日本の台湾旅行記 8



 俯せになってベッドに寝ているイギリスの枕元に、そっと日本は腰掛けた。クイーンサイズのベッドは日本の体重くらいでは傾げず、ほっとする。
 眼を閉じたイギリスは、眠り込んでいるようだ。寝息をたてないその白皙の頬はまだ青く、日本は胸を痛めた。
 日本の北海道よりも高い緯度の国には、この暑さが堪えていたのだろう。
 帰りのMRTを降りて暫くして気づいた時、逆上せたように首筋まで桜色に上気していた顔色は、デパートに入り少し涼むといつもの色を取り戻したが、その後ホテルに辿り着く頃にはすっかり青褪めていて、日本を狼狽させた。
 慌てて水分を取らせ横になるように勧めれば、ぼんやりと頷いた彼は、すぐに糸が切れたように眠り込んだのだった。
 時差、暑さ、湿気。
 体調を崩す要素なら幾らでもある。
 湿度の高い暑さに慣れている日本でも、こんなにも太陽とは眩しいものだっただろうかと眩暈を覚えたほどの暑さだ。夏の盛りの八月でもフリースを着る寒さの時もあるイギリスには拷問だったに違いない。
 虚勢が得意で、意地っ張りで、楽しんでいる日本に遠慮して己の不調を隠していたに違いないイギリス。
ちゃんとそれに気がつかなければいけなかったのに、自分は彼と一緒にいられることに舞い上がっていたのだろう。深く考えもせず興味本位でバスや地下鉄を使ってイギリスを引き回してしまった我儘に自己嫌悪する。
「イギリスさん、起きられますか?」
 そっと声をかけると濃金の睫毛が微かに揺れる。
 優雅な曲線を描く目許はまだ疲労を湛えている。
「晩ご飯をご一緒にどうかと、台湾さんと香港君から連絡があったのですが」
 眠りが浅かったのか、囁くような小声でイギリスはゆっくりと眼を開けた。いつもより暗い翠の瞳は彼がとろりとした微睡の中にいることを教えていた。
「ご無理のようでしたら、どうぞこのまま眠ってくださっても結構ですので」
 むしろ無理をしないで欲しいと淡い枕灯の光から護るように、前髪を撫で目許をそっと隠す。
「……大丈夫だ。……起きる」
 だが、ややあってイギリスはそう呟いた。



 軽快なゲーム音楽をBGMに、日本は見慣れた画面を操作する。オタクの嗜みでやり込んだゲームだ。上の空でも、ボタンを押し誤ることはない。
「――で、ここで連打すると隠しルートが出るわけです。やってみますか?」
 はい、とコントローラーを手渡すと、台湾は危なげなく希望の画面に辿り着く。
「ありがとうございます、日本さん!」
「いえいえ、お役に立てて嬉しいですよ。あとは、足りないスチル絵の回収ですよね。誰のルート分が足りないんでしたっけ?」
 夕食後、イギリスは早々にホテルへと引き上げて行った。
 台湾や香港と食事をする時は、不調を隠さんとしてか談笑に加わっていたが、食後の誘いには用事があるからと断わったのだった。
 食事中には酒を殆ど飲まなかったくらいだ。
 香港を一緒に連れて帰ったのは、彼相手に飲み直すつもりではなく、日本と過ごすのを楽しみにしている台湾相手に気を遣ってくれたに違いない。女性に対しては紳士的な態度がイギリスの常であった。
 しかし一眠りして顔色はまともになったものの、やはり随分と疲れていたようだったから、本格的に体調を崩していないと良いのだが。せめて香港でもついていてくれればいいが、イギリスのことだ。素直に己の不調を告げるとも思えないし、香港にしても察するようなタイプではない。
 それに察した所で――
「――英国先生(イギリスさん)が心配ですか?」
 隠しイベントの三枚目が、などと話していた相手に、話の流れのように問われ、一瞬意味が把握できず日本は眼を瞬かせた。
「台湾さん?」
「今日の英国先生、静かだったし、疲れてみえました。日本さん、心配してるんですよね?」
 疑問の形をとりながらも、断言の強さの言葉に眼を瞠る。そしてふっと微笑んだ。

(そうだった、彼女はそんな少女だった)

 感情の機微に敏いのは中国も同様だが、分かっていてあえて無視する彼の国と違い、細やかな配慮を見せるのが台湾であった。 
「体調を崩されていたようですから、少々気になっていますよ。もしかして気をつかわせてしまいましたか?」
「ううん。――心配なら、様子見に行かれますか?」
 それに、なんと返せばよいか、一瞬日本は迷った。
「……いえ、まさか。こんな夜分に押し掛けては迷惑です。イギリスさんももう眠っておられるでしょう」
 本音を言えば、すぐにでも飛んでいきたい。
 もし熱でも出しているのならば、きっと異国で心細いだろう。傍に付いていたいと思う。
 普段は地球の裏側で、望んでも手の届かない場所にいる彼が、こんなに近くにいるのだ。体調云々など関係なく、ただ一緒にありたい。
 だが、彼はそれを望んでいないのだろうことは、日本が彼の部屋の鍵を渡されなかったことから伺えた。普段ホテルに泊まる時は、互いの部屋のスペアキーを交換して行き来ができるようにしているのに、今日渡されなかったのは日本の訪問を望まないということなのではないか。
 単に体調の悪さに取り紛れ渡し忘れたのかもしれないが、このタイミングで渡せば看病するために早々に台湾との時間を切り上げるように催促しているようだと気を回し、イギリスが躊躇したような気がするのだった。
 実際、キーなしで訪ねるためにはフロント経由で取り次ぎを頼まなくてはならず、もしかすると眠っている彼を起すかもしれないと思えば、それは憚れる。
 そんな日本の思考回路まで推察しての行動のような気がしてならなかった。
 それでも日本がイギリスの立場なら、来てくれる、それだけで嬉しい。

(やはり失礼して行ってしまおうか)

 イギリスも喜んでくれるのではないだろうか。
 揺れる日本の心が傾きかけていると、台湾が呟いた。
「日本さんは英国先生と仲がいいんですね」
 感情の見えない黒い瞳。彼女の言葉の真意は、日本には分からない。けれども感情を見せないようにしているその瞳に近視感を覚え、日本ははっとなった。
 感情が見えない、とは自分についてまわる形容詞だ。相手に不調法にならないように、感情を害さないように気持ちを押し殺した結果、そう評されることが多い。それは今の彼女も同じなのだろうか。
 何を、と考えるまでもなく、すぐ理由に思い当たった。
 彼女は自分と過ごす時間を楽しみにしてくれているのだ。それなのに自分の心がここにあらずだったことに、恐らく彼女は気がついていたのだろう。
 それは目の前にいる彼女に対してとても失礼な態度だった。そしてそのことに今まで全く思い至らなかったことを日本は恥じた。
「ええ、最近はとても仲良くさせていただいておりますよ」
 じっと見上げる大きな瞳には、責める色は微塵も見あたらない。だから多分、押し殺した感情は寂しさと落胆だ。同じだけの熱量の気持ちを相手に望めなかった時の寂しさは、どんな関係にでも等しく存在し、日本も何度も経験したものだった。
 彼女相手に嘘で取り繕いたくはない。けれども馬鹿正直に心情を吐露し、悲しませるのはもっと嫌で、日本は言葉を探し、ゆっくりと語りかけた。
「イギリスさんはああ見えて、気を遣われる方なんですよ。ちょっと不器用な方ですから誤解されることも多いですが、優しい方なんです。だから私がここでイギリスさんの所へ伺ったら、逆に怒ってしまわれるでしょうね」
 英国紳士の体現たるイギリスは女性に対して礼を尽くす。今も昔も欧州の国々からすれば、日本は女性相手のマナーがなっていないと評されているだけに、己でもどうかと思う行動は、彼からすれば言語道断。呆れられるだけでは済まないことだろう、と今更ながら身が縮まる思いだった。
「日本さんは……」
 何事か訊ねようとした台湾に視線を向けると、
「ううん、なんでもないです」
 と少女は首を振る。
 彼女はなんと続けようとしたのだろうか。続く言葉を待ってみても、それっきり黙ってしまう台湾に、「そういえば途中でしたね」と画面を促せば、とても嬉しそうな笑顔で台湾はゲームの続きを再開した。
「日本さん、今日は泊まっていってくださいね!」
「ダメです。嫁入り前の娘が男など泊めてどうしますか。本当なら家に上げるのもよろしくないのですよ」
「……そんな固いこと、中国老師でも言いませんよ。日本さん、お爺ちゃんみたいですよー!」
「お爺ちゃんで結構。実際私は爺ですからね。……そんな眼で見てもダメなものはダメですよ」
「だってだって日本さんと遊べるのって、滅多にないじゃないですか! 来てくれたのもこれが初めてなのに。ゲームの後は、アニメも見たいし、持ってきてくれた雑誌の分からないとこも教えて欲しいです!」
「女の子がスカートで体育座りとはお行儀が悪いですからちゃんとお座り下さい。分かりました、では台湾さんが眠くなるまではおつきあいします。その後は失礼させていただきますからね」
「はいっ!」
 えへへ、と嬉しそうに、肩にそっと頭をすり寄せる台湾は、子猫のじゃれる可愛らしさだ。
 明るいゲーム音楽が響く部屋の空気は、優しく心地良い。イギリスは今頃――とどうしても思ってしまう自分を諫め、この時間を楽しむよう心に定める。
 今だけは彼のことを考えないようにした。



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