日本の台湾旅行記 7



 世界一有名な野菜、翠玉白菜に、不思議な天然石、肉形石。紀元前七千年という日本にも想像のつかない昔の石の耳飾りにはじまる歴代の工芸品、青銅、鉄、石、磁器や、陶器。
 稀代の女帝西太后の遺品は、彼女を知る日本やイギリスに、懐かしさに似た感慨を呼び起こす。
 だが数多の宝物の中でも一際目を引いたのは、象牙多層球だった。一本の象の牙を透かしと穴を開けた球形に彫刻し、更にその球の中に回転可能な二十一層もの球を重ねたその品はいまだに制作方法が解明されていない珍品で、そのすばらしさをもって日本を興奮させ、イギリスを驚かせた。
 のんびりと博物院を巡り、半分近くの展示物を見て回った頃には、いつの間にか時刻は正午を大きくまわる。
 朝食をろくに食べていないせいでお腹が空いた日本は、隣接した建物にあるレストランへ行くことにした。
 台湾随一の高級ホテルの名を冠しているレストランは、その名に恥じぬ内装の美しさで、西欧でもてはやされるシノワズリにご多分に漏れず傾倒する傾向があるイギリスは素直に感嘆の眼を向けていた。
 出てくる料理はどれも上品な味付けで、食にこだわりのある日本の口にも充分すぎるほど満足がいくものだ。
「菊んちで食べたチャイニーズに近いな」
「お口に合いますか?」
 そう訊ねるとイギリスは頷く。
「ああ、うちのとは少し趣が違うがこれはこれで旨い」
「アーサーさんの所の中華料理は味付けがしっかりしているイメージですよね。アルフレッドさんのところの中華料理もまた少し違う感じでしたし、同じ中華でも国によって味付けが違う気がします」
「俺んとこで出すジャパニーズも違うって言ってたよな、そういえば」
「回転寿司やスーパーで売ってる寿司は……やはり日本で出すものとは違うものもありますね。でも食がその場所場所に合わせて変化することは否定しませんよ。うちも随分改変させていただいておりますから」
「ああ、うちのビーフシチューが肉じゃがになったりしたもんな。最初はびっくりしたが、美味いしあれはああいうものだと思えば別にいいんじゃないのか」
「恐れ入ります」
 ほろりと口の中で広がる炒飯に、あつあつのスープの凝縮された旨味がたまらない小龍包。デザートの杏仁豆腐は濃厚な杏仁にあっさりした蜜がかかり、最後の茉莉花茶まで堪能した日本は、満足の溜息をついた。
「これからまたミュージアムを見て、その後はどうする?」
「そうですね……アーサーさんはどこか行きたいところはないのですか?」
「俺は別にないな。菊の行きたいところで良い」
「ありがとうございます。もし少し時間があるようでしたら街に出てみるのも楽しいかもしれませんね」
 窓下の緑に濃い木陰を作る陽射しは初夏のものとは思えぬ強さで、この時間に外を歩きたいとは思えないが、夕方になれば少しはそれも和らぐだろう。
 さすがに背広こそは脱いでいるものの、身なりに煩い英国紳士らしくネクタイまできっちり締めているイギリスの服を、もう少し過ごしやすい物に見立てるのも楽しいかもしれない。
 日本のそんな考えも知らないイギリスは、「そうだな」とあっさり頷いた。



 人が多いなりにものんびりとしていた午前中の雰囲気とはうって変わり、食後に戻った故宮博物院は人と活気で溢れていた。
 特に団体のツアー客が多いのか、目玉となる宝物を飾る部屋周辺はすれ違うのも難しい混雑だ。
 階段の踊り場で早速人波に飲まれかけた日本に、焦った顔でイギリスが手を握り引っぱり出す。
 ぐいと強い力で引かれ踏鞴を踏むと、肩を抱きとめられた。
 無言でそのまま手を引くイギリスの背を追い、人の少ない方に進みながら見上げると、後ろ姿に見る耳が少し赤くなっているような気がした。
 男二人が赤い顔をしているのも妙だろうと思っても、繋いだ手からじんわりと体温が上がるような高揚は止められない。
 こんな混雑の中、誰も気にとめない。おかしくなんて思われない。
 そう自分に言い聞かせれば、嬉しい気持ちの方が勝って、ごく自然に手が離れた時には残念な気持ちになった。
 人が少ない書の展示を眺め、同じように人影疎らな調度品の部屋へ進む。
 往事の高官の執務室を再現した部屋に入った日本は、ふとその隅に置かれた紫檀の飾り棚に、視線が惹きつけられる。
 何かに呼ばれたような足取りで近づき、佇むその姿に、イギリスは「どうした?」と声を掛けた。
「……あの傷は私がつけたんです。今の今まで忘れてました」
 イギリスの背より高い棚の脚部、指さす先の唐草の透かし彫りに切れ込みがある。
じっくり見ても僅かに気づくか気づかないか程度の傷だ。
「昔、中…いえ、王さんの所に遊びに行った時、玻璃を割ってしまって傷をつけてしまいまして」
「王のヤツのことだ。散々いびられて、賠償金ふっかけられたんじゃないのか?」
 皮肉げな口調のイギリスに曖昧な微笑を浮かべ、日本は「いいえ」と頭を振った。
 あの頃この棚に並べられていたのは書籍などではなく、西から渡った硝子壺や青磁皿だった。
 薄暗い室内に飾られた桃花。
 聳え立つ艶やかな濃色の棚。
 見たことのない形で驚くほど美しい色彩を纏った器達。
 高窓から差し込む穏やかな初春の陽射しに、塵がきらきらと柔らかく光を帯びて舞っていた情景を覚えている。
 礼装の裾に足をとられてすぐに転けそうになる日本の手を掴み、広大な宮殿のあちらこちらを誇らしげに見せてまわった中国は、日本が手渡された玻璃の器を落としてしまっても怒りはしなかった。
「同じ紫檀のものだからここに置かれているのでしょうが、これは後宮のような場所に置かれていたのです。この棚に菓子が置いてあるからと連れられて忍び込んだのですが、結局私が玻璃を割ったせいでばれてしまい、王さんの上司に怒られてしまいました」
 
『たかだか皿一枚割ったくらいで怒るでねぇある。日本は小さいから失敗するの仕方ねぇあるよ』
 
『朕が怒っておるのはそなたらが咸安宮に忍び込んだことである!』と怒鳴る皇帝に中国は平気な顔で口答えをしていて。その隣で日本は小さくなっているしかなかった。
 庇ってくれたはずの中国の言葉が悔しくて、身を縮めるしかない立場が情けなくて。
 けれども眼も眩むような宝物の数々に、色とりどりの装飾が施された広大な宮殿、多くの異国人も行き交う様子、そのどれを思い出しても、比肩する者などない強く豊かな国からすれば自分などちっぽけな島国だという事実を否定できず、一言も言葉を挟めずにいたのだ。
 まだ彼が強く、偉大な獅子とも龍とも信じられていた穏やかな季節。
 あの時中国の手に引かれ見て回った彼の宝物が、この博物院には収められている。
 器、書画、宝飾物。
 その全てが彼を形成する歴史であり、言うなればここは彼の記憶の結晶ようなものだ。
 
(中国さんを誘うのは無神経かと思って気を遣ってみたのですが……)
 
 中国の宮殿、故宮に収集されていた宝物を集めたということはその名からして有名な事実で、そのことを日本も認識してはいたが、それは日本自身とはなんの関わりもないことのはずだった。
 日本にとって、ここはただの博物館で、純粋に鑑賞を楽しみにしていただけに、思いがけぬ伏兵に心揺らされたのは計算外だ。
「行きましょうか」
 理由も混沌とした息苦しい胸の痛み押し殺し、あえて薄く微笑んだ日本は、隣のイギリスを促した。
 光源を絞った展示室の闇に、あの日飾られた桃花の鮮やかなピンクが過ぎった気がした。
 落ちた花蕾がとても綺麗で、思わず拾い上げた日本に向かって『これは菊桃という名あるね。お前と同じ名前ある』と笑った中国の笑顔。
 遠い記憶を振り払うように、日本は努めて顔をまっすぐに向けた。



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