、人のことは言えた義理では……
「…ん……」
 あえかな寝息を髪に感じ、息が止まりそうになる。
 ざっと全身の肌が逆立つような悪寒。
 これはまずい――
 動かないとか、動けないとか、起こすかもしれないとか言っている場合じゃない。
 あまりの緊張に血の気が引いているのだか、逆に頭に血が上っているのだか分からないまま、息を詰め、ままよ、とばかりに渾身の気合いを込めて日本は寝返りを打った。
 重たい腕を載せたまま捻った腰が悲鳴を上げたような気がしたが、躯中がばくばくと鳴る心臓に痛みなど感じる余裕はない。
「…うぅ…ん……」
 背後から不満めいた呻きが聞こえるが、気のせいと思うことにして日本は必死に眼をつぶる。
 
 ――良かったです、あのままではまずかったです!
 
 なにがまずかったのか、何が良かったのかは考えてはいけない気がした。
 とにもかくにもできるだけイギリスから遠ざかろうと、寝袋の中の不自由な躯をもぞつかせたところで、安心したのか――日本の記憶は途切れた。
 
 
 
 



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